今を楽しむ少女であるのは一時なのだ。あらゆる健全な青春を謳歌するべきだと。
酔いどれ妖怪に絡まれ、マイク代わりの酒瓶を向けられた際に「間に合っているのでそういった集まりは結構です」と突っぱねていた私が、この消耗具合はどうだ。
耳には祭典の曲が残り。
チカチカとした光と共に、人型の頭部や光源に南瓜頭の幻覚を見る。これは祟りか何かだろうか。
そして何より。
朝から晩まで妖怪の闊歩する夢の世界から出られないのは、現代の女子高生には非日常が濃すぎるのだ。
◆ 11月2日
霜月のニ日。
私の夢の世界滞在三日目が始まった。
布団をめくり、辺りに置いてあった眼鏡をかける。
開け放たれた障子から、夢の世界の朝日が見えた。心なしか、現実世界より空気が澄んで、太陽が良く見える気がする。電柱や余計な建造物が無いからだろうか。
私が身を起こしたのは、博麗神社の客間。そこから覗ける敷地内は、朝だから当然なのだが、見える範囲に人影は無い。
しかし私が見る光景は至って異常。
宴の様子がフラッシュバックし、境内の灯篭はくり抜きを有した南瓜の灯篭に見え、あちこちの丸い植え込みは顔の付いた南瓜に見間違い、酷い時には祭典の曲までが耳元で鳴り続ける。
幸い、今朝は軽い方だ。幻聴もなく軽い幻覚だけで済んでいる。
眼鏡を外し、目を擦りながらぼやけた敷地を眺めていると、視界の隅に霊夢さんが現れた。
「あら、起きたのね」
手には急須と湯呑を乗せたお盆を持ち、こちらの様子を眺めている。
「おはよう霊夢さん、今日も素敵な収穫祭日和で」
「おはよう菫子。その様子だとまだ症状があるようね」
私の言葉に彼女は困ったように眉を下げ、布団の傍らに座って湯呑にお茶を注いだ。
寝起きに霊夢さんと話すのは未だに慣れない。
私が夢の世界で眠りと目覚めを繰り返すのは、やはり異常な事なのだ。
「具合はどんな感じ?」
私にお茶を勧めながら、そこらから手繰ってきた用紙に私が持ち込んだ鉛筆を使って霊夢さんが今日の日付を書き留める。
発熱はなし。関節痛もなし。悪寒は若干。
霊夢さんが口に出しながら、手元の紙面に私の容態を箇条書きしていく。
「視覚の方は?」
「灯籠のところに半透明の南瓜が重なって見える。霊夢さんの顔は、平気」
霊夢さんの手が動く。
「聴覚」
「今は幻聴はなし。変な歌も聞こえないわ」
素直に答えると彼女は少し手を動かし、鉛筆の頭で頬を押した。
「まあ発熱してなければ平気か」
アバウトな診断の後、思い出したようにこちらを向いた。
「そういえば、寝てる間に外の世界に行ってた?」
「いいえ、何も覚えてないし時たまこちらで目が覚めたから、外には帰ってないと思う」
「うーん、そっちの方が異常かなぁ」
月末の夕方。帰りの通学電車で始まった夢の世界への小旅行は、宴会の準備中に姿を現すことで始まった。
日中とは異なる酒飲みの集団。
祭典の名を口にしながら騒ぐ妖怪たち。
そんな異空間に突如放り込まれ動揺していると、霊夢さんや見知った顔から手伝い組に引き込まれた。
慣れない手伝いをやらされたり既に庭先で発生していた酔っぱらいに嫌気が差して居間の隅でへそを曲げたりもしたが、肝心なのはそれからだった。
寝て起きても、夕日が沈んでも、電車の中で目が覚めない。
頬をつねってみても現実に帰らない。
そのうち目が覚めるだろう、スマホのバイブレーション機能が起こしてくれるだろう。そういった甘い考えも打ち砕かれ、当面は博麗神社のお世話になることとなった。
朝の挨拶は嫌いではないが、寝ても起きても夢の世界、というのはまだ違和感がある。
「何がきっかけで悪くなるか分からないから、当面は単独飛行禁止ね」
はーい。
私が生返事をすると、廊下の方から足音が近づいてきた。
足音は迷うことなくこちらに向かってくる。霊夢さんもそれを気にする素振りはない。
「お、病人が目覚めてる」
姿を現したのは魔女帽を手元で遊ばせる魔理沙さんと、袈裟姿の僧、一輪さんだった。
「うちは診療所じゃないんだけど」
「そうだな、薬じゃなくて情報が出てくるから、どっちかって言うと探偵事務所だ」
魔理沙さんは眉間を抑えながら、口元だけで霊夢さんに笑いかける。口調こそ元気だが、眉の潜み具合からして体調の悪さが伺える。
彼女もまた、昨日から奇妙な幻覚幻聴を訴えていた。
「進展なし。あんたと同じ状態」
霊夢さんは先程私を診断した用紙を魔理沙さんに渡す。魔理沙さんは喜びも悲しみもせず「オンリーワンの症状じゃないだけいいかなあ」と呟いたのが聞こえる。
「一輪さん久しぶり」
彼女に会うのは前回の小旅行ぶりだったはずだ。
布団に入ったまま応対するのも気が引ける。立ち上がろうとして、まだ貸し出された寝間着のままだったことに気が付いた。一輪さんがそのままでいいよと手を振る。
「そこそこ、久しぶりかしらね。俗世で悪さしてないでしょうね」
「悪さはしてないし、むしろ何者かに悪戯されてウンザリよ」
