1
僕には義姉さんがいる。
もちろん、義姉というくらいだから血は繋がっていない。
あるいは義姉さんは誰とも血が繋がってないのではないか、と僕はひそかに疑っている。
戸籍上は確かに、義姉さんは義姉さんの両親と血縁関係にあるのだけれど。
錐であけられた小さな穴のような疑念を完全に消すことはできない。
どうしてそう思うのかだって?
血は似せるものだからだ。
普通、トンビの子どもはトンビであって、カエルの子はカエルだ。
言葉上の綾としてトンビが鷹を生むことはあるかもしれないが、あくまでそれは言葉遊びに過ぎず、
普通はDNAのくびきから逃れることなんてできやしない。
そう、普通は。
義姉さんは違った。
たぶん突然変異なのだろう。
義姉さんはこの世のものとは思えないくらいの綺麗な人のカタチをしている。
黒い金剛石のようなどこまでも深みを帯びた瞳。
髪は夏の雲のように豊かで、けれど、秋の稲穂のように綺麗なウェーブを描いている。
肌は白雪のよう……。
ああ、ちくしょう。
やめだやめだ。
まるでできそこのないの小説みたいな、あまりに稚拙な表現に死にたくなってくる。
こんな言葉なんて、義姉さんのカタチをなにひとつ表していない。
表してないというのは言い過ぎかもしれないが、せいぜいが一つまみ程度しか表せていない。
超然としたまなざしは、ずっと先を見通すかのようで、義姉さんの視線の前では、僕はいつも罪を犯した子どものような気分になる。
叱るとか怒るとかそういう意味合いはないのだろうけれど。
ただ、その視線で殺されてしまうのだ。
テレビでよく見かけるアイドルグループやモデルや、そこらの歌手なんかよりも、恐ろしく均整がとれた躰。
可愛いという一文字が欠片も入りこむ余地がないほどに、ただ美しいという言葉で埋め尽くされる。
思うに、可愛いという言葉は『逃げ』があるのだろう。
可愛いは僕ら凡人が対象を所有するための言葉だ。
可愛いと言っておけば、彼女を自分の手のひらのなかに封じこめておける気がする。
あるいは、視線のうちに楽しむことが許される。
そういう免罪符として、可愛いという言葉は機能する。
けれど、僕の義姉さんはありえないくらいに綺麗なんだ。
町を歩くと、まず周りの人間は驚き、そして普通なら凝視するところだろうけれど、義姉さんを見た人間の反応は真逆。
誰もが、視線を落とし、それから避けるように去っていく。
怖いくらいに綺麗。
恐怖するほどの美しさ。
そういった類の人間離れしたカタチ。
本能的に、僕らはそういったカタチを避けたがるのだろう。
いつからだったか。
僕と義姉さんが同じ家に住むようになってから。
いや、あるいはもっと前から。
彼女に出会ったころから。
――僕は義姉さんが妖怪だということに気づいている。
義姉さんと僕とは三つほど年が離れている。
遠縁の親戚筋で、幼いころに何回か会ったことがある。
そのころから義姉さんは天使のように美しく、そして悪魔のように美しかった。
義姉さんが義姉さんになったのは、三年前の出来事だ。
なんのことはない、ありふれた事情。
僕の両親が事故であっけなく他界し、身寄りがいなかった僕は引き取られたというわけだ。
小学生を卒業するころだった。
それ自体はたいしたことではない。
今の僕がそのころと同じく、近所の中学に通うありふれた凡人であることは変わりないことだし、
義姉さんがあいもかわらず奇跡としかいいようがないほどに綺麗な人であることは変わりない事実だ。
ただ、義姉さんが僕の義姉さんになったということが重大だ。
関係性の変化。
家族という絆を結んだことになる。
それが素直に嬉しい。
不謹慎なことに僕は両親が死んだことよりも義姉さんといっしょに暮らせる嬉しさのほうがわずかに勝った。
べつに哀しいとか、感じないわけじゃないけれど。
これから独りで生きていくことに不安を感じないわけではないけれど。
そんなことが些細に感じてしまうほどに、義姉さんの存在感は圧倒的だった。
太陽のまぶしさの前では、夜の闇なんて、全て隠されてしまう。
だから、僕は何も感じなかった。
人に話せば、変に思われるかもしれないけれど、
僕にとっては真実、親の死はその程度のことだった。
「のんちゃん」
鈴の鳴るような声が聞こえ、僕の心臓は跳ねるようにリズムを刻んだ。
義姉さんの声だった。
義姉さんは怖いくらいの美人だったが、別に本当に怖いわけではない。
それどころか、僕のことを本当の家族のように扱ってくれる。
それ自体はべつに不満なわけではないのだが、しかし「のんちゃん」というネーミングはどうなのだろうか。
僕の名前「望」だから「のんちゃん」という安直を一週して、どこかのゆるきゃらのようなネーミング。
憤懣やるかたなし、だ。
「義姉さん」僕はドアを開けながらアニメのダウナー系キャラのような声を出す。「何度も言ってるけど、のんちゃんはやめてよ」
「え?」
「え?」
なにその不思議そうな顔。
「のんちゃんをのんちゃん以外で呼ぶなんて、ドラえもんの声をスネークが担当するようなものだわ」
アニメを超越する姫様系ボイスで、ずいぶん俗世間にまみれたことをいう義姉さんだった。
「正直、中学も卒業間近なのに、義姉から『ちゃんづけ』されるのって、すごく恥ずかしいんだけど」
「べつにおかしなことじゃないでしょ。中学生なんてまだまだ子どもなんだし、それにのんちゃんって小さいし」
「うぐ」
僕は確かに小さい。
義姉さんより頭二つ分くらいは小さい。
義姉さんの身長は170センチ前後で結構高いというのもあるが、それにしたって、どうしてこうも差がでるのだろう。
いつも『前へならえ』で前がいない僕である。
「身長で差別するのはよくないよ、義姉さん」
「べつに差別しているわけではないんだけどな。私は差別はされるけれども差別はしないよ。のんちゃんは特別なの」
「家族だから?」
「違うよ。のんちゃんだからだよ」
いまのやりとりを見ていると、義姉さんはポワポワしているというか、天然系のように思うかもしれないが、
僕以外の人とこんなに気安いやりとりをしているところを僕は見たことが無い。
それはそうだろう。
一億円の宝石がすぐ傍にあったら、普通の人間は尻込みをしてしまう。
だから、義姉さんもほとんどの人間に対して、興味がなさそうにふるまう。
「ところで何の用? わざわざいじめるために多感な年ごろの僕の部屋を開けたわけじゃないでしょ」
「そう。今日はすき焼きなんだって。買い物は我々にまかされたのでありますぞ。軍曹殿」
目もくらむような美人が、にこやかに笑いながら敬礼している。
もう少し『可愛らしさ』にパラメータ振っていれば、様になるんだろうけれど、
綺麗すぎて逆に違和感というすさまじさだ。
しかし、僕は慣れていた。
人間の一等偉いところは、どんなことにも慣れることだろう。
僕も人間の伝統に従い、義姉さんの綺麗さには慣れることにしているのだ。
「さようでありますか。少佐」
僕も敬礼を返すのだった。
2
ところで、義姉さんが妖怪であるというのは、義姉さんが死ぬほど綺麗だからというわけではない。
それは単なる外皮であって、表層であって、誰の目にも明らかなところだから、別に否定はしないが、わかりやすすぎる要素だ。
そんなことよりも、その性格の――というべきか、性質のというべきか。魂の在り方が特殊なのだった。
「のんちゃん。私、そろそろ温かいものに挑戦しようと思うの」
「ふぅん……」
歩きながら、義姉さんは太陽のような笑顔を向けてくる。
僕は極力視線を前に向けながら、歩いた。歩き続けた。それは予感だった。
こんな気安い言葉。
こんな買い物に行くついでで話すような雑談。
こんな会話を僕はずっと前に義姉さんとしたことがある。
昔の話。
けれど、そんなに大昔ってわけじゃない。
最初に義姉さんと会ったとき、僕はまだ五歳で、そして義姉さんは八歳の子どもだった。
そのころからすでに神の子レベルの美幼女だったのだが、さすがに可愛らしさも有していた。
思えば、このころの義姉さんが一番、人間的なレベルで綺麗でかわいくて、僕としては好きだったかもしれない。
ロリコンではなく……。
ともかく、五歳児の僕は家族どうしの付き合いということで、義姉さんの家に遊びに来ていたのだが、
ありがちなことに大人は大人どうし、子どもは子どもどうしということで、義姉さんとふたりきりで遊ぶことになったのだった。
僕は遠慮がちに義姉さんの後ろを歩いていた。
そうしたら、義姉さんは不意にしゃがみこんだ。
「どうしたの」と僕は訊いた。
「ありさん」と義姉さんは答えた。
見ると、蟻が列をなして進んでいた。
軍隊のように整列し、一糸乱れぬ行進だ。
僕はそのころから割と早熟で、言ってみれば擦れた子どもだったから、
蟻なんかより自分にかまってほしいという子どもっぽい感情が湧いた。要は蟻に嫉妬したんだ。
「そんなことより、川に行こうよ」
「ありさん。おもしろいよ?」
「たくさんいるね。変わり映えしないし、おもしろくないよ」
「ん。たくさんいる」
義姉さんは蟻の一匹をそっとつまみあげた。
天使のような微笑み。
「一匹がいなくなってもぜんぜんおどろかないね」と義姉さん。
「そりゃそうだよ。これだけたくさんいるんだから、別に一匹がいなくなったってどうってことない」
「たくさんいるから?」
「そうだよ」
存在の価値はその多寡によって決まることを、五歳のころの僕はなんとなく知っていて、
その後の義姉さんの行動を僕は決定づけてしまった。
いや、それは思い上がりかもしれない。
僕なんかの言葉で、義姉さんが影響を受けるわけがない。
義姉さんは地をはいまわる卑しい者たちとは違って、単に、最初から空を飛んでいる。
だから――。
義姉さんは蟻を躊躇なく口の中に入れたのだ。
「汚いよ」と僕は反射的に言った。
「だれから教えてもらったの?」
「お母さん」
「そう、えらいね」
義姉さんは幼児がよくするように、何でもかんでも口に入れてしまおうとして、蟻を食べたのではないらしかった。
「どうして大人は虫を食べてはいけないって言うか知ってる?」
「だから、汚いからじゃ?」
「汚いってなに?」
「ばい菌とか持ってるかもしれないし、お腹壊すよ」
「ありさんなら、食べてる国があるよ」
「だって、それ外国だし」
「ありさんが汚いっていうのは、日本の大人が言ってるの?」
「そういういいかたもできるかな。でも、虫を食べるなんて、そんな……」
「私はそういうのが嫌い」
「そういうのって?」
「ルール」
「ルール? べつに蟻を食べたからってダメってことはないと思うけど。おすすめはしないってだけで」
「ためしにお母さんの前でもやってみる?」
「それはおすすめしない」
「やっぱり怒られるから?」
「そうじゃなくて……、なんというか、変にみられるよ」
「そうだね。それがよくない」
「変にみるのがよくないって?」
「そう。それもだし、蟻を食べるのがよくないという考え方も」
「そう……。どうして僕の前では食べたの?」
「えーっと。なんとなく?」
「なんとなくで、変なことしないでよ」
「でも、のんちゃんは大人じゃないし」
「そりゃ、五歳児だしね……」
「普通の五歳児はそんなこと言わないし」
「僕はこういう性格なの」
「おっとなーでございますな」
「おっとなーでございますから」
まあ、凡人たる僕のことはどうでもいいとして、問題は義姉さんのその『異常行動』とも呼べるものだが、
当然のことながら、そのときかぎりの思いつきというものではなく、彼女自身の思想とも呼べるような、強固な意志に基づいたものだった。
つまりは、単純にその『異常行動』は続いた。
僕はそれをずっと見ることになった。
なんだろう。
蟻は穢れであるという思想は、五歳児程度の僕にもなんとなくわかっていたし、
八歳児である義姉さんもあたりまえのように持っている感覚だっただろう。
そうでなければ、義姉さんは蟻を食べる行動をしなかったように思える。
極端な話、
――変であるから
その行為をしたのだと思うのだ。
しかし、蟻を食べるのはよくないという思想を義姉さんは弾劾したかったのだろう。
あるいは、蟻を食べるのはよくないという思想の裏側にある「これはきたない。これはきれい」という思想を殺したかったのだろう。
今でこそ、義姉さんの思想をこうして自分なりの言葉に変換することも可能だが、言葉が足りない当時の僕にはなんとなくしかわからなかった。
だけど、言葉が足りないからこそ、その肌の感覚はとてもよく覚えている。
――人は蟻を食べれる。
さすがに八歳児にそれだけの語彙を求めるのは難しいから、なんとなくしかわからないし、
同じ行動を続けている現在の義姉さんに、同じ質問をしても結局それは現在の義姉さんから見た過去の義姉さんについての感想を述べているわけであって、
それはその時点における義姉さんの解釈にすぎない。
ただ、その『異常行動』だけは一貫している。
行動において一貫し、思想において完結している。
義姉さんが十二歳になって、僕が九歳になったとき。
僕は虫とり網を手に、義姉さんのパシリをやっていた。
正確には、いっしょに遊んでいただけともいえる。
このころから、すでに次元を超えた綺麗な存在になりつつあった義姉さんに、草っぱらをかけまわるようなことをさせたくなかったのだ。
いわば、従順な騎士のような気持ちだ。
僕は虫とり網でとった義姉さんへの供物を捧げる。
義姉さんは同年代の女の子のように、怖がったり、気持ち悪がったりはせず、それ――コオロギを受け取った。
手のひらにちょうど収まる程度のデカいやつだ。
義姉さんの手の中で、そいつは足をぴょんぴょんと動かしてもがいている。
「食べるの?」
「いまじゃないよ」
ニコリと笑う義姉さん。
べつに食べるのを躊躇しているからではない。
家の近所で虫をとるくらいならおかしくなくても、さすがに小学生女児がわりと大きめの虫を口にいれていたら、とりかえしのつかないことになりそうだから、
もっと人気のないところで、行為に及ぶつもりなのだろう。
ただ、僕の反応を楽しんでいるようにも見える。
義姉さんは小さな金属の菓子箱の中にコオロギを入れた。中からカツンカツンと小さな音がする。
コオロギが跳ねている音だろう。
「ねえ……」
