本を読んでいないパチュリー様を見るのは随分久々であった。このお方と目を合わせるのは何ヶ月ぶりだろうか。
テーブルの端にはいくつもの本が平積みにされていて、いつもだったらあの中のどれかを手に取っている頃である。
いまは、骨ばった指を互い違いに絡ませていた。
「話は聞いてるわ。時刻合わせを見たいんだって?」
「ええ。よろしければ、ですが」
「レミィに言われて?それとも私的な好奇心?」
パチュリー様は、アメジストの瞳で私を観察していた。私から何を読もうとしているのか。
「どちらかと言えば、私的な好奇心でしょうね。私の銀時計も時計台で合わせていますし」
「ならいいわ。準備するから待ってて」
パチュリー様が浮かべた微笑の意味を私は読み取れなかった。
昨日の正午のことである。
テラスを白く染める春の日は、パラソルの向こう側に押しやられてもなお目の奥に焼き付いた。お嬢様は、アッサムティーに口をつけると満足げに頷いて、明日は時計台の時刻合わせの日だと仰った。
「ずれているのですか?」
「私は知らないけど、パチェがそろそろやった方がいいってね。でも、咲夜は特に手伝うことないよ」
「それって、どのくらいの頻度でやってるんです?」
「えっと、前回が確か幻想郷に引っ越してきた時で、その前が、幻想郷に来る五十年前だったかな。その前も五十年くらい前だった気がするし、五十年に一回か。いつもパチェが一人で済ませちゃうからよく覚えてないや」
「ということは、これを逃すとまた五十年後というわけですね」
「そうなるかな。見たいの?私は気が散るから来るなって言われてるんだけど、咲夜なら見せてくれるかもね。パチェの魔法って面白いんだ」
というようなやりとりにより、今に至る。
それにしても、親友にそこまで邪険に扱われるとは。そんなに魔法の邪魔なのだろうか。邪魔だろうな。
しばらく待つと、パチュリー様は見たことのないような大きさの魔導書をテディベアのように抱きしめて戻ってきた。真っ黒な表紙に、美しい金文字が踊っている。これだけ立派な本であれば相当な重さのはずだが、意外にもパチュリー様の足取りはしっかりしていた。
「あの、お手伝いしたほうがよろしいでしょうか。それか台車か何か……」
「いいの。この本は魔力を流しながら移動させないといけないから、こうしないと駄目なのよ。ほら、行きましょう」
「はあ、なんとも不便なものですね」
「いいえ、これほど便利な魔導書はこの世でも数えられるほどしかないわ」
パチュリー様はか細い声で答えた。本当に大丈夫なのだろうか。
「この本、外の世界じゃあ相当な値段だったのよ。おかげで家を売り払う羽目になったわ」
「あ、それで紅魔館にいらっしゃったわけですね」
もう少しドラマチックなエピソードがあると思っていたが、存外即物的というか、だらしのない話であった。
「最初は次の住処が決まるまでって約束だったんだけど、居心地が良いもんだからつい長居しちゃったのよ」
少しだけ早口にそう言ったパチュリー様は、おそらく少し照れているのだろう。
時計台の扉が重い音を立てて開き、私達の影を時計台の床に照らし出した。見上げると、ねじれて交叉する連絡通路の向こう側から微かな光が差し込んでいる。セピア色の空間で、規則正しい金属音が遠くから反響して聞こえた。
「それじゃあ上がりましょうか」
「……あの、喘息は大丈夫ですか?ずいぶん埃っぽいですけれど」
「大丈夫」
パチュリー様はそれだけ言うと、さっさと飛び立ってしまった。私もあわてて追いかけた。機械音――振り子が時を刻む音は天井に近づくほどに大きくなった。ゴチンゴチンと一秒が次の一秒に連なる音を聴いていると、時を生み出す工場にいるような気持ちになる。振り子が揺れるたびに、次の一秒が生み出されるのだ。
私たちは連絡通路の一つに降り立って、その先の木扉を開けた。どうやら機械室のようで、ここで時刻の調整を行うらしい。というのも、大量の歯車とクランクが壁じゅうから生えているのである。これらを一つずつ回して操作するのなら大変な重労働だろうが、そのあたりはきっとパチュリー様が魔法でどうにかするに違いなかった。
パチュリー様は機械室の中央に立つと、ゆっくりと本から手を離した。本は落下せずにその場で浮かび、ひとりでにページがめくれ始めた。小窓から入るかすかな光が、ページを白く照らす。
「この魔導書は観測用に作られたの」
「観測用?」
あまりなじみのない概念だった。私が目にする魔法のほとんどは、何かを放出したり、移動させたりするものだ。
