被らないようにしなくてはならない。
私はずらりとケーキが並ぶショーケースを前に考えていた。無難にショートケーキにしようか、財布の中身を考慮してシュークリームにしようか、それとも季節限定のモンブランにしようか。昨日の夜から始めたダイエットのこともいやらしく脳裏をよぎって私の判断を狂わせた。
困り果ててしまってちらりと隣に目をやると、メリーは澄ました顔で同じショーケースを眺めていた。そのメリーの後ろには、若いイマドキといった風の男女のカップルが一組、仲良くこの後のデートの日程のことを相談しながら、前が進むのを待っている。早く決めなければ、私が決めないと誰も先に進めない。
メリーはずるい。いつも店に入るときに先陣を切るのは私だ。街を歩くときは肩を並べてそこいらの一般的な大学生のように、昨日の笑えたバラエティー番組のことだとか、つまらない大学の講義だとか、そんな下らない会話をしているのに。いざ店に入ろうとすると、メリーは自動ドアの直前でぴたりと止まって、私に前を譲る。最初は不思議に思ったけれど、わざわざ口に出して指摘するのも憚られることだったから言えずにいた。そう繰り返すうちいつのまにか店に先に入るのは私と相場が決まってしまっていて、いつも私の後ろを譲らない。
心の中でメリーに対する愚痴をこぼしながら、私はやっとのことでアメリカンチョコレートケーキを選んで皿に乗せた。ぼろ、と少しケーキが崩れた。メリーは、半歩進んだ私がいたスペースに素早く身を移すと、私のこんな苦悩なんて露も知らない顔で、さっと苺のミルフィーユを選んで同じように皿に載せ、私を怪訝そうに見た。
「前空いてるわよ」
そう言って、くい、と細い顎でレジの方を指し示す。両手が塞がってるからと言ってそれはあんまりだ、なんていう言葉が頭を過ぎったけれど、口には出さなかった。別にメリーが傷つくとかじゃない。単に後ろのカップルが二組に増えていて、四つの視線が私に突き刺さったからなんだ。
もうメリーと出会って結構な時間が経つというのに、私は彼女に言えないことばかりが増えていた。泣きそうな気分になりながら、それでも隠して、私は財布から千円札を二枚取り出し、張り付いたような愛想笑いを浮かべるバイトらしき店員に渡した。
「二人合わせて」視界の端にメリーの金髪が揺れる。
接客マニュアル通りの言葉と共に、そいつはたん、とレジスターを打つ。今日は、私が奢るという約束であった。これでもだいぶ見栄を張っている。
私が奢る日だからという理由ではないだろうが、メリーはなんだか上機嫌のようだった。昼下がりの眠たげな空気が漂う店内はわりとすいていて、私が先に窓際の二人掛けのテーブルを陣取って荷物を下ろすと、「蓮子のケーキも美味しそうね」などと、まだトレーも置かないうちに私に笑顔を向けてきた。
「メリーのも美味しそうよ」
アメリカンチョコレートケーキの表面にフォークを突き立てながら、私は極力自然な風に答えた。メリーに目をやると、彼女はミルフィーユの真ん中をフォークで丁寧に切っていた。ミルフィーユの薄い生地が乾いた美味しそうな音を立てて崩れていく。ぼんやりとその光景を眺めていると、なんだかメリーはミルフィーユみたいだ、なんて変な考えが浮かんでくる。たぶん同じ金色をしているから、それがいけなかったんだ。口の中のとにかく甘いケーキの味は、あまり頭に入ってこなかった。
「はんぶんこしましょ」
メリーは突然そう言って、丁寧に切った二つのうち、形の綺麗な方を二本のフォークで丁寧に私の皿に乗せた。甘いケーキが口の中で唾液と混ざってぐしゃりと汚い音を立てる。突然のことにうまく喋れなかったけれど、とにかくフォークを口から引き抜いて、私も急いでケーキを半分にしようとしたのがいけなかった。チョコレートはぽろぽろとこぼれてうまく運べない。ひどく惨めな気持ちになりながら、何とか集めた塊をメリーの皿に移して、ちらりと表情を窺った。その一瞬視線が合って、彼女は笑っていた。
