「悪かったな。予定よりも随分色々買ってしまった」
「良いよ。軽い軽い」
慧音と一緒に並んで歩く妹紅は嬉しそうに買い込んだものを抱え直す。人里と人里を繋ぐ整った幅広の林道が長く続いている。昇り始めたばかりの夏の日はまだ涼やかで、微かに流れる風が心地良く、そんな穏やかな心地の中で慧音と一緒に歩ける事が妹紅には堪らなく嬉しかった。けれどそれとは別にこの日常を穏やかすぎると感じる自分が居た。まるで死んでいる様な気分になる。
かたからりかたからりと前の方から音が聞こえた。荷物に気を取られていた二人は音だけを聞いて牛車だと判断し、顔も向けずに道の脇へ避ける。程なくしてのんびりとした足取りの牛が二人の傍を通り、繋がれた粗末な車が視界に映る。
その瞬間、牛車の荷台から輝夜の叫び声が聞こえた。
「妹紅! 会いに来たよ!」
突然首に衝撃を受けて、妹紅はあわや荷物を取り落としそうになる。直前に聞こえた輝夜の声に、攻撃を受けていると考えた妹紅は、自分に抱きついたそれを蹴り剥がして距離をとった。
蹴られた輝夜はたたらを踏んで後ろにさがる。
「ちょっと乱暴しないでよ」
文句を言う輝夜を睨みつけ、妹紅は叫ぶ。
「何の用だ、輝夜!」
「やあねぇ、怖い顔しないでよ。私達友達じゃない」
輝夜が両手を広げて笑みを広げる。その様子に、そして友達という言葉に、妹紅は怖気を覚えた。
「私とお前が友達?」
「そうでしょ? 旧知の仲じゃない。あ、重そうな荷物持ってるわね。ちょっと持ってあげるわよ」
妹紅は凶相と呼ぶに相応しい顔で輝夜の事を睨みつける。
「何のつもり?」
「何のつもりも何も、ただ重そうで大変だなって思っただけ。少し持ってあげるわよ」
「必要無い。何を企んでいるか知らないけど」
「でも慧音は重そうにしているけど」
妹紅が慧音を振り返ると、慧音はしばらく輝夜を見つめて固まっていたが、やがて視線を輝夜から妹紅へ移して小さく頷いた。
「妹紅、ここは一つ穏便に」
慧音の弱気な発言に、妹紅が反論しようとした瞬間、輝夜は無理やり妹紅と慧音の荷物を奪い取った。妹紅が火焔を生み出して輝夜を睨む。
「輝夜! 荷物を返せ!」
「妹紅、止めてくれ! こんな白昼堂々。誰かが来て巻き込んだらどうするんだ」
輝夜へ飛びかかろうとしていた妹紅は、慧音の言う事を聞いてはっとして、自分を抑え込んだ。今自分の背後には慧音が居る。今ここで血みどろの争いを行えば、その慧音を巻き込んでしまう。
立ち止まった妹紅を見て、輝夜が嬉しそうに笑う。
「そうそう。殺し合いだなんて今時流行らないわよ。さ、荷物持ってあげるから、行きましょう」
再び妹紅は激昂しそうになったが、何とか感情を抑えながら輝夜の後を追う。
「何処へ行く気?」
「あなたの家か慧音の家でしょ? 買い出しの帰りじゃないの?」
「そうだけど」
「どっち? あなたの家? 慧音?」
「慧音の家だけど」
「じゃあ、早く行きましょう。仲良くね」
輝夜は飄々として歩きながら時折にこやかに妹紅へ話しかける。輝夜の他愛のない言葉を聞きながら、妹紅は輝夜の意図が全く分からないで居た。唐突にまるで友達の様に笑顔で話しかけてきた。恐らく油断させて襲うつもりだろうと考え、慧音の傍に寄り添って身構え続けたけれど一向に輝夜は襲いかかって来ない。まるで友達の様にただ話しかけてくるだけ。慧音の家に着くまでずっとそうだった。妹紅は状況がまるで分からず、ただひたすらに不気味だった。
慧音の家に着くと、輝夜は勝手に上がり込み、興味深げに中を見回し出すので、妹紅は慌てて輝夜の行く手を阻む。
「何勝手に上がってるの!」
「まあまあ。それで荷物は何処に置けば良いの?」
輝夜の微笑みが妹紅を益益苛立たせる。
ところが背後からやってきた慧音は気安い調子で輝夜に言った。
「奥の部屋に置いてくれるか?」
「分かった」
輝夜が台所へ荷物を運び出す。
「慧音! 何で上げちゃうんだ!」
妹紅が慌てて慧音を見ると、慧音は慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
「妹紅、相手が折角好意を向けて来ているんだ。態々事を荒立てる必要は無いだろ?」
「でも相手はあの輝夜だよ? 絶対に何か企んでるに決まってる」
「だとしてもだ。ただ荷物を運んでくれただけだろ? 君があいつの事を恨んでいる事は重々承知だけど、ここで下手な対応をすればまずい事にしかならない」
妹紅が黙りこむ。
奥の部屋から「机の上に置いちゃって良いの?」という輝夜の声が聞こえてくる。
妹紅がじっと黙って喋らないので、慧音が不安そうに「妹紅」と名前を呼んだ。すると妹紅が一度苦しそうに眉を寄せてから、慧音と目を合わせた。
「分かった。輝夜が何もしてこない限りはこっちも何もしない」
「本当か? 説得するつもりだったけど、そんな簡単に同意してくれるとは」
「だってここは慧音の家だもん。慧音が言うなら従うよ」
「そうか」
慧音が安堵した表情を見せる。とにかく穏便にと妹紅はもう一度自分に言い聞かせてから、手を差し伸べた。
「じゃあ、はい、荷物」
「ん?」
「お客さんが来てるんだから、お茶とか出さなくちゃいけないでしょ? だから荷物は私が持ってくよ」
「あ、ああ、ありがとう。ただ」
慧音が不安そうな顔をするので、妹紅は慧音の不安を吹き飛ばす様に無理矢理に笑った。
「二人っきりでも大丈夫。何を言われても我慢するから」
「そうか? なら」
「うん、任せてよ。ちゃんと仲良くする」
そう言って、妹紅は慧音から荷物を受け取ると、輝夜の待つ奥の部屋へ向かった。
部屋の扉の前に立って、妹紅は大きく深呼吸する。部屋の中には、自分の人生を滅茶苦茶にした憎き仇が居る。今までずっと殺しあってきた最低最悪の怨敵が居る。けれど今日だけは、いや、今だけはせめて表面だけでも仲良くしなくちゃいけない。思いっきり拳を握りしめてから、妹紅はもう一度大きく息を吸って、部屋の中に足を踏み入れた。
中に入ると、輝夜が振り返って笑みを見せる。
「あ、妹紅。慧音は?」
「今、お茶を淹れてる」
「あら、本当に? 別に構わないのに」
輝夜がころころと笑った。
輝夜の余裕のある態度が鼻についた。妹紅は唇を噛み切りそうな程強く噛む。
「そう言えば、あなた達は何を買ったの?」
輝夜が荷物を漁りだしたのを見ても、やはり妹紅は唇を噛み切りながらその光景に耐え続けた。その間にも輝夜は袋の中を漁り続け、やがて小袋を取り出した。
「あ、これ、何?」
途端に、妹紅の中に羞恥と怒りが湧き上がる。
その袋の中には沢山のビーズとテグスが入っている。今度誕生日を迎える慧音の為に、アクセサリーを作ろうと、慧音にも内緒でこっそりと買った材料だった。
輝夜は恥ずかしさに顔を赤らめている妹紅に気が付かず、楽しそうに袋を開けて中を検める。
「中は……あら、綺麗ね。南京玉、だったっけ?」
「やめろ!」
思わず吠えて、輝夜から袋を奪い返した。
輝夜が目を丸くする。
「ちょっといきなりどうしたの?」
