まだ鬼が幻想郷に住んでいた頃の話。
鬼は人に挑み、人はそれに応えた。彼らは強いものや恐ろしいものの代名詞であり、またそのものだった。しかしその強靭さと相反するかのように鬼という種の個体数は少なく、数を以って力とする人間と共存できるはずもなかった。彼らが人里を離れ、武力を以って権力とする社会を創りあげたのは必然と言えよう。
技術者の河童や情報職の天狗の住まう縦社会。創設者である鬼を支配階級としたヒエラルキー型組織。
それが妖怪の山である。
その形態が、人間の形作ったそれと酷似していた理由に気付いていた鬼はいたのだろうか。その理由を正しく理解していた人間はいたのだろうか。
ただ一つ言えることは、鬼は人と戦うことを至上の喜びとする、ただそれだけの種族であり、英雄譚のために生まれた凡百の悪役では断じてないということ。
彼らは彼らが望むままに戦い、敗れた。
これは、あるいはありふれた盛衰の話である。
妖怪の山には山の四天王と呼ばれる支配階級の頂点が存在する。その中には一人だけ、幻想郷における鬼の凋落、その顛末と続きに至るまでを見届けた鬼がいた。
四天王の麒麟児にして異端児、伊吹萃香である。
人と戦うことを好むのは鬼ならば当然だが、しかし萃香はその戦いの傍観をも好んだ。これは茨木華扇などもその傾向はあったが、他の鬼にしてみれば、直接拳を交えるでもなくただ愛おしそうにその様子を眺める姿は、さぞ不可解に映ったことだろう。
伝承に名を残す鬼ほど戦いより人そのものに興味を持つ。それは矜持の高さ故である。
とはいえ萃香はその中でも少々特殊であり、たとえば四天王の一角・星熊勇儀などとは違って、相手の格次第では挑まれても袖にすることさえあった。ちなみに、むしろそれが無頼気質の鬼達に人気を博していたのは当人の知るところではない。
そんな萃香は宴会でなくとも一人で酔っ払っていることが多く、他に誰かと飲んでいる時と言えば、酒豪の勇儀や華扇といるところくらいだった。素面だったのは何百年も前と豪語する萃香だが、しかしこの頃は眉根を険しくしていることが多かった。
連綿と続いてきた鬼と人との真剣勝負に異変が生じ、一月がたったある日のこと。
「おう萃香、今いいか?」
「……またか」
「まただ」
この日、萃香の元を訊ねた勇儀の用は酒ではない。妖怪の山では、話だけ聞けばそう不自然ではない――しかし長い歴史に例を見ない怪事件が起きていた。
「首を持ち帰ること自体は今までも何度かあったが、連続しすぎているんだと。爺さん連中がピリピリしててな。こっちまで肩が凝りそうだ」
「角でも付けてあやかろうってのかねえ、人間は。確かになり形だけは鬼に似るかもしれないがなあ。おかしなことをするもんだ」
「まあ実際、苛立ってる理由は首云々より被害の件数だろうがな」
哨戒の白狼天狗曰く、人間は果たし合いに参上した鬼を複数人で闇討ちし、首や、時には亡骸も持ち帰っているのだという。討たれた鬼は決まって単独だったし、それはもう一度や二度のことではなかったのだ。
それは折しも、幻想郷が外の世界から隔離されようという時に続いた事件だった。
「直に博麗大結界が創造される。奴ら、それまでになんとしても我らを追放するつもりだ」
「閉め出そうと言うわけか、浅知恵だな。いつから人間はそこまで卑小に成り果てていたのやら。――ああそれに」
人間との確執により、強大な力を持つ鬼達が一斉に蜂起すれば、幻想郷の管理者とて分が悪い。そこで八雲紫は山の四天王と交渉を続けていた。即ち博麗大結界の創造を前に、幻想郷の平和を崩壊させかねないほど強大な種族を地獄――是非曲直庁、四季映姫ヤマザナドゥ直轄地に置こうと考えたのだ。
「もし人に愛想が尽きても地獄の魑魅魍魎どもを相手にすれば良いだけの話」
萃香はそう嘯いて見せた。まだ鬼が嘘を病的に嫌う前のことである。
「お偉方はなんて?」
「ああそう、それなんだが」
八雲紫との交渉を決定した鬼の元老院とも言うべき機関。
その老鬼達は山の四天王に対し、集落には影武者を用意し伊吹萃香には来たるべき時まで大事を取って頂くよう、との結論を出したことを勇儀は伝えた。
「大事? 物々しいな。どこで?」
「鬼しか知らない、古い岩屋だ。集落では志願兵も募っているからな。鬼は鬼に手を出さないが、略奪でたつきを得るような傭兵連中だってうろついてる」
度重なる奇襲に業を煮やした鬼達は、ついに人里の襲撃作戦を画策した。一度目は示威行動にとどめる予定になっているが、屈辱を倍や三倍で返す種族ではない。それは天災もかくやという事件になるだろう。萃香はその際の大部隊を率いる首領に抜擢されていた。
