森の中で、数匹の鳥が地面をつついている。蟻をついばんでいるようだ。
その鳥たちは深い黒と明るい茶色の羽毛を持ち、頭の天辺には真っ赤な冠を戴いている。体長は人間の膝に届かないくらいなのでそう大きくはないが、艶やかな羽毛のせいか妙に存在感がある。
やがてその中の一匹が、せわしなく地面をつつくのをやめて面を上げた。
木々の隙間を縫って赤い陽光が差し込む。森と一緒にその鳥も朱に染まる。陽が沈みかけているのだ。
地面をつつくのをやめた一匹は、まるで夕焼けを眺めているかのように、そのままじっと佇んでいた。
「ぜーーーったいこの子たちは渡しませんからね!!!」
妖怪の山の澄んだ空気に、甲高い声が響き渡る。赤く染まった紅葉が、声で揺るがされて舞い散った気さえする。
あまりの声の大きさに、山童ら山の妖怪は両耳を塞いだ。彼女たちは妖怪の山にあるちょっとした広場にいて、そこに建てられた小屋を遠巻きに囲んでいた。
山城たかねは深いため息をついた。周りの山童たちが不安そうに彼女の顔を覗き込んだ。
庭渡久侘歌が小屋に立て篭ってから、小一時間が経っていた。
「どうします?」
山童の中の一人が不安そうに、たかねにそう言った。
たかねは双眼鏡を使って、窓を通して小屋の中を覗いた。
中には鶏を数匹ずつ両脇に抱えた庭渡久侘歌がいた。その側では両脇からこぼれた鶏が一匹、首を揺らしながらあたりを歩いている。
「そうだなぁ……」
他の山童からの報告によれば、鶏は人里から強奪してきたものとのことだった。
集まった情報を繋ぎ合わせて、おおよその事情はわかってきた。
久侘歌が人里に出かけたとき、丁度鶏が〆られそうになっていたところに出くわした。彼女は思わずそれを止めに入ってしまった。しかし鶏の持ち主も急に現れた少女の言うことを聞く道理もない。口論のような状態になってしまい、最終的に久侘歌はその家の鶏を強奪してしまったのだ。
頭に血が上って勢いで鶏を攫ってしまい、引っ込みが付かなくなっているのだろう。普段の彼女の大人しい性格からして、こんな愚行はやらかさないはずだ。
しかし一方で、彼女は日頃から鶏が家畜として扱われていることに腹を立てているのは事実だ。こうなってしまうと彼女を納得させて鶏を解放するのは難しいだろう。
「報告です。人里からは鶏を返還するよう要求が来ています。その傍ら、鶏を奪還すべく、突入部隊を結成すべきかの議論がされているようです」
「いやそんな……たかが鶏じゃないか!」
山童たちが悲鳴をあげる。たかねもその言葉に同意したかった。
しかし彼女は事態はそう単純でもないことを理解していた。
この一件は白昼堂々、人里の中で行われたことに問題がある。人里の真昼間という明らかに人間の領分を侵してしまっているのだ。夜や人里の外で被害が出るのは仕方ないのだが、これを許してしまっては、人里に安全な場所が無くなってしまう。秩序の問題なのだ。
「河童の奴らからくすねてきました」
山童の一人が、たかねにラッパ状の機械を渡した。外の世界では拡声器と呼ばれるものだった。
「それとこちらも」
「何だいこれ?」
続いて渡されたのは、何やら文字が書き込んであるメモだった。
「立て籠った人物に向けて使う、外の世界の決まり文句だそうです。呪文のような効果があるかも知れません。以前早苗ちゃんに教わったので確かなものです」
たかねは内心「本当かよ」と思いつつも、その山童の好意を足蹴にするのも気が引けたので、そのメモを手に取った。
そして拡声器のスイッチを入れた。
『あー……お前は今完全に包囲されているー。速やかに鶏を解放し出てこーい。お前のそんな姿を見たら、田舎のお母さんが悲しむぞー』
「私に親なんていません!!」
返答は、叫び声と弾幕であった。
窓から放たれ、その後拡散した色とりどりの弾幕が、山童たちを襲った。
「うわわわっ!」
山童たちが慌てふためいてその場から離れる。たかねも少し驚いたが、その場から動かなかった。久侘歌はあくまで脅しで放っただけだとわかっていたからだ。
実際、弾は先ほどまで山童たちがいた足元の手前に着弾して土煙をあげるのみで、被弾したものは一人もいなかった。
「突入するか?」
物騒な台詞が聞こえた。
驚いて木の影に隠れた山童たちの間を割って、犬走椛が現れた。
その手には大鉈のような形状をした剣が握られている。後ろには数人、部下の白狼天狗が控えている。
「いやいや、それもなぁ」
たかねがやんわりとそれを制すると、他の山童たちが後に続く。
「久侘歌ちゃん、悪い子じゃないし」
「そうそう」
立て篭っているのが山の問題児であれば排除して人里に差し出してはいお仕舞い、で済む。
しかし久侘歌はそうではない。普段から物腰柔らかく接してくれる彼女を山童たちは悪く思っておらず、彼女に手荒な真似をするのは気が引けた。
更にたかねはもう一つ問題があると思っていた。
久侘歌は妖怪の山に住んではいるが、所属しているコミュニティは是非曲直庁だと言うことだった。
下手を打って大怪我させてしまえば、かなりの厄介ごとになる。久侘歌が悪いと主張しても、そうやすやすとは納得してくれないだろう。身内を傷つけたものに対しては厳しく接しないと、組織自体の構成員からの信用に関わる。
「しかし、早く対処しなければ人里との関係が悪化してしまう」
「そこが困ったところだよねぇ……」
久侘歌は錯乱半分、もう半分は意地になっているような様子である。時間をかけて説得すれば、いずれは落ち着いて納得してくれるだろう。元々物分かりが良くて素直な性格なのだから。
ただ人里との緊張をいたずらに高めるわけにもいかない。
椛としては久侘歌が落ち着くのを待つ理由はそこまでない。一方のたかねは、中有の道が彼女の商いのナワバリであることもあり、是非曲直庁との関係悪化を避けたいという思いが強い。
天秤は揺れていたが、彼女はそれがどこで傾くのかを見極める必要がある。
何で鶏ごときでこんな悩まなきゃいけないんだ。彼女が現れたのは、たかねがため息をつきかけたそんなときだった。
「ウチの部下が迷惑をかけているようね」
幼くも聞こえるが、それでいて凛とした、場の空気を引き締めるような声だった。
山童と白狼天狗が声のした方を振り返った。そしてどよめきが広がっていく。
「閻魔だ……!」
「辻説教する方の閻魔……」
現れた少女は青と黒をベースに金の意匠をしつらえた制服を着ており、緑色の髪の上には、大きな帽子を被っている。地獄の閻魔、四季映姫ヤマザナドゥだ。
その場にいた妖怪たちは、今にも遁走しそうな様子だった。童女のような見た目で忘れそうになるが、閻魔は恐怖の象徴である。加えて幻想郷を歩き回っている彼女に捕まると、説教されるともっぱらの噂だった。その被害を受けたくないと皆がジリジリと距離を取っていた。
「何だか随分と嫌われてますね、私」
「ははは……」
ちょっと悲しそうに苦笑する彼女に、乾いた笑い声でたかねが応えた。
「助かった」とたかねは内心胸を撫でおろした。彼女が手荒な手段を講じずに待ったのは、久侘歌が落ち着くのを待っていたからだが、ひょっとして地獄の関係者が現れるのではと期待していたのもあった。
「お前たち、戻っていいぞ」