「うるさい! 黙れ! これに触るな!」
妹紅が袋を抱き締めて、上目遣いに輝夜を睨む。その様子を見た輝夜は、しばし考えてから、にっと口の端を持ち上げた。
「分かった。それ、慧音へのプレゼントでしょ? 何か装飾物作るのんでしょ?」
ばれた。慧音にも秘密にしようと思ってたのに。こんな奴に。妹紅の顔が恥ずかしさに赤く染まる。きっと馬鹿にされるに違いない。こんな自分が誰かにプレゼントだなんて。妹紅が目に涙を浮かべて輝夜を見つめると、輝夜は優しさに満ちた笑顔を浮かべていた。
「可愛いわね」
「え?」
「良いと思うわよ。可愛くて。きっと慧音も喜ぶと思う」
妹紅は輝夜の言葉を信じられない気持ちで聞いていた。
あの輝夜が自分を励ましている。いや、口先だけで実際は内心馬鹿にしているんじゃ。
あり得ない事に、妹紅が疑わしい気持ちで輝夜を見つめていると、輝夜が息を吹き出して笑った。
「何、その顔! 私が馬鹿にするとでも思ったの?」
「え?」
「やっぱり図星でしょ。馬鹿になんてしないわよ。きっとあなたは一所懸命に慧音の事を考えて、それでこれが一番良いって思ったんでしょ? そうやって選んだプレゼントを馬鹿にする訳無いじゃない。私達、友達でしょ?」
優しい言葉。
あの輝夜から優しい言葉が掛けられている。あの輝夜が、自分を殺そうと刺客を差し向ける様な奴が、ずっと殺し合いをしてきた輝夜が、今自分に優しい言葉をかけてきている。
妹紅は何だか目眩を覚えた。出来の悪い夢なんじゃないかと疑ってしまう。
輝夜は何か企んでいるに違いない。そう思うのだけれど、輝夜の優しい笑顔がその疑いをとろかしていく。何故だろう。輝夜の言う事を信じようとしている自分が居た。理性では怪しいと思っているのに、そう思いたくない自分が居る。
「ね、妹紅。私は本当に純粋に羨ましいと思ってるの。仲が良くて羨ましいなって。私も同じ位仲良くなりたいなって」
そうして顔を寄せてきた輝夜に、妹紅はほだされそうになって、思わず突き飛ばした。
「止めて!」
輝夜を睨みつる。感情が高ぶりすぎてその目から涙が溢れてくる。
「何なの? 何なんだよ、もう! 何でそういう、何で! いきなりそんな! 友達なんて! ずっと殺しあってきたのに! 憎みあってきたのに」
妹紅の叫びを聞いた輝夜は再び妹紅に寄って、妹紅の頬に手を添えた。
「突然変わる事がそんなにいけない事? 例え突然であろうと、友達になりたい、だから友達になる。友達なったから仲良くする。それはそんなにおかしい事?」
諭す輝夜の手を妹紅は振り払い、涙を浮いた目で睨み続けていると、慧音がやって来て妹紅の手に肩を載せながら、輝夜へ尋ねた。
「理由を知りたいんだよ。どうして急に? それが分からないから、妹紅は不安なんだ」
そう言うと、慧音は妹紅と輝夜の手を取った。
「とりあえずお茶を淹れたから居間で話を聞こうか」
慧音に連れられて輝夜と妹紅は大人しく居間へ向かった。輝夜はあくまで楽しそうに、妹紅は涙を擦って輝夜を睨みつけながら。
座卓につくと、輝夜は楽しそうに慧音と妹紅を交互に見つめてから、口を開いた。
「まあ、はっきり言ってしまうとね。飽きたのよ」
「飽きた?」
飽きたという唐突な宣言に、妹紅の心が一瞬ついていかなかった。
飽きた?
それを聞いた瞬間、思考がまっ更になる程の衝撃を受けている事に、妹紅は数秒して気が付いた。
飽きたってもしかして私と殺し合うのに飽きたという事?
そう考えた瞬間、今までに無い程輝夜を恨む思いが心の中から噴き出してきた。
「輝夜! あんたは、あんたは自分が平和な世界で暮らせる様になった途端、今までずっと殺しあってきた事も、それまで私がずっと苦しんでいた事も、お前が私の家族にした事も、全部見捨てて逃げるつもり?」
妹紅は喉の奥からせり上がってくる何かに気が付いたが、沸き上がってくる言葉は止められない。
「そんなのずるいじゃない! あんたは私の敵よ? あんたを殺す為に私は生きてきた。ずっとずっと死にたくても死ねないから、あんたを殺す事だけ考えてずっと生きてきた。それなのにあんたは降りるつもり? 私を散々苦しめるだけ苦しめて、それで何も晴らさせないまま、これから更に苦しめるつもり?」
妹紅が嗚咽を堪えて輝夜を責める。
飽きたという言葉が妹紅の心を苛み続ける。
まるで自分の生を否定された気がした。妹紅にとって輝夜との死闘は人生の全てだった。けれど輝夜の方はそんな事を考えていなかった。輝夜にとって殺し合いなんかどうでも良い事で、別のもっともっと大事な物を持っている。当たり前だ。誰が殺しあいだなんて望むだろう。それが普通なのだ。殺し殺される関係なんて誰だって嫌だ。けれどそうやって誰もが背を向ける様な関係にすら、妹紅は頼らざるを得なかった。不死と狂気。その二つを受け入れてくれる受け皿は輝夜との殺し合いしか無かったから。妹紅はそれが異常と知りつつも、輝夜との殺し合いに生き甲斐を感じざるを得なかった。そうして、そんな関係に応じる輝夜もきっと自分と同じなのだろうという思いが少なからずあった。永遠亭という基盤を持ってはいるものの、きっとそれでは満たされぬ何かがあるから、自分と長い殺し合いを続けているのだろうと、そう思っていた。けれどそれは違った様だ。輝夜にとって、二人の殺し合いはあくまで暇つぶしの一つでしかなく、飽きてしまえる様な物だった。
考える内に頭の中がどんどんとぐちゃぐちゃになっていく。まるで鉄と鉄を打ち鳴らしている様な不快な痛みが頭の中に鳴り響いている。恨みと妬みが頭の中を満たしていく。
気が付くと、妹紅は輝夜の腕を掴んでいた。
「絶対に許さないから。そんな事絶対に許さないから。あんただけが一人だけ。そんな事絶対。もしもあんただけ抜けるっていうなら、良いよ。あんたと関わる全部、燃やしてあげるから」
妹紅の握る輝夜の腕が赤く熱して、肉の焼ける音と臭いが辺りに広がる。輝夜は焼ける自分の腕をちらりと見てから微笑んで、人差し指で妹紅の鼻の頭を突いた。
「はっずれー!」
そうして実に楽しそうに笑い声を上げる。
血反吐を吐く思いだった妹紅は、そんな輝夜の軽い様子に固まって動けなくなった。
すると輝夜は幾分呆れた様子で妹紅の手を解き、焦げた手を振るう。その焦げ跡は一瞬で修復された。
「さっきも言ったでしょ? 抜け出すのは私だけじゃない。あなたもよ。あなたは嫌気がささないの? ずっと二人で殺しあって。こんな事いつまで続けるつもり?」
「でも、今更」
「遅くなんかない。今からだって十分やり直せる。あなたが私を恨んでいるのは分かる。でもね、それで恨んで憎しみ合って、延々と延々と戦い続けるなんて、あなただって苦しいでしょ? それよりは尽き果てぬ苦しみは一緒かもしれないけれど、せめて二人で仲良く穏やかに楽しい時を生きたいじゃない? ね?」
輝夜が手を打ち鳴らす。
確かに楽しく笑い合っていられたらそれはどんなに素晴らしい事だろう。
けれどそうなったら、私の恨みはどうなる?