「ありがと」チョコレートの切れ端をぱくり。「思った通り」
メリーの口元が自然と緩むのを確認して、私は心の中で胸を撫で下ろした。ジャスミンティーで口の中を一旦潤してから、交換した苺のミルフィーユの欠片を口に入れ、フォークが舌をなぞったその瞬間、そういえば私が口をつけたフォークを使って切り分けてしまったことに気付いた。顔がかっと熱くなるのを感じた。
「どうしたの?」身体が跳ねる。
「え、い、いや……」
こちらを覗く瞳から逃げるように、フォークを引き抜く。ミルフィーユは甘いけれど、べたべたに甘いわけではなくて、さくっとして、ふわっとして、苺がしっかり甘酸っぱかった。味を意識すると、たぶんこちらを見ているであろう瞳をそれほど意識しないでいられた。
しばらく取り乱したことを言い訳するうまい口実が思いつかなくて、そのうちに完全にタイミングを逃した気まずい空気の中、店内にはお洒落なクラシックがかかっていたり、周りの時折主張するような笑い声もあったはずだけれど、私たちの周りに限ってはフォークと皿が触れる無機質な音だけが響いていた。出来るだけゆっくり食べていたつもりだったけど、流石に最後の一欠片を飲み込んで黙っているわけにもいかなくて、甘さと焦りで乾いた口を再びジャスミンで潤した。
カップ越しに見るメリーは、不思議そうな顔をしていた。その表情は批判でも同情でもなかった。彼女はもうケーキを平らげてしまっていて、フォークを丁寧に紙ナプキンの上に乗せていた。
「……。それでね、今日の活動なんだけど」
私は、先程のことは忘れたように平然とした口振りで話を切り出した。それだけで全てを理解したようにメリーはすっ、と身体をやや前傾姿勢にして、耳にかかった髪をさっと掻きあげた。色っぽい仕草だな、と思った。
「ここから電車で数駅くらい行ったところに、なんでも夜な夜な女のすすり泣きが聞こえるって噂のある、空き家があるらしいのよ」
「またあのブログからでしょ? 私も見たわ」
「やっぱり?」
顔を見なくてもメリーの僅かに語尾を上げる言葉の調子で、彼女が笑っていることがわかった。
あのブログというのはオカルトマニアな好事家が個人で立ち上げている小さなサイトのことで、怪しい場所とあらば写真に収め記事にしてある。書いてあることは誇張された根も葉もない噂話ならば良い方で、中には全くの出鱈目だったりする場合もあって私たちを度々がっかりさせる。それでも私たちはその安っぽいオカルトが好きだった。
メリーはすぐには返事をしないで、もっと大事な何かを値踏みしているように私には思えた。彼女を直視することができなくて、我慢できずにガラス越しに寂しくなった街路樹の方に目を向けた。そういえばもうすぐこの街も白く染まるんだな。もう何年もこの街で暮らしているはずなのに、これまでのことを思い出そうとしても、ぼんやりと靄がかかってしまっているかのように鮮明に何があった、何の成果が得られたなんてことが頭の中に入って来なくて、寂しく思えた。私はいったい、今まで何をしてきたんだろう。
「ま、私たちらしいんじゃない?」
そう言ってメリーは、仕方ないわねという風に笑った。その笑顔はやっぱり、私のこういった苦悩とか躊躇いとかを分かっている風とは思えなくて、ある意味安心すると同時に胸の奥がきりきり痛むのを感じた。
目的地には電車とバスを乗り継いで、陽が傾いて世界が急に暗くなった頃に着くことができた。そこは写真で見た通り、気味が悪い雑草がぼうぼうに生い茂っていて、壁が見えないくらいに蔦性の植物で覆われていた。
「お化け屋敷みたい」
ぽつりとメリーが呟いたけれど、私もなるほどその通りだなと思った。若いカップルがお化け屋敷でそうするように、ぶるっと身震いをして「やっぱりやめましょうよ」なんて言ったり、そっと身を寄せてきて私の体の影に隠れるなんてことは残念ながらなかった。ただそう呟いたきり、ぼうっと館の二階を見上げていた。
