年が明けて、幻想郷の地上は雪で覆われる。
しかし、その例に染まらない場所がある。その場所は地底ーーー根の国。
忌み嫌われて地上から追われた者達がひっそりと隠れ住む世界。
だが、旧都と呼ばれる場所では、ドンチャン騒ぎが行われ、年明けに餅を撒いている鬼や
それを頂戴しにくるモノ達で賑わう。
その地下と地上を結ぶ洞窟の近くに、橋がかかっている。
昔は火車が盗んだ死体を運んだり、裁かれた者達が、地獄へと通じる地霊殿へ行く為に
獄卒に手を縄で繋がれて、行列でやってきたりと賑やかだったと言う。
今は人里から用事聞きや配達に来る者達が通る以外は行き来の無い所となっている。
普段は何も無いが、この橋を渡る時には、どんな良い事があっても、絶対に口笛や鼻歌はしてはならないと言う、
掟のようなものが存在する。
それを無視する者は、この橋に住む女怪に攫われてしまう、と言われている。
彼女は緑色の目をしていると言う事以外、詳しい事は伝わっていない。
そんなある日の事。
とある男が配達の帰りにその橋を通りがかった。
動く死体と間違えられて火車猫に攫われそうになったり、茶屋で一休みしている時に
何者かに団子をひと串盗み食いされたりとあまりいい事は無かったが。
「明日の仕事に地底行きは勘弁してほしいなあ…外の世界でこき使われていた頃と変わらねえじゃんよ」
ぶつくさと呟きながら彼は外界で店員をやっていた頃と変わってない事を嘆いていた。
「まあ、こっちに引きずり込まれちまった以上、さっさと銭貯めて帰らんとな」
と、気分を変えて顔を上げる、と、橋のたもとにさっきまでは誰もいなかったはずなのに、異国風の衣装を纏い、
目深にフードを被った者が竪琴を持って歌っている。
『勤勉に暮らすことは止めて 怠けたまえ
酒場に差し掛かったら 立ち寄るがいい
罪の中で卑しい物は犯すでない どうせ犯すなら最も高貴な罪を選ぶがいい』
声の感じからすると、女性らしいが、顔は隠れて見えない。
男はなんとなくその歌に聴き入る。
『その罪は値をつけるには高すぎて
最初から最後まで 君にとっては美味なもの』
歌の意味は解らないが、なんとなくその歌の内容は、自分に向けられているように彼は感じた。
『その罪は若者(きみ)が後悔して 止せば良かったと言う物ではない…』
そこで弦の響きが止む。
橋の欄干に寄りかかって歌を聴いていた男は、顔を上げる、と、そこには先ほどの異国の者が唇の端を吊り上げて立っている。
目は覆い隠されているのでその表情を完全に読むことは出来ない。
彼が戸惑っていると、異国の者は口を開く。
「別に金子は取らないわ、私の歌を気に入ってくれたようね?」
静かに響くその声は、心なしか昏い。しかし、男はそれに気づかずに答えた。
「あ、ああ、何か説明できないけど、素通り出来ない感じがあって…」
その言葉に、異国人はまた唇の端を吊り上げる。
「…それは、貴方が何かの為に享楽を犠牲にしているから。あなたは心の底では自由になれない身を嘆いて、
自由に生きられる者達が妬ましいのよ…」
彼は否定しようとした、が、それは無理だった。異国人の言葉の通り、その心の奥には自分達外来人をこき使い、
自分自身は何の被害も無く暮らす里人への嫉妬があったからだ。
異国人は続ける。
「気晴らししたいなら、私の歌を気に入ってくれた礼に、ちょいと一杯引っ掛ける位は付き合うわ」
男が迷っていると、
「取って食うわけでもないし、いい所よ。いらっしゃいな」
押し切られるような形で、彼は異国人に付いていく事になった。
案内されて橋のそばの階段を降りて行くと、そこには古びた、日干し煉瓦で出来た館がある。
地震国の日本でこの造りの建物が存在していることに、男は素直に驚いた。しかし異国人は当然のように言う。