「なに、義姉さん」
「のんちゃんは私のコレにつきあってくれるけど、どうしてかな」
僕は考える。
おそらくだが、僕は義姉さんの秘密ともいうべきコレに関して、独占していることに一種の優越感めいたものを持っていたのだろう。
誰も彼もが義姉さんの表皮についての評価しかしないけれど、僕は義姉さんの思想こそが、義姉さんの一番きれいなところだと考えているのかもしれない。
自分のことなのに、曖昧になってしまうのは、やっぱりそういったことはどこか意識に昇ってこない無意識の領分であるからだ。
結局、僕は無難に答えることにした。
「義姉さんが誰かにバレやしないか心配だから」
「のんちゃん、ありがとう」
照れなんて一切なく、義姉さんは僕の躰をかき抱いていた。
心臓がバクバクといっている。
僕はこのちょっとだけあたっている感覚をおそらく一生忘れないだろう。
「でも、のんちゃんも大概だね。私も自分が大概だってことくらいはわかってるけどね」
「なにが?」
「だって、普通だったら引くよね」
「まあ、そうかも……」
「全国のお茶の間を騒がせている超絶美少女が虫を食べるのが趣味って言ったら、みんなどう思うかな?」
「鉄格子のついた病院にいれようとするには、義姉さんは綺麗すぎるから、たぶんカウンセラーとかのもとに通うようになって、
お茶の間では『小学生の心の闇』とかなんとか騒がれることになるんじゃないかな」
「あはは。私、別に闇属性じゃないんだけどな。闇の炎に抱かれて萌えろ」
「中二にはちょっと早いんじゃないかな」
ちょっと萌えたけど。
「でもコレって別に中二じゃないよ。ねえ、のんちゃん。のんちゃんはどうして蟻は汚いのかわかったかな?」
「そういうふうにたくさんの人が思っているから」
「そうだね。じゃあ、どうしてたくさんの人が蟻やコオロギ……、虫全般を汚いって思うのかな」
「DNAじゃない?」
「それは正しいかもしれないね。じゃあ、ハムスターや猫と虫の違いってなんだろう」
「ハムスターや猫はかわいいけど、虫は生理的に気持ち悪いと思われがちな理由?」
「そう」
「動きとかかな……」
「それもあるかもしれないね」
「虫はなんか機械みたいで……」
「それもあるかもしれないね」
「虫は小さすぎて……、人間とはサイズが違いすぎるし」
「それもあるね」
「いろんなところが人間と違うから、虫のことを気持ち悪いと思う人間は多いのかも」
「うん。のんちゃんの言うことは全部正しいよ」
「他に何かある?」
「うーん。あとは森先生は『毛と体温』だって言ってたかな」
「確かにモフモフは大人気だね。あったかいと安心するし、命って感じがするんだろうね」
森先生というのが誰なのかは知らないが、僕はなるほどなと思っていた。
「でもね。私はもっと単純に言えるような気がするの」
「ふぅん。どんなふうに」
「異類恐怖症《ゼノ・フォビア》」
「人間は自分と違うものを恐怖する性質があるの」
「性質……」
「性質というより病かもね。いや、これは逆としたほうがいいかな。病というよりは性質。病気というよりキャラ的な?」
「言い直してるだけのように思えるけど」
「のんちゃん。印象って大事だよ。人は見た目が九割なんだから」
「だったら、義姉さんは九割ですでに圧倒しているから有利だね」
「そうでもないよ。私は異類だもん」
「……だから、異類恐怖症を治したい?」
「うーん。そうかも。でも、治らないよね。きっとそれはDNAの瑕なんだろうから」
「でも異類恐怖症がなければ、ここまで人間は生存しなかったように思えるけど」
「そうだね。その神経症的な性質が、石橋をたたいて渡らせ、将来の不安に対して備えるようになって、
魂の消滅を救済しようとして宗教という名の幻想を作った。人間が作ったすべての所有物は人間が神経症でなければ成り立たないものだね」
「だったら、別に治そうとしなくても」
「でもそれって、いろんなものを捨ててきてるよね」
「いろんなものって?」
「光をあてたら影ができるように、人が幻想を形にすれば、闇が生まれる」
「中二病だねぇ」
「そう、中二病。でも、そうじゃないかな? お金がなければ金の亡者は生まれない。宗教がなければ原罪は生まれない。
そして、人間という幻想がなければ、妖怪は生まれない」
「妖怪?」
「そう妖怪」
「人間という概念を幻想化した影が妖怪だって?」
「そう、だよ」
義姉さんは区切るように言った。
僕はごくりと唾を飲み込む。
そのあまりの美しさに。そのあまりの恐ろしさに。
忘我の心地で覗きこむ。
「私は妖怪なんだよ。のんちゃん」
3
そして、現在に至る。
義姉さんは隣で笑っていた。買い物はすでに済んでいる。
「今回の獲物……、その、温かいものってなに?」
「えーっとね。雀だよ」
「ああ、雀ね。義姉さん、さすがに雀はやめといたほうがいいよ」
「え、どうして?」
「雀はドブネズミ並に汚いって聞いた覚えがあるからね。さすがに義姉さんのお腹の中が寄生虫まみれになるのはいやだよ」
「脳みそ寄生されたり?」
「無いとは言えないかな……。ところで前から訊こうと思ってたんだけど」
「なぁに?」
「どうしても食べないといけないの?」
「そりゃ、ただ殺しちゃ意味がないよ。私は私の異類恐怖症をまず治したいんだよ」
そうなのである。
そもそも第三者を治したいなら、なにもこそこそやる必要はないのだ。
いわば、密教的なイニシエーション。
だからこそ、それは自分だけが助かるための儀式に過ぎない。
僕という他者に見られているのが、かろうじて、それを単なる儀式にはしていないけれど、
まずは自分が変わらなくてはダメって話。
ここらは当たり前すぎて聞いてなかったけど、
きっと他人を愛するには自分を愛さなくてはならないとかなんとかよく言われているように、
他人を治すにはまず自分が治らなくてはならないと考えているんだろう。
義姉さんは『異常行動』を行うが、べつに感覚が他の人とちがって、たとえば虫を食べると天壌の味がするというわけではないので、普通に不味いと感じているはずだ。
義姉さんが無理やりにでも自分の体性感覚を否定し、妖怪になろうとしているのは、彼女はそうしなくては生存できないからだろう。
なぜなら、義姉さんはもはや筆舌に尽くしがたいほど『綺麗』で、したがって、『異類』であるからだ。
義姉さんがもしも異類恐怖症であることを認めてしまえば、それは自己否定に他ならない。
だから、義姉さんの行動は一貫している。
義姉さんはいつだって生存したがっている。
自分を肯定したがっている。
「義姉さん。雀を殺しても経験値はスライム並だよ。だって、虫に比べれば雀は異類ではないからね。逆に親類にあたるから、殺すなという禁忌は強くなるかもだけど」
「確かにのんちゃんの言うとおりだね。けど、私からしてみれば、べつに対処療法しているわけじゃないんだよ。私は虫を食べまくって、そうやって変だって思われることを繰り返すことで、正常人基準で言えば、どんどん『異類』としての強度が増していっているの」
「つまり、どんどん妖怪化が進行している、と……」
「そうだよ。私は人間にはなれないから、だから妖怪として完成するの」
なるほどと思った。
雀は虫と比べれば、人間に近い存在だろう。
人間にとっての異類ではなく、親類といえるだろう。
だから、義姉さんが異類としての行動を繰り返すうちに、義姉さんの中の人間的な部分――要は異類恐怖症はひとつずつ克服されていったといえるわけだ。
それは同時に、義姉さんがどんどん異類へと近づいているという証であり、人間にとっての禁忌行為が義姉さんにとってのそれに当たらなくなっているということも意味している。
妖怪に人間の禁忌を、ルールを求めるほうがまちがっている。
「義姉さん。僕は一度も義姉さんとしての行動を制限したこともなければ、否定したこともないよね」
「うん。そうだね。のんちゃんは優しいからね」
「けれど、ひとつ、忠告というか忠言めいたことを言わせてもらうなら」
「うんうん。なんでも聞くよ」
「妖怪になってしまったら、人間の世界では生きられないんじゃないかな」
「でも今のままでも生きているとはいい難いわけですしおすし……」
銀河クラスの美少女が、眉に力を入れて悩んでいる。
ロダンの考える人が美少女化しているかのような芸術的光景だ。
義姉さんの場合は、すべての行為が芸術的な一枚絵に早変わりする。美術館に展示されていてもおかしくないほど。
「僕と違って頭のいい義姉さんならとっくの昔に気付いていると思うけど……」僕は物怖じしながら切り出す。「義姉さんってつまるところ殺人の練習をしているんだよね?」
「……そうなるのかな」
「だって、人間にとっての究極の異類は、人間という幻想の影、つまりは妖怪なんでしょう? 逆側から見れば、妖怪にとっての究極の異類は人間になるんじゃないかな。義姉さんが妖怪として完成するためには、人間こそ殺すべきなんだよ。義姉さんの思想を敷衍すると、結論的にそうならざるをえない」
「のんちゃんって、小難しい話が好きだね。遅れてきた中二病かな」
「まあ、いいんだけどね。義姉さんが小さな生き物を食べているのは、義姉さんが最終的な結論に至るのを遅延させているともいえるのだし、義姉さんもまだ人間らしく生活したいって考えている証なんだから」
「私は、人間のままじゃいられないよ……」
「義姉さんが妖怪になりきるのも割と難しいと思うけど」
だって、それは終わりのない終わりだ。
ゴールすらないどん詰まり。
義姉さんが妖怪になるってことは、人間らしさをまるきり失うってことで、つまりそれは人間を食べ続けるってことを指す。
義姉さんは頭がよくて、身体能力も高い超人の部類に属しているといえるが、さすがに数の論理には勝てるわけがない。
十万対一なら、人間よりもはるかに弱いゾンビでも人間を殺すのは訳ないように、義姉さんがいくら個として優れていてもいつかは官憲につかまるだろう。
いつかは電気椅子に座ることになるだろう。いや、日本の場合は縛り首だったかな。
「じゃあ私はどうすればいいのかな」
月が雲に隠れるように、美人が泣きそうな顔になっている。
それはそれで風情があるものだが、僕は義姉さんの精神も好きだから、義姉さんが悲しむのはいやだった。
「なにか方法があればいいんだけどね。たとえば、妖怪が暮らしている楽園のような場所を見つけるとか」
「死んだほうがいいのかなー」
「いや、別に死後の世界とかじゃなくて……、どこかにそういう場所があるかも」
「どこに?」
「それはこれから探すんだよ。べつに義姉さんも今すぐに人間をドロップアウトするわけじゃないでしょ?」
「そうだけどさ。のんちゃん。無いものは見つけられないんだよ」
「まだ無いって決まっているわけじゃないと思うけどな」
義姉さんは懐疑的な目をしていた。
まあ無理もない。
いくらなんでも荒唐無稽に過ぎる。
妖怪の楽園なんて。
そもそも妖怪とは異類恐怖症を捨て去ったモノたちのことを指す。いわば、異類だろうがなんだろうが関係がない。そこには一切の躊躇はない。虫だろうが人間だろうが、その対象がなんであれ、気持ち悪さを持たずに喰べる。
そんな言わば北斗の拳のような弱肉強食の世界にいきなり義姉さんが行ったとして、果たして生き残ることができるかは疑問だ。
いくら義姉さんが天才であっても、妖怪の中には義姉さんより強いモノはいるだろう。
どうやったら義姉さんは生存できるんだろうか。
考えながら路地裏を進むと、そこには古典的な罠が仕掛けられていて、中にはちゃんと雀が入っていた。
僕はいつかと同じように、義姉さんにその雀を捧げた。
もちろんそのままだと逃げてしまうから、僕が適度に弱らせておいた。
4
まあ、義姉さんとふたりなら、妖怪の楽園(仮)に行ってもいいかななんて夢想する僕がいる。
僕は身寄りのないひとりぼっちなのだし、家族と言えるとしたら、義姉さんだけだ。
義姉さんの家族とは、仲が悪いってわけじゃないんだけど、僕にとってはどうでもいい存在だ。なにより彼らも僕のことを見てもいない。
社会的な義務として、たまたまお鉢がまわってきたから、僕を引き取っただけで、そのことにそれなりの恩義は感じるもののそれだけだ。
家族的なつながりとか、血よりも濃い絆なんて一切感じたことはない。
そういう意味では、義姉さんもわりと僕に近い立場かもしれない。
義姉さんは美術品のように丁寧に扱われているが、義姉さんが妖怪であることにすら彼らは気づいていない。
それは義姉さんの擬態がうまいってことも理由としてあるのかもしれないが、それ以上に、彼らが義姉さんの内面に対して無関心を貫いているからだろう。
表面。
外皮。
それはもちろん大事で、人は外見が九割なんだろうけど。
僕には、よくわからない。
どうして、義姉さんのこんなにも綺麗な思想に惹かれないのだろう。
宝石のように綺麗な思想。
妖怪の思想。
人間には決して到達できない矛盾のない思想なのに、ほとんどの人間には理解できない。
クラスメイトたちがわいわいがやがやと何やら話している。
異類恐怖症に罹患している正常人たちにとっては、こういう雑談タイムがとても貴重なのだろう。
同じ時間を共有して、同じ話題で笑いあう。
クウキヨンデル。
なぜなら、自分が異類になってしまっては、それは恐怖そのものでしかないからだ。
義姉さんの思想は間違っていない。
彼女たちは一番多くの人間に好かれたら勝ちとでも思っているのだろう。
僕は人間のそういうあり方もあってよいと思ってるし、現に僕は学校に通う良い子であるわけだし、納得しているからこそここにいる。
けれど、義姉さんの在り方を考えてみたとき、同年代のクラスメイトの考え方は稚拙なように思える。
まがいもののようにも思えてくる。
「早苗さん」
そんな言葉がクラスのどこかから聞こえた気がした。
確か、去年の夏ぐらいに消えたって噂の子だ。
神隠しにあったとか。
クラスのみんなはそれぞれ自分勝手に自説を披露した。
例えば、借金の方に売られただの。
例えば、どこぞの国に拉致られただの。
例えば、不良と恋仲になってしまい、誰にも知らない場所に逃避行をしているだの。
早苗さんの消失は、そんな他愛もない話題提供として消費され、忘れ去られたはずだった。
それが今頃になって、なぜ?