「要するに、隠れろと」
「仕方あるまいよ。部下を落ち着かせてやるのも首領の仕事だ」
「……それもそうだな」
勇儀はあえて伏せたが、実は萃香が常に酔っ払っているので、集落にいる鬼達の士気がいまいち上がらないというのも理由の一つだった。
「何、しばらくの辛抱さ。それまで飲み明かそうや」
「応。じゃあ先に――」
「待て待て。言っただろう、単独行動は作戦まで禁止だ」
萃香は嫌そうに振り返り、思い切り嫌そうな顔をした。ため息をつく勇儀。
「こういうのは用心しすぎる方がかえって示しがつくんだ。すぐ戻る。傘を取りに行くだけだ」
空は少しだけ暗かった。
勇儀のほうが首領に向いてるんじゃないか――と萃香が考えたのも無理からぬことだろう。
同時刻、八雲邸。
「宜しかったのですか? 紫様」
「言葉が足りないわ、藍」
「……その、鬼達にあのような条件を出してしまっても宜しかったのですか?」
「そうね。少し優し過ぎたくらいだわ」
藍が狼狽えるのも無理はなかった。紫は鬼との地獄移住に関する交渉で、是非曲直庁下での地獄の管理を条件にしたのだ。それはつまり、鬼は妖怪の山にいたときのように自由な振る舞いができなくなると言うことだ。長く支配者層に君臨していた彼らがそこまでの零落を潔しとするのか――という藍の疑問はしかし、あっけなく氷解した。
「先日、人間達が相談に来たでしょう?」
「鬼退治の件ですか? 贋作を本物と信じ込んでいた、例の」
「贋作ね。でも」
紫は眼を瞑り、ため息をついて、言った。
「陳腐な言い回しになるけれど、あれは本物より本物だわ。あんな三流剣士に持たせるなんて正気の沙汰じゃない」
「あれが、あのようなものが鬼を殺し得るのですか」
紫は扇をばん、と広げ返答に代えた。
「どうやって手に入れたかではなく、どうやって作ったかよね……大方、聞くに堪えないような邪法でしょうけど」
藍は遅ればせながら理解した。紫が鬼達にあれほどの強気で交渉に臨んでいたわけを。
「刀自体はただのなまくらだった――吸わせた血が少々特殊と言うだけで」
もう人間達は正面から鬼達と戦う気がないのだ。真っ向から挑むのであれば、必要とされるのは一振りの名刀より百条を並べた槍衾。にもかかわらず人間達が名刀を選んだ理由とは。
「山で志願兵を募ったのは元老院の連中だったかしら。……ああ本当、他人事とは言え不愉快ね」
それは言うまでもなく、暗殺である。
「理不尽な凋落を見過ごすのは」
妖怪の山、奥地。
「ここだ。酒も届いてるな」
酒盛りをするためにあつらえたような岩屋。今はもうほとんど使われないがその昔、鬼達の数がまだ少なかった頃、よくここで若い鬼達が夜通し飲んでいたと言う。岩屋戸には大きな瓶が三つ置いてあった。どうやら信じられないことに全て酒であるらしい。
「一晩すればまた届くから」
「少ないな」
「華扇の奴が後から来る。一人一つだからな――おい」
いつの間にか飲み始めている萃香。
「聞いてたか?」
「……旨いな」
「何? ……ほう、これは」
「珍しい酒だな。あいつら気が利くじゃないか」
そう言った時点で萃香は既に柄杓で飲むことをやめ、瓶を持ち上げ直接飲んでいた。華扇には悪いが止められそうにないな――勇儀はそんなことを考えながら柄杓をもう一度口に運んだ。
「華扇もな」
そして言った。
「あいつも人間達のことを嘆いていたよ。どうして今までのように真剣勝負ができなくなってしまったのか、と。お前のように」
「……」
「なあ萃香。もし鬼が地獄に行くことになって、それでもあいつが地上に残ると言ったら、その時は」
「私がいなくて大丈夫なのかよ。あいつらは」
持ち上げていた瓶を降ろして萃香は訊ねた。やや不機嫌な声音は、人間に未練があることを勇儀に見透かされいたと知った気まずさか。
「たまには顔を出してくれよ?」
「……しょうがねーな」
勇儀は嬉しそうに破顔した。
――山の天気は変わりやすいが、それを気に留めるのは力の弱い妖怪か人間だけだ。
だから鬼達はそう言った些細な変化に疎く、傘を差すのも服が濡れるのを防ぐためでしかない。賑やかな雨音も、煙る視界も、ほとんど意に介さない。そしてそのことを人間はよく知っている。
岩屋の外は小雨が降っていた。
「馬鹿! あれほど先走るなと言っただろうが!」
