今日、紅魔館に音は無かった。音の代わりに悲しみがあった。館のメイド長、十六夜咲夜が病床に伏せていたのである。
末期であった。
最早助かる道はないと幻想郷で一番の医者、八意永琳も紅魔館の主人、レミリア・スカーレットに告げた。
病の原因は十六夜咲夜の能力である。元々、彼女の力は人間の力には余るものであったのだ。その過大な力は咲夜の体を蝕み、病ませ、膝を地につけさせた。咲夜は既に歩く事もできず、自分で食事をする事もできなかった。顔は動かす事ができたので、会話を成立させるは出来たが、それだけである。
レミリアは咲夜に血を吸わせろと言った。血を吸わせ永遠に自分の側に居ろと命令した。いや、それは命令と言うより、哀願に近かった。しかし咲夜は、そんな主人の一番の願いを受けても、静かに首を横に振るだけだった。
『私は一生死ぬ人間ですよ』
咲夜は、以前永夜の異変の時に主人に告げた事を、再び、しかと述べたのだ。レミリアは散々悩んだ末に、彼女の意思を汲み、人間として命を終える事を許した。
レミリアは自らの異能を用いて、咲夜の終わりの刻を知る。23日の夕方、17時34分12秒。それが咲夜の寿命。それは今日の夕方である。
今日まで咲夜と親交のあるものが次々と彼女の元を訪れ、最後の別れを告げていった。博麗霊夢、霧雨魔理沙、アリス・マーガトロイド、魂魄妖夢たち彼女の友人から、聖白蓮や古明池さとり、八雲紫などの幻想郷の有力者も咲夜に会いにきた。
そして、今日の昼までに全ての来訪者はいなくなり、咲夜は残された時間を紅魔館の住民で過ごすことに決める。
レミリアは咲夜の死を深く嘆いた。フランドール・スカーレットもそうだった。パチュリー様も普段見せぬ涙で顔を濡らす。紅美鈴に至っては、人目も憚らずわんわんと泣いた。
そして十六夜咲夜はこの世に留まっていられる最後の数時間に、それぞれ一対一で最後の挨拶をする事になる。
めいめい咲夜と最後の語らいを楽しみ、抱き合い、そして再び涙を流した。
自分達の大事な人、十六夜咲夜の死に。
そして……
「貴女も、咲夜に最後の別れをしてあげて」
十六夜咲夜の寝室から出てきたパチュリー様は私にそう言った。
パチュリー様は顔を真っ赤にして泣いていた。涙と鼻水でいつものすました顔を台無しにして。
私はそんな彼女に軽く頷いた後、つかつか咲夜の部屋に入り、ベッドの側の椅子に座った。
「……ああ、貴女にもお世話になったわね」
咲夜が私に弱々しく声をかけてきた。ありきたりで陳腐な台詞である。死に臨しても咲夜の姿は平常と変わらず、怜悧なままであることにに私は少なからずの驚きを覚えた。
「私が向こうへ逝っても、貴女がいるから私は安心できるわ。貴女はいつも私と同じくらい……いえ、それ以上に働いてくれていたのだものね」
咲夜が歯の浮くようなことを言う。だが、これは彼女の偽らざる本心だろう。今際の時に、下らない世辞をいう人ではない。それに、咲夜と私もそれなりの時間を一緒に過ごしてきた。私たちの関係を正確に表現する語彙を私は持たないが、それは確かに一種の家族にも似た信頼関係であったと信じている。
だから本来なら、私は間もなくこの世を去る咲夜のこの言葉を泣いて受けるべきなのだろう。だが、今日の私は咲夜とこんなことを話に来た訳ではない。
「私が死んだ後、いつまでもお嬢様たちが泣いていたら貴女が慰めてあげて。貴女ならきっとそれができるはずよ」
咲夜は何も言わない私に、まだ綺麗なだけの言葉を吐いていた。
一応最初は悲しい振りをしてやろうかと思ったけれど、いつまでもこんな下らないことを言うのであれば、少し予定を早めてみてもいい。うん、そうしよう。
「咲夜さん」
私は言った。咲夜は静かに小さく頷いて、私の次の言葉を待った。
そして私は咲夜の目を見据えて、
「さむいです」
と言った。
咲夜の顔が驚きに染まる。私の言った事が分からないのだろうか。いや、そんなことはない。言葉の意味は分かって居る筈だ。
ただ、今この瞬間に私がこれを言った意図が分からなかった、そんなところ。
「寒い……というと。そんなに冷えるかしら?」
咲夜が、間が抜けたことを言っている。
「いえ、そういうことではありません。貴女の口から出すこと、貴女の取る行動の全部が寒い。貴女に分かりやすく換言するのなら、面白くない。つまらない、と言っているのです」
咲夜が怪訝そうな顔をする。さっきまでレミリアたちとお涙頂戴、感動の離別式をやっていた彼女には私の言葉はいきなり過ぎるだろう。だが仕方ない。タイミングはここしかなかったのだから。
「それは……貴女は日頃から私の事を好いていなかった、と考えてもよいのかしら? それで、最期のときにそんなことを言うなんて、貴女もやってくれるわね」
咲夜が言う。だがそれも間違っている。話の先を読み過ぎている。早計過ぎる。
私は咲夜が好きだ。
人間でありながら特別な能力を持ち、いつも堂々と生きていた咲夜が好きだ。
だからこそ私はつい昨日まで咲夜の運命を嘆き、レミリアたちと同じように泣いていたのだから。
だが、今日の私は昨日の私と違う。恐らく今日の私は咲夜の見た事の無い私だ。これは咲夜に伝えておいた方が良いだろう。
「咲夜、初めに言っておきます。今日の私は、貴女の知る『私』ではありません。ただの悪魔だと思って下さい」
「悪魔……そう。その悪魔があと数時間の命の私に何の用かしら?」
「面倒なことは無しです。咲夜」
私は単刀直入に、
「貴女は生きて下さい」
咲夜にそう告げた。
そう、今日の私の目的はこれである。咲夜を死なせない。この為に今日私はやってきた。
ただし、これはセンチメンタルなものではない。大切な人を死なせないとか、そういうハエもたからないほどドブ臭い理由で私はこんな事をしているのではないのだ。
私の言葉を聞いた咲夜は目を大きく開いたあと、ふっとため息をついた。
「……私を救う魔術でも見つけたのかしら?」
咲夜が言う。
「いえ、貴女の病は貴女の内面から湧き出たものですから、それを取り除く魔術なぞ世界中の書物を読みあさった所で存在しないでしょう。それが例えどんな禁術であってもです」
「じゃあ、魔術以外で新しい方法でも見つかったの?」
「いえ、特には」
咲夜は、目を深く閉じて黙ってしまった。きっと死を迎え入れる覚悟を決めたにも関わらず、命が助かるという希望を抱いてしまったことを後悔しているのだろう。希望を抱いた後の絶望は、希望がなかったときのそれよりも辛く苦しいものである。
咲夜は再び目を開けると、鋭い視線を私に作る。
「なるほどね、やっぱり貴女は私に嫌がらせをしにきたわけね。何が『生きて下さい』よ。助かる方法はないのよ。もしあったらお嬢様かパチュリー様がとっくに見つけているわ。貴女とは良い関係を築けているつもりだったけどね、最期になってそんなことをいうなんて、私はちょっとがっかりよ?」
咲夜が一気に捲し立てる。だが、私はひるまない。ひるむ必要もない。
「何故ですか? 別に新しい方法などなくても、咲夜が生きることはできるじゃないですか?」
「どういう意味?」
「レミリアに血を与えれば良いのですよ。それで闇の眷属になって寿命を延ばせばいい。勿論フランドールでも構いませんが」
咲夜は呆れた顔をした。そして、とうとう露骨に怒りだした。
「その事はもう終わった話でしょう? 貴女はお嬢様に聞かなかったの? お嬢様は何度も私に仰ってくださったわ。でも私は人間でいることを決めたの。今更そんなことを蒸し返さないでもらえる?」
咲夜が怒る時はいつもこうだ。声色はいつもと変わらないけれど、語調が強くなる。そして理路整然としていて相手に反論を許さない。私もそんな咲夜の威圧的な知性に憧れた者の一人だ。
でも、今の咲夜のいうことは本当に的外れだ。徹頭徹尾、何も的を得ていない。なので、こんなものは無視する。
「咲夜」
「なに?」
「貴女はわがままです」
「何故?」
「生きる事ができるのに、生きる事を止めている。死ななくても済むのに、死のうとしている。まるで自殺志願者です」
「だからその話は終わったと言っているでしょう? 私は最期まで人間でいたいの。貴女の気持ちはわかるわ。でも、そんなことをこれ以上いうのは止めて頂戴。そんな言葉は無駄にしかならない」
ああ、駄目だこれは。
私の意図が余り伝わっていないようだ。
私は咲夜のことが好きだから、はっきりと言葉にするのは憚られたけれど、こんな咲夜を見るくらいなら、ちゃんと言った方が良いのかもしれない。
「咲夜、貴女は勘違いしていますよ。私は貴女を説得しにきたのでも、お願いしにきたのでもないのです」
咲夜は口を一の字にして私の話を聞いている。
「私は貴女に『生きろ』と命令をしにきたのです。強制をしにきたのです。そして、それは貴女に死んで欲しくないからではありません」
