Coolier - 新生・東方創想話

風神の後、地霊の前

2015/12/11 18:59:18
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神奈子様、そして諏訪子様の口から『地下』や『地底』といった単語をよく聞くようになったのは、いつの頃からであっただろうか。

お二人と共に幻想郷にやってきて早1年。
新参者への洗礼も済み、私たちも少しはこの地の住人として認められてきたと思う。

幻想郷とは外の人間が迷い込み、外の妖怪が攻め込み、そして外の神が逃げ込んでくる場所だ。
そういった具合に馬鹿にされることもしばしばあったが、私はいつだって笑って言い返してやったのだ。
そんな私たちを受け入れてくれてありがとう、と。

我ら守矢神社にとって地域住民との交流は必要不可欠だ。
神は人と人との関わりの中におり、実在を信じてもらわなければ存在しえない。
信者の数が力であり、友人の数が誉れであり、知人の数が寿命である。
ならばこそ様々な催しに参加し、そこにある営みに加わることは私たちの宿命であるし、私たちに居場所をくれた彼らへの報恩でもあるのだ。
その思想を体現する為、私は今日も山を駆け巡り、未知のモノ、未知のヒト、未知の場所、それら素晴らしいものを求めて探検しているのであった。

今日もきっと素敵なドキドキに出会えるだろう。
そう思いながら腰の高さまである草むらをかき分け、湿り気を帯びた足元を気にもせず、露出した岩、突き出た枝、それらの間を抜けながら私は道なき道を歩く。
通常の山道はこの1年で散策しつくしていたため、最近はこうした獣道ですらない場所を踏破するのが常であった。
今着ているのは汚してもいい安い巫女装束なので、服の摩耗を気にすることもないし、遭難者と間違えられてもご愛嬌だ。
なにか面白いものないかなー。

足の向くまま気の向くまま、遠くに聞こえる水の音に向かってなんとなく歩いていると、私はいつの間にか狭い川べりへとたどり着いていた。
この川は山間を流れる小さな川の1つであるが、流れも速く切り立った崖の底を流れているため、水源の方か、逆にだいぶ下流の方でなければ人が関わるような川ではないはずだった。
だが、その川べりにぽっかりと、四畳半ほどの平らなスペースがまるで用意されたかのように開けていた。
上流の方を見れば木々の間にしぶきを上げる滝がうかがえ、裾の方を見ればこれまたうっそうとした森が広がっている。
そして背後を振り返れば、今しがた突き進んできた背の高い植物が視界を覆い尽くすかのように蔓延っていた。
周囲に人が進んで来れそうな道はなく、ただ本当に、そこだけ切り取られたかのように草一本生えてはいなかった。

私はこの川にこんな場所があることを初めて知った。
日光も十分に降り注いでいるし、広ささえ気にしなければピクニックシートを広げるのにも申し分ない。
これはいい場所を見つけたと思い、私は神奈子様へこのことを報告する場面をシミュレートして思わず頬が綻んだ。

まるで高速道路のように絶え間なく流れるその渓流を見下ろし、私はあまり近付きすぎないように気を付けながら懐に忍ばせておいたお神酒を取り出す。
これは本来ならブランデーなどを入れるような平べったいボトルで、外の世界に住んでいた時に見た映画に影響されて買ってもらったものだ。
中に入れていたお神酒を地面に数滴ずつこぼしていき、軽くあたりを清めておく。
私のような美少女がこんな人目のないところでぼうっとしていたら、何が襲ってくるかわからないからだ。

簡易的なお清めも終わり懐にボトルをしまったところで、私は自身にさっと影が差したことに気が付いた。
はて雲でも出てきたかと思って空を見上げてみたが、そこに見えた物は雲でも飛行機でもなかった。

「おや、先客とは珍しい」
「あ、こんにちは椛さん」
「はいこんにちは、……まったく、ここのことは秘密だと言っていたくせに」

刀と盾で武装した白狼天狗が、私の隣にふわりと着地した。
その無駄のない綺麗な着地は椛さんの身体能力の高さや、妖力のさじ加減に関する熟練さを想像させ、昨日今日飛べるようになったような私とは年期が違うのだということを思い知らされた。
強い意志の宿った切れ長の瞳で見つめられ、私は思わずどきりとしてしまう。
どことなく責めるような視線を向けられ、私は何か失礼なことをしてしまったのではないかと思い始めていた。

ブツブツと独り言をつぶやく椛さんは背後の草むらの中に手を突っ込んだかと思うと、そこからゴザを引っ張り出してきた。
そんなものがあったのかと驚きもしたが、よく見ると迷彩柄のシートが被さっていたようで、これでは気付かなくても仕方がなかったなと納得することにした。
それよりも、当たり前のようにゴザを敷き始める椛さんの様子を見るに、ここは彼女のテリトリーなのではないのかという疑惑が鎌首をもたげてきた。
つい今しがたあたり一帯にお清めをしてしまったところであったが、もしここがこの白狼天狗の秘密の場所だと言うのならすぐにでも立ち去らなければならないだろう。

「椛さん、あの」
「早苗さん」
「……」
「……」

タイミング悪く、呼びかける声が重なってしまった。
バツの悪そうにする椛さんに手のひらを向けて続きを促し、自分は黙っていることにする。

「早苗さん、にとりはすぐに戻りますか?」
「はい? いえ、見てませんが」
「……? あれ? じゃあ、あなたどうやってここに来たんですか?」
「探検してたら見つけました」
「……これだから守矢は」

何やら呆れたように額に手を置く椛さんであったが、その様子から考えて、ここは椛さんとにとりさんの秘密の花園だったのであろうか。
そうだとしたら悪いことをした。
お清めだとかそんなのではなく、2人だけの秘密というものに、私はうっかり土足で上がり込んでしまったのだ。
こういうものは当事者以外の誰もが知らないからこそロマンがあり、たとえ私が誰にも言わないと言ったところで意味はないのだ。

「すいません、すぐに出ていきます」
「……いえ、お気になさらず、もとより誰のものでもない場所です」
「それでも、すみません、私はかけがえの無いものを台無しにしてしまいました」
「事情を察していただいて恐縮ですが、こういったものは危ういが故に、いずれ崩れるからこそ尊いのです、どうかお気になさらず」
「……ありがとうございます」

始めこそ不機嫌そうだった椛さんであったが、私の態度に思う所もあったのか、いつのまにかその表情を穏やかなものに張り替えてくれていた。
私個人ならともかく、守矢神社の看板に泥を塗る訳にはいかなかったので、椛さんの大人の対応には心底ほっとした。

その椛さんはゴザを引き終わると、その上に大きな板を乗せた。
先ほどの迷彩柄のシートから取り出した将棋盤のようなそれは、私が知るどの将棋盤よりも面積が広く、マスの数も多かった。
囲碁の盤かとも思えてきたが、椛さんが何やら紙面を睨みながらパチパチと配置していくそれは将棋の駒によく似ていた。
天狗大将棋、だったか。

どうやら中断した対局の途中か、あるいは詰将棋でも始めるつもりらしく、その盤面の駒たちは戦いの途中であるかのように見える。
普通の将棋すら動かし方しか知らない私だ、形成されていく盤面を見ても、どちらが有利なのかはわからなかった。

「……来ましたか」
「はい?」

盤とにらめっこしながらうんうんと唸っていた椛さんが、ふいに話しかけてきた。
ただし、話しかけた相手は私ではなく、川底に潜む山の仲間に向けての物であった。

「やあ椛、私は悲しいよ」
「誤解です」
「2人だけの秘密だと言ったじゃないか、それもよりによって守矢になんてね、私の胸は悲しみで張り裂けそうだよ」
「……ああもう」

この流れの激しい渓流を悠々と逆走してきたのは、私も面識のある河童であった。
川岸に手をかけ、この四畳半によじ登ってくる姿はまさしく妖怪然としていて、口から投げつけられる抗議の声も、私には相応以上に恐ろしげに感じられる。
ただ、水中眼鏡のようなゴーグル越しに放たれる怒りの視線は、私ではなく椛さんの方に向けられていた。

「どうしよう椛、私は殴り返されるのを覚悟で君に一発ぶち込まないと今夜眠れそうにないんだ」
「やめてください誤解です、早苗さんは偶然ここにたどり着いたそうです」
「よしてくれ椛、これ以上私を苦しめないでくれ、それが嘘だったら私は君への嫌悪で眠れなくなる、それが本当だったら無実の君を疑ったという自己嫌悪で眠れなくなる」
「今夜は寝かさないとでも言えばいいんですか?」
「ははは、いいね、まったく、素晴らしい、私は君を信じるさ、いつだってね、そう、君がそう言うのならそこの守矢は何かの偶然でこの場所にたどり着いたのだろう、きっと空からでもここを見かけたのだ、まったく目ざとい限りだよ、そして私は友に疑いの視線を向けたクズ野郎として生涯十字架を背負うのだ」
「お気になさらず、正直私もあなたが教えたのかと思いましたよ」
「人を疑うなんて最低だ!」
「はいはいすいませんすいません」

ボタボタと水滴を垂らすにとりさんの言葉こそは嘆きに満ちてはいたが、その表情にはたいした曇りもなく、望まれぬ闖入者であるはずの私に対しても、これを排除しようという気配を向けることはなかった。
にとりさんは服と長靴を脱ぎ、背負っていたリュックからロープを取り出した。
あれだけの大荷物を背負ったままこの川を上って来たのかと思うと、やはりこの方も人知の及ばない怪異そのものなのだということを思い出させられる。
しかしその恐ろしい怪異も、下着姿で服が乾くのを待っている様はどうにもコミカルで、その姿はまさに今思い出したはずの畏れを再び私の思考から取り去ってくれた。

「さて、御客人」
「え? あ、はい、すいません、すぐに出ていきます」
「いいっていいって、まあ見ていきなよ、椛が負けるところ」
「いや勝ちますから、ね?」

軽く体を拭いたにとりさんはゴザに座り込むと、悪巧みを考え付いた妖精のような笑みでこちらを手招きしてきた。
私はその言葉に甘え、盤を挟む両名の横に座らせてもらう。
岡目八目とはいうものの、それは対局者と同等の力量を持つものの話であり、素人以前の未経験者である私には盤面を見ても何が何やらよくわからなかった。
しかし1手指しては長考する椛さんを半笑いで迎え撃つその姿を見るに、どうやら状況はにとりさんに分がある様に思えた。

そんなにとりさんが余裕綽々の表情のまま、おもむろに席を立つ。
そしてプリプリと挑発するようにお尻を振りながら、四畳半のすぐ上流にある1本の木に向かっていった。
なにやら木に括り付けられていたロープらしきものを引き上げると、そのロープの先には赤茶けた使い古しのネットが括り付けられており、さらにその中には幾本かのキュウリが入っているのが見て取れた。
にとりさんがここに来てから今まであの木に近付いた様子はなかったはずなので、つまりあのキュウリは私がここに来た時にはすでに渓流によって冷やされていたということだ。
私は自分が周りを見ているようでまるで見ていなかったことに辟易しながら、にとりさんが恍惚の表情でその好物を齧る姿を眺めていた。

「にとりさん、それいつから仕込んでたんですか?」
「今朝からだよ?」
「……本当にお好きですよね、キュウリ」
「んー、河童はみんなそうよ、ウリ系はだいたい好きだし」
「ウリですか」
「そうそう、スイカとかヘチマとか、あとカボチャも」
「へー」

ガリガリと音を立ててキュウリを貪るその姿はどこか肉食動物じみた迫力を携えており、ある種の中毒患者的な緊張感すら感じさせる。
そうしていれば裏側が透けて見えるとでも言いたげに将棋盤を睨む隣の白狼に至っては、これを人肉でやるのだそうだから始末に負えない。
その牙が私の食感を楽しむ機会の無きことを祈りながら心の中で椛さんを応援していると、にとりさんが私の方を見ながらニンマリとした不気味な笑みを浮かべてきた。
先ほどのような無邪気な笑みとは違う妖怪特有のサディスティックなその笑みに、私は少々の嫌な予感を覚える。
私の勘はあんまり当たらないが、この時ばかりは外れてほしいと心から思った。

「カボチャって言えばさ、明日ハロウィンだよねー、ねえ椛」
「ん? ええ、そうですね、ここ何年かで流行りだしましたよね」
「そうそう、去年なんて近所のガキどもがうちの寮にまでお菓子ねだりに来てさぁ、なあ守矢ちゃん、外の世界はどうなんだい? こっちで流行るってことは、そっちでは廃れていたりするのかな?」

そう言われ、さてどうだったかなと記憶をよみがえらせてみる。
私は拙い記憶力の限りを尽くして思い出を探ってみるが、ハロウィンに関するイベントなどろくに参加した覚えがない。
それもそのはず、うちは代々続く神社の家系であり、他所様の宗教的イベントは御法度の家であったのだ。
それでも愛に溢れた優しい両親には、クリスマスにだけはこっそりプレゼントとかもらったりもした。
例えばこのブランデー用のボトルとか。

それはさておき、12月にクリスマスを祝い、大晦日に神社に向かい、年明けに寺を巡るという神仏をあざ笑うかのような冒涜的なスケジュールを毎年こなす我々ジャパニーズにも、ことハロウィン、イースター、メッカ巡礼などといったイベントはさほど浸透していない。
百貨店や商店街などを覗いてみれば、企業が消費を促すために商品棚を可愛らしいポップで飾り付けたりすることはあったが、子供たちが仮装して家々を巡る姿というものを、私は見たことが無かった。

「そうですね、廃れる以前にまず流行っていなかったと思います、日本では」
「そう? てっきりそっちでは本場のハロウィンでも楽しめるのかと思っていたよ」
「本場のですか? えーと確かケルトが源流でしたよね」
「お、よく知ってんじゃん流石は宗教家」
「いえいえ、それしか知りませんよ」

神道関連ならいざ知らず、他の宗教の催しなど、一般常識の範疇しか私は知らない。
それも世界三大宗教、キリスト教、イスラム教、仏教の物だけだ。
般若心境の意訳くらいならわかるけども。

「ハロウィンってのは、もともとはお盆なのさ、先祖の霊が現世に帰ってくる、だがお盆と一味違うところは先祖の霊と一緒に悪霊も帰ってきてしまう所なんだ」
「悪霊がですか?」
「そうとも、凶暴な悪霊から身を守るために人々はおどろおどろしい仮装をし、ジャック・オ・ランタンで魔除けをし、それでも家の中に入ってきてしまった悪霊にはおもてなしをすることで穏便に帰ってもらう、それこそが源流、ケルト発祥の由緒正しきハロウィンなのさ、そこには間違っても子供たちが帽子いっぱいのお菓子をもらってはしゃぐような微笑ましい絵面は無い、みんな戦々恐々として怪異をやり過ごすために息をひそめるのさ」
「……なるほど」

ペラペラとよどみなく迸るその言葉の濁流は、曲解され、失われつつある源流に対する悲しみに満ちていた。
それを口にするのは生きた怪異、まごう事なき妖怪である。
彼女も幻想に住まう民のひとりとして、明日は我が身という恐怖と戦っているのだろうか。

「案外、『間違ったハロウィン』が廃れて幻想入りしたのかと思ってね、当てが外れたよ」
「……すいません」
「君が謝る必要はないよ、ケルト本国ではきっと現役さ、だがもう悲しいことに、私が知る範囲で本来のハロウィンを体現しているのは、地底だけになってしまったようだ」
「地底で? ですか?」

「にとり」

パチン、と大げさな音を立てて椛さんが駒を動かした。
にとりさんの言葉を遮るような声色に僅かな怒気が感じられたが、当のにとりさんの表情は風に吹かれる柳のように涼やかだ。