妹紅はゆっくりと顔を上げて、暗い笑みを浮かべた。諦めきった様な表情だった。
「嫌に決まってるでしょ」
「どうして?」
「ああ、分かったよ。分かった分かった。つまりあんたは嫌になった訳だ。私と殺しあうのが」
「だからそう言ってるでしょ。あなただってそうなんでしょ? だったら」
「つまり私があんたと殺し合い続ければ、あんたはこれからも苦しみ続ける訳だ」
そう言って妹紅は笑みを深くする。ただその笑みはすぐに分かる程苦しげだった。対する輝夜も顔を曇らせて、重たい沈黙が二人の間に降りる。その時、慧音が妹紅の肩に手を添えた。
「妹紅、私も輝夜の意見に賛成するよ」
「慧音! どうして? 輝夜につくつもり? 私の事を裏切るの?」
「違う! だって平穏にしている時の君は本当に嬉しそうにしている。それに比べて殺し合っている時の君は辛そうだ。妹紅、君だって本当は平和を望んでいるんだろ?」
「でも! だからってこいつと」
妹紅が立ち上がって輝夜を指さすと、その指差す手を輝夜は両手で優しく包み込んだ。
「初めから、友達で居ましょうとはいかないみたいね。だったらお試しっていうのはどう? 一年でも一月でも一週間でも良い。まずは友達のふりをして欲しい」
「友達のふり?」
「そう、ふりで良い。心の底から私の事を友達と思わなくても、ただ友達らしい事を一緒にしてくれれば良い。それでしばらくして、あなたがやっぱり友達になんてなれないって思うんだったら、私も諦める。その時は永遠に殺し合いをしていましょう? でももしも、少しでも何か感じる事があるならその間は友達のふりをして、それでもしも本当にそう思える様になったら、ずっと友達で居ましょう。どう? お試し期間」
「そんなの」
「今の私とあなたの関係は、歪過ぎる。初めから憎みあって殺しあって、仲が良かった時なんてありゃしない。もしかしたら、仲良くなれるかもしれないのに、もっと幸せな道を歩めるかもしれないのに、永遠亭のみんな、妹紅や慧音、他の人間達、みんなで楽しく出来るかもしれないのに。ねえ、妹紅、そっちの方が良いでしょう? 平穏にみんなで笑って過ごしていられた方が。それなのに、今の私達は殺し合いしか知らないから、ずっとそれにしがみついている。そんなの嫌じゃないの? あなたの隣に座っている慧音を見てご覧なさい? 本当に殺し合いなんか望んでいるの? ねえ、慧音。もう一度はっきりと言ってみて。あなたは私と妹紅が殺しあう事を望んでる?」
慧音が頭を振った。
「いいや。勿論望んでない。もしも君達が仲良く出来るなら、それで妹紅が苦しまなくて済むのなら、それは願ってもない事だ」
「ほら御覧なさい」
輝夜と慧音、二人の視線に曝されて、妹紅はうろたえた様子で慧音を見つめた。
「慧音」
「妹紅、私は君に幸せになって欲しいんだ」
慧音にまっすぐと見つめられて、妹紅が目を逸らした先には輝夜の真剣な瞳がある。
「一週間で良いの。それで駄目ならもう友達になろうだなんて言わない。殺し合いに文句は言わない。ねえ、たった一週間で良い。どう?」
妹紅は息を詰めて輝夜の目を見つめていたが、やがて耐え切れなくなった様子で口を開いた。
「一日待って」
「分かった」
輝夜は途端に椅子を立って、玄関へ向かう。
「また明日」
妹紅は応えない。代わりに慧音が立ち上がって、輝夜の後を追った。
「友達になれる勝算はあるのか?」
「さあ、知らないわ。でも駄目で元々でしょ? 失敗したって今まで通りだし」
輝夜が履物を吐きながら何処か他人事めいて言うので、慧音は心配になった。
「よろしく頼む。妹紅は本当に辛そうで」
慧音が懇願する様にそう言うと、輝夜は振り返って笑った。
「例え嘘であってもね、演じていると本当の事に思えてくるの。まして相手が本当はそれを望んでいるのなら尚更ね。って永琳が言ってた。だからもし妹紅が私と同じ様に今の殺し合いを嫌だと思っているなら。きっと大丈夫」
輝夜はそう言うと手を振って去っていった。慧音は何だか頼もしい思いで居間に戻ると、妹紅が沈み込んでいるのでまた不安になった。
「妹紅、あくまでお試しなんだ。君が心の底からあの女を恨んでいる事は分かっているけど、たった一週間位、友達のふりなんだし」
「なあ、慧音。友達のふりってどうすれば良いんだ?」
「え? ふりだから、友達らしくしていれば良いんじゃないか?」
「だって私友達なんてほとんど居なかったから。どうすれば良いの? 明日から友達のふりをするって言ったって、何をすれば良いのか分からなくて」
「いつも私と居る様な感じで良いんじゃない? おしゃべりしたり、買い物に言ったり」
「それで良いの? それで友達なのかな?」
「うーん、多分」
「おしゃべりに買い物ね。分かった。相手はあの輝夜だもん。絶対に負けないから」
そう言って、気合を入れる。
慧音は色々言いたい事があったけれど、とりあえず妹紅が張り切っている様なので、何も言わなかった。
次の日、妹紅が慧音の家に居ると、輝夜が遊びに来た。輝夜は息を切らして上がりこむなり妹紅の前に座り込んだ。
「妹紅、結局、あなたは殺し合いを選ぶ訳?」
「え? いや、とりあえずお試しで友達になろうと思ってるけど?」
「じゃあ、何で家に居ないの!」
「ここに」
「ここは慧音の家でしょ! あんたの所に遊びに行ったのに居ないから断られたのかと思ったじゃない!」
「そんなの!」
一方的に怒鳴られる事に我慢出来なくなった妹紅は応酬しようとしたが、友達のふりをするんだからと何とか堪えて我慢する。
「まあ、じゃあ、悪かったわよ」
妹紅があまりにもあっさりと謝ったので輝夜が目を丸くした。
「何よ。悪かったって言ってるの。確かに遊びに行ったのに居なかったらやだもんね」
「うん。そうだけど」
「だから謝ってるの。私達友達なんでしょ」
妹紅が顔を赤くしながら躊躇いがちにそう言うと、輝夜はうんと言って大きく頷いた。妹紅は何だか居心地の悪さを感じて、話を逸らす為に話題を変えた。
「それで何をするの? 天気が良いから何処かに出かける? それともここでお話する?」
「あ、それなんだけど、妹紅の服を見繕おうかなって」
「何?」
「妹紅っていっつもおんなじ服を着てるじゃない?」
それを指摘された途端に、妹紅は顔を赤らめて俯いた。
「悪かったわね。あんまり持ってないのよ」
輝夜が手を振るう。
「別にそれがどうこうって話じゃないわよ。私と戦った時に、駄目にしてるっていうのもあるだろうしね」
「そうよ! 前もお気に入りの服をあんたの所為で!」
激昂して立ち上がった妹紅は慌てて自分の口を抑えて座り直す。
「で、それで見繕うっていうのは?」
「うん、家にあった服を持ってきたの。洋服も和服もね。それで似合いそうなのを妹紅に上げようかなって」
「は? どういう事?」
輝夜は「ちょっと待ってて」と言い残して外へと出て、しばらくして両手いっぱいに服を抱えて戻ってきた。
「こんなに?」
その量に、妹紅と慧音が驚いていると、輝夜が笑った。
「まだもう少し」
結局、妹紅と慧音も手伝って、荷車に積まれた大量の服を運び入れ、部屋を服で一杯にした。
「何処がもう少し? 結局二十回位行き来したんだけど」
「まあまあ。で、この中から妹紅に似合いそうなのを上げようと思ってね」
輝夜が何枚か服を掴みあげると、その手を妹紅が掴んだ。
「ちょっと待って!」
「どうしたの? これは気に入らない?」
「そうじゃない! 正直目移りする。でも私はあなたから貰う謂われが無いでしょ?」
「だから友達なんだから」
「友達でもこういう事はしない。私と慧音はした事無い。だってこんなの乞食みたいじゃない」
「ふーん」
妹紅の苦しげな表情に何処か冷めた目付きで応えた輝夜は事の成り行きを見守っていた慧音へ顔を向けた。
「じゃあ、私よりも先に友達だった慧音に聞くけど、あなたは私が妹紅にこの服をプレゼントする事に反対? 勿論、妹紅だけに上げるつもりはないわよ。妹紅の友達なら私の友達だもの。妹紅が選んだ以外で気に入ったのがあったら上げる」
それを聞いた慧音は頭を掻いた。
「妹紅の意思を尊重するよ」
「あなたの意見を聞かせてよ。あなたは良いの? 妹紅がこのままで。お洒落も何もしないなんて悲しいとは思わない」
妹紅が身を縮こまらせる。
慧音はそれを見て小さく息を吐いた。
「どうせ余ってるんだろ、服?」
「ええ、勿論。こんなの端よ、端」
