一日に十人も通りがかることのないような、薄暗い路地裏。
時刻は逢う魔が時。
今時珍しくLEDに変換されていない街灯は、黄ばんだ光をときおり点滅させ、より路地裏の薄暗さを強調させていた。
側溝にはいつのものなのか、濡れた落ち葉が腐って泥になっている。
周辺の家屋に人の気配はない。
ほとんどの家は空き家……とは名ばかりの廃屋であった。
人口の減少に伴い、初めは田舎の小さな集落から、ゆっくりと、じわじわと、今では首都である京都の市内ですら、人が住むことのない地区は増えつつあった。
ここもまさに、そんな地区。
その路地裏を私は歩いていた。
市内にある大学から下宿先である木造おんぼろアパートに至る途中、この路地裏を通ると緯度、経度、地磁気、地脈、第五の力、結界、風水、四神相応、セーマン、ドーマン、その他あらゆる因子が複雑怪奇に絡みついた末に奇跡的に一点に集中し、まるでテレポートでもしたかのよう数キロ先の下宿先ににわずか数十歩で辿り着くことのできる近道となるのだ。
危険であることはわかっている。
どれか一つでも欠けてしまえば崩壊するような、危うい均衡の上にこの近道は成り立っている。
おまけに、無人地区といえば治安も最悪である。
けれども、数十歩、ほんの一、二分ほどの時間を切り抜けさえすれば、そこはもう安全な場所だ。
大丈夫、そんな偶然、不運に見舞われることなんてそうそう無い。
そう思ってしまったことがいけなかったのか。
その日、いつもと変わらない路地裏に、それはいた。
凍える冬を越え、暖かな春となった今。
冬物のコートに身を包むその人影は、黄ばんだ街灯に照らされ、ぼうっと佇んでいた。
この道で誰かと出会うのは初めてである。
思わず足が止まる。
なんでここにいるのか。
人の住まない、治安の悪い、この路地裏に、どうして。
嫌な予感が頭の中を駆け巡る。
悪い想像ばかりが浮かんでくる。
私は無意識に一歩、後ずさった。
ジャリ……音がする。
人影が動いた。
男性だった。
私の存在に気がついたらしく、ゆっくりとこちらに体を向けると、コートが翻り、その内側が露わになる。
コートの下は、全裸だった。
「………………」
「………………」
私は無言のままに携帯端末を取り出した。
「まっ、待ってくれ!」
男が慌てた様子でそう叫んだ。
私はなにも考えずに端末を操作し、電話をかける。
呼び出し音が響き渡る。
男がこちらに駆け寄ってくる。
悲鳴をあげる余裕もなかった。
「やめてくれ! 俺は殺してない!」
………………は?
男の意味不明な弁明に、私の思考は停止する。
男が私の腕を掴んだ。
携帯端末を持っていない方の腕だ。
男は「あっ!」と慌てたような表情をした。
思わず掴んだ腕が反対の腕で、どうしたらいいのかわからず焦っているようであった。
四十代も後半に差し掛かったであろう程よい老け顔が、汗をダラダラと流しながら歪んでいく。
そして、呼び出し音が止まり、端末からは警察の声が……。
『もしもし? 蓮子? どうかした?』
「けっ、警察ですか!?」
『はぁ? なに言ってるのよ。マエリベリーよ』
「………………あっ!」
しまった。
なんだって私はメリーの連絡先に電話してしまったのか。
ついいつもの癖で、とっさにかけてしまったようだ。
電話相手が警察ではないとわかり、男の腕を掴む力が緩む。
その腕を振りほどき、とりあえず私は叫んだ。
「目の前に全裸の男がいるの!」
『……へぇ』
「へぇ、じゃない!」
『私に電話してどうするのよ』
もっともである。
目の前の露出狂も、どうして私が警察ではなく友人に電話をかけたのかわからず、首を傾げていた。
とりあえず腹が立ったので男の……ん゛ん゛ッ……を思い切り蹴飛ばし、悲鳴とともにうずくまったところをすり抜け駆け出した。
