冒頭
────
計画の発端は、もう五百年も前になるか。
昔話として語るには古すぎるが、伝話として語るには新しすぎる程度には昔の話だ。
現代風に言うなら、十六世紀頃。
幻想郷のある土地、引いては日本において人が増加し始めた頃。
世は正に群雄割拠の時代。
人は誰かに治められる世から脱却し、文字通り力がモノを言う世への変貌期。
下剋上も起こり、従来の支配構造が崩壊していった時代。
我ら妖怪は存在の危機に瀕していた。
被支配の側に居た人間たちの蜂起は、我ら妖怪へも波及した。
指導者が現れ皆を先導し、我ら妖怪を人の世から追放しようとした。
彼らも、我ら妖怪との歴然たる力の差は分かっていたはずだ。
例え幾百、幾千集まろうと、凡百の寄せ集めたる烏合の衆では我らに勝てるはずもない。
返り討ちに遭い、無様に屍を野山へ晒すか、食われるかの二択になることは誰の目から見ても明白。
しかし、彼らは退かなかった。
元より、数が集まったことで気が大きくなっていたこともあろう。
時代の流れも、彼らの背中を後押ししていたに違いない。
我ら妖怪に反抗し始め、その心からは我らに対する恐れが消えた。
かつて妖怪に怯え支配されながらも共に生きてきた人は、妖怪を恐れなくなった。
怯えながらも、陰に陽に大小様々な恩恵を互いに授受し共存関係を築いていたにも関わらず、人はそれを一方的に裏切ったのだ。
我らの根源たる恐れが世界から消え、妖怪の存在は希薄になってしまった。
実際に姿を消してしまった者も少数ながら……いた。
当然のこととして、妖怪達の間には人への怒りが沸々と湧き始めた。
復讐として人を殺し尽くすことを考えたものも、少なからずいた。
増長した人は恐れを知らず、全員が死ぬまで妖怪に立ち向かってくるだろうから、容易なことだ。
──しかし、それを外に出す者はほとんどいなかった。
なぜならば、それは問題を真に解決しないからだ。
怒りを人にぶつけることは、一時の慰みになろう。
怒りが鎮み、束の間の安息を得るだろう。
だが、それだけだ。
人が滅んだ世では、我ら妖怪は生きられない。
人を殺し尽くし僅かばかりの満足を得た後は、そのまま自分たちも緩やかに滅びゆくのみ。
我ら妖怪は人の心を必要とする存在だ。
よって、自分たちの存在を保つために人を殺すのは本末転倒。
ならば、どうすべきか。
妖怪の存在を脅かす人間を殺さずに、存在を取り戻す術とは何か。
例えるなら、肉食獣に追い詰められた草食獣が、肉食獣を排除すること無く安全に生きるためにはどうすればよいか。
この問が難問であることは、誰もが認めることだろう。
そして挑んだ皆が気付く。
そこに、与えられた条件を充たす解など存在しないことを。
無論、私も導かれた結論に異存はない。
たとえ誰が考えたとしても、解は存在しない。
──常識の内には。
そう、常識の範疇でいくら考えても解など導けるはずもない。
だが我らは常識の外に在る、非常識の存在だ。
答えの無い問に対し、解を創ることが出来る。
言わば、実数の世界に虚数を持ち込むようなものだ。
存在しない解を捻じ曲げ、常識の外にそれを求める。
そしてこれこそ、『幻と実体の境界』だ。
単なる人里離れた山奥に過ぎぬ土地──古くからの信仰が根深く残る、世界から取り残されたような里──に、論理的な結界を張った。
物理的なものではないから、触れることは出来ない。
何を遮ることもない。
一見して何も変わらないが、それは一つの世界を定義した。
境界を区切り、名前をつけることで他から区別され、新たな世界が論理的に創造される。
『幻想郷』の原点である。
その機能は、「結界の内を幻の世界に、外を実体の世界にする」。
結界を隔てた二つの論理世界において、幻と実体は反転する。
これによって、外の世界で幻とされた妖怪たちへの恐れは内の世界で実体となり我らは再び存在が強固になった。
また、この境界は外の世界で幻となった存在を自動的に内の世界へ招く効果もある。
外の世界で幻となった妖怪たちが自動的に幻想郷へと流れるようになり、『幻想郷』は妖怪の楽園となっていった。
これで存在の危機を乗り越えた我らは、その安寧を享受していた。
しかしそれも永遠とはならず、四百年弱の後に再びの危機を迎えることになる。
────
永く続いた太平の世も終わり、激動の時代となった日本。
目まぐるしく変化する世界で、我ら妖怪は再び存在を脅かされていた。
かつて人間が妖怪を恐れなくなった時と異なり、この時妖怪は存在を否定されたのだ。
積極的に外交がなされるようになり、外国から日本に様々なものが持ち込まれた。
衣、食、住、生活様式、思考、思想……。
そして、科学。
諸国から持ち込まれた科学の考えは、当時の日本にとっては革新的な考えであった。
旧くより妖怪の悪戯、神の仕業、物の怪のせいだと片付けられていた多くのことが科学で解明された。
分かりやすいところで言えば、やまびこは妖怪が声を返しているのではなく、音が反射しているだけである、と。
科学は我らにとって脅威だった。
一つの災厄、悪魔と言っても良かった。
いや、より正確に言えば「科学を手にした人間」か。
彼らは、神話の時代から永く共に在った我らを捨てた。
何を惜しむこともなく、悔やむこともなく、息をするかのように彼らは我らを追い出した。
かつてのように恐れは消え去り、あまつさえ畏れも消えた。
存在しない物を恐れることは出来ない。
存在しない物を畏れることは出来ない。
神の御業とされていた事象が次々と解明され、人は神を信仰しなくなった。
こうして、神への信仰は激減した。
信仰が減れば、人に授けることのできる神徳も減る。
神徳が減れば、人間は神を信仰しなくなり、更に神徳は減る。
山を下る水のように、坂を転がる石のように、一度始まったら加速するしか無い流れが生まれ、信仰が枯れ果てるまで止まることはない。
雁字搦めでどう動くことも出来ないどん詰まりの中で。
私は、ある計画を思いついていた。
我らを捨てた人間たちに、密かに復讐するための計画だ。
百年、二百年、もしやそれ以上にかかるかもしれない。
しかし、それでも構わない。
彼らに一泡吹かせることが出来るなら、安いものだ。
妖怪の寿命など有って無いようなものだから、気にすることもない。
ただ退屈して死んだように生きるよりは、未来に楽しみがあった方がよい。
先ずやらねばならないのは、妖怪たちの保護と世界の断絶。
人間の世界と妖怪の世界をより強く区別し、人の世界から妖怪の存在を消す。
