人の心は謎に満ちている、と教授は口癖のように言う。
我らが岡崎教授は、肩書き的には物理学の研究者だ。しかし優秀な学者の多くがそうであるように、彼女は他分野の学問についても豊富な知識と素養を持っている。こと心理学や認知科学については、それを専門にすればよかったのにというほどの興味を抱いているようだ。彼女曰く、世界の真理というものがもしあるのなら、その半分は物理学で、もう半分は人間心理の文脈を用いて解釈されるはずだ、とか何とか。
一方でこの私は、正直言ってそっちの方面――所謂人文科学に対しては一歩引いた視点しか持っていない。物理や数学のように、厳然たる自然の摂理を追い求めるのならともかく、人の心なんてそもそもわかりっこない、と思えてならないのだ。聞けば、自由意志というものが錯覚かどうかすら未だ解き明かされていないというじゃないか。それをして謎に包まれていると言われても、答えがあるのかもわからない暗闇に立ち向かおうとするなんて、想像するだに途方に暮れてしまう。
けれどそんな私にも、心のありようについて思いを巡らせることがある。
それは主に、夜に見た夢について思い返すときだ。
日頃、心から何かを欲したり願ったりしているときに、それが夢の中にまで出てきたときなどは、朝起きてからため息をつきたくなる。
私の心は、私が思っている以上に単純な構造をしているのではないか、と。
『恋をする蝶』
「あれ、どうしたの? ちゆり」
その朝、岡崎研究室に入ってきた私の顔を見て、教授は開口一番にそう尋ねた。
「顔色が優れないようだけど」
「そう? 寝不足かなぁ」
適当に受け答えをしつつ、私は気だるい体を引きずってどうにか自分の机にたどり着く。
「結局、昨日は日付変わるまで作業してたからなぁ」
「あなたにしては随分熱心ね」
「ご主人様ほどでもないよ」
そうだ、教授は意外なほど勤勉であることを私は最近再認識したのだ。それこそ私なんか及びもつかないほどに。
近々、物理学会が催される。学会自体は私も何度も足を運んでいるが、今回は事情が違う。我が岡崎研究室が久しぶりに学会で発表をすることになったのだ。
これに関する経緯は色々と複雑だ。まず第一に、岡崎夢見教授はそのオカルトまがいの研究内容によって一度学会を追放されている。追放と言っても書面で出禁を喰らっているわけではなく、教授に言わせれば「顔を出せるような雰囲気じゃない」という感じらしい。
だが最近の学会の方向性に教授は疑問を抱き始めていたらしい。連中は進むべき道を誤り始めている、一度我々が出向いて認識を正してやらなければ、と突然言い出したのが先月末。それからというもの、発表内容を準備するために岡崎研は俄然忙しくなったのだ。というか、主に私が。
「大体、誰のために私がこんな身を粉にして頑張ってるかって話だ。家にも帰らないでさ」
「やらせてくれって言いだしたのはあなたでしょう?」
ぶつくさ言う私に、教授はにべもなくそう言う。
「そうだっけ? ああもう、黙っていればよかったなぁ」
そう、今回発表をするのはこの私なのだ。
どういう話の流れでそう決まったのかはあまり覚えていない。学会には教授と因縁のある研究者が顔を揃えるため、本人が発表すると絶対に不公平な基準で受け取られるから、助手である私に発表させるべき、と言い出したのが教授だったのは確かだ。私は私で柄にもなくやる気を出してしまい、遂には昨日から研究室に泊まり込む羽目になった。
「そういえば、仮眠室の寝心地はどうだった? あそこに泊まるの、初めてだったわよね?」
「ん? あぁ、思ったより普通だったな。もっと劣悪な環境を覚悟してたんだけど」
この研究室の隣には、四畳ほどの仮眠室がある。名目上は物置なのだが、こういうときのために数日間は大学内で寝泊まりできるように寝具が整えてあるのだ。
「でも、うーん……」
「何? 問題でもあった?」
「いや、おかげさまで睡眠時間は確保できたんだけど、どうも夢見が悪くってさ」
「その言い回しはややこしいからやめなさい。というか、わざと言ってるの?」
岡崎“夢美”教授は、こういう言葉の事故をいちいち拾ってくる面倒な性格の人間だった。
「気にするなよ。……何かなぁ、変な夢を見たような気がするんだけど、どうにも思い出せないんだ。何となく、結構長い夢だったような……それで、いまいち眠った気がしないんだよ」
「ふぅん。かわいそうにね」
人の夢など知ったことかと言わんばかりの顔を浮かべる教授。
私は端末を立ち上げてから洗面室へ顔を洗いに行った。冷水を思いっきり顔に浴びせるが、今一つしゃきっとしない。
戻ってきてメールをチェックする。私は研究関係のメールも私信も全て同じアドレスへ届くように設定しているため、メールボックスは十通以上の新着メールで埋め尽くされている。目をこすりながら件名を流し読みしていると
「ん?」
珍しいことに、母親からメールが届いているのを見つけた。今朝早く送られてきたものらしい。
最近元気にしてる、と親元を離れて働く娘へのお決まりの文面の下に、ちゆりにも一応知らせておこうと思うんだけど、と本題が続いている。ええと、何何……。
「何それ、お母さんから?」
いつの間にやら私の背後に回っていた教授が画面を覗き込みながら言った。
「あぁ。まぁ大した用じゃないみたいだけど。従兄が今度結婚することになったとかで。地元で結婚式をやるから、できれば出席して欲しいってさ」
「へぇ。ちゆりにも親戚とかいたのね」
「そりゃいるだろ、私を何だと思ってるんだよ。まぁ、あんまり身内の話はしてなかったけどさ」
教授に話したかどうかは忘れたが、私の実家は広島で代々造船会社を経営している。今度嫁をもらう従兄というのもうちの系列会社で働いているため、きっとその結婚は社をあげての挙式となるだろう。
「で、それっていつの話?」
「学会の後だよ。来月」
「そう。広島に戻るのなら、二日か三日は大学を休むのよね?」
「え? あ、うーん、……そうなるなかなぁ。そうだよなぁ」
「何、もしかして出たくないの?」
「まぁ、出ろって言われたらやぶさかじゃないけどさ。ただ学会の直後で疲れてるだろうし、どうかな……。その従兄とももう数年会ってないし、披露宴とかだるいし、もう祝電だけでいいかなって」
「こういう儀式はね、ちゆり。人にとって一つの義務なのよ。疲れてるからとかそういう問題じゃなくて、とにかく出席してきなさい」
まるで常識人のようなことを口にする教授だったが、そう言われても気乗りしないものは気乗りしない。
「まぁ、言ってもまだ先の話だし、休みをとるにしてもまた近くなったら相談するよ」
「休みならいつでも取れるわよ。これが終わったらしばらくあなたにやってもらいたい仕事はないし」
ほう。なんてやる気を削ぐ言葉だろう。誰の代理をやってあげてると思ってるんだ。それにしてもこの大学教授、つくづく人の指導には向いていない。現在この研究室に所属しているのが私だけという時点でそれは実証されている。
私はため息混じりにメールチェックを終え、今日の作業にとりかかる。発表内容に見落としがないか、方々から取り寄せた論文を読み、内容を突き合わせるのだ。
「ちゆり、そっちはあとどのくらいで終わりそう?」
山のように本が積まれた教授の机(という名の物置)から教授が声をかけてくる。
「どうかな、正直あんまり進みは良くない」
「そう。それが済んだら後で一回ディスカッションしましょう」
「へーい」
などと軽妙に返事をして見せるが、実を言うとあまり気乗りがしない。目の前の画面に浮かんだ英字の並びにどうも集中できない。
はぁ、と小さくため息をつく。
……やっぱり私は、さっきのメールが気になっているようだ。
身内の結婚を祝う気持ちがないわけではない。けれど、今私の心の大半を占めているのは、それ以外の感情だ。
母の姉の息子であるその従兄は、一人っ子の私にとっては兄のような存在だった。家が近かったため、私はよく彼の家に遊びに行った。私よりも十歳近く年上の彼は、幼い私の面倒をよく見てくれた。柔らかな物腰の人で、博識で、話の上手い人だった。そんな彼に対して私は、幼心に淡い憧れを抱いていた。人並みには女の子らしいところもあった(自分で言うと失笑物だが)私は、なんとなく心のどこかで、将来私はこういう人と結婚するのかなぁ、などと考えていた。いや、違うか。何だかんだ言ってこの人と結婚するんじゃないかと、小学校低学年に相応しい幼稚な想像を膨らませていたんだ、この私は。
もしかしたら、あれが私の初恋だったのかもしれない、と今になって思う。あの当時は、そうはっきりと意識してはいなかったけれど。
もっとも、それが単なる憧れか恋心かに関わらず、私の頭の中から彼の存在はすぐに居場所を失ってしまった。よりレベルの高い学校へ進学するために地元を離れてからは、親戚一同とは正月やお盆に会うだけだった。彼と個人的に連絡を取り合うこともなく、大学に入ってからは更に疎遠になっていた。
今になって急にその存在を想起させられると、自分の中で彼の存在を処理できていなかったことに気づく。
「あーあ」
背もたれに体重を預けて仰け反る。まったく、今日は気分が乗らない。
そうか、そうだよなぁ。私が学問に打ち込んでいる間にも、他人にはその人の時間が流れていたんだ、私とは無関係に。当たり前だ。そりゃあ結婚くらいするさ。
「何かわからないところでもあった?」
と、教授が顔も上げずに聞いてくる。
「別に」
気分を変えよう。私はそう思って席を立ち、再び洗面所に行った。冷水で顔を洗い、まだ残っていた夢見心地をしっかりと拭い去る。
ふと洗面台の鏡を見る。そこには、齢の割にくたびれた表情をした十五歳の少女が映っている。私って、こんなに疲れた顔をしていたっけ。
……自身の境遇を振り返ると、目の前にはまだまだ勉強しなければならないことが山のように残されている。私がそれを学んでいる間にも、学問の最先端はどんどん前へと進んでしまうのだ。そして私は、世界の真理に追いつくために自分の人生を費やし続ける。
そうやって多くの時間を費やして、私は一体どこへ行こうとしているのだろう。
……おいおい、そんな話にまで発展させるつもりか。たかだか親戚一人が結婚したくらいで。
しっかりしてくれよ、私。
◆
「という夢を見たんだ。なぁ香霖、どう思う?」
「それは何とも変わった夢だね、魔理沙」
「んなこたぁわかってるんだよ。だいたい夢ってのは、普通は何かしら自分の経験とか記憶とかから作り出されるもんだろ。それが何だ昨日のは。変な実験室に妙な学者が出てくる夢、しかも主人公は私じゃなくて見ず知らずの『ちゆり』とかいう変な女の子ときた。こんな連中、見たことも聞いたこともないぜ。本当、なんだってあんな夢を見たんだろ。……なぁ、そこんところ、お前はどう思うかって聞いてるんだ」
「変わった夢だと思う、と答えたはずだよ」
香霖――森近霖之助は等閑にそう答える。彼は店の奥にある彼の定位置に座って、いつものように卓上燈の灯りで本を読んでいる。先ほどから私の話に相槌は打つが、こちらを見ることはない。
「ったく、ちゃんと私の話を聞いてるのかよ……。それにさ、その夢ってのが、何だか妙にリアルだったんだ。 勿論、今思うと夢に違いないんだけど、こう、見ている間は地に足がついてたっていうか、夢って感じが全然しなかったというか」
「普通、夢見っていうのはそういうものじゃないか」
「そう言われたらそうなんだけど、どうもいつもの感じと違ったっていうか……。なーんか気になるんだよなぁ、たかが夢って言ったらそれまでなんだけど」
「それもよくあることだろう。僕も年に一度くらい、不思議と強い印象を残す夢を見ることがあるよ。だが結局、夢は夢だ。夢の中で僕の天下がやってきてこの世の贅を味わい尽くしたとしても、目が覚めてしまえば何の意味もない……」
「お前、やっぱり私の話ちゃんと聞いてないだろ」
まぁ私も本気で相談しに来てるわけじゃない。大方、最近読んでいる外来の学術書の内容を元に、頭の中で勝手に作り出された「外の世界の学者ってこんな感じ」像が夢に出てきただけなんだろう。
最近の私の生活は起伏に乏しくて、私から彼に振れる話題はこの程度のものしかなかった。それでも話すことがあるだけましだ。ここへ来る口実があるだけ。
「そういえば、人から聞いた話では、外の世界では夢と深層意識の関わりについて研究する学問があるそうだ」
香霖はふと思い出したようにそう言った。相変わらず視線は本に注がれているが、先ほどから頁をめくる手が止まっているのを見ると、一応は私の話の方に集中してくれているらしい。
「夢の内容から心理状態を分析する手法が、ある程度は確立されているらしい。こういう夢を見るときは、こういう方面の悩みを抱えている、というようにね」
「へーぇ。じゃぁ変な学者と助手の夢を見るときは、どんな悩みを抱えてるんだ?」
「さてね。鈴奈庵にでも行けば、詳しい本が見つかるかもしれないが。行って来たらどうだい」
「あの貸本屋にか? あそこって郷のど真ん中だろ。ちょっと行きづらいなぁ……」
「ほう。どうしてだい?」
「だって知り合いに会うかもしれないだろ、郷に行ったら」
知り合いというのは、私の実家の関係者という意味だ。半ば喧嘩別れのような形で家を出、森の奥の掘っ建て小屋で一人暮らしをしている身としては、街角でばったり身内と会う、なんて事態はできれば避けたい。特に親父は、お互いのためにもしばらくは会わないほうがいいだろう。きっと、まだ私のことを怒っている。何しろ、私が啖呵を切って家を飛び出してから、まだ一年も経っていないのだ。
「なるほどね。しかし、魔理沙にしては気弱なことを言うなぁ」
香霖はからかうような口調でそう言った。彼にとっては、私の家出劇はいい見世物なのかもしれない。
香霖は元々、私の父親の弟子だった人物だ。私の実家がやっている道具屋に勤め、商売の修行をしていたらしい。伝聞形なのは、私が生まれる前に彼は独り立ちし、自分の店――香霖堂を開いていたからだ。独立した後もうちの店には恩義を感じているらしく、彼は度々私の実家に顔を見せていた。当然、店の一人娘である私のことも、昔からよく知っている。
話の接ぎ穂を見失った私は、何とはなしに香霖堂の店内を歩き回る。道具屋とは名ばかりで、香霖は拾ってきたがらくたを無造作に並べ、それを売り物と言い張っているだけだった。私はここへほぼ毎日来ているが、物が売れているところを見たことは一度もない。一体こいつは親父から何を学んでいたんだろう。
「……あのさ、前から聞きたかったんだけど」
「何だい?」
私は、できるだけ何気ない風を装いながら尋ねる。
「香霖って、どっちの味方なんだ?」
「君か、君のお父さんか、ってことかい?」
「ああ」
家を飛び出した私に、香霖はできるかぎり協力すると約束してくれた。実際、今私が住んでいる森の奥の家は香霖が見つけてきてくれた物件だし(さすがにぼろすぎて、目下改築作業中なのだが)、今の私の生活を支える様々なアイテムを作ってくれたのも彼だ。
その一方で、彼は私の親父には逆らえないはずだ。私の援助をやめろと父に命じられれば、彼は素直に従うだろう。実際のところ、香霖の援助がなければ私はのたれ死ぬかもしれない。
「味方、と言われてもね」
香霖は本を閉じ、初めて私の方を見た。
「僕はどちらかに偏重して肩入れしているわけじゃない。君と親父さんが殺し合いを始めたら、僕は離れたところでお茶でも飲みながら見物しているよ」
「いや、止めに入れよ」
「僕は何せひ弱だからな。そんな大それたことはとてもとても。まぁともかく、今はそこまでの事態になっていないから、親父さんにはかつての師匠として、君には友人として、ごく当たり前の接し方をするだけさ」
「友人? 私が?」
「あぁ。それ以外に言いようがあるかい?」
「いやまぁ……いいんだけど」
友人。香霖は私の友人なのか。というか、私のことをそう思っていたのか。
そうはっきり関係性を断定されてしまうと、何というか……妙に胸の辺りがむず痒い。
私はふと足を止める。店の一角に、古びた姿見が置いてあった。汚れでやや曇った鏡面の向こう側に、魔女のような格好をした十二歳の少女が佇んでいる。手間暇かけて裁縫したこの服だが、我ながら着こなしているとは言い難く、未だにどこかぎこちない。
ちらりと香霖の方を見やる。本の頁をめくっているのを見ると、また読書に集中し出したらしい。
私は姿見の前でスカートの裾をつまみ、鏡の中の自分に軽く会釈をする。しかし何だか物足りない。頭の中の自分の理想像に、今の自分はまだまだ遠い。ならばと、片足を軸にくるりと体を一回転させる。スカートの裾がふわりと広がり、背中のリボンが揺れ、
「ぶっ」
と背後で香霖が吹き出した。
慌てて振り返ると、香霖はいつの間にかこちらへ向けていた顔を本で覆った。だが次第にその肩が震え出す。こいつ……。
「なっ、何だよっ、何がおかしいんだ!」
「いや、悪い。何もおかしくなんかないさ」
そう弁解する声からは、必死に笑いを堪えているのがひしひしと伝わってくる。
私は顔が猛烈に熱くなるのを感じながら、箒と帽子を手に取ると
「も、もう帰るぜ、じゃあな!」
店の扉を勢い良く開いた。
「あぁ、それと魔理沙」
背後から香霖が思い出したように言う。
「鏡の前でポーズを取る時は笑ったほうがいい。その服は笑顔に合わせた服なんだろう?」
「はいはい」
と雑に返事をして扉を閉め、はたと立ち止まる。
そうか、私、さっき笑ってなかったのか。
◆
「っていう夢だったんだけど」
「え? 終わり?」
「あぁ。それでその店を出てまっすぐ家に帰って、ご飯食べて寝て、それでおしまい」
私がその奇妙な夢の顛末を話し終えると、岡崎教授は何とも煮え切らない顔を浮かべた。
「中途半端な夢ね。何かしらオチはないの? その香霖とかいう優男があなたを騙して実家に強制連行、みたいな展開は?」
「ない」
「あなたを無理矢理手篭めにしたりは?」
「ねぇよ」
何それ、と教授は不満をこぼす。
「そんな平凡な夢、あえて話すほどのものじゃないじゃない。どうせあれでしょう、ここ最近研究室に缶詰めになってるもんだから、心がストレスに耐えかねて少女漫画みたいな世界に無意識に逃避しただけでしょう」
「……まぁ、大体間違ってないと思うけど」
「つまるところそれだけの話を、今あなたは五分もかけて私に語ったのよ。いいこと、ちゆり。よく覚えておきなさい。一般に、自分が見た夢の話ほど聞き手の興味を削ぐ話題はないのよ。何しろ、どんな話であれそれは現実じゃないんだから。それでも耳を傾ける価値があるのは、せいぜい予知夢みたいなオカルト要素が含まれているか、あるいは想像を絶するほどよくできた物語性を備えた夢に限るわ。それ以外は、話すのも聞くのも時間の無駄でしかない」
教授は一気にそうまくしたてた。なるほど夢という字を名前に持つだけあって、夢の話に関しては一家言あるようだ。
「いや確かに内容は平凡だけどさ、とにかくすっごいリアルだったんだよ。なんて言うかな、そう、丸一日分の夢だったんだ。普通、夢って場面場面が断片的に再生されるだろ。でも昨日のは、私――まぁ夢の中では霧雨魔理沙って名前なんだけど、その魔理沙が朝起きて、朝ごはんを食べて、住んでる荒屋の改築作業を進めて、午後は香霖堂に行って、店主と駄弁って、家に帰って飯食って寝てた。タイトルをつけるなら、霧雨魔理沙の平凡な一日、って感じでさ。まるで夜の間に一日余分に生きたみたいな感覚で、正直、寝た気がしないんだよ。勿論、今思うと夢に違いないんだけど」
私は昨日に引き続き大学で夜を過ごしたのだが、今朝の寝起きは昨日よりも更に悪かった。目覚めた後も仮眠室の寝台の上でぼんやりと寝転がり続け、ようやく布団から這い出した時には既に午前九時を回っていた。のそのそと仮眠室から這い出してきた私を見た教授はぎょっとして、酷い顔色だが大丈夫かと真面目に心配してくれた。まぁ不調の原因がただの夢だとわかるとその態度は一変したのだが。
「ふぅん……。でも、夢の中の霧雨魔理沙が、その前の晩にちゆりを夢に見ていたっていうのは少し興味深いわね。ねじれた構造になっていて」
そう、最も奇妙なのはそこなのだ。夢の中で魔理沙は香霖にこう話す。昨晩、北白河ちゆりという人物になった夢を見た、と。夢の中では、ちゆり――すなわち私こそが魔理沙が見た夢である、ということになっていたのだ。
「なんだか中国の故事みたいね」
「故事?……あぁ、あれか、胡蝶の夢ってやつか? 自分は夢の中で蝶になってひらひら飛んでたけど、もしかしたら今こうして話している自分こそ、その蝶が見た夢なのかもしれない、っていう。何か、あれだよな、昔の偉い人の哲学的なやつ」
「荘子よ。つまりちゆりは、霧雨魔理沙の夢の中でのアバターなのかもしれない、ってことね。それだと今こうしてあなたと話をしている私は何なんだって話になるけど」
「ん、んん……? なんだか気持ちの悪い話だな。夢と現実がごっちゃになるなんて」
「それは少し違うわね。あの話は、夢と現実が綯交ぜになるという状態のことを言っているのではなくて、夢と現実が完全に分かたれたものだとしても、今の自分が現実にいるのか夢の中にいるのか区別することはできない、ということを説いているのよ。少なくともシミュレーション仮説の文脈で胡蝶の夢が引用されるときはね。『私』という存在が、途方もなく高性能なコンピュータがシミュレートした仮想現実の登場人物ではないことを証明することができないように、『私』が誰かの見た夢の登場人物でないことを証明することもまたできない」
「え、そうか? 夢かどうかはまた別なんじゃ」
さしあたって、今自分が夢を見ているという感覚はない。机の下で腿をつねってみたが、力を入れすぎてしまい、「いてっ」と声が出るほど普通に痛かった。顔を上げると、教授が呆れ顔で私を見ている。
「そんな、漫画じゃあるまいし」
「これ以上簡単に夢かどうか確かめる方法はないだろ」
「馬鹿言ってないで、さっさと作業にとりかかりなさい」
教授はあっさりと話題を切り上げた。どうやら真面目に議論していたわけではないらしい。
「はいはい」
仕方なく端末の画面に向かい合い、昨日読みかけていた論文ファイルを開く。じっと文面と向き合うが、英文と数式の羅列がなかなか頭に入ってこない。まだ頭が目覚め切っていないようだ。雑貨が山積みになった机の向こうからは、教授のタイピング音が断続的に聞こえてくる。時折混じるため息や内容の聴きとれない独り言に、私の思考が少しずつ乱されていく。
それでも何とか読み進めていると、不意に椅子を引く音がした。見ると、教授は自分の端末を持って立ち上がり、仮眠室の方へ向かっていく。
「あれ、寝るのか?」
「まさか。あなたじゃないんだから。ちょっと集中してやりたい作業があるの。しばらくこっちにこもるから、邪魔しないように」
「はぁ」
邪魔はしないが、そんな何もない部屋で何をするんだろう。気になりはしたが、私が疑問をさしはさむよりも前に教授は仮眠室の中へ消えた。私一人だけとなった研究室は一段と静かになる。
引き続き自分の作業に向き合うも、静かになったらなったで集中できない。自分では論文を読んでいるつもりが、気が付くと全然別のことを考えている。調子が出ないときはいつもこうだ。脳裏に巣食ったノイズの方にばかり気を取られてしまう。
今回のノイズは、昨日見たあの妙にリアルな夢のことだった。
夢の中で、私は幼い女の子になっていた。幼いといっても、家出して一人暮らしをするほどの行動力の持ち主だ。結局家出の理由はよくわからなかったが、これからもずっと一人で生きていく覚悟を決めているように見えた。いや、それは少し違うか。彼女の隣には頼りになりそうな(そうでもなさそうな)青年がいて、彼女の生活を実質的に支えているようだった。
独り立ちした幼い少女と、彼女を温かく見守る青年。鄙びた道具屋で繰り返される、二人の穏やかな日常風景。
――昔から、私は日中に考えていることをすぐに夢に見る。何かを心から欲してやまないときなど、夢の中でそれを手に入れ、目が覚めて落胆するという経験が何度もある。精神分析学には疎いが、夢の内容から精神状態を分析するという有名な手法は、経験的にもまあまあ妥当そうに思われる。
けれどそうなってくると、あの子――霧雨魔理沙は私の理想像ということになるのか。家にも帰らず大学に篭る日々を送る私でも、心の底ではあんな少女漫画漫画した女の子になりたいと願っていて……。
いや、うーん。
何だろう。理屈の上では妥当でも、それを認めるのは癪だ。
私は好きでこの生活をやってるんだ。教授にこき使われて嫌になることがあっても、研究が好きであることは間違いない。多分。今回のことだって、教授の代理とはいえ学会での研究発表は大仕事だ。私の今後にとって重要なステップになるのは間違いない。
私は端末をスリープ状態にし、鞄を持って席を立った。
環境を変えて、気分を一新しよう。何も研究室でなければできない作業でもないし。
部屋の壁のホワイトボードに「図書館に行ってきます」と書置きを残しながら、ふと思考が先ほどの地点へと揺り戻る。夢の中で、魔理沙の近くにいた青年の顔を思い浮かべる。私の理想像があの世界だとしたら、私はああいう人に近くにいてほしいと思っているのか。彼の顔が、近く結婚するという従兄の顔と重なって……。
……あぁ、やっぱり不愉快な夢だ。
私は頭を振ってその考えを追い払い、研究室を後にした。
「ですから、そのような規則になっておりますので」
若い女性司書はこちらを見ることもせず、事務的な声色でそう言った。
「いや、規則って言われても困るんですよ。こっちだって……」
私は思わず声を荒げてしまったことに気がつき、言葉を切った。図書館で騒ぐのは厳禁だ。利用者の大半が学生で、面倒ごとを起こせばすぐに担当教官まで苦情が伝わる大学図書館であればなおのこと。
「大体ですね、確かこの前はそんなこと言われませんでしたよ。論文集を読みたいって言ったら、全ページそのままコピーしてもらえた記憶があります」
周囲に気遣って声量は抑えるが、どうしても苛立ちが表に出てしまう。
場所を図書館に移して気分を変えたところで、発表内容と関連のある博士論文があるらしいという情報を私は思い出した。図書館で探したところ、その論文は蔵書外の論文集にしかないということがわかり、図書館職員にその論文集のコピーを頼んだのだが、私の勢いはそこでストップがかかった。
「数年前に著作権法が改正されまして、著作物の複製はできなくなりました」
受付カウンターの向こうに座る司書の女性は、相変わらずモニターの画面を見続けながら言った。その愛想のない態度がさっきから私の苛立ちを助長しているわけだが、彼女は自覚しているのだろうか。
「え? じゃあ、もう資料はコピーできないんですか? 貸し出し禁止の本はここで読むしかないってこと?」
「いえ、著作の一部分であれば印刷してお渡しできます」
「一部分……あぁ、読みたいところだけコピーしてもらえるってことですか?」
「はい」
