宇佐見菫子は不気味な優等生であり、静かな問題児だった。
宇佐見菫子という女子高生の特異性を、我が東深見高校は持て余していると言って過言ではなかった。
「――吉岡先生。彼女は天才ですよ。神童と言ってもいい」
いつか数学の斎藤先生はそう力説していた。
「千七百二十九という数字をハーディ・ラマヌジャン数だと即座に見抜く女子高生なんて、そうそう居ませんからね」
「――宇佐見? あぁ……」
私が顧問をしている女子バスケットボール部の石井桜は、眉をひそめた。
「先生も大変だね。でもま、あの子はマジ変人って感じ。悪い子じゃないとは思うんだけどさ」
「――宇佐見菫子……? うーん……」
英語の古川先生は、しばし悩んだ末に、
「僕は特に印象には残ってないかなぁ。まぁ、静かで大人しい子、という感じかな」
と、言った具合に、誰に聞いてもバラバラで一貫性がない。
誰も宇佐見菫子を理解できなかったし、彼女自身、それを端から理解してもらおうと思っていないことは明白だった。彼女が積極的に誰かと話をしているところなど見たことがない。しかし稀に話しかけられれば、特に邪険にするでもなく、淡々と受け答えをする。だから、コミュニケーションに絶望的な断絶があるわけではない。
ただし、得体が知れないのだ。
天才。そうなのかもしれない。彼女の成績はズバ抜けている。東深見高校はもちろん、全国統一模試で一位を争ったことさえある。
変人。そうなのかもしれない。彼女は彼女一人しか所属部員のいないオカルトサークルを立ち上げ、そのサークルの会長を担っている。本当はサークルとしての活動は、最低でも三人は部員が居ないと認められないが、彼女の成績の優秀さゆえに特例として認められていた。
静か。大人しい。これは間違いない。
そして私が、宇佐見菫子について何よりも憂慮している点だった。
「――というわけで、第二問の正解はbとなる。ここで言及されているレジリエンスとは、第六段落の三行目で記述されているように、環境の変化に応じて……」
「Zzz……」
「……」
またか、と私は黒板の上に走らせていたチョークを止め、振り返る。
窓際の一番後ろの席。教師から目立たない、と生徒が思っているだろう席。そこで宇佐見菫子は、今日も腕を枕にして堂々と居眠りをしていた。
――授業中の居眠り。
致し方ないところはあるとは思う。私自身、自分が学生だったときに一度も居眠りをしなかったか、と問われれば首を横に振る。だが、宇佐見のそれはあまりにも度を越していた。なんせ、彼女が授業中に起きている姿を私は見たことがない。
常に寝ている。自明の理であるかのように寝ている。そのうち布団を敷くんじゃないかと本気で危惧するくらい、いつも寝ている。
「おい、宇佐見、起きろ」
注意すると、生徒たちがクスクスと笑いだす。判っている。彼らも思っているのだ、まただ、と。また吉岡が宇佐見の居眠りにオカンムリだぞ、と。
そんな状況も私の辟易とした気分も露知らず、宇佐見はピクリとも反応しない。まるで抜け殻のようでさえある。私は黙って宇佐見の席まで近づき、丸めた教科書で彼女の頭をポコン、と叩いた。体罰だ体罰だ、と囃す声には構わない。
「宇佐見」
「………………んぁ?」
「お前、授業聞いてたか?」
「あぁ……なんだ、現国の時間だったか……」
めんどくさ、とため息交じりに呟く宇佐見を見下ろしながら、
「なんだ、じゃないんだ。なんだ、じゃ。絶対に寝るな、とは言わん。だが、端から寝る姿勢を固めるのは辞めろ、と言っている。少しは聞く姿勢を見せてくれ、と」
「はーい。すみませんでしたー」
「口だけじゃなく、行動で示してくれ」
私がそう言って初めて、宇佐見が机の中から教科書とノートを取り出す。大儀そうに。私はそれを暗澹たる気持ちで眺めてから、教卓へと戻る。
「で――」
と二の句も継げないうちに、私は口を噤んでしまう。
宇佐見が寝ていた。
私が宇佐見の席から教卓へ戻るまでの僅かな時間で、もう寝ていた。
宇佐見の隣は宮沢という気の弱い女子生徒だったが、寝ている宇佐見と絶句している私を見比べながら、オロオロしていた。クラスのそこかしこから、クスクス笑いが聞こえてきていた。
「……宇佐見?」
私は冗談だろ、という気持ちで宇佐見を呼ぶが、やはりピクリとも反応しない。隣の宮沢が遠慮がちに宇佐見の肩を叩き、そして私に向かって首を横に振る。完璧に寝ている。宮沢は臨終を告げる医者のように悲痛な表情を浮かべていた。
……私は。
私は教師生活において、絶対に感情的にならないことを誓っている。感情に任せて何かを言ったところで、それはもう生徒に対する指導ではなく、恐怖に頼った支配になってしまうと知っているからだ。
だから、深呼吸。怒鳴りそうになる自分を懸命に抑える。私は再び宇佐見の席に向かい、スースー寝息を立てている宇佐見の頭を丸めた教科書でポコン、と叩く。
「…………ふぁい」
むっくりと頭を上げて、眼鏡を掛け直した宇佐見はいかにも不機嫌だった。ある意味そのふてぶてしさには尊敬の念を抱いてしまう。私は努めて冷静な声で、
「宇佐見、第二問の答えを――」
「bです」
「……理由は?」
「ここで言及されているレジリエンスとは、環境の変化に応じて自らの姿を変えていくことだから、です」
「…………それじゃ」
「第三問、c。第四問、b。第五問、b」
「………………」
果たして宇佐見の答えは、すべて合っているのだった。そしてこれをやられてしまうと、本当に教師としての立場がなくなってしまう。恐らく詳細に尋ねても合っているに違いないわけで。つまりそれはもう、お前に教えてもらうことなど何もないという宣言であり、私の注意に対する拒絶でもあるわけで。
「正解です?」
「……あぁ」
「それは良かった。では、授業の続きをお願いします」
宇佐見が満面の笑みを浮かべる。そこには思った通り言外に、お前に聞くことは特にないので、私が寝てようが放っといてくれとのメッセージが込められていた。
◆
「先生もしつこいよねー。マジ。先生だけだよ。まだ宇佐見のこと諦めてないの」
石井桜がニシシ、とからかうように笑う。放課後、体育館。バスケットボールが弾む音、シューズがリノリウムをキュッキュッと踏みしめる音。まるで私が宇佐見菫子のストーカーであるかのような言いぶりに、閉口する。
「てかさー、良いじゃん別に。放っとけば。高校は義務教育じゃないんだし。キョーシの仕事って、生徒に勉強教えることっしょ? そりゃ、寝てて勉強できません、じゃマズいかもだけど、宇佐見は勉強めっちゃできるんだしさ」
「……うむ」
そう。石井の言い分は、間違っていないのだ。
どういう理屈かさっぱり判らないが、宇佐見は何ら支障なく授業に付いて来れている。どころか、周囲の生徒を差し置き、全国レベルの成績を誇っている。こと勉学において、宇佐見菫子は間違いなく天才だ。
私語をして授業の妨害をすることもない。宇佐見はただ寝ているだけだ。そして授業を聞いていなくても成績が落ちる気配は欠片もない。ならば放っておけ、というのは理屈の上では正しい。事実、私以外の教師陣は、宇佐見の居眠りを完全に黙認している。
高校は義務教育ではない。授業を邪魔せず、学業が疎かになっていないのならば、居眠りくらい無視していても何の問題もない。
――だが、やはり私の意識はそれを是としないのだった。
「……授業中に眠るのは良くない、という固定観念なのかもしれないが……」
「先生、頭固すぎじゃん? いまどき、そういう平成くさいの、通用しないって」
「私の考えすぎだろうか? 宇佐見の眠りようは、尋常ではないモノを感じるのだが」
なんせ、判を押したように寝ているのだ。私にはそれが異常に思える。
少なくとも四月の時点では、そうでもなかった。退屈そうに窓の外を眺めていた記憶がある。それが五月には居眠りしている様子が散見し、二学期を迎えた現在は起きている宇佐見を見かけることなど、まったくない。
そうだ。まったくない。宇佐見は必ず寝ている。少し夜更かしをした、とか昼夜逆転している、とかいう範疇を超えているように感じる。例外的に小テストや模試、中間試験のときには平然と起きて問題を解いているが、私には逆にそれが不思議で仕方がない。