魔理沙さんを通じて私の話を聞いていたのか驚く様子はなく、癖なのか職業柄か、数珠を握って静かに頭を下げる動作を取った。几帳面な人である。
「おうおう、祈って治るんなら私にも祈ってくれ」
「魔理沙さんは昨日も来てすぐ寝込んでたじゃない。出歩いて平気なの」
「魔法の森でじっとしてる方が気が滅入る」
ふらついたりする様子はないが、隣に立つ一輪さんは少し心配そうだ。
今戦闘をしろと言われたら厳しいが、慣れもあるのか日常生活を送ったり出歩いたりするのは問題ないようだ。
「ただでさえ疲れる祭典ムードなのに、よりによってなんでこんな症状」
突如、彼女の言葉が止まる。
「あー、来た」
魔理沙さんが目を片手で覆って天井を仰ぐ。
先程までの私と同じように景色に南瓜が映り込み、冬の祭典とはまた異なる、耳に残る曲が聞こえてくるのだろう。
不定期なのか、いま私に発作はない。座り込みはしないものの、嫌そうな顔をしている魔理沙さんを眺める。自分もこんな表情をしているのだろうか。
「菫子ちゃん」
私を呼ぶ声に、一輪さんの方を向く。
「大筋は魔理沙から聞いたわ。念のため、あなたの症状を話してくれない?」
魔理沙さんが復帰するまでの間を埋めるには丁度いい話題に思えた。
寝起きの喉を潤すため、一口湯呑を傾けてから話し始めた。
・
初めの症状は幻聴だった。
10月最終日の夢の世界。
神社の庭ではしゃぐ妖怪を眺めながら、ボイコットを決めて部屋の隅で寝転んでいたとき。突如背後から奇妙な声が聞こえた。
その音源は近く、妖怪に張り付かれたのかと思ったほどだ。
──何故歩まない。何故来ない。
「もー、どちらさま?」
回答はない。
背後を振り返っても締め切られた襖があるだけだった。
──何故知らない。何故来ない。
「悪戯ならごめんなさいね、あたし今日元気ないから寝るので」
おそらく死角に居るのであろう、知らない妖怪に向けて適当に手を振る。
それから腕を伸ばすのが面倒だったため、手首を倒して群衆の方を指差した。行くならあちらの方へどうぞ、と。
「お、外来っ子もこっち来なさいよ」
群衆の中から声をかけられた気がする。が、声が届かなかった振りをして狸寝入りを決め込んだ。
少人数ならまだしも、イベントにかこつけた喧騒は好みじゃない。
特に秋の祭典は大騒ぎで、毎年不思議と悪目立ちする。好きになれない行事の一つだ。
どうやらこちらでも同じだったようだ。どちらの世界開催でも、私にとっては、不健全で面倒なだけだ。
今日はもう戻ろう。鞄の中に読みかけの文庫本があったはずだ。それを電車の中で読もう。
そう考え、夢の世界の中で目を閉じた。
意識的に周囲から興味を外し。
無音をイメージして息を整える。
やがて。
その音が消えたのだから。
私は眠りに落ちたはず。
そのはずだったのだ。
肩を揺すられる感触で薄目を開ける。いけない、隣の人に寄りかかりでもしてしまったのだろうか。
姿勢を正そうとして、自分の体勢と重力の向きに気が付いた。
私は座布団の上で丸くなっていたままだった。
「んえ?」
違和感を感じながら首を回して気配のした方向に顔を向けると、視界に入ってきたのは人の顔ではなく、真っ暗な空洞だった。
「うぎゃあ!」
飛び上がるようにして身を起こし、後ずさると壁に張り付いた。視界が広がったことで全体像が見えた。
私が目にしていたのは落とし穴でも亜空間への空洞でもなく、オレンジ色の西洋南瓜に掘られた空洞だった。
しかしそれは人型の体の上に、本来頭が来るであろう位置に、直径で二倍はあろう大きさでくっ付いている。
瞳と口を模して掘られた南瓜の穴は、人が被れば目や口鼻が覗くであろうそこには何も映していない。夜道の洞穴のように、あるいは照明の灯っていない廊下のように、真っ暗な空間が奥深くに続いている。
ぽっかりと開いた口が飲み込まんとする勢いで目前に迫れば、普通の少女は驚き、悪くて泣き叫ぶ。
「何よ、失礼ね」
目の前の南瓜の化物から知った声がする。警戒心を落ち着かせるように寝起きの息を整えながらよく見ると、南瓜の輪郭は薄れ、博麗神社でよく見かける狛犬妖怪の顔が見えた。
「あれ、ここって、博麗神社?」
「ずっと寝てたの? あなた今日は長いわね、夕方にこっちに来てそれからずっと」
しばらくして、女ははっとした表情を見せる。
「大変、霊夢さん! 菫子ちゃんが帰ってない!」
ばたばたと足音を立て、人の頭をした妖怪が居間の奥へと消えていく。
一人部屋に残されて、落ち着いて周りを見る。
神社の居住空間の一角。開け放たれた襖からは秋の肌寒い風と、仄かに流れ込む宴会の残り香。
そしてどっぷりと静まり返った、街灯のない夜。やはりここは、博麗神社だ。
「あれ、私向こうに戻ったのにまた寝て?」
少し寝ぼけた頭で記憶を辿ったが、電車で目を覚ました記憶がない。
私は現実への帰還に失敗してしまったのだろうか。
すると、日が落ちるまでこちらの世界に?
