――素晴らしい。貴方のおかげで私は報われた。
先程から、ずっとこうである。とある異変において敗走した妖怪、鬼人正邪が、逃げ帰った先で疲れを癒そうとしていると、とんでもない来客があった。
彼女が戻ってきたのは、複数確保してある隠れ家の一つだ。
なるほどレジスタンスと言うだけあり、活動拠点は様々な場所に敷かれているらしく、今回逃げ込んだのは、人里にある寂れた長屋の一室であった。
いかにもオバケが出ますよと言う風情の貧乏長屋だが、まさか本当に妖怪が部屋を借りているとは。
普段なら存在しない合言葉なり居留守なりで、最後には追い返すのが定番だが、今回の相手は一味違う――否、この者にしかできない方法で正邪の安息の地を犯したのである。
例え弾幕ルールと言えど、負け戦と言うのは何度やっても慣れない物だと、不貞腐れて酒を呷り、一眠りしている時の事だ。
隠れ家の、触れただけで砕け散ってしまいそうな戸を叩く音と同時に、ごめんください、と挨拶があった。
正邪が眠りについてから、一刻程しか経っていないのに加えて、夜更けも夜更けだ。
普通の人間は、こんなうらぶれた長屋の一室など、近づく事もあるまい。
浮浪者か、或いは迷い込んだ妖精か妖怪か。
あの巫女や魔女は針妙丸を連れて戻ったし、ナイフ女も仕事がある、とさっさと帰宅してしまったはずであった。
不機嫌さを隠そうともせずに正邪が「どなた?」と尋ねると、鬼人正邪さまですね、と返答があった。
正体が割れている事にも驚いたが、普通に考えて、邪鬼である天邪鬼の元を訪ねて来る者など、余程の訳有りか、さもなくば命をつけ狙う様な危険な輩しかいない。
正邪は来客を適当にあしらおうと、新聞はいらないよとだけ返して、薄い布団を被って寝たふりを決め込んだ。ぼろぼろの一枚戸にはつっかえ棒が立てかけてあり、開けられない様になっている。一応里の内部だし、戸を壊して、と言う手段に出る手合いは少なかろうと言う事か。
しかしそれにしても奇妙だ。視線を感じる。戸の『隙間』から覗かれてでもいるのか。気持ちの悪さと言ったら無い。
余りの居心地の悪さに、寝返りをうって正邪が戸の方に向き直ると、三和土(たたき)に――人の影。
「うおっ」
慌てて布団を跳ね除け立ち上がる正邪を見て、人影はくすくすと笑った。
閉まっている戸には指一本触れず、中に入ってきたのはただごとでは無いが、その姿を見て正邪は再び寝転がって布団をかぶった。
何の事は無い。戸の『隙間』から此方に入ってきたと言うだけの話だ。
――八雲、紫。
無理やり覚醒させた闘志をムダにした、と言わんばかりに、正邪は目を瞑ったまま言った。
「今何時だ?」
「草木も眠る、と言う奴ですわね」
懐中時計を取り出して時刻を確認した紫に、正邪はひらひらと手を振って、再びごろんと寝返りをうった。
「お休み」
「そう邪険にしないでくださいな。――ところで、今お暇かしら?」
「貧乏なんとやらでね」
「ちょっとだけだから、せめて五分」
「帰れ」
にべもなく斬って捨てると、紫は一瞬だけ寂しそうな表情を見せたが、すぐに立ち直り、
「とりあえずお酒でも」
そう言って酒瓶をどこかから取り出した。
ここでようやく正邪はのろのろと起き上がって、紫の前にどっかと腰を落ち着けた。
何しろ瑣末な隠れ家なので、机も座布団も無い。箪笥等は今にも朽ちてしまいそうな物で、辺りにはヒビの入った茶碗や徳利が転がっている。
だと言うのに、紫はあっさりと上がり框(かまち)に腰掛け――三和土と板間の『隙間』に身を落ち着けた。やはりそう言う場所が落ち着くらしい。チリやホコリ等で服が汚れてしまう事も厭わないのか。
しかし紫はその塵芥の中にあっても、まるで周囲に境界か何かを引いたかの様に、清浄さを保っていた。
正邪が紫から酒瓶をひったくる様にして取り上げ、そこらにある茶碗にどぼどぼと注いで一息に飲み干すと、一体何なんだよ、とこれも不機嫌に尋ねた。ルールの範囲内でやった事に文句でもあるのか、と言う事だろう。
