湖の底からでは、きっと僕の顔は良く見えないことだろう。だから僕は安心して、君のために作ったささやかな陶器の犬の人形を、今日も湖に沈めるのだ。
『水底のラフィア』より
Depuis le fond du lac, vous ne pouvez sans doute pas très bien distinguer mes traits. Ce qui me rassure pour – aujourd'hui encore – envoyer couler à travers la profondeur de l'eau un de ces petits chiens en céramique que j'ai façonnés pour vous.
— Extrait de « Raffia au fond de l'eau »
香霖堂は珍しく賑わいを見せていた。普段の店主が本のページをめくる音しかしない店内とは大違いだ。
大きなテーブルを囲んで、四人の少女が姦しくはしゃいでいる。もっとも、その中に客として香霖堂を訪れた者は一人もいなかった。
店主の霖之助はというと、店の奥の方で安楽椅子に揺られながら、我関せずといった様子でいつも通り読書に興じていた。
「姫、やめた方が良いんじゃないかな。ここは私に任せて今回は降りたら?」
今泉影狼はそう言って笑う。その表情は単に揶揄っているようにも、焦りを隠しているようにも見える。
彼女たちが囲むテーブルの上にはカードが置かれていた。
「いや……でもここで抜ければ勝ちだし……」
艶やかな翠色の髪をした少女が、一枚のカードを弄りながら悩んでいる。テーブルの下からは魚の下半身が覗く。人魚のわかさぎ姫だ。
「そうそう、ここは冷静に引くべきだぜ」
「うーん。私が同じ立場ならやめておくけどなぁ」
宇佐見菫子と霧雨魔理沙も、影狼と同じようにわかさぎ姫に勝負から降りることを勧める。
わかさぎ姫は自分が今まで伏せたカード、他のプレイヤーの今までの行動から場に伏せられた札の中身を推理する。そして意を決して宣言した。
「うん、ここは勝負よ!」
「おー姫ちゃんかっこいー」
コールを告げたわかさぎ姫を、菫子たちが雑に囃立てる。
「じゃあ私は降りるかな。流石にねー」
そう言って影狼は手札のカードをテーブルに裏向きに捨てた。
「じゃあ行くわよ」
わかさぎ姫が山札の一番上の札をめくると、カードにはゴブリンのイラストが描かれていた。
「雑魚だな。まずはダメージ無しだ」
続いて山札のカードをめくっていくと、一枚目と同様に吸血鬼やオーク等のモンスターが描かれている。
一枚めくるごとに、四人が思い思いの声を上げる。その声はだんだんと大きくなっていく。
「これは完走行ったか?」
「いやー、まだ一番の大物が見えてないし……」
気がつけば山札は一枚だけになっていた。
その札の内容次第で、わかさぎ姫の勝利が決まる。
「ふーっ……」
全員が固唾を飲んで見守る。わかさぎ姫は深呼吸し、そして最後の札を一気にめくった。
表になった最後のカードには、ドラゴンが描かれていた。
「あーもう! 最後の一枚で……」
わかさぎ姫はそのままテーブルの上に突っ伏し、他の三人が歓声を上げる。
「惜しいなー、一対一の最後の最後で……」
「意外と演技上手かったな」
「いやぁ、実際姫に降りられたら終わりだからヒヤヒヤしたわよ」
「うぅ〜……まんまと騙されたわ」
四人はゲームの内容について騒がしく振り返る。その中で、菫子がぽつりと漏らした。
「そういや今回の罰ゲーム何にしたんだっけ」
「もう、今忘れる流れだったじゃない」
そう言ってわかさぎ姫が唇を尖らせる。このゲームで今日の成績の最下位がわかさぎ姫に決まったのだった。
「香霖堂の商品一点お買い上げだぜ。おい香霖、こいつに何か見繕ってくれよ」
魔理沙にそう声をかけられ、気怠そうに霖之助は本から少女たちに目線を移した。そして溜息をついた。
「まったく、何でウチの商品を買うのが罰ゲームなんだ……」
不満そうにぼやきながら彼は安楽椅子から立ち上がった。それから店内のガラクタを漁る。
初めは最下位になったら商品を選んで買うという罰ゲームだったが、香霖堂は買いたくなる良い商品限って非売品(店主のコレクション)だったので、今の店主が見繕う方式に落ち着いた。
「そうだ、これを引き取ってもらおうか」
そう言って霖之助が手に取ったのは、一冊の古びた小さな本だった。
赤いチェック柄の可愛らしい布の装丁だったが、紙は黄ばみ小口もよれよれで随分と昔のものに見える。
「店主さん、これは何かしら」
わかさぎ姫が彼の持つ本を覗き込む。店主はパラパラとページをめくる。中の文字は外国語であり、印刷されたものではなく肉筆だった。
「これは日記だ。文字は英語でもないようなのでちっとも読めないが……頻繁に日付が出てくるし、何より僕の能力がそう言っている」
日付は1900年代前半くらいで、見た目どおり大分昔に書かれたもののようだった。
「何でこんなものが店にあったんだ?」
「無縁塚で商品を仕入れたときに、リアカーに紛れ込んでいたんだ」
魔理沙の問いに、霖之助は肩をすくめて答えた。
「商品価値は無いし、かと言って日記という個人の情念が篭っているものは捨て辛くてね。引き取ってもらえて助かるよ」
「えー、困ったなぁ……」
わかさぎ姫はパラパラとページをめくったが、謎の外国語が書かれているだけだ。
様子を見かねた魔理沙がこう提案した。
「パチュリーに引き取ってもらったらどうだ? アイツは本なら何でも喜ぶだろ」
「なるほど……じゃあ見せてみようかな」
処分に困るものを誰かに押し付けるのは気がひけるが、相手が喜んでくれるなら話は別だろう。わかさぎ姫はそう考え、パチュリーの元を訪れることを決めた。
「それじゃあ、お代として198円払ってもらおうかな」
そう言って手を差し出した霖之助に、魔理沙が抗議する。
「えっ、金取るのかよ! ゴミを押し付けただけじゃんか」
「これでも商売人なんでね」
絶対言いたいだけだその台詞、と魔理沙は非難がましくぼやいた。
わかさぎ姫としては元々お金を払う気だったので、特に気を悪くすることもなく、懐からカエルの意匠のがま口財布を取り出してお代を支払った。
「店の品って大体中途半端な値段よねぇ。200円とかの方がキリが良いのに」
影狼がふと疑問を口にすると、菫子がそれを説明する。
「それは買い手に少しでも安く感じさせるためらしいよ。ホラ、1000円だと4桁だけど、998円ならたった2円減らすだけで3桁になるし」
「なるほどなぁ。でもそれなら何で1円引くだけでも良くない?何で最後が8円なんだろう」
影狼がそう言うと、霖之助は眼鏡をくいっと動かした。そして彼は先ほどまでの静かな様子とは打って変わって、流暢に語り始めた。
「それは恐らく8という数字の性質に起因しているんじゃないかな。8という数字は末広がりを意味し、縁起が良いんだ。現に日本以外では商品の値段の末尾は9円であることが多いと本で読んだことがある。ちなみに8という数字は例えば八雲、八十八夜、八方除けなど……」
魔理沙はやれやれと肩をすくめた。普段は物静かな青年に見える霖之助だが、蘊蓄と考察を語らせると別人のように饒舌になる。彼の語る様からして、もう小一時間は止まらないだろう。
菫子がわかさぎ姫の肩をポンと叩いた。そして小さい声で囁いた。
「長くなるだろうから、さっさと紅魔館へ行っちゃったら? 黙って出てけば気づかれないよ」
わかさぎ姫は苦笑した。
人の話の途中で退席するのは失礼にも思ったが、確かにあそこまで夢中で話しているなら気づかないだろう。わかさぎ姫は、日記を持って香霖堂を後にした。
パチュリー・ノーレッジは大きなテーブルに向かい、いつもと同じように本を読んでいた。彼女が本を読まない日はないと言って良い。
彼女の周りを幽火がゆらゆらと浮遊する。それを除けばほとんど明かりがないため、図書館は全体的に薄暗い。
パチュリーの魔法図書館は通常の図書館と異なり、来客を想定していない。本の閲覧よりも本の保存に重きを置いている以上、照明は本を痛める原因であるし、わざわざ明るくする必要もなかった。
図書館は巨大な円柱状であり、暗さと高さゆえ天井を見ることができない。
「小悪魔。通してあげて」
「はい」
パチュリーは本から顔を上げずにそう短く告げた。来訪者が図書館の扉の前まで来たことを、彼女は魔力で感じたのだ。
指示を受けた小悪魔は図書館の入り口の方へ向かう。
しばらくすると、小悪魔はメイドと人魚を連れてもどって来た。
「パチュリー様、お客人です」
わかさぎ姫は車椅子に乗っていて、それを十六夜咲夜が押している。
彼女の車椅子は特注品で、本人の魔力によって走行を補助することが可能であり、本来はわざわざ他人に押してもらう必要が無いような代物だ。
咲夜は妙なこだわりが強いから、自分が車椅子を押すと言って聞かなかったのだろう。パチュリーはそう思った。
「私はこれで」
咲夜はお腹の前で両手を重ねて軽く会釈した。パチュリーが瞬きをすると、彼女は忽然と消えていた。時を止めてその場から去ったのだ。
「……また来たのね」
わかさぎ姫は最近読書にのめり込んでおり、よくこの図書館を訪れていた。人里にも貸本屋があるのだが、生憎彼女の住処は水の中だ。彼女が本を借りようと思うと、パチュリーの魔法による防水のプロテクトが必須であった。
「パチュリー様、折角来てくれたのにそんな言い方じゃ誤解されてしまいますよ」
主人の小さな声とは対照的に、ハリのある声で小悪魔が指を立てて指摘する。わかさぎ姫は「わかってきたので大丈夫です」と微笑んだ。
こほん、とパチュリーはわざとらしく咳払いし、その場を仕切り直した。
「今日も本を借りにきた……というわけではなさそうね」
車椅子に座ったわかさぎ姫が抱えた古びた赤い日記を認めて、パチュリーはそう言った。
「香霖堂でこれを押しつけられちゃって……捨てるのもちょっと抵抗があって困っているの」
「なるほど」
パチュリーがパチンと指を鳴らすと、わかさぎ姫の腕から日記が空中へ飛び出し、パチュリーの手へ収まった。