「あなたの番です」
「うん」

それきり2人とも黙ったまま、そして盤面の状況も変化しないまま、時間だけが過ぎて行った。

椛さんはもとより、にとりさんまでもが先ほどまでの饒舌ぶりが嘘だったかのように押し黙る。
私の耳をくすぐるのは辺りに響く渓流の音と、時折のどを撫でる唾液を飲み込む音だけであった。
重苦しい緊張感を放つ2人は、電池が切れてしまったかのようにピクリとも動かない。
あまりにも非生物的な沈黙に耐えきれなくなった私は、ついどちらにでもなく話しかけてしまった。

「地底でも、ハロウィンを……?」

私の上ずった声が沈黙の中に木霊したが、2人の妖怪は私の言葉を意に介した様子もなく、変わらずその身体を停止させ続けている。
その沈黙が続くにつれ、もしかしたら集中している所に話しかけてしまったのかと、焦りにも似た罪悪感が私の中に渦巻いていった。
胸を締め付ける息苦しさをカエルのように胃袋ごと吐き出せてしまえたら、どんなに気が楽になるだろうか。
神社の修業でですら体験したことのないほどの重い沈黙に、このままここにいたら本気で体調に影響しかねないと思い始めたころ、ふいに椛さんがその口を開いてくれた。

「いけませんよ早苗さん、地底などと」
「……地底のことは、話にくらいは聞いたことが」
「なおさらです、あなたが君子なら、いたずらに興味を持たない方がいい」

言葉の内容自体は私を諭すものであったが、私はもう椛さんが返事をしてくれたことが嬉しくてしかたがなかった。
なにか、ここにいることを許されたような、そんな気がしたのだ。

「地底ではさー」
「にとり」
「いいじゃんよー、別に話題に出すことすら禁じられてるわけでもないし、ただの世間話さ、ねえ」
「……はぁ、もう」
「地底ではさ、毎年この時期になると源流のハロウィンに近い現象が起きるんだよ、あそこはもともと地獄の1丁目だよ? そりゃあ死者が黄泉返るだとか、怨霊の動きが活発になるだとか、そういった話は枚挙に暇がない、そして薄汚い地底のやからはそいつらから身を隠して部屋の隅でガタガタ震えるんだ、な? ハロウィンだろ?」

にとりさんはまるで見て来たかのように語るが、それを黙って聞いている椛さんは憮然とした表情だ。
その態度は、地底への興味をそそるような話題自体が好ましくないとでも言いたげで、それが逆に、にとりさんの言うことに信憑性を持たせていた。

「不思議なもんだよね、ケルトなんてここから何万キロも離れたるだろうに、全く異なる場所で、起源の異なる2つの宗教的儀式にここまでの符号があるってんだ」
「宗教的儀式? 地底でのハロウィンも宗教が関わっているんですか?」
「太陽信仰さ!」

にとりさんは、我が意を得たり、とばかりに大仰に手を広げる。
その姿はまるで大空へと飛び立った鴉のようであり、舞台で演技を披露する役者のようでもあった。

「奴らの太陽への劣等感は本物だよ、こればっかりは吸血鬼だって目じゃないね、なんたってそこから逃げ出したり追い出されたり、そんな奴らばっかりなんだから」
「……はあ」
「そんな連中が光の届かない湿気った地底にこもって何をしていると思う? 捨てたはずの太陽を想って毎晩枕を濡らしてるのさ、それが涙か、あるいはもっと淫猥でみだりがましい体液なのかは定かではないけどね、だがそれだけだったらまだいい、でもそれだけじゃなかった、奴らの妄執は半端じゃなかった、奴らの太陽に対する劣情にも似た欲求は奴ら自身に新たな原始的宗教を創造させた、わかるかい? この奇跡が、この創世じみた営みが、当然君も知っているであろう天照大御神、八咫烏、インド神話のアーディティヤ神、スーリヤ、ギリシャ神話のヘリオス、ペルシャのミトラ、ローマのアポロン、エジプトのラー、それら古今東西有象無象の太陽神という太陽神を集めて煮詰めてひっくるめて、悲喜交々の太陽信仰を片っ端から見境なく、一切の躊躇もなく貪欲に取り込んだ結果が今の地底なんだ」

私に植え付けることを目的としたかのようなその言葉の杭を飲み込めず、私は思わず身体をのけぞらせてしまう。
しかし、にとりさんはそんな私の心の機微など眼中にないようで、まだまだしゃべり足りないといった具合に構うことなく先を続けた。
その瞳にはもはや隠すことができないほどの狂気が宿り、私が目を逸らすことを許さないような、強烈な視線をこちらに向けてきていた。

「だが無秩序に貪った神話の中によくないものでも混じっていたのか、それともはたまた無から創造したのか、死と再生を司るような馬鹿馬鹿しい逸話までもを奴らは取り込んでしまったのだ、太陽信仰の逸話といえば日食、月食を象徴とした死と再生に関する物も珍しくはないが、それは本来神自身の死と再生のはずだった、なのに何をどう曲解したのか、はたまた輪廻転生とでも混ざったのか、奴らは『死者の再生』という信仰を創造してしまったのだ、これはヴードゥー教を始めとした宗教が行っている死者の蘇生とは似て非なるものなんだ、蘇生ではなく再生、それは望んで行うものではなく、それどころかそれは誰からも望まれない復活なのだ、なんてことだと思わないかい? 死者の再生だよ? よりによって地底で、旧地獄で、閻魔のおひざ元で死者の再生などと、御法度にもほどがある!」
「……」
「その結果がこれだ、ハロウィンだ、今年も10月31日がやってくる、奴らが畏れる死者の行進が明日にでも始まるのだよ」

バチン、と過剰な勢いを乗せてにとりさんが将棋の駒を盤面に叩きつける。
椛さんの王将の目の前に突き付けられたその駒はその局の終了を意味していたらしく、椛さんは何も言わずに自分の駒たちを盤外へとこぼしていった。

私はもう訳がわからなかった。
地底に住む者たちの妄執。
太陽信仰。
死者の再生。
それらの言葉もそうだが、なによりもにとりさんの地底への過剰なまでの理解はいったい何なのだろう。
その様はエンジニアというよりは学者、研究者としての趣が強く、酷く醜い愛着のような物すら感じられる。
あるいは誰かが、堕ちたのだろうか。
にとりさんの近しい人が、日の当たらぬ地へ行ってしまったのだろうか。

でも、私にはそんな事はどうでもよかった。
彼女にどんな事情があるのか、そんなことにはまるで興味が無かった。

この汚泥から水分を飛ばし、さらに煮詰めたかのようなおどろおどろしい話に、私は堪えきれないほどの好奇心を抱いてしまっていたのだ。
現世から隔絶された幻想郷、さらにそこからもう1歩離れた、薄皮一枚隔てた地の都で、いったいいかなる信仰がはびこり、またどのような変遷をたどり、そして今後どうなっていくのか。
1人の宗教家として、神道のともがらとして、これを見過ごすことは到底できないと私は思ってしまっていた。
君子危うきに近寄らず、そうは言うものの、私はどちらかというと虎穴に入らずんば虎児を得ずの方が性に合っているのだから。

そんな私の心根を見透かしたのか、にとりさんは濁りきった瞳を私に向けたまま、満面の笑みを浮かべたのであった。





その日の内に神社で手早く準備を済ませ、地底への入り口である山の大穴へとたどり着いた時にはすでに日が暮れていた。
夜は妖怪の時間。
地平から浮かび上がって来ようとしている今宵の月も満月に近く、今日も人知の及ばぬ怪異たちは幻想郷の主権者が自分たちであることを主張するかのようにあちこちでその存在を示していた。

空には骨だけで飛ぶ怪鳥が群れを成しているかと思えば、さらにそれを捕食する不定形の墨絵のような存在が付近を悠々と漂っており、地には人とも獣ともつかない異形の者たちがその食欲を瞳にたぎらせ、鼻孔をくすぐるみずみずしい命の気配を遠巻きに窺っている。
遠くを見れば街よりも大きな顔が、『頭』ではなく、眉、目、鼻、口だけが空間にぽっかりと、非現実的なサイズの顔だけが夜空に浮かんで無表情に人里を見下ろし、足元を見れば黒々とした輪郭のみの小さなモノたちが、踊るように慌てるように、そして逃げるように走り去っていく。

とてもじゃないが彼らを取るに足らぬ魑魅魍魎と呼ぶことはできない、これを言葉で表すとするのならば、群雄割拠と言った方がしっくりくる。
河童、天狗、鬼、それら幻想郷を代表する強者など現れるまでもない、そこらに蠢く弱小妖怪、人型も取れぬ出来損ないですら、人間を恐怖のどん底へと陥れるのに十分なほどのポテンシャルを秘めているのだ。

山全体を覆う狂気にも似た気配を全身にヒリヒリと感じながら、私は早くも後悔する。
電灯の存在に慣れ切っていた私にはこの月明かりだけではすでの頼りなく、さらに今からこの目の前に広がる暗闇の中に身を投じなければならないのかと思うと、今すぐ踵を返して神の膝元へ帰りたいという臆病心が無視できないほどに大きくなってくる。

天敵の存在を察知し、檻を壊してでも逃げようとする小動物のような感情が、私の中で大いに暴れ狂った。
しかし、ここまで来て引き返すわけにはいかない。
神奈子様がおっしゃるには、今後、守矢神社は地底に対して何らかのアクションを起こす予定なのだそうだ。
それが侵略か友好かは未定であり、今回の私の調査によって大きく傾きうる、だからハロウィンを調べるついでにいろいろ見てきてくれと、そう言われていた。
発端こそ私の好奇心、もとい探究心ではあるのだが、こうして話が大きくなってしまったら容易に引き返すことはできなくなってしまう。

神の期待には答えねばなるまい。
私の胸を温かく灯す信仰心は、かろうじて妖怪への恐怖に勝っている。
私はナップサックから懐中電灯を取り出し、暗闇に向けてスイッチを入れた。

無機質な光を頼りに洞窟を進む。
歩くか飛ぶかを迷う必要は無かった。
洞窟の地面は文明の営みとは無縁の代物で、あたり一面に大小さまざまな岩肌が露出しており、天井を見上げれば鍾乳洞だろうか、幾本もの硬質な岩が牙のように生えそろっている。
その『面』とは到底呼べない地面の岩はあまりにもサイズに統一性が無く、通る者を拒絶するかのように遠近感を狂わせてきた。
高さ、幅、共に人が通行するのには十分な広さがあるのだが、その狂った遠近感のせいで私は何度も尖った岩にぶつかりそうになってしまった。

遠近感と共に正気すら狂いそうになるこの洞窟は、地上とは比べ物にならないほど濃い瘴気と、得体のしれない生き物の気配に満たされている。
洞窟なのだからコウモリくらいいるだろうとは思っていたのだが、懐中電灯が頼りげなく照らす先にいるのは光を嫌ってコソコソと逃げだす無数の小さなモノたちで、先ほど私の足元を駆けて行った連中の仲間のように見えた。
改めて、歩きで行くのは無謀だと嫌でも理解させられた。

地底への道なき道を進みながら、時折ブランデー用のボトルを取り出し、そこらにお神酒を垂らすことも忘れない。
懐にボトルを戻しながら確認のために後ろを振り返ってみれば、遠くに見える月明かりまでの道のりが所々清められていることが感じられる。
ヘンゼルとグレーテルの童話と違って鳥に目印を食べられる心配はないが、いざ振り返ってみれば目印の間隔が短すぎるようにも思えた。
予備もあるとはいえ、旧都に着く前にお神酒が無くなってしまっては元も子もない。
私は自分の臆病心に苦笑し、気持ち間隔を広めに取るように心がけていった。

洞窟を進むにつれて瘴気が濃くなっていくような気がする。
外の世界に比べ幻想郷全域がそもそも瘴気の濃い地域だが、魔法の森や妖怪の山、その他妖怪の住む場所は特に際立って濃度が高い。
それなのに、この洞窟の瘴気は私の知るどの地域よりも強烈だった。
この陰鬱な雰囲気がそうさせるのか、それとも周囲の壁にまとわりつく異形たちから発せられるものなのか、巫女の力で身体の周りを祓い続けなければ、人間の体調など容易く崩してしまうだろう。
時間制限を気にするほどではないけれど、私は改めてこの仕事の難易度の高さを痛感するのだった。

代わり映えの無い景色を進むにつれて、私は段々と気温が低くなってくるのを感じた。
洞窟自体の薄気味悪さにも相まって、数メートル進むごとに肌寒さが加速していくような感覚に侵される。
孤独と緊張が私の精神を容赦なく蝕むのを感じ、生命活動に支障をきたしそうなほどのストレスに晒されながら、私はいっそ元来た道を戻ろうかと半ば真剣に考え始めていた。
後ろに懐中電灯を向けてみても、光は曲がりくねった洞窟の壁にぶつかるだけで、もはや地上の光はまるで届かない所に来ていることがわかる。
恐らく昼でも夜でもここは変わらずこのような感じなのだろう、私はもはや取り返しがつかないほどの深度にいるようであった。

人工の光であちこちを素早く照らし、刺々しい岩肌を避けるために集中しながらも、背筋を伝う幻想の気配にはあえて感覚を伸ばさぬようにしなければ、とてもじゃないが進めない。
巫女としての修業を積むうちに鍛えられたこの精神力が、こんなにも役に立つ日が来るとは思わなかった。
見えるものを把握し、見えないモノを意識から追い出し、精神をすり減らしながら、闇の中へ身を切り込ませる。
帰りもこの道を戻らなければならないということを、私はあえて考えないことにした。

カラカラに渇いていく喉をお茶でうるおそうとして、私は間違えてお神酒の入ったブランデー用のボトルの方をあおってしまう。
私はその場で無様に咳き込みながらお神酒を吐き出し、改めてお茶の入った花柄の水筒の方を取り出した。
守矢神社に常備されている安物のほうじ茶の香りが、私に束の間の安息を与えてくれる。
人の手の入らぬ暗い洞窟でひとり、誰の助けも来ない道を進んでいるという現実を少しの間だけ忘れることができた。
全てを空中で行うのもなんだか落ち着かないが、贅沢は言っていられない。

私は温かいお茶を飲み干し、花柄の水筒を手早く肩にかけ直したところで、血の気が引いた。
慌てて後ろを、地上への道を振り返るが、そちらには何の力も感じない。
いや、暗闇に溶ける異形どもの声なき声は聞こえるが、それだけだ。

頭を振り絞って思い出そうとする。
いったいいつだ、最後にお神酒を撒いたのは。

岩にぶつからないよう気を付けるのに集中し過ぎて、目印のことが完全に頭から抜けていた。
どうする、戻るか、戻れるか。
この道を、また延々と。

時計を見る。
この洞窟に時計を狂わせるような作用がないとするならば、どうやら潜り続けて30分近くが経過していたようだった。
深度はどんなものだろう。
飛行速度と洞窟の大体の角度から、地上までの直線距離を導き出すことはできるかも知れない。
だけどそれに何の意味がある。
私に現実逃避をしている余裕はなかった。

足元の方の地面には、今しがた自分が吐き出したお神酒が飛び散っていて、あんな撒き方でも一応なりとも周囲を清めている。
ブランデー用の平べったいボトルをゆすってみても、まだ十分な量のお神酒は保たれている。
行くか、戻るか。
進むか、帰るか。
懐中電灯の電池は持つか。

恐怖、孤独、閉塞感。
横隔膜を圧迫する焦燥感に頭が痛むのを感じ、私は服の袖で額に流れる汗をぬぐう。
気付けば背中からもじっとりとした汗が染み出し、巫女装束を不快に湿らせていた。