紫の答えはと言えば、「お礼に来た」と謎の様な返答である。これには正邪も、
「はあ?」
と答えるしか無かった。
確かに下克上を――失敗したとは言え、秩序の崩壊に繋がる事を実行したはずだよな? と、正邪は考え込むような表情を作った。
しかしこのアイラブ幻想郷の賢者は、お礼に来たなどとおかしな事を言う。
理屈からすれば、この賢者が考える事は正邪の迅速な抹殺、と言うのが適当なはずだが、酒など持ち込んでお礼を述べる等、はっきり言って訳がわからない。
熟考の後、微笑む彼女に「何を企んでる」と正邪が質問してしまったのも、無理からぬ事だろう。
「あなたを労いに」
「隙間の覗きすぎで頭がおかしくなったのか?」
「失礼な娘。それでこそ天邪鬼なんだけど」
「そらそうよ。私は沢山の人妖が不快になる為に下克上を実行したのに、胡散臭い奴が気持ち悪い事を言ってくる。これが何かの陰謀で無くてなんだ」
紫は再び顔を伏せて「気持ち悪い……」とショックを受けた様に呟いた。
「こんな子供でも使いそうな悪口で落ち込むとは意外と繊細な奴だな。友達にならないか」
「いくら友人が増えると言っても、あなたの歪んだ快楽の為じゃ嬉しくありませんわね」
「そりゃありがたい。で、結局なんなんだ?」
そう言って、正邪は射殺す様な視線を紫に向けた。
実際の所は何をしに来たのか、と言う事だろう。紫は、先ほどと全く同じ、労いに来たと言う言葉を繰り返した。
そこが納得できないとばかりに、正邪は紫に「ウソを言え」と苛立ちを露にしたが、紫の微笑が崩れる事は無かった。それどころかウソをつくのはあなたでしょう、とやり返される。
大体、下克上を企んだと言う事は、力のある者に対する敵対行為だ。
それは当然、神や巫女、そして紫の様な力のある妖怪にも適用されるはずであった。
うっかり始末されない様に、スペルカードルールの範囲内でと言う保険をかけてはいたが、普通に考えてそれに対して礼を言いに来るなど、変だとしか言いようが無い。
そう抗議すると、
「何者かが異変を起こす。人はそれを恐れる。巫女が退治して解決。正しい流れですわ」
正邪は憤慨した。霧やら夜やら春やら、今までの訳のわからぬ事件と一緒にするな、と。
今回は弱者による幻想郷への明確な反逆行為であり、言うなればテロだ。
皆が皆、これには抗議の声を挙げるだろう。
「そう、それです」
「は?」
「貴女は天邪鬼ですわね?」
「眼が悪いの?」
正邪は老眼鏡をどこからか引っ張り出して紫に差し出したが、今度は紫もそれを黙殺し、正邪の目の前に隙間を開いて、その中に眼鏡を投げ捨てた。
次はお前を放り込む――紫の視線がそう言っている様に見える。
「ちぇっ、おっかねーの」
正邪は文句を言いながらも、渋々ながら居住まいを正して、謝罪の代わりとした。
ただし、紫は少し涙目になっていたので、そこはさすがに相手の嫌がる事をするプロであった。
「貴女は天邪鬼。皆の思っている事、考えている事とあえて違う道を進まなければ、生きていけない」
「それがどうした」
「素晴らしいわ――だからこそわかる事がある」
謳うような口調で紫は言った。
正邪も本格的に紫の台詞に恐怖を覚える。天邪鬼のやる事が「素晴らしい」と言う彼女の言葉にはウソが無い。否、それどころか――そう、心がこもっていた。
「あなたが今の幻想郷を引っくり返したいと考えている言う事は、逆に言えば、大勢の人妖が今の幻想郷に『満足』していると言う事。これが素晴らしくなくて他の何に素晴らしいと言えばいいのか、私にはとても言い表せません。私は正しかった――報われた」
ようやく正邪は紫の意図が掴めた様だった。
世の為・人の為・妖怪の為と信じて、幻想郷と言うエデンを作り出したのは良いが、彼女もそれが良かったのかどうか、不安に感じていたと言う事か。