「それならそれをお願いします。さっき言った博士論文集の」
「どの章をコピーされますか?」
「え?……いや、それは見てみないとわからないけど。あ、目録は見れないんですか?」
「目録も著作の一部ですので、お見せすることはいたしかねます。目録を閲覧されるのでしたら、その部分を印刷してお渡しいたしましょうか」
「はぁ?」
また声のボリュームが上がりつつあったが、周囲に気を使う余裕は既になかった。
「あのー……それじゃ、何ですか、一部分ってのは一生に一部分しかコピーできないんですか? それとも期限でもあるんですか? 明日また来たら別の章もコピーしてもらえるんですか?」
私の詰問に、司書はカタカタと端末を操作しながら、
「わかりません」
いけしゃあしゃあとそう宣った。
もしかして私は今舐められているのだろうか。温厚な私とて五年に一度くらいは本気で怒ることがあるんだぞ。今鏡を覗いたら、私の額に青筋が浮かんでいるのが見えただろう。
「じ……じゃあ、調べてください、そこのところ」
「承知いたしました。少々お待ちください」
そして受付カウンターに沈黙が舞い降りた。司書は私が最初にここを訪れてから一切変わらない姿勢で端末を操作し続けている。こいつ、本当にちゃんと調べているんだろうか。
と、そこへ。
「あの、北白河さんですよね?」
不意に背後から名を呼ばれた。振り返るとそこには見覚えのある顔が。私より背の高い、外見は二回生くらいの女学生が、黒い平天帽子の鍔の下からにこやかに言う。
「何かお困りですか?」
「あ、ええと……宇佐見さん? だっけ?」
大学図書館にはコーヒーショップが併設してあり、勉強熱心な学生たちは図書館の帰りにその店で一服することが多い。今の私のように、不愉快な気分を鎮めようとする人間にとっても、ここはうってつけの場所と言えた。
「それにしても災難でしたね」
コーヒーのトレイを挟んで私の向かいに座る宇佐見蓮子は、先ほど司書から奪取に成功した論文のコピーに目を通しながら言った。
「施設の見てくれにはお金をかけるくせに、肝心なところでは旧弊っていうか、学生に不便を強いるんですから」
「本当そう。まったく、助かりました。ありがとうございます」
私は宇佐見さんに頭を下げる。
彼女、宇佐見蓮子は物理学科の学部生だ。教授のお気に入りの学生で、何度か岡崎研を訪れたこともあり、そこの助手である私とも顔見知りだった。といっても、私とこうして一対一で話すのは初めてだったが。
融通の利かない司書に手を焼いているところへ彼女は颯爽と現れ、問題をあっさりと解決してくれた。つまり、宇佐見さんが論文集の目録の複写を要求し、私はそれを見せてもらって目当ての章を見つけ、改めて私の分として論文を複写してもらったのだ。二度手間とはこのことだが、これなら向こうも文句は言えまい。
謝礼と気分転換を兼ねて宇佐見さんをコーヒーショップに誘い、今に至るというわけだ。
ちなみに宇佐見さんは私より年上だ。しかし、私は肩書き的には研究生で、学問においては私の方が先輩ということになる。今一どう接していいかわからず話しにくいが、宇佐見さんの方は立場のねじれをあまり気にしていないらしい。
「この論文って、研究に使うものなんですよね。岡崎研では、今ここらへんをやっているんですか? 前に聞いた研究範囲と少し遠いような気がしますけど」
私は学会での代理登壇の事情を説明しながら、内心では感心していた。さすが教授に目をかけられるだけはある。宇佐見さんは学部生ながら、博士論文の内容をざっと見ただけで把握しているようだった。
「すごいじゃないですか、あの岡崎教授の代理だなんて。あ、それじゃもしかして、今ってお忙しかったんじゃないですか?」
「そうなんですけど、まぁ今はちょっと休憩というか。息抜きの時間も必要です。さっきみたいに、無駄なことに時間を潰されるよりかはずっとまし」
私が愚痴モードに入りかけると、宇佐見さんは宥めるような表情でうんうんと頷いた。
「多分、タイミングが悪かったんだと思いますよ。あの司書の人、来月に寿退社するらしいんですけど、どうせやめるなら仕事は適当でいいって思ってるのか、最近応対が雑になってるってみんな苦情を言ってるんです」
そういえば、やたらとツヤのある指輪が彼女の左手にきらめいていた。結婚を機に労働からエスケープしようって腹なのか。随分と幸せなことだ。
またふつふつと再燃してきた苛立ちを抑えようと、目の前のキャラメルマキアートを掴んで一気飲みしようとし、すぐさまこれはそうやって飲むものではないと思い直して口を離す。酒が飲める年齢になるまで、この手の感情表現はお預けだ。
ふふっという笑い声がして私は顔を上げる。宇佐見さんは、興味深げな目で私の顔を覗き込み、
「もしかして、ちょっと羨ましいって思ってますか?」
唐突にあけすけに、それでいて嫌味なくそう尋ねた。
「へ? いっ、いや別に、そういうわけじゃなくて」
「冗談ですよ、そんなに慌てなくても。ただ、北白河さんにしては怒り方が過剰だなって感じたんですよ。それで、あぁ、この怒り方は嫉妬かもってね」
完全にからかわれている。こいつ、思ったよりもぐいぐい来るタイプの人間だ。
無理やりにでも話題を変えなければ。もっとフラットな話題でないと、年上のお姉さんとは渡りあえない。
「そ……そういえば、宇佐見さんは図書館に何をしに来てたんですか? テスト期間でもないのに」
「あぁ、今日はちょっと調べ物があって寄っただけです。でもそんなに重要な用でもありませんし、次の講義までの時間潰しのつもりでした。それなら、北白河さんとお話しした方が面白いかもって」
「へ、へぇ。宇佐見さんって、素粒子論志望でしたっけ? それ関係の勉強に?」
「いえ、学業じゃなくて趣味の方です」
宇佐見さんの顔に微妙な遠慮が浮かぶ。そういえば、宇佐見さんは友人と二人でオカルトサークルを結成して、あれこれ胡散臭い活動を繰り広げているらしい、という話を教授から聞いたことがある。あの教授が胡散臭いという言葉を使うほどだ、きっとその活動は私のような一般人が聞いたら距離を置きたくなるようなものなのだろう。
「あっ、そんな怪しいものじゃありませんよ。岡崎教授からは怪しがられてるみたいですけど」
思考が顔に出ていたのか、先手を打たれた。
「怪しいだなんて思ってないですよ。どんな活動をされてるんですか?」
「活動っていっても、今回はちょっと日帰り旅行に行くだけですよ。図書館に来たのはその下調べです」
宇佐見さんは普通の女子大生のようなことを言う。ちょっとこちらが身構えすぎたかもしれない、教授と同類だなんてラベルを貼るなんて失礼なことをしたな、と私が思っていると、
「夢の世界に行こう、っていう話を友人と計画していまして」
話の次元が唐突に跳躍した。
「はぁ。夢の」
「あ、身構えましたね?」
にやり、と悪戯っぽく笑う宇佐見さん。どうやら私の反応を見て楽しんでいるようだ。
「今まではあの子から夢の世界の話を聞くだけだったんですけど、どうやら私も一緒に夢の世界に行けるんじゃないかってことになって。実はちょっと憧れだったんですよ、私がこれまで見てきた幻想世界はどうにもつかみどころがないって言うか、今一つはっきりとしなかったんです。それがこの間、ついに本当の冒険ができたんです。夢の世界への。それで、折角だしもう一回行こうってことになって、今日は色々と夢について調べていたんです。あと、衛星についても」
饒舌になる彼女とは対照的に、私はついに黙ってしまった。あぁ、この人は別の世界の住人だ……悪い意味で。
「……北白河さんは、こういう話って興味ありません? 幻想の世界、人智を超えた現象――平たく言うとオカルトですが」
「……まぁ、そうです、ね。私、どっちかっていうと科学者ですし」
教授に付き合っているうちに不思議なものは山ほど見てきたが、結局のところ、私は未だに科学の信奉者なのだった。そんな私に、宇佐見さんは諭すように言う。
「これは十分科学的な話でもあるんですけどね。まぁ今の話は荒唐無稽に聞こえたでしょうけど、夢というもの自体はもうほとんど科学の範疇で説明できます。動物はなぜ夢を見るのか、人類はつい最近までその謎を解き明かせずにいました。でも、現代では脳の働きの大部分が解き明かされています。夢科学も近年飛躍的に発達を遂げました。最新の研究では、完全に思い通りの夢を見させることもできるようになっている、なんて噂もあります」
「はぁ。あんまり聞いたことないですけど」
「あくまで噂ですから。人体実験も行われてるっていう話です。被験者を特殊な薬品で催眠状態にしておいて、視覚皮質と聴覚皮質に特殊な信号を流して映像・音声を脳内に直接再生する。すると、それがまるで自分自身の体験であるように認識されるそうです。そうなってくるともう夢っていうよりヴァーチャルリアリティですが、興味深いのは、自己認識すら外部から上書きできるんだそうです。被験者は夜の間に、自意識のレベルから別人になってしまう……それが人為的に可能だとしたら、どんなことが起こるでしょうか?」
「夜の間に、別人になる……」
その言葉で、私は昨日見た夢を思い出した。霧雨魔理沙という少女の一日。
「ん? どうかしました?」
宇佐見さんは訝しげに私の顔を覗き込む。
「あ、いや、ちょっと考え事をしていて。すみません、ええと、夢の話ですよね」
私は話題の続きを促したが、
「すみません、ちょっと調子乗りすぎました? 一方的に喋っちゃって」
と、宇佐見さんはトーンダウンした。
「え? いや、こういう話もたまには楽しいですよ」
「そうじゃなくて、北白河さん、すごく顔色悪いから。もしかして自覚ありません? かなりお疲れみたいですけど」
そう言われると、今更ながら身体が重いことに気づく。いや、体が重いというより、また研究室に帰らないといけないと思うと気が重いのだ。夢想から最も遠い、究極の真理を追い求める学問。
でも、それが私の選んだ道だしなぁ……。
私は改めて宇佐見さんに礼を言い、遠慮する彼女を無理やり言い伏せて二人分の代金を支払った。宇佐見さんとはそこで別れ、学生食堂で一人、遅い昼食をとる。食堂にいる学生たちは大小様々なグループを形成し、きゃっきゃと無邪気に青春の鱗粉を振りまいている。ったく、若いやつはいい気なもんだ、と私は年長の学生たちに対して心中で呟いた。
単純な味付けの丼定食を平らげると、私はすごすごと研究棟へと戻った。
気分を変えに行った効果は期待したほどには上がらず、研究室へ戻った私はじとじと仕事を進めた。「バリバリ仕事する」の反意語が思い浮かばなかったため「じとじと」という表現を使ったが、今の私は大体そんな感じだ。
せめて宇佐見さんの助力で手に入れた論文はやっつけようと、机上で数式と格闘していると、
「お疲れ様。進んでる?」
教授が仮眠室の戸を開けて現れた。
「ぼちぼち。何だ、姿を見ないと思ったら、私が図書館に行ってる間もずっとそっちにいたのか、ご主人様は」
「えぇ。悪い?」
「いや、別に。私もそろそろ眠くなって来たなって思っただけ」
「私は寝てないわよ。仕事だって言ったでしょうが」
教授はぶつくさ言いながら、窓際の紅茶コーナー(と呼ばれている簡易台所)で湯を沸かし始めた。
気づけば既に午後四時を回っており、窓からは夕日が差し込んでいる。私はモニターから目を離し、眉間を指で揉んだ。
「お疲れ様」
不意に眼前にホットレモンティーが差し出される。珍しい。教授は甘いものと一緒によく紅茶を飲んでいるが、私に淹れてくれることなんて滅多にない。
「――何だ、ご主人様も人を労うってことを知ってたのか」
「私を何だと思っているのよ」
教授はそれだけ言うと、本やら雑貨やらが山積みになった机の向こう側へ行ってしまった。壁のような荷物の山に彼女の姿はほとんど隠れ、キーボードを打つ音だけが聞こえてくる。そろそろ片付けさせないと倒壊の恐れがあるが、まぁ、今日のところはいいか。
「……ありがとうな」
教授が私に何かしてくれることも珍しいが、私が彼女に礼を言うなんてもっと珍しい。何だかくすぐったいような、でも決して不快ではない感情が、紅茶の熱とともに胸に染み渡っていく。
もう少し、頑張るか。
紅茶を飲み干して温まった身体を、私はモニターに向ける。教授の態度は素っ気なかったが、あれはあれで私に期待してくれているのだ。……普段の教授の所業を思えばそんな評価は噴飯物だが、今は物事を少しでも良い方へ捉えておくとしよう。
期待に応じなければ、と気合を入れ直そうとしたそのとき。
「うっ……う……?」
突然の目眩が私を襲った。ややあって、それが猛烈な眠気から来るものだと本能的に悟る。まずい、こんなに疲れていたのか私は、と考えている間にも、瞼は見えない力に強制されているかのようにどんどん閉じていく。
ま、まだ寝るような時間じゃないのに……仕事はいっぱい残っているのに……。
荷物机の向こう側で椅子から立ち上がる気配がし、私の意識はそこで途切れた。
◆
……あ、あれ?
不意に、目が覚めた。
覚醒はあまりに突然で、顔を上げた私はしばらくの間呆然とする。部屋の中は消灯しており、私の吐息を除いて静まり返っている。薄緑色のカーテンの下から広がる淡い光だけが、この場で視認できるものだった。
ってことは、もう朝……なのか? 随分深く寝ていたようだけど……はて。私の頭を覆う濃霧はなかなか晴れず、思考が停止すること数秒、あるいは数分。
「いっ、いでっ」
思い出したかのように首がずきりと痛んだ。どうやら寝違えてしまったらしい。無理もない、私は机に突っ伏した格好で眠りについていたのだから。
そうだ、思い出した。私は仕事の途中で寝落ちしてしまったんだ。ああもう、折角決意を新たにしたのにその矢先、よりによって机の上で爆睡してしまうなんて。
教授はきっと私の間抜けな寝顔を見て呆れていただろうな。ったく、せめて仮眠室まで運んでくれりゃいいのに。
私はため息交じりに立ち上がり、勢いよくカーテンを引いた。
すると。
「……あ……?」
目の前――窓の外に広がる深い森の風景に、私の頭が一時真っ白になる。
あれ、ここって、研究室じゃない……?
……あ、あぁそうか、そうだった。
ここが私の家だったじゃないか。実家を飛び出してからこっち、日々の暮らしを細々と紡いできた、私だけの小さな空間。私だけの家。
どうやらひどく寝ぼけていたらしい。朝日の差し込む我が家を見回すうちに、ようやく頭がはっきりしてきた。何だよ研究室って。それは夢の話だったじゃないか。
今朝は一段と冷え込む。人里では涼しげな秋風も、日光の薄い森の中では冷たい木枯らしになる。私は隙間風に身震いしながら、土間の暖炉に薪を放り込んだ。よかった、何よりも先に暖炉を作っておいて。小ぶりな暖炉は、それでも仄かな熱を私に与えてくれる。それだけじゃない。打ち捨てられた荒屋を私らしく飾る、これはその第一歩だ。
囲炉裏にも火を熾し、自在鉤に鉄鍋を吊るした。昨夜帰りに沢から引き揚げた川魚も串で焼く。これが今の私のキッチンだ。この放置されて久しかった荒屋には、こういった古式ゆかしい調理器具が置いてあった。正直こういう和風テイストはあんまり趣味じゃないけど、わがままを言っていられる身分でもない。
一人侘しく朝食をとりながら、私は夢の世界のことを思い返していた。郷の外は科学技術がずっと進んでいるというけれど、夢で見た場所は外の世界でも先端技術の集まる研究機関のようだった。そこではいちいちこんなふうに料理しなくても、あらゆる料理にありつけるらしい。文字通り、私とは生きる世界が違っていた。
あれは夢に違いないけど、郷の外には実際にああいう世界が広がっているんだ。そう想像するだけで、なんだか胸がわくわくしてくる。そんな空想を膨らませて、心細さを忘れようとする。
朝食を片付けた後は勉強の時間だ。香霖に借りた(きっといつかは返すだろう)分厚い外来本を窓辺で読み進める。学ばなければいけないことはいくらでもあったけど、今の私にはその時間があった。実家にいた頃は、こういう自分の時間が持てなかったことを考えると、よくやった、と自分を褒めたくなる。
――はっきりと、理由があったわけじゃない。人を納得させられるような、家出の理由は。だから、家を出て行くと親の前で宣言した時は、なんでまた急にと問い詰められても中身のある返事をすることができなかった。そう、言葉にできるような理由なんてなかったんだ。ただ、何かから自由になりたいといつも願っていた。その思いが我慢できなくなった、それだけだ。
きっと親からしたら晴天の霹靂だっただろう。親子喧嘩は多かったけど、致命的なほど家族仲が険悪だったわけじゃない。きっとこのまま普通に成長して、いずれ商売のできる婿養子でも迎えてくれたら上出来、くらいに考えていたはずだ、私のことは。その一人娘が突然の家出と来ては、なんとしてでも連れ戻そうとするのは当然のこと。実際、郷中で話の種にされるほどまで私の家出騒動は大事になった。霧雨家といえば郷でも指折りの商家だ。そりゃ親父にも面子ってものがある。香霖が間に立ってくれなかったら、私を蔵にでも閉じ込めていたかもしれない。
そう、香霖だ。香霖はこの問題に積極的に介入することはしなかったが、それとなく私の説得を試み、やんわりと親父を宥めすかし、気がつくと親父は私を引き止めることを諦めていた。どんな手で親父を黙らせたのか、またどんな理由があって私の手助けをしてくれたのか、そこのところはよくわからない。
そもそも、昔から香霖はよくわからないやつだった。博識な割には間の抜けたところもあるし、優柔不断なようでいて意志の強さを垣間見せることもある。私に対しても、親切なような不親切なような、親しげな時もあれば素っ気ないこともあるし……。
……奴は、一体私のことをどう思っているんだろう。
私の心は今や完全に読書から離れていた。見てくれは二十歳かそこいらの、銀髪の青年の顔を思い浮かべる。
……今日も、あいつは店にいるだろうか。
ここ最近の私の生活は、午前中に家の改築や食料集めをし、昼飯を済ませてから香霖堂に寄る、というサイクルで成り立っていた。二人で食事を一緒にとることはない。そうするとさすがの香霖も私に気を使って奢ってくれる気がするし、孤高の家出娘としては彼の施しを受ける訳にはいかない、という微妙な遠慮と葛藤がこれまではあった。
でもまぁ、うん。たまにはいいか。
今日は少し早めに行って、そうだな、裏口から入って驚かせてやろうか。どうせあいつも暇してるだろうし。
そうと決まれば、と私はすぐに家を飛び出た。そう、この霧雨魔理沙様は気まぐれで、いつだって自分本位なんだ。
香霖堂に着くと、私は裏手に回り、細心の注意を払って裏口の戸を静かに開けた。中へ侵入すると、埃の匂いが鼻についた。この裏口は店の倉庫に繋がっており、そこには店先のがらくたにさらに輪をかけたがらくたが保管されている。
……ん? なんだこれ。
さっさと通り抜けようとしたが、私はある品物の前で足を止めた。見たことのない道具が、棚の中断に置かれている。香霖の店は外の世界から仕入れた道具を主に売っているから、見たことのない道具なんてそこらじゅうに置いてあるけど、その道具はとりわけ異様な雰囲気を放っていた。
それは見るからに重そうな、茶褐色の大きな箱だった。私でも頑張れば両腕で抱えられるかどうかといった大きさで、側面にはボタンやらダイヤルやらが並んでいる。幻想郷的に表現すればなんとも河童が好きそうな見た目の機械だけど、一体何に使う物なんだろう。
私がその機械を観察していると、店先の方から人の気配がした。おっと、香霖か。今日も彼は店番をしているらしい。それならこんな埃っぽいところに長居は無用、と私は店先へ通じる戸に手をかけ、そこで動きを止めた。薄い戸の向こうから、話し声が聞こえてくる。
「……おかげさまで、と言えるほど繁盛してはいませんね、正直なところ。そもそも近頃は仕入れか滞っていて、商品がなかなか増えないんです」
香霖の声だ。来客だろうか。店の客に対する態度にしては、ちょっとかしこまっている気がする。
「仕入れってお前、無縁塚で拾ってくるだけじゃねぇか」
香霖の言葉を引き取った男の声を聞いて、私の全身に緊張が走る。久ぶりに聞いたが間違いない。あれは、親父の声だ。
「拾うだけなのはそうですが、流れてくる道具の質や量は僕の裁量ではありませんから。豊作大漁の時もあれば、不作不漁のときもあります」
香霖は普段、私や商売客に対しては割合フラットな態度で接するが、親父は彼にとって商売の師だ。かしこまるのも当然だが、それにしても今日の香霖の声は変に強張っているように聞こえた。
「道具屋が言うに事欠いて不漁とは、大それた言い訳を持ちだしたな。棚の入れ替えもサボってるように見えるが、それにも何か言い訳を用意してるか?」
「相変わらず鋭いですね。そもそもうちは、商品の入れ替えなんてそんなにやりません。それでも売れるときは売れるんです。それがうちのやり方で、香霖堂とはそういう店だ、ってことでご勘弁願えませんか」
「ふん、まぁお前が好きにやるために開いた店だ、文句はないさ。だが、教えたことが全然伝わってないってのは、教える側としては寂しいもんだぜ」
「それを言われますか。そうですね……伝わってないなんてことはないんですが。今、ちょっと大きな取引をやってる最中でしてね。珍しい商品が入ってくるかもしれないから、そしたらまた陳列を整理しよう、とは思っていましたよ。そう、教わったようにね」
そして一旦会話が途切れる。そっと戸を押し開けて店先を覗くと、親父は手持ち無沙汰な様子で店内を物色していた。香霖は私に背を向けて、いつもの書き物机に座っている。
それにしても、なんだか妙な会話だった。二人とも――特に親父は――奥歯に物が挟まったような話ぶりだ。この場の議題を二人とも正しく認識しているのに、双方それに触れるのを躊躇っていて、お互いに向こうが切り出してくれないか待っている、という感じが伝わってくる。
「さて。魔理沙のことだが」
やっぱり。親父め、私について話しに来たんだ。私は一層息を殺し、二人のやりとりを盗み聞く。
「俺はな、霖之助。お前にゃ感謝してるんだ。あんな悪ガキの面倒を押し付けて、申し訳ないとも思ってる。でもな、義理立てにも限度ってもんがある。あいつの世話なんか一文にもならんだろ。俺も立場的にあいつを援助するわけにゃいかんし、あいつもまだまだ一人じゃ生きていけない。そんな奴にかかずらって、親類でも何でもねぇお前が商売に時間を割けないなんて、親である俺の顔が立たねぇ」
そう、こんな奴だったな。親父は二言目には自分の面子を持ち出す男だ。それも、鷹揚さもなくごく自然に。体面や義理、世間のあらゆるしがらみに雁字搦めにされて尚、平然と振る舞える商売人。嫌いってわけでもないけど、私とは永遠に相容れない人種だ。
「そろそろ、お前の方から説得してくれんか。うちに戻れって」
ふん、そういう要件か。体面なんて気にしてないで、自分で直接言えばいいのに。今私が姿を現したら親父はどんな顔をするだろう。
「前にも言ったでしょう」
対する香霖は、慇懃な口調のまま言い返す。
「他でもないあなたの娘なんです、早晩誰の手も借りずに生きていけるようになるでしょう。それに今だって、僕の支援はせいぜい古道具を譲るとか手助けしてくれる人を仲介するとか、その程度の些細な物です。こっちとしてもさして負担になってるわけじゃありません。僕に迷惑がかかるっていうのは、魔理沙を連れ戻す理由にはなりませんよ。もっと単純に、娘を手放したくないと言われた方が僕としては納得が行きます。協力するかどうかはともかく」
「もちろん俺にとっちゃ大事な娘だ、手元に置いておきたいのは当然だし、霧雨店としてもあいつにはいずれいい婿をとってもらわなきゃならん。……なぁ、霖之助。確かに俺はお前にあいつの世話を頼んだ。だが、何もお前にあいつの行く末を決めさせようと思ってたわけじゃない」
……え?
頼んだ? 親父が、香霖に?
そんな話、聞いたことがない。親父は私のことなんか野たれ死ねばいいと思っていて、香霖が私によくしてくれるのは彼の個人的な善意で……そう思っていたのに。
でもまぁ、そうか。そうだよな。純粋に個人的な善意なんて、そんなものを勝手に期待する方が間違ってる。香霖には香霖の理由があって、私に親切にしてくれていた、それだけで私は彼に感謝すべきなんだ。その理由というのが、ほかでもない親父に頼まれたから、というこれ以上なく気に食わないものだとしても。
「勿論承知していますとも。僕も自分にそこまでの権限があると思っているわけではありません。けれど、あなたは言っていたじゃないですか。もう俺はあいつのことは知らん、って。その態度を翻すというんですか?」
「あのときはどうせすぐ音を上げて戻ってくると思ってたんだ」
「それはそうでしょうけど。しかし、一度請け負ったことをそうやすやすと投げ出すほど無責任じゃないんですよ、僕は」
「頼んだ俺がもういいと言っている」
「あなたに対してだけじゃない。僕は魔理沙に対しても、困ったことがあれば力になると約束しました。魔理沙は大恩あるあなたの娘だ、そんな相手との約束ともなれば、あだや疎かには出来ません。僕のやっていることが義理立てだというのなら、それは親父さんに対してだけじゃない、魔理沙に対しても同じですよ」
「ったく、理屈をこね回しやがる……。じゃあこっちも理屈っぽく言うが、お前のその魔理沙に対する義理ってのはよ、俺がこんだけ頭を下げてる頼み事を蹴るほどでかいもんなのか。そいつはつまり、俺よりも魔理沙に対しての方が恩があるってことにならねぇか。おい、どうなんだ」
「それなら」
親父の、半ば子供の屁理屈じみた言葉に、香霖はさらりと
「義理以上の感情で僕が動いてるってことでしょう」
そう返した。
義理、以上の、感情……。
え……な、何だそれ。
どういう意味だ? 感情っていうのは……普通に考えたら少なくとも良い感情ではあるだろうけど、だからつまり、好意って受け取っていいんだよな……それは、師の顔を立てるよりも優先されるくらいの好意、であるわけで……。
頭の中で香霖の言葉があっちへこっちへ飛び交い、「感情」という単語が何度もリフレインする。声を上げてしまうのではないかと不安になり、思わず手で口を抑える。頬の焼けるような熱が、かじかんだ手に伝わってくる。
「まぁ、少なくとも今すぐは無理強いできないし、霖之助も大きな取引があるっていうなら、そっちのことを考えたいだろう。今日のところは引き下がるが……」
お、おい親父。普通に流そうとするな、さっきの香霖の台詞を。もうちょっと突っ込めよ、あからさまに何か仄めかすような言い方だったろうが。
「俺が魔理沙のことでここへ来たとは言いふらさんでくれ。そのうちまた来るが、次はこっちも色々と準備をさせてもらうからな」
親父はそう言って帰り支度をし始める。
あれ、さっきの香霖の言葉を歯牙にも掛けてないな。どういうことだ、あれって普通の言葉だったのか? 私が意識しすぎなだけ?
