マフラーの隙間から吐く息は濃厚に白く、けれど風の向かう側へ振り返る頃には跡形もなく透明な世界に拭い去られていた。
まるで魂みたいだなと思った。白く淡く、私から剥がれ落ちて霧散する質量なき残滓。
百数名ののクラスメイト――彼らはもれなく馬鹿なので、残滓などという言葉を知っているのはきっと私だけだ。
皆そんな難しい言葉とは無縁の日々を過ごし、過ごしていく。それで損をすることはおそらくないだろう。もちろん同じような確率で私が得をすることもない。
朝焼けに照らされていたビルが翳る。
不意に訪れた闇に信号機の青が燦然と輝き、車のクラクションと急ブレーキの音が同時多発的に鳴り響く。
吊り下げられたように下を向いて歩いていた人々は一律に首を上げ、先ほどまで蒼かった空を覆う大いなる怪異を見る。
世界は混沌としていて突拍子もなく誰も想像だにしない不条理が仕組まれているらしい。
今唐突に舞い降りた恐怖の大王は灰色の腕の一振りで地を割き天を砕く全能の力を持っていて、あまねく人類の脳に不可解な、それでいて明瞭な意味持つノイズを走らせる。
曰く「今から残滓のことを知らない奴だけを皆殺しにします」。
…………。
テレビで芸能人がやっていた奇怪な歩き方を真似て廊下を歩いてくる奴。
先生からの問い掛けに敢えて奇妙な声色で返す奴。
複数人から少しずつせびった飲み物を紙パックに混ぜて不快な液体を作る奴。
挙げればキリがないけれど、今思えばそんな連中の方がずっとまともなのだ。
彼らの愚かさは常に笑顔の中にあり、素っ頓狂な恐怖の大王は私の頭の中にだけいた。全能であるはずのそれは誰一人も擂り潰すことはなく、私はまた"残滓"を吐く。
知っていた。
ずっと、分かっていたんだ。
煙草の焦げ臭さを振り撒きながら信号待ちをしているサラリーマン。その手が摘む紙巻きの灯を焦点に、私はパーカーのポケットの中で指を向ける。
意識を集中した指先がじわりと熱り、その中に息衝く自分の脈動をはっきりと感じる。指紋に沿って漂う力線が意志に従って収束し、凝固し、ひとつの銃弾を描き出す。
燃えて縮れて灰になっていく脆い先端。彼の隣でキャリーケースを転がす女性が咳払いをした。それを合図に私の指先が放った念力の弾丸は空間を僅かに歪め、有害な火先を巻き取るようにして捩じ切る。
…………。
背中でクラスメイトの話す声が聞こえた。駅で待ち合わせしていたメンバーが揃ったのだろう。
私は彼女らが苦手だったし、彼女らも同じだと思う。私たちの間に目立った対立はないが、互いに残酷なまでに相手のことを見下していた。
私は歩調を早める。互いに息を詰まらせないために、私は彼女たちよりも少しだけ早く歩く必要があった。
サラリーマンが吐いた煙が嘲笑うように頬を掠め、思わず咳き込むと同時に信号が切り替わる。それは奇跡と呼ぶにはありふれていた。
きっと私には魔法の適性がある。
けれどそんな都合のいいものはそもそもこの世には存在しなくて、行き場のない確証は私を常にぐらつかせている。
陸橋を上ると向かうべき学校が見える。白亜の壁は朝日を浴びて希望色に輝いていた。
先行する同級生の後姿に、私は歩く速度を少し落とす。背後から来る彼女らに追い越される心配はない。私たちは以心伝心、いつだって互いに交じり合うことのないように仲良く歩幅を譲りあっている。
学校の側には巨大な送電塔が聳えていた。頑強な鉄骨で編まれたそれは三年間絶え間なく浴びせ続けた私の邪な念に屈することなく今日もまっすぐ立っている。
私は学校と鉄塔、ふたつの建造物の間でずっと揺れてきた。
遥かな鉄骨から見上げる空の色を想像しながら、今日も明日も狭く暗い校舎へと吸い込まれていく。地上四階の屋上から見える景色はいつだって曇って見えた。
結局、私が学校から反ってその塔を目指すことは一度もなかった。鉄柵で囲われた鉄塔の、その高さへ登るための魔法がないことを心のどこかで知っていたからだ。
来る日も来る日も、教室の薄い窓ひとつ割れない架空の念力で鉄の骸骨がこの場所に落ちることを祈り続けた。
くだらない冗談が、耳を劈く笑い声が、読み解けない数式が、腐りながら過ぎていく日々が――全部、混沌と不条理の下敷きになって砕け散りますように。そう願いながら。