今までのように論理的な結界だけでなく物理的な結界を作り、妖怪を人間にとっての幻想とする。
このために創られたのが『博麗大結界』である。
物理的な境界と言えど、実際に結界が壁として在るのではなく、あくまで結界は論理的なもの。
触れることは出来ず、意識しても見ることは出来ない。
しかし、結界の内と外を自由に行き来することは出来ない。
基本的に、意識ある者は通り抜けることは不可能と言って良い。
結界の「内の常識」を持つ者は内の世界に、結界の「外の世界」を持つ者は外の世界にしかたどり着けない。
言わば、「常識の壁」だ。
容易く変えることが出来ないからこそ、世界を断絶する壁として機能する。
ただ何事にも例外はある。
全ての者が結界を越えられぬわけではない。
例えば、結界をものともしない強い力を持つ者。
結界を解く鍵を知る者や、神のように外でも必要とされている者。
これらの妖怪は結界を双方向に越えることが出来るが、極少数。
また、「幻想入り」した者たちも結界を越えて外から内へ入ってくることが出来る。
ただし、彼らは基本的に一方通行で外へ戻ることは不可能。
まぁ仮に戻れたとしても、忘れ去られた外の世界で何が出来るわけでもない。
忘れ去られた世界で、かつては心を通い合わせた人間たちに触れることも出来ず声も届かぬ中、ゆっくりと自分を蝕む滅びに抗うすべも持たず、ただ死を待つのみ。
比して、結界の内にいれば再び妖怪としての生を楽しみ、世界から認められる。
その甘美な蜜を捨て、先のない世界に誰が喜んで戻るだろう。
また、結界を張る際に一つの細工を施した。
結界に対してではなく、外の世界に対しての細工を。
別に難しいことではなく、一つの噂を流しただけだ。
内容は以下の通り。
「極東の国、日本には『幻想郷』なる場所がある。
彼の地では忘れ去られた妖怪達が再び生を楽しんでいる。」
つまり『幻想郷』を外の世界から秘匿しなかった。
聡明な諸君なら、これに驚いたかもしれない。
「何故『幻想郷』を秘匿しなかったのか」と。
確かに、外の世界から完全に消えてしまったほうが都合の良いことも多い。
外の世界で嗅ぎ出されれば干渉されるリスクもある上、面白半分で手を出す者もいるだろう。
その結果として結界が曖昧となり、壊れる可能性も十分にある。
しかし、それを考慮しても尚これは必要なことだ。
『幻想郷』という世界は、忘れ去られ飢えた妖怪たちに残された最後の希望となるだろう。
彼らは死に際にそれに縋る。
蜜を求め群がる虫のように、光を求め群がる蛾のように、彼らはこの地に集うだろう。
これこそ、私の計画に必要なこと。
彼らは無意識に私の計画に加担することになる。
誰が損するでもなく、双方ともに利益のある取引だ。
場を提供したのだから、少しばかり存在を利用させてもらっても問題はなかろう。
せめて住民税くらいは納めてらわねば。
それにもし、結界が曖昧になってしまっても、それはそれで構わない。
──どうせ、最終的に結界は曖昧になるのだから。
────
さて。
そろそろ、計画の全貌を明かしてしまうとしようか。
既に計画は終盤に差し掛かりつつある。
気付いたとしても、誰も止められまい。
計画の終着点は「外の世界に、妖怪の天下を再び築くこと」だ。
不可能だと思うだろうか。
……まぁ不可能だろう。
妖怪側がいくら知恵を巡らせようと、人間に支配された世界に戻るのは無理な話。
そう。
──妖怪だけならば、不可能。
では、妖怪だけの力でないとしたら?
人間の力を借りられるとしたら、どうだろう。
それでも不可能だろうか。
人の支配する世界に、人の力を借りて再び顕現するのだ。
だが、これにも大きな問題が在る。
まず前提として、人の力を借りることなど不可能。
だが、別にそれは問題にはならない。
何故ならば、そこに彼らの積極的協力など必要ないからだ。
彼らの協力は必要だが、消極的な協力でよい。
むしろ、彼らはそれを意識する必要すらない。
彼らには「内の常識」を外に持ち帰ってもらうだけ。
それも、少しずつ、少しずつ。
思い返してみれば、これまで多くの年月を費やしてきた。
計画が破綻しないように手を回したことも最早数えきれない。
それがこうして実を結びつつある。
これほど甘美な時間があるだろうか。
────
「吸血鬼異変」は計画に誤差を生じさせる要素の一つだった。
外から幻想郷へと入ってきた吸血鬼によって、妖怪たちが暴動を起こした異変。
『博麗大結界』成立以来、牙を抜かれ過ごし気力が蒸発した彼らだ。
強大な力を持つ者が、世界反逆への狼煙を上げる姿は、彼らの目にさぞや魅力的に映っただろう。
しかし、それだけではあれは説明できない。
気力が抜かれ腑抜けた者たちを再びまとめ上げ蜂起させるには、並大抵の鼓舞では足りない。
言葉巧みに心を鼓舞し、実現しうるだけの力を示し、皆を配下として従わせるだけの素質を持ち、王自らが前線に立つ。
さすがはレミリア・スカーレットと言ったところか。
あの幼く子供っぽい風姿の中にどれだけの魂が入っているのだろう。
実際、この暴動を鎮圧するのには手を焼いた。
そして、鎮圧の際に一つ間違えてしまった。
我ら幻想郷サイドは、力を以って押さえつけた。
力の行使を不当に禁じられた世界で、それでも尚抗おうとすれば上はそれを力で押さえつけようとする。
これに反発する妖怪も多くいた。
吸血鬼異変は抑圧された妖怪たちの不満が噴出した一例であり、火蓋が切られた後はいつ再び暴動が起こるか分からない。
爆弾はそこら中に散らばり、導火線はひどく絡まりながら伸びる。
一度火が点けば、連鎖的に爆発して収集がつかなくなることは想像に難くない。
そうなれば、間違いなく幻想郷は崩壊する。
だからこそ我々はその捌け口を用意した。
──『命名決闘法案』という名の平等なルールとして。
稗田の記す求聞史紀には「妖怪たちの気力が弱った状態では危険であるから」とある。
それは事実であるが、真ではない。
確かにそう進言はしたが、本当の目的は先の通り「妖怪たちの不満の捌け口を用意するため」だ。
彼らの不満が向いているのは幻想郷の在り方、引いてはその支配のやり方である。
だから、それを変えてやればいい。
絶対の実力主義を廃止し、誰もが平等に競えるルールを用意した。
自分が抑えられるだけでなく、幻想郷に抗える手段を。
そうすれば、彼らの怒りの対象は幻想郷ではなく自分自身に向くようになる。