「地底とは言え、ここは幻想郷よ。蜃気楼も本物になる所。あなたもここに住んでいるなら解るでしょ?」
彼女の言葉に男は頷くが、それでもあちこちに生えたコケや決して乾いた環境でもない川岸にそれがあると言う事実は
やはり彼の時系列には存在しない。
「だからこそ幻想郷は幻想郷として在るのよ」
異国人は振り向かずに男の心を見透かしたように言う。
彼はその言葉よりも彼女自身に違和感を覚えた、が、彼女が門を開けて手招きをすると、それを忘れたように入っていった。
通された居間は年代者と思われるタペストリーが掛かっている以外は、酒棚といくつかの観葉植物が置いてある程度だった。
異国人はそこでフードを脱ぎ、顔を露わにする。
透き通るような草原を思わせる緑の髪とファンタジーを思わせる尖った耳。しかし、目は閉じたままだ。
「自己紹介がまだだったわね。私の名はパルスィ・マイヤノルンム」
そう言って、彼女は目を閉じているとは思えない正確さで酒棚から瓶を何本か取り出してテーブルに置いて行く。
「…あんた、目を閉じてるけど、見えるのかい?」
男の問いに、パルスィは目を閉じたままで答えた。
「目に見えないものが見えるくらいには見えてるわ。尤も、私の目は普通の人には危険だから閉じているだけなんだけどね」
「地上もそうだが、地底にも色々といるんだなあ」
彼の呟きに、彼女は言う。
「人は地上と空しか見ない。ゆえに光の中で見えないものは解らないのよ。だから影や地の底、闇の中の危険には気づかない」
パルスィは話しながらグラスに半分ほど、透明な液体を注いで、ポットと一緒に男へ勧める。
「このポットは?」
その問いに、彼女は慌てる風も無く、
「水よ。この酒はアラックと言う酒でね。大体は水で割って飲むのよ。生のままで飲んでもいいけど、アル中は避けられないわね」
男はそれを聞いて、グラスを顔に近づける。と、癖の有る匂いと共に、アルコールの刺激が鼻を蹂躙した。
涙目で鼻を押さえながら、彼はポットの水を注ぐとグラスの中の液体が僅かに白く濁る。
「面白いでしょう?昔ながらのアラックは水で割ると白く濁るのよ。日本の酒には無い癖よ」
彼は恐る恐るその濁った液体を口に流し込む。が、水で割っても相当なアルコール度だ。
「ウォッカの方が良かったかしらね?癖の強さはじきに慣れるわ」
男はそれを聞いて「どっちも危険だ」と言って一旦グラスを置く。元々酒に強くないのもあるが、
強いて言えば焼酎の乙類の癖に似ている。男にとっては悪酔いする為に苦手な酒なのだ。
「焼酎よりもきついな…」
その呟きにパルスィは口の端を吊り上げて言う。
「焼酎は元々アラビアの出自よ。シルクロードを通って日本に伝わったんだから当たり前ね。でも、日本の焼酎と違うところは
連続蒸留をしない事よ。私の酒はみんな単式蒸留だから、貴方の世界で言うところの甲類は無いわ」
男は頭をくらくらさせながらその話を聞く。しかし彼女の言っている事はあまり理解できない。
そんな様子を静かに、目を閉じたまま口元に笑みを浮かべて、パルスィは別のグラスに何かを注いで勧める。
「酔い覚ましにいかが?お酒ではないわ」
グラスには月の光のような輝きを放つ液体が満ちている。
「…これは?」
男が訊くと、パルスィは「飲んでのお楽しみ」とはぐらかした。
彼が迷っていると、彼女は楽しそうに訊く。
「迷っているようなら、私がいただくけれど?」
その言葉に男はグラスを取り、中身をひと口含む。
癖も香りも無いが、水のように抵抗無く飲めて、ほのかに苦味の有る不思議な味。
「これは…何だろう?」
パルスィの口元が邪につり上がる。
「それは、貴方の命」
男は自分の耳を疑う。いま、命と言った?それを飲ませる事に意味はあるのか?