†
珍しく今日は用事があった。
私にも借りたものを返すくらいの常識はある。立て付けの悪い扉が床を削って開いた。
奇妙な色を秘めた水晶球、真鍮製のウィジャボード、魔術的言語で記されたタロット……。部室には私の祈りの触媒が数多横たわっている。
かつて廃倉庫だったこの場所は、今も埃と石灰の匂いがこびりついていた。秘封倶楽部、ただひとりの部活動。
よくもまあこんな申請が通ったものだと思うが、最近になってようやくそれが大人たちの憐れみなのだと気付いた。
家にも教室にも居場所がないということを、でかでかと顔に書いている女子高生の惨めな姿が多少の条理を捻じ曲げるに足りたのだろう。優しさとは時に鑢のような肌触りをしている。
私は人魚のミイラを鷲掴み、空っぽの眼窩と見つめ合う。奇怪な干物は結局何も叶えてはくれなかった。
かつて胸躍らせた神秘の肉は滑した革を縫い合わせたがらんどうで、漆のチープな手触りに自嘲が漏れる。そこそこの値段がしたような記憶があるが、今やゴミ袋に落とす手を躊躇うことはなかった。
そうして私はこの部屋に持ち込んだ摩訶不思議なアイテムたちを次々と処分していく。
とある部族の秘術で使う不気味な人形、アナログなダウジング装置、UFOを呼び寄せる瓶詰めの石。全てが黒いビニールの底へ淡々と沈んでいく。
三回見ると死ぬという絵画の真白い顔が、有象無象にまみれて憎らしげに私を見つめていた。
一つや二つは惜しいものもあるだろうと期待していたが、存外にそんなことはなかった。見れば呪われるというビデオテープの黒い臓物を引きずり出しながら、大して面白くもなかったその内容を懐かしむ。
私はここで何をしていたのだろう。
校庭で跳ねるサッカーボールの音が廊下を伝って届く。リノリウム製の空洞はその音を虚しくも遠く響かせた。
毎日毎日ボールを蹴る彼らを、プロになるわけでもないのにと心のどこかで馬鹿にしていた。何も為せなかった者同士、彼らも私と同じ気持ちになるのだろうか。
粗方の物をゴミ袋に詰め終わった。悲しいほどに感慨はなく、持ち帰るもののためにと用意しておいた紙袋は折り畳まれたまま机の上で萎びている。
机の引き出しを引くと黒い円筒が転がり出た。
鏡合わせのように、永遠に間延びした日々が続くと思っていた私への最後通牒。筒には金色の刻印で卒業証書とある。
吸い付くような蓋を開いたときの音が嫌いだった。教室に渦巻く笑い声と喧騒に混ざって鳴り響く間の抜けた蓋の音。何度も何度も繰り返されるそれに、心が擦り切れる思いをした。
全てが浚われた部屋で卒業証書を持って佇んでいる自分はとても滑稽な姿をしているのだろう。それを手にしていると、ようやく感慨のようなものが心から滲み出てくるのを感じた。それは粘つく泥に似ていて、私の膿んだ傷口によく沁みる。
自分の進路になんて興味がなかった。どうせみんなあの鉄塔の下敷きになって砕け散るのに、何を真面目に数式を解いているのだろうと半ば本気で思っていた。
そして今、望みどおり私は進むべき道を見失った。
この期に及んでようやくこの学校に庇護られていたのだと知る。
何処にも行けず、希望も絶望もない。漠然と思い描いていた高尚な何某かに、私はなれたのだろうか。
せめて中身を検めようと、証書の蓋に手をかける。強く絞まった蓋を引き抜くのには驚くくらいの力を要した。けれど鰐革に似た素材は滑り止めを兼ねていて、非力な私の手でもじわじわと白い内筒を露わにしていく。
ぽん。
…………。
私はなにをやっているのだろう。
クラスメイトたちの真似事を、こうして一人惨めに再現している。
彼らを羨ましいと思うなら、どうしてあの時苦々しい思いで一人教室を出たのだろう。
どうしてあんなに無愛想な態度で、どうして誰とも目を合わせず、どうして行事に出席せず、どうして眠くもないのに寝たふりをして、どうして……。
私はあんな馬鹿な連中とは違う。他人には及ばない世界と法則を認識していて、超常の中で自由に泳ぐことができる唯一の存在なんだ。
だからお願い。どうか鋼鉄の手で私の涙を止めて、全ては正しかったのだと証明してほしい。