「貴女が今の幻想郷をひっくり返そうと目論んでいる限りは、幻想郷は平和と言う事です。素晴らしいわ」
「……まさかあんたがそこまで大喜びしているとは予想外だったが、本当に下克上が成ったらどうするつもりだ?」
その言葉に紫は、博麗の巫女がいる以上、有り得ない仮定ですが――と前置きしてから、その美しい微笑を崩さずに、
「私がどうこうするまでも無く、貴女は幻想郷全ての神や妖怪からつけ狙われて、嬲り殺しの憂き目に合うでしょう」
と、普通の人妖なら顔を青くして震え上がる様な事実を平然と告げた。
「かもしれないな」
「いいえ。それ以前に下克上を行った『力無き者の方が強い』と言う状況に、皆が慣れ、当たり前だと思い始めたら、再びあなたは『力を持つ者の方が強い』の世の中を作ろうと尽力するのではなくて?」
「……かもしれないな」
皆の心理を量り、逆の事をする悪戯を――人の嫌がる事を進んでやる。
ひっくり返した世の中を再び己の手でひっくり返し、結局何も変わる事など無い。
もう少し、正邪があくどい妖怪だったり、別の要素が混じっていればそれは危険この上ないだろうが――彼女は純粋なまでに天邪鬼であった。
彼女の行っている事は『悪』かもしれないが、それは単に多くの人々が『善良』だからその『逆』をやっているのであって、彼女自身が悪党と言う訳ではなかろう。
他人の心を見計らって悪戯をしかけ、意に沿わぬ事を行う子鬼。転じて、他者の思想・言動を確認したうえで、あえてこれに逆らうような言動をするひねくれ者。これ即ち天邪鬼なり。
もしここが世紀末の様な、大多数の人々が悪党とされる世界だったら、正邪は正義の使者として活動しているかもしれない。
だが、当人は紫の話などどうでも良いとばかりに欠伸を連発していた。
「もう五分は経ったぞ」
「延長しましょうよ」
「私は商売女じゃない」
「そういう商売をした事がおありなの?」
「帰れ」
やや強い口調で正邪が言うと、んもう、と文句を言いながら紫は立ち上がった。
そして朽ちた戸の隙間を別の空間へと繋げ、
「幻想郷は私の理想の体現――そして皆それで良いと思っている。それが良くわかりました。とても嬉しいわ。ありがとう」
そう言って、何かを正邪に投げ渡した。
礼を言われ、ジンマシンでも出ているんじゃないかと言う勢いで体中を掻き毟っていた正邪は怪訝な表情で尋ねる。
「なんだこりゃ」
「私の力が少しだけ込められた物よ。これからもせいぜい、私達の嫌がる事をしないで頂戴ね。期待も――しないと言った方が良い?」
「その方が私はやる気が出てくるのは間違いないね。あんたらが『やるな』と言うやら、喜んでやってやるさ。近いうちにでもな」
「最低ね、素敵ですわ」
今度こそ、紫は隙間に身を投げ、そこには正邪と、紫の置き土産だけが残った。
「なんだったんだ、全く」
置き土産を観察してみると、それは短い棒状の物で、何やら小さな袋でまとめられている。
袋を外すと、布地がバサバサと広がり、持ち手を引っ張ってみると、それはシャキーンと伸びた。
「傘か」
幻想郷では余り見かけないが、折り畳み傘と言う奴だろうと、正邪はその正体を看破した。
あの隙間の力が少し込められていると言っていたが――。
傘を広げると、同様に、空間に裂け目が生じた。
さすがに多少驚いて、それを覗いて見ると、空間の裂け目に顔を突っ込んでいる自分が見える。
自分の顔は、自分の体の背後にあるらしい。思い切って潜り抜けてみると、本当に自分の背後の空間に出る事ができた。
つまりどこかに隙間を作って、短距離を移動できる様な代物であると言う事か。
「けっ、『嬉しい』『ありがとう』ってガキの感想文か。おかしな物を置いて行きやがって」
言葉とは裏腹に、正邪の顔には決して少女が浮かべてはならない様な、醜悪な笑みが浮かんでいた。
これを使えば――否、これと同じような『何かの力が込められた道具』を集めれば、付喪神や、弱小妖怪などの様な手駒なども必要無いのではないか?