「ええ、魔法の研究をするうえで無くてはならないものよ。定量的な計測は科学の専売特許ではない」
魔導書がパラパラとめくれる度に、ルーンや魔法陣の青白い光が周囲に展開される。最後に、金色の光の環が何重にもパチュリー様を包んだ。魔法の光に包まれるパチュリー様は、輝く天球儀の内側にいるようであった。パチュリー様は得意気に視線をよこした。
「どう?結構綺麗なもんでしょう?」
「強そうです」
弾幕ごっこなら無敵効果がつきそうな見た目だった。
「……まあいいわ。見ればわかると思うけど、これで天体の動きを見て時刻を計算するのよ。他にも色々と使い道があるんだけど、今回はあんまり見せられないわね」
「見てもわかりませんが、魔法にも色々あるんですねえ」
「本当は、魔理沙みたいのは邪道なのよ。我々はあくまで求道者」
魔理沙のスペルカードは凄まじいインパクトでもって幻想郷じゅうに魔法の破壊力を知らしめた。幻想郷に暮らしている者が魔法と言われてまず浮かぶのは、彼女の弾幕である。
「マスタースパークは邪道ですか」
「大体、あれさえ無ければ本を持っていかれることもずっと少なく――」
恨み節はしばらく止まりそうにないので、私は黙ってパチュリー様の周りを漂う光輪を眺めることにした。よく見ると、それぞれの輪には目盛りが振られていて、その上を天体とおぼしき球体が動いている。パチュリー様はいま、時間と空間の牢獄に閉じ込められている。気付くと、独り言は詠唱に変わっていた。
つなぎ目のない言葉をつぶやく唇、虚空を睨む瞳、気怠げに伏せられた長いまつ毛。
魔法使いは、私の知らない言語で世界に語りかける。世界は現象により応える。
詠唱が終わると、キュルキュルとけたたましい音を立てて部屋中のクランクと歯車が回り始めた。それらは次々とあるべき位置で停止し、やがては最後の一つが止まった。
「終わったわ」
パチュリー様は、巨大な魔導書を胸に抱いて、私の目をじっと見つめていた。私に言葉を促すように微かに首をかしげると、揃えられた前髪がはらりと流れ落ちる。立っていると、こんなに小さいんだ。
「感想は?」
「なんだか抱きしめたくなりました」
お嬢様は、ダージリンに口をつけると、小さくあくびをしてパラソルの向こうの青空に目をやった。
「パチェ、怒ってたよ」
「つい愛おしくなってしまいました」
「素直でなにより」
「どうやらお気に召されなかったようですが……」
「意外と気難しいからなあ。深読みしすぎるんだよ」
パチュリー様が気難しいのは意外なのだろうか。私は同じ屋根の下にいながらパチュリー様のことをあまり知らないのであった。
「うーん……やはり失礼だったのでしょうか」
「知らん。私は漢字がわからなくても漫画を読むタイプだし」
「そういえば今日は日本語の勉強をする日でしたね」
「うっ」
お嬢様は日本語を書くことができない。万能たる吸血鬼がこれではいけないと最近になって書き取りを習い始めたのはいいものの、ここのところ延期されっぱなしである。果たしてこれが運命を操る能力なのだろうか。
「……咲夜」
「はい」
「パチェが呼んでたよ」
「来たわね」
私が図書館へ赴くと、パチュリー様は待ってましたと言わんばかりに立ち上がった。
「あの、先日は失礼いたしました」
「いいから、ちょっとそこに立ってて」
パチュリー様が魔導書を捲り呪文を詠唱すると、私の足元に展開された魔法陣から金色の光線が伸びて、頭の先を追い越して止まった。
「……うん、やっぱり」
パチュリー様はしばらく光線の上方を眺めると、満足げに頷いた。
「これはいったい……」
「ものの長さを測る魔導書」
「はあ」
私の成長日誌でもつけるつもりなのだろうか。もう大して伸びないだろうに。
「つまりね、私と咲夜の身長差はたったの5.32センチメートルなのよ。だからその……抱きしめたいとか小さいとか言わないように。わかった?」
ああ、なるほど。
「お言葉ですが、そういった発言がパチュリー様の可愛らしさを際立たせてしまうのです。よって不可能かと」
「むきゅー!」
パチュリー様は爆発した。
テーブルの端にはいくつもの本が平積みにされていて、いつもだったらあの中のどれかを手に取っている頃である。
いまは、骨ばった指を互い違いに絡ませていた。
「話は聞いてるわ。時刻合わせを見たいんだって?」
「ええ。よろしければ、ですが」
「レミィに言われて?それとも私的な好奇心?」
