「引っ越しましょう」
同棲生活二年と少し。小銭をかき集め、更新料も払い終えた夏の日に声を上げたのはメリーだった。
「どうしたの突然?」
ちゃぶ台を挟み、真剣な表情でこちらを見つめる彼女に私は少し戸惑った。
「こんな生活、もう耐えられない」
「そんな! 今まで上手くやってきたじゃない」
何がダメだったのだろうか。突然別れを切り出される覚えなどない。ゴミ出し当番もちゃんとこなしていたし、三連プリンも慈愛の気持ちで二つをメリーに捧げた。それなのに別れを告げられるなんてあんまりではないか。
「よく保ったほうよ。四畳半に二人暮らしなんて正気の沙汰じゃないわ」
情報技術革新から始まった科学世紀は貧困、病気、食料、宗教、戦争、多くの問題を瞬く間に解決していった。しかし、未だ解決していない問題もある。その一つがこの木造二階建てアパートの存在だ。
一部屋四畳半、風呂なしトイレ共同。大学生協でこの物件を紹介されたときは、「そんなものが現存しているのか」と眼を疑いながらも、惚れてしまった。家賃に。
更に家賃を抑えようと考えた私はメリーに同棲を提案した。彼女は顔を赤らめながら「え……一緒に住むの? 蓮子がどうしてもって言うならいいよ…?」と快く返事をしてくれたが、一緒にアパートの下見へ行ったとき、部屋で頬を平手打ちされた。
それからどうにか言い包め、メリーとの同棲生活が始まり、今に至る。
「でもほら! この五百円玉月面ツアー貯金ももうすぐ一杯になるのよ!? 今引っ越したらこの貯金に手を出すことになってしまうわ」
ズシリと重い陶器のブタさん貯金箱を見せるが、その眼は冷めたままだった。
「それ、中身ほとんど十円でしょ」
「そ、そんなことないわよ!」
「じゃあ開けて」
彼女が冷酷に放った一言。それは、彼をこの手で壊すということだ。
「そんな残酷なこと出来ないわよ! 血が通った人間のやることじゃないわ! 鬼!悪魔!メリー!」
私は知る限りの罵詈雑言をメリーにぶつけたが、そんなのどこ吹く風と云った様子で彼を見つめていた。
「僕に残された絶対的な自由は、自分の意志で自らの死の形を選べるってことだけだブー。だから、僕は僕を君の手で消してもらいたいブー」
可愛らしい声で私に訴えかけてきたのは彼ではなくメリーである。
「何を言って……」
「君が少しでも僕のこと好きなら、君のその手で消してくれブー」
少しの困惑の後、私はブタさん両手で優しく握った。
「僕を壊した感触をその手に残すブー」
主に祈るかのように、頭を垂れる。
「そうしたら、君は僕のことをイヤでも忘れられないでしょうブー」
ゆっくり、ゆっくりとブタさんを天に掲げる。
「今まで君が失ってきたモノたちと同じようにブー」
「たぶんね」
彼が重力に引かれている
「きっとそうだ」
陶器の破片と小銭が辺りに飛び散る音とともに我に返った。
「あー!! メリーの悪魔! 相対性精神学ではそんな非人道的なマインドコントロールも教えているわけ!?」
私の昂りはなんのその。彼女は散らばった小銭を眺めている。
「やっぱり小銭ばっかりじゃない。でも、引っ越しの代金の足しにはなるわね」
五百円玉貯金に初めて十円玉が入ったのは不幸な事故だった。手からこぼれ落ちた十円が吸い込まれるようにブタさんの体内へ飲み込まれたのだ。しかし、それによってたがが外れた。「どうせもう五百玉だけで埋めることは無理なんだ」そう云う弱い気持ちが、十円玉や五円玉でブタさんを肥やした。
「じゃあ、引越し先を探しましょうか。トイレ風呂別、光回線完備、オートロック付きの2DKくらいが妥当かしら」
「んん?」
冗談かと思ったが、メリーの表情をみる限り本気らしい。そんなところに住もうと思ったら今の家賃の十倍は安々と超えるだろう。
「無理よ。今の家賃だってやりくりして、やっとのことで出しているのに。これ以上シフト増やしたら学業も秘封倶楽部の活動も疎かになって本末転倒だわ」
