今までのあらすじ:生まれ、育ち、無力さ。全てをひっくり返すため、鬼人正邪は小人の一族に目を付けた。鬼の国に幽閉された彼らは願いを叶える秘宝『打ち出の小槌』を持つという。首尾良く小人の姫ごと小槌を盗み出したはいいが、これからの方針はまるでない。小槌が願いを叶えてくれるにしたって、倒すべき敵が誰かも分からぬ。知は力である。貸本屋で読んだ幻想郷縁起を参考に、湖のそばの図書館に忍び込むことにした。魔道書の一つでも得られれば万々歳である。そう思っていた矢先、魔法の矢が袖をかすめた。
一着しかない一張羅の袖が破けた。惜しんでいる暇はない。全力で前に転がると、元いた場所にいくつも矢の突き立つ音がした。書架を抜けた先に、気付けば図書館の主が座っていた。ロッキングチェアなんぞに座って、真っ赤な本を手元にゆらゆらと揺れている。どうやらはめられたらしい。
「珍しい鼠ね」
「なんでもお見通しってか。魔女め」
「鬼人正邪。天邪鬼。何でもひっくり返す程度の能力。幻想郷の転覆を企図している。小人の少名針妙丸を唆し打ち出の小槌の力を手に入れた。天涯孤独を気取ってはいるがその実裕福な家庭に生まれ、物心つく頃には没落し……」
弾幕の矢を放つ。ガラスの割れる音がした。魔女の真上のシャンデリアが割れている。支柱が撃ち抜かれ、シャンデリアが落下していく。ガラスと金属の塊はしかし、紫色の魔女に触れる前に粉々になり、砂糖菓子のように溶け崩れていった。この程度では奇襲にもなりやしないか。
それでも、魔女といえど、詠唱のためにはうるさい口を閉じずにはいられないようだ。
蝋燭からこぼれ落ちた火は、毛足の長い絨毯に染み込むように消えていった。
指元を光らせたパチュリーを見据えて、吐き捨てる。
「鼠はどっちだか。魔女ってやつはなんでもかんでも嗅ぎつけたがる。知らないことがそんなに恐ろしいのか?」
「なんでもは知らないわ。書かれていることだけ。地底の様子は存外と認められているものよ。熱心な管理者のおかげでね」
とんとんと手元の本を叩いてみせる。よもやそんなものに書いてあるわけではなかろうに。気取った魔女だ。
それから、と魔女が指先を回す。その動きにしたがってはらりと天井がめくれ落ち、正邪を包むように伸びてくる。殺到する、という程でもないが、悠長に眺めている暇はない。
「泥棒鼠は一匹で十分なの。手早くお帰り願いたいわね」
書架の間にいては挟み撃ちにされて終わりだ。
書架の上に飛び上がる。書架から書架へ、飛び石を渡るように駆ける。
さらに次の書架へ飛び移ろうとする寸前、行く手を阻むようにまたも天井がめくれ落ちてきた。一つ隣の書架に舵を切る。少し危ういが飛びきった。
いつまで伸び続けるのか。誘導されているような感覚。後ろからは際限なく追いかけてくる。
らちがあかない。
負けじとこちらも弾幕を張るが、先が削れるだけで大して効果はなかった。
ひたすらに走る。追い付かれるほど速くはないみたいだ。書架を飛び降り、少しでも距離を稼ぐ。着地した瞬間、柔らかな絨毯が衝撃を受け止める。ブルジョワめ。
書架上を行くより速く、一路来た道を戻る。命あっての物種だ。
入るとき、少しだけ扉を開いたままにしたのが功を奏した。隙間から滑り込み、急いで閉める。扉に突き刺さる音。絶え間なく鳴り続く。ここにいてはまずい。また駆け出す。
天井は高く豪奢で真っ赤な絨毯が敷かれている。贅を尽くした内装の割には、窓の一つもない廊下を走る。本が傷まないようにだろうか。吸血鬼の館だからか。廊下の先に、本を片手にのんきに歩いているメイドがいる。図書館に本を返しに来たようだ。こちらを見ても歩を緩める気配もない。なめやがって。
すれ違いざま、手の本をひったくる。あら、なんてとぼけた声を出しやがる。なめやがって。なめやがって。なめやがって。走り抜ける。
霧の湖を抜けて、潜伏先へとひた走る。ひったくった本は、『幻想郷の一寸法師』などと題されていた。書かれていたのは、かつての小人族の繁栄と堕落。打ち出の小槌の強大な力と代償。噂にだけ聞いた、遠い過去の話だ。針妙丸には伝えなかった話だ。
本を捨てて走る。あいつには見せられない。怖じ気づいてもらっては困る。今更引き返せるはずもない。何より、本当に代償が必要なのかもわからない。
一寸法師は小槌の力で大きくなり、姫と一生幸せに暮らした。そいつが一体なんの代償を払ったというのだろう。かつての小人族は虚栄を望んだから破滅した。それなら、まことの心をもって、正義のために小槌を振るえばどうなのか。虐げられた者のために振るえばどうなのか。少なくとも、あいつがそう信じていたなら。
足は止めない。止められるわけもない。
誰からも追い付かれぬよう、走り続けた。
■ ■ ■
「それで、パチュリー様。わざわざひったくらせる意味はあったんですか?」
「教えられた知識より、自分で得た知識の方が身に沁みるものよ。真理が彼らを自由にする。選択肢は、あった方がいいでしょう」
「ずいぶんとお優しいのですね」
「ファンなのよね、私。留まるにしろ、進むにしろ、情報はあるにこしたことはないわ」
ロッキングチェアにゆられながら、手に持った本の表紙をなでる。