一言見せてほしいと言えば良いところを、魔法で横着するのは彼女の悪い癖だった。日常の動作を横着して魔法を使うものだから、ただでさえ酷い運動不足に磨きがかかっている。
「あ、中は英語に見えるけど英語じゃないみたい」
「ふぅん」
パチュリーはパラパラの日記のページをめくり、適当なページを開いた。そして彼女はおもむろにその内容を読み上げ始めた。
「1940年9月8日。風が吹くと9月だってことが信じられないくらい寒い。大分早いけれどコートを出すべきかもしれないわ。そんなことより、今日は素敵なことがあった。あの人が、今執筆中だっていう小説の一部分を特別に教えてくれた。確かこんな風だった」
湖の底からでは、きっと僕の顔は良く見えないことだろう。だから僕は安心して、君のために作ったささやかな木彫りの彫刻を、今日も湖に沈めるのだ。
「……妙に印象に残る文章だったからよく覚えている。完成が楽しみだわ」
パチュリーが日記の一部を読み上げると、わかさぎ姫は顔をぱっと明るくしてはしゃいだ。
「す、すごい! 貴女この文字が読めるの?」
「ただのフランス語よ。滞在していたこともあるし、大したことではないわ。レミィだって読めるだろうし」
無表情にそう語るパチュリー だが、声が少しだけ弾んだ、どこか少し得意げな調子になってしまう。
「はーフランス語かぁ……料理が美味しいんだっけ」
「……大体そんなところね」
もう少し詳しくフランスについて説明しようとも思ったが、余計なお世話かもしれない。そう思いパチュリーは喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。
「で、これはウチで引き取っても良いのね?」
「うん。要らないのなら良いんだけど……希少本とかじゃなくて、ただの日記だし」
とんでもないわ、とパチュリー。
「日記っていうのは貴重な資料なのよ。当時の社会や風俗が当人の視点で描かれている。権力による歪曲を免れていることも少なくない。勿論主観で書かれたものだから、全てを鵜呑みにするわけにいかないけれどね」
わかさぎ姫は「そんなの考えたことなかったなぁ」と感心した。
それから二人は、わかさぎ姫が最近借りた本について語り合った。
時折、わかさぎ姫の視線が日記へ向けられる。その視線の意味をパチュリーが知ることになるのは、それからすぐのことだった。
何故彼は陶器の犬の人形を湖に沈めるのだろうか。湖の底にいる誰かへの捧げ物のつもりなのだろうか。
そもそも湖の底にいるのは一体何者なのだろうか。水中にいるということは普通の人間ではないだろう。泉の精霊だとか、ひょっとすると自分のような人魚かもしれない。
泉に住む精霊に捧げ物の陶器の人形を沈める。これは何だかしっくりくる仮説だ。今日も、という表現からすると一度や二度ではなくある程度の頻度で行っているみたいだから、フランス特有のお百度参りのようなものかもしれない。
だが、それだけでは湖底からでは顔が見られないから安心だ、という部分の意味がわからない。顔を見られてはいけない理由があるのだろうか。そうすると話の印象がいっぺんに不穏なものへ変わってくる。
わかさぎ姫の脳内では様々な推測が浮かんでは消えていった。
「姫、溶けてるよ?」
「あっ……ごめんごめん」
真向かいに座っている影狼の声で、わかさぎ姫の意識が脳の奥底から浮上した。
影狼の言うとおり、テーブルの上に置かれた氷菓子が溶けてしまっていた。わかさぎ姫は随分深く考え込んでいたようだった。
パチュリーが日記を読み上げて以来ずっと、彼女はその内容が気になっていた。湖という場所が自身に縁深いというのもあるかもしれないが、それにしても小説がどんな内容なのか気になって仕方がなかった。
二人は人里にある外の世界の菓子が食べられると評判の店でお茶をしていた。
わかさぎ姫は車椅子に座り、地面につくほど裾が長い着物を着て下半身を隠している。影狼はフードを被って耳を隠している。人里にこっそり出かけるときのお決まりのスタイルだった。
もっとも、それで完全に妖怪であることを隠せるわけではなく、耳や鱗がちらっと見えてしまうこともある。ただ里の人間もそれを指摘したり、騒いだりするようなことはしない。気づかないフリをするのが双方のためであり、ある種のマナーのようなものと化していた。
「どうしたの、悩み事?」
「悩んでるわけじゃないんだけど……例の日記の内容が気になってね」
わかさぎ姫は、パチュリーが日記を読んだこと、日記に小説の一節が載っていたこと、その内容が気になっていることを話した。
「なるほど、その小説の全貌が気になると……何だかすっかり読書好きねぇ」
わかさぎ姫が読書にのめり込むようになったのは最近の話だった。元から好きではあったのだが、住処が水中というのもあって、貸本屋で立ち読みで粘るか、影狼の家に置いて貰うくらいしか本を読む方法がなかった。
パチュリーの魔法のおかげで家でも本が読めるようになり、そのような枷がなくなってからは、彼女の読書時間は劇的に増えた。
「影狼ちゃんは案外あんまり本読まないよね」
「うーん完全に読まないわけじゃないんだけどね。油断してると爪でページを傷つけちゃうし……そもそもじっと何かをするのってそんな得意じゃないのよね」
そう言って影狼は珈琲に口をつけてから、少しため息をついた。
「それはとにかくさ、その小説を読みたかったら、やっぱりあの日記の中身を読むしかないんじゃない? 魔女さんに言って、中を教えてもらいなよ」
「でも誰かの日記を勝手に読むのもどうかなって……」
わかさぎ姫はうーん、と唸る。
「姫が何もしなくても、どのみち魔女さんは日記を読むつもりなんでしょう?」
「それはまあ、そうなんだけど……」
「かなり昔の人の日記なんだしさ、そんなこと言い出したら、平安時代の日記なんかは文学として広く読まれてるじゃない」
「うーん何か違う気が……」
「まあ私だったら全く縁もゆかりもない知らない人に読まれる分には良いかな。身近な人に読まれるのは嫌だけど」
「そんなもんかな」
古典文学を引き合いに出されてもピンと来なかったわかさぎ姫だったが、影狼の個人的な意見は比較的だが腑に落ちた。
ただ、彼女の懸念はそれだけでは無かった。
「でも日記を引き取ってもらって、後からその中身を教えて欲しいだなんて厚かましくないかな」
「あの魔女さん、そんなこと気にしないよ。本が好きな人には特に優しい感じだし。やりたいことは我慢しちゃダメだよ。特に姫は普段から遠慮しがちなところがあるし」
「うん……とりあえず、パチュリーと話してみようかな」
わかさぎ姫が頷くと、影狼は「それが良いわ」と微笑んだ。
影狼が追加で頼んだケーキを平らげる間、またしてもわかさぎ姫の意識は件の小説に沈む。
ひょっとして湖底にいるのは死体なんじゃないだろうか。殺めた相手に顔を見られなくて安心する、というなら何となく理解できる。陶器の犬の人形を湖に沈めるのに、どんな意味があるのかの説明ができないのを除けば、中々に良い線だろう。
いや、こんな考えもある。醜い顔の男が、水底の人魚に恋をしたのではないだろうか。愛する人に自分の醜い顔を見られずに済むから、安心して、こっそり彼女へ愛を捧げられるという意味かもしれない。
やはりあの小説の中身が知りたい。わかさぎ姫は紅魔館を再び訪れようと心に決めた。
「へえ、そんなにあの小説が気になるの」
パチュリーは紅茶の入ったティーカップをカチャリと置いた。再度図書館を訪れたわかさぎ姫に向きなおり、彼女はふっと微笑んだ。
「気持ちはわかるわ。たまたま街で見かけた表紙が後々になって気になり始めて必死で探したり、ワンシーンしか覚えてないような随分昔に読んだ小説が無性に読みたくなって、でもタイトルすらわからなかったり」
そうぶつくさ呟きながら、パチュリーはうんうんと頷いた。パチュリーには彼女の気持ちが痛いほどわかった。
「まだあの日記には目を通していなかったのだけれど、何かヒントがあったら貴女に教えるわ」
「えっと……」
パチュリーの提案に対し、わかさぎ姫は何か言いたいことがある様子だ。パチュリーは何となく彼女の言わんとすることが予想できたが、黙って彼女が話すのを待った。
「その……ええっと……自分で日記を読み解きたいんだけど……」
「貴女、フランス語なんて読めないでしょう?」
「そうなんだけど……何て言うか、自分の力でその小説にたどりつきたいって思うの」
自分の思っていることが話す内に明確な輪郭を得たのか、最初は宙を漂っていた彼女の視線は、最後にははっきりとパチュリーを向いていた。
パチュリーは少し目を見開いた後、珍しく声に出して笑った。
「そ、そんな馬鹿にしなくても良いじゃない」
顔を赤らめるわかさぎ姫に、パチュリーは穏やかな声で言った。
「ごめんなさいね。いつの間にか、りっぱな読書狂になってたんだなって思って」
「狂って程でも無いと思うけど……そうかな」
「そうよ。話の続きが気になったからと言って、全く読めない言語を読み解こうだなんて、普通は思わないわ」
「やっぱり無茶よね……忘れてください」
冷静になるにつれ、わかさぎ姫は自分がとんでもないことを言っているという自覚が追いついてきた。そうしてため息混じりに自分の言葉を引っ込めようとしたが、パチュリーがそれに待ったをかけた。
「いえ。貴女がそうしたいと思ったのなら、私はそれに協力するわ。童話でも、魔女は人魚に魔法をかけて手を貸してやる役割と相場が決まっているもの」
小悪魔、とパチュリーは自らの使い魔の名を読んだ。
それは茶屋で店の人を呼んでも気付かれないくらいの声量だったが、小悪魔はそれを聞きつけて本棚の間から現れた。
「どうしました?」
「例の辞書を。フランス語ね」
小悪魔はアイマムと気の抜けた返事をすると、ぱたぱたと本棚の間に消え、そして暗い緑色の装丁の本を持って戻ってきた。パチュリーが頷くと、小悪魔はそれをわかさぎ姫に渡した。わかさぎ姫は戸惑いながら礼を言う。
彼女はパラパラと渡された緑色の本のページをめくった。そこには日本語とフランス語が入り混じった文章が並んでいる。
「辞書?」
「そう、それも魔法の辞書ね。大それたものじゃないんだけど。そうね……じゃあ星はフランス語で何と呼ぶか調べてもらえるかしら」
