その日、悪夢と呼ぶに相応しいものを見たレミリア・スカーレットは、自身の従者――十六夜咲夜に身支度を整えさせてすぐに自室を飛び出した。
「お、レミリアじゃないか。おそようございます」
「私にとっては今が朝だよ、夜更かしの人間」
その途中で、夜も遅くというのに堂々と人の館内を歩き回るコソ泥、もとい魔法使い――霧雨魔理沙を見付けた。
魔理沙はレミリアの素っ気ない言い方に気を悪くした様子もなく話し掛けてくる。
「お前が咲夜を連れてないなんて珍しいな。喧嘩でもしたかい?」
「そんな四六時中連れ回すはずがないでしょ。散歩よ、散歩」
「ほほう、散歩か。いいよな、お前の家は。散歩ができるだけの広さがある」
しかし、と一拍を置いて魔理沙は言う。
「お前の行き先は図書館と見える。散歩ってのは目的を持たずに歩き回ること。目的地のあるお前のそれは移動と言うぜ」
要らぬ茶々を入れてくる魔理沙に、レミリアの紅く縦長の瞳がじろりと向く。
夢見の所為で、今は殊更に気分が悪い。次の言葉次第では、咲夜の掃除箇所が増えるやもしれない。
「何故、私の行き先が図書館だと言い切れる?」
「そりゃあ、お前がそんな深刻そうな顔をしてる時に頼る所っていえばあそこだからなぁ」
正確にはそこの主だが、と碌に知りもしない癖に知ったような事を言う。そしてそれが図星であるからこそ、レミリアは見逃す。
ここで逆上して黙らせるのは三下のすること。一流の悪魔は寛容さも持ち合わせるものだ。
「……ふん、私は忙しい。お前と話す時間さえも惜しいんだ。だから、さっさと失せなさい」
「へいへい、そうさせてもらいますぜ。これ以上の夜更かしは私の玉のお肌にも悪いしな」
「相変わらず人間って奴は脆いのねぇ。少し寝ないくらいで肌荒れなんて」
「それならお前も陽の光を浴びてみろよ。きっとスッキリするぜ」
「あぁ、この身体が灰になるくらいにねぇ」
さっさと帰るように魔理沙の尻を軽く蹴飛ばし、レミリアはその場を去った。
と、目的地へと向かう道の角で小さな、それこそ吸血鬼でもなければ聴こえないような声を耳にした。
「……ふぃーっ。やれやれ、死ぬかと思ったぜ」
なら挑発するような真似をするなと口に出さずに呆れ、後れを取り戻すべくレミリアは足を速める。
魔理沙が背負っていた荷物の中身には、終ぞ気付かなかった。
それくらい、この時の彼女は冷静さを欠いていたのだ。
# # #
言ってしまうのも何であるが、特段、レミリアが急ぐ必要はなかった。
足を持たない図書館が動く筈もなく、また目的の人物もそこに根を生やしたように動かない無精者だからである。
目的地の図書館はいつだって薄暗く黴臭い所ではあるが、夜も深いその時間帯は一層の静寂を湛えている。
コツッコツッと、軽い足音を響かせながら無数の書架の間をレミリアは行く。
普段、何物をも見下ろすべき存在の自分が、夥しいまでの無機物たちに見下ろされるのは、不快を通り越して不気味にすら感じる。
無駄と分かりながら視線をやれど、本たちは黙するばかり。その癖に嫌になるくらい存在感を放っている。レミリアの頭に数の暴力という言葉が過ぎる。
ほんの微かな怯えが胸の内に湧く。らしくない感情が、彼女の足をまた少し早めさせた。
物言わぬ本たちの迷路を抜けた先で、ようやく件の人物を見付ける。
レミリアの目に入ったのはマホガニー製の品の良い机の上に出来上がった歪な本の塔たち。
そして、大図書館の主にして百年を生きる魔法使いにしてレミリアの親友――パチュリー・ノーレッジはそれらのすぐ傍で眠っていた。
彼女お気に入りのロッキングチェアに、膝の上の本と共に抱かれて。
あまりにも静かな寝息に、レミリアの形ばかりで不動なはずの心臓が僅かに跳ねた。
レミリアの鋭敏な聴覚は、親友の発するか細い吐息も、心音も捉えているはずなのに。
ほんの一瞬、目の前の彼女が夢の中で見た姿に重なって――。
「……ッ! パチェ。パチェ、起きなさい。こんな所で寝ては身体に障るわ」
思考を払うように二、三度首を振り、寝ている親友に申し訳ないと思いつつ、レミリアは細い肩を揺すった。
その手付きは彼女を知る者が見れば信じられない程に優しく、まるで硝子細工でも扱うよう。
やがてレースのカーテンが持ち上げるように、ゆったりと軽やかな瞼が開いていく。
「んっ……レミィ? どうしたの、また読み聞かせでもして欲しいの? 構わないけど、それでもこの哲学書はさすがに朗読には向いてないと思う」
寝起きから惚けた事を言う。そんな彼女の様子に、あからさまにホッとした吐息をレミリアは口から零した。
「読み聞かせはいらないよ。何を読んでたの?」
「ピエール=シモン・ラプラスの『確率の解析的理論』」
「あぁ、タイトルだけで読み聞かせてもらう気力が失せていくよ」
「レミィには必要ない本よ。運命という真理そのものに手を掛ける貴方にとっては小難しい癖に当たり前の事が並べられたマニュアルも同然の内容だから」
「……ふぅん」
運命、という言葉にレミリアは思わず肩を揺らした。
眠たげな瞳をした親友に気付かれなかったか。彼女は鈍臭いようで思考は切れる。
レミリアは気のない返事をしたが、誤魔化しきれたか。
「で、読み聞かせでもなければ要件は? わざわざ私を起こす程のことなんでしょう?」
「あ、あー、そうだ。ここに来る前に白黒を見たよ。またぞろやられてるんじゃない?」
「……あぁ、そのようね。積んでた本が寝る前よりもいくらか少ない気がする」
「目の前で堂々とやられたのかい。白黒の肝が太いのか、パチェが鈍感なのか」
「門番がだらしないのよ。まったく、うちのネコは寝るばかりで碌に働きやしないんだから」
「頭の黒い鼠、ってアレはまんまか。今度は本と一緒にホウ酸団子でも用意してあげなさいよ」
「万が一、掛かった場合の処分は?」
「巫女にでも引き取らせればいいさ。渋れば咲夜が何とかするだろうし」