そこで私はふと気付いた、先ほどまでよりも明らかに気温が高くなっていたことに。
旧都が近いのではないかという楽観的な発想に私自身が飛び付くことを、今の私に止める術は無かった。
あと5分、あと5分だけ進もう。
それでだめなら引き返そう。

そう心に決め、私は意を決して洞窟を進むことにした。
これは決してよい判断とは言えないだろう。
ただの逃避、あるいは早く苦しみが終わってほしいという破滅願望に近いものであることは自覚していた。
仮にここから戻るとして、その過程で目印を見つけられず迷子になって延々さまようことになるくらいなら、いっそそこらの岩に頭をぶつけて死んでしまった方がマシだと、私は本気で考えていた。

しかし、この判断は結果的に言えば正しかったらしい。
ものの数分後、私はついに暗がりの広がる洞窟を抜け、地下の大空洞へとたどり着いた。
あの場所は本当に、地底ギリギリのところだったようだ。

今まで通ってきた洞窟もそこそこ以上の広さがあったが、ここはもう桁が違う。
何年か前に神奈子様に連れられてスポーツ観戦に行ったドームくらいか、いやいやそんな物ではないだろう、それこそ都市の1つや2つすっぽりと収まるほどの広大な土地があたりに広がっており、天井も懐中電灯の光が届かないほどに高く、暗闇そのものとはいえもはや『空』と呼べてしまうのではないかと思えるほどだった。

広い広い見渡す限りの荒れた土地には、所々に光源が見て取れた。
それはヒカリゴケの一種であり、溶岩の明かりであり、そして文明の光であった。
遠くの方、ただし目視できるほどの距離に、街が見える。
あれこそが旧都、地底妖怪の暮らす地の都に違いなかった。

私は走り出したくなる衝動を押さえながら、ひとまず入ってきた洞窟がわからなくならないように入り口近辺を念入りに清めておくことにした。
そして、たまたま付近を流れていた水流に沿って、旧都に近付くことにする。
地上から流れてきているのか、どこからか染みだしているのか、くるぶし程度までしか水位の無いこの小さな川は旧都に向かって真っすぐに流れている。
これを目印代わりにすれば、帰るときに迷わなくて済むだろうと私は考えていた。

地底はとにかく広大であった。
入ってきた洞窟から小川をたどって飛ぶこと数分、やっと人工物らしきものに出会うことができた。
それはこの小川をまたぐようにかけられた橋と、この橋を越えて向こう、石畳によって舗装されている旧都への道であった。
どうやらこの川はここで大きくカーブを描いて旧都を回り込むように流れているらしく、この橋を渡った直線上にぼんやりと光る提灯の明かりが見えていた。

私はすがり付くようにその橋へと着地し、足裏から伝わる久しぶりの感覚を懐かしんだ。
地に足がついて緊張感が解けたのか、私は身体にどっと疲れが出てくるのを感じ、この石橋の縁に腰かけて少しだけ休憩を取ることにした。

ほうじ茶に舌鼓を打ちながら石橋の縁を指でなぞってみれば、ゴツゴツとした石の感触が返ってくる。
川の小ささの割には立派に作ってあるこの石橋からは、だいぶがっしりとした頑丈そうな印象を受けることができた。
橋の表面をなぞる2本のわだちがそう古いものでもなさそうな事から、あるいは荷馬車か何かが頻繁にここを通るのかもしれない。
だからと言ってあの洞窟を馬で越えるのは難しそうにも感じられたが、もしかしたら他にもう少し整備された通り道があるのかもしれない。
この日の光の及ばぬ地底にも地上との交流がある、そう思うと私は少し気を楽にすることができた。

暗がりの中で休憩していると、ふいに周囲の瘴気が膨れ上がったような感覚に陥った。
先ほどまでの声なき声たちとは一線を画す暴力的な気配、ここまでの濃度ならもはやそれを瘴気と呼ぶべきではないだろう。
地に蔓延る魑魅魍魎が形を得たか、はたまた過ぎた獣が知性を得たか、人型を取れるほどに力を蓄えた妖怪が、その身に宿す妖力をたぎらせていた。
私は慌てて橋の下へと逃げ込み、旧都の方から近寄ってくる2人組の妖怪がこの橋にまでやってくるのを息を殺して待った。

相手は地底妖怪、まずは様子を見て危険か否かを判断しなければならないと諏訪子様から教わっていた。
旧都から離れた位置で誰かに会えたのは僥倖と言えるが、2人も一度に来るとは想定していなかった。
まずは身を隠し、イニシアチブを取らねばこちらの危険度は跳ね上がるだろう。

妖怪2人の気配が大きくなってくるころ、私は思い切って自分の身を守っている巫力の放出を止めた。
こちらが向こうの妖力を感じ取れるように、向こうもこちらを検知できる。
気取られないためとはいえ、私はここの瘴気の渦に生身を晒されなければならなかった。

「……」
「……、…………ょ」
「……から、……ったじゃん」
「それは……、……で、ょう」

幸い2人は話に夢中で私に気付いている様子は無かった。
こんなところに誰かがいるなんて、初めから想定していないのかもしれない。

呼吸のたびに苦しくなっていく感覚に耐えながら、私はじっと聞き耳を立てた。
幸か不幸か件の2人はここに通りかかったわけではなく、ここが目的地そのものだったとみえる。
楽しくおしゃべりを始めるのは構わないのだが、この旧都から離れた石橋に何の用事があるというのだろう。

目の前を静かに流れる小川の音に紛れないようによく耳を澄ませば、声の主は両者ともに女性であることがわかる。
やや低い落ち着いた声と、キンキンと甲高い耳障りな声。
どうやら逢引きではなさそうだが、しかし本当に何の用だろう、もしかしたらここに来たのは単なる待ち合わせで、ここからさらに追加で誰かが来るのかもしれない。

瘴気の影響で軽い眩暈と嘔吐感を覚え始めたが、めげずに私は耳をそばだて続けた。
もう間もなく、私は決断をしなければならない。
行くか、留まるか。
その為にも、情報は1つだって残さず取り込まなければならなかった。

「だぁからさぁ、何度も言ってんじゃん、パルちゃんまで巻き込まれることないって、どんだけ危ないか想像できない?」
「……パルちゃんはよして、さもないとあなたのことをヤマちゃんって呼ぶわよ」
「ヤマちゃんでもいいからさ、ここ何年かは特にひどいんだよ、以前はいくらなんでもここまでじゃなかったし、一昨年も去年の半分くらいだった、今年はどうなるかわからないよ」
「生への渇望」
「うん?」
「それ以上の嫉妬心は存在しないわ、あなたたちにとってはおぞましいイベントでも、私にとってはかき入れ時なのよ」
「……そうかい」

脳の奥底を貫くような頭痛に苦しむ私の身体が、イベントという単語に反応する。
当初の目的を思い出した私は、朦朧とする頭を抱えて荒い呼吸を続けた。
頭痛、めまい、吐き気、それらの症状が1秒ごとに強くなっていく。

いくら私でも瘴気に対してここまで無防備でいたことはない。
ほんの数分とはいえ、酷い乗り物酔いにでもあったような気分が時と共に延々悪化していくのは、耐え難いものがあった。
瘴気の中では人間など10分と持たない、神奈子様から聞かされていたその言葉は、真実であったのだろう。

筆舌に尽くしがたい瘴気の影響に苦しみながら、決断の時が迫っていることを自覚する。
もはや身体は限界で、会話の内容からして第三者が追加されそうな感じもしない。

行くなら今だ。
私は覚悟を決め、花柄の水筒とナップサックを地面に置き、静かに御幣を取り出した。
穢れを祓う巫女の武器、強く握りしめた取っ手の先には、純白の幣が取り付けられている。

「ヤマメ、人間の匂いがするわ」

頭上から降ってきたその言葉に、私は思わず御幣を取り落すところだった。
気付かれた。
その事実だけでもう私の心はへし折れてしまいそうだった。

だけどもう行くしかない。
神奈子様、諏訪子様、どうかこの私に勇気を。

「へえ、自分のじゃなくて?」
「そんな訳ないでしょ、ていうかあんたわかんないの?」
「鼻はそんなに良くないんでね、ただ」
「ただ?」
「振動には敏感だよ、橋の下の君、そこは私の圏内だ」

ズン、と音がしそうなほどに殺気が膨れ上がった。
真上で膨れ上がる2種類の妖力に圧され、私はたまらず橋の下から転がり出る。
もうやるしかない、やるしかないのだ。
地の底に這う異形相手に、私は暴力で挑まなければならないのだ。

ばしゃばしゃと小川を踏み越え、空に浮かび上がると同時に巫力を解放した。
私の周囲の空気が、ピィンと音でもしそうなほどに張り詰める。
体内が浄化され、吐き気や頭痛が水を掛けられた焚火のように静まっていくのを胸の内に感じながら、私は眼下の妖怪2人を見下ろした。
石橋にもたれるように両手を組む緑の目をした綺麗な女性と、先ほど私が腰かけていた縁に乗ってしゃがみこんでいる団子頭の女性。
ギラギラとした嫉妬の瞳を私に向けながら、いかにも億劫そうに緑の目をした女性が声を上げた。

「綺麗な子ね、妬ましい」

次いで、その女性の向かいにしゃがんでいた方が、新しいおもちゃでも見つけた子供のように声を弾ませた。

「パルスィ、君の方が綺麗さ」

その言葉に、よしてちょうだい、とパルスィと呼ばれた女性がそっぽを向く。

2人揃って、この余裕。
キザな台詞を吐く方の妖怪に至っては、こちらに背を向けたままだ。
私は出し惜しみなしの全力で巫力を解放し、それに応じて球状に発生した力場が周囲の瘴気を片っ端から掻き消しているというのに。
真球に近い巫力の光に包まれた私が見えないとでも言う気なのか。
この手には御幣が握られ、充填されていく力の奔流が自分たちに向けられていることだって、気付いていないはずがない。
その上で、まるで相手にされていない。

ならば先手必勝。
私は御幣にすべての力を託し、後ろを向いているキザな妖怪の首筋に叩きこもうと試みた。
しかし、私の攻撃は空振りに終わってしまう。
避けたというより、消えた。
私が御幣を振りかぶった時には確かにあったその身体が、振り下ろした直後にはもうないのだ。
忽然と消えた妖怪に戸惑う私と、緑の瞳の視線が交差した。

その妖怪は呆れたようにため息を付くと、人差し指を立てて真上をつつく。
釣られて真上を向いてみれば、さかさまに吊るされた先ほどの妖怪が目と鼻の先にまで迫ってきていた。
髪同士が触れ合いそうなほどの距離で、そいつはニタリといやらしい笑みを浮かべる。
それは完全に強者の微笑みであり、獲物に向ける欲求が表情にありありと表れていた。

動けない。
私はとっさに身をひるがえそうとするのだが、無様にその場に転げるだけで、歩くことも空を飛ぶこともできなくなっていた。
転んだ拍子に取り落した御幣が、私を見捨てて橋の下へ落ちていくのが見える。
無理をすればまだ辛うじて身体は持ち上がるものの、この暗がりの中に張り巡らされた細い糸のようなものの存在に気付くころには、全身が完全にその糸に絡め取られていた。

蜘蛛の糸。
とっさにそう直感する。
そうか、あいつは蜘蛛の妖怪だったか。

あっという間に手足を拘束され、私は無数の糸でグルグル巻きに橋へと固定される。
苦し紛れに放った巫力の弾幕も、こけおどし程度の意味しかなかった。
地力が違う。
こちらの力も戦略も、この妖怪にはまるで歯が立たなかった。

「なんて日だ!」

蜘蛛妖怪の体重を背中に感じながら、私は頭上から振り下ろされる歓喜の声を聞いていた。
後頭部をわしづかみにしてくる手のひらの力、血と泥とコケが混じった匂い、視界いっぱいに広がる石橋の橋板。
それら私の未来を暗示させる呪いめいた情報をどこか他人事のように感じなければ、私の正気はいとも容易く崩れ去っていたことだろう。

しかし私は知っていた。
妖怪というものはどいつもこいつも異様なまでに嗜虐的で、獲物に現実逃避など許さないのだということを。

「おいおいパルちゃんこいつはどういうことだい! 君を説得しに付いてきたらこんな大物が釣れたぞ!」
「この川って人間が釣れるのね」
「あぁ~、しかもなんだいこの肉付き! 若い肌! 食べてくれと言っているようなものじゃないか!」

血が出るほどに爪を立てられ、私の首に痛みが走る。
その首筋に不快で生暖かい感触が這うのも、あるいは味見のつもりなのか。
力任せに仰向きに起こされ、私は初めて蜘蛛妖怪の顔をまじまじと見た。
あまり清潔とは言い難い金髪に、食欲に支配された同色の瞳。
もいだばかりの果実を目にした砂漠の迷い子のような視線を受けながら、私は無抵抗に身体を弛緩させるだけであった。

「私のだ、私のだからね、あげないからね、私が全部食べるんだからね」
「……」
「うへへへへー、いいだろー、ここまでの一品はそうそうお目にかかれないよ」

連れのことも忘れて私の身体に全身をすり付けてくる蜘蛛妖怪は、ご馳走に対して愛しげに触れるだけでとどめを刺そうとはしない。
堪えきれずに溢れ出たのであろう唾液が私の服を無遠慮に汚す、その不快な感触を受け止めているうちに、私はこの妖怪が獲物が落ち着くのを待っているのだと気付いた。

獲物が落ち着き、状況を理解するのを待つ妖怪の姿を山でも見たことがあった。
彼らが欲しいのはたんぱく質ではなく、人間からの畏れと伝承だ。
正気を取り戻した人間から恐怖と絶望を搾り取るために彼らがどれ程のことをするのか、私はそれをよく知っていた。

いつか見た不運な外来人。
訳もわからず山の中に放り込まれ、瘴気に対応できずに苦しみ、宵闇に紛れた超常の理不尽に真正面から遭遇し、最期は絶叫と痙攣でその人生を彩った。
頭蓋を失い中身を溶かされすすられながら、時折手足をピクつかせていた名も知らぬ男性。
私もきっと彼のようにされるんだ。

医療の知識のない素人にだってはっきりとわかるほどに徹底的に破壊され、どう見ても絶対に助からない、でもしばらくは死なない、そんな状態を保たれるんだ。
残りの人生すべてを激痛と苦悶に満たされアスファルトの上でのたうつミミズのように悶絶しながら、早く苦痛が終わってくれることだけを望むんだ。
人格の殻に内包された恐怖の感情を一滴も残さずに絞り出され、ジュルジュルと自分の身体が消えていくのを感じ続けることになるんだ。

終わるのか、こんなところで終わってしまうのか。
私はこんな奴の糧になるために生まれてきたのか。
私の人生、なんだったんだ。

「いっただっきまーす」
「ヤマメ、待って」

私は一縷の望みをかけて、最後の抵抗をするために巫力を放出しようとした。
それは蜘蛛妖怪が私の肩の骨を外そうとするのと同時であり、もう1人の妖怪が声を上げるのとも同時であった。
そしてその妖怪が発した言葉は、場をひっくり返すのに十分なほどの力を秘めていた。

「そいつ、博麗の巫女じゃないの?」
「……は?」

ゴキ、という音が身体の内側から聞こえるのと同時に、私の現実逃避は虚空へと消し飛んだ。
果たして折れたのか外れたのか。
腱を伸ばされ軟骨を潰され筋肉を歪められ、私の喉はあらん限りの絶叫を放つ。
たかが肩を痛めただけ、それだけでもう抵抗どころではない、私は途切れそうになる意識を繋ぎ留め、痛みが引いてくれることを子羊のように祈り続けることしかできなかった。