『なんでも、早苗さんが消える前に、すごく綺麗な金髪の人と話してたらしいよ』
『金髪? 外国の人?』
『知らない。でも、人間離れしてたっていうくらいだから、外国の人じゃないかなぁ』
『へえ。でも今になってどうしてそんな話をしたの?」
『うん。実はね。最近になってその金髪を見かけた人がいるらしいんだよー』
『金髪くらいどこにでもいるでしょうに』
『でもすごくきれいで、すごく人間離れしていたって』
『ふうん。じゃあ、その金髪さんが神隠しの主犯ってわけ?』
『それはわからないけど……、でも妖怪みたいだって言ってた』
妖怪という言葉に思わず反応してしまった。
スッと周りを見渡してみても、特に変に思っている人はいないようだ。よかった。
今のは机につっぷして寝ていて、思わずピクっとしてしまう症候群のように見えたことだろう。
にしても、妖怪か。
いまさらながら妖怪という言葉がでてくるなんて驚いた。
審議は不明ながらも、もしも神隠しっていうのがあるんだったら、その人に掛け合ってみてもいいかもしれない。
しかし――、本当にそれが義姉さんにとっての幸せなのだろうか。
妖怪未満で人間未満の義姉さんにとっての幸せは、妖怪として完成することのようだったが、人間のままでいたいという至極当然な迷いのようなものもあるように思える。
おそらく、妖怪になるというのは不可逆的な反応で、一度なってしまったらもう二度と普通には戻れないとか、そんな感じなのだろう。
RPGで一度使ったらなくなってしまうアイテムを出し渋りしているうちにクリアしてしまうように、
義姉さんは自分の中の『人間』という幻想を今も大事に守っている。
ただこのままだとジリ貧なのも確かだ。
義姉さんはこれまでの十年くらいの経験のなかで確実に『異類』としてのレベルをアップさせている。
いつまでもスライムを倒してばっかりじゃ飽きてくるんじゃないだろうか。
最初は蟻だったのが、カマキリ、コオロギ、トカゲ、イモリと、少しずつ変わっていったのも、いつかは人間を食べてしまおうと考えて、
それを心のよりどころにしているからではないか。
なーんて。
義姉さんの心のうちなんてわかりようがないのに考えてしまう。
妖怪と人間の心なんて、水と油のようなもの。
理解を超えているからこそ妖怪であり、『異類』なのだ。
僕はせいぜいが来たるべきその時に備えて、義姉さんに食べられないように気を付けつつ、義姉さんが何をしたいかを見極めていくしかない。
時間をかけるしかないのだ。
正直なところ、早苗さんがクレイジーサイコレズな金髪美女に手籠めにされていたとしても、
そんなことは僕には関係ないし、義姉さんにも関係がないので、どうでもよいことなのである。
とか考えていたら、
ふと学校帰りの坂道で、
なんの気なしに視線を上にあげると、
義姉さんが凄まじく美人な金髪美女と話しこんでた。
僕は驚き、それからすぐに駆け出した。
今までの人生の中でこんなに早く駆けたことはなかったかもしれない。
「誰なの。義姉さん」
「あ、のんちゃん。いきなり失礼だよ」
僕は適当に相槌を打ちながら、金髪美女を視界に入れる。
確かに綺麗だ。
義姉さんのほうがずっと綺麗だけど、確かに綺麗。
そして人間離れしている。義姉さんのほうがずっと綺麗だけど。
その人は扇子をどこからか取り出して、口元を覆った。
「元気な子どもね」
「私の家族です」と義姉さん。
「あらそう。何だか私のことを警戒しているようだけど、気のせいかしら」
「のんちゃんは人見知りだから……」
「何の御用ですか?」
僕は帰れオーラを全開にして聞く。
「たいしたことはないのよ。このあたりに妖怪の気配がしたものだから」
さらりと放たれた言葉に、僕は一瞬だけ反応した。
さすがに今回は眠ってる時のピクッとなる症候群だとは言えそうにない。
「妖怪なんて、いるわけないでしょう?」
「本当にそう思う?」
「当たり前です。警察呼びますよ」
「ずいぶん嫌われたものね。まあ、あなたみたいな反抗的な子もわりと好みだわ」
ぞわりとするような得体のしれない感覚。
外見だけでは決してわからない、このまとわりつくような気配は、
義姉さんが獲物を食べる直前の表情と似ていた。
僕は直観的に悟る。
こいつは間違いなく妖怪だ。
人間とは違う理を生きる『異類』。
次の瞬間には何をするかわからない。
そしてわかりあえることは絶対にない。
偶然として、何かに惹かれることはあるだろうけれども。
少女として、たとえば『綺麗』なものに惹かれたりはするだろうけれども、
しかし、人間を喰う化け物なのだ。
境界を渡ってしまった彼岸の存在なのだ。
いつのまにやら手のひらから猛烈な汗が噴き出していた。
このまま義姉さんとここにいるのはまずい。
なにか、なにか言わないと。
「妖怪を探したいなら、もっと田舎に行くべきですよ」
「あらどうして?」
「こんな人間ばかりのところに妖怪がいるわけない」
「そんなことないのよ。そもそもあなた……、のんちゃんでしたっけ」
「望」
「ん?」
「望が僕の名前」
「あらそう。失礼しまわしたわ。では望さんが考える妖怪ってどんなものかご存知かしら」
「変な姿をしていて、人を襲うやつだろ」
「そうね。妖怪は様々な種族がいるけれど、すべて『変』であり『異形』と言えるわ。つまり、あなたはこう言いたいのですわね。ここのあたりに暮している人間は『異形』ではない。だから妖怪なんていない、と」
「そうだ」
「そこにいるじゃないの」
扇子が指し示す先は僕の後ろにいる義姉さんだ。
けれど、僕は応じない。
「義姉さんは綺麗なだけだ。そんなのは『変』でもないし、『異形』でもない」
「指し示す方向を少し誤ってますわねぇ。いいですか。人のカタチにありながら『異形』であることはそれほど特殊なことでもないのです。人間の最も奇形を許容する器官とはすなわち脳なのですから」
「脳が異形だと……。頭がくるってるって言いたいのか」
僕はぞんざいな口調を隠せなくなっている。
いけない。冷静にならないと。こういう狂ったやつは何をするかわからない。
「狂ってるなんて、ありきたりな言葉で表現してほしくありませんわ。ちょっとかわいらして人間離れしたキャラクターとでも思っていただいたほうが正確ですわね」
「そうですか。じゃあ、それでいいです。ところで、いったい何の用なんです。先ほどもお聞きしましたけれど」
「ですから、妖怪を探しているんですのよ」
「妖怪なんていませんよ。そもそも妖怪がいるとして、その妖怪をどうするつもりなんですか。ペットにでもするつもりですか?」
「たいしたことはないのですよ。はぐれ妖怪を保護したいと思っていますの」
「そんなのいない」
「そうですか。わかりましたわ。でも覚えておくといいわ。妖怪が妖怪らしく生きるためにはただひとつしか方法はありません。特に人間の中で長く暮らしていた妖怪にとっては、人間の中で暮らしていくのも難しいですし、たとえば魔界などの魑魅魍魎どもが暮らす世界でも生き抜くことは難しいでしょう。すべてを受容し、すべてを包みこむ器が必要です」
そしてそいつは言った。
「幻想郷においでなさい」
「幻想郷?」
やっぱりクレイジーだと僕は思った。
「様々な妖怪が暮らす、妖怪の楽園です」
「妖怪どうしが喧嘩したりしそうだけどな」
「最大限の自由を保障しておりますわ」
「どうやって?」
「最小限度のルールによって」
「でも、妖怪がルールを守るとは思えないんだけどな」
「そうですわね。妖怪には妖怪の本分がありますから、その本分から逃れることはできませんわ。
ですが、妖怪らしさを保ちつつ、それでもなお人間と共存することは可能です」
「どうやって!?」
「妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治すればよいのです」
「数の調整が難しそうだけど」
いけないな。
なぜこんなに真面目に話してしまっているのだろう。
金髪美女の言葉なんか、でたらめに違いないのに。
「数の調整は私がやっております」
「ずいぶんとアバウトな感じだな」
「確かに、そうですわね」
金髪美女は目を細めて僕を見た。
「たとえ妖怪がいたとしても、そんな得体のしれないところに行きたくないと思うだろうさ」
「行く行かないかは自由です。幻想郷はすべてを受け入れる場所。去るのも自由なのですから」
「じゃあ帰ってくれ」
「いいのですか?」
「え?」
「そちらの――望さんのお姉さまは違う感想をお持ちのようですが」
義姉さんは先ほどからずっと黙っていた。
けれど、その視線はうるうるとしていて、コオロギを見つめるときと同じだとわかった。
絶対に興味を持っている視線だ。
「ともかく帰ってくれないかな。義姉さんは綺麗だけど、れっきとした人間なんだし」
「わかりました」金髪美女は扇子を閉じた。「ですが、これは楽園行きの最後の切符になるかもしれないことをゆめゆめお忘れなきようお願いしますわ」
「どうしてそこまでするのかわからない」
「オーナーが自分の土地にお客を呼ぶのがそんなに変かしら」
「……早苗さんもそこにいるのか?」
金髪美女は妖艶に笑った。
「いるわ」
5
翌朝、僕がベッドでうとうととしていると、不意に扉があいて、義姉さんが入ってきた。
トットッという小さな足音を響かせ、僕の寝ているあたりで止まる。
僕は多少驚いていた。
義姉さんはああ見えて、人との差異をいつも気にしていて、誰かの気に障ることは極力しない人だ。
僕は、人と接触するのはあまり好きではなく、どちらかと言えば放っておいてほしいタイプだった。
たとえ、それが綺麗な義姉さんであっても。
そのことを義姉さんはもちろん見抜いていて、その境界を踏み越えたことは今の今まで無い。
「どうしたの。義姉さん?」
昨日の今日で、あまり義姉さんを刺激したくなかったので、僕は柔らかく言った。
「ねえ、のんちゃん」
「なに?」
「のんちゃんは幻想郷に興味ある?」
「あの外国人の言ったことが本当だって思ってるの?」
「外国の人かな。顔は日本人顔だったけど。染めてるんじゃない?」
「そんなのはどうでもいいよ。あんなの妖怪で十分だ」
「じゃあ、妖怪さんでもいいけど。私は本当だと思うんだけどなー」
「どうして?」
「えー、なんとなくかなー」
「なんとなく? どっちかというと変態レズが早苗さんを拉致したと考えるのが妥当だと思うけど」
「そういう感じはしなかったよ。だって、優しそうだったじゃない」
「見た目は確かに柔らかい感じはしたけどさ。どこか変だったでしょ。あんなのについていったらダメだよ」
「私は子どもじゃないんだけどなぁ」
義姉さんはいつも以上にニコニコしながら、自分の髪の毛をもてあそんでいる。
何を考えているのか正直なところ、僕にはわからない。
けれど、ひとつだけ確かなことは、義姉さんは幻想郷に興味を持っているってことだ。
「義姉さん、自分が妖怪になりきってしまえば、幻想郷に行けるとか考えてないよね?」
「え、違うの?」
「わからないよ。そもそも幻想郷があるかどうかもわからないんだから」
でも――、と僕は続ける。
「幻想郷が本当にあったとしても、行かないほうがいいと思うな」
「どうして?」
「だって、妖怪っていうのは基本的に独り身なんだと思うよ。誰にも相容れない。だって、妖怪はそれ自身が異類なんだ。同類も親類もいない。だからこそ妖怪なんだろう。だったら、そんな妖怪が多く集まっても、そこはおそらく……」
僕は言葉を濁す。
そこはおそらく、刑務所、実験場、施設、精神病棟、そんな言葉が渦巻いた。
そう、そこは強力な統制こそが必要な場所になるはずだ。
妖怪には自制の心はそんなにない。
妖怪の心には、基点となる部分がない。
心が無いとか、感情がないという意味ではなく、言わば、無意識にあたるものがない。
無意識の残骸はあるけれど。
普通の人間なら当たり前に持っている原風景。
お父さんがいて、お母さんがいて、あるいは誰か親しい人がいて、
僕はブランコに乗っている。
夕方で、
遠くから呼ばれて、
きっと、宇宙人のように僕は両の手を大事な人とつないだ。
そんな風景が、
あるはずなんだ。
普通と呼ばれる人たちには!