わかったわ、とわかさぎ姫は辞書に向かう。
適当にページをめくると、そこはたまたま星についての記載があるページだった。
「エトワール……へぇ、星ってフランス語でエトワールって言うのね。どこかで聞いたことある響きね。でも……これが魔法の辞書?」
わかさぎ姫は何か秘密があるのではないかと考えているのだろう。辞書を開いたまま裏表紙を見たり、指で撫でて紙の感触を試したりする。
魔法の辞書とはいうが、辞書が光ったり喋ったりするわけでもなく、見た目は完全に普通の辞書だった。
「言ったでしょう、大それたものではないと。この辞書は目的の単語に辿り着きやすかったり、文中で使われている意味の訳が目につきやすかったりするだけの辞書よ」
うーん、とわかさぎ姫は唸る。半信半疑という様子だった。
「ええっと……じゃあ今度は砂漠という単語を引いてみるわね」
彼女が辞書をパラパラと捲り、適当なページで止める。するとそのページには、砂漠(フランス語でデゼール)という単語が載っていた。
「本当だわ!」
辞書から顔を上げたわかさぎ姫が興奮して目を輝かせている。それが何だかおかしくて、パチュリーはふふっと笑った。
「この館にレミィが連れてくる奴らは何かと多国籍でね、今後必要になるかもと思って大昔に暇つぶしに作った一種の魔導書なのだけれど……特に使われることもなく埃を被っていたのよ」
虫干し出来て丁度良いわ。彼女はそう付け加え、指を鳴らした。
すると指からキラキラと青い光が放たれる。光は机の上に置かれた赤い日記とわかさぎ姫が持っている緑色の辞書に向かって走る。そして光はその二冊の本に宿った。日記と辞書に防水のプロテクトをかけたのだ。
更にパチュリーが手を振ると、机の上に乗っていた日記がふわり浮かび上がり、わかさぎ姫の目の前で静止する。彼女は浮かんでいる辞書を手に取り、日記と重ねて膝の上に置いた。
「それで貴女の寝床でも翻訳作業ができるでしょう。さ、今日はもう遅いから帰りなさい」
「ありがとう、魔女さん!」
「どういたしまして、人魚姫」
わかさぎ姫の少し気取った言い方に、パチュリーは薄らと微笑んで応えた。
もっとも、わかさぎ姫が住んでいるのは紅魔館からすぐそこの湖なのだから、帰りが遅くなったところで危険はない。彼女に帰るよう言ったのは、吸血鬼姉妹に絡まれないように配慮したからだ。このくらいの時間になるとあの姉妹は活発に動き始めるのだ。勿論二人は客人に噛み付いたりはしないが、二人揃って好奇心旺盛かつ人をからかうのが好きなので、わかさぎ姫が絡まれて困るのは想像に難くない。
わかさぎ姫は何度も頭を下げ、日記と辞書を抱えて車椅子で図書館から出て行った。
側に控えていた小悪魔がパチュリーに近寄る。
「大丈夫ですか?単語がわかったところで、彼女は文法も何も全く知らないですよね」
「単語とその用法さえわかればどうにかなるものよ。それに日記ならかなり砕けた表現が使われてるだろうし、下手に文法が頭に入っていると邪魔かもしれないわ」
なるほどと小悪魔が頷く。
翻訳で障害となるのは、単語は複数意味を持っているのが普通で、それがどういった意味合いで使われているかは文脈から判断するしかない点だ。しかしあの辞書はその判断をサポートしてくれる。
「にしても彼女、すごいですよね。フランス語のフの字も知らないだろうに、自分で読んでみようだなんて」
「そうね……」
パチュリーはぼんやりと先ほどまで彼女がいたところを眺めていた。その様子が気になって、小悪魔が声をかける。
「どうかしました?」
「いや……」
何でもない。
そう言おうとしたが、小悪魔の目を見て誤魔化すのはやめた。彼女はそんな言葉信じないだろうし、過剰に心配して余計なことをされる恐れもある。パチュリーは正直に白状することにした。
「小悪魔、貴女にとって本って何かしら」
パチュリーの問いかけに、小悪魔は胸を張ってこう答えた。
「一言で言えば、パチュリー様との絆ですね!」
「……そう」
「……あんまり冷たいといじけちゃいますよ」
小悪魔は不満げに唇をとがらせる。
「真面目な質問をしたというのに、冗談で返されてはね」
「半分くらいは本気ですよ」
ため息をついた主人に対し、小悪魔は不満げに腕を組んだ。
「まあ本は好きですよ。人の魂をコスい契約で奪い取っていたときよりも、本を読んだり、本についてパチュリー様と話す方が楽しいです」
「……そう」
その相槌は先ほどと違い、どこか柔らかい響きがあった。
「でもどうしてそんなことを聞いたんです?」
「少し彼女が眩しいと思っただけよ。あれほどの本に対する情熱が、今の私にあるだろうか……本とは私にとって何だろうか……そう思っただけ」
パチュリーは少し憂鬱そうな顔で、先程の自分の発言を思い返していた。
日記を貰ってから一晩経っているのに、まだ読んでいないと言った。手に入れた本を何もせずに放置しておくなんて、昔の自分ならあり得ないことだ。
「いやいや、姫さんはハマりたてだから勢いがあるっていう部分もありますよ。パチュリー様の本への情熱が劣るなんてことありませんよ」
小悪魔は自信満々にそう言い切った。
もやもやとした気分が完全に消えたわけではなかったが、彼女の言葉でパチュリーの胸は少しだけ軽くなった。
「……素直に励まされておくとするわ」
そう言ってパチュリーは、冷え切った紅茶を飲み干した。
1939年10月27日
私はいつもどおり、散歩して家のすぐ近くの、ノーヌの川岸のベンチに座っていた。
朝で寝ぼけてたせいかしらね。そのベンチに先客が座っていたことに気づかなかった。他のベンチは誰も座ってなくて空いているだろうに、同じベンチに見知らぬ他人が並んで腰掛けてしまった。
何だか落ち着く感じの、優しい声だったと思う。その人は、いつも貴女がこのベンチを使っているのは知っているのに、お邪魔してしまいましたって私に謝って席を立とうとするの。私は何だか悪いなと思って、つい引き止めてしまった。
全くの赤の他人の二人で横並びで座っていて何だか妙な状況だった。何か喋らなきゃな、と思ったんだけど、全然話題が思いつかなくて。
そしたらその人は何もせず川の音に耳を傾けていると、心が休まるような気がするんです、って言うの。私は普段から全く同じことを思ってて、凄い勢いでわかりますって興奮して言ってしまった。
多分、彼に変な女だと思われたわ。でも同じことを考えている人がいるとは思わなくって。もう一度話せたら良いなって思う。
日記の女性が何だか面白くて、わかさぎ姫の口元からあぶくが漏れ出す。
湖底で水に揺られながら、彼女は日記と辞書を開いていた。水面から差し込む光が彼女の顔を優しく照らす。
わかさぎ姫は、日記の著者である女性のことを随分と気に入っていた。
文章の端からどうにも未亡人であるように見受けられるから、それなりの年齢のはずだが、子供のときの感性を失っていないような人で、どことなく性格が自分に近い。昔の人だから不可能だが、もし生きていれば友達になりたい。そうわかさぎ姫は思った。
1939年11月7日
いつものベンチで今日は戦争の話をした。
気がつけばあの宣戦布告から早2ヶ月が経とうとしていた。でもいまだに戦争になっているという実感が湧かなかった。先の戦争と違って、親しい人が戦場に行ったりということがないからかもしれない。
サンテックスさんは、確かに身近にそういう話がないのであれば、あとは新聞やラジオくらいしか戦争を実感させるものはないかもしれないと言っていた。確かに私は新聞は読まないし、ラジオもたまに聞くくらいなので世情に疎い。危機感が欠けているのかもと私が自分にため息をつくと、サンテックスさんは悪いことじゃないと言った。本当にそうかしら。
帰ってきたら、サーラは洗濯物を干しながら、あの男はひょっとすると奥様の遺産目当てかもしれない、と忠告してきた。
正直、私にはそうは思えなかった。確かに私の相続した屋敷と事業目当てで声をかけてくる人は沢山いた。でもその人たちとはどこか雰囲気が違う気がする。昔から人を見る目はある方だと自分では思っているけど、やはり危機感に欠けているのだろうか。
サーラというのは屋敷に住み込みで働いている女中のことだった。かつては何人も使用人がいたようだが、日記の彼女の夫が死んでからは、女中はサーラ一人になったようだ。わかさぎ姫はそう読み取っていた。
例の小説の断片が出るまでは読み飛ばしていけば良いと思っていたのだが、存外に日記の内容が面白くてわかさぎ姫は夢中になって翻訳していた。
全く異なる種族の、全く異なる時代背景に生きる女性の心情が事細かに記されている。霖之助から外の世界の話を聞くことはあったが、知識ではなく体験が綴られていることが、この上なく面白かった。
わかさぎ姫は次々とページをめくる。
1939年11月25日
何となくあの人とはお互い身の上話をしないのが、お互いの暗黙のルールみたいになっていた。天気の話だとか、その辺に咲いた花についてだとか下らないことを話すだけで十分楽しいから、そこまで話が進まなかったと言うべきか。
でも今日、ついに気になってお仕事は何をしてるのかって聞いてしまった。
彼はペンで身を立てていると答えたわ。小説家ってことかしら。
何だかすごく納得がいったわ。だって彼、普通の人より良く物事を見てるというか、ただ川や道を眺めただけで、色んなことを考えてるみたいだし。
勢い余って名前も聞いてみた。お互いの名前を知らない関係ってそれはそれで素敵なのだけれど、これだけ頻繁に会ってたら不便さの方が大きいから。でもその関係も捨て難いから、間をとってフルネームじゃなくてニックネームだけ教えてって言ったの。そしたらあの人、変なご婦人だまったく、って笑ってたわ。
サンテックスと呼ばれてると言ってたわ。そうそう聞かないニックネームだ。
でも珍しいニックネームで良かったかかもしれない。ジムだったらジェイムス、アンディだったらアンドリューっていう風に、ありきたりなニックネームじゃ本名も何となく検討ついちゃうもの。
でも彼がその名前はあまり周りに言わないで欲しいと言ったのは何故かしら。何となく、慌ててるというか、恥ずかしがっているような声の調子だった気がするけど。
サンテックス。