つまり宇佐見の睡眠は、意図的に行われているものなのだ。体調不良が原因ではない。宇佐見は自分の意思のもとに睡眠を選択しているのだ。そして実際に眠っている。そんなに人間が器用に眠れるか、という疑問もさることながら私には彼女が授業を、ひいては現実を拒絶しているように見える。
「宇佐見が心配なの? 先生?」
石井が私の顔を覗き込むようにして聞いてくる。その表情にどこかギクリとさせられながらも、
「いや、まぁ……そうだな。確かに心配、なのかもしれない……」
などと、何故か言い訳めいた口調で返す。ふぅん、と唇をすぼめた石井は、
「つまんない」
「は?」
「――んだって。ほら、宮沢さんが聞いてみたらしいの。宇佐見の隣の子。で、最初は寝不足で、とか体調悪くて、とか誤魔化してたらしいんだけどさ。けっきょく、そういうことらしいよ。ヤな感じ」
石井はそう言い置いて、コートの方へと戻っていった。チクリと棘のある言葉を残した石井は、もうすでに楽しそうな笑顔を浮かべてバスケットボールを手にしていた。
◆
「……つまらない、か」
部活の顧問の時間を終え、職員室で日誌を片付けて、小さく息を吐く。
まだ何人かの先生が残ってらっしゃる。私はカバンを肩にかけ、お先に失礼します、と誰にともなく挨拶した。お疲れ様です、と誰からともなく挨拶が返ってきた。職員室を出る。
窓の外はすっかり夜の様相だった。もう七時を回っている。こうしてこの時間に帰れるのも、今週限りだろうと思った。来週あたりからは、もう中間試験の準備を始めなければならない。そんなことを考える私の頭の端に、つまらないという単語がジッと膝を抱えているのであった。
授業がつまらない。面白くない。
それが生徒にとって普遍的な問題になるのは、往々にして学びが自発的なものではなく、強要されたものだからだと考えるが、恐らく宇佐見菫子は違うのだろう。彼女が授業をつまらないと評するのは、ひとえに授業で教わる内容など、すでに彼女の頭の中に入ってしまっているからなのではないだろうか。
首をひねる。果たしてそんな生徒に、授業を受けさせる必要があるのか。
そのように考えてしまうと、宇佐見の好きなようにさせておくのが最善なのではないか、と弱気な声が私の内から登ってくる。だがそれは得策ではない。どうしてか私には、確信めいたその判断を振り切るつもりはないようだった。
「……ん?」
昇降口へと向かう途中、部室棟に向かう廊下の奥で、誰かの姿を見た気がした。そちらへ目を向ける。果たして、そこにはひとりの女生徒の姿があった。宇佐見菫子だった。生徒が部活動で校舎に残っていることができるのは、六時までの筈だ。何かを思うより前に、声が出ていた。
「おい、宇佐見」
部室の鍵を閉めていたらしい彼女は、私の声で驚いたのかビクリと身体を震わせた。そして、サッと左腕を自分の背中の方に回す。その動作があまりに不自然で、私は違和感を抱きつつ、
「もう七時を過ぎてるぞ。こんな遅い時間まで残っているものじゃない」
「あ、あはは、そうですね。すいません」
「来なさい」
「へ?」
「職員室に鍵を返しに行くのだろう? 顧問は誰だ?」
「あ、えっとー。はい、顧問は松久先生です」
「む? どういうことだ? 松久先生はもう帰られたぞ? 彼女はお前が残ることを承知していたのか?」
「はぁ……」
宇佐見の顔に、面倒くさい奴に絡まれた、と書いてあった。そんな中でも、彼女は頑なに左手を背中に隠し続けているのが気になった。
「左手」
「え……?」
「何を隠している?」
「あ、い、いやいや! 別に、何も変なものは……!」
「無いなら隠す理由がないだろう。見せなさい」
「うーん……」
宇佐見は少し悩んだ様子を見せた後、しぶしぶと左手を私に見せる。
ぎょっとした。宇佐見の左手の甲に、ガーゼが張られていた。ガーゼの中心には血が滲んでいる。ガーゼに染みた血はまだ赤く、それは宇佐見が血を流してからそう時間が経っていないことを示唆していた。
「どうしたんだ?」
「ちょっと転んじゃって……」
「本当か?」
ジッと宇佐見の両目を見つめながら尋ねる。一秒、二秒、三秒を刻むよりも先に宇佐見の視線が泳いだ。嘘だ、と知れた。
「なぜ嘘をつく? 私には言えない理由があるのか?」
「…………別に」
宇佐見は私から視線を逸らし、突き放すような声で告げる。その様子は明らかに何かを隠している風だったが、その隠している何かは、イジメの類ではないように思えた。こればかりは経験則だ。
私はため息をつく。今の宇佐見は頑なに心を閉ざしているように見える。そのような場合、生徒にあれこれ質問したところで、どうにもならない。真実を話すどころか、こちらが根負けするまで、のらりくらりと嘘を吐き続けるだけだ。
「ならばいい。別に聞かない」
「え? そう……」
あーだこーだと続く説教でも想像していたか、辟易としていた風の宇佐見は、私の返答に虚を突かれたらしく、頑なな表情を崩した。これなら一歩、踏み込めるだろうか。私は何気ない風を装いつつ、
「宇佐見、授業はつまらないか?」
「はぇ?」
キョトンとした声が返ってくる。悪くないリアクションだ、と判断した。
「高校の授業は、すでにお前が知っていることを、なぞっているだけなのだろうか。お前の勉学に、我々教師は不要なのだろうか。お前が高校教育程度では満足できないというのならば、高卒認定試験を受けて、一足飛びに大学に進学するという手段もある」
「あの……えっと?」
「混乱しているか? 私の言ったことを噛み砕く時間が必要か? ならば少し私は黙ろう」
「いや混乱、というか……何です? いきなり」
「私が問いたいことはひとつだ。なぜ、授業中に寝ている? それも必ず。私のさっきの提案は、そこから自分なりに仮説を立てたに過ぎない」
石井からのタレコミは、もちろん隠した。教師として当然の判断だ。詰問と取られないように口調を柔らかくしたつもりだったが、宇佐見はどう受け取っただろうか。驚いた風に私を見つめている宇佐見の瞳からは、判断ができなかった。
「――私、別に授業中だけ寝てるわけじゃありません」
宇佐見がスゥ、と表情を変えた。微笑み――いや、嘲りの色が強い。達観した視線は、女子高生らしからぬ何かを感じさせた。思春期特有の全能感だろうか? そうとも取れるし、そうでないとも取れる。得体のしれない、という言葉が脳裏をかすめた。
「睡眠障害か?」
恐らく違うだろうとは思いつつ、尋ねてみる。案の定、宇佐見は小さく笑って首を横に振った。
「そうだと言ったら、先生は病院を勧めるでしょう? だから違います。私、健康ですから」
「健康的な高校生の睡眠時間は八時間前後だ。お前は夜眠れていないのか?」
「それも違います。私、十二時にはベッドに入りますから」
「ならば睡眠時間が過剰だ。それで睡眠障害でないとなぜ言える?」
「夜の睡眠と昼の睡眠は違うので。私、睡眠学習してるんです」
「その睡眠学習とやらは、授業を受けるよりも効率的な学習方法だと言うわけだ」
「そうです」
「現時点で睡眠学習の有効性を認める論拠がないことくらい、お前になら判りそうなものだがな」
「それでは逆に問います。吉岡先生。私の成績は何によって維持されているとお考えですか?」
宇佐見が挑発的に私を見上げながら問う。それは宇佐見菫子という生徒の特異性の深淵を覗かせるような問いかけだった。私はその質問を受けて、宇佐見に対する評価の修正を迫られた。
私は宇佐見の頭脳が並外れて明晰なためだと考えていた。授業中に眠っていようが、起きている時間にする勉強でカバーできているためだと。
だが宇佐見は、それは違うと言う。
「私、寝ているんじゃなくて、夢を見ているんです」
夢、という単語を口にしたとき、宇佐見はその単語の舌触りを味わうかのように、うっとりと唇をほころばせた。
「すごく素敵な夢です。とても素晴らしい夢です。刺激的で、楽しくて、自由で……その夢の世界の中でなら、私は何でもできるんです。色んな人とおしゃべりしたり、遊んだり、たまに勉強してたり――だから」