ここは幻想郷だ。その手の曰くつきのアイテムなど、簡単に集まるだろう。
集まらなければ、己の流儀に従って手に入れるまでだ。
まだ、反逆は成る。どんな手を使おうが生き残った者の勝ちだ。そう確信して、正邪は疲れ果てた体の事も忘れ、次の作戦を練り始めた。
◆
自宅へと足を踏み入れた紫を、苦い表情の式が出迎えて開口一番に述べた。
「紫様、ありゃまたしでかしますよ」
「それが良いんじゃないの」
そう言いながら、紫は自室へと一直線に向かう。
天邪鬼が乱を望むという事は、多くの人々がそうは思っていないという証。
それに、ひっくり返った状況が安定すれば、また彼女はそれをひっくり返す――なんと小癪で不毛で面白い妖怪だろう。
紫は隙間妖怪らしからぬ、無邪気な笑みを絶やす事は無かった。
「しかし鬼の小槌まで用意して敗北するとはね……実はあいつの勝利が確定していたのに、自身の能力で知らない内に引っくり返されたとか」
影の様に付き従っている式の笑えない冗談に、
「かもしれないわ。だとすれば、何故敗北したか――そう、己が天邪鬼だと言う事に対して素直過ぎたのね」
紫はそれだけを言い残して床に入った。
その顔は未だかつて無い穏やかさと慈愛に満ちており、普段の胡散臭さなど、そこには毛ほども存在していない。
願わくば、いつまでも彼女が『今』の幻想郷に騒乱を望み続けられます様に――幻想郷が平穏でありますように。
先程から、ずっとこうである。とある異変において敗走した妖怪、鬼人正邪が、逃げ帰った先で疲れを癒そうとしていると、とんでもない来客があった。
彼女が戻ってきたのは、複数確保してある隠れ家の一つだ。
なるほどレジスタンスと言うだけあり、活動拠点は様々な場所に敷かれているらしく、今回逃げ込んだのは、人里にある寂れた長屋の一室であった。
いかにもオバケが出ますよと言う風情の貧乏長屋だが、まさか本当に妖怪が部屋を借りているとは。
普段なら存在しない合言葉なり居留守なりで、最後には追い返すのが定番だが、今回の相手は一味違う――否、この者にしかできない方法で正邪の安息の地を犯したのである。
例え弾幕ルールと言えど、負け戦と言うのは何度やっても慣れない物だと、不貞腐れて酒を呷り、一眠りしている時の事だ。
隠れ家の、触れただけで砕け散ってしまいそうな戸を叩く音と同時に、ごめんください、と挨拶があった。
正邪が眠りについてから、一刻程しか経っていないのに加えて、夜更けも夜更けだ。
普通の人間は、こんなうらぶれた長屋の一室など、近づく事もあるまい。
浮浪者か、或いは迷い込んだ妖精か妖怪か。
あの巫女や魔女は針妙丸を連れて戻ったし、ナイフ女も仕事がある、とさっさと帰宅してしまったはずであった。
不機嫌さを隠そうともせずに正邪が「どなた?」と尋ねると、鬼人正邪さまですね、と返答があった。
正体が割れている事にも驚いたが、普通に考えて、邪鬼である天邪鬼の元を訪ねて来る者など、余程の訳有りか、さもなくば命をつけ狙う様な危険な輩しかいない。
正邪は来客を適当にあしらおうと、新聞はいらないよとだけ返して、薄い布団を被って寝たふりを決め込んだ。ぼろぼろの一枚戸にはつっかえ棒が立てかけてあり、開けられない様になっている。一応里の内部だし、戸を壊して、と言う手段に出る手合いは少なかろうと言う事か。
しかしそれにしても奇妙だ。視線を感じる。戸の『隙間』から覗かれてでもいるのか。気持ちの悪さと言ったら無い。
余りの居心地の悪さに、寝返りをうって正邪が戸の方に向き直ると、三和土(たたき)に――人の影。
「うおっ」
慌てて布団を跳ね除け立ち上がる正邪を見て、人影はくすくすと笑った。