問題の物件の辺りには、古い民家が荒れた土地の間にぽつりぽつりと建っている。そしてそのどれもから生気を感じることが出来なかった。
直感的に、これはハズレを引いたと感じた。人がいなくなっても取り壊されなかった家が、そのまま建っているだけに過ぎなかった。第一、こんなところをわざわざ薄気味がって噂話を広げる住民なんていないのだから。顔も知らないあのブログの管理人の、意地悪な笑い声が聞こえてくるようだった。
「……どうする?」
ざっと建物の周りを一周してから元の場所に戻って、先に口を開いたのはメリーの方からだった。周りには私たち以外の人はいない。耳を澄ませても、何も聞こえてこない。
不意に、本当に急に、昔観た映画の一シーンが思い出された。その映画の中では、世界に絶望したふたりが逃げ込んだ廃屋で、男は女を殺して自らも命を絶った。細部はよく思い出せなかったけれど、迸る血の紅さと、相手を想う愛しさで満ちた女の表情が、殺されるその刹那だけ醜く恐怖で歪んだのを覚えている。どくんと身体が震えた。私はメリーを殺す気なんてまったく無いはずなのに、何故か彼女の命が私に懸かっているような、そんな妙な優越感に私は浸った。
「行ってみましょう」
もしかしたら取り返しのつかないことになってしまうかもしれないのに、私の口から冷たい言葉が漏れた。メリーは、う、と小さな声を上げて私に怯えているらしかった。その姿が、今はとても可愛らしく感じた。私は身を竦ませている彼女の手を出来るだけ優しく取ると、安心させるように笑った。
「大丈夫よ、ちょっとだけ」
そんな、心に思っていない言葉を平気でつくだなんて。私は私で自分を侮辱しながら、ぐいぐいとメリーの手を引っ張って歪んだ玄関の扉を引いた。嫌な音をして、けれども見た目の古さに反して割とすんなりと扉は開いてしまった。
中はめちゃくちゃに荒れていた。中身のない家財道具が打ち捨てられていて、私たちが一歩踏み出す度に床はきいきい軋んだ。薄く積もった埃が私たちの歩いたあとをしっかり残しているのが、ガラスのない枠だけの窓から入ってきている月の光で見えた。奥には二階へと続く階段がある。メリーは中に入ってしまうと案外大人しく、その澄んだ瞳を辺りに走らせていた。私は何だか裏切られたような気がして、そっと繋いでいた手を離してまるで夢遊病者ごとくふらふらと部屋の真ん中に躍り出て深呼吸をしたけれど、土臭く埃っぽい空気が肺の中を満たしただけだった。
「……二階に行ってみない?」
振り返って、「やっぱり帰りましょう」という言葉が私の口から出るより早く、彼女は階段を見詰めていた。何が乗り気でなかった彼女を突き動かすのかがわからなくて、返事を出来ないでいると、今度は彼女の方から手を握ってきた。
「大丈夫」
何が大丈夫なのか。私は人形のように意思を持たずに階段を上ってしまったあとで、そんなことを考えた。
二階も一階と同じように、朽ちた箪笥だとか、脚が折れて転がっている椅子だとかがあるばかりでひどく荒れていて、ほとんどものは置かれていなかった。メリーは埃を被ったベッドの上に土足で登って、そこから外を見ているらしかった。どうせ真っ暗で何も見えないのに、彼女はずっと一点を見据えて固まっていた。仕方がないから私も真似をしてベッドに土足で登ってみたけれど、思った通り、月明かりに照らされた殺風景な風景と、遠くで車が時折走り去る光しか見ることができなかった。それでもメリーは何かに憑かれたようにずっと外を眺め続けていた。
私はなんだか疲れてしまって、壁に凭れ掛かって室内に目を戻した。そのとき足元で黒い小さな何かが動いたような気がして驚いて飛びのくと、身体がメリーに触れた。メリーはいつの間にか此方を見ていた。透き通った瞳の奥で、小さな私が揺れた。
私はずらりとケーキが並ぶショーケースを前に考えていた。無難にショートケーキにしようか、財布の中身を考慮してシュークリームにしようか、それとも季節限定のモンブランにしようか。昨日の夜から始めたダイエットのこともいやらしく脳裏をよぎって私の判断を狂わせた。