「あとは私と椛が見届けるよ」
椛とたかねの指示を出すと、山の妖怪たちは待っていましたとばかりに、蜘蛛の子を散らすように解散した。その様子に二人は軽くため息をついた。
「任せて良いんですよね?」
「ええ、もちろん。部下の不始末は私がつけますよ」
映姫はいつも通りの凛とした態度で、真っ直ぐ久侘歌が立て篭もる小屋に向かった。
小屋の入り口の前に立ち、扉越しに映姫は久侘歌に声をかけた。
「久侘歌、随分と元気そうですね」
「え、映姫様!?」
久侘歌は動揺して素っ頓狂な声をあげた。まさか上司が現れるとは思ってもいなかったからだ。
「入っても良いですか?」
映姫が中に入ろうと扉に手をかけるが、ガタガタと揺れるだけで全く開かない。内から箒でつっかえ棒をしているからだ。
「……嫌です」
少しの逡巡の後、扉ごしに久侘歌はいじけたような声で答えた。
「そうですか。では鶏たちを下がらせてください」
久侘歌は彼女の言う意味がわからなかったが、咄嗟に指示通りに動いた。上司の命令には従うという習性が体に染み付いていたせいだろうか。
次の瞬間、扉が蹴破られた。
土煙の中から現れた映姫は、蹴りのポーズをしていた。残心と言って良い綺麗なフォームだった。
「ええっ!?」
半拍遅れて久侘歌が情けない叫び声を上げた。そして顔面蒼白となった。随分と手荒な入室だったので、閻魔が激怒していると思ったのだろう。
もっとも映姫の表情はいたって普段通りだった。
説得に壁越しでは話にならないと思い、時間もないので最短の手法を取っただけなのだろう。閻魔の名前を出せば少しは人里も落ち着くだろうが、あくまで一時凌ぎにすぎず、あまり待たせるわけにもいかない。
「失礼しますね」
映姫は小屋の片隅にあった埃を被った椅子引っ張り出して、スカートが汚れるのも気にせず腰掛けた。
「あっ、お召し物が……」
久侘歌は閻魔様をこんな汚い場所に来させてしまったと動揺していたが、自分の邪魔をする人物の服の汚れを気にするのもおかしいなと気づいたのか、咳払いをしてその場に居直った。
椅子に座る映姫を、小屋の外から差し込む日の光が後光のよう照らしている。その対面では久侘歌が鶏を両脇に抱え、部屋の光が差さないところの床に座り込んでいる。
「久侘歌。鶏を人里に返しなさい。あなたのやっていることは泥棒……どちらかと言えば強盗です」
「い、嫌です」
久侘歌は喉から否定の言葉を捻り出した。
鶏をぎゅっと抱きしめると、鶏はコッコッと鳴いた。
「何故嫌なの?」
「それは……同胞が人間の家畜になっているのを捨て置けないからです」
「同胞、ね」
映姫の少し含みのある言い方に、久侘歌は少しむっとした。何故閻魔の態度に苛立ちを覚えたのかは、この時点の彼女は気づいていなかった。
「冷たい言い方ですが、ここで数羽の鶏の命を救ったところで、鶏という種が人間の家禽であるという事実は変えようがありませんよ?」
それくらい久侘歌もわかっていた。彼女だって子供ではない。
目の前の命を救ったところで、世界にいる他の何億羽の鶏の末路は変わらない。
「で、でも出来ることからやっていかなくちゃ……何か行動しなければ、鶏は永遠に人間の家畜、永遠に虐げられたままです」
「そもそも鶏を人間から解放する必要なんてあるんですかね」
「えっ?」
それまで俯いたままぼそぼそと話していた久侘歌は顔をあげた。
「人間は鶏のために、彼らの糧を用意し、住処の手入れをしなければなりません。人間が鶏を支配しているというより、鶏が人間に奉仕させているように思えませんか?」
鶏は世界で最も数が多い鳥だ。その数は230億羽とも言われている。
見方によっては、鶏は人間という種族を利用することで、世界で最も勢力拡大に成功した鳥と呼べるかも知れなかった。
「そんなの……よくある詭弁じゃないですかっ」
「そうでしょうか。仮に人間から鶏を解放したら、鶏は大きく数を減らすのではないですか」
「それは……」
言い返したいことは山ほどあるはずなのに、上手く言葉が紡げない。久侘歌は元々あまり細かいことを考えるのは苦手だった上、今の彼女は平静とは言い難かった。
もし彼女が冷静であれば、「種の数はあくまで種としての繁栄の指標であって、個々の鶏の幸せには繋がらない」くらいは言い返したかもしれない。
「それでもっ、私は目の前の同胞を見捨てることなんて出来ません」
理論で対抗できないなら感情論だった。映姫に言い負けないためには、最早それくらいしかなかった。
「なるほど」
そう言って映姫は頷いた。急に自分の意見が否定されなくなったので、久侘歌は虚をつかれた思いだった。
「貴女の気持ちはよく分かりました。では私がそこの鶏を全部買い上げるとしましょう。こうなると人里側も面子があるから簡単にはいかないかも知れませんが、それなりの金額を積めばどうにかなるでしょう」
「えっ……いや、それは……」
彼女の意外すぎる申し出に、久侘歌は狼狽えた。ありがたい提案ではあったが、自分の上司にそこまでさせるのは気が引けた。
久侘歌とてこれが自分の我儘であることは分かっている。そんなものに映姫を付き合わせるのは申し訳なかった。
「……貴女は少し優しすぎますね」
動揺する久侘歌の様子を見て、映姫はため息をついた。
彼女が呆れている理由もわからず、久侘歌はどう返せば良いか分からなず、「うぅ」と曖昧にうめくような声を出した。
「もし本当に貴女が同胞を守りたいというなら、一も二もなく私の提案に乗るべきよ」
「それは……そうなんですが……」
「久侘歌」
「はいっ」
映姫が改めて名前を読んだことで、久侘歌は少し驚いて背筋を正した。
「少し厳しいことを言うようだけれど、貴女は鶏を救いたいんじゃなくて、鶏を見捨てることが……鶏を救うというスタンスを崩せないだけなのよ」
「……どういう意味ですか」
映姫の言葉の意図するところが、久侘歌にはわからなかった。それでも何か、あまり良い意味ではないことは彼女にもわかった。
「貴女は先程からしきりに同胞という言葉を使っているけれど、それは自分に言い聞かせているだけじゃないかしら」
そんなことはない。
久侘歌はそう言い返そうとしたが、喉で何かが引っかかって、言葉にはならなかった。
「確か大昔の貴女は、家畜化される前の一羽の鶏だったかしら……それだったかも知れない。でも貴女は鶏の神様であって鶏そのものじゃないし、鶏を庇護する神様でもない」
久侘歌はただ黙って映姫の話を聞いた。
「貴女を象っているのは、鶏たちに対する人間の親しみや愛情よ。貴女は庭渡神であってそれ以上でも以下でもない」
映姫の言う通りだった。
久侘歌は鶏の神様であって、鶏ではない。彼女の権能というかご利益は鶏を庇護することではなく、川を渡る際の安全祈願や、喉の治癒だ。
鶏とはかけ離れた存在になった彼女が、鶏を同胞と呼ぶのは少しズレがある。
「それはその通りですが……だからなんだって言うんです」
元々鶏だったのだから、鶏を同胞と呼んで何が悪い。
反論する久侘歌を、映姫は真っ直ぐに見つめて言った。
「自分が鶏を同胞として扱い続けるのは何故か、分かっていないようね」
久侘歌は心臓を掴まれたような気分になっていた。その先に来る言葉が恐ろしいのだ。