閉まっている戸には指一本触れず、中に入ってきたのはただごとでは無いが、その姿を見て正邪は再び寝転がって布団をかぶった。
何の事は無い。戸の『隙間』から此方に入ってきたと言うだけの話だ。
――八雲、紫。
無理やり覚醒させた闘志をムダにした、と言わんばかりに、正邪は目を瞑ったまま言った。
「今何時だ?」
「草木も眠る、と言う奴ですわね」
懐中時計を取り出して時刻を確認した紫に、正邪はひらひらと手を振って、再びごろんと寝返りをうった。
「お休み」
「そう邪険にしないでくださいな。――ところで、今お暇かしら?」
「貧乏なんとやらでね」
「ちょっとだけだから、せめて五分」
「帰れ」
にべもなく斬って捨てると、紫は一瞬だけ寂しそうな表情を見せたが、すぐに立ち直り、
「とりあえずお酒でも」
そう言って酒瓶をどこかから取り出した。
ここでようやく正邪はのろのろと起き上がって、紫の前にどっかと腰を落ち着けた。
何しろ瑣末な隠れ家なので、机も座布団も無い。箪笥等は今にも朽ちてしまいそうな物で、辺りにはヒビの入った茶碗や徳利が転がっている。
だと言うのに、紫はあっさりと上がり框(かまち)に腰掛け――三和土と板間の『隙間』に身を落ち着けた。やはりそう言う場所が落ち着くらしい。チリやホコリ等で服が汚れてしまう事も厭わないのか。
しかし紫はその塵芥の中にあっても、まるで周囲に境界か何かを引いたかの様に、清浄さを保っていた。
正邪が紫から酒瓶をひったくる様にして取り上げ、そこらにある茶碗にどぼどぼと注いで一息に飲み干すと、一体何なんだよ、とこれも不機嫌に尋ねた。ルールの範囲内でやった事に文句でもあるのか、と言う事だろう。
紫の答えはと言えば、「お礼に来た」と謎の様な返答である。これには正邪も、
「はあ?」
と答えるしか無かった。
確かに下克上を――失敗したとは言え、秩序の崩壊に繋がる事を実行したはずだよな? と、正邪は考え込むような表情を作った。
しかしこのアイラブ幻想郷の賢者は、お礼に来たなどとおかしな事を言う。
理屈からすれば、この賢者が考える事は正邪の迅速な抹殺、と言うのが適当なはずだが、酒など持ち込んでお礼を述べる等、はっきり言って訳がわからない。
熟考の後、微笑む彼女に「何を企んでる」と正邪が質問してしまったのも、無理からぬ事だろう。
「あなたを労いに」
「隙間の覗きすぎで頭がおかしくなったのか?」
「失礼な娘。それでこそ天邪鬼なんだけど」
「そらそうよ。私は沢山の人妖が不快になる為に下克上を実行したのに、胡散臭い奴が気持ち悪い事を言ってくる。これが何かの陰謀で無くてなんだ」
紫は再び顔を伏せて「気持ち悪い……」とショックを受けた様に呟いた。
「こんな子供でも使いそうな悪口で落ち込むとは意外と繊細な奴だな。友達にならないか」
「いくら友人が増えると言っても、あなたの歪んだ快楽の為じゃ嬉しくありませんわね」
「そりゃありがたい。で、結局なんなんだ?」
そう言って、正邪は射殺す様な視線を紫に向けた。
実際の所は何をしに来たのか、と言う事だろう。紫は、先ほどと全く同じ、労いに来たと言う言葉を繰り返した。
そこが納得できないとばかりに、正邪は紫に「ウソを言え」と苛立ちを露にしたが、紫の微笑が崩れる事は無かった。それどころかウソをつくのはあなたでしょう、とやり返される。
大体、下克上を企んだと言う事は、力のある者に対する敵対行為だ。
それは当然、神や巫女、そして紫の様な力のある妖怪にも適用されるはずであった。
うっかり始末されない様に、スペルカードルールの範囲内でと言う保険をかけてはいたが、普通に考えてそれに対して礼を言いに来るなど、変だとしか言いようが無い。
そう抗議すると、
