「言葉って奇妙よね。私にはとても不思議でたまらない」
蓮子は、そう言ってメリーの目の前でベッドに深々と腰かけた。凹みこんだマットレスを見て、メリーことマエリベリー・ハーンが不快そうに表情を歪めている。
「ねぇ蓮子、そのベッドを敷きなおすのは誰だと思っているの? マットレスに弾性が残されている間に、その腰掛代わりに用いられている寝具からの即時退去を要求するわ」
「あいあいさー」
蓮子は、メリーの言葉を受けて致し方無いといった様子の大袈裟なジェスチャーを取りながら、近場の学習椅子に座りなおした。彼女はメリーの自宅に招かれているいわば客人の立場であったが、それ以前に存在する遠慮なき友人関係によって即時退去の要求を呑んだようであった。
しかし、蓮子がベッドから学習椅子に座りなおした途端に、メリーがベッドへとその座標を遷移させた事実は、蓮子の表情を不満げに歪ませた。しかし、彼女は溜息を吐いて一度目を瞑り、それきりで負の雰囲気を霧散させた。
「私は今、メリーの行動で不快という感情のモジュールを起動させられる羽目になった。けれどそれ以前に、メリーの言葉に依って私はまた納得という感情のモジュールを起動させていたわ。言葉には人の感情を起動させる力がある仮説が今、私自身の体験によって実証された」
「うわぁ……感情をシステムとして捉え、個々の名称を与えられたそれぞれの感情を状態や状況によって起動されるモジュールとして捉えるの? 余りにも機械的ねぇ」
「機械はある意味で人間を真似て作られている。というか、人間が作った物はみな人間に似せられているといっても良いわ。例え人からかけ離れたモノを作ろうと、人間はその創造物から人を想わずにはいられない生きものなのよ。つまり、機械的なモノは人間的なのよ」
「詭弁はキライよ。難しい言葉を遣う人間もね」
メリーは、頬を膨らませて蓮子の額を人差し指でつついた。蓮子はといえば、つつかれた額をさすりながら、開き直っていた。
「どうして他人が分かるように私の文法を改変しなければならないの? 何様のつもり? 私の文法を知りたければ貴方たちが解読しなさい」
「まあ怖い」
「冗談よ。一応私も人間だから」
「さっぱりだわ」
メリーは蓮子の視界に入るように、分厚い辞書を翳した。たったそれだけで、蓮子はメリーが言わんとしたことを察したのだろう。しかし、蓮子はやれやれといった様子で首を振った。
「辞書は、異なる人間が同一の単語に同一の意味を与えてコミュニケーションを図るための、通信規約に過ぎない。正誤を示すモノではないのよ。科学者の語る科学という単語にどれだけの意味が含まれているかメリーに理解できる? でも、その意味はきっとほとんど辞書には載っていないでしょう。それは間違えた単語の使い方かしら? 断じてそうではない」
「あら、素敵ね。単語にはさまざまに意味が与えられ、辞書に載っていない意味の方が正しさに近しかったりすると?」
「正しさなんて私には分からないけれど。より精確な意味であるといった方が適切でしょうね。もちろん、こうした単語は会話の為には役立たない。専門用語の極みのようなモノよ」
多くの場合、私たちは言語で世界を解釈していると、蓮子は嘯いていた。
「私達は世界を解釈するための道具として言語を用いている。より多くの言語と単語を知れば知るほど、世界を精確に解釈できるようになっていく。私達は、言語で思考し、言語で会話し、言語で解釈する。また、言語には人の行動を規制する力さえある」
「人の行動を規制する力?」
「命令文という文法に如実に表れるそれは、また究極的には明文化された法律として私たちの前にあるわ」
「法とは言語なのだと蓮子は考えているの?」
「少なくとも言語に依らない法を私は知らないからね。私達は言語で契約を交わすし、自分が生れたことも死んだことも言語で届け出る。何もかも社会的なものの殆ど全ては悉く言語よ。因みに、私が遣う言語という単語は話し言葉と書き言葉と考え言葉を内包していることを、口に出して連携しておくわ」
