一、少女は、それをただ見つめていました。
蝉の抜け殻がありました。木の幹と同じ色をしているので普段は目に留まらないのですが、異質な形から一度気づくと、どうにもその木を目にするたび見てしまうものです。
少女は木の下で、それをただ見つめていました。
木は丁度良い大きさで、少女は木陰に完全に入ることが出来ました。暑さを忘れることが出来ました。
ときおり、水筒から水を飲んでいれば、あとは心配がいりませんでした。抜け殻は、逃げることが決してないのですから。
二、少女は、それに手を触れてみました。
抜け殻からは、白いイトが出ていました。それは蝉が大人になるのに足掛けにするものでしたが、今となってはもう何の役にも立ちません。
棄てられてしまったそれを、少女は何となく引っ張ってみました。すると、それは簡単にぷつりと切れてしまいました。
それは複雑に捻じれたままで、少女がどれだけ手の中で動かそうと、綺麗に伸びることはありませんでした。
でも、別に良かったのです。切れた先まで白いことが分かっただけ、良かったのです。
三、少女は、それに息を吹きかけてみました。
口を少し窄めて、隙間に風を当てました。すると、ぎゅーっと、籠った音がかえってきました。
けれど、抜け殻はびくともしませんでした。それはそうです。
温かみなど感じることのない抜け殻は、もはや力によって動かすしかないのですから。
少女はふと、抜け殻のなくなる冬を浮かべました。冷たい風にも弱いことを、思い直したのです。
四、少女は、それを手に取ってみました。
ちょっとやそっとでは落ちないよう、幹にしっかりとくっついている物でしたが、とろうと思えば案外綺麗にとれる物でした。
少女はそれを初めて、裏側から見ることが出来ました。それは、表側以上に異質でした。
変に曲がっている足は、なによりじっとするまでに足掻いた証なのでしょう。
それは、確かに生きていたのです。抜けたのがいつなのか分からない少女にも、生きていたことが伝わったのです。
五、少女は、それを持て余していました。
抜け殻は当然、動きません。少女が手の中に収めていれば、いつまでも、そのままなのです。
でも、やがて、手は窮屈に感じられました。
大切なものはいつまでも手中におさめておきたいものですが、少女には、果たしてそれが本当に大切なものなのか、疑問に思えてきたのです。
少女は考え直しました。これは、蝉にとって大切なものかもしれないと。でも、蝉の心など、分かる物ではありませんでした。
六、少女は、その様を見ました。
いよいよ暗くなって、蝉が羽化をする時間になったのです。地面から、蝉が這い出てきました。
蝉は地上に目が眩んでいるようかのに、ちどり足でした。それでも確かに、抜け殻の止まっていた木にしがみつきました。
蝉はゆっくりと、木を登っていきました。そして、少女が抜け殻を外した場所とほとんど同じ場所で、蝉はじっとしました。
少女は息をのみ、待ちました。蝉にとって、抜け殻はどんなものか、知りたかったのです。
七、少女は、抜け殻の意味を知りました。
少女が待っていると、やがて蝉の背中に亀裂が走り、中から生まれたての蝉が出てきました。
透き通る白から緑のグラデーション。うっすらとした金色に黒の意匠。それは、少女の憧れる、美しさそのものでした。少女はそれに見入りました。
その時、優しく手に握られた抜け殻の感触に、少女はふと思い出しました。黒くて、うるさくて、時に意味もなくこっちに向かってくるあの蝉の姿を。
少女は、あれとこれが同じ生物であることに気づくと、抜け殻を温かく、両手で包み込みました。
少女が見つめていると、蝉は静かに抜け殻から離れ、すぐ横の幹に止まりました。少女は、また一つ、生まれた抜け殻を同じように手の中に包み込みました。
―――朝には、蝉は黒くなって、あれらの仲間入りをするのでしょう。それでも、この抜け殻に刻まれた美しい姿、その軌跡を決して忘れないの。抜け殻を残した理由はきっとそうでしょう、私?―――
八、少女は、それと共に旅に出ました。
されど、抜け殻は抜け殻。何も入っていないのでは、空しくなってしまうものです。
少女は旅に出ました。まるで八日目の蝉が、生きていられなくなるように。
抜け殻をまた、満たすため。