流石に少し目が覚めて来た。
「向こうの私どうなっちゃってるのよ」
流石に家族も心配するだろう。連絡を取ろうとしてスマホを出す。すぐに此処が県外なのだと気づいて画面を消そうとして、無駄に間違ったアプリを起動させる。
ああもう。
ローディングの最中、画面の隅に表示されている情報に違和感を感じた。
17時11分。
時刻情報がおかしい。
街灯がない自然あふれる土地とはいえ、外のこの暗さでは9時か10時といったところだろう。私がこちらに来たのが夕方。騒ぎが一段落していることからも、自然な目算だ。
にもかかわらず、スマホの時刻は学生の下校時間帯。電車に揺られる夕暮れ時を指している。
当然、どちらかがおかしい。
県外が続くと時計も進まなくなるのか、情報が入らなくなるしな。いやそんなわけがない、内部電源が続く限り時間は刻まれる。じゃあどうして時刻が合わない。何かバグった? まさか壊れた?
頭の中で考えが溢れ、整理する間もなく二人の自分が意見をひたすら投げつけ合う。
他の時計はどうだ?
ふと浮かんだ言葉に思い当たり、鞄を探して頭を振る。それから放課後の時間帯であることを思い出し、既に腕に付けている時計盤を覗き込んだ。
時刻はスマホと同じ夕暮れ時を示していた。
喜びか、落胆かは分からない。感情が動くのを確かめながら、落ち着いて情報を探す。
私が付けているのは秒針のないタイプだから秒は判別できない。長針は動いている? 中の歯車は?
腕時計を耳に近づけ、かかっていた髪をわけて時計盤を耳に押し当てる。
何も聞こえない。
思えば、腕時計からカチカチという音が聞き取れた試しはない。当たり前のようだが、時計職人の腕前に舌を巻くしかない。
果たしてその気になれば針は動くのだろうか。
長針調整用のつまみに指をかける。が、それを引っ張る勇気はなかった。そんな事をしても両方の時計が止まっているのは事実だし、無駄を確認した上で、現在と全く同じ位置に針を戻せる自信もない。
部屋を見回して見つけた博麗神社の壁掛け時計は、やはり10時過ぎを示している。寝過ごし防止用のアラームは付けていたが、スマホの時計が進まないのでは意味がない。
「それとも、家で寝てるのを勘違いしてるのかしら」
夢の世界に入り浸りすぎて、現実世界の記憶をスキップしているのかもしれない。
きっと少しの勘違いだ。じきに目が覚めて布団の中で記憶を整理することになるわ。
これ以上の検討は気が滅入るだけなので、楽観的なうちに思考を終わらせる。今は安全地帯でこんな状況になった事を喜ぶべきだ。
それがまさか、三日も帰れないプチ騒動になるとは思いもしなかった。
・
──恐れるか。恐れるか。
──知ることで脅かされるのを恐れるか。
──知らぬことで腐りゆくのを恐れるか。
──どちらを恐れるか。
「うー、幻聴なんて経験すること無いと思ってた。変な気分」
頭の中の声が止むのを待ってから、顔を上げる。視界に映るのは山道から、見晴らしの良い下り坂に変わる。
下を向きながら歩を進めていたため、前を歩く二人との距離はそう離れていない。少しだけ歩くペースを上げてすぐに追いつく。
「幻聴の傾向が分かって来たんだよ。何か呼ぶ声が多い。否定するなよ来いよ来いよ、みたいな」
「地縛霊の一種かしら?」
「場所は言わないんだけどな。近所の妖精も被害者出てるって話だし、とんだ無差別攻撃だ」
私は魔理沙さんと一輪さんに連れられ、博麗神社から出る山道を歩いていた。
私が初期症状とこの二日間で体感した幻覚、幻聴を申告し、復活した魔理沙さんが「この現象に痺れを切らしたので調査をしたい。発症者の菫子も手伝ってくれ」と切り出した。
霊夢さんは少し悩んだが、私が現実世界へ帰還できなかった際は博麗神社に戻ってくるように、と約束付けて送り出した。
夏の日差しは鳴りを潜め、秋の風が心地良い。
慣れない山道が私を不安にさせたが、最近課外活動のハイキングがあった直後なので助かった。歩きながらでも知人二人と会話する余裕はある。
「それにしても今年の博麗神社は盛り上がってたわね」
一輪さんは足元の心配をさせずにさくさくと歩を進め、器用にこちらを振り返る。
「霊夢さんのとこ、来客が居てもお構いなしよね。まあもう慣れたけど」
私が手を振りながらうんざり、といった顔を作ってみせる。
「魔理沙さんも、気を付けた方が良いと思うわ。お酒飲みすぎると体壊しちゃうよ」
「あ、私は行ってないぞ」
そうだったのか。
失礼ながら、いつも博麗神社に居る気がしていた。
「流石に何年も同じことやってると飽きが来るんだよな。今年は家でゴロゴロ寝て、充電に回してた」