「博麗? これが?」
「たぶんだけど、巫女服着てここに来る人間が他にいるかしら」
「……えー?」

引くどころかどんどん増してくる肩の痛みを頭から追い出し、緑眼の妖怪の言葉に意識を持っていく。
博麗の巫女。
霊夢さん。
幻想郷唯一の『食べてはいけない人間』。
あの人に、間違えられている。

普段だったら間髪入れずに違うと叫ぶところなのだが、今それをやるほど私は愚かではなかった。
本物に会ったことがない限り、その誤解を解く余地はない。
私の絶叫を無視して進んでいく話題の行き先を予想して、そこに僅かな希望の糸を見出すことができた。

「えー? 今代の巫女異人なの?」
「異人の何が悪いのよ、ハーフかもしれないじゃない」
「……おいおい、それじゃあ私はお預け喰らった犬みたいにしょんぼり顔で獲物を離さなきゃいけない訳?」
「向こうの管理者に怒られるのが嫌ならね」
「私あいつら嫌い」
「怒られるのがあなただけとは限らないけど」
「……うぅー」

憮然とした表情で蜘蛛妖怪が私の肩をはめ直す。
買ってもらえなかったおもちゃを陳列棚に投げ戻すような乱暴さが、ゴキリという音と共に私の身体を軋ませた。

「あーあ、つまんないの」
「そう言わないの、ついでに観光案内でもしてきたら?」
「それパルちゃんが体よくあたしを追っ払いたいだけじゃん」

私の身体に巻き付けられていた強靭な糸を、蜘蛛妖怪がバリバリとかきむしるように外していく。
そうして糸の大部分が剥がれる頃には、私の身体に自由が戻っていた。
身体に自由が戻ってたところで心に受けたダメージが抜けた訳ではないのだが、蜘蛛妖怪はそんなことお構い無しに私の身体を持ち上げた。
はめ直されたばかりの肩が、揺れに応じてズキリと痛む。

「やい博麗、お前のせいでとんだぬか喜びだ、とっととおうちに帰んな」
「ちょっと、優しく扱ってやんなさいよ、相手女の子よ?」
「えー? 博麗でしょ?」
「理由になってないわ」

頬に溜まったツバを飲みこみ、私は大きく息を吐く。
どうやらこの日の光も届かぬ最果ての地においても博麗や八雲の名声は十全に届いているようであり、そのおかげで私はどうやら九死に一生を得られたようだった。
ズキズキと痛む肩を思考の隅へと追いやり、私は目の前の妖怪を睨みつけた。

「私は、地底の調査に来ました、手ぶらでは……、帰れないんです」

息も切れ切れに言葉を絞り出す私に、蜘蛛妖怪が呆れたような顔を向ける。
ため息交じりに頭を掻く姿からは私に対する見下すような憐みすらも感じられたが、少なくとも先ほどまでのような捕食者の瞳を向けられるよりは遥かにマシだと言えた。

「ほらヤマメ、ちょうどいいから温泉にでも連れてってやりなさいよ、シーズンオフだから空いてるわよ」
「はぁ? なんで私が子供の御守りなんてしなきゃなんないのさ、コイツが1人で勝手にどこへなり行けばいいんだよ」
「それで誰かに食べられちゃったらどうするのよ、ここで我慢したことがパーよ?」
「……じゃあ地霊殿にでも行くか? あそこになら旧都成り立ちの資料とか公開してるし、室長のおっちゃんも古参だから色々聞けるかもよ」
「あらいいじゃないそうしなさいよ、私ご飯作って待ってるわよ、開発中の白身魚のエビチリもどき」
「なにそれうまいの?」

地底妖怪たちが意外なほど乗り気で、どこかの公共施設へ案内しようとしてくれている。
さっきまでの暴力沙汰が無かったかのようにふるまう2人は、話してみれば案外面倒見のいい連中なのかもしれなかった。

諏訪子様からは、地底の妖怪はどいつもこいつもワケ有りなのだと聞いていた。
迫害されて堕とされた者、行き場をなくして自ら来た者、競争に疲れ切ってたどり着いた者。
そういった者たちの吹き溜まりである、と。

きっと彼女らだって何か事情があってここにいるのだろう、それが本人の責任なのか、不幸な生い立ちによるものなのかは置いておくとして。
だからこそ、他人を妬み、嫉み、否定して侮辱することしかしない奴らだと思っていたし、一度捕まったら交渉の余地は無いものと思っていた。
それなのにこんなカビ臭い吹き溜まりに住み付く異形たちは、見ず知らずの、それもどちらかというと厄介な部類に入る博麗の巫女だと思っている人間を案内してくれると言う。
この人たちは人食いであることを除くなら、かなり友好的な部類なのかもしれなかった。

しかし私がここに来た目的は、そんな彼女らが思うような物ではない。

「いえ、私が調べたいのは温泉でも歴史でもありません」
「ん? 発電所でも見に来たかい?」
「……ハロウィンについて、調べに来ました」

私が放ったその言葉に、妖怪2人の目が見開かれた。





黒谷ヤマメと名乗ったその蜘蛛妖怪に連れられて、私は旧都への道を歩いていた。
ヤマメさんは旧都在住のフリーターで、日雇いのバイトで口糊をしのぎ、残りの時間はもっぱら温泉巡りをして過ごしているのだそうだ。
フリーターと言っても地底ではそういう働きかたの方がむしろ主流で、定職に就ける者の方が少ないらしい。
江戸時代のような様相を呈する旧都であったが、地上から生活に必要な物資が定期的に援助されているため、その日暮らしのような生活でも食うに困ることはないのだそうだ。

こう言うといかにもセーフティネットの磐石な素晴らしい地域のように聞こえるかもしれないが、実際に都市の中に入ってしまえばそのイメージも容易に覆される。
暑いとも寒いとも言えない中途半端な気温、乾いてるとも湿っているとも言えない中途半端な湿度、そのうえ生ゴミと体液が入り混じったような不快な匂いがそこら中から漂い、それらに浸食でもされたのか旧都に敷き詰められた石畳の街道は歩を進めるごとにガタガタと抗議の声を上げた。
旧都の入り口や街道はそれなりに広く、路面のがたつきを考慮しなければそこそこに立派な造りに見える。
ここがまだ現役の地獄だった頃には馬車が走っていたらしいというヤマメさんの言葉も、私にはすんなり受け入れられた。

ただし、街道沿いに軒を連ねる店舗のうち3つに1つが閉めきられ、開いているうちの半分も灯りが点いていなかった。
窓ガラスから僅かに覗ける暗闇からは不思議と何かが動くような気配もするが、案内を務めるヤマメさんが後ろも見ずにずんずんと進んでいってしまうため、立ち止まって中を覗き込むことはかなわなかった。
灯りが点いている残りの店は目に写るほぼすべてが居酒屋で、イミテーションではない蝋燭式の提灯が街道の街灯と相まって辺りを薄暗く演出していた。

歩くうち、それら手入れなどとは無縁に思える店舗の数々にもたれ掛かるように、旧都の住人と思しき奇怪な姿の妖怪たちが道端にうずくまっているのを見かけた。
彼らは病人というには数が多すぎ、物乞いというには持ち物が少ない。
そして酔っぱらいというには、あまりにも精気が無かった。

私を見つめてよだれを垂らすのはまだいい方で、ほとんどの者がうつむき、膝を抱え、瞳に暗い陰を宿らせ、そうでない者はなにかを頭から振り払うかのように酒瓶をあおっている。
時折、店舗同士の間を縫うように置かれた歪な祠に向かって祈る者も見かけたが、彼らはその喉から祈りとも呪詛ともつかないかすれた声をあげるばかりであった。
おそらくこれがにとりさんの言っていた太陽信仰のための祠だろう、内部に飾られた細かな装飾を見れば確かに古今東西の様々な神話を無思慮に取り入れた様子がうかがえる。
他の店や家屋などの建築物が軒並み古く痛んでいるにも関わらず点在する祠だけは丁寧に手入れがなされていることが、私には狂気にも似た彼らの信仰を証明する重大な証拠になりえると感じた。

うつむき、酔い、祈る。
それが彼ら、地底の住人の生き方なのか。
だとするのなら、それのなんと無様な事だろう。

ここは朽ち果てている。
それが私の率直な感想だった。

「……」

なおも街道を進んで行くと、ヤマメさんは閉店している何らかの店の前を右折して狭い路地へと入っていった。
それと同時に、ポケットに手を突っ込んままだったヤマメさんが振り向きもせずに声をかけてくる。

「もうすぐだよ」
「……あ、はい」

自転車に乗ったまますれ違うには少々の勇気がいりそうな幅のこの路地には街道と同様の石畳が敷かれていたが、人が通る頻度の違いか、やや磨耗が少なくしっかりとしている印象を受ける。
ただし、街道でさえ節約気味であった街灯がさらにその数を減らしていくことに、それと同時に暗闇の領域とその住人の気配が増えていくことに、私は名状しがたい不安を覚えた。
そんな路地を進むうちに街道に充満していた匂いも薄れ、代わりに硫黄の匂いが立ち込めてきた。
噂に聞く地底の温泉が近いのか、私は心なしか空気が湿っぽくなったような感覚を覚える。
そのままチカチカと明滅する街灯を頼りにやや勾配の強い坂道を登って行くと、その中程に古びたあばら家があるのが見えてきた。
建築には疎い私だが、この長屋のような家はおそらく木造の、そして土壁の家だろうと予想する。
そして道に面した壁一面に同じような扉が4つ、それぞれに表札らしき木札がかかっていることから、ここはアパートなのではないかと考えられた。
先導を行くヤマメさんの歩みの角度から考えて、おそらくここが目的地であるヤマメさんの自宅なのだろう。

ハロウィンについて教えてほしい。
私がそう言うと、妖怪たちは揃って眉をひそませた。
2人はなぜわざわざ深淵を覗きたがるのかわからないといった口調でひとしきり制止の言葉をかけてくれたあと、私が本気だと悟ったのか場所を変えようと提案してきた。
どうせハロウィンは明日だ、人間を泊めてくれる宿もあるまいと、ヤマメさんは自らの住処に私を招待してくれることになった。
話はそこで聞かせてやると。
地底で夜を明かすつもりだったにもかかわらず宿のことが頭から抜けていた私には、ありがたさよりも先に羞恥の感情が顔に出てしまっていたようだった。

私の目を見つめてくるヤマメさんにもそれを見透かされたらしく、本日数度目の呆れ顔を私に向けてきた。
無思慮というよりも無謀と言った方が正鵠を射るであろう醜態であったが、そのおかげでヤマメさんからの警戒や猜疑といった視線がいくらか緩和されたことを考えれば、案外これが最適解だったのかもしれないとも思える。
まあもっとも、最初からここに来ない事が最良であったと言われたら、私には反論の余地もないのだが。

パルスィさんというらしい緑眼の綺麗な方はさっきの石橋で人を待つ予定だったらしく、その場に残るとのことであった。
私が年頃の乙女でなければ気付かなかったであろうほど僅かに頬を赤らめるその様子から、どうやらお相手は意中の男性であるようにも思われた。

そういう訳で私は旧都の様子を見学させてもらいながら、このヤマメさんの家へと向かうことになったのであった。

「どういうことだ」
「はい?」

そうして連れて来られたヤマメさんの住処はお世辞にも綺麗な所とは言い難かったが、温泉が近く、今夜連れて行ってくれるそうであるし、坂の途中にあるためかさっきまで歩いていた街道を一望することができるいい物件であった。
店舗や祠ばかり見ていて気付かなかったが、街には一定間隔で電柱が立ち並び、よく見えないがその間を細い電線が走っているように見える。
その電線は街道からこの路地にまでその食指を伸ばし、このあばら家にまでしっかりエネルギーを届けているようであった。

アパートの4つある入り口の扉にはそれぞれ簡易的な郵便受けが付属されているが、家主がその中身を確認しようともしなかったことから、郵便物などそうそう届けられないのであろうことを予想させる。
そして家主がサムターン式と思しき錠を開け、中の電気を点けたところでヤマメさんの口から責めるような声が吐き出された。
なんだろうと思いその肩越しに部屋の中を覗いてみると、物の少ない簡素な部屋の中にはどうやら先客がいるようだった。

「なあヤマメ、叶わない恋って悲しいよな」
「なんだ不法侵入者、下らないこと言ってないでとっとと出てけ」
「そう言うなよ親友、今日は恋について語りに来たんだ」
「今すぐ帰れ、直ちにだ」
「知ってるか? 私の恋心の99%は燐に向けられているが、それでも残りの1%はお前に向けられているんだぜ?」
「こっちに銃口を向けるな変態野郎」
「なのにお前ときたらなんだ、私の気持ちに応えないばかりか、今日もまた違う女を家に連れ込もうとしている」
「……馬鹿が」

ビール瓶のフタを金貨と勘違いした愚者を見下ろすような、そんな侮蔑の声色がヤマメさんから発せられる。
ヤマメさんは割と本気で機嫌を損ねたようで、ヤマメさんの親友を名乗るこの赤髪の女性を無視して室内へと入っていった。
私も入っていいのか迷ったが、入らなければ話が進まないため、私は家主に続いて靴を脱ぐことにした。

「お、おじゃまします」
「おー、入って入ってー」
「お前が言うなよ」
「んー、いいねー君、可愛らしい顔してるよ、人間かな? うん? まあどっちにしろ遠路はるばるよく来たもんだ、何もないとこだがゆっくりしていくといい、どれ、お茶でも淹れてこよう」
「勝手に戸棚開けんじゃねえよてめぇは」
「大変だヤマメ、お茶葉きれてる!」
「もとからそこには入れてねーよ!」
「あっれー?」

赤髪の女性の表情からは、ヤマメさんに怒られることをむしろ楽しんでいるような印象を受ける。
帽子を引っ張られてキャアキャア言っているその姿には、ヤマメさんに対する親愛がこれでもかというほどに溢れていた。

街道で見かけた人々とは真逆のテンションを持つこの女性は、河城みとりさんと名乗った。
河城、という姓にはもちろん聞き覚えがあり、聞けばこの方、にとりさんの異母姉なのだそうだった。
しかも地霊殿という地底の支配者が住む組織の所属で、地下の発電事業を一手に担っているほどの人物らしかった。
ヤマメさんから特に訂正が入ったりしなかったことからも、これに関しては誇張が入っているわけではなさそうだ。

「ふーん、それで博麗ちゃんはアイドル目指してヤマメに弟子入りを、と」
「違います、地底の調査に来たんです」
「ところでにとりは元気してる? 泣かされてない?」
「えっと、元気ですよ、今日の昼も天狗と将棋指してましたし」
「旧都を間近に見たらしいけど、妙なのに絡まれなかった? アイドルのスカウトとか」
「ま、まさか、特にだれとも」
「君かわいいよね」
「え、あの、どうも」
「妹も私と趣味似てるし、きっと気に入られてると思うよ」
「そうなんですか? そんな風には」
「大通り通って来たんでしょ、肩になんか憑いてるよ、誰かに変な呪いでもかけられた? ちょっとヤマメ解いてやりなよ」
「え!? ……え? ど、どこです? どこにも何も……?」
「はははは、冗談冗談、大体わかったよ博麗ちゃん」
「……」

何がわかったのだろう。
みとりさんはヤマメさんに淹れてもらったお茶を飲み干し、ついでとばかりに私の分も取り上げて飲み干し、私に妹そっくりの混沌とした瞳を向けてきた。
好奇心と妄執を着飾った科学者の瞳。
ヤマメさんとは違う意味で、この妖怪も私を獲物と判断したようだった。