「何者かが異変を起こす。人はそれを恐れる。巫女が退治して解決。正しい流れですわ」
正邪は憤慨した。霧やら夜やら春やら、今までの訳のわからぬ事件と一緒にするな、と。
今回は弱者による幻想郷への明確な反逆行為であり、言うなればテロだ。
皆が皆、これには抗議の声を挙げるだろう。
「そう、それです」
「は?」
「貴女は天邪鬼ですわね?」
「眼が悪いの?」
正邪は老眼鏡をどこからか引っ張り出して紫に差し出したが、今度は紫もそれを黙殺し、正邪の目の前に隙間を開いて、その中に眼鏡を投げ捨てた。
次はお前を放り込む――紫の視線がそう言っている様に見える。
「ちぇっ、おっかねーの」
正邪は文句を言いながらも、渋々ながら居住まいを正して、謝罪の代わりとした。
ただし、紫は少し涙目になっていたので、そこはさすがに相手の嫌がる事をするプロであった。
「貴女は天邪鬼。皆の思っている事、考えている事とあえて違う道を進まなければ、生きていけない」
「それがどうした」
「素晴らしいわ――だからこそわかる事がある」
謳うような口調で紫は言った。
正邪も本格的に紫の台詞に恐怖を覚える。天邪鬼のやる事が「素晴らしい」と言う彼女の言葉にはウソが無い。否、それどころか――そう、心がこもっていた。
「あなたが今の幻想郷を引っくり返したいと考えている言う事は、逆に言えば、大勢の人妖が今の幻想郷に『満足』していると言う事。これが素晴らしくなくて他の何に素晴らしいと言えばいいのか、私にはとても言い表せません。私は正しかった――報われた」
ようやく正邪は紫の意図が掴めた様だった。
世の為・人の為・妖怪の為と信じて、幻想郷と言うエデンを作り出したのは良いが、彼女もそれが良かったのかどうか、不安に感じていたと言う事か。
「貴女が今の幻想郷をひっくり返そうと目論んでいる限りは、幻想郷は平和と言う事です。素晴らしいわ」
「……まさかあんたがそこまで大喜びしているとは予想外だったが、本当に下克上が成ったらどうするつもりだ?」
その言葉に紫は、博麗の巫女がいる以上、有り得ない仮定ですが――と前置きしてから、その美しい微笑を崩さずに、
「私がどうこうするまでも無く、貴女は幻想郷全ての神や妖怪からつけ狙われて、嬲り殺しの憂き目に合うでしょう」
と、普通の人妖なら顔を青くして震え上がる様な事実を平然と告げた。
「かもしれないな」
「いいえ。それ以前に下克上を行った『力無き者の方が強い』と言う状況に、皆が慣れ、当たり前だと思い始めたら、再びあなたは『力を持つ者の方が強い』の世の中を作ろうと尽力するのではなくて?」
「……かもしれないな」
皆の心理を量り、逆の事をする悪戯を――人の嫌がる事を進んでやる。
ひっくり返した世の中を再び己の手でひっくり返し、結局何も変わる事など無い。
もう少し、正邪があくどい妖怪だったり、別の要素が混じっていればそれは危険この上ないだろうが――彼女は純粋なまでに天邪鬼であった。
彼女の行っている事は『悪』かもしれないが、それは単に多くの人々が『善良』だからその『逆』をやっているのであって、彼女自身が悪党と言う訳ではなかろう。
他人の心を見計らって悪戯をしかけ、意に沿わぬ事を行う子鬼。転じて、他者の思想・言動を確認したうえで、あえてこれに逆らうような言動をするひねくれ者。これ即ち天邪鬼なり。
もしここが世紀末の様な、大多数の人々が悪党とされる世界だったら、正邪は正義の使者として活動しているかもしれない。
だが、当人は紫の話などどうでも良いとばかりに欠伸を連発していた。
「もう五分は経ったぞ」
「延長しましょうよ」
「私は商売女じゃない」
「そういう商売をした事がおありなの?」