「じゃあ妹紅が気兼ねする必要は無いんじゃない? 私も余ったのを幾つかもらおうかな。ね、妹紅。友達なんだ。素直に本音を言おう。欲しくない?」
「欲しいよ。欲しいけど」
「遠慮するのが友達かい? 例えば私が着なくなった服を妹紅に上げるとしたらそれを断る?」
「断……らないと思うけど、こんなに沢山」
「量は関係ないだろ。輝夜が良いって言ってるんだし。遠慮する事は無いよ」
「そうそう。遠慮する事無いから。さて、じゃあどんな服が良いかな」
輝夜が楽しそうに言いながら、近くのスカートを取り上げた。
「そう言えば、妹紅がスカート穿いているの見た事無いなぁ」
何か企みを思いついた様な、更に言えば下卑た笑みを浮かべて、スカートを持って妹紅の前に屈みこむ。妹紅は慌てて後退って首を振った。
「やだよ、スカートなんてそんな」
「とか言ってホントは着てみたいんでしょ?」
「着てみたくない! 慧音、輝夜の奴が」
「私も妹紅のスカート姿、見てみたいな」
慧音も笑みの抑えきれない様子で妹紅へにじり寄る。
「ちょっと待って! 何か二人共怖い!」
「まあまあ。大人しくしていてよ」
「妹紅、ちょっと立ち上がって。大丈夫。見ているのは私達だけなんだし」
妹紅は恐ろしげに二人を見つめ回して、首を横に振りながら後退っていると、やがて壁に行き着いて、それ以上後ろに下がれなくなった。
それからしばらくの間、妹紅の悲鳴と二人の楽しそうな笑いが続き、やがて妹紅の着せ替えを堪能した二人は満足気に息を吐いた。
「結構妹紅に似合う服があったわね。時間が掛かって、半分も着せられなかったけど」
「服装で随分印象が変わるな、妹紅。お淑やかなお嬢さんみたいだったよ」
二人が笑顔で妹紅を見ると、妹紅は真っ赤にした顔を膝にうずめて、いじけた様に座っている。
「もう何でも良いよ」
妹紅の呟きを聞いた輝夜は満足気に何度か頷いてから、思い出した様に言った。
「そう言えば、まだ着物を試してなかったわ。あんた昔は和服着てたんだから。丁度そろそろ盆祭りもあるのだし」
輝夜が着物を探しだすと、妹紅は驚いて顔を上げた。
「嫌だからな!」
「まあまあ」
「絶対に嫌だからな! それだけは絶対に嫌だ!」
あまりにも激しく拒絶するので輝夜は不思議そうに妹紅を見る。
「どうして?」
「だって、私、髪の色こんなのになっちゃったから。こんなんじゃ着物なんて着れない! 昔と比べて滑稽に映るだけだよ」
妹紅が悲しげに呻いた。
慧音が胸をつまらせてにじり寄っていた足を止める。
けれど輝夜は笑い飛ばして歩み寄った。
「大丈夫だって。髪の色が白くたって似合うから。間違いない」
ずっと悩んでいた事をあまりにも豪放磊落に笑われたので、妹紅は唖然として何も言い返せない。
「昔の事なんて良いじゃない。どうせ覚えているのは私とあなただけ。二人がひっそりとしまい込めば、誰も知りえぬ事でしょう? 大事なのは今よ、妹紅。今のあなたもきっと着物が似合う。ね?」
輝夜の微笑みに蕩かされて、妹紅は思わず頷いて、輝夜の持つ着物へ歩み出した。輝夜の手には薄っすらと青みがかった生地に鳥の絵をあしらった単衣がある。その感じの良い着物を持つ輝夜の美しい笑顔。気が付くと、輝夜の持つ着物を受け取り、身につけ始めていた。随分と長い間着ていなかったのに、何故か体は着物の付け方を覚えていて、あっという間に着込んだ妹紅は自然と鏡に自分の姿を写して微笑んでいた。
懐かしいという感じはしない。今着ている着物は昔着ていた物と作りが違う。けれど何故だか胸の内からこみ上げてくるものがあって、輝夜の手前こらえなければならないと思いつつも、せり上がってくる郷愁は抑えきれずに、いつの間にか目の端から涙が流れていた。
しばらく妹紅の嗚咽だけが辺りに流れる。それを輝夜と慧音はじっと黙って見守った。
妹紅が泣き止んだ時には既に外はすっかり暗くなっていた。妹紅が泣き止んだのを見て、輝夜は微笑みを浮かべて立ち上がる。
「気に入っていただけたみたいで何よりよ。とりあえず今日着たのは全部上げるから」
妹紅は慌てて涙を拭う。
「でも、それじゃあ」
「多すぎると思うなら、慧音に譲るなりなんなりすれば良いでしょ?」
「でも」
輝夜は笑って妹紅の前に立った。妹紅も自然と立ち上がって、二人は見つめ合う。
「思うのだけれど、過去と向き合い過ぎるのも、過去から目を背け続けるのも、どっちも不自然でいつか耐え切れなくなる時が来る。今までの事を水に流すのは難しいでしょうけど、それを踏まえて新しい関係が築けるんじゃないかと思うの。過去は過去、今は今、私達は今を生きているんだから」
「それだけ」と言って、輝夜は背を向けて外へ向かった。履物を履いて玄関を出ると空は雲一つ無い星空で、闇夜の月明かりに浮かんだ輝夜に妹紅は躊躇いがちに声を掛ける。
「輝夜」
「何?」
「また明日」
「ええ、また明日会いましょう」
輝夜は口元を抑えて楽しそうにそう言うと、荷車の上に乗って、何処からともなくやって来たイナバ達に引かれて去っていった。
それを見送りながら妹紅は呟いた。
「ねえ、慧音」
「何?」
「私輝夜の事を信じても良いのかな」
「それは君が決める事だよ。妹紅はどう思うんだい?」
「私は……分からない。だってずっとずっと憎しみ合って殺しあって、そんな関係だったのに、突然あんな。まだ答えなんて出せないよ」
「だろうね」
「どうすれば良いのかな? 答えが見つからないんだ」
「その為の一週間だろ? お試し期間は一週間。まだ最初の一日目じゃないか。これから見極めれば良いんだよ」
「そう、だよね。うん、そうだ」
何だかまたやる気になっている妹紅を見つめながら、慧音はそっと笑みを浮かべた。
けれどもう君の心は傾きだしているんだろう?
そう心の中で呟きながら。
「なーんて事言ってるのかなぁ」
輝夜は空を見上げて辺りを照らす月に笑顔を向け、やがて笑い声が起こり、それは段々と高まって、辺りの木々を揺さんばかりの哄笑になった。
「誰が友達になんかなるかっての」
荷車に積まれた服の上で倒れこんだ輝夜は段々と笑い声を抑えて、今度は酷薄な笑みを浮かべる。
「体が壊せないなら、心を壊せば良いってね。思ったよりも簡単に信じてくれたし、簡単に籠絡されそうだったわね。私の演技力もあるんだろうけれど」
輝夜は月を見ながら今回の策を立案した人物の顔を思い浮かべる。
「例え嘘であっても演じている内に、本当だと錯覚しだす、か。流石永琳」
くすくすと笑いながら、輝夜は沢山の服の上を前方へ転がって、荷車を引っ張るイナバ達へ声を掛けた。
「あなた達にも面倒な事させて悪いわね。こんな大量の服を用意させたり、車を引っ張らせたり。でもそれも明日までだから」
「明日? 永琳様の計画では相手の信頼を確かなものにする為、最低でも一週間という話では? 幾ら輝夜様でも仇敵とあらば完全に籠絡するにはそれ位掛かるとか」
「飽きちゃったの。こんな事をしてるのが。良いじゃない。ちょっと信頼させてそれを裏切って、人間不信にでもさせておけば」
「ですが、それでは心を壊す事が」
「妹紅が人間不信に陥れば慧音への依存を益々高めるでしょ? そうしたら慧音を殺すなりなんなりすれば良いじゃない。心を壊すならそっちの方がよっぽど手っ取り早いわ」
「それは……確かにそうですね。そちらの方が簡単だ。永琳様は気付いていなかったのでしょうか」
「どうせ永琳の事だからターゲット以外は傷つけない様にとか考えてるんじゃないの? 頭が良い所為か妙に完璧主義なところがあるから」
輝夜はそれで話を打ち切る様に手を叩いて声をあげた。
「とにかく! この茶番は明日で終わり! 分かった?」
イナバ達の応じる声が夜の闇を震わせた。
翌日に輝夜が妹紅の家に行くと、妹紅と慧音が輝夜の事を快く出迎えた。
「いらっしゃい、輝夜。昨日は……服くれてありがとう」
そう言った妹紅は、昨日輝夜達が見繕ったワンピースを着ている。
「別に良いわよ。それより、ちゃんと着てくれて嬉しいわ。やっぱりそういう服の方が可愛くて似合ってる」
気恥ずかしそうに照れる妹紅の顔に敵意は見えない。そんな妹紅の様子を見て、輝夜はほくそ笑む。何か見ていて清々しい気持ちになった。後一押し。そう考えて、輝夜は二人へ提案した。
「今日は山へ行かない?」
「山? 妖怪の山?」
「そう。良いでしょ? ね、妹紅? お弁当も作ってきたの。半分は鈴仙が作ったんだけど」