咲夜が怒りの表情を変えて、目を据えるものになった。これは咲夜が頭を巡り巡らせているときの表情だ。こうなった時の咲夜は手強い。
だから計画を円滑に進めるためには、彼女の理解が終わる前にどんどんこっちで話を進めてペースを握ってしまった方が良い。とはいっても私の勝ちが最初から決まっているのだから、どうというほどのもないのだが。
「咲夜、こう見えて私は怒っているのですよ。たかが人間であるかどうかに拘って命を投げ捨ててしまう貴女にね。人間でありたい? なんですか人間って。レミリアだって少し力が強いだけの人間みたいなものでしょう? 妖怪とはなんですか? 人間とはなんですか? 吸血鬼とはなに? それは誰が決めるのですか? 神でしょうか? では神が神であると誰が決められる? 人間が人間の為に定めた空虚なカテゴリーに固執して、自分の命を玩具のように軽んじる貴女は最低です」
「言ってくれるわね」
私がここまで言って、咲夜は逆に完全に冷静になっていた。段々と私がしようとしていることを、察しはじめているのだろう。
だが、今の咲夜に打つ手はない。彼女が打ちうる全ての手筋は私が潰した。いわゆるチェックメイト。私はゆっくりと手番を進めていくだけである。
「それで? 貴女は、私に今更すごすごとお嬢様に血を吸って下さいと頼めというの?」
「全くその通りですよ。きっとレミリアは喜ぶと思いますよ?」
「ええ、喜ぶでしょうね。でもね、貴女の知る十六夜咲夜はこんな脅迫を聞く人間であったかしら?」
「聞かないでしょうね」
だからこそ、私は貴女に憧れたのだから。そこで、私は懐から小道具の一つを取り出した。
「それは何かしら? ガラス瓶のように見えるけど」
咲夜が私に尋ねた。
その通り。これは試験管状のガラス瓶。そして、この場を盛り上げるための秘密兵器の一つである。
「咲夜、もし貴女がレミリアに血を吸われるのを拒むなら、代わりにこれを飲んで頂けませんか?」
「……それの中身はなんなの?」
「これはですね、いわゆる月の秘薬という奴ですよ」
咲夜は一瞬考えた後、はっとした様な表情になる。
「これを飲めば貴女も助かりますよ。そして、レミリアと共に永遠を生きるのです」
「なんで貴女がそんなものを……」
そう、咲夜は知っている。だって、あの異変の時も咲夜は参加していたのだから。
私もその異変には参加したかったけど、パチュリー様と一緒にお留守番だった。残念。多分私が参加しても役に立たなかったと思うけど。
まぁ、それは置いておいて……
そう、これは「蓬莱の薬」という奴である。一度口にすれば、その存在は身体ではなく、魂に依存するようになる。すなわち、不死になるのだ。
「永琳さんは中々強情でしたけどね、永遠亭に出向いて、お姫様の方に『咲夜さんを助けてください!』って泣き真似したら、案外簡単に籠絡できました。後はスムーズでしたよ。あの人たちも幻想郷に来て、すっかり情に厚くなってしまっていて助かりました」
咲夜が、警戒心を高めて私を睨みつけている。どうやら腰も少し浮かしていつでも動ける様にしているようだ。
当然だろう。先の話の流れからすると、次の私の行動は誰でも予想できる。この薬を無理矢理に咲夜に飲ませようとする。咲夜がそれを許せば、彼女は敗北条件を満たしてしまう。
だから、それを警戒する。
よし、いい。咲夜が少し動揺している。
けど、まだ足りない。全然。
だから私の次の言葉を彼女に与える。
「咲夜、そんなに怖がらなくて良いのです。もう終わっているのだから」
「……終わっている?」
「なぜ私がわざわざ虎の子とも言えるものを貴女に見せたのか分からないのですか?」
そう、もし私が本気でこの薬を咲夜に飲ませようとするのなら、こんな風に薬の存在を明らかにせずにいきなり不意打ちで飲ませてしまえばいい。
では私がなぜそうしないかと言うと……
「実はですね。さっき貴女が最期の晩餐のつもりで食べた料理の中に……」
瞬間、咲夜が口を両手で押さえた。そして嗚咽を漏らす。
シーツの上に咲夜の唾液が垂れた。胃の中を無理矢理に吐き出そうとしているので苦しそう。
「というわけで、今私がやっているのはただの勝利宣言なんですよね、あはっ」
私は口を大きく開いて笑った。
咲夜を見下す様に。
「貴女っ……」
咲夜が私を涙目で睨みつける。
良い表情だ。嗚咽と共に鼻水まで出てしまっている。こんな表情はいつもの冷静沈着な彼女からは想像もできない。
だけど、これは私のサディスティックな性癖を発露している訳ではない。
飽くまでチェックメイトに至るステップにおいて相手が自分の思い通りになっているという意味である。
むしろ、こんなに苦しそうな表情を見ていると、今日私が自分の部屋に置いてきた良心が少しだけ痛む。
けれど仕方ない。最後まで私はやり遂げなければいけないのだから。というわけで私は次のフェイズに移行する。
私は手に持ったガラス瓶の蓋を開けて、中身を一気に飲み込んだ。
咲夜がぎょっとする。
「嘘です」
私はしれっと述べる。
「一応頑張って頼んだんですけどね。月人にとってあの薬は特別な様で、譲ってはもらえませんでしたよ。というか、もう作れないみたいでした」
咲夜はもう何も言わなかった。良い具合に揺れている。動揺している。冷静に頭が動かせなくなってきている。
これでステップ1は終わった。あと2ステップ。それが終わる事には咲夜は私の命令を素直に聞いているだろう。さてさて、頑張ってみるか。
「ふむ、ちょっと話題を変えてみましょうか? 咲夜は死んだ後どこに行くと思います?」
私は一応咲夜の反応を待ったが、咲夜は何も言わないので、話を続けた。
「どうですかね、多分ですけど、咲夜は自分が死んだ後、冥界とか極楽とか地獄に行くと思っているんじゃないですか?」
咲夜は閻魔様にどこに行く様に宣告されるんだろう? 天国か、地獄か。悪魔の手先として人生の大半を過ごしたのだから地獄に行くのだろうか? なんとも詮無き話だ。私は説明を再開する。
「言っておきますが、咲夜はそんなところ行きませんよ。咲夜に行く場所なんて無いんだから」
「……どういうこと?」
よし、食いついた。ここは食いついてもらえば後々楽になる。
「咲夜に行く場所なんて無い。咲夜が死んだら灰になり無に還るだけです。霊魂も魂魄も無く、ということです」
「私の知り合いに亡霊やら幽霊やらがいるわ。彼女たちは?」
「何を言っているんですか? 亡霊とか幽霊とか、ファンタジー小説じゃあるまいし、そんなものは全てプラズマです……というのは冗談ですが」
「————」
「人は死んだ後、幽霊になってまた生きることができる。実にロマン溢れる思想です。しかし所詮は人の生み出した妄想。そこに理はありません。例えば西行寺幽々子、死んだ後亡霊となり冥界に生きるお嬢様……と、巷間では言われていますが実は違う」
咲夜はまた黙ってしまった。少し震えている様にも見える。私は話を続ける。
「幽霊とは神と同じなのですよ。人が死んで亡霊になるのではない。『人が死ぬと亡霊になる』という思想そのものが自己生殖を起こし、亡霊を生み出す。そういう意味では生前の西行寺幽々子と、今の西行寺幽々子は全くの別物です。人は死んだら無に還るだけ。こんな当たり前の事を人は目を背け夢想に逃げる。貴女も。悲しい事です」
私はそこまで言うと咲夜のベッドに近づいて、彼女の腕を掴もうとした。咲夜は怯え逃げ出そうとするが、冷静さを失った頭ではとっさに回避できない。私は彼女の両腕を掴み、切なそうにした。
「人は死ねば無に還る。この咲夜の柔らかな肉。これは腐り落ちます。ドロドロに解けて蛆がわく。火葬ならば灰になる。この美しい瑞々しいお肌も全て粉になります。そして、いつかはそれも土に還り、何も残らない」
私が口から毒のような言葉を紡いでいくうちに、咲夜の手があからさま震えだす。死は全ての生物にとって根源的恐怖なのだから、そこをつつけばどんな人間も崩れる。それに例外はない。それはもちろん咲夜でも。あえて例外をあげるなら、死が死でないと考えられる宗教家か、自分が死ぬ事すら分かっていない酩酊者であろう。だから私はその両方の要素を削る。
ふむ、この様子を見ているとステップ2も終わりかな?
「……でも」
ん?
咲夜が何か呟いた。
私は咲夜の腕を掴んでいた手の力を緩める。
「仮に……仮に貴女の言葉が正しかったとしても。死は全ての人間に平等に訪れるものでしょう? ならばそれを受け入れるのも人間の誇りじゃないかしら?」
なるほど、まだ咲夜にはアルコールが残っているようだ。酔っぱらっている。千鳥足で歩いている。
死というのはそういう理屈ではないのだ。そんな下らない理屈の遥かに上にある、いわば形而上の真理のようなもの。
咲夜は、まだ何かに酔っている。何かに依っている。何に因っている?