と、間を置いた宇佐見がジッと私を見つめてくる。先ほどまでの楽しそうな雰囲気はどこへやら、その視線は冷徹だった。それは許すことのできない敵を見つめるようでもあり、路傍の石を見つめるようでもあった。
「――夢の、邪魔をしないでください」
有無を言わせない声で断言した彼女は、一礼をしてから私の横を通り過ぎて去っていく。
気圧されて数秒、硬直していた。私が振り向いたとき、もうすでに宇佐見はどこにもいなかった。窓の外に夜が広がる廊下には、誰の気配もなかった。
まるで、宇佐見がテレポートでもしてしまったかのようだった。
◆
帰りしなに書店で夢について書かれた本を買った。恐らく、この本を読んだところで何の力にもならないに違いない、という奇妙な確信があったにもかかわらず。
以前、自殺未遂を起こした生徒と話をしたことがあった。そのときの感覚と、宇佐見と話をしたときの感覚が同じだった。拠り所を亡くしてしまったような、漠然とした不安。明確な言葉にすることができないのが、もどかしい。
すぐにでも行動に移さねばならない、と感じた。宇佐見の様子は明らかに尋常ではなかった。宇佐見菫子は、何かに憑かれている。その何か、の具体的な姿は見えない。彼女の言葉を鵜呑みにするならば、夢、ということになる。
途中で誰もいない公園に寄り、街灯の下のベンチに座って本を開く。流し読みした程度だが、フロイトを噛み砕いただけにしか見えず、まったく参考にならなかった。
「…………」
無意識に胸ポケットへ手を伸ばしかけ、そういえば禁煙していたのだった、と思い出す。イライラと焦燥が募る。しかし立ち上がる気にはならなかった。ため息を吐く。
――夢。睡眠中に脳が記憶を整理する際に見えるモノ。そこには神秘も真理もない。無いはずだ。宇佐見がそれを知らないはずもない。だが、彼女の口ぶりでは違った。夢を入り口に、別の世界へと至っているかのようだった。
重要なのはその真偽ではなく、宇佐見が『夢』に焦がれているという事実だ。現実を軽視し、『夢』に入り浸ることを是としていることだ。
今になって、宇佐見の言う「つまらない」の理由を理解した。あれは私や他の先生方の授業に対する感想ではない。現実そのものに対する冷徹な評価だったのだ。
大変に危うい精神状態だと判断せざるを得ない。
だが、どうすればいいのか、まるで判らない。前例がない。現実に見切りをつけ、夢に安寧を見つけてしまった生徒への対処法なんて、寡聞にして聞いたこともない。
個人面談による説得。否、私は宇佐見の『夢』の正体を知らない。そんな状況で、現実の重要性を解いたところで宇佐見には届かない。
精神療法。否、宇佐見自身にそれを受け入れるつもりがないように見えた。私が親御さんを通して働きかけたところで、一笑に付されるだけだ。
宇佐見が眠るたびに起こし続ける。否、それは対症療法であって、問題の根本的な解決足りえない。これ以上の妨害をすれば、不登校になる可能性も大いに考えられる。それに、他の生徒を蔑ろにすることになる。それは教師として受け入れられない。
……私には、今の宇佐見がひどく不安定に見える。『夢』に焦がれる姿勢に希死念慮を見出してしまう。ともすれば赤信号を渡るような気軽さで、自分の命を捨ててしまいそうに思えてならない。
考えろ。生徒を守るのが教師の役目ではないのか。生徒の将来を正しい方向へ導く一助となるのが、教師の務めなのではないのか。
だがしかし、それは傲慢だ。教師という肩書は、他人の人生を決定する免罪符ではないし、そんなことは絶対にあってはならない。私が危ういと感じたからといって、宇佐見の判断を無下にすることが許されるわけでもない。
――自嘲する。じゃあ結局、私はどうしたいのだ。
どうにもならないのだ、という諦観がよぎる。誰かを救うということは、本質的に人間の手に余るものなのだ。ましてそれが教師ならば、なおさらだ。教師の仕事は生徒と向き合うこと止まりで、生徒に介入することは業務範囲外なのだ。やってはいけないから、業務範囲外なのだ。私が悩もうが悩むまいが、結局のところ余計なお世話でしかないのだ。
「――先生、宇佐見のこと考えてるでしょ」
不意に声がした。それは街灯を挟んで右隣の、もう一脚のベンチ。さっきまでは誰もいないはずだったが、いつの間にか制服姿の石井桜が座っていた。
「……石井? なぜここに?」
「さて、どうしてでしょうか」
石井は前髪を指先で弄りながら煙に巻くような微笑みを浮かべる。時計を確認する。もう午後九時を回っていた。周囲を確認する。石井の他には誰もいない。
女子生徒がこの時間に、人気のない場所でひとり。
到底褒められた行為ではない。私は咳ばらいをして、
「帰りなさい。もう夜も遅い。生徒が出歩いていい時間じゃない。家はどこだ? 少なくとも駅までは送っていくからな」
「私がここにいるの、先生に帰れって言われるためじゃないんだけどな」
石井が片膝を抱くように座面に足を掛けて、頬を膨らませる。ため息をついた。私は石井にお節介を焼かれてしまうほど、悩んでいるような振る舞いをしていただろうか。
「話があるなら学校で聞く。ともかく、家に――」
「宇佐見がとうとう現実を『卒業』しようとしてるっての、知ってる?」
「……なに?」
立ち上がりかけた私を、石井の無表情が制した。射すくめられた、わけではないと思う。石井が口にした言葉を、うまく処理することができなかった。
「卒業? 現実を? それは」
「言葉の通りだよ。宇佐見は夢が楽しいの。現実はつまらないの。授業は退屈だし、人間関係はくだらないし、誰も自分のことを理解できないと思ってる。よくある思春期の全能感ってやつ? それが普通じゃないのは、宇佐見菫子が他の人間と比べると、少しだけ全能に近い位置にいるから、なんだよね」
「…………ふむ、興味深い意見だ」
僅かばかりの逡巡を経て、私は石井の言葉を聞くことに決めた。石井の言葉は、私が漠然と宇佐見菫子という人格に対して抱いていた感覚を、的確に表現しているように思えた。
「全能に近い、というのは具体的には?」
「さあ? でも頭いいよね。それに、本質を見抜いてる。普通の女子高生とは違う世界を見てるって感じ」
「仮に違う世界を見ていたとしても、私には疑問に思える。全能に近い人間が、現実という奇々怪々な世界に見切りをつけるだろうか」
「海外旅行かぶれ、みたいなもんなんじゃん? ちょっと外国行ったことあるだけで、やたらと悟ったようなこと言うやつ多いよね」
石井が制服のポケットから煙草を取り出して、慣れた手つきで火を灯す。私が横からそれを見つめていると、彼女は紫煙を吐きながら「いる?」と煙草の箱をこちらに向けた。差し出されたそれは、見たこともない銘柄だった。
「――そうだな。いただこう」
質の悪い冗談だ。そう思いながら石井のもとに歩み寄り、煙草を一本拝借する。私が煙草を咥えると、石井が何も言わず火をつけてくれた。
久方ぶりに吸った煙草はマズい。
だが、奇妙な充足感があった。紫煙の香りは、私が欠陥だらけの不完全な人間であることを思い出させてくれた。何度か咳き込んで、石井に笑われた。私も笑っていた。
「大学生のころ、私はドイツに一年ほど留学していたことがある」
煙草の拝借ついでに石井の隣に座るのは流石に憚られ、さっきのベンチに戻って煙を薄く吐き出しながら呟く。
「ドイツという国は、権利の意識が非常に強固だ。オンとオフの区切りが明瞭だ。仕事をすべき時は仕事に没頭し、休むべき時はきっちり休む。その文化に触れた当初、私は何と先進的なのか、と感動し、引き替えて日本の労働意識の低さに愕然とした。有り体に言えば、日本という国を見下した時期があった」
煙草の灰を落とし、私は足を組む。そうやっていると、若かりし頃の自分に少しだけ近づいたような気がした。大学のキャンパスで、ドイツの街で、若かった私は、気取ってそんな風にしていたのだった。まだ何者でもなかった私は、そうやって格好をつけることでしか自分の何たるかを確認することができなかったのだ。