「お風呂屋さんで働けば余裕よ。ほら、顔は悪くないんだし、体型もスレンダーって感じで需要があると思うわ」
「ちょっと、メリー!」
「冗談よ。そんな怖い顔しないで」
今のは絶対に冗談ではなかった。私にはわかる。
「しょうがないわ、じゃあ家賃は私が持つから引っ越しましょう」
「そんなお金あるの?」
いつもに隣にいる私だが、彼女はスーパーの特売品を観てから毎日の献立を決めるタイプで、普段はそんなにお金があるようには見えない。
「パパに少しお願いすればどうにかなるわ」
「それは血の繋がった父親って意味でいいわよね?」
「ええ? もちろん。うちの親は過保護だから、仕送りしてくれるって言ってくれているのよね。いままでは断ってたけど、最低限だけ貰うようにするわ」
これが裕福な外国人と云うやつだろう。まあ、遥々極東の地まで勉強に来るくらいだから、そこまで驚くことでもないか。
「まあ、メリーが良いって言うなら、私は構わないけど」
「じゃあ決まりね。部屋は私の方で探しておくから、見に行くとき連絡するわ」
引っ越しことが決定してから数日、一人で家にいると少しノスタルジックな気分になっていた。私はこの生活が好きだったのだろう。朝起きたら隣にメリーが居て、夜寝るときも隣にメリーがいる生活。四畳半という世界で私たちは一つだった。でも、メリーはそれが嫌いだったようだ。
虚空をみつめていると、メリーから連絡が入った。どうやら新居を見に行くらしい。
「2DK、トイレ風呂別、光回線配線済み、更に各部屋エアコン完備!もちろん、オートロックでか弱い女子大生でも安心よ」
大学から徒歩五分、外壁が純白で、空調の効いたエントランスに着いた。
「家賃高いんじゃないの?」
「蓮子は気にしなくていいの。さ、部屋見ましょう。管理人さんから鍵は借りてあるわ」
メリーに案内されるまま、エレベータに乗り、四階についた。
「最上階じゃないから、もしかしたら上の部屋の人が煩いかも知れないけど、まあ入居者は女性ばっかりらしいから多分大丈夫よ」
四〇六号室の扉を開けると広々としたスペースが広がっていた。友達を四人くらい呼んでも余裕のありそうなダイニングキッチンに、四畳半以上ある各々の部屋。トイレはウォシュレット付きで風呂桶も足が伸ばせるほど広い。
「どう? 割といい部屋じゃない?」
「ええ、いいわね。とっても」
これは本心の言葉だ。誰が見ても、あの四畳半と比べたら良いというに決まっている。
「他にも候補の場所あるけど見に行く? 正直、ここと比べると何処も見劣りするけど」
「いや、ここでいいわ」
「そう? じゃあここに決めるって連絡するわね」
そう言うとメリーは端末で連絡を取り始めた。この部屋で暮らし始める想像を、私はしたくなかった。
「明日からもう住めるらしいわよ。どうする?」
「私はいいわよ」
「じゃあ、決定ね。今日荷造りして明日から新居ね。とは言っても持ってくるものそんなに無いと思うけど」
「布団とか、どうしようか」
「あ、そうね。一つしか無いから新しいのを買わないとね。今の布団捨てて、二人共ベッドとかにしちゃう?」
「あ、いや、私は布団のほうが好きだから、いまのを使うわ」
「そう? でもそれ以外にも色々買わないとね。通販で買っておくわ。蓮子も欲しいものあったら遠慮なく言ってね」
「ええ」
帰宅してすぐ、メリーの命令もあって荷造りを始めた。本や衣類など引っ越しても使うものを段ボールに詰め、持っていかないものをゴミ袋に詰め込む。そんなことを延々無心で繰り返すと、部屋はガランとしてしまった。
「こっちの注文は終わったわよ。蓮子の方はどう?」
「あとは食器、鍋、本棚、ちゃぶ台、布団くらいね。すっきりしちゃってなんだか落ち着かないわ」
「じゃあ、この部屋で最後の晩餐にしましょうか。何か希望はある?」
「うどんかな。引越し前だし」
「ここの銭湯に来るのも最後かな」
「まだ回数券使い切ってないのに。もったいないわ」