「分かったわ。蓮子が言っている世界という単語は社会と同義ね?」
「名答、メリーも分かってきたじゃない」
蓮子は満足げな表情を浮かべると、メリーに視えるように室内の宙空に辞書をぶん投げた。それは、ちょうど天井と床の中間地点でその動きを止めて浮遊する。
「貴女になら視えるでしょうメリー。ここがこの部屋のラグランジュポイント」
「違うわ。私の自室の結界よ」
「ほら、同じモノを現そうとしているのに、私とメリーとで異なる単語を用いている。私は、これこそが言語の最も美しい点だと常々想っているのよ」
蓮子は、教科書や参考書、論文集を次々にラグランジュポイントへ向けて投げ込んだ。メリーの自室の宙空では、無数の書物が乱雑に絡まりあいながら奇妙なオブジェクトを形成していく……。これではまるで重力が存在するようでさえある。
「言語はそれを遣う人間毎に異なる。同じ日本語を用いていても、私の遣う言語とメリーの遣う言語は意思疎通不可能なほどに隔たっている。けれど、それを修正し一つの共同の幻想ともいえる意味を与えて、異なる人間同士が意思疎通を行うための道具が辞書であるのならば……」
「ならば、辞書を遣わぬ他人の言葉を読むことは、正しく解読であるとでも言いたいの?」
「その通りよ。賢い人間は辞書に則らない。何故なら、考える言葉をそのままに論理的に用いることで、極めて高次元で効率的なコミュニケーションが可能だと知っているから。けれどそれは、ごく限られた者たちの間でしか通用しない言語。先鋭化し、専門家され、その汎用性を失った限定的な言語……」
「それは……まるで自分の思考そのものを出力しているように聞こえる」
「そうよ。だからこそこうした言語は聞き手に知性を要求する。私は、私の理論と考えを話す。理解できないならば知った事か、理解できたならば反論してみろ、といった風なね」
蓮子は、ついに立ち上がり学習椅子を宙空に投げ入れた。メリーの自室内のあらゆる物体は、重力に引き寄せられるかのように軌道を描いて運動し始めている。それは、落下し続ける人工衛星の如く、ちょうどメリーの自室の中心に形成されたオブジェクトの周囲を絶えず運動していた。蓮子とメリーは、部屋の壁際にもたれかかって、極めて原始的な運動をただただ眺めていた――
「多くの他人は、みんなが自分と同じであれば良いと思っている」
学習机の引き出しから、様々な文房具が取り出され、室内でアステロイドベルトと化していた。強力な重力は、しかし室内だけに限定されながら収縮の道を辿り始める。
「みんなが、誰も彼も同じ言語を遣えばいいと思っている。世界が一つになればいいと思っている。誰もがおんなじ常識に則っておんなじ考えを持てばいいと思っている。みんなが自分であればいいと思っている。その究極系がグローバリゼーションよ。人間はあらゆるものの境界を否定し始めた」
蓮子は、吐き捨てるように言った、まるで憎き仇敵の話を物語るように。メリーは静かに蓮子の言語に耳を傾け、その解読作業を進めているようであった。
「個人の個性を認めろだとかそんな話ではないわ。ただ、私が言いたいのは言語と境界が否定され、世界は一つに統合され始めているということなの。誰かが、言語を一つにしようとしている。境界を否定し、世界を一つにする糸口を見つけた何者かがいる……」
蓮子は、顎に手を当てて、暫く考え込んだ後に、腕を前に突き出す仕草を見せて言った。
「私の夢はいつかそいつをぶん殴る事なの」
「叶うといいわね」
やがて、収縮の一途を辿っていた室内宇宙は、ある一点に収束してその全てを消失させた。まるで引っ越し前の空き家のように何もなくなった一室で、二人はその一点を見つめていた。黒い一点、シュワルツシルト半径を下回るその球面には、もはや否定された幻想が眠る。蓮子とメリーの二人が今回追い求めていた深秘である。
「さあ、雑談もここらにして、暴きに行きましょうか」
「そうね、楽しみだわ。今日はどんな深秘を垣間見れるのか」
秘封俱楽部の二人は、暫くしてから跡形もなく消えた。
そしてまたいつか帰ってくるだろう。