本当は彼女が何を言おうとしているのかが、ぼんやりとわかっていた。
映姫は久侘歌自身が目を背け続けている感情に、名前をつけて差し出した。
「寂しいのでしょう。そんな風に鶏を抱えて……まるでぬいぐるみを抱きしめる童のよう」
何か言い返そうと、口を開いた。
だが、口は鯉のようにパクパクと酸素を取り込むだけで、喉から呻くような掠れ声しか出てこなかった。
そして久侘歌は言葉を紡ぐことを諦めて、うなだれた。鶏をぎゅっと抱きしめる。
言葉にされてしまっては、もう気づかないふりをすることはできなかった。自分がやっていることは、孤独な夜をぬいぐるみを抱きしめて耐え忍ぶ幼い子供と、何も変わらない。
映姫は立ち上がり、久侘歌の前で土間に膝をついた。膝が汚れる。目線の高さを合わせたのだ。
「色々言ってしまいましたが、私は貴女が鶏を守ろうということ自体をやめろと言うつもりはありません。でも、やり方というものがあるでしょう。賢明な貴女には、とっくにわかっているはず」
「…………ごめんなさい」
耳を澄ましていなければ、聞き落としてしまいそうな、か細い声だった。
「私に謝る必要は一切ありませんよ……むしろ謝るべきは私でしょう。土足で貴女の心に立ち入って、晒すような真似をしてしまった」
彼女はそう言って頭を下げた。
謝らないで欲しかった。余計に自分が惨めな気分になってくる。久侘歌はそう思った。
「鶏を返して……それで謝ろうと思います」
映姫から促される前に結論を言ったのは、せめてもの意地だった。
「ええ、一緒に行きましょう。事情は人間たちもわかってくれるでしょう」
久侘歌は幽鬼のようにゆらりと立ち上がった。
映姫と手分けして鶏を抱えて、小屋の外に出た。
外ではたかねと椛が待っており、久侘歌は二人にも謝った。
その後、映姫と二人が何か話していたが、久侘歌の頭には会話の内容が、三人が異国語を話しているかのように全く頭に入ってこなかった。
『寂しいのでしょう』
映姫には言われたことが、頭蓋の中でぐるぐる渦巻く。
寂しかったのか、私は。
久侘歌自身薄々は感じていたことだが、はっきりと意識したことはなかった。
確かに寂しかったのかも知れない。でも多分、それだけではない。
人里に向かう道中、二人は一言も言葉を交わさなかった。
閻魔が出てきたとあっては、流石に人里の住民たちも拳を振り下ろす訳にはいかなかった。誰だってこんなことで閻魔に悪印象を抱かれ、地獄に落ちたくはなかった。
もっとも映姫は恨みがあっても公正に裁くだろうし、そもそもこの程度で気を悪くしたりはしない。
単に閻魔が現れただけでなく、鶏を強奪した張本人も地面にめり込む勢いで頭を下げるものだから、彼らの怒りはたち消えてしまった。結局鶏も全羽無事に帰ってきたので、損害があるわけでもない。
次はこんなことが起きたら相応の対応をしてもらう、という結論になったが、これは実質お咎め無しということだった。
「本当にご迷惑をおかけしました……」
映姫に妖怪の山まで送ってもらった久侘歌は、深々と頭を下げた。
いっそ消えてしまいたい。彼女はそう思った。
ただでさえ少ない映姫の休日を、自分のせいで浪費させてしまったのだ。
「私に出来ることなら何でもやらせていただきますので……」
「ふむ……何でもですか」
閻魔の値踏みをするような眼差しに、久侘歌は少したじろいだ。
もちろん言われれば何でもやろうと思うくらい申し訳ないと思っていたが、何を言われるのか全く予想がつかず、少しだけ恐怖を抱いた。
「では、少し付き合って欲しいのですが良いですか?」
付き合って欲しいとはどういう意味か。久侘歌が疑問に思うと、映姫が山の中を歩き始めたのでどうやらついて来いという意味らしかった。
彼女はほとんど獣道と言って良い荒れた道を、ズンズンと進んでいった。その歩みに迷いはなく、慣れた道を歩くかのようだった。
どういうことだろうかと久侘歌は疑問に思う。地獄の閻魔が妖怪の山の道に詳しいというのも、何だか妙な話だった。
加えてもう一つ疑問があった。
「飛ばないのですか?」
「たまには歩くのも良いでしょう」
そう言って振り向いた映姫の表情は柔らかい。
怒っているものだと思っていたので、久侘歌は少し胸を撫で下ろした。
こうなってくると久侘歌にも余裕が出てきたのか、沈黙が気になって何か話題を振った方が良いのかと悩み始める。しかし先程まで大きなやらかしをした身としては、お喋りしようとするのも軽薄というか、反省していない風に見えてしまうのが気になる。
久侘歌がそんな風に思い悩んでいると、映姫が歩き続けながら振り向かずに声をかけてきた。
「貴女は元々一羽の鶏、家畜化される前の野生の鶏だったのよね」
狼が人に飼い慣らされるうちに犬という種に進化したように、鶏にも狼にあたる、家畜化される前の姿があった。
「はい。赤色野鶏というそうです」
伝聞の形で答えたのは、久侘歌自身その確証がないからだ。鶏だった頃の自分が己の種の名前などわかるはずもなく、あとから得た知識で多分そうだったのだろうということがわかっただけだ。
「ということは、大陸の……中華の更に南の方に住んでいたのよね。話に聞くメコンという大河のあたりかしら」
「概ねそんなところだと思います。鶏だった頃の記憶なんてほとんど残ってませんが」
ただの一羽の鶏だった時の記憶は、うすらぼんやりと脳の片隅に残っているだけだ。
「そこから日本の神様になっていただなんて……随分色々あったのでしょうね」
久侘歌は己の出自に想いを馳せた。
ただの一羽の野鶏が長生きしてしまい、鶏の妖鳥のような、もしくは鶏の精霊と形容すべきものに変わったのだろう。それからあまりに長い、長い時間を生きているうちに、西から来たりて東へ移り、海を越えこの島国にたどり着いた。そして人々の鶏に対する親しみや信仰と混ざり合い、庭渡神と呼ばれる存在に成った。
西の方にいた頃の記憶はあまり定かではなかったが、自分の来歴は概ねそのようなものだろうと久侘歌は思っていた。
渡海に関わる側面があるのは、そういった来歴が影響してのことかもしれない。
「故郷に帰りたいと思ったことはありますか」
「……考えたこともなかったです」
故郷。
その単語を久侘歌は頭の中で反芻した。
言われてみれば確かにそうだ。ここから遥か西にある大河を抱えた密林こそが己の故郷なのだろう。
だが自分のことを覚えている人もおらず、自身の記憶にもほとんど残っていない場所に帰っても仕方ない。
もしどんな遠くまで行っても、いつでも戻って来れるような、自分の足場になるような場所があるのなら、なんて素敵なことだろう。
別に久侘歌が特別なわけではない。人間でも故郷に一生帰ることのない人なんて沢山いるはずだ。
だがその土地で生まれそのまま土着の神となったような存在と比べれば、久侘歌は随分と不安定だった。
是非曲直庁で働くのは真面目な自分の性分にあっていたが、クビになれば翌日からは全く縁のない場所だ。もし今回のような問題を引き起こし続ければ、是非曲直庁は久侘歌を解雇するだろう。
