目標にしていた大学に受かった。そして、一人暮らしが確定した。
正直なところ、何をしていいのか判らない。今まで大学に受かる一心で遮二無二に勉強してきて、いざ受かったあとの事なんて考えていなかったから。
まず両親と家具を買いに行った。車の中でずっと「近くの大学にしたら、こんなことせんでよかったのに」なんて言うから、もう二度と実家になんて帰るもんかと思った。
“一人暮らしする方に!”なんてポップがしてある冷蔵庫、電子レンジ、布団、掃除機、新しい服、下着を買った。で、新居に配送する準備と、いくつかの契約を済ませた。確かに、こんなめんどくさいことをするくらいなら、大学を妥協して実家暮らしでもよかったかも、と思った。だけど、それは嫌だった。なんとなく情けない。
ぼんやりした不安を抱えて過ごし、そのうちに独り立ちする日になった。っていってもめちゃくちゃ遠くまで行くわけじゃなくて、特急一時間少々で行けるくらいの距離だ。案外そんなもんなんだなと、一人暮らしのイメージが等身大になっていった。
そして安アパートに引っ越して一週間経った。隣からの声に顔を赤らめていたころが懐かしく感じる。一人暮らしなんて、社会の暗い方がよりクリアーに見えるだけじゃないかと思い始めた。というか多分そうなんだろう。なんとなく持っていた一人暮らしへの憧れが、近くのごみステーションにあるような気がした。昨日出した生ごみの袋とかに。
今の荒んだ私を癒してくれているのは、アパート近くの自販機のいちごミルクだけだった。百二十円のそれは、白銅貨一枚と青銅貨二枚とは釣り合わないほどの圧倒的な甘さを持っていた。冗談でもなんでもなく、本当にそれだけが癒しだった。
街に行って、講義を午前で終わらせ、午後でバイトを終えると、ちょうど八時の電車に間に合う。いくら春といえど、この時間になると辺りは暗い。アパートまでの道には外灯が少ないから、気をつけて帰らないといけない。その中にあって、自販機の明かりは非常に心強かった。私は基本的に土日は休んでいるのに、自販機は文字通り毎日働いているのだ。仕事し始めた身として、まったくもって頭が下がるばかりだ。ポケットに入れておいた百二十円で、いつものようにいちごミルクを買う。
—毎度あり。
「え」
自販機から声がした。
幻聴が聴こえるほど疲れた、わけじゃない。そこまで頑張ったわけがない。これは多分、随分と久しぶりに、“そういうもの“に遭遇したということだろう。それとも超能力のなせる業か。
—聴こえてるかい?いちごミルクを買う度に話しかけてたんだが。
確かにこの自販機が話しかけてきているようだ。ていうか覚えられてた。お得意様だからそれもそうだろうけど。
「いつもお世話になってます」
—飲み過ぎると糖分過多になるから気をつけろよ。
「はぁ、程々にします」
それで、話しかけてきた理由は何なのだろうか。異様な展開には慣れているけど、自販機のような者(物)と話すのは初めてなのだ。付喪神と似たようなものなんだろうか?