不満があれば、その力を以て世界に挑めば良い。
世界が変わらないのなら、変えられないのなら、それは自分が弱いだけ。
自分の力で世界に抗えるのだから、自由に抗えば良い。
その気力すら無く、ただ不満を垂れ流すだけならそのまま野垂れ死ねばよい。
幻想郷は決して彼らの母ではない。
泣いていれば助けてくれるような優しい世界ではない。
心より欲しいものがあるなら、その手で勝ち取ってみればいい。
私は『命名決闘法案』頒布と同時に、全妖怪にそう宣言した。
当初は皆迷っていたようだが、首謀者たる吸血鬼が命名決闘法案を利用した異変を起こしたことで世界は一気に加速した。
妖怪は気力を取り戻し、幻想郷は活気を取り戻した。
そう考えると、レミリア・スカーレットには感謝せねばならない。
────
感謝と言えば、守矢にも感謝しなければならない。
彼女らが幻想郷に来たことは、私の計画に多くのものをもたらした。
その中でも最大のものは、「幻想郷が外の世界で未だ生きている」ことが分かったことだろうか。
守矢の神々は、所謂「幻想入り」として幻想郷に来たのではなく、自分達の意思で、明確に幻想郷を目指して移住を試みた。
つまり、彼女らは外の世界にいながらも幻想郷を知っていたことになる。
それは、外の世界に遺してきた噂が未だ息絶えていない証左であり。
そして、消滅の危機にある妖怪達に、幻想郷が魅力的な世界として映っていることの証左でもある。
これで懸案事項が一つ解決した。
今後も、幻想郷という名の蜜を求めた妖怪が訪れるだろう。
私の計画に加担することになるとは微塵も思わずに。
また、彼女らがもたらしたものは、勿論それだけではない。
単純に彼女らが、外の世界で幻想となった者たちが増えたことで「内の常識」が濃くなった。
「内の常識」が濃くなれば濃くなるほど、神隠しに遭った者が持ち帰る常識は濃度を増す。
その量自体は変わらずとも、濃度が増せば世界への影響力は増大する。
白の絵の具に、黒の絵の具を混ぜる時を考えてみればいい。
混ぜる量は変わらずとも、濃くなればなるほど白は黒に近づく。
「外の常識」を、より侵食しやすくなるのだ。
また、彼女らが「外の常識」を幻想郷に持ち込んだこともプラスに働いている。
人とは得てして、自分と異なるものは受け入れがたく感じるもの。
そこにほんの少しでも自分と同じものが有れば、受け入れ難さは大きく軽減される。
「内の常識」に、ほんの少しだけ混ざった「外の常識」というスパイス。
きっと外の世界の舌にも合う、ビターな味となるだろう。
────
ここまで聞いて、次の疑問を持った者もいるだろう。
──常識が混ざれば、結界は自然と曖昧となるのか?と。
その疑問は当然のもので、私も何も分からぬまま計画を推し進めてはいない。
幻想郷には、既に曖昧となった結界があるではないか。
名を『幽明結界』と言う。
現世と冥界を隔てる強固な結界で、春雪異変の折に霊夢たちの手で破壊された。
そして異変が解決した後も、私はそれを直さなかった。
いつでも直せるように注意しながら見ていたが、結果は予想通りとなった。
今や幻想郷の誰も、生者の世界たる現世に亡霊や半人半霊という死者が混じっていることに何の疑問も抱いていないではないか。
生者は死者の世界たる冥界を訪れ、死者は生者の世界たる現世を訪れている。
それは、現世と冥界の常識が混じっていることに他ならない。
『幽明結界』も、今やほとんど機能しておらず曖昧となったままだ。
かつて創った結界が壊れたことに幾許かの寂寥を感じなくもないが、これも計画に必要なことと思えば苦でもない。
────
それにしても、宇佐見菫子は不思議な少女だ。
彼女は外の存在でありながら、幻想郷に存在を許されている。
本来ならば『幻と実体の境界』によって、外の実体は内の幻となるはずなのだが。
まぁ理由は大方予想がついている。
「外の菫子」と「内の菫子」は存在の核が違うのだろう。
彼女は、外の世界では「秘封倶楽部の初代会長、女子高生」という属性を纏い、内の世界では「超能力者」という属性を纏っている。
前者は外の世界で実体であり、後者は内の世界での実体。
宇佐見菫子とは一つの存在であり、一つの存在ではない。
そして彼女の在り方は、今回の件でリトマス紙としての役目を果たす。
「内の常識が、外の世界をどれだけ侵食しているか」が分かるのだ。
彼女が夢の中で撮影した弾幕の写真たち、私はそれを消去することは可能だったが、そのまま残すことにした。
彼女はSNS映えを狙っていたのだから、残していればそれを外の世界で拡散を狙う。
つまり、弾幕が、引いては『幻想郷』の存在が外の世界に広まる。
今回の件で、彼女は外の世界でオカルトサークルとして名が通るようになっているようだ。
きっと、興味を持つ者、詳細を求める者が現れる。
結界を越えようと試みるものも現れるかもしれない。
菫子が詳細を漏らすことは無いだろうから、深淵まで踏み込むことは出来ないだろうが。
もし「超能力者」である宇佐美菫子が外の世界に受け入れられるようであったら、内の常識が外の世界を侵食していることを示す。
この場合、「超能力者」という属性を持つ彼女は、既に外の実体である「女子高生」という属性に加える形で外の世界に顕現できる。
受け入れられないようであったら、それは常識の侵食が進んでいない証拠。
その場合は、「超能力者」という属性を持つ彼女の存在は内の世界で強まるだけで、「女子高生」たる彼女の存在は揺るがない。
また、この場合は『幻想郷』もより強固な世界になる。
どちらにせよ、彼女の存在が外の世界で揺らぐことはない。
彼女に危険が及ぶことは無く承認欲を充たすことが出来、私は計画の進捗を確かに得ることが出来る。
誰も損をしない、皆が幸福を得られる素晴らしい計画だ。
────
『幻想郷』は、滅びゆく妖怪が死の間際に見る儚き夢ではない。
いずれ復活するために力を蓄えるための場所であり。
獰猛な獅子たちが、牙を研ぎ、体を休める雌伏の場だ。
もっとも、この真相を知る者は私以外に居ない。
また、幻想郷は「妖怪たちの楽園」と呼ばれることもあるが、これもまた嘘ではないが、真の姿ではない。
確かに幻となった彼らにとって、再び実体として認められる世界は「楽園」であろう。
しかし、それは彼らをより多く集めるための誘蛾灯としての一側面に過ぎない。
彼らにとって居心地の良い場を提供すれば、自然とそこに群がる。
そして妖怪が多く集まれば集まるほど内の常識は強く、濃くなっていくのだ。