妖怪の山は自らの住処ではあったが、久侘歌は明確に部外者であった。当たり障りなくコミュニケーションを取れるが故に疎まれてはいないが、自身も山の住人も、互いに一線を引いている。
それらと縁が切れてしまった時、帰れば良い故郷があったのなら、それは素晴らしいことだと思う。
そこまで考えて、久侘歌は自分は拠り所が欲しかったのだと気づいた。だから鶏を同胞と扱いたかったのだ。
自分が滑稽に思えて、乾いた笑いがこぼれそうだった。
彼女が思考の沼に溺れている間も、映姫は無言で山を進んでいった。気がつけば道の傾斜も大分厳しくなっている。
「あの……いつまで……」
「もう少しです」
そう言われたので久侘歌は黙々と映姫についていった。普段誰も通っていないと思われる、歩きづらい荒れた道を進んでいく。
しかし歩みが止まる気配は一向にない。この「あと少し」はアテにならない方の「あと少し」だと久侘歌は気づいた。
流石に並の人間よりかは体力のある久侘歌だったが、いつが終わりなのかわからないという心理的な負担は、人でも神でもそう違いはなかった。
久侘歌と比べて映姫が疲れた様子がないのは、地震は終点がどこかをわかっているからかもしれない。
気がつけば随分と足が重い。一歩一歩を意識しなければ前に進むこともままならない。
汗がじんわりと額に浮かぶ。季節が秋だからよかったものの、夏だったら滝のような汗を流していただろう。
先程までは色んなことを思い悩んでいた久侘歌だったが、気づけば無心になって足を動かしていた。
「もう少しです」
先程と全く同じイントネーションだったので、久侘歌はその言葉を真剣には受け取らなかった。
しかし今回の「もう少し」は本当だったのか、そこから少し進むと、開けた場所に出た。
そこは切り立った岩場の崖であった。
「つ、疲れました」
久侘歌はそこにへたり込んだ。そしてそのままそこで手をついてうずくまると、汗がぽたりと地面に落ちた。
「それで……何で私をこんなところに……」
息も絶え絶えに久侘歌がそう問いかけると、彼女はこう言った。
「これを見せたかったんです」
「え?」
久侘歌が顔を上げると、そこからは赤くなった幻想郷を一望することができた。
夕焼けだ。
人里や紅魔館、魔法の森に博麗神社。その全てが赤色に染められていた。
この光景をもっと見たいと思ったのか、足がぼろぼろになっていたことも忘れ、久侘歌は自然と立ち上がっていた。
幻想郷から吹く風が、汗で湿った額を乾かしていく。夕日の眩しさに彼女は目を細めた。
映姫が体を夕日に向けたまま、久侘歌に語りかけた。
「風が心地よいですね」
「はい……」
久侘歌の心の中で、何かが溶けていく。
鼻の奥の方がつんとした。
理由はわからなかったが、久侘歌にはこの光景が、何故かとても懐かしいものに感じた。
周囲はとても静かで、風が木々を撫でるざあざあとした音だけに包み込まれる。
二人並んでぼうっと夕焼けを眺めた。仕事の間はあれほど時間が足りないと嘆いている久侘歌からすると、こんな贅沢な時間があって良いのかという気分になる。
このまま陽が沈み切るまで、黙って夕焼けを眺めていても良かったが、久侘歌はもっと映姫と話したいと思った。自分のことを聞いて欲しいと思った。
「私……上手く言えないんですけど、ずっと不安だったんだと思います」
ぽつり、と久侘歌はそう口にした。
一度自分の感情を言語化すると、連鎖するように自分の感情を形容する言葉が紡がれた。
「始まりはただの一羽の野鶏だったのに、気がつけばこんなひどく遠いところまで来てしまった」
神様や妖怪は肉体より精神に重きを置く。
ゆえにアイデンティティといった自分を定義付けるものが重要になってくる。人間とは構造が異なるのだ。
遥かな西から長い変遷を遂げてきた庭渡神は、自分が何なのかというものが、常に揺らぎ続けてきたと言える。始まりと今の差があまりに大きすぎた。
「私も一緒ですよ」
「え?」
「私も昔はどこにでもある地蔵でした。それが今は是非曲直庁を取り仕切る閻魔です」
自嘲するように映姫は笑った。
久侘歌ははっとした。彼女もまた自分と同じなのだ。
もし閻魔を辞めたら、彼女は何になるのだろうか。今更地蔵に戻ることもできないだろう。彼女は真面目すぎるくらいに、閻魔をまっとうするしかないのだ。
「その、どうして私を……」
そんな目をかけてくれるのか。自分に近しいものを感じ取ったからなのか。
そう久侘歌は聞きたかったのだが、言葉が尻切れトンボになったせいで、映姫は何故ここに連れてきたのかという質問だと解釈した。
「貴女の故郷の夕焼けは美しいと聞きます。それには及ばないでしょうが、その、貴女が故郷を偲ぶ一助になればと思いまして……」
映姫はおずおすと久侘歌の顔色をうかがった。珍しいな、と久侘歌は思う。
四季映姫ヤマザナドゥという名を聞いて思い浮かべるのは、背筋の正しい、皆の範たりえる凛とした態度の閻魔様だからだ。こんな自信なさげな振る舞いをするのは初めて見たかもしれない。
いや、と久侘歌は思い直す。
彼女はさっき自分をただの地蔵だったのに、と言っていたではないか。彼女とてそんな出自の自分が人を裁く権利があるのかと思い悩むこともあるのだろう。
せめて態度だけは立場どおりに振る舞おうとしているのだ。自信なさげに裁かれて納得できる霊はいないだろう。普段の態度は、彼女なりの努力なのだ。
「素敵な場所だと思います。理由もなく目頭が熱くなるくらい……きっと故郷を無意識に思い出したんだと思います」
夕焼けが自分の故郷を思い起こさせるものだなんて知らなかった。
久侘歌が普通の鶏から外れてしまったきっかけは、ひょっとしたら鶏のくせに夕日に心打たれしまったからなのかもしれない。
「それは良かった。私のお気に入りの場所なんです」
横に並んで夕焼けを眺める映姫が呟いた。夕日に照らされた頬が赤い。
閻魔の仕事のない時は幻想郷を説教して回っているというのは久侘歌も知っていたが、多分それだけではなくて、幻想郷を歩き回って様々な風景を見ているのだろう。
「お気に入りの場所、というのは他にも?」
「ええ、さかしまの城が一番よく見える丘だとか、光る洞窟だとか」
素敵だな、と久侘歌は思う。彼女は幻想郷の魅力的な場所をたくさん知っているのだ。
ふと久侘歌の頭に一つの考えが浮かんだ。失礼かもしれないし、迷惑かもしれない。
しかし夕焼けが彼女を大胆にさせたのか、勇気を出してこう言った。
「良ければ今度、ご一緒しても……?」
久侘歌が遠慮がちにそう言うと、映姫の表情が、花が咲くようにぱっと明るくなった。彼女は嬉しそうに目を細めて「是非」と答えた。
それから少し後、閻魔が通り魔的に説教をしていくという話に、新しい情報が加わった。
何でも、閻魔に鳥の神様が付き添うようになり、説教の後にちょっと慰めてくれるとのことだった。
その鳥たちは深い黒と明るい茶色の羽毛を持ち、頭の天辺には真っ赤な冠を戴いている。体長は人間の膝に届かないくらいなのでそう大きくはないが、艶やかな羽毛のせいか妙に存在感がある。
やがてその中の一匹が、せわしなく地面をつつくのをやめて面を上げた。
木々の隙間を縫って赤い陽光が差し込む。森と一緒にその鳥も朱に染まる。陽が沈みかけているのだ。