「なんか、焦って、電話、警察にしようとしたら、なんか、メリーにかけちゃって」
『あはは』
「あははじゃない!」
『とにかく逃げなさいよ。捕まったわけじゃないんでしょう?』
「ええ、とりあえず蹴飛ばしておいた。それで今走って逃げてるところ……なん、だけど……さ……」
言葉が止まる。
駆け出していた足も、自然と止まる。
全裸のおっさんだけでもタチが悪いというのに、なんということだろう。
この路地裏には、私と露出狂以外にも誰かがいる。
少なくとも一人は、目の前に。
ぐちゃぐちゃの肉片となって。
「待ってくれ……! ち、違うんだ……!」
振り向くと、全裸のおっさんが蹴られた下腹部を両手で押さえながら言った。
「俺じゃない! 俺が殺したんじゃないんだ!」
「……まあ、そうでしょうね」
露出狂の男は格好こそヤバイものの、返り血を浴びて全身血まみれになっているわけでもない。
それに……。
『蓮子ー? れーんーこー? あれ、捕まっちゃった? えっ、レイプ実況されちゃう流れ? これ』
「だまらっしゃい。えーっとね、死体があるのよ。ぐちゃぐちゃの、まるでなにかに喰い散らかされたみたいなやつ」
『……蓮子、いまどこ?』
私は空を見上げた。
月は見えないが、星は出ている。
「……叡山電鉄の木野駅の近くね。でも、裏技使って来たから、場所がころころ入れ替わる。あ、等持院南町になった」
『とりあえず、勝手知ったる場所なら早く逃げた方がいいわ。普通の方法じゃ対処できないタイプよ。私たち専門の』
「そうね。とりあえず、逃げることにするわ」
メリーが一緒なら対処できたかもしれない。
けれども、今回は私一人で、おまけに丸腰の露出狂も付いてくる。
三十六計逃げるに如かず。
私は露出狂のおっさんに振り返った。
「逃げるわよ。走れる?」
「ココを蹴られたのは一度や二度ではない。大丈夫、もう走れるよ」
キメ顔で言われても。
私とおっさんは走り出した。
おっさんの存在は目に毒なので、後ろを走ってもらう。
『蓮子! 映像通話に切り替えて! 私になら何か見えるかも』
「うん、お願い!」
端末を映像通話に切り替え、走りながらカメラを周囲に向ける。
後ろに向けると『ぎゃあ! 全裸のおっさんが追いかけてくる!』という悲鳴がスピーカーから響き渡り、振り返るとコートをなびかせたおっさんが満足げな表情をしていた。
……おかしい。
かれこれ数分は走り続けている。
路地裏は途切れない。
普段なら歩いていても一、二分で終わるというのに。
それに……。
「さっきの、死体……」
数メートル先。
そこにはぐちゃぐちゃの肉片があった。
『ループしてる……』
メリーが呟いた。
死体の手前で立ち止まる。
おっさんが死体を見て絶望の表情を浮かべている。
「メリー、見てて何かわかった?」
『……そこ、継ぎ接ぎだらけよ。あちこちが結界だらけ。たぶん、それでループする迷宮を作り出してる。意図的に作られた、何かの仕業』
「何かって?」
『わかんない。ここに閉じ込めて捕食してるのかも。蓮子や、そこの露出狂や、その死体みたいに……』
「……斃すしかないか」
『できるの?』
「メリーにやってもらう」
数秒の沈黙の後、深いため息が聞こえた。
『……簡単に言うわね。疲れるのよ、これ』
「頼りにしてるわ」
『数秒だけでいいから、足止めお願いね』
端末を持つ腕を下ろし、深呼吸する。
集中、集中するんだ……。
「ど、どうしたんだ? これからなにを……?」
話についていけないおっさんが、おろおろしながら話しかけてきて、集中力が阻害される。
「今のままではここから出られそうにありません。あの人を殺した何かを斃さない限りは」
「何かって、一体……?」
「さあ? でも、それは私たちを食べようとしている。だから、こうして出てくるのを待ってるんです」
「………………」
私の言葉を頭の中で噛み砕いているのか、おっさんは沈黙した。