「ドイツで暮らし、ドイツの文化に触れ、ドイツの人々と酒と会話を組み交わした。ドイツという国は、私にひどく馴染んだ。向こうで恋人もできた。ドイツに骨を埋めることを真剣に考えた夜も、何度かあった」
「けれども、日本に戻った」
「あぁ、そうだ。しかし、その理由はもう思い出せない」
「人生を決めるような選択だったのに?」
「当時はそのように思っていた。自分の選択で、自分の人生が決まるのだと。ドイツに永住するか、それとも日本に戻るか。その選択が、世界や人類と同じくらい重く感じていた」
「世界や人類と、同程度の重い選択を迫られたんだね。先生の中では、その選択をした事実が、理由を塗りつぶしちゃったんだ」
石井の視線が私の横顔に向けられているのを強く感じた。それはダーツで五十ポイントを獲得するように鋭く、視線に重力を乗せているようでもあった。その圧に負けて、私はとうとう石井の方へと顔を向けざるを得なかった。彼女の瞳には煌々と照る満月が映っていて、瞳孔が妖しく収縮するのがはっきりと見えた。
「測りきることのできないものを天秤に掛けることは、辛かった?」
「辛かったとも。だが重要なのは、辛いと感じたかどうかではないんだ」
「天秤に掛けることそのもの。人生の可能性を、自分の手で選ぶことができるということ。選択肢を保有していること……でしょ?」
石井がそう言って笑い、咥えていた煙草をピンと指で弾いて捨てた。
「正直、私もそうして欲しいんだよね。宇佐見にはさ。宇佐見は、色んなことを悟るにはまだ若すぎると思うんだよ。たったの十何年。そんな瞬きみたいな時間で、自分の可能性を狭めるのは若さゆえの過ちってやつだ」
「同感だ」
私は根本まで吸いきってしまった煙草の扱いに困り、けっきょく悪戯を隠す子供のようにこっそりと踏み消して、ベンチの陰に蹴りやってしまった。構うまい。黄昏はなくとも、誰そ彼はあるのだ。今が何時であれ、逢魔が時は今なのだ。
「それで?」
石井がニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべる。すでに私の中で答えは出ていた。海外かぶれの人間の目を覚ますには、別にお前だけが海外を知ってるわけじゃない、と突き付けてやればいい。
「その煙草をくれないか」
「うん。いいよ」
彼女は気軽な調子で言って、煙草のパッケージを私に放ってくる。それをキャッチして、再度パッケージを見る。断言してもいい。こんなパッケージの煙草は、世界のどこを探しても見つからない。喫煙の健康被害を訴える文言が、どこにも書かれていない煙草なぞ。
「じゃ、私は帰るね」
立ち上がった石井が私に背を向ける。この公園の出口はひとつしかない。公園から出るには、私の前を通らなくてはならない。にもかかわらず、石井は私から離れて電灯の明かりの届かない暗がりへと迷うことなく進んでいく。
「あぁ。ところで、お前は誰だったんだ?」
「私が誰だろうと構わないんだ、と思ってたけど」
「……それもそうだな」
石井の姿が闇に溶けていくまで背中を見送り、そして私も立ち上がった。
◆
始業のチャイムが鳴る頃、すでに宇佐見菫子は腕を枕にして机に突っ伏していた。瞼の帳を下ろし、夢と現の間をゆらゆらと揺蕩っていた。素晴らしき夢の世界は、そうしていつも彼女を暖かく迎えるのだ。灰色の学校空間から、虹さえ霞む鮮やかな世界へと。
いつも通りの通過儀礼。彼女にとっては、いつも通りの夢路。しかしその日その時間は、行く手を阻むモノがあった。それはぼんやりと歪んできた意識に突き刺さるような、女子生徒の悲鳴にも近い非難の声。
「えぇぇ!? 先生、禁煙してたんじゃないの!?」
思わずビクリと顔を上げてしまう。声の主は、宇佐見菫子から三つほど離れたところに座る女子生徒だった。教室がざわついていて、彼女は眉間にしわを寄せる。
騒いだ女子生徒の名を、宇佐見菫子は知らない。彼女にとって、クラスメイトなどは路傍の石と何ら変わらない存在でしかなかった。所詮、皮相浅薄な空っぽ頭だと端から馬鹿にしていたからだ。彼女の夢路を邪魔した生徒の上靴を見る。石井桜、という名前らしい。それを改めてから、そんなことが何だというのか、と彼女は女生徒の名を確認した自分を自嘲した。
顔を前に戻す。どうやら現国の時間のようだった。宇佐見菫子は新学期の時間割をまったく知らない。眠りと夢が待つ身としては、何の授業をやっていたところで知ったことではない。どうせ寝ているのだ。だが彼女は教卓の前に立つ教師の顔を見てため息をつく。現国の吉岡。どういう趣味があるのか、どんなに無下にしても宇佐見菫子の眠りを邪魔し続ける堅物頭だ。
「故あって昨日な。まぁ、貰い物だ。無くなれば、また禁煙を再開するさ」
「にしても教室まで持ってくるー? 教頭とかから怒られるんじゃないのー?」
キンキンと尖った声で非難する石井桜を横目に、宇佐見菫子はイライラを募らせる。教師が煙草を吸おうが吸うまいが、そんなことは彼女にとって、上野動物園のパンダの欠伸くらいどうでも良かった。だが石井桜のせいで、教室は授業を始められそうな状況にないことは問題だった。大手を振って眠ることができない。
宇佐見菫子は、ざわついている生徒のひとりひとりを片端から殴りつけて、黙らせてやりたい衝動に駆られた。くだらないことで騒ぐ連中が腹立たしかった。どうでもいいことで騒ぐ輩が生理的に気に入らなかった。烏合の衆。馬鹿の見本市。日光猿軍団。その怒りの矛先は次第に、生徒を騒がせておきながら注意もしない吉岡へと向いていった。
さっさと黙らせろ。宇佐見菫子は吉岡を睨んだ。いつもは平成を通り越して昭和のような価値観を押し付けてくるくせに、どうして今日は授業を始めようとすらしないのか。鷹揚に生徒たちとの雑談に興じている吉岡の胸元を、彼女は見た。胸ポケットに入っている煙草のパッケージを見た。それを認識した途端、それまでの怒りなど吹き飛んでしまった。
「えっ!?」
宇佐見菫子が声を上げた。途端、それまでざわついていた教室が、水を打ったように静かになった。生徒たちの目が宇佐見菫子に向けられていた。あの万年寝太郎が声を出したということが、宇佐見菫子のクラスメイトに空が落ちてくるくらいの衝撃を与えた。だが宇佐見菫子は、それを認識しない。できない。驚愕に見開かれた彼女の瞳は、吉岡の胸ポケットを射止めたまま微動だにしない。
「……なんで……?」
誰に言うでもなく、宇佐見菫子が呟く。
その煙草のパッケージに、見覚えがあった。
それは彼女が足しげく通う、夢の世界の産物だったからだ。夢の世界のモノが、現実世界にあるわけがない、という至極当然の事実が、彼女を混乱させた。まして、それを吉岡が当たり前のように持っているなんて。
「言っただろう。貰い物だ」
吉岡がニヤリと意味ありげに笑って言う。宇佐見菫子は、その日初めて吉岡が笑うところを見たような気がしたが、現に彼女が吉岡の笑顔を見たのは、それが初めてだった。
「さ、私の煙草のことなぞ、どうだってよかろう。授業を始めるぞ。教科書の七十九ページを――」
「ち、ちょっと! 吉岡先生!? 貰い物って、それ、そんな……誰から!?」
「さて、誰だろうな? お前の知り合いなのかもしれんが、そんなことはどうでも良かろう。いいから教科書を開け。もう雑談は終わりだ」
宇佐見菫子からの質問などという、宇宙人侵略レベルの珍事を前に、吉岡は平然としていた。彼はもう授業を始めるつもりで、宇佐見菫子の質問に真摯に向き合う気など更々ないようだった。
もはや宇佐見菫子は眠るどころではなかった。頭の中は疑問符で埋め尽くされ、視線は吉岡に釘付けだった。現実世界でこんなにも混乱させられるなど露とも思っておらず、彼女は忸怩たる思いで吉岡の授業を聴くほかになかった。
夢の世界は彼女だけの特権だった。それは彼女が選ばれた者である証であり、誇りであり、誰一人として知る由もない、この世の神秘の極致のはずだった。それを横合いから掻っ攫って平然としている吉岡への対抗意識がメラメラと燃え上がった。
(絶対に秘密を暴いてやるんだから……!)