魔理沙さんは続けて「いや、去年もそんなこと言ったっけ?」と記憶を辿る表情をする。
「まあいいや。とにかく不参加決め込んでるのに、南瓜にまつわる症状が出るなんて酷いぜ。近隣妖怪に迷惑かけてないつもりなんだけどなあ」
魔理沙さんは零しながら、一輪さんに話を振る。
「寺の方はどうだったんだよ?」
「今年は前日祭だけ。当日は粛々と、静かに月見酒」
でもお酒飲むんですね。
私の感想は、口に出る前に一輪さんの言葉に流される。
「ていうか皆、勘違いしすぎ。祭典を名目にして乱痴気騒ぎする日じゃないんだからね」
彼女は思うところがあるのか「御彼岸なんだから有り難みを持ちなさい有り難みを」とぷんすこしている。
「一輪さん詳しいのね」
「ん? 以前にちょっと知る機会があってね」
一輪さんは指を立て、少しだけ解説してくれる。
「モチーフとしてよくある南瓜頭は、元、嘘つきの精霊さんよ。現世を楽しみに来てるんだから、ぞんざいに扱わないで敬うこと」
「はーい」
いつもの癖で間延びした返事をしてしまった。
が、彼女が気に留めた様子は無い。
私の知る僧の印象からは少し外れるが、こちらの住民の中では彼女は比較的落ち着いた表情を見せる。でも規律は守ってないのよねえ。
「そういえば、私たちどこへ向かってるんです?」
流されるまま着いて来てしまったが、こちらの世界では黙っていれば地底まで連れていかれる可能性もある。早めに確認して、せめて覚悟しておきたい。
「竹林のお医者さんにでも連れてってくれるんですか」
魔理沙さんはこちらに顔を見せ、ひらひらと手を振る。
「だめだだめだ。あそこの職員も発症してる」
医者のなんとやらだろうか。
「特に、錯乱すると、周りを錯乱させる面倒な職員だからな。絶対安静で面会謝絶なんだと」
魔理沙さんは目頭を押さえながら「面倒なことになったよなあ」と悪態をつく。
とすると、残る候補はどこだろうか。
元来方向感覚は人並みの域を出ず、加えてこちらの世界の土地勘もないため、彼女達についていく格好になる。
程なくして行き先は思い当たった。人間の立ち入れる場所は神社か竹林の診療所か、人里くらいしかない。
・
やって来たのは人里の一角、古い佇まいがそのままの、いかにも老舗っぽい和菓子屋だった。
醤油の焦げる匂いに目を動かすと、店先ではひげを蓄えた職人が煎餅を焼いている。
「さて、おっちゃんの相手は頼んだ」
珍しく魔理沙さんが先頭を譲り、一輪さんにコンタクトを任せる。
彼女は少しだけ魔理沙さんを振り返り、しょうがないな、というように息を吐いてから店先に近寄った。
「こんにちは、大将」
こちらの一行に気づいた職人が顔を上げ、ぶっきらぼうながら挨拶を交わす。
「おう、寺の姉さんか。それに」
職人の目線が動く。
「霧雨さんのとこの家出娘かい、また魔法だか魔術だかに熱入れて妙なこと企んでるんじゃないだろうな」
「たはは、勘弁してよ。そんなんじゃ新しいお客さん寄り付かないよ」
魔理沙さんが早期に引くのは珍しい気がした。正面から来るタイプは苦手なのだろうか。
キッとした目線が順番的にこちらに向く。魔理沙さんが「友達、友達」とフォローしてくれたので、曖昧ににへらと笑っておいた。
「とりあえずいつもの堅煎餅一包と、彼女達の摘んでくぶん、二枚ね」
一輪さんが、奥さんの方に手際よく注文を伝える。
「あたしが彼女達連れてるのは、ちょっと調べものしててさ」
通りをキョロキョロと睨んでいた職人の目線が一輪さんに戻る。
「新しい友達の方、彼女も、大将と同じような症状を訴えてるのよ。それもやっぱり同じ時期」
月末の祭典の日から。
一輪さんが祭典の名を口にした瞬間、職人の表情が険しくなった。
「あの、忌々しい騒ぎか!」
忌々しい、のだろうか。
私が面食らうのを他所に、職人は言葉を繋げる。
「どいつもこいつも南瓜だ、蝙蝠だ、菓子だと被れやがって! 日本人なら日本人らしく、彼岸は慎ましく過ごして緑の南瓜を食えってんだ!」
なるほど。これは人を選ぶタイプだな、と察するのに時間はかからなかった。
「まあ彼岸については同意するけど、頭ごなしに文化を否定するのも考えものよ」
「この人、お祭りにお客持ってかれてカッカしてるのよ」
店の中から戻ってきた奥さんが一輪さんに紙袋を渡し、魔理沙さんと私の方にはテイクアウト用の包み紙の付いた煎餅を渡してくれた。
「はい、トリックオアトリート」
おばさま、それ、渡す時の言葉じゃない気がします。
言いかけたが、彼女がニコニコしたまま言うので、お礼を言って受け取った。
「お前までそういうことを言う!」
どうやら旦那さんの方はあまり気にくわないようだ。
「だって、せっかくのお祭りが増えるのは、良いことじゃないですか」