困り果ててしまってちらりと隣に目をやると、メリーは澄ました顔で同じショーケースを眺めていた。そのメリーの後ろには、若いイマドキといった風の男女のカップルが一組、仲良くこの後のデートの日程のことを相談しながら、前が進むのを待っている。早く決めなければ、私が決めないと誰も先に進めない。
メリーはずるい。いつも店に入るときに先陣を切るのは私だ。街を歩くときは肩を並べてそこいらの一般的な大学生のように、昨日の笑えたバラエティー番組のことだとか、つまらない大学の講義だとか、そんな下らない会話をしているのに。いざ店に入ろうとすると、メリーは自動ドアの直前でぴたりと止まって、私に前を譲る。最初は不思議に思ったけれど、わざわざ口に出して指摘するのも憚られることだったから言えずにいた。そう繰り返すうちいつのまにか店に先に入るのは私と相場が決まってしまっていて、いつも私の後ろを譲らない。
心の中でメリーに対する愚痴をこぼしながら、私はやっとのことでアメリカンチョコレートケーキを選んで皿に乗せた。ぼろ、と少しケーキが崩れた。メリーは、半歩進んだ私がいたスペースに素早く身を移すと、私のこんな苦悩なんて露も知らない顔で、さっと苺のミルフィーユを選んで同じように皿に載せ、私を怪訝そうに見た。
「前空いてるわよ」
そう言って、くい、と細い顎でレジの方を指し示す。両手が塞がってるからと言ってそれはあんまりだ、なんていう言葉が頭を過ぎったけれど、口には出さなかった。別にメリーが傷つくとかじゃない。単に後ろのカップルが二組に増えていて、四つの視線が私に突き刺さったからなんだ。
もうメリーと出会って結構な時間が経つというのに、私は彼女に言えないことばかりが増えていた。泣きそうな気分になりながら、それでも隠して、私は財布から千円札を二枚取り出し、張り付いたような愛想笑いを浮かべるバイトらしき店員に渡した。
「二人合わせて」視界の端にメリーの金髪が揺れる。
接客マニュアル通りの言葉と共に、そいつはたん、とレジスターを打つ。今日は、私が奢るという約束であった。これでもだいぶ見栄を張っている。
私が奢る日だからという理由ではないだろうが、メリーはなんだか上機嫌のようだった。昼下がりの眠たげな空気が漂う店内はわりとすいていて、私が先に窓際の二人掛けのテーブルを陣取って荷物を下ろすと、「蓮子のケーキも美味しそうね」などと、まだトレーも置かないうちに私に笑顔を向けてきた。
「メリーのも美味しそうよ」
アメリカンチョコレートケーキの表面にフォークを突き立てながら、私は極力自然な風に答えた。メリーに目をやると、彼女はミルフィーユの真ん中をフォークで丁寧に切っていた。ミルフィーユの薄い生地が乾いた美味しそうな音を立てて崩れていく。ぼんやりとその光景を眺めていると、なんだかメリーはミルフィーユみたいだ、なんて変な考えが浮かんでくる。たぶん同じ金色をしているから、それがいけなかったんだ。口の中のとにかく甘いケーキの味は、あまり頭に入ってこなかった。
「はんぶんこしましょ」
メリーは突然そう言って、丁寧に切った二つのうち、形の綺麗な方を二本のフォークで丁寧に私の皿に乗せた。甘いケーキが口の中で唾液と混ざってぐしゃりと汚い音を立てる。突然のことにうまく喋れなかったけれど、とにかくフォークを口から引き抜いて、私も急いでケーキを半分にしようとしたのがいけなかった。チョコレートはぽろぽろとこぼれてうまく運べない。ひどく惨めな気持ちになりながら、何とか集めた塊をメリーの皿に移して、ちらりと表情を窺った。その一瞬視線が合って、彼女は笑っていた。
「ありがと」チョコレートの切れ端をぱくり。「思った通り」
メリーの口元が自然と緩むのを確認して、私は心の中で胸を撫で下ろした。ジャスミンティーで口の中を一旦潤してから、交換した苺のミルフィーユの欠片を口に入れ、フォークが舌をなぞったその瞬間、そういえば私が口をつけたフォークを使って切り分けてしまったことに気付いた。顔がかっと熱くなるのを感じた。