妹紅を見ると、青白い怯える様な顔をしていた。
「どうしたの、妹紅? 気分でも悪い?」
「いや、ううん。大丈夫。行くよ」
輝夜は心配する様な素振りで妹紅の傍へ近寄ったが、内心は笑っていた。妹紅は常日頃から山へ入る事を極度に恐れている。それが何故かは分からないけれど、それを利用しない手は無い。
慧音も心配そうにしていたが、妹紅が気丈な態度で行くといって聞かないので、結局は折れて三人で山へ登る事になった。頂上を目指すには少し遅い時間だったけれど、何か目的がある訳でも無いので、三人はのんびりとした足取りで山道を寄り道しながら登っていった。妹紅も初めの内こそ青い顔をしていたが、慧音と輝夜に話しかけられて笑っている内に、段々と元気になっていった。どうやら友達の手前元気で居なくちゃいけないと笑い続けた結果、本当に元気になってしまったらしく、改めて演じる事でそれが本物になるのだという事を輝夜は実感した。
登っている内に、ふと様々な花が咲き乱れている一角を見つけた。整った様子はどうやら誰かが手入れをしているらしい。そうは言っても柵も看板もない。慧音と妹紅がそれをただ嬉しそうに眺めている傍で、輝夜はあっさりと花畑に入って、花をつみはじめた。
「輝夜。ここって誰かの花壇なんじゃ」
「でも別に看板も何もないじゃない。ならみんなの物よ」
「でも」
「これだけ咲いているんだから、少し位摘んでも大丈夫よ」
適当に答えながら、輝夜はそろそろ頃合いかなと考えていた。ここからは妹紅を徹底的にいじめぬいてやろうと、花を摘んでは冠を作っていく。そうして出来上がった冠を妹紅の下へ持っていった。
「ねえ、これ作ってみたんだけどどう? 欲しい?」
妹紅はそれを見て、それから輝夜を見て、驚いた様に目を丸くして頷いた。
「可愛いと思う。良く出来てて。うん、欲しい」
「本当に?」
「うん」
「そっか。良く出来てるんだ。じゃあ、慧音上げる」
輝夜が花冠を慧音へと差し出すと
「え?」
慧音と妹紅が同時に素っ頓狂な声を上げた。
「私に? 妹紅に上げるんじゃないのか?」
「違うけど? 最初から慧音に上げる為に作ってたんだし」
二人が妹紅を見ると、妹紅は両手を差し出して受け取ろうとしていた体勢で固まっていて、二人の視線に気がつくと顔を赤らめて慌てて両腕を引っ込めた。その様子を輝夜は不思議そうな表情で眺めつつ、内心では大笑いしていた。
「あ、そうだ。妹紅にも花冠の作り方教えてあげようか?」
「え? あ、うん」
輝夜が再び花畑の中に入ると、途端に妹紅は嬉しそうな表情で輝夜の後を追った。そうして輝夜の教えに一一頷きながら、花冠を作り上げる。輝夜はその様子を楽しそうに見つめる。花冠が出来た時に妹紅は誰に渡すのか、可能性は二分の一だ。
そうして出来上がると、妹紅は案の定輝夜へ花冠を差し出した。
「あのさ、これ、輝夜に受け取って欲しいんだ。服のお礼、にはならないのかもしれないけど、少しでも私から何か」
その瞬間、輝夜の心は外溢れ出そうな程の暗い笑みに満たされた。
輝夜は妹紅の言葉を聞きながら想像する。自分が拒絶すれば妹紅がどんな表情になるのか。差し出された花冠を払い除ければ妹紅は一体どんな反応を見せるのか。地面に落ちた花冠を踏みにじれば妹紅がどんな事を言うのか。
たっぷりと想像して、暗い愉悦に浸ってから、輝夜は笑顔のまま妹紅に言った。
「要らないわよ。そんなのが昨日のお礼になると思ってるの?」
その瞬間、妹紅の表情が脱色したみたいに真っ白になった。信じられない様な表情を越えて、何を言われたのか聞き取れなかったみたいに、何の表情も浮かべられなくなっている。ただ唇だけは震えていて、目に浮かんだ涙が何よりも雄弁に妹紅の心の内を現していた。
輝夜の手は更に花冠を払いのける体勢に入っていたが、その手は動かなかった。代わりに口が開く。
「え、あ、そうじゃなくて! だってそれは初めて作った大事な花冠なんでしょ? だったら私に上げるんじゃなくて、慧音に上げるべきじゃない? それに昨日の服なんてお金で買える物だし、それみたいにお金に代えられない価値のある物と交換したら罰が当たるわよ」
あれ?
言い訳をしながら、内心輝夜はどうしてそんな言い訳をしているのか自分でも分からなかった。
妹紅は気を取り直した様子で顔をあげる。
「ありがとう。でもやっぱり輝夜に受け取って欲しいんだ。今の私にはこれ位しか出来ないから」
そうしてまた花冠が差し出される。
輝夜はそれを払わなくちゃいけないと思いつつも、気がつくと受け取って、自然と笑みがこぼれた。
「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとう。嬉しいわ」
輝夜の言葉に妹紅も笑う。
二人で笑いあいながら、「違う!」と輝夜は心の中で叫ぶ。こんな事をしたかったんじゃない。妹紅の心をぐちゃぐちゃに踏みにじろうとした筈なのに、どうして。
輝夜が混乱している間にも妹紅はもう一つ花冠を作って、慧音にプレゼントして嬉しそうにしている。輝夜がその様子に苛々としていると、二人が輝夜を手招いた。
「行こう」
自分の心の動きを疑問に思いながら、輝夜は二人について行く。
何故妹紅の花冠を払いのけられなかったのか。何故妹紅を励ます様に言い訳をしてしまったのか。何故妹紅の悲しげな表情を見て胸が傷んだのか。
物思いにふけっていると、前を歩いている妹紅が声をかけてきた。
「ごめん、ちょっと」
輝夜は慌てて顔をあげると、妹紅は叢の向こうに入っていく。一方で、慧音は妹紅を追わずに道端で妹紅を見送っている。輝夜は妹紅の行動の意味が良く分からなくて慧音の傍へ寄った。
「ねえ、慧音。妹紅はどうしたの?」
「ん? ちょっとな」
歯切れの悪い慧音を不思議に思う。
「何かあった訳? ちょっと見てくるわ」
「あ、ちょっと、輝夜」
輝夜が森の中へ入ってしばらく行くと妹紅が崖縁でしゃがみ込んでいるのが見えた。何か水気のある音が聞こえて、近付いてみるとどうやら吐瀉している様だった。背後に立った輝夜にも気が付かない程弱っている。
どうやら無理して山を登ってきたものの、ここに来て耐え切れなくなったらしい。
うずくまる妹紅の背中を見て輝夜は一瞬同情しかけたが、すぐさま頭を振って、妹紅のすぐ前にある崖を見下ろした。人の背丈位の深さしかない低い崖だ。突き落としたところで妹紅は怪我一つ負わないだろうし、負ってもすぐに治ってしまうだろう。けれど心の方はどうだろうかと輝夜は暗く笑う。恐らく傷付くだろう。友達が自分を突き落とし、剰えその友達が喜悦に満ちた表情を浮かべていれば、妹紅は傷付くに違いない。そうして悟る筈だ。友達なんていう関係を望めない事に。所詮敵同士なんだという事に。信じきっていた妹紅はきっと人間不信になり、慧音にしか心を許せなくなり、そうしてその頼みの綱の慧音が死ねば、妹紅は支えを失って倒れるだろう。後は助け起こす者を寄せ付けなければ、妹紅はずっと一人で二度と立ち上がる事無く、死んだ様に生きるはずだ。
輝夜はそっと腰を屈めて、えずいている妹紅の背中を見定めて、手を構える。後は思いっきり手で押し出せば良い。そうすれば妹紅は崖から飛び出し、下へ落ち、二度と誰も信じられなくなる。
輝夜は緊張している自分に気が付いた。どうしてだか分からないが、妹紅の背を押す事を躊躇している。理由は分からない。きっと、さっき花冠を払いのけられなかった理由と一緒だろうと思う。それが何なのかは分からない。分からないから些事なのだろうと思った。
妹紅がえずいている、その背中。あまり妹紅の背中を見た事は無かった。睨みつけてくる表情は何度も見たのに、こんな風にうずくまっている姿はほとんど無い。数百年の憎しみ合い。それは自分にとって些事なのだろうと思った。数百年の殺し合い。果てのない悠久の年月からすれば、それはほんの些事なのだ。そして、これからする事もまた、ほんの些事。
輝夜は一度力を溜めてから、妹紅の背へ思いっきり腕を押し出す。
「輝夜?」
押す直前、妹紅が振り返って弱々し気な表情を見せた。それを見た輝夜の体は硬直したが、既に妹紅は崖から押し出されていて、投げ出された妹紅の信じられないと言いたげな表情と目があった。気が付くと輝夜は崖から飛び出して、妹紅の後を追っていた。そうして落ちる妹紅に抱きつくと、二人して崖の下に落ちる。