「それに、私が無に還ったとしても……お嬢様たちの記憶に私は残る。私はそれでお嬢様と共にいられるの」
私が頭を巡らす前に、本人が自分からわざわざ説明してくれた。なるほどアルコールはレミリアか。ならば、私はそれを排除しよう。
「レミリアが貴女を永久に覚えている……だから死ぬのか怖くない、というわけですか」
「そうよ」
「無理ですよ」
「え?」
「聞こえませんでしたか? それは無理だと言っているのです」
「————」
「冷静に考えてみてくださいよ。貴女とレミリアが一緒に過ごした時間を。たかが10年程でしょう? それは人間の感覚で言えば長い時間なのでしょうね。でも吸血鬼にとっては違う。10年というのは実に細い時間です」
「そんなの……」
「もちろん記憶というのは単純な時間の長さだけではない。けれどですね、やはり短過ぎるんですよ、500を超えるのレミリアと過ごした咲夜の10年というのは。分かりやすく人間で例えましょうか? 例えば、お嬢様がこれから2千歳を生きるとして、10年というのが人間の感覚でどれくらいか? 大体、半年程にしかなりません。ペットのねずみでも、もう少し長くご主人様とは過ごせますよ」
私は意地悪く言った。
「あとついでに言うとですね、貴女は自分がレミリアにとって特別な存在だと思っているようですけど、それも違いますからね」
咲夜は黙っていたが、その表情には隠しようのない動揺の色が混じっている。いいぞ、先に私が吐きかけた言葉の効果が出ている。
私のこんな小賢しい理屈なんて、いつもの咲夜ならすぐに反駁できたはずだ。けれど、今の彼女は私のかけた罠にはまっている。今の彼女は、もう自分の身体が自分のものでないような感覚になっているんだろう。恐慌、焦燥、不安。それらの感情がそれを引き起こしているのだ。
さて、咲夜の混乱が戻らぬうちに一気にラストまでいってしまおう。
「レミリアが寵愛した人間は貴女が最初ってわけではないのですよ。貴女も知っての通り、レミリアはエサ以外の意味でも人間が大好きですからね。私が紅魔館に来てから100年程しか経っていませんが、それでも今まで貴女の他に3人の人間が紅魔館の一員として数えられています。そのうちの2人は同時期でしたけどね。私は詳しくは知りませんが、私が紅魔館に来る前にも数人の人間が働いていたそうですよ」
「そんなこと……私は聞いたこともないわ」
「まぁ、あの人たちの時も色々ありましたからねぇ。皆も口には出しづらいのでしょう。レミリアはその人たちのことを、とてもとても大事にしていました」
「それで、その人たちは?」
「当然もう全員死んでいます。殺されたのです」
「殺された!?」
「あ、もちろんレミリアにではないですよ。レミリアの命を狙う侵入者に殺されたのです。人間は脆いですからねぇ〜。ちょっと小突かれるとすぐに血ダルマになる。あっははは……」
咲夜がの顔が引きつっている。彼女の知っている私とあんまりかけ離れた笑いかたをしているからかな? けど、どちらかというと、今の私の方が作っているですよ。せっかく私が作った雰囲気を壊さぬように。私の目的を達成させるために、あえて、こういう気味の悪い笑いをしているんだから。
「初めの人はね、なにもせず殺された。次の二人は、侵入者が皆で護れるよう工夫をしていたけど殺された。だから次の人間は対策をすれば殺されぬような者にしよう……となった訳です」
「それで、私」
「その通りです。いいですね。聞き手の頭がいいと話が早くて助かります。はい、それでですね、レミリアは侵入者に殺されぬよう異能を持つ人間を雇った。けれど、それも無駄でしたね。その人間が死にたがりであったから。じゃあ今度の人間は力が強く、かつ自殺願望のない人間にしよう……今頃レミリアはそう考えているんじゃないですか? いや、今は考えていなくとも、いつかはそうやって次の人間を雇う。そしてその人間が死んだら、また次の人間を紅魔館に招き入れる。まぁ、要するに何が私が言いたいかっていうとですね——」
私は一呼吸置いてから、
「貴女はレミリアにとって特別な存在ではない。ワンオブゼム。幾つかの中の一人に過ぎないのです」
咲夜が、はっと息を飲んだ。今私が言ったことは全て嘘偽り無しの本当のことだ。 今まで紅魔館には何人も咲夜の他に人間が住んでいたことがある。いずれも私が世話になった大切な人たちだった。だから、その人たちが死んだときは私も今のパチュリー様たちのように盛大に泣いたんだ。レミリアが縋りついてまで咲夜に永遠を生きてほしいと懇願したのは、自分が護れなかったその人たちのことも思い出しての行動だったんだろう。
「レミリアにとって、貴女はペットと同じ。ペットは家族。ペットが死ねば皆、泣いて悲しむ。けれど所詮は代替の利く愛玩具。その存在は、主人とメイドという地位の差異以上に対等ではない。そもそも人間と吸血鬼の間に真の信頼なんて信じる方が馬鹿げています」
妖怪と人間との間に情愛はあるんでしょうか?
神様と人間との間に情愛はあるのでしょうか?
悪魔と人間との間に情愛はあるんでしょうか?
咲夜に、こんなこと言っておいてなんですが、本当は全部あると、強く信じている私がいたりします。
本当に、今日の私は噓ばっかりついてる。
「さて、そろそろ良い返事が頂けないでしょうか?」
私は、俯いていた咲夜に声をかけた。
「もういいじゃないですか。貴女の死には何も必然性がないのですよ。分かってくださいな。ここで人間の定義を論じるつもりはありませんがね、夜の住人になったとて貴女は人間のままでいられると思いますよ? 既に貴女は時を操るという人間の域を超えた異能を持っている。この世のどこに時間を操れる人間がいるのですか? 平常の人間からすれば貴女は立派な化物です。それでも貴女は自分自身を人間だとしているのでしょう。ならば、レミリアに血を吸われた所で、貴女の属性に吸血鬼が新たに加わるだけ。人間としての矜持に問題はない」
人と人外を隔てる壁とはなんだろう?
そこに生理的な差異もなく、もちろん科学的な定義もなく、一般に知られた曖昧な区別の仕方さえ存在しない。
ならば人と吸血鬼を分けるものとは何か?
誰が、人と悪魔は違うものと言えるのだろうか?
咲夜を含め、多くの者は、人間と人間ならざるものを明確に区別しているようだけれど、私から言わせてもらえば実に瑣末で矮小で狭量な考えだ。
……結局のところ、自らが何であるかを決めるのは、本人の心の持ち様でしかありえないのだ。
私は私が悪魔だと思うからこそ悪魔であって、レミリアは自分が吸血鬼だと信じているからこそ吸血鬼たりえる。
いや、突き詰めて考えれば、あらゆる人外は人間と言えるのかもしれない。
「例えば、貴女も知っているアリス・マーガトロイド。彼女は自ら選択して後天的に魔女になり、その結果人間だったころとは比較できない程の能力を得た。けれど、貴女は彼女が人間と違う存在だと思うでしょうか? あるいは貴女の大好きなレミリア・スカーレット。彼女は実に人間的な存在ですね。彼女は人間を喰らう。闇に解けることもできる。けれどその精神は人間の域をでることがない」
所詮……というと彼女たちに礼を失するかもしれないが、アリスもレミリアも人間の近似的な存在だ。
人間は科学の隙間に存在した「未知」に対して名前を付けた。それが妖怪。
人間は自分たちの道徳倫理、主義観念を擬人化した。それが神。
人間の中に稀に生まれる、人間の平均から遥かに抜きん出た存在。それが仙人、天人、月人、或は魔法使いになった。
こんな考えを、他の誰かは人間主義的だと糾弾するかもしれません。
けれど、これは私の偽りざる本心なのです。
いやもっと言えば、人間がいなければこの世界そのものすら存在するか怪しいとすら思っています。
以前パチュリー様にこの事を話した時、こういう考え方を唯心論という考え方に近いと教えて頂きました。
唯一、心のみを世界の拠り所とする考え方。なるほど人間も面白い考え方をするものです。
さて……随分話が逸れてしまいました。
今の私は咲夜を延命させることが目的なのだから、あまり独白的にこんなことを考えていても仕方ありません。
けれど、ここまでこればもう終わりでしょう。
咲夜の様子を伺うと、私の口撃にかなりまいってしまっているのか、目をつむって顔をしかめていた。
普段の彼女ならもう少し手強かったのだろうけど、如何せん今の彼女は病で心身共に疲労困憊している。
故に私でも十分に論破できるのだ。
さて、ここですることはもう終わった。
「さて、咲夜さん。レミリアを呼んできますね。喜んでください。明日から紅魔館の楽しい生活が戻ってくるのですよ。そしてそれは永久に続くでしょう」
そう言って私は椅子から立ち上がって扉に向かう。
レミリアに、咲夜が血を吸って欲しいと言っていると伝えにいく為だ。
レミリアがそれを聞いたらどんな顔をするだろう。きっとびっくり仰天して私につかみかかってくるに違いない。そして、すぐに顔を喜ばせるだろう。
咲夜はレミリアのことが好きだけれど、レミリアも咲夜に関しては相当執着しているんだろう。
ふふっ、楽しみ。早く行かなくっちゃ。
「待ちなさい」
私がドアノブに手をかけた瞬間、後ろから声が聞こえてきた。
「どこへ行こうとしているの?」
「どこって……レミリアのところですよ」
「お嬢様を呼んできてもらっても良いのだけれど、私はお嬢様に血を捧げるつもりはないわよ?」
私は自分の眉に皺が寄ったのに気付いた。
ドアノブを掴みかけた右手を引っ込めて、踵を返し、再び咲夜のもとへ向かう。
「まだ何かあるのですか?」
いけないとは思ってはいてもつい苛立った語調になってしまう。こういうときは冷静さを欠いてはいけないというのに。
「咲夜、貴女にこれ以上拒む理由なんてない筈です。もし私に言い負かされることだけが拒む理由ならば余りにも幼稚ですよ?」
「ええ、貴女の理屈は正しいと思う。確かに貴女の言う通りよ。私が人間であるかどうかは誰かが決めることじゃない。私が私である限りその姿形は些細なことなのかもしれないわ」
「ならば」
「私が私であると決めるのは誰?」
「哲学をしている暇はないのですけれど?」
「そんな難しい話じゃないわ。単なる精神論。単純な話よ」
「回りくどいですね。何が言いたいんですか?」
「私が私であると決めるのは、私。貴女でもお嬢様でもない私なの」
咲夜はしかとした目を作ったまま、胸に手を当てて、そう宣言した。いつの間にか咲夜の顔から恐怖や動揺がなくなっていたことに、私は気づいた。私が部屋に入った時にはまるで感じられなかった生気すら戻ってきているように思えた。
「ねぇ、さっき貴女は私に生きろと命令したわよね?」
「はい」
「じゃあ、私は貴女にお願いするわ。私の人生は私に決めさせてくれないかしら?」
「それはこのまま死なせろという意味でしょうか?」