夕飯の材料を買ったついでの銭湯。いつものパターンである。このご時世、銭湯の利用客など殆どおらず、今日も貸し切りだった。二人して頭にタオルを乗せ、肩まで浸かる。
「ここの銭湯には本当に助けられたわ。もしここがなかったら、大学でシャワー浴びるしか選択肢が無いもの」
「蓮子は新陳代謝がいいから、夏だと夜少し歩いているだけで汗ダラダラだものね。こんなに近くに銭湯がなかったら、同じ布団で寝るのはお断りだったわよ」
「メリーこそ冷え性で冬とか氷像のように手足の先冷たいんだから、ここの銭湯が無かったら冷たくて一緒に寝られなかったわ」
お互いに顔を見合わせ、フフッと笑う。
「私はもう上がるけど、メリーはまだ入っている?」
「私も上がるわ」
服を着て、髪を乾かし、一息つく。
「結局一度もこのマッサージチェア使わなかったわね」
脱衣所に一台だけぽつんと置かれた黒くてごつい椅子。十分百円。別に払えない額でもないし、それなりに興味もある、しかし、中々動かそうという気になれないのが、このマッサージチェアだ。そもそも、プロのマッサージというモノを受けたことのない私にマッサージチェアの良し悪しがわかるはずがない。だから座らないと自分に言い聞かせ、誤魔化して暮らしてきた、しかし、きっと今日を逃すともう一生百円を入れて動かすマッサージチェアに乗ることはないんだろうと思う。
「どうしたの蓮子? 突然黙っちゃって」
「私、決めたわ」
「なにを?」
「マッサージチェアに乗る」
意を決し、拘束具のような椅子に座り、百円玉を投入する。すると背中をゴツゴツした何かが撫でた。
「ヒャッ!」
突然の感覚に声が出てしまった。そんな私をメリーは好奇の眼でみている。
だんだんと慣れ、少し気持ちが良くなってきた。そう思った矢先、頭を背中の何かに連打された。
「いたい!いたい!」
とっさに立ち上がり、マッサージチェアを睨みつけるが、止まる気配は無い。
「こいつ、ロボット三原則に違反しているわ。廃棄よ廃棄!」
「ちゃんと身長を設定しないからよ。ほら、150cmに設定したわ」
おっかなびっくりしながらもう一度マッサージチェアに座る。今度は大丈夫のようだ。そして少しの快楽後、時間切れで終わってしまった。
「んー、身体が軽い! ほら、メリーの荷物も持ってあげるわ」
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」
「そうね。走って帰る?」
「ベタベタ蓮子ちゃんとは寝たくないわ」
そして私たちは銭湯を後にした。
「そういえばフルーツ牛乳飲んでないけどいいの?」
「あ!!」
夕飯も済ませ、ぼちぼち眠くなってきた。
「メリー、もう寝よう?」
「そうね。私もちょうど眠くなっていたわ」
生活時間が一緒なので、当然眠くなる時間も一緒である。
二人で一つの布団、この生活も今日で終わりである。
「やっぱり夏に一緒の布団は暑いわね」
「でも、メリーは明け方にいつも寒がって私にくっついてくるじゃない」
「そう? 寝てるから記憶に無いわ」
「冬場は終始抱きついてくるし」
「蓮子は基礎体温が高いから温いのよ。湯たんぽ蓮子」
「冷めきった身体に纏わり付かれるこっちの身にもなってほしいわ」
「まあ、それも今日まで。明日からはエアコンが私の新しい相棒よ」
少しの沈黙。
「じゃあ、メリー、おやすみ」
「おやすみ、蓮子」
引っ越しをしてから半年が過ぎた。
当初はお互いがお互いの部屋に出入りし、四畳半生活時代と大して変わらない生活を送っていたが、半年もするとお互いの生活は変わってしまった。
生活時間帯がズレ、食事は別々、銭湯に行くことも、同じ布団で寝ることもないので、平日に会話は殆ど無い。お互いの近況を知る手段といえばTwitterくらいだ。