この男の人が、あの湖の小説を書いた人物なのだろうか。そう思うと、わかさぎ姫はわくわくしてきた。彼女は本と辞書を持ったままゆったりと泳ぎ始めた。水面から差し込んだ光が、湖の底にわかさぎ姫の形の影を落としていて、その影も一緒にゆらゆらと揺れる。
大分読み進めていたが、まだパチュリーが読み上げたページにたどり着いていない。それでもわかさぎ姫は魔法の辞書のおかげで、通常ならありえないペースの速さで読み進んでいた。
1940年6月23日
フランスは負けた。
ドイツと休戦条約を結んだってさっきラジオで言ってたわ。休戦条約と聞くと聞こえは良いけれど、国土の一部を占領される内容になってるから酷いものだ。
サーラは酷く狼狽していた。パリにはサーラの妹が住んでいる。サーラには暇をやって、パリに行かせてやるべきだろうか。いや、ドイツの占領下なんて何をされるかわかったものじゃない。ドイツの占領地域を抜けて来られるなら、ウチに迎え入れてやりたいのだが。サンテックスさんに相談してみようか。
とりあえず、今日は仕事をしなくても良いと伝えたが、彼女は動いていた方が気が紛れると言って聞かなかった。
1940年7月2日
何となく、戦争に負けたら労働力にならない女子供はみんな殺されたり、奴隷になったりするようなイメージを持っていた。
住んでいる場所が片田舎ということもあるだろうが、実際は違っていて、以前とさして変わらない生活を営んでいる。物資が不足していたり何となく社会全体に陰りが見えたりというのは、以前からの話だ。雰囲気が明確に変わったのはあの独裁者が政権を取った経ったあたりだろうか。いや、先の戦争からずっとこうかもしれない。
サーラは手紙で妹と連絡が取れてから、すっかり調子が戻ってきた。あの例の紳士とはいつ結婚するんですか、だなんて私を揶揄うくらいだ。サンテックスさんに失礼だわ。私なんて眼中にないだろうし。
外の世界で大きな戦争があった、ということくらいはわかさぎ姫も知っていた。ただその時代の人がどういうことを感じていたのかだとか、具体的な知識は何もない。
いわば全体としての知識はぼんやりと持っているものの、一個人から眺めたこの時代というのは、全くの未知の領域で非常に興味深いものだった。
大戦の悲惨さを物語る資料は幻想郷にすら流れ込んでくるのだが、こういった戦地から離れた場所に住む人々については全くといっていいほど知らなかった。戦争が日常生活の延長線上にあるのが、わかさぎ姫には奇妙に感じられた。
パチュリーが日記は貴重な史料であると言っていたが、今は何となくその意味がわかる気がした。
1940年9月8日
風が吹くと9月だってことが信じられないくらい寒い。大分早いけれどコートを出すべきかもしれないわ。そんなことより、今日は素敵なことがあった。あの人とベンチで話していたら、今書いているという小説の一部分を特別に教えてくれた。確かこんな風だった。
「湖の底からでは、きっと僕の顔は良く見えないことだろう。だから僕は安心して、君のために作ったささやかな陶器の犬の人形を、今日も湖に沈めるのだ」
妙に印象に残る文章だったからよく覚えている。完成が楽しみだわ。
わかさぎ姫はようやくパチュリーが読んだところまで追いついた。
既に聞いたことがある文章だったが、背景を知った今、また別の趣がある。
あの人というのはサンテックスを名乗る人物で間違いないだろう。彼があの湖の小説を書いたのだ。わかさぎ姫はそう確信した。
先が気になったが、ここはあえて眠ることにした。日記はまだまだ続きがあるしキリがないからだ。
著者が彼であるという成果を得られたのを区切りとした。明日は外の世界から来た人にサンテックスという名に心当たりはないか聞いてみるのも良いかもしれない。
そんなことがわかさぎ姫の脳内を駆け巡り、興奮で寝られないと彼女は思った。しかし翻訳という慣れない作業は案外と疲れるものなのか、意外とすんなり眠りに落ちていった。
「いやぁ、外の世界のスイーツが食べられる茶屋が人里にあるなんて知りませんでした」
そう言って東風谷早苗は美味しそうにパフェを頬張った。随分と嬉しそうだ。
対面にはわかさぎ姫と影狼が座っている。例によって二人とも、片や裾の長い着物、片や頭巾と、妖怪であることを隠す姿をしている。
二人は早苗をいつもの茶屋に招待したのだ。
「ここの先代の店主さんが外来人なのよ。そのレシピを息子さんが受け継いでるの」
「なるほど」
わかさぎ姫が店主の来歴を教えると、早苗がこのパフェ美味しいですと店主に元気よく伝える。寡黙な茶屋の店主は無言で頭を下げた。
「このパフェ?っていうやつ本当に美味しいわよね。氷菓子や餡蜜が層になってるから、味が一本調子じゃなくて最後まで飽きないし……」
「姫、姫。本題」
興奮気味にパフェの魅力を語るわかさぎ姫に、影狼が半分呆れながら釘を刺した。
ハッとしたわかさぎ姫は、こほん、と姿勢を正して本題に入った。
「実は今、ある日記を読んでいるの」
彼女はこれまでの経緯を早苗に説明した。
香霖堂で日記を手に入れたこと。日記の中に小説の抜粋があって、それが気になっていること。その本の正体を知るために、パチュリーに魔法の辞書を貸してもらったこと。日記に綴られた未亡人の生活のこと。
「それは面白い話ですね。大戦下のフランスの未亡人と紳士の許されざる恋の話……!」
「まあまあ脚色したわね……」
随分と恋愛脳なフィルターをかけた早苗に、影狼が呆れ気味に突っ込んだ。
「それで、何か手がかりになりそうなことは他に書かれてなかったんです?」
早苗がそう促すと、少し悩んだあとわかさぎ姫が口を開いた。
「ああそうだ。ニックネームなんだけれど、著者のその紳士はサンテックスって名乗ってたわ」
「へぇ、サンテックスさん……サン…………サンテックス!?」
最初のうちはしっくり来ていなかった早苗だったが、途中でサンテックスなる人物が誰なのかを思い出したのか、テーブルから身を乗り出して叫んだ。
わかさぎ姫と影狼はその様子にたじろいだ。早苗の声は店内に響き渡り、店主も一瞬皿を洗う手を止めた。
「し、知ってるの?」
影狼が聞くと、早苗はブンブンと首を縦に振った。彼女は前のめりになってまくしたてる。
「そりゃそうですよ。超有名なフランス人作家ですよ。ニックネームは私もたまたま知ってただけですけど」
早苗は鼻息を荒くしてこう続けた。
「サンテックスっていうのは……世界で聖書の次に読まれた本、星の王子様の作者、サン=テグジュペリのことですよ!」
まさに驚愕の事実と言わんばかりの早苗の興奮ぶりだったが、二人ともピンと来ていなかった。聞き覚えのない作家と本のタイトルに加え、それほど馴染みもない聖書を引き合いに出した喩えを並べられたので無理もない。
全く伝わっていないとわかった早苗は、少しトーンダウンして聖書は世界で一番読まれている本なんですよと付け加えた。
「ええっと……そうすると世界で二番目に読まれてる本の作者ってこと?」
「そういうことですね。いやまあ私もどこかでそんな話を聞いた時あるってだけで、本当に二番目なのかは自信ないですけど。でも、日本人である私ですら小さい時に星の王子様を読んでもらったことがあるくらいです」
いきなり外の世界の超有名な作家と言われても、わかさぎ姫にしても影狼にしてもいまいちピンとこなかったが、早苗の興奮ぶりを見ているうちに、本当に凄いことなんだという実感が湧いてきた。
「有名な作家ですから、鈴奈庵やパチュリーさんの図書館を探せば、きっと見つかるんじゃないでしょうか」
「でも有名だとかえって幻想郷には流れて来にくいんじゃないかしら」
影狼がふと疑問を投げかける。
幻想郷と外の世界は、幻と実体の境界と博麗大結界の二つの結界によって遮られている。前者は忘れられたものを素通りさせるが、逆に古くても有名で皆がまだ覚えている作品は入ることができないのではと彼女は考えたのだろう。
「幻想郷に来るのは忘れられたものだけではありませんよ。結界はよく揺らぐことがあって、その折に外の世界のものが入ってくることがあります。八雲さん家の式が直してしまうので、出待ちみたいなことは出来ませんが……まあとにかく、有名作家の作品で沢山刷られているなら、それだけ流入する機会も多くなりますから、きっとすぐ見つかりますよ」
影狼の疑問に、早苗はそう答えた。
著者名もわかったことだし、探し求めていたあの小説にもうすぐ手が届く。そう思うと、わかさぎ姫の胸が高鳴った。
これだけワクワクしたのはいつ以来だろうか。
一冊の本を追い求めるというのは、石集めとはまた違った楽しさがあった。わかさぎ姫にとって石集めは偶然の出会いを楽しむような行為であった。
一方で今回の本探しは、一歩一歩目的地に近づいていくのが楽しい。
彼女はまだ見ぬあの本の全貌に想いを馳せた。
結局、鈴奈庵にはサン=テグジュペリの著作は置いていなかった。確かに鈴奈庵には外来本も置いてあったが、決してその数は多いわけではない。
もっとも、著作があったとしてそれが探している小説なのかどうかは、全ページを読んで例の一節が載っているページがあるかどうかを確かめなけれならない。興奮していたため、その場では誰も気づかなかった。
早苗と影狼とわかさぎ姫の三人は、日も暮れ始めていたためその場で解散した。
いっそこのまま紅魔館に行ってしまおうかとわかさぎ姫は悩んだが、夜に人様の家を訪れるのも良くないと考え我慢した。一応館の主人は夜行性ではあるが、パチュリーは違うだろう。わかさぎ姫はそう考えた(実際のパチュリーは生活サイクルが乱れており、深夜の来訪もさほど問題なかった)。
わかさぎ姫は素直に湖の自分の寝床に戻った。
彼女は湖面から差し込む月光を眺めていた。
「……眠れない」
いつもはぼんやりと湖を揺蕩っていれば、水の流れの心地よさに自然と目蓋が落ちて眠りにつく。たが今日はそうはならなかった。
あともう一歩であの小説が見つかるのだと思うと、気持ちが昂ってしまい眠りにつくことができない。
彼女は「仕方ない」と呟き、化粧棚から赤色の日記と緑色の辞書を取り出した。化粧棚は誰かが湖に勝手に捨てたものだったが、わかさぎ姫はそれを気に入り湖底に自分のものとして置いていた。