「その通りよ。人間のまま死にたいなんてもう言わない。私は私の決めた死に方で、今日死にたい。ただそれだけなの」
もう私には咲夜の言うことが全く理解できなかった。私は先ほど咲夜に自殺志願者だと言ったが、まさか本当に開きなおってしまうとは思わなかった。
どうしてここまで生への願望を捨てることができるのだろうか。人間である限り、生への執着、死の恐怖は誰でももっているはずなのに。
やはり咲夜は自殺志願者だったのだ。しかも、普通の自殺志願者と違って絶望もなく、希望の中で死のうとしている。
この点から見ても、やはり彼女は既に人間でなくなっている。よくよく考えなくても人生の大半をレミリア達と過ごし、彼女たちのエサを管理していた咲夜なのだから。
咲夜はどうしようもなく化物で、かつ人間なのだ。当の本人はまるで自覚していないようだが。
死なせて欲しい。
咲夜はそう私に哀願した。
そしてもちろん返答は決まっている。
「ダメです。許しません」
ここで許してしまっては一体私はなんのためにこの場にいるのか分からない。
「貴女には死の許可は与えません。貴女は永遠に紅魔館の住人として生きるのです。いえ、貴女が望むなら紅魔館から出て行くことは許しましょう。ただし、今日この日に死ぬ許可は与えません。貴女が泣いて喚こうと、他に何をしようと、貴女には明日を生きてもらいます」
私は咲夜を悪魔のような目で睨みつけた。咲夜も病床でも衰えのない鋭い目つきを私に向けていた。
しばらく、にらみ合ったまま、時間だけが過ぎた。部屋の中に時計の針の音だけがカチ、カチと響いていた。
どれくらいの時が経っただろうか。先に目を逸らしたのは咲夜の方だった。
咲夜は目を下に向けて、ふぅと息を吐いた。
「全く……もう、私は完全に詰まされているじゃないの」
咲夜は首を横に傾けてとぼけたようにしてから、恐らくは今日初めて、微笑を浮かべた。
私は咲夜の言葉に、静かに首肯した。
「はい。この為に私も色々考えてきましたから」
「どうやら私の負けみたいね」
「あれ、もう降参しちゃうんですか?」
「だって、どうせ私が嫌だっていっても無駄なんでしょ?」
「それはまぁ……そうですけど」
私のプランでは、ここでも咲夜が首を縦に振らなければ、ステップ3に進むことになる。
私が一番頭を悩ませた部分がこの後に行う予定だったステップ3だった。けれど、咲夜の様子を見ているとステップ3は不要になったようだ。
それにしても諦めが早すぎる。たくさんパターンを想像していたけれど、ここで終わる組み合わせはそれほど多くなかったはずだ。
良い戦術眼を持つ者は、先を見通せるので投了も早いという。私はまだ咲夜を見くびっていたようだ。
「せっかくだから教えてよ、この後、私がまだうんと言わなかった時の事も想定しているんでしょ? どんな作戦があったのかしら?」
咲夜の表情は先ほどまでの眉間に皺のよった険しいものから、急に力の抜けたようになっていた。私の勘違いかもしれないが、仄かに楽しそうでもある。
「そうですね。今更言いにくいんですけど、実は、ストレートに拷問するつもりだったんですよ」
ステップ3とはつまり拷問を含めた実力行使のことだった。咲夜にうんと言わせる為に、パチュリー様の書斎で様々な拷問の技術を学んできたのはムダになったようだ。
もちろんムダになってよかったと、素直に思う。
「あらあら、まぁまぁ。死にかけの私によくもまぁそんなことを。貴女は悪魔ね」
「悪魔ですから」
私は笑った。今度はウソじゃない笑みだ。
「けど、今から拷問なんてする時間あるの? この部屋のすぐ外にはお嬢様がいるんでしょう? 貴女があんまりこの部屋から出てこなかったら不審に思うんじゃなくて?」
「いえ、今この部屋は私の空間移転魔法で紅魔館とは別の場所に来ているので。この部屋の外は迷いの竹林です。お嬢様たちが必死に探しまわっても数時間は時間稼ぎができると思います。あ、もちろんすぐに紅魔館に戻ることもできますので心配なく」
咲夜がそこで初めて窓の外を見て、目を丸くした。音も振動もなく、いつの間にか部屋事移動していたことに驚いていたようだ。
私もパチュリー様の従者としてそれなりの魔法は使えるが、誰にも気づかれずこれほどの魔法を自由に使うほどではない。
今日この移動魔法を使う為に、コツコツと魔力を溜めていた甲斐があったものだ。
「でも拷問なんてしたらいくらなんでも跡が残るでしょ? 身体に残らなくても私の顔に出てしまうかもしれないわ。そしたらお嬢様に貴女が関与したことに気付かれてしまわない?」
「今のレミリアはかなり錯乱していますからね。貴女のOKが出たなら、3も4も無く喜んで貴女の血を吸うと考えています」
「じゃあ、私が拷問でも屈しなかったら?」
「その時は最終手段のこれですね」
私は懐から、さっきの偽蓬莱の薬と同じガラス管に入った液体を取り出した。
「それは、なにかしら?」
「蓬莱の薬は頂けませんでしたけど、代わりということでこの薬を貰えました」
「自白剤の類い?」
「いえ、違います。これは精神剥離剤とでもいうんでしょうか。医学と魔術を組み合わせ作った薬でしてね。簡単に言えば、これを飲んだ人は、私の意のままに動かされる人形になってしまうという薬です。副作用が強すぎるらしいので、これは最後の最後まで使うつもりはありませんでした」
「よくもそんなもの永琳がくれたわね」
「ああ、実はこれ永琳さんから貰ったものじゃないんですよ」
「じゃあ誰から?」
「すみません。それは秘密という約束でして」
まぁ永遠亭の兎さんから貰ったんですけど。
こんな強力な薬を勝手に私にあげたことが永琳さんにバレたら、酷く叱られるでしょうに、ありがたいことです。
きっと兎さんも咲夜さんに生きていて欲しかったんです。咲夜さんは色んな所で好かれているんですよ。本人に自覚はないでしょうけれどね。
「秘密ねぇ……けどそんな薬を使ったらお嬢様も流石におかしいってならない?」
「さっきも言いましたけど今のお嬢様は殆ど半狂乱ですから。咲夜さんの『血を吸っていい』という言質さえあれば、その様子にまで気は回りませんよ」
「お嬢様は今そんなになっているの? 私の前では落ち着いていたのに」
咲夜の前ではレミリアは涙すら見せることはなかったのだ。ただ静かに悲しそうな顔を表しただけだった。
しかし部屋を出ると、まるで子どものように声をあげず泣きじゃくっていた。
「咲夜さんの前では最期まで優雅で高潔なレミリアお嬢様でいたかったのでしょう。自分の為でなくって、咲夜さんの為に」
自分の泣いている姿なぞ、見せたくなかったのだ。
貴女が仕えた吸血鬼は偉大な存在であった、と最期まで思わせる為に。
「咲夜さんは大事にされているんですよ」
「あら、私はペットじゃなかったのかしら?」
「え? 誰ですか咲夜さんにそんな酷いことを言ったのは! 私、怒っちゃいます!」
そういって私と咲夜さんは2人で笑った。
咲夜は気が楽になったのか、初めて手品を見る子どもの様に次々と私に種明かしを迫った。
「じゃあ、私が自殺しようとしたら? いくら貴女でも私が無理矢理に自裁しようとしたら止めようがないんじゃないのかしら?」
「レミリアの予言した咲夜さんの臨終までは、まだ時間があります。それまで咲夜さんは死ねませんよ。運命がそれを許さない」
「でも、結局はお嬢様の余予知した私の死という運命は外れたわ」
「お嬢様が咲夜さんの血を吸う事によって、お嬢様が咲夜さんの運命を変えた。何か問題が?」
「はぁ〜、凄いわね〜。そこまでして私を吸血鬼させたかったのかしら」
「はい」
私は即答した。もちろん、それは手段に過ぎなかったのだけど。
「じゃあ最後に一つだけ。私が降参したふりをして、お嬢様が来た時に、手のひらを返して貴女のことを告げ口したらどうするつもりだったの? いくらお嬢様が錯乱していると言っても、私が血を吸われる事を拒否したら流石にお嬢様も無理矢理ということはならないと思うわ」
「その時は…………どうしましょうね?」
それを聞いて咲夜さんが呆気にとられる。
あ〜そういえば、そのケースは想定していませんでしたね。
「たまにはかっこいいと思っていたのに、最後の最後で抜けていたわね」
頭を抱えて落ち込んでいる私に、咲夜さんがくすくすと笑いかけた。
「わかったわ。お嬢様を呼んできて頂戴」
その言葉を聞いて私の体はが不思議な浮遊感に包まれた。
咲夜は満ち足りた顔をしていた。彼女の本心は私には分からない。咲夜は本当に心の底から死にたがっていたのか、それとも迷っていたのか。
今この瞬間にも咲夜はまだ死にたがっているのか、それとも、もう死ぬことは諦めているのかも分からない。
前者ならば、この後私がレミリアを連れて来た時に、咲夜が全て打ち明けてしまえば私の努力は全て水泡に帰す。
この平常とは著しく異なる状態の中、咲夜を信じるなんて安易には言えない。今彼女は安楽そうにベッドに座っているが、レミリアを呼んだ途端、私を糾弾する可能性も十分にありえる。
もしそうそうなってで構わない。そこまでして咲夜が死にたいのなら、私にはもう止めることは出来ない。
しかし不思議なことだ。私はあれほど咲夜に生きろと命じておきながら、なぜか無意識のうちに咲夜が死ぬことのできる抜け道を用意していた。そしてそれを認知した今ですら、その穴を塞ごうとせずにレミリアを呼びに行こうとしている。本当におかしな話だ。
もしかしたら私の中にも咲夜と同じように迷いがあったのかもしれない。彼女の望むままに死なせてあげたいと思う気持ちがあったのかもしれない。私も悪魔を名乗っている割には、やはり人間的な感傷は捨てきれないのだろう。
私は咲夜に「はい」と返事をしてから、レミリアを呼びに行く為に立ち上がった。
その時、咲夜がわたしに右手を差し出した。その手にはハンカチが一枚乗せられていた。
「その前に、これで目の周りを拭いておきなさい」
「目の周りですか?」
私が意味を図りかねていると、咲夜は続けて、
「貴女の目の周りすごいことになってるわよ」
一体いつからだろうか、私はいつの間にか、涙を流していたようだ。
末期であった。
最早助かる道はないと幻想郷で一番の医者、八意永琳も紅魔館の主人、レミリア・スカーレットに告げた。
病の原因は十六夜咲夜の能力である。元々、彼女の力は人間の力には余るものであったのだ。その過大な力は咲夜の体を蝕み、病ませ、膝を地につけさせた。咲夜は既に歩く事もできず、自分で食事をする事もできなかった。顔は動かす事ができたので、会話を成立させるは出来たが、それだけである。
レミリアは咲夜に血を吸わせろと言った。血を吸わせ永遠に自分の側に居ろと命令した。いや、それは命令と言うより、哀願に近かった。しかし咲夜は、そんな主人の一番の願いを受けても、静かに首を横に振るだけだった。
『私は一生死ぬ人間ですよ』