などと私が煩悶しているうちに、親父はさっさと店を出て行ってしまった。香霖は一人ため息をつくと、徐に椅子から立ち上がった。
「さて、と」
そして振り返り、物置へ――つまりこちらへと歩いてくる。
「う、うわっ」
慌てて扉を閉めるが、余計な力が入ってしまい、扉はバタンと大きな音を立てた。
「ん? 誰かいるのか? 魔理沙?」
不法侵入の上に盗み聞きの現場を押さえたと言うのに、香霖はのんきな声を出す。
ええと……どうしよう、出て行こうか、それとも逃げようか……と私がおろおろしていると、
「なんだ、聞いていたのかい。出てこなくて賢明だったね」
香霖は扉越しにそう話し掛けてきた。
「……えっと、その……」
「まぁ、状況は聞いた通りだ。向こうも君の住処は知っているから、そのうち直接乗り込んでくるかもしれないな。一人暮らしを続けたいのなら、気をつけたほうがいい」
ちょっと突き放したような言い方に聞こえるのは、気のせいだろうか。
「気をつけるって言っても……」
何だか香霖の顔を見るのが怖くて、私は扉を開けて顔を出すことができなかった。
もし私が無理矢理連れ戻されそうになったら、彼はどうするんだろう。さっきの親父とのやりとりの中では、明らかに私の側についてくれていたけど……。
私は黙り込んでしまう。香霖はどうするんだ、と尋ねたいけど、それができない。きっと私の聞き方は、どうしても守って欲しいという期待の込められたものになってしまうから。図々しいにも程があると思いとどまる一方で、彼の気持ちを確かめたいという欲求が膨らんで行く。
「魔理沙」
香霖が、どこか諭すような声色で私の名を呼んだ。
「君は、まだ子どもだ。年齢的に言えばね。でも君は自由を声高に叫んで、一人で家を飛び出した。僕は、君のその勇気をとても尊いものだと思っている。だから、できる限りそれに水を差したくないんだ。これは僕の行動指針の一つだ。わかるかい?」
「……ん、まぁ……」
「親父さんが君の家に押しかけてきて、僕が君を背に守ったとする。親父さんも、僕の顔に免じて刀を収めてくれるかもしれない。けれど、君は本当に君はそれでいいのかい。僕の庇護を必要とする君は、それは君が求めていた自由な自分と言えるんだろうか?」
不意に、香霖に一歩分の距離を取られたような気がした。彼は今、私を教育する立場から私に話しかけてきている。子どもを宥め諭す大人として話している。そうだ。私は香霖に全然釣り合わない、私たちは全く対等じゃなかったんだ。それが何とも腹立たしくて……少し、寂しくて、私は何も言えないまま、ただ喉の奥が熱くなるのを感じていた。
結局扉は開けないまま、私は裏口から香霖堂を後にした。
ところが私という人間は切り替えが早く、家に帰り着く頃には憂いは吹き飛んでいた。代わりに私の心を支配していたのは、香霖に対する憤懣だった。
ったく、人を見下しやがって。そりゃ私はまだまだ子どもだ。でも、それにしたってあんな子守みたいな態度をとらなくても。あんな感じで接されたら誰だって嫌な気持ちになる。そのくらいの想像力もなくて、何が大人だよ。香霖のやつ……。
その日はやたらと家の改築作業が捗った。親父が何だろうが関係ない、とにかくまずはここを私の城にしてやる。いや、ここは私の作戦本部だ。どんなやつに対しても対等に立てるような、そんな自分になるための前線基地。そうだ、元々そんな生活を夢見て飛び出してきたんじゃないか、私は。
夕飯を終えた頃には、私はくたくたに疲れ果てていた。けれど、布団に入った時に感じる疲労は心地のいいものだった。
その頃には心も落ち着いてきていて、色々なことに思いを巡らせる余裕ができていた。
まぁ、うん。香霖の言うことも、理解できないわけじゃない。子供扱いされるのが気に食わなくてムキになって、そういうところが子供なんだとまた窘められる。実家にいた頃は、ずっとそんな感じだった。だから、なりたい自分になるために一人暮らしを始めたんじゃなかったのか。
ふと、昨日の夢を思い出す。夢の中で私は十五歳の女の子になっていた。「私」は親元を離れて一人で暮らし、自分の信じる道に向かって邁進していた。「私」はそのことについてごく普通のことのように感じていたけれど、今の私からすると、彼女の日々はとても眩しく見える。
十五歳というと、私にとっては三年後だ。あとたった三年で、私もあれくらい強くなれるんだろうか……。
思い返すと、北白河ちゆりはなかなかシビアな日々を送っていた。日がな一日勉強して、家にも帰らずに職場の硬いベッドで寝て。今の霧雨魔理沙邸はぼろ家だけど、ちゃんとした布団で寝られるだけ、私は贅沢をしているのかもしれない。ちゆりはそれでも、不平を零しながら進むべき方向に向かって自分の足で進んでいく。住んでいる世界は違っても、私が目指すべき姿がそこにはあった。
けれど、夢の中の私は……私を羨ましがっていた。
それを思うと、なんだか妙な気分になってくる。あれだけ一心に研究に打ち込んでいるちゆりだったけど、夢の中の私を思い浮かべては、どこか憧れているようなことを心の中で呟いていた。魔理沙はちゆりを羨ましがっていて、ちゆりは魔理沙を羨ましがっている……。
あれ、何でだっけ。どうしてちゆりは私のことをそんな目で見ていたんだっけ。
あぁ、そうだ。ちゆりは幼馴染の従兄――初恋の相手が今度結婚するって聞いて、かなり動揺していた。それで、いつも香霖と一緒にいる私のことを羨ましく思って……。
い、いや、それは違う、香霖はそういうんじゃない。いつから香霖は私にとって憧れの人になったんだ。あんな、人の気持ちもわからないウスラバカが……。
けれど、布団の中でじっと丸まっていると、頭の中から香霖の顔が離れなくて、無性に胸の奥がざわつく。彼の言った「義理以上の感情」という言葉の意味を、どうしても考えずにはいられない。
あぁ、いくら私でも。
ここまで気になってしまったらもう認めるしかない。
私は、あの言葉にどうしようもなく期待してしまっているんだ。
彼が私に向ける善意が、親父に頼まれたからという以上のものであることを。一足飛びに成長しようとする子供を上から見守るような、そんな教育的な意識を超えたものであることを。
胸の中のもやもやをどうにも処理できないまま、一人の夜は過ぎていく。
早く明日になってほしい。そしたらいつものように香霖堂に行こう。もしも明日、勇敢な私がそこにいたら……。
明日に思いをはせながら私は寝返りを打ち、
◆
――そして、愕然とした。
一瞬だった。寝返りを打つ前、私は確かに自分の家の寝室にいて、ぬくぬくと柔らかな布団に包まれていたはずだ。それなのに、一瞬のうちに何もかもが変貌していた。今、私をくるんでいるのはがさついた毛布で、体の下にあるのは硬いソファベッド。そこは私の部屋よりも遥かに狭苦しい、殺風景な個室――そう、仮眠室だった。
ま、待て。……私、……だって? 私っていうのは、誰のことだ?
枕元を探り、携帯端末を手に取る。内蔵カメラで自分の顔を画面に映し出し、
「……あ……」
そ……そうだった。私は、北白河ちゆりだ。霧雨魔理沙じゃない。魔理沙は夢の中の存在でしかなくて……。
学会発表の準備をする気は起きなかった。
一体何がどうなっているんだ? さすがにこれは異常自体だ。三日も続けて同じ夢を見るだけでも珍しい体験なのに、その夢で他人の一日を追体験し続けるだなんて。
ただ奇妙なだけならともかく、この現象には実害がある。私が眠りに着いた瞬間に霧雨魔理沙の夢は始まり、魔理沙が眠ると同時に北白河ちゆりの一日が始まる。これをずっと繰り返していると、全く寝た気がしないのだ。
通常、夢見の時間は就寝時間のうちのごく一部分でしかない。夢を見ている状態も「意識がある」と言えるなら、就寝中は完全に意識を手放している時間が大半なのだ。だが夜の間ずっと魔理沙の夢を見続けている今の状態では、のべつ幕無し意識があるわけで、脳は休みなく思考し続けている。そのせいで脳に疲労が溜まっているのか、今も頭の中に霞がかかったような状態で、これはもうはっきり言って睡眠障害だ。
それでも、今はまだいい。こうして思考している自分が、北白河ちゆりであると断言できるのだから。けれど、私の自意識がいつまで保てるのか、私には自信がなかった。即ち、私は霧雨魔理沙の見ている夢なのかもしれない……そう真剣に疑い始めたら最後、私の自我は取り返しのつかない混迷に陥ってしまうのではないか……そしてその時は遠からず訪れるんじゃないか……そんな予感がしてならない。
平静を取り戻すために、私は論文を読み返した。大丈夫、理解できる。そう、私には物理学の修士論文を理解できる程度には学識がある。これは私が北白河ちゆりであって霧雨魔理沙ではない証拠になるはずだ。十二歳の、それほど特別な教育を受けている感じもなかった魔理沙には、到底理解できるはずがない。……けれど、夢の中の「理解」っていうのは、一体どこまであてになるんだろう。よくあるじゃないか、夢の中で自分が全くの別人になっていて、本来持ち得ない知識を持っているように「錯覚」する、だなんて。
……これが平常時なら、かの有名なシミュレーション仮説を持ち出して、自分が実在することを証明することは原理的にできない、みたいな話に落ち着かせることができるのだろうが、実際にこうして自身の存在が危うくなってみるとそんな気楽なことは言っていられない。何か……そう、例えば霧雨魔理沙が夢であることを証明できれば……少なくとも私が霧雨魔理沙の見た夢であることが否定できれば……。
待て待て、話が飛躍している。魔理沙に引きずられすぎだ。要するに、睡眠障害で神経が参っているだけなんだ。つまり、その原因を見つけ出して取り除けばいい。
私は今までこの手の疾患にかかったことはない。連日の重労働で神経がすり減っているとはいえ、精神的疲労が原因とは考えにくい。教授にはもっと酷い仕打ちを受けたことだって何度もあるし。となると外的要因か。
そこでふと私は昨日の宇佐見さんの話を思い出した。彼女によれば、被験者に任意の夢を見せる実験がすでに行われているという。ってことはつまり、可能性としては――あくまで可能性の話だが――魔理沙の夢は私の頭の中から出てきたものではなく、誰かに見せられている夢かもしれないわけだ。……それはそれで、じゃあ何の目的で? という話になるが。
……ふむ。
宇佐見さんに話を聞いてみようか。彼女はこの手の話に詳しそうだし、昨日の口ぶりからするとまだ色々と情報を持っていそうだ。よし、と私は端末の電源を落として席を立つ。
「ちょっと出てくるぜ」
研究室の扉を開けながらそう言うと、
「はーい」
雑貨の山の向こうから、教授の気のない返事が聞こえた。
宇佐見さんに情報をもらうと言っても、私は彼女の連絡先を知らない。だが、昨日彼女は図書館へ調べ物をしに来たと言っていた。その時は私がコーヒーショップに誘ったため、彼女には十分な時間がなかった。つまり、彼女は今日も図書館に来ている可能性がある。
図書館に着くと、私は夢に関する本を適当に見繕い、ロビーで読みながら宇佐見さんが現れるのを待った。もう昼過ぎだというのに頭の中は未だに胡乱で、書いてある言葉がさっぱり理解できない。でも昼過ぎにぼーっとするのは自然だよなぁ、と思いながらうつらうつらしているうちに、気がつくと随分時間が経っていた。さすがにこれ以上の時間の浪費はまずい。結局この線は空振りに終わりそうだったが、さてどうしよう。
遅い昼食を済ませて学食を出ると、もう日が傾き始めていた。今日は時間が経つのがやけに早い。まるで、夢の中のように。
研究室へ戻ると、教授は相変わらずモニターに向かい合ってキーボードを叩いていた。随分集中しているなと思ったら、
「おかえりなさい。作業は捗った?」
そう声をかけられた。
「まぁそこそこ……」
……ん?
待てよ……。
不意に昨日の出来事がフラッシュバックする。昨日の夜。教授が淹れた紅茶を飲む私。すぐに眠くなり、気がつくと魔理沙の夢が始まっていた。夢が終わってみると私はいつの間にか仮眠室で寝ていた。昨日教授が一人ずっと作業をしていた、仮眠室で……。
ある疑念が、夏の暗雲のように急激に私の心を覆い尽くしていく。
――もしかして私、この岡崎研究室で実験台にされてないか……?
宇佐見さんが言っていたような夢の実験は実際に行われていて、被験者は私、そして実験の監督者は……。
い、いや、勿論これは馬鹿な想像だ。いくつか無理な飛躍があることもわかっている。しかし、教授の不審な言動と私の不自然な体調……偶然の符合として片付けてしまうのには、どうにも抵抗がある。無断で助手を実験台にするなんて非常識にもほどがあるが、岡崎夢美ならやりかねない。私を紅茶に入れた薬で眠らせて、夢を見せる装置を仕込んだ仮眠室に寝かせ、魔理沙の夢を見せている……とか。ありうる、と感じる程度には私の教授に対する信頼度は低い。
だとしても、どう確認すればいい? 直接教授に聞いたところで、本当に実験中ならはいそうですと素直に認めるわけがない。何とか怪しまれずに教授の腹の中を探る方法は……。
しばらく考えた後、私は遠回りな確認方法をとることにした。
「あら? どうしたの、ちゆり」
「掃除だよ、ちょっと気分転換に」
「そう。気分転換ばかりしてたらいつまで経っても終わらないわよ」
「はいはい」
私はできるだけ自然さを装って研究室内を掃除し出した。あえて教授の机には近寄らない。情報を探っていることが気づかれないように、今は回りくどい方法で行こう。
床をはき、棚の雑貨を片付ける。これだけごちゃごちゃしてるんだ、多少棚の物の置き方に作為が入ったところで、気づかれる心配はないだろう。
再び自分の机に戻った。作業に集中するふりをしながら、そっと棚にしかけた置き鏡を確認する。鏡にはキーボードを叩く教授の手元が映っていた。よし、この角度なら気づかれはしないだろう。直接教授のモニターを覗けるような位置に鏡を仕込めば、さすがに教授も気づいただろう。だがモニターを覗く必要はない。私は、じっと教授の指先を観察する。
――私には、妙な特技がある。他人のタイピング入力を読み取ることができるのだ。
指の動きを見ているだけで、人が叩いた文字列や数字を読み取る能力。これはセキュリティの世界ではショルダーハックと呼ばれている技術で、まぁ言ってみれば泥棒が使う手口の一つだ。いつの間にこんな特技が身についたのかはよくわからない。生来の動体視力の良さと、年がら年中PCに向かっている生活環境によって、気付かないうちに育まれたのだろうか。とにかく、今では人がタイピングしている指先をぼんやり眺めているだけで内容を文字列として認識できるようになった。
この特技のことは、教授はもとより親にすら話していない。様々な局面で悪用できるため、何かあったときに不必要に疑いの目を向けられる恐れがあるからだ。勿論、今まで悪用したことなどないが、今この状況はこいつを役立てる絶好の機会だ。
私は作業するふりをしながら、鏡越しに教授の手を凝視する。さすがの教授も、手元を盗み見られることには注意を払っていない。
その長い指が叩きだす文章は、果たして――ある意味では私の予想を裏付けし、またある意味では私の疑念を加速させるものだった。
曰く……被験者の精神面に異常が見られ始めている、だの。起床から数分間は自我に混乱が見られる、だの。夢の内容を変更する必要性は今のところなし、だの。
つまり、だ。
教授は今、実験の経過を誰かにメールで報告しており、その実験というのはどうやら被験者一人を対象とした心理実験で、何かしら夢に関するものである、ということで……。
やっぱり、私は実験台にされている。それは確からしい。
けれど、目的が分からない。教授はすぐに関係ない別のメールを書き始めてしまったため、実験についてはそれ以上何もわからなかった。実験をしている以上は測定なり現象の再現なり、あるいは実験手段の確立なり、何かしら目的があるはずだ。今のところ、何故私に霧雨魔理沙の夢を毎晩見せているのか、その意図が全く分からない。
しかし……しかし、だ。
一つ分かっていることがあるとすれば、被験者である私に一切何も知らせずに実験をしている以上、これは『私に知られてはまずい』内容の実験なのだ。その理由は、私に知られることで測定値に影響が出るか、あるいは……そもそも公にしてはまずい筋から依頼された実験か……。
私は作業をするふりをしながら黙考する。
もう午後十時を回っている。近頃の私の睡眠サイクルからすると、そろそろ体が睡眠の準備をし始める頃合いだ。どうする。今日もまた、このまま眠ってしまっていいのだろうか。夢の中では、霧雨魔理沙は北白河ちゆりの今日一日の記憶をちゃんと持っているだろう。だが、そのとき魔理沙は「私は北白河ちゆりで、今は霧雨魔理沙の夢を見ている」と思うのだろうか。それとも、「私は霧雨魔理沙で、さっきまで北白河ちゆりの夢を見ていた」と思うのだろうか。……今までの感じからすると、やはり私は夢の中では自身を魔理沙として認識するのではないか……?
それは奇妙な感覚だった。こうして色々明らかになってみると、自分が夢の中で魔理沙になってしまうことがたまらなく恐ろしい。恐ろしいのだが、では何故どのように恐ろしいのかと言われると、うまく説明できない。
――あぁ、なるほど。
これが胡蝶の夢ってやつか。この妙な不安を乗り切った境地……つまり自分が魔理沙だろうがちゆりだろうが関係ない、その時の自分として泰然と生きていればいいって話だったのか、あれは。でもそう言われてもなぁ。私はやっぱり北白河ちゆりのままでいたい。自我の根元の根元から別人になってしまったら、そのとき私はちゆりという人間の存在を否定するだろう。ちゆりが歩んできた十五年間の人生を、夢の中の出来事として片づけてしまうだろう。今の私が、魔理沙の存在を否定しているように。
「お疲れ様。そろそろ休んだら?」
ちょうど午後十一時、教授はそう言っていつの間にか用意されていた紅茶を私に差し出してきた。
「んー、そうだな。歯磨いてくるよ」
紅茶は机の上に置いたまま、私は洗面所へと向かった。
恐らく今夜も私はあの夢を見せられるだろう。きっとあの紅茶を飲んだらすぐに眠くなって、明日の朝仮眠室で目覚めるまで、私の自由は奪われる。実験の目的が不明である以上、このサイクルがいつまで続くのかもわからない。先ほど盗み見たメールの内容からすると、私が発狂するまで続ける気はなさそうだったが。
歯を磨きながら考えた結果、私は一つ、ちょっとした策を打つことにした。
携帯端末の目覚ましアラームを夜中にセットし、服の下に忍ばせ背中に固定する。アラーム音は切ってあるが、時間になれば振動が直接私の体に伝わるはずだ。振動はすぐ終わるため目は覚まさないかもしれないが、完全に覚醒する必要はない。
海を泳いでいる夢を見たと思ったらおねしょをしていた、という経験こそ私にはなかったが、寝ている間に体が受け取った刺激が、夢の内容に影響を与えることはよく知られている。霧雨魔理沙は、北白河ちゆりがこうして目覚ましを仕掛けたことを覚えているだろう。それが夢の中に何らかの不自然な影響を及ぼしたとき、彼女はそれを「自分が夢の中にいる証拠」であると受け取るのでは……つまり、私は夢の中で自我を取り戻せるのではないか。そんな期待を、私はこの目覚ましに込めた。
研究室に戻り、そっと紅茶を飲む。案の定、途端に猛烈な眠気に襲われる。
「もう、休むぜ。おやすみ、ご主人様」
私はそう言い残すと、なんとか自分の足で仮眠室までたどり着き、ソファベッドに倒れこんだ。
◆
時間が経った感覚は全くなかった。
ほんの一瞬のうちに、硬いソファベッドは柔らかな羽毛のベッドに変貌していた。
まるでベッドからベッドへテレポーテーションしたかのようで、この感覚はちょっと面白いな、と私は毛布の中でのんきなことを考えていた。
そっと起き上がり、大きく深呼吸をする。すっきりとした爽やかな目覚めだ。少なくとも、身体の面では。
ついさっきまで研究室にいた記憶ははっきりと残っている。北白河ちゆりとして一日疑念に苛まれた記憶も、事細かに思いだせる。それと同時に、今いるこの場所が霧雨魔理沙の家で、私は十二歳の女の子で、寝癖でぼさぼさの金髪を今朝も時間をかけて梳かないといけないということもまた、はっきりと認識できている。
さて、私は一体誰だろう?
結論から言えば、夢の中の私……北白河ちゆりが予想した通り、私は身も心も記憶も自我も、すっかり霧雨魔理沙になっていた。いや、そもそもその表現はおかしい。「なっていた」だなんて。私は生まれてから今日までずっと霧雨魔理沙で、そうでなかった瞬間は一秒もないのだから。
そう、今私は自分が魔理沙であるという確かな実感を持っている。ついさっきまでは自分自身がちゆりであることを微塵も疑わなかった、その私が。
――私は本当は北白河ちゆりなんじゃないか。そんな不安もまだ残っている。岡崎夢美の謎の実験によってちゆりが見せられている夢……それが私、霧雨魔理沙なんじゃないか、と。私の直感はそれを否定しているけど、理屈の上では、自分が夢の登場人物であることを否定することはできない。そうはいっても、実際今の私は霧雨魔理沙なのだし、その魔理沙にできることといえば、朝食を食べ、隙間風の吹き込み口を塞ぎ、森へ出て山菜を集めることくらいしかなかった。つまりは、結局いつもの一日が始まったのだ。
昼食を食べ終え、香霖堂に行く支度をしながら、ふと昨日の香霖堂での一幕を思い出す。あんなに心が散らかった日の翌日だというのに、私の体は半ば無意識に香霖に会いに行こうとしていた。習慣って奴は恐ろしい。まぁでも私がここで尻込みするなんて、それはそれで癪だし、それに私は昨日心を決めたんじゃなかったか。もっと踏み込んだ話をしようって。
香霖堂への道中、私は自分に問いかけた。昨日香霖が言った言葉の意味を確かめる勇気はあるか、と。私のことをどう思っているのか、彼に直接聞くことができるだろうか。そんなことをあえて口にする必要がどこにあるんだと思う一方で、この四六時中宙に浮いたような気持ちを早く片付けなければ一歩も前に進まないという気もしている。
香霖堂が近づくにつれ、落ち着かなさは増していく。
できるだけ普段通りの言い方を心がけながら、私は香霖堂の前で声を張り上げた。
「よーう。邪魔するぜ」
そっと扉を開けると、珍しいことに香霖は店先の掃除をしていた。私が生まれる前から動かされていないんじゃないかとすら思っていた店頭の品物が、今は棚から降ろされて庭で日干しされている。
「確かに、今はちょっと邪魔かもしれないな。……あ、魔理沙。そこのハタキを取ってくれ」
「え? あぁ」
ハタキを手渡すと、香霖は台に乗って棚の上の埃を払い始めた。
何だろう、この感じ。出鼻をくじかれたような。
「えと……どういう風の吹き回しだ? この中途半端な時期に大掃除なんて」
「品物を入れ替えようと思ってね。近々、なかなか期待できそうな商品がいくつか入荷することになったから」
「へぇ。お前、ちゃんと商売してたんだな」
「ああ。そうだ、君にも手伝ってもらうかな。どうせ暇だろう、魔理沙は」
「そういう頼まれ方をして気分のいい奴はいないと思うぜ」
そうは言いつつも、実際に暇な私は何とはなしに店の掃除を手伝うことになった。黙々と作業するのもつまらないと思い、私は昨日、一昨日と見続けている夢の話を香霖に話して聞かせた。掃除と並行しての会話だったため、ところどころうまく話をつなげることができなかったが、しっかりと話せたところで所詮夢の話だ。香霖もちゃんと聞いてはいないだろうと思っていたら、
「なるほどねぇ。面白いな、それは」
と話の節々で彼は妙な相槌を打つのだった。
掃除がひと段落したところで、香霖はお茶を淹れてくれた。香霖は書き物机に腰掛け、私は机の上に腰掛け、二人でしばし一服する。
「君もなかなか興味深い夢を見たものだね。鏡を置いて人の手元を覗く、か。なるほどなるほど」
香林はおかしそうにそう言った。
「……何がそんなに面白いんだ?」
「いや。ただ、そんな特技があったらひどく便利だろうな、と思っただけさ」
ひどく便利とは、妙に引っ掛かる言い方をする。
「はぁ。そこそんなに重要か?」
「じゃあ、魔理沙はどこが重要だと思う?」
「どこって、だから、なんとか仮説とかの話だろ。私も難しいことはわからないけど、ちゆりの心配してることはちょっとわかる気がするんだ。自分が自分じゃないかもしれないって不安は」
「シミュレーション仮説だね。本で読んだことがある。この郷にあるもので例えると、あれかな。魔理沙はからくり人形を見たことがあるかい?」
「ん? あぁ、親父がいくつか店に置いていたことがある」
「あの人形は生きてはいないが、放っておいても勝手に動くだろう。もっと技術が発展したら、飛んだり跳ねたりもさせられるだろうし、話しをさせることもできる。からくりが究極的に細密になれば、ものを考えたり判断することもできるだろう。そうなると、その人形は人間と外見では判断できない。さて魔理沙。君は自分がそのからくりでないことを証明できるかい?」
「そりゃぁそうだろ。私は生きてるんだから」
「そう思いこんでいるだけかもしれない。心臓だって精巧につくられたからくりかもしれないし、魔理沙が自分の心だと思っているものは実はどこにもなくて、ただ機械が人間っぽい判断をしているだけかもしれないんだ。目の前にいる僕だってからくりかもしれない。いや、この幻想郷全体が、誰かによって作られた夢物語に過ぎない可能性だって、否定することはできないんだ。僕らが想像もできないほど高度な技術によって、この世界が現実を再現した偽りの世界であったとしたら……。どうだい。多少なりとも不安にならないか?」
「まぁ……確かに」
私を含めたこの幻想郷全体が、作り物かもしれない……。なるほど、そういうことか。ちゆりはその話を知っていて、自分が霧雨魔理沙の見た夢かもしれないって不安をずっと抱いていたんだ。
「その不安を、誰かがシミュレーション仮説と名付けたのさ。もっともこれは偽の現実が完璧に現実を装っていた場合の話で、一つでも瑕があれば成立しない。現実世界というものは、膨大な物や事が互いに関係しあっていて、複雑で微妙な繋がりの上に成り立っているものだ。これを完璧に装おうのは、神でもない限り不可能だろう」
不安……なるほど、それは確かに不安だ。でも……。
香霖の話を聞いているうちに、私の中で何かがくるりとひっくり返った。今までそれは確かにちゆりの言うように不安だった。自分が実在しない可能性。それを打ち消すために、自分が実在する証拠をちゆりは探していた。
けれど、本当にそれだけだろうか。
私は何気なく机を回りこみ、香霖に近づく。けれどその顔を正面からは見られなくて、結局背を向けてしまう。
「あの……さ」
私の心に俄かに灯った仄かな勇気が、私の口を動かしている。
「ん? どうした、魔理沙」
「その……いきなり、こんなこと聞くと、変って思われるかもしれない、けどさ……」
「どうしたんだ、改まって」
そのときだった。
不意に、背中で何かがごそごそっと振動した。
「ひゃっ!」
くすぐったくて思わず飛びあがる。慌てて振り返るが、香霖が不審そうな目で私を見ているだけだった。背中に手を回して探るも、そこには何もない。
今のは一体……。
あっ、そうか。あれだ。
夢の中でも自分自身を思い出せるように、ちゆりは振動する目覚ましを仕掛けてから眠りについた。今のはそれが作動したのだろう。
そうか。そうなんだ。
これは、夢なんだ。
「どうかしたのかい?」
「いや、なんでもないんだ。ところで――」
私は椅子に座った香霖の眼前に立ち、彼の目をまっすぐに覗き込んで言った。
「香霖は、私のことどう思ってる?」
え、という口の形のまま、香霖は固まった。
沈黙はまずい。勢いがしおれる前に、言うべきことを全部言ってしまおう。
「え、じゃなくて。答えてくれ。掃除で忘れてたけど、私、今日はそれを聞きに来たんだ」
「どう思って、っていうのは――」
「香霖、昨日親父に言ってただろ。何で私に肩入れするんだって言われたとき、義理以上の感情で動いてるって。あれってどういう意味だったんだ。あんな言い方されたら、言われた本人としちゃ気になるだろ」
すごいな、私。こんなこと、直接聞いちゃうんだ。
案の定というかなんというか、香霖は私の遠慮を捨てた勢いに押されている。
「気になるって、それは君が勝手に盗み聞きしたから――」
「ああもう! だから!」
頬が熱くなるのを感じながら、私は香霖に詰め寄った。勢いをつけすぎて思った以上に顔を近づけてしまい、私の心臓が跳ね上がる。間近で目が合い、私は思わず言葉に詰まった。
「あ……あの、ええと……つまりだな、その……」
ああもう、香霖もぽかんとしてないで何か言ってくれよ。まだ私に喋らせるのか。
さすがに、これ以上は顔を合わせていられない。今、きっと私はひどい顔をしている。でもここで引きさがるわけにはいかない。
「ちょ、ちょっと魔理沙!?」
私は鍔広の帽子を脱いで胸に抱えると、くるりと体を半回転させて香霖の膝の上に座った。香霖の焦りと困惑が直に伝わってくる。
「何だよ、昔はよくこうしてただろ。それとも私、重くなったか?」
「い、いや、そんなことはないけど……。君ってやつは、さっきからおかしいぞ……」
「いいから聞け! つまり、こ、こういうことだ……。香霖が、私のことを……そう、そんなに嫌いでもないっていうんなら、その、一つ考えがあるんだ」
昨日の夜なんとなく思い浮かべていたことを、私は必死で頭を働かせながら語る。
「親父はさ、私が家出した、って考えてるから、だから怒ってるって言うか、世間体が悪いって思ってるんだろ。で、私は、とにかく家を出たかった。つまり、私が家出じゃない形で実家を出たら、親父は文句を言えなくなるし、私も目的を果たせる、ってわけだ。だから……例えば、嫁入りみたいな形でさ、香霖堂に私を置いてもらえたら……ま、まぁ例えばの話だ。勿論、店の手伝いはちゃんとするし、迷惑にならないようにする。なんか、結構いい案なんじゃないかなーって、思ってるんだけど……」
背を向けているため、香霖の表情はわからない。私はばくばくと脈打つ心臓が破裂しないことを祈りながら、
「その……。どう、かな」
そう尋ねた。
暫しの間があった。
香霖からは困惑の気配が消えている。代わりに、彼は何かを考えているようだった。なんだかこうしていると、自分一人だけが暴走して無理なお願いをしているような気がする。実際そうなんだけど。
そして、長い沈黙の後。
「魔理沙」
香霖が、いやに冷静な声色で言った。
「その話の前に、ちょっといいかい? 降りてもらっても」
「ん? え、あぁ」
私は慌てて香霖の膝から飛び降りた。香霖はすっと立ち上がり、店の奥へと姿を消した。ややあって再び姿を現した彼は、
「とりあえずこれでも飲んで一旦落ち着こう」
と湯呑を私に差し出した。
私は素直に受け取り、口に含む。それは程よく温まったお茶だった。なるほど、こういうものは気の立った子供の気を鎮めるのに役に立つ……と他人事のように考えていると。
「僕はね、魔理沙」
香霖はどこか淡々と語りかけてくる。
「初めに言っておくと、君がそう提案してくれたことが意外だったし、好意的に受け止めたいと思ってる。持って回った言い方をしてしまったが……つまり、それが嬉しいかというと、そうじゃないんだ。勘違いしないでほしいが、これは君に対する気持ちがどうこうという話じゃないんだ。いいかい魔理沙。君が、本心から僕にそう言ってくれているなら、僕はまっすぐに君と向き合って僕の気持ちを答えよう。でも、今の君はそうじゃない」
「なっ、何だと。私は、思ったことを言ったまでで」
「いや。いいかい、もう一度よく考えてみてくれ。僕はできれば君と対等に接したいと考えている。親父さんのように、君を子供として見下すような態度は取りたくないんだ。けれどそれには、君にも努力してもらわなければならない。僕は君に……その……自分で物事を考えられる人間になってほしいんだ。僕の言いたいことは、うまく伝わっていないかもしれないが、今は黙って聞いてくれ。人は、他人に言われたことをただ鵜呑みにしているだけでは、一人で生きていけないんだ。僕は、自分自身の考えによって支えられている君と語り合いたい。そのために、もう一度よく考えてほしいんだ」
何だろう、香霖は変に歯切れが悪い。
「結局何が言いたいんだよ、こうり……うっ……」
その時、急に眩暈がして、私は湯呑を取り落とした。
眠い。何だ、この猛烈な眠気は。
世界が揺らぎ、私が揺らぎ、香霖の姿がかすんでいく。瞼が重くなり、体がどんどん沈んでいくような感覚に見舞われる。
意識が遠くなっていく中、最後に香霖の声が私に囁いた。
「魔理沙。これはね、よく考えればわかることなんだよ……」
◆
そして私は……気が付くと、真っ白な世界にいた。
白。辺りは見渡す限り、白だった。真冬の雪原より、いつか写真で見た塩湖より、もっと純粋で平板な白い空間が、私の周りに広がっている。私自身も白いワンピースを着ている。上も下もないような白い世界に、私は一人佇んでいた。
私……。
私って、今は誰なんだ?
