東の果てに流星が墜ちる。
その光芒の先をはるか世界の果てと思って、彼女は強く馬腹を蹴った。
荒涼とした大地は、馬蹄に叩かれるたび夜闇に紛れて土埃を巻き上げる。しばし雨の少ないこの土地、この季節は、どこまで行っても地面が乾いているのだった。わずかな水分を求めて岩の真裏に集った小虫たちが、馬に踏まれて潰れていく。それには、誰とて気づきもしない。どこにでもある、冷え切った大気を除いては。
その夜には、まるで限りというものが感じられなかった。
夜の闇に歿した地平の向こうには、ほとんど何も残っていないように見える。
いや本当は、馬上に在る彼女自身が何をも見ないように努めているのかもしれなかった。彼女が人であり、そして馬に乗るときはいつもそうだ。ほとんど盲いたかのように、この天地に満ち満てる何か、神々の息か、悪霊の気に中てられて狂ってしまったかのように。何も見ることができず、ただひたすらに、夢中に走るばかりなのだ。
そのとき彼女はぼんやりと思い出す。
民族の始祖がたどった偉大なる神話。天空を駆け抜ける、うつくしき蒼き狼の群れ。天の意志を忠実に伝える猛禽たち。幾千の人の友として血を繋いできた馬。誇りある戦い、誇りある死。『誕生』から、たぶん、今までずっと見続けていたもの。朧気な歴史。だけれど人々は彼女を棄てた。そのように決めたのだ。族長たちが話し合って決めたことに、逆らうことなどできはしない。定まった家を、決まった土地を持たぬ者たちの、それが叡智と呼べる何かなのだ。何も持ってはいないからこそ、叡智だけは余分に多く持っている。両の手は馬手(めて)と弓手(ゆんで)であろうとも、然して叡智は幾ら多くの手があっても足りはしない。
だが、叡智はあればあるほど懊悩をもたらしはしないだろうか。
たとえば、今、矢筒に負ったひと群れの束のように。
それを思えばこそ彼女はなお急いだ。
暁が、東の果てにちらと顔を出していたような気がする。
妄執のように襲いかかってくる懐かしさを振り払うごとく、長い長い赤毛を、荒々しい風に靡かせた。馬で駆けた道は、幾百里にもなっただろうか。昔から、それこそ大昔から、塩や絹を荷とする隊商たちが通った道に違いない。荒涼とした道なき道が、しかし、人の意志する証を運んだ道が、彼女には解ってしまう。寒々とした風が吹く。幾百年も前から吹き下ろす風なのかもしれなかった。獣の毛と革とを接ぎ合わせた外套が、自分の膚から立ち昇るかすかな熱を逃さない。幾層倍かになる温かさ。真白い息は、それとはまったく反対だ。
「ここは、まったく渇いている」
彼は彼女にそう言ったことが合った。
人々が塩や絹とともに歩いたであろう道を、真っ直ぐ、彼女の国にまで連れてこられた男が。
「渇いているから、いくさをするのか?」
解るわけがない、そんなこと。
ただ、人々が求めているから応じているだけに過ぎないのだ。
そう、彼自身が、死にたくないから郷里も戦友も棄て去って、国を売ったと罵られながら西の果てに連れてこられたのと同じように。そのときも、今のようにまったく乾いた冬だった。雪のひと粒だって降りやしない。皆は、いつも暖かな幸福に飢えていた。まったく渇いた冬だった。
彼女たちは幾度もいくさをした。
彼を連れてきたいくさだ。
矢を射掛け、城壁を越え、男を殺し、女を犯し、財物を奪い、役人の首を掲げ、子供たちは奴隷とした。彼女たちが国を動かせば、別の国がひとつ潰えた。東から西にまたがる偉大な帝国が築き上げられた。そのとき、彼は未だ若かった。髪も黒かったのだし、芳しい汗には少しの脂臭さだって混じってやしなかった。眼には艶めかしい光を湛えていた。四肢には絶えず力がみなぎっていた。
だが、数十年の時を経ればどうだ。
再び彼女のもとに現れた彼は、すっかりみすぼらしい老人と化していた。