パチュリー様は、アメジストの瞳で私を観察していた。私から何を読もうとしているのか。
「どちらかと言えば、私的な好奇心でしょうね。私の銀時計も時計台で合わせていますし」
「ならいいわ。準備するから待ってて」
パチュリー様が浮かべた微笑の意味を私は読み取れなかった。
昨日の正午のことである。
テラスを白く染める春の日は、パラソルの向こう側に押しやられてもなお目の奥に焼き付いた。お嬢様は、アッサムティーに口をつけると満足げに頷いて、明日は時計台の時刻合わせの日だと仰った。
「ずれているのですか?」
「私は知らないけど、パチェがそろそろやった方がいいってね。でも、咲夜は特に手伝うことないよ」
「それって、どのくらいの頻度でやってるんです?」
「えっと、前回が確か幻想郷に引っ越してきた時で、その前が、幻想郷に来る五十年前だったかな。その前も五十年くらい前だった気がするし、五十年に一回か。いつもパチェが一人で済ませちゃうからよく覚えてないや」
「ということは、これを逃すとまた五十年後というわけですね」
「そうなるかな。見たいの?私は気が散るから来るなって言われてるんだけど、咲夜なら見せてくれるかもね。パチェの魔法って面白いんだ」
というようなやりとりにより、今に至る。
それにしても、親友にそこまで邪険に扱われるとは。そんなに魔法の邪魔なのだろうか。邪魔だろうな。
しばらく待つと、パチュリー様は見たことのないような大きさの魔導書をテディベアのように抱きしめて戻ってきた。真っ黒な表紙に、美しい金文字が踊っている。これだけ立派な本であれば相当な重さのはずだが、意外にもパチュリー様の足取りはしっかりしていた。
「あの、お手伝いしたほうがよろしいでしょうか。それか台車か何か……」
「いいの。この本は魔力を流しながら移動させないといけないから、こうしないと駄目なのよ。ほら、行きましょう」
「はあ、なんとも不便なものですね」
「いいえ、これほど便利な魔導書はこの世でも数えられるほどしかないわ」
パチュリー様はか細い声で答えた。本当に大丈夫なのだろうか。
「この本、外の世界じゃあ相当な値段だったのよ。おかげで家を売り払う羽目になったわ」
「あ、それで紅魔館にいらっしゃったわけですね」
もう少しドラマチックなエピソードがあると思っていたが、存外即物的というか、だらしのない話であった。
「最初は次の住処が決まるまでって約束だったんだけど、居心地が良いもんだからつい長居しちゃったのよ」
少しだけ早口にそう言ったパチュリー様は、おそらく少し照れているのだろう。
時計台の扉が重い音を立てて開き、私達の影を時計台の床に照らし出した。見上げると、ねじれて交叉する連絡通路の向こう側から微かな光が差し込んでいる。セピア色の空間で、規則正しい金属音が遠くから反響して聞こえた。
「それじゃあ上がりましょうか」
「……あの、喘息は大丈夫ですか?ずいぶん埃っぽいですけれど」
「大丈夫」
パチュリー様はそれだけ言うと、さっさと飛び立ってしまった。私もあわてて追いかけた。機械音――振り子が時を刻む音は天井に近づくほどに大きくなった。ゴチンゴチンと一秒が次の一秒に連なる音を聴いていると、時を生み出す工場にいるような気持ちになる。振り子が揺れるたびに、次の一秒が生み出されるのだ。
私たちは連絡通路の一つに降り立って、その先の木扉を開けた。どうやら機械室のようで、ここで時刻の調整を行うらしい。というのも、大量の歯車とクランクが壁じゅうから生えているのである。これらを一つずつ回して操作するのなら大変な重労働だろうが、そのあたりはきっとパチュリー様が魔法でどうにかするに違いなかった。
パチュリー様は機械室の中央に立つと、ゆっくりと本から手を離した。本は落下せずにその場で浮かび、ひとりでにページがめくれ始めた。小窓から入るかすかな光が、ページを白く照らす。
「この魔導書は観測用に作られたの」
「観測用?」
あまりなじみのない概念だった。私が目にする魔法のほとんどは、何かを放出したり、移動させたりするものだ。
「ええ、魔法の研究をするうえで無くてはならないものよ。定量的な計測は科学の専売特許ではない」
魔導書がパラパラとめくれる度に、ルーンや魔法陣の青白い光が周囲に展開される。最後に、金色の光の環が何重にもパチュリー様を包んだ。魔法の光に包まれるパチュリー様は、輝く天球儀の内側にいるようであった。パチュリー様は得意気に視線をよこした。