蓮子は、そう言ってメリーの目の前でベッドに深々と腰かけた。凹みこんだマットレスを見て、メリーことマエリベリー・ハーンが不快そうに表情を歪めている。
「ねぇ蓮子、そのベッドを敷きなおすのは誰だと思っているの? マットレスに弾性が残されている間に、その腰掛代わりに用いられている寝具からの即時退去を要求するわ」
「あいあいさー」
蓮子は、メリーの言葉を受けて致し方無いといった様子の大袈裟なジェスチャーを取りながら、近場の学習椅子に座りなおした。彼女はメリーの自宅に招かれているいわば客人の立場であったが、それ以前に存在する遠慮なき友人関係によって即時退去の要求を呑んだようであった。
しかし、蓮子がベッドから学習椅子に座りなおした途端に、メリーがベッドへとその座標を遷移させた事実は、蓮子の表情を不満げに歪ませた。しかし、彼女は溜息を吐いて一度目を瞑り、それきりで負の雰囲気を霧散させた。
「私は今、メリーの行動で不快という感情のモジュールを起動させられる羽目になった。けれどそれ以前に、メリーの言葉に依って私はまた納得という感情のモジュールを起動させていたわ。言葉には人の感情を起動させる力がある仮説が今、私自身の体験によって実証された」
「うわぁ……感情をシステムとして捉え、個々の名称を与えられたそれぞれの感情を状態や状況によって起動されるモジュールとして捉えるの? 余りにも機械的ねぇ」
「機械はある意味で人間を真似て作られている。というか、人間が作った物はみな人間に似せられているといっても良いわ。例え人からかけ離れたモノを作ろうと、人間はその創造物から人を想わずにはいられない生きものなのよ。つまり、機械的なモノは人間的なのよ」
「詭弁はキライよ。難しい言葉を遣う人間もね」
メリーは、頬を膨らませて蓮子の額を人差し指でつついた。蓮子はといえば、つつかれた額をさすりながら、開き直っていた。
「どうして他人が分かるように私の文法を改変しなければならないの? 何様のつもり? 私の文法を知りたければ貴方たちが解読しなさい」
「まあ怖い」
「冗談よ。一応私も人間だから」
「さっぱりだわ」
メリーは蓮子の視界に入るように、分厚い辞書を翳した。たったそれだけで、蓮子はメリーが言わんとしたことを察したのだろう。しかし、蓮子はやれやれといった様子で首を振った。
「辞書は、異なる人間が同一の単語に同一の意味を与えてコミュニケーションを図るための、通信規約に過ぎない。正誤を示すモノではないのよ。科学者の語る科学という単語にどれだけの意味が含まれているかメリーに理解できる? でも、その意味はきっとほとんど辞書には載っていないでしょう。それは間違えた単語の使い方かしら? 断じてそうではない」
「あら、素敵ね。単語にはさまざまに意味が与えられ、辞書に載っていない意味の方が正しさに近しかったりすると?」
「正しさなんて私には分からないけれど。より精確な意味であるといった方が適切でしょうね。もちろん、こうした単語は会話の為には役立たない。専門用語の極みのようなモノよ」
多くの場合、私たちは言語で世界を解釈していると、蓮子は嘯いていた。
「私達は世界を解釈するための道具として言語を用いている。より多くの言語と単語を知れば知るほど、世界を精確に解釈できるようになっていく。私達は、言語で思考し、言語で会話し、言語で解釈する。また、言語には人の行動を規制する力さえある」
「人の行動を規制する力?」
「命令文という文法に如実に表れるそれは、また究極的には明文化された法律として私たちの前にあるわ」
「法とは言語なのだと蓮子は考えているの?」
「少なくとも言語に依らない法を私は知らないからね。私達は言語で契約を交わすし、自分が生れたことも死んだことも言語で届け出る。何もかも社会的なものの殆ど全ては悉く言語よ。因みに、私が遣う言語という単語は話し言葉と書き言葉と考え言葉を内包していることを、口に出して連携しておくわ」
「分かったわ。蓮子が言っている世界という単語は社会と同義ね?」
「名答、メリーも分かってきたじゃない」