「祭りなもんかい、変な提灯作らされるわ、里に変なやつが紛れるわ、いい迷惑だ」
職人の方に比べ、奥さんの方は祭典に好意的で楽しんでいたようだ。
「ふん、お前が楽しみにしててもこちらはやな時期だよ。こんな騒ぎ、無くなっちまえば」
職人はそこで言葉に詰まるとこめかみに手を当て、軽く唸った。
私や魔理沙さんのように、幻聴が始まったのだろう。
「頭の中でガンガンと、あの気味の悪い歌が聞こえるんだよ。何処で耳に残ったやら、気が狂っちまう」
「ほんとはそんなこと言って、貴方も気に入ってるんじゃないですか?」
「好きでもないのに耳に残ってるから気味が悪いんだろうが」
新しい症状がないか。自身と魔理沙さんや私に共通項はないか。一輪さんが聞き込みを始めてくれる。
耳を傾けながら、私たちはその一歩後ろで煎餅を咥える。前歯では自信がなかったので、犬歯で力を込めた。
「お前も身の振り方考えとけよ」
「はえ?」
顎に力を込めながら、漏れる声で返事を返す。
「どこに住むか考えといたほうが良いぜ。外と違って妖怪が闊歩してるんだからさ」
なるほど。
慣れつつあったが、私がこちらに長期滞在しているのも異常なのだった。
「人間なら人里か、どこぞの仙人に小屋でも用意してもらうか」
口を動かしながら相槌を打つ。
「あー、あるいは前科者として、旧地獄にねじ込まれるかもな」
なんてこと。
次の瞬間、口の中に痛みが走る。
「もー、魔理沙さんのせいで口噛んだ」
驚いた拍子に、奥歯で頬の内側を思い切り挟んでしまった。それも煎餅を噛んでいる最中だったので、そこそこ力強く噛み痕が付いた。
舌で表面を撫でてみると、血の滲みは感じ取れないが、傷口と周辺がじんわりと痛い。
これは口内炎ルートだろうか。
「ここの煎餅堅いからなあ。歯で噛み込まないようにも気をつけろよ」
結局一輪さん主導で行ってもらった聞き込みに目立った収穫はなく、強いていうなら里の駄菓子屋の一件は、私がふらりと立ち寄るには厳しいだろうという感想だった。焼き菓子は美味しいのに、勿体無い。
店から離れながら、三人で菓子を摘まみつつ歩く。
吊り下げられている提灯や道行く人が時折橙色で笑顔を湛えた南瓜に見えることを除けば、平和な休日のようだった。
秋風を感じながら埃に気をつけつつ煎餅を噛じっていると、正面に小さな人影が二つ見えた。
「あ、森の魔法使いだ」
「ほんとだ」
里の子供二人が顔見知りらしい魔理沙さんに話しかけて来た。彼女の表情は明るく、馴染みのようだ。
「おう悪ガキども。配達……後なら寄り道はいいか」
「二日過ぎちゃったけどお菓子ちょうだいよー、魔法使えるようになるやつ」
「魔法のお菓子魔法のお菓子!」
なんかあったっけと言いつつ、魔理沙さんはポケットを軽く弄る。それから都合いいものを見つけたのか、小分けにされたタイプの飴玉を2つ握り出した。
「普通の飴?」
「普通のに決まってんだろ、菓子職人じゃないんだ」
それから思い出したように子供たちはお決まりの台詞を口にする。
悪戯か菓子か、というやつだ。
「おーうハッピーハロウィンハッピーハロウィン」
それに対して魔理沙さんは投げやりな言葉で返す。声こそ棒読みだがその横顔は楽しそうに見える。
個性的なだけで、別に人付き合いは嫌いじゃないタイプなのよね。
それから霊夢さんのお使いを思い出し、魔理沙さんと別れ、一輪さんと共に別の通りへと向かう。
買い出しはつつがなく終了し、神社まで同行してくれた一輪さんと共に昼食を食べ、その後は神社の掃除をしたりお手伝いをして過ごした。
意識していないと始まる頭痛に顔をしかめながらも、先日の装飾の後片付けをしている間は平気なことが不思議に思えた。
◆ 11月3日
梯子を外されるとはこのことだろうか。
翌朝会った魔理沙さんは健康そうな顔つきで、ケロリとして私と霊夢さんの前に現れたのだ。
「おう菫子、今日も体調悪そうだな」
目頭を押さえる様子はなく、耳鳴りに耐えるような苦悶の表情もない。
「魔理沙さん、治ったの?」
私が尋ねると彼女は変なものでも見るようにこちらを眺めた。
「私は体調崩した記憶はないが」
「魔理沙さんも、南瓜の幻覚が見えるって症状が出てたじゃない」
「私が?」
魔理沙さんは驚いた顔をして「人違いじゃないか?」とでも言い出しそうな表情で首を傾げる。
「魔理沙さんと一輪さんと私で、状況の確認をして、竹林のお医者さんは駄目だからって」
「ああ。調査に行きたいってお前が言ったから霊夢から引き取って、解決法を探しに行った」
また違和感を感じる。
私が調査を申し出て、魔理沙さんが霊夢さんから引き取った?