黙ってくれたのは嬉しいが、やはりその存在自体が集中力を阻害する。
「あの、死にたくなかったらちょっと隠れるなりしていてもらえると……」
助かるんですけど、と言い終わる前に、おっさんは一張羅(文字通り)のコートを脱ぎ捨て、道の真ん中に仁王立ちした。
「はぁ?」
『ぎゃあ!』
私とメリーの声が重なる。
全身を露わにしたおっさんは、程よく筋肉のついた引き締まったボディであった。
心底どうでもいい。
「その囮役、俺が引き受けよう」
「はぁ……死ぬかもですよ」
「君が死んだら俺も死ぬんだ。なら、少しでも君が生き残る確率が高い方が勝算がある。それに、こう見えてNHKのみんなで筋肉体操を観ながら鍛えているんだ」
「はぁ……」
心底どうでもいい。
すっかり集中力も緊張感も無くしていると、ううぅ、ううゔゔぅ……という呻き声がどこからともなく聞こえてきた。
周囲に集中する。
ひたひたひたたたひたたひひたひひた
気味の悪い足音が聞こえる。
ばらばらで、ぐちゃぐちゃの足音。
やがて、暗闇の中からそれは現れた。
街灯に照らされたそれは数十の人間の足と、数十の人間の腕、数十の歪んだ人間の顔、そして巨大な口を持つ、二メートルほどの怪物。
青白い肌に、濡れた黒い髪が張り付いている。
乱杭歯の巨大な口が開くと、腐った野菜の入った冷蔵庫のような臭いが漂った。
血をべっとりとつけた巨大な口。
ほぼ間違いなく、こいつだ。
「うう……」
その異様な怪物を前に、おっさんは呻いた。
足はガクガクと震え、その目には明らかな恐怖の色が浮かんでいる。
「怖気付きました?」
「……まさか。武者震いだよ」
「……絶対に死なせませんから」
かく言う私も、足が震えていた。
走って逃げることはできないくらいに。
後はない。
もう、やるしかない。
「メリー、準備はいい?」
私は端末のカメラを怪物に向けた。
『ええ、大丈夫よってちょっと全裸のおっさんの引き締まったお尻が映ってる!』
「おっさんも、頼みましたよ」
「何をするのかわからないけれど、この命、君に預けるよ」
おっさんは顔をこちらに向け、微笑んだ。
これで全裸でなければ。
「うゔゔぅ……う、うひ、うひひひひ、うひひひひひひひひひひひひひひひひひひ」
数十の顔の数十の口が嗤い、怪物が襲いかかってきた。
「うおおおおおおお!」
雄叫びをあげ、おっさんが怪物と対峙する。
怪物が大きな口を開ける。
おっさんを食い散らかそうと襲いかかる。
おっさんは腕を縦に広げると、怪物の上と下の歯を掴み、その口を閉じさせまいと踏ん張った。
「ぬおおおおおおおお!」
「おっさんそのまま! メリー!」
私は空を見上げた。
星空を。
そして叫んだ。
「三五・二五二三五七! 一三五・七三九七一八七!」
それは、今いるこの場所の東経と北緯。
怪物の居場所だ。
『りょーかい!』
「ぬぐおおおおおおおおお!」
おっさんの全身に血管が浮き上がる。
筋肉はパンパンに膨張し、一部が……まあ、死に直面すると生存本能が高まって……と言うし、まあ、見なかったことにして。
そして、ついにおっさんの抵抗むなしく怪物がおっさんを噛みちぎろうとその口が閉じかけた、その時。
怪物の身体はあちこちが裂け、どろどろとした内臓や体液を漏らし始めた。
「ぎいいいやあああああああ!」
けたたましい悲鳴が響き、怪物はやがて力なく地面に崩折れ、そのまま動かなくなった。
怪物を押し退けたおっさんが、呆然とその亡骸を見下ろしている。
「死んだ……のか?」
「ええ、全身の境界を引き裂かれて」
『……はぁ、疲れた! 蓮子! 帰ってきたらアップルパイ奢りだかんね! あーもう疲れた! ほんっとに!』
ブツッ、と通話が切られる。
きっと明日は色々と奢らされることになるだろう。
おっさんを見る。