地面をつつくのをやめた一匹は、まるで夕焼けを眺めているかのように、そのままじっと佇んでいた。
「ぜーーーったいこの子たちは渡しませんからね!!!」
妖怪の山の澄んだ空気に、甲高い声が響き渡る。赤く染まった紅葉が、声で揺るがされて舞い散った気さえする。
あまりの声の大きさに、山童ら山の妖怪は両耳を塞いだ。彼女たちは妖怪の山にあるちょっとした広場にいて、そこに建てられた小屋を遠巻きに囲んでいた。
山城たかねは深いため息をついた。周りの山童たちが不安そうに彼女の顔を覗き込んだ。
庭渡久侘歌が小屋に立て篭ってから、小一時間が経っていた。
「どうします?」
山童の中の一人が不安そうに、たかねにそう言った。
たかねは双眼鏡を使って、窓を通して小屋の中を覗いた。
中には鶏を数匹ずつ両脇に抱えた庭渡久侘歌がいた。その側では両脇からこぼれた鶏が一匹、首を揺らしながらあたりを歩いている。
「そうだなぁ……」
他の山童からの報告によれば、鶏は人里から強奪してきたものとのことだった。
集まった情報を繋ぎ合わせて、おおよその事情はわかってきた。
久侘歌が人里に出かけたとき、丁度鶏が〆られそうになっていたところに出くわした。彼女は思わずそれを止めに入ってしまった。しかし鶏の持ち主も急に現れた少女の言うことを聞く道理もない。口論のような状態になってしまい、最終的に久侘歌はその家の鶏を強奪してしまったのだ。
頭に血が上って勢いで鶏を攫ってしまい、引っ込みが付かなくなっているのだろう。普段の彼女の大人しい性格からして、こんな愚行はやらかさないはずだ。
しかし一方で、彼女は日頃から鶏が家畜として扱われていることに腹を立てているのは事実だ。こうなってしまうと彼女を納得させて鶏を解放するのは難しいだろう。
「報告です。人里からは鶏を返還するよう要求が来ています。その傍ら、鶏を奪還すべく、突入部隊を結成すべきかの議論がされているようです」
「いやそんな……たかが鶏じゃないか!」
山童たちが悲鳴をあげる。たかねもその言葉に同意したかった。
しかし彼女は事態はそう単純でもないことを理解していた。
この一件は白昼堂々、人里の中で行われたことに問題がある。人里の真昼間という明らかに人間の領分を侵してしまっているのだ。夜や人里の外で被害が出るのは仕方ないのだが、これを許してしまっては、人里に安全な場所が無くなってしまう。秩序の問題なのだ。
「河童の奴らからくすねてきました」
山童の一人が、たかねにラッパ状の機械を渡した。外の世界では拡声器と呼ばれるものだった。
「それとこちらも」
「何だいこれ?」
続いて渡されたのは、何やら文字が書き込んであるメモだった。
「立て籠った人物に向けて使う、外の世界の決まり文句だそうです。呪文のような効果があるかも知れません。以前早苗ちゃんに教わったので確かなものです」
たかねは内心「本当かよ」と思いつつも、その山童の好意を足蹴にするのも気が引けたので、そのメモを手に取った。
そして拡声器のスイッチを入れた。
『あー……お前は今完全に包囲されているー。速やかに鶏を解放し出てこーい。お前のそんな姿を見たら、田舎のお母さんが悲しむぞー』
「私に親なんていません!!」
返答は、叫び声と弾幕であった。
窓から放たれ、その後拡散した色とりどりの弾幕が、山童たちを襲った。
「うわわわっ!」
山童たちが慌てふためいてその場から離れる。たかねも少し驚いたが、その場から動かなかった。久侘歌はあくまで脅しで放っただけだとわかっていたからだ。
実際、弾は先ほどまで山童たちがいた足元の手前に着弾して土煙をあげるのみで、被弾したものは一人もいなかった。
「突入するか?」
物騒な台詞が聞こえた。
驚いて木の影に隠れた山童たちの間を割って、犬走椛が現れた。
その手には大鉈のような形状をした剣が握られている。後ろには数人、部下の白狼天狗が控えている。
「いやいや、それもなぁ」
たかねがやんわりとそれを制すると、他の山童たちが後に続く。
「久侘歌ちゃん、悪い子じゃないし」
「そうそう」
立て篭っているのが山の問題児であれば排除して人里に差し出してはいお仕舞い、で済む。
しかし久侘歌はそうではない。普段から物腰柔らかく接してくれる彼女を山童たちは悪く思っておらず、彼女に手荒な真似をするのは気が引けた。
更にたかねはもう一つ問題があると思っていた。
久侘歌は妖怪の山に住んではいるが、所属しているコミュニティは是非曲直庁だと言うことだった。
下手を打って大怪我させてしまえば、かなりの厄介ごとになる。久侘歌が悪いと主張しても、そうやすやすとは納得してくれないだろう。身内を傷つけたものに対しては厳しく接しないと、組織自体の構成員からの信用に関わる。
「しかし、早く対処しなければ人里との関係が悪化してしまう」
「そこが困ったところだよねぇ……」
久侘歌は錯乱半分、もう半分は意地になっているような様子である。時間をかけて説得すれば、いずれは落ち着いて納得してくれるだろう。元々物分かりが良くて素直な性格なのだから。
ただ人里との緊張をいたずらに高めるわけにもいかない。
椛としては久侘歌が落ち着くのを待つ理由はそこまでない。一方のたかねは、中有の道が彼女の商いのナワバリであることもあり、是非曲直庁との関係悪化を避けたいという思いが強い。
天秤は揺れていたが、彼女はそれがどこで傾くのかを見極める必要がある。
何で鶏ごときでこんな悩まなきゃいけないんだ。彼女が現れたのは、たかねがため息をつきかけたそんなときだった。
「ウチの部下が迷惑をかけているようね」
幼くも聞こえるが、それでいて凛とした、場の空気を引き締めるような声だった。
山童と白狼天狗が声のした方を振り返った。そしてどよめきが広がっていく。
「閻魔だ……!」
「辻説教する方の閻魔……」
現れた少女は青と黒をベースに金の意匠をしつらえた制服を着ており、緑色の髪の上には、大きな帽子を被っている。地獄の閻魔、四季映姫ヤマザナドゥだ。
その場にいた妖怪たちは、今にも遁走しそうな様子だった。童女のような見た目で忘れそうになるが、閻魔は恐怖の象徴である。加えて幻想郷を歩き回っている彼女に捕まると、説教されるともっぱらの噂だった。その被害を受けたくないと皆がジリジリと距離を取っていた。
「何だか随分と嫌われてますね、私」
「ははは……」
ちょっと悲しそうに苦笑する彼女に、乾いた笑い声でたかねが応えた。
「助かった」とたかねは内心胸を撫でおろした。彼女が手荒な手段を講じずに待ったのは、久侘歌が落ち着くのを待っていたからだが、ひょっとして地獄の関係者が現れるのではと期待していたのもあった。
「お前たち、戻っていいぞ」
「あとは私と椛が見届けるよ」
椛とたかねの指示を出すと、山の妖怪たちは待っていましたとばかりに、蜘蛛の子を散らすように解散した。その様子に二人は軽くため息をついた。
「任せて良いんですよね?」
「ええ、もちろん。部下の不始末は私がつけますよ」
映姫はいつも通りの凛とした態度で、真っ直ぐ久侘歌が立て篭もる小屋に向かった。
小屋の入り口の前に立ち、扉越しに映姫は久侘歌に声をかけた。
「久侘歌、随分と元気そうですね」