宇佐見菫子は意地になった。絶対に、吉岡があの煙草を持っている理由を突き止めてやると誓った。ずっと目標にしていた夢世界への永住計画をさえ白紙にした。はぐらかされた秘密を暴かないまま、夢の世界へと行くことは、彼女にとって現実への敗北だった。敗残兵などという汚名を背負ったまま、あの世界に行くことは彼女のプライドが許さない。
宇佐見菫子が眠らない授業、という異常事態をよそに、晩夏に生き残ったセミがジワジワと鳴き続けていた。
もうじき、夏が終わる。
宇佐見菫子という女子高生の特異性を、我が東深見高校は持て余していると言って過言ではなかった。
「――吉岡先生。彼女は天才ですよ。神童と言ってもいい」
いつか数学の斎藤先生はそう力説していた。
「千七百二十九という数字をハーディ・ラマヌジャン数だと即座に見抜く女子高生なんて、そうそう居ませんからね」
「――宇佐見? あぁ……」
私が顧問をしている女子バスケットボール部の石井桜は、眉をひそめた。
「先生も大変だね。でもま、あの子はマジ変人って感じ。悪い子じゃないとは思うんだけどさ」
「――宇佐見菫子……? うーん……」
英語の古川先生は、しばし悩んだ末に、
「僕は特に印象には残ってないかなぁ。まぁ、静かで大人しい子、という感じかな」
と、言った具合に、誰に聞いてもバラバラで一貫性がない。
誰も宇佐見菫子を理解できなかったし、彼女自身、それを端から理解してもらおうと思っていないことは明白だった。彼女が積極的に誰かと話をしているところなど見たことがない。しかし稀に話しかけられれば、特に邪険にするでもなく、淡々と受け答えをする。だから、コミュニケーションに絶望的な断絶があるわけではない。
ただし、得体が知れないのだ。
天才。そうなのかもしれない。彼女の成績はズバ抜けている。東深見高校はもちろん、全国統一模試で一位を争ったことさえある。
変人。そうなのかもしれない。彼女は彼女一人しか所属部員のいないオカルトサークルを立ち上げ、そのサークルの会長を担っている。本当はサークルとしての活動は、最低でも三人は部員が居ないと認められないが、彼女の成績の優秀さゆえに特例として認められていた。
静か。大人しい。これは間違いない。
そして私が、宇佐見菫子について何よりも憂慮している点だった。
「――というわけで、第二問の正解はbとなる。ここで言及されているレジリエンスとは、第六段落の三行目で記述されているように、環境の変化に応じて……」
「Zzz……」
「……」
またか、と私は黒板の上に走らせていたチョークを止め、振り返る。
窓際の一番後ろの席。教師から目立たない、と生徒が思っているだろう席。そこで宇佐見菫子は、今日も腕を枕にして堂々と居眠りをしていた。
――授業中の居眠り。
致し方ないところはあるとは思う。私自身、自分が学生だったときに一度も居眠りをしなかったか、と問われれば首を横に振る。だが、宇佐見のそれはあまりにも度を越していた。なんせ、彼女が授業中に起きている姿を私は見たことがない。
常に寝ている。自明の理であるかのように寝ている。そのうち布団を敷くんじゃないかと本気で危惧するくらい、いつも寝ている。
「おい、宇佐見、起きろ」
注意すると、生徒たちがクスクスと笑いだす。判っている。彼らも思っているのだ、まただ、と。また吉岡が宇佐見の居眠りにオカンムリだぞ、と。
そんな状況も私の辟易とした気分も露知らず、宇佐見はピクリとも反応しない。まるで抜け殻のようでさえある。私は黙って宇佐見の席まで近づき、丸めた教科書で彼女の頭をポコン、と叩いた。体罰だ体罰だ、と囃す声には構わない。
「宇佐見」
「………………んぁ?」
「お前、授業聞いてたか?」
「あぁ……なんだ、現国の時間だったか……」
めんどくさ、とため息交じりに呟く宇佐見を見下ろしながら、
「なんだ、じゃないんだ。なんだ、じゃ。絶対に寝るな、とは言わん。だが、端から寝る姿勢を固めるのは辞めろ、と言っている。少しは聞く姿勢を見せてくれ、と」
「はーい。すみませんでしたー」
「口だけじゃなく、行動で示してくれ」
私がそう言って初めて、宇佐見が机の中から教科書とノートを取り出す。大儀そうに。私はそれを暗澹たる気持ちで眺めてから、教卓へと戻る。
「で――」
と二の句も継げないうちに、私は口を噤んでしまう。
宇佐見が寝ていた。
私が宇佐見の席から教卓へ戻るまでの僅かな時間で、もう寝ていた。
宇佐見の隣は宮沢という気の弱い女子生徒だったが、寝ている宇佐見と絶句している私を見比べながら、オロオロしていた。クラスのそこかしこから、クスクス笑いが聞こえてきていた。
「……宇佐見?」
私は冗談だろ、という気持ちで宇佐見を呼ぶが、やはりピクリとも反応しない。隣の宮沢が遠慮がちに宇佐見の肩を叩き、そして私に向かって首を横に振る。完璧に寝ている。宮沢は臨終を告げる医者のように悲痛な表情を浮かべていた。
……私は。
私は教師生活において、絶対に感情的にならないことを誓っている。感情に任せて何かを言ったところで、それはもう生徒に対する指導ではなく、恐怖に頼った支配になってしまうと知っているからだ。
だから、深呼吸。怒鳴りそうになる自分を懸命に抑える。私は再び宇佐見の席に向かい、スースー寝息を立てている宇佐見の頭を丸めた教科書でポコン、と叩く。
「…………ふぁい」
むっくりと頭を上げて、眼鏡を掛け直した宇佐見はいかにも不機嫌だった。ある意味そのふてぶてしさには尊敬の念を抱いてしまう。私は努めて冷静な声で、
「宇佐見、第二問の答えを――」
「bです」
「……理由は?」
「ここで言及されているレジリエンスとは、環境の変化に応じて自らの姿を変えていくことだから、です」
「…………それじゃ」
「第三問、c。第四問、b。第五問、b」
「………………」
果たして宇佐見の答えは、すべて合っているのだった。そしてこれをやられてしまうと、本当に教師としての立場がなくなってしまう。恐らく詳細に尋ねても合っているに違いないわけで。つまりそれはもう、お前に教えてもらうことなど何もないという宣言であり、私の注意に対する拒絶でもあるわけで。
「正解です?」
「……あぁ」
「それは良かった。では、授業の続きをお願いします」
宇佐見が満面の笑みを浮かべる。そこには思った通り言外に、お前に聞くことは特にないので、私が寝てようが放っといてくれとのメッセージが込められていた。
◆
「先生もしつこいよねー。マジ。先生だけだよ。まだ宇佐見のこと諦めてないの」
石井桜がニシシ、とからかうように笑う。放課後、体育館。バスケットボールが弾む音、シューズがリノリウムをキュッキュッと踏みしめる音。まるで私が宇佐見菫子のストーカーであるかのような言いぶりに、閉口する。
「てかさー、良いじゃん別に。放っとけば。高校は義務教育じゃないんだし。キョーシの仕事って、生徒に勉強教えることっしょ? そりゃ、寝てて勉強できません、じゃマズいかもだけど、宇佐見は勉強めっちゃできるんだしさ」
「……うむ」
そう。石井の言い分は、間違っていないのだ。
どういう理屈かさっぱり判らないが、宇佐見は何ら支障なく授業に付いて来れている。どころか、周囲の生徒を差し置き、全国レベルの成績を誇っている。こと勉学において、宇佐見菫子は間違いなく天才だ。
私語をして授業の妨害をすることもない。宇佐見はただ寝ているだけだ。そして授業を聞いていなくても成績が落ちる気配は欠片もない。ならば放っておけ、というのは理屈の上では正しい。事実、私以外の教師陣は、宇佐見の居眠りを完全に黙認している。
高校は義務教育ではない。授業を邪魔せず、学業が疎かになっていないのならば、居眠りくらい無視していても何の問題もない。
――だが、やはり私の意識はそれを是としないのだった。
「……授業中に眠るのは良くない、という固定観念なのかもしれないが……」
「先生、頭固すぎじゃん? いまどき、そういう平成くさいの、通用しないって」
「私の考えすぎだろうか? 宇佐見の眠りようは、尋常ではないモノを感じるのだが」
なんせ、判を押したように寝ているのだ。私にはそれが異常に思える。
少なくとも四月の時点では、そうでもなかった。退屈そうに窓の外を眺めていた記憶がある。それが五月には居眠りしている様子が散見し、二学期を迎えた現在は起きている宇佐見を見かけることなど、まったくない。
そうだ。まったくない。宇佐見は必ず寝ている。少し夜更かしをした、とか昼夜逆転している、とかいう範疇を超えているように感じる。例外的に小テストや模試、中間試験のときには平然と起きて問題を解いているが、私には逆にそれが不思議で仕方がない。