また、『幻想郷』は壊れてはならない。
いずれは曖昧となる結界ではあるが、その道途で壊れてしまえば計画は水泡に帰してしまう。
「『幻想郷』の保護」も「妖怪の保護」も、計画を進めるために必要な手順であり、最終目標のそれではない。
しかし、これについては自分が心配することはないだろう。
今の『幻想郷』には、『命名決闘法案』がある。
このルールが有る限り、最終的に異変は必ず解決される。
ルールに従わない者がいれば、それは「世界の破壊者」となり、郷から追放される。
妖怪たちは『幻想郷』が壊れ、自分らの住処を、世界の安寧を奪われることを恐れ、自然と世界の守護者となる。
自分たちの存在を保つために、人間という名の家畜を護るだろう。
人は世界から保護され、その対価として妖怪を恐れる。
妖怪は自分を世界に示すため異変を起こし、人間から退治されることで距離を保つ。
もう私が何もせずとも、『幻想郷』は安泰だろう。
『幻想郷』は私の手を離れ、一つの生き物として脈動を始めた。
私はその裏で、少しずつ、密かに外の世界を侵食していく。
故意に結界を緩めて外の常識を持つ者を結界の内に招き、内の世界を見せて外へと帰す。
もし帰れなくとも、それは外の世界で一種の都市伝説として扱われるのだから、妖怪たちの食料となってもらえばいい。
外に帰った者は、「内の常識」を「外の世界」へ持ち帰るだろう。
その目で、耳で、身体で感じた幻想を、自らの体験として知識として持ち帰ってもらう。
無事帰ることが出来た者たちは、近しい者から縁遠い者まで皆から詮索され、自分でもそれを話すだろう。
「内の常識」を「外の存在」に向けて伝えるだろう。
失われた豊かな自然を、空飛ぶ人間を、異形の生物を、人の姿をした妖怪を、楽しく遊ぶ子供らを。
──そして、弾幕を。
きっと多くは語れまい、上手くは語れまい。
なぜなら、彼らはそれを表す言葉を失って久しいのだから。
人は我ら幻想を捨てて長らく、既にそれは忘却の彼方にある。
だが、それでもよい。
「伝える」ことそれ自体が重要なのだから
彼らの話を信じる者もいれば、信じぬ者もいる。
いや、多くの者は信じないだろうか。
信じぬ者が多ければ、幻想は強固となり「内の常識」が強まる。
信じる者がいれば、「内の常識」が「外の常識」を蝕む。
どちらに転んでも、計画は進む。
人はかつて、妖怪の存在を否定した。
そこに在り、目に見えて触れることが出来ても、彼らは愚かにも我らを否定し科学へと傾倒した。
……いや、否定した訳ではないか。
彼らは我らよりも科学を信じただけだ。
その結果として我らは否定されたのだろう。
我らの姿は彼らの目に映らなくなった。
我らの手は彼らに触れられなくなった。
我らの声は彼らの耳に届かなくなった。
だからこそ、今度は彼らの目で、身体で、耳で我らの幻想を感じてもらう。
「内の常識」へと招き入れ、それを持ち帰ってもらう。
かつて我らを否定した人間たちに、我らを信じさせてゆく。
幻想を見た者が一人だったら、それはきっと妄言として扱われて終わるだろう。
では、それが二人だったらどうだろう。
四人だったら。
八人だったら。
十六人だったら。
──世界の半数だったら。
見た者の人数を純粋にそこまで増やす必要はない。
自分の目で見ずとも、話を聞いて信じる者もいるだろう。
話を聞いて信じた者の話を又聞きして信じる者もいるだろう。
そして、局地的に信じる者が多くなれば、世界の常識は歪む。
信じぬ者も、少数派になれば凪ぐ。
──間違っているのは、自分の方ではないか、と。
そうなれば、世界は加速する。
人はその多くが、自分の属する集団が一つではないから、他の集団にも影響を及ぼす。
結果として、常識の歪みはパンデミックを起こす。
その時こそ、我ら妖怪が外の世界に顕現する時だ。
結界は曖昧になり、常識は混ざる。
かつて我らを否定し幻想へと追いやった人間の手で、我らは再び幻想から蘇る。
────
計画が成った暁には、外の世界はどうなるだろう。
「現実」に「幻想」が溢れ出した世界。
夢の世界が現実に変わった世界。
きっと、最初に幻想に呑まれる地は日本、特に東京だろうか。
単純に人口が多く、話題の広まりが早い地。
SNSが発達しようとも、噂や都市伝説は口伝ての方が広まりやすい。
内の常識に侵食されることで、彼の地は時代から遅れゆくだろう。
結界が曖昧になったことで綻びが生じ、その亀裂が観察されるようになるだろう。
そして、「内の常識」に蝕まれた人間も出てくるだろう。
元は普通の人間であっても、「内の常識」に長時間触れていれば身体は侵食される。
結果として出来上がるのは、普通の人間として振る舞いながらも、家の常識を持ち合わせる人間たち。
──「外の常識」の内ではありえない現象を起こすような、常識外に在る人間たち。
彼らならば、境界の綻びを観測出来るだろう。
観測ついでに綻びを暴いてくれたら「内の常識」の侵食が加速するため喜ばしいのだが、まぁそこまでは望むまい。
そして、人間たちはどのように我らを抑えるだろうか。
彼らは愚かではあるが、「内の常識」に侵食された世界を放置するほど愚鈍ではないだろう。
果たして、どのように対処するだろう。
逃げるだろうか。
無論、それは賢明な判断。
だが同時に、最も愚かな手段でもある。
逃げたところで、常識の侵食は止まらない。
一時は安寧を得られるだろうが、いずれは逃げた先も常識に侵食されるようになる。
眼前に迫る危機に目をつむり、逃げ続けるだけでは、いずれ世界全てが「内の常識」に沈む。
よって、彼らは常識の侵食を食い止めるように務めるしかない。
既に流出した常識を戻すことはできないならば、できることは「それ以上常識が侵食されないようにする」ことのみ。
綻びを固く閉じ、人々がそれに触れないようにすればいい。
ただ禁止するだけでは強制力が無く、人は安易にそれを破るだろう。
ならば、それを破ることに罰則を設ければよい。
例えば、法という形で定めれば多くの者は従うだろう。
──しかし、これもまた悪手。
秘せば秘すほど、結界の神秘性は増す。
神秘性が増せば、それに惹かれる者も出てくるだろう。
それを信仰する者、興味本位で触れようとする者、名を上げるために暴こうとする者。
様々な形で神秘に触れようとする者が出てくるに違いない。
ただでさえ人という存在は秘密を暴きたくなるものだ。
そして、中には法を犯す者も現れるのではなかろうか?