少し違う。昨日調査の為に同じ症状の人手がほしいと私を引っ張っていったのは魔理沙さんからだ。
しかし、霊夢さんは間違いないと言うように頷いた。
「昼前の話よね。症状同士会ってみれば何か分かるかも、って出かけて行った。戻ったのは夕飯前」
はて。
私の顔から疑問符を読み取ったのか、霊夢さんが心配そうにこちらを眺める。
「新しい症状ね。記憶混濁?」
「違うんです。いえ、客観的にはそうなんですけど、違うんです」
数的に、私の意見の方が信憑性が低い。流されてしまう前に、魔理沙さんの前で指を立てて確認する。
「私達は一輪さんと、三人で人里に向かった。竹林のお医者さんでも職員に発症者が出て、お手上げ状態だったから。そうですね?」
「あ? ああ、昨日は一輪も心配して様子を見に来たんだ。それで同じ症状の人を挙げていった」
それは合っている。その後に煎餅を食べ、買い出しの為に別れたところまで。
どうやら魔理沙さんが発症していたことを、忘れている?
「うーん、これ、私がおかしいのか不安になってくるなあ」
落ち着こうと髪に手櫛を通す私を見て、魔理沙さんと霊夢さんは不思議そうに顔を見合わせる。
とりあえず、魔理沙さんは完治してる。最初からそんな症状なかったかのように。ではそれは、魔理沙さんだけ?
きっと他の患者も、同じ場面に遭遇したなら、この混乱に陥っているはずだ。
「じゃあ、これも確認させて。昨日話した私以外の発症者についてなんだけど」
竹林の診療所職員、魔法の森の妖精、人里の和菓子店主だろうか。
魔理沙さんがもう一度霊夢さんと顔を合わせながら頷く。
症状が治れば記憶から抜け落ちる。だというならば、今魔理沙さんに肯定された者は、まだ昨日までと同じ症状が出ているはずだ。
その中に、私と同じ、周りが先に治ったタイプが居れば話が早い。
「魔理沙さん、お願いなんだけど、その人のところに」
連れて行ってほしい、と言えば、自然に考えて昨日と同じ人のところに連れて行かれるだろう。
外来文化を受け入れない和菓子職人の顔が浮かぶ。あんまり得意なタイプではない。
「その、妖精の方に、会わせてほしいの。今なら、昨日より分かる気がする」
「うん、まあそれは構わんが、妖精だぞ?」
構わない。恐らく、集団の中に居ることのほうが手がかりになる。
手元の時計を見る。針は変わらず夕暮れ時の時刻を指している。
「ていうかお前、急に具合良さそうだな」
魔理沙さんの言葉に瞳を上げると、普段と変わらない、普通の景色が見えた。灯籠も普通の石造りだ。
「きっとアドレナリンの作用よ」
「根性論かよ」
根性論じゃないわ。生物学よ。
・
魔理沙さんに導かれるまま、薄暗い森を進む。
以前に一度紹介された魔理沙さんの家を通り過ぎ、細い獣道を進んでいく。
泥や露でスカートが汚れないか気を付けていると、やがて魔理沙さんは一本の大木の前で立ち止まり、上の方を見上げた。
「この間森で見かけたし、神社の木に反応が無かったからこっちに居ると思うんだよ」
木の葉に隠れた呼び鈴を手繰り寄せ、カンカンと打ち叩いてから、魔理沙さんが木のうろに声をかける。
「妖精共ー、事態が進展したかもしれんぞー」
しばらくすると、ただの凹みだと思っていた木の表面からがたりと音がして、外開きのドアの輪郭が見えた。外を警戒する様子は無く、二人の女の子が姿を現した。
「こんちわー」
「ちわ」
木に開いたドアから出てきたのは、子供の背丈くらいの妖精だった。半透明の羽根があることから、私にも人間の子ではないことが分かる。以前に見かけたことはあるが、こうして正面から話すのは初めてだった。
快活そうな妖精はサニーミルク、物静かな妖精はルナチャイルドと名乗った。
「こいつ、宇佐見菫子。詳細は省くがお前のとこのレーダー妖精みたく、南瓜が見えるって症状の患者でな。手がかりになるかも知れないから会わせてほしいって言うんだ」
私を警戒してではないだろうが、二人は相談するように顔を見合わせる。
それから二人は木の中に戻っていくと、程なくしてもう一人妖精を連れて出てきた。
長い黒髪の妖精は友達の影に隠れこそしないものの、警戒しつつこちらを見る。
「スターに会いたいってお客さん。おんなじ症状らしいよ」
サニーミルクが私を指差し、隣の妖精に状況を説明する。
スターと呼ばれた妖精は伏し目がちだったが、切り揃えられた黒髪の下から目線を上げた。
「こいつ、いつから体調崩してるんだっけ?」
魔理沙さんに話を振られ、ルナチャイルドは唇に指を添えながら考える。
「んと、一昨日だっけ? 私とサニーが朝に目覚めて、夕方くらいにスターが目覚めて。その日の夜には何か居る、って怖がってたかな」
「一昨日の夜ってことは、宴会の翌日だな」
サニーミルクが首を傾げ、意味を訪ねる。
「霊夢のとことか妖精の間とか、どっかの宴会に参加してたわけじゃないんだな」
「ああ、当日は私達三人共、一回休みになってたからね」
霊夢さんから聞いたことがある。妖精と呼ばれる種族は一度にダメージを受けすぎると消滅し、自然のあるところから再誕生するらしい。
そしてその日、事情は知らないが、彼女達はまとめて一回休みの状態だった。