「咲夜もよくこんな主人に仕えてられるわ。……ねぇ、そろそろ本題を話してくれてもいいんじゃない?」
少しでもゆとりを取り戻す為のレミリア・ジョークであったが、長年の友の反応はつれないものであった。
紅魔館からもゆとりを尊重する風潮が薄れつつあることを心の内で嘆きながら――レミリアは後ろに控えていたパチュリーの使い魔に退出を命じた。
主人以外の指図に困惑する使い魔だったが、館の主の命令が聞けないのかと問うと、泣きそうな顔で一礼して足早に出て行った。
遠くでパタンと扉の閉まる音が聞こえた。使い魔の主人であるパチュリーは当然、不満を口にする。
「ちょっと、レミィ。あれのマスターは私のはずなんだけど?」
「こういう所で威厳ってのは見せるものなのよ。それに少しの間だけ出て行ってもらうだけ」
「威厳とは言わない。横暴と言うのよ、まったく。……咲夜にも?」
「あれは私が呼ばない限りは勝手に出てこないよ」
「……本当にあの子は人間かしらね。メイドにしておくのが惜しいわ」
「メイドで十分さ。時間を操る程度のことが限界の人間だもの」
「それもそうね。何せそのメイドがいなければ、私たちは紅茶の一杯も淹れられない」
「あっ」
慌てて指を一鳴らしすると咲夜は音もなく現れ、二人分の紅茶を用意した後、スッと綺麗に一礼をして消えた。また掃除にでも戻ったのだろう。
「……」
「……」
何とも締まらない雰囲気が広大な図書館に、二人の間に流れる。別に今さら沈黙を苦にするような間柄ではないのだが。
パチュリーと対面の位置にある椅子にドッカと座したレミリアは、その微妙な空気も併せて飲み下すように紅茶を一口啜った。
いくら相手が親友とはいえ、気を引き締める必要はある。今はまさにその時。そう、レミリアは真剣なのだ。
ムンッと表情に力を込めたついでに意を決した彼女は、夢の中で見てきたことを告白する。
「パチェ。……あのね、今日、貴方の運命が見えたの」
「へえ、運命ってそう簡単に見えるものじゃないんじゃなかったの?」
「うん。確定した未来しか映らない。そして、それは夢を介して知らせられるの」
「それが今夜、遂に見えたと。……いいわ、私の運命を教える為に来たんでしょう? 聞かせて頂戴」
パチュリーは眠たげな瞳の中に隠し切れない好奇心を輝かせてレミリアに先を促した。
自分の運命を知るということは、それだけ大きなことだ。常人であろうとその後の将来の為に働きかけを行うくらいには。
ましてや彼女は魔法使い。魔法を扱う者に必要とされるのは本人の資質による所も大きいが、同じく大部分を占めるのは「運」という最も不確定な要素である。
もし運命などという因果の収束点に僅かでも触れられれば、彼女の魔導に途轍もないアドバンテージを齎(もたら)すことは間違いない。
パチュリーが知りたがるのは当然のこと。レミリアはそんな生粋の魔法使いである親友を誇りに思う。
それと同時に、親友のどうしようもなく魔法使いな部分を好きになれないでいる自分も自覚していた。
だから、
「パチェ、パチェはね――自分の運命を自覚してからは、とても健康的な魔法使いを目指すわ!」
「レミィ」
「喘息になるのは埃っぽい図書館の環境が悪い、体力が無いから辛い思いをするんだって真理に辿り着いてから貴方は変わるの。今までの出無精っぷりなんて何処へ行ったのかってくらいに! 安楽椅子から腰を上げた貴方は生き生きしてた! 真っ白だったお肌にも赤味が増してたし、ご飯も今より食べるようになった! それで、フィールドワークだから手伝いなさいって私を連れ出して、幻想郷中のあちこちを一緒に回るの!」
「レミィ」
「最初は湖の周辺とかなんだけど、どんどん広い範囲を回るようになるわ。神社でしょう? 人里でしょう? 魔法の森、妖怪の山、冥界、天界、無縁塚――幻想郷を余す所なく私たちは行くの。それも飛んでばかりじゃない、自分達たちの足でこの郷を踏破するの! 楽しいでしょうね。いいえ、楽しいに決まってるわ。だって、私とパチェの二人で回るんですもの! 今からでも準備を始めよう。咲夜にコンパスや望遠鏡を揃えさせなきゃ。私たちはそれを片手に歩き回って幻想郷中の地図を作るんだから。あぁ、それとお弁当だろう? なんなら二人で作るというのも悪くない。私たちは揃って日陰者だから日傘も忘れずにして行こう。くくっ、今から楽しみでならない、私の冷血も熱くなるというものよ。そうして幻想郷中を余す所なく回った暁には、私たちの友情はより深いものに――!」
「レミィ」
「……何よ。言っておくけど、嘘じゃないわよ」
ぼかした言葉ばかりが機関銃じみた勢いで口から出てしまう。
バツが悪そうに口を尖らせるレミリアに苦笑を一つ。パチュリーはいつもの落ち着いた口調で的確な言葉を放ってくる。
「分かってる。レミィは嘘は言ってない。でも、肝心な部分を話そうともしていない。違う?」
「……肝心な部分って何さ」
「まぁ、運命なんて聞かされたら想像しない訳にはいかないわね。例えば、自分の最期とか」
「……パチェみたいな勘の良い魔法使いは嫌い」
心にも思ってない言葉がつい口を衝いて出てくる。勿論そんな筈がないから、レミリアは拗ねたフリまでする。
彼女の親友がその程度のことを察せない筈がない。小さく、木枯らしのような擦れた吐息が図書館の空気に混じる。
ところで、パチュリー愛用のロッキングチェアは座る者を全体で包み込むように大きい。彼女の痩躯など容易く沈めてしまうのである。
だから、パチュリーが少し深く腰掛けると、そこにはスペースが生まれてしまう。
それはちょうど、少女一人分が座る程度には十分な広さでもある。
「……」
「……」
無表情を装おう二人の視線が交わる。
片や真紅、片や紫紺の瞳。そこに敵意などは勿論無い。むしろ逆ベクトルのものが宿っていると言っていい。
羞恥心と悪戯心。その感情がそれぞれどちらのものか、あえて口にする必要もないだろう。