別に引っ越してから仲が悪くなったとか、そういうわけではない。むしろ今までが仲良し過ぎたのだ。それがデフォルトに戻っただけ。そう自分に言い聞かせる。しかし、言い聞かせたところで寂しさが紛れるわけでもない。たまにその寂しさに押し潰されそうになる。そういうときは、布団の上で枕を抱える。この布団と枕は二年間メリーと使ってきたものだ。メリーの匂いがしてすごく安心できる。
こうやって私はこの数ヶ月、自分を誤魔化して暮らしてきた、そして、この日私は決心した。
「やっぱり、私はあのアパートに戻る」
少しの沈黙。
「理由を聞かせて」
「このままじゃ私がダメなの。メリーは隣の部屋にいるのに、そう思えないの。もっとずっと遠くにいるように感じる。実際にあの四畳半に一緒に住み始める前よりも、全然話せてない。遊べてない。一緒に居てない。物理的な距離が近いからきっとそうなるの。だから、私はメリーと距離を取りたい」
「私の部屋で一緒に暮らすのは?」
「それでも、あの四畳半はお風呂も一緒だったじゃない。足りない。足りないくらいなら無いほうがいい」
「じゃあ、一緒に入る?」
「あんな小さな浴槽に二人で入ったら、それこそお風呂屋さんみたいになっちゃうわ。ダメよ。そんなの」
「だから、私は引っ越すわ」
「そう。わかったわ」
それから数日後、私はマンションから四畳半のアパートに引っ越した、
「寒い。寒すぎる。やっぱり引っ越したのは間違いだったかなぁ」
また四畳半で暮らし始めてから二週間が経過した。京都の十二月はとても寒い。私の四方向を壁のようなものが覆っているが、断熱効果どころか、風すらも遮ることは満足にできない。
この時期はダウンジャケットを着込み、手袋と耳あてをつけるのがこの部屋の習わしである。しかし、そこまで着けても、結局は寒い。
部屋の真ん中で熱を逃がさないように、じっと固まっていると、不意に玄関の扉が開いた。
「玄関の鍵の隠し場所変えといたほうがいいわよ」
彼女の顔を見て一気に体温が上がって暑くなってしまう。
「おかえりなさい」
「ただいま」
同棲生活二年と少し。小銭をかき集め、更新料も払い終えた夏の日に声を上げたのはメリーだった。
「どうしたの突然?」
ちゃぶ台を挟み、真剣な表情でこちらを見つめる彼女に私は少し戸惑った。
「こんな生活、もう耐えられない」
「そんな! 今まで上手くやってきたじゃない」
何がダメだったのだろうか。突然別れを切り出される覚えなどない。ゴミ出し当番もちゃんとこなしていたし、三連プリンも慈愛の気持ちで二つをメリーに捧げた。それなのに別れを告げられるなんてあんまりではないか。
「よく保ったほうよ。四畳半に二人暮らしなんて正気の沙汰じゃないわ」
情報技術革新から始まった科学世紀は貧困、病気、食料、宗教、戦争、多くの問題を瞬く間に解決していった。しかし、未だ解決していない問題もある。その一つがこの木造二階建てアパートの存在だ。
一部屋四畳半、風呂なしトイレ共同。大学生協でこの物件を紹介されたときは、「そんなものが現存しているのか」と眼を疑いながらも、惚れてしまった。家賃に。
更に家賃を抑えようと考えた私はメリーに同棲を提案した。彼女は顔を赤らめながら「え……一緒に住むの? 蓮子がどうしてもって言うならいいよ…?」と快く返事をしてくれたが、一緒にアパートの下見へ行ったとき、部屋で頬を平手打ちされた。
それからどうにか言い包め、メリーとの同棲生活が始まり、今に至る。
「でもほら! この五百円玉月面ツアー貯金ももうすぐ一杯になるのよ!? 今引っ越したらこの貯金に手を出すことになってしまうわ」
ズシリと重い陶器のブタさん貯金箱を見せるが、その眼は冷めたままだった。
「それ、中身ほとんど十円でしょ」
「そ、そんなことないわよ!」
「じゃあ開けて」
彼女が冷酷に放った一言。それは、彼をこの手で壊すということだ。
「そんな残酷なこと出来ないわよ! 血が通った人間のやることじゃないわ! 鬼!悪魔!メリー!」
私は知る限りの罵詈雑言をメリーにぶつけたが、そんなのどこ吹く風と云った様子で彼を見つめていた。