「君は外来人だ、それも来たのはつい最近」
「……っ」
「自分の容姿に一定以上の自信があるし、人を見る目にも自信がある、学もある、さらに言うなら見た目ほど素直な性格でもないし、危機管理能力が低い、根拠もなく地上に生きて帰れると思ってる、魔法や呪術への知識も多少はあるね、なんつったっけ、巫女の力もある程度は使えるしたぶん空も飛べる、でも過信がひどいし習って日も浅い、自分で見て何も憑いてなかったからって安心するとか素人のやることだよ」
「……」
「最近代替わりしたのかな? でもサポートもなしに地底潜入なんて初めてのお使いにしちゃハードすぎる、管理者の指令とかじゃないね、行動が雑すぎる、事前に連絡も無かったみたいだし、あったんならさとりがヤマメや私に言わない訳ないし、その割にはいきなりヤマメに出会うという幸運も持ち合わせてる、というか運だけだね君は、あと顔か」

きゅう、と胃袋が圧迫されるような錯覚に陥った。
なんだこいつは、何を知ったような口を。
私は自分の動揺がばれないよう、『普通に怒ったような』顔をするよう最大限の努力をした。
まずい、もしばれたら、博麗の巫女じゃない事がばれたら、私はそこにいる土蜘蛛に再び牙を突き立てられるだろう。
そしてこのみとりさんがもしそれに気付いたら、躊躇うことなくヤマメさんにそれを教えるだろう。
にとりさんの姉ということは恐らく河童だろうし、物理的に人食いじゃないかもしれない。
でもあの時のヤマメさんの喜びようを思い出せば、この河童が友人に親愛を示すチャンスをみすみす棒に振るとは思えなかった。

河城みとり。
この妖怪は危険だ。
神奈子様、もし今後地底に足を運ぶことがあったらどうかお気をつけください、この妖怪は紛れもなく地底の重鎮の一角です。
敵に回せば大きな障害となりましょう。

私は心の中の報告書にそう書き込み、みとりさんを責めるように睨みつけた。

「だ、だれが運だけですか、なんですいきなり知ったようなことを」
「……」
「ちょっと失礼ですよ!」
「……」
「だ、黙らないでくださいよ」
「……」

みとりさんは電池が切れた機械のように私を見つめてまま動かない。
その姿が昼間の妹君の姿に重なり、私はまたも嫌な予感を覚える。
来るのか何か、さらによくないものが。

「そうだね、適当言って悪かったよ」
「……はぁ」

重苦しい沈黙を破ったのはやはりみとりさんで、それだけ言うとそのまま椅子を蹴ってベッドへ飛び込み、寝息を立て始めてしまった。
何が何やらわからず困惑するが、横目でちらりとヤマメさんを見た限りでは今すぐ私がどうこうされるという気配はなかった。

「こいつのことは気にするな、頭はいいんだが、馬鹿だから読んだ本にすぐ影響されるんだ」
「は、はぁ」
「大方ドイルのミステリーでも読んだんだろう」

こんなことには慣れっこなのか、ヤマメさんはやれやれと肩をすくめると新しいお茶を注いでくれた。
キッチンとダイニングと居間だけの1DKでもひとり暮らしには十分なのかもしれないが、人間大の生き物3人を納めるには少々狭い。
特に3人が揃ってダイニングにいるものだからなおさらだが、壁際を締める大きな本棚がこの閉塞感を増すことに多大な貢献をしていた。
本棚にあるのは外の世界の本が主であり、私も読んだことのあるマンガ雑誌もちらほらと見受けられた。
巻数こそ飛び飛びではあるが、その量は人の背丈ほどもある本棚を埋め尽くすほどである。
この地底の環境を考えれば、ヤマメさんはかなりの蔵書家と言える部類なのではないだろうか。
外の世界には本棚を見ればその人の性格がわかるとまで豪語する人もいるが、そもそも本自体が滅多に手に入らないここではそれも当てはまらないだろう。
それでも強いて言うとするならば、ヤマメさんは雑誌や専門書よりも小説や漫画などのストーリーのあるものを好むようで、そういった系統の本の方が心なしか丁寧に並べられているように見えた。

「あんまし見みるんじゃないよ」
「あ、すいません」
「まったく」

どいつもこいつもと言わんばかりにお茶を啜り、ヤマメさんは小さく息を吐く。
私も淹れてもらったお茶に手を付け、渋い玉露の香りをよく味わった。
安ものっぽい感じはするものの、淹れ方が上手いのか不快な渋味ではなく、むしろもっともっとと続けて飲みたくなってしまう味わいであった。
あとでやり方を聞いてみよう。

「さて、ハロウィンについての調査だったね」
「あ、はい、河城にとりさんに地底のハロウィンのことを伺いまして、なんでもケルト古来の源流的なものが残っているとか」
「いや、確かに元の伝承に近いことは起きるけど、起源は違うはずだよ、輸入したんじゃなくて、ここで始まったものが偶然似ただけだ」
「それってすごいことですよね、離れたところの伝承が偶然の一致を見るなんて」
「そう? 洪水伝説だって世界中にあるし、悪霊の復活なんてメジャーな部類だと思うけど」
「そのハロウィンが、地底の太陽信仰に関係があるとか……」
「え? 太陽信仰? なんで?」

「アハハハハハハハハハ!!!」

と、ふいに部屋の隅から気が狂ったような笑い声が襲い掛かってきた。
腹をよじって膝から下をばたつかせ、みとりさんがベッドの上で転がっている。
何事だと私は思わず飛びあがってしまったし、ヤマメさんも弾かれたように椅子から立ち上がって妖力を解放している。
落ち着きを取り戻した私と警戒を解いたヤマメさんが再び椅子に座るまで、みとりさんはひたすら笑い続けていた。
心底面白いことでも聞いたかのように、ただただ人を侮辱したような、性格の悪い笑い声を部屋の中に響かせていた。

「あー、おもしれー」
「寝てろ狂人」
「ハロウィンの調査に来たとか、あははははは」
「……」

まあ、確かにハロウィンを調査というのも間抜けな字面だが、そこまで笑うことはないだろう。
地底では確かに一定以上の重要性を持ったことのはずであるし、地上の住人がそれを調べに来たところでそうおかしいことでもないと思う。
しかし、みとりさんが笑っていたのは字面の滑稽さではなかった。

「調査だけで済むつもりなんだ」
「……それは、どういう」
「ああ、やっぱり思った通りだ、私の推理も馬鹿にはできないな」
「あの」
「やっぱり君には危機管理能力が足りない、計画も杜撰で行動も雑だ、なあ君」
「……はい、なんでしょう」
「巻き込まれずに済む気かね、どうやって、地底の妖怪たちがいかにたちが悪いかは少しは聞かされているだろう? その妖怪たちが明日の夜どうなると思っている、お菓子を求めて近隣の住人を尋ねるとでも思っているのかい? だとしたらとんでもない誤解だ、君は今すぐすべてを白状しておうちに帰るべきだ、そうでないのなら、もろに巻き添えになることを覚悟しておくんだ、いいね」

ベッドに寝転がったまま、みとりさんはニタニタ笑いながら私を眺めてくる。
その姿は本当に妹そっくりで、底意地の悪い、いじめられっこがさらに弱いものを迫害するような、そんないやらしさに満ちていた。
脅かして怖がらせようという魂胆も有ったのだろうが、半分以上は本心からの警告であるかのようにも思える。
しかし私は守矢の巫女、いちいち怪異に背中を向けていては我が家の軍神に申し訳が立たない。
私がやると決めたのだから、それは絶対なのだ。

「わかりました、詳しくお聞かせ願いますでしょうか」
「ああいいとも、勇気ある無謀な人間に冥途の土産をくれてやろう」
「はい」
「いいかい、まず大前提として地底には怨霊という存在がいる、幽霊の一種で、諸説あるが強い恨みや苦しみを持った人間が幽霊化し、その際に勢い余って輪廻の輪から外れると怨霊となる、こいつはもう成仏することは叶わない、生前の未練に囚われたまま永劫の苦しみの中でのたうつだけの不幸な存在だ」

それは私も知っている事だった。
いつか神奈子様からお教えいただいたことそのままだ。

「それくらい知ってるってツラだな、まあいい、問題はこの怨霊とかいう哀れな存在は人や妖怪に憑くってことだ、そして憑けばその人格を乗っ取る、まあ気をしっかり持っていれば割と大丈夫なんだけど精神的に弱ってると危ないね、それでも人間に憑くならまだいいさ、君らはDNAさえ保存されていれば記憶が消えようが人格が変わろうが問題なく本人だ、だが妖怪はそうじゃない、小豆洗いに小豆が嫌いな怨霊が憑りついて小豆を洗わなくなったら、そいつはもう小豆洗いじゃない、別人としてカウントされる、そう、妖怪にとってはアイデンティティこそが本人証明なのだ、我洗う故に我小豆洗い、なのだよ、急にキャラが変わって塞ぎ込むようになったり極端に食いしん坊になったりしだした例もある、故に怨霊は危険で、誰もが避けて通る存在なのだ」

そこまでは、既知であった。
諏訪子様や、他の妖怪の方たちから似たような話は聞いたことがあるし、怨霊が人間に憑いた際も妖怪にとって不都合が生じるということも聞いている。
なんでも人間同士で争いを始めてしまうが故に、相対的に妖怪への恐怖が減るとかいうそういう話らしい。
ここからだ、私が聞くべきはここから先の話だ。
私は身を乗り出し、ベッドで寝そべるみとりさんの言葉に集中し直した。

「そんな地底に蔓延する病のような災害に圧され、民が苦しみ溺れる中で何が起きたかと言えば、外から入ってきた風習への依存だった」
「太陽信仰ですね?」
「いいや違う、この話に太陽信仰は関係ない」
「……え?」

太陽信仰は関係ないと断言するみとりさんに、私は思わず間抜けな声を出してしまった。
にとりさんから聞いていた限りでは、太陽信仰における死と再生の逸話が間違って伝承され、それがハロウィンのように死者の再生とにも似た事象が起きているという話だったはずだ。

「確かに地底の連中の一部は太陽に劣等感を抱くあまり劣情にも似た感情を抱いているやつもいるが、それはハロウィンとは関係ない、きっかけではあったかもしれないけどね」
「きっかけ、ですか」
「そう、地底の民はみんな太陽に対して特別な感情を抱いている、それがどんな種類のものかは別にしてね、そのうちに太陽信仰が流行り出すのも不思議じゃなかった、しかしここで問題が起こる、創造力に乏しい我々妖怪では信仰の教義や祭壇のデザインを起こすことなんてできやしない、よその太陽信仰を取り込むのはいいとして、さあどこから手に入れようか、どう思う?」
「え、えーっと……、外来人からです!」
「その通り、君たち外来人に聞いたんだ、外の世界の太陽信仰はどのようなものなのかってね、だが滅多にいない外来人のうち地底に堕ちてくるやつは更に少ない、そのうえ民俗学や神秘学に長いやつなんて100年に1人だよ、しかもそこでまた伝言ゲームだ、ただでさえ不完全で曖昧な記憶を思い出してもらったものを更にそこから無学な連中が文字も書けずに口頭で伝えていったのが今の地底にある祠や祭壇なのさ」

言われて、街道に点在していた歪な祠を思い出す。
世界中の太陽信仰を少しずつかじり取ったかのような不気味な祠は、地底に堕ちた外来の妖怪が記憶を頼りに伝承したものだったのだ。
考えようによっては、私もその100年に1人の旅行者なのではないだろうか。
そう考えれば、みとりさんからの好奇の視線も納得できようものだっだ。

「でもよく考えればわかることだけどさ、流入してきたものはなにも太陽信仰だけじゃない、むしろもっと有名で誰もが知っていることの方がよっぽどたくさん伝わってるよ、ほらクリスマスとかさ、サンタクロースとかいう赤い外套の男が煙突から侵入して鹿肉をくれるんだろ? でも入ろうと思った家に煙突がないと怒り狂って窓をぶち破ってくるんだ、鉄パイプかなにかで」
「いえ、それはたぶん大分偏向して伝わっています」
「でも私にはどこが違うのか区別できないし、後からこれが本当だと言い張ったところですでに定着している伝承は上書きできない、そしてついここ何年かで、何かのきっかけでハロウィンも伝わってきた」
「……」

太陽信仰に起因する『外のものを取り入れよう』という風土、滅多にいない外来人、彼らが共通して知っている有名な事象。
これらの条件が重なることで、この地底独特の歪な信仰や、妖怪が恐れるハロウィンまでもが定着した。
そのハロウィンを伝えた外来人は知っていたのだ、この催しの源流を。
いや、あるいは取り戻そうとしたのかもしれない、世間に蔓延る遊びのようなハロウィンではなく、伝承そのままのものを。
自分も同じ幻想の存在なのだから、源流が消えゆくのをただ見ていることができなかったのかもしれない。

「あの世から死者が帰ってくるという逸話と、地底にもとからあった怨霊という現象が不幸な合致を見せたんだ、妖怪たちが伝承や逸話に影響されることは知っているね? 卵が先か雌鳥が先か、妖怪は伝承を産み、伝承は妖怪を産む、もともと怨霊の暴走なんて『月に数回』程度にはあったんだ、それがハロウィン伝承のせいで10月31日ピンポイントに行われ始めた、まあ日付は多少は前後するけど、たぶん3年くらい前からかな、きっとその頃になって十分に逸話が浸透したんだろうね、さて、頻度が減ってよかったかな? 時期が予測できるようになってよかったかな? とんでもない、火山の噴火しかりプレート境界型地震しかり、自然現象は溜め撃ちしたときこそが本領だ、月に数度のガス抜きがなくなったがために表面上の怨霊の発生率は落ちた、しかし実際のところ怨霊は発生しなかったんじゃなくどこかに留まっていただけだったんだ、年に1度、加減を知らずにあふれでてくる怨霊の洪水は見ていて壮観だよ、堰を切ったように、なんていう言葉はきっとこういうときにこそ使うものなんだろうね、それがハロウィン、明日、君に襲いかかるものだ」

身震いを隠せない私に満足したのか、興味を失ったかのようにみとりさんは布団へともぐってしまう。
しゃべりすぎだと注意してくるヤマメさんの言葉を意にも介さず、布団のなかでもぞもぞと猫のように蠢くだけであった。

太陽信仰は関係ない、地底の怨霊、生き物にとりつき身体を乗っ取る、年に1度の大災害、ハロウィン。
そういった言葉の断片が、私の頭のなかを駆け巡る。
私が住んでいる山と地表を隔ててすぐ真下で、このような恐ろしい催しが毎年のように行われているという事実に、私は寒くもないのに冷や汗が止まらなかった。





頃合いだというヤマメさんに連れられて、私は地底最大の産業である温泉街へと足を運んでいた。
ヤマメさんの住む家からさらに坂を登って行き、真夜中のように薄暗い道を少し進むといくらか活気のある風景が見えてくる。
もっとも、活気があるのは風景だけで、そこにいる妖怪たちは相も変わらず無気力にうつむいているばかりであった。
私は始め、彼らの無気力さは地底特有の風土か何かだと思っていたのだが、もしかしたらあれも怨霊の影響なのだろうか。
怨霊が憑くとあんな感じに無気力状態に陥るとか、それとも怨霊を恐れるあまりああなってしまったとか。
どちらにせよ、屈強な妖怪たちにあそこまでの影響を与える存在がいるという事実そのものが、毒素となって地底に蔓延しているようにすら思えた。