「ねえ」義姉さんはゆったりとした口調だった。「のんちゃん」
「なに、義姉さん」
「私、もう飽きちゃった」
「そう」
「何に飽きたか聞かないんだね」
「わかりきってるからね」
義姉さんは飽きている。
蟻を喰べるのに飽きている。
コオロギを喰べるのに飽きている。
カマキリを喰べるのにも、イモリやヤモリも、雀にも、猫にも犬にも、ハムスターにも。
飽きている。
飽きて、飢えて、それでも我慢して、破裂寸前の風船のように、義姉さんの無意識は限界を迎えている。
「殺したいよ」
うめくように義姉さんは言った。
「人間を殺したい」
懺悔するように義姉さんは言った。
6
僕は迷っていた。
義姉さんにとっての幸せとはなんだろう。
仮に義姉さんが妖怪になったと仮定して考える。
妖怪には人間らしい心がないかというと、そういうわけではないんだと思う。
ひどく当たり前のように食事として、あるいは食事じゃないかもしれないけれど、
何かを……そう、何かを補給するための行動として、人を殺して、人を喰べるけれども、
それでも人間と会話を交わすことはそんなに難しいことではないように思う。
特に義姉さんは頭がいい。
脳髄が他の誰かに劣っているとか、気が触れているとか、そういうわけではない。
きっと、義姉さんが妖怪になったとしても、僕のことはあいもかわらず『のんちゃん』と呼ぶだろうし、僕のことを家族として扱うこともやめないだろう。
下手を打てば、喰べられてしまうかもしれないけれど、別に妖怪じゃなくても人殺しはいるわけだし、確率的にちょっと危険率があがるだけにすぎない。
人殺しだから妖怪ってわけじゃないし、妖怪だから人殺しってわけじゃない。
精神的な意味において、妖怪は人を殺すことに躊躇がないってだけだ。
人殺しの殺人には意味があり、理由があり、言い訳がある。
心理的な理由、いわばお茶の間でいうところの『心の闇』なんてものがやっぱり存在する。
だから殺すときは普段おおわれているはずの心の闇が表に出てきただけであって、それはその人の行動原理を少しも逸脱していない。
妖怪も人殺しと同じように人を殺すけれども、それは厳密に言えば『殺したい』からではないんだ。
義姉さんはそこがまだ妖怪の卵状態なところなんだと思う。
義姉さんがもしも妖怪になってしまったら、『殺したい』なんて言うわけもない。『殺しちゃった』なら使ってもいい。
でも、義姉さんが単なる人殺しと違うこともまた理解できる。
義姉さんは、サイコパスのように人を殺すことに快楽を感じてるわけではない。
政治的理念を達成するために殺すのではなく。
なにかしらの欲求を満たすために殺すのではなく。
トラウマが発露して殺すのではなく。
心の闇がそうさせるのではない。
義姉さんの心には闇なんてものはない。そんな構造化されたものなんて一つも存在しない。
自然とそうなる、というか。
それは……、そう。
普通であれば、持っているはずの最後のセーフティネットが働かないという意味合いでだいたいあってると思う。
そのシステムがあること自体は理解できるのだが、その作動原理を理解できない。
ただ同じような行動をとるように、模すことはできるだろう。
義姉さんは頭がいい。
だから、本当の意味での理性でもって、つまり無意識外の意識でもって、壊れかけの無意識を制御している。
人間という幻想を保持しようとしている。
殺さないように努力している。
それは疲れる。
だから、『殺したい』という言葉が出たんじゃないだろうか。
まあ、どうでもいい。
要は、義姉さんが妖怪化しても僕は全然困らない。
ただ困るのは、おそらく義姉さん自身じゃないかと思うのだ。
どうして、そんなに人間でありたいのか。
では逆に、義姉さんが人間であり続けることを選んだとしよう。
この場合、義姉さんはどうなるのだろう。
義姉さんが壊してきたのは義姉さん自身の異類恐怖症であり、普通の人間が当たり前に持っている機能だ。
壊しきってはいないけれど、ボロボロになった無意識。
人間という幻想は、義姉さんの中ではもはや風前のともしびのはず。
今から、まともな人間に戻ろうとしても、もはや遅すぎる。
義姉さんはとっくの昔に気付いている。
小さな虫を躊躇なく殺したときから。
あるいは、僕と会ったときから。
――人は人を殺せる、と。
7
あれからそう遠くない日。
僕はいつものように義姉さんと連れ立って学校に出かけていた。
義姉さんの親たちは、いつものように義姉さんが綺麗でいるように言って、義姉さん自体を見ようともしていなかった。
義姉さんはきっと殺すだろう。
きっと、一番迷惑がかからない方法で、妖怪として変異する。
まるでひとつの花のように、壮絶たる妖花として開花する。
遅かれ早かれ、そうなる運命だったのだろう。
きっと、一つまみの蟻を喰べたときから、そう決まっていたのだ。
僕が学校から帰ってくると、
義姉さんは血まみれで、それは返り血で、
そして、義姉さんは包丁を妖怪のかぎ爪のように握っていて、
義姉さんをここまで人間として育ててきた両親は無残にも惨殺されていて、
そして……、そして、義姉さんは震えていた。
震えながら、泣きながら、笑っていた。
「のんちゃん」
「なに。義姉さん?」
「死んでるよ。お母さんも、お父さんも」
「だから震えてるの?」
「違う。違う。違う。そうじゃなくて、そうじゃなくてさ。あのね。のんちゃん……」
「なに?」
血まみれの義姉さんも、やはりこの世のものとは思えないほど綺麗で、
僕は一瞬、気絶するように見とれた。
「私、お母さんが死んでるのに、お父さんが死んでるのに、ちっとも哀しくない!」
「そう……、それは義姉さんが既に妖怪だったってことなんじゃないかな」
「そう、だね。そうだよね。ずっと私は変だったもんね。こんなにいっぱいの命を意味もなく奪って……、だからいまさら人間がひとりふたり死んでいても、何も感じない」
「義姉さん。それは少し違うと思うんだけど。僕は可能性のひとつとして、義姉さんが妖怪として完成しているんじゃないかと思っただけで、それはあくまでも可能性のひとつにしか過ぎないんだよ。だって、義姉さんは泣いてるし、震えてるし、でも笑っている。そして、なによりも僕には義姉さんの心なんて正確な意味では、ひとつもわからないんだから」
義姉さんが驚いたように僕を見る。
「言ったでしょ。妖怪は独り身なんだよ。人間は人間の幻想によってわかりあえると思うことができる。でも、妖怪にはそんな便利な機能なんてついてないから、わかりようがない。もちろん、いろんな経験やらデータから、そう思ってるのだろうなといったことを推測することはできるけれど、わからないのが妖怪にとっての普通なんだよ」
「のんちゃんは私のことを人間だと思ってるの?」
「うーん。そうだね。たぶん半分くらいは人間なんじゃないかな」
「そんな中途半端な」
「僕は妖怪と人間はグラデーションのようになっていると思うんだよね。きっちりと白黒つけるような境界なんて存在しない。異常も正常もどこまでも相対的で、誰かから見た異常が誰かから見た正常だ。だから、僕の個人的な意見として言わせてもらうなら……。そうだね。義姉さんはどこまでもどこまでもただの綺麗な人間だよ」
カランと――、包丁が地に落ちる音がする。
血染めの躰をかき抱き、義姉さんは何かに絶望しているようだった。
妖怪にもなりきれず、人間にもなりきれない。
そんな中途半端な存在が、義姉さんという存在が、僕は愛しくてたまらない。
一歩――、
僕は危険を承知で、義姉さんに近づく。
どうなってしまうかわからない危険を承知で、
その美しき魔性へと近づく。
そっと、顔を手のひらで包み、いまだ身動きひとつすらできない義姉さんに僕はそっと口づけた。
それだけだった。
それだけで終わりだった。
8
「それだけですませてしまうのですね」
振り向くと、あの金髪美女がいた。
いい加減にうっとうしい。こいつストーカーか何かか。
僕が殺意をもって睨みつけるも、どこ吹く風というやつだ。
やはり妖怪はいけ好かない。どいつもこいつも……。まったくもって埒外の存在だ。
「こんなところにまでやってくるなんて、不法侵入ですよ」
「凄惨たるこんな血だまりの場所で、不法侵入もないでしょう。それに――」
と、涼やかな声が続く。
「あなたは私が来ることを予期していたんじゃないかしら」
「そんなことわかるわけないじゃないですか」
「そうかしら」
怪しげなほほえみを浮かべる様は、僕の義姉さんとよく似ていた。
「では、少しだけ講義の時間をしましょう。生まれたてのひよっこ妖怪さんもいることですし、よろしいかしら」
「どうぞ?」
「妖怪の起源はもうおわかりですわね」
「脳の異常っていいたいんだろ」
「それは原因の一つかもしれないというだけで、起源のことを指すのではありません。起源とはモノの存在論的な構造です。いいですか。人間は生まれてからずっと人間だったわけではありません。生まれて最初のころ、言葉も持たない最初のとき、『人間』なんていう概念は赤ん坊の中にはないのです。ですから、それは『モノ』と同じでした。なにもかもが未分化で、なにもかもがあいまいで、なにもかもが無限とも思える海の中にたゆたっていました」
「胎児のように……」
義姉さんが茫然としながら、つぶやくように言った。
僕はチラリと視線を義姉さんにうつし、また前を向いた。
金髪美女はこくりと肯定の意を示す。
「そう、『人間』は後天的に作られた概念なのです。恣意的に選択された幻想にすぎません」
「でも多くの人はその幻想を知っている」
「そう、しかし、少ないながらも幻想を幻想だと気づいてしまうものもいる。自分のまわりにあるモノが、たとえば、ここにあるテーブルが、ここにあるドアが、言葉を持たなかった当時は『モノ』であったことを思い出してしまう人がいる。人も『モノ』であると認識してしまう存在もいる。自分の周りのあらゆる言葉が反逆する。『モノ』があふれて、すべてが混沌へと帰していく。それは恐怖であるのでしょう。人間の中の賢しいものたちはそういった『モノ』に対する恐怖を名づけることで、回避しようとしました」
「ああそれが……」
「そう、それこそが『モノノケ』、すなわち妖怪と呼ばれるものの起源です」
「で?」
まさしく、「で?」であった。
よくわからない得体の知れなさはあったが、どうしてそんなプチ講義をする必要があるのか意味がわからない。
「自分の起源を知るのは必要でしょう」
「そうかもしれないが……、でも義姉さんはまだ人間なんだよ。妖怪がどういう存在かなんて関係ない」
「まだシラを切るのですね。私はあなたのことを言っているのですのよ。望さん」
「僕が妖怪だって?」
「そうです。そしてあなたは自覚的です。気づいたら妖怪だったとか、そういう話ではない」
「どうしてわかる」
「どうしてって……、それはそうでしょう。あなた、お姉さまの実のご両親を殺しているじゃありませんか。ひとつの躊躇もなく、ひとつの計算もなく、単に自然とそうなるといった感じで……。でもずいぶんと人間らしい殺し方ですのね」
まあ、それはばれると思ってた。
人間らしく殺してみたけれど。生粋の妖怪にはさすがにばれるということなんだろう。
「義姉さんは知ってた?」
「わからない。たぶん知ってたと思う……」
「僕のこと怖い?」
「のんちゃんはのんちゃんだから」
「そう……、ありがとうね」
金髪美女は扇子を優雅に広げ口元を覆った。
「これは驚きました。あなた、そこにいる義姉のことが本当に好きなんですのね」
「ああ、そうだよ!」
いらだたしげな声が出るのは致し方ないところだろう。
僕は思春期で、敏感なお年頃なのだ。
「それで、どうしてご両親を殺そうと思ったのです?」
「だって、そうしないと、義姉さんが殺してしまうでしょう? そうしたら、義姉さんは妖怪になるしかなくなる。疑いようのない完璧な妖怪だ。僕は人間にも妖怪にもなりきれない、そんな終わりもなく、救いもなく、どうしようもない、そんな義姉さんが好きだったんだ」
「だから、義姉が人を殺し、妖怪として完成するのを防いだというわけですの?」
「そうだよ」
「では逆に聞きますが、あなたは最初にそこの彼女と出会ったときにはどうしたかったんでしょう?」
「どうしたかったとは?」
「喰べたくはなかったのかと聞いているのよ」
「義姉さんは、僕と会ったとき、最初から綺麗だったし。喰べるともったいないと思ったよ。もちろん喰べるかもしれなかった。ちょっと間違えば、義姉さんはここまで生きてこれなかったかもしれない。そんなのわかるわけないじゃないか。妖怪には自分の心さえよくわからない。でも、僕自身としては殺さないように努力をしたし……、そう雀だって、虫だってグチャグチャにしてしまいそうになるのを本当に我慢したんだ。最初は義姉さんを妖怪にしてしまって、僕と同じになればいいと思った。でも、そうしたところでやっぱり妖怪は妖怪だ。たとえ家族の絆があったとしても、独り身なのは変わらない」
「妖怪が恐怖したというのですね。義姉が妖怪になってしまえば、心が変わってしまい、自分のことを見てくれなくなるかもしれないと、そう考えたわけですね」
「そうかもしれない」
「そうですか。ところでこれからどうするおつもり?」
「幻想郷に行くのは誰だって自由なんでしょう? それとも人間社会で暮らしてきた妖怪にはその資格はないと?」
「いいえ。どなたも拒むことはありません。幻想郷はすべてを受け入れる。それはそれは残酷な話ですわ」
「そうか。よかった。僕の願いはただひとつだ」
――綺麗なモノが好きな妖怪がいる。、
僕は義姉さんが好きだった。
義姉さんが綺麗だから。外見もだけれども、その心のカタチも。
だから、いつだって僕の願いは義姉さんといっしょにいることだった。
そのためには、自分の血がつながった両親を殺して、義姉さんの家に転がりこむことだってするし、
コオロギもカマキリも、雀もハムスターも猫も犬も、半死の状態にして捧げるし、
義姉さんの両親だって一切の躊躇なく殺せる。
ああ、こういうところが人間っぽいって言われるのかもしれないな。
僕は僕の利益を考えている。
理由を考えて殺している。
これではまだまだ妖怪らしいとは言えないかもしれない。
「義姉さん。僕は義姉さんが一緒に行ってくれるなら幻想郷に行きたい。義姉さんから見れば、僕なんて単なる人殺しで、母親と父親を殺した憎い仇なのかもしれないけれど……」
「のんちゃんはどうして心変わりしたの?」
「ん?」
「最初は行きたくなさそうだったのに」
「ああ……、べつに僕にとってはどうでもよいのは確かかな。ちょっとはそりゃ異世界っぽいところで暮らしてみたいっていう気持ちはあるけれど、それよりも基本は義姉さんといっしょにいれれば、僕はそれで満足なんだ。だから、義姉さんが先に幻想郷に行ってしまって置いてきぼりをくったら嫌だと思っただけ」
「いっしょについてくればいいのに」
「義姉さんには人間のままでいてほしいとも思ってたんだよ」
「なるほど……」
超がつくほどに美しい義姉さんが、血まみれの姿で考えている。
しかし、その姿はすぐにいつもの優しい顔へと変わった。
「いいよ」と一言。
「本当にいいの? 憎いとか思わないの?」
「わたしだって妖怪になりかけだし、これっぽっちも哀しくなかったっていうのは本当だよ。あの人たちは私のことなんてたいして見ていなかったじゃない」
「まあそうだけど……。まあいいか。どうせ僕たちはわかりあえないんだから」
「わかりあえないけれど、いっしょにいることはできる。そんなものじゃないかな」
「義姉さんはまだまだ人間だなぁ」
そして、僕たちは笑いあった。
すがすがしく血だまりの家の中で。
死人に口なしである。
「さて、その恰好で行くのはさすがによろしくないですわね。まずは血だらけの服を着替えなさいな」
旅行に出発するようなワクワクした様子で、義姉さんは自分の部屋に駆け戻っている。
僕はその場でつったっていた。
義姉さんはお気に入りの服をいまごろトランクに詰め込んでいるのだろうが、
僕は着替える必要もないし、服にもそんなに興味はないので慌てる必要はなかったのだ。
「望さん?」
「なんですか?」
「あなたはなぜ着替えないのです? せっかくの新天地ですのに」
「いいよこれで……」
僕は学校帰りの制服姿だ。
動きやすい服だといえるし、べつにこれでいい気がした。
いちおう曲がりなりにも妖怪なのだし、妖怪とは異形である以上、人間のように着飾る必要もないと思うのだ。
「ダメです」
と、金髪美女――紫さんは言った(名前はさっき聞いた)。
すでに保護者気取りなのだから困る。
確かに聞くところによると、千年以上続く幻想郷のオーナーをやっていた紫さんからすれば、
僕なんかまさしくただのひよっこ妖怪に過ぎないのだろうけれど。
ああ、それにしてもこれでは殺してしまった僕の血のつながった両親のようじゃないか。
しかも今回ばかりはどうがんばっても殺せそうにない。
「さあ、着替えてらっしゃい」
紫さんは母親のように優しく命令する。
「あなたに似合うとびきり可愛らしい洋服に。妖怪だとしても――妖怪である前に、女の子なんですからね」
僕には義姉さんがいる。
もちろん、義姉というくらいだから血は繋がっていない。
あるいは義姉さんは誰とも血が繋がってないのではないか、と僕はひそかに疑っている。
戸籍上は確かに、義姉さんは義姉さんの両親と血縁関係にあるのだけれど。
錐であけられた小さな穴のような疑念を完全に消すことはできない。
どうしてそう思うのかだって?