「僕に残された絶対的な自由は、自分の意志で自らの死の形を選べるってことだけだブー。だから、僕は僕を君の手で消してもらいたいブー」
可愛らしい声で私に訴えかけてきたのは彼ではなくメリーである。
「何を言って……」
「君が少しでも僕のこと好きなら、君のその手で消してくれブー」
少しの困惑の後、私はブタさん両手で優しく握った。
「僕を壊した感触をその手に残すブー」
主に祈るかのように、頭を垂れる。
「そうしたら、君は僕のことをイヤでも忘れられないでしょうブー」
ゆっくり、ゆっくりとブタさんを天に掲げる。
「今まで君が失ってきたモノたちと同じようにブー」
「たぶんね」
彼が重力に引かれている
「きっとそうだ」
陶器の破片と小銭が辺りに飛び散る音とともに我に返った。
「あー!! メリーの悪魔! 相対性精神学ではそんな非人道的なマインドコントロールも教えているわけ!?」
私の昂りはなんのその。彼女は散らばった小銭を眺めている。
「やっぱり小銭ばっかりじゃない。でも、引っ越しの代金の足しにはなるわね」
五百円玉貯金に初めて十円玉が入ったのは不幸な事故だった。手からこぼれ落ちた十円が吸い込まれるようにブタさんの体内へ飲み込まれたのだ。しかし、それによってたがが外れた。「どうせもう五百玉だけで埋めることは無理なんだ」そう云う弱い気持ちが、十円玉や五円玉でブタさんを肥やした。
「じゃあ、引越し先を探しましょうか。トイレ風呂別、光回線完備、オートロック付きの2DKくらいが妥当かしら」
「んん?」
冗談かと思ったが、メリーの表情をみる限り本気らしい。そんなところに住もうと思ったら今の家賃の十倍は安々と超えるだろう。
「無理よ。今の家賃だってやりくりして、やっとのことで出しているのに。これ以上シフト増やしたら学業も秘封倶楽部の活動も疎かになって本末転倒だわ」
「お風呂屋さんで働けば余裕よ。ほら、顔は悪くないんだし、体型もスレンダーって感じで需要があると思うわ」
「ちょっと、メリー!」
「冗談よ。そんな怖い顔しないで」
今のは絶対に冗談ではなかった。私にはわかる。
「しょうがないわ、じゃあ家賃は私が持つから引っ越しましょう」
「そんなお金あるの?」
いつもに隣にいる私だが、彼女はスーパーの特売品を観てから毎日の献立を決めるタイプで、普段はそんなにお金があるようには見えない。
「パパに少しお願いすればどうにかなるわ」
「それは血の繋がった父親って意味でいいわよね?」
「ええ? もちろん。うちの親は過保護だから、仕送りしてくれるって言ってくれているのよね。いままでは断ってたけど、最低限だけ貰うようにするわ」
これが裕福な外国人と云うやつだろう。まあ、遥々極東の地まで勉強に来るくらいだから、そこまで驚くことでもないか。
「まあ、メリーが良いって言うなら、私は構わないけど」
「じゃあ決まりね。部屋は私の方で探しておくから、見に行くとき連絡するわ」
引っ越しことが決定してから数日、一人で家にいると少しノスタルジックな気分になっていた。私はこの生活が好きだったのだろう。朝起きたら隣にメリーが居て、夜寝るときも隣にメリーがいる生活。四畳半という世界で私たちは一つだった。でも、メリーはそれが嫌いだったようだ。
虚空をみつめていると、メリーから連絡が入った。どうやら新居を見に行くらしい。
「2DK、トイレ風呂別、光回線配線済み、更に各部屋エアコン完備!もちろん、オートロックでか弱い女子大生でも安心よ」
大学から徒歩五分、外壁が純白で、空調の効いたエントランスに着いた。
「家賃高いんじゃないの?」
「蓮子は気にしなくていいの。さ、部屋見ましょう。管理人さんから鍵は借りてあるわ」
メリーに案内されるまま、エレベータに乗り、四階についた。
「最上階じゃないから、もしかしたら上の部屋の人が煩いかも知れないけど、まあ入居者は女性ばっかりらしいから多分大丈夫よ」