そんな地底の温泉街であるが、実際に歩いてみた感じ街道沿いよりもいくらか栄えているように見える。
外の世界で温泉と言えば草津や別府が有名だが、ここの温泉街もそれに負けず劣らずの規模を誇っており、道の真ん中を横切るように温泉の源泉がポコポコと沸き上がってきている姿はなかなか幻想的だ。
わざわざ見える位置で調理されている温泉卵や、温泉の源泉をまたぐようにかかる木製の橋など、観光客を意識したものまでちらほらと見受けられる。

そんな外の世界でも見かけたことのある文化を垣間見ているうちに、時折見かける温泉卵の販売員に声をかけてみる程度の余裕が私にも出てきた。
地上のお金も一応使えるということで、人間の客に驚く熊みたいな妖獣から人数分の卵を買い、ヤマメさんみとりさんと一緒に地底の幸を味わってみることにする。
物理的に地続きの場所ではあるし、ヨモツヘグイとはならないだろう。

感想としては、大分味が薄いと思った。
そもそもなんの卵なのかはあえて聞かなかったが、それ以前に塩気が足りなすぎる。
販売員の熊妖怪に塩はないかと聞いてみたが、そんな高級品は置いてないよと一笑に付されてしまった。
海のない幻想郷でも塩に困ることはない。
それら生活必需品は外の世界からバレずに輸入するシステムが確立されているし、逆に幻想郷で出たゴミを外へ捨てることだってできる。
地上からの物資援助があるのなら、当然その中に塩も含まれていると思ったのだが、みとりさんが言うには酷い仲買がいて、数年前ぐらいから値をつり上げているとのことだった。
地霊殿でもその手の仲買は摘発対象ではあるのだが、数が多すぎるうえに取り締まる人も数が足りず、そのうえ仲買人たちはその少ない取締官がつい見落としをしてしまうのに十分な金を余裕で稼いでいるのだそうだった。

ただでさえ劣悪な環境下に住む地底の民でもこのような搾取や不正があるものなのかと不思議に思えるが、逆にそのくらい貪欲でないと生きていけないほど過酷なのだろうか。
食うには困らない程度にはセーフティネットが整備されている地底でも、その程度で満足しない強欲なものも少なくはないのかもしれなかった。
いっそ地上に戻って稼げばいいのにとも思ってしまうが、そこはまた事情があって戻れないと言われるのかもしれない。
なんとも行きどころのない話であったが、この閉塞感が地底らしさとも言えるような気もした。

ヤマメさんの行きつけだという旅館は、おんぼろ旅館が軒を連ねるこの古びた温泉街のなかでは比較的小綺麗なところで、入り口は最近買い換えでもしたのか新品同様の扉であった。
ガラガラと扉を開けて中へと入り、先払いだという料金を払う。
宿泊なしの入浴のみでなら地上の相場と比べてもむしろ安いくらいで、かなり良心的な値段と言えた。

ナップサックから替えの下着を取りだし、あらかじめ脱衣かごに出しておく。
ヤマメさんに勧められるままに先陣を切って浴室への扉を開ければ、そこには湯気に包まれた大きなお風呂場が広がっていた。
ここの温泉は完全な室内風呂で、景気よく浴槽に注がれるお湯の音と、湯船にヒラヒラと浮かぶ湯の花が私につかの間の安堵をもたらしてくれる。
全体的に少々ぬるぬるする点を除けば広さも明るさも申し分なく、足を伸ばしてもなお余裕のあるこのお風呂は緊張続きだった私の心を存分に癒してくれた。
湯船に浸かるとヤマメさんに外された肩が痛んだが、果たして脱臼した患部は冷やした方がいいのだったか温めた方がいいのだったか。

やや恨みがましい視線をヤマメさんに向けてみるが、当の本人は気にした様子もなく隅にあった小部屋へと向かっていく、きっとサウナか何かだろう。
後ろから見たヤマメさんは私が想像していたよりもずっと痩せていて、あの身体のどこに人を捻じ伏せるほどの力が収まっているのかと不思議に思えるくらいだった。
ただそれもみとりさんに比べればいくらか肉付きがいい方に思えてしまう、普段は発電所で書類仕事に翻弄されているという彼女の身体は、骨が浮き出るほどに痩せ細っている。
食うに困らない程度には物資の援助もあるという触れ込みが疑わしく思えるほど、彼女たちの体格は健康から程遠かった。

割とすぐに小部屋から出てきたヤマメさんが、湯船に浸かりながら何やらみとりさんに耳打ちしだす。
色欲に彩られたねっとりした視線を向けてくるみとりさんと、食欲を思い出してギラギラとした視線を向けてくるヤマメさんとではどちらがマシな身の危険なのだろうと思ったが、万が一襲われるようなことになったらどちらにしたってひとたまりもないため、私の命と貞操は2人の良心に託し、開き直って身体を暖めることにした。
入った時は3人だけだったこの浴室だがどうやら混浴だったらしく、年頃の男の人や壮年の男性や老けてはいるが背筋のピンと通ったご老人などが入ってくる度に、ヤマメさんが何やら耳打ちをしてくれていた。
何を言っているのかは聞き取れなかったが、あれがなければきっと今ごろこの浴槽は赤く染まっているのだろうと思うとやりきれない。
改めて霊夢さんには感謝を、というか謝罪をしなければならないと思いながら、私は湯船にあごまで浸かってブクブクと息を吐き出すのであった。

その時ふと、浴槽の近くで身体を洗っていた小柄な少女と目があった。
薄い桃色の髪をした可愛らしい少女で、例にもれず華奢ではあるが、肌も丁寧に手入れされていて遠目に見ても綺麗なのだが、目の下にある隈がすべてを台無しにしている。
そんな少女は頭や身体から伸びる無数のコードに繋げられた大きな目玉を携えており、そのクリクリした視線を私に向けながら優しく微笑んでいた。
不思議なことにヤマメさんも彼女に対してはなにも話しかけたりはせず、少女もまた私に食欲を向けたりはしない、もしかしたら人間を食べないタイプの妖怪なのかもしれなかった。

温泉から上がったあと、みとりさんの視線を感じながら着替え、私たちは脱衣所のすぐとなりにある休憩所で火照った身体を冷ましていた。
これで続けてバターを身体に塗ってくださいとでも言われたら面白いなと昔読んだ宮沢賢治の作品を思い出すが、あの猟師たちと違って今の私に助けに来てくれるような猟犬はいない。
陰鬱なことばかり考えていても仕方がないし、こうしてヤマメさんたちも私を護るような行動をとってくれているのだ、それを信じてハロウィンに備えよう、と私は改めて気合いを入れ直した。

少し涼みすぎたのか、小用を思い出した私は2人に断ってお手洗いへと向かう。
受付からここまで来る途中に見かけたので、場所に迷うことはないだろう。
これまでに見かけた地底の住人たちの無気力さを考えれば、いくらなんでも行って帰ってくる間に誰かに襲われることもないだろうし、少しでも抵抗していればヤマメさんも駆けつけてくれると期待しておくことにした。

襲われるどころか誰にも会うことなく用を済ませた私だったが、問題は休憩所に戻った時であった。
私が一応なりとも周囲に気を配りながら歩いていたためか、2人は私が戻って来ていることに気が付かなかったようだ。
橋の下にいる人間に気付けるヤマメさんが私に気付かなかったのは不思議ではあったが、彼女の名誉のために付け加えれば、あの時と違って誰が通りかかってもおかしくない場所であったことや、会話の内容がみとりさんらしからぬ真剣なものであったことが、ヤマメさんの注意力を削いでいたのかもしれなかった。

「ヤマメ、たぶんだけど、博麗の巫女じゃないよ、あの子」
「あ、やっぱり?」
「雑すぎる、無防備過ぎる、無知すぎる」
「だよなぁ」
「ヤマメ、博麗の巫女に選ばれる条件って知ってる?」
「いや、知らないよ」
「もちろん巫女としての力が見込まれることも条件のうちだけど、燐に聞いた話じゃ、それ以上に幼い子供じゃなきゃいけないらしい、少なくとも目星をつけた段階ではね」
「管理者がロリコンだからか?」
「教育をするためさ、妖怪が人間を襲い、人間はそれを退治する、そのバランスを取ることが幻想郷のためであり、どちらの味方でもない博麗の巫女の仕事だって」
「ほーう、でもそれやってること完全に妖怪の利益しかないよね」
「その通り、退治ったって死ぬ訳じゃない、それどころか退治されることも伝承の内だ、幻想郷を維持するってのは本当だけど、幻想郷が維持されて得するのは妖怪の方だ」
「それを教育するために幼子が必要ってことか、なるほどね」
「他にもいろいろと都合のいいこと吹き込む必要もあるし、価値観をコントロールするにもその方がやりやすいってことさ」
「それはわかったよみとり、だったらやはりあの子が博麗ってのは考えづらい、戦いも未熟だったし、飛ぶことすらひどく不馴れな感じがした、幼い頃から英才教育を受けてきたとは思えない」
「それどころか外の世界の常識を持った人間に、幻想郷の根幹に関わるようなことをやらせるわけがないのさ、横文字を普通に理解してたり、あんな風に髪を染めたり、ほんと雑すぎる」
「巫女ではあるんだろうな、最初から博麗のふりをするつもりだったらいきなり殴りかかっては来ないだろうし」
「巫女装束の扱いにも慣れてたよね、脱ぐときも着るときも、たぶんどこかよその神社の巫女が独自に来て、ピンチになって思わず博麗のふりでもしたんだろ、そもそもハロウィンを調査ってのがおかしいんだよ、去年お前が調べて報告したばっかりじゃん」
「……いや博麗と言い出したのは違う奴なんだけど、概ねそうだろうな、だめ押しにさとり呼んだのもお前だろ? ビックリしたぞ」
「え? ヤマメじゃないの?」
「……パルスィが気を効かせてくれたのかも」
「誰だそりゃ、美人?」
「イケメンの男だよ」
「なーんだ、つまんね」
「まあ、せっかく来ていただいたんだ、あいつに聞いてみれば間違いあるまい」

私は今すぐダッシュで逃げた方がいいのだろうか。
それとも苦しむ前に首をかき切った方がいいのだろうか。
どちらにせよもう助からないだろうということは、危機管理能力が足りないらしい雑な私にも理解できた。

見透かされていた。
私の拙いその場しのぎなど、あの2人の前では児戯に等しかったのだ。
言葉のひとつひとつを、行動のひとつひとつを、一切の容赦もなく観察され、分析されていた。
私が思っていたよりも、ずっとずっと深くまで。

そして私が覚悟を決め、休憩所に置いてあるナップサックを諦めるのと同時に、みとりさんから耳を疑うような言葉が放たれた。

「ヤマメ、もしあの子が本当に博麗の巫女じゃなくても食べないでやってくれ」
「我慢しろっての? あんなうまそうな上物をお預けにしようってのかい、ずいぶん酷いことを言うじゃないか」
「あの子はたぶん堕ちてきたんだ」
「……あー、その可能性は」
「あの子、混ざりモノだよ、血筋になんかいる、妖怪じゃないな、たぶん神様系だ、犬神とか座敷わらしとかその辺」
「何でわかる」
「ハーフはハーフを知るんだよ、あの歳で未熟ってのもおかしい、普通の人間じゃあんな歳から始めたところで術が身に付くはずもない」
「そうなのか? まあローティーンが全盛期みたいな話も聞かないでもないけど」
「パワーはね、初潮を境に神性が薄れて力が弱まる代わりに、熟練度というか使い方は上手くなってくはずなんだ」
「だからこそ幼いころから修行するって訳か、それなのにあの子は力の使い方がいちいちぎこちなかった」
「それこそ異形が混じってる証拠だよ、そして地底はそういう奴を受け入れるための場所のはずだ」
「……」
「あの子もきっと追われた子だ、神は幻想郷に逃げ込んでくる、外の世界でうまくいかず、地上でも馴染めなかった、最後の望みをかけてここに来たんだろう、そうじゃなきゃここまで言われて逃げない訳がないさ」
「……それは、そうだけども」
「半妖の私がよくてあの子がダメな理由はないはずだろ、頼むよヤマメ、お前が望むものならなんだってくれてやるからさ、お前ああいうの拾って保護するのが趣味なんだろ?」
「それはまあ、いろいろ下心ありのもんだけども、だがあれはちょっと人間の血が濃すぎる、100%じゃなかったとしても、私の食欲はあれが人間だと言っているよ」
「それでもだ、あの子はきっと地底に新しい風を吹き入れてくれるよ、そんな気がするんだ」
「……わかったよ、お前がそこまで言うならしょうがねえ、ちょうどさとりもいることだ、あいつに相談すべきだろう、お前の見立てじゃ学もありそうなんだろ? うまくいけば地霊殿で戦力になるかもしれないしな」
「……うん、ありがとう」
「わかった、わかったから離れろ」
「お前はやっぱりいい奴だよな」
「離れろってんだよこのやろう」

私は口を半開きにしたまましばらくそこで硬直していた。
舌を出したままの間抜けな格好で、今しがた耳に入った台詞がぐわんぐわんと頭のなかで反響する音をただただ聞いていた。
私が、混ざりもの?
血筋に、何かいる?

私が巫女としての修行を始めたのは小学校に入る前からだ、でもそれは掃除とか歳旦祭での受付係とかの話で、巫力の制御やそれを駆使した巫術の習得は幻想郷に入る直前くらいから始めたものだった。
最低限空を飛べれば十分だと言われたが、結局それに加えていくつかの術もすぐに使えるようになった。
諏訪子様はさすがだと誉めてくれたが、それはもしかして、本来あり得ないことなのかもしれない。
ただ、比較対象がなく、唯一の先輩である霊夢さんは私より格上、ならば私のこれも普通くらいのことだと思っていた。

それに、いつも言われる慣用句。
幻想郷とは外の人間が迷い込み、外の妖怪が攻め込み、そして外の神が逃げ込んでくる場所。
そして神奈子様は、最近地底に興味があるようで、ハロウィンを調べるついでにいろいろ調べてきてくれとおっしゃっていた。
まさか、神奈子様の目的は侵略でも友好でもなく、退避だとしたら。
幻想郷にやって来たはいいが、妖怪の山でも結局馴染めず地底に引っ越しをするつもりだったのだろうか。
ヤマメさんを始めとした優しい方もいるとはいえ、こんな地の底に、日の光の届かぬ朽ち果てた旧地獄に、私も住まなければならないのか。
私を受け入れようとしてくれたみとりさんや、居場所をくれようとしているヤマメさんの優しさよりも、自分自身が何者で、これからどうなるのかがわからなくなる恐怖が上回り、私は足元が崩れていくような錯覚に陥った。

私の才能も、時々自分を抑えきれず奇行に走るこの性分も、この髪も、みんなこの血筋のせいなのだろうか。
思えば母も若い頃そうだったと聞く。
これはいよいよ、みとりさんの言うことが信憑性を帯びてきた。

私はふらふらとその場を離れ、受付の方へと歩き出す、どこに行こうというわけでもない、行くところがあるという訳でもない。
それこそ、地上にだって戻りたくないのかもしれない。
ただそれでも、とにかくここにだけはいたくなかった。

その混じっているという神が神奈子様や諏訪子様ならまだいい。
人間じゃないと言われても、あの方々なら受け入れられる。
でもそうじゃなかったら、この地に蔓延り捏造された、あの太陽信仰のようなどうしようもなく歪なモノだったら。
そう考えるだけで、私は頭に寄生虫でも湧いたかのような絶望感に苦しめられる。
その寄生虫は、どんなにやめてくれと頼んだところで私の知性を蝕むことをやめてはくれないのだ。