血は似せるものだからだ。
普通、トンビの子どもはトンビであって、カエルの子はカエルだ。
言葉上の綾としてトンビが鷹を生むことはあるかもしれないが、あくまでそれは言葉遊びに過ぎず、
普通はDNAのくびきから逃れることなんてできやしない。
そう、普通は。
義姉さんは違った。
たぶん突然変異なのだろう。
義姉さんはこの世のものとは思えないくらいの綺麗な人のカタチをしている。
黒い金剛石のようなどこまでも深みを帯びた瞳。
髪は夏の雲のように豊かで、けれど、秋の稲穂のように綺麗なウェーブを描いている。
肌は白雪のよう……。
ああ、ちくしょう。
やめだやめだ。
まるでできそこのないの小説みたいな、あまりに稚拙な表現に死にたくなってくる。
こんな言葉なんて、義姉さんのカタチをなにひとつ表していない。
表してないというのは言い過ぎかもしれないが、せいぜいが一つまみ程度しか表せていない。
超然としたまなざしは、ずっと先を見通すかのようで、義姉さんの視線の前では、僕はいつも罪を犯した子どものような気分になる。
叱るとか怒るとかそういう意味合いはないのだろうけれど。
ただ、その視線で殺されてしまうのだ。
テレビでよく見かけるアイドルグループやモデルや、そこらの歌手なんかよりも、恐ろしく均整がとれた躰。
可愛いという一文字が欠片も入りこむ余地がないほどに、ただ美しいという言葉で埋め尽くされる。
思うに、可愛いという言葉は『逃げ』があるのだろう。
可愛いは僕ら凡人が対象を所有するための言葉だ。
可愛いと言っておけば、彼女を自分の手のひらのなかに封じこめておける気がする。
あるいは、視線のうちに楽しむことが許される。
そういう免罪符として、可愛いという言葉は機能する。
けれど、僕の義姉さんはありえないくらいに綺麗なんだ。
町を歩くと、まず周りの人間は驚き、そして普通なら凝視するところだろうけれど、義姉さんを見た人間の反応は真逆。
誰もが、視線を落とし、それから避けるように去っていく。
怖いくらいに綺麗。
恐怖するほどの美しさ。
そういった類の人間離れしたカタチ。
本能的に、僕らはそういったカタチを避けたがるのだろう。
いつからだったか。
僕と義姉さんが同じ家に住むようになってから。
いや、あるいはもっと前から。
彼女に出会ったころから。
――僕は義姉さんが妖怪だということに気づいている。
義姉さんと僕とは三つほど年が離れている。
遠縁の親戚筋で、幼いころに何回か会ったことがある。
そのころから義姉さんは天使のように美しく、そして悪魔のように美しかった。
義姉さんが義姉さんになったのは、三年前の出来事だ。
なんのことはない、ありふれた事情。
僕の両親が事故であっけなく他界し、身寄りがいなかった僕は引き取られたというわけだ。
小学生を卒業するころだった。
それ自体はたいしたことではない。
今の僕がそのころと同じく、近所の中学に通うありふれた凡人であることは変わりないことだし、
義姉さんがあいもかわらず奇跡としかいいようがないほどに綺麗な人であることは変わりない事実だ。
ただ、義姉さんが僕の義姉さんになったということが重大だ。
関係性の変化。
家族という絆を結んだことになる。
それが素直に嬉しい。
不謹慎なことに僕は両親が死んだことよりも義姉さんといっしょに暮らせる嬉しさのほうがわずかに勝った。
べつに哀しいとか、感じないわけじゃないけれど。
これから独りで生きていくことに不安を感じないわけではないけれど。
そんなことが些細に感じてしまうほどに、義姉さんの存在感は圧倒的だった。
太陽のまぶしさの前では、夜の闇なんて、全て隠されてしまう。
だから、僕は何も感じなかった。
人に話せば、変に思われるかもしれないけれど、
僕にとっては真実、親の死はその程度のことだった。
「のんちゃん」
鈴の鳴るような声が聞こえ、僕の心臓は跳ねるようにリズムを刻んだ。
義姉さんの声だった。
義姉さんは怖いくらいの美人だったが、別に本当に怖いわけではない。
それどころか、僕のことを本当の家族のように扱ってくれる。
それ自体はべつに不満なわけではないのだが、しかし「のんちゃん」というネーミングはどうなのだろうか。
僕の名前「望」だから「のんちゃん」という安直を一週して、どこかのゆるきゃらのようなネーミング。
憤懣やるかたなし、だ。
「義姉さん」僕はドアを開けながらアニメのダウナー系キャラのような声を出す。「何度も言ってるけど、のんちゃんはやめてよ」
「え?」
「え?」
なにその不思議そうな顔。
「のんちゃんをのんちゃん以外で呼ぶなんて、ドラえもんの声をスネークが担当するようなものだわ」
アニメを超越する姫様系ボイスで、ずいぶん俗世間にまみれたことをいう義姉さんだった。
「正直、中学も卒業間近なのに、義姉から『ちゃんづけ』されるのって、すごく恥ずかしいんだけど」
「べつにおかしなことじゃないでしょ。中学生なんてまだまだ子どもなんだし、それにのんちゃんって小さいし」
「うぐ」
僕は確かに小さい。
義姉さんより頭二つ分くらいは小さい。
義姉さんの身長は170センチ前後で結構高いというのもあるが、それにしたって、どうしてこうも差がでるのだろう。
いつも『前へならえ』で前がいない僕である。
「身長で差別するのはよくないよ、義姉さん」
「べつに差別しているわけではないんだけどな。私は差別はされるけれども差別はしないよ。のんちゃんは特別なの」
「家族だから?」
「違うよ。のんちゃんだからだよ」
いまのやりとりを見ていると、義姉さんはポワポワしているというか、天然系のように思うかもしれないが、
僕以外の人とこんなに気安いやりとりをしているところを僕は見たことが無い。
それはそうだろう。
一億円の宝石がすぐ傍にあったら、普通の人間は尻込みをしてしまう。
だから、義姉さんもほとんどの人間に対して、興味がなさそうにふるまう。
「ところで何の用? わざわざいじめるために多感な年ごろの僕の部屋を開けたわけじゃないでしょ」
「そう。今日はすき焼きなんだって。買い物は我々にまかされたのでありますぞ。軍曹殿」
目もくらむような美人が、にこやかに笑いながら敬礼している。
もう少し『可愛らしさ』にパラメータ振っていれば、様になるんだろうけれど、
綺麗すぎて逆に違和感というすさまじさだ。
しかし、僕は慣れていた。
人間の一等偉いところは、どんなことにも慣れることだろう。
僕も人間の伝統に従い、義姉さんの綺麗さには慣れることにしているのだ。
「さようでありますか。少佐」
僕も敬礼を返すのだった。
2
ところで、義姉さんが妖怪であるというのは、義姉さんが死ぬほど綺麗だからというわけではない。
それは単なる外皮であって、表層であって、誰の目にも明らかなところだから、別に否定はしないが、わかりやすすぎる要素だ。
そんなことよりも、その性格の――というべきか、性質のというべきか。魂の在り方が特殊なのだった。
「のんちゃん。私、そろそろ温かいものに挑戦しようと思うの」
「ふぅん……」
歩きながら、義姉さんは太陽のような笑顔を向けてくる。
僕は極力視線を前に向けながら、歩いた。歩き続けた。それは予感だった。
こんな気安い言葉。
こんな買い物に行くついでで話すような雑談。
こんな会話を僕はずっと前に義姉さんとしたことがある。
昔の話。
けれど、そんなに大昔ってわけじゃない。
最初に義姉さんと会ったとき、僕はまだ五歳で、そして義姉さんは八歳の子どもだった。
そのころからすでに神の子レベルの美幼女だったのだが、さすがに可愛らしさも有していた。
思えば、このころの義姉さんが一番、人間的なレベルで綺麗でかわいくて、僕としては好きだったかもしれない。
ロリコンではなく……。
ともかく、五歳児の僕は家族どうしの付き合いということで、義姉さんの家に遊びに来ていたのだが、
ありがちなことに大人は大人どうし、子どもは子どもどうしということで、義姉さんとふたりきりで遊ぶことになったのだった。
僕は遠慮がちに義姉さんの後ろを歩いていた。
そうしたら、義姉さんは不意にしゃがみこんだ。
「どうしたの」と僕は訊いた。
「ありさん」と義姉さんは答えた。
見ると、蟻が列をなして進んでいた。
軍隊のように整列し、一糸乱れぬ行進だ。
僕はそのころから割と早熟で、言ってみれば擦れた子どもだったから、
蟻なんかより自分にかまってほしいという子どもっぽい感情が湧いた。要は蟻に嫉妬したんだ。
「そんなことより、川に行こうよ」
「ありさん。おもしろいよ?」
「たくさんいるね。変わり映えしないし、おもしろくないよ」
「ん。たくさんいる」
義姉さんは蟻の一匹をそっとつまみあげた。
天使のような微笑み。
「一匹がいなくなってもぜんぜんおどろかないね」と義姉さん。
「そりゃそうだよ。これだけたくさんいるんだから、別に一匹がいなくなったってどうってことない」
「たくさんいるから?」
「そうだよ」
存在の価値はその多寡によって決まることを、五歳のころの僕はなんとなく知っていて、
その後の義姉さんの行動を僕は決定づけてしまった。
いや、それは思い上がりかもしれない。
僕なんかの言葉で、義姉さんが影響を受けるわけがない。
義姉さんは地をはいまわる卑しい者たちとは違って、単に、最初から空を飛んでいる。
だから――。
義姉さんは蟻を躊躇なく口の中に入れたのだ。
「汚いよ」と僕は反射的に言った。
「だれから教えてもらったの?」
「お母さん」
「そう、えらいね」
義姉さんは幼児がよくするように、何でもかんでも口に入れてしまおうとして、蟻を食べたのではないらしかった。
「どうして大人は虫を食べてはいけないって言うか知ってる?」
「だから、汚いからじゃ?」
「汚いってなに?」
「ばい菌とか持ってるかもしれないし、お腹壊すよ」
「ありさんなら、食べてる国があるよ」
「だって、それ外国だし」
「ありさんが汚いっていうのは、日本の大人が言ってるの?」
「そういういいかたもできるかな。でも、虫を食べるなんて、そんな……」
「私はそういうのが嫌い」
「そういうのって?」
「ルール」
「ルール? べつに蟻を食べたからってダメってことはないと思うけど。おすすめはしないってだけで」
「ためしにお母さんの前でもやってみる?」
「それはおすすめしない」
「やっぱり怒られるから?」
「そうじゃなくて……、なんというか、変にみられるよ」
「そうだね。それがよくない」
「変にみるのがよくないって?」
「そう。それもだし、蟻を食べるのがよくないという考え方も」
「そう……。どうして僕の前では食べたの?」
「えーっと。なんとなく?」
「なんとなくで、変なことしないでよ」
「でも、のんちゃんは大人じゃないし」
「そりゃ、五歳児だしね……」
「普通の五歳児はそんなこと言わないし」
「僕はこういう性格なの」
「おっとなーでございますな」
「おっとなーでございますから」
まあ、凡人たる僕のことはどうでもいいとして、問題は義姉さんのその『異常行動』とも呼べるものだが、
当然のことながら、そのときかぎりの思いつきというものではなく、彼女自身の思想とも呼べるような、強固な意志に基づいたものだった。
つまりは、単純にその『異常行動』は続いた。
僕はそれをずっと見ることになった。
なんだろう。
蟻は穢れであるという思想は、五歳児程度の僕にもなんとなくわかっていたし、
八歳児である義姉さんもあたりまえのように持っている感覚だっただろう。
そうでなければ、義姉さんは蟻を食べる行動をしなかったように思える。
極端な話、
――変であるから
その行為をしたのだと思うのだ。
しかし、蟻を食べるのはよくないという思想を義姉さんは弾劾したかったのだろう。
あるいは、蟻を食べるのはよくないという思想の裏側にある「これはきたない。これはきれい」という思想を殺したかったのだろう。
今でこそ、義姉さんの思想をこうして自分なりの言葉に変換することも可能だが、言葉が足りない当時の僕にはなんとなくしかわからなかった。
だけど、言葉が足りないからこそ、その肌の感覚はとてもよく覚えている。
――人は蟻を食べれる。
さすがに八歳児にそれだけの語彙を求めるのは難しいから、なんとなくしかわからないし、
同じ行動を続けている現在の義姉さんに、同じ質問をしても結局それは現在の義姉さんから見た過去の義姉さんについての感想を述べているわけであって、
それはその時点における義姉さんの解釈にすぎない。
ただ、その『異常行動』だけは一貫している。
行動において一貫し、思想において完結している。
義姉さんが十二歳になって、僕が九歳になったとき。
僕は虫とり網を手に、義姉さんのパシリをやっていた。
正確には、いっしょに遊んでいただけともいえる。
このころから、すでに次元を超えた綺麗な存在になりつつあった義姉さんに、草っぱらをかけまわるようなことをさせたくなかったのだ。
いわば、従順な騎士のような気持ちだ。
僕は虫とり網でとった義姉さんへの供物を捧げる。
義姉さんは同年代の女の子のように、怖がったり、気持ち悪がったりはせず、それ――コオロギを受け取った。
手のひらにちょうど収まる程度のデカいやつだ。
義姉さんの手の中で、そいつは足をぴょんぴょんと動かしてもがいている。
「食べるの?」
「いまじゃないよ」
ニコリと笑う義姉さん。
べつに食べるのを躊躇しているからではない。
家の近所で虫をとるくらいならおかしくなくても、さすがに小学生女児がわりと大きめの虫を口にいれていたら、とりかえしのつかないことになりそうだから、
もっと人気のないところで、行為に及ぶつもりなのだろう。
ただ、僕の反応を楽しんでいるようにも見える。
義姉さんは小さな金属の菓子箱の中にコオロギを入れた。中からカツンカツンと小さな音がする。
コオロギが跳ねている音だろう。
「ねえ……」
「なに、義姉さん」
「のんちゃんは私のコレにつきあってくれるけど、どうしてかな」
僕は考える。
おそらくだが、僕は義姉さんの秘密ともいうべきコレに関して、独占していることに一種の優越感めいたものを持っていたのだろう。