蓮子は満足げな表情を浮かべると、メリーに視えるように室内の宙空に辞書をぶん投げた。それは、ちょうど天井と床の中間地点でその動きを止めて浮遊する。
「貴女になら視えるでしょうメリー。ここがこの部屋のラグランジュポイント」
「違うわ。私の自室の結界よ」
「ほら、同じモノを現そうとしているのに、私とメリーとで異なる単語を用いている。私は、これこそが言語の最も美しい点だと常々想っているのよ」
蓮子は、教科書や参考書、論文集を次々にラグランジュポイントへ向けて投げ込んだ。メリーの自室の宙空では、無数の書物が乱雑に絡まりあいながら奇妙なオブジェクトを形成していく……。これではまるで重力が存在するようでさえある。
「言語はそれを遣う人間毎に異なる。同じ日本語を用いていても、私の遣う言語とメリーの遣う言語は意思疎通不可能なほどに隔たっている。けれど、それを修正し一つの共同の幻想ともいえる意味を与えて、異なる人間同士が意思疎通を行うための道具が辞書であるのならば……」
「ならば、辞書を遣わぬ他人の言葉を読むことは、正しく解読であるとでも言いたいの?」
「その通りよ。賢い人間は辞書に則らない。何故なら、考える言葉をそのままに論理的に用いることで、極めて高次元で効率的なコミュニケーションが可能だと知っているから。けれどそれは、ごく限られた者たちの間でしか通用しない言語。先鋭化し、専門家され、その汎用性を失った限定的な言語……」
「それは……まるで自分の思考そのものを出力しているように聞こえる」
「そうよ。だからこそこうした言語は聞き手に知性を要求する。私は、私の理論と考えを話す。理解できないならば知った事か、理解できたならば反論してみろ、といった風なね」
蓮子は、ついに立ち上がり学習椅子を宙空に投げ入れた。メリーの自室内のあらゆる物体は、重力に引き寄せられるかのように軌道を描いて運動し始めている。それは、落下し続ける人工衛星の如く、ちょうどメリーの自室の中心に形成されたオブジェクトの周囲を絶えず運動していた。蓮子とメリーは、部屋の壁際にもたれかかって、極めて原始的な運動をただただ眺めていた――
「多くの他人は、みんなが自分と同じであれば良いと思っている」
学習机の引き出しから、様々な文房具が取り出され、室内でアステロイドベルトと化していた。強力な重力は、しかし室内だけに限定されながら収縮の道を辿り始める。
「みんなが、誰も彼も同じ言語を遣えばいいと思っている。世界が一つになればいいと思っている。誰もがおんなじ常識に則っておんなじ考えを持てばいいと思っている。みんなが自分であればいいと思っている。その究極系がグローバリゼーションよ。人間はあらゆるものの境界を否定し始めた」
蓮子は、吐き捨てるように言った、まるで憎き仇敵の話を物語るように。メリーは静かに蓮子の言語に耳を傾け、その解読作業を進めているようであった。
「個人の個性を認めろだとかそんな話ではないわ。ただ、私が言いたいのは言語と境界が否定され、世界は一つに統合され始めているということなの。誰かが、言語を一つにしようとしている。境界を否定し、世界を一つにする糸口を見つけた何者かがいる……」
蓮子は、顎に手を当てて、暫く考え込んだ後に、腕を前に突き出す仕草を見せて言った。
「私の夢はいつかそいつをぶん殴る事なの」
「叶うといいわね」
やがて、収縮の一途を辿っていた室内宇宙は、ある一点に収束してその全てを消失させた。まるで引っ越し前の空き家のように何もなくなった一室で、二人はその一点を見つめていた。黒い一点、シュワルツシルト半径を下回るその球面には、もはや否定された幻想が眠る。蓮子とメリーの二人が今回追い求めていた深秘である。
「さあ、雑談もここらにして、暴きに行きましょうか」
「そうね、楽しみだわ。今日はどんな深秘を垣間見れるのか」
秘封俱楽部の二人は、暫くしてから跡形もなく消えた。
そしてまたいつか帰ってくるだろう。
喋りまくる蓮子に付き合うメリーという一種の様式美のようなものを感じました