おっさんは清々しい顔で、笑っていた。
怪物を倒し、生き残った高揚感でハイになっているようだ。
「ふふ、ふふふふ……」
「……ふふっ」
「あはははは! 倒したぞ! あの怪物を! あっはっはっはっは!」
「死ぬかと思った! ぶっちゃけ本気で死ぬかと思ったわ!」
「生きてる! 俺たちは生きてるぞ! わーっはっはっはっは!」
私とおっさんはハイタッチを交わし、ぱんっ! と気持ちのいい音が廃屋の路地裏に響き渡った。
それから。
私たちは路地裏を進み、一分も経たずに大通りに出た。
「それじゃあ、俺はこっちだから」
そう言っておっさんは左を向く。
「私はこっちなので」
右を向き、私は言う。
「それじゃあ、また機会があったら出会うこともあるだろう。達者でな」
「おっさんこそ」
そうして、私たちはそれぞれ別の道を歩み始めた。
「……まあ」
赤色灯を回転させ、サイレンを鳴らしながらパトカーが向かいから走ってきて、私を通りすぎ、少し後方で停止する。
「なっ、なんだお前ら! 警察の厄介になるようなことなんてしてないぞ! やめろ! おい! 君! 助けてくれ! 共に戦った仲間だろう! 私が無実であると証言してくれ! おおい! 君!」
全裸のおっさんは警察にパトカーへと押し込まれ、そのまま走り去ってしまった。
「もう会うことはないでしょうけど」
心底どうでもいい。
時刻は逢う魔が時。
今時珍しくLEDに変換されていない街灯は、黄ばんだ光をときおり点滅させ、より路地裏の薄暗さを強調させていた。
側溝にはいつのものなのか、濡れた落ち葉が腐って泥になっている。
周辺の家屋に人の気配はない。
ほとんどの家は空き家……とは名ばかりの廃屋であった。
人口の減少に伴い、初めは田舎の小さな集落から、ゆっくりと、じわじわと、今では首都である京都の市内ですら、人が住むことのない地区は増えつつあった。
ここもまさに、そんな地区。
その路地裏を私は歩いていた。
市内にある大学から下宿先である木造おんぼろアパートに至る途中、この路地裏を通ると緯度、経度、地磁気、地脈、第五の力、結界、風水、四神相応、セーマン、ドーマン、その他あらゆる因子が複雑怪奇に絡みついた末に奇跡的に一点に集中し、まるでテレポートでもしたかのよう数キロ先の下宿先ににわずか数十歩で辿り着くことのできる近道となるのだ。
危険であることはわかっている。
どれか一つでも欠けてしまえば崩壊するような、危うい均衡の上にこの近道は成り立っている。
おまけに、無人地区といえば治安も最悪である。
けれども、数十歩、ほんの一、二分ほどの時間を切り抜けさえすれば、そこはもう安全な場所だ。
大丈夫、そんな偶然、不運に見舞われることなんてそうそう無い。
そう思ってしまったことがいけなかったのか。
その日、いつもと変わらない路地裏に、それはいた。
凍える冬を越え、暖かな春となった今。
冬物のコートに身を包むその人影は、黄ばんだ街灯に照らされ、ぼうっと佇んでいた。
この道で誰かと出会うのは初めてである。
思わず足が止まる。
なんでここにいるのか。
人の住まない、治安の悪い、この路地裏に、どうして。
嫌な予感が頭の中を駆け巡る。
悪い想像ばかりが浮かんでくる。
私は無意識に一歩、後ずさった。
ジャリ……音がする。
人影が動いた。
男性だった。
私の存在に気がついたらしく、ゆっくりとこちらに体を向けると、コートが翻り、その内側が露わになる。
コートの下は、全裸だった。
「………………」
「………………」
私は無言のままに携帯端末を取り出した。
「まっ、待ってくれ!」
男が慌てた様子でそう叫んだ。
私はなにも考えずに端末を操作し、電話をかける。
呼び出し音が響き渡る。
男がこちらに駆け寄ってくる。
悲鳴をあげる余裕もなかった。
「やめてくれ! 俺は殺してない!」
………………は?