────
──やはり、物を書くというのは思っている以上に疲弊する。
肩、手、目、どれも酷使したことに文句を垂れているようだ。
目を休めるために外を見れば、明るかったはずの空には月の姿。
カタンと音を立てて筆を置くと、グゥと腹の虫が小さく鳴いた。
……そんなに集中していたのか、と自分でも驚く。
少し腹ごしらえしたら、今年はもう寝てしまおうか。
最早やることも残っておらず、後は待つのみ。
色付いた葉もすっかり散り、冬の気配を感じるようになってきた。
まだ冬と呼ぶには早いが、寒いのは得意でない。
次に目が覚める頃には、梅の花が咲き始めているだろう。
梅を見ながら、皆と酒を飲み交わそう。
──願わくば、その酒宴が我が悲願成就の祝宴であることを。
────
計画の発端は、もう五百年も前になるか。
昔話として語るには古すぎるが、伝話として語るには新しすぎる程度には昔の話だ。
現代風に言うなら、十六世紀頃。
幻想郷のある土地、引いては日本において人が増加し始めた頃。
世は正に群雄割拠の時代。
人は誰かに治められる世から脱却し、文字通り力がモノを言う世への変貌期。
下剋上も起こり、従来の支配構造が崩壊していった時代。
我ら妖怪は存在の危機に瀕していた。
被支配の側に居た人間たちの蜂起は、我ら妖怪へも波及した。
指導者が現れ皆を先導し、我ら妖怪を人の世から追放しようとした。
彼らも、我ら妖怪との歴然たる力の差は分かっていたはずだ。
例え幾百、幾千集まろうと、凡百の寄せ集めたる烏合の衆では我らに勝てるはずもない。
返り討ちに遭い、無様に屍を野山へ晒すか、食われるかの二択になることは誰の目から見ても明白。
しかし、彼らは退かなかった。
元より、数が集まったことで気が大きくなっていたこともあろう。
時代の流れも、彼らの背中を後押ししていたに違いない。
我ら妖怪に反抗し始め、その心からは我らに対する恐れが消えた。
かつて妖怪に怯え支配されながらも共に生きてきた人は、妖怪を恐れなくなった。
怯えながらも、陰に陽に大小様々な恩恵を互いに授受し共存関係を築いていたにも関わらず、人はそれを一方的に裏切ったのだ。
我らの根源たる恐れが世界から消え、妖怪の存在は希薄になってしまった。
実際に姿を消してしまった者も少数ながら……いた。
当然のこととして、妖怪達の間には人への怒りが沸々と湧き始めた。
復讐として人を殺し尽くすことを考えたものも、少なからずいた。
増長した人は恐れを知らず、全員が死ぬまで妖怪に立ち向かってくるだろうから、容易なことだ。
──しかし、それを外に出す者はほとんどいなかった。
なぜならば、それは問題を真に解決しないからだ。
怒りを人にぶつけることは、一時の慰みになろう。
怒りが鎮み、束の間の安息を得るだろう。
だが、それだけだ。
人が滅んだ世では、我ら妖怪は生きられない。
人を殺し尽くし僅かばかりの満足を得た後は、そのまま自分たちも緩やかに滅びゆくのみ。
我ら妖怪は人の心を必要とする存在だ。
よって、自分たちの存在を保つために人を殺すのは本末転倒。
ならば、どうすべきか。
妖怪の存在を脅かす人間を殺さずに、存在を取り戻す術とは何か。
例えるなら、肉食獣に追い詰められた草食獣が、肉食獣を排除すること無く安全に生きるためにはどうすればよいか。
この問が難問であることは、誰もが認めることだろう。
そして挑んだ皆が気付く。
そこに、与えられた条件を充たす解など存在しないことを。
無論、私も導かれた結論に異存はない。
たとえ誰が考えたとしても、解は存在しない。
──常識の内には。
そう、常識の範疇でいくら考えても解など導けるはずもない。
だが我らは常識の外に在る、非常識の存在だ。
答えの無い問に対し、解を創ることが出来る。
言わば、実数の世界に虚数を持ち込むようなものだ。
存在しない解を捻じ曲げ、常識の外にそれを求める。
そしてこれこそ、『幻と実体の境界』だ。
単なる人里離れた山奥に過ぎぬ土地──古くからの信仰が根深く残る、世界から取り残されたような里──に、論理的な結界を張った。
物理的なものではないから、触れることは出来ない。
何を遮ることもない。
一見して何も変わらないが、それは一つの世界を定義した。
境界を区切り、名前をつけることで他から区別され、新たな世界が論理的に創造される。
『幻想郷』の原点である。
その機能は、「結界の内を幻の世界に、外を実体の世界にする」。
結界を隔てた二つの論理世界において、幻と実体は反転する。
これによって、外の世界で幻とされた妖怪たちへの恐れは内の世界で実体となり我らは再び存在が強固になった。
また、この境界は外の世界で幻となった存在を自動的に内の世界へ招く効果もある。
外の世界で幻となった妖怪たちが自動的に幻想郷へと流れるようになり、『幻想郷』は妖怪の楽園となっていった。
これで存在の危機を乗り越えた我らは、その安寧を享受していた。
しかしそれも永遠とはならず、四百年弱の後に再びの危機を迎えることになる。
────
永く続いた太平の世も終わり、激動の時代となった日本。
目まぐるしく変化する世界で、我ら妖怪は再び存在を脅かされていた。
かつて人間が妖怪を恐れなくなった時と異なり、この時妖怪は存在を否定されたのだ。
積極的に外交がなされるようになり、外国から日本に様々なものが持ち込まれた。
衣、食、住、生活様式、思考、思想……。
そして、科学。
諸国から持ち込まれた科学の考えは、当時の日本にとっては革新的な考えであった。
旧くより妖怪の悪戯、神の仕業、物の怪のせいだと片付けられていた多くのことが科学で解明された。
分かりやすいところで言えば、やまびこは妖怪が声を返しているのではなく、音が反射しているだけである、と。
科学は我らにとって脅威だった。
一つの災厄、悪魔と言っても良かった。
いや、より正確に言えば「科学を手にした人間」か。
彼らは、神話の時代から永く共に在った我らを捨てた。
何を惜しむこともなく、悔やむこともなく、息をするかのように彼らは我らを追い出した。
かつてのように恐れは消え去り、あまつさえ畏れも消えた。
存在しない物を恐れることは出来ない。
存在しない物を畏れることは出来ない。
神の御業とされていた事象が次々と解明され、人は神を信仰しなくなった。
こうして、神への信仰は激減した。
信仰が減れば、人に授けることのできる神徳も減る。
神徳が減れば、人間は神を信仰しなくなり、更に神徳は減る。
山を下る水のように、坂を転がる石のように、一度始まったら加速するしか無い流れが生まれ、信仰が枯れ果てるまで止まることはない。
雁字搦めでどう動くことも出来ないどん詰まりの中で。
私は、ある計画を思いついていた。
我らを捨てた人間たちに、密かに復讐するための計画だ。
百年、二百年、もしやそれ以上にかかるかもしれない。
しかし、それでも構わない。