眠れないのであれば、翻訳を進めてしまおうと彼女は考えたのだ。日記に向かい合っている間に眠くなるかもしれないという期待もあった。
それにサン=テグジュペリという著者名が判明したが、タイトルがわからなければ、彼の著作の中からお目当ての小説を見つけ出すのは少々手間だ。
何かもっとヒントになるような記述はないものか。わかさぎ姫が日記の解読を進めていくと、まさに欲しかった情報が載っているページがあった。
1940年9月19日
この前の小説の続きを聞かせて欲しいとサンテックスさんに言ったら、完成するまで待って欲しいと言われた。いつ頃完成するのかと私が食い下がると、彼は仕方ないと言って、代わりにその話のタイトルを教えてくれた。
今書いている小説のタイトルは、「水底のラフィア」と言うらしい。
口の中でその言葉を転がしてみる。水底のラフィア。何と言うか、音が良い。口に出してみると、小気味良い感じがする。
きっと素敵なお話なのだろう。完成が楽しみだ。
これだ、とわかさぎ姫は興奮でうち震えた。
タイトルもあの文章としっくりくる。あの湖底にいる誰かの名前がラフィアなのだろうか。
これで著者名とタイトルが判明した。ここまで来れば本の特定は容易い。あとは紅魔館の図書館がどれだけ外の世界の本を網羅しているかの問題だ。
翻訳を進めていれば眠くなるかとわかさぎ姫は考えていたが、かえって気分が昂ってしまった。
喜びが体から溢れてきた彼女は、水底を泳ぐだけでは飽き足らず、縦にくるりと回ったりする。それから急に湖面へと浮上した。
水面を仰向けに漂いながら、彼女は夜空を仰いだ。
夜は恐ろしいもののはずだった。弱小妖怪である彼女は、水中でなければ他の妖怪に襲われることすらある。
ただ今日の夜空は、随分と優しく美しいもののようにわかさぎ姫の目に映った。木々の影を額縁にして、星と月が飾られているようだ、なんて気取ったことを考える。
しばらく彼女は夜空を堪能していたが、一日中興奮していたせいか疲れがどっと押し寄せてきた。気持ちが昂っている間は忘れていたが、一旦落ち着いたことで疲労が追いついてきたのだ。
わかさぎ姫はヒレを翻し、ざぱんと湖底に戻っていった。恐らく良い夢を観れることだろう。
パチュリー・ノーレッジはんんっ、と咳払いした。
テーブルを挟んだ向かいにはわかさぎ姫が座っていた。
「思ったよりも翻訳ペースが早いわね」
わかさぎ姫から日記の内容を聞いたパチュリーは、内容というよりその進捗に驚いた。
「そうなの? まあでも分からない部分は飛ばし飛ばしだから」
「それを差し引いたとしてもよ。貴女の要領が良いのかそれとも……」
視線を手元に落としたまま、パチュリーは続ける。
「妖怪は実体より概念に主軸を置く生き物……人間たちの認識する人魚という概念がわかさぎ姫という個体を象っているのだとしたら、何処か見えないところでフランスの人魚たちの知識が共有されていてもおかしくないか……」
ぶつぶつとパチュリーは呟く。
わかさぎ姫は彼女の呟きの内容がよく理解できなかったのだろう。質問をしようと口を開きかけたのだが、パチュリーはほとんど独り言のつもりだったらしく、リアクションを待たずに次の話題に移ったため、そのタイミングを見失った。
「それにしてもサンテックス……サン=テグジュペリとは、随分なビッグネームが出てきたものね」
「あれ、パチュリーも知ってるの?」
「甘く見ないで欲しいわね。外の世界の本もこの図書館の守備範囲よ。わざわざ山の巫女に聞かずとも、それくらい私も知っているわ」
「流れ着いた外来本を集めてるだけじゃなくて、他にも色々ルートがあるんですよ」
小悪魔が笑顔でそう付け加えた。
そんな彼女にパチュリー は「小悪魔」とだけ名前を呼んだ。それだけで彼女は主人の意図が伝わったらしく、わかさぎ姫にこう提案した。
「外来本はある程度作者ごとに固めてあります。サン=テグジュペリの場所に案内しましょうか?」
「本当? お願い!」
もちろんです、と小悪魔はわかさぎ姫の車椅子の手を取った。
目に見えてわかさぎ姫は興奮していた。
「パチュリーもありがとう!」
「礼を言われることはしてないわ……多分ね」
素っ気なくパチュリーはそう言い返した。その様子が引っかかったのか、わかさぎ姫は少し不思議そうな顔をした。
車椅子に乗ったわかさぎ姫とそれを押す小悪魔、その背中をパチュリーは横目に見て、ため息をついた。
二人がいなくなった後、パチュリーは立ち上がり、机の上に置かれたままの日記を手に取ってパラパラとめくる。
その内容を見て、彼女の表情は渋くなっていった。
「やはり……私の思い違いではないようね」
眉間にしわを寄せて、暗い声で彼女はそう独りごちた。
水底のラフィアは図書館でも見つからなかった。
わかさぎ姫としても非常に残念だったが、もっと日記からヒントを得れば良いし、香霖堂を訪ねてみたりしようと、かえって意気込んでいるくらいだった。
その健気さは、かえってパチュリーの表情に暗い影を落とすこととなった。
「はぁ……」
深夜の紅魔館のテラスでお茶を飲むパチュリーは、最早何回目になるかわからないため息をついた。気分を変えて本の内容に没頭しようとするが、夜風に揺れるカーテンが視界の隅をチラついて、今ひとつ集中できない。
仕方なくぼんやり月を眺めていたら、月の光が二つの黒い影に遮られる。レミリアと咲夜が夜の散歩から帰ってきたのだ。
「珍しいじゃない。パチェが外に出てくるなんて」
「まだ紅魔館の館内よ」
パチュリーは反論とも言えないような適当な答えを返した。テラスの手すりにレミリアは腰掛ける。レミィは行儀が悪いわね、とパチュリーは毒づく。
「どうぞ。お茶をお持ちしました」
「ああ……ありがとう咲夜」
時間を止めたのか、戻ってきたばかりだと言うのに、テラスのテーブルの上には二杯の紅茶が注がれていた。
「では失礼します。何かご用があれば鈴を」
そう言った次の瞬間には、咲夜の姿は消えていた。
パチュリーは出された紅茶を一口飲んで、息をついた。
「それで……相談事はなんだい?」
少し芝居がかった口調のレミリアに、パチュリーが目を向ける。
「……まだ何も言ってないと思うのだけれど」
「違う?このテラスにパチェが座ってるときは大体そうじゃない」
「そうだったかしら」
言われてみればそんなような気もしてくる。この我儘な吸血鬼は案外と周りをよく見ているのだ。普段の傍若無人ぶりでつい忘れがちだが、パチュリーはレミリアのこういう部分にたまにはっとさせられる。
「まあ、悩んでいるのかもね。大したことじゃないんだけど……」
パチュリーは目線を本のページに落とす。テラスの柵に座ったまま、レミリアは何も言わずにその先を促した。パチュリーは本を閉じてテーブルの上に置いた。
「そうね……とりとめが無くなってしまうかもしれないけれど……百年以上も昔の話だけれど……病弱で外で遊ぶこともできない女の子がいたわ」
「パチェのことね」
そう言ってレミリアは周りくどい導入部をバッサリ切り捨てた。パチュリーはばつの悪そうな顔をする。
「……もう少し付き合ってくれても良いんじゃないかしら」
「やーだね」
からからと笑うレミリアに、パチュリーは軽くため息をついて目を細めた。
「そんな風に病弱で引きこもりだったから、外の世界を見せてくれる本が好きだったんでしょ?」
「その通り……ありきたりな話よ。まだ健在だった両親が初めて図書館に連れて行ってくれた時なんかは、幼いなりにいたく感動してたわ。本がこんなにも沢山あるって、これを全部読んでも良いんだって」
目を瞑ったパチュリーは、幼い頃の光景に想いを馳せているようだった。
両親に手を引かれ図書館に連れて来てもらった幼き日のパチュリーが、天井近くまでそびえ立つ書棚を目にして、キラキラと目を輝かせている。そんな光景を。
「でも読み切れないほどの沢山の本があるという喜びは、小さな絶望でもあった。自分は一生をかけてもこの図書館の本を全て読み切ることは、味わうことはできないんだろう。自分の知っていることより、知らないことの方が多いだなんて耐えられない。だから私は……」
「魔女になったんでしょ。本当、酔狂というか何と言うか」
レミリアが言葉の先をかすめ取る。ここまでは彼女にも話したことがある。
「本は私のアイデンティティの一つ。でも、あの時ほどの情熱が、純粋に本を好きと言う気持ちが無くなっているのでは、無くなってしまうのではないかって……たまに不安になるのよ」
パチュリーは一世紀以上も本を愛で続けた。
それゆえに本を好きでいることが日常になりすぎて、その気持ちが曖昧になってくる。
「それって不純だわ。パチュリー ・ノーレッジは本を好きだから、私は本を愛でているだけなんじゃないだろうかって。本を好きだから私であるはずが、私だから本が好きに転倒しているような感覚になる時がある」
レミリアはため息をついた。
「気の迷いよ。試しに読書断ちでもしてみたら。断言するけど3日ももたないでしょうね」
「そんな…………まあそうね」
折角真剣に悩みを打ち明けたのに軽くあしらわれてしまったので、パチュリーはムッときて反論しようとしたが、レミリアの言うことは間違っていなかった。何かしら言い返したかったが、長年の連れの言っていることは正しい。
パチュリーが不満そうに唸っていると、レミリアはフォローを入れた。
「まあ、好きなものを嫌いになってしまうかも、というのは恐ろしいことよね。私たちのような寿命の長い妖怪にとっては特に死活問題になりうる」
パチュリーは頷いた。
他の何かに興味が移っていくのならば良いが、単に好きなものが歳月と共に減っていくのはとても危険なことだ。最後には何にも興味がない、抜け殻のような存在が残るだろう。精神世界に重きを置く妖怪は、そのまま朽ちて死んでいってもおかしくない。
「といった悩みでね。大した悩みじゃないでしょ」
「ふむふむ。それで本題は?」
「……」
パチュリーは何か言い返そうとしたが、レミリアのニコニコとした笑顔を見て何も言えせず、ため息とも呻き声ともつかない声を出した。
「何年の付き合いだと思ってるのよ」
今日はパチュリーの完敗だった。
伊達に長い時間を生きてきたわけではない。レミリアの方が数段上手だった。