節くれだった手指には関節ごとにごつごつとした瘤ができ、髪の毛はすっかり禿げ上がっていた。まるで鷹の卵に無数の皺が寄ったところを見るみたいな、汚らしい老人。長年の酷使――彼は自分から郷里を棄てたのに、誰にもその志は顧みられることはなかった――は、彼の腰つきからもまた、青年の証を奪っていた。彼は、もう真っ直ぐに立つことができなかった。彼女は相変わらず少女のままで、つまり、人々が望むのであれば、少女のままで居続けるしかなかったというのに。
「妻に、いちどだけ会ったことがある」
彼は言った。
いま彼女が駆け抜けているこの夜みたいな、痛々しい風が吹く夜に。
「犯されていた。兵士たちに、代わる代わる、めちゃくちゃに犯されていた。股座が裂けて、血や何かが流れ落ちて、それでも解放はしてもらえなかった。おれの名を叫んでいた。おれの目の前で妻は犯されて、そして殺された。未だ十七だった。子供だって産まれてはいなかった」
彼女は、何も答えなかったのである。
彼に対して何か言うだけの権利なんて、彼女は初めから持っていない。叡智が多ければ多いほど、懊悩は濃く深くなる。彼はそれから、妻を持つことがなかったという。彼の叡智は、彼の魂を殺してしまったのだ。生きてさえいれば、いつかまた、戦える。それは過たず滅び去った郷里のために――という、そんな希望をも自殺させたに違いなかった。
「おれも、そろそろ、渇いてしまった」
彼女のための祭壇の前で、彼は言った。
繁栄に浴する人々からは次第に顧みられなくなりつつあった、旧すぎる者たる彼女の前で。
「おれが死んだらその骨で、一個の鏃を作って欲しい。そしてその鏃で矢を作って、おれの郷里に向けて射てくれ…………」
彼は、最後まで彼女の前で涙を見せることはなかったのである。
いつだったかのことを、彼女はふと思い出した。
彼の郷里には、雨と水を司る巨大な蛇に似た神がいるのだと。そういうことを、何かの折に触れて聞いたことがある。滅ぼされた彼の郷里では、その神もすでに滅びてしまっているであろうか。自分は、その代わりになれるのであろうか。東西に幾つも在った無数の国が、騎馬の蹄の音高く、幾十年を経てたったひとつの帝国にまとめ上げられたように。
だが偉大な帝国は、その歴史にふさわしい偉大な最期を迎えねばならない。
彼女は、きっと自分の民族を愛している。愛しているからこそ、誇りある滅びを与えてやらなければならない。血と欲にまみれたまま、屍の上で驕り続ける子らの姿を、彼女は見たくはなかったのだ。たとえ自分が民族の物語る歴史、栄光に満ちた神話から弾き出された後ろ暗い者になったとしても、もう構わないと思っていた。彼女は少女に成った。うつくしい赤毛をした少女の姿に。少女はひとりの奴隷を殺した。幾十年も前のいくさの折、東の果ての国を滅ぼして連れてこられた男だった。年老いた、腰の曲がった奴隷だ。罪を犯した者は、犯した罪のぶんだけ償わなければならない。奴隷殺しには、追放が妥当とされた。
けれど馬一頭と、弓と矢とを携える自由は与えられる。
彼女は当てどもない旅を始めなければならなかった。人の骨を削った鏃と共に。
この国に、彼女を知る者はもうひとりもない。
ただひとつ残ったはずの旧い祭壇は、しかし、やがて朽ち果てるに任せるだけだ。
それから幾十日も、彼女は荒野を駆けた。
滅びつつある帝国から、すでに滅び去った帝国へ向けて疾く駆けた。
何もない、荒涼とした、渇ききった冬と争うかのように駆けた。
かつて彼女が庇護していた人々が、留めようもないいくさへの衝動をたぎらせることから逃れるために、休まず駆けた。
大地がその果てへ向けて、少しずつ豊かさを取り戻し始めるところ――そこに差し掛かったとき、彼女はようよう馬から下りる。鐙(あぶみ)はないが、元より馬にはよく親しんでいる。少女の姿のまま、少しも危なげなく地に下り立つ。彼女の郷里である荒野の果てよりも、もっとずっと背の高い草叢が生い茂るさなかに、探し求めていた残骸はある。雨風に晒されてぼろぼろになった、日干し煉瓦の壁。火の気も煤も残ってはいない狼煙(のろし)の代。その内側にあったはずの幾つもの邑(むら)、かつてそこに住んでいたはずの人々、確かに存続していたはずの営み。そのことごとくが草莽に還っている。すべて、彼女がしたことに等しかった。