瞳は時に、口よりも雄弁にものを語るのである。
レミリアが堅い椅子から腰を上げる。そわそわと落ち着きなく両の手を遊ばせながら二本の足を大人しくパチュリーのもとへ。
こくりと軽く喉を鳴らし、スカートが皺にならないように注意して座る。何処へと問われれば勿論、パチュリーの股座の間に。
そのまま肉付きの薄い身体に凭(もた)れ掛かると、これまた柳のように細い腕が身体の前に回される。
まるで子どもが大人にしてもらうような体勢。誰かに見られたようものなら、レミリアのカリスマは世界恐慌も真っ青な下落ぶりを見せることだろう。
しかし今、この図書館には二人きりである。メイドや使い魔、門番も悪魔の妹だって居やしない。
ならば存分に表向きはぶっきら棒な親友に甘え、心を落ち着けていればいい。
パチュリーの胸の動きに合わせるようにゆっくりと呼吸する。
古臭い本たちの背表紙を眺めるが、前(さき)に味わったような重圧はもはや感じない。
本たちは主の前では従順な犬と化していた。その主に今、レミリアは抱かれている。
徐に口を開く。中はいつの間にかカラカラになっていた。
「……パチェ、貴方の最期はね?」
「うん」
「ここ、図書館のこの椅子に座ってね? 今よりもっと増えた本に囲まれて、誰にも気付かれず、眠るように、貴方は逝くの」
「あら」
身を切るような思いで告げた真実に対して、親友からの反応はいささか軽い。
「死に場所が図書館の安楽椅子の上だなんて、私にしてはお洒落じゃない」
「洒落じゃないよ」
「洒落が利いてるとは思うわ」
「洒落になってないんだよ」
なんて軽口がお互いの口から出るくらいに。
レミリアは本当はパチュリーに最期なんて伝えるつもりはなかった。何故なら、どんなに先のことであろうが親友の死に様を語るなんて悲しいからだ。
それなのにパチュリーはあっけらかんとしていて、レミリアの心配なんてこれっぽっちも気にした風もない。だから悔しい気持ちが湧いてくるのだ。
二人の間での温度差は余りに大き過ぎた。
それが二人の意識を遮る隔たりのように思えて、レミリアは堪らない不快感を覚える。
身体の弱い親友の前で声を荒げることは避けていたが、どうしても癇癪を抑えきれそうにない。
元から我慢の利く性分でもないのだ。自分の想いを背後の朴念仁に伝えるには、怒声を浴びせるくらいがちょうどいいのかもしれない。
だから、レミリアは叫ぶ。今を生きる親友に向けるのは間違っているだろう、唯一の不満を。
「ねぇ、どうして? どうしてここなの! こんなカビ臭くて陰気な場所で、それも一人で死ぬなんて信じられない!
私はパチェの為なら何だってしてあげる! パチェが望めば相応の場所だって用意してあげるのに! 何だってこんな……もっと、良い死に場所だってあるでしょう!?」
テーブルの上、飲み干して空になったティーカップが揺れる程の声量であった。積み上げられた本だって何冊かは紅色の絨毯に受け止められた。
しかし、聞き慣れた大声に動じるパチュリーではなかった。返し刀で問い掛けてくる。
「例えば?」
「え?」
「レミィの思う、もっと良い死に場所って、例えばどんな所?」
「た、例えば、うー、その……」
レミリアはもじっと居心地悪そうに身を捩り、首を上にして逆さのパチュリーに問うた。
「……笑わない?」
「笑わない」
無表情・無感動・無愛想の三面を有する親友を信じて、レミリアは答える。
「……私の、腕の中、とか」
「ぷっ」
「わ、笑った! いま笑ったわね!?」
「ご、ごめんなさい、レミィ。あんまりにも貴方が可愛くてつい……」
「ついって何よ! もう、もうっ! パチェの馬鹿ッ!」
約束を五秒も持たずに破られるとはさすがのレミリアも思わなかった。滅多に笑わない癖に何が彼女のツボに入ったのか。
悪魔との約束は重いのだ。それを反故にするなんて、どんな罰を与えてくれよう――と思ったが、特に思い浮かばなかったので膨れるだけにしておいた。
くくっ、と喉を鳴らすように笑うパチュリーがご機嫌取りに頭を撫でてくるが、そう簡単に機嫌を直してやるつもりはない。
「どうも機嫌が悪いと思ったら……そう、私の最期を図書館に取られるのが悔しかったのね」
「誰が悔しいか! 自惚れが過ぎるわよ、パチェ!」
「はいはい、そういうことにしておきましょう」
「本当に違うんだってばー……」
歳の差は四百近いというのに、どうしてか勝てる気のしないレミリアであった。
情けない声を漏らす親友に見えない角度でパチュリーは小さく笑みを浮かべる。
「そうね。私もレミィに看取ってもらえないのは残念よ」
「だったら……」
「でも、ごめんなさい、レミィ。私はきっと貴方の教えてくれた運命の通り、誰かの腕の中でなく、一人この揺り椅子の上で逝くでしょう」
「どうして?」
ポツリと零す。短く、しかしたっぷりと不満の込められた言葉には、ただ問いだけが返ってくる。
「レミィ。貴方と私が最初に契約した時の言葉を覚えてる?」
「……勿論」
「誓約の言葉も?」
「当然だ。私は言った。『貴方は私を導く頭脳たれ』って」
「そう。そして貴方はこうも言ったわね。『代わりに私は貴方に無限の知識を与えよう』と」
「無限の知識……あっ」
途端、レミリアの顔が曇る。
「ということは何? パチェがこんな陰気な場所に閉じ籠ってるのは……」
「そういうこと。レミィ、あの時から貴方が私をここに縛り付けているのよ」
レミリアは頭を抱える。
まさか親友の引き籠り癖に自分が一枚噛んでいたとは思いもしなかったからだ。
「くそっ、昔の私め、何て余計なことを……!」
「と言っても、そこまで強いギアスを掛けられた訳でもないから、私もそれなりに動き回れるんだけど」
「――ッ! それならやっぱり図書館じゃなくてもいいじゃない!!」
一転、二転する言葉にレミリアの堪忍袋が悲鳴を上げる。