パチュリーは観念して本題の方の悩みを話し始めた。
「何かを好きでなくなることは恐ろしい……じゃあ、他の誰かをそうしてしまうことは、重い罪だと思わない?」
「何だよまた周りくどいな」
「端的に言うと、わかさぎ姫の本への興味を奪ってしまうくらいがっかりさせてしまうかもしれない」
パチュリーはそう言って椅子に深く座りなおした。
「ああ、あの人魚姫の話か。フランス語の日記を翻訳しているんだっけ。パチェと同類って感じね」
「まあそうね……でも、これからの私の行動如何によっては、酷く落ち込んでしまうかもしれない」
それからパチュリーはあの日記にまつわる自分の見立てを短く説明した。
彼女はわかさぎ姫の本に対する情熱に水を刺してしまうかもしれないという懸念を抱えていた。
「なるほど……まあ流石に本への興味を失うかもってのは大袈裟だと思うけどね、あの様子を見ていると」
わかさぎ姫は足繁く図書館に通う様子は紅魔館の全員が目にしていたし、本が好きになったのだということも周知の事実だった。
「私もそう思うけど……熱中しているときほどコロッと冷めてしまうパターンってあるじゃない」
「心配性だなぁ。そこまで言うなら運命を見てあげようか」
「いいわよ。その気もないでしょうに」
「はっはっは」
レミリアは腕を組んで笑った。
彼女は滅多なことでは自らの能力を用いない。燃費の問題なのか、運命がわかってしまったらつまらないからなのか未だに理由はわからない。パチュリーはその両方だと見ていた。
「どの道酷く落ち込むことは間違いないわ。なるべく傷つけない伝え方はないか考えてたのよ」
「ふぅん……じゃあこういうのはどうかしら」
レミリアは座っていた手すりから、ひょいと飛び降りた。
誰に聞かれるわけでもないのに、レミリアはパチュリーにひそひそと耳打ちした。
宇佐見菫子は大図書館の天井を仰いだ。もっとも、天井は高すぎて見ることができない。照明が薄暗いのもあり、天へと伸びる書棚は暗闇に飲み込まれていく。
「ハリーポッターみたい……」
空中に浮かびながら緩やかに移動する本棚を指して、菫子はそういった。
「外の世界の有名な小説ね」
「あ、知ってるんだ」
背中からパチュリーに話しかけられて、菫子は振り返った。
「紅茶が冷めるわよ」
パチュリーが指を振ると、テーブルの椅子がひとりでに動いた。座れと促しているようだった。菫子は遠慮がちに席についた。
席についたが、パチュリーは無言で本のページをめくるだけであり、二人の間に沈黙が降りた。
菫子は気まずそうにスカートの裾を弄ったり、本棚をきょろきょろと見たりする。菫子はパチュリーと二人きりになるのが初めてどころか話したことも殆どない。そんな人と沈黙の時間を過ごすのは、彼女にとって少し辛い状況だった。
「……」
菫子は神社でお茶を啜っていたところを、メイドに「パチュリー様が頼み事があるそうです」と呼び出されたのだが、先ほどから説明が何もなされない。
用があるのは向こうの方なのだからと黙って待っていたが、こちらから話を振るべきなのだろうか。頼み事とは何なのか、と聞けば良いのだが、向こうから呼んでおいて何も言わないということは、まだそのタイミングではないということだろうか。
彼女がそんなことを考え始めた頃、ようやく魔女は口を開いた。
「……貴女、本は好き?」
「えっ。まあ、はい」
いきなり質問が飛んできて面食らったが、菫子は多少動揺しつつもそう答えた。
彼女には自分の読書量は同世代の中でも上の方という自負があった。
「何故なのかしらね」
「何故って……」
妙な言い回しだった。菫子が本が好きな理由を聞いているようにも、人は何故書を愛するのかという一般論を問うているようにも、どちらにも取ることができた。
菫子はひとまず自分のことを考えた。
幼き日の菫子は超能力が使えたせいで周囲から孤立しがちだった。そのことは彼女に自分は特別な人間だから孤立しているんだという、周囲を低く見る傾向を促し、さらにその傾向が一層孤立を深めるという悪循環になっていた。
そんな孤独の傍らにいたのが本だった。書は彼女の孤独を癒してくれた。
また、本で自らの超能力を調べる間にオカルトに興味を持った。結果として自分の超能力のことは分からず仕舞いだったが、オカルトという今の自分に欠かせない生きがいへ導いてくれたのも本だった。
「えーっと……これって私の話? それとも何ゆえ書は愛されるのかって話?」
そこまで考えてから、素直にどちらを問うているのか聞けば良いじゃないか、と思い立ち菫子はパチュリーに確認する。
「どちらでも構わないわ」
文面だけ切り取れば素っ気なく聞こえたが、単純に菫子の考えに興味があるといった様子だった。彼女は菫子を真っ直ぐに見つめている。
ほとんど喋ったことがない人に、自分には友達がいなかったなんて話をする気にはなれなかったので、菫子は一般論の方について意識を巡らせた。
何故人は書を愛するのか。
まず思いつくのは、本を読めば自分の知らない世界を知ることができるという理由だ。海外のことや自分が生まれるよりずっと昔の時代のことを、自分が普段全く関わりのない仕事や研究のことを、本があれば知ることができる。井の中の蛙ですら、本さえ読むことが出来たなら、大海の存在を知ることができるのだ。
またよく聞くのは、著者という一個の人間について文章を通して深く知ることができるということだ。
普段人と話していても、その人の根底にある考え方なんかを話す機会はそう多くはない。
しかし、本にはそれが記されている。直接的に描かれていなかったとしても、冒険小説ですら主人公の行動について記述した文章から、一人の人間の根底にあるものが滲み出てくることがある。直接会話することより優れた手段であるというわけではないが、別の手段でのアプローチになるのは価値のあることだ。
コレクションとしての本が好きという人もいる。ビブロフィリアと呼ばれる人たちだ。彼らは希少本や特殊な装丁、初版本に価値を見出して蒐集に明け暮れる。
あいにく菫子にそういった趣味は無かったが、たまたま古本屋で見つけた海外の古い本の装丁が美しく、読みもしないのについ購入してしまったことがある。最近の彼女はすっかり電子書籍派であったが、とはいえ紙の本の良さもわかるし、収集品として本を愛する人々がいるというのは理解できた。
「うーん……」
考えれば考え込むほど、菫子の頭蓋の中であぶくのように次々と本の魅力が思い浮かんでは消えていく。パチュリーは本を読むページを止めて菫子を見ていた。
「やっぱり……人それぞれじゃないですかね」
その答えを口にした次の瞬間にはもう、菫子は自分の発言が恥ずかしくて仕方なかった。
何て陳腐な答えなのだろうと。
人それぞれ、というのは思考の放棄に近い。人それぞれ感じ方や考え方が異なるというのは、誰もが百も承知だ。こういう場合求められている答えは全体の傾向や共通点であり、人それぞれなんて答えはあまりに無難すぎる、誰でも言える守りに入った回答だ。
菫子が羞恥に悶え冷や汗を流していると、パチュリーはゆっくりと頷いて微笑んだ。
「私もそう思うわ」
「えっ」
菫子は虚を突かれた。
つまらない答えね、とは言われないにしても、失望されて当然だと思ったからだ。しかし予想に反してパチュリーは嬉しそうな顔をしている。
「貴女が長いこと黙っていたのは、それだけ沢山本の魅力を思いついてしまったからではないかしら」
菫子は動揺しながらも頷いた。何度も。まさか自分の気持ちを汲んでくれるとは思わなかったからだ。
「礼を言うわ、宇佐見菫子。おかげで自信が持てた」
「自信?」
菫子の問いかけは、本棚の間から現れた小悪魔の報告によって遮られた。
「パチュリー様。姫さんがいらっしゃいましたよ」
「通して頂戴」
「かしこまりました」
小悪魔は再び本棚の間に消えていった。
「ところで貴女、彼女の近況について知っているかしら」
彼女が日記を手に入れた場には菫子も同席していた。
その後わかさぎ姫と会う機会はなかったが、彼女が日記に記されたある本を探しているという噂は、菫子も耳にしていた。
「あー、はい。何でも日記の中で出てきた小説が読みたいとか」
「そう。説明が省けて助かったわ」
菫子は話の流れが汲めず、首を傾げた。
そういえば自分が呼び出された理由もまだ聞いていない。自分が呼び出された理由はわかさぎ姫にあるのだろうか。
彼女は不安半分、期待半分といった心地でわかさぎ姫を待った。
小悪魔に案内され、車椅子に乗ってわかさぎ姫が図書館の中心部へ行くと、パチュリーと菫子がいた。珍しい組み合わせだと思い、わかさぎ姫は不思議に思った。
「さて、早速本題に入ろうかしら。日記の翻訳はどれくらい進んだ?」
「わからないところは飛ばし飛ばしだけど、9割くらいかしら。本の著者がサン=テグジュペリって人で、タイトルが水底のラフィアということはわかったんだけど、幻想郷に流れてきてないみたいで……」
わかさぎ姫がそう答えると、菫子は「もうそこまで進んでたんだ」と嘆息した。
「貴女がサン=テグジュペリの著作をこの図書館で探している間、私も日記の内容を一通り読んだけど同じ結論ね。わかったのは著者とタイトルのみ」
パチュリーは「まあそこまでわかっていれば普通は十分なんだけれど」と付け加える。
「恐らく真っ当に探してももう出てこないわ。だから貴女を呼んだの、宇佐見菫子」
「えっ、私?」
急に自分へ話題が回ってきたので、菫子は少しうろたえた様子だった。
「そう。貴女、スマートフォンとやらは持ってる?」
「持ってるけど……ああ、スマホでググれってこと?」
「察しが良いわね」
「ぐ、ぐぐる……?」
わかさぎ姫が首を傾げる。
急に知らない単語が出てきて動揺する彼女に、菫子が追って説明した。
「えーと、何て説明したものかな……この機械には百科事典が入っていて、それで調べることをぐぐるって言うの。で、場合によってはこの機械で見つけた小説を読むこともできるわ」
わかさぎ姫は「へぇ」と気の抜けた声を出した。彼女も菫子が写真を撮ったりするのに使っているは知っていたが、思っていたよりも色んな機能があるようだという感心する一方、最早どういう仕組みなのかさっぱりわからないと理解を諦めてしまっているような様子だった。