つまり宇佐見の睡眠は、意図的に行われているものなのだ。体調不良が原因ではない。宇佐見は自分の意思のもとに睡眠を選択しているのだ。そして実際に眠っている。そんなに人間が器用に眠れるか、という疑問もさることながら私には彼女が授業を、ひいては現実を拒絶しているように見える。
「宇佐見が心配なの? 先生?」
石井が私の顔を覗き込むようにして聞いてくる。その表情にどこかギクリとさせられながらも、
「いや、まぁ……そうだな。確かに心配、なのかもしれない……」
などと、何故か言い訳めいた口調で返す。ふぅん、と唇をすぼめた石井は、
「つまんない」
「は?」
「――んだって。ほら、宮沢さんが聞いてみたらしいの。宇佐見の隣の子。で、最初は寝不足で、とか体調悪くて、とか誤魔化してたらしいんだけどさ。けっきょく、そういうことらしいよ。ヤな感じ」
石井はそう言い置いて、コートの方へと戻っていった。チクリと棘のある言葉を残した石井は、もうすでに楽しそうな笑顔を浮かべてバスケットボールを手にしていた。
◆
「……つまらない、か」
部活の顧問の時間を終え、職員室で日誌を片付けて、小さく息を吐く。
まだ何人かの先生が残ってらっしゃる。私はカバンを肩にかけ、お先に失礼します、と誰にともなく挨拶した。お疲れ様です、と誰からともなく挨拶が返ってきた。職員室を出る。
窓の外はすっかり夜の様相だった。もう七時を回っている。こうしてこの時間に帰れるのも、今週限りだろうと思った。来週あたりからは、もう中間試験の準備を始めなければならない。そんなことを考える私の頭の端に、つまらないという単語がジッと膝を抱えているのであった。
授業がつまらない。面白くない。
それが生徒にとって普遍的な問題になるのは、往々にして学びが自発的なものではなく、強要されたものだからだと考えるが、恐らく宇佐見菫子は違うのだろう。彼女が授業をつまらないと評するのは、ひとえに授業で教わる内容など、すでに彼女の頭の中に入ってしまっているからなのではないだろうか。
首をひねる。果たしてそんな生徒に、授業を受けさせる必要があるのか。
そのように考えてしまうと、宇佐見の好きなようにさせておくのが最善なのではないか、と弱気な声が私の内から登ってくる。だがそれは得策ではない。どうしてか私には、確信めいたその判断を振り切るつもりはないようだった。
「……ん?」
昇降口へと向かう途中、部室棟に向かう廊下の奥で、誰かの姿を見た気がした。そちらへ目を向ける。果たして、そこにはひとりの女生徒の姿があった。宇佐見菫子だった。生徒が部活動で校舎に残っていることができるのは、六時までの筈だ。何かを思うより前に、声が出ていた。
「おい、宇佐見」
部室の鍵を閉めていたらしい彼女は、私の声で驚いたのかビクリと身体を震わせた。そして、サッと左腕を自分の背中の方に回す。その動作があまりに不自然で、私は違和感を抱きつつ、
「もう七時を過ぎてるぞ。こんな遅い時間まで残っているものじゃない」
「あ、あはは、そうですね。すいません」
「来なさい」
「へ?」
「職員室に鍵を返しに行くのだろう? 顧問は誰だ?」
「あ、えっとー。はい、顧問は松久先生です」
「む? どういうことだ? 松久先生はもう帰られたぞ? 彼女はお前が残ることを承知していたのか?」
「はぁ……」
宇佐見の顔に、面倒くさい奴に絡まれた、と書いてあった。そんな中でも、彼女は頑なに左手を背中に隠し続けているのが気になった。
「左手」
「え……?」
「何を隠している?」
「あ、い、いやいや! 別に、何も変なものは……!」
「無いなら隠す理由がないだろう。見せなさい」
「うーん……」
宇佐見は少し悩んだ様子を見せた後、しぶしぶと左手を私に見せる。
ぎょっとした。宇佐見の左手の甲に、ガーゼが張られていた。ガーゼの中心には血が滲んでいる。ガーゼに染みた血はまだ赤く、それは宇佐見が血を流してからそう時間が経っていないことを示唆していた。
「どうしたんだ?」
「ちょっと転んじゃって……」
「本当か?」
ジッと宇佐見の両目を見つめながら尋ねる。一秒、二秒、三秒を刻むよりも先に宇佐見の視線が泳いだ。嘘だ、と知れた。
「なぜ嘘をつく? 私には言えない理由があるのか?」
「…………別に」
宇佐見は私から視線を逸らし、突き放すような声で告げる。その様子は明らかに何かを隠している風だったが、その隠している何かは、イジメの類ではないように思えた。こればかりは経験則だ。
私はため息をつく。今の宇佐見は頑なに心を閉ざしているように見える。そのような場合、生徒にあれこれ質問したところで、どうにもならない。真実を話すどころか、こちらが根負けするまで、のらりくらりと嘘を吐き続けるだけだ。
「ならばいい。別に聞かない」
「え? そう……」
あーだこーだと続く説教でも想像していたか、辟易としていた風の宇佐見は、私の返答に虚を突かれたらしく、頑なな表情を崩した。これなら一歩、踏み込めるだろうか。私は何気ない風を装いつつ、
「宇佐見、授業はつまらないか?」
「はぇ?」
キョトンとした声が返ってくる。悪くないリアクションだ、と判断した。
「高校の授業は、すでにお前が知っていることを、なぞっているだけなのだろうか。お前の勉学に、我々教師は不要なのだろうか。お前が高校教育程度では満足できないというのならば、高卒認定試験を受けて、一足飛びに大学に進学するという手段もある」
「あの……えっと?」
「混乱しているか? 私の言ったことを噛み砕く時間が必要か? ならば少し私は黙ろう」
「いや混乱、というか……何です? いきなり」
「私が問いたいことはひとつだ。なぜ、授業中に寝ている? それも必ず。私のさっきの提案は、そこから自分なりに仮説を立てたに過ぎない」
石井からのタレコミは、もちろん隠した。教師として当然の判断だ。詰問と取られないように口調を柔らかくしたつもりだったが、宇佐見はどう受け取っただろうか。驚いた風に私を見つめている宇佐見の瞳からは、判断ができなかった。
「――私、別に授業中だけ寝てるわけじゃありません」
宇佐見がスゥ、と表情を変えた。微笑み――いや、嘲りの色が強い。達観した視線は、女子高生らしからぬ何かを感じさせた。思春期特有の全能感だろうか? そうとも取れるし、そうでないとも取れる。得体のしれない、という言葉が脳裏をかすめた。
「睡眠障害か?」
恐らく違うだろうとは思いつつ、尋ねてみる。案の定、宇佐見は小さく笑って首を横に振った。
「そうだと言ったら、先生は病院を勧めるでしょう? だから違います。私、健康ですから」
「健康的な高校生の睡眠時間は八時間前後だ。お前は夜眠れていないのか?」
「それも違います。私、十二時にはベッドに入りますから」
「ならば睡眠時間が過剰だ。それで睡眠障害でないとなぜ言える?」
「夜の睡眠と昼の睡眠は違うので。私、睡眠学習してるんです」
「その睡眠学習とやらは、授業を受けるよりも効率的な学習方法だと言うわけだ」
「そうです」
「現時点で睡眠学習の有効性を認める論拠がないことくらい、お前になら判りそうなものだがな」
「それでは逆に問います。吉岡先生。私の成績は何によって維持されているとお考えですか?」
宇佐見が挑発的に私を見上げながら問う。それは宇佐見菫子という生徒の特異性の深淵を覗かせるような問いかけだった。私はその質問を受けて、宇佐見に対する評価の修正を迫られた。
私は宇佐見の頭脳が並外れて明晰なためだと考えていた。授業中に眠っていようが、起きている時間にする勉強でカバーできているためだと。
だが宇佐見は、それは違うと言う。
「私、寝ているんじゃなくて、夢を見ているんです」
夢、という単語を口にしたとき、宇佐見はその単語の舌触りを味わうかのように、うっとりと唇をほころばせた。
「すごく素敵な夢です。とても素晴らしい夢です。刺激的で、楽しくて、自由で……その夢の世界の中でなら、私は何でもできるんです。色んな人とおしゃべりしたり、遊んだり、たまに勉強してたり――だから」
と、間を置いた宇佐見がジッと私を見つめてくる。先ほどまでの楽しそうな雰囲気はどこへやら、その視線は冷徹だった。それは許すことのできない敵を見つめるようでもあり、路傍の石を見つめるようでもあった。
「――夢の、邪魔をしないでください」
有無を言わせない声で断言した彼女は、一礼をしてから私の横を通り過ぎて去っていく。
気圧されて数秒、硬直していた。私が振り向いたとき、もうすでに宇佐見はどこにもいなかった。窓の外に夜が広がる廊下には、誰の気配もなかった。
まるで、宇佐見がテレポートでもしてしまったかのようだった。
◆
帰りしなに書店で夢について書かれた本を買った。恐らく、この本を読んだところで何の力にもならないに違いない、という奇妙な確信があったにもかかわらず。