「お疲れ様」
突然、すぐ近くで女の人の声がした。聞き覚えのある声だ。
声を認識するのとほぼ同時に、私は彼女の姿を認識した。赤いドレスに赤いマント。赤髪を背で一本に束ね、赤い回転いすに腰掛けている。白い世界の中で唯一つ、意味のある情報として彼女はそこにいた。
岡崎夢美。
彼女は、確かそう呼ばれていた。
「突然呼び出したりして悪かったわ。それを言うなら、断りなくこの実験に巻き込んだことを謝罪すべきね。けれどまだ実験は終わったわけではないから、あなたにはもうしばらく付き合ってもらうわ」
「実験……?」
夢美はゆっくりと頷く。
「私は、あなたを利用してある実験をしていたの。実験の目的は、夢を見せるだけで自我を奪うことができるかどうか検証するというものだった。こちらが用意した、いかにも現実らしい夢を見せて、そっちを本物だと思いこませられたら成功。実際にはその夢は単なる実写映像で、誰かの一日を一人称視点で追ったものに過ぎないのだけど、それを被験者の夢に転送するとまるで自分がその誰かになったかのように錯覚させることができる。でも夢は所詮夢で、その体験は夜間限定の錯覚なのよ。にもかかわらず、現実を否定するほどの現実感をその夢に与えることができるかどうか。私は、それを確かめたかった」
「な、何でそんなことを……」
「理由なんてないわよ。強いて言うなら、興味があったからかしらね」
そして夢美は冷たく微笑んだ。科学者というにはあまりに魔術めいた笑い方だった。
「被験者には、実験内容も実験があること自体も伏せる必要のある実験だったから、あなたには無断で進めさせてもらったわ。でも健康には影響を与えないよう配慮しているし、これが済んだら元の生活に返してあげるから、そこは安心して」
「まだ……何か、やるのか……?」
「ええ。最後の仕上げとして、あなたには、今からする質問に直感で答えてもらうわ。即ち、『あなたは北白河ちゆりか? それとも、霧雨魔理沙か?』」
彼女は、私が今一番知りたかったことを問いかけてきた。
「さぁ、答えて」
つまり、夢美はこう言っている。
私はちゆりか魔理沙のどちらかである。この三日間、私が体験してきた「眠っている間に夢で別人の一日を追体験する」という現象は、私がちゆりだとしたら魔理沙の夢を、魔理沙だとしたらちゆりの夢を、実験装置か何かで見せられていたのだ。
そうして別人の自意識を植え付けた上で、私がここで答えを誤れば実験は成功……ということ、か。
実験があるらしいこと自体は私、というかちゆりも気付いていた。その目的も内容もある程度説明されて、とにかくこの問題に答えれば元の生活に戻してもらえる、というところまでは理解できた。
でも。
それじゃあ、私は誰かと聞かれると……。
「今、あなたには特別な夢を見てもらっているわ。私と対話するというだけの夢をね。今のあなたには、あなたがちゆりだった時の記憶もあるし、魔理沙だった時の記憶もあるはずよ。けれど、あなたの正体を探る手がかりはこの夢からは排除してあるわ」
そう、今私は服装からも身体的特徴からも、自分が誰であるか判断できなかった。
なるほど、夢美の実験は相当首尾よく進んだらしい。何故なら私は、……魔理沙であるような気もするし、ちゆりであるような気もするのだ。
直前まで私は魔理沙だった。でも、これはちゆりの夢の中だという気もしていた。一方で、ちゆりも自分がちゆりであることに確信を抱いていたわけではない。
直感で答えろと言われても、私の直感はわからないと言っているのだ。私が魔理沙だとしたらちゆりは存在しないことになるし、ちゆりだとしたら魔理沙は存在しないことになる。でも、どっちの私もはっきりとした存在感を持っていた。ここで私が答えるということは、二人のうちどちらかの人生を否定するということだ。答えろと言われて、さっとどちらかを切り捨てることなんてできない。
「……質問、いいか?」
「何?」
「その、……どっちか片方はあんたが見せていた夢だったんだよな?」
「えぇ」
「その『見せる』っていうのは、どのくらい信じていいんだ? うまく伝えにくいけど……その、普通に考えたら、どっちかっていうとちゆりなんだ。私は。だって、ちゆりの近くであんたは怪しい行動を取っていたし、ちゆりがしかけたアラームの振動を、魔理沙は日中に背中に感じ取っている。これが仮にちゆりが夢で魔理沙が現実だとしたら、ちゆりの夢は色々と罠を張っていた、ってことになるのか?」
「そうでしょうね。つまり、あなたが経験した出来事は一切あてにならないってことよ。私はその気になれば現実世界のあなたにも何らかの方法で影響を与えることができるわ。そこに具体的なヒントや手がかりなんてない」
要するに、推理はできない。あくまで直感で答えろってことか。
直感では……私は……。
い、いや。待て。
……本当に、そうだろうか?
結論を急ぐな。香霖だって言っていたじゃないか。自分で考えられる人間になってほしいって。
よく考えろ。
夢美は、経験の中に具体的なヒントはないと断言した。こんな妙な実験をやるような人間だ、何か手品のような方法で、現実世界に現実ではありえないような不思議現象を起こすことだってきっとできる。でも、だからといってわざわざ念を押すほどのことだろうか?
私の目の前にいる彼女は、間違いなく現実世界からやってきているはずだ。
その彼女が手がかりがないとわざわざ念を押すってことは……手がかりを隠そうとしてる、ってことなんじゃないか?
「考えすぎよ。早く答えて」
夢美がじれているのを肌でひしひしと感じながら、私は長い時間をかけて黙考した。
そして。
「あっ――」
夢美が隠そうとしたその瑕が、私の目の前にようやく姿を現した。
「……そういうことか……」
「どうしたの?」
「わかったんだ。私が誰なのか」
夢美は眉を寄せる。
「わかった?」
「ああ。わかったっていうか、多分……証明できると思う。私は霧雨魔理沙であって、北白川ちゆりではありえないってことが」
夢美は渋面を浮かべたまま無言で続きを促した。
「まず……多分、魔理沙もちゆりも実在しているんだと思う」
「どういうこと?」
「さっきあんたは、被験者に見せてる夢は実写映像に過ぎないって言ってたよな。ってことは、その映像の中で夢を演じていた役者がいるはずだ。私が魔理沙だとしたら、夢の中でちゆりを演じていたちゆり役の人間、こいつはどこか別の場所に実在してるんだ。ちゃんと。これはさっきあんたが言ったことから推定しただけで、そんな飛躍でもないだろ?」
「えぇ。そうね。続けて」
「ちゆり役……まぁ、こいつをちゆりって呼ぶことにするけど、ちゆりは三日間、ちゆりの生活を全部魔理沙に見せていた。心の中で思ったことまでも。同じように、夢に出演した岡崎夢美や宇佐見蓮子も多分実在している。夢美とちゆりは、私に見せる夢に現実感を与えるために、色々と小細工をした。夢美がちゆりを実験台にしているような演出とか、ちゆりが携帯端末にアラームを仕掛けて現実世界の魔理沙にその振動を伝えるとか、そんなことをだ」
「ええ、そうかもしれないわね。そして、魔理沙と森近霖之助が仕掛け人で、ちゆりに魔理沙の夢を見せている場合でも同じことが言えるでしょう」
「ああ、そうだな。私が言いたいのは、どっちかは演技だった、ってことなんだ。魔理沙もちゆりも、自分が自分であることを証明することはできない、っていう説に一度は触れていたよな。でも、演技をしている奴……つまり嘘をついている奴の嘘を見破るのは、そんなに難しいことじゃない。ただ、単なる嘘ならともかく、私が見破らないといけない嘘は、『現実では絶対に起こりえない嘘』なんだ。これはちょっと厄介だ。例え目の前で人が浮いているのを見たとしても、そんなのいくらでもトリックを用意できるだろうし、何なら本当に空を飛ぶ能力を持った人間が存在してもいい。実際、幻想郷が現実だとしたらそんな連中掃いて捨てるほどいるし。目の前で魔法が使われたとしても、それは絶対に起こりえないとは言えないわけだ。同じように、他人や自分の挙動も、嘘の証拠にはならない。人は嘘をつくし、自分自身だって心にもないことを言うこともある。でも、一つだけ、絶対に真実でなければならないことがある」
「ふぅん。何かしら」
それまで不機嫌そうな顔をしていた夢美は、初めてその顔に興味の色を現した。
「『心の声』だよ。自分で思ったことだけは絶対に確かなんだ。というか、絶対に確かでないといけない。だって心の声は本来誰にも聞こえていないんだから、そこで嘘をつく必要は全くないんだ。逆に言えば、矛盾したことを思った奴こそ、心の中までも演技をしていた、ってことになる。私は二人の三日間の生活を思い返してみたんだ。どっちもそれなりに自然に三日という時間を過ごしていた。夢を見ている側がその場では違和感を感じない程度に。でも一つだけ、思い返すとどうしても不自然な思考があった。ちゆり側にな。……ここからは若干私の想像も入るけど、でも嘘の証明には影響ないからしばらく突っ込まないでくれ。恐らく、仕掛け人ちゆりは当初、自分こそは実在し岡崎夢美に実験台にされているというシナリオを演じ切ろうと考えていた。心の声には現さなかったけどな。徐々に夢美に対して疑念を抱き、ついには夢美が実験をしているという証拠を掴む、って言う流れだ。でも、このシナリオは途中で変更された。予定外のことが起きたんだ。きっと、最初に描いていたシナリオはこんな感じだろう。二日目、ちゆりは図書館で偶然宇佐見蓮子と出会い、彼女から夢実験に関する噂を聞く。この蓮子もエキストラとして出演していた役者ってことになるな。三日目になってより一層疑念が深まったところで、ちゆりはもう一度図書館に行き、そこで再び蓮子と出会う。このとき蓮子は、岡崎夢美が実験の首謀者であるという情報をちゆりにもたらすんだ。ちゆりは自分が実験台にされていると知り、アラームを仕掛けて眠りにつく。……というのが当初の想定だったんだ。でも、実際にはちゆりが三日目に図書館に行ったとき、そこに蓮子は現れなかった。多分何か予定外のことが起きて、彼女は出演できなくなったんだ。そこでちゆりは急遽別の方法で夢実験の情報を得なければならなくなった」
今思えば、三日目のちゆりの行動は全体的に不自然だった。蓮子が図書館に再び現れるという確信もないのに日が傾くまで待ち続け、結局不発に終わり研究室に戻っている。その後彼女は突然、人には知られていない特技があるなどと言いだして、夢見のメールを読み取り始めるのだ。
「情報を得るって言っても、事はそう簡単じゃない。何しろ、夢美に気付かれないように彼女が持っている情報を盗まないといけないんだ。夢美のモニターをちらっと盗み見るようなやり方じゃ、『そんな簡単な方法で夢美が情報を漏らすわけがない』っていう不自然さを残してしまう。だから、ちゆりは自分がショルダーハックという特殊技能を持っているっていう設定を即興ででっちあげたんだ。夢美の手元が見れるような位置に鏡を置いて、そこから手元を観察し、心の中で私に対して嘘をついた。ふむ、読めるぞ、何何……なんと! 教授はやはり私を実験台にしていたのか、ってな」
「つまりあなたは」
夢美は静かに口を開く。
「ちゆりにそんなことができたはずはない、なのにメールが読み取れると心の中で嘘をついた、だからちゆりは演技をしている……そう言いたいの?」
「いいや。ここまではただの状況整理だ。夢美のタイピングを読み取ったことが嘘だとしても、読み取った内容が嘘であると証明することはできない。今のは、きっとそういう理由でちゆりは回りくどい方法を使わざるを得なかったんだろう、っていう筋道を推測しただけだ。私が証明する嘘は、ちゆりがそんな能力を持っているっていうこと自体なんだ。ちゆりはな、そんな能力を持っていたはずがないんだ。だってそうじゃないか。いいか、ちゆりがショルダーハックを習得していたとしたら、彼女はあらゆる場面で他人のタイピングを読み取ることができたんだぞ。だったらどうして二日目の図書館の受付カウンターで、司書に複写の制度を調べてもらっているときに、ちゆりはこんなことを思ったんだ。『こいつ、本当にちゃんと調べているんだろうか』って」
夢美は無表情を装っていたが、その目元がぴくりと震えたのが見て取れた。
「そう、ちゆりの三日間の中で、この心の呟きだけはどう解釈しても矛盾している。ちゆりは三日目に心の中で言ったな、今では他人のタイピングをぼんやり眺めているだけで入力している文章が読み取れるって。二日目の図書館のあの場面で、ちゆりはカウンターに座る司書と向かい合っていた。そして、ちゆりには間違いなく司書の手元が見えていた。なぜなら、ちゆりはその後の蓮子との会話でその場面を思い出して、心の中でこう呟くからだ。『そういえば、結婚指輪が彼女の左手に見えていた』……更に、制度を調べてもらっているときは『司書は私が最初にここを訪れてから一切変わらない姿勢で端末を操作し続けている』とも言っていたな。つまり、だ。ちゆりが司書の結婚指輪を確認した時、司書は確実にキーボードに手を置いていて、それがちゆりから見えていたってことは、ちゆりは司書が入力する一字一句をすべて把握できていたはずだ。それなのに、ちゆりは司書がちゃんと制度を調べていたかわからなかった……」
私は言葉を切り、夢見を見据えた。
「本当に些細なことだけど、はっきりとした矛盾だろ。だから、私はちゆりじゃない。霧雨魔理沙なんだ」
夢美は苦々しげに嘆息すると、ぶっきらぼうに答えた。
「はい、実験終了よ。お疲れ様でした。……霧雨魔理沙ちゃん」
◆
目覚めは、唐突だった。
白い部屋も赤い科学者も一瞬で消え失せ、私は気が付くと妙なにおいのするベッドの上に横たわっていた。
ええと。どこだ、ここは。
「大丈夫かい? 魔理沙」
横から、落ち着いた男性の声がする。振り向いて確認するまでもない。香霖だ。ってことは、ここは香霖堂か。そういえば、このベッドのにおいはどこか香霖を連想させる。ここは香霖の寝室なのだろう。
「ん、ええと……」
起き上がろうとしたが、ベッドの横に座る香霖に押しとどめられる。
「もう少し休んでいるといい。色々あって疲れただろう」
「……はぁ……」
ん?
色々あって?
「ちょ、ちょっと待て。え、何か。香霖は何があったか知ってるのか?」
その問いかけを言い終わる前に、
『お疲れ様、魔理沙ちゃん。それと、あなたもご苦労様。とても助かったわ』
ざらっとした声がどこからか聞こえてきた。随分潰れているが、さっきまで私と話していた岡崎夢美の声だ。
辺りを見回すと、声の発信源はすぐ近くに見つかった。昨日香霖堂の物置で見かけた箱型の機械が、ベッドテーブルの上に置いてあり、その機械の一面に岡崎夢美が映っていた。こうして見ると夢の中に出てきた情報端末とかいう機械に似ているが、夢の中のそれとは違い、この機械からはどこか古めかしい印象を受ける。
「え、っと……どういうこと?」
私は香霖の顔と夢見が映る機械を交互に見る。
『魔理沙ちゃん。さっきの最終討論であなたが仮定した実験の裏側は、ほとんど正鵠を射ている。あなたに見せる夢の映像を作るために私やちゆり、宇佐見さんはずっと演技をしていたし、予定外のことが起きた結果、焦ったちゆりがあんな無茶苦茶な設定を持ちだして整合性を保とうとした部分もその通り。ただ、一つだけ捕捉しておくわね。今回の実験では基本的にあなたへの干渉は夢の中だけに限定していたわ。だから私たちはこちらの世界からあなたの脳に夢を転送していた。けれど、どうしても幻想郷側にも協力者が必要だった。私たちは幻想郷の外にいるから、あなたの健康状態に異常があった場合にすぐに対処することができないの。それで、間近であなたを看視する役目を、そこの霖之助さんにお願いしたのよ。このテレビ――もとい外の世界との通信装置や、こちらの世界の最新の道具を報酬にね』
ああ、あれか。香霖が言っていた、近々商品が増える見込みがあるっていうのは、夢見から協力の報酬としてもらえる道具のことを言っていたのか。
……ん? ってことは。
「要するに香霖は、道具欲しさに私を売ったってことか? 私が変な実験に巻き込まれてるのを黙って見過ごす代わりに、店の商品を充実させる……」
「そんな人聞きの悪い言い方をしないでくれ」
香霖は憮然として否定する。
「魔理沙に悪影響があるような気配があったらすぐに実験を中止するという条件だったし、それに君の成長にも役立つんじゃないかと思ったんだ」
「素直に珍しい商品がほしかったって言えばいいのに。……あっ、それじゃあれか! ちゆりが仕掛けた目覚ましの振動を私が感じたのも、あれってお前の仕業だったんじゃないのか?」
夢美は夢の中にしか干渉しないという。となると、あのとき私の背中に振動を感じさせたのは幻想郷にいる誰かの仕業ってことになる。そうだ、思い返せば、あの時私は香霖に背を向けていた。
「その程度の協力は求められていたからね。ただ、実際に僕がやったことと言えば君の背中をくすぐっただけだ。ちょっとした悪戯だよ」
悪びれもせずにそう宣う。自分は悪くないモードに入ったこいつは極めて頑固だ。でもこれは見過ごせない。
「な、何がちょっとした悪戯だ! あれで私は確信したんだぞ、これが夢だって。これってつまり、お前は怪しげな連中と結託して私を陥れようとしたってことだろ!」
むっ、と香霖の眉が寄る。さすがの香霖も機嫌を損ねたらしい。
「陥れるとは言葉が過ぎるぞ。極言すれば、僕の悪戯を君が勝手に解釈したまでの話だ。勝手に解釈して勝手に人の膝の上に乗り、それから君は何と言ったかな?」
「ちょっ……ちょっと、お、お前、そんな……ひっ」
卑怯だぞ、と言おうとしたのだが、それ以上は言葉にはならなかった。なんだこいつ、普通この場面でそれを持ちだすか?