「え、映姫様!?」
久侘歌は動揺して素っ頓狂な声をあげた。まさか上司が現れるとは思ってもいなかったからだ。
「入っても良いですか?」
映姫が中に入ろうと扉に手をかけるが、ガタガタと揺れるだけで全く開かない。内から箒でつっかえ棒をしているからだ。
「……嫌です」
少しの逡巡の後、扉ごしに久侘歌はいじけたような声で答えた。
「そうですか。では鶏たちを下がらせてください」
久侘歌は彼女の言う意味がわからなかったが、咄嗟に指示通りに動いた。上司の命令には従うという習性が体に染み付いていたせいだろうか。
次の瞬間、扉が蹴破られた。
土煙の中から現れた映姫は、蹴りのポーズをしていた。残心と言って良い綺麗なフォームだった。
「ええっ!?」
半拍遅れて久侘歌が情けない叫び声を上げた。そして顔面蒼白となった。随分と手荒な入室だったので、閻魔が激怒していると思ったのだろう。
もっとも映姫の表情はいたって普段通りだった。
説得に壁越しでは話にならないと思い、時間もないので最短の手法を取っただけなのだろう。閻魔の名前を出せば少しは人里も落ち着くだろうが、あくまで一時凌ぎにすぎず、あまり待たせるわけにもいかない。
「失礼しますね」
映姫は小屋の片隅にあった埃を被った椅子引っ張り出して、スカートが汚れるのも気にせず腰掛けた。
「あっ、お召し物が……」
久侘歌は閻魔様をこんな汚い場所に来させてしまったと動揺していたが、自分の邪魔をする人物の服の汚れを気にするのもおかしいなと気づいたのか、咳払いをしてその場に居直った。
椅子に座る映姫を、小屋の外から差し込む日の光が後光のよう照らしている。その対面では久侘歌が鶏を両脇に抱え、部屋の光が差さないところの床に座り込んでいる。
「久侘歌。鶏を人里に返しなさい。あなたのやっていることは泥棒……どちらかと言えば強盗です」
「い、嫌です」
久侘歌は喉から否定の言葉を捻り出した。
鶏をぎゅっと抱きしめると、鶏はコッコッと鳴いた。
「何故嫌なの?」
「それは……同胞が人間の家畜になっているのを捨て置けないからです」
「同胞、ね」
映姫の少し含みのある言い方に、久侘歌は少しむっとした。何故閻魔の態度に苛立ちを覚えたのかは、この時点の彼女は気づいていなかった。
「冷たい言い方ですが、ここで数羽の鶏の命を救ったところで、鶏という種が人間の家禽であるという事実は変えようがありませんよ?」
それくらい久侘歌もわかっていた。彼女だって子供ではない。
目の前の命を救ったところで、世界にいる他の何億羽の鶏の末路は変わらない。
「で、でも出来ることからやっていかなくちゃ……何か行動しなければ、鶏は永遠に人間の家畜、永遠に虐げられたままです」
「そもそも鶏を人間から解放する必要なんてあるんですかね」
「えっ?」
それまで俯いたままぼそぼそと話していた久侘歌は顔をあげた。
「人間は鶏のために、彼らの糧を用意し、住処の手入れをしなければなりません。人間が鶏を支配しているというより、鶏が人間に奉仕させているように思えませんか?」
鶏は世界で最も数が多い鳥だ。その数は230億羽とも言われている。
見方によっては、鶏は人間という種族を利用することで、世界で最も勢力拡大に成功した鳥と呼べるかも知れなかった。
「そんなの……よくある詭弁じゃないですかっ」
「そうでしょうか。仮に人間から鶏を解放したら、鶏は大きく数を減らすのではないですか」
「それは……」
言い返したいことは山ほどあるはずなのに、上手く言葉が紡げない。久侘歌は元々あまり細かいことを考えるのは苦手だった上、今の彼女は平静とは言い難かった。
もし彼女が冷静であれば、「種の数はあくまで種としての繁栄の指標であって、個々の鶏の幸せには繋がらない」くらいは言い返したかもしれない。
「それでもっ、私は目の前の同胞を見捨てることなんて出来ません」
理論で対抗できないなら感情論だった。映姫に言い負けないためには、最早それくらいしかなかった。
「なるほど」
そう言って映姫は頷いた。急に自分の意見が否定されなくなったので、久侘歌は虚をつかれた思いだった。
「貴女の気持ちはよく分かりました。では私がそこの鶏を全部買い上げるとしましょう。こうなると人里側も面子があるから簡単にはいかないかも知れませんが、それなりの金額を積めばどうにかなるでしょう」
「えっ……いや、それは……」
彼女の意外すぎる申し出に、久侘歌は狼狽えた。ありがたい提案ではあったが、自分の上司にそこまでさせるのは気が引けた。
久侘歌とてこれが自分の我儘であることは分かっている。そんなものに映姫を付き合わせるのは申し訳なかった。
「……貴女は少し優しすぎますね」
動揺する久侘歌の様子を見て、映姫はため息をついた。
彼女が呆れている理由もわからず、久侘歌はどう返せば良いか分からなず、「うぅ」と曖昧にうめくような声を出した。
「もし本当に貴女が同胞を守りたいというなら、一も二もなく私の提案に乗るべきよ」
「それは……そうなんですが……」
「久侘歌」
「はいっ」
映姫が改めて名前を読んだことで、久侘歌は少し驚いて背筋を正した。
「少し厳しいことを言うようだけれど、貴女は鶏を救いたいんじゃなくて、鶏を見捨てることが……鶏を救うというスタンスを崩せないだけなのよ」
「……どういう意味ですか」
映姫の言葉の意図するところが、久侘歌にはわからなかった。それでも何か、あまり良い意味ではないことは彼女にもわかった。
「貴女は先程からしきりに同胞という言葉を使っているけれど、それは自分に言い聞かせているだけじゃないかしら」
そんなことはない。
久侘歌はそう言い返そうとしたが、喉で何かが引っかかって、言葉にはならなかった。
「確か大昔の貴女は、家畜化される前の一羽の鶏だったかしら……それだったかも知れない。でも貴女は鶏の神様であって鶏そのものじゃないし、鶏を庇護する神様でもない」
久侘歌はただ黙って映姫の話を聞いた。
「貴女を象っているのは、鶏たちに対する人間の親しみや愛情よ。貴女は庭渡神であってそれ以上でも以下でもない」
映姫の言う通りだった。
久侘歌は鶏の神様であって、鶏ではない。彼女の権能というかご利益は鶏を庇護することではなく、川を渡る際の安全祈願や、喉の治癒だ。
鶏とはかけ離れた存在になった彼女が、鶏を同胞と呼ぶのは少しズレがある。
「それはその通りですが……だからなんだって言うんです」
元々鶏だったのだから、鶏を同胞と呼んで何が悪い。
反論する久侘歌を、映姫は真っ直ぐに見つめて言った。
「自分が鶏を同胞として扱い続けるのは何故か、分かっていないようね」
久侘歌は心臓を掴まれたような気分になっていた。その先に来る言葉が恐ろしいのだ。
本当は彼女が何を言おうとしているのかが、ぼんやりとわかっていた。
映姫は久侘歌自身が目を背け続けている感情に、名前をつけて差し出した。
「寂しいのでしょう。そんな風に鶏を抱えて……まるでぬいぐるみを抱きしめる童のよう」
何か言い返そうと、口を開いた。
だが、口は鯉のようにパクパクと酸素を取り込むだけで、喉から呻くような掠れ声しか出てこなかった。
そして久侘歌は言葉を紡ぐことを諦めて、うなだれた。鶏をぎゅっと抱きしめる。