彼らに一泡吹かせることが出来るなら、安いものだ。
妖怪の寿命など有って無いようなものだから、気にすることもない。
ただ退屈して死んだように生きるよりは、未来に楽しみがあった方がよい。
先ずやらねばならないのは、妖怪たちの保護と世界の断絶。
人間の世界と妖怪の世界をより強く区別し、人の世界から妖怪の存在を消す。
今までのように論理的な結界だけでなく物理的な結界を作り、妖怪を人間にとっての幻想とする。
このために創られたのが『博麗大結界』である。
物理的な境界と言えど、実際に結界が壁として在るのではなく、あくまで結界は論理的なもの。
触れることは出来ず、意識しても見ることは出来ない。
しかし、結界の内と外を自由に行き来することは出来ない。
基本的に、意識ある者は通り抜けることは不可能と言って良い。
結界の「内の常識」を持つ者は内の世界に、結界の「外の世界」を持つ者は外の世界にしかたどり着けない。
言わば、「常識の壁」だ。
容易く変えることが出来ないからこそ、世界を断絶する壁として機能する。
ただ何事にも例外はある。
全ての者が結界を越えられぬわけではない。
例えば、結界をものともしない強い力を持つ者。
結界を解く鍵を知る者や、神のように外でも必要とされている者。
これらの妖怪は結界を双方向に越えることが出来るが、極少数。
また、「幻想入り」した者たちも結界を越えて外から内へ入ってくることが出来る。
ただし、彼らは基本的に一方通行で外へ戻ることは不可能。
まぁ仮に戻れたとしても、忘れ去られた外の世界で何が出来るわけでもない。
忘れ去られた世界で、かつては心を通い合わせた人間たちに触れることも出来ず声も届かぬ中、ゆっくりと自分を蝕む滅びに抗うすべも持たず、ただ死を待つのみ。
比して、結界の内にいれば再び妖怪としての生を楽しみ、世界から認められる。
その甘美な蜜を捨て、先のない世界に誰が喜んで戻るだろう。
また、結界を張る際に一つの細工を施した。
結界に対してではなく、外の世界に対しての細工を。
別に難しいことではなく、一つの噂を流しただけだ。
内容は以下の通り。
「極東の国、日本には『幻想郷』なる場所がある。
彼の地では忘れ去られた妖怪達が再び生を楽しんでいる。」
つまり『幻想郷』を外の世界から秘匿しなかった。
聡明な諸君なら、これに驚いたかもしれない。
「何故『幻想郷』を秘匿しなかったのか」と。
確かに、外の世界から完全に消えてしまったほうが都合の良いことも多い。
外の世界で嗅ぎ出されれば干渉されるリスクもある上、面白半分で手を出す者もいるだろう。
その結果として結界が曖昧となり、壊れる可能性も十分にある。
しかし、それを考慮しても尚これは必要なことだ。
『幻想郷』という世界は、忘れ去られ飢えた妖怪たちに残された最後の希望となるだろう。
彼らは死に際にそれに縋る。
蜜を求め群がる虫のように、光を求め群がる蛾のように、彼らはこの地に集うだろう。
これこそ、私の計画に必要なこと。
彼らは無意識に私の計画に加担することになる。
誰が損するでもなく、双方ともに利益のある取引だ。
場を提供したのだから、少しばかり存在を利用させてもらっても問題はなかろう。
せめて住民税くらいは納めてらわねば。
それにもし、結界が曖昧になってしまっても、それはそれで構わない。
──どうせ、最終的に結界は曖昧になるのだから。
────
さて。
そろそろ、計画の全貌を明かしてしまうとしようか。
既に計画は終盤に差し掛かりつつある。
気付いたとしても、誰も止められまい。
計画の終着点は「外の世界に、妖怪の天下を再び築くこと」だ。
不可能だと思うだろうか。
……まぁ不可能だろう。
妖怪側がいくら知恵を巡らせようと、人間に支配された世界に戻るのは無理な話。
そう。
──妖怪だけならば、不可能。
では、妖怪だけの力でないとしたら?
人間の力を借りられるとしたら、どうだろう。
それでも不可能だろうか。
人の支配する世界に、人の力を借りて再び顕現するのだ。
だが、これにも大きな問題が在る。
まず前提として、人の力を借りることなど不可能。
だが、別にそれは問題にはならない。
何故ならば、そこに彼らの積極的協力など必要ないからだ。
彼らの協力は必要だが、消極的な協力でよい。
むしろ、彼らはそれを意識する必要すらない。
彼らには「内の常識」を外に持ち帰ってもらうだけ。
それも、少しずつ、少しずつ。
思い返してみれば、これまで多くの年月を費やしてきた。
計画が破綻しないように手を回したことも最早数えきれない。
それがこうして実を結びつつある。
これほど甘美な時間があるだろうか。
────
「吸血鬼異変」は計画に誤差を生じさせる要素の一つだった。
外から幻想郷へと入ってきた吸血鬼によって、妖怪たちが暴動を起こした異変。
『博麗大結界』成立以来、牙を抜かれ過ごし気力が蒸発した彼らだ。
強大な力を持つ者が、世界反逆への狼煙を上げる姿は、彼らの目にさぞや魅力的に映っただろう。
しかし、それだけではあれは説明できない。
気力が抜かれ腑抜けた者たちを再びまとめ上げ蜂起させるには、並大抵の鼓舞では足りない。
言葉巧みに心を鼓舞し、実現しうるだけの力を示し、皆を配下として従わせるだけの素質を持ち、王自らが前線に立つ。
さすがはレミリア・スカーレットと言ったところか。
あの幼く子供っぽい風姿の中にどれだけの魂が入っているのだろう。
実際、この暴動を鎮圧するのには手を焼いた。
そして、鎮圧の際に一つ間違えてしまった。
我ら幻想郷サイドは、力を以って押さえつけた。
力の行使を不当に禁じられた世界で、それでも尚抗おうとすれば上はそれを力で押さえつけようとする。
これに反発する妖怪も多くいた。
吸血鬼異変は抑圧された妖怪たちの不満が噴出した一例であり、火蓋が切られた後はいつ再び暴動が起こるか分からない。
爆弾はそこら中に散らばり、導火線はひどく絡まりながら伸びる。
一度火が点けば、連鎖的に爆発して収集がつかなくなることは想像に難くない。
そうなれば、間違いなく幻想郷は崩壊する。
だからこそ我々はその捌け口を用意した。
──『命名決闘法案』という名の平等なルールとして。
稗田の記す求聞史紀には「妖怪たちの気力が弱った状態では危険であるから」とある。
それは事実であるが、真ではない。
確かにそう進言はしたが、本当の目的は先の通り「妖怪たちの不満の捌け口を用意するため」だ。
彼らの不満が向いているのは幻想郷の在り方、引いてはその支配のやり方である。
だから、それを変えてやればいい。
絶対の実力主義を廃止し、誰もが平等に競えるルールを用意した。
自分が抑えられるだけでなく、幻想郷に抗える手段を。
そうすれば、彼らの怒りの対象は幻想郷ではなく自分自身に向くようになる。
不満があれば、その力を以て世界に挑めば良い。
世界が変わらないのなら、変えられないのなら、それは自分が弱いだけ。