「貴方が自分で飲む分には影響は無い。味は貴方の通ってきた道のり自体。甘かった?それとも?どちらにしても
あの明るい希望に満ちた色は…妬ましいわね。ひと口だけでもいただきたかったわ」
男が恐る恐る訊いた。
「あんたが飲んでいたら、どうなったんだ?」
「…大体は解るくせに訊いてくるのが妬ましいわ。ひと口で十年分貴方の命は短くなる。私が全て飲んでいたら、お察しね」
目の前の彼女の目は閉じたままだが、纏う雰囲気は般若のそれに等しい。
男の一挙手一挙動を妬む様な執念深さに満ちている。
彼の混乱をよそに、次にパルスィは真っ赤な、濁ったワインのような液体を注いで彼に勧める。
「飲んでのお楽しみなのは変わらないけれど、状況を把握できてないのが幸せそうで妬ましいわね」
そう言って目を閉じたまま笑う彼女の危険さに気づき、男はグラスの液体を飲み干した。
僅かな塩味と、ほのかな錆びた様な鉄の香り。
「いい飲みっぷりね…妬ましいほどに」
それでも穏やかな笑顔の彼女に、男は訊いた。
「この飲み物は、何なんだ?」
くく、と喉の奥でかすかに笑い、パルスィは種明かしをする。
「貴方の血に決まっているでしょう。解っていて質問するなんて本当に貴方は妬ましいわ愛おしいほどに」
男は自分が囚われたことに気が付いた。
逃げようとしても扉にたどり着く前に簡単に捕まるだろう。
目の前の女怪は彼の全てを妬ましく思い、それを恐怖する様を楽しみながらそれを喜ぶことにまた妬んでいる。
しかし、なぜ自分が?
彼女との面識は無いし、今までの地底行きでも会った事はなかったはずなのに。
彼の混乱をよそに、俯いているパルスィの肩が小刻みに震えている。
男には解っていた、彼女は笑っているのだと。楽しくて妬ましくて仕方が無いのだと。
その顔がゆっくりと上がっていく。
彼の頭に危険の警告が鳴り響く、が…その瞬間、閉じていたパルスィの目が開いた。
その瞳はヒビの無いエメラルドのような、深い緑。そして、ぎらつくが如く輝いていた。
その光を見た途端、彼の意識は闇に吸い込まれる。
気が付くと、そこはかつて在籍していた大学の屋上だった。
目の前には付き合っていた女性が居た。
他愛ない話をしつつ、男は彼女が目をあわせようとしないことに気が付いた。
「何で目を逸らすんだ?」
男の問いにも彼女は
「思う所があって」と繰り返すばかり。
焦れた彼はかつての恋人の前に陣取り、その顔を優しく両の手で押さえ、彼女の瞳を真正面から覗いた。
恋人は言った。「正面から見たら嘘がつけないのを知っていて、あえてそれをするのはずるい」と。
男は訊いた。「何故だ?」と。
無言の時間が過ぎて彼女は言った。「好きな人ができた」と。
そう言って彼女は逃げるように去り、彼だけが残された。
大学の後期が始まる前、夏休みの間に、元彼とよりを戻して居たことを知ったのはその少し後。
その一年後に、彼より一つ上の先輩だった彼女は卒業して、そのまま元彼と結婚したと、彼女と同じゼミの先輩から聞かされた。
妬ましさと憎しみと、悲しみが支配する。
与り知らぬ所で天秤にかけられていたことに気づかなかった自分を憎んだ。
それを知りながら教えてくれなかった先輩を恨んだ。
それから他人を遠ざけて、群れから自分だけ離れて、誰も心の底では信じない、それが今の彼の姿。
そこで場面が変わる。
遥か昔の都であろう場所で、彼は恋人と話していた。
恋人の顔は、パルスィそのもの。
大学の屋上での出来事が、立場を変えて繰り返される。
遥か昔に同じ事を、男はパルスィにしていた。
因果応報、と言うものなのだろうか?