落ちた先は固い地面で、妹紅と地面に挟まれた輝夜は臓腑を圧迫されて胃液を吐いた。痛みはすぐに引いたものの、頭は呆然として上手く働かない。自分が何をしたのか、自分で信じられない。
上に被さる妹紅が気遣わしげな顔で覗きこんでくる。
「ごめん、輝夜。大丈夫」
輝夜は慌てて妹紅を払いのけて、妹紅の下から逃れた。睨みつけたが、妹紅が汚れてしまったワンピースをつまみ上げて、すまなさそうな顔をしているのを見て、今が戦闘中では無い事を思い出す。
「あ、ごめん、妹紅」
「ううん、こっちこそ。折角昨日もらったワンピースも汚しちゃって」
「何か気持ち悪そうにしてたから、気になって。それで後ろに立ったら、急に振り返って声を上げるから驚いて」
本当は突き落とそうとした等とは言えなかった。
妹紅も輝夜の悪意には気がついていない様で、首を振る。
「私は大丈夫。気持ち悪いのも、別に病気だとかじゃない。蓬莱の薬を飲んだんだしね。ただ山は駄目なんだ」
妹紅が苦しそうに俯くのを見て、輝夜は我慢出来ずに聞いた。
「どうして?」
「昔ちょっとね」
妹紅ははぐらかそうと言葉を濁らせたが、輝夜は更に追求する。
「どうして? もしかして私の所為なの?」
不安な思いでそう聞くと、妹紅は首を横に振った。
「違うよ。でもあの頃の事」
「何があったの?」
はぐらかせそうに無いと感じた妹紅は溜息を吐いて、躊躇いがちに言った。
「ずっと昔、初めて人を殺した時の事がまだ忘れられないんだ」
「初めて人を殺した?」
「そう。笑っちゃうでしょ? 今まで妖怪も、偶に人間も、憂さ晴らしの為に殺しまくってきたのに、それは何にも感じていないのに、どうしてか最初のだけは忘れられないんだ」
「どうして?」
「多分、この生きているんだか死んでいるんだか分からない暮らしの始まりだったからじゃないかな。あの時、あの夏の暑い日に、山の中で、私は人を殺して蓬莱の薬を手に入れて、それで永遠の命を得た。きっと暑さで狂ってたんだ。ただただ恨みを晴らしたい一心で蓬莱の薬を奪って飲んだ」
「私を殺す為に?」
「違う。そんな思いで奪ったのなら、きっとあの時の私はまだ正気だ。でも違う。あの時の私はね、ただあんたが残した何かを私の手で処分したかったんだ。そんな、それだけの為に人を殺した。その時の事を思い出すと、何だか気分が悪くなる。だから山は駄目なんだ。あの時みたいに暑い日は特に」
妹紅は自嘲して輝夜を見る。
「狂ってるでしょ? 笑っちゃうよね」
輝夜は俯いて呟いた。
「笑える訳無いじゃない」
「そう? 自分では結構狂ってると思うけど、大した事無い?」
「だって、そんな風に狂わせてしまったのは私なんでしょ? だったら私があなたを笑える訳無いじゃない!」
輝夜の言葉に妹紅は驚いた様に目を見開き、やがて笑った。
「何か、お前からそんな言葉を聞くとは思ってなかったな」
笑う妹紅を、輝夜はぼんやりと見つめた。
「今でも私を恨んでる?」
「当然。恨みはあるよ。ずっと恨んできた事だからそう簡単に消えない」
「そうよね」
輝夜が俯く。
「でも、私達は友達でしょ?」
「え?」
「私達は友達なんだ。だったら昔の恨みは流して仲良くするべきだと思う。今はまだ難しいけど、いずれは。それが良いと思う。お前の言う通り、憎しみ合って、周りを悲しませて、自分だって苦しいなんて、そんなのがずっと続くなんて、私だって嫌だ。今はまだ恨む気持ちがある。今日だって、輝夜、あんたを殺したいと不意に思う事があった。そんな事を思わなくて済むのならそれが良い。だから、私達は友達なんだから、本当の友達になれる様に、努力しなくちゃいけないと思う」
妹紅は微笑みを浮かべた。
「だからさっきの質問に正確に答えるなら、恨んでる、けどいずれはそうでなくなりたい、かな」
そう言って微笑んでいる妹紅を輝夜は見つめ続け、何か言おうと口を開いた時、崖の上から声が掛かった。
「おおい! 大丈夫か!」
二人が声のする方を見ると、慧音が手招いている。
「あ、慧音!」
妹紅は嬉しそうに慧音の下へ上がる。
輝夜はまだ心の整理が付かぬまま、二人の元へ辿り着き、そうしてその後も思考の纏まらぬまま、二人の後に付き従って、気がつくと山登りは終わった。
山を下りると馬車が一台止まっていた。馬の上にはイナバが乗って、車の部分には永琳が乗っている。どうやら輝夜を待っているらしかった。
輝夜は妹紅と慧音に別れの挨拶をすると、馬車に乗って去って行った。それを見送った妹紅はふと自分の服を見下ろして、それが泥で汚れている事に顔をしかめ、隣に立つ慧音に聞いた。
「折角もらったのにこんなに汚しちゃった。ねえ、謝った方が良いかな?」
ワンピースをつまみ上げながらそう言う妹紅を見て、慧音は微笑みを浮かべる。
「きっと輝夜は気にしていないと思うけど、もしも気になるなら、明日謝れば良いんじゃないかな?」
「うん、でも」
「でも?」
「出来れば早く謝りたい」
「そうか。確かに謝るのなら早い方が良いのかもな。なら追いかけると良い。そんなに速度は出ていなかったから空を飛んでいけばすぐに追いつくだろう」
「そうだね。うん!」
慧音の言葉に励まされた妹紅は嬉しそうに輝夜達の後を追った。
馬車が出発してしばらく経ってから、永琳は隣の輝夜を労った。
「お疲れ様です、姫。首尾はいかがでしたか?」
輝夜は仏頂面で答える。
「友達にはなったわよ」
「それは何よりです」
輝夜は仏頂面で前を見つめ続けている。
永琳も澄ました顔のまま前を向いて言った。
「流石は姫様。人を誑かすのはお手の物ですか」
「褒めてんの? 喧嘩売ってんの?」
「喧嘩? どうしてですか?」
「別に」
「そう言えば、昨日予定を早めるとおっしゃっていましたけど、そちらはどうなったのですか? その様子ですと、失敗した様ですが」
「ええ、そうよ」
「どうしてですか? まだ早かった?」
どうしてなのかは輝夜自身にも分からなかった。自分の気持ちがままならない事に苛立って、輝夜は馬車の床を思いっきり踏みつけ怒鳴る。
「うっさいわね! 別に良いでしょ! 一日遅れたって! どうせ最初から一週間したら裏切って、あいつを絶望に追い込んでやるんだから! 今日やろうと明日やろうと一週間後にやろうと一緒でしょ? 私達の長い生の中じゃ!」
「そうですね」
「そんなに言うなら良いわよ! 明日やるから! 明日妹紅の心を完全に叩き折って、誰も信じられなくしてやるから!」
「姫、落ち着いてください」
「どうせあいつ貧乏だから何かあげときゃころっと落ちるんだから! そこにつけこめば簡単にやれるんだから! 見てなさい!」
「けしかけた訳ではないのですが」
溜息を吐いた永琳はふと背後を振り返った。背後には両側を林に挟まれた夜の道が伸びている。特に何の異常も無い。
「どうしたの、永琳?」
「いえ、何か音が聞こえた気が」
「音?」
「ええ、風切り音の様な」
「なら風でしょ」
そのまま馬車は何事も無く走り続けた。
その頭上高くでは、汚れたワンピースを着た妹紅が唇を震わせていた。
翌日、輝夜は新しいワンピースを持って妹紅の家へ向かった。妹紅が昨日の山登りでワンピースを汚してしまった事に心を痛めている様子だったので、新しいそして妹紅に似合いそうなワンピースを選んで、プレゼントするつもりだった。
敵に塩を送るだけだと言い聞かせながら、妹紅の家に出向いて呼びかけると、中から慧音が現れた。何処か沈み込んだ表情をしているのが気になった。
「輝夜、何の用だ?」
「何の用って遊びに来たのよ」
慧音の表情が歪む。
「そうか。けど、妹紅は取り込み中なんだ。悪いけど今日のところは帰ってくれないか?」
「取り込み中って何かあったの?」
輝夜が中を除こうとした時、中から妹紅の怒鳴り声と走る足音が聞こえた。
「輝夜? 輝夜が来たのか!」
凄まじい足音を立てて妹紅が現れる。輝夜はそれを眺めながて、こんな風に必死に会おうとするなんて随分と依存されているなと考えながら、持ってきたワンピースを持ち上げた。
「輝夜」
軋る様な妹紅の声音に気が付かず、輝夜は笑顔を浮かべて妹紅に近づく。
「おはよう、妹紅。遊びに来たわよ。はい、これ」
輝夜がワンピースを妹紅へ渡す。
「ほら、昨日汚して落ち込んでたでしょ? だから新しいのあげる」
輝夜は微笑んで妹紅の反応を待った。きっと予想もしていなかっただろう。もしかしたら感極まって泣き出すかもしれない。そんな風に楽しみに待っていると、ワンピースに目を落としていた妹紅が突然顔を上げて睨んできた。