私を嘲笑うように、チャイムががらんどうの中に鳴り響いた。窓の外を染める夕暮れを血の色と重ねるにはやや無理がある。下校の時間を告げる鐘はあと何度私を打ち鳴らすだろうか。
早々に鍵を返さなくてはならない。私は袖で目元を拭い、ゴミでいっぱいになった袋を引きずった。微分積分の解き方は遂ぞ知らないままだが、体育館裏の回収場に置かれたゴミが用務員を介さずに回収車へ直行することは知っていた。
最後に部室を振り返るも感慨はなく、初めてその場所を開けた時に感じた粉っぽい悪臭だけが今も鮮やかだ。
扉を閉めようとした瞬間、部屋の床に人魚のミイラが落ちていることに気付く。夕陽を背に浴びて歪な光沢と重い陰を描くそれはまるで意志をもって私に語りかけるようで。
私は思わず微笑んだ。全身の力が抜けるような感覚がして、心の中から意志が流れ出していくのを感じた。それはとても不思議な浮遊感で、けれども私はどこかでそれが陳腐で恐ろしいものだと知っていた。
嫌な予感のまま手にしたゴミ袋を持ち上げると、これまで蓄えてきた有象無象のガラクタたちが轟然と音を立てて足元に広がった。
冷たい床に衝突した水晶が砕け、鋭利な破片が可笑しいほどに拡散する。気味の悪い文様のカードがあちこちに散らばり、引きちぎられたビデオテープが笑い声を上げて躍り出た。
漆固めの鋭い尻尾でビニール袋の薄い拘束を裂いた人魚は沈黙したまま、めちゃくちゃになった廊下で呆然と佇む私と見つめ合っている。
惨めさに足が震えはじめる。ずっと恐れてきた絶望の波。甘くやわらかな夢が、現実に打ち据えられて拉げる音。
ここには居場所がなく、けれど何処に行くこともできない。取り囲うように散乱した品々は私が逃げることを許さず、間延びした廊下への反響が人々を呼び集めてこの惨めな姿を晒し上げるだろう。
教師、後輩、同級生……私を打ちのめすその心の声が、既に鼓膜を緩やかに震わせていた。
私は今一度、縋るようにしてあの鉄塔に呼びかける。
仰いだ天は虚しいほどに低く、聳え立つ鋼が私のためにしてくれることなど――何一つ無いと知っていた。
まるで魂みたいだなと思った。白く淡く、私から剥がれ落ちて霧散する質量なき残滓。
百数名ののクラスメイト――彼らはもれなく馬鹿なので、残滓などという言葉を知っているのはきっと私だけだ。
皆そんな難しい言葉とは無縁の日々を過ごし、過ごしていく。それで損をすることはおそらくないだろう。もちろん同じような確率で私が得をすることもない。
朝焼けに照らされていたビルが翳る。
不意に訪れた闇に信号機の青が燦然と輝き、車のクラクションと急ブレーキの音が同時多発的に鳴り響く。
吊り下げられたように下を向いて歩いていた人々は一律に首を上げ、先ほどまで蒼かった空を覆う大いなる怪異を見る。
世界は混沌としていて突拍子もなく誰も想像だにしない不条理が仕組まれているらしい。
今唐突に舞い降りた恐怖の大王は灰色の腕の一振りで地を割き天を砕く全能の力を持っていて、あまねく人類の脳に不可解な、それでいて明瞭な意味持つノイズを走らせる。
曰く「今から残滓のことを知らない奴だけを皆殺しにします」。
…………。
テレビで芸能人がやっていた奇怪な歩き方を真似て廊下を歩いてくる奴。
先生からの問い掛けに敢えて奇妙な声色で返す奴。
複数人から少しずつせびった飲み物を紙パックに混ぜて不快な液体を作る奴。
挙げればキリがないけれど、今思えばそんな連中の方がずっとまともなのだ。
彼らの愚かさは常に笑顔の中にあり、素っ頓狂な恐怖の大王は私の頭の中にだけいた。全能であるはずのそれは誰一人も擂り潰すことはなく、私はまた"残滓"を吐く。
知っていた。
ずっと、分かっていたんだ。
煙草の焦げ臭さを振り撒きながら信号待ちをしているサラリーマン。その手が摘む紙巻きの灯を焦点に、私はパーカーのポケットの中で指を向ける。
意識を集中した指先がじわりと熱り、その中に息衝く自分の脈動をはっきりと感じる。指紋に沿って漂う力線が意志に従って収束し、凝固し、ひとつの銃弾を描き出す。