場所と時代を変えて目の前で繰り返される無限の苦しみ。
逃げたくても逃げられない、目を閉じても消えない永劫の責め。
その風景が幾度と無く繰り返され、目の前にパルスィの姿が現れる。
とても優しく、恐ろしい声で彼女はささやいた。
「やっと捕まえたわ。もう、逃がさないし逃がしてもあげない。貴方は永遠に私のモノになったのよ
時代と場所を変えた追いかけっこも、もうお終い。そして永遠にオヤスミナサイ」
数日後、永遠亭にて。
奇怪な形のカプセルに入れられた男の前で、八意 永琳が言った。
「このカプセルに入っている以上、もう目覚める事も死ぬことも無いけど、彼の何が貴方をそこまで駆り立てるのかしら?」
至福の表情を嫉妬で歪めながら、パルスィは言った。
「貴方の与り知らぬ話ね。詮索はお互い、ためにならないわ。私は意識不明の彼を保護する。貴方はそれを手伝った、それだけよ」
永琳は得心の行かない顔だったが、相手が相手だけにそれ以上は言わず、
「調整が完全に済んだら貴方の所へ送るから、それだけは約束するわ」
パルスィはその言葉に「頼んだわ」とだけ返して、永遠亭を出て行った。
その顔には嗜虐と、快楽と妬みの入り混じった笑顔が浮かんでいる。
「お楽しみはこれからよ。今まで待たされて焦らされた分、貴方を蹂躙して、弄んで、愛して、いたぶってあげる…
そして貴方に聞かせてなかった、あの詩の最後の部分を歌ってあげるわ。
『私ははばかる事無く禁忌を合法とみなし また勝手に 禁忌をさらに犯していた様だ』って」
不気味な笑い声が竹林から響き、それは彼女が地底へ帰るまで尾を引いて、郷のものに不安を振りまき続けた。
終わりの無い遊びを待ちわびる、堕ちた者の背徳に耽る呪いの哄笑のように。
しかし、その例に染まらない場所がある。その場所は地底ーーー根の国。
忌み嫌われて地上から追われた者達がひっそりと隠れ住む世界。
だが、旧都と呼ばれる場所では、ドンチャン騒ぎが行われ、年明けに餅を撒いている鬼や
それを頂戴しにくるモノ達で賑わう。
その地下と地上を結ぶ洞窟の近くに、橋がかかっている。
昔は火車が盗んだ死体を運んだり、裁かれた者達が、地獄へと通じる地霊殿へ行く為に
獄卒に手を縄で繋がれて、行列でやってきたりと賑やかだったと言う。
今は人里から用事聞きや配達に来る者達が通る以外は行き来の無い所となっている。
普段は何も無いが、この橋を渡る時には、どんな良い事があっても、絶対に口笛や鼻歌はしてはならないと言う、
掟のようなものが存在する。
それを無視する者は、この橋に住む女怪に攫われてしまう、と言われている。
彼女は緑色の目をしていると言う事以外、詳しい事は伝わっていない。
そんなある日の事。
とある男が配達の帰りにその橋を通りがかった。
動く死体と間違えられて火車猫に攫われそうになったり、茶屋で一休みしている時に
何者かに団子をひと串盗み食いされたりとあまりいい事は無かったが。
「明日の仕事に地底行きは勘弁してほしいなあ…外の世界でこき使われていた頃と変わらねえじゃんよ」
ぶつくさと呟きながら彼は外界で店員をやっていた頃と変わってない事を嘆いていた。
「まあ、こっちに引きずり込まれちまった以上、さっさと銭貯めて帰らんとな」
と、気分を変えて顔を上げる、と、橋のたもとにさっきまでは誰もいなかったはずなのに、異国風の衣装を纏い、
目深にフードを被った者が竪琴を持って歌っている。
『勤勉に暮らすことは止めて 怠けたまえ
酒場に差し掛かったら 立ち寄るがいい
罪の中で卑しい物は犯すでない どうせ犯すなら最も高貴な罪を選ぶがいい』