囁くような怒鳴り声。まだ足音が鳴るほど地面は濡れていない。その叱咤を受けた者が手に持っていた刀の血振りをすると、当然、血の雫の落ちる音はほとんど響かなかった。叱咤に対する返答にしては無礼に過ぎる落ち着き払った所作だったが、しかしそれはこの剣客の気性に由来するものではない。
「この切れ味……。鬼相手の斥候など、捨石に遣わされたものだとばかり思っていたが……いや汗顔の至り。どうやら疑うまでもなかったようだ」
追い詰められた人間のすることなど古今、そう変わりはしない。英雄が伝説を打ち立てる影で、何人もの尖兵が命を散らしている。その尖兵とはたとえば、功績によって社会に迎え入れられることを約束された、用心棒もどきのはぐれものなどが特に適任なのだ。
その身に不釣合いな名刀――いやさ妖刀を手にした剣客の昂ぶりもむべなるかな。
鬼は鬼を殺さないが、人は人を殺すのだ。
「ちっ」
舌打ち一つ。半ば陶酔していた剣客の横顔は、怒鳴った男を呆れ果てさせるのに充分過ぎるものだった。いずれにせよ既に兵の替えがきく形勢ではない。
「決行まで半刻もない。大人しくしていろよ」
返事はなかった。
「起きろ萃香! 勇儀!」
強くなった雨音と鬼の寝息が静かに反響する岩屋。そこに悲鳴のような呼び声と、血の滴る音が混ざった。
「奴ら『安綱』を持っている!」
遅れて到着したその声の主、茨木華扇が息を巻くのも無理はない――鬼達に連綿と伝えられる悪名高き『安綱』。それはつまり、鬼殺しの伝説を持つ名刀『童子切安綱』に他ならない。華扇の見立てに狂いがなければ、此度の討伐隊は鬼の首領をも討つ気でいると見て間違いないからだ。
「恐らくこの場所も既に割れている!」
少なくとも華扇にとっては、道中、闇討ちによって試し切りをされた右腕が何よりの根拠である。
「畜生」
二人の鬼は最悪の目覚めを迎えた。いつの間にか片腕を失った同胞の姿と、鉛のように重い頭。不自然に眠りに落ちていたことから、それが毒によるものと思い至るのにそう時間はかからなかった。
「謀ったな、人間め」
――雨音が強くなり始めた。
昼とは言え、山中で雨に降られれば視界は想像以上に悪くなる。その条件が夜襲よりも隠密に向き得るのは、息遣いの音さえ雨が掻き消してしまうからだ。
「ここです」
鬼達の覚醒よりやや遡る。萃香達の隠れる岩屋戸を見張っていた討伐隊に、巫女の姿はない。
「三体か……構わん、やれ」
故に邪法。故に一度きり。それは八雲紫をして見抜けなかった、四天王の鬼を一網打尽にするための神降ろし。
「高天原に神留まり坐す――……」
八幡神。住吉明神。熊野大神。かつて大江の山の鬼の王を捕えた偉大なる三柱。あるいはこの神々から伝承に聞く毒酒をも賜っていれば、この討伐はことごとく成功していただろう――鬼殺しの三柱。
「……――恐み恐み申す」
巫女でもない人間が三柱を一度にその身へ降ろす。それは最早、鬼どころか神さえも欺く行為である。しかし邪法も法。なんであれ手順と代償さえ正しく全うすれば現実に起こる。それが人の持つ力であり、叡智なのだ。
果たして伝説は蘇り、神々の鎖は鬼達の覚醒を見計らったかのように、その四肢を枷に繋いだ。
「伊吹童子、捕えたり」
ようやく現れた、刀の鋒を向けて勝ち誇る人間。
その時、鬼達は全てを知った。
なぜ萃香達の居場所が割れたのか。どうやって酒に毒を入れおおせたのか。討たれた鬼の首がいくつも奪われていたその真相は。
鬼達の前には、それを隠そうともしない討伐隊の不遜極まる姿があった。
「貴様ら……その額に付けている物はなんだ」
数瞬の絶句からようやく搾り出せたのは、静かな、しかし血の滲むような憤怒。
「人間は……敵を謀り殺すだけでは飽き足らず、亡骸さえも弄ぶのか……!」
わなわなと震える萃香を繋ぐ鎖は、それに伴って不気味に鳴り渡り、四肢を捕えられて尚、萃香の血眼の睥睨は討ち手達を射竦めた。
「どこまで我らの真剣勝負を穢せば気が済む。卑劣な人間どもめ」
その声音はしかし、憤怒どころかむしろ沈痛とさえ言えるような響きをしていた。それは燃えるような怨嗟にではなく、まるでかじかむような傷嘆に震えている声だったのだ。人間にはその理由が分からなかった。鬼から流れる涙さえ、怒りによるものと断じていた。
最後までその悲痛が届くことはなかった。
「あ……悪鬼め。よくも真剣勝負などと言えたものだ。人攫いまでしておいて、まこと大した二枚舌――」
「我らがいつお前達を欺いた!」
それは悲しみを荒げ怒りに変えたような声で、
「私は、お前達が――」