唇を濡らす汗を舐め取りながら、彼女は矢筒から一矢を抜き取った。
約束を果たすために彼の骸から削り出した白い鏃が、終わりかけた夜に輝く。
ここは大地の東の果て。暁が訪れるのは、彼女の郷里よりもずっと早いに違いない。そしてその灯は、彼がずっと待ち望んでいたものでもある。
矢を放った後の弓弦が、音もなく震える。
殷々としたはずの衝撃は、明け方に白む天空に呑まれ、跡形もなく消えていく。
彼の魂は、果たして郷里に還ることができたのだろうか。それは彼女の叡智でも、解らなかった。彼の郷里の言葉がどんな祈りをするのかさえ、ひとつとして知らない。
だから、せめて。
今いちど彼の神の名を反芻して、それを自分のものにすることだけは、確かにできて然るべきだ。彼は、自らの郷里を護ろうとした。今度は彼女が、彼の『落ちた』場所を護らなければならない。それが彼女が手に入れた、新たな叡智であるのかもしれない。馬の轡(くつわ)を取って、幾十年前の邑の跡を、しばし、歩く。かつて彼だった一矢は、古ぼけた、巨大な門の残骸に突き立っている。今日からはこの門が自分を祀る唯一の祭壇であり、自分が護るべき唯一の証なのだと、彼女は気づく。
今まで身につけていた帽子を、彼女は脱いだ。
そこには彼の郷里の――彼の神の名が、彼の郷里のものだという文字で縫い刻まれていた。
『龍』の一字が刻まれていた。
その光芒の先をはるか世界の果てと思って、彼女は強く馬腹を蹴った。
荒涼とした大地は、馬蹄に叩かれるたび夜闇に紛れて土埃を巻き上げる。しばし雨の少ないこの土地、この季節は、どこまで行っても地面が乾いているのだった。わずかな水分を求めて岩の真裏に集った小虫たちが、馬に踏まれて潰れていく。それには、誰とて気づきもしない。どこにでもある、冷え切った大気を除いては。
その夜には、まるで限りというものが感じられなかった。
夜の闇に歿した地平の向こうには、ほとんど何も残っていないように見える。
いや本当は、馬上に在る彼女自身が何をも見ないように努めているのかもしれなかった。彼女が人であり、そして馬に乗るときはいつもそうだ。ほとんど盲いたかのように、この天地に満ち満てる何か、神々の息か、悪霊の気に中てられて狂ってしまったかのように。何も見ることができず、ただひたすらに、夢中に走るばかりなのだ。
そのとき彼女はぼんやりと思い出す。
民族の始祖がたどった偉大なる神話。天空を駆け抜ける、うつくしき蒼き狼の群れ。天の意志を忠実に伝える猛禽たち。幾千の人の友として血を繋いできた馬。誇りある戦い、誇りある死。『誕生』から、たぶん、今までずっと見続けていたもの。朧気な歴史。だけれど人々は彼女を棄てた。そのように決めたのだ。族長たちが話し合って決めたことに、逆らうことなどできはしない。定まった家を、決まった土地を持たぬ者たちの、それが叡智と呼べる何かなのだ。何も持ってはいないからこそ、叡智だけは余分に多く持っている。両の手は馬手(めて)と弓手(ゆんで)であろうとも、然して叡智は幾ら多くの手があっても足りはしない。
だが、叡智はあればあるほど懊悩をもたらしはしないだろうか。
たとえば、今、矢筒に負ったひと群れの束のように。
それを思えばこそ彼女はなお急いだ。
暁が、東の果てにちらと顔を出していたような気がする。
妄執のように襲いかかってくる懐かしさを振り払うごとく、長い長い赤毛を、荒々しい風に靡かせた。馬で駆けた道は、幾百里にもなっただろうか。昔から、それこそ大昔から、塩や絹を荷とする隊商たちが通った道に違いない。荒涼とした道なき道が、しかし、人の意志する証を運んだ道が、彼女には解ってしまう。寒々とした風が吹く。幾百年も前から吹き下ろす風なのかもしれなかった。獣の毛と革とを接ぎ合わせた外套が、自分の膚から立ち昇るかすかな熱を逃さない。幾層倍かになる温かさ。真白い息は、それとはまったく反対だ。
「ここは、まったく渇いている」
彼は彼女にそう言ったことが合った。
人々が塩や絹とともに歩いたであろう道を、真っ直ぐ、彼女の国にまで連れてこられた男が。