どうやら10月末日のタイミングに存在していることは、発症の条件ではないらしい。
「参加してるとこうなるの?」
「わからん。ただ宴会に居たかどうかは、大きそうじゃないか? なんてったって南瓜の絡む祭典なんだし」
サニーミルクは友達を心配するように、しゃがみ込んで顔色を窺う。
「復活直後は元気だったのにね」
なんであんなに騒いだんだっけ、というサニーミルクに、ルナチャイルドは呆れたように声をかける。
「サニーのせいじゃない。復活直後に、祭典に乗り遅れたのは気に入らない、あと治すには甘いものだって言って、お祭り用のお菓子をスターの分も食べちゃったじゃない」
ルナチャイルドの言葉で思い出したのか、サニーミルクは一つ手を叩く。
「そうそう、私がハッピーハロウィンって言いながらやけ食いした!」
「それでスターったらへそ曲げて『ふんだこんなのつまんない』って」
元気、だったのだろうかそれは。
まあ天邪鬼する子供は総じて元気と括られるものだが。
魔理沙さんがこちらに目線を戻す。その目は明らかに、当てになるか? という心配の目線だ。
「ねえスターちゃん」
スカートの裾を抑え、膝を折って話しかける。
「私もまだ南瓜が見えたりするんだけど、魔理沙さんは先に治っちゃったの。だけど、それを魔理沙さんは覚えてないって言うの」
スターサファイアは驚くように目を見開いた。
「お友達も同じ様に南瓜が見えたりしてたのに、それをすっかり忘れてるなんてこと、ないかな?」
夢の世界の妖精だ。私よりもゆうに長生きしているのかもしれないが、体躯と弱々しい表情から、思わず子供に話しかけるような態度を取ってしまう。
彼女がそれを気にする様子はない。
「そう、そうなのよ! サニーとルナも最初はそう言ってたのに、寝て起きたらすっかり忘れてて! 二人は私を寝ぼけてるか風邪の引き始めだって言って」
ようやく仲間を見つけたという安堵の表情。
子供の涙ぐむ姿にしか見えないそれは感情を揺さぶられ、思わずこちらも表情が綻ぶ。
ほらね魔理沙さん、と言いかけて後ろを見ると、そちらはそちらで、自分たちが発症した記憶はないという感想を共有していた。
「二人にも変なのが憑いてたって言ったのに、それも忘れちゃって」
スターサファイアの声に顔を戻すと、おびえる表情をしていた。
ついてた?
何がだろう、菌かなにかかしら。
「気配がするんです」
私の目線に、スターサファイアはしっかりと答えた。
「今の私に憑いてて、具合悪そうな二人にも憑いてたの。ただ症状が治ってからの二人の近くには居なくて」
それは新情報だ。魔理沙さんに目線を送ると、彼女も知らなかった情報らしい。神妙な顔で顎に手を当てている。
「単なるお化けっていうより、妖精に近い感じで、でも見えないのよ」
補足する彼女は言葉を切り、きょろきょろと辺りを見回した上で私に目線を戻した。
「やっぱり居るわ、二人」
へ?
二人?
スターサファイアが私の周囲に目を走らせながら怯えて呟く。
「お姉さんの近くにも居るわ。多分、私と近いやつ」
思わず立ち上がって後ずさる。
「ちょっとちょっと、怖いこと言わないでよ! 私肝試し系は勘弁なのよ!」
彼女を傷つけるつもりはなかったのだが、乱暴な態度をとってしまったか。
少しはっとしたが、スターサファイアがそれを気にする様子は見せない。真剣に私の輪郭に目線を走らせ、正体を見破ろうとしている。そういった動作からも、彼女は悪戯や脅かしの意味で話したわけではない、真実のようだ。
「おいおい、幽霊なんざもう慣れたもんだろ」
魔理沙さんが大げさに手を振りながら視界に入る。
「見える幽霊と見えない幽霊は違うの!」
もし現実にまで付いてきちゃったらどうするのと言いかけて。
ああいけない。怖いこと考えちゃった。
「まあまあ、見えないってことは大したことないのよきっと」
なだめるような声を出したのはサニーミルクだった。
「それか危害を加える気はないのよ。私らだって、透明になって悪戯はするけど、戦う時は正面からよ」
しかし魔理沙さんは、だから弱いんだろ、と彼女の言葉に取り合わない。
「スターも周りが発症してたって証言するんなら、記憶としてはお前と同じ状態か」
それに、病気の類ではなく、何かが居ると分かったのは明確な収穫だった。
結局それ以上の収穫は無かったが、追い払い方が分かったら情報共有をしようと話し、その場を後にした。
・
お夕飯の準備をして、お風呂を頂いて。
博麗神社の縁側に腰掛けながら、聞き慣れてしまった虫の声に耳を傾ける。
「冷える前に中に入りなさいよ」
「はーい」
姿は見えないが、背後から霊夢さんの声がした。泊めてくれるのは非常に助かるし、何かと気を回してくれるのは、母か姉のようだ。
そんな彼女に、いつまでも甘えてはいられない。自分で見つけた手掛かりで、自分で解決しなくては。
たぶん、この様子だと時間経過では起きられない。裏を返せば、明確な条件を満たせば戻れるはずだ。無論、戻れる前提だが。
ここ数日を整理する。
症状は祭典を連想させるような幻覚と幻聴、どうして祭典絡みなのだ。
症状が出ていたのは少女だけじゃない、私と里の旦那さんとの共通点は何だ。
発症時期は同時期だった、いつから一斉に発症した。