髪を振り乱し涙を散らし、萃香は。
「お前達が! 我らに立ち向かわんと望むなら!」
哭いた。
「千丈の槍衾に身を賭す事さえ本懐だったと言うのに!」
そして耐え兼ねたように童子切安綱は斬首の弧を描いた。
萃香の名を叫ぶ声が二つ重なった。首が落ちると大きな角のせいで幾度か跳ね、がらんがらんという音を立てた後、程なくして動きは止まった。
しかし不可解な事に断面から一滴も血は流れておらず、どころか、そこからは怪しげな霧が漂っていた。
伊吹萃香の力は、この時、生まれたのだ。
その霧は誰にも捕えることはできず、後に誰も彼もを宴に萃めた、たった一人の百鬼夜行。
そしてわずかな静寂を破るように萃香はかっと眼を見開き、神降ろしを行った討ち手へ首だけで飛び、頭の半分ほどを噛み千切った。それ自体はその力によるものではなく執念によるものだったが、それを人間達が知る術はない。元より怪力乱神、即ち人智の及ばぬ域である。
当然、三人を繋ぐ鎖は断たれた。
毒が残る体とは言え、それで首を刎ねられるものなら神の力をも借りる必要はない。その分別のつかぬ者から無残な肉塊へと成り果てていった。
幾ばくかの悲鳴と鎧や刀の落ちる音、僅かながら逃げおおせた討伐隊。そして雨で返り血を洗い落とす三体の鬼の姿。
それは一騎当千の鬼神というより、まるで今にも雲を霞と消えそうな、幽鬼のような姿であったという。
伊吹童子討伐譚の結末である。
この敗北を端緒に鬼狩りは途絶え、鬼達は嘘にまみれた人間を嘆き、地獄に移住した。その後、自らを仙人と名乗り幻想郷に暮らす鬼や、霧となって幻想郷を傍観する鬼について知る人妖はいない。
こうして鬼は幻想郷において、文献にすら存在しない忘れ去られた種族になった。
・
後日談。あれから百と数十年後、長い冬が過ぎた春の日。
「萃香?」
旧地獄でのこと。勇儀は珍しく心配そうな面持ちで、昼寝から覚めた萃香の顔を覗き込んでいた。
「…………んあ」
瞼を擦り、起き上がる萃香。
「おう勇儀。どうした」
「無事か? まるで素面のような面をしとったぞ」
「あー……。昔の夢だ。首を刎ねられた」
「それはまた、随分懐かしい」
勇儀は目も合わせず星熊杯を差し出した。萃香もそれが当たり前のように、伊吹瓢の中身を注ぎ豪快に飲み干した。
「永く生きるとなあ」
「……ん」
「懐古に時間を食っていけないね」
「……。思い出すか?」
「まあ、たまにな」
「たまにと言うなら、丁度珍しい顔が来てる。話してやったらどうだ」
「うん?」
「実を言うとな、華扇を呼んでおいた」
「何、本当か。よく来る気になったもんだ」
「違います。無理やりですよ、無理やり――」
到着したばかりの華扇は強引に誘われたせいか、やや不機嫌そうな顔をしていた。
「萃香がいる時くらい顔だしゃいいのに」
「急すぎるんですよ、いつも」
「そう言えば華扇。この前、旧都でお前んとこのペットを見たぞ。角の生えた奴。おかげでえらい夢を見た」
「何の話です?」
「懐かしい話さ。なあ萃香」
「うむ。まあとにかく飲め。駆けつけ一杯」
勧められ、華扇は伊吹瓢の中身を注いだ星熊杯を仰いだ。仙人とは言え、鬼である。常人ならそれだけで卒倒しかねない量なのだが。
「――今度、上で宴をやる。今年は桜が異様に早く散ったから、その分盛大にやる。参加しない奴は今その分飲んどけ」
言われるまでもなく既に飲んでいる勇儀。萃香も瓢箪を仰ぎ、口を拭った。
「……なあ」
そして言った。
「私は、人と会うことにしたよ」
それは唐突な告白だったはずだが、
「そうか」
「そうですか」
鬼二人は至って平然としていた。
「驚かんのか」
「そりゃあ、あれだけ地上の話ばかりしていたらなあ」
「気の長い鬼ですね。百年ですよ、百年」
「む……」
「ずっと眺めてきたんだろう? きっと上手くいくさ」
「そんな些細なきっかけで良かったのなら、いつでも良かったんですよ」
「……」
それはとても呆気ないやりとりで、
「そうだな」
実は及び腰だった萃香の背中を最も強く押した会話だとは、萃香自身を含め三人とも気付いていなかったのだった。
鬼達にかけられた三柱の呪縛は強く、萃香でさえ霧から元の姿に戻ろうとも、枷は体と共に具現し決して外れることはなかった。
しかし元より、逃れるための力ではない。
人恋し鬼が死の際に願った力。裏切りと謀殺の果てに尚も尽きぬ切望の成就。
萃香の持つ『疎と密を操る程度の能力』。それは人と妖怪、そして鬼の交わる賑やかな宴のために生まれた、ささやかな力である。