「どうしたの?」身体が跳ねる。
「え、い、いや……」
こちらを覗く瞳から逃げるように、フォークを引き抜く。ミルフィーユは甘いけれど、べたべたに甘いわけではなくて、さくっとして、ふわっとして、苺がしっかり甘酸っぱかった。味を意識すると、たぶんこちらを見ているであろう瞳をそれほど意識しないでいられた。
しばらく取り乱したことを言い訳するうまい口実が思いつかなくて、そのうちに完全にタイミングを逃した気まずい空気の中、店内にはお洒落なクラシックがかかっていたり、周りの時折主張するような笑い声もあったはずだけれど、私たちの周りに限ってはフォークと皿が触れる無機質な音だけが響いていた。出来るだけゆっくり食べていたつもりだったけど、流石に最後の一欠片を飲み込んで黙っているわけにもいかなくて、甘さと焦りで乾いた口を再びジャスミンで潤した。
カップ越しに見るメリーは、不思議そうな顔をしていた。その表情は批判でも同情でもなかった。彼女はもうケーキを平らげてしまっていて、フォークを丁寧に紙ナプキンの上に乗せていた。
「……。それでね、今日の活動なんだけど」
私は、先程のことは忘れたように平然とした口振りで話を切り出した。それだけで全てを理解したようにメリーはすっ、と身体をやや前傾姿勢にして、耳にかかった髪をさっと掻きあげた。色っぽい仕草だな、と思った。
「ここから電車で数駅くらい行ったところに、なんでも夜な夜な女のすすり泣きが聞こえるって噂のある、空き家があるらしいのよ」
「またあのブログからでしょ? 私も見たわ」
「やっぱり?」
顔を見なくてもメリーの僅かに語尾を上げる言葉の調子で、彼女が笑っていることがわかった。
あのブログというのはオカルトマニアな好事家が個人で立ち上げている小さなサイトのことで、怪しい場所とあらば写真に収め記事にしてある。書いてあることは誇張された根も葉もない噂話ならば良い方で、中には全くの出鱈目だったりする場合もあって私たちを度々がっかりさせる。それでも私たちはその安っぽいオカルトが好きだった。
メリーはすぐには返事をしないで、もっと大事な何かを値踏みしているように私には思えた。彼女を直視することができなくて、我慢できずにガラス越しに寂しくなった街路樹の方に目を向けた。そういえばもうすぐこの街も白く染まるんだな。もう何年もこの街で暮らしているはずなのに、これまでのことを思い出そうとしても、ぼんやりと靄がかかってしまっているかのように鮮明に何があった、何の成果が得られたなんてことが頭の中に入って来なくて、寂しく思えた。私はいったい、今まで何をしてきたんだろう。
「ま、私たちらしいんじゃない?」
そう言ってメリーは、仕方ないわねという風に笑った。その笑顔はやっぱり、私のこういった苦悩とか躊躇いとかを分かっている風とは思えなくて、ある意味安心すると同時に胸の奥がきりきり痛むのを感じた。
目的地には電車とバスを乗り継いで、陽が傾いて世界が急に暗くなった頃に着くことができた。そこは写真で見た通り、気味が悪い雑草がぼうぼうに生い茂っていて、壁が見えないくらいに蔦性の植物で覆われていた。
「お化け屋敷みたい」
ぽつりとメリーが呟いたけれど、私もなるほどその通りだなと思った。若いカップルがお化け屋敷でそうするように、ぶるっと身震いをして「やっぱりやめましょうよ」なんて言ったり、そっと身を寄せてきて私の体の影に隠れるなんてことは残念ながらなかった。ただそう呟いたきり、ぼうっと館の二階を見上げていた。
問題の物件の辺りには、古い民家が荒れた土地の間にぽつりぽつりと建っている。そしてそのどれもから生気を感じることが出来なかった。