以前、自殺未遂を起こした生徒と話をしたことがあった。そのときの感覚と、宇佐見と話をしたときの感覚が同じだった。拠り所を亡くしてしまったような、漠然とした不安。明確な言葉にすることができないのが、もどかしい。
すぐにでも行動に移さねばならない、と感じた。宇佐見の様子は明らかに尋常ではなかった。宇佐見菫子は、何かに憑かれている。その何か、の具体的な姿は見えない。彼女の言葉を鵜呑みにするならば、夢、ということになる。
途中で誰もいない公園に寄り、街灯の下のベンチに座って本を開く。流し読みした程度だが、フロイトを噛み砕いただけにしか見えず、まったく参考にならなかった。
「…………」
無意識に胸ポケットへ手を伸ばしかけ、そういえば禁煙していたのだった、と思い出す。イライラと焦燥が募る。しかし立ち上がる気にはならなかった。ため息を吐く。
――夢。睡眠中に脳が記憶を整理する際に見えるモノ。そこには神秘も真理もない。無いはずだ。宇佐見がそれを知らないはずもない。だが、彼女の口ぶりでは違った。夢を入り口に、別の世界へと至っているかのようだった。
重要なのはその真偽ではなく、宇佐見が『夢』に焦がれているという事実だ。現実を軽視し、『夢』に入り浸ることを是としていることだ。
今になって、宇佐見の言う「つまらない」の理由を理解した。あれは私や他の先生方の授業に対する感想ではない。現実そのものに対する冷徹な評価だったのだ。
大変に危うい精神状態だと判断せざるを得ない。
だが、どうすればいいのか、まるで判らない。前例がない。現実に見切りをつけ、夢に安寧を見つけてしまった生徒への対処法なんて、寡聞にして聞いたこともない。
個人面談による説得。否、私は宇佐見の『夢』の正体を知らない。そんな状況で、現実の重要性を解いたところで宇佐見には届かない。
精神療法。否、宇佐見自身にそれを受け入れるつもりがないように見えた。私が親御さんを通して働きかけたところで、一笑に付されるだけだ。
宇佐見が眠るたびに起こし続ける。否、それは対症療法であって、問題の根本的な解決足りえない。これ以上の妨害をすれば、不登校になる可能性も大いに考えられる。それに、他の生徒を蔑ろにすることになる。それは教師として受け入れられない。
……私には、今の宇佐見がひどく不安定に見える。『夢』に焦がれる姿勢に希死念慮を見出してしまう。ともすれば赤信号を渡るような気軽さで、自分の命を捨ててしまいそうに思えてならない。
考えろ。生徒を守るのが教師の役目ではないのか。生徒の将来を正しい方向へ導く一助となるのが、教師の務めなのではないのか。
だがしかし、それは傲慢だ。教師という肩書は、他人の人生を決定する免罪符ではないし、そんなことは絶対にあってはならない。私が危ういと感じたからといって、宇佐見の判断を無下にすることが許されるわけでもない。
――自嘲する。じゃあ結局、私はどうしたいのだ。
どうにもならないのだ、という諦観がよぎる。誰かを救うということは、本質的に人間の手に余るものなのだ。ましてそれが教師ならば、なおさらだ。教師の仕事は生徒と向き合うこと止まりで、生徒に介入することは業務範囲外なのだ。やってはいけないから、業務範囲外なのだ。私が悩もうが悩むまいが、結局のところ余計なお世話でしかないのだ。
「――先生、宇佐見のこと考えてるでしょ」
不意に声がした。それは街灯を挟んで右隣の、もう一脚のベンチ。さっきまでは誰もいないはずだったが、いつの間にか制服姿の石井桜が座っていた。
「……石井? なぜここに?」
「さて、どうしてでしょうか」
石井は前髪を指先で弄りながら煙に巻くような微笑みを浮かべる。時計を確認する。もう午後九時を回っていた。周囲を確認する。石井の他には誰もいない。
女子生徒がこの時間に、人気のない場所でひとり。
到底褒められた行為ではない。私は咳ばらいをして、
「帰りなさい。もう夜も遅い。生徒が出歩いていい時間じゃない。家はどこだ? 少なくとも駅までは送っていくからな」
「私がここにいるの、先生に帰れって言われるためじゃないんだけどな」
石井が片膝を抱くように座面に足を掛けて、頬を膨らませる。ため息をついた。私は石井にお節介を焼かれてしまうほど、悩んでいるような振る舞いをしていただろうか。
「話があるなら学校で聞く。ともかく、家に――」
「宇佐見がとうとう現実を『卒業』しようとしてるっての、知ってる?」
「……なに?」
立ち上がりかけた私を、石井の無表情が制した。射すくめられた、わけではないと思う。石井が口にした言葉を、うまく処理することができなかった。
「卒業? 現実を? それは」
「言葉の通りだよ。宇佐見は夢が楽しいの。現実はつまらないの。授業は退屈だし、人間関係はくだらないし、誰も自分のことを理解できないと思ってる。よくある思春期の全能感ってやつ? それが普通じゃないのは、宇佐見菫子が他の人間と比べると、少しだけ全能に近い位置にいるから、なんだよね」
「…………ふむ、興味深い意見だ」
僅かばかりの逡巡を経て、私は石井の言葉を聞くことに決めた。石井の言葉は、私が漠然と宇佐見菫子という人格に対して抱いていた感覚を、的確に表現しているように思えた。
「全能に近い、というのは具体的には?」
「さあ? でも頭いいよね。それに、本質を見抜いてる。普通の女子高生とは違う世界を見てるって感じ」
「仮に違う世界を見ていたとしても、私には疑問に思える。全能に近い人間が、現実という奇々怪々な世界に見切りをつけるだろうか」
「海外旅行かぶれ、みたいなもんなんじゃん? ちょっと外国行ったことあるだけで、やたらと悟ったようなこと言うやつ多いよね」
石井が制服のポケットから煙草を取り出して、慣れた手つきで火を灯す。私が横からそれを見つめていると、彼女は紫煙を吐きながら「いる?」と煙草の箱をこちらに向けた。差し出されたそれは、見たこともない銘柄だった。
「――そうだな。いただこう」
質の悪い冗談だ。そう思いながら石井のもとに歩み寄り、煙草を一本拝借する。私が煙草を咥えると、石井が何も言わず火をつけてくれた。
久方ぶりに吸った煙草はマズい。
だが、奇妙な充足感があった。紫煙の香りは、私が欠陥だらけの不完全な人間であることを思い出させてくれた。何度か咳き込んで、石井に笑われた。私も笑っていた。
「大学生のころ、私はドイツに一年ほど留学していたことがある」
煙草の拝借ついでに石井の隣に座るのは流石に憚られ、さっきのベンチに戻って煙を薄く吐き出しながら呟く。
「ドイツという国は、権利の意識が非常に強固だ。オンとオフの区切りが明瞭だ。仕事をすべき時は仕事に没頭し、休むべき時はきっちり休む。その文化に触れた当初、私は何と先進的なのか、と感動し、引き替えて日本の労働意識の低さに愕然とした。有り体に言えば、日本という国を見下した時期があった」
煙草の灰を落とし、私は足を組む。そうやっていると、若かりし頃の自分に少しだけ近づいたような気がした。大学のキャンパスで、ドイツの街で、若かった私は、気取ってそんな風にしていたのだった。まだ何者でもなかった私は、そうやって格好をつけることでしか自分の何たるかを確認することができなかったのだ。
「ドイツで暮らし、ドイツの文化に触れ、ドイツの人々と酒と会話を組み交わした。ドイツという国は、私にひどく馴染んだ。向こうで恋人もできた。ドイツに骨を埋めることを真剣に考えた夜も、何度かあった」
「けれども、日本に戻った」
「あぁ、そうだ。しかし、その理由はもう思い出せない」
「人生を決めるような選択だったのに?」
「当時はそのように思っていた。自分の選択で、自分の人生が決まるのだと。ドイツに永住するか、それとも日本に戻るか。その選択が、世界や人類と同じくらい重く感じていた」
「世界や人類と、同程度の重い選択を迫られたんだね。先生の中では、その選択をした事実が、理由を塗りつぶしちゃったんだ」
石井の視線が私の横顔に向けられているのを強く感じた。それはダーツで五十ポイントを獲得するように鋭く、視線に重力を乗せているようでもあった。その圧に負けて、私はとうとう石井の方へと顔を向けざるを得なかった。彼女の瞳には煌々と照る満月が映っていて、瞳孔が妖しく収縮するのがはっきりと見えた。
「測りきることのできないものを天秤に掛けることは、辛かった?」
「辛かったとも。だが重要なのは、辛いと感じたかどうかではないんだ」
「天秤に掛けることそのもの。人生の可能性を、自分の手で選ぶことができるということ。選択肢を保有していること……でしょ?」
石井がそう言って笑い、咥えていた煙草をピンと指で弾いて捨てた。