『地底のアマノジャク』。著、古明地さとり。その地底に対する広範な知識と読心能力を素に、妖怪の半生を描いた連作伝記の一冊である。彼女の燃え上がる心のように、一房赤い髪のように、真っ赤な装丁。
「生身の妖怪と本のキャラクターを同一視するなんて、人が悪いですね」
「まったくだわ」
一着しかない一張羅の袖が破けた。惜しんでいる暇はない。全力で前に転がると、元いた場所にいくつも矢の突き立つ音がした。書架を抜けた先に、気付けば図書館の主が座っていた。ロッキングチェアなんぞに座って、真っ赤な本を手元にゆらゆらと揺れている。どうやらはめられたらしい。
「珍しい鼠ね」
「なんでもお見通しってか。魔女め」
「鬼人正邪。天邪鬼。何でもひっくり返す程度の能力。幻想郷の転覆を企図している。小人の少名針妙丸を唆し打ち出の小槌の力を手に入れた。天涯孤独を気取ってはいるがその実裕福な家庭に生まれ、物心つく頃には没落し……」
弾幕の矢を放つ。ガラスの割れる音がした。魔女の真上のシャンデリアが割れている。支柱が撃ち抜かれ、シャンデリアが落下していく。ガラスと金属の塊はしかし、紫色の魔女に触れる前に粉々になり、砂糖菓子のように溶け崩れていった。この程度では奇襲にもなりやしないか。
それでも、魔女といえど、詠唱のためにはうるさい口を閉じずにはいられないようだ。
蝋燭からこぼれ落ちた火は、毛足の長い絨毯に染み込むように消えていった。
指元を光らせたパチュリーを見据えて、吐き捨てる。
「鼠はどっちだか。魔女ってやつはなんでもかんでも嗅ぎつけたがる。知らないことがそんなに恐ろしいのか?」
「なんでもは知らないわ。書かれていることだけ。地底の様子は存外と認められているものよ。熱心な管理者のおかげでね」
とんとんと手元の本を叩いてみせる。よもやそんなものに書いてあるわけではなかろうに。気取った魔女だ。
それから、と魔女が指先を回す。その動きにしたがってはらりと天井がめくれ落ち、正邪を包むように伸びてくる。殺到する、という程でもないが、悠長に眺めている暇はない。
「泥棒鼠は一匹で十分なの。手早くお帰り願いたいわね」
書架の間にいては挟み撃ちにされて終わりだ。
書架の上に飛び上がる。書架から書架へ、飛び石を渡るように駆ける。
さらに次の書架へ飛び移ろうとする寸前、行く手を阻むようにまたも天井がめくれ落ちてきた。一つ隣の書架に舵を切る。少し危ういが飛びきった。
いつまで伸び続けるのか。誘導されているような感覚。後ろからは際限なく追いかけてくる。
らちがあかない。
負けじとこちらも弾幕を張るが、先が削れるだけで大して効果はなかった。
ひたすらに走る。追い付かれるほど速くはないみたいだ。書架を飛び降り、少しでも距離を稼ぐ。着地した瞬間、柔らかな絨毯が衝撃を受け止める。ブルジョワめ。
書架上を行くより速く、一路来た道を戻る。命あっての物種だ。
入るとき、少しだけ扉を開いたままにしたのが功を奏した。隙間から滑り込み、急いで閉める。扉に突き刺さる音。絶え間なく鳴り続く。ここにいてはまずい。また駆け出す。
天井は高く豪奢で真っ赤な絨毯が敷かれている。贅を尽くした内装の割には、窓の一つもない廊下を走る。本が傷まないようにだろうか。吸血鬼の館だからか。廊下の先に、本を片手にのんきに歩いているメイドがいる。図書館に本を返しに来たようだ。こちらを見ても歩を緩める気配もない。なめやがって。
すれ違いざま、手の本をひったくる。あら、なんてとぼけた声を出しやがる。なめやがって。なめやがって。なめやがって。走り抜ける。
霧の湖を抜けて、潜伏先へとひた走る。ひったくった本は、『幻想郷の一寸法師』などと題されていた。書かれていたのは、かつての小人族の繁栄と堕落。打ち出の小槌の強大な力と代償。噂にだけ聞いた、遠い過去の話だ。針妙丸には伝えなかった話だ。
本を捨てて走る。あいつには見せられない。怖じ気づいてもらっては困る。今更引き返せるはずもない。何より、本当に代償が必要なのかもわからない。
一寸法師は小槌の力で大きくなり、姫と一生幸せに暮らした。そいつが一体なんの代償を払ったというのだろう。かつての小人族は虚栄を望んだから破滅した。それなら、まことの心をもって、正義のために小槌を振るえばどうなのか。虐げられた者のために振るえばどうなのか。少なくとも、あいつがそう信じていたなら。
足は止めない。止められるわけもない。
誰からも追い付かれぬよう、走り続けた。
■ ■ ■
「それで、パチュリー様。わざわざひったくらせる意味はあったんですか?」
「教えられた知識より、自分で得た知識の方が身に沁みるものよ。真理が彼らを自由にする。選択肢は、あった方がいいでしょう」
「ずいぶんとお優しいのですね」
「ファンなのよね、私。留まるにしろ、進むにしろ、情報はあるにこしたことはないわ」
ロッキングチェアにゆられながら、手に持った本の表紙をなでる。
『地底のアマノジャク』。著、古明地さとり。その地底に対する広範な知識と読心能力を素に、妖怪の半生を描いた連作伝記の一冊である。彼女の燃え上がる心のように、一房赤い髪のように、真っ赤な装丁。
「生身の妖怪と本のキャラクターを同一視するなんて、人が悪いですね」
「まったくだわ」
正邪の緊迫感とパチュリーの動かずとも確実に追い詰める描写がすごく好きです