スターちゃん曰く、何かが居るらしい。
魔理沙さんが快方に向かった日の発言を思い出せ。朝、山道、人里、別れてからは分からないがその中に何か。
考える最中、止めてしまっていた息を吐く。呼吸を整えながら、顔を上げる。
もしかすると。
自然と忌避してしまっていた内容かもしれない。
しかし。
喧騒が頭を過ぎる。私はああはなりたくないと、子供ながらに白い目を向けていたあの集団。
その一方で、文化にだけ目を向ける。
一輪さんの話した出典。本来、あのモチーフは導く精霊。一部の人に何かが纏わりついていたのは、興味を持ってもらうため、促すためだとしたら。
ほんの少しだけ、勇気を持って。独り言に対する、気恥ずかしさを堪えて。
意を決して小さく呟いた。
「ハッピーハロウィン」
◆
──少年少女よ、探し続けよ。進み続けよ。それこそが若く生きる唯一の術。怠慢は急速に老いてゆく。
──人も神も悪魔も。立ち止まることも後戻ることも出来ぬ。惰性からの諦め、手を伸ばさない怠惰は老いを早めていく。
──人の子は恐れなくて良い。未知に飛び込むは、未達で歩み始めるは、若き生たる証拠なのだから。
──ただし、嘘は駄目だぜ。
◆ 10月31日
目を覚ますと、薄汚れた床と、金属の手すりが視界の隅に見えた。
近くに気配を感じて横目で見ると、買い物帰りと思わしき女性が携帯を操作している。
振動を感じ、自分の姿勢を確認しながら目線を上げる。
角席で、座席の仕切り板に寄りかかっている。向かいの座席に座る男性の背後、窓の外の風景は高速で移動している。差し込む橙色の西日が目に痛い。
間違いなく、ここは見慣れた通学電車だった。
混濁する記憶と、やけに長い夢。
はっとしてポケットからイヤホンの繋がったスマホを手にする。
『10/31 17:11』
待受画面は日付は私の知る最新日のまま、時刻は腕時計と同じ夕暮れ時を示していた。本当に三日間寝続けていたなんてことはなく、ほっとした。
だいたい電車の中でそんな少女が見つかったら大騒ぎであろうし、私が乗っていた電車は環状線路の電車でもない。車掌に起こされるかどこかへ搬入されるのが普通で、電車の座席では目覚めない。
周囲に悟られないように、小さく、ため息をつく。
果たしてあれは本当に夢の世界か。あるいは妄想か。
舌で恐る恐る口内を探ってみると、頬の奥に傷がある。まだ口内炎には至っていないが、最近、食事で噛んだことがあっただろうか。それとも、寝ぼけて噛んでしまったなんて結末だろうか。
目線を上げると、アンチエイジングの広告の女性が「積極的な交流を」と呼びかけている。その隣には家庭内の人間関係を危惧する団体だろうか、嘘は良くないと訴えかける内容の広告が張り出されている。
先程の長い夢。その終わり際の声を思い返す。
誰だって老いたくないに決まっている。私だっていつまでも伸び盛りのつもりでいる。だが、いつか私も、気にするようになるのだろうか。まだ想像がつかない。
目線を外し、次の停車駅を確認する。最寄り駅まではまだ時間がある。
発症している皆を助けるために、もう一度眠ろうか。ああいや、あれは祭典後の話だ。今日は今頃、博麗神社で祭りの準備だろう。
先程の夢が本当だったかを信じるのは別だが、もう一度眠ってみよう。それから、予防策的に、宴の集団と少し交流してみても良いかもしれない。少し話して反りが合わなければ、否定せず、ただ立ち去ればいい。
そしてもし祭典以降、夢の症状を訴える者が居たら、私の見つけた抜け出し方を伝えよう。
スマホの画面を点け、マナーモードになっているのを確認する。アラームのバイブレーション機能をセットした指で、続けてメモ用のアプリを立ち上げる。
前置きに『11月以降に異変を訴える人を見つけたときのメモ。分からなくてもとりあえず伝えること』と記載して。
まずは一番大事な、抜け出し方とキーワードについて。続けて私が体験した三日間の存在と、その時の発症者について入力し保存する。
これも、夢日記というやつだろうか。
せっかくだから綿密に、重厚な文章に残しておこうか。宇佐見先生のレポートスキルを持ってすれば、素晴らしい内容になるわ。
記憶を辿りながら指を滑らせるうちに、瞼が重くなる。
ああ、いいとこなのに。
根性で持ち上げた瞼の隙間から自分の文に目を通す。一番最初に、重要な点を既に書き残したことを確認した。
意識が沈んでいく。
イヤホンから流れる流行曲が、あの収穫祭の名を歌っていた。
WATERDUCTというここと同じようなシステム仕様の東方専門投稿サイトがあって、そちらがお薦めです。
董子の不安と焦りが伝わってくるようでよかったです
なんとなく原因らしきものが垣間見えつつもはっきりとしたことがわからないところにおどろおどろしさを感じました
謎がもっとしっかり明かされてほしいと思いましたが、もやもやする雰囲気もそれはそれでと面白かったです。
謎が残された終わり方で、とても良い雰囲気の作品だったと思います。モブの職人も含めキャラクター達の言動が好きでした。
イベントを斜に構えて捉えながらも、また違う視点でハロウィンと向き合う菫子も印象的で、楽しませてもらいました。