「渇いているから、いくさをするのか?」
解るわけがない、そんなこと。
ただ、人々が求めているから応じているだけに過ぎないのだ。
そう、彼自身が、死にたくないから郷里も戦友も棄て去って、国を売ったと罵られながら西の果てに連れてこられたのと同じように。そのときも、今のようにまったく乾いた冬だった。雪のひと粒だって降りやしない。皆は、いつも暖かな幸福に飢えていた。まったく渇いた冬だった。
彼女たちは幾度もいくさをした。
彼を連れてきたいくさだ。
矢を射掛け、城壁を越え、男を殺し、女を犯し、財物を奪い、役人の首を掲げ、子供たちは奴隷とした。彼女たちが国を動かせば、別の国がひとつ潰えた。東から西にまたがる偉大な帝国が築き上げられた。そのとき、彼は未だ若かった。髪も黒かったのだし、芳しい汗には少しの脂臭さだって混じってやしなかった。眼には艶めかしい光を湛えていた。四肢には絶えず力がみなぎっていた。
だが、数十年の時を経ればどうだ。
再び彼女のもとに現れた彼は、すっかりみすぼらしい老人と化していた。
節くれだった手指には関節ごとにごつごつとした瘤ができ、髪の毛はすっかり禿げ上がっていた。まるで鷹の卵に無数の皺が寄ったところを見るみたいな、汚らしい老人。長年の酷使――彼は自分から郷里を棄てたのに、誰にもその志は顧みられることはなかった――は、彼の腰つきからもまた、青年の証を奪っていた。彼は、もう真っ直ぐに立つことができなかった。彼女は相変わらず少女のままで、つまり、人々が望むのであれば、少女のままで居続けるしかなかったというのに。
「妻に、いちどだけ会ったことがある」
彼は言った。
いま彼女が駆け抜けているこの夜みたいな、痛々しい風が吹く夜に。
「犯されていた。兵士たちに、代わる代わる、めちゃくちゃに犯されていた。股座が裂けて、血や何かが流れ落ちて、それでも解放はしてもらえなかった。おれの名を叫んでいた。おれの目の前で妻は犯されて、そして殺された。未だ十七だった。子供だって産まれてはいなかった」
彼女は、何も答えなかったのである。
彼に対して何か言うだけの権利なんて、彼女は初めから持っていない。叡智が多ければ多いほど、懊悩は濃く深くなる。彼はそれから、妻を持つことがなかったという。彼の叡智は、彼の魂を殺してしまったのだ。生きてさえいれば、いつかまた、戦える。それは過たず滅び去った郷里のために――という、そんな希望をも自殺させたに違いなかった。
「おれも、そろそろ、渇いてしまった」
彼女のための祭壇の前で、彼は言った。
繁栄に浴する人々からは次第に顧みられなくなりつつあった、旧すぎる者たる彼女の前で。
「おれが死んだらその骨で、一個の鏃を作って欲しい。そしてその鏃で矢を作って、おれの郷里に向けて射てくれ…………」
彼は、最後まで彼女の前で涙を見せることはなかったのである。
いつだったかのことを、彼女はふと思い出した。
彼の郷里には、雨と水を司る巨大な蛇に似た神がいるのだと。そういうことを、何かの折に触れて聞いたことがある。滅ぼされた彼の郷里では、その神もすでに滅びてしまっているであろうか。自分は、その代わりになれるのであろうか。東西に幾つも在った無数の国が、騎馬の蹄の音高く、幾十年を経てたったひとつの帝国にまとめ上げられたように。
だが偉大な帝国は、その歴史にふさわしい偉大な最期を迎えねばならない。
彼女は、きっと自分の民族を愛している。愛しているからこそ、誇りある滅びを与えてやらなければならない。血と欲にまみれたまま、屍の上で驕り続ける子らの姿を、彼女は見たくはなかったのだ。たとえ自分が民族の物語る歴史、栄光に満ちた神話から弾き出された後ろ暗い者になったとしても、もう構わないと思っていた。彼女は少女に成った。うつくしい赤毛をした少女の姿に。少女はひとりの奴隷を殺した。幾十年も前のいくさの折、東の果ての国を滅ぼして連れてこられた男だった。年老いた、腰の曲がった奴隷だ。罪を犯した者は、犯した罪のぶんだけ償わなければならない。奴隷殺しには、追放が妥当とされた。