それでも憎らしい程に動じないのが彼女の親友である。そうでもなければ、レミリアの親友などという間柄は務まらない。
「言ったでしょう、貴方が私を縛り付けてるって。ノーレッジの姓に相応しい知識を与えたのも、まだ若輩魔法使いだった私を買ったのも、全てレミィのしたこと」
「……」
「貴方は自分のしたことを甘く見過ぎている。魔法使いという奴は存外に義理堅く、そして執念深い生き物なのよ」
身を固めるレミリアの頭にパチュリーの形の良い顎が乗せられる。
「私はレミィのスカスカな頭を埋める大事な頭脳なんだから。死ぬ寸前まで頭に知識を溜め込んでないとダメじゃない?」
「……スカスカは余計。おまけに何て恩着せがましい言い方よ」
「気のせい気のせい。レミィには恩しか感じてないもの」
抜かせと呟く。頭の上で顎をかくかくさせるパチュリーに、レミリアは嫌そうに身を捩ると離れていった。
いそいそ帽子を直し、「まだ私は怒っているんだぞ」という体を継続させる。
見抜かれていると分かっても、貫かねばならない矜持が吸血鬼にはあるのだ。
「パチェの言い分は分かった。私の為だと言うならこちらも強くは言わない。……でもね、死ぬ時は一人ってのがどうしても許せないわ」
「そればっかりは納得してもらうしかないわね」
「ふん、納得させてみなさいよ」
軽い挑発を混ぜて言ってみると、パチュリーにしては珍しい苦い笑いが口元に浮かんでいた。
「それがパチュリー・ノーレッジという魔法使いに相応しい死に様だから……って言って納得してくれる?」
「……訳分かんない」
魔法使いには孤独死こそがお似合いだと言外にパチュリー語る。
レミリアはこれだから魔法使いという奴が好きになれない。
時にはレミリア以上に自分勝手で、レミリアがどんなに思っても思い通りに働いてくれない。
これ以上のイレギュラーな存在は、どこぞの理不尽巫女以外に彼女は知らない。
「今は分かってもらわなくてもいいわ」
「わっ」
パチュリーの細腕がレミリアを抱き抱えたかと思えば、くうるりと身体の向きを変えられていた。ひ弱な見た目に反して意外と力はあるのか、それともレミリアが軽すぎるだけか。
凭れ掛かる姿勢から抱き留められるような姿勢に変えられ、レミリアの色白の肌に赤味が増す。
本当に今さらと分かっていても、この気恥ずかしさを誤魔化す以外の選択肢が思い浮かばなかった。
「……絶対、ぜーったいに納得なんてしないんだからね!」
「そう。でも、私は納得してくれるって信じてるわ。何たってレミィの見た運命の話だからねぇ」
「くそぅ……」
そう、今までの話の発端はレミリアの見た運命。彼女がそうだと口にしたのなら、その先の結末が覆ることなど有り得ないのである。
完全に自棄になったレミリアは身体を完全にパチュリーに投げた。細くて、低反発な感触が彼女を包む。
愛用の棺桶はこれとは比べ物にならないくらいふかふかしているが、筋張った硬い感触が彼女を落ち着かせる。
おまけに親友が髪を優しく梳いてまでくれている。彼女の胸の内を蕩けるような安堵と幸福が埋め尽くしていた。
言葉が途切れる。広大な図書館の中だというのに、今そこに響くのは二人分の吐息と僅かな衣擦れの音だけ。
遠く微かに、ゴーンという鐘の音が聞こえた。日に一度の鐘の音、零時を報せる音。
それが合図であったかのように、レミリアを温い睡魔が包む。不吉なものを見たせいか、寝た気がしていなかったのだ。
だからか、何処からかやって来た睡魔にも抵抗らしい抵抗を見せなかった。
瞼がしょぼつく。すぐ近くのパチュリーの声が、遠くなってきていた。
「ねぇ、レミィ。レミィが私と出掛ける未来を見たってことは、私もここに入り浸る訳にはいけないという事よね?」
「そうよぉ……。パチェは私と、色んな所を回るんだから……」
「まぁ、確かに。喘息が一向に良くならないのも、引きこもっているのが原因なんでしょうね。認めたくはないけれども」
「だからぁ、体力つけるの……。私と一緒に頑張るんだからぁ……」
「そうね、レミィ。頑張って色んな場所を回りましょう? 地図を片手に、お手製のお弁当も用意してね」
「お弁当、作るぅ……」
もはや見た目相応の反応しか返せなくなった。霞む視界の端で、自分を見下ろすパチュリーがいた。
そこに浮かんでいた表情は、レミリアの嫌う聖母に似たそれ――慈愛そのもの。
「十年か、百年か、千年か、万年か。貴方との付き合いが続けられる限り、私は貴方と有り続ける。今度こそ約束を守りましょう。それと――」
ぎゅうと、レミリアからすれば弱過ぎて、パチュリーからすれば精一杯の力で抱き締められる。
匂いが強まる。古書に塗れてなお変わらぬ香りがレミリアの脳を揺らし、朦朧とした意識がカウントダウンを始める。
そのほんの僅かな間に、告げられた。親友の言葉は、確かに彼女に届いた。
「レミィ、忘れないで。貴方が疎むここは、貴方の館の内だということ。ここにいる限り、私は常に貴方の腕に抱かれているも同然だという事を……」
微睡の淵に指一本で留まっていたレミリアは、朧げな言葉を耳にしたのを最後に睡魔へと身を委ねた。
次の目覚め、レミリアの夢見が素晴らしいものであったことは言うまでもない。
「お、レミリアじゃないか。おそようございます」
「私にとっては今が朝だよ、夜更かしの人間」
その途中で、夜も遅くというのに堂々と人の館内を歩き回るコソ泥、もとい魔法使い――霧雨魔理沙を見付けた。
魔理沙はレミリアの素っ気ない言い方に気を悪くした様子もなく話し掛けてくる。
「お前が咲夜を連れてないなんて珍しいな。喧嘩でもしたかい?」
「そんな四六時中連れ回すはずがないでしょ。散歩よ、散歩」
「ほほう、散歩か。いいよな、お前の家は。散歩ができるだけの広さがある」
しかし、と一拍を置いて魔理沙は言う。
「お前の行き先は図書館と見える。散歩ってのは目的を持たずに歩き回ること。目的地のあるお前のそれは移動と言うぜ」