言葉にされてしまっては、もう気づかないふりをすることはできなかった。自分がやっていることは、孤独な夜をぬいぐるみを抱きしめて耐え忍ぶ幼い子供と、何も変わらない。
映姫は立ち上がり、久侘歌の前で土間に膝をついた。膝が汚れる。目線の高さを合わせたのだ。
「色々言ってしまいましたが、私は貴女が鶏を守ろうということ自体をやめろと言うつもりはありません。でも、やり方というものがあるでしょう。賢明な貴女には、とっくにわかっているはず」
「…………ごめんなさい」
耳を澄ましていなければ、聞き落としてしまいそうな、か細い声だった。
「私に謝る必要は一切ありませんよ……むしろ謝るべきは私でしょう。土足で貴女の心に立ち入って、晒すような真似をしてしまった」
彼女はそう言って頭を下げた。
謝らないで欲しかった。余計に自分が惨めな気分になってくる。久侘歌はそう思った。
「鶏を返して……それで謝ろうと思います」
映姫から促される前に結論を言ったのは、せめてもの意地だった。
「ええ、一緒に行きましょう。事情は人間たちもわかってくれるでしょう」
久侘歌は幽鬼のようにゆらりと立ち上がった。
映姫と手分けして鶏を抱えて、小屋の外に出た。
外ではたかねと椛が待っており、久侘歌は二人にも謝った。
その後、映姫と二人が何か話していたが、久侘歌の頭には会話の内容が、三人が異国語を話しているかのように全く頭に入ってこなかった。
『寂しいのでしょう』
映姫には言われたことが、頭蓋の中でぐるぐる渦巻く。
寂しかったのか、私は。
久侘歌自身薄々は感じていたことだが、はっきりと意識したことはなかった。
確かに寂しかったのかも知れない。でも多分、それだけではない。
人里に向かう道中、二人は一言も言葉を交わさなかった。
閻魔が出てきたとあっては、流石に人里の住民たちも拳を振り下ろす訳にはいかなかった。誰だってこんなことで閻魔に悪印象を抱かれ、地獄に落ちたくはなかった。
もっとも映姫は恨みがあっても公正に裁くだろうし、そもそもこの程度で気を悪くしたりはしない。
単に閻魔が現れただけでなく、鶏を強奪した張本人も地面にめり込む勢いで頭を下げるものだから、彼らの怒りはたち消えてしまった。結局鶏も全羽無事に帰ってきたので、損害があるわけでもない。
次はこんなことが起きたら相応の対応をしてもらう、という結論になったが、これは実質お咎め無しということだった。
「本当にご迷惑をおかけしました……」
映姫に妖怪の山まで送ってもらった久侘歌は、深々と頭を下げた。
いっそ消えてしまいたい。彼女はそう思った。
ただでさえ少ない映姫の休日を、自分のせいで浪費させてしまったのだ。
「私に出来ることなら何でもやらせていただきますので……」
「ふむ……何でもですか」
閻魔の値踏みをするような眼差しに、久侘歌は少したじろいだ。
もちろん言われれば何でもやろうと思うくらい申し訳ないと思っていたが、何を言われるのか全く予想がつかず、少しだけ恐怖を抱いた。
「では、少し付き合って欲しいのですが良いですか?」
付き合って欲しいとはどういう意味か。久侘歌が疑問に思うと、映姫が山の中を歩き始めたのでどうやらついて来いという意味らしかった。
彼女はほとんど獣道と言って良い荒れた道を、ズンズンと進んでいった。その歩みに迷いはなく、慣れた道を歩くかのようだった。
どういうことだろうかと久侘歌は疑問に思う。地獄の閻魔が妖怪の山の道に詳しいというのも、何だか妙な話だった。
加えてもう一つ疑問があった。
「飛ばないのですか?」
「たまには歩くのも良いでしょう」
そう言って振り向いた映姫の表情は柔らかい。
怒っているものだと思っていたので、久侘歌は少し胸を撫で下ろした。
こうなってくると久侘歌にも余裕が出てきたのか、沈黙が気になって何か話題を振った方が良いのかと悩み始める。しかし先程まで大きなやらかしをした身としては、お喋りしようとするのも軽薄というか、反省していない風に見えてしまうのが気になる。
久侘歌がそんな風に思い悩んでいると、映姫が歩き続けながら振り向かずに声をかけてきた。
「貴女は元々一羽の鶏、家畜化される前の野生の鶏だったのよね」
狼が人に飼い慣らされるうちに犬という種に進化したように、鶏にも狼にあたる、家畜化される前の姿があった。
「はい。赤色野鶏というそうです」
伝聞の形で答えたのは、久侘歌自身その確証がないからだ。鶏だった頃の自分が己の種の名前などわかるはずもなく、あとから得た知識で多分そうだったのだろうということがわかっただけだ。
「ということは、大陸の……中華の更に南の方に住んでいたのよね。話に聞くメコンという大河のあたりかしら」
「概ねそんなところだと思います。鶏だった頃の記憶なんてほとんど残ってませんが」
ただの一羽の鶏だった時の記憶は、うすらぼんやりと脳の片隅に残っているだけだ。
「そこから日本の神様になっていただなんて……随分色々あったのでしょうね」
久侘歌は己の出自に想いを馳せた。
ただの一羽の野鶏が長生きしてしまい、鶏の妖鳥のような、もしくは鶏の精霊と形容すべきものに変わったのだろう。それからあまりに長い、長い時間を生きているうちに、西から来たりて東へ移り、海を越えこの島国にたどり着いた。そして人々の鶏に対する親しみや信仰と混ざり合い、庭渡神と呼ばれる存在に成った。
西の方にいた頃の記憶はあまり定かではなかったが、自分の来歴は概ねそのようなものだろうと久侘歌は思っていた。
渡海に関わる側面があるのは、そういった来歴が影響してのことかもしれない。
「故郷に帰りたいと思ったことはありますか」
「……考えたこともなかったです」
故郷。
その単語を久侘歌は頭の中で反芻した。
言われてみれば確かにそうだ。ここから遥か西にある大河を抱えた密林こそが己の故郷なのだろう。
だが自分のことを覚えている人もおらず、自身の記憶にもほとんど残っていない場所に帰っても仕方ない。
もしどんな遠くまで行っても、いつでも戻って来れるような、自分の足場になるような場所があるのなら、なんて素敵なことだろう。
別に久侘歌が特別なわけではない。人間でも故郷に一生帰ることのない人なんて沢山いるはずだ。
だがその土地で生まれそのまま土着の神となったような存在と比べれば、久侘歌は随分と不安定だった。
是非曲直庁で働くのは真面目な自分の性分にあっていたが、クビになれば翌日からは全く縁のない場所だ。もし今回のような問題を引き起こし続ければ、是非曲直庁は久侘歌を解雇するだろう。
妖怪の山は自らの住処ではあったが、久侘歌は明確に部外者であった。当たり障りなくコミュニケーションを取れるが故に疎まれてはいないが、自身も山の住人も、互いに一線を引いている。
それらと縁が切れてしまった時、帰れば良い故郷があったのなら、それは素晴らしいことだと思う。
そこまで考えて、久侘歌は自分は拠り所が欲しかったのだと気づいた。だから鶏を同胞と扱いたかったのだ。
自分が滑稽に思えて、乾いた笑いがこぼれそうだった。
彼女が思考の沼に溺れている間も、映姫は無言で山を進んでいった。気がつけば道の傾斜も大分厳しくなっている。