私が何も言えなくなってしまったところへ、
『ちょっといいかしら』
夢美の声が強引に割って入ってくる。
『とにかく、これ以上こちらからはあなたたちに干渉することはないから、そこは安心してね。それじゃ、報酬は後で転送しておくから。お疲れ様でした』
それだけ言い残すと、ぷつんと機械は沈黙した。夢美の像も消え、機械はただの古めいた箱に戻る。
気まずい沈黙が香霖の寝室に訪れる。私は、怒りと恥ずかしさと、その他ありとあらゆる感情がごちゃまぜになったような心持のまま、香霖のベッドの上にうずくまっていた。
「ええと……じゃ、じゃあ私は帰る、ぜ」
「ああ、今日はゆっくり眠るといい」
「……なぁ、香霖」
「ん? 何だい」
私は布団の上をそろそろと滑るように移動し、極力彼に顔を見られないようにしながらベッドを下りた。床に並べられていた私の靴を履き、机の上の帽子を手に取る。
「一つ提案なんだけど……」
「ああ」
「何ていうか……そう、あれだ。夢美とかいうよくわからん外の人間が、私に変な悪戯をした。つまり、それだけの話、だよな?」
「そうだね」
火照る顔を帽子で隠しながら、私はゆっくり部屋の出口まで向かう。
「だから、本来幻想郷の中で起こるはずがなかった案件ってことで……今回のことは、なかったことにしたいんだが」
「つまり、水に流してほしい、って?」
「水に流すというか、忘れてほしいというか……」
香霖は何も答えない。私もこれ以上言うことが見つからず、その場に立ち止まってしまう。
何もなかったことになんてできない。でも、今はとにかく忘れてほしかった。仮に何もなかったことにしたとして、私は明日、普通に香霖と顔を合わせることができるだろうか。
帽子の陰からそっと香霖の方を覗くと、香霖は箱型の機械を不思議そうにいじっていた。私のことなんて頓着していない様子だ。その姿が腹立たしくて、どこか悔しくて……。
私は部屋の戸口に突っ立って、彼に吐きかける捨て台詞を探し続けた。
◆◆◆
「……何? これ」
画面に映し出された魔理沙と霖之助の腹立つやり取りを見ながら、ぼそりと教授が呟いた。
気まずくも甘酸っぱい香霖堂の空気とは対照的に、我らが岡崎研究室は疲労感に包まれていた。
「何って言われても。教授のおかげで、魔理沙と霖之助の仲が一歩前進したかな、とかそういう終わり方なんじゃないの」
「また適当なことを言うわね」
「だって興味ないし」
教授は椅子の背もたれに体重を預けてのけぞり、はぁぁぁっと深いため息をついた。
「まったく……我ながらひどい実験だったわ」
「そうだな」
「そうだなって、あなたも少しは反省しなさいよ。あんなミスをするなんて。宇佐見さんが来られないなら、メールなり手紙なりを彼女から受け取って、そこで私が黒幕だと知ったことにすればよかったじゃない」
「仕方ないだろ、あそこ全部アドリブだったんだから」
大体、最初から私は乗り気じゃなかったんだ。今回の実験には。
そもそも今回の実験の発端は宇佐見さんにあった。彼女が夢についてあれこれ調べているというのは本当で、その関係で岡崎研に話を聞きに来たのが一週間ほど前。初めのうちは夢に関する知見をあれこれ教授と交換していたのだが、議論は次第に紛糾し、「夢と現実の関係性」について宇佐見さんと教授の間で意見がはっきり分かれた。夢と現実は本質的に同等なものであるとする宇佐見さんに対し、教授はその間には次元の差ほどの違いがあると主張した。その議論が心理学的な見地に基づくものなのか脳科学的なものなのか、あるいは完全なオカルトなのかも私にはよくわからなかったが、気が付けば実験で確かめてみようという話が二人の間でまとまっていた。なるほど、夢を使った洗脳というのは多少面白そうではある。実際にその実験をするのが私でなければ。こちとら本当に教授の代理発表の準備で立て込んでいたというのに、迷惑極まりない話だ。
実験対象になったのは幻想郷という別世界に暮らす少女、霧雨魔理沙。教授は特殊な装置を使って魔理沙の夢に映像を転送する仕組みを開発した。ここ最近の教授は、幻想郷の住人に対し様々な実験をすることに躊躇がなくなってきている。私としては、幻想郷が本当に実在するものか、どこかのスパコンがシミュレートした仮想世界なのかもわかっていないし、それについては深く踏み込んで考えない方がいい、という立場を固めつつある。
魔理沙に見せる夢は、私が帽子につけた小型カメラから撮影した私の一日に、後から心の声をアフレコした映像だった。映像として見るとちゃちな低予算映画のようだったが、夢の中で体験する分にはこの程度のクオリティで十分らしい。ちなみに、夢のシナリオを書いたのは教授だ。いもしない初恋相手の従兄などは全て教授の創作だった。魔理沙に見せる夢の中では、北白河ちゆりは憧れる世界を夢に見させられているという設定だったため、ちゆりの乙女な一面の演出がなされたが、演じる本人としては溜まったものじゃない。私は半ばうんざりしながら、私らしくない私の芝居を続けていた。
とはいえ実験の経過は好調で、霧雨魔理沙は夜ごと転送されてくる私の夢に混乱させられているようだった。シナリオが狂いだしたのは三日目。後から聞いたのだが、宇佐見さんは二日目の晩に友人と例のサークル活動で肝試しに行っており、その友人が事故で怪我をして入院することになったらしい。入院するほどの怪我だ、こちらに手が回らなかったのも理解できるが、困ったのはすっぽかされた私の方だ。夢の映像は後から編集するのもコスト的に限度があったため、私は即興でシナリオを変更し何とか演じ切った。この辺りの経緯は魔理沙が予想した通りだ。
「それで、宇佐見さんにはどう報告するんだ?」
「あなたのせいで実験は中止になりました、でいいでしょう」
教授は投げやりに言い放つ。宇佐見さんの無断欠席や私の不手際は教授を大いに苛立たせたらしい。
「まぁ教授が怒るのもわかるけどさ。折角観察記録もとったんだし、せめてポストモーテムくらいやろうぜ」
「必要ないわ。色々と不手際の多い実験だったけど、それ以上にこの実験はもう意味がないのよ。元々これは、被験者に夢を現実であると錯覚させる実験でしょう。ということは、魔理沙が積極的に現実を『これは夢だ』と思い込もうとした時点で、それ以降のデータは意味をなさなくなる。被験者の思考に余計なバイアスがかかっているわけだから」
「思い込もうとした?」
「見てて気づかなかった? 魔理沙は三日目、アラームの振動を背中に感じた時点でこう考えたのよ。『私がちゆりの見た夢だったら、いっそ香霖に告白してもいいかな。どうせ夢なんだし』って」
「あぁ……」
確かにいきなり魔理沙が積極的になっておやと思ったが、あの唐突なギアチェンジはそういうことだったのか。
今、画面の中の香霖の寝室では、魔理沙と霖之助が気まずい沈黙を守り続けていた。やがて魔理沙は何も言わずにばたんと戸を閉め、走り去っていった。残された霖之助はというと、どさりとベッドに倒れこみ、深く息を吐いた。霖之助が今どんな気持ちかは私にはわからないが、それを考えるのは魔理沙の役目だ、という気もする。
今思うと、魔理沙が霖之助に淡い恋心を抱いていることは最初からわかっていたのだから、魔理沙が「夢であることをあてにする」という今回の展開は予想できてもいいはずだった。けれど私も教授も、実験が始まるまでは魔理沙の心情がそんな方向へ流れるなんて思ってもみなかった。私たち人間にとって、自分の存在というのはいつも絶対に確かでなければならない。そう思い込んでいたから。
自我を持って生きる人間の大前提に、こんな例外があるなんて。
うん、なるほど。
確かに、人の心は謎に満ちている。
我らが岡崎教授は、肩書き的には物理学の研究者だ。しかし優秀な学者の多くがそうであるように、彼女は他分野の学問についても豊富な知識と素養を持っている。こと心理学や認知科学については、それを専門にすればよかったのにというほどの興味を抱いているようだ。彼女曰く、世界の真理というものがもしあるのなら、その半分は物理学で、もう半分は人間心理の文脈を用いて解釈されるはずだ、とか何とか。
一方でこの私は、正直言ってそっちの方面――所謂人文科学に対しては一歩引いた視点しか持っていない。物理や数学のように、厳然たる自然の摂理を追い求めるのならともかく、人の心なんてそもそもわかりっこない、と思えてならないのだ。聞けば、自由意志というものが錯覚かどうかすら未だ解き明かされていないというじゃないか。それをして謎に包まれていると言われても、答えがあるのかもわからない暗闇に立ち向かおうとするなんて、想像するだに途方に暮れてしまう。
けれどそんな私にも、心のありようについて思いを巡らせることがある。
それは主に、夜に見た夢について思い返すときだ。
日頃、心から何かを欲したり願ったりしているときに、それが夢の中にまで出てきたときなどは、朝起きてからため息をつきたくなる。
私の心は、私が思っている以上に単純な構造をしているのではないか、と。
『恋をする蝶』
「あれ、どうしたの? ちゆり」
その朝、岡崎研究室に入ってきた私の顔を見て、教授は開口一番にそう尋ねた。
「顔色が優れないようだけど」
「そう? 寝不足かなぁ」
適当に受け答えをしつつ、私は気だるい体を引きずってどうにか自分の机にたどり着く。
「結局、昨日は日付変わるまで作業してたからなぁ」
「あなたにしては随分熱心ね」
「ご主人様ほどでもないよ」
そうだ、教授は意外なほど勤勉であることを私は最近再認識したのだ。それこそ私なんか及びもつかないほどに。
近々、物理学会が催される。学会自体は私も何度も足を運んでいるが、今回は事情が違う。我が岡崎研究室が久しぶりに学会で発表をすることになったのだ。
これに関する経緯は色々と複雑だ。まず第一に、岡崎夢見教授はそのオカルトまがいの研究内容によって一度学会を追放されている。追放と言っても書面で出禁を喰らっているわけではなく、教授に言わせれば「顔を出せるような雰囲気じゃない」という感じらしい。
だが最近の学会の方向性に教授は疑問を抱き始めていたらしい。連中は進むべき道を誤り始めている、一度我々が出向いて認識を正してやらなければ、と突然言い出したのが先月末。それからというもの、発表内容を準備するために岡崎研は俄然忙しくなったのだ。というか、主に私が。
「大体、誰のために私がこんな身を粉にして頑張ってるかって話だ。家にも帰らないでさ」
「やらせてくれって言いだしたのはあなたでしょう?」
ぶつくさ言う私に、教授はにべもなくそう言う。
「そうだっけ? ああもう、黙っていればよかったなぁ」
そう、今回発表をするのはこの私なのだ。
どういう話の流れでそう決まったのかはあまり覚えていない。学会には教授と因縁のある研究者が顔を揃えるため、本人が発表すると絶対に不公平な基準で受け取られるから、助手である私に発表させるべき、と言い出したのが教授だったのは確かだ。私は私で柄にもなくやる気を出してしまい、遂には昨日から研究室に泊まり込む羽目になった。
「そういえば、仮眠室の寝心地はどうだった? あそこに泊まるの、初めてだったわよね?」
「ん? あぁ、思ったより普通だったな。もっと劣悪な環境を覚悟してたんだけど」
この研究室の隣には、四畳ほどの仮眠室がある。名目上は物置なのだが、こういうときのために数日間は大学内で寝泊まりできるように寝具が整えてあるのだ。
「でも、うーん……」
「何? 問題でもあった?」
「いや、おかげさまで睡眠時間は確保できたんだけど、どうも夢見が悪くってさ」
「その言い回しはややこしいからやめなさい。というか、わざと言ってるの?」
岡崎“夢美”教授は、こういう言葉の事故をいちいち拾ってくる面倒な性格の人間だった。
「気にするなよ。……何かなぁ、変な夢を見たような気がするんだけど、どうにも思い出せないんだ。何となく、結構長い夢だったような……それで、いまいち眠った気がしないんだよ」
「ふぅん。かわいそうにね」
人の夢など知ったことかと言わんばかりの顔を浮かべる教授。
私は端末を立ち上げてから洗面室へ顔を洗いに行った。冷水を思いっきり顔に浴びせるが、今一つしゃきっとしない。
戻ってきてメールをチェックする。私は研究関係のメールも私信も全て同じアドレスへ届くように設定しているため、メールボックスは十通以上の新着メールで埋め尽くされている。目をこすりながら件名を流し読みしていると
「ん?」
珍しいことに、母親からメールが届いているのを見つけた。今朝早く送られてきたものらしい。
最近元気にしてる、と親元を離れて働く娘へのお決まりの文面の下に、ちゆりにも一応知らせておこうと思うんだけど、と本題が続いている。ええと、何何……。
「何それ、お母さんから?」
いつの間にやら私の背後に回っていた教授が画面を覗き込みながら言った。
「あぁ。まぁ大した用じゃないみたいだけど。従兄が今度結婚することになったとかで。地元で結婚式をやるから、できれば出席して欲しいってさ」
「へぇ。ちゆりにも親戚とかいたのね」
「そりゃいるだろ、私を何だと思ってるんだよ。まぁ、あんまり身内の話はしてなかったけどさ」
教授に話したかどうかは忘れたが、私の実家は広島で代々造船会社を経営している。今度嫁をもらう従兄というのもうちの系列会社で働いているため、きっとその結婚は社をあげての挙式となるだろう。
「で、それっていつの話?」
「学会の後だよ。来月」
「そう。広島に戻るのなら、二日か三日は大学を休むのよね?」
「え? あ、うーん、……そうなるなかなぁ。そうだよなぁ」
「何、もしかして出たくないの?」
「まぁ、出ろって言われたらやぶさかじゃないけどさ。ただ学会の直後で疲れてるだろうし、どうかな……。その従兄とももう数年会ってないし、披露宴とかだるいし、もう祝電だけでいいかなって」
「こういう儀式はね、ちゆり。人にとって一つの義務なのよ。疲れてるからとかそういう問題じゃなくて、とにかく出席してきなさい」
まるで常識人のようなことを口にする教授だったが、そう言われても気乗りしないものは気乗りしない。
「まぁ、言ってもまだ先の話だし、休みをとるにしてもまた近くなったら相談するよ」
「休みならいつでも取れるわよ。これが終わったらしばらくあなたにやってもらいたい仕事はないし」
ほう。なんてやる気を削ぐ言葉だろう。誰の代理をやってあげてると思ってるんだ。それにしてもこの大学教授、つくづく人の指導には向いていない。現在この研究室に所属しているのが私だけという時点でそれは実証されている。
私はため息混じりにメールチェックを終え、今日の作業にとりかかる。発表内容に見落としがないか、方々から取り寄せた論文を読み、内容を突き合わせるのだ。
「ちゆり、そっちはあとどのくらいで終わりそう?」
山のように本が積まれた教授の机(という名の物置)から教授が声をかけてくる。
「どうかな、正直あんまり進みは良くない」
「そう。それが済んだら後で一回ディスカッションしましょう」
「へーい」
などと軽妙に返事をして見せるが、実を言うとあまり気乗りがしない。目の前の画面に浮かんだ英字の並びにどうも集中できない。
はぁ、と小さくため息をつく。
……やっぱり私は、さっきのメールが気になっているようだ。
身内の結婚を祝う気持ちがないわけではない。けれど、今私の心の大半を占めているのは、それ以外の感情だ。
母の姉の息子であるその従兄は、一人っ子の私にとっては兄のような存在だった。家が近かったため、私はよく彼の家に遊びに行った。私よりも十歳近く年上の彼は、幼い私の面倒をよく見てくれた。柔らかな物腰の人で、博識で、話の上手い人だった。そんな彼に対して私は、幼心に淡い憧れを抱いていた。人並みには女の子らしいところもあった(自分で言うと失笑物だが)私は、なんとなく心のどこかで、将来私はこういう人と結婚するのかなぁ、などと考えていた。いや、違うか。何だかんだ言ってこの人と結婚するんじゃないかと、小学校低学年に相応しい幼稚な想像を膨らませていたんだ、この私は。
もしかしたら、あれが私の初恋だったのかもしれない、と今になって思う。あの当時は、そうはっきりと意識してはいなかったけれど。
もっとも、それが単なる憧れか恋心かに関わらず、私の頭の中から彼の存在はすぐに居場所を失ってしまった。よりレベルの高い学校へ進学するために地元を離れてからは、親戚一同とは正月やお盆に会うだけだった。彼と個人的に連絡を取り合うこともなく、大学に入ってからは更に疎遠になっていた。
今になって急にその存在を想起させられると、自分の中で彼の存在を処理できていなかったことに気づく。
「あーあ」
背もたれに体重を預けて仰け反る。まったく、今日は気分が乗らない。
そうか、そうだよなぁ。私が学問に打ち込んでいる間にも、他人にはその人の時間が流れていたんだ、私とは無関係に。当たり前だ。そりゃあ結婚くらいするさ。
「何かわからないところでもあった?」
と、教授が顔も上げずに聞いてくる。
「別に」
気分を変えよう。私はそう思って席を立ち、再び洗面所に行った。冷水で顔を洗い、まだ残っていた夢見心地をしっかりと拭い去る。
ふと洗面台の鏡を見る。そこには、齢の割にくたびれた表情をした十五歳の少女が映っている。私って、こんなに疲れた顔をしていたっけ。
……自身の境遇を振り返ると、目の前にはまだまだ勉強しなければならないことが山のように残されている。私がそれを学んでいる間にも、学問の最先端はどんどん前へと進んでしまうのだ。そして私は、世界の真理に追いつくために自分の人生を費やし続ける。
そうやって多くの時間を費やして、私は一体どこへ行こうとしているのだろう。
……おいおい、そんな話にまで発展させるつもりか。たかだか親戚一人が結婚したくらいで。
しっかりしてくれよ、私。
◆
「という夢を見たんだ。なぁ香霖、どう思う?」
「それは何とも変わった夢だね、魔理沙」
「んなこたぁわかってるんだよ。だいたい夢ってのは、普通は何かしら自分の経験とか記憶とかから作り出されるもんだろ。それが何だ昨日のは。変な実験室に妙な学者が出てくる夢、しかも主人公は私じゃなくて見ず知らずの『ちゆり』とかいう変な女の子ときた。こんな連中、見たことも聞いたこともないぜ。本当、なんだってあんな夢を見たんだろ。……なぁ、そこんところ、お前はどう思うかって聞いてるんだ」
「変わった夢だと思う、と答えたはずだよ」
香霖――森近霖之助は等閑にそう答える。彼は店の奥にある彼の定位置に座って、いつものように卓上燈の灯りで本を読んでいる。先ほどから私の話に相槌は打つが、こちらを見ることはない。
「ったく、ちゃんと私の話を聞いてるのかよ……。それにさ、その夢ってのが、何だか妙にリアルだったんだ。 勿論、今思うと夢に違いないんだけど、こう、見ている間は地に足がついてたっていうか、夢って感じが全然しなかったというか」
「普通、夢見っていうのはそういうものじゃないか」
「そう言われたらそうなんだけど、どうもいつもの感じと違ったっていうか……。なーんか気になるんだよなぁ、たかが夢って言ったらそれまでなんだけど」
「それもよくあることだろう。僕も年に一度くらい、不思議と強い印象を残す夢を見ることがあるよ。だが結局、夢は夢だ。夢の中で僕の天下がやってきてこの世の贅を味わい尽くしたとしても、目が覚めてしまえば何の意味もない……」
「お前、やっぱり私の話ちゃんと聞いてないだろ」
まぁ私も本気で相談しに来てるわけじゃない。大方、最近読んでいる外来の学術書の内容を元に、頭の中で勝手に作り出された「外の世界の学者ってこんな感じ」像が夢に出てきただけなんだろう。
最近の私の生活は起伏に乏しくて、私から彼に振れる話題はこの程度のものしかなかった。それでも話すことがあるだけましだ。ここへ来る口実があるだけ。
「そういえば、人から聞いた話では、外の世界では夢と深層意識の関わりについて研究する学問があるそうだ」
香霖はふと思い出したようにそう言った。相変わらず視線は本に注がれているが、先ほどから頁をめくる手が止まっているのを見ると、一応は私の話の方に集中してくれているらしい。
「夢の内容から心理状態を分析する手法が、ある程度は確立されているらしい。こういう夢を見るときは、こういう方面の悩みを抱えている、というようにね」
「へーぇ。じゃぁ変な学者と助手の夢を見るときは、どんな悩みを抱えてるんだ?」
「さてね。鈴奈庵にでも行けば、詳しい本が見つかるかもしれないが。行って来たらどうだい」
「あの貸本屋にか? あそこって郷のど真ん中だろ。ちょっと行きづらいなぁ……」
「ほう。どうしてだい?」
「だって知り合いに会うかもしれないだろ、郷に行ったら」
知り合いというのは、私の実家の関係者という意味だ。半ば喧嘩別れのような形で家を出、森の奥の掘っ建て小屋で一人暮らしをしている身としては、街角でばったり身内と会う、なんて事態はできれば避けたい。特に親父は、お互いのためにもしばらくは会わないほうがいいだろう。きっと、まだ私のことを怒っている。何しろ、私が啖呵を切って家を飛び出してから、まだ一年も経っていないのだ。
「なるほどね。しかし、魔理沙にしては気弱なことを言うなぁ」
香霖はからかうような口調でそう言った。彼にとっては、私の家出劇はいい見世物なのかもしれない。
香霖は元々、私の父親の弟子だった人物だ。私の実家がやっている道具屋に勤め、商売の修行をしていたらしい。伝聞形なのは、私が生まれる前に彼は独り立ちし、自分の店――香霖堂を開いていたからだ。独立した後もうちの店には恩義を感じているらしく、彼は度々私の実家に顔を見せていた。当然、店の一人娘である私のことも、昔からよく知っている。
話の接ぎ穂を見失った私は、何とはなしに香霖堂の店内を歩き回る。道具屋とは名ばかりで、香霖は拾ってきたがらくたを無造作に並べ、それを売り物と言い張っているだけだった。私はここへほぼ毎日来ているが、物が売れているところを見たことは一度もない。一体こいつは親父から何を学んでいたんだろう。
「……あのさ、前から聞きたかったんだけど」
「何だい?」
私は、できるだけ何気ない風を装いながら尋ねる。
「香霖って、どっちの味方なんだ?」
「君か、君のお父さんか、ってことかい?」
「ああ」
家を飛び出した私に、香霖はできるかぎり協力すると約束してくれた。実際、今私が住んでいる森の奥の家は香霖が見つけてきてくれた物件だし(さすがにぼろすぎて、目下改築作業中なのだが)、今の私の生活を支える様々なアイテムを作ってくれたのも彼だ。
その一方で、彼は私の親父には逆らえないはずだ。私の援助をやめろと父に命じられれば、彼は素直に従うだろう。実際のところ、香霖の援助がなければ私はのたれ死ぬかもしれない。
「味方、と言われてもね」
香霖は本を閉じ、初めて私の方を見た。
「僕はどちらかに偏重して肩入れしているわけじゃない。君と親父さんが殺し合いを始めたら、僕は離れたところでお茶でも飲みながら見物しているよ」
「いや、止めに入れよ」
「僕は何せひ弱だからな。そんな大それたことはとてもとても。まぁともかく、今はそこまでの事態になっていないから、親父さんにはかつての師匠として、君には友人として、ごく当たり前の接し方をするだけさ」
「友人? 私が?」
「あぁ。それ以外に言いようがあるかい?」
「いやまぁ……いいんだけど」
友人。香霖は私の友人なのか。というか、私のことをそう思っていたのか。
そうはっきり関係性を断定されてしまうと、何というか……妙に胸の辺りがむず痒い。
私はふと足を止める。店の一角に、古びた姿見が置いてあった。汚れでやや曇った鏡面の向こう側に、魔女のような格好をした十二歳の少女が佇んでいる。手間暇かけて裁縫したこの服だが、我ながら着こなしているとは言い難く、未だにどこかぎこちない。
ちらりと香霖の方を見やる。本の頁をめくっているのを見ると、また読書に集中し出したらしい。
私は姿見の前でスカートの裾をつまみ、鏡の中の自分に軽く会釈をする。しかし何だか物足りない。頭の中の自分の理想像に、今の自分はまだまだ遠い。ならばと、片足を軸にくるりと体を一回転させる。スカートの裾がふわりと広がり、背中のリボンが揺れ、
「ぶっ」
と背後で香霖が吹き出した。
慌てて振り返ると、香霖はいつの間にかこちらへ向けていた顔を本で覆った。だが次第にその肩が震え出す。こいつ……。
「なっ、何だよっ、何がおかしいんだ!」
「いや、悪い。何もおかしくなんかないさ」
そう弁解する声からは、必死に笑いを堪えているのがひしひしと伝わってくる。
私は顔が猛烈に熱くなるのを感じながら、箒と帽子を手に取ると
「も、もう帰るぜ、じゃあな!」
店の扉を勢い良く開いた。
「あぁ、それと魔理沙」
背後から香霖が思い出したように言う。
「鏡の前でポーズを取る時は笑ったほうがいい。その服は笑顔に合わせた服なんだろう?」
「はいはい」
と雑に返事をして扉を閉め、はたと立ち止まる。
そうか、私、さっき笑ってなかったのか。
◆
「っていう夢だったんだけど」
「え? 終わり?」
「あぁ。それでその店を出てまっすぐ家に帰って、ご飯食べて寝て、それでおしまい」
私がその奇妙な夢の顛末を話し終えると、岡崎教授は何とも煮え切らない顔を浮かべた。
「中途半端な夢ね。何かしらオチはないの? その香霖とかいう優男があなたを騙して実家に強制連行、みたいな展開は?」
「ない」
「あなたを無理矢理手篭めにしたりは?」
「ねぇよ」
何それ、と教授は不満をこぼす。
「そんな平凡な夢、あえて話すほどのものじゃないじゃない。どうせあれでしょう、ここ最近研究室に缶詰めになってるもんだから、心がストレスに耐えかねて少女漫画みたいな世界に無意識に逃避しただけでしょう」
「……まぁ、大体間違ってないと思うけど」
「つまるところそれだけの話を、今あなたは五分もかけて私に語ったのよ。いいこと、ちゆり。よく覚えておきなさい。一般に、自分が見た夢の話ほど聞き手の興味を削ぐ話題はないのよ。何しろ、どんな話であれそれは現実じゃないんだから。それでも耳を傾ける価値があるのは、せいぜい予知夢みたいなオカルト要素が含まれているか、あるいは想像を絶するほどよくできた物語性を備えた夢に限るわ。それ以外は、話すのも聞くのも時間の無駄でしかない」
教授は一気にそうまくしたてた。なるほど夢という字を名前に持つだけあって、夢の話に関しては一家言あるようだ。
「いや確かに内容は平凡だけどさ、とにかくすっごいリアルだったんだよ。なんて言うかな、そう、丸一日分の夢だったんだ。普通、夢って場面場面が断片的に再生されるだろ。でも昨日のは、私――まぁ夢の中では霧雨魔理沙って名前なんだけど、その魔理沙が朝起きて、朝ごはんを食べて、住んでる荒屋の改築作業を進めて、午後は香霖堂に行って、店主と駄弁って、家に帰って飯食って寝てた。タイトルをつけるなら、霧雨魔理沙の平凡な一日、って感じでさ。まるで夜の間に一日余分に生きたみたいな感覚で、正直、寝た気がしないんだよ。勿論、今思うと夢に違いないんだけど」
私は昨日に引き続き大学で夜を過ごしたのだが、今朝の寝起きは昨日よりも更に悪かった。目覚めた後も仮眠室の寝台の上でぼんやりと寝転がり続け、ようやく布団から這い出した時には既に午前九時を回っていた。のそのそと仮眠室から這い出してきた私を見た教授はぎょっとして、酷い顔色だが大丈夫かと真面目に心配してくれた。まぁ不調の原因がただの夢だとわかるとその態度は一変したのだが。
「ふぅん……。でも、夢の中の霧雨魔理沙が、その前の晩にちゆりを夢に見ていたっていうのは少し興味深いわね。ねじれた構造になっていて」
そう、最も奇妙なのはそこなのだ。夢の中で魔理沙は香霖にこう話す。昨晩、北白河ちゆりという人物になった夢を見た、と。夢の中では、ちゆり――すなわち私こそが魔理沙が見た夢である、ということになっていたのだ。
「なんだか中国の故事みたいね」
「故事?……あぁ、あれか、胡蝶の夢ってやつか? 自分は夢の中で蝶になってひらひら飛んでたけど、もしかしたら今こうして話している自分こそ、その蝶が見た夢なのかもしれない、っていう。何か、あれだよな、昔の偉い人の哲学的なやつ」
「荘子よ。つまりちゆりは、霧雨魔理沙の夢の中でのアバターなのかもしれない、ってことね。それだと今こうしてあなたと話をしている私は何なんだって話になるけど」
「ん、んん……? なんだか気持ちの悪い話だな。夢と現実がごっちゃになるなんて」
「それは少し違うわね。あの話は、夢と現実が綯交ぜになるという状態のことを言っているのではなくて、夢と現実が完全に分かたれたものだとしても、今の自分が現実にいるのか夢の中にいるのか区別することはできない、ということを説いているのよ。少なくともシミュレーション仮説の文脈で胡蝶の夢が引用されるときはね。『私』という存在が、途方もなく高性能なコンピュータがシミュレートした仮想現実の登場人物ではないことを証明することができないように、『私』が誰かの見た夢の登場人物でないことを証明することもまたできない」
「え、そうか? 夢かどうかはまた別なんじゃ」
さしあたって、今自分が夢を見ているという感覚はない。机の下で腿をつねってみたが、力を入れすぎてしまい、「いてっ」と声が出るほど普通に痛かった。顔を上げると、教授が呆れ顔で私を見ている。
「そんな、漫画じゃあるまいし」
「これ以上簡単に夢かどうか確かめる方法はないだろ」
「馬鹿言ってないで、さっさと作業にとりかかりなさい」
教授はあっさりと話題を切り上げた。どうやら真面目に議論していたわけではないらしい。
「はいはい」
仕方なく端末の画面に向かい合い、昨日読みかけていた論文ファイルを開く。じっと文面と向き合うが、英文と数式の羅列がなかなか頭に入ってこない。まだ頭が目覚め切っていないようだ。雑貨が山積みになった机の向こうからは、教授のタイピング音が断続的に聞こえてくる。時折混じるため息や内容の聴きとれない独り言に、私の思考が少しずつ乱されていく。
それでも何とか読み進めていると、不意に椅子を引く音がした。見ると、教授は自分の端末を持って立ち上がり、仮眠室の方へ向かっていく。
「あれ、寝るのか?」
「まさか。あなたじゃないんだから。ちょっと集中してやりたい作業があるの。しばらくこっちにこもるから、邪魔しないように」
「はぁ」
邪魔はしないが、そんな何もない部屋で何をするんだろう。気になりはしたが、私が疑問をさしはさむよりも前に教授は仮眠室の中へ消えた。私一人だけとなった研究室は一段と静かになる。
引き続き自分の作業に向き合うも、静かになったらなったで集中できない。自分では論文を読んでいるつもりが、気が付くと全然別のことを考えている。調子が出ないときはいつもこうだ。脳裏に巣食ったノイズの方にばかり気を取られてしまう。