「えーと、私は何を話せばいいのでしょう?」
—まず聞け。俺はな、この片田舎でずっと頑張ってきた。やって来る乾いた人たちを潤してきた。俺が此処にあることで、助かった人は少なからずいた。誇りを持って仕事をしている。
「恰好いいですね」
—だが、俺は街に行きたい。此処での仕事に誇りを持ってはいるが、街ではもっと多くの人が乾いているだろう。そんな人たちを潤したい。
「なるほど」
—そこでだ、俺を街に移動してほしい。
「それは無理」
—移動してくれたら、これからお前に限りいちごミルクを無料にするぞ。
「うーん」
魅力的な提案だけど、リスクがでかすぎはしないだろうか。誰にもバレないように、街までこっそり自販機を運ぶ。どう考えても不可能に近い。そもそも移動が成功しても、通電とか何やらはどうするつもりなのか。この自販機にそこまでの考えがあるようには思えないが。
「配電とかどうするの?」
—誰かが繋げてくれる。そこに自販機があったらな。
そうだろうか。電力会社の人も、そこまで親切じゃないと思う。
—どうなんだ。運んでくれるのか。
「ちょっと待って」
透明化が使えたらヌルゲーなのに、ちょうど私は使えない。テレポーテーションしても、それは一瞬で元の場所に戻ってしまう。空中浮遊だけで地道に頑張るしか道はないというのか。なんて不自由な能力だろう。若いころは無敵の能力に思えたのに。
そこまで考えて、私はナチュラルに自販機を運ぼうとしていることに気づいた。やるかやらないかなんて悩みさえしなかった。それもそうだろう、前にはもっと無茶をしたんだから。
久しぶりにわくわくしてきた。最近は現実と触れすぎて、もうずっと幻想郷に行ってない。私には、その時間に見合うだけのお土産話をこさえる義務がある。
コンセントを抜いたら、自販機は静かに消灯した。ただの金属の塊になった自販機は、夜の空にも紛れるだろう。
「駅の近くに置く予定。変更する可能性大。ドーゾ」
—多く人がいる所だったら何処でもいい。
「了解。離陸します」
ふわっと、懐かしい感覚が身体に纏わりつく。そうだ、空を飛ぶというのはこんな感じだった。一度部屋に帰ってつなぎを着てきたので、下からスカートのなかを覗かれる心配もない。見られて困るのは下着だけじゃないけど。
自販機を浮かせると、一瞬サーフィンみたいに乗って飛ぼうとか考えたけど、さすがにこの状況ではそこまで遊ぶわけにもいかなかった。普通に寄り添わせるようにして浮かせる。問題はこれからだ。人通りの少ない片田舎だからこそ、離陸の許可を下ろせた。しかし、今から人だらけの街に向かい、誰にも見られず、どこかに—私が毎日行けるところに置く。こんなことがあっさり進むわけがない。
ふぅ、と一息ついて、緩やかに街のほうに進む。誰にも見られないように、高度は高く—少なくとも窓からは見えないような高さまで上がる。でも、上がり過ぎると今度は下の様子が見えなくなるから、あくまで一定の高度を保つ。
線路をなぞるように飛んでいくと、次第に街が見えてくる。さっきまでと比べるとずっと明るいし、背の高い建物が多い。これは下手に飛んだほうがバレるなと、道路が太くなるあたりで地面に降りる。幸いというか、街の近くには道路一本を隔てて真っ暗な畑が広がっていた。
どう街に運び込むか、から考えることにした。近くにある軽トラをパクり、荷台に置いて運び入れる、という手段もあるけど、あまりにも人道に反している。そもそもまだ免許取ってない。これは最後の手段だろう。
どこかで荷車を手に入れて、普通に運ぶ。私の服装からしても自然な作戦だ。これの問題点は、私の力では荷車で自販機を運ぶのは不可能であることと、嫌でも多くの人の目につくこと、荷車を入手する必要があること。
運搬しているように見せかけて、実際には超能力で浮かせている—というのは出来る。それでも注目を浴びるのは避けられないだろうけど。というより、堂々と運ぶのはどんな方法にせよリスクが高い。やっぱりステルスしながら運ぶのが一番手っ取り早いだろう。
歩道に立つ。先に自販機だけあっちに飛ばして、私は何食わぬ顔で道路を渡る。ちょうど車がなくてよかった。とりあえず、向かうのはバイト先のある商店街だ。そこなら店に行く前に一回、帰りに一回いちごミルクが飲める。
自販機を飛ばして、ガソスタの側に置く。灯りがついていないから不自然ではあるけど、そこまで怪しまれることはない。それからガソスタの前を通って、また自販機と合流する。こうやって、自販機に先行させながら進む。そしたら私が変に思われることもないだろう。だけど問題は、