「どう?結構綺麗なもんでしょう?」
「強そうです」
弾幕ごっこなら無敵効果がつきそうな見た目だった。
「……まあいいわ。見ればわかると思うけど、これで天体の動きを見て時刻を計算するのよ。他にも色々と使い道があるんだけど、今回はあんまり見せられないわね」
「見てもわかりませんが、魔法にも色々あるんですねえ」
「本当は、魔理沙みたいのは邪道なのよ。我々はあくまで求道者」
魔理沙のスペルカードは凄まじいインパクトでもって幻想郷じゅうに魔法の破壊力を知らしめた。幻想郷に暮らしている者が魔法と言われてまず浮かぶのは、彼女の弾幕である。
「マスタースパークは邪道ですか」
「大体、あれさえ無ければ本を持っていかれることもずっと少なく――」
恨み節はしばらく止まりそうにないので、私は黙ってパチュリー様の周りを漂う光輪を眺めることにした。よく見ると、それぞれの輪には目盛りが振られていて、その上を天体とおぼしき球体が動いている。パチュリー様はいま、時間と空間の牢獄に閉じ込められている。気付くと、独り言は詠唱に変わっていた。
つなぎ目のない言葉をつぶやく唇、虚空を睨む瞳、気怠げに伏せられた長いまつ毛。
魔法使いは、私の知らない言語で世界に語りかける。世界は現象により応える。
詠唱が終わると、キュルキュルとけたたましい音を立てて部屋中のクランクと歯車が回り始めた。それらは次々とあるべき位置で停止し、やがては最後の一つが止まった。
「終わったわ」
パチュリー様は、巨大な魔導書を胸に抱いて、私の目をじっと見つめていた。私に言葉を促すように微かに首をかしげると、揃えられた前髪がはらりと流れ落ちる。立っていると、こんなに小さいんだ。
「感想は?」
「なんだか抱きしめたくなりました」
お嬢様は、ダージリンに口をつけると、小さくあくびをしてパラソルの向こうの青空に目をやった。
「パチェ、怒ってたよ」
「つい愛おしくなってしまいました」
「素直でなにより」
「どうやらお気に召されなかったようですが……」
「意外と気難しいからなあ。深読みしすぎるんだよ」
パチュリー様が気難しいのは意外なのだろうか。私は同じ屋根の下にいながらパチュリー様のことをあまり知らないのであった。
「うーん……やはり失礼だったのでしょうか」
「知らん。私は漢字がわからなくても漫画を読むタイプだし」
「そういえば今日は日本語の勉強をする日でしたね」
「うっ」
お嬢様は日本語を書くことができない。万能たる吸血鬼がこれではいけないと最近になって書き取りを習い始めたのはいいものの、ここのところ延期されっぱなしである。果たしてこれが運命を操る能力なのだろうか。
「……咲夜」
「はい」
「パチェが呼んでたよ」
「来たわね」
私が図書館へ赴くと、パチュリー様は待ってましたと言わんばかりに立ち上がった。
「あの、先日は失礼いたしました」
「いいから、ちょっとそこに立ってて」
パチュリー様が魔導書を捲り呪文を詠唱すると、私の足元に展開された魔法陣から金色の光線が伸びて、頭の先を追い越して止まった。
「……うん、やっぱり」
パチュリー様はしばらく光線の上方を眺めると、満足げに頷いた。
「これはいったい……」
「ものの長さを測る魔導書」
「はあ」
私の成長日誌でもつけるつもりなのだろうか。もう大して伸びないだろうに。
「つまりね、私と咲夜の身長差はたったの5.32センチメートルなのよ。だからその……抱きしめたいとか小さいとか言わないように。わかった?」
ああ、なるほど。
「お言葉ですが、そういった発言がパチュリー様の可愛らしさを際立たせてしまうのです。よって不可能かと」
「むきゅー!」
パチュリー様は爆発した。
所々でパチュリーと咲夜の考え方というか価値観が衝突してるのがすごい味があると思ったし、面白かったです。
重ねてパチュリー様かわいい
深読みするのも可愛いし、黙々と直すのも好き……
ひたすらにパチュリーが可愛いお話でした!!!
とても良かったです!!!
しっとりとした雰囲気からのにやにやする展開が素敵でした
紅魔館の生活の1ページといった雰囲気でいいなと思っていたら最後にキュート!
素で言ってそうなパチュリー様がかわいらしかったです
しかも生真面目になりすぎることなく、原作っぽさを感じるユーモアが絶妙な塩梅で、スイスイと先に読み進めちゃいます
何よりパチュリーや咲夜の「らしさ」そのままに可愛さが存分に引き出されていてキュート
とても良かったです!