今回のノイズは、昨日見たあの妙にリアルな夢のことだった。
夢の中で、私は幼い女の子になっていた。幼いといっても、家出して一人暮らしをするほどの行動力の持ち主だ。結局家出の理由はよくわからなかったが、これからもずっと一人で生きていく覚悟を決めているように見えた。いや、それは少し違うか。彼女の隣には頼りになりそうな(そうでもなさそうな)青年がいて、彼女の生活を実質的に支えているようだった。
独り立ちした幼い少女と、彼女を温かく見守る青年。鄙びた道具屋で繰り返される、二人の穏やかな日常風景。
――昔から、私は日中に考えていることをすぐに夢に見る。何かを心から欲してやまないときなど、夢の中でそれを手に入れ、目が覚めて落胆するという経験が何度もある。精神分析学には疎いが、夢の内容から精神状態を分析するという有名な手法は、経験的にもまあまあ妥当そうに思われる。
けれどそうなってくると、あの子――霧雨魔理沙は私の理想像ということになるのか。家にも帰らず大学に篭る日々を送る私でも、心の底ではあんな少女漫画漫画した女の子になりたいと願っていて……。
いや、うーん。
何だろう。理屈の上では妥当でも、それを認めるのは癪だ。
私は好きでこの生活をやってるんだ。教授にこき使われて嫌になることがあっても、研究が好きであることは間違いない。多分。今回のことだって、教授の代理とはいえ学会での研究発表は大仕事だ。私の今後にとって重要なステップになるのは間違いない。
私は端末をスリープ状態にし、鞄を持って席を立った。
環境を変えて、気分を一新しよう。何も研究室でなければできない作業でもないし。
部屋の壁のホワイトボードに「図書館に行ってきます」と書置きを残しながら、ふと思考が先ほどの地点へと揺り戻る。夢の中で、魔理沙の近くにいた青年の顔を思い浮かべる。私の理想像があの世界だとしたら、私はああいう人に近くにいてほしいと思っているのか。彼の顔が、近く結婚するという従兄の顔と重なって……。
……あぁ、やっぱり不愉快な夢だ。
私は頭を振ってその考えを追い払い、研究室を後にした。
「ですから、そのような規則になっておりますので」
若い女性司書はこちらを見ることもせず、事務的な声色でそう言った。
「いや、規則って言われても困るんですよ。こっちだって……」
私は思わず声を荒げてしまったことに気がつき、言葉を切った。図書館で騒ぐのは厳禁だ。利用者の大半が学生で、面倒ごとを起こせばすぐに担当教官まで苦情が伝わる大学図書館であればなおのこと。
「大体ですね、確かこの前はそんなこと言われませんでしたよ。論文集を読みたいって言ったら、全ページそのままコピーしてもらえた記憶があります」
周囲に気遣って声量は抑えるが、どうしても苛立ちが表に出てしまう。
場所を図書館に移して気分を変えたところで、発表内容と関連のある博士論文があるらしいという情報を私は思い出した。図書館で探したところ、その論文は蔵書外の論文集にしかないということがわかり、図書館職員にその論文集のコピーを頼んだのだが、私の勢いはそこでストップがかかった。
「数年前に著作権法が改正されまして、著作物の複製はできなくなりました」
受付カウンターの向こうに座る司書の女性は、相変わらずモニターの画面を見続けながら言った。その愛想のない態度がさっきから私の苛立ちを助長しているわけだが、彼女は自覚しているのだろうか。
「え? じゃあ、もう資料はコピーできないんですか? 貸し出し禁止の本はここで読むしかないってこと?」
「いえ、著作の一部分であれば印刷してお渡しできます」
「一部分……あぁ、読みたいところだけコピーしてもらえるってことですか?」
「はい」
「それならそれをお願いします。さっき言った博士論文集の」
「どの章をコピーされますか?」
「え?……いや、それは見てみないとわからないけど。あ、目録は見れないんですか?」
「目録も著作の一部ですので、お見せすることはいたしかねます。目録を閲覧されるのでしたら、その部分を印刷してお渡しいたしましょうか」
「はぁ?」
また声のボリュームが上がりつつあったが、周囲に気を使う余裕は既になかった。
「あのー……それじゃ、何ですか、一部分ってのは一生に一部分しかコピーできないんですか? それとも期限でもあるんですか? 明日また来たら別の章もコピーしてもらえるんですか?」
私の詰問に、司書はカタカタと端末を操作しながら、
「わかりません」
いけしゃあしゃあとそう宣った。
もしかして私は今舐められているのだろうか。温厚な私とて五年に一度くらいは本気で怒ることがあるんだぞ。今鏡を覗いたら、私の額に青筋が浮かんでいるのが見えただろう。
「じ……じゃあ、調べてください、そこのところ」
「承知いたしました。少々お待ちください」
そして受付カウンターに沈黙が舞い降りた。司書は私が最初にここを訪れてから一切変わらない姿勢で端末を操作し続けている。こいつ、本当にちゃんと調べているんだろうか。
と、そこへ。
「あの、北白河さんですよね?」
不意に背後から名を呼ばれた。振り返るとそこには見覚えのある顔が。私より背の高い、外見は二回生くらいの女学生が、黒い平天帽子の鍔の下からにこやかに言う。
「何かお困りですか?」
「あ、ええと……宇佐見さん? だっけ?」
大学図書館にはコーヒーショップが併設してあり、勉強熱心な学生たちは図書館の帰りにその店で一服することが多い。今の私のように、不愉快な気分を鎮めようとする人間にとっても、ここはうってつけの場所と言えた。
「それにしても災難でしたね」
コーヒーのトレイを挟んで私の向かいに座る宇佐見蓮子は、先ほど司書から奪取に成功した論文のコピーに目を通しながら言った。
「施設の見てくれにはお金をかけるくせに、肝心なところでは旧弊っていうか、学生に不便を強いるんですから」
「本当そう。まったく、助かりました。ありがとうございます」
私は宇佐見さんに頭を下げる。
彼女、宇佐見蓮子は物理学科の学部生だ。教授のお気に入りの学生で、何度か岡崎研を訪れたこともあり、そこの助手である私とも顔見知りだった。といっても、私とこうして一対一で話すのは初めてだったが。
融通の利かない司書に手を焼いているところへ彼女は颯爽と現れ、問題をあっさりと解決してくれた。つまり、宇佐見さんが論文集の目録の複写を要求し、私はそれを見せてもらって目当ての章を見つけ、改めて私の分として論文を複写してもらったのだ。二度手間とはこのことだが、これなら向こうも文句は言えまい。
謝礼と気分転換を兼ねて宇佐見さんをコーヒーショップに誘い、今に至るというわけだ。
ちなみに宇佐見さんは私より年上だ。しかし、私は肩書き的には研究生で、学問においては私の方が先輩ということになる。今一どう接していいかわからず話しにくいが、宇佐見さんの方は立場のねじれをあまり気にしていないらしい。
「この論文って、研究に使うものなんですよね。岡崎研では、今ここらへんをやっているんですか? 前に聞いた研究範囲と少し遠いような気がしますけど」
私は学会での代理登壇の事情を説明しながら、内心では感心していた。さすが教授に目をかけられるだけはある。宇佐見さんは学部生ながら、博士論文の内容をざっと見ただけで把握しているようだった。
「すごいじゃないですか、あの岡崎教授の代理だなんて。あ、それじゃもしかして、今ってお忙しかったんじゃないですか?」
「そうなんですけど、まぁ今はちょっと休憩というか。息抜きの時間も必要です。さっきみたいに、無駄なことに時間を潰されるよりかはずっとまし」
私が愚痴モードに入りかけると、宇佐見さんは宥めるような表情でうんうんと頷いた。
「多分、タイミングが悪かったんだと思いますよ。あの司書の人、来月に寿退社するらしいんですけど、どうせやめるなら仕事は適当でいいって思ってるのか、最近応対が雑になってるってみんな苦情を言ってるんです」
そういえば、やたらとツヤのある指輪が彼女の左手にきらめいていた。結婚を機に労働からエスケープしようって腹なのか。随分と幸せなことだ。
またふつふつと再燃してきた苛立ちを抑えようと、目の前のキャラメルマキアートを掴んで一気飲みしようとし、すぐさまこれはそうやって飲むものではないと思い直して口を離す。酒が飲める年齢になるまで、この手の感情表現はお預けだ。
ふふっという笑い声がして私は顔を上げる。宇佐見さんは、興味深げな目で私の顔を覗き込み、
「もしかして、ちょっと羨ましいって思ってますか?」
唐突にあけすけに、それでいて嫌味なくそう尋ねた。
「へ? いっ、いや別に、そういうわけじゃなくて」
「冗談ですよ、そんなに慌てなくても。ただ、北白河さんにしては怒り方が過剰だなって感じたんですよ。それで、あぁ、この怒り方は嫉妬かもってね」
完全にからかわれている。こいつ、思ったよりもぐいぐい来るタイプの人間だ。
無理やりにでも話題を変えなければ。もっとフラットな話題でないと、年上のお姉さんとは渡りあえない。
「そ……そういえば、宇佐見さんは図書館に何をしに来てたんですか? テスト期間でもないのに」
「あぁ、今日はちょっと調べ物があって寄っただけです。でもそんなに重要な用でもありませんし、次の講義までの時間潰しのつもりでした。それなら、北白河さんとお話しした方が面白いかもって」
「へ、へぇ。宇佐見さんって、素粒子論志望でしたっけ? それ関係の勉強に?」
「いえ、学業じゃなくて趣味の方です」
宇佐見さんの顔に微妙な遠慮が浮かぶ。そういえば、宇佐見さんは友人と二人でオカルトサークルを結成して、あれこれ胡散臭い活動を繰り広げているらしい、という話を教授から聞いたことがある。あの教授が胡散臭いという言葉を使うほどだ、きっとその活動は私のような一般人が聞いたら距離を置きたくなるようなものなのだろう。
「あっ、そんな怪しいものじゃありませんよ。岡崎教授からは怪しがられてるみたいですけど」
思考が顔に出ていたのか、先手を打たれた。
「怪しいだなんて思ってないですよ。どんな活動をされてるんですか?」
「活動っていっても、今回はちょっと日帰り旅行に行くだけですよ。図書館に来たのはその下調べです」
宇佐見さんは普通の女子大生のようなことを言う。ちょっとこちらが身構えすぎたかもしれない、教授と同類だなんてラベルを貼るなんて失礼なことをしたな、と私が思っていると、
「夢の世界に行こう、っていう話を友人と計画していまして」
話の次元が唐突に跳躍した。
「はぁ。夢の」
「あ、身構えましたね?」
にやり、と悪戯っぽく笑う宇佐見さん。どうやら私の反応を見て楽しんでいるようだ。
「今まではあの子から夢の世界の話を聞くだけだったんですけど、どうやら私も一緒に夢の世界に行けるんじゃないかってことになって。実はちょっと憧れだったんですよ、私がこれまで見てきた幻想世界はどうにもつかみどころがないって言うか、今一つはっきりとしなかったんです。それがこの間、ついに本当の冒険ができたんです。夢の世界への。それで、折角だしもう一回行こうってことになって、今日は色々と夢について調べていたんです。あと、衛星についても」
饒舌になる彼女とは対照的に、私はついに黙ってしまった。あぁ、この人は別の世界の住人だ……悪い意味で。
「……北白河さんは、こういう話って興味ありません? 幻想の世界、人智を超えた現象――平たく言うとオカルトですが」
「……まぁ、そうです、ね。私、どっちかっていうと科学者ですし」
教授に付き合っているうちに不思議なものは山ほど見てきたが、結局のところ、私は未だに科学の信奉者なのだった。そんな私に、宇佐見さんは諭すように言う。
「これは十分科学的な話でもあるんですけどね。まぁ今の話は荒唐無稽に聞こえたでしょうけど、夢というもの自体はもうほとんど科学の範疇で説明できます。動物はなぜ夢を見るのか、人類はつい最近までその謎を解き明かせずにいました。でも、現代では脳の働きの大部分が解き明かされています。夢科学も近年飛躍的に発達を遂げました。最新の研究では、完全に思い通りの夢を見させることもできるようになっている、なんて噂もあります」
「はぁ。あんまり聞いたことないですけど」
「あくまで噂ですから。人体実験も行われてるっていう話です。被験者を特殊な薬品で催眠状態にしておいて、視覚皮質と聴覚皮質に特殊な信号を流して映像・音声を脳内に直接再生する。すると、それがまるで自分自身の体験であるように認識されるそうです。そうなってくるともう夢っていうよりヴァーチャルリアリティですが、興味深いのは、自己認識すら外部から上書きできるんだそうです。被験者は夜の間に、自意識のレベルから別人になってしまう……それが人為的に可能だとしたら、どんなことが起こるでしょうか?」
「夜の間に、別人になる……」
その言葉で、私は昨日見た夢を思い出した。霧雨魔理沙という少女の一日。
「ん? どうかしました?」
宇佐見さんは訝しげに私の顔を覗き込む。
「あ、いや、ちょっと考え事をしていて。すみません、ええと、夢の話ですよね」
私は話題の続きを促したが、
「すみません、ちょっと調子乗りすぎました? 一方的に喋っちゃって」
と、宇佐見さんはトーンダウンした。
「え? いや、こういう話もたまには楽しいですよ」
「そうじゃなくて、北白河さん、すごく顔色悪いから。もしかして自覚ありません? かなりお疲れみたいですけど」
そう言われると、今更ながら身体が重いことに気づく。いや、体が重いというより、また研究室に帰らないといけないと思うと気が重いのだ。夢想から最も遠い、究極の真理を追い求める学問。
でも、それが私の選んだ道だしなぁ……。
私は改めて宇佐見さんに礼を言い、遠慮する彼女を無理やり言い伏せて二人分の代金を支払った。宇佐見さんとはそこで別れ、学生食堂で一人、遅い昼食をとる。食堂にいる学生たちは大小様々なグループを形成し、きゃっきゃと無邪気に青春の鱗粉を振りまいている。ったく、若いやつはいい気なもんだ、と私は年長の学生たちに対して心中で呟いた。
単純な味付けの丼定食を平らげると、私はすごすごと研究棟へと戻った。
気分を変えに行った効果は期待したほどには上がらず、研究室へ戻った私はじとじと仕事を進めた。「バリバリ仕事する」の反意語が思い浮かばなかったため「じとじと」という表現を使ったが、今の私は大体そんな感じだ。
せめて宇佐見さんの助力で手に入れた論文はやっつけようと、机上で数式と格闘していると、
「お疲れ様。進んでる?」
教授が仮眠室の戸を開けて現れた。
「ぼちぼち。何だ、姿を見ないと思ったら、私が図書館に行ってる間もずっとそっちにいたのか、ご主人様は」
「えぇ。悪い?」
「いや、別に。私もそろそろ眠くなって来たなって思っただけ」
「私は寝てないわよ。仕事だって言ったでしょうが」
教授はぶつくさ言いながら、窓際の紅茶コーナー(と呼ばれている簡易台所)で湯を沸かし始めた。
気づけば既に午後四時を回っており、窓からは夕日が差し込んでいる。私はモニターから目を離し、眉間を指で揉んだ。
「お疲れ様」
不意に眼前にホットレモンティーが差し出される。珍しい。教授は甘いものと一緒によく紅茶を飲んでいるが、私に淹れてくれることなんて滅多にない。
「――何だ、ご主人様も人を労うってことを知ってたのか」
「私を何だと思っているのよ」
教授はそれだけ言うと、本やら雑貨やらが山積みになった机の向こう側へ行ってしまった。壁のような荷物の山に彼女の姿はほとんど隠れ、キーボードを打つ音だけが聞こえてくる。そろそろ片付けさせないと倒壊の恐れがあるが、まぁ、今日のところはいいか。
「……ありがとうな」
教授が私に何かしてくれることも珍しいが、私が彼女に礼を言うなんてもっと珍しい。何だかくすぐったいような、でも決して不快ではない感情が、紅茶の熱とともに胸に染み渡っていく。
もう少し、頑張るか。
紅茶を飲み干して温まった身体を、私はモニターに向ける。教授の態度は素っ気なかったが、あれはあれで私に期待してくれているのだ。……普段の教授の所業を思えばそんな評価は噴飯物だが、今は物事を少しでも良い方へ捉えておくとしよう。
期待に応じなければ、と気合を入れ直そうとしたそのとき。
「うっ……う……?」
突然の目眩が私を襲った。ややあって、それが猛烈な眠気から来るものだと本能的に悟る。まずい、こんなに疲れていたのか私は、と考えている間にも、瞼は見えない力に強制されているかのようにどんどん閉じていく。
ま、まだ寝るような時間じゃないのに……仕事はいっぱい残っているのに……。
荷物机の向こう側で椅子から立ち上がる気配がし、私の意識はそこで途切れた。
◆
……あ、あれ?
不意に、目が覚めた。
覚醒はあまりに突然で、顔を上げた私はしばらくの間呆然とする。部屋の中は消灯しており、私の吐息を除いて静まり返っている。薄緑色のカーテンの下から広がる淡い光だけが、この場で視認できるものだった。
ってことは、もう朝……なのか? 随分深く寝ていたようだけど……はて。私の頭を覆う濃霧はなかなか晴れず、思考が停止すること数秒、あるいは数分。
「いっ、いでっ」
思い出したかのように首がずきりと痛んだ。どうやら寝違えてしまったらしい。無理もない、私は机に突っ伏した格好で眠りについていたのだから。
そうだ、思い出した。私は仕事の途中で寝落ちしてしまったんだ。ああもう、折角決意を新たにしたのにその矢先、よりによって机の上で爆睡してしまうなんて。
教授はきっと私の間抜けな寝顔を見て呆れていただろうな。ったく、せめて仮眠室まで運んでくれりゃいいのに。
私はため息交じりに立ち上がり、勢いよくカーテンを引いた。
すると。
「……あ……?」
目の前――窓の外に広がる深い森の風景に、私の頭が一時真っ白になる。
あれ、ここって、研究室じゃない……?
……あ、あぁそうか、そうだった。
ここが私の家だったじゃないか。実家を飛び出してからこっち、日々の暮らしを細々と紡いできた、私だけの小さな空間。私だけの家。
どうやらひどく寝ぼけていたらしい。朝日の差し込む我が家を見回すうちに、ようやく頭がはっきりしてきた。何だよ研究室って。それは夢の話だったじゃないか。
今朝は一段と冷え込む。人里では涼しげな秋風も、日光の薄い森の中では冷たい木枯らしになる。私は隙間風に身震いしながら、土間の暖炉に薪を放り込んだ。よかった、何よりも先に暖炉を作っておいて。小ぶりな暖炉は、それでも仄かな熱を私に与えてくれる。それだけじゃない。打ち捨てられた荒屋を私らしく飾る、これはその第一歩だ。
囲炉裏にも火を熾し、自在鉤に鉄鍋を吊るした。昨夜帰りに沢から引き揚げた川魚も串で焼く。これが今の私のキッチンだ。この放置されて久しかった荒屋には、こういった古式ゆかしい調理器具が置いてあった。正直こういう和風テイストはあんまり趣味じゃないけど、わがままを言っていられる身分でもない。
一人侘しく朝食をとりながら、私は夢の世界のことを思い返していた。郷の外は科学技術がずっと進んでいるというけれど、夢で見た場所は外の世界でも先端技術の集まる研究機関のようだった。そこではいちいちこんなふうに料理しなくても、あらゆる料理にありつけるらしい。文字通り、私とは生きる世界が違っていた。
あれは夢に違いないけど、郷の外には実際にああいう世界が広がっているんだ。そう想像するだけで、なんだか胸がわくわくしてくる。そんな空想を膨らませて、心細さを忘れようとする。
朝食を片付けた後は勉強の時間だ。香霖に借りた(きっといつかは返すだろう)分厚い外来本を窓辺で読み進める。学ばなければいけないことはいくらでもあったけど、今の私にはその時間があった。実家にいた頃は、こういう自分の時間が持てなかったことを考えると、よくやった、と自分を褒めたくなる。
――はっきりと、理由があったわけじゃない。人を納得させられるような、家出の理由は。だから、家を出て行くと親の前で宣言した時は、なんでまた急にと問い詰められても中身のある返事をすることができなかった。そう、言葉にできるような理由なんてなかったんだ。ただ、何かから自由になりたいといつも願っていた。その思いが我慢できなくなった、それだけだ。
きっと親からしたら晴天の霹靂だっただろう。親子喧嘩は多かったけど、致命的なほど家族仲が険悪だったわけじゃない。きっとこのまま普通に成長して、いずれ商売のできる婿養子でも迎えてくれたら上出来、くらいに考えていたはずだ、私のことは。その一人娘が突然の家出と来ては、なんとしてでも連れ戻そうとするのは当然のこと。実際、郷中で話の種にされるほどまで私の家出騒動は大事になった。霧雨家といえば郷でも指折りの商家だ。そりゃ親父にも面子ってものがある。香霖が間に立ってくれなかったら、私を蔵にでも閉じ込めていたかもしれない。
そう、香霖だ。香霖はこの問題に積極的に介入することはしなかったが、それとなく私の説得を試み、やんわりと親父を宥めすかし、気がつくと親父は私を引き止めることを諦めていた。どんな手で親父を黙らせたのか、またどんな理由があって私の手助けをしてくれたのか、そこのところはよくわからない。
そもそも、昔から香霖はよくわからないやつだった。博識な割には間の抜けたところもあるし、優柔不断なようでいて意志の強さを垣間見せることもある。私に対しても、親切なような不親切なような、親しげな時もあれば素っ気ないこともあるし……。
……奴は、一体私のことをどう思っているんだろう。
私の心は今や完全に読書から離れていた。見てくれは二十歳かそこいらの、銀髪の青年の顔を思い浮かべる。
……今日も、あいつは店にいるだろうか。
ここ最近の私の生活は、午前中に家の改築や食料集めをし、昼飯を済ませてから香霖堂に寄る、というサイクルで成り立っていた。二人で食事を一緒にとることはない。そうするとさすがの香霖も私に気を使って奢ってくれる気がするし、孤高の家出娘としては彼の施しを受ける訳にはいかない、という微妙な遠慮と葛藤がこれまではあった。
でもまぁ、うん。たまにはいいか。
今日は少し早めに行って、そうだな、裏口から入って驚かせてやろうか。どうせあいつも暇してるだろうし。
そうと決まれば、と私はすぐに家を飛び出た。そう、この霧雨魔理沙様は気まぐれで、いつだって自分本位なんだ。
香霖堂に着くと、私は裏手に回り、細心の注意を払って裏口の戸を静かに開けた。中へ侵入すると、埃の匂いが鼻についた。この裏口は店の倉庫に繋がっており、そこには店先のがらくたにさらに輪をかけたがらくたが保管されている。
……ん? なんだこれ。
さっさと通り抜けようとしたが、私はある品物の前で足を止めた。見たことのない道具が、棚の中断に置かれている。香霖の店は外の世界から仕入れた道具を主に売っているから、見たことのない道具なんてそこらじゅうに置いてあるけど、その道具はとりわけ異様な雰囲気を放っていた。
それは見るからに重そうな、茶褐色の大きな箱だった。私でも頑張れば両腕で抱えられるかどうかといった大きさで、側面にはボタンやらダイヤルやらが並んでいる。幻想郷的に表現すればなんとも河童が好きそうな見た目の機械だけど、一体何に使う物なんだろう。
私がその機械を観察していると、店先の方から人の気配がした。おっと、香霖か。今日も彼は店番をしているらしい。それならこんな埃っぽいところに長居は無用、と私は店先へ通じる戸に手をかけ、そこで動きを止めた。薄い戸の向こうから、話し声が聞こえてくる。
「……おかげさまで、と言えるほど繁盛してはいませんね、正直なところ。そもそも近頃は仕入れか滞っていて、商品がなかなか増えないんです」
香霖の声だ。来客だろうか。店の客に対する態度にしては、ちょっとかしこまっている気がする。
「仕入れってお前、無縁塚で拾ってくるだけじゃねぇか」
香霖の言葉を引き取った男の声を聞いて、私の全身に緊張が走る。久ぶりに聞いたが間違いない。あれは、親父の声だ。
「拾うだけなのはそうですが、流れてくる道具の質や量は僕の裁量ではありませんから。豊作大漁の時もあれば、不作不漁のときもあります」
香霖は普段、私や商売客に対しては割合フラットな態度で接するが、親父は彼にとって商売の師だ。かしこまるのも当然だが、それにしても今日の香霖の声は変に強張っているように聞こえた。
「道具屋が言うに事欠いて不漁とは、大それた言い訳を持ちだしたな。棚の入れ替えもサボってるように見えるが、それにも何か言い訳を用意してるか?」
「相変わらず鋭いですね。そもそもうちは、商品の入れ替えなんてそんなにやりません。それでも売れるときは売れるんです。それがうちのやり方で、香霖堂とはそういう店だ、ってことでご勘弁願えませんか」
「ふん、まぁお前が好きにやるために開いた店だ、文句はないさ。だが、教えたことが全然伝わってないってのは、教える側としては寂しいもんだぜ」
「それを言われますか。そうですね……伝わってないなんてことはないんですが。今、ちょっと大きな取引をやってる最中でしてね。珍しい商品が入ってくるかもしれないから、そしたらまた陳列を整理しよう、とは思っていましたよ。そう、教わったようにね」
そして一旦会話が途切れる。そっと戸を押し開けて店先を覗くと、親父は手持ち無沙汰な様子で店内を物色していた。香霖は私に背を向けて、いつもの書き物机に座っている。
それにしても、なんだか妙な会話だった。二人とも――特に親父は――奥歯に物が挟まったような話ぶりだ。この場の議題を二人とも正しく認識しているのに、双方それに触れるのを躊躇っていて、お互いに向こうが切り出してくれないか待っている、という感じが伝わってくる。
「さて。魔理沙のことだが」
やっぱり。親父め、私について話しに来たんだ。私は一層息を殺し、二人のやりとりを盗み聞く。
「俺はな、霖之助。お前にゃ感謝してるんだ。あんな悪ガキの面倒を押し付けて、申し訳ないとも思ってる。でもな、義理立てにも限度ってもんがある。あいつの世話なんか一文にもならんだろ。俺も立場的にあいつを援助するわけにゃいかんし、あいつもまだまだ一人じゃ生きていけない。そんな奴にかかずらって、親類でも何でもねぇお前が商売に時間を割けないなんて、親である俺の顔が立たねぇ」
そう、こんな奴だったな。親父は二言目には自分の面子を持ち出す男だ。それも、鷹揚さもなくごく自然に。体面や義理、世間のあらゆるしがらみに雁字搦めにされて尚、平然と振る舞える商売人。嫌いってわけでもないけど、私とは永遠に相容れない人種だ。
「そろそろ、お前の方から説得してくれんか。うちに戻れって」
ふん、そういう要件か。体面なんて気にしてないで、自分で直接言えばいいのに。今私が姿を現したら親父はどんな顔をするだろう。
「前にも言ったでしょう」
対する香霖は、慇懃な口調のまま言い返す。
「他でもないあなたの娘なんです、早晩誰の手も借りずに生きていけるようになるでしょう。それに今だって、僕の支援はせいぜい古道具を譲るとか手助けしてくれる人を仲介するとか、その程度の些細な物です。こっちとしてもさして負担になってるわけじゃありません。僕に迷惑がかかるっていうのは、魔理沙を連れ戻す理由にはなりませんよ。もっと単純に、娘を手放したくないと言われた方が僕としては納得が行きます。協力するかどうかはともかく」
「もちろん俺にとっちゃ大事な娘だ、手元に置いておきたいのは当然だし、霧雨店としてもあいつにはいずれいい婿をとってもらわなきゃならん。……なぁ、霖之助。確かに俺はお前にあいつの世話を頼んだ。だが、何もお前にあいつの行く末を決めさせようと思ってたわけじゃない」
……え?
頼んだ? 親父が、香霖に?
そんな話、聞いたことがない。親父は私のことなんか野たれ死ねばいいと思っていて、香霖が私によくしてくれるのは彼の個人的な善意で……そう思っていたのに。
でもまぁ、そうか。そうだよな。純粋に個人的な善意なんて、そんなものを勝手に期待する方が間違ってる。香霖には香霖の理由があって、私に親切にしてくれていた、それだけで私は彼に感謝すべきなんだ。その理由というのが、ほかでもない親父に頼まれたから、というこれ以上なく気に食わないものだとしても。
「勿論承知していますとも。僕も自分にそこまでの権限があると思っているわけではありません。けれど、あなたは言っていたじゃないですか。もう俺はあいつのことは知らん、って。その態度を翻すというんですか?」
「あのときはどうせすぐ音を上げて戻ってくると思ってたんだ」
「それはそうでしょうけど。しかし、一度請け負ったことをそうやすやすと投げ出すほど無責任じゃないんですよ、僕は」
「頼んだ俺がもういいと言っている」
「あなたに対してだけじゃない。僕は魔理沙に対しても、困ったことがあれば力になると約束しました。魔理沙は大恩あるあなたの娘だ、そんな相手との約束ともなれば、あだや疎かには出来ません。僕のやっていることが義理立てだというのなら、それは親父さんに対してだけじゃない、魔理沙に対しても同じですよ」
「ったく、理屈をこね回しやがる……。じゃあこっちも理屈っぽく言うが、お前のその魔理沙に対する義理ってのはよ、俺がこんだけ頭を下げてる頼み事を蹴るほどでかいもんなのか。そいつはつまり、俺よりも魔理沙に対しての方が恩があるってことにならねぇか。おい、どうなんだ」
「それなら」
親父の、半ば子供の屁理屈じみた言葉に、香霖はさらりと
「義理以上の感情で僕が動いてるってことでしょう」
そう返した。
義理、以上の、感情……。
え……な、何だそれ。
どういう意味だ? 感情っていうのは……普通に考えたら少なくとも良い感情ではあるだろうけど、だからつまり、好意って受け取っていいんだよな……それは、師の顔を立てるよりも優先されるくらいの好意、であるわけで……。
頭の中で香霖の言葉があっちへこっちへ飛び交い、「感情」という単語が何度もリフレインする。声を上げてしまうのではないかと不安になり、思わず手で口を抑える。頬の焼けるような熱が、かじかんだ手に伝わってくる。
「まぁ、少なくとも今すぐは無理強いできないし、霖之助も大きな取引があるっていうなら、そっちのことを考えたいだろう。今日のところは引き下がるが……」
お、おい親父。普通に流そうとするな、さっきの香霖の台詞を。もうちょっと突っ込めよ、あからさまに何か仄めかすような言い方だったろうが。
「俺が魔理沙のことでここへ来たとは言いふらさんでくれ。そのうちまた来るが、次はこっちも色々と準備をさせてもらうからな」
親父はそう言って帰り支度をし始める。
あれ、さっきの香霖の言葉を歯牙にも掛けてないな。どういうことだ、あれって普通の言葉だったのか? 私が意識しすぎなだけ?