「人がいる…」
当然ながら、街に住んでる人は夜にも出歩くのだ。近郊の田舎とは違って。そんな中で自販機を飛ばせるわけもなく、いなくなるまで待つしかない。その間、自販機は路地裏で待機だ。若い男が二人で喋りながら歩いている。歩くスピードが遅すぎて尻に蹴りを入れたくなる。少し待って、他に人がいないのも確認して自販機を浮かせる。商店街まではそれなりに距離がある。ビジネス書曰く、焦りは失敗を招く。冷静に立ち回ろう。
そろそろ外灯が増え、見上げるような建物も増えてきた。このまま浮かせ続けると間違いなく見つかってしまうだろう。タイミングを見計らって下ろさないといけない。きょろきょろと、不審がられない程度に辺りを見る。目についたのは、スマホを覗き込んで歩く中年と、スケボーで遊び惚ける何人かの男だった。スマホに夢中な男はいい、注意するべきは公園の男たちだ、全く引き揚げそうな兆候がない。
他には特に注意するものはないし、男とすれ違ったあとに一度下ろしてしまおう。これからは景色に紛れさせながら運ぶ。何気なくすれ違おうとすると、中年は顔を上げて、片眉を動かした。なんだコイツはと思ったけど、そういえば今はつなぎを着ているんだった。普段着でこんなのを着る人間がいたら、まぁ珍しいだろう。それでも不快なものは不快なので、きもち早足ですれ違った。ちらと振り返ると目が合った。最悪だ。わざとでかく舌打ちした。
そそくさと逃げる男を見送って、静かに自販機を下ろす。再度辺りを確認すると、スケボーのガラガラという音がするだけだった。誰からも見られたりはしてないみたいだ。ひとまずその事に安堵した。
大きく息を吐いて、緊張感を取り戻す。
改めて辺りを見回すと、街を歩く人は思ってたよりいないことに気がついた。晩ごはんの時間だからか、そもそも人が少ないのか。きっとどっちもだろう。スニーキングミッションには非常に都合がいい。地面すれすれのあたりで自販機を浮かせて、遠くに人影が見えたらすぐに道端に置く。これを繰り返して、少しずつ進んでいこう。監視カメラがないかなんてのもチェックしながら。
できるだけ外灯が少ない道を選んで、陰に隠れるようにしてさっさと駆け抜ける。地面に尻をつけた酔っ払いたちは無視した。どうせ見つかっても何も言われないだろう。まばらに明るい道を抜けたら、あとは横断歩道を渡るだけで商店街につく。とはいえ横断歩道は照らされていて人もいるから、易々と渡れはしないだろう。
じっと横断歩道を観察し続け、やっと人の流れが薄くなった。自販機を伴って、渡—れなかった。後ろに置いておいた自販機を、男がのぞいていた。
ふざけるなと思った。灯りの点いてない自販機が動いてるはずがないだろう。サンダルとルーズフィットのジーンズがよく似合う、愚鈍そうな男だ。とっとといなくなって欲しいのに、なぜか動く気配がない。まさか待っていればそのうち電源が入ると思ってるのか。早くしないと、また人が来てしまう。
手段は選んでいられない。財布から十円を取り出して、男のまえを横切るようにして飛ばせる。いつか見ていた猫の動画みたいに、男はそれを目で追った。取ろうとして手を伸ばしてくると、それを避ける。そして逃げるようにしてスピードを上げる。半分賭けではあったけど、ちゃんと男は逃げる十円を追っていった。自販機からある程度離れたところで、超能力を切った。
音を立てて落ちた青銅貨を拾って、男は首を傾げる。その時にはもう自販機は横断歩道を渡りきって、景色に擬態していた。すこし焦ったりもしたけど、これでようやく商店街に着いた。そんなに長くない距離だったのに、ひどく疲れた。商店街は皮肉なくらいに明るく迎えてくれた。
基本的にはゴミ捨て場として使われてる路地に、こっそりと置いておく。これならバレないだろう—と思っていたのに、
—これじゃ誰も買いに来ないじゃないか。もっと目立つ処に置いてくれ。
などと自販機が言った。
反論しようとしたが、この自販機の目的は最初からそうだったし、下手なことを言うと無料じゃなくなるかもしれないので、おとなしく従うことにした。しかし、これは難しいことだった。工事もなくいきなり自販機が現れるというのは、やっぱり不自然だろう。ていうか、ちゃんと電源があるところに置かないとダメなんだった。