「そっかぁ。今日はこれで私に取り入るつもり?」
敵意の籠もった猫撫声。輝夜は訳が分からず後退る。妹紅は後ずさった輝夜の足元にワンピースを放る。
「こんなの要らない! こんなの! こんなのであんたに騙されてなんかやるもんか!」
「ちょっといきなり何言ってるの?」
「ずっと嘘だったんだろ? 友達になるだなんて。私を騙す為にこんなものまで用意して、私を馬鹿にしてたんだ!」
そうして妹紅はワンピースを踏みにじりながら輝夜の目前に立って、鼻の付くほどの間近で睨みつけた。
輝夜はうろたえながら妹紅の目を見つめ返す。
まるで分からない。
どうしてばれた? 昨日までは気が付いていなかった。演技は完璧だった筈なのに。
「どうして分かったのかって顔してるね? 簡単だよ。昨日馬車の中でお前と永琳と話しているのを聞いたんだ! 私が、ワンピースの事謝ろうとして近付いたら、あんたの声が」
そういう事か。
なら言い逃れは出来そうにない。
「何でだ! どうしてこんな事したんだ! こんな回りくどい」
「ぐだぐだうっさいなぁ」
輝夜が蔑む様な目で睨み返すと、妹紅は体を震わせた。
「どうしてって決まってるじゃん。これが一番あんたに効きそうだったから。どうせ体なんていくら傷つけたって死なないんだし、だったら心を潰そうと思っただけ。現にほら、今あんた涙目になってるし」
妹紅は飛び退いて目元を拭う。
「そもそも今まで散々殺しあって来たのに、今更騙した何だって馬鹿じゃないの? 考え方が甘すぎんのよ!」
輝夜が妹紅を嘲笑うと、妹紅は顔を真赤にしながら怒鳴り返した。
「私は! お前が言った言葉を本当に良いなって思ったんだ! 未来永劫憎しみ合うなんてそんな馬鹿みたいな輪廻から抜けて、辛くても苦しくても、仲良くやっていけたら良いなって。私も憎しみを消していけたらって。だから仲良くしようと、協力し合おうと思ったのに! それなのにお前は!」
「何を責任転嫁してるんだよ!」
輝夜が妹紅の襟首を掴み上げる。
「元はと言えばあんたの所為でしょ! 私は仲良くしたかったのに!」
「何を。あんたが騙すから」
「私はあの時、竹林であんたと久しぶりに再開した時、本当に嬉しかった! ずっと昔に顔を合わせた友達が生きているのが分かって。同じ蓬莱の薬を飲んだ者同士、そうしてあの都を共に生きた者同士、仲良くやっていけると思って。だから声を掛けた! でもあんたは問答無用で襲いかかってきた! だからこんな事になってるんじゃない! それが今になって友達になってくれなかったから、騙された、裏切られた、馬鹿にされた? だったら最初にあんたのした事はどうなんの?」
「でもそれは」
「私がお前の父親をコケにしたから? 蓬莱の薬を飲む元凶になったから? どっちも私はあんたに何にもしてない! 父親は勝手に私に言い寄ってきて勝手に恥をかいただけだし、あんたが不老不死になった事になんかそれこそ私は何もしてない! あんたが勝手に蓬莱の薬を奪って飲んだだけでしょ! 馬鹿じゃないの! 勝手に恨んで、勝手に襲ってきて、それで騙されたら、お前が悪い、お前は酷い! そんな自分勝手だからあんたは他人と深く付き合えないんだよ!」
そう言って、妹紅を突き放すと、妹紅は呆然とした様子で目尻から涙を溢していた。
急に罪悪感に襲われて、輝夜は思わず謝りそうになったが、すぐに自分の心を戒め、足元のワンピースを蹴り飛ばした。
「じゃあね! 次会う時はまた殺し合いの憎しみ合い! これからも長い付き合いになりそうね!」
そんな捨て台詞を吐いて輝夜が去った後、妹紅はその場に崩れ落ちてぐちゃぐちゃになったワンピースに手を這わせた。
「ただいま」
輝夜が永遠亭に帰るなり永琳の部屋に向かった。
「お帰りなさい、輝夜。どうだったの? ってその顔を見ると、また失敗?」
永琳が驚き混じりの、けれど楽しそうな表情で輝夜に問いかける。
輝夜は酷く鬱屈とした表情で沈んだ声を出した。
「もう最悪。やっぱり私、あいつと相性悪い」
「そうかしら? 良き友達になれると思うけれど」
「あり得ないわ。つい今しがた、喧嘩して嫌われてきたばかりだもの」
「あら、何があったの?」
輝夜が今日の出来事を話すと、永琳はくすくすと笑い出した。
「成程ね。それはまた随分と」
「完全に潰えたわ」
「そう? 雨降って地固まるとも言うけれど」
「いや、もう無理でしょ? っていうか、無理。しんどい」
永琳がまた笑う。
「また随分と」
「さっきから何よそれ。何が随分なの?」
「いいえ」
「何よ、もう」
「まあ、とにかく今日は疲れたでしょうから、早く休みなさい。明日になれば明日の風が吹くでしょう」
「はいはい。何か永琳お母さんみたい」
「私もお母さんになった気分よ」
不機嫌そうに出て行く輝夜を目で追いながら、永琳は小さく息を吐いて再び笑った。
翌日輝夜は妹紅の家へ向かおうとはしなかった。縁側に座って、夏の日差しで白く陰った景色をぼんやりと眺めていた。多くのイナバはいつもの輝夜だと思って気にしなかった。幾人かの事情を知るイナバは何があったのだろうと不思議がった。そして永琳は患者の持ってきた西瓜を見せびらかしに行った。
その西瓜が切り分けられて輝夜の所へ届けられた時、丁度庭に人が現れた。輝夜は食べようと手にとった西瓜を戻して、立ち上がる。
「妹紅。どうしてここに?」
妹紅は黙ったまま歩み寄ってくる。
まさかここで戦う気かと西瓜を持ってきた鈴仙を手で追い払って妹紅と対峙した。
「昨日言ったわよね。次会う時は殺し合う時だって。という事はここで殺し合いたいって事?」
輝夜の問いに、妹紅はやはり黙ったまま歩み寄る。
妹紅は輝夜の眼前で立ち止まると、昨日のワンピースを輝夜の前に突きつけた。汚れ一つない。どうやら洗ったらしかった。
「昨日忘れていったでしょ。返しに来た」
「そんなの別に要らないわよ。持ってって」
輝夜がワンピースを妹紅へ突きつけ返すと、妹紅は不承不承それを受け取り、そして言った。
「輝夜、私はあんたと友達になれそうにない」
拒絶されるだろうと思って吐いたが、分かっていても胸が突かれた様な息苦しさを感じた。
「私はお前を許せそうにないし、きっと仲良くしようとしたって昨日みたいな事になるだろう。きっとどうあがいたって、私達は殺し合う。私達は殺し合っているのがお似合いなんだ」
「ええ、そうね。そうでしょうね」
結局何も変わらない。
二人は殺し合うしかない。
輝夜がそれに悲しみを覚えていると、妹紅が言った。
「でもね、輝夜。あんたが飽きたって言った時、私は本当に目の前が真っ暗になった」
「え?」
思わぬ言葉に輝夜は眉を寄せて不思議そうな顔をした。
「それで私は気がついたの。あんたの事を憎んでる。けど殺し合いをしているのはその為にじゃない。だってそうでしょ? そもそもあんたの事を殺せないんだから。本当に憎んでいるなら、殺し合いなんて何の意味もない。もしも本当に何かするのなら、あんたが今回やったみたいに別の手段を取るしかない」
輝夜は自分の取ろうとした行動を思い出して胃の腑の辺りが痛くなった。自分は本気で妹紅を壊そうとしていたんだ。
今更謝ったところで許してはもらえないだろう。
寂しさで胸がいっぱいになっていると、妹紅が輝夜の手を取った。
輝夜は驚いて顔をあげる。
妹紅の目には涙が浮かんでいた
「でも私はそんな事出来ない。殺し合いは良い。けど精神的に追い詰める事はしたくない。だから私は本気で輝夜をどうにかしたい訳じゃないんだ。それでどうしてだろうってここ何日か考えてみたんだけど、私はどうやら輝夜とずっと殺しあっていたかったんだ。憎しみとかそういうのじゃなくて、私の心をこの世に留めておく為に。今の私にとって生きるっていうのはあんたと殺し合う事。だから私の人生はきっと、あんたと殺し合う事でしか紡げない。だから私は殺しあっていたいんだ。だから私に生きてるって実感を与え続けて欲しいんだ」
妹紅がくちゃくちゃになった顔を俯ける。
輝夜は喉の辺りから何かがせり上がってくるのを感じて、気がつくと自分の目からも涙があふれていた。
妹紅の言葉が続く。
「だから、でも! 今回みたいな事はしないで欲しい! 今回みたいな本当にお互いが苦しくなる様な酷い事は、しないで欲しい! 飽きたなんて言わないで欲しい。ずっと二人でずっと、ただ」