四〇六号室の扉を開けると広々としたスペースが広がっていた。友達を四人くらい呼んでも余裕のありそうなダイニングキッチンに、四畳半以上ある各々の部屋。トイレはウォシュレット付きで風呂桶も足が伸ばせるほど広い。
「どう? 割といい部屋じゃない?」
「ええ、いいわね。とっても」
これは本心の言葉だ。誰が見ても、あの四畳半と比べたら良いというに決まっている。
「他にも候補の場所あるけど見に行く? 正直、ここと比べると何処も見劣りするけど」
「いや、ここでいいわ」
「そう? じゃあここに決めるって連絡するわね」
そう言うとメリーは端末で連絡を取り始めた。この部屋で暮らし始める想像を、私はしたくなかった。
「明日からもう住めるらしいわよ。どうする?」
「私はいいわよ」
「じゃあ、決定ね。今日荷造りして明日から新居ね。とは言っても持ってくるものそんなに無いと思うけど」
「布団とか、どうしようか」
「あ、そうね。一つしか無いから新しいのを買わないとね。今の布団捨てて、二人共ベッドとかにしちゃう?」
「あ、いや、私は布団のほうが好きだから、いまのを使うわ」
「そう? でもそれ以外にも色々買わないとね。通販で買っておくわ。蓮子も欲しいものあったら遠慮なく言ってね」
「ええ」
帰宅してすぐ、メリーの命令もあって荷造りを始めた。本や衣類など引っ越しても使うものを段ボールに詰め、持っていかないものをゴミ袋に詰め込む。そんなことを延々無心で繰り返すと、部屋はガランとしてしまった。
「こっちの注文は終わったわよ。蓮子の方はどう?」
「あとは食器、鍋、本棚、ちゃぶ台、布団くらいね。すっきりしちゃってなんだか落ち着かないわ」
「じゃあ、この部屋で最後の晩餐にしましょうか。何か希望はある?」
「うどんかな。引越し前だし」
「ここの銭湯に来るのも最後かな」
「まだ回数券使い切ってないのに。もったいないわ」
夕飯の材料を買ったついでの銭湯。いつものパターンである。このご時世、銭湯の利用客など殆どおらず、今日も貸し切りだった。二人して頭にタオルを乗せ、肩まで浸かる。
「ここの銭湯には本当に助けられたわ。もしここがなかったら、大学でシャワー浴びるしか選択肢が無いもの」
「蓮子は新陳代謝がいいから、夏だと夜少し歩いているだけで汗ダラダラだものね。こんなに近くに銭湯がなかったら、同じ布団で寝るのはお断りだったわよ」
「メリーこそ冷え性で冬とか氷像のように手足の先冷たいんだから、ここの銭湯が無かったら冷たくて一緒に寝られなかったわ」
お互いに顔を見合わせ、フフッと笑う。
「私はもう上がるけど、メリーはまだ入っている?」
「私も上がるわ」
服を着て、髪を乾かし、一息つく。
「結局一度もこのマッサージチェア使わなかったわね」
脱衣所に一台だけぽつんと置かれた黒くてごつい椅子。十分百円。別に払えない額でもないし、それなりに興味もある、しかし、中々動かそうという気になれないのが、このマッサージチェアだ。そもそも、プロのマッサージというモノを受けたことのない私にマッサージチェアの良し悪しがわかるはずがない。だから座らないと自分に言い聞かせ、誤魔化して暮らしてきた、しかし、きっと今日を逃すともう一生百円を入れて動かすマッサージチェアに乗ることはないんだろうと思う。
「どうしたの蓮子? 突然黙っちゃって」
「私、決めたわ」
「なにを?」
「マッサージチェアに乗る」
意を決し、拘束具のような椅子に座り、百円玉を投入する。すると背中をゴツゴツした何かが撫でた。
「ヒャッ!」
突然の感覚に声が出てしまった。そんな私をメリーは好奇の眼でみている。
だんだんと慣れ、少し気持ちが良くなってきた。そう思った矢先、頭を背中の何かに連打された。
「いたい!いたい!」
とっさに立ち上がり、マッサージチェアを睨みつけるが、止まる気配は無い。
「こいつ、ロボット三原則に違反しているわ。廃棄よ廃棄!」