うーんと悩んだ。今の今まで、商店街に自販機は一つもなかったのだ。目につくところに置くと絶対に目立ってしまう。いつの間にか置かれていてもおかしくないところを探さなければ—と考えて、思いついた。角のタバコ屋だ。基本的に人がいないから、特に違和感はないだろう。
そう思って、ちらほらいる人を気にしながら運ぶ。さすがに商店街の幅の広い道だと見つかりそうになる。さっきまでよりも注意深く運ぶことを強いられた。苦労して商店街に着いたあとにこの仕打ちか、と思う。
それでも今までのノウハウを活かして、不自然に見えないように自販機を置いた。あとは電力会社の人が何とかしてくれるらしい。
「疲れた」
それしか感想が出てこない。ひたすら神経をすり減らし、やっとたどり着いた。喜びはあとから追いついてくるだろう。今は帰ることだけを考えよう。
自販機に電気が通ってから五日後に、バイト先から連絡が来た。しばらく暇を出された。
初めての職場だから、まぁこんなこともあるのかと思った。ちょうど疲れてたし、いい休暇になると思って嬉しかった。そのあとに解雇通知と、その理由が送られてきた。理由なんてわざわざ言わなくていい。私以上に業務成績のいい奴が多くいただけだ。
クビになったというのに、変に私は冷静だった。なまじ優秀な人種だから、働ける場所なんてすぐに見つかると思ってたんだろう。実際すぐに見つかったけど。
問題は、新しい職場は例の自販機と真逆の場所にあるということだった。職場に行く前に一服—ということが出来なくなったのだ。これは如何ともしがたいことだった。
仕方なく、毎朝百二十円を払っていちごミルクを買って飲む。甘さは何処の自販機で買っても変わらなかった。謳われているいちごの甘酸っぱさはどこへやら、ただ鬱陶しいくらい甘かった。
毎日買っていると、さすがにクジだって当たる。7が三つ揃って、しょうもないファンファーレが流れた。当然、おかわりのいちごミルクを押した—けど、落ちてきたのは缶コーヒーだった。ブラックの。
コーヒーはまったく飲まないし、同僚にでもあげようかと思った。ただ、缶コーヒーをあげてやってもいいと思える同僚は、今のところいなかった。あいつ等にやるくらいなら自分で飲んだ方がマシだと、プルタブを起こした。
「あれ?」
なんと、私の身体は苦いだけの液体を難なく受け入れてしまった。あれほど飲めなかったコーヒーが、何時しか飲めるようになっていたのだ。大して美味しいとは思わなかったけど。そして、毎日のいちごミルクのなかに、コーヒーが混じっていった。
職場に入って、空になった缶をゴミ箱に捨てる。今日から新人が入ってくるというので、気合入れにコーヒーを飲んだ。先輩として、というか超人として舐められるわけにはいかない。そんな妙な意気込みがあった。
集合挨拶のまえに新人の自己紹介があった。あの、ルーズフィットのジーンズにサンダルの男だった。コイツもここに雇用されたのだ。しかも自己紹介の時に、
—浮いてる十円を拾ったんですよ。それがコイツで、使わないで持ってるんです。
と、十円をかざしてそう言った。周りの人からは下手なジョークと思われたようで、失笑が響いた。なんとなく、今ここであの十円を浮かせたらどうなるだろうなと思った。しなかったけど。
そんなことよりも、今日の昼休みにあの自販機まで行こうと考えた。
—おう、久しぶりだな。
「久しぶり。職場が変わっちゃったからね」
—まずはいちごミルクか?
「ううん、今は缶コーヒーの気分」
—へぇ、随分と変わったな。今まで一回も買わなかっただろ?
「そうなんだけど。色々あって、飲むようになった」
—そうか。それより、そうだ、ちょっと話したいんだ。
「何?もしかして誰も買ってくれないとか?」
—違う。あそこに居た時よりも客は増えたんだ。ただ、無理なんだよ。
「無理って何が」
—俺には潤せない。喉なんか乾いてないんだよ、コイツらは。
「へぇ、そう。そう?」
—そこでだ。俺を前にいたところに戻して欲しいんだが—
自販機を運ぶシーンの迫りくる危機の数々が素晴らしかったです
なんなんだこのリアリティはと思いました
自販機もいいキャラしていました
菫子ちゃんが自動販売機とのやり取りを通じて、少し変わった菫子ちゃんと変わらずにくすぶる自動販売機の対比が印象的でした。
何故か自販機を街に運ぶという謎な事を経て大学受験を終えた菫子の成長度合いを見るのがとても良かったです。
そしてオチに笑いました。人間臭すぎだろこの自販機、なんてめんどくさいやつだ。
とても面白かったです。