などと私が煩悶しているうちに、親父はさっさと店を出て行ってしまった。香霖は一人ため息をつくと、徐に椅子から立ち上がった。
「さて、と」
そして振り返り、物置へ――つまりこちらへと歩いてくる。
「う、うわっ」
慌てて扉を閉めるが、余計な力が入ってしまい、扉はバタンと大きな音を立てた。
「ん? 誰かいるのか? 魔理沙?」
不法侵入の上に盗み聞きの現場を押さえたと言うのに、香霖はのんきな声を出す。
ええと……どうしよう、出て行こうか、それとも逃げようか……と私がおろおろしていると、
「なんだ、聞いていたのかい。出てこなくて賢明だったね」
香霖は扉越しにそう話し掛けてきた。
「……えっと、その……」
「まぁ、状況は聞いた通りだ。向こうも君の住処は知っているから、そのうち直接乗り込んでくるかもしれないな。一人暮らしを続けたいのなら、気をつけたほうがいい」
ちょっと突き放したような言い方に聞こえるのは、気のせいだろうか。
「気をつけるって言っても……」
何だか香霖の顔を見るのが怖くて、私は扉を開けて顔を出すことができなかった。
もし私が無理矢理連れ戻されそうになったら、彼はどうするんだろう。さっきの親父とのやりとりの中では、明らかに私の側についてくれていたけど……。
私は黙り込んでしまう。香霖はどうするんだ、と尋ねたいけど、それができない。きっと私の聞き方は、どうしても守って欲しいという期待の込められたものになってしまうから。図々しいにも程があると思いとどまる一方で、彼の気持ちを確かめたいという欲求が膨らんで行く。
「魔理沙」
香霖が、どこか諭すような声色で私の名を呼んだ。
「君は、まだ子どもだ。年齢的に言えばね。でも君は自由を声高に叫んで、一人で家を飛び出した。僕は、君のその勇気をとても尊いものだと思っている。だから、できる限りそれに水を差したくないんだ。これは僕の行動指針の一つだ。わかるかい?」
「……ん、まぁ……」
「親父さんが君の家に押しかけてきて、僕が君を背に守ったとする。親父さんも、僕の顔に免じて刀を収めてくれるかもしれない。けれど、君は本当に君はそれでいいのかい。僕の庇護を必要とする君は、それは君が求めていた自由な自分と言えるんだろうか?」
不意に、香霖に一歩分の距離を取られたような気がした。彼は今、私を教育する立場から私に話しかけてきている。子どもを宥め諭す大人として話している。そうだ。私は香霖に全然釣り合わない、私たちは全く対等じゃなかったんだ。それが何とも腹立たしくて……少し、寂しくて、私は何も言えないまま、ただ喉の奥が熱くなるのを感じていた。
結局扉は開けないまま、私は裏口から香霖堂を後にした。
ところが私という人間は切り替えが早く、家に帰り着く頃には憂いは吹き飛んでいた。代わりに私の心を支配していたのは、香霖に対する憤懣だった。
ったく、人を見下しやがって。そりゃ私はまだまだ子どもだ。でも、それにしたってあんな子守みたいな態度をとらなくても。あんな感じで接されたら誰だって嫌な気持ちになる。そのくらいの想像力もなくて、何が大人だよ。香霖のやつ……。
その日はやたらと家の改築作業が捗った。親父が何だろうが関係ない、とにかくまずはここを私の城にしてやる。いや、ここは私の作戦本部だ。どんなやつに対しても対等に立てるような、そんな自分になるための前線基地。そうだ、元々そんな生活を夢見て飛び出してきたんじゃないか、私は。
夕飯を終えた頃には、私はくたくたに疲れ果てていた。けれど、布団に入った時に感じる疲労は心地のいいものだった。
その頃には心も落ち着いてきていて、色々なことに思いを巡らせる余裕ができていた。
まぁ、うん。香霖の言うことも、理解できないわけじゃない。子供扱いされるのが気に食わなくてムキになって、そういうところが子供なんだとまた窘められる。実家にいた頃は、ずっとそんな感じだった。だから、なりたい自分になるために一人暮らしを始めたんじゃなかったのか。
ふと、昨日の夢を思い出す。夢の中で私は十五歳の女の子になっていた。「私」は親元を離れて一人で暮らし、自分の信じる道に向かって邁進していた。「私」はそのことについてごく普通のことのように感じていたけれど、今の私からすると、彼女の日々はとても眩しく見える。
十五歳というと、私にとっては三年後だ。あとたった三年で、私もあれくらい強くなれるんだろうか……。
思い返すと、北白河ちゆりはなかなかシビアな日々を送っていた。日がな一日勉強して、家にも帰らずに職場の硬いベッドで寝て。今の霧雨魔理沙邸はぼろ家だけど、ちゃんとした布団で寝られるだけ、私は贅沢をしているのかもしれない。ちゆりはそれでも、不平を零しながら進むべき方向に向かって自分の足で進んでいく。住んでいる世界は違っても、私が目指すべき姿がそこにはあった。
けれど、夢の中の私は……私を羨ましがっていた。
それを思うと、なんだか妙な気分になってくる。あれだけ一心に研究に打ち込んでいるちゆりだったけど、夢の中の私を思い浮かべては、どこか憧れているようなことを心の中で呟いていた。魔理沙はちゆりを羨ましがっていて、ちゆりは魔理沙を羨ましがっている……。
あれ、何でだっけ。どうしてちゆりは私のことをそんな目で見ていたんだっけ。
あぁ、そうだ。ちゆりは幼馴染の従兄――初恋の相手が今度結婚するって聞いて、かなり動揺していた。それで、いつも香霖と一緒にいる私のことを羨ましく思って……。
い、いや、それは違う、香霖はそういうんじゃない。いつから香霖は私にとって憧れの人になったんだ。あんな、人の気持ちもわからないウスラバカが……。
けれど、布団の中でじっと丸まっていると、頭の中から香霖の顔が離れなくて、無性に胸の奥がざわつく。彼の言った「義理以上の感情」という言葉の意味を、どうしても考えずにはいられない。
あぁ、いくら私でも。
ここまで気になってしまったらもう認めるしかない。
私は、あの言葉にどうしようもなく期待してしまっているんだ。
彼が私に向ける善意が、親父に頼まれたからという以上のものであることを。一足飛びに成長しようとする子供を上から見守るような、そんな教育的な意識を超えたものであることを。
胸の中のもやもやをどうにも処理できないまま、一人の夜は過ぎていく。
早く明日になってほしい。そしたらいつものように香霖堂に行こう。もしも明日、勇敢な私がそこにいたら……。
明日に思いをはせながら私は寝返りを打ち、
◆
――そして、愕然とした。
一瞬だった。寝返りを打つ前、私は確かに自分の家の寝室にいて、ぬくぬくと柔らかな布団に包まれていたはずだ。それなのに、一瞬のうちに何もかもが変貌していた。今、私をくるんでいるのはがさついた毛布で、体の下にあるのは硬いソファベッド。そこは私の部屋よりも遥かに狭苦しい、殺風景な個室――そう、仮眠室だった。
ま、待て。……私、……だって? 私っていうのは、誰のことだ?
枕元を探り、携帯端末を手に取る。内蔵カメラで自分の顔を画面に映し出し、
「……あ……」
そ……そうだった。私は、北白河ちゆりだ。霧雨魔理沙じゃない。魔理沙は夢の中の存在でしかなくて……。
学会発表の準備をする気は起きなかった。
一体何がどうなっているんだ? さすがにこれは異常自体だ。三日も続けて同じ夢を見るだけでも珍しい体験なのに、その夢で他人の一日を追体験し続けるだなんて。
ただ奇妙なだけならともかく、この現象には実害がある。私が眠りに着いた瞬間に霧雨魔理沙の夢は始まり、魔理沙が眠ると同時に北白河ちゆりの一日が始まる。これをずっと繰り返していると、全く寝た気がしないのだ。
通常、夢見の時間は就寝時間のうちのごく一部分でしかない。夢を見ている状態も「意識がある」と言えるなら、就寝中は完全に意識を手放している時間が大半なのだ。だが夜の間ずっと魔理沙の夢を見続けている今の状態では、のべつ幕無し意識があるわけで、脳は休みなく思考し続けている。そのせいで脳に疲労が溜まっているのか、今も頭の中に霞がかかったような状態で、これはもうはっきり言って睡眠障害だ。
それでも、今はまだいい。こうして思考している自分が、北白河ちゆりであると断言できるのだから。けれど、私の自意識がいつまで保てるのか、私には自信がなかった。即ち、私は霧雨魔理沙の見ている夢なのかもしれない……そう真剣に疑い始めたら最後、私の自我は取り返しのつかない混迷に陥ってしまうのではないか……そしてその時は遠からず訪れるんじゃないか……そんな予感がしてならない。
平静を取り戻すために、私は論文を読み返した。大丈夫、理解できる。そう、私には物理学の修士論文を理解できる程度には学識がある。これは私が北白河ちゆりであって霧雨魔理沙ではない証拠になるはずだ。十二歳の、それほど特別な教育を受けている感じもなかった魔理沙には、到底理解できるはずがない。……けれど、夢の中の「理解」っていうのは、一体どこまであてになるんだろう。よくあるじゃないか、夢の中で自分が全くの別人になっていて、本来持ち得ない知識を持っているように「錯覚」する、だなんて。
……これが平常時なら、かの有名なシミュレーション仮説を持ち出して、自分が実在することを証明することは原理的にできない、みたいな話に落ち着かせることができるのだろうが、実際にこうして自身の存在が危うくなってみるとそんな気楽なことは言っていられない。何か……そう、例えば霧雨魔理沙が夢であることを証明できれば……少なくとも私が霧雨魔理沙の見た夢であることが否定できれば……。
待て待て、話が飛躍している。魔理沙に引きずられすぎだ。要するに、睡眠障害で神経が参っているだけなんだ。つまり、その原因を見つけ出して取り除けばいい。
私は今までこの手の疾患にかかったことはない。連日の重労働で神経がすり減っているとはいえ、精神的疲労が原因とは考えにくい。教授にはもっと酷い仕打ちを受けたことだって何度もあるし。となると外的要因か。
そこでふと私は昨日の宇佐見さんの話を思い出した。彼女によれば、被験者に任意の夢を見せる実験がすでに行われているという。ってことはつまり、可能性としては――あくまで可能性の話だが――魔理沙の夢は私の頭の中から出てきたものではなく、誰かに見せられている夢かもしれないわけだ。……それはそれで、じゃあ何の目的で? という話になるが。
……ふむ。
宇佐見さんに話を聞いてみようか。彼女はこの手の話に詳しそうだし、昨日の口ぶりからするとまだ色々と情報を持っていそうだ。よし、と私は端末の電源を落として席を立つ。
「ちょっと出てくるぜ」
研究室の扉を開けながらそう言うと、
「はーい」
雑貨の山の向こうから、教授の気のない返事が聞こえた。
宇佐見さんに情報をもらうと言っても、私は彼女の連絡先を知らない。だが、昨日彼女は図書館へ調べ物をしに来たと言っていた。その時は私がコーヒーショップに誘ったため、彼女には十分な時間がなかった。つまり、彼女は今日も図書館に来ている可能性がある。
図書館に着くと、私は夢に関する本を適当に見繕い、ロビーで読みながら宇佐見さんが現れるのを待った。もう昼過ぎだというのに頭の中は未だに胡乱で、書いてある言葉がさっぱり理解できない。でも昼過ぎにぼーっとするのは自然だよなぁ、と思いながらうつらうつらしているうちに、気がつくと随分時間が経っていた。さすがにこれ以上の時間の浪費はまずい。結局この線は空振りに終わりそうだったが、さてどうしよう。
遅い昼食を済ませて学食を出ると、もう日が傾き始めていた。今日は時間が経つのがやけに早い。まるで、夢の中のように。
研究室へ戻ると、教授は相変わらずモニターに向かい合ってキーボードを叩いていた。随分集中しているなと思ったら、
「おかえりなさい。作業は捗った?」
そう声をかけられた。
「まぁそこそこ……」
……ん?
待てよ……。
不意に昨日の出来事がフラッシュバックする。昨日の夜。教授が淹れた紅茶を飲む私。すぐに眠くなり、気がつくと魔理沙の夢が始まっていた。夢が終わってみると私はいつの間にか仮眠室で寝ていた。昨日教授が一人ずっと作業をしていた、仮眠室で……。
ある疑念が、夏の暗雲のように急激に私の心を覆い尽くしていく。
――もしかして私、この岡崎研究室で実験台にされてないか……?
宇佐見さんが言っていたような夢の実験は実際に行われていて、被験者は私、そして実験の監督者は……。
い、いや、勿論これは馬鹿な想像だ。いくつか無理な飛躍があることもわかっている。しかし、教授の不審な言動と私の不自然な体調……偶然の符合として片付けてしまうのには、どうにも抵抗がある。無断で助手を実験台にするなんて非常識にもほどがあるが、岡崎夢美ならやりかねない。私を紅茶に入れた薬で眠らせて、夢を見せる装置を仕込んだ仮眠室に寝かせ、魔理沙の夢を見せている……とか。ありうる、と感じる程度には私の教授に対する信頼度は低い。
だとしても、どう確認すればいい? 直接教授に聞いたところで、本当に実験中ならはいそうですと素直に認めるわけがない。何とか怪しまれずに教授の腹の中を探る方法は……。
しばらく考えた後、私は遠回りな確認方法をとることにした。
「あら? どうしたの、ちゆり」
「掃除だよ、ちょっと気分転換に」
「そう。気分転換ばかりしてたらいつまで経っても終わらないわよ」
「はいはい」
私はできるだけ自然さを装って研究室内を掃除し出した。あえて教授の机には近寄らない。情報を探っていることが気づかれないように、今は回りくどい方法で行こう。
床をはき、棚の雑貨を片付ける。これだけごちゃごちゃしてるんだ、多少棚の物の置き方に作為が入ったところで、気づかれる心配はないだろう。
再び自分の机に戻った。作業に集中するふりをしながら、そっと棚にしかけた置き鏡を確認する。鏡にはキーボードを叩く教授の手元が映っていた。よし、この角度なら気づかれはしないだろう。直接教授のモニターを覗けるような位置に鏡を仕込めば、さすがに教授も気づいただろう。だがモニターを覗く必要はない。私は、じっと教授の指先を観察する。
――私には、妙な特技がある。他人のタイピング入力を読み取ることができるのだ。
指の動きを見ているだけで、人が叩いた文字列や数字を読み取る能力。これはセキュリティの世界ではショルダーハックと呼ばれている技術で、まぁ言ってみれば泥棒が使う手口の一つだ。いつの間にこんな特技が身についたのかはよくわからない。生来の動体視力の良さと、年がら年中PCに向かっている生活環境によって、気付かないうちに育まれたのだろうか。とにかく、今では人がタイピングしている指先をぼんやり眺めているだけで内容を文字列として認識できるようになった。
この特技のことは、教授はもとより親にすら話していない。様々な局面で悪用できるため、何かあったときに不必要に疑いの目を向けられる恐れがあるからだ。勿論、今まで悪用したことなどないが、今この状況はこいつを役立てる絶好の機会だ。
私は作業するふりをしながら、鏡越しに教授の手を凝視する。さすがの教授も、手元を盗み見られることには注意を払っていない。
その長い指が叩きだす文章は、果たして――ある意味では私の予想を裏付けし、またある意味では私の疑念を加速させるものだった。
曰く……被験者の精神面に異常が見られ始めている、だの。起床から数分間は自我に混乱が見られる、だの。夢の内容を変更する必要性は今のところなし、だの。
つまり、だ。
教授は今、実験の経過を誰かにメールで報告しており、その実験というのはどうやら被験者一人を対象とした心理実験で、何かしら夢に関するものである、ということで……。
やっぱり、私は実験台にされている。それは確からしい。
けれど、目的が分からない。教授はすぐに関係ない別のメールを書き始めてしまったため、実験についてはそれ以上何もわからなかった。実験をしている以上は測定なり現象の再現なり、あるいは実験手段の確立なり、何かしら目的があるはずだ。今のところ、何故私に霧雨魔理沙の夢を毎晩見せているのか、その意図が全く分からない。
しかし……しかし、だ。
一つ分かっていることがあるとすれば、被験者である私に一切何も知らせずに実験をしている以上、これは『私に知られてはまずい』内容の実験なのだ。その理由は、私に知られることで測定値に影響が出るか、あるいは……そもそも公にしてはまずい筋から依頼された実験か……。
私は作業をするふりをしながら黙考する。
もう午後十時を回っている。近頃の私の睡眠サイクルからすると、そろそろ体が睡眠の準備をし始める頃合いだ。どうする。今日もまた、このまま眠ってしまっていいのだろうか。夢の中では、霧雨魔理沙は北白河ちゆりの今日一日の記憶をちゃんと持っているだろう。だが、そのとき魔理沙は「私は北白河ちゆりで、今は霧雨魔理沙の夢を見ている」と思うのだろうか。それとも、「私は霧雨魔理沙で、さっきまで北白河ちゆりの夢を見ていた」と思うのだろうか。……今までの感じからすると、やはり私は夢の中では自身を魔理沙として認識するのではないか……?
それは奇妙な感覚だった。こうして色々明らかになってみると、自分が夢の中で魔理沙になってしまうことがたまらなく恐ろしい。恐ろしいのだが、では何故どのように恐ろしいのかと言われると、うまく説明できない。
――あぁ、なるほど。
これが胡蝶の夢ってやつか。この妙な不安を乗り切った境地……つまり自分が魔理沙だろうがちゆりだろうが関係ない、その時の自分として泰然と生きていればいいって話だったのか、あれは。でもそう言われてもなぁ。私はやっぱり北白河ちゆりのままでいたい。自我の根元の根元から別人になってしまったら、そのとき私はちゆりという人間の存在を否定するだろう。ちゆりが歩んできた十五年間の人生を、夢の中の出来事として片づけてしまうだろう。今の私が、魔理沙の存在を否定しているように。
「お疲れ様。そろそろ休んだら?」
ちょうど午後十一時、教授はそう言っていつの間にか用意されていた紅茶を私に差し出してきた。
「んー、そうだな。歯磨いてくるよ」
紅茶は机の上に置いたまま、私は洗面所へと向かった。
恐らく今夜も私はあの夢を見せられるだろう。きっとあの紅茶を飲んだらすぐに眠くなって、明日の朝仮眠室で目覚めるまで、私の自由は奪われる。実験の目的が不明である以上、このサイクルがいつまで続くのかもわからない。先ほど盗み見たメールの内容からすると、私が発狂するまで続ける気はなさそうだったが。
歯を磨きながら考えた結果、私は一つ、ちょっとした策を打つことにした。
携帯端末の目覚ましアラームを夜中にセットし、服の下に忍ばせ背中に固定する。アラーム音は切ってあるが、時間になれば振動が直接私の体に伝わるはずだ。振動はすぐ終わるため目は覚まさないかもしれないが、完全に覚醒する必要はない。
海を泳いでいる夢を見たと思ったらおねしょをしていた、という経験こそ私にはなかったが、寝ている間に体が受け取った刺激が、夢の内容に影響を与えることはよく知られている。霧雨魔理沙は、北白河ちゆりがこうして目覚ましを仕掛けたことを覚えているだろう。それが夢の中に何らかの不自然な影響を及ぼしたとき、彼女はそれを「自分が夢の中にいる証拠」であると受け取るのでは……つまり、私は夢の中で自我を取り戻せるのではないか。そんな期待を、私はこの目覚ましに込めた。
研究室に戻り、そっと紅茶を飲む。案の定、途端に猛烈な眠気に襲われる。
「もう、休むぜ。おやすみ、ご主人様」
私はそう言い残すと、なんとか自分の足で仮眠室までたどり着き、ソファベッドに倒れこんだ。
◆
時間が経った感覚は全くなかった。
ほんの一瞬のうちに、硬いソファベッドは柔らかな羽毛のベッドに変貌していた。
まるでベッドからベッドへテレポーテーションしたかのようで、この感覚はちょっと面白いな、と私は毛布の中でのんきなことを考えていた。
そっと起き上がり、大きく深呼吸をする。すっきりとした爽やかな目覚めだ。少なくとも、身体の面では。
ついさっきまで研究室にいた記憶ははっきりと残っている。北白河ちゆりとして一日疑念に苛まれた記憶も、事細かに思いだせる。それと同時に、今いるこの場所が霧雨魔理沙の家で、私は十二歳の女の子で、寝癖でぼさぼさの金髪を今朝も時間をかけて梳かないといけないということもまた、はっきりと認識できている。
さて、私は一体誰だろう?
結論から言えば、夢の中の私……北白河ちゆりが予想した通り、私は身も心も記憶も自我も、すっかり霧雨魔理沙になっていた。いや、そもそもその表現はおかしい。「なっていた」だなんて。私は生まれてから今日までずっと霧雨魔理沙で、そうでなかった瞬間は一秒もないのだから。
そう、今私は自分が魔理沙であるという確かな実感を持っている。ついさっきまでは自分自身がちゆりであることを微塵も疑わなかった、その私が。
――私は本当は北白河ちゆりなんじゃないか。そんな不安もまだ残っている。岡崎夢美の謎の実験によってちゆりが見せられている夢……それが私、霧雨魔理沙なんじゃないか、と。私の直感はそれを否定しているけど、理屈の上では、自分が夢の登場人物であることを否定することはできない。そうはいっても、実際今の私は霧雨魔理沙なのだし、その魔理沙にできることといえば、朝食を食べ、隙間風の吹き込み口を塞ぎ、森へ出て山菜を集めることくらいしかなかった。つまりは、結局いつもの一日が始まったのだ。
昼食を食べ終え、香霖堂に行く支度をしながら、ふと昨日の香霖堂での一幕を思い出す。あんなに心が散らかった日の翌日だというのに、私の体は半ば無意識に香霖に会いに行こうとしていた。習慣って奴は恐ろしい。まぁでも私がここで尻込みするなんて、それはそれで癪だし、それに私は昨日心を決めたんじゃなかったか。もっと踏み込んだ話をしようって。
香霖堂への道中、私は自分に問いかけた。昨日香霖が言った言葉の意味を確かめる勇気はあるか、と。私のことをどう思っているのか、彼に直接聞くことができるだろうか。そんなことをあえて口にする必要がどこにあるんだと思う一方で、この四六時中宙に浮いたような気持ちを早く片付けなければ一歩も前に進まないという気もしている。
香霖堂が近づくにつれ、落ち着かなさは増していく。
できるだけ普段通りの言い方を心がけながら、私は香霖堂の前で声を張り上げた。
「よーう。邪魔するぜ」
そっと扉を開けると、珍しいことに香霖は店先の掃除をしていた。私が生まれる前から動かされていないんじゃないかとすら思っていた店頭の品物が、今は棚から降ろされて庭で日干しされている。
「確かに、今はちょっと邪魔かもしれないな。……あ、魔理沙。そこのハタキを取ってくれ」
「え? あぁ」
ハタキを手渡すと、香霖は台に乗って棚の上の埃を払い始めた。
何だろう、この感じ。出鼻をくじかれたような。
「えと……どういう風の吹き回しだ? この中途半端な時期に大掃除なんて」
「品物を入れ替えようと思ってね。近々、なかなか期待できそうな商品がいくつか入荷することになったから」
「へぇ。お前、ちゃんと商売してたんだな」
「ああ。そうだ、君にも手伝ってもらうかな。どうせ暇だろう、魔理沙は」
「そういう頼まれ方をして気分のいい奴はいないと思うぜ」
そうは言いつつも、実際に暇な私は何とはなしに店の掃除を手伝うことになった。黙々と作業するのもつまらないと思い、私は昨日、一昨日と見続けている夢の話を香霖に話して聞かせた。掃除と並行しての会話だったため、ところどころうまく話をつなげることができなかったが、しっかりと話せたところで所詮夢の話だ。香霖もちゃんと聞いてはいないだろうと思っていたら、
「なるほどねぇ。面白いな、それは」
と話の節々で彼は妙な相槌を打つのだった。
掃除がひと段落したところで、香霖はお茶を淹れてくれた。香霖は書き物机に腰掛け、私は机の上に腰掛け、二人でしばし一服する。
「君もなかなか興味深い夢を見たものだね。鏡を置いて人の手元を覗く、か。なるほどなるほど」
香林はおかしそうにそう言った。
「……何がそんなに面白いんだ?」
「いや。ただ、そんな特技があったらひどく便利だろうな、と思っただけさ」
ひどく便利とは、妙に引っ掛かる言い方をする。
「はぁ。そこそんなに重要か?」
「じゃあ、魔理沙はどこが重要だと思う?」
「どこって、だから、なんとか仮説とかの話だろ。私も難しいことはわからないけど、ちゆりの心配してることはちょっとわかる気がするんだ。自分が自分じゃないかもしれないって不安は」
「シミュレーション仮説だね。本で読んだことがある。この郷にあるもので例えると、あれかな。魔理沙はからくり人形を見たことがあるかい?」
「ん? あぁ、親父がいくつか店に置いていたことがある」
「あの人形は生きてはいないが、放っておいても勝手に動くだろう。もっと技術が発展したら、飛んだり跳ねたりもさせられるだろうし、話しをさせることもできる。からくりが究極的に細密になれば、ものを考えたり判断することもできるだろう。そうなると、その人形は人間と外見では判断できない。さて魔理沙。君は自分がそのからくりでないことを証明できるかい?」
「そりゃぁそうだろ。私は生きてるんだから」
「そう思いこんでいるだけかもしれない。心臓だって精巧につくられたからくりかもしれないし、魔理沙が自分の心だと思っているものは実はどこにもなくて、ただ機械が人間っぽい判断をしているだけかもしれないんだ。目の前にいる僕だってからくりかもしれない。いや、この幻想郷全体が、誰かによって作られた夢物語に過ぎない可能性だって、否定することはできないんだ。僕らが想像もできないほど高度な技術によって、この世界が現実を再現した偽りの世界であったとしたら……。どうだい。多少なりとも不安にならないか?」
「まぁ……確かに」
私を含めたこの幻想郷全体が、作り物かもしれない……。なるほど、そういうことか。ちゆりはその話を知っていて、自分が霧雨魔理沙の見た夢かもしれないって不安をずっと抱いていたんだ。
「その不安を、誰かがシミュレーション仮説と名付けたのさ。もっともこれは偽の現実が完璧に現実を装っていた場合の話で、一つでも瑕があれば成立しない。現実世界というものは、膨大な物や事が互いに関係しあっていて、複雑で微妙な繋がりの上に成り立っているものだ。これを完璧に装おうのは、神でもない限り不可能だろう」
不安……なるほど、それは確かに不安だ。でも……。
香霖の話を聞いているうちに、私の中で何かがくるりとひっくり返った。今までそれは確かにちゆりの言うように不安だった。自分が実在しない可能性。それを打ち消すために、自分が実在する証拠をちゆりは探していた。
けれど、本当にそれだけだろうか。
私は何気なく机を回りこみ、香霖に近づく。けれどその顔を正面からは見られなくて、結局背を向けてしまう。
「あの……さ」
私の心に俄かに灯った仄かな勇気が、私の口を動かしている。
「ん? どうした、魔理沙」
「その……いきなり、こんなこと聞くと、変って思われるかもしれない、けどさ……」
「どうしたんだ、改まって」
そのときだった。
不意に、背中で何かがごそごそっと振動した。
「ひゃっ!」
くすぐったくて思わず飛びあがる。慌てて振り返るが、香霖が不審そうな目で私を見ているだけだった。背中に手を回して探るも、そこには何もない。
今のは一体……。
あっ、そうか。あれだ。
夢の中でも自分自身を思い出せるように、ちゆりは振動する目覚ましを仕掛けてから眠りについた。今のはそれが作動したのだろう。
そうか。そうなんだ。
これは、夢なんだ。
「どうかしたのかい?」
「いや、なんでもないんだ。ところで――」
私は椅子に座った香霖の眼前に立ち、彼の目をまっすぐに覗き込んで言った。
「香霖は、私のことどう思ってる?」
え、という口の形のまま、香霖は固まった。
沈黙はまずい。勢いがしおれる前に、言うべきことを全部言ってしまおう。
「え、じゃなくて。答えてくれ。掃除で忘れてたけど、私、今日はそれを聞きに来たんだ」
「どう思って、っていうのは――」
「香霖、昨日親父に言ってただろ。何で私に肩入れするんだって言われたとき、義理以上の感情で動いてるって。あれってどういう意味だったんだ。あんな言い方されたら、言われた本人としちゃ気になるだろ」
すごいな、私。こんなこと、直接聞いちゃうんだ。
案の定というかなんというか、香霖は私の遠慮を捨てた勢いに押されている。
「気になるって、それは君が勝手に盗み聞きしたから――」
「ああもう! だから!」
頬が熱くなるのを感じながら、私は香霖に詰め寄った。勢いをつけすぎて思った以上に顔を近づけてしまい、私の心臓が跳ね上がる。間近で目が合い、私は思わず言葉に詰まった。
「あ……あの、ええと……つまりだな、その……」
ああもう、香霖もぽかんとしてないで何か言ってくれよ。まだ私に喋らせるのか。
さすがに、これ以上は顔を合わせていられない。今、きっと私はひどい顔をしている。でもここで引きさがるわけにはいかない。
「ちょ、ちょっと魔理沙!?」
私は鍔広の帽子を脱いで胸に抱えると、くるりと体を半回転させて香霖の膝の上に座った。香霖の焦りと困惑が直に伝わってくる。
「何だよ、昔はよくこうしてただろ。それとも私、重くなったか?」
「い、いや、そんなことはないけど……。君ってやつは、さっきからおかしいぞ……」
「いいから聞け! つまり、こ、こういうことだ……。香霖が、私のことを……そう、そんなに嫌いでもないっていうんなら、その、一つ考えがあるんだ」
昨日の夜なんとなく思い浮かべていたことを、私は必死で頭を働かせながら語る。
「親父はさ、私が家出した、って考えてるから、だから怒ってるって言うか、世間体が悪いって思ってるんだろ。で、私は、とにかく家を出たかった。つまり、私が家出じゃない形で実家を出たら、親父は文句を言えなくなるし、私も目的を果たせる、ってわけだ。だから……例えば、嫁入りみたいな形でさ、香霖堂に私を置いてもらえたら……ま、まぁ例えばの話だ。勿論、店の手伝いはちゃんとするし、迷惑にならないようにする。なんか、結構いい案なんじゃないかなーって、思ってるんだけど……」
背を向けているため、香霖の表情はわからない。私はばくばくと脈打つ心臓が破裂しないことを祈りながら、
「その……。どう、かな」
そう尋ねた。
暫しの間があった。
香霖からは困惑の気配が消えている。代わりに、彼は何かを考えているようだった。なんだかこうしていると、自分一人だけが暴走して無理なお願いをしているような気がする。実際そうなんだけど。
そして、長い沈黙の後。
「魔理沙」
香霖が、いやに冷静な声色で言った。
「その話の前に、ちょっといいかい? 降りてもらっても」
「ん? え、あぁ」
私は慌てて香霖の膝から飛び降りた。香霖はすっと立ち上がり、店の奥へと姿を消した。ややあって再び姿を現した彼は、
「とりあえずこれでも飲んで一旦落ち着こう」
と湯呑を私に差し出した。
私は素直に受け取り、口に含む。それは程よく温まったお茶だった。なるほど、こういうものは気の立った子供の気を鎮めるのに役に立つ……と他人事のように考えていると。
「僕はね、魔理沙」
香霖はどこか淡々と語りかけてくる。
「初めに言っておくと、君がそう提案してくれたことが意外だったし、好意的に受け止めたいと思ってる。持って回った言い方をしてしまったが……つまり、それが嬉しいかというと、そうじゃないんだ。勘違いしないでほしいが、これは君に対する気持ちがどうこうという話じゃないんだ。いいかい魔理沙。君が、本心から僕にそう言ってくれているなら、僕はまっすぐに君と向き合って僕の気持ちを答えよう。でも、今の君はそうじゃない」
「なっ、何だと。私は、思ったことを言ったまでで」
「いや。いいかい、もう一度よく考えてみてくれ。僕はできれば君と対等に接したいと考えている。親父さんのように、君を子供として見下すような態度は取りたくないんだ。けれどそれには、君にも努力してもらわなければならない。僕は君に……その……自分で物事を考えられる人間になってほしいんだ。僕の言いたいことは、うまく伝わっていないかもしれないが、今は黙って聞いてくれ。人は、他人に言われたことをただ鵜呑みにしているだけでは、一人で生きていけないんだ。僕は、自分自身の考えによって支えられている君と語り合いたい。そのために、もう一度よく考えてほしいんだ」
何だろう、香霖は変に歯切れが悪い。
「結局何が言いたいんだよ、こうり……うっ……」
その時、急に眩暈がして、私は湯呑を取り落とした。
眠い。何だ、この猛烈な眠気は。
世界が揺らぎ、私が揺らぎ、香霖の姿がかすんでいく。瞼が重くなり、体がどんどん沈んでいくような感覚に見舞われる。
意識が遠くなっていく中、最後に香霖の声が私に囁いた。
「魔理沙。これはね、よく考えればわかることなんだよ……」
◆
そして私は……気が付くと、真っ白な世界にいた。
白。辺りは見渡す限り、白だった。真冬の雪原より、いつか写真で見た塩湖より、もっと純粋で平板な白い空間が、私の周りに広がっている。私自身も白いワンピースを着ている。上も下もないような白い世界に、私は一人佇んでいた。
私……。
私って、今は誰なんだ?