男の意味不明な弁明に、私の思考は停止する。
男が私の腕を掴んだ。
携帯端末を持っていない方の腕だ。
男は「あっ!」と慌てたような表情をした。
思わず掴んだ腕が反対の腕で、どうしたらいいのかわからず焦っているようであった。
四十代も後半に差し掛かったであろう程よい老け顔が、汗をダラダラと流しながら歪んでいく。
そして、呼び出し音が止まり、端末からは警察の声が……。
『もしもし? 蓮子? どうかした?』
「けっ、警察ですか!?」
『はぁ? なに言ってるのよ。マエリベリーよ』
「………………あっ!」
しまった。
なんだって私はメリーの連絡先に電話してしまったのか。
ついいつもの癖で、とっさにかけてしまったようだ。
電話相手が警察ではないとわかり、男の腕を掴む力が緩む。
その腕を振りほどき、とりあえず私は叫んだ。
「目の前に全裸の男がいるの!」
『……へぇ』
「へぇ、じゃない!」
『私に電話してどうするのよ』
もっともである。
目の前の露出狂も、どうして私が警察ではなく友人に電話をかけたのかわからず、首を傾げていた。
とりあえず腹が立ったので男の……ん゛ん゛ッ……を思い切り蹴飛ばし、悲鳴とともにうずくまったところをすり抜け駆け出した。
「なんか、焦って、電話、警察にしようとしたら、なんか、メリーにかけちゃって」
『あはは』
「あははじゃない!」
『とにかく逃げなさいよ。捕まったわけじゃないんでしょう?』
「ええ、とりあえず蹴飛ばしておいた。それで今走って逃げてるところ……なん、だけど……さ……」
言葉が止まる。
駆け出していた足も、自然と止まる。
全裸のおっさんだけでもタチが悪いというのに、なんということだろう。
この路地裏には、私と露出狂以外にも誰かがいる。
少なくとも一人は、目の前に。
ぐちゃぐちゃの肉片となって。
「待ってくれ……! ち、違うんだ……!」
振り向くと、全裸のおっさんが蹴られた下腹部を両手で押さえながら言った。
「俺じゃない! 俺が殺したんじゃないんだ!」
「……まあ、そうでしょうね」
露出狂の男は格好こそヤバイものの、返り血を浴びて全身血まみれになっているわけでもない。
それに……。
『蓮子ー? れーんーこー? あれ、捕まっちゃった? えっ、レイプ実況されちゃう流れ? これ』
「だまらっしゃい。えーっとね、死体があるのよ。ぐちゃぐちゃの、まるでなにかに喰い散らかされたみたいなやつ」
『……蓮子、いまどこ?』
私は空を見上げた。
月は見えないが、星は出ている。
「……叡山電鉄の木野駅の近くね。でも、裏技使って来たから、場所がころころ入れ替わる。あ、等持院南町になった」
『とりあえず、勝手知ったる場所なら早く逃げた方がいいわ。普通の方法じゃ対処できないタイプよ。私たち専門の』
「そうね。とりあえず、逃げることにするわ」
メリーが一緒なら対処できたかもしれない。
けれども、今回は私一人で、おまけに丸腰の露出狂も付いてくる。
三十六計逃げるに如かず。
私は露出狂のおっさんに振り返った。
「逃げるわよ。走れる?」
「ココを蹴られたのは一度や二度ではない。大丈夫、もう走れるよ」
キメ顔で言われても。
私とおっさんは走り出した。
おっさんの存在は目に毒なので、後ろを走ってもらう。
『蓮子! 映像通話に切り替えて! 私になら何か見えるかも』
「うん、お願い!」
端末を映像通話に切り替え、走りながらカメラを周囲に向ける。