要らぬ茶々を入れてくる魔理沙に、レミリアの紅く縦長の瞳がじろりと向く。
夢見の所為で、今は殊更に気分が悪い。次の言葉次第では、咲夜の掃除箇所が増えるやもしれない。
「何故、私の行き先が図書館だと言い切れる?」
「そりゃあ、お前がそんな深刻そうな顔をしてる時に頼る所っていえばあそこだからなぁ」
正確にはそこの主だが、と碌に知りもしない癖に知ったような事を言う。そしてそれが図星であるからこそ、レミリアは見逃す。
ここで逆上して黙らせるのは三下のすること。一流の悪魔は寛容さも持ち合わせるものだ。
「……ふん、私は忙しい。お前と話す時間さえも惜しいんだ。だから、さっさと失せなさい」
「へいへい、そうさせてもらいますぜ。これ以上の夜更かしは私の玉のお肌にも悪いしな」
「相変わらず人間って奴は脆いのねぇ。少し寝ないくらいで肌荒れなんて」
「それならお前も陽の光を浴びてみろよ。きっとスッキリするぜ」
「あぁ、この身体が灰になるくらいにねぇ」
さっさと帰るように魔理沙の尻を軽く蹴飛ばし、レミリアはその場を去った。
と、目的地へと向かう道の角で小さな、それこそ吸血鬼でもなければ聴こえないような声を耳にした。
「……ふぃーっ。やれやれ、死ぬかと思ったぜ」
なら挑発するような真似をするなと口に出さずに呆れ、後れを取り戻すべくレミリアは足を速める。
魔理沙が背負っていた荷物の中身には、終ぞ気付かなかった。
それくらい、この時の彼女は冷静さを欠いていたのだ。
# # #
言ってしまうのも何であるが、特段、レミリアが急ぐ必要はなかった。
足を持たない図書館が動く筈もなく、また目的の人物もそこに根を生やしたように動かない無精者だからである。
目的地の図書館はいつだって薄暗く黴臭い所ではあるが、夜も深いその時間帯は一層の静寂を湛えている。
コツッコツッと、軽い足音を響かせながら無数の書架の間をレミリアは行く。
普段、何物をも見下ろすべき存在の自分が、夥しいまでの無機物たちに見下ろされるのは、不快を通り越して不気味にすら感じる。
無駄と分かりながら視線をやれど、本たちは黙するばかり。その癖に嫌になるくらい存在感を放っている。レミリアの頭に数の暴力という言葉が過ぎる。
ほんの微かな怯えが胸の内に湧く。らしくない感情が、彼女の足をまた少し早めさせた。
物言わぬ本たちの迷路を抜けた先で、ようやく件の人物を見付ける。
レミリアの目に入ったのはマホガニー製の品の良い机の上に出来上がった歪な本の塔たち。
そして、大図書館の主にして百年を生きる魔法使いにしてレミリアの親友――パチュリー・ノーレッジはそれらのすぐ傍で眠っていた。
彼女お気に入りのロッキングチェアに、膝の上の本と共に抱かれて。
あまりにも静かな寝息に、レミリアの形ばかりで不動なはずの心臓が僅かに跳ねた。
レミリアの鋭敏な聴覚は、親友の発するか細い吐息も、心音も捉えているはずなのに。
ほんの一瞬、目の前の彼女が夢の中で見た姿に重なって――。
「……ッ! パチェ。パチェ、起きなさい。こんな所で寝ては身体に障るわ」
思考を払うように二、三度首を振り、寝ている親友に申し訳ないと思いつつ、レミリアは細い肩を揺すった。
その手付きは彼女を知る者が見れば信じられない程に優しく、まるで硝子細工でも扱うよう。
やがてレースのカーテンが持ち上げるように、ゆったりと軽やかな瞼が開いていく。
「んっ……レミィ? どうしたの、また読み聞かせでもして欲しいの? 構わないけど、それでもこの哲学書はさすがに朗読には向いてないと思う」
寝起きから惚けた事を言う。そんな彼女の様子に、あからさまにホッとした吐息をレミリアは口から零した。
「読み聞かせはいらないよ。何を読んでたの?」
「ピエール=シモン・ラプラスの『確率の解析的理論』」
「あぁ、タイトルだけで読み聞かせてもらう気力が失せていくよ」
「レミィには必要ない本よ。運命という真理そのものに手を掛ける貴方にとっては小難しい癖に当たり前の事が並べられたマニュアルも同然の内容だから」
「……ふぅん」
運命、という言葉にレミリアは思わず肩を揺らした。
眠たげな瞳をした親友に気付かれなかったか。彼女は鈍臭いようで思考は切れる。
レミリアは気のない返事をしたが、誤魔化しきれたか。
「で、読み聞かせでもなければ要件は? わざわざ私を起こす程のことなんでしょう?」
「あ、あー、そうだ。ここに来る前に白黒を見たよ。またぞろやられてるんじゃない?」
「……あぁ、そのようね。積んでた本が寝る前よりもいくらか少ない気がする」
「目の前で堂々とやられたのかい。白黒の肝が太いのか、パチェが鈍感なのか」
「門番がだらしないのよ。まったく、うちのネコは寝るばかりで碌に働きやしないんだから」
「頭の黒い鼠、ってアレはまんまか。今度は本と一緒にホウ酸団子でも用意してあげなさいよ」
「万が一、掛かった場合の処分は?」
「巫女にでも引き取らせればいいさ。渋れば咲夜が何とかするだろうし」
「咲夜もよくこんな主人に仕えてられるわ。……ねぇ、そろそろ本題を話してくれてもいいんじゃない?」
少しでもゆとりを取り戻す為のレミリア・ジョークであったが、長年の友の反応はつれないものであった。
紅魔館からもゆとりを尊重する風潮が薄れつつあることを心の内で嘆きながら――レミリアは後ろに控えていたパチュリーの使い魔に退出を命じた。
主人以外の指図に困惑する使い魔だったが、館の主の命令が聞けないのかと問うと、泣きそうな顔で一礼して足早に出て行った。
遠くでパタンと扉の閉まる音が聞こえた。使い魔の主人であるパチュリーは当然、不満を口にする。
「ちょっと、レミィ。あれのマスターは私のはずなんだけど?」
「こういう所で威厳ってのは見せるものなのよ。それに少しの間だけ出て行ってもらうだけ」
「威厳とは言わない。横暴と言うのよ、まったく。……咲夜にも?」
「あれは私が呼ばない限りは勝手に出てこないよ」