自分の力で世界に抗えるのだから、自由に抗えば良い。
その気力すら無く、ただ不満を垂れ流すだけならそのまま野垂れ死ねばよい。
幻想郷は決して彼らの母ではない。
泣いていれば助けてくれるような優しい世界ではない。
心より欲しいものがあるなら、その手で勝ち取ってみればいい。
私は『命名決闘法案』頒布と同時に、全妖怪にそう宣言した。
当初は皆迷っていたようだが、首謀者たる吸血鬼が命名決闘法案を利用した異変を起こしたことで世界は一気に加速した。
妖怪は気力を取り戻し、幻想郷は活気を取り戻した。
そう考えると、レミリア・スカーレットには感謝せねばならない。
────
感謝と言えば、守矢にも感謝しなければならない。
彼女らが幻想郷に来たことは、私の計画に多くのものをもたらした。
その中でも最大のものは、「幻想郷が外の世界で未だ生きている」ことが分かったことだろうか。
守矢の神々は、所謂「幻想入り」として幻想郷に来たのではなく、自分達の意思で、明確に幻想郷を目指して移住を試みた。
つまり、彼女らは外の世界にいながらも幻想郷を知っていたことになる。
それは、外の世界に遺してきた噂が未だ息絶えていない証左であり。
そして、消滅の危機にある妖怪達に、幻想郷が魅力的な世界として映っていることの証左でもある。
これで懸案事項が一つ解決した。
今後も、幻想郷という名の蜜を求めた妖怪が訪れるだろう。
私の計画に加担することになるとは微塵も思わずに。
また、彼女らがもたらしたものは、勿論それだけではない。
単純に彼女らが、外の世界で幻想となった者たちが増えたことで「内の常識」が濃くなった。
「内の常識」が濃くなれば濃くなるほど、神隠しに遭った者が持ち帰る常識は濃度を増す。
その量自体は変わらずとも、濃度が増せば世界への影響力は増大する。
白の絵の具に、黒の絵の具を混ぜる時を考えてみればいい。
混ぜる量は変わらずとも、濃くなればなるほど白は黒に近づく。
「外の常識」を、より侵食しやすくなるのだ。
また、彼女らが「外の常識」を幻想郷に持ち込んだこともプラスに働いている。
人とは得てして、自分と異なるものは受け入れがたく感じるもの。
そこにほんの少しでも自分と同じものが有れば、受け入れ難さは大きく軽減される。
「内の常識」に、ほんの少しだけ混ざった「外の常識」というスパイス。
きっと外の世界の舌にも合う、ビターな味となるだろう。
────
ここまで聞いて、次の疑問を持った者もいるだろう。
──常識が混ざれば、結界は自然と曖昧となるのか?と。
その疑問は当然のもので、私も何も分からぬまま計画を推し進めてはいない。
幻想郷には、既に曖昧となった結界があるではないか。
名を『幽明結界』と言う。
現世と冥界を隔てる強固な結界で、春雪異変の折に霊夢たちの手で破壊された。
そして異変が解決した後も、私はそれを直さなかった。
いつでも直せるように注意しながら見ていたが、結果は予想通りとなった。
今や幻想郷の誰も、生者の世界たる現世に亡霊や半人半霊という死者が混じっていることに何の疑問も抱いていないではないか。
生者は死者の世界たる冥界を訪れ、死者は生者の世界たる現世を訪れている。
それは、現世と冥界の常識が混じっていることに他ならない。
『幽明結界』も、今やほとんど機能しておらず曖昧となったままだ。
かつて創った結界が壊れたことに幾許かの寂寥を感じなくもないが、これも計画に必要なことと思えば苦でもない。
────
それにしても、宇佐見菫子は不思議な少女だ。
彼女は外の存在でありながら、幻想郷に存在を許されている。
本来ならば『幻と実体の境界』によって、外の実体は内の幻となるはずなのだが。
まぁ理由は大方予想がついている。
「外の菫子」と「内の菫子」は存在の核が違うのだろう。
彼女は、外の世界では「秘封倶楽部の初代会長、女子高生」という属性を纏い、内の世界では「超能力者」という属性を纏っている。
前者は外の世界で実体であり、後者は内の世界での実体。
宇佐見菫子とは一つの存在であり、一つの存在ではない。
そして彼女の在り方は、今回の件でリトマス紙としての役目を果たす。
「内の常識が、外の世界をどれだけ侵食しているか」が分かるのだ。
彼女が夢の中で撮影した弾幕の写真たち、私はそれを消去することは可能だったが、そのまま残すことにした。
彼女はSNS映えを狙っていたのだから、残していればそれを外の世界で拡散を狙う。
つまり、弾幕が、引いては『幻想郷』の存在が外の世界に広まる。
今回の件で、彼女は外の世界でオカルトサークルとして名が通るようになっているようだ。
きっと、興味を持つ者、詳細を求める者が現れる。
結界を越えようと試みるものも現れるかもしれない。
菫子が詳細を漏らすことは無いだろうから、深淵まで踏み込むことは出来ないだろうが。
もし「超能力者」である宇佐美菫子が外の世界に受け入れられるようであったら、内の常識が外の世界を侵食していることを示す。
この場合、「超能力者」という属性を持つ彼女は、既に外の実体である「女子高生」という属性に加える形で外の世界に顕現できる。
受け入れられないようであったら、それは常識の侵食が進んでいない証拠。
その場合は、「超能力者」という属性を持つ彼女の存在は内の世界で強まるだけで、「女子高生」たる彼女の存在は揺るがない。
また、この場合は『幻想郷』もより強固な世界になる。
どちらにせよ、彼女の存在が外の世界で揺らぐことはない。
彼女に危険が及ぶことは無く承認欲を充たすことが出来、私は計画の進捗を確かに得ることが出来る。
誰も損をしない、皆が幸福を得られる素晴らしい計画だ。
────
『幻想郷』は、滅びゆく妖怪が死の間際に見る儚き夢ではない。
いずれ復活するために力を蓄えるための場所であり。
獰猛な獅子たちが、牙を研ぎ、体を休める雌伏の場だ。
もっとも、この真相を知る者は私以外に居ない。
また、幻想郷は「妖怪たちの楽園」と呼ばれることもあるが、これもまた嘘ではないが、真の姿ではない。
確かに幻となった彼らにとって、再び実体として認められる世界は「楽園」であろう。
しかし、それは彼らをより多く集めるための誘蛾灯としての一側面に過ぎない。
彼らにとって居心地の良い場を提供すれば、自然とそこに群がる。
そして妖怪が多く集まれば集まるほど内の常識は強く、濃くなっていくのだ。
また、『幻想郷』は壊れてはならない。
いずれは曖昧となる結界ではあるが、その道途で壊れてしまえば計画は水泡に帰してしまう。
「『幻想郷』の保護」も「妖怪の保護」も、計画を進めるために必要な手順であり、最終目標のそれではない。
しかし、これについては自分が心配することはないだろう。
今の『幻想郷』には、『命名決闘法案』がある。
このルールが有る限り、最終的に異変は必ず解決される。
ルールに従わない者がいれば、それは「世界の破壊者」となり、郷から追放される。