後ろに向けると『ぎゃあ! 全裸のおっさんが追いかけてくる!』という悲鳴がスピーカーから響き渡り、振り返るとコートをなびかせたおっさんが満足げな表情をしていた。
……おかしい。
かれこれ数分は走り続けている。
路地裏は途切れない。
普段なら歩いていても一、二分で終わるというのに。
それに……。
「さっきの、死体……」
数メートル先。
そこにはぐちゃぐちゃの肉片があった。
『ループしてる……』
メリーが呟いた。
死体の手前で立ち止まる。
おっさんが死体を見て絶望の表情を浮かべている。
「メリー、見てて何かわかった?」
『……そこ、継ぎ接ぎだらけよ。あちこちが結界だらけ。たぶん、それでループする迷宮を作り出してる。意図的に作られた、何かの仕業』
「何かって?」
『わかんない。ここに閉じ込めて捕食してるのかも。蓮子や、そこの露出狂や、その死体みたいに……』
「……斃すしかないか」
『できるの?』
「メリーにやってもらう」
数秒の沈黙の後、深いため息が聞こえた。
『……簡単に言うわね。疲れるのよ、これ』
「頼りにしてるわ」
『数秒だけでいいから、足止めお願いね』
端末を持つ腕を下ろし、深呼吸する。
集中、集中するんだ……。
「ど、どうしたんだ? これからなにを……?」
話についていけないおっさんが、おろおろしながら話しかけてきて、集中力が阻害される。
「今のままではここから出られそうにありません。あの人を殺した何かを斃さない限りは」
「何かって、一体……?」
「さあ? でも、それは私たちを食べようとしている。だから、こうして出てくるのを待ってるんです」
「………………」
私の言葉を頭の中で噛み砕いているのか、おっさんは沈黙した。
黙ってくれたのは嬉しいが、やはりその存在自体が集中力を阻害する。
「あの、死にたくなかったらちょっと隠れるなりしていてもらえると……」
助かるんですけど、と言い終わる前に、おっさんは一張羅(文字通り)のコートを脱ぎ捨て、道の真ん中に仁王立ちした。
「はぁ?」
『ぎゃあ!』
私とメリーの声が重なる。
全身を露わにしたおっさんは、程よく筋肉のついた引き締まったボディであった。
心底どうでもいい。
「その囮役、俺が引き受けよう」
「はぁ……死ぬかもですよ」
「君が死んだら俺も死ぬんだ。なら、少しでも君が生き残る確率が高い方が勝算がある。それに、こう見えてNHKのみんなで筋肉体操を観ながら鍛えているんだ」
「はぁ……」
心底どうでもいい。
すっかり集中力も緊張感も無くしていると、ううぅ、ううゔゔぅ……という呻き声がどこからともなく聞こえてきた。
周囲に集中する。
ひたひたひたたたひたたひひたひひた
気味の悪い足音が聞こえる。
ばらばらで、ぐちゃぐちゃの足音。
やがて、暗闇の中からそれは現れた。
街灯に照らされたそれは数十の人間の足と、数十の人間の腕、数十の歪んだ人間の顔、そして巨大な口を持つ、二メートルほどの怪物。
青白い肌に、濡れた黒い髪が張り付いている。
乱杭歯の巨大な口が開くと、腐った野菜の入った冷蔵庫のような臭いが漂った。
血をべっとりとつけた巨大な口。
ほぼ間違いなく、こいつだ。
「うう……」
その異様な怪物を前に、おっさんは呻いた。
足はガクガクと震え、その目には明らかな恐怖の色が浮かんでいる。
「怖気付きました?」
「……まさか。武者震いだよ」
「……絶対に死なせませんから」
かく言う私も、足が震えていた。
走って逃げることはできないくらいに。
後はない。
もう、やるしかない。
「メリー、準備はいい?」
私は端末のカメラを怪物に向けた。