けれど馬一頭と、弓と矢とを携える自由は与えられる。
彼女は当てどもない旅を始めなければならなかった。人の骨を削った鏃と共に。
この国に、彼女を知る者はもうひとりもない。
ただひとつ残ったはずの旧い祭壇は、しかし、やがて朽ち果てるに任せるだけだ。
それから幾十日も、彼女は荒野を駆けた。
滅びつつある帝国から、すでに滅び去った帝国へ向けて疾く駆けた。
何もない、荒涼とした、渇ききった冬と争うかのように駆けた。
かつて彼女が庇護していた人々が、留めようもないいくさへの衝動をたぎらせることから逃れるために、休まず駆けた。
大地がその果てへ向けて、少しずつ豊かさを取り戻し始めるところ――そこに差し掛かったとき、彼女はようよう馬から下りる。鐙(あぶみ)はないが、元より馬にはよく親しんでいる。少女の姿のまま、少しも危なげなく地に下り立つ。彼女の郷里である荒野の果てよりも、もっとずっと背の高い草叢が生い茂るさなかに、探し求めていた残骸はある。雨風に晒されてぼろぼろになった、日干し煉瓦の壁。火の気も煤も残ってはいない狼煙(のろし)の代。その内側にあったはずの幾つもの邑(むら)、かつてそこに住んでいたはずの人々、確かに存続していたはずの営み。そのことごとくが草莽に還っている。すべて、彼女がしたことに等しかった。
唇を濡らす汗を舐め取りながら、彼女は矢筒から一矢を抜き取った。
約束を果たすために彼の骸から削り出した白い鏃が、終わりかけた夜に輝く。
ここは大地の東の果て。暁が訪れるのは、彼女の郷里よりもずっと早いに違いない。そしてその灯は、彼がずっと待ち望んでいたものでもある。
矢を放った後の弓弦が、音もなく震える。
殷々としたはずの衝撃は、明け方に白む天空に呑まれ、跡形もなく消えていく。
彼の魂は、果たして郷里に還ることができたのだろうか。それは彼女の叡智でも、解らなかった。彼の郷里の言葉がどんな祈りをするのかさえ、ひとつとして知らない。
だから、せめて。
今いちど彼の神の名を反芻して、それを自分のものにすることだけは、確かにできて然るべきだ。彼は、自らの郷里を護ろうとした。今度は彼女が、彼の『落ちた』場所を護らなければならない。それが彼女が手に入れた、新たな叡智であるのかもしれない。馬の轡(くつわ)を取って、幾十年前の邑の跡を、しばし、歩く。かつて彼だった一矢は、古ぼけた、巨大な門の残骸に突き立っている。今日からはこの門が自分を祀る唯一の祭壇であり、自分が護るべき唯一の証なのだと、彼女は気づく。
今まで身につけていた帽子を、彼女は脱いだ。
そこには彼の郷里の――彼の神の名が、彼の郷里のものだという文字で縫い刻まれていた。
『龍』の一字が刻まれていた。
「そうした知識」の前提を求めていながら、「そうした知識」を持つ読者には、「龍を信仰する男」が説明なしには納得しづらい点が気になります。
内蒙古から中国東北部からみて東側に龍を信仰する部族、民族っている?
お前の神は誰だ?って聞かれて竜神ですっていいそうな人間にリアリティが感じられないのです。天帝だとか蛇神だとか言われるならわかるのですが。龍となると濃厚に皇帝の象徴としての意味合いが感じられて、信仰と繋がらないのですが、知識とて間違ってますかね。
こうした見方をする私はこうずさんの言う悪しき「リアル」のしもべなのかもしれませんが。
この作品に出てくる情報量と順番だけで頭の中で話や情景をくみ上げることができず、また文章としてもひらがなと漢字の組み合わせ特殊なところがずっと喉につっかえたような印象で読むのが苦痛でした。
比喩もうまく機能していなくて想像し辛かったです。
読者が増えないのにも当然理由が有ります。
その辺も踏まえた上で好きな様に書いているのかと思いましたが、違うのですか?
他者を受け入れたくはないけど、他者からの評価は欲しい。
これは盛大な矛盾です。どっちつかずです。我儘です。
一度凝り固まった自分の姿を見直すか、逆に凝り固まって”割り切った”生き方を貫く事をお奨めします。