直感的に、これはハズレを引いたと感じた。人がいなくなっても取り壊されなかった家が、そのまま建っているだけに過ぎなかった。第一、こんなところをわざわざ薄気味がって噂話を広げる住民なんていないのだから。顔も知らないあのブログの管理人の、意地悪な笑い声が聞こえてくるようだった。
「……どうする?」
ざっと建物の周りを一周してから元の場所に戻って、先に口を開いたのはメリーの方からだった。周りには私たち以外の人はいない。耳を澄ませても、何も聞こえてこない。
不意に、本当に急に、昔観た映画の一シーンが思い出された。その映画の中では、世界に絶望したふたりが逃げ込んだ廃屋で、男は女を殺して自らも命を絶った。細部はよく思い出せなかったけれど、迸る血の紅さと、相手を想う愛しさで満ちた女の表情が、殺されるその刹那だけ醜く恐怖で歪んだのを覚えている。どくんと身体が震えた。私はメリーを殺す気なんてまったく無いはずなのに、何故か彼女の命が私に懸かっているような、そんな妙な優越感に私は浸った。
「行ってみましょう」
もしかしたら取り返しのつかないことになってしまうかもしれないのに、私の口から冷たい言葉が漏れた。メリーは、う、と小さな声を上げて私に怯えているらしかった。その姿が、今はとても可愛らしく感じた。私は身を竦ませている彼女の手を出来るだけ優しく取ると、安心させるように笑った。
「大丈夫よ、ちょっとだけ」
そんな、心に思っていない言葉を平気でつくだなんて。私は私で自分を侮辱しながら、ぐいぐいとメリーの手を引っ張って歪んだ玄関の扉を引いた。嫌な音をして、けれども見た目の古さに反して割とすんなりと扉は開いてしまった。
中はめちゃくちゃに荒れていた。中身のない家財道具が打ち捨てられていて、私たちが一歩踏み出す度に床はきいきい軋んだ。薄く積もった埃が私たちの歩いたあとをしっかり残しているのが、ガラスのない枠だけの窓から入ってきている月の光で見えた。奥には二階へと続く階段がある。メリーは中に入ってしまうと案外大人しく、その澄んだ瞳を辺りに走らせていた。私は何だか裏切られたような気がして、そっと繋いでいた手を離してまるで夢遊病者ごとくふらふらと部屋の真ん中に躍り出て深呼吸をしたけれど、土臭く埃っぽい空気が肺の中を満たしただけだった。
「……二階に行ってみない?」
振り返って、「やっぱり帰りましょう」という言葉が私の口から出るより早く、彼女は階段を見詰めていた。何が乗り気でなかった彼女を突き動かすのかがわからなくて、返事を出来ないでいると、今度は彼女の方から手を握ってきた。
「大丈夫」
何が大丈夫なのか。私は人形のように意思を持たずに階段を上ってしまったあとで、そんなことを考えた。
二階も一階と同じように、朽ちた箪笥だとか、脚が折れて転がっている椅子だとかがあるばかりでひどく荒れていて、ほとんどものは置かれていなかった。メリーは埃を被ったベッドの上に土足で登って、そこから外を見ているらしかった。どうせ真っ暗で何も見えないのに、彼女はずっと一点を見据えて固まっていた。仕方がないから私も真似をしてベッドに土足で登ってみたけれど、思った通り、月明かりに照らされた殺風景な風景と、遠くで車が時折走り去る光しか見ることができなかった。それでもメリーは何かに憑かれたようにずっと外を眺め続けていた。
私はなんだか疲れてしまって、壁に凭れ掛かって室内に目を戻した。そのとき足元で黒い小さな何かが動いたような気がして驚いて飛びのくと、身体がメリーに触れた。メリーはいつの間にか此方を見ていた。透き通った瞳の奥で、小さな私が揺れた。
が、少々パンチに欠けるお話だったかもしれません。
(「嫌な音をして」と「夢遊病者ごとく」がちょっとだけ気にはなりましたが。
ふわっとした終わり方でいいと思います!
映画のワンシーンは本当に蓮子の記憶にあるものなのかね
蓮子の妄想かもしれないと考えてしまう
不意に触れたあなたの身体、透き通った瞳に囚われた私。
つまりこの後二人は…
続きが気になります!
かわいくてちょっとヘタレな蓮子をありがとうございました。