「……本当にあの子は人間かしらね。メイドにしておくのが惜しいわ」
「メイドで十分さ。時間を操る程度のことが限界の人間だもの」
「それもそうね。何せそのメイドがいなければ、私たちは紅茶の一杯も淹れられない」
「あっ」
慌てて指を一鳴らしすると咲夜は音もなく現れ、二人分の紅茶を用意した後、スッと綺麗に一礼をして消えた。また掃除にでも戻ったのだろう。
「……」
「……」
何とも締まらない雰囲気が広大な図書館に、二人の間に流れる。別に今さら沈黙を苦にするような間柄ではないのだが。
パチュリーと対面の位置にある椅子にドッカと座したレミリアは、その微妙な空気も併せて飲み下すように紅茶を一口啜った。
いくら相手が親友とはいえ、気を引き締める必要はある。今はまさにその時。そう、レミリアは真剣なのだ。
ムンッと表情に力を込めたついでに意を決した彼女は、夢の中で見てきたことを告白する。
「パチェ。……あのね、今日、貴方の運命が見えたの」
「へえ、運命ってそう簡単に見えるものじゃないんじゃなかったの?」
「うん。確定した未来しか映らない。そして、それは夢を介して知らせられるの」
「それが今夜、遂に見えたと。……いいわ、私の運命を教える為に来たんでしょう? 聞かせて頂戴」
パチュリーは眠たげな瞳の中に隠し切れない好奇心を輝かせてレミリアに先を促した。
自分の運命を知るということは、それだけ大きなことだ。常人であろうとその後の将来の為に働きかけを行うくらいには。
ましてや彼女は魔法使い。魔法を扱う者に必要とされるのは本人の資質による所も大きいが、同じく大部分を占めるのは「運」という最も不確定な要素である。
もし運命などという因果の収束点に僅かでも触れられれば、彼女の魔導に途轍もないアドバンテージを齎(もたら)すことは間違いない。
パチュリーが知りたがるのは当然のこと。レミリアはそんな生粋の魔法使いである親友を誇りに思う。
それと同時に、親友のどうしようもなく魔法使いな部分を好きになれないでいる自分も自覚していた。
だから、
「パチェ、パチェはね――自分の運命を自覚してからは、とても健康的な魔法使いを目指すわ!」
「レミィ」
「喘息になるのは埃っぽい図書館の環境が悪い、体力が無いから辛い思いをするんだって真理に辿り着いてから貴方は変わるの。今までの出無精っぷりなんて何処へ行ったのかってくらいに! 安楽椅子から腰を上げた貴方は生き生きしてた! 真っ白だったお肌にも赤味が増してたし、ご飯も今より食べるようになった! それで、フィールドワークだから手伝いなさいって私を連れ出して、幻想郷中のあちこちを一緒に回るの!」
「レミィ」
「最初は湖の周辺とかなんだけど、どんどん広い範囲を回るようになるわ。神社でしょう? 人里でしょう? 魔法の森、妖怪の山、冥界、天界、無縁塚――幻想郷を余す所なく私たちは行くの。それも飛んでばかりじゃない、自分達たちの足でこの郷を踏破するの! 楽しいでしょうね。いいえ、楽しいに決まってるわ。だって、私とパチェの二人で回るんですもの! 今からでも準備を始めよう。咲夜にコンパスや望遠鏡を揃えさせなきゃ。私たちはそれを片手に歩き回って幻想郷中の地図を作るんだから。あぁ、それとお弁当だろう? なんなら二人で作るというのも悪くない。私たちは揃って日陰者だから日傘も忘れずにして行こう。くくっ、今から楽しみでならない、私の冷血も熱くなるというものよ。そうして幻想郷中を余す所なく回った暁には、私たちの友情はより深いものに――!」
「レミィ」
「……何よ。言っておくけど、嘘じゃないわよ」
ぼかした言葉ばかりが機関銃じみた勢いで口から出てしまう。
バツが悪そうに口を尖らせるレミリアに苦笑を一つ。パチュリーはいつもの落ち着いた口調で的確な言葉を放ってくる。
「分かってる。レミィは嘘は言ってない。でも、肝心な部分を話そうともしていない。違う?」
「……肝心な部分って何さ」
「まぁ、運命なんて聞かされたら想像しない訳にはいかないわね。例えば、自分の最期とか」
「……パチェみたいな勘の良い魔法使いは嫌い」
心にも思ってない言葉がつい口を衝いて出てくる。勿論そんな筈がないから、レミリアは拗ねたフリまでする。
彼女の親友がその程度のことを察せない筈がない。小さく、木枯らしのような擦れた吐息が図書館の空気に混じる。
ところで、パチュリー愛用のロッキングチェアは座る者を全体で包み込むように大きい。彼女の痩躯など容易く沈めてしまうのである。
だから、パチュリーが少し深く腰掛けると、そこにはスペースが生まれてしまう。
それはちょうど、少女一人分が座る程度には十分な広さでもある。
「……」
「……」
無表情を装おう二人の視線が交わる。
片や真紅、片や紫紺の瞳。そこに敵意などは勿論無い。むしろ逆ベクトルのものが宿っていると言っていい。
羞恥心と悪戯心。その感情がそれぞれどちらのものか、あえて口にする必要もないだろう。
瞳は時に、口よりも雄弁にものを語るのである。
レミリアが堅い椅子から腰を上げる。そわそわと落ち着きなく両の手を遊ばせながら二本の足を大人しくパチュリーのもとへ。
こくりと軽く喉を鳴らし、スカートが皺にならないように注意して座る。何処へと問われれば勿論、パチュリーの股座の間に。
そのまま肉付きの薄い身体に凭(もた)れ掛かると、これまた柳のように細い腕が身体の前に回される。
まるで子どもが大人にしてもらうような体勢。誰かに見られたようものなら、レミリアのカリスマは世界恐慌も真っ青な下落ぶりを見せることだろう。
しかし今、この図書館には二人きりである。メイドや使い魔、門番も悪魔の妹だって居やしない。
ならば存分に表向きはぶっきら棒な親友に甘え、心を落ち着けていればいい。
パチュリーの胸の動きに合わせるようにゆっくりと呼吸する。