誰も彼もが義姉さんの表皮についての評価しかしないけれど、僕は義姉さんの思想こそが、義姉さんの一番きれいなところだと考えているのかもしれない。
自分のことなのに、曖昧になってしまうのは、やっぱりそういったことはどこか意識に昇ってこない無意識の領分であるからだ。
結局、僕は無難に答えることにした。
「義姉さんが誰かにバレやしないか心配だから」
「のんちゃん、ありがとう」
照れなんて一切なく、義姉さんは僕の躰をかき抱いていた。
心臓がバクバクといっている。
僕はこのちょっとだけあたっている感覚をおそらく一生忘れないだろう。
「でも、のんちゃんも大概だね。私も自分が大概だってことくらいはわかってるけどね」
「なにが?」
「だって、普通だったら引くよね」
「まあ、そうかも……」
「全国のお茶の間を騒がせている超絶美少女が虫を食べるのが趣味って言ったら、みんなどう思うかな?」
「鉄格子のついた病院にいれようとするには、義姉さんは綺麗すぎるから、たぶんカウンセラーとかのもとに通うようになって、
お茶の間では『小学生の心の闇』とかなんとか騒がれることになるんじゃないかな」
「あはは。私、別に闇属性じゃないんだけどな。闇の炎に抱かれて萌えろ」
「中二にはちょっと早いんじゃないかな」
ちょっと萌えたけど。
「でもコレって別に中二じゃないよ。ねえ、のんちゃん。のんちゃんはどうして蟻は汚いのかわかったかな?」
「そういうふうにたくさんの人が思っているから」
「そうだね。じゃあ、どうしてたくさんの人が蟻やコオロギ……、虫全般を汚いって思うのかな」
「DNAじゃない?」
「それは正しいかもしれないね。じゃあ、ハムスターや猫と虫の違いってなんだろう」
「ハムスターや猫はかわいいけど、虫は生理的に気持ち悪いと思われがちな理由?」
「そう」
「動きとかかな……」
「それもあるかもしれないね」
「虫はなんか機械みたいで……」
「それもあるかもしれないね」
「虫は小さすぎて……、人間とはサイズが違いすぎるし」
「それもあるね」
「いろんなところが人間と違うから、虫のことを気持ち悪いと思う人間は多いのかも」
「うん。のんちゃんの言うことは全部正しいよ」
「他に何かある?」
「うーん。あとは森先生は『毛と体温』だって言ってたかな」
「確かにモフモフは大人気だね。あったかいと安心するし、命って感じがするんだろうね」
森先生というのが誰なのかは知らないが、僕はなるほどなと思っていた。
「でもね。私はもっと単純に言えるような気がするの」
「ふぅん。どんなふうに」
「異類恐怖症《ゼノ・フォビア》」
「人間は自分と違うものを恐怖する性質があるの」
「性質……」
「性質というより病かもね。いや、これは逆としたほうがいいかな。病というよりは性質。病気というよりキャラ的な?」
「言い直してるだけのように思えるけど」
「のんちゃん。印象って大事だよ。人は見た目が九割なんだから」
「だったら、義姉さんは九割ですでに圧倒しているから有利だね」
「そうでもないよ。私は異類だもん」
「……だから、異類恐怖症を治したい?」
「うーん。そうかも。でも、治らないよね。きっとそれはDNAの瑕なんだろうから」
「でも異類恐怖症がなければ、ここまで人間は生存しなかったように思えるけど」
「そうだね。その神経症的な性質が、石橋をたたいて渡らせ、将来の不安に対して備えるようになって、
魂の消滅を救済しようとして宗教という名の幻想を作った。人間が作ったすべての所有物は人間が神経症でなければ成り立たないものだね」
「だったら、別に治そうとしなくても」
「でもそれって、いろんなものを捨ててきてるよね」
「いろんなものって?」
「光をあてたら影ができるように、人が幻想を形にすれば、闇が生まれる」
「中二病だねぇ」
「そう、中二病。でも、そうじゃないかな? お金がなければ金の亡者は生まれない。宗教がなければ原罪は生まれない。
そして、人間という幻想がなければ、妖怪は生まれない」
「妖怪?」
「そう妖怪」
「人間という概念を幻想化した影が妖怪だって?」
「そう、だよ」
義姉さんは区切るように言った。
僕はごくりと唾を飲み込む。
そのあまりの美しさに。そのあまりの恐ろしさに。
忘我の心地で覗きこむ。
「私は妖怪なんだよ。のんちゃん」
3
そして、現在に至る。
義姉さんは隣で笑っていた。買い物はすでに済んでいる。
「今回の獲物……、その、温かいものってなに?」
「えーっとね。雀だよ」
「ああ、雀ね。義姉さん、さすがに雀はやめといたほうがいいよ」
「え、どうして?」
「雀はドブネズミ並に汚いって聞いた覚えがあるからね。さすがに義姉さんのお腹の中が寄生虫まみれになるのはいやだよ」
「脳みそ寄生されたり?」
「無いとは言えないかな……。ところで前から訊こうと思ってたんだけど」
「なぁに?」
「どうしても食べないといけないの?」
「そりゃ、ただ殺しちゃ意味がないよ。私は私の異類恐怖症をまず治したいんだよ」
そうなのである。
そもそも第三者を治したいなら、なにもこそこそやる必要はないのだ。
いわば、密教的なイニシエーション。
だからこそ、それは自分だけが助かるための儀式に過ぎない。
僕という他者に見られているのが、かろうじて、それを単なる儀式にはしていないけれど、
まずは自分が変わらなくてはダメって話。
ここらは当たり前すぎて聞いてなかったけど、
きっと他人を愛するには自分を愛さなくてはならないとかなんとかよく言われているように、
他人を治すにはまず自分が治らなくてはならないと考えているんだろう。
義姉さんは『異常行動』を行うが、べつに感覚が他の人とちがって、たとえば虫を食べると天壌の味がするというわけではないので、普通に不味いと感じているはずだ。
義姉さんが無理やりにでも自分の体性感覚を否定し、妖怪になろうとしているのは、彼女はそうしなくては生存できないからだろう。
なぜなら、義姉さんはもはや筆舌に尽くしがたいほど『綺麗』で、したがって、『異類』であるからだ。
義姉さんがもしも異類恐怖症であることを認めてしまえば、それは自己否定に他ならない。
だから、義姉さんの行動は一貫している。
義姉さんはいつだって生存したがっている。
自分を肯定したがっている。
「義姉さん。雀を殺しても経験値はスライム並だよ。だって、虫に比べれば雀は異類ではないからね。逆に親類にあたるから、殺すなという禁忌は強くなるかもだけど」
「確かにのんちゃんの言うとおりだね。けど、私からしてみれば、べつに対処療法しているわけじゃないんだよ。私は虫を食べまくって、そうやって変だって思われることを繰り返すことで、正常人基準で言えば、どんどん『異類』としての強度が増していっているの」
「つまり、どんどん妖怪化が進行している、と……」
「そうだよ。私は人間にはなれないから、だから妖怪として完成するの」
なるほどと思った。
雀は虫と比べれば、人間に近い存在だろう。
人間にとっての異類ではなく、親類といえるだろう。
だから、義姉さんが異類としての行動を繰り返すうちに、義姉さんの中の人間的な部分――要は異類恐怖症はひとつずつ克服されていったといえるわけだ。
それは同時に、義姉さんがどんどん異類へと近づいているという証であり、人間にとっての禁忌行為が義姉さんにとってのそれに当たらなくなっているということも意味している。
妖怪に人間の禁忌を、ルールを求めるほうがまちがっている。
「義姉さん。僕は一度も義姉さんとしての行動を制限したこともなければ、否定したこともないよね」
「うん。そうだね。のんちゃんは優しいからね」
「けれど、ひとつ、忠告というか忠言めいたことを言わせてもらうなら」
「うんうん。なんでも聞くよ」
「妖怪になってしまったら、人間の世界では生きられないんじゃないかな」
「でも今のままでも生きているとはいい難いわけですしおすし……」
銀河クラスの美少女が、眉に力を入れて悩んでいる。
ロダンの考える人が美少女化しているかのような芸術的光景だ。
義姉さんの場合は、すべての行為が芸術的な一枚絵に早変わりする。美術館に展示されていてもおかしくないほど。
「僕と違って頭のいい義姉さんならとっくの昔に気付いていると思うけど……」僕は物怖じしながら切り出す。「義姉さんってつまるところ殺人の練習をしているんだよね?」
「……そうなるのかな」
「だって、人間にとっての究極の異類は、人間という幻想の影、つまりは妖怪なんでしょう? 逆側から見れば、妖怪にとっての究極の異類は人間になるんじゃないかな。義姉さんが妖怪として完成するためには、人間こそ殺すべきなんだよ。義姉さんの思想を敷衍すると、結論的にそうならざるをえない」
「のんちゃんって、小難しい話が好きだね。遅れてきた中二病かな」
「まあ、いいんだけどね。義姉さんが小さな生き物を食べているのは、義姉さんが最終的な結論に至るのを遅延させているともいえるのだし、義姉さんもまだ人間らしく生活したいって考えている証なんだから」
「私は、人間のままじゃいられないよ……」
「義姉さんが妖怪になりきるのも割と難しいと思うけど」
だって、それは終わりのない終わりだ。
ゴールすらないどん詰まり。
義姉さんが妖怪になるってことは、人間らしさをまるきり失うってことで、つまりそれは人間を食べ続けるってことを指す。
義姉さんは頭がよくて、身体能力も高い超人の部類に属しているといえるが、さすがに数の論理には勝てるわけがない。
十万対一なら、人間よりもはるかに弱いゾンビでも人間を殺すのは訳ないように、義姉さんがいくら個として優れていてもいつかは官憲につかまるだろう。
いつかは電気椅子に座ることになるだろう。いや、日本の場合は縛り首だったかな。
「じゃあ私はどうすればいいのかな」
月が雲に隠れるように、美人が泣きそうな顔になっている。
それはそれで風情があるものだが、僕は義姉さんの精神も好きだから、義姉さんが悲しむのはいやだった。
「なにか方法があればいいんだけどね。たとえば、妖怪が暮らしている楽園のような場所を見つけるとか」
「死んだほうがいいのかなー」
「いや、別に死後の世界とかじゃなくて……、どこかにそういう場所があるかも」
「どこに?」
「それはこれから探すんだよ。べつに義姉さんも今すぐに人間をドロップアウトするわけじゃないでしょ?」
「そうだけどさ。のんちゃん。無いものは見つけられないんだよ」
「まだ無いって決まっているわけじゃないと思うけどな」
義姉さんは懐疑的な目をしていた。
まあ無理もない。
いくらなんでも荒唐無稽に過ぎる。
妖怪の楽園なんて。
そもそも妖怪とは異類恐怖症を捨て去ったモノたちのことを指す。いわば、異類だろうがなんだろうが関係がない。そこには一切の躊躇はない。虫だろうが人間だろうが、その対象がなんであれ、気持ち悪さを持たずに喰べる。
そんな言わば北斗の拳のような弱肉強食の世界にいきなり義姉さんが行ったとして、果たして生き残ることができるかは疑問だ。
いくら義姉さんが天才であっても、妖怪の中には義姉さんより強いモノはいるだろう。
どうやったら義姉さんは生存できるんだろうか。
考えながら路地裏を進むと、そこには古典的な罠が仕掛けられていて、中にはちゃんと雀が入っていた。
僕はいつかと同じように、義姉さんにその雀を捧げた。
もちろんそのままだと逃げてしまうから、僕が適度に弱らせておいた。
4
まあ、義姉さんとふたりなら、妖怪の楽園(仮)に行ってもいいかななんて夢想する僕がいる。
僕は身寄りのないひとりぼっちなのだし、家族と言えるとしたら、義姉さんだけだ。
義姉さんの家族とは、仲が悪いってわけじゃないんだけど、僕にとってはどうでもいい存在だ。なにより彼らも僕のことを見てもいない。
社会的な義務として、たまたまお鉢がまわってきたから、僕を引き取っただけで、そのことにそれなりの恩義は感じるもののそれだけだ。
家族的なつながりとか、血よりも濃い絆なんて一切感じたことはない。
そういう意味では、義姉さんもわりと僕に近い立場かもしれない。
義姉さんは美術品のように丁寧に扱われているが、義姉さんが妖怪であることにすら彼らは気づいていない。
それは義姉さんの擬態がうまいってことも理由としてあるのかもしれないが、それ以上に、彼らが義姉さんの内面に対して無関心を貫いているからだろう。
表面。
外皮。
それはもちろん大事で、人は外見が九割なんだろうけど。
僕には、よくわからない。
どうして、義姉さんのこんなにも綺麗な思想に惹かれないのだろう。
宝石のように綺麗な思想。
妖怪の思想。
人間には決して到達できない矛盾のない思想なのに、ほとんどの人間には理解できない。
クラスメイトたちがわいわいがやがやと何やら話している。
異類恐怖症に罹患している正常人たちにとっては、こういう雑談タイムがとても貴重なのだろう。
同じ時間を共有して、同じ話題で笑いあう。
クウキヨンデル。
なぜなら、自分が異類になってしまっては、それは恐怖そのものでしかないからだ。
義姉さんの思想は間違っていない。
彼女たちは一番多くの人間に好かれたら勝ちとでも思っているのだろう。
僕は人間のそういうあり方もあってよいと思ってるし、現に僕は学校に通う良い子であるわけだし、納得しているからこそここにいる。
けれど、義姉さんの在り方を考えてみたとき、同年代のクラスメイトの考え方は稚拙なように思える。
まがいもののようにも思えてくる。
「早苗さん」
そんな言葉がクラスのどこかから聞こえた気がした。
確か、去年の夏ぐらいに消えたって噂の子だ。
神隠しにあったとか。
クラスのみんなはそれぞれ自分勝手に自説を披露した。
例えば、借金の方に売られただの。
例えば、どこぞの国に拉致られただの。
例えば、不良と恋仲になってしまい、誰にも知らない場所に逃避行をしているだの。
早苗さんの消失は、そんな他愛もない話題提供として消費され、忘れ去られたはずだった。
それが今頃になって、なぜ?