その先の言葉は涙でつかえて止まってしまった。
けれど輝夜は妹紅の言いたい事を全て察して、握る手を握り返した。
結局、芯の思いは一緒だったんだ。二人でずっと一緒に居たい。その点で二人は共通していて、そうしてそれで十分なんだ。
「妹紅、良いよ。殺しあいましょう」
妹紅がしゃくりながら輝夜を見つめる。
「殺しあいましょう。二人でずっと、ずっとずっといつまでも」
輝夜もそれ以上は喋れなくなって、二人で手を握り合いながら泣きだした。
それを診察室から眺めていた慧音が永琳に向かって言った。
「いや、凄いね、先生。あの二人が涙を流しながら、手を握り合ってるよ」
「そうね。でも思っていた結末と少し違う」
「完璧主義だなぁ。当初の目的の憎しみ合っている二人を仲良くするっていうのは出来た訳じゃないか」
「殺し合うとか言ってるんですけど」
「まあ、そうは言っても二人の心に変化が訪れた訳だし、良い傾向じゃない?」
「そうかしら」
「そうだよ。あなた、結構教師に向いてるんじゃない? どう? 寺子屋」
「遠慮するわ。あの二人をあやすだけでこんなに疲れたのに」
疲れきった溜息を吐く永琳を笑いながら、慧音は窓の外の手を握り合う二人を見つめ続けた。
やがて二人は泣き止んで、どちらかともなく手を離す。
「ねえ、輝夜」
「何?」
「これ、沢山服をくれたお礼」
そう言って、妹紅はビーズで作ったブレスレットを取り出した。
「これって慧音にプレゼントする為のじゃ」
「それは別に作ってある。材料はいっぱいあったから、だからお礼にと思って。もし良かったら」
「でもお礼はもうもらったのに」
「じゃあ、このワンピースのお礼」
妹紅がワンピースを握りしめる。
輝夜は躊躇していたが、やがてブレスレットを受け取った。そして笑って尋ねる。
「どうする? これから殺し合う?」
妹紅は首を横に振る。
「止めておく。周りの人を巻き込むだろうし、ワンピースが燃えちゃうし」
「そうね。じゃあ明日にしましょう」
「明日? せっかちだね。良いよ。いつ?」
「その」
急に輝夜が自信無さげに言い淀んだので、妹紅は怪訝な表情になる。
「どうしたの? やっぱり明日は止めとく? 私はいつでも」
「ううん、明日にしましょう。明日に。で、その、明日はお祭りがあるじゃない? 人里で」
「あ、うん。盆祭りね」
「だからみんなでそれを見に行って、それが終わった後にしましょう?」
「え? 良いけど。もしかしてお祭りも一緒に回るの?」
「だって! ほら! 折角お祭りがあるのに参加しないのは勿体無いし、それに一緒に回った方が後々何処かで待ち合わせする必要も無いでしょ? ね?」
輝夜が慌てて言い重ねる。
妹紅はその必死な輝夜に吹き出して、それから頷いてみせた。
「分かった。じゃあそうしよう。着物、もらった奴を着ていくよ」
「うん。私もこのブレスレットつけていくから」
輝夜が嬉しそうに笑い、妹紅もそれに合わせて、二人で笑いあった。
「じゃあ」
妹紅が手を上げて去っていこうとして、数歩歩いて立ち止まる。
「あ、ごめん、やっぱり明日は無しにしよう」
妹紅が振り返ってそんな事を言うので、輝夜は嫌われたのかと絶望的な気持ちになって問い尋ねる。
「何で?」
「だって折角もらった着物が燃えちゃうでしょ?」
「あ」
確かにその通りで、殺し合いともなれば、きっと着物もブレスレットも灰になってしまう。
「だから明後日。明後日にしよう。明日はお祭りだけ」
妹紅の提案に輝夜は力強く頷いて、晴れやかに笑った。
「うん! 絶対だからね!」
「勿論。絶対に殺してみせるから」
意地悪そうに笑う妹紅に、輝夜は苦笑する
「じゃあ、また、明日」
「また明日」
手を振り合って、妹紅は庭を去って行った。
妹紅の姿が見えなくなってから、輝夜はブレスレットを一度握りしめ、それから陽光に翳してみた。
ブレスレットは太陽の光を幾つもの煌めきに変えて、きらきらと輝いている。
輝夜はそれを綺麗だと思った。
「良いよ。軽い軽い」
慧音と一緒に並んで歩く妹紅は嬉しそうに買い込んだものを抱え直す。人里と人里を繋ぐ整った幅広の林道が長く続いている。昇り始めたばかりの夏の日はまだ涼やかで、微かに流れる風が心地良く、そんな穏やかな心地の中で慧音と一緒に歩ける事が妹紅には堪らなく嬉しかった。けれどそれとは別にこの日常を穏やかすぎると感じる自分が居た。まるで死んでいる様な気分になる。
かたからりかたからりと前の方から音が聞こえた。荷物に気を取られていた二人は音だけを聞いて牛車だと判断し、顔も向けずに道の脇へ避ける。程なくしてのんびりとした足取りの牛が二人の傍を通り、繋がれた粗末な車が視界に映る。
その瞬間、牛車の荷台から輝夜の叫び声が聞こえた。
「妹紅! 会いに来たよ!」
突然首に衝撃を受けて、妹紅はあわや荷物を取り落としそうになる。直前に聞こえた輝夜の声に、攻撃を受けていると考えた妹紅は、自分に抱きついたそれを蹴り剥がして距離をとった。
蹴られた輝夜はたたらを踏んで後ろにさがる。
「ちょっと乱暴しないでよ」
文句を言う輝夜を睨みつけ、妹紅は叫ぶ。
「何の用だ、輝夜!」
「やあねぇ、怖い顔しないでよ。私達友達じゃない」
輝夜が両手を広げて笑みを広げる。その様子に、そして友達という言葉に、妹紅は怖気を覚えた。
「私とお前が友達?」
「そうでしょ? 旧知の仲じゃない。あ、重そうな荷物持ってるわね。ちょっと持ってあげるわよ」
妹紅は凶相と呼ぶに相応しい顔で輝夜の事を睨みつける。
「何のつもり?」
「何のつもりも何も、ただ重そうで大変だなって思っただけ。少し持ってあげるわよ」
「必要無い。何を企んでいるか知らないけど」
「でも慧音は重そうにしているけど」
妹紅が慧音を振り返ると、慧音はしばらく輝夜を見つめて固まっていたが、やがて視線を輝夜から妹紅へ移して小さく頷いた。
「妹紅、ここは一つ穏便に」
慧音の弱気な発言に、妹紅が反論しようとした瞬間、輝夜は無理やり妹紅と慧音の荷物を奪い取った。妹紅が火焔を生み出して輝夜を睨む。
「輝夜! 荷物を返せ!」
「妹紅、止めてくれ! こんな白昼堂々。誰かが来て巻き込んだらどうするんだ」
輝夜へ飛びかかろうとしていた妹紅は、慧音の言う事を聞いてはっとして、自分を抑え込んだ。今自分の背後には慧音が居る。今ここで血みどろの争いを行えば、その慧音を巻き込んでしまう。
立ち止まった妹紅を見て、輝夜が嬉しそうに笑う。
「そうそう。殺し合いだなんて今時流行らないわよ。さ、荷物持ってあげるから、行きましょう」
再び妹紅は激昂しそうになったが、何とか感情を抑えながら輝夜の後を追う。
「何処へ行く気?」
「あなたの家か慧音の家でしょ? 買い出しの帰りじゃないの?」
「そうだけど」
「どっち? あなたの家? 慧音?」
「慧音の家だけど」
「じゃあ、早く行きましょう。仲良くね」
輝夜は飄々として歩きながら時折にこやかに妹紅へ話しかける。輝夜の他愛のない言葉を聞きながら、妹紅は輝夜の意図が全く分からないで居た。唐突にまるで友達の様に笑顔で話しかけてきた。恐らく油断させて襲うつもりだろうと考え、慧音の傍に寄り添って身構え続けたけれど一向に輝夜は襲いかかって来ない。まるで友達の様にただ話しかけてくるだけ。慧音の家に着くまでずっとそうだった。妹紅は状況がまるで分からず、ただひたすらに不気味だった。
慧音の家に着くと、輝夜は勝手に上がり込み、興味深げに中を見回し出すので、妹紅は慌てて輝夜の行く手を阻む。
「何勝手に上がってるの!」
「まあまあ。それで荷物は何処に置けば良いの?」
輝夜の微笑みが妹紅を益益苛立たせる。
ところが背後からやってきた慧音は気安い調子で輝夜に言った。
「奥の部屋に置いてくれるか?」
「分かった」
輝夜が台所へ荷物を運び出す。
「慧音! 何で上げちゃうんだ!」
妹紅が慌てて慧音を見ると、慧音は慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
「妹紅、相手が折角好意を向けて来ているんだ。態々事を荒立てる必要は無いだろ?」
「でも相手はあの輝夜だよ? 絶対に何か企んでるに決まってる」
「だとしてもだ。ただ荷物を運んでくれただけだろ? 君があいつの事を恨んでいる事は重々承知だけど、ここで下手な対応をすればまずい事にしかならない