咲夜は、以前永夜の異変の時に主人に告げた事を、再び、しかと述べたのだ。レミリアは散々悩んだ末に、彼女の意思を汲み、人間として命を終える事を許した。
レミリアは自らの異能を用いて、咲夜の終わりの刻を知る。23日の夕方、17時34分12秒。それが咲夜の寿命。それは今日の夕方である。
今日まで咲夜と親交のあるものが次々と彼女の元を訪れ、最後の別れを告げていった。博麗霊夢、霧雨魔理沙、アリス・マーガトロイド、魂魄妖夢たち彼女の友人から、聖白蓮や古明池さとり、八雲紫などの幻想郷の有力者も咲夜に会いにきた。
そして、今日の昼までに全ての来訪者はいなくなり、咲夜は残された時間を紅魔館の住民で過ごすことに決める。
レミリアは咲夜の死を深く嘆いた。フランドール・スカーレットもそうだった。パチュリー様も普段見せぬ涙で顔を濡らす。紅美鈴に至っては、人目も憚らずわんわんと泣いた。
そして十六夜咲夜はこの世に留まっていられる最後の数時間に、それぞれ一対一で最後の挨拶をする事になる。
めいめい咲夜と最後の語らいを楽しみ、抱き合い、そして再び涙を流した。
自分達の大事な人、十六夜咲夜の死に。
そして……
「貴女も、咲夜に最後の別れをしてあげて」
十六夜咲夜の寝室から出てきたパチュリー様は私にそう言った。
パチュリー様は顔を真っ赤にして泣いていた。涙と鼻水でいつものすました顔を台無しにして。
私はそんな彼女に軽く頷いた後、つかつか咲夜の部屋に入り、ベッドの側の椅子に座った。
「……ああ、貴女にもお世話になったわね」
咲夜が私に弱々しく声をかけてきた。ありきたりで陳腐な台詞である。死に臨しても咲夜の姿は平常と変わらず、怜悧なままであることにに私は少なからずの驚きを覚えた。
「私が向こうへ逝っても、貴女がいるから私は安心できるわ。貴女はいつも私と同じくらい……いえ、それ以上に働いてくれていたのだものね」
咲夜が歯の浮くようなことを言う。だが、これは彼女の偽らざる本心だろう。今際の時に、下らない世辞をいう人ではない。それに、咲夜と私もそれなりの時間を一緒に過ごしてきた。私たちの関係を正確に表現する語彙を私は持たないが、それは確かに一種の家族にも似た信頼関係であったと信じている。
だから本来なら、私は間もなくこの世を去る咲夜のこの言葉を泣いて受けるべきなのだろう。だが、今日の私は咲夜とこんなことを話に来た訳ではない。
「私が死んだ後、いつまでもお嬢様たちが泣いていたら貴女が慰めてあげて。貴女ならきっとそれができるはずよ」
咲夜は何も言わない私に、まだ綺麗なだけの言葉を吐いていた。
一応最初は悲しい振りをしてやろうかと思ったけれど、いつまでもこんな下らないことを言うのであれば、少し予定を早めてみてもいい。うん、そうしよう。
「咲夜さん」
私は言った。咲夜は静かに小さく頷いて、私の次の言葉を待った。
そして私は咲夜の目を見据えて、
「さむいです」
と言った。
咲夜の顔が驚きに染まる。私の言った事が分からないのだろうか。いや、そんなことはない。言葉の意味は分かって居る筈だ。
ただ、今この瞬間に私がこれを言った意図が分からなかった、そんなところ。
「寒い……というと。そんなに冷えるかしら?」
咲夜が、間が抜けたことを言っている。
「いえ、そういうことではありません。貴女の口から出すこと、貴女の取る行動の全部が寒い。貴女に分かりやすく換言するのなら、面白くない。つまらない、と言っているのです」
咲夜が怪訝そうな顔をする。さっきまでレミリアたちとお涙頂戴、感動の離別式をやっていた彼女には私の言葉はいきなり過ぎるだろう。だが仕方ない。タイミングはここしかなかったのだから。
「それは……貴女は日頃から私の事を好いていなかった、と考えてもよいのかしら? それで、最期のときにそんなことを言うなんて、貴女もやってくれるわね」
咲夜が言う。だがそれも間違っている。話の先を読み過ぎている。早計過ぎる。
私は咲夜が好きだ。
人間でありながら特別な能力を持ち、いつも堂々と生きていた咲夜が好きだ。
だからこそ私はつい昨日まで咲夜の運命を嘆き、レミリアたちと同じように泣いていたのだから。
だが、今日の私は昨日の私と違う。恐らく今日の私は咲夜の見た事の無い私だ。これは咲夜に伝えておいた方が良いだろう。
「咲夜、初めに言っておきます。今日の私は、貴女の知る『私』ではありません。ただの悪魔だと思って下さい」
「悪魔……そう。その悪魔があと数時間の命の私に何の用かしら?」
「面倒なことは無しです。咲夜」
私は単刀直入に、
「貴女は生きて下さい」
咲夜にそう告げた。
そう、今日の私の目的はこれである。咲夜を死なせない。この為に今日私はやってきた。
ただし、これはセンチメンタルなものではない。大切な人を死なせないとか、そういうハエもたからないほどドブ臭い理由で私はこんな事をしているのではないのだ。
私の言葉を聞いた咲夜は目を大きく開いたあと、ふっとため息をついた。
「……私を救う魔術でも見つけたのかしら?」
咲夜が言う。
「いえ、貴女の病は貴女の内面から湧き出たものですから、それを取り除く魔術なぞ世界中の書物を読みあさった所で存在しないでしょう。それが例えどんな禁術であってもです」
「じゃあ、魔術以外で新しい方法でも見つかったの?」
「いえ、特には」
咲夜は、目を深く閉じて黙ってしまった。きっと死を迎え入れる覚悟を決めたにも関わらず、命が助かるという希望を抱いてしまったことを後悔しているのだろう。希望を抱いた後の絶望は、希望がなかったときのそれよりも辛く苦しいものである。
咲夜は再び目を開けると、鋭い視線を私に作る。
「なるほどね、やっぱり貴女は私に嫌がらせをしにきたわけね。何が『生きて下さい』よ。助かる方法はないのよ。もしあったらお嬢様かパチュリー様がとっくに見つけているわ。貴女とは良い関係を築けているつもりだったけどね、最期になってそんなことをいうなんて、私はちょっとがっかりよ?」
咲夜が一気に捲し立てる。だが、私はひるまない。ひるむ必要もない。
「何故ですか? 別に新しい方法などなくても、咲夜が生きることはできるじゃないですか?」
「どういう意味?」
「レミリアに血を与えれば良いのですよ。それで闇の眷属になって寿命を延ばせばいい。勿論フランドールでも構いませんが」
咲夜は呆れた顔をした。そして、とうとう露骨に怒りだした。
「その事はもう終わった話でしょう? 貴女はお嬢様に聞かなかったの? お嬢様は何度も私に仰ってくださったわ。でも私は人間でいることを決めたの。今更そんなことを蒸し返さないでもらえる?」
咲夜が怒る時はいつもこうだ。声色はいつもと変わらないけれど、語調が強くなる。そして理路整然としていて相手に反論を許さない。私もそんな咲夜の威圧的な知性に憧れた者の一人だ。
でも、今の咲夜のいうことは本当に的外れだ。徹頭徹尾、何も的を得ていない。なので、こんなものは無視する。
「咲夜」
「なに?」
「貴女はわがままです」
「何故?」
「生きる事ができるのに、生きる事を止めている。死ななくても済むのに、死のうとしている。まるで自殺志願者です」
「だからその話は終わったと言っているでしょう? 私は最期まで人間でいたいの。貴女の気持ちはわかるわ。でも、そんなことをこれ以上いうのは止めて頂戴。そんな言葉は無駄にしかならない」
ああ、駄目だこれは。
私の意図が余り伝わっていないようだ。
私は咲夜のことが好きだから、はっきりと言葉にするのは憚られたけれど、こんな咲夜を見るくらいなら、ちゃんと言った方が良いのかもしれない。
「咲夜、貴女は勘違いしていますよ。私は貴女を説得しにきたのでも、お願いしにきたのでもないのです」
咲夜は口を一の字にして私の話を聞いている。
「私は貴女に『生きろ』と命令をしにきたのです。強制をしにきたのです。そして、それは貴女に死んで欲しくないからではありません」
咲夜が怒りの表情を変えて、目を据えるものになった。これは咲夜が頭を巡り巡らせているときの表情だ。こうなった時の咲夜は手強い。
だから計画を円滑に進めるためには、彼女の理解が終わる前にどんどんこっちで話を進めてペースを握ってしまった方が良い。とはいっても私の勝ちが最初から決まっているのだから、どうというほどのもないのだが。
「咲夜、こう見えて私は怒っているのですよ。たかが人間であるかどうかに拘って命を投げ捨ててしまう貴女にね。人間でありたい? なんですか人間って。レミリアだって少し力が強いだけの人間みたいなものでしょう? 妖怪とはなんですか? 人間とはなんですか? 吸血鬼とはなに? それは誰が決めるのですか? 神でしょうか? では神が神であると誰が決められる? 人間が人間の為に定めた空虚なカテゴリーに固執して、自分の命を玩具のように軽んじる貴女は最低です」
「言ってくれるわね」
私がここまで言って、咲夜は逆に完全に冷静になっていた。段々と私がしようとしていることを、察しはじめているのだろう。
だが、今の咲夜に打つ手はない。彼女が打ちうる全ての手筋は私が潰した。いわゆるチェックメイト。私はゆっくりと手番を進めていくだけである。
「それで? 貴女は、私に今更すごすごとお嬢様に血を吸って下さいと頼めというの?」
「全くその通りですよ。きっとレミリアは喜ぶと思いますよ?」
「ええ、喜ぶでしょうね。でもね、貴女の知る十六夜咲夜はこんな脅迫を聞く人間であったかしら?」
「聞かないでしょうね」
だからこそ、私は貴女に憧れたのだから。そこで、私は懐から小道具の一つを取り出した。
「それは何かしら? ガラス瓶のように見えるけど」
咲夜が私に尋ねた。
その通り。これは試験管状のガラス瓶。そして、この場を盛り上げるための秘密兵器の一つである。
「咲夜、もし貴女がレミリアに血を吸われるのを拒むなら、代わりにこれを飲んで頂けませんか?」
「……それの中身はなんなの?」
「これはですね、いわゆる月の秘薬という奴ですよ」
咲夜は一瞬考えた後、はっとした様な表情になる。
「これを飲めば貴女も助かりますよ。そして、レミリアと共に永遠を生きるのです」
「なんで貴女がそんなものを……」
そう、咲夜は知っている。だって、あの異変の時も咲夜は参加していたのだから。
私もその異変には参加したかったけど、パチュリー様と一緒にお留守番だった。残念。多分私が参加しても役に立たなかったと思うけど。
まぁ、それは置いておいて……
そう、これは「蓬莱の薬」という奴である。一度口にすれば、その存在は身体ではなく、魂に依存するようになる。すなわち、不死になるのだ。
「永琳さんは中々強情でしたけどね、永遠亭に出向いて、お姫様の方に『咲夜さんを助けてください!』って泣き真似したら、案外簡単に籠絡できました。後はスムーズでしたよ。あの人たちも幻想郷に来て、すっかり情に厚くなってしまっていて助かりました」