古臭い本たちの背表紙を眺めるが、前(さき)に味わったような重圧はもはや感じない。
本たちは主の前では従順な犬と化していた。その主に今、レミリアは抱かれている。
徐に口を開く。中はいつの間にかカラカラになっていた。
「……パチェ、貴方の最期はね?」
「うん」
「ここ、図書館のこの椅子に座ってね? 今よりもっと増えた本に囲まれて、誰にも気付かれず、眠るように、貴方は逝くの」
「あら」
身を切るような思いで告げた真実に対して、親友からの反応はいささか軽い。
「死に場所が図書館の安楽椅子の上だなんて、私にしてはお洒落じゃない」
「洒落じゃないよ」
「洒落が利いてるとは思うわ」
「洒落になってないんだよ」
なんて軽口がお互いの口から出るくらいに。
レミリアは本当はパチュリーに最期なんて伝えるつもりはなかった。何故なら、どんなに先のことであろうが親友の死に様を語るなんて悲しいからだ。
それなのにパチュリーはあっけらかんとしていて、レミリアの心配なんてこれっぽっちも気にした風もない。だから悔しい気持ちが湧いてくるのだ。
二人の間での温度差は余りに大き過ぎた。
それが二人の意識を遮る隔たりのように思えて、レミリアは堪らない不快感を覚える。
身体の弱い親友の前で声を荒げることは避けていたが、どうしても癇癪を抑えきれそうにない。
元から我慢の利く性分でもないのだ。自分の想いを背後の朴念仁に伝えるには、怒声を浴びせるくらいがちょうどいいのかもしれない。
だから、レミリアは叫ぶ。今を生きる親友に向けるのは間違っているだろう、唯一の不満を。
「ねぇ、どうして? どうしてここなの! こんなカビ臭くて陰気な場所で、それも一人で死ぬなんて信じられない!
私はパチェの為なら何だってしてあげる! パチェが望めば相応の場所だって用意してあげるのに! 何だってこんな……もっと、良い死に場所だってあるでしょう!?」
テーブルの上、飲み干して空になったティーカップが揺れる程の声量であった。積み上げられた本だって何冊かは紅色の絨毯に受け止められた。
しかし、聞き慣れた大声に動じるパチュリーではなかった。返し刀で問い掛けてくる。
「例えば?」
「え?」
「レミィの思う、もっと良い死に場所って、例えばどんな所?」
「た、例えば、うー、その……」
レミリアはもじっと居心地悪そうに身を捩り、首を上にして逆さのパチュリーに問うた。
「……笑わない?」
「笑わない」
無表情・無感動・無愛想の三面を有する親友を信じて、レミリアは答える。
「……私の、腕の中、とか」
「ぷっ」
「わ、笑った! いま笑ったわね!?」
「ご、ごめんなさい、レミィ。あんまりにも貴方が可愛くてつい……」
「ついって何よ! もう、もうっ! パチェの馬鹿ッ!」
約束を五秒も持たずに破られるとはさすがのレミリアも思わなかった。滅多に笑わない癖に何が彼女のツボに入ったのか。
悪魔との約束は重いのだ。それを反故にするなんて、どんな罰を与えてくれよう――と思ったが、特に思い浮かばなかったので膨れるだけにしておいた。
くくっ、と喉を鳴らすように笑うパチュリーがご機嫌取りに頭を撫でてくるが、そう簡単に機嫌を直してやるつもりはない。
「どうも機嫌が悪いと思ったら……そう、私の最期を図書館に取られるのが悔しかったのね」
「誰が悔しいか! 自惚れが過ぎるわよ、パチェ!」
「はいはい、そういうことにしておきましょう」
「本当に違うんだってばー……」
歳の差は四百近いというのに、どうしてか勝てる気のしないレミリアであった。
情けない声を漏らす親友に見えない角度でパチュリーは小さく笑みを浮かべる。
「そうね。私もレミィに看取ってもらえないのは残念よ」
「だったら……」
「でも、ごめんなさい、レミィ。私はきっと貴方の教えてくれた運命の通り、誰かの腕の中でなく、一人この揺り椅子の上で逝くでしょう」
「どうして?」
ポツリと零す。短く、しかしたっぷりと不満の込められた言葉には、ただ問いだけが返ってくる。
「レミィ。貴方と私が最初に契約した時の言葉を覚えてる?」
「……勿論」
「誓約の言葉も?」
「当然だ。私は言った。『貴方は私を導く頭脳たれ』って」
「そう。そして貴方はこうも言ったわね。『代わりに私は貴方に無限の知識を与えよう』と」
「無限の知識……あっ」
途端、レミリアの顔が曇る。
「ということは何? パチェがこんな陰気な場所に閉じ籠ってるのは……」
「そういうこと。レミィ、あの時から貴方が私をここに縛り付けているのよ」
レミリアは頭を抱える。
まさか親友の引き籠り癖に自分が一枚噛んでいたとは思いもしなかったからだ。
「くそっ、昔の私め、何て余計なことを……!」
「と言っても、そこまで強いギアスを掛けられた訳でもないから、私もそれなりに動き回れるんだけど」
「――ッ! それならやっぱり図書館じゃなくてもいいじゃない!!」
一転、二転する言葉にレミリアの堪忍袋が悲鳴を上げる。
それでも憎らしい程に動じないのが彼女の親友である。そうでもなければ、レミリアの親友などという間柄は務まらない。
「言ったでしょう、貴方が私を縛り付けてるって。ノーレッジの姓に相応しい知識を与えたのも、まだ若輩魔法使いだった私を買ったのも、全てレミィのしたこと」
「……」
「貴方は自分のしたことを甘く見過ぎている。魔法使いという奴は存外に義理堅く、そして執念深い生き物なのよ」
身を固めるレミリアの頭にパチュリーの形の良い顎が乗せられる。
「私はレミィのスカスカな頭を埋める大事な頭脳なんだから。死ぬ寸前まで頭に知識を溜め込んでないとダメじゃない?」
「……スカスカは余計。おまけに何て恩着せがましい言い方よ」
「気のせい気のせい。レミィには恩しか感じてないもの」
抜かせと呟く。頭の上で顎をかくかくさせるパチュリーに、レミリアは嫌そうに身を捩ると離れていった。
いそいそ帽子を直し、「まだ私は怒っているんだぞ」という体を継続させる。