鬼は人に挑み、人はそれに応えた。彼らは強いものや恐ろしいものの代名詞であり、またそのものだった。しかしその強靭さと相反するかのように鬼という種の個体数は少なく、数を以って力とする人間と共存できるはずもなかった。彼らが人里を離れ、武力を以って権力とする社会を創りあげたのは必然と言えよう。
技術者の河童や情報職の天狗の住まう縦社会。創設者である鬼を支配階級としたヒエラルキー型組織。
それが妖怪の山である。
その形態が、人間の形作ったそれと酷似していた理由に気付いていた鬼はいたのだろうか。その理由を正しく理解していた人間はいたのだろうか。
ただ一つ言えることは、鬼は人と戦うことを至上の喜びとする、ただそれだけの種族であり、英雄譚のために生まれた凡百の悪役では断じてないということ。
彼らは彼らが望むままに戦い、敗れた。
これは、あるいはありふれた盛衰の話である。
妖怪の山には山の四天王と呼ばれる支配階級の頂点が存在する。その中には一人だけ、幻想郷における鬼の凋落、その顛末と続きに至るまでを見届けた鬼がいた。
四天王の麒麟児にして異端児、伊吹萃香である。
人と戦うことを好むのは鬼ならば当然だが、しかし萃香はその戦いの傍観をも好んだ。これは茨木華扇などもその傾向はあったが、他の鬼にしてみれば、直接拳を交えるでもなくただ愛おしそうにその様子を眺める姿は、さぞ不可解に映ったことだろう。
伝承に名を残す鬼ほど戦いより人そのものに興味を持つ。それは矜持の高さ故である。
とはいえ萃香はその中でも少々特殊であり、たとえば四天王の一角・星熊勇儀などとは違って、相手の格次第では挑まれても袖にすることさえあった。ちなみに、むしろそれが無頼気質の鬼達に人気を博していたのは当人の知るところではない。
そんな萃香は宴会でなくとも一人で酔っ払っていることが多く、他に誰かと飲んでいる時と言えば、酒豪の勇儀や華扇といるところくらいだった。素面だったのは何百年も前と豪語する萃香だが、しかしこの頃は眉根を険しくしていることが多かった。
連綿と続いてきた鬼と人との真剣勝負に異変が生じ、一月がたったある日のこと。
「おう萃香、今いいか?」
「……またか」
「まただ」
この日、萃香の元を訊ねた勇儀の用は酒ではない。妖怪の山では、話だけ聞けばそう不自然ではない――しかし長い歴史に例を見ない怪事件が起きていた。
「首を持ち帰ること自体は今までも何度かあったが、連続しすぎているんだと。爺さん連中がピリピリしててな。こっちまで肩が凝りそうだ」
「角でも付けてあやかろうってのかねえ、人間は。確かになり形だけは鬼に似るかもしれないがなあ。おかしなことをするもんだ」
「まあ実際、苛立ってる理由は首云々より被害の件数だろうがな」
哨戒の白狼天狗曰く、人間は果たし合いに参上した鬼を複数人で闇討ちし、首や、時には亡骸も持ち帰っているのだという。討たれた鬼は決まって単独だったし、それはもう一度や二度のことではなかったのだ。
それは折しも、幻想郷が外の世界から隔離されようという時に続いた事件だった。
「直に博麗大結界が創造される。奴ら、それまでになんとしても我らを追放するつもりだ」
「閉め出そうと言うわけか、浅知恵だな。いつから人間はそこまで卑小に成り果てていたのやら。――ああそれに」
人間との確執により、強大な力を持つ鬼達が一斉に蜂起すれば、幻想郷の管理者とて分が悪い。そこで八雲紫は山の四天王と交渉を続けていた。即ち博麗大結界の創造を前に、幻想郷の平和を崩壊させかねないほど強大な種族を地獄――是非曲直庁、四季映姫ヤマザナドゥ直轄地に置こうと考えたのだ。
「もし人に愛想が尽きても地獄の魑魅魍魎どもを相手にすれば良いだけの話」
萃香はそう嘯いて見せた。まだ鬼が嘘を病的に嫌う前のことである。
「お偉方はなんて?」
「ああそう、それなんだが」
八雲紫との交渉を決定した鬼の元老院とも言うべき機関。
その老鬼達は山の四天王に対し、集落には影武者を用意し伊吹萃香には来たるべき時まで大事を取って頂くよう、との結論を出したことを勇儀は伝えた。
「大事? 物々しいな。どこで?」
「鬼しか知らない、古い岩屋だ。集落では志願兵も募っているからな。鬼は鬼に手を出さないが、略奪でたつきを得るような傭兵連中だってうろついてる」
度重なる奇襲に業を煮やした鬼達は、ついに人里の襲撃作戦を画策した。一度目は示威行動にとどめる予定になっているが、屈辱を倍や三倍で返す種族ではない。それは天災もかくやという事件になるだろう。萃香はその際の大部隊を率いる首領に抜擢されていた。