咲夜が、警戒心を高めて私を睨みつけている。どうやら腰も少し浮かしていつでも動ける様にしているようだ。
当然だろう。先の話の流れからすると、次の私の行動は誰でも予想できる。この薬を無理矢理に咲夜に飲ませようとする。咲夜がそれを許せば、彼女は敗北条件を満たしてしまう。
だから、それを警戒する。
よし、いい。咲夜が少し動揺している。
けど、まだ足りない。全然。
だから私の次の言葉を彼女に与える。
「咲夜、そんなに怖がらなくて良いのです。もう終わっているのだから」
「……終わっている?」
「なぜ私がわざわざ虎の子とも言えるものを貴女に見せたのか分からないのですか?」
そう、もし私が本気でこの薬を咲夜に飲ませようとするのなら、こんな風に薬の存在を明らかにせずにいきなり不意打ちで飲ませてしまえばいい。
では私がなぜそうしないかと言うと……
「実はですね。さっき貴女が最期の晩餐のつもりで食べた料理の中に……」
瞬間、咲夜が口を両手で押さえた。そして嗚咽を漏らす。
シーツの上に咲夜の唾液が垂れた。胃の中を無理矢理に吐き出そうとしているので苦しそう。
「というわけで、今私がやっているのはただの勝利宣言なんですよね、あはっ」
私は口を大きく開いて笑った。
咲夜を見下す様に。
「貴女っ……」
咲夜が私を涙目で睨みつける。
良い表情だ。嗚咽と共に鼻水まで出てしまっている。こんな表情はいつもの冷静沈着な彼女からは想像もできない。
だけど、これは私のサディスティックな性癖を発露している訳ではない。
飽くまでチェックメイトに至るステップにおいて相手が自分の思い通りになっているという意味である。
むしろ、こんなに苦しそうな表情を見ていると、今日私が自分の部屋に置いてきた良心が少しだけ痛む。
けれど仕方ない。最後まで私はやり遂げなければいけないのだから。というわけで私は次のフェイズに移行する。
私は手に持ったガラス瓶の蓋を開けて、中身を一気に飲み込んだ。
咲夜がぎょっとする。
「嘘です」
私はしれっと述べる。
「一応頑張って頼んだんですけどね。月人にとってあの薬は特別な様で、譲ってはもらえませんでしたよ。というか、もう作れないみたいでした」
咲夜はもう何も言わなかった。良い具合に揺れている。動揺している。冷静に頭が動かせなくなってきている。
これでステップ1は終わった。あと2ステップ。それが終わる事には咲夜は私の命令を素直に聞いているだろう。さてさて、頑張ってみるか。
「ふむ、ちょっと話題を変えてみましょうか? 咲夜は死んだ後どこに行くと思います?」
私は一応咲夜の反応を待ったが、咲夜は何も言わないので、話を続けた。
「どうですかね、多分ですけど、咲夜は自分が死んだ後、冥界とか極楽とか地獄に行くと思っているんじゃないですか?」
咲夜は閻魔様にどこに行く様に宣告されるんだろう? 天国か、地獄か。悪魔の手先として人生の大半を過ごしたのだから地獄に行くのだろうか? なんとも詮無き話だ。私は説明を再開する。
「言っておきますが、咲夜はそんなところ行きませんよ。咲夜に行く場所なんて無いんだから」
「……どういうこと?」
よし、食いついた。ここは食いついてもらえば後々楽になる。
「咲夜に行く場所なんて無い。咲夜が死んだら灰になり無に還るだけです。霊魂も魂魄も無く、ということです」
「私の知り合いに亡霊やら幽霊やらがいるわ。彼女たちは?」
「何を言っているんですか? 亡霊とか幽霊とか、ファンタジー小説じゃあるまいし、そんなものは全てプラズマです……というのは冗談ですが」
「————」
「人は死んだ後、幽霊になってまた生きることができる。実にロマン溢れる思想です。しかし所詮は人の生み出した妄想。そこに理はありません。例えば西行寺幽々子、死んだ後亡霊となり冥界に生きるお嬢様……と、巷間では言われていますが実は違う」
咲夜はまた黙ってしまった。少し震えている様にも見える。私は話を続ける。
「幽霊とは神と同じなのですよ。人が死んで亡霊になるのではない。『人が死ぬと亡霊になる』という思想そのものが自己生殖を起こし、亡霊を生み出す。そういう意味では生前の西行寺幽々子と、今の西行寺幽々子は全くの別物です。人は死んだら無に還るだけ。こんな当たり前の事を人は目を背け夢想に逃げる。貴女も。悲しい事です」
私はそこまで言うと咲夜のベッドに近づいて、彼女の腕を掴もうとした。咲夜は怯え逃げ出そうとするが、冷静さを失った頭ではとっさに回避できない。私は彼女の両腕を掴み、切なそうにした。
「人は死ねば無に還る。この咲夜の柔らかな肉。これは腐り落ちます。ドロドロに解けて蛆がわく。火葬ならば灰になる。この美しい瑞々しいお肌も全て粉になります。そして、いつかはそれも土に還り、何も残らない」
私が口から毒のような言葉を紡いでいくうちに、咲夜の手があからさま震えだす。死は全ての生物にとって根源的恐怖なのだから、そこをつつけばどんな人間も崩れる。それに例外はない。それはもちろん咲夜でも。あえて例外をあげるなら、死が死でないと考えられる宗教家か、自分が死ぬ事すら分かっていない酩酊者であろう。だから私はその両方の要素を削る。
ふむ、この様子を見ているとステップ2も終わりかな?
「……でも」
ん?
咲夜が何か呟いた。
私は咲夜の腕を掴んでいた手の力を緩める。
「仮に……仮に貴女の言葉が正しかったとしても。死は全ての人間に平等に訪れるものでしょう? ならばそれを受け入れるのも人間の誇りじゃないかしら?」
なるほど、まだ咲夜にはアルコールが残っているようだ。酔っぱらっている。千鳥足で歩いている。
死というのはそういう理屈ではないのだ。そんな下らない理屈の遥かに上にある、いわば形而上の真理のようなもの。
咲夜は、まだ何かに酔っている。何かに依っている。何に因っている?
「それに、私が無に還ったとしても……お嬢様たちの記憶に私は残る。私はそれでお嬢様と共にいられるの」
私が頭を巡らす前に、本人が自分からわざわざ説明してくれた。なるほどアルコールはレミリアか。ならば、私はそれを排除しよう。
「レミリアが貴女を永久に覚えている……だから死ぬのか怖くない、というわけですか」
「そうよ」
「無理ですよ」
「え?」
「聞こえませんでしたか? それは無理だと言っているのです」
「————」
「冷静に考えてみてくださいよ。貴女とレミリアが一緒に過ごした時間を。たかが10年程でしょう? それは人間の感覚で言えば長い時間なのでしょうね。でも吸血鬼にとっては違う。10年というのは実に細い時間です」
「そんなの……」
「もちろん記憶というのは単純な時間の長さだけではない。けれどですね、やはり短過ぎるんですよ、500を超えるのレミリアと過ごした咲夜の10年というのは。分かりやすく人間で例えましょうか? 例えば、お嬢様がこれから2千歳を生きるとして、10年というのが人間の感覚でどれくらいか? 大体、半年程にしかなりません。ペットのねずみでも、もう少し長くご主人様とは過ごせますよ」
私は意地悪く言った。
「あとついでに言うとですね、貴女は自分がレミリアにとって特別な存在だと思っているようですけど、それも違いますからね」
咲夜は黙っていたが、その表情には隠しようのない動揺の色が混じっている。いいぞ、先に私が吐きかけた言葉の効果が出ている。
私のこんな小賢しい理屈なんて、いつもの咲夜ならすぐに反駁できたはずだ。けれど、今の彼女は私のかけた罠にはまっている。今の彼女は、もう自分の身体が自分のものでないような感覚になっているんだろう。恐慌、焦燥、不安。それらの感情がそれを引き起こしているのだ。
さて、咲夜の混乱が戻らぬうちに一気にラストまでいってしまおう。
「レミリアが寵愛した人間は貴女が最初ってわけではないのですよ。貴女も知っての通り、レミリアはエサ以外の意味でも人間が大好きですからね。私が紅魔館に来てから100年程しか経っていませんが、それでも今まで貴女の他に3人の人間が紅魔館の一員として数えられています。そのうちの2人は同時期でしたけどね。私は詳しくは知りませんが、私が紅魔館に来る前にも数人の人間が働いていたそうですよ」
「そんなこと……私は聞いたこともないわ」
「まぁ、あの人たちの時も色々ありましたからねぇ。皆も口には出しづらいのでしょう。レミリアはその人たちのことを、とてもとても大事にしていました」
「それで、その人たちは?」
「当然もう全員死んでいます。殺されたのです」
「殺された!?」
「あ、もちろんレミリアにではないですよ。レミリアの命を狙う侵入者に殺されたのです。人間は脆いですからねぇ〜。ちょっと小突かれるとすぐに血ダルマになる。あっははは……」
咲夜がの顔が引きつっている。彼女の知っている私とあんまりかけ離れた笑いかたをしているからかな? けど、どちらかというと、今の私の方が作っているですよ。せっかく私が作った雰囲気を壊さぬように。私の目的を達成させるために、あえて、こういう気味の悪い笑いをしているんだから。
「初めの人はね、なにもせず殺された。次の二人は、侵入者が皆で護れるよう工夫をしていたけど殺された。だから次の人間は対策をすれば殺されぬような者にしよう……となった訳です」
「それで、私」
「その通りです。いいですね。聞き手の頭がいいと話が早くて助かります。はい、それでですね、レミリアは侵入者に殺されぬよう異能を持つ人間を雇った。けれど、それも無駄でしたね。その人間が死にたがりであったから。じゃあ今度の人間は力が強く、かつ自殺願望のない人間にしよう……今頃レミリアはそう考えているんじゃないですか? いや、今は考えていなくとも、いつかはそうやって次の人間を雇う。そしてその人間が死んだら、また次の人間を紅魔館に招き入れる。まぁ、要するに何が私が言いたいかっていうとですね——」
私は一呼吸置いてから、
「貴女はレミリアにとって特別な存在ではない。ワンオブゼム。幾つかの中の一人に過ぎないのです」
咲夜が、はっと息を飲んだ。今私が言ったことは全て嘘偽り無しの本当のことだ。 今まで紅魔館には何人も咲夜の他に人間が住んでいたことがある。いずれも私が世話になった大切な人たちだった。だから、その人たちが死んだときは私も今のパチュリー様たちのように盛大に泣いたんだ。レミリアが縋りついてまで咲夜に永遠を生きてほしいと懇願したのは、自分が護れなかったその人たちのことも思い出しての行動だったんだろう。
「レミリアにとって、貴女はペットと同じ。ペットは家族。ペットが死ねば皆、泣いて悲しむ。けれど所詮は代替の利く愛玩具。その存在は、主人とメイドという地位の差異以上に対等ではない。そもそも人間と吸血鬼の間に真の信頼なんて信じる方が馬鹿げています」
妖怪と人間との間に情愛はあるんでしょうか?