「じゃあ目覚めて幻想郷から帰ったあとに調べてKindle……えーと、このスマホで読めるようにすれば良いかな。幻想郷じゃ電波通じないし」
「いえ、そんな手間のかかることをする必要はないわ」
パチュリーは立ち上がり、靴で床をコン、と叩いた。すると彼女たちが挟んでいたテーブルよりも大きくまばゆい魔法陣が床に突如として現れた。
「わっ……」
「何これ!?」
わかさぎ姫と菫子は驚き、身構える。
「電波を遮っているのは幻想郷を物質的に遮断している博麗大結界。ならそれに穴を開けてやれば良い」
「えっ、そんなことできるの?」
「舐めないでもらいたいわね。大妖ぬえ、狸の親玉、神社に入り浸る仙道。彼女たちのようにある程度の力を持っていれば、結界を一時的かつ局所的に破るのはそう難しくないわ」
むしろあの結界の優れている点はその規模と優れた恒常性にあるわ、とパチュリーは続ける。
「でもそんなことして良いのかしら……」
わかさぎ姫が口元に手を当てて不安そうに言う。
「正確には穴を開けるというより穴を一時的に大きくする感じかしら。障子に穴を開けるようなイメージではなく、網戸の網を寄せて穴を広げる感じね。放っておいても勝手に塞がるわ」
「なるほど……」
「感心するのは良いんだけど、既に開いてるから検索してくれるかしら」
「えっ、もう開いているのこれ!」
菫子は慌ててスマホをスカートのポケットから取り出した。
「意外とお手軽な感じで開くのね……」
わかさぎ姫は少し残念そうに呟いた。
今の足元の魔法陣は下準備で、もう二つ三つ詠唱なんかを挟むと思っていた。ここ最近ずっと求めてきた小説にたどり着けるかもしれないのだから、もっと勿体ぶって欲しいというちょっとだけわがままな心理があった。
「そしたらサン=テグジュペリと水底のラフィアで検索すれば良いかな」
パチュリーは頷き、菫子が画面に入力する。
わかさぎ姫はそれを少し緊張した面持ちで見守っていた。
「本当だ、電波つながってる。えーっと……」
ここ最近、わかさぎ姫はずっとあの小説の断片に想いを馳せていた。水底にいるのは誰なのだろうと、何故陶器の犬を湖に沈めるのだろうかと。一体どんな物語なのか、その答えがとうとうわかる時が来たのだ。
「あれっ……?」
菫子が首を傾げた。
「何かこれっていうページが……検索の仕方が悪いのかなぁ。いや、タイトルだけにしても見つからないな……」
菫子が焦るのを見て、わかさぎ姫の表情が曇っていく。パチュリーは小さなため息を吐いた。
「……やっぱりね」
「えっと、これってどういう……」
狼狽て自分の方を見るわかさぎ姫に対し、パチュリーは苦々しい表情で告げた。
「水底のラフィアという小説は、最初からこの世に存在しないのよ。少なくとも、サン=テグジュペリの著作に水底のラフィアという小説は存在しないわ」
「え……どういうこと……?」
わかさぎ姫の声がか細くなっていく。菫子がその様子を見て、不安そうな顔をした。
「菫子、サン=テグジュペリについてどんな人か知ってる?」
「どんな人って……世界中で読まれている小説家で……あ、それから飛行機のパイロットなんだよね」
「そう。彼は偉大な作家であり、またパイロットでもあった。夜間飛行、人間の土地、そして星の王子様。いずれの彼の作品も、自身のパイロットとしての経験が反映されている」
わかさぎ姫がぽかんとした表情をしているのを見て、菫子が飛行機というのは外の世界の空飛ぶ乗り物だと説明する。
そういえば聞いたことがあるわ、と彼女は頷く。
「そして彼は第二次世界大戦の際に従軍している。パイロットととしての適齢期は過ぎていたにも関わらず。フランスが敗北するまでは勿論、フランスが敗北した後はアメリカに亡命した後、北アフリカで空を飛んでいる」
それほど外の世界の歴史について知識があるわけではないわかさぎ姫は、話の内容が正確に飲み込めず混乱した。しかし懸命に話を理解しようと耳を傾けた。
「つまり、その日記の日付の時期、サン=テグジュペリは戦場の空にいるはずなのよ。フランスの片田舎で安穏としているはずがない」
「ええと……じゃあ日記に出てくる小説家の紳士は、サン=テグジュペリじゃないってこと?」
わかさぎ姫には細かい部分はわからなかったが、大筋の部分の言いたいことは何とか理解できた気がした。
彼女の言葉にパチュリーは頷いた。
「そもそも小説家じゃないんじゃないかしら。文筆で身を立てている、という発言はあったけど、それって脚本家や新聞記者とかでも成り立つ言い回しだし」
「そうすると、水底のラフィアは……」
「仮に本当に書いていたとしても、趣味の範囲で書かれたもので、出版されていないのでしょうね。現代まで残っているというのは考えにくい。実際タイトルだけで調べても見つからなかったし」
わかさぎ姫は息を吐き出し、車椅子の上で崩れ落ちた。溜息というより、空気が抜けていくと表現した方が近い。
泣いたりするほどでないにしろ、ずっと探していた小説が実は存在しないというのはショックだった。
「ねえ……じゃあそのサンテックスって名乗る人は一体何者? どうして有名な小説家の名前を騙ったのかな」
横で話を黙って聞いていた菫子が、小さく挙手して疑問を口にした。
「正確なことはわからないわ。いくつか思いつくことはあるけど……こんな仮説はどうかしら」
パチュリーは人差指を立てて語り始めた。
「まずこの紳士は日記の著者に好意を持っていて近づきたかった。だから彼女が小説が好きなのを知って、サン=テグジュペリの名を騙ったの」
「うーん、でも有名人なら顔も割れているだろうし、すぐ気づくんじゃない? 詳しく知らないけどこの時代ってもう写真付きの新聞とかあるよね」
菫子が指摘すると、その通りね、とパチュリーは頷く。
「この日記を読んで思ったのだけれど……音や匂いに関する記述が多くて、視覚情報から得たらしき記述が少ないような気がするの」
わかさぎ姫がハッとしたように顔を上げた。
「彼女は目が見えなかった……?」
「その通り」
パチュリーが微笑む。
「そう考えると水底のラフィアの『湖の底からでは僕の顔は見えないだろう』『だから安心して』といった表現が、日記を書いた彼女とサンテックスを名乗る彼の話のように思えてこない?」
わかさぎ姫の中で、ある光景が思い浮かぶ。
日記を書いた彼女が人魚になって湖の底で揺蕩っている。湖面ではボートに乗ったサンテックスと名乗っていた彼が、寂しそうだけれど優しい表情で手作りの陶器の犬を沈める。
水底のラフィアという小説は、彼から彼女へのラブレターのようなものだったのかもしれない。
自分は貴女を想っているけれど、他人の名を騙っていて、貴女の目が見えないことに安心すら抱いている。そういった気持ちを小説の形を借りて吐露しているのだ。
わかさぎ姫がそんな夢想に耽っていると、菫子が遠慮がちに口を挟んだ。
「日記の内容をそんなに知らないのに水を差すようで悪いんだけど……今の仮説ってかなり破綻した部分多いわよね? 例えば目が見えないのに日記が書けるのかとか、周りの人は彼の詐称に気がつかないのかとか」
「そうね。多分正解ではないでしょうね」
「えっ?」
パチュリーの予想外のリアクションに、思わずわかさぎ姫は車椅子から滑り落ちそうになる。
彼女の語る筋書きに少し胸をときめかせすらしたというのに、当の本人はあっさりと話が破綻していることを認めたからだ。
「今語ったのは一番面白いけど、可能性は低い仮説だもの」
「あ、そうなのね……」
わかさぎ姫は残念そうに呟いた。
「彼女が盲目だったというこの仮説は、例えば代筆だとか近くのものは見えるとかで成立させることはできるわ。でも完全にこの仮説を成立させるにはあともう二、三つ突飛な仮定が必要でしょうね」
「なんて言うか、パチュリーさん結構ロマンチストですよね……」
「妄想は魔法使いの商売道具よ。ビジョンがなければ実現はできない」
菫子の指摘に、パチュリーは恥ずかしくなってきたのか、早口でそう答える。
「じゃあ逆に可能性が高い仮説もあるの?」
わかさぎ姫がそう言うと、パチュリーは咳払いをして仕切り直した。
「そうね。パッと思いつくのは、本当にサンテックスというニックネームで呼ばれていたとか」
「うーん……そんなことあるかなぁ。アレクサンダーをアレックスと呼んだりするのと違って、サンテックスって一般的なニックネームじゃないんじゃないかな」
菫子の言うように、サンテックスは一般的なニックネームではない。というよりも、サン=テグジュペリという苗字自体がかなり珍しい(正確には長い苗字の一部)。
「そうじゃないわ。サン=テグジュペリという同じ苗字で同じあだ名で呼ばれていたとか、そういう話じゃない」
パチュリーはそう言ってから、一つの例を語った。
「例えば、とある新聞社に年齢や名前だとか、いくつかの点でサン=テグジュペリと共通する特徴を持つ男の人がいるの。その男性が趣味で小説を書いているので、周りの人はからかい半分親しみ半分でサンテックスと読んだ……こんな筋書きはどうかしら」
「ええと……サンテックスの名を騙ってるんじゃなくて、有名な作家にちなんで本当にサンテックスと周りから呼ばれてるってこと?」
「そういうこと。まあそれが合っているとは限らないけれどね。ウミガメのスープみたいなものよ。事実を確かめるのは難しいでしょうね。まあこれは歴史の研究じゃないし、自分の納得がいく推測を信じれば良いわ」
「なるほどなぁ……」
日記の中に出てくる「サンテックスさん」が何故サン=テグジュペリ本人でもないのにそう名乗ったのかは、もう確かめようもない。できることはと言えば、自分なりの推測で自分を納得させることだけだ。
「でも結局水底のラフィアとやらは存在しないわけね。姫ちゃん頑張ったのになー」
「そうね……ちょっとショックかも」
わかさぎ姫は自分の手元に目線を落としてそう言った。
ここしばらく彼女は日記の翻訳にほとんどの時間を費やしたというのに、結末は何とも報われないものだった。
彼女の落ち込む様子を見て、パチュリーは申し訳なさそうに謝る。
「……ごめんなさいね。最初から私が目を通しておけばこんなことにはならなかったのだけど」