声の感じからすると、女性らしいが、顔は隠れて見えない。
男はなんとなくその歌に聴き入る。
『その罪は値をつけるには高すぎて
最初から最後まで 君にとっては美味なもの』
歌の意味は解らないが、なんとなくその歌の内容は、自分に向けられているように彼は感じた。
『その罪は若者(きみ)が後悔して 止せば良かったと言う物ではない…』
そこで弦の響きが止む。
橋の欄干に寄りかかって歌を聴いていた男は、顔を上げる、と、そこには先ほどの異国の者が唇の端を吊り上げて立っている。
目は覆い隠されているのでその表情を完全に読むことは出来ない。
彼が戸惑っていると、異国の者は口を開く。
「別に金子は取らないわ、私の歌を気に入ってくれたようね?」
静かに響くその声は、心なしか昏い。しかし、男はそれに気づかずに答えた。
「あ、ああ、何か説明できないけど、素通り出来ない感じがあって…」
その言葉に、異国人はまた唇の端を吊り上げる。
「…それは、貴方が何かの為に享楽を犠牲にしているから。あなたは心の底では自由になれない身を嘆いて、
自由に生きられる者達が妬ましいのよ…」
彼は否定しようとした、が、それは無理だった。異国人の言葉の通り、その心の奥には自分達外来人をこき使い、
自分自身は何の被害も無く暮らす里人への嫉妬があったからだ。
異国人は続ける。
「気晴らししたいなら、私の歌を気に入ってくれた礼に、ちょいと一杯引っ掛ける位は付き合うわ」
男が迷っていると、
「取って食うわけでもないし、いい所よ。いらっしゃいな」
押し切られるような形で、彼は異国人に付いていく事になった。
案内されて橋のそばの階段を降りて行くと、そこには古びた、日干し煉瓦で出来た館がある。
地震国の日本でこの造りの建物が存在していることに、男は素直に驚いた。しかし異国人は当然のように言う。
「地底とは言え、ここは幻想郷よ。蜃気楼も本物になる所。あなたもここに住んでいるなら解るでしょ?」
彼女の言葉に男は頷くが、それでもあちこちに生えたコケや決して乾いた環境でもない川岸にそれがあると言う事実は
やはり彼の時系列には存在しない。
「だからこそ幻想郷は幻想郷として在るのよ」
異国人は振り向かずに男の心を見透かしたように言う。
彼はその言葉よりも彼女自身に違和感を覚えた、が、彼女が門を開けて手招きをすると、それを忘れたように入っていった。
通された居間は年代者と思われるタペストリーが掛かっている以外は、酒棚といくつかの観葉植物が置いてある程度だった。
異国人はそこでフードを脱ぎ、顔を露わにする。
透き通るような草原を思わせる緑の髪とファンタジーを思わせる尖った耳。しかし、目は閉じたままだ。
「自己紹介がまだだったわね。私の名はパルスィ・マイヤノルンム」
そう言って、彼女は目を閉じているとは思えない正確さで酒棚から瓶を何本か取り出してテーブルに置いて行く。
「…あんた、目を閉じてるけど、見えるのかい?」
男の問いに、パルスィは目を閉じたままで答えた。
「目に見えないものが見えるくらいには見えてるわ。尤も、私の目は普通の人には危険だから閉じているだけなんだけどね」
「地上もそうだが、地底にも色々といるんだなあ」
彼の呟きに、彼女は言う。
「人は地上と空しか見ない。ゆえに光の中で見えないものは解らないのよ。だから影や地の底、闇の中の危険には気づかない」
パルスィは話しながらグラスに半分ほど、透明な液体を注いで、ポットと一緒に男へ勧める。
「このポットは?」
その問いに、彼女は慌てる風も無く、