神様と人間との間に情愛はあるのでしょうか?
悪魔と人間との間に情愛はあるんでしょうか?
咲夜に、こんなこと言っておいてなんですが、本当は全部あると、強く信じている私がいたりします。
本当に、今日の私は噓ばっかりついてる。
「さて、そろそろ良い返事が頂けないでしょうか?」
私は、俯いていた咲夜に声をかけた。
「もういいじゃないですか。貴女の死には何も必然性がないのですよ。分かってくださいな。ここで人間の定義を論じるつもりはありませんがね、夜の住人になったとて貴女は人間のままでいられると思いますよ? 既に貴女は時を操るという人間の域を超えた異能を持っている。この世のどこに時間を操れる人間がいるのですか? 平常の人間からすれば貴女は立派な化物です。それでも貴女は自分自身を人間だとしているのでしょう。ならば、レミリアに血を吸われた所で、貴女の属性に吸血鬼が新たに加わるだけ。人間としての矜持に問題はない」
人と人外を隔てる壁とはなんだろう?
そこに生理的な差異もなく、もちろん科学的な定義もなく、一般に知られた曖昧な区別の仕方さえ存在しない。
ならば人と吸血鬼を分けるものとは何か?
誰が、人と悪魔は違うものと言えるのだろうか?
咲夜を含め、多くの者は、人間と人間ならざるものを明確に区別しているようだけれど、私から言わせてもらえば実に瑣末で矮小で狭量な考えだ。
……結局のところ、自らが何であるかを決めるのは、本人の心の持ち様でしかありえないのだ。
私は私が悪魔だと思うからこそ悪魔であって、レミリアは自分が吸血鬼だと信じているからこそ吸血鬼たりえる。
いや、突き詰めて考えれば、あらゆる人外は人間と言えるのかもしれない。
「例えば、貴女も知っているアリス・マーガトロイド。彼女は自ら選択して後天的に魔女になり、その結果人間だったころとは比較できない程の能力を得た。けれど、貴女は彼女が人間と違う存在だと思うでしょうか? あるいは貴女の大好きなレミリア・スカーレット。彼女は実に人間的な存在ですね。彼女は人間を喰らう。闇に解けることもできる。けれどその精神は人間の域をでることがない」
所詮……というと彼女たちに礼を失するかもしれないが、アリスもレミリアも人間の近似的な存在だ。
人間は科学の隙間に存在した「未知」に対して名前を付けた。それが妖怪。
人間は自分たちの道徳倫理、主義観念を擬人化した。それが神。
人間の中に稀に生まれる、人間の平均から遥かに抜きん出た存在。それが仙人、天人、月人、或は魔法使いになった。
こんな考えを、他の誰かは人間主義的だと糾弾するかもしれません。
けれど、これは私の偽りざる本心なのです。
いやもっと言えば、人間がいなければこの世界そのものすら存在するか怪しいとすら思っています。
以前パチュリー様にこの事を話した時、こういう考え方を唯心論という考え方に近いと教えて頂きました。
唯一、心のみを世界の拠り所とする考え方。なるほど人間も面白い考え方をするものです。
さて……随分話が逸れてしまいました。
今の私は咲夜を延命させることが目的なのだから、あまり独白的にこんなことを考えていても仕方ありません。
けれど、ここまでこればもう終わりでしょう。
咲夜の様子を伺うと、私の口撃にかなりまいってしまっているのか、目をつむって顔をしかめていた。
普段の彼女ならもう少し手強かったのだろうけど、如何せん今の彼女は病で心身共に疲労困憊している。
故に私でも十分に論破できるのだ。
さて、ここですることはもう終わった。
「さて、咲夜さん。レミリアを呼んできますね。喜んでください。明日から紅魔館の楽しい生活が戻ってくるのですよ。そしてそれは永久に続くでしょう」
そう言って私は椅子から立ち上がって扉に向かう。
レミリアに、咲夜が血を吸って欲しいと言っていると伝えにいく為だ。
レミリアがそれを聞いたらどんな顔をするだろう。きっとびっくり仰天して私につかみかかってくるに違いない。そして、すぐに顔を喜ばせるだろう。
咲夜はレミリアのことが好きだけれど、レミリアも咲夜に関しては相当執着しているんだろう。
ふふっ、楽しみ。早く行かなくっちゃ。
「待ちなさい」
私がドアノブに手をかけた瞬間、後ろから声が聞こえてきた。
「どこへ行こうとしているの?」
「どこって……レミリアのところですよ」
「お嬢様を呼んできてもらっても良いのだけれど、私はお嬢様に血を捧げるつもりはないわよ?」
私は自分の眉に皺が寄ったのに気付いた。
ドアノブを掴みかけた右手を引っ込めて、踵を返し、再び咲夜のもとへ向かう。
「まだ何かあるのですか?」
いけないとは思ってはいてもつい苛立った語調になってしまう。こういうときは冷静さを欠いてはいけないというのに。
「咲夜、貴女にこれ以上拒む理由なんてない筈です。もし私に言い負かされることだけが拒む理由ならば余りにも幼稚ですよ?」
「ええ、貴女の理屈は正しいと思う。確かに貴女の言う通りよ。私が人間であるかどうかは誰かが決めることじゃない。私が私である限りその姿形は些細なことなのかもしれないわ」
「ならば」
「私が私であると決めるのは誰?」
「哲学をしている暇はないのですけれど?」
「そんな難しい話じゃないわ。単なる精神論。単純な話よ」
「回りくどいですね。何が言いたいんですか?」
「私が私であると決めるのは、私。貴女でもお嬢様でもない私なの」
咲夜はしかとした目を作ったまま、胸に手を当てて、そう宣言した。いつの間にか咲夜の顔から恐怖や動揺がなくなっていたことに、私は気づいた。私が部屋に入った時にはまるで感じられなかった生気すら戻ってきているように思えた。
「ねぇ、さっき貴女は私に生きろと命令したわよね?」
「はい」
「じゃあ、私は貴女にお願いするわ。私の人生は私に決めさせてくれないかしら?」
「それはこのまま死なせろという意味でしょうか?」
「その通りよ。人間のまま死にたいなんてもう言わない。私は私の決めた死に方で、今日死にたい。ただそれだけなの」
もう私には咲夜の言うことが全く理解できなかった。私は先ほど咲夜に自殺志願者だと言ったが、まさか本当に開きなおってしまうとは思わなかった。
どうしてここまで生への願望を捨てることができるのだろうか。人間である限り、生への執着、死の恐怖は誰でももっているはずなのに。
やはり咲夜は自殺志願者だったのだ。しかも、普通の自殺志願者と違って絶望もなく、希望の中で死のうとしている。
この点から見ても、やはり彼女は既に人間でなくなっている。よくよく考えなくても人生の大半をレミリア達と過ごし、彼女たちのエサを管理していた咲夜なのだから。
咲夜はどうしようもなく化物で、かつ人間なのだ。当の本人はまるで自覚していないようだが。
死なせて欲しい。
咲夜はそう私に哀願した。
そしてもちろん返答は決まっている。
「ダメです。許しません」
ここで許してしまっては一体私はなんのためにこの場にいるのか分からない。
「貴女には死の許可は与えません。貴女は永遠に紅魔館の住人として生きるのです。いえ、貴女が望むなら紅魔館から出て行くことは許しましょう。ただし、今日この日に死ぬ許可は与えません。貴女が泣いて喚こうと、他に何をしようと、貴女には明日を生きてもらいます」
私は咲夜を悪魔のような目で睨みつけた。咲夜も病床でも衰えのない鋭い目つきを私に向けていた。
しばらく、にらみ合ったまま、時間だけが過ぎた。部屋の中に時計の針の音だけがカチ、カチと響いていた。
どれくらいの時が経っただろうか。先に目を逸らしたのは咲夜の方だった。
咲夜は目を下に向けて、ふぅと息を吐いた。
「全く……もう、私は完全に詰まされているじゃないの」
咲夜は首を横に傾けてとぼけたようにしてから、恐らくは今日初めて、微笑を浮かべた。
私は咲夜の言葉に、静かに首肯した。
「はい。この為に私も色々考えてきましたから」
「どうやら私の負けみたいね」
「あれ、もう降参しちゃうんですか?」
「だって、どうせ私が嫌だっていっても無駄なんでしょ?」
「それはまぁ……そうですけど」
私のプランでは、ここでも咲夜が首を縦に振らなければ、ステップ3に進むことになる。
私が一番頭を悩ませた部分がこの後に行う予定だったステップ3だった。けれど、咲夜の様子を見ているとステップ3は不要になったようだ。
それにしても諦めが早すぎる。たくさんパターンを想像していたけれど、ここで終わる組み合わせはそれほど多くなかったはずだ。
良い戦術眼を持つ者は、先を見通せるので投了も早いという。私はまだ咲夜を見くびっていたようだ。
「せっかくだから教えてよ、この後、私がまだうんと言わなかった時の事も想定しているんでしょ? どんな作戦があったのかしら?」
咲夜の表情は先ほどまでの眉間に皺のよった険しいものから、急に力の抜けたようになっていた。私の勘違いかもしれないが、仄かに楽しそうでもある。
「そうですね。今更言いにくいんですけど、実は、ストレートに拷問するつもりだったんですよ」
ステップ3とはつまり拷問を含めた実力行使のことだった。咲夜にうんと言わせる為に、パチュリー様の書斎で様々な拷問の技術を学んできたのはムダになったようだ。
もちろんムダになってよかったと、素直に思う。
「あらあら、まぁまぁ。死にかけの私によくもまぁそんなことを。貴女は悪魔ね」
「悪魔ですから」
私は笑った。今度はウソじゃない笑みだ。
「けど、今から拷問なんてする時間あるの? この部屋のすぐ外にはお嬢様がいるんでしょう? 貴女があんまりこの部屋から出てこなかったら不審に思うんじゃなくて?」
「いえ、今この部屋は私の空間移転魔法で紅魔館とは別の場所に来ているので。この部屋の外は迷いの竹林です。お嬢様たちが必死に探しまわっても数時間は時間稼ぎができると思います。あ、もちろんすぐに紅魔館に戻ることもできますので心配なく」
咲夜がそこで初めて窓の外を見て、目を丸くした。音も振動もなく、いつの間にか部屋事移動していたことに驚いていたようだ。
私もパチュリー様の従者としてそれなりの魔法は使えるが、誰にも気づかれずこれほどの魔法を自由に使うほどではない。
今日この移動魔法を使う為に、コツコツと魔力を溜めていた甲斐があったものだ。
「でも拷問なんてしたらいくらなんでも跡が残るでしょ? 身体に残らなくても私の顔に出てしまうかもしれないわ。そしたらお嬢様に貴女が関与したことに気付かれてしまわない?」
「今のレミリアはかなり錯乱していますからね。貴女のOKが出たなら、3も4も無く喜んで貴女の血を吸うと考えています」
「じゃあ、私が拷問でも屈しなかったら?」
「その時は最終手段のこれですね」
私は懐から、さっきの偽蓬莱の薬と同じガラス管に入った液体を取り出した。
「それは、なにかしら?」
「蓬莱の薬は頂けませんでしたけど、代わりということでこの薬を貰えました」
「自白剤の類い?」
「いえ、違います。これは精神剥離剤とでもいうんでしょうか。医学と魔術を組み合わせ作った薬でしてね。簡単に言えば、これを飲んだ人は、私の意のままに動かされる人形になってしまうという薬です。副作用が強すぎるらしいので、これは最後の最後まで使うつもりはありませんでした」
「よくもそんなもの永琳がくれたわね」
「ああ、実はこれ永琳さんから貰ったものじゃないんですよ」
「じゃあ誰から?」
「すみません。それは秘密という約束でして」
まぁ永遠亭の兎さんから貰ったんですけど。
こんな強力な薬を勝手に私にあげたことが永琳さんにバレたら、酷く叱られるでしょうに、ありがたいことです。
きっと兎さんも咲夜さんに生きていて欲しかったんです。咲夜さんは色んな所で好かれているんですよ。本人に自覚はないでしょうけれどね。
「秘密ねぇ……けどそんな薬を使ったらお嬢様も流石におかしいってならない?」
「さっきも言いましたけど今のお嬢様は殆ど半狂乱ですから。咲夜さんの『血を吸っていい』という言質さえあれば、その様子にまで気は回りませんよ」
「お嬢様は今そんなになっているの? 私の前では落ち着いていたのに」
咲夜の前ではレミリアは涙すら見せることはなかったのだ。ただ静かに悲しそうな顔を表しただけだった。
しかし部屋を出ると、まるで子どものように声をあげず泣きじゃくっていた。
「咲夜さんの前では最期まで優雅で高潔なレミリアお嬢様でいたかったのでしょう。自分の為でなくって、咲夜さんの為に」
自分の泣いている姿なぞ、見せたくなかったのだ。
貴女が仕えた吸血鬼は偉大な存在であった、と最期まで思わせる為に。
「咲夜さんは大事にされているんですよ」
「あら、私はペットじゃなかったのかしら?」
「え? 誰ですか咲夜さんにそんな酷いことを言ったのは! 私、怒っちゃいます!」
そういって私と咲夜さんは2人で笑った。
咲夜は気が楽になったのか、初めて手品を見る子どもの様に次々と私に種明かしを迫った。
「じゃあ、私が自殺しようとしたら? いくら貴女でも私が無理矢理に自裁しようとしたら止めようがないんじゃないのかしら?」
「レミリアの予言した咲夜さんの臨終までは、まだ時間があります。それまで咲夜さんは死ねませんよ。運命がそれを許さない」
「でも、結局はお嬢様の余予知した私の死という運命は外れたわ」
「お嬢様が咲夜さんの血を吸う事によって、お嬢様が咲夜さんの運命を変えた。何か問題が?」
「はぁ〜、凄いわね〜。そこまでして私を吸血鬼させたかったのかしら」
「はい」
私は即答した。もちろん、それは手段に過ぎなかったのだけど。
「じゃあ最後に一つだけ。私が降参したふりをして、お嬢様が来た時に、手のひらを返して貴女のことを告げ口したらどうするつもりだったの? いくらお嬢様が錯乱していると言っても、私が血を吸われる事を拒否したら流石にお嬢様も無理矢理ということはならないと思うわ」
「その時は…………どうしましょうね?」
それを聞いて咲夜さんが呆気にとられる。
あ〜そういえば、そのケースは想定していませんでしたね。
「たまにはかっこいいと思っていたのに、最後の最後で抜けていたわね」
頭を抱えて落ち込んでいる私に、咲夜さんがくすくすと笑いかけた。
「わかったわ。お嬢様を呼んできて頂戴」
その言葉を聞いて私の体はが不思議な浮遊感に包まれた。
咲夜は満ち足りた顔をしていた。彼女の本心は私には分からない。咲夜は本当に心の底から死にたがっていたのか、それとも迷っていたのか。
今この瞬間にも咲夜はまだ死にたがっているのか、それとも、もう死ぬことは諦めているのかも分からない。
前者ならば、この後私がレミリアを連れて来た時に、咲夜が全て打ち明けてしまえば私の努力は全て水泡に帰す。
この平常とは著しく異なる状態の中、咲夜を信じるなんて安易には言えない。今彼女は安楽そうにベッドに座っているが、レミリアを呼んだ途端、私を糾弾する可能性も十分にありえる。
もしそうそうなってで構わない。そこまでして咲夜が死にたいのなら、私にはもう止めることは出来ない。
しかし不思議なことだ。私はあれほど咲夜に生きろと命じておきながら、なぜか無意識のうちに咲夜が死ぬことのできる抜け道を用意していた。そしてそれを認知した今ですら、その穴を塞ごうとせずにレミリアを呼びに行こうとしている。本当におかしな話だ。
もしかしたら私の中にも咲夜と同じように迷いがあったのかもしれない。彼女の望むままに死なせてあげたいと思う気持ちがあったのかもしれない。私も悪魔を名乗っている割には、やはり人間的な感傷は捨てきれないのだろう。
私は咲夜に「はい」と返事をしてから、レミリアを呼びに行く為に立ち上がった。
その時、咲夜がわたしに右手を差し出した。その手にはハンカチが一枚乗せられていた。
「その前に、これで目の周りを拭いておきなさい」
「目の周りですか?」
私が意味を図りかねていると、咲夜は続けて、
「貴女の目の周りすごいことになってるわよ」
一体いつからだろうか、私はいつの間にか、涙を流していたようだ。
悪魔の涙ほど強い毒薬は無い、ということでしょう。淡々とした語り口と飄々とした会話の中に織り成されたドラマでした。
修正しました。ご指摘ありがとうございます。
正直寿命ネタは毎度すんなり咲夜さんを死なせる紅魔の皆に疑問があったので
確かに咲夜の決意は素晴らしいかも知れないしそうするのがスジかも正しいかも知れませんがそれって正しいことや素晴らしいことやスジなど咲夜の命より優先させるべきだからという理由だけで優先させているだけじゃないですか? 正しいですけど正しいことに咲夜への愛が負けているだけじゃないかなって思ってたんで
正しさは戦い勝利することで勝ち取ることも出来ますし、正しくない選択を選ぶ自由もあると思っています
正しさや素晴らしさや高尚さと戦うという選択肢を選び勝利した小悪魔を讃えたいです
この世が正しさのみで成り立ってたまるかですよ
咲夜が説得されるSSは新鮮でした、面白かったです。
小悪魔が悪魔ながらかっこいい
タイトルに関しても覇権という言葉を使うことでこのハッピーエンドが物語の後も確固たるストーリーになると想像できるのが良かったです。
普通に考えたら東方の人間キャラはどれも人間離れしているけど人間ですからね。畢竟、境なんて曖昧なものですね。
同じ題材でも新しく展開する余地があるものだなあ
いっそ、死ぬなら魂をよこせ的な話の方がまだ面白い
紅魔館の住人が咲夜の死を許さない、という展開がとても新鮮に感じました。
この後のレミリアをはじめとする住民達の反応も非常に気になります。