「お疲れ様」
突然、すぐ近くで女の人の声がした。聞き覚えのある声だ。
声を認識するのとほぼ同時に、私は彼女の姿を認識した。赤いドレスに赤いマント。赤髪を背で一本に束ね、赤い回転いすに腰掛けている。白い世界の中で唯一つ、意味のある情報として彼女はそこにいた。
岡崎夢美。
彼女は、確かそう呼ばれていた。
「突然呼び出したりして悪かったわ。それを言うなら、断りなくこの実験に巻き込んだことを謝罪すべきね。けれどまだ実験は終わったわけではないから、あなたにはもうしばらく付き合ってもらうわ」
「実験……?」
夢美はゆっくりと頷く。
「私は、あなたを利用してある実験をしていたの。実験の目的は、夢を見せるだけで自我を奪うことができるかどうか検証するというものだった。こちらが用意した、いかにも現実らしい夢を見せて、そっちを本物だと思いこませられたら成功。実際にはその夢は単なる実写映像で、誰かの一日を一人称視点で追ったものに過ぎないのだけど、それを被験者の夢に転送するとまるで自分がその誰かになったかのように錯覚させることができる。でも夢は所詮夢で、その体験は夜間限定の錯覚なのよ。にもかかわらず、現実を否定するほどの現実感をその夢に与えることができるかどうか。私は、それを確かめたかった」
「な、何でそんなことを……」
「理由なんてないわよ。強いて言うなら、興味があったからかしらね」
そして夢美は冷たく微笑んだ。科学者というにはあまりに魔術めいた笑い方だった。
「被験者には、実験内容も実験があること自体も伏せる必要のある実験だったから、あなたには無断で進めさせてもらったわ。でも健康には影響を与えないよう配慮しているし、これが済んだら元の生活に返してあげるから、そこは安心して」
「まだ……何か、やるのか……?」
「ええ。最後の仕上げとして、あなたには、今からする質問に直感で答えてもらうわ。即ち、『あなたは北白河ちゆりか? それとも、霧雨魔理沙か?』」
彼女は、私が今一番知りたかったことを問いかけてきた。
「さぁ、答えて」
つまり、夢美はこう言っている。
私はちゆりか魔理沙のどちらかである。この三日間、私が体験してきた「眠っている間に夢で別人の一日を追体験する」という現象は、私がちゆりだとしたら魔理沙の夢を、魔理沙だとしたらちゆりの夢を、実験装置か何かで見せられていたのだ。
そうして別人の自意識を植え付けた上で、私がここで答えを誤れば実験は成功……ということ、か。
実験があるらしいこと自体は私、というかちゆりも気付いていた。その目的も内容もある程度説明されて、とにかくこの問題に答えれば元の生活に戻してもらえる、というところまでは理解できた。
でも。
それじゃあ、私は誰かと聞かれると……。
「今、あなたには特別な夢を見てもらっているわ。私と対話するというだけの夢をね。今のあなたには、あなたがちゆりだった時の記憶もあるし、魔理沙だった時の記憶もあるはずよ。けれど、あなたの正体を探る手がかりはこの夢からは排除してあるわ」
そう、今私は服装からも身体的特徴からも、自分が誰であるか判断できなかった。
なるほど、夢美の実験は相当首尾よく進んだらしい。何故なら私は、……魔理沙であるような気もするし、ちゆりであるような気もするのだ。
直前まで私は魔理沙だった。でも、これはちゆりの夢の中だという気もしていた。一方で、ちゆりも自分がちゆりであることに確信を抱いていたわけではない。
直感で答えろと言われても、私の直感はわからないと言っているのだ。私が魔理沙だとしたらちゆりは存在しないことになるし、ちゆりだとしたら魔理沙は存在しないことになる。でも、どっちの私もはっきりとした存在感を持っていた。ここで私が答えるということは、二人のうちどちらかの人生を否定するということだ。答えろと言われて、さっとどちらかを切り捨てることなんてできない。
「……質問、いいか?」
「何?」
「その、……どっちか片方はあんたが見せていた夢だったんだよな?」
「えぇ」
「その『見せる』っていうのは、どのくらい信じていいんだ? うまく伝えにくいけど……その、普通に考えたら、どっちかっていうとちゆりなんだ。私は。だって、ちゆりの近くであんたは怪しい行動を取っていたし、ちゆりがしかけたアラームの振動を、魔理沙は日中に背中に感じ取っている。これが仮にちゆりが夢で魔理沙が現実だとしたら、ちゆりの夢は色々と罠を張っていた、ってことになるのか?」
「そうでしょうね。つまり、あなたが経験した出来事は一切あてにならないってことよ。私はその気になれば現実世界のあなたにも何らかの方法で影響を与えることができるわ。そこに具体的なヒントや手がかりなんてない」
要するに、推理はできない。あくまで直感で答えろってことか。
直感では……私は……。
い、いや。待て。
……本当に、そうだろうか?
結論を急ぐな。香霖だって言っていたじゃないか。自分で考えられる人間になってほしいって。
よく考えろ。
夢美は、経験の中に具体的なヒントはないと断言した。こんな妙な実験をやるような人間だ、何か手品のような方法で、現実世界に現実ではありえないような不思議現象を起こすことだってきっとできる。でも、だからといってわざわざ念を押すほどのことだろうか?
私の目の前にいる彼女は、間違いなく現実世界からやってきているはずだ。
その彼女が手がかりがないとわざわざ念を押すってことは……手がかりを隠そうとしてる、ってことなんじゃないか?
「考えすぎよ。早く答えて」
夢美がじれているのを肌でひしひしと感じながら、私は長い時間をかけて黙考した。
そして。
「あっ――」
夢美が隠そうとしたその瑕が、私の目の前にようやく姿を現した。
「……そういうことか……」
「どうしたの?」
「わかったんだ。私が誰なのか」
夢美は眉を寄せる。
「わかった?」
「ああ。わかったっていうか、多分……証明できると思う。私は霧雨魔理沙であって、北白川ちゆりではありえないってことが」
夢美は渋面を浮かべたまま無言で続きを促した。
「まず……多分、魔理沙もちゆりも実在しているんだと思う」
「どういうこと?」
「さっきあんたは、被験者に見せてる夢は実写映像に過ぎないって言ってたよな。ってことは、その映像の中で夢を演じていた役者がいるはずだ。私が魔理沙だとしたら、夢の中でちゆりを演じていたちゆり役の人間、こいつはどこか別の場所に実在してるんだ。ちゃんと。これはさっきあんたが言ったことから推定しただけで、そんな飛躍でもないだろ?」
「えぇ。そうね。続けて」
「ちゆり役……まぁ、こいつをちゆりって呼ぶことにするけど、ちゆりは三日間、ちゆりの生活を全部魔理沙に見せていた。心の中で思ったことまでも。同じように、夢に出演した岡崎夢美や宇佐見蓮子も多分実在している。夢美とちゆりは、私に見せる夢に現実感を与えるために、色々と小細工をした。夢美がちゆりを実験台にしているような演出とか、ちゆりが携帯端末にアラームを仕掛けて現実世界の魔理沙にその振動を伝えるとか、そんなことをだ」
「ええ、そうかもしれないわね。そして、魔理沙と森近霖之助が仕掛け人で、ちゆりに魔理沙の夢を見せている場合でも同じことが言えるでしょう」
「ああ、そうだな。私が言いたいのは、どっちかは演技だった、ってことなんだ。魔理沙もちゆりも、自分が自分であることを証明することはできない、っていう説に一度は触れていたよな。でも、演技をしている奴……つまり嘘をついている奴の嘘を見破るのは、そんなに難しいことじゃない。ただ、単なる嘘ならともかく、私が見破らないといけない嘘は、『現実では絶対に起こりえない嘘』なんだ。これはちょっと厄介だ。例え目の前で人が浮いているのを見たとしても、そんなのいくらでもトリックを用意できるだろうし、何なら本当に空を飛ぶ能力を持った人間が存在してもいい。実際、幻想郷が現実だとしたらそんな連中掃いて捨てるほどいるし。目の前で魔法が使われたとしても、それは絶対に起こりえないとは言えないわけだ。同じように、他人や自分の挙動も、嘘の証拠にはならない。人は嘘をつくし、自分自身だって心にもないことを言うこともある。でも、一つだけ、絶対に真実でなければならないことがある」
「ふぅん。何かしら」
それまで不機嫌そうな顔をしていた夢美は、初めてその顔に興味の色を現した。
「『心の声』だよ。自分で思ったことだけは絶対に確かなんだ。というか、絶対に確かでないといけない。だって心の声は本来誰にも聞こえていないんだから、そこで嘘をつく必要は全くないんだ。逆に言えば、矛盾したことを思った奴こそ、心の中までも演技をしていた、ってことになる。私は二人の三日間の生活を思い返してみたんだ。どっちもそれなりに自然に三日という時間を過ごしていた。夢を見ている側がその場では違和感を感じない程度に。でも一つだけ、思い返すとどうしても不自然な思考があった。ちゆり側にな。……ここからは若干私の想像も入るけど、でも嘘の証明には影響ないからしばらく突っ込まないでくれ。恐らく、仕掛け人ちゆりは当初、自分こそは実在し岡崎夢美に実験台にされているというシナリオを演じ切ろうと考えていた。心の声には現さなかったけどな。徐々に夢美に対して疑念を抱き、ついには夢美が実験をしているという証拠を掴む、って言う流れだ。でも、このシナリオは途中で変更された。予定外のことが起きたんだ。きっと、最初に描いていたシナリオはこんな感じだろう。二日目、ちゆりは図書館で偶然宇佐見蓮子と出会い、彼女から夢実験に関する噂を聞く。この蓮子もエキストラとして出演していた役者ってことになるな。三日目になってより一層疑念が深まったところで、ちゆりはもう一度図書館に行き、そこで再び蓮子と出会う。このとき蓮子は、岡崎夢美が実験の首謀者であるという情報をちゆりにもたらすんだ。ちゆりは自分が実験台にされていると知り、アラームを仕掛けて眠りにつく。……というのが当初の想定だったんだ。でも、実際にはちゆりが三日目に図書館に行ったとき、そこに蓮子は現れなかった。多分何か予定外のことが起きて、彼女は出演できなくなったんだ。そこでちゆりは急遽別の方法で夢実験の情報を得なければならなくなった」
今思えば、三日目のちゆりの行動は全体的に不自然だった。蓮子が図書館に再び現れるという確信もないのに日が傾くまで待ち続け、結局不発に終わり研究室に戻っている。その後彼女は突然、人には知られていない特技があるなどと言いだして、夢見のメールを読み取り始めるのだ。
「情報を得るって言っても、事はそう簡単じゃない。何しろ、夢美に気付かれないように彼女が持っている情報を盗まないといけないんだ。夢美のモニターをちらっと盗み見るようなやり方じゃ、『そんな簡単な方法で夢美が情報を漏らすわけがない』っていう不自然さを残してしまう。だから、ちゆりは自分がショルダーハックという特殊技能を持っているっていう設定を即興ででっちあげたんだ。夢美の手元が見れるような位置に鏡を置いて、そこから手元を観察し、心の中で私に対して嘘をついた。ふむ、読めるぞ、何何……なんと! 教授はやはり私を実験台にしていたのか、ってな」
「つまりあなたは」
夢美は静かに口を開く。
「ちゆりにそんなことができたはずはない、なのにメールが読み取れると心の中で嘘をついた、だからちゆりは演技をしている……そう言いたいの?」
「いいや。ここまではただの状況整理だ。夢美のタイピングを読み取ったことが嘘だとしても、読み取った内容が嘘であると証明することはできない。今のは、きっとそういう理由でちゆりは回りくどい方法を使わざるを得なかったんだろう、っていう筋道を推測しただけだ。私が証明する嘘は、ちゆりがそんな能力を持っているっていうこと自体なんだ。ちゆりはな、そんな能力を持っていたはずがないんだ。だってそうじゃないか。いいか、ちゆりがショルダーハックを習得していたとしたら、彼女はあらゆる場面で他人のタイピングを読み取ることができたんだぞ。だったらどうして二日目の図書館の受付カウンターで、司書に複写の制度を調べてもらっているときに、ちゆりはこんなことを思ったんだ。『こいつ、本当にちゃんと調べているんだろうか』って」
夢美は無表情を装っていたが、その目元がぴくりと震えたのが見て取れた。
「そう、ちゆりの三日間の中で、この心の呟きだけはどう解釈しても矛盾している。ちゆりは三日目に心の中で言ったな、今では他人のタイピングをぼんやり眺めているだけで入力している文章が読み取れるって。二日目の図書館のあの場面で、ちゆりはカウンターに座る司書と向かい合っていた。そして、ちゆりには間違いなく司書の手元が見えていた。なぜなら、ちゆりはその後の蓮子との会話でその場面を思い出して、心の中でこう呟くからだ。『そういえば、結婚指輪が彼女の左手に見えていた』……更に、制度を調べてもらっているときは『司書は私が最初にここを訪れてから一切変わらない姿勢で端末を操作し続けている』とも言っていたな。つまり、だ。ちゆりが司書の結婚指輪を確認した時、司書は確実にキーボードに手を置いていて、それがちゆりから見えていたってことは、ちゆりは司書が入力する一字一句をすべて把握できていたはずだ。それなのに、ちゆりは司書がちゃんと制度を調べていたかわからなかった……」
私は言葉を切り、夢見を見据えた。
「本当に些細なことだけど、はっきりとした矛盾だろ。だから、私はちゆりじゃない。霧雨魔理沙なんだ」
夢美は苦々しげに嘆息すると、ぶっきらぼうに答えた。
「はい、実験終了よ。お疲れ様でした。……霧雨魔理沙ちゃん」
◆
目覚めは、唐突だった。
白い部屋も赤い科学者も一瞬で消え失せ、私は気が付くと妙なにおいのするベッドの上に横たわっていた。
ええと。どこだ、ここは。
「大丈夫かい? 魔理沙」
横から、落ち着いた男性の声がする。振り向いて確認するまでもない。香霖だ。ってことは、ここは香霖堂か。そういえば、このベッドのにおいはどこか香霖を連想させる。ここは香霖の寝室なのだろう。
「ん、ええと……」
起き上がろうとしたが、ベッドの横に座る香霖に押しとどめられる。
「もう少し休んでいるといい。色々あって疲れただろう」
「……はぁ……」
ん?
色々あって?
「ちょ、ちょっと待て。え、何か。香霖は何があったか知ってるのか?」
その問いかけを言い終わる前に、
『お疲れ様、魔理沙ちゃん。それと、あなたもご苦労様。とても助かったわ』
ざらっとした声がどこからか聞こえてきた。随分潰れているが、さっきまで私と話していた岡崎夢美の声だ。
辺りを見回すと、声の発信源はすぐ近くに見つかった。昨日香霖堂の物置で見かけた箱型の機械が、ベッドテーブルの上に置いてあり、その機械の一面に岡崎夢美が映っていた。こうして見ると夢の中に出てきた情報端末とかいう機械に似ているが、夢の中のそれとは違い、この機械からはどこか古めかしい印象を受ける。
「え、っと……どういうこと?」
私は香霖の顔と夢見が映る機械を交互に見る。
『魔理沙ちゃん。さっきの最終討論であなたが仮定した実験の裏側は、ほとんど正鵠を射ている。あなたに見せる夢の映像を作るために私やちゆり、宇佐見さんはずっと演技をしていたし、予定外のことが起きた結果、焦ったちゆりがあんな無茶苦茶な設定を持ちだして整合性を保とうとした部分もその通り。ただ、一つだけ捕捉しておくわね。今回の実験では基本的にあなたへの干渉は夢の中だけに限定していたわ。だから私たちはこちらの世界からあなたの脳に夢を転送していた。けれど、どうしても幻想郷側にも協力者が必要だった。私たちは幻想郷の外にいるから、あなたの健康状態に異常があった場合にすぐに対処することができないの。それで、間近であなたを看視する役目を、そこの霖之助さんにお願いしたのよ。このテレビ――もとい外の世界との通信装置や、こちらの世界の最新の道具を報酬にね』
ああ、あれか。香霖が言っていた、近々商品が増える見込みがあるっていうのは、夢見から協力の報酬としてもらえる道具のことを言っていたのか。
……ん? ってことは。
「要するに香霖は、道具欲しさに私を売ったってことか? 私が変な実験に巻き込まれてるのを黙って見過ごす代わりに、店の商品を充実させる……」
「そんな人聞きの悪い言い方をしないでくれ」
香霖は憮然として否定する。
「魔理沙に悪影響があるような気配があったらすぐに実験を中止するという条件だったし、それに君の成長にも役立つんじゃないかと思ったんだ」
「素直に珍しい商品がほしかったって言えばいいのに。……あっ、それじゃあれか! ちゆりが仕掛けた目覚ましの振動を私が感じたのも、あれってお前の仕業だったんじゃないのか?」
夢美は夢の中にしか干渉しないという。となると、あのとき私の背中に振動を感じさせたのは幻想郷にいる誰かの仕業ってことになる。そうだ、思い返せば、あの時私は香霖に背を向けていた。
「その程度の協力は求められていたからね。ただ、実際に僕がやったことと言えば君の背中をくすぐっただけだ。ちょっとした悪戯だよ」
悪びれもせずにそう宣う。自分は悪くないモードに入ったこいつは極めて頑固だ。でもこれは見過ごせない。
「な、何がちょっとした悪戯だ! あれで私は確信したんだぞ、これが夢だって。これってつまり、お前は怪しげな連中と結託して私を陥れようとしたってことだろ!」
むっ、と香霖の眉が寄る。さすがの香霖も機嫌を損ねたらしい。
「陥れるとは言葉が過ぎるぞ。極言すれば、僕の悪戯を君が勝手に解釈したまでの話だ。勝手に解釈して勝手に人の膝の上に乗り、それから君は何と言ったかな?」
「ちょっ……ちょっと、お、お前、そんな……ひっ」
卑怯だぞ、と言おうとしたのだが、それ以上は言葉にはならなかった。なんだこいつ、普通この場面でそれを持ちだすか?
私が何も言えなくなってしまったところへ、
『ちょっといいかしら』
夢美の声が強引に割って入ってくる。
『とにかく、これ以上こちらからはあなたたちに干渉することはないから、そこは安心してね。それじゃ、報酬は後で転送しておくから。お疲れ様でした』
それだけ言い残すと、ぷつんと機械は沈黙した。夢美の像も消え、機械はただの古めいた箱に戻る。
気まずい沈黙が香霖の寝室に訪れる。私は、怒りと恥ずかしさと、その他ありとあらゆる感情がごちゃまぜになったような心持のまま、香霖のベッドの上にうずくまっていた。
「ええと……じゃ、じゃあ私は帰る、ぜ」
「ああ、今日はゆっくり眠るといい」
「……なぁ、香霖」
「ん? 何だい」
私は布団の上をそろそろと滑るように移動し、極力彼に顔を見られないようにしながらベッドを下りた。床に並べられていた私の靴を履き、机の上の帽子を手に取る。
「一つ提案なんだけど……」
「ああ」
「何ていうか……そう、あれだ。夢美とかいうよくわからん外の人間が、私に変な悪戯をした。つまり、それだけの話、だよな?」
「そうだね」
火照る顔を帽子で隠しながら、私はゆっくり部屋の出口まで向かう。
「だから、本来幻想郷の中で起こるはずがなかった案件ってことで……今回のことは、なかったことにしたいんだが」
「つまり、水に流してほしい、って?」
「水に流すというか、忘れてほしいというか……」
香霖は何も答えない。私もこれ以上言うことが見つからず、その場に立ち止まってしまう。
何もなかったことになんてできない。でも、今はとにかく忘れてほしかった。仮に何もなかったことにしたとして、私は明日、普通に香霖と顔を合わせることができるだろうか。
帽子の陰からそっと香霖の方を覗くと、香霖は箱型の機械を不思議そうにいじっていた。私のことなんて頓着していない様子だ。その姿が腹立たしくて、どこか悔しくて……。
私は部屋の戸口に突っ立って、彼に吐きかける捨て台詞を探し続けた。
◆◆◆
「……何? これ」
画面に映し出された魔理沙と霖之助の腹立つやり取りを見ながら、ぼそりと教授が呟いた。
気まずくも甘酸っぱい香霖堂の空気とは対照的に、我らが岡崎研究室は疲労感に包まれていた。
「何って言われても。教授のおかげで、魔理沙と霖之助の仲が一歩前進したかな、とかそういう終わり方なんじゃないの」
「また適当なことを言うわね」
「だって興味ないし」
教授は椅子の背もたれに体重を預けてのけぞり、はぁぁぁっと深いため息をついた。
「まったく……我ながらひどい実験だったわ」
「そうだな」
「そうだなって、あなたも少しは反省しなさいよ。あんなミスをするなんて。宇佐見さんが来られないなら、メールなり手紙なりを彼女から受け取って、そこで私が黒幕だと知ったことにすればよかったじゃない」
「仕方ないだろ、あそこ全部アドリブだったんだから」
大体、最初から私は乗り気じゃなかったんだ。今回の実験には。
そもそも今回の実験の発端は宇佐見さんにあった。彼女が夢についてあれこれ調べているというのは本当で、その関係で岡崎研に話を聞きに来たのが一週間ほど前。初めのうちは夢に関する知見をあれこれ教授と交換していたのだが、議論は次第に紛糾し、「夢と現実の関係性」について宇佐見さんと教授の間で意見がはっきり分かれた。夢と現実は本質的に同等なものであるとする宇佐見さんに対し、教授はその間には次元の差ほどの違いがあると主張した。その議論が心理学的な見地に基づくものなのか脳科学的なものなのか、あるいは完全なオカルトなのかも私にはよくわからなかったが、気が付けば実験で確かめてみようという話が二人の間でまとまっていた。なるほど、夢を使った洗脳というのは多少面白そうではある。実際にその実験をするのが私でなければ。こちとら本当に教授の代理発表の準備で立て込んでいたというのに、迷惑極まりない話だ。
実験対象になったのは幻想郷という別世界に暮らす少女、霧雨魔理沙。教授は特殊な装置を使って魔理沙の夢に映像を転送する仕組みを開発した。ここ最近の教授は、幻想郷の住人に対し様々な実験をすることに躊躇がなくなってきている。私としては、幻想郷が本当に実在するものか、どこかのスパコンがシミュレートした仮想世界なのかもわかっていないし、それについては深く踏み込んで考えない方がいい、という立場を固めつつある。
魔理沙に見せる夢は、私が帽子につけた小型カメラから撮影した私の一日に、後から心の声をアフレコした映像だった。映像として見るとちゃちな低予算映画のようだったが、夢の中で体験する分にはこの程度のクオリティで十分らしい。ちなみに、夢のシナリオを書いたのは教授だ。いもしない初恋相手の従兄などは全て教授の創作だった。魔理沙に見せる夢の中では、北白河ちゆりは憧れる世界を夢に見させられているという設定だったため、ちゆりの乙女な一面の演出がなされたが、演じる本人としては溜まったものじゃない。私は半ばうんざりしながら、私らしくない私の芝居を続けていた。
とはいえ実験の経過は好調で、霧雨魔理沙は夜ごと転送されてくる私の夢に混乱させられているようだった。シナリオが狂いだしたのは三日目。後から聞いたのだが、宇佐見さんは二日目の晩に友人と例のサークル活動で肝試しに行っており、その友人が事故で怪我をして入院することになったらしい。入院するほどの怪我だ、こちらに手が回らなかったのも理解できるが、困ったのはすっぽかされた私の方だ。夢の映像は後から編集するのもコスト的に限度があったため、私は即興でシナリオを変更し何とか演じ切った。この辺りの経緯は魔理沙が予想した通りだ。
「それで、宇佐見さんにはどう報告するんだ?」
「あなたのせいで実験は中止になりました、でいいでしょう」
教授は投げやりに言い放つ。宇佐見さんの無断欠席や私の不手際は教授を大いに苛立たせたらしい。
「まぁ教授が怒るのもわかるけどさ。折角観察記録もとったんだし、せめてポストモーテムくらいやろうぜ」
「必要ないわ。色々と不手際の多い実験だったけど、それ以上にこの実験はもう意味がないのよ。元々これは、被験者に夢を現実であると錯覚させる実験でしょう。ということは、魔理沙が積極的に現実を『これは夢だ』と思い込もうとした時点で、それ以降のデータは意味をなさなくなる。被験者の思考に余計なバイアスがかかっているわけだから」
「思い込もうとした?」
「見てて気づかなかった? 魔理沙は三日目、アラームの振動を背中に感じた時点でこう考えたのよ。『私がちゆりの見た夢だったら、いっそ香霖に告白してもいいかな。どうせ夢なんだし』って」
「あぁ……」
確かにいきなり魔理沙が積極的になっておやと思ったが、あの唐突なギアチェンジはそういうことだったのか。
今、画面の中の香霖の寝室では、魔理沙と霖之助が気まずい沈黙を守り続けていた。やがて魔理沙は何も言わずにばたんと戸を閉め、走り去っていった。残された霖之助はというと、どさりとベッドに倒れこみ、深く息を吐いた。霖之助が今どんな気持ちかは私にはわからないが、それを考えるのは魔理沙の役目だ、という気もする。
今思うと、魔理沙が霖之助に淡い恋心を抱いていることは最初からわかっていたのだから、魔理沙が「夢であることをあてにする」という今回の展開は予想できてもいいはずだった。けれど私も教授も、実験が始まるまでは魔理沙の心情がそんな方向へ流れるなんて思ってもみなかった。私たち人間にとって、自分の存在というのはいつも絶対に確かでなければならない。そう思い込んでいたから。
自我を持って生きる人間の大前提に、こんな例外があるなんて。
うん、なるほど。
確かに、人の心は謎に満ちている。
種明かしの前に矛盾に気づけた自分を褒めたい。
霖之助が意識だけ外の世界に出たり、菫子が夢で幻想入りしたりしてるのを考えると
精神だけを使って交信する事は可能なのかも?
長さを感じさせない文で良かったと思います。
旧作とWin版と香霖堂の設定がいい感じでした