「帰れ」
やや強い口調で正邪が言うと、んもう、と文句を言いながら紫は立ち上がった。
そして朽ちた戸の隙間を別の空間へと繋げ、
「幻想郷は私の理想の体現――そして皆それで良いと思っている。それが良くわかりました。とても嬉しいわ。ありがとう」
そう言って、何かを正邪に投げ渡した。
礼を言われ、ジンマシンでも出ているんじゃないかと言う勢いで体中を掻き毟っていた正邪は怪訝な表情で尋ねる。
「なんだこりゃ」
「私の力が少しだけ込められた物よ。これからもせいぜい、私達の嫌がる事をしないで頂戴ね。期待も――しないと言った方が良い?」
「その方が私はやる気が出てくるのは間違いないね。あんたらが『やるな』と言うやら、喜んでやってやるさ。近いうちにでもな」
「最低ね、素敵ですわ」
今度こそ、紫は隙間に身を投げ、そこには正邪と、紫の置き土産だけが残った。
「なんだったんだ、全く」
置き土産を観察してみると、それは短い棒状の物で、何やら小さな袋でまとめられている。
袋を外すと、布地がバサバサと広がり、持ち手を引っ張ってみると、それはシャキーンと伸びた。
「傘か」
幻想郷では余り見かけないが、折り畳み傘と言う奴だろうと、正邪はその正体を看破した。
あの隙間の力が少し込められていると言っていたが――。
傘を広げると、同様に、空間に裂け目が生じた。
さすがに多少驚いて、それを覗いて見ると、空間の裂け目に顔を突っ込んでいる自分が見える。
自分の顔は、自分の体の背後にあるらしい。思い切って潜り抜けてみると、本当に自分の背後の空間に出る事ができた。
つまりどこかに隙間を作って、短距離を移動できる様な代物であると言う事か。
「けっ、『嬉しい』『ありがとう』ってガキの感想文か。おかしな物を置いて行きやがって」
言葉とは裏腹に、正邪の顔には決して少女が浮かべてはならない様な、醜悪な笑みが浮かんでいた。
これを使えば――否、これと同じような『何かの力が込められた道具』を集めれば、付喪神や、弱小妖怪などの様な手駒なども必要無いのではないか?
ここは幻想郷だ。その手の曰くつきのアイテムなど、簡単に集まるだろう。
集まらなければ、己の流儀に従って手に入れるまでだ。
まだ、反逆は成る。どんな手を使おうが生き残った者の勝ちだ。そう確信して、正邪は疲れ果てた体の事も忘れ、次の作戦を練り始めた。
◆
自宅へと足を踏み入れた紫を、苦い表情の式が出迎えて開口一番に述べた。
「紫様、ありゃまたしでかしますよ」
「それが良いんじゃないの」
そう言いながら、紫は自室へと一直線に向かう。
天邪鬼が乱を望むという事は、多くの人々がそうは思っていないという証。
それに、ひっくり返った状況が安定すれば、また彼女はそれをひっくり返す――なんと小癪で不毛で面白い妖怪だろう。
紫は隙間妖怪らしからぬ、無邪気な笑みを絶やす事は無かった。
「しかし鬼の小槌まで用意して敗北するとはね……実はあいつの勝利が確定していたのに、自身の能力で知らない内に引っくり返されたとか」
影の様に付き従っている式の笑えない冗談に、
「かもしれないわ。だとすれば、何故敗北したか――そう、己が天邪鬼だと言う事に対して素直過ぎたのね」
紫はそれだけを言い残して床に入った。
その顔は未だかつて無い穏やかさと慈愛に満ちており、普段の胡散臭さなど、そこには毛ほども存在していない。
願わくば、いつまでも彼女が『今』の幻想郷に騒乱を望み続けられます様に――幻想郷が平穏でありますように。
そんな事より地味にゆかりんが可愛いんですがそれは
はてさて、弾幕アマノジャクではいったいどうなることやら…
一箇所、「博霊の巫女」になっている部分がありました。