燃えて縮れて灰になっていく脆い先端。彼の隣でキャリーケースを転がす女性が咳払いをした。それを合図に私の指先が放った念力の弾丸は空間を僅かに歪め、有害な火先を巻き取るようにして捩じ切る。
…………。
背中でクラスメイトの話す声が聞こえた。駅で待ち合わせしていたメンバーが揃ったのだろう。
私は彼女らが苦手だったし、彼女らも同じだと思う。私たちの間に目立った対立はないが、互いに残酷なまでに相手のことを見下していた。
私は歩調を早める。互いに息を詰まらせないために、私は彼女たちよりも少しだけ早く歩く必要があった。
サラリーマンが吐いた煙が嘲笑うように頬を掠め、思わず咳き込むと同時に信号が切り替わる。それは奇跡と呼ぶにはありふれていた。
きっと私には魔法の適性がある。
けれどそんな都合のいいものはそもそもこの世には存在しなくて、行き場のない確証は私を常にぐらつかせている。
陸橋を上ると向かうべき学校が見える。白亜の壁は朝日を浴びて希望色に輝いていた。
先行する同級生の後姿に、私は歩く速度を少し落とす。背後から来る彼女らに追い越される心配はない。私たちは以心伝心、いつだって互いに交じり合うことのないように仲良く歩幅を譲りあっている。
学校の側には巨大な送電塔が聳えていた。頑強な鉄骨で編まれたそれは三年間絶え間なく浴びせ続けた私の邪な念に屈することなく今日もまっすぐ立っている。
私は学校と鉄塔、ふたつの建造物の間でずっと揺れてきた。
遥かな鉄骨から見上げる空の色を想像しながら、今日も明日も狭く暗い校舎へと吸い込まれていく。地上四階の屋上から見える景色はいつだって曇って見えた。
結局、私が学校から反ってその塔を目指すことは一度もなかった。鉄柵で囲われた鉄塔の、その高さへ登るための魔法がないことを心のどこかで知っていたからだ。
来る日も来る日も、教室の薄い窓ひとつ割れない架空の念力で鉄の骸骨がこの場所に落ちることを祈り続けた。
くだらない冗談が、耳を劈く笑い声が、読み解けない数式が、腐りながら過ぎていく日々が――全部、混沌と不条理の下敷きになって砕け散りますように。そう願いながら。
†
珍しく今日は用事があった。
私にも借りたものを返すくらいの常識はある。立て付けの悪い扉が床を削って開いた。
奇妙な色を秘めた水晶球、真鍮製のウィジャボード、魔術的言語で記されたタロット……。部室には私の祈りの触媒が数多横たわっている。
かつて廃倉庫だったこの場所は、今も埃と石灰の匂いがこびりついていた。秘封倶楽部、ただひとりの部活動。
よくもまあこんな申請が通ったものだと思うが、最近になってようやくそれが大人たちの憐れみなのだと気付いた。
家にも教室にも居場所がないということを、でかでかと顔に書いている女子高生の惨めな姿が多少の条理を捻じ曲げるに足りたのだろう。優しさとは時に鑢のような肌触りをしている。
私は人魚のミイラを鷲掴み、空っぽの眼窩と見つめ合う。奇怪な干物は結局何も叶えてはくれなかった。
かつて胸躍らせた神秘の肉は滑した革を縫い合わせたがらんどうで、漆のチープな手触りに自嘲が漏れる。そこそこの値段がしたような記憶があるが、今やゴミ袋に落とす手を躊躇うことはなかった。
そうして私はこの部屋に持ち込んだ摩訶不思議なアイテムたちを次々と処分していく。
とある部族の秘術で使う不気味な人形、アナログなダウジング装置、UFOを呼び寄せる瓶詰めの石。全てが黒いビニールの底へ淡々と沈んでいく。
三回見ると死ぬという絵画の真白い顔が、有象無象にまみれて憎らしげに私を見つめていた。
一つや二つは惜しいものもあるだろうと期待していたが、存外にそんなことはなかった。見れば呪われるというビデオテープの黒い臓物を引きずり出しながら、大して面白くもなかったその内容を懐かしむ。
私はここで何をしていたのだろう。
校庭で跳ねるサッカーボールの音が廊下を伝って届く。リノリウム製の空洞はその音を虚しくも遠く響かせた。
毎日毎日ボールを蹴る彼らを、プロになるわけでもないのにと心のどこかで馬鹿にしていた。何も為せなかった者同士、彼らも私と同じ気持ちになるのだろうか。
粗方の物をゴミ袋に詰め終わった。悲しいほどに感慨はなく、持ち帰るもののためにと用意しておいた紙袋は折り畳まれたまま机の上で萎びている。