『なんでも、早苗さんが消える前に、すごく綺麗な金髪の人と話してたらしいよ』
『金髪? 外国の人?』
『知らない。でも、人間離れしてたっていうくらいだから、外国の人じゃないかなぁ』
『へえ。でも今になってどうしてそんな話をしたの?」
『うん。実はね。最近になってその金髪を見かけた人がいるらしいんだよー』
『金髪くらいどこにでもいるでしょうに』
『でもすごくきれいで、すごく人間離れしていたって』
『ふうん。じゃあ、その金髪さんが神隠しの主犯ってわけ?』
『それはわからないけど……、でも妖怪みたいだって言ってた』
妖怪という言葉に思わず反応してしまった。
スッと周りを見渡してみても、特に変に思っている人はいないようだ。よかった。
今のは机につっぷして寝ていて、思わずピクっとしてしまう症候群のように見えたことだろう。
にしても、妖怪か。
いまさらながら妖怪という言葉がでてくるなんて驚いた。
審議は不明ながらも、もしも神隠しっていうのがあるんだったら、その人に掛け合ってみてもいいかもしれない。
しかし――、本当にそれが義姉さんにとっての幸せなのだろうか。
妖怪未満で人間未満の義姉さんにとっての幸せは、妖怪として完成することのようだったが、人間のままでいたいという至極当然な迷いのようなものもあるように思える。
おそらく、妖怪になるというのは不可逆的な反応で、一度なってしまったらもう二度と普通には戻れないとか、そんな感じなのだろう。
RPGで一度使ったらなくなってしまうアイテムを出し渋りしているうちにクリアしてしまうように、
義姉さんは自分の中の『人間』という幻想を今も大事に守っている。
ただこのままだとジリ貧なのも確かだ。
義姉さんはこれまでの十年くらいの経験のなかで確実に『異類』としてのレベルをアップさせている。
いつまでもスライムを倒してばっかりじゃ飽きてくるんじゃないだろうか。
最初は蟻だったのが、カマキリ、コオロギ、トカゲ、イモリと、少しずつ変わっていったのも、いつかは人間を食べてしまおうと考えて、
それを心のよりどころにしているからではないか。
なーんて。
義姉さんの心のうちなんてわかりようがないのに考えてしまう。
妖怪と人間の心なんて、水と油のようなもの。
理解を超えているからこそ妖怪であり、『異類』なのだ。
僕はせいぜいが来たるべきその時に備えて、義姉さんに食べられないように気を付けつつ、義姉さんが何をしたいかを見極めていくしかない。
時間をかけるしかないのだ。
正直なところ、早苗さんがクレイジーサイコレズな金髪美女に手籠めにされていたとしても、
そんなことは僕には関係ないし、義姉さんにも関係がないので、どうでもよいことなのである。
とか考えていたら、
ふと学校帰りの坂道で、
なんの気なしに視線を上にあげると、
義姉さんが凄まじく美人な金髪美女と話しこんでた。
僕は驚き、それからすぐに駆け出した。
今までの人生の中でこんなに早く駆けたことはなかったかもしれない。
「誰なの。義姉さん」
「あ、のんちゃん。いきなり失礼だよ」
僕は適当に相槌を打ちながら、金髪美女を視界に入れる。
確かに綺麗だ。
義姉さんのほうがずっと綺麗だけど、確かに綺麗。
そして人間離れしている。義姉さんのほうがずっと綺麗だけど。
その人は扇子をどこからか取り出して、口元を覆った。
「元気な子どもね」
「私の家族です」と義姉さん。
「あらそう。何だか私のことを警戒しているようだけど、気のせいかしら」
「のんちゃんは人見知りだから……」
「何の御用ですか?」
僕は帰れオーラを全開にして聞く。
「たいしたことはないのよ。このあたりに妖怪の気配がしたものだから」
さらりと放たれた言葉に、僕は一瞬だけ反応した。
さすがに今回は眠ってる時のピクッとなる症候群だとは言えそうにない。
「妖怪なんて、いるわけないでしょう?」
「本当にそう思う?」
「当たり前です。警察呼びますよ」
「ずいぶん嫌われたものね。まあ、あなたみたいな反抗的な子もわりと好みだわ」
ぞわりとするような得体のしれない感覚。
外見だけでは決してわからない、このまとわりつくような気配は、
義姉さんが獲物を食べる直前の表情と似ていた。
僕は直観的に悟る。
こいつは間違いなく妖怪だ。
人間とは違う理を生きる『異類』。
次の瞬間には何をするかわからない。
そしてわかりあえることは絶対にない。
偶然として、何かに惹かれることはあるだろうけれども。
少女として、たとえば『綺麗』なものに惹かれたりはするだろうけれども、
しかし、人間を喰う化け物なのだ。
境界を渡ってしまった彼岸の存在なのだ。
いつのまにやら手のひらから猛烈な汗が噴き出していた。
このまま義姉さんとここにいるのはまずい。
なにか、なにか言わないと。
「妖怪を探したいなら、もっと田舎に行くべきですよ」
「あらどうして?」
「こんな人間ばかりのところに妖怪がいるわけない」
「そんなことないのよ。そもそもあなた……、のんちゃんでしたっけ」
「望」
「ん?」
「望が僕の名前」
「あらそう。失礼しまわしたわ。では望さんが考える妖怪ってどんなものかご存知かしら」
「変な姿をしていて、人を襲うやつだろ」
「そうね。妖怪は様々な種族がいるけれど、すべて『変』であり『異形』と言えるわ。つまり、あなたはこう言いたいのですわね。ここのあたりに暮している人間は『異形』ではない。だから妖怪なんていない、と」
「そうだ」
「そこにいるじゃないの」
扇子が指し示す先は僕の後ろにいる義姉さんだ。
けれど、僕は応じない。
「義姉さんは綺麗なだけだ。そんなのは『変』でもないし、『異形』でもない」
「指し示す方向を少し誤ってますわねぇ。いいですか。人のカタチにありながら『異形』であることはそれほど特殊なことでもないのです。人間の最も奇形を許容する器官とはすなわち脳なのですから」
「脳が異形だと……。頭がくるってるって言いたいのか」
僕はぞんざいな口調を隠せなくなっている。
いけない。冷静にならないと。こういう狂ったやつは何をするかわからない。
「狂ってるなんて、ありきたりな言葉で表現してほしくありませんわ。ちょっとかわいらして人間離れしたキャラクターとでも思っていただいたほうが正確ですわね」
「そうですか。じゃあ、それでいいです。ところで、いったい何の用なんです。先ほどもお聞きしましたけれど」
「ですから、妖怪を探しているんですのよ」
「妖怪なんていませんよ。そもそも妖怪がいるとして、その妖怪をどうするつもりなんですか。ペットにでもするつもりですか?」
「たいしたことはないのですよ。はぐれ妖怪を保護したいと思っていますの」
「そんなのいない」
「そうですか。わかりましたわ。でも覚えておくといいわ。妖怪が妖怪らしく生きるためにはただひとつしか方法はありません。特に人間の中で長く暮らしていた妖怪にとっては、人間の中で暮らしていくのも難しいですし、たとえば魔界などの魑魅魍魎どもが暮らす世界でも生き抜くことは難しいでしょう。すべてを受容し、すべてを包みこむ器が必要です」
そしてそいつは言った。
「幻想郷においでなさい」
「幻想郷?」
やっぱりクレイジーだと僕は思った。
「様々な妖怪が暮らす、妖怪の楽園です」
「妖怪どうしが喧嘩したりしそうだけどな」
「最大限の自由を保障しておりますわ」
「どうやって?」
「最小限度のルールによって」
「でも、妖怪がルールを守るとは思えないんだけどな」
「そうですわね。妖怪には妖怪の本分がありますから、その本分から逃れることはできませんわ。
ですが、妖怪らしさを保ちつつ、それでもなお人間と共存することは可能です」
「どうやって!?」
「妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治すればよいのです」
「数の調整が難しそうだけど」
いけないな。
なぜこんなに真面目に話してしまっているのだろう。
金髪美女の言葉なんか、でたらめに違いないのに。
「数の調整は私がやっております」
「ずいぶんとアバウトな感じだな」
「確かに、そうですわね」
金髪美女は目を細めて僕を見た。
「たとえ妖怪がいたとしても、そんな得体のしれないところに行きたくないと思うだろうさ」
「行く行かないかは自由です。幻想郷はすべてを受け入れる場所。去るのも自由なのですから」
「じゃあ帰ってくれ」
「いいのですか?」
「え?」
「そちらの――望さんのお姉さまは違う感想をお持ちのようですが」
義姉さんは先ほどからずっと黙っていた。
けれど、その視線はうるうるとしていて、コオロギを見つめるときと同じだとわかった。
絶対に興味を持っている視線だ。
「ともかく帰ってくれないかな。義姉さんは綺麗だけど、れっきとした人間なんだし」
「わかりました」金髪美女は扇子を閉じた。「ですが、これは楽園行きの最後の切符になるかもしれないことをゆめゆめお忘れなきようお願いしますわ」
「どうしてそこまでするのかわからない」
「オーナーが自分の土地にお客を呼ぶのがそんなに変かしら」
「……早苗さんもそこにいるのか?」
金髪美女は妖艶に笑った。
「いるわ」
5
翌朝、僕がベッドでうとうととしていると、不意に扉があいて、義姉さんが入ってきた。
トットッという小さな足音を響かせ、僕の寝ているあたりで止まる。
僕は多少驚いていた。
義姉さんはああ見えて、人との差異をいつも気にしていて、誰かの気に障ることは極力しない人だ。
僕は、人と接触するのはあまり好きではなく、どちらかと言えば放っておいてほしいタイプだった。
たとえ、それが綺麗な義姉さんであっても。
そのことを義姉さんはもちろん見抜いていて、その境界を踏み越えたことは今の今まで無い。
「どうしたの。義姉さん?」
昨日の今日で、あまり義姉さんを刺激したくなかったので、僕は柔らかく言った。
「ねえ、のんちゃん」
「なに?」
「のんちゃんは幻想郷に興味ある?」
「あの外国人の言ったことが本当だって思ってるの?」
「外国の人かな。顔は日本人顔だったけど。染めてるんじゃない?」
「そんなのはどうでもいいよ。あんなの妖怪で十分だ」
「じゃあ、妖怪さんでもいいけど。私は本当だと思うんだけどなー」
「どうして?」
「えー、なんとなくかなー」
「なんとなく? どっちかというと変態レズが早苗さんを拉致したと考えるのが妥当だと思うけど」
「そういう感じはしなかったよ。だって、優しそうだったじゃない」
「見た目は確かに柔らかい感じはしたけどさ。どこか変だったでしょ。あんなのについていったらダメだよ」
「私は子どもじゃないんだけどなぁ」
義姉さんはいつも以上にニコニコしながら、自分の髪の毛をもてあそんでいる。
何を考えているのか正直なところ、僕にはわからない。
けれど、ひとつだけ確かなことは、義姉さんは幻想郷に興味を持っているってことだ。
「義姉さん、自分が妖怪になりきってしまえば、幻想郷に行けるとか考えてないよね?」
「え、違うの?」
「わからないよ。そもそも幻想郷があるかどうかもわからないんだから」
でも――、と僕は続ける。
「幻想郷が本当にあったとしても、行かないほうがいいと思うな」
「どうして?」
「だって、妖怪っていうのは基本的に独り身なんだと思うよ。誰にも相容れない。だって、妖怪はそれ自身が異類なんだ。同類も親類もいない。だからこそ妖怪なんだろう。だったら、そんな妖怪が多く集まっても、そこはおそらく……」
僕は言葉を濁す。
そこはおそらく、刑務所、実験場、施設、精神病棟、そんな言葉が渦巻いた。
そう、そこは強力な統制こそが必要な場所になるはずだ。
妖怪には自制の心はそんなにない。
妖怪の心には、基点となる部分がない。
心が無いとか、感情がないという意味ではなく、言わば、無意識にあたるものがない。
無意識の残骸はあるけれど。
普通の人間なら当たり前に持っている原風景。
お父さんがいて、お母さんがいて、あるいは誰か親しい人がいて、
僕はブランコに乗っている。
夕方で、
遠くから呼ばれて、
きっと、宇宙人のように僕は両の手を大事な人とつないだ。
そんな風景が、
あるはずなんだ。
普通と呼ばれる人たちには!