「えっ、いやいや! 自分で訳したいって言ったのは私だし、わがままに付き合ってもらってパチュリーにはむしろ感謝しかないし……」
自分が無駄な努力をする羽目になったのはパチュリーのせいだ、という意識はまるでなかった。それゆえ急に謝られてしまって驚いたのだった。
勝手に自分が空回っただけだ。最近翻訳に夢中で疎かになっていた石集めでもして気分を入れ替えよう。
そうわかさぎ姫は考えようとするのだが、どうしても胸にしこりのようなものが残る。
水底にいるのは誰なのか、どうして顔を見られないことに安心するのか、陶器の犬の人形を沈める意味とは。
それらの真相はもう誰もわからない。永遠に謎のままだ。
パチュリーの懸念していたように、彼女がこれで本が嫌いになったということはなかったが、その情熱に水が差されたのも確かだった。わかさぎ姫はかなりのショックを受けていた。
「……一つ提案があるのだけど」
わかさぎ姫の落ちこみっぷりを見かねたのか、パチュリーが口を開く。
「提案?」
「ええ」
落ち込んでいたわかさぎ姫が、顔を上げて胡乱な目でパチュリーを見た。
パチュリーはレミィの発案なんだけれどね、と前置きしてからこう言った。
「貴女が水底のラフィアを書いてみる、というのはどうかしら」
「えっ……私が!?」
最早あの一節の全体像を知ることは叶わない。であれば、彼がサンテックスを名乗った理由を考えるのと同じように、自分で決めてしまえば良い。
パチュリーの提案に、わかさぎ姫は目を丸くする。
「あの小説のわずか一部分から色々考えたのでしょう? 答えが無かったのなら、いっそ自分で書いてしまえば良いじゃないかなって」
わかさぎ姫は両手を突き出して無理無理、と否定する。
「そんな……小説を書くなんて大それたこと……私には……」
もごもごと喋るわかさぎ姫に、パチュリーはふっと微笑んでこう言った。
「小説を書くのは羽織に帽子とマントを身にまとって、旅館で苦しそうに頭を捻ってるような文豪だけじゃないわ。八百屋で声を張り上げているおばさんも、日が暮れるまで野原で遊んでいる子どもも、ペンと紙があれば小説を書けるのよ」
そんなに身構えなくても良い。小説を書くという行為は、一部の特別な人間に許されたものではないと彼女は言った。
「もちろんこれはただの提案よ。やりたいならやれば良いし、興味がないのに無理にやる必要はない」
「私が……水底のラフィアを……」
そう呟いたわかさぎ姫の中で、何かがこみ上げてくるのを感じる。胸が高鳴る。いつも通っている道に、何だか面白そうな横道を見つけたように。
その表情を見た菫子が歯を見せてにっと笑った。
「聞くまでもないって顔してるね」
内心の興奮を見透かされたわかさぎ姫は、少しはにかんだ。
それから菫子とわかさぎ姫の二人は、水底のラフィアについて語り合っていた。
「大筋としては湖の底にいるのが死体なのか、人魚なのか二つの案があって、話の内容もそれによって大きく変わっちゃうのよね」
「うーんどっちも魅力的だなぁ。いっそ二本書き上げちゃうとか?」
「ちょ、ちょっとハードル高いわね……」
楽しそうに語らう二人を、少し離れた位置でパチュリーは眺めていた。その表情は子を見守る親のようでもあった。
それまでずっと後ろで控えていた小悪魔が、そっとパチュリーの側に寄り添った。そうしてこう囁いた。
「良かったですね」
「何がよ」
「読書仲間が減らないか不安だったんですよね?」
パチュリーは少し目を丸くした後、視線を小悪魔から逸らし本の紙面へ落とす。
「……そんなんじゃないわ。私が最初から見抜いていれば彼女ががっかりすることもなかったからね。ただ自分の過失の責任を取りたかっただけよ」
小悪魔は「まったく、素直じゃないんですから」とこぼしながら、慣れた手つきでパチュリーのティーカップに紅茶を注いだ。
楽しそうに自分なりに考えた水底のラフィアの構想を話すわかさぎ姫の声を聞きながら、パチュリーは手元の本のページをめくった。
読書仲間増えて良かったねパッチェさん。
パチュリーが姫のためを思って動いたのも、情熱を身近に感じられたからこそだったのでしょう。書を通して結ばれた友情、とても素晴らしかったと思います。
本を読む。本を求める。本を書く。字書きの誰もが経験したこの流れを、また体験することが出来ました。素敵なお話でした。
1冊の本を巡ってここまでの行動ができるわかさぎ姫が素晴らしかったです
真実にいち早く気付いたパチュリーの気遣いと不安もたいへんよかったです
没頭してしまうほど引き込まれました
よかったです
読書という行動についての原点をもう一度見直す事ができたような気がします。文章を読む行為への楽しさや情熱。自分のものとは違うもう一つの世界を見るというあの行為への素晴らしさがこの作品を通してひしひしと伝わってきました。
読書を介してのパチュリーとわかさぎ姫との友情の育み。そして、文を書くことへの楽しさを一心に感じているわかさぎ姫の姿がとても良かったです。
感動しました。ありがとうございます。
パチュリーの抱いていた読書愛への懸念はまさしく今の自分にも刺さるようで、昔抱いていた情熱が今は喪われてしまっているのではないかと読んでいる最中に再思したものですが、存在しない物を自分の手で一から作り上げる事に対して誰しもが最初は抱いていたであろうその特別感を打ち破ったもの含めて彼女がわかさぎ姫に取った手段はベストと言い表す他無く、まさしく薫陶と呼ぶに相応しく。
作中における『水底のラフィア』の著者探しやその顛末は確かに二転三転し掌の上で転がされたものですが、だからこそ最終的に自分達の手で実際に本を作ってみるという着地点を描き出されたのは見事という思いでした。
わかさぎ姫、パチュリー、菫子の三者三様の本に対する思いも相まって、特に菫子へとパチュリーが諭した『私もそう思うわ』以降の文脈がそれらを端的に委悉してくれた事によってこの物語を読んでいるこちら側の胸中で燻る物にも一個の締括を見出してくれたのだとも思えます。
あと文中において、日記を通して最初の一節がなんであるのかを探る為に思案し熱を帯びていくわかさぎ姫のその心情描写量が適度に没入感を際立たせていたのですが、それ以上に要所要所に挟まれ瀝々と綴られる風景描写の美しさも目を引くようでした。
滄瀛のように広がる湖の、その水と屈折光が織り成す特有の幻想叙景がさも当然かのように彷彿とさせられ、『わかさぎ姫はヒレを翻し、ざぱんと湖底に戻っていった。恐らく良い夢を観れることだろう。』のようなわかさぎ姫自身の動作や感情も踏まえた端的な文章が一層心地良く読めたものです。
それはそうとして情景とはあまり関係ありませんが、『実際のパチュリーは生活サイクルが乱れており、深夜の来訪もさほど問題なかった』という一文のユーモアの差し込まれ方も柔らかくしっとりとした物語の中で一種の清涼剤となって世界観を演出していてとても好みでした。
畢竟、雰囲気の良い地の文に登場人物の軽やかさ、更には読んでいるこちら側にも揺さぶりを掛けてくる主軸のどれもが高水準かつバランス良く構成されており、何らかの形で作品の存在を脳裏に刻み付けておきたい程に凄まじい完成度が掬された物語でした。ありがとうございました、面白さにただただ感服です。
世界がほんのり暖かく、少し物悲しいかと思えば、やはり優しい結末が待っており、素晴らしい読了感でした。
文章も大変読みやすく、起承転結も綺麗で、心理描写も丁寧で良い物語だったと感じました。
読書家で紅魔館通いのわかさぎ姫という独自設定が、柔らかな人物関係の描写と、何より読書と本を楽しんでいる様子から自然に受け入れることができました。
日記を通して過去の誰かの人生を読み進める楽しさ、知らない小説がどういうものかを空想する愉しさ、そして本を通して交友する愉快さが説得力のある丁寧さで描かれており、最初から最後まで気持ちよく読み進められました。
人魚姫のような泡のように消えてしまう悲しい結末が待っているかと思いきや、パチュリーとわかさぎ姫の、仲良くなるとはどういうことか……目に見えない大切なものはどういうものなのかが感じ取れる暖かい結末が用意されていて、大半嬉しかったです。
そして、わからないもの、今は失われてしまった謎に対して、自分でその先を空想する喜びが本当に共感できました。本当に良いものに触れた時、誰でもその先を考えたり、創ってしまうものですよね。
ダンジョンオブマンダム、面白いですよね。
本当に面白い物語を有難う御座いました。
時間の置かれた文章って、何故か香ばしくなりますよね不思議です。
時間だったり、心情だったり、入れ子構造は内容を複雑にする為に、良く使われますが、東方で、わかさぎ姫が妄想を形にするという、シチュエーションは周りのキャラと相まってワクワクさせられました。
物語の一が出来る瞬間って、何だかとても尊いですよね。
有り難う御座いました。
「小説を書くのは羽織に帽子とマントを身にまとって、旅館で苦しそうに頭を捻ってるような文豪だけじゃないわ。八百屋で声を張り上げているおばさんも、日が暮れるまで野原で遊んでいる子どもも、ペンと紙があれば小説を書けるのよ」
このセリフこそが本作の最大の魅力であり、物語を愛する人達の心を打つとっておきの激励だと思います。
物語の流れとパチュリーの描写から求める作品は存在していないこと
その上でおそらくパチュリーが続きを自分で書くことをわかさぎ姫に勧めるであろうこと
全部読んでいてそうなるんだろうなーとまるで作者に導かれるようにわかる不思議な感覚。
物語の流れとしてすごく丁寧できれいに描かれていました。
そして流れがわかった上でも魅了されるようなきれいな描写。
そして最後の小説を書くことについてのパチュリーの考え。
本当に素晴らしい作品でした。
ありがとうございました。
思考の端々からわかさぎ姫の思いやりにあふれたパーソナリティが伝わってきて、それでいて実のところ彼女の行動自体は非常に積極的で好奇心に溢れていて、だから彼女は物語を読むことも書くことにも幸せを見出したのではないでしょうか。
またパチュリーはじめ彼女を取り巻く人々も優しく、この上なく魅力的でした。