「ちゃんと身長を設定しないからよ。ほら、150cmに設定したわ」
おっかなびっくりしながらもう一度マッサージチェアに座る。今度は大丈夫のようだ。そして少しの快楽後、時間切れで終わってしまった。
「んー、身体が軽い! ほら、メリーの荷物も持ってあげるわ」
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」
「そうね。走って帰る?」
「ベタベタ蓮子ちゃんとは寝たくないわ」
そして私たちは銭湯を後にした。
「そういえばフルーツ牛乳飲んでないけどいいの?」
「あ!!」
夕飯も済ませ、ぼちぼち眠くなってきた。
「メリー、もう寝よう?」
「そうね。私もちょうど眠くなっていたわ」
生活時間が一緒なので、当然眠くなる時間も一緒である。
二人で一つの布団、この生活も今日で終わりである。
「やっぱり夏に一緒の布団は暑いわね」
「でも、メリーは明け方にいつも寒がって私にくっついてくるじゃない」
「そう? 寝てるから記憶に無いわ」
「冬場は終始抱きついてくるし」
「蓮子は基礎体温が高いから温いのよ。湯たんぽ蓮子」
「冷めきった身体に纏わり付かれるこっちの身にもなってほしいわ」
「まあ、それも今日まで。明日からはエアコンが私の新しい相棒よ」
少しの沈黙。
「じゃあ、メリー、おやすみ」
「おやすみ、蓮子」
引っ越しをしてから半年が過ぎた。
当初はお互いがお互いの部屋に出入りし、四畳半生活時代と大して変わらない生活を送っていたが、半年もするとお互いの生活は変わってしまった。
生活時間帯がズレ、食事は別々、銭湯に行くことも、同じ布団で寝ることもないので、平日に会話は殆ど無い。お互いの近況を知る手段といえばTwitterくらいだ。
別に引っ越してから仲が悪くなったとか、そういうわけではない。むしろ今までが仲良し過ぎたのだ。それがデフォルトに戻っただけ。そう自分に言い聞かせる。しかし、言い聞かせたところで寂しさが紛れるわけでもない。たまにその寂しさに押し潰されそうになる。そういうときは、布団の上で枕を抱える。この布団と枕は二年間メリーと使ってきたものだ。メリーの匂いがしてすごく安心できる。
こうやって私はこの数ヶ月、自分を誤魔化して暮らしてきた、そして、この日私は決心した。
「やっぱり、私はあのアパートに戻る」
少しの沈黙。
「理由を聞かせて」
「このままじゃ私がダメなの。メリーは隣の部屋にいるのに、そう思えないの。もっとずっと遠くにいるように感じる。実際にあの四畳半に一緒に住み始める前よりも、全然話せてない。遊べてない。一緒に居てない。物理的な距離が近いからきっとそうなるの。だから、私はメリーと距離を取りたい」
「私の部屋で一緒に暮らすのは?」
「それでも、あの四畳半はお風呂も一緒だったじゃない。足りない。足りないくらいなら無いほうがいい」
「じゃあ、一緒に入る?」
「あんな小さな浴槽に二人で入ったら、それこそお風呂屋さんみたいになっちゃうわ。ダメよ。そんなの」
「だから、私は引っ越すわ」
「そう。わかったわ」
それから数日後、私はマンションから四畳半のアパートに引っ越した、
「寒い。寒すぎる。やっぱり引っ越したのは間違いだったかなぁ」
また四畳半で暮らし始めてから二週間が経過した。京都の十二月はとても寒い。私の四方向を壁のようなものが覆っているが、断熱効果どころか、風すらも遮ることは満足にできない。
この時期はダウンジャケットを着込み、手袋と耳あてをつけるのがこの部屋の習わしである。しかし、そこまで着けても、結局は寒い。
部屋の真ん中で熱を逃がさないように、じっと固まっていると、不意に玄関の扉が開いた。
「玄関の鍵の隠し場所変えといたほうがいいわよ」
彼女の顔を見て一気に体温が上がって暑くなってしまう。
「おかえりなさい」
「ただいま」
失ってはじめてわかる幸せってやつですかね
とてもよかったです
大変よかったです。