「正直、私もそうして欲しいんだよね。宇佐見にはさ。宇佐見は、色んなことを悟るにはまだ若すぎると思うんだよ。たったの十何年。そんな瞬きみたいな時間で、自分の可能性を狭めるのは若さゆえの過ちってやつだ」
「同感だ」
私は根本まで吸いきってしまった煙草の扱いに困り、けっきょく悪戯を隠す子供のようにこっそりと踏み消して、ベンチの陰に蹴りやってしまった。構うまい。黄昏はなくとも、誰そ彼はあるのだ。今が何時であれ、逢魔が時は今なのだ。
「それで?」
石井がニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべる。すでに私の中で答えは出ていた。海外かぶれの人間の目を覚ますには、別にお前だけが海外を知ってるわけじゃない、と突き付けてやればいい。
「その煙草をくれないか」
「うん。いいよ」
彼女は気軽な調子で言って、煙草のパッケージを私に放ってくる。それをキャッチして、再度パッケージを見る。断言してもいい。こんなパッケージの煙草は、世界のどこを探しても見つからない。喫煙の健康被害を訴える文言が、どこにも書かれていない煙草なぞ。
「じゃ、私は帰るね」
立ち上がった石井が私に背を向ける。この公園の出口はひとつしかない。公園から出るには、私の前を通らなくてはならない。にもかかわらず、石井は私から離れて電灯の明かりの届かない暗がりへと迷うことなく進んでいく。
「あぁ。ところで、お前は誰だったんだ?」
「私が誰だろうと構わないんだ、と思ってたけど」
「……それもそうだな」
石井の姿が闇に溶けていくまで背中を見送り、そして私も立ち上がった。
◆
始業のチャイムが鳴る頃、すでに宇佐見菫子は腕を枕にして机に突っ伏していた。瞼の帳を下ろし、夢と現の間をゆらゆらと揺蕩っていた。素晴らしき夢の世界は、そうしていつも彼女を暖かく迎えるのだ。灰色の学校空間から、虹さえ霞む鮮やかな世界へと。
いつも通りの通過儀礼。彼女にとっては、いつも通りの夢路。しかしその日その時間は、行く手を阻むモノがあった。それはぼんやりと歪んできた意識に突き刺さるような、女子生徒の悲鳴にも近い非難の声。
「えぇぇ!? 先生、禁煙してたんじゃないの!?」
思わずビクリと顔を上げてしまう。声の主は、宇佐見菫子から三つほど離れたところに座る女子生徒だった。教室がざわついていて、彼女は眉間にしわを寄せる。
騒いだ女子生徒の名を、宇佐見菫子は知らない。彼女にとって、クラスメイトなどは路傍の石と何ら変わらない存在でしかなかった。所詮、皮相浅薄な空っぽ頭だと端から馬鹿にしていたからだ。彼女の夢路を邪魔した生徒の上靴を見る。石井桜、という名前らしい。それを改めてから、そんなことが何だというのか、と彼女は女生徒の名を確認した自分を自嘲した。
顔を前に戻す。どうやら現国の時間のようだった。宇佐見菫子は新学期の時間割をまったく知らない。眠りと夢が待つ身としては、何の授業をやっていたところで知ったことではない。どうせ寝ているのだ。だが彼女は教卓の前に立つ教師の顔を見てため息をつく。現国の吉岡。どういう趣味があるのか、どんなに無下にしても宇佐見菫子の眠りを邪魔し続ける堅物頭だ。
「故あって昨日な。まぁ、貰い物だ。無くなれば、また禁煙を再開するさ」
「にしても教室まで持ってくるー? 教頭とかから怒られるんじゃないのー?」
キンキンと尖った声で非難する石井桜を横目に、宇佐見菫子はイライラを募らせる。教師が煙草を吸おうが吸うまいが、そんなことは彼女にとって、上野動物園のパンダの欠伸くらいどうでも良かった。だが石井桜のせいで、教室は授業を始められそうな状況にないことは問題だった。大手を振って眠ることができない。
宇佐見菫子は、ざわついている生徒のひとりひとりを片端から殴りつけて、黙らせてやりたい衝動に駆られた。くだらないことで騒ぐ連中が腹立たしかった。どうでもいいことで騒ぐ輩が生理的に気に入らなかった。烏合の衆。馬鹿の見本市。日光猿軍団。その怒りの矛先は次第に、生徒を騒がせておきながら注意もしない吉岡へと向いていった。
さっさと黙らせろ。宇佐見菫子は吉岡を睨んだ。いつもは平成を通り越して昭和のような価値観を押し付けてくるくせに、どうして今日は授業を始めようとすらしないのか。鷹揚に生徒たちとの雑談に興じている吉岡の胸元を、彼女は見た。胸ポケットに入っている煙草のパッケージを見た。それを認識した途端、それまでの怒りなど吹き飛んでしまった。
「えっ!?」
宇佐見菫子が声を上げた。途端、それまでざわついていた教室が、水を打ったように静かになった。生徒たちの目が宇佐見菫子に向けられていた。あの万年寝太郎が声を出したということが、宇佐見菫子のクラスメイトに空が落ちてくるくらいの衝撃を与えた。だが宇佐見菫子は、それを認識しない。できない。驚愕に見開かれた彼女の瞳は、吉岡の胸ポケットを射止めたまま微動だにしない。
「……なんで……?」
誰に言うでもなく、宇佐見菫子が呟く。
その煙草のパッケージに、見覚えがあった。
それは彼女が足しげく通う、夢の世界の産物だったからだ。夢の世界のモノが、現実世界にあるわけがない、という至極当然の事実が、彼女を混乱させた。まして、それを吉岡が当たり前のように持っているなんて。
「言っただろう。貰い物だ」
吉岡がニヤリと意味ありげに笑って言う。宇佐見菫子は、その日初めて吉岡が笑うところを見たような気がしたが、現に彼女が吉岡の笑顔を見たのは、それが初めてだった。
「さ、私の煙草のことなぞ、どうだってよかろう。授業を始めるぞ。教科書の七十九ページを――」
「ち、ちょっと! 吉岡先生!? 貰い物って、それ、そんな……誰から!?」
「さて、誰だろうな? お前の知り合いなのかもしれんが、そんなことはどうでも良かろう。いいから教科書を開け。もう雑談は終わりだ」
宇佐見菫子からの質問などという、宇宙人侵略レベルの珍事を前に、吉岡は平然としていた。彼はもう授業を始めるつもりで、宇佐見菫子の質問に真摯に向き合う気など更々ないようだった。
もはや宇佐見菫子は眠るどころではなかった。頭の中は疑問符で埋め尽くされ、視線は吉岡に釘付けだった。現実世界でこんなにも混乱させられるなど露とも思っておらず、彼女は忸怩たる思いで吉岡の授業を聴くほかになかった。
夢の世界は彼女だけの特権だった。それは彼女が選ばれた者である証であり、誇りであり、誰一人として知る由もない、この世の神秘の極致のはずだった。それを横合いから掻っ攫って平然としている吉岡への対抗意識がメラメラと燃え上がった。
(絶対に秘密を暴いてやるんだから……!)
宇佐見菫子は意地になった。絶対に、吉岡があの煙草を持っている理由を突き止めてやると誓った。ずっと目標にしていた夢世界への永住計画をさえ白紙にした。はぐらかされた秘密を暴かないまま、夢の世界へと行くことは、彼女にとって現実への敗北だった。敗残兵などという汚名を背負ったまま、あの世界に行くことは彼女のプライドが許さない。
宇佐見菫子が眠らない授業、という異常事態をよそに、晩夏に生き残ったセミがジワジワと鳴き続けていた。
もうじき、夏が終わる。
それも踏まえて考えると後書きの挑戦的な口調が無性に好きに感じられました。
しかし、公園で会話したソレは一体誰だったのでしょうね…?
確かに現実は早々うまくいくものじゃなくておそらくは下に見てたであろう他の人にしてやられた感はある意味爽快感を感じました
菫子からすれば凡庸な人間に見える石井さんにも妖しい魅力があって好きです。
菫子のような若者からは凡庸に見える人間たちにもそれぞれの不思議やドラマがあるんですよね。菫子は気づかないまま、この世界の魅力の半分とすれ違ったまま見落としてしまっているのかもしれません。菫子にはそう簡単に悟るなんてつまんないことはして欲しくないですね……!
董子には幻想と現実の両方を生きていってほしいという無責任な願望がありますね
現国教師という現の象徴たる存在に、煙草にびっくりしちゃう菫子ちゃんとってもかわいいね。
生徒の事を思う吉岡先生、真面目だけど凄く優しいのでほっこりしましたし、それだけじゃなく人を見抜く力があったり、仕返ししようとする悪戯心もあったりと、彼の様々な表情に惹かれました。
石井桜という存在、彼女は一体何だったのでしょうね…
凄く面白かったです。ありがとうございました。
現実で輝いている菫子ちゃんも、いいですよね。
吉岡先生無能かと思いきや、めちゃくちゃ常識的でいいひとで驚きました
最後にも一矢報いていてカッコよかったです
公園で会った石井桜の正体が明かされていないのも怪奇風味が増して良いと思いました。もしかしてドから始まるあの人だろうか、なんて予想しつつ。