「水よ。この酒はアラックと言う酒でね。大体は水で割って飲むのよ。生のままで飲んでもいいけど、アル中は避けられないわね」
男はそれを聞いて、グラスを顔に近づける。と、癖の有る匂いと共に、アルコールの刺激が鼻を蹂躙した。
涙目で鼻を押さえながら、彼はポットの水を注ぐとグラスの中の液体が僅かに白く濁る。
「面白いでしょう?昔ながらのアラックは水で割ると白く濁るのよ。日本の酒には無い癖よ」
彼は恐る恐るその濁った液体を口に流し込む。が、水で割っても相当なアルコール度だ。
「ウォッカの方が良かったかしらね?癖の強さはじきに慣れるわ」
男はそれを聞いて「どっちも危険だ」と言って一旦グラスを置く。元々酒に強くないのもあるが、
強いて言えば焼酎の乙類の癖に似ている。男にとっては悪酔いする為に苦手な酒なのだ。
「焼酎よりもきついな…」
その呟きにパルスィは口の端を吊り上げて言う。
「焼酎は元々アラビアの出自よ。シルクロードを通って日本に伝わったんだから当たり前ね。でも、日本の焼酎と違うところは
連続蒸留をしない事よ。私の酒はみんな単式蒸留だから、貴方の世界で言うところの甲類は無いわ」
男は頭をくらくらさせながらその話を聞く。しかし彼女の言っている事はあまり理解できない。
そんな様子を静かに、目を閉じたまま口元に笑みを浮かべて、パルスィは別のグラスに何かを注いで勧める。
「酔い覚ましにいかが?お酒ではないわ」
グラスには月の光のような輝きを放つ液体が満ちている。
「…これは?」
男が訊くと、パルスィは「飲んでのお楽しみ」とはぐらかした。
彼が迷っていると、彼女は楽しそうに訊く。
「迷っているようなら、私がいただくけれど?」
その言葉に男はグラスを取り、中身をひと口含む。
癖も香りも無いが、水のように抵抗無く飲めて、ほのかに苦味の有る不思議な味。
「これは…何だろう?」
パルスィの口元が邪につり上がる。
「それは、貴方の命」
男は自分の耳を疑う。いま、命と言った?それを飲ませる事に意味はあるのか?
「貴方が自分で飲む分には影響は無い。味は貴方の通ってきた道のり自体。甘かった?それとも?どちらにしても
あの明るい希望に満ちた色は…妬ましいわね。ひと口だけでもいただきたかったわ」
男が恐る恐る訊いた。
「あんたが飲んでいたら、どうなったんだ?」
「…大体は解るくせに訊いてくるのが妬ましいわ。ひと口で十年分貴方の命は短くなる。私が全て飲んでいたら、お察しね」
目の前の彼女の目は閉じたままだが、纏う雰囲気は般若のそれに等しい。
男の一挙手一挙動を妬む様な執念深さに満ちている。
彼の混乱をよそに、次にパルスィは真っ赤な、濁ったワインのような液体を注いで彼に勧める。
「飲んでのお楽しみなのは変わらないけれど、状況を把握できてないのが幸せそうで妬ましいわね」
そう言って目を閉じたまま笑う彼女の危険さに気づき、男はグラスの液体を飲み干した。
僅かな塩味と、ほのかな錆びた様な鉄の香り。
「いい飲みっぷりね…妬ましいほどに」
それでも穏やかな笑顔の彼女に、男は訊いた。
「この飲み物は、何なんだ?」
くく、と喉の奥でかすかに笑い、パルスィは種明かしをする。
「貴方の血に決まっているでしょう。解っていて質問するなんて本当に貴方は妬ましいわ愛おしいほどに」
男は自分が囚われたことに気が付いた。
逃げようとしても扉にたどり着く前に簡単に捕まるだろう。
目の前の女怪は彼の全てを妬ましく思い、それを恐怖する様を楽しみながらそれを喜ぶことにまた妬んでいる。
しかし、なぜ自分が?