『ええ、大丈夫よってちょっと全裸のおっさんの引き締まったお尻が映ってる!』
「おっさんも、頼みましたよ」
「何をするのかわからないけれど、この命、君に預けるよ」
おっさんは顔をこちらに向け、微笑んだ。
これで全裸でなければ。
「うゔゔぅ……う、うひ、うひひひひ、うひひひひひひひひひひひひひひひひひひ」
数十の顔の数十の口が嗤い、怪物が襲いかかってきた。
「うおおおおおおお!」
雄叫びをあげ、おっさんが怪物と対峙する。
怪物が大きな口を開ける。
おっさんを食い散らかそうと襲いかかる。
おっさんは腕を縦に広げると、怪物の上と下の歯を掴み、その口を閉じさせまいと踏ん張った。
「ぬおおおおおおおお!」
「おっさんそのまま! メリー!」
私は空を見上げた。
星空を。
そして叫んだ。
「三五・二五二三五七! 一三五・七三九七一八七!」
それは、今いるこの場所の東経と北緯。
怪物の居場所だ。
『りょーかい!』
「ぬぐおおおおおおおおお!」
おっさんの全身に血管が浮き上がる。
筋肉はパンパンに膨張し、一部が……まあ、死に直面すると生存本能が高まって……と言うし、まあ、見なかったことにして。
そして、ついにおっさんの抵抗むなしく怪物がおっさんを噛みちぎろうとその口が閉じかけた、その時。
怪物の身体はあちこちが裂け、どろどろとした内臓や体液を漏らし始めた。
「ぎいいいやあああああああ!」
けたたましい悲鳴が響き、怪物はやがて力なく地面に崩折れ、そのまま動かなくなった。
怪物を押し退けたおっさんが、呆然とその亡骸を見下ろしている。
「死んだ……のか?」
「ええ、全身の境界を引き裂かれて」
『……はぁ、疲れた! 蓮子! 帰ってきたらアップルパイ奢りだかんね! あーもう疲れた! ほんっとに!』
ブツッ、と通話が切られる。
きっと明日は色々と奢らされることになるだろう。
おっさんを見る。
おっさんは清々しい顔で、笑っていた。
怪物を倒し、生き残った高揚感でハイになっているようだ。
「ふふ、ふふふふ……」
「……ふふっ」
「あはははは! 倒したぞ! あの怪物を! あっはっはっはっは!」
「死ぬかと思った! ぶっちゃけ本気で死ぬかと思ったわ!」
「生きてる! 俺たちは生きてるぞ! わーっはっはっはっは!」
私とおっさんはハイタッチを交わし、ぱんっ! と気持ちのいい音が廃屋の路地裏に響き渡った。
それから。
私たちは路地裏を進み、一分も経たずに大通りに出た。
「それじゃあ、俺はこっちだから」
そう言っておっさんは左を向く。
「私はこっちなので」
右を向き、私は言う。
「それじゃあ、また機会があったら出会うこともあるだろう。達者でな」
「おっさんこそ」
そうして、私たちはそれぞれ別の道を歩み始めた。
「……まあ」
赤色灯を回転させ、サイレンを鳴らしながらパトカーが向かいから走ってきて、私を通りすぎ、少し後方で停止する。
「なっ、なんだお前ら! 警察の厄介になるようなことなんてしてないぞ! やめろ! おい! 君! 助けてくれ! 共に戦った仲間だろう! 私が無実であると証言してくれ! おおい! 君!」
全裸のおっさんは警察にパトカーへと押し込まれ、そのまま走り去ってしまった。
「もう会うことはないでしょうけど」
心底どうでもいい。
面白かったです。
またどこかで登場してほしいです
ループしていて、そこからの展開がとても良かったです
おっさんのインパクトに負けないほどにちゃんと秘封していてすごくよかったです
全裸、怪物、怪異、完璧でした