机の引き出しを引くと黒い円筒が転がり出た。
鏡合わせのように、永遠に間延びした日々が続くと思っていた私への最後通牒。筒には金色の刻印で卒業証書とある。
吸い付くような蓋を開いたときの音が嫌いだった。教室に渦巻く笑い声と喧騒に混ざって鳴り響く間の抜けた蓋の音。何度も何度も繰り返されるそれに、心が擦り切れる思いをした。
全てが浚われた部屋で卒業証書を持って佇んでいる自分はとても滑稽な姿をしているのだろう。それを手にしていると、ようやく感慨のようなものが心から滲み出てくるのを感じた。それは粘つく泥に似ていて、私の膿んだ傷口によく沁みる。
自分の進路になんて興味がなかった。どうせみんなあの鉄塔の下敷きになって砕け散るのに、何を真面目に数式を解いているのだろうと半ば本気で思っていた。
そして今、望みどおり私は進むべき道を見失った。
この期に及んでようやくこの学校に庇護られていたのだと知る。
何処にも行けず、希望も絶望もない。漠然と思い描いていた高尚な何某かに、私はなれたのだろうか。
せめて中身を検めようと、証書の蓋に手をかける。強く絞まった蓋を引き抜くのには驚くくらいの力を要した。けれど鰐革に似た素材は滑り止めを兼ねていて、非力な私の手でもじわじわと白い内筒を露わにしていく。
ぽん。
…………。
私はなにをやっているのだろう。
クラスメイトたちの真似事を、こうして一人惨めに再現している。
彼らを羨ましいと思うなら、どうしてあの時苦々しい思いで一人教室を出たのだろう。
どうしてあんなに無愛想な態度で、どうして誰とも目を合わせず、どうして行事に出席せず、どうして眠くもないのに寝たふりをして、どうして……。
私はあんな馬鹿な連中とは違う。他人には及ばない世界と法則を認識していて、超常の中で自由に泳ぐことができる唯一の存在なんだ。
だからお願い。どうか鋼鉄の手で私の涙を止めて、全ては正しかったのだと証明してほしい。
私を嘲笑うように、チャイムががらんどうの中に鳴り響いた。窓の外を染める夕暮れを血の色と重ねるにはやや無理がある。下校の時間を告げる鐘はあと何度私を打ち鳴らすだろうか。
早々に鍵を返さなくてはならない。私は袖で目元を拭い、ゴミでいっぱいになった袋を引きずった。微分積分の解き方は遂ぞ知らないままだが、体育館裏の回収場に置かれたゴミが用務員を介さずに回収車へ直行することは知っていた。
最後に部室を振り返るも感慨はなく、初めてその場所を開けた時に感じた粉っぽい悪臭だけが今も鮮やかだ。
扉を閉めようとした瞬間、部屋の床に人魚のミイラが落ちていることに気付く。夕陽を背に浴びて歪な光沢と重い陰を描くそれはまるで意志をもって私に語りかけるようで。
私は思わず微笑んだ。全身の力が抜けるような感覚がして、心の中から意志が流れ出していくのを感じた。それはとても不思議な浮遊感で、けれども私はどこかでそれが陳腐で恐ろしいものだと知っていた。
嫌な予感のまま手にしたゴミ袋を持ち上げると、これまで蓄えてきた有象無象のガラクタたちが轟然と音を立てて足元に広がった。
冷たい床に衝突した水晶が砕け、鋭利な破片が可笑しいほどに拡散する。気味の悪い文様のカードがあちこちに散らばり、引きちぎられたビデオテープが笑い声を上げて躍り出た。
漆固めの鋭い尻尾でビニール袋の薄い拘束を裂いた人魚は沈黙したまま、めちゃくちゃになった廊下で呆然と佇む私と見つめ合っている。
惨めさに足が震えはじめる。ずっと恐れてきた絶望の波。甘くやわらかな夢が、現実に打ち据えられて拉げる音。
ここには居場所がなく、けれど何処に行くこともできない。取り囲うように散乱した品々は私が逃げることを許さず、間延びした廊下への反響が人々を呼び集めてこの惨めな姿を晒し上げるだろう。
教師、後輩、同級生……私を打ちのめすその心の声が、既に鼓膜を緩やかに震わせていた。
私は今一度、縋るようにしてあの鉄塔に呼びかける。
仰いだ天は虚しいほどに低く、聳え立つ鋼が私のためにしてくれることなど――何一つ無いと知っていた。
卒業の季節にうつむく董子がよかったです