彼女との面識は無いし、今までの地底行きでも会った事はなかったはずなのに。
彼の混乱をよそに、俯いているパルスィの肩が小刻みに震えている。
男には解っていた、彼女は笑っているのだと。楽しくて妬ましくて仕方が無いのだと。
その顔がゆっくりと上がっていく。
彼の頭に危険の警告が鳴り響く、が…その瞬間、閉じていたパルスィの目が開いた。
その瞳はヒビの無いエメラルドのような、深い緑。そして、ぎらつくが如く輝いていた。
その光を見た途端、彼の意識は闇に吸い込まれる。
気が付くと、そこはかつて在籍していた大学の屋上だった。
目の前には付き合っていた女性が居た。
他愛ない話をしつつ、男は彼女が目をあわせようとしないことに気が付いた。
「何で目を逸らすんだ?」
男の問いにも彼女は
「思う所があって」と繰り返すばかり。
焦れた彼はかつての恋人の前に陣取り、その顔を優しく両の手で押さえ、彼女の瞳を真正面から覗いた。
恋人は言った。「正面から見たら嘘がつけないのを知っていて、あえてそれをするのはずるい」と。
男は訊いた。「何故だ?」と。
無言の時間が過ぎて彼女は言った。「好きな人ができた」と。
そう言って彼女は逃げるように去り、彼だけが残された。
大学の後期が始まる前、夏休みの間に、元彼とよりを戻して居たことを知ったのはその少し後。
その一年後に、彼より一つ上の先輩だった彼女は卒業して、そのまま元彼と結婚したと、彼女と同じゼミの先輩から聞かされた。
妬ましさと憎しみと、悲しみが支配する。
与り知らぬ所で天秤にかけられていたことに気づかなかった自分を憎んだ。
それを知りながら教えてくれなかった先輩を恨んだ。
それから他人を遠ざけて、群れから自分だけ離れて、誰も心の底では信じない、それが今の彼の姿。
そこで場面が変わる。
遥か昔の都であろう場所で、彼は恋人と話していた。
恋人の顔は、パルスィそのもの。
大学の屋上での出来事が、立場を変えて繰り返される。
遥か昔に同じ事を、男はパルスィにしていた。
因果応報、と言うものなのだろうか?
場所と時代を変えて目の前で繰り返される無限の苦しみ。
逃げたくても逃げられない、目を閉じても消えない永劫の責め。
その風景が幾度と無く繰り返され、目の前にパルスィの姿が現れる。
とても優しく、恐ろしい声で彼女はささやいた。
「やっと捕まえたわ。もう、逃がさないし逃がしてもあげない。貴方は永遠に私のモノになったのよ
時代と場所を変えた追いかけっこも、もうお終い。そして永遠にオヤスミナサイ」
数日後、永遠亭にて。
奇怪な形のカプセルに入れられた男の前で、八意 永琳が言った。
「このカプセルに入っている以上、もう目覚める事も死ぬことも無いけど、彼の何が貴方をそこまで駆り立てるのかしら?」
至福の表情を嫉妬で歪めながら、パルスィは言った。
「貴方の与り知らぬ話ね。詮索はお互い、ためにならないわ。私は意識不明の彼を保護する。貴方はそれを手伝った、それだけよ」
永琳は得心の行かない顔だったが、相手が相手だけにそれ以上は言わず、
「調整が完全に済んだら貴方の所へ送るから、それだけは約束するわ」
パルスィはその言葉に「頼んだわ」とだけ返して、永遠亭を出て行った。
その顔には嗜虐と、快楽と妬みの入り混じった笑顔が浮かんでいる。
「お楽しみはこれからよ。今まで待たされて焦らされた分、貴方を蹂躙して、弄んで、愛して、いたぶってあげる…
そして貴方に聞かせてなかった、あの詩の最後の部分を歌ってあげるわ。
『私ははばかる事無く禁忌を合法とみなし また勝手に 禁忌をさらに犯していた様だ』って」
不気味な笑い声が竹林から響き、それは彼女が地底へ帰るまで尾を引いて、郷のものに不安を振りまき続けた。
終わりの無い遊びを待ちわびる、堕ちた者の背徳に耽る呪いの哄笑のように。
パルスィが名乗った横文字の苗字?ってなにか元ネタあるんですかね
DC(ドリームキャスト)がニンテンドーDSに嫉妬する話じゃない?
怖いパルスィもイイ!
これって、前世の繰り返しで現世も同じことやっちゃって、幻想郷でやり返されたという
ふうに読んだ
パルがパルパルしくてよかった
できればもっと愛してるから壊すということを匂わせれば……