「要するに、隠れろと」
「仕方あるまいよ。部下を落ち着かせてやるのも首領の仕事だ」
「……それもそうだな」
勇儀はあえて伏せたが、実は萃香が常に酔っ払っているので、集落にいる鬼達の士気がいまいち上がらないというのも理由の一つだった。
「何、しばらくの辛抱さ。それまで飲み明かそうや」
「応。じゃあ先に――」
「待て待て。言っただろう、単独行動は作戦まで禁止だ」
萃香は嫌そうに振り返り、思い切り嫌そうな顔をした。ため息をつく勇儀。
「こういうのは用心しすぎる方がかえって示しがつくんだ。すぐ戻る。傘を取りに行くだけだ」
空は少しだけ暗かった。
勇儀のほうが首領に向いてるんじゃないか――と萃香が考えたのも無理からぬことだろう。
同時刻、八雲邸。
「宜しかったのですか? 紫様」
「言葉が足りないわ、藍」
「……その、鬼達にあのような条件を出してしまっても宜しかったのですか?」
「そうね。少し優し過ぎたくらいだわ」
藍が狼狽えるのも無理はなかった。紫は鬼との地獄移住に関する交渉で、是非曲直庁下での地獄の管理を条件にしたのだ。それはつまり、鬼は妖怪の山にいたときのように自由な振る舞いができなくなると言うことだ。長く支配者層に君臨していた彼らがそこまでの零落を潔しとするのか――という藍の疑問はしかし、あっけなく氷解した。
「先日、人間達が相談に来たでしょう?」
「鬼退治の件ですか? 贋作を本物と信じ込んでいた、例の」
「贋作ね。でも」
紫は眼を瞑り、ため息をついて、言った。
「陳腐な言い回しになるけれど、あれは本物より本物だわ。あんな三流剣士に持たせるなんて正気の沙汰じゃない」
「あれが、あのようなものが鬼を殺し得るのですか」
紫は扇をばん、と広げ返答に代えた。
「どうやって手に入れたかではなく、どうやって作ったかよね……大方、聞くに堪えないような邪法でしょうけど」
藍は遅ればせながら理解した。紫が鬼達にあれほどの強気で交渉に臨んでいたわけを。
「刀自体はただのなまくらだった――吸わせた血が少々特殊と言うだけで」
もう人間達は正面から鬼達と戦う気がないのだ。真っ向から挑むのであれば、必要とされるのは一振りの名刀より百条を並べた槍衾。にもかかわらず人間達が名刀を選んだ理由とは。
「山で志願兵を募ったのは元老院の連中だったかしら。……ああ本当、他人事とは言え不愉快ね」
それは言うまでもなく、暗殺である。
「理不尽な凋落を見過ごすのは」
妖怪の山、奥地。
「ここだ。酒も届いてるな」
酒盛りをするためにあつらえたような岩屋。今はもうほとんど使われないがその昔、鬼達の数がまだ少なかった頃、よくここで若い鬼達が夜通し飲んでいたと言う。岩屋戸には大きな瓶が三つ置いてあった。どうやら信じられないことに全て酒であるらしい。
「一晩すればまた届くから」
「少ないな」
「華扇の奴が後から来る。一人一つだからな――おい」
いつの間にか飲み始めている萃香。
「聞いてたか?」
「……旨いな」
「何? ……ほう、これは」
「珍しい酒だな。あいつら気が利くじゃないか」
そう言った時点で萃香は既に柄杓で飲むことをやめ、瓶を持ち上げ直接飲んでいた。華扇には悪いが止められそうにないな――勇儀はそんなことを考えながら柄杓をもう一度口に運んだ。
「華扇もな」
そして言った。
「あいつも人間達のことを嘆いていたよ。どうして今までのように真剣勝負ができなくなってしまったのか、と。お前のように」
「……」
「なあ萃香。もし鬼が地獄に行くことになって、それでもあいつが地上に残ると言ったら、その時は」
「私がいなくて大丈夫なのかよ。あいつらは」
持ち上げていた瓶を降ろして萃香は訊ねた。やや不機嫌な声音は、人間に未練があることを勇儀に見透かされいたと知った気まずさか。
「たまには顔を出してくれよ?」
「……しょうがねーな」
勇儀は嬉しそうに破顔した。
――山の天気は変わりやすいが、それを気に留めるのは力の弱い妖怪か人間だけだ。
だから鬼達はそう言った些細な変化に疎く、傘を差すのも服が濡れるのを防ぐためでしかない。賑やかな雨音も、煙る視界も、ほとんど意に介さない。そしてそのことを人間はよく知っている。
岩屋の外は小雨が降っていた。
「馬鹿! あれほど先走るなと言っただろうが!」