私の先祖は何なのか、とてもじゃないが確かめる勇気は無い。
神などというものは、一部の有名な方を除き、そのほとんどが邪で人から畏れられるものなのだから。
神と聞いて北欧のゼウスのような神々しいものを想像する私ではない、日本神話に名を残すような神々に隠れ、手に負えないから祀ってしまった有象無象の異形の怪物が歴史の狭間にどれだけいたかは神奈子様と諏訪子様の両名からよく聞かされていた。
手に負えないから機嫌を取る。
なんてことはない、トリックオアトリートなんて日本でもよくある話だったのだ。

いわゆる憑きもの筋、神との混血。
そういう一族がどういう境遇に置かれるのか、最終的にどれほどの災禍を呼び込むのかを知っていれば、神の血縁だなどと言って無邪気に喜ぶなんてありえない。
もし私の血筋にいるモノがろくでもない邪神であったのなら、私はこの血を断つために自らを葬り去るだろう。
仮にも神に仕える身である私にとって、血が穢れるとはそれだけのことなのであった。

身体の内側で渦巻く、拠り所にしていたものがハリボテであったかのような感覚を止めることもできず、私は旅館の真新しい入り口を開け放った。
何か予感があったわけではない。
外の生ぬるい空気を吸って、頭のなかを溶かしてしまおうと思っただけだ。

地底の風は生ぬるい。
熱くも寒くもないこの怠惰な気候が、地底のあり方を象徴しているようだった。
どこにも行けず、過去にも未来にも目を向けず、ただ立ち止まり続ける地の都。
考えようによっては、私にはこんな場所こそふさわしいのかもしれない。
こんな混ざりものは地の底から一生、出て来ない方が世のためなのかもしれなかった。

「……?」

そして私が何もかもから目を逸らしてその場に立ち尽くしていると、遠くの方で悲鳴が上がった。

ワーともキャーともつかない怪物どもの断末魔。
聞くだけで人間の戦意をへし折る異形の声が、あたり構わず、それこそここの温泉のようにポコポコと沸き上がってくる。
私は靴に履き替えもせず、空に浮かび上がって声のする方を探ってみた。

遠く、暗闇の中でも微かに見える街道に、巨大な波が押し寄せていた。
それは水と言うよりはもっと粘性の高い、ヘドロのような大波だった。
そのヘドロは街道を覆い尽くすかのように勢いを増し、時折吹き出物を潰したかのようにぶつぶつと破裂した。
膿(うみ)だ、と私は思った。
膨大で不潔な膿の塊が、重力を無視して地を埋め尽くし、高台であるこちらにも向かってきている。
そのあまりにおぞましく神をも恐れぬような光景に、私は宙に浮いたまま気が遠くなった。

そのまま地面に頭を打ち付けて砕けてしまえばいいと思ったのに、それもヤマメさんの手によって阻まれてしまう。

「去年とは大違いだ……、倍はあるか、みとり急げ! さとりを逃がせ! 最優先だ!」
「わかったー!」

私を抱えたまま、ヤマメさんが大声を張り上げる。
その言葉の内容はあまりに絶望的で、すでに崩れかけていた私の心に止めを刺すのには十分であった。

「しっかりしろ! 自分で立て!」
「……あの時」
「は? なるべく遠くまで離れるぞ、あれに高い低いは関係ないんだ、一応生き物っぽい動きもするし、気付かれなければそれが一番いい」
「あの時、食べられてしまえばよかった」
「……ケッ、どうせ生き残ったら撤回するんだろ」

そうなのかもしれない、私はただ状況に翻弄されて不幸に酔っているだけなのかもしれなかった。
そんな私に何ができるだろうか、このまま逃げ惑って切り抜けられるのだろうか。
ヤマメさんに手を引かれ、みとりさんと先程お風呂場で見かけた目玉の少女と合流し、他にもいくらかの人たちとともに狭い路地を裸足で走った。
暗く、狭く、心細く、手のひらに伝わるヤマメさんの力強さだけが私を支えてくれていた。

みとりさんを先頭に、右に折れ、左に折れ、迂回し、直進し、身を潜め、掻い潜り。
目と鼻の先にまで迫った膿の洪水から逃げ惑いながら、私たちはただただ力尽きるまで走り続けた。
これでも体力には自信がある方で、神社での修行の成果か、クラスでは誰よりもスタミナがあったし、長距離走も得意だった。
そんな私が力尽きるほどに走り続けても、彼ら妖怪たちにとっては軽く息切れを起こす程度の距離であったようだった。

「どうだみとり」
「……ハァッ、ハァッ、……遠いね、……まいたかな」
「何人残ってる?」
「私らと、……ハァー、3人かな、デスクワーカーにゃ、キツイね」
「クソ、明日のはずだろうが!」
「……もともと、そんな律儀なもんでもなかったろ」

悪態をつくヤマメさんだったが、周りの人たちからは悪態すら出てこない。
ここで終わりなのだろうか、怨霊に飲み込まれて、あのむごたらしい膿の中で発狂死するのだろうか。
こんなことになるとわかっていたのなら、やはりあの時食べられてしまえばよかったのだ。
それでヤマメさんが喜んでくれるのならまだマシな結末だったじゃないか。
今からでも遅くはない、朽ち往く定めが逃れられないものだとわかったら、迷わずこの身を投げ出し、彼女たちの慰めとなろうと、自然に考えていた。

「なぁ、……あれこっちに近付いてきてないか?」

みとりさんからの更なる追い打ちに私はもう顔をあげることすら億劫で、終わるなら早く終わりにしてほしいという甘苦い願望にこの身を任せるばかりだ。
もういっそあの膿のなかに自分から飛び込んでしまえばいいのではないか、そう思っているのは私だけではないだろうと思われた。

「変だぞ、いくらなんでもこの距離で気付くはずが……」
「いいから逃げるぞみとり! もうひと頑張りだ!」
「いや、やっぱりなんか変だ、まるで何かに引き付けられてるみたいだ」
「なんだって?」

重たい頭を無理して起こして見たくもない景色を眺めてみれば、確かに遠くの方のにいる怨霊たちが途中の妖怪を無視してこちらに向かって来ていることがうかがえた。
まるでだれか目的の人物でもいるかのようなその意思を持った動きに、私は心臓を握り潰されるような悪い予感を覚えた。

「ヤマメ、何目当てだと思う?」
「……」

ヤマメさんは言葉を発することなく、視線だけで回答する。
私も同意件だっただけに、その意図はすぐに汲み取れた。

砂漠の果実。
痩せて細った妖怪と、ごく健康的な若い人間と、身体を失いさ迷い歩く怨霊たちはどちらを好むだろうか。
その答えが、洪水となってこちらに押し寄せてきていた。

「私、外では結構モテたんですが、ここまで求められるのは初めてですよ」
「……博麗、まだそうと決まったわけじゃ」
「ヤマメさん、すいません、実は私、博麗の巫女じゃないんです」
「……そうかい」
「でも、博麗よりもすごい巫女です、あんなの一発で祓っちゃいますよ」
「え? あ、そうか、巫女なんだった」

なんで気付かなかったんだとヤマメさんが声に出す。
そして、それに応じたかのように周りの妖怪たちからも一斉に期待の視線が向けられた。

そう、私は巫女だ、魔を祓う者だ。
怨霊だか悪霊だか知らないが、それこそまさに私の本領だ。

「私がなんとか引き付けます、その間に逃げてください」
「……」

この私の決断に、自暴自棄や破滅願望がなかったとは言わない。
それでも私は風祝、助けを乞う者の前で、格好付けずにはいられないのだ。

自分が人間じゃないかもしれないとか、守矢神社がやっていけてないんじゃないかとか、そういった負の感情が心の端の方へ追いやられていく。
ヤマメさんと、みとりさんと、見ず知らずの妖怪たちが、私の奇跡を求めている。

ならばそれが最優先。
なぜなら私は、守矢の1柱なのだから。
神とは期待に応えるものなのだから。

「いっちょう奇跡、起こしてきます」
「……あんた、本当の名前は?」

私は巫力を解放し、自身の回りに真球状の光を展開する。
眩しそうに目を細めているヤマメさんにすら遠く及ばない力だけれど、怨霊相手なら私の方が相性がいいはずだ。

今日ずっといいところがなかった私に、やっと巡ってきた活躍の場。
だから私は、笑って答えた。

「東風谷早苗、守矢神社の神様見習いです」

地底に来てから、初めて笑った気がした。

洪水がなんだ、海を割るのが私だろう。
怨霊なんて、残さず祓って見せましょう。





私が飛び立った直後、予想通り怨霊たちはヤマメさんたちを無視して私の方についてきた。
あの人たちのことだからきっと大丈夫だろう、そう思って私は自分の心配をすることにした。
とは言ってもまあ、さすがにどうしようも無さそうなのだが。

怨霊たちはよく見るとひとつひとつが人間の形をしていて、顔があって身体があって手足があって、それら全部が溶けて爛れたようなのが、何十万人と連なっているようにも思える。
彼らは本当に私のことが妬ましくてしょうがないようで、悲鳴のような絶叫を上げながら我先にと私の身体へ向かってきていた。
私は空中で可能な限り複雑に飛び、アメーバのように蠢き向かって来る怨霊たちを掻い潜る。
そのさまは栄養源を見つけた菌糸のようであり、個々に人格を持っているはず存在がまるで1つの生き物であるかのように私の逃げ道を塞いでいった。
私はなるべく怨霊の薄いところを狙い、巫力の弾幕を撃ち放つ。
その私の力の塊が怨霊にぶつかる度に、彼らは相殺されるかのように掻き消えていった。

怪異を祓う巫女の力、元々は生きた人間だったはずの彼らが祓われるとどうなってしまうのか、そんなことを考える余裕はない。
願わくば、汚れを落として輪廻に戻り、いつか再びまともな命として巡り会いたい。
その時は、きっと友達になりましょう。

みとりさんが見抜いた通り、私は巫女として未熟者だ。
大した術も使えなければ、巫力の総量だってたかが知れている、それどころか風祝なので厳密には巫女ですらない。
それに対してこの怨霊たちの容赦のなさはあまりにも手厳しく、もしこれが映画のワンシーンだったら私はこの絶望を見ていられず目をつぶってしまっていただろう。
こんなのはもう焼け石に水と言うよりは、私という線香花火にバケツで水をかけるようなものだと言った方が的を射ている。
それでどれだけ水が蒸発するかなどとは、考えたところで意味がない。
つまるところ、この悪あがきは長くは持たないだろうということだった。

温泉のお陰でいくらかリラックスできたとはいえ、地底に入ってきたときの恐怖心や、ヤマメさんに組伏せられた時のプレッシャー、みとりさんから聞かされたハロウィンについての情報による衝撃、さらにすべてを見透かされていたという焦燥と、私の血統や神社の今後についての不安、さらには体力の限界まで走り続けた膿だらけの逃避行。
それら地底に来てから受け続けた心身へのダメージが、ここにきて私の精神を著しく消耗させていた。

息も絶え絶えに空を飛び、全身を突き刺す異形の気配を感覚を頼りに回避する。
道を塞がれれば潜り抜け、周りを囲まれれば弾幕で穴を開ける。
そんな孤独な戦いを続けてどのくらいたったか、いよいよ飛行にまわす巫力が枯渇した私は、そのまま地面へと叩きつけられた。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

もう一歩も動けない。
体力の限界のせいで高度が取れなかったためか、墜落しても大した衝撃はなかった。
それが幸いだったのかどうかはこのあと訪れる悲劇を見てから決めたいところだが、その時にはもう私は正気を保っていないだろうから、比べようがないかもしれない。
仰向けに転がり、真っ黒な洞窟の空を見上げれば、いくらか減っているとは到底思えないような膨大な量の怨霊が私に目掛けて降ってくるところであった。

ヤマメさんたちは無事に逃げられただろうか。
ここまで都市が崩壊したら旧都の存続も危ういのではないか。
ひんやりとした涼しさを左手でもてあそびながら、私はこんな時にまで他人の心配をしていた。

神奈子様、諏訪子様、申し訳ありません。
早苗はやれるだけはやりました、しかし、自然には敵いませんでした。
どうか、お元気で。

すべてを受け入れ、私は目を閉じる。
大きく口を開けてしゃぶりついてこようとする怨霊たちに、抵抗するすべがもうなかった。

ただ、視界を封じたがために他の感覚が鋭敏になったのか、怨霊が近付いてくる気配と、ぱちゃりという冷たい音がやけにくっきり感じられた。
その音が水の跳ねる音で、左手に感じる涼しさが水に触れたがためのもので、それがなんの水で、隣に何があり、ここが地底のどこなのか。

いっぺんに入ってきた情報が私の脳に染み込んでいく、極度の疲労のために余計なことを考える余裕のなかった私の脳が、最短距離で解答を導き出してくれる。
それを自覚すると同時に、私の手にはよく馴染んだ愛用の棒切れが握られていた。

「……ああああっ!!」

自分が何をつかんだのかも確認せず、私は思いきり左手を振るう。
それに併せて発生した衝撃波が、頭上から襲いかかってきていた怨霊たちを吹き飛ばした。

疲れも忘れて私は立ち上がる。
この小川は、この橋は、そしてこの御幣は。
見覚えがある。
これは、ここで取り落としたものだ。
ここに御幣を落としていたことなど自分でもすっかり忘れていたが、そんなことよりももっと重大な事実があった。
この小川が正しくあの小川なら、これをたどって行けば地上へ抜ける洞窟へたどり着ける。

冗談のように震える身体にムチを打ち、私は走り出した。
いったいここから何メートルくらいだったかなんてもう覚えていない。
懲りずに迫ってくる怨霊もその勢いを増している。

考えている暇はなかった。
私はただただ前だけを見て、舗装もされていない真っ暗な悪路を走り続けた。
遠くに見える洞窟の入り口がその輪郭を確かなものにさせる頃には、私の頭は助かりたいという気持ちでいっぱいになっていた。
助かりたい、ただ助かりたい。
生きてここから出たい、神奈子様たちに会いたい、また明日、生きて朝日を拝みたい。

そして私は大きく飛び跳ね、洞窟の前で着地する。
この先に外がある、視界いっぱいに広がる、遠慮のない大空がある。
私はここにきて、地底の民が太陽に対して秘めている想いの一端を垣間見たような気がした。

ここまで来ればあとはもう少しのはず。
もう少しで帰れる、もうひと頑張りだと私は自分を奮い立たせたが、ゴツゴツとした岩肌が牙のように生え揃うこの洞窟に侵入しようとした瞬間、私の足になにかが絡み付いた。

腐った果物のような感触のそれは強い意思を持って私をつかんでおり、私はそのまま引きずられるように地面に全身を打ちつけた。
しかもなお悪いことに、たった今手元に戻ってきた御幣が、転んだ拍子に私の手を離れ、どうやっても届かない所へまで飛んでいってしまった。

「……やだ」

それは私に覆い被さると、無理矢理仰向けにしてきた。
それは赤黒く、どろどろとしたヘドロのようで、概ね人のような形をしているが、全身が爛れた膿のようなものでできていた。
それは生前の面影を持ってはいなかったが、体格からして男性のように思えた。
それはドロドロとした身体を滴らせ、私にピッタリ重なるように身体をすり寄せてきた。