「ねえ」義姉さんはゆったりとした口調だった。「のんちゃん」
「なに、義姉さん」
「私、もう飽きちゃった」
「そう」
「何に飽きたか聞かないんだね」
「わかりきってるからね」
義姉さんは飽きている。
蟻を喰べるのに飽きている。
コオロギを喰べるのに飽きている。
カマキリを喰べるのにも、イモリやヤモリも、雀にも、猫にも犬にも、ハムスターにも。
飽きている。
飽きて、飢えて、それでも我慢して、破裂寸前の風船のように、義姉さんの無意識は限界を迎えている。
「殺したいよ」
うめくように義姉さんは言った。
「人間を殺したい」
懺悔するように義姉さんは言った。
6
僕は迷っていた。
義姉さんにとっての幸せとはなんだろう。
仮に義姉さんが妖怪になったと仮定して考える。
妖怪には人間らしい心がないかというと、そういうわけではないんだと思う。
ひどく当たり前のように食事として、あるいは食事じゃないかもしれないけれど、
何かを……そう、何かを補給するための行動として、人を殺して、人を喰べるけれども、
それでも人間と会話を交わすことはそんなに難しいことではないように思う。
特に義姉さんは頭がいい。
脳髄が他の誰かに劣っているとか、気が触れているとか、そういうわけではない。
きっと、義姉さんが妖怪になったとしても、僕のことはあいもかわらず『のんちゃん』と呼ぶだろうし、僕のことを家族として扱うこともやめないだろう。
下手を打てば、喰べられてしまうかもしれないけれど、別に妖怪じゃなくても人殺しはいるわけだし、確率的にちょっと危険率があがるだけにすぎない。
人殺しだから妖怪ってわけじゃないし、妖怪だから人殺しってわけじゃない。
精神的な意味において、妖怪は人を殺すことに躊躇がないってだけだ。
人殺しの殺人には意味があり、理由があり、言い訳がある。
心理的な理由、いわばお茶の間でいうところの『心の闇』なんてものがやっぱり存在する。
だから殺すときは普段おおわれているはずの心の闇が表に出てきただけであって、それはその人の行動原理を少しも逸脱していない。
妖怪も人殺しと同じように人を殺すけれども、それは厳密に言えば『殺したい』からではないんだ。
義姉さんはそこがまだ妖怪の卵状態なところなんだと思う。
義姉さんがもしも妖怪になってしまったら、『殺したい』なんて言うわけもない。『殺しちゃった』なら使ってもいい。
でも、義姉さんが単なる人殺しと違うこともまた理解できる。
義姉さんは、サイコパスのように人を殺すことに快楽を感じてるわけではない。
政治的理念を達成するために殺すのではなく。
なにかしらの欲求を満たすために殺すのではなく。
トラウマが発露して殺すのではなく。
心の闇がそうさせるのではない。
義姉さんの心には闇なんてものはない。そんな構造化されたものなんて一つも存在しない。
自然とそうなる、というか。
それは……、そう。
普通であれば、持っているはずの最後のセーフティネットが働かないという意味合いでだいたいあってると思う。
そのシステムがあること自体は理解できるのだが、その作動原理を理解できない。
ただ同じような行動をとるように、模すことはできるだろう。
義姉さんは頭がいい。
だから、本当の意味での理性でもって、つまり無意識外の意識でもって、壊れかけの無意識を制御している。
人間という幻想を保持しようとしている。
殺さないように努力している。
それは疲れる。
だから、『殺したい』という言葉が出たんじゃないだろうか。
まあ、どうでもいい。
要は、義姉さんが妖怪化しても僕は全然困らない。
ただ困るのは、おそらく義姉さん自身じゃないかと思うのだ。
どうして、そんなに人間でありたいのか。
では逆に、義姉さんが人間であり続けることを選んだとしよう。
この場合、義姉さんはどうなるのだろう。
義姉さんが壊してきたのは義姉さん自身の異類恐怖症であり、普通の人間が当たり前に持っている機能だ。
壊しきってはいないけれど、ボロボロになった無意識。
人間という幻想は、義姉さんの中ではもはや風前のともしびのはず。
今から、まともな人間に戻ろうとしても、もはや遅すぎる。
義姉さんはとっくの昔に気付いている。
小さな虫を躊躇なく殺したときから。
あるいは、僕と会ったときから。
――人は人を殺せる、と。
7
あれからそう遠くない日。
僕はいつものように義姉さんと連れ立って学校に出かけていた。
義姉さんの親たちは、いつものように義姉さんが綺麗でいるように言って、義姉さん自体を見ようともしていなかった。
義姉さんはきっと殺すだろう。
きっと、一番迷惑がかからない方法で、妖怪として変異する。
まるでひとつの花のように、壮絶たる妖花として開花する。
遅かれ早かれ、そうなる運命だったのだろう。
きっと、一つまみの蟻を喰べたときから、そう決まっていたのだ。
僕が学校から帰ってくると、
義姉さんは血まみれで、それは返り血で、
そして、義姉さんは包丁を妖怪のかぎ爪のように握っていて、
義姉さんをここまで人間として育ててきた両親は無残にも惨殺されていて、
そして……、そして、義姉さんは震えていた。
震えながら、泣きながら、笑っていた。
「のんちゃん」
「なに。義姉さん?」
「死んでるよ。お母さんも、お父さんも」
「だから震えてるの?」
「違う。違う。違う。そうじゃなくて、そうじゃなくてさ。あのね。のんちゃん……」
「なに?」
血まみれの義姉さんも、やはりこの世のものとは思えないほど綺麗で、
僕は一瞬、気絶するように見とれた。
「私、お母さんが死んでるのに、お父さんが死んでるのに、ちっとも哀しくない!」
「そう……、それは義姉さんが既に妖怪だったってことなんじゃないかな」
「そう、だね。そうだよね。ずっと私は変だったもんね。こんなにいっぱいの命を意味もなく奪って……、だからいまさら人間がひとりふたり死んでいても、何も感じない」
「義姉さん。それは少し違うと思うんだけど。僕は可能性のひとつとして、義姉さんが妖怪として完成しているんじゃないかと思っただけで、それはあくまでも可能性のひとつにしか過ぎないんだよ。だって、義姉さんは泣いてるし、震えてるし、でも笑っている。そして、なによりも僕には義姉さんの心なんて正確な意味では、ひとつもわからないんだから」
義姉さんが驚いたように僕を見る。
「言ったでしょ。妖怪は独り身なんだよ。人間は人間の幻想によってわかりあえると思うことができる。でも、妖怪にはそんな便利な機能なんてついてないから、わかりようがない。もちろん、いろんな経験やらデータから、そう思ってるのだろうなといったことを推測することはできるけれど、わからないのが妖怪にとっての普通なんだよ」
「のんちゃんは私のことを人間だと思ってるの?」
「うーん。そうだね。たぶん半分くらいは人間なんじゃないかな」
「そんな中途半端な」
「僕は妖怪と人間はグラデーションのようになっていると思うんだよね。きっちりと白黒つけるような境界なんて存在しない。異常も正常もどこまでも相対的で、誰かから見た異常が誰かから見た正常だ。だから、僕の個人的な意見として言わせてもらうなら……。そうだね。義姉さんはどこまでもどこまでもただの綺麗な人間だよ」
カランと――、包丁が地に落ちる音がする。
血染めの躰をかき抱き、義姉さんは何かに絶望しているようだった。
妖怪にもなりきれず、人間にもなりきれない。
そんな中途半端な存在が、義姉さんという存在が、僕は愛しくてたまらない。
一歩――、
僕は危険を承知で、義姉さんに近づく。
どうなってしまうかわからない危険を承知で、
その美しき魔性へと近づく。
そっと、顔を手のひらで包み、いまだ身動きひとつすらできない義姉さんに僕はそっと口づけた。
それだけだった。
それだけで終わりだった。
8
「それだけですませてしまうのですね」
振り向くと、あの金髪美女がいた。
いい加減にうっとうしい。こいつストーカーか何かか。
僕が殺意をもって睨みつけるも、どこ吹く風というやつだ。
やはり妖怪はいけ好かない。どいつもこいつも……。まったくもって埒外の存在だ。
「こんなところにまでやってくるなんて、不法侵入ですよ」
「凄惨たるこんな血だまりの場所で、不法侵入もないでしょう。それに――」
と、涼やかな声が続く。
「あなたは私が来ることを予期していたんじゃないかしら」
「そんなことわかるわけないじゃないですか」
「そうかしら」
怪しげなほほえみを浮かべる様は、僕の義姉さんとよく似ていた。
「では、少しだけ講義の時間をしましょう。生まれたてのひよっこ妖怪さんもいることですし、よろしいかしら」
「どうぞ?」
「妖怪の起源はもうおわかりですわね」
「脳の異常っていいたいんだろ」
「それは原因の一つかもしれないというだけで、起源のことを指すのではありません。起源とはモノの存在論的な構造です。いいですか。人間は生まれてからずっと人間だったわけではありません。生まれて最初のころ、言葉も持たない最初のとき、『人間』なんていう概念は赤ん坊の中にはないのです。ですから、それは『モノ』と同じでした。なにもかもが未分化で、なにもかもがあいまいで、なにもかもが無限とも思える海の中にたゆたっていました」
「胎児のように……」
義姉さんが茫然としながら、つぶやくように言った。
僕はチラリと視線を義姉さんにうつし、また前を向いた。
金髪美女はこくりと肯定の意を示す。
「そう、『人間』は後天的に作られた概念なのです。恣意的に選択された幻想にすぎません」
「でも多くの人はその幻想を知っている」
「そう、しかし、少ないながらも幻想を幻想だと気づいてしまうものもいる。自分のまわりにあるモノが、たとえば、ここにあるテーブルが、ここにあるドアが、言葉を持たなかった当時は『モノ』であったことを思い出してしまう人がいる。人も『モノ』であると認識してしまう存在もいる。自分の周りのあらゆる言葉が反逆する。『モノ』があふれて、すべてが混沌へと帰していく。それは恐怖であるのでしょう。人間の中の賢しいものたちはそういった『モノ』に対する恐怖を名づけることで、回避しようとしました」
「ああそれが……」
「そう、それこそが『モノノケ』、すなわち妖怪と呼ばれるものの起源です」
「で?」
まさしく、「で?」であった。
よくわからない得体の知れなさはあったが、どうしてそんなプチ講義をする必要があるのか意味がわからない。
「自分の起源を知るのは必要でしょう」
「そうかもしれないが……、でも義姉さんはまだ人間なんだよ。妖怪がどういう存在かなんて関係ない」
「まだシラを切るのですね。私はあなたのことを言っているのですのよ。望さん」
「僕が妖怪だって?」
「そうです。そしてあなたは自覚的です。気づいたら妖怪だったとか、そういう話ではない」
「どうしてわかる」
「どうしてって……、それはそうでしょう。あなた、お姉さまの実のご両親を殺しているじゃありませんか。ひとつの躊躇もなく、ひとつの計算もなく、単に自然とそうなるといった感じで……。でもずいぶんと人間らしい殺し方ですのね」
まあ、それはばれると思ってた。
人間らしく殺してみたけれど。生粋の妖怪にはさすがにばれるということなんだろう。
「義姉さんは知ってた?」
「わからない。たぶん知ってたと思う……」
「僕のこと怖い?」
「のんちゃんはのんちゃんだから」
「そう……、ありがとうね」
金髪美女は扇子を優雅に広げ口元を覆った。
「これは驚きました。あなた、そこにいる義姉のことが本当に好きなんですのね」
「ああ、そうだよ!」
いらだたしげな声が出るのは致し方ないところだろう。
僕は思春期で、敏感なお年頃なのだ。
「それで、どうしてご両親を殺そうと思ったのです?」
「だって、そうしないと、義姉さんが殺してしまうでしょう? そうしたら、義姉さんは妖怪になるしかなくなる。疑いようのない完璧な妖怪だ。僕は人間にも妖怪にもなりきれない、そんな終わりもなく、救いもなく、どうしようもない、そんな義姉さんが好きだったんだ」
「だから、義姉が人を殺し、妖怪として完成するのを防いだというわけですの?」
「そうだよ」
「では逆に聞きますが、あなたは最初にそこの彼女と出会ったときにはどうしたかったんでしょう?」
「どうしたかったとは?」
「喰べたくはなかったのかと聞いているのよ」
「義姉さんは、僕と会ったとき、最初から綺麗だったし。喰べるともったいないと思ったよ。もちろん喰べるかもしれなかった。ちょっと間違えば、義姉さんはここまで生きてこれなかったかもしれない。そんなのわかるわけないじゃないか。妖怪には自分の心さえよくわからない。でも、僕自身としては殺さないように努力をしたし……、そう雀だって、虫だってグチャグチャにしてしまいそうになるのを本当に我慢したんだ。最初は義姉さんを妖怪にしてしまって、僕と同じになればいいと思った。でも、そうしたところでやっぱり妖怪は妖怪だ。たとえ家族の絆があったとしても、独り身なのは変わらない」
「妖怪が恐怖したというのですね。義姉が妖怪になってしまえば、心が変わってしまい、自分のことを見てくれなくなるかもしれないと、そう考えたわけですね」
「そうかもしれない」
「そうですか。ところでこれからどうするおつもり?」
「幻想郷に行くのは誰だって自由なんでしょう? それとも人間社会で暮らしてきた妖怪にはその資格はないと?」
「いいえ。どなたも拒むことはありません。幻想郷はすべてを受け入れる。それはそれは残酷な話ですわ」
「そうか。よかった。僕の願いはただひとつだ」
――綺麗なモノが好きな妖怪がいる。、
僕は義姉さんが好きだった。
義姉さんが綺麗だから。外見もだけれども、その心のカタチも。
だから、いつだって僕の願いは義姉さんといっしょにいることだった。
そのためには、自分の血がつながった両親を殺して、義姉さんの家に転がりこむことだってするし、
コオロギもカマキリも、雀もハムスターも猫も犬も、半死の状態にして捧げるし、
義姉さんの両親だって一切の躊躇なく殺せる。
ああ、こういうところが人間っぽいって言われるのかもしれないな。
僕は僕の利益を考えている。
理由を考えて殺している。
これではまだまだ妖怪らしいとは言えないかもしれない。
「義姉さん。僕は義姉さんが一緒に行ってくれるなら幻想郷に行きたい。義姉さんから見れば、僕なんて単なる人殺しで、母親と父親を殺した憎い仇なのかもしれないけれど……」
「のんちゃんはどうして心変わりしたの?」
「ん?」
「最初は行きたくなさそうだったのに」
「ああ……、べつに僕にとってはどうでもよいのは確かかな。ちょっとはそりゃ異世界っぽいところで暮らしてみたいっていう気持ちはあるけれど、それよりも基本は義姉さんといっしょにいれれば、僕はそれで満足なんだ。だから、義姉さんが先に幻想郷に行ってしまって置いてきぼりをくったら嫌だと思っただけ」
「いっしょについてくればいいのに」
「義姉さんには人間のままでいてほしいとも思ってたんだよ」
「なるほど……」
超がつくほどに美しい義姉さんが、血まみれの姿で考えている。
しかし、その姿はすぐにいつもの優しい顔へと変わった。
「いいよ」と一言。
「本当にいいの? 憎いとか思わないの?」
「わたしだって妖怪になりかけだし、これっぽっちも哀しくなかったっていうのは本当だよ。あの人たちは私のことなんてたいして見ていなかったじゃない」
「まあそうだけど……。まあいいか。どうせ僕たちはわかりあえないんだから」
「わかりあえないけれど、いっしょにいることはできる。そんなものじゃないかな」
「義姉さんはまだまだ人間だなぁ」
そして、僕たちは笑いあった。
すがすがしく血だまりの家の中で。
死人に口なしである。
「さて、その恰好で行くのはさすがによろしくないですわね。まずは血だらけの服を着替えなさいな」
旅行に出発するようなワクワクした様子で、義姉さんは自分の部屋に駆け戻っている。
僕はその場でつったっていた。
義姉さんはお気に入りの服をいまごろトランクに詰め込んでいるのだろうが、
僕は着替える必要もないし、服にもそんなに興味はないので慌てる必要はなかったのだ。
「望さん?」
「なんですか?」
「あなたはなぜ着替えないのです? せっかくの新天地ですのに」
「いいよこれで……」
僕は学校帰りの制服姿だ。
動きやすい服だといえるし、べつにこれでいい気がした。
いちおう曲がりなりにも妖怪なのだし、妖怪とは異形である以上、人間のように着飾る必要もないと思うのだ。
「ダメです」
と、金髪美女――紫さんは言った(名前はさっき聞いた)。
すでに保護者気取りなのだから困る。
確かに聞くところによると、千年以上続く幻想郷のオーナーをやっていた紫さんからすれば、
僕なんかまさしくただのひよっこ妖怪に過ぎないのだろうけれど。
ああ、それにしてもこれでは殺してしまった僕の血のつながった両親のようじゃないか。
しかも今回ばかりはどうがんばっても殺せそうにない。
「さあ、着替えてらっしゃい」
紫さんは母親のように優しく命令する。
「あなたに似合うとびきり可愛らしい洋服に。妖怪だとしても――妖怪である前に、女の子なんですからね」
のんちゃんって刃物の付喪神か何か?
いきなりパッと判ってしまうのではなく、じわじわ判ってくるというか
面白かったです
こんなものが書けてしまうまるきゅーさんもきっと美少女なんだね
ぞわぞわとするお話でした。
面白かったです
まるきゅーさんさすがです
まったく気づきませんでした。
とても面白かったです。
あと一個「本文」になってました。
妖怪と言うことには気が付きませんでしたねえ。
色々とひっくり返す展開には驚かされましたし、登場人物も魅力的でしたし、一つの姉妹の物語としてはなかなか幻想的でよかったです。
それだけに、主人公の性別を引っくり返して終わり、というのは、「ええ?ここまでやっといてそれがオチ?」とは思いました。
途中で挟まれる小ネタも、面白いのですが、面白いだけに逆に雰囲気を壊している感があり、ちょっとだけ気になりました。
でも、おもしろいお話でした。
これって、ノンちゃんの異能に引かれて姉さんも異能に動いたのか、両方とも最初からそうだったのか、もうわかんねぇなこれ。
それにしてもこれを思いつけるまるきゅーさんが一番妖怪らしいと思えるのは僕だけですかね?
まったく予測できなかった
中盤の紫さんの
「指し示す方向を少し謝ってますわねぇ。
「指し示す方向を少し誤ってますわねぇ。
ではないかと。
人間離れして美人な義姉さんだけど、妙にほわほわ可愛い。
のんちゃんは別に男の子でも可愛いと思うけど、その中性的なところが魅力であって、そういう意味でも森博嗣的といえるかもしれない。
一つ気になった点。義姉さん十二歳、のんちゃん九歳の時からのんちゃんが義姉さん呼びしてるけど、この時点ではまだ「義姉さん」じゃなかったはずでは?
確かに男にしちゃナルシストさが下品さに中和されていないなとは思ったけどすっかり騙されました
実は女だったってことに何かもっと意味があれば良かったなあと