囁くような怒鳴り声。まだ足音が鳴るほど地面は濡れていない。その叱咤を受けた者が手に持っていた刀の血振りをすると、当然、血の雫の落ちる音はほとんど響かなかった。叱咤に対する返答にしては無礼に過ぎる落ち着き払った所作だったが、しかしそれはこの剣客の気性に由来するものではない。
「この切れ味……。鬼相手の斥候など、捨石に遣わされたものだとばかり思っていたが……いや汗顔の至り。どうやら疑うまでもなかったようだ」
追い詰められた人間のすることなど古今、そう変わりはしない。英雄が伝説を打ち立てる影で、何人もの尖兵が命を散らしている。その尖兵とはたとえば、功績によって社会に迎え入れられることを約束された、用心棒もどきのはぐれものなどが特に適任なのだ。
その身に不釣合いな名刀――いやさ妖刀を手にした剣客の昂ぶりもむべなるかな。
鬼は鬼を殺さないが、人は人を殺すのだ。
「ちっ」
舌打ち一つ。半ば陶酔していた剣客の横顔は、怒鳴った男を呆れ果てさせるのに充分過ぎるものだった。いずれにせよ既に兵の替えがきく形勢ではない。
「決行まで半刻もない。大人しくしていろよ」
返事はなかった。
「起きろ萃香! 勇儀!」
強くなった雨音と鬼の寝息が静かに反響する岩屋。そこに悲鳴のような呼び声と、血の滴る音が混ざった。
「奴ら『安綱』を持っている!」
遅れて到着したその声の主、茨木華扇が息を巻くのも無理はない――鬼達に連綿と伝えられる悪名高き『安綱』。それはつまり、鬼殺しの伝説を持つ名刀『童子切安綱』に他ならない。華扇の見立てに狂いがなければ、此度の討伐隊は鬼の首領をも討つ気でいると見て間違いないからだ。
「恐らくこの場所も既に割れている!」
少なくとも華扇にとっては、道中、闇討ちによって試し切りをされた右腕が何よりの根拠である。
「畜生」
二人の鬼は最悪の目覚めを迎えた。いつの間にか片腕を失った同胞の姿と、鉛のように重い頭。不自然に眠りに落ちていたことから、それが毒によるものと思い至るのにそう時間はかからなかった。
「謀ったな、人間め」
――雨音が強くなり始めた。
昼とは言え、山中で雨に降られれば視界は想像以上に悪くなる。その条件が夜襲よりも隠密に向き得るのは、息遣いの音さえ雨が掻き消してしまうからだ。
「ここです」
鬼達の覚醒よりやや遡る。萃香達の隠れる岩屋戸を見張っていた討伐隊に、巫女の姿はない。
「三体か……構わん、やれ」
故に邪法。故に一度きり。それは八雲紫をして見抜けなかった、四天王の鬼を一網打尽にするための神降ろし。
「高天原に神留まり坐す――……」
八幡神。住吉明神。熊野大神。かつて大江の山の鬼の王を捕えた偉大なる三柱。あるいはこの神々から伝承に聞く毒酒をも賜っていれば、この討伐はことごとく成功していただろう――鬼殺しの三柱。
「……――恐み恐み申す」
巫女でもない人間が三柱を一度にその身へ降ろす。それは最早、鬼どころか神さえも欺く行為である。しかし邪法も法。なんであれ手順と代償さえ正しく全うすれば現実に起こる。それが人の持つ力であり、叡智なのだ。
果たして伝説は蘇り、神々の鎖は鬼達の覚醒を見計らったかのように、その四肢を枷に繋いだ。
「伊吹童子、捕えたり」
ようやく現れた、刀の鋒を向けて勝ち誇る人間。
その時、鬼達は全てを知った。
なぜ萃香達の居場所が割れたのか。どうやって酒に毒を入れおおせたのか。討たれた鬼の首がいくつも奪われていたその真相は。
鬼達の前には、それを隠そうともしない討伐隊の不遜極まる姿があった。
「貴様ら……その額に付けている物はなんだ」
数瞬の絶句からようやく搾り出せたのは、静かな、しかし血の滲むような憤怒。
「人間は……敵を謀り殺すだけでは飽き足らず、亡骸さえも弄ぶのか……!」
わなわなと震える萃香を繋ぐ鎖は、それに伴って不気味に鳴り渡り、四肢を捕えられて尚、萃香の血眼の睥睨は討ち手達を射竦めた。
「どこまで我らの真剣勝負を穢せば気が済む。卑劣な人間どもめ」
その声音はしかし、憤怒どころかむしろ沈痛とさえ言えるような響きをしていた。それは燃えるような怨嗟にではなく、まるでかじかむような傷嘆に震えている声だったのだ。人間にはその理由が分からなかった。鬼から流れる涙さえ、怒りによるものと断じていた。
最後までその悲痛が届くことはなかった。
「あ……悪鬼め。よくも真剣勝負などと言えたものだ。人攫いまでしておいて、まこと大した二枚舌――」
「我らがいつお前達を欺いた!」
それは悲しみを荒げ怒りに変えたような声で、
「私は、お前達が――」
髪を振り乱し涙を散らし、萃香は。