「やめ、……やめて、……う、ううううう」 

私はほとんど反射的に手を伸ばし、懐に入っていた物を取り出す。 
荷物はほとんど旅館に置いてきてしまっていたが、これだけは常に懐にしまっていた。 
  
「うわあああっ!!」 

ブランデー用のボトルのキャップを一息で外す、効くかどうかもわからないままに中のお神酒をぶちまけると、目の前の怨霊が耳をつんざくような悲鳴をあげた。
中途半端に清められて形が保てなくなった怨霊が、ボドボドとした、腐り果てた死体のように崩れ落ちる。
全身でそれを受け止めてしまった私は、その膿とも泥ともつかないべちゃべちゃとした存在感をまともに味わうはめになった。
見た目以上に柔らかい感触、お神酒に触れて断末魔のようにブルブルと震える身体、むせかえるほどに凝縮された腐敗臭、そして今までの人生で感じたこともないような、本能が一瞬で毒と判断するほどの形容しがたき独特の苦味。
脳が次々と認識していくそれらの感覚を振り払い、そこらにつばを吐き付けながら、私は再び立ち上がった。

肌を通して体内に染み込んでくる強烈な悪寒を頭の外へ追いやり、半狂乱になって洞窟へと飛び込む。
魂まで汚染されそうなあの怨霊の感触を思い出してしまわぬよう、私は狂人のように叫び声を上げながら暗がりを駆けた。
懐中電灯無しではなにも見えないはずの空間だったが、狂気に侵された私の目には、岩は見えずともここに住まう異形たちの姿がありありと見えていた。
まともな身体もなく、黒い輪郭だけの小さなモノたちを裸足で踏み潰しながら、彼らの存在が形作る洞窟の縁を大まかに把握していく。
喉が枯れるほどの大絶叫を絶えず放ち続けながら、私はひとり、無我夢中で洞窟を走った。

穢れた身体に砕けた心、今の私の姿を見て、誰が神聖なる風祝だと認めてくれるだろう。
もの狂いのように叫び続ける今の私は、もはや人とは呼べぬほどの存在にまで堕ちていた。
平時の私ならば自らの様相を恥じ、神社に帰って再び神前に立つことを、きっと躊躇ってしまうだろう。
しかし、度重なるショックで心身ともに異常をきたしている現実の私にそんな悠長なことを考える余裕はなく、私は生存本能が命じてくる悲鳴のような欲求に従い、なにもかもをかなぐり捨てて地上を目指していった。

髪を振り乱し、目を見開きながら、旧都から離れるごとに寒くなる洞窟をひた走る。
常人ならば到底耐えきれないような環境に置かれながらも気が変になるような気がしないのは、すでに私が狂っているからなのだろうか。
岩の間を跳ね飛びながら、私は自身が蛙にでもなったかのような錯覚に陥る。
もっとも、こんな雄叫びを上げながら地上を目指す蛙がいるとするのならだが。

走り始めて数分、来た道は一本道だったはずだ。
にもかかわらずこの光景はどうだ。
眼前に迫るのはどこをどう見ても物理的で無骨な岩の壁で、右を見ても左を見ても、そして上を見ても続く道がない。
袋小路であった。

私は絶叫をあげながら弾幕を放った。
道に迷ったという事実に、私の心が気付きたくなかったのだ。
私の脳が半狂乱になって命じてくる拒絶の意思が、現実を否定するべく洞窟の壁をがむしゃらに穿つ。
しかし返ってくるのは派手な炸裂音と土煙だけで、戦果といえば壁が少々削れただけだった。
気の遠くなるような絶望に心身を侵され、私の口元には笑みがこぼれていた。
アハ、アハハハ、と岩の上で棒立ちになりながら涙を流す私に応える者はいない。

自身の正気を溶かし、私に快感にも似た焦燥感を与えてくれるこの感情は何という名前なのだろう。
絶望か、諦念か、あるいは、失恋か?
親とはぐれたひな鳥のような不安が私を支配する。
私が恋焦がれるように求める生還という名の奇跡は、私に興味が無いようだった。

周囲の気配を探ってみても、行きに撒いたはずのお神酒の力は感じられない。
おかしいな、確か最後に口から吐いたのは出口のすぐそばだったはずなのに、それすら見かけないとはどういうことだろう。
消えてしまったのだろうか。
この洞窟に充満する瘴気に耐え切れず、お神酒はその神性を失いただのアルコールへと変貌してしまったのだろうか。
アハ、アハハハ。

ふと振り返れば、闇そのものいった具合の下り坂が地獄まで続いている。
私は身を投げ捨てるかのように岩から飛び降り、転げ落ちるように坂を下った。
途中、何度もあちこちをぶつけたが、不思議と痛みは感じなかった。

私は蛙なのだから、片足ではなく両足で跳んだ方が調子がいいのは当然だ。
ピョンピョンと岩間に見える小さなモノを踏み潰しながら、岩から岩へと次々飛び移った。
延々と続く洞窟もこうなってしまえばもう怖くない、私は幼い子供がザリガニに向かってするように、そこらにいる小さなモノを捕まえ、その胴体を引きちぎる。
それを口いっぱいに頬ばり、両の奥歯で噛みつぶしながら洞窟を進む。
岩肌にぶつかり、別れ道を巡り、とりつかれたように上へ上へと登って行った。
そのうちに、私はあたりが再び暖かくなってくるのを感じ始めた。
どうやら地上が近くなって来たようで、出口が見えるのも時間の問題かと思われる。

ああ帰れる、さあ帰れる、夢にまで見たあの日の光の下へ再び返り咲ける。
半身を潰され、ひくひくと痙攣する小さなモノを喉の奥へ押し込み、私は嬉々として外へと跳ねた。
栄養満点の体液をすすり、輪郭のみの奇妙な身体を飲み込みながら、私は全身に満ちる歓喜に酔う。
地上に蔓延る命の気配がもう目と鼻の先に迫っていた。

まぶしいほどの光が見える。
さぁ、地上だ。

「――――――ッ!!!」

私は自身の凱旋を世界に知らしめるべく、腹の底から大声を放つ。
空には奇妙な鳥が飛び、地には奇怪な獣が這う。
遠くには大きな異形が浮かび、近くには小さな異質が走る。

私はそれら素晴らしき生命たちと同じ土俵に再び立てたことを誇りに思う。
目に写るものすべてが眩しく、聞こえるものが耳に優しく、そそる香りが鼻腔をくすぐり、涼しい風が肌を撫でゆく。

目が潰れるほどに煌々と輝くお月さまと、夜空を埋め尽くすような満点の星空が、私の帰還をその輝きをもって歓迎してくれていた。

私は、帰って来たのだ!





私はその後洞窟の前で倒れてしまったらしく、しかもしばらく高熱を出し続けていたとかで、結局ハロウィン当日の10月31日とその後数日を寝て過ごすことになってしまった。
地底からの脱出劇はもとより、倒れていたところを野性動物や野良妖怪に襲われなかったのは奇跡としか言いようがなかった。
あるいは服に染み付いたお神酒が護ってくれたのかも知れなかったが、見つけてくれたのが白狼天狗でなければ、いやもっとピンポイントに椛さんでなければ、今ごろどうなっていたことか。
あちこち打撲やら骨折やらと酷いありさまではあったが、生きてるだけで丸儲けだと思うことにした。

私は様子を見に来てくれていた椛さんに感謝しつつも、当初の予定であった調査結果の報告も忘れなかった。
熱が引いてから数日経って11月も中旬に差し掛かる頃、頭の中で出来事をまとめた私は神奈子様たちに地底での冒険のあらましを説明した。

長い長い洞窟、くるぶし程度までの小川、轍の残る石橋、朽ち果てた旧都、歪な祠、ヤマメさん、みとりさん、伝言ゲームの太陽信仰、ハロウィンと怨霊の親和性、古びた温泉街、小綺麗な旅館、そして地獄そのものだった悪意の洪水。
それら私の見たこと聞いたことをひとつひとつ丁寧に報告すると、神奈子様と諏訪子様はううむと揃って腕を組んでしまった。
私が特に詳しく話したことはもちろん地を埋め尽くす怨霊のことであったが、神奈子様たちが興味を示されたのはむしろ太陽信仰の方であった。
お二人が言うには、そこに怨霊にとりつかれた妖怪から怨霊を取り除くすべがあるかもしれないということだった。

確かにあそこの妖怪たちの信仰心は本物だったし、それを利用すれば守矢神社にも有益なことができるかもしれない。
怨霊にとりつかれた人たちを元に戻せるとなったら、きっと彼らも喜ぶだろう。
でも私にとってはそんなことよりもご飯の準備の方が急務だったので、難しい話はお二人に任せて席を外させてもらうことにした。

今日のご飯は鯖の味噌煮に大盛りのサラダ、秋刀魚の塩焼きと冷奴に、卵とちくわと大根と昆布とはんぺんと厚揚げのおでんと、おでん用にシメのうどん、それからトンカツと唐揚げと焼きナスときゅうりの浅漬と大根のお味噌汁、目玉焼きを乗せたハンバーグに、付け合せは人参とトウモロコシ、そして主食はどんぶりの白米だ。
デザートには柿も食べるし、足りなかったら庭に生えているトマトをもいで食べればいい。
ご飯って素晴らしい、おいしいって素晴らしい、おいしいものを食べてる時って、生きてるって感じがする。

窓から差し込む日差しに誘われ、私は思わず庭に足を運んだ。
空を仰げば雲1つない快晴が広がっており、空の主役であるお天道様から、その慈悲である日の光が惜しげもなく私に降り注いでいた。
日光! 素晴らしい! 暖かい! 素晴らしい!
私は庭で育てていたトマトをもぎ、小躍りしながら貪った。
まだ青く、苦くて固いトマトだったが、2つ3つと食べ進める内に大して気にならなくなっていた。
おいしいって素晴らしい、生きてるって素晴らしい、ミミズだってオケラだってアメンボだって、みんなみんな生きているんだ食べられるんだ。

私が夢中になってトマトの果肉をすすっていると、ふいに背後に気配を感じた。
見ると、眉を潜めた椛さんがトマトの果汁に濡れた私の割烹着を覗き込んでいる姿がある。
なにかと思って近寄ってみたら、私宛に1通の手紙を持ってきたとのことであった。
椛さんが言うには、同僚が地底への物資供給任務の最中に土蜘蛛に出会い、託されたのだという。
もし私が無事に地上に帰れていたら渡してほしいと言われたようで、椛さんが代わりに持ってきてくれたのだそうだ。

その人が直接来ればいいのにと思いながらもお礼を言い、私はその地底からの手紙を受け取る。
なぜかにとりさんについての悪態をつきながら椛さんは神社を後にし、この場には私と太陽だけが残された。
トマトの果汁でしおれていく便箋の封を切り、中の手紙を取り出してみる。
差出人は黒谷ヤマメとなっていた。

手紙によると、ヤマメさんたちは無事にハロウィンを切り抜けられたらしく、旧都の方も見た目ほどの損害はなかったそうだ。
一部、怨霊にとりつかれた者もいるが、彼らの隔離は順調に進んでおり、二次感染の危険は少ないという。
自分達が無事で済んだのは私の活躍に因るところが大きく、一同深く感謝している、私にとって負担でなければ安全な時期にいつでも遊びに来てほしい、ただし、地底そのものがトラウマだと言うのなら無理は言わない、ここでのことは悪夢か何かだったのだと思って、地上で生を謳歌してほしい。
だ、そうだった。

そして手紙の最後はこう締め括られていた。

未確認だが、ひとつ無視できない問題が発生している。
どうやら君を追って洞窟を抜けていった怨霊たちの一部が本体に合流し、その情報を伝播した節がある。
これはつまり、怨霊たちが地上への脱出ルートを見つけたことに他ならない。
あの怨霊たちに意思を伝える手段があるのか、また組織的な行動がとれるのか、それらは今後調査していくつもりである。
もし君の住む人里が山に近い場所ならば、違う人里に早々に引っ越しすることを強く薦める、外の世界に帰る手段があるのなら、それを使うことも検討すべきである。
里と里の間を移動するのは危険かもしれないが、山の近くに住み続ける方がさらに危険だと思ってほしい。
もし万が一最悪の状況になれば、あの溶岩流のような怨霊たちが地上に吹き出してくることもあり得ない話ではないのだから。
この事は特使を通じて管理者にも通達するつもりだが、それが公開されるかどうかはわからない。
もし君にそれが可能なら、みとりの妹にもこのことを伝えてあげてほしい。
私は会ったことのない人物だが、みとりが言うには将来有望なエンジニアらしい、多少の身内贔屓が入っているとしても、そんな子が怨霊の餌食になることがあってはならないことに変わりはない。
面倒をかけるようで申し訳ないが、どうかお願いしたい。
地上の友人の無事を祈る。
黒谷ヤマメ。

私はふいに空腹を覚え、手紙を丸めて口へと運んだ。
つまらない話に興味はないし、地底のことにも興味はない。
私の興味はいつだって、新鮮で素晴らしいものに向けられているのだ。

紙とインクに混じったトマトの味を飲み込みながら、私は改めて空を見上げた。

ああ、雲一つない快晴だ。
今日はなんていい天気なんだろう。
こんな日は素晴らしいものを探して散策にでも出かけたい。
ハッピーハロウィン食欲の秋。
ご飯を食べたら行ってみよう。
きっと、今日も素敵なドキドキに出会えるはずだ。



18度目ましてこんにちは。
食欲の秋ですがそろそろ冬です。

地底ってのは本当にいいものですね。
愉快な仲間が目白押しです。

長編も頑張る。
それではまた。
南条
http://twitter.com/nanjo_4164
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コメント



0.380簡易評価
1.無評価名前が無い程度の能力削除
1ゲット
6.100SYSTEMA削除
キャラと、地底の薄暗さがとても良かったです!
7.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
8.80奇声を発する程度の能力削除
良かったです
10.50名前が無い程度の能力削除
衒学っぽい台詞が多い割に、読者を納得させる描写が異常に少ない気がします
例えば懐中電灯のくだりで、どれだけ潜るのかわからんのに電池の予備持ち込んで無いんかいとか、入口だけ確認してまた後日の朝か昼間に行けば良いじゃんとか、ケロちゃんから危険か否か判断しろ、と言われていたのに、ちょっと殺気をぶつけられて焦った挙げ句先制攻撃を仕掛けてあのザマとか、ちょっと変なのが先祖にいたら命を絶つ覚悟が意味不明(むしろ喜びそう)とか、「ブランデーを入れるボトル」がそのま固有名詞になっててしつこいとか(最初に説明した後は「ボトル」で良いと思います)、まあ大体そんな感じでした
閉鎖空間の暗さは好きなんですが、先に挙げたみたいに、いちいち引っ掛かる箇所があるのでノリきれなかった感があります
12.100絶望を司る程度の能力削除
さすがと言うべきでしょうか。読み終わった後に思わずため息をつくほどのめり込んでいました。
面白かったです。
14.100名前が無い程度の能力削除
最高!

なんつーか早苗さんは流されて卑屈に命を危険にさらし使命を果たすストーリーが似合う
最後は早苗さんが死の恐怖に発狂したことが本人の中ではある種のいや間違いなく死を恐れずに使命を果たすという洗脳がとけたことを意味しているので嬉しくて嬉しくて仕方ない気がします

主人公格が強くない話はどうしても面白いですね
本来人間より強いから妖怪なわけで

ただ気になるのは神奈子の無策ですね
早苗さんも自分を信じた神奈子らを信じたからミスしまくったわけですし

まあこの早苗さんに幸あれ
皮肉じゃなくて
自分も使命に命をすてるより貪欲に生きながらえるほうが思想的に好きですし
17.100名前が無い程度の能力削除
薄暗い洞窟の閉塞感と、そこに潜む恐ろしい信仰、そして解放のカタルシスが色濃く詰まっていました。面白かったです。
18.100夏後冬前削除
南条さんの作品は描写からくる説得力とリアリティがえげつなくて、それが単体で暴力レベルのパワーを持ってるところが強い。