「あの……いつまで……」
「もう少しです」
そう言われたので久侘歌は黙々と映姫についていった。普段誰も通っていないと思われる、歩きづらい荒れた道を進んでいく。
しかし歩みが止まる気配は一向にない。この「あと少し」はアテにならない方の「あと少し」だと久侘歌は気づいた。
流石に並の人間よりかは体力のある久侘歌だったが、いつが終わりなのかわからないという心理的な負担は、人でも神でもそう違いはなかった。
久侘歌と比べて映姫が疲れた様子がないのは、地震は終点がどこかをわかっているからかもしれない。
気がつけば随分と足が重い。一歩一歩を意識しなければ前に進むこともままならない。
汗がじんわりと額に浮かぶ。季節が秋だからよかったものの、夏だったら滝のような汗を流していただろう。
先程までは色んなことを思い悩んでいた久侘歌だったが、気づけば無心になって足を動かしていた。
「もう少しです」
先程と全く同じイントネーションだったので、久侘歌はその言葉を真剣には受け取らなかった。
しかし今回の「もう少し」は本当だったのか、そこから少し進むと、開けた場所に出た。
そこは切り立った岩場の崖であった。
「つ、疲れました」
久侘歌はそこにへたり込んだ。そしてそのままそこで手をついてうずくまると、汗がぽたりと地面に落ちた。
「それで……何で私をこんなところに……」
息も絶え絶えに久侘歌がそう問いかけると、彼女はこう言った。
「これを見せたかったんです」
「え?」
久侘歌が顔を上げると、そこからは赤くなった幻想郷を一望することができた。
夕焼けだ。
人里や紅魔館、魔法の森に博麗神社。その全てが赤色に染められていた。
この光景をもっと見たいと思ったのか、足がぼろぼろになっていたことも忘れ、久侘歌は自然と立ち上がっていた。
幻想郷から吹く風が、汗で湿った額を乾かしていく。夕日の眩しさに彼女は目を細めた。
映姫が体を夕日に向けたまま、久侘歌に語りかけた。
「風が心地よいですね」
「はい……」
久侘歌の心の中で、何かが溶けていく。
鼻の奥の方がつんとした。
理由はわからなかったが、久侘歌にはこの光景が、何故かとても懐かしいものに感じた。
周囲はとても静かで、風が木々を撫でるざあざあとした音だけに包み込まれる。
二人並んでぼうっと夕焼けを眺めた。仕事の間はあれほど時間が足りないと嘆いている久侘歌からすると、こんな贅沢な時間があって良いのかという気分になる。
このまま陽が沈み切るまで、黙って夕焼けを眺めていても良かったが、久侘歌はもっと映姫と話したいと思った。自分のことを聞いて欲しいと思った。
「私……上手く言えないんですけど、ずっと不安だったんだと思います」
ぽつり、と久侘歌はそう口にした。
一度自分の感情を言語化すると、連鎖するように自分の感情を形容する言葉が紡がれた。
「始まりはただの一羽の野鶏だったのに、気がつけばこんなひどく遠いところまで来てしまった」
神様や妖怪は肉体より精神に重きを置く。
ゆえにアイデンティティといった自分を定義付けるものが重要になってくる。人間とは構造が異なるのだ。
遥かな西から長い変遷を遂げてきた庭渡神は、自分が何なのかというものが、常に揺らぎ続けてきたと言える。始まりと今の差があまりに大きすぎた。
「私も一緒ですよ」
「え?」
「私も昔はどこにでもある地蔵でした。それが今は是非曲直庁を取り仕切る閻魔です」
自嘲するように映姫は笑った。
久侘歌ははっとした。彼女もまた自分と同じなのだ。
もし閻魔を辞めたら、彼女は何になるのだろうか。今更地蔵に戻ることもできないだろう。彼女は真面目すぎるくらいに、閻魔をまっとうするしかないのだ。
「その、どうして私を……」
そんな目をかけてくれるのか。自分に近しいものを感じ取ったからなのか。
そう久侘歌は聞きたかったのだが、言葉が尻切れトンボになったせいで、映姫は何故ここに連れてきたのかという質問だと解釈した。
「貴女の故郷の夕焼けは美しいと聞きます。それには及ばないでしょうが、その、貴女が故郷を偲ぶ一助になればと思いまして……」
映姫はおずおすと久侘歌の顔色をうかがった。珍しいな、と久侘歌は思う。
四季映姫ヤマザナドゥという名を聞いて思い浮かべるのは、背筋の正しい、皆の範たりえる凛とした態度の閻魔様だからだ。こんな自信なさげな振る舞いをするのは初めて見たかもしれない。
いや、と久侘歌は思い直す。
彼女はさっき自分をただの地蔵だったのに、と言っていたではないか。彼女とてそんな出自の自分が人を裁く権利があるのかと思い悩むこともあるのだろう。
せめて態度だけは立場どおりに振る舞おうとしているのだ。自信なさげに裁かれて納得できる霊はいないだろう。普段の態度は、彼女なりの努力なのだ。
「素敵な場所だと思います。理由もなく目頭が熱くなるくらい……きっと故郷を無意識に思い出したんだと思います」
夕焼けが自分の故郷を思い起こさせるものだなんて知らなかった。
久侘歌が普通の鶏から外れてしまったきっかけは、ひょっとしたら鶏のくせに夕日に心打たれしまったからなのかもしれない。
「それは良かった。私のお気に入りの場所なんです」
横に並んで夕焼けを眺める映姫が呟いた。夕日に照らされた頬が赤い。
閻魔の仕事のない時は幻想郷を説教して回っているというのは久侘歌も知っていたが、多分それだけではなくて、幻想郷を歩き回って様々な風景を見ているのだろう。
「お気に入りの場所、というのは他にも?」
「ええ、さかしまの城が一番よく見える丘だとか、光る洞窟だとか」
素敵だな、と久侘歌は思う。彼女は幻想郷の魅力的な場所をたくさん知っているのだ。
ふと久侘歌の頭に一つの考えが浮かんだ。失礼かもしれないし、迷惑かもしれない。
しかし夕焼けが彼女を大胆にさせたのか、勇気を出してこう言った。
「良ければ今度、ご一緒しても……?」
久侘歌が遠慮がちにそう言うと、映姫の表情が、花が咲くようにぱっと明るくなった。彼女は嬉しそうに目を細めて「是非」と答えた。
それから少し後、閻魔が通り魔的に説教をしていくという話に、新しい情報が加わった。
何でも、閻魔に鳥の神様が付き添うようになり、説教の後にちょっと慰めてくれるとのことだった。
お見事でした
蹴りの強いおちゃめな映姫様もいいですね
交渉だけで話を終わらせずに久侘歌の揺らいだ心に寄り添うように歩を進める展開に映姫、ひいては作者様の愛情がひしひしと感じられました。
次いで、板挟みに頭を痛める姿に悲哀を感じずにはいられないたかねでしたが、説明役として良いアシストをしてくれました。
映姫から貰えたであろう労いの言葉が報いになった事を祈るばかりです。
とても暖かくていいお話でした
厳しいだけじゃない映姫様が特によかったです
二度三度と読みたくなるような温かい物語でした
また映姫が久侘歌に夕焼けを見せて、故郷への郷愁を感じさせるところなんかは本当に好みのシーンで、いや、本当に好きな所でした。やっぱり物思いにふけさせるには夕焼け見せるのが1番なんですよね。あの場面は彼女たちに人間味が感じられて、しっかりと感情移入できる、そんなところがとても良かったです。