妖怪たちは『幻想郷』が壊れ、自分らの住処を、世界の安寧を奪われることを恐れ、自然と世界の守護者となる。
自分たちの存在を保つために、人間という名の家畜を護るだろう。
人は世界から保護され、その対価として妖怪を恐れる。
妖怪は自分を世界に示すため異変を起こし、人間から退治されることで距離を保つ。
もう私が何もせずとも、『幻想郷』は安泰だろう。
『幻想郷』は私の手を離れ、一つの生き物として脈動を始めた。
私はその裏で、少しずつ、密かに外の世界を侵食していく。
故意に結界を緩めて外の常識を持つ者を結界の内に招き、内の世界を見せて外へと帰す。
もし帰れなくとも、それは外の世界で一種の都市伝説として扱われるのだから、妖怪たちの食料となってもらえばいい。
外に帰った者は、「内の常識」を「外の世界」へ持ち帰るだろう。
その目で、耳で、身体で感じた幻想を、自らの体験として知識として持ち帰ってもらう。
無事帰ることが出来た者たちは、近しい者から縁遠い者まで皆から詮索され、自分でもそれを話すだろう。
「内の常識」を「外の存在」に向けて伝えるだろう。
失われた豊かな自然を、空飛ぶ人間を、異形の生物を、人の姿をした妖怪を、楽しく遊ぶ子供らを。
──そして、弾幕を。
きっと多くは語れまい、上手くは語れまい。
なぜなら、彼らはそれを表す言葉を失って久しいのだから。
人は我ら幻想を捨てて長らく、既にそれは忘却の彼方にある。
だが、それでもよい。
「伝える」ことそれ自体が重要なのだから
彼らの話を信じる者もいれば、信じぬ者もいる。
いや、多くの者は信じないだろうか。
信じぬ者が多ければ、幻想は強固となり「内の常識」が強まる。
信じる者がいれば、「内の常識」が「外の常識」を蝕む。
どちらに転んでも、計画は進む。
人はかつて、妖怪の存在を否定した。
そこに在り、目に見えて触れることが出来ても、彼らは愚かにも我らを否定し科学へと傾倒した。
……いや、否定した訳ではないか。
彼らは我らよりも科学を信じただけだ。
その結果として我らは否定されたのだろう。
我らの姿は彼らの目に映らなくなった。
我らの手は彼らに触れられなくなった。
我らの声は彼らの耳に届かなくなった。
だからこそ、今度は彼らの目で、身体で、耳で我らの幻想を感じてもらう。
「内の常識」へと招き入れ、それを持ち帰ってもらう。
かつて我らを否定した人間たちに、我らを信じさせてゆく。
幻想を見た者が一人だったら、それはきっと妄言として扱われて終わるだろう。
では、それが二人だったらどうだろう。
四人だったら。
八人だったら。
十六人だったら。
──世界の半数だったら。
見た者の人数を純粋にそこまで増やす必要はない。
自分の目で見ずとも、話を聞いて信じる者もいるだろう。
話を聞いて信じた者の話を又聞きして信じる者もいるだろう。
そして、局地的に信じる者が多くなれば、世界の常識は歪む。
信じぬ者も、少数派になれば凪ぐ。
──間違っているのは、自分の方ではないか、と。
そうなれば、世界は加速する。
人はその多くが、自分の属する集団が一つではないから、他の集団にも影響を及ぼす。
結果として、常識の歪みはパンデミックを起こす。
その時こそ、我ら妖怪が外の世界に顕現する時だ。
結界は曖昧になり、常識は混ざる。
かつて我らを否定し幻想へと追いやった人間の手で、我らは再び幻想から蘇る。
────
計画が成った暁には、外の世界はどうなるだろう。
「現実」に「幻想」が溢れ出した世界。
夢の世界が現実に変わった世界。
きっと、最初に幻想に呑まれる地は日本、特に東京だろうか。
単純に人口が多く、話題の広まりが早い地。
SNSが発達しようとも、噂や都市伝説は口伝ての方が広まりやすい。
内の常識に侵食されることで、彼の地は時代から遅れゆくだろう。
結界が曖昧になったことで綻びが生じ、その亀裂が観察されるようになるだろう。
そして、「内の常識」に蝕まれた人間も出てくるだろう。
元は普通の人間であっても、「内の常識」に長時間触れていれば身体は侵食される。
結果として出来上がるのは、普通の人間として振る舞いながらも、家の常識を持ち合わせる人間たち。
──「外の常識」の内ではありえない現象を起こすような、常識外に在る人間たち。
彼らならば、境界の綻びを観測出来るだろう。
観測ついでに綻びを暴いてくれたら「内の常識」の侵食が加速するため喜ばしいのだが、まぁそこまでは望むまい。
そして、人間たちはどのように我らを抑えるだろうか。
彼らは愚かではあるが、「内の常識」に侵食された世界を放置するほど愚鈍ではないだろう。
果たして、どのように対処するだろう。
逃げるだろうか。
無論、それは賢明な判断。
だが同時に、最も愚かな手段でもある。
逃げたところで、常識の侵食は止まらない。
一時は安寧を得られるだろうが、いずれは逃げた先も常識に侵食されるようになる。
眼前に迫る危機に目をつむり、逃げ続けるだけでは、いずれ世界全てが「内の常識」に沈む。
よって、彼らは常識の侵食を食い止めるように務めるしかない。
既に流出した常識を戻すことはできないならば、できることは「それ以上常識が侵食されないようにする」ことのみ。
綻びを固く閉じ、人々がそれに触れないようにすればいい。
ただ禁止するだけでは強制力が無く、人は安易にそれを破るだろう。
ならば、それを破ることに罰則を設ければよい。
例えば、法という形で定めれば多くの者は従うだろう。
──しかし、これもまた悪手。
秘せば秘すほど、結界の神秘性は増す。
神秘性が増せば、それに惹かれる者も出てくるだろう。
それを信仰する者、興味本位で触れようとする者、名を上げるために暴こうとする者。
様々な形で神秘に触れようとする者が出てくるに違いない。
ただでさえ人という存在は秘密を暴きたくなるものだ。
そして、中には法を犯す者も現れるのではなかろうか?
────
──やはり、物を書くというのは思っている以上に疲弊する。
肩、手、目、どれも酷使したことに文句を垂れているようだ。
目を休めるために外を見れば、明るかったはずの空には月の姿。
カタンと音を立てて筆を置くと、グゥと腹の虫が小さく鳴いた。
……そんなに集中していたのか、と自分でも驚く。
少し腹ごしらえしたら、今年はもう寝てしまおうか。
最早やることも残っておらず、後は待つのみ。
色付いた葉もすっかり散り、冬の気配を感じるようになってきた。
まだ冬と呼ぶには早いが、寒いのは得意でない。
次に目が覚める頃には、梅の花が咲き始めているだろう。
梅を見ながら、皆と酒を飲み交わそう。
──願わくば、その酒宴が我が悲願成就の祝宴であることを。
世界考察がしっかりしているようで、なかなか楽しめました。
欲を言うなら、もう少しばかり肉付けをして、物語調を強めて欲しいところです。
次回作も期待しています。