「お前達が! 我らに立ち向かわんと望むなら!」
哭いた。
「千丈の槍衾に身を賭す事さえ本懐だったと言うのに!」
そして耐え兼ねたように童子切安綱は斬首の弧を描いた。
萃香の名を叫ぶ声が二つ重なった。首が落ちると大きな角のせいで幾度か跳ね、がらんがらんという音を立てた後、程なくして動きは止まった。
しかし不可解な事に断面から一滴も血は流れておらず、どころか、そこからは怪しげな霧が漂っていた。
伊吹萃香の力は、この時、生まれたのだ。
その霧は誰にも捕えることはできず、後に誰も彼もを宴に萃めた、たった一人の百鬼夜行。
そしてわずかな静寂を破るように萃香はかっと眼を見開き、神降ろしを行った討ち手へ首だけで飛び、頭の半分ほどを噛み千切った。それ自体はその力によるものではなく執念によるものだったが、それを人間達が知る術はない。元より怪力乱神、即ち人智の及ばぬ域である。
当然、三人を繋ぐ鎖は断たれた。
毒が残る体とは言え、それで首を刎ねられるものなら神の力をも借りる必要はない。その分別のつかぬ者から無残な肉塊へと成り果てていった。
幾ばくかの悲鳴と鎧や刀の落ちる音、僅かながら逃げおおせた討伐隊。そして雨で返り血を洗い落とす三体の鬼の姿。
それは一騎当千の鬼神というより、まるで今にも雲を霞と消えそうな、幽鬼のような姿であったという。
伊吹童子討伐譚の結末である。
この敗北を端緒に鬼狩りは途絶え、鬼達は嘘にまみれた人間を嘆き、地獄に移住した。その後、自らを仙人と名乗り幻想郷に暮らす鬼や、霧となって幻想郷を傍観する鬼について知る人妖はいない。
こうして鬼は幻想郷において、文献にすら存在しない忘れ去られた種族になった。
・
後日談。あれから百と数十年後、長い冬が過ぎた春の日。
「萃香?」
旧地獄でのこと。勇儀は珍しく心配そうな面持ちで、昼寝から覚めた萃香の顔を覗き込んでいた。
「…………んあ」
瞼を擦り、起き上がる萃香。
「おう勇儀。どうした」
「無事か? まるで素面のような面をしとったぞ」
「あー……。昔の夢だ。首を刎ねられた」
「それはまた、随分懐かしい」
勇儀は目も合わせず星熊杯を差し出した。萃香もそれが当たり前のように、伊吹瓢の中身を注ぎ豪快に飲み干した。
「永く生きるとなあ」
「……ん」
「懐古に時間を食っていけないね」
「……。思い出すか?」
「まあ、たまにな」
「たまにと言うなら、丁度珍しい顔が来てる。話してやったらどうだ」
「うん?」
「実を言うとな、華扇を呼んでおいた」
「何、本当か。よく来る気になったもんだ」
「違います。無理やりですよ、無理やり――」
到着したばかりの華扇は強引に誘われたせいか、やや不機嫌そうな顔をしていた。
「萃香がいる時くらい顔だしゃいいのに」
「急すぎるんですよ、いつも」
「そう言えば華扇。この前、旧都でお前んとこのペットを見たぞ。角の生えた奴。おかげでえらい夢を見た」
「何の話です?」
「懐かしい話さ。なあ萃香」
「うむ。まあとにかく飲め。駆けつけ一杯」
勧められ、華扇は伊吹瓢の中身を注いだ星熊杯を仰いだ。仙人とは言え、鬼である。常人ならそれだけで卒倒しかねない量なのだが。
「――今度、上で宴をやる。今年は桜が異様に早く散ったから、その分盛大にやる。参加しない奴は今その分飲んどけ」
言われるまでもなく既に飲んでいる勇儀。萃香も瓢箪を仰ぎ、口を拭った。
「……なあ」
そして言った。
「私は、人と会うことにしたよ」
それは唐突な告白だったはずだが、
「そうか」
「そうですか」
鬼二人は至って平然としていた。
「驚かんのか」
「そりゃあ、あれだけ地上の話ばかりしていたらなあ」
「気の長い鬼ですね。百年ですよ、百年」
「む……」
「ずっと眺めてきたんだろう? きっと上手くいくさ」
「そんな些細なきっかけで良かったのなら、いつでも良かったんですよ」
「……」
それはとても呆気ないやりとりで、
「そうだな」
実は及び腰だった萃香の背中を最も強く押した会話だとは、萃香自身を含め三人とも気付いていなかったのだった。
鬼達にかけられた三柱の呪縛は強く、萃香でさえ霧から元の姿に戻ろうとも、枷は体と共に具現し決して外れることはなかった。
しかし元より、逃れるための力ではない。
人恋し鬼が死の際に願った力。裏切りと謀殺の果てに尚も尽きぬ切望の成就。
萃香の持つ『疎と密を操る程度の能力』。それは人と妖怪、そして鬼の交わる賑やかな宴のために生まれた、ささやかな力である。