見抜かれていると分かっても、貫かねばならない矜持が吸血鬼にはあるのだ。
「パチェの言い分は分かった。私の為だと言うならこちらも強くは言わない。……でもね、死ぬ時は一人ってのがどうしても許せないわ」
「そればっかりは納得してもらうしかないわね」
「ふん、納得させてみなさいよ」
軽い挑発を混ぜて言ってみると、パチュリーにしては珍しい苦い笑いが口元に浮かんでいた。
「それがパチュリー・ノーレッジという魔法使いに相応しい死に様だから……って言って納得してくれる?」
「……訳分かんない」
魔法使いには孤独死こそがお似合いだと言外にパチュリー語る。
レミリアはこれだから魔法使いという奴が好きになれない。
時にはレミリア以上に自分勝手で、レミリアがどんなに思っても思い通りに働いてくれない。
これ以上のイレギュラーな存在は、どこぞの理不尽巫女以外に彼女は知らない。
「今は分かってもらわなくてもいいわ」
「わっ」
パチュリーの細腕がレミリアを抱き抱えたかと思えば、くうるりと身体の向きを変えられていた。ひ弱な見た目に反して意外と力はあるのか、それともレミリアが軽すぎるだけか。
凭れ掛かる姿勢から抱き留められるような姿勢に変えられ、レミリアの色白の肌に赤味が増す。
本当に今さらと分かっていても、この気恥ずかしさを誤魔化す以外の選択肢が思い浮かばなかった。
「……絶対、ぜーったいに納得なんてしないんだからね!」
「そう。でも、私は納得してくれるって信じてるわ。何たってレミィの見た運命の話だからねぇ」
「くそぅ……」
そう、今までの話の発端はレミリアの見た運命。彼女がそうだと口にしたのなら、その先の結末が覆ることなど有り得ないのである。
完全に自棄になったレミリアは身体を完全にパチュリーに投げた。細くて、低反発な感触が彼女を包む。
愛用の棺桶はこれとは比べ物にならないくらいふかふかしているが、筋張った硬い感触が彼女を落ち着かせる。
おまけに親友が髪を優しく梳いてまでくれている。彼女の胸の内を蕩けるような安堵と幸福が埋め尽くしていた。
言葉が途切れる。広大な図書館の中だというのに、今そこに響くのは二人分の吐息と僅かな衣擦れの音だけ。
遠く微かに、ゴーンという鐘の音が聞こえた。日に一度の鐘の音、零時を報せる音。
それが合図であったかのように、レミリアを温い睡魔が包む。不吉なものを見たせいか、寝た気がしていなかったのだ。
だからか、何処からかやって来た睡魔にも抵抗らしい抵抗を見せなかった。
瞼がしょぼつく。すぐ近くのパチュリーの声が、遠くなってきていた。
「ねぇ、レミィ。レミィが私と出掛ける未来を見たってことは、私もここに入り浸る訳にはいけないという事よね?」
「そうよぉ……。パチェは私と、色んな所を回るんだから……」
「まぁ、確かに。喘息が一向に良くならないのも、引きこもっているのが原因なんでしょうね。認めたくはないけれども」
「だからぁ、体力つけるの……。私と一緒に頑張るんだからぁ……」
「そうね、レミィ。頑張って色んな場所を回りましょう? 地図を片手に、お手製のお弁当も用意してね」
「お弁当、作るぅ……」
もはや見た目相応の反応しか返せなくなった。霞む視界の端で、自分を見下ろすパチュリーがいた。
そこに浮かんでいた表情は、レミリアの嫌う聖母に似たそれ――慈愛そのもの。
「十年か、百年か、千年か、万年か。貴方との付き合いが続けられる限り、私は貴方と有り続ける。今度こそ約束を守りましょう。それと――」
ぎゅうと、レミリアからすれば弱過ぎて、パチュリーからすれば精一杯の力で抱き締められる。
匂いが強まる。古書に塗れてなお変わらぬ香りがレミリアの脳を揺らし、朦朧とした意識がカウントダウンを始める。
そのほんの僅かな間に、告げられた。親友の言葉は、確かに彼女に届いた。
「レミィ、忘れないで。貴方が疎むここは、貴方の館の内だということ。ここにいる限り、私は常に貴方の腕に抱かれているも同然だという事を……」
微睡の淵に指一本で留まっていたレミリアは、朧げな言葉を耳にしたのを最後に睡魔へと身を委ねた。
次の目覚め、レミリアの夢見が素晴らしいものであったことは言うまでもない。
最後の台詞も凄く良かったです。自分でもこの二人を書いてみたくなるような素敵な話でした。
ただ、ルビを振らなくても読めそうな漢字(凭れるなど)にルビがあり、あまり漢字にはされているのを見ない単語(これは私だけかもしれませんが、黴など)が漢字にされていて、読んでいて躓く場面が多くあり、正直読み辛かったです。
ついでに誤字報告を。
幻想郷中が→幻想教授になっています。(レミリアが矢継ぎ早に語る場面)
面白かったです。
ううむ、このssは危険でしたね。危うく魔女に魂を売り渡すところでした
親友っていいなぁ!
素直になれないレミリア可愛いのう…
いいものを読ませていただきました。
レミパチェ可愛い。
本当にごちそうさまでした。
>3
書いてて思ったのですが、どうやら自分は親友という関係が好きみたいです。最後の台詞は私もお気に入りだったり。
>5
誤字報告、ご意見ありがとうございます。もう少し読みやすい文章を頑張ってみます。
>6
ありがとうございます。
>7
親友良いですよね。さぁ、魔女に魂を売り渡すのです……。
>9
全然気付きませんでした。ありがとうございます。
>10
おやすみなさい。良い夢を。
>11
これでもかなり素直になってる方だったり。親友の前ですからね。
>14
カリスマ、ブレイクしてますかねーw 可愛いレミリアを目指したらこうなっちゃいました。
>17
言葉にせずとも伝わる関係。抱き合っていれば、いずれ想いも通じるでしょう。
親友というものの在り方を改めて考えさせられる作品でした。
こういう関係はやっぱり良いな、と憧れるばかりです。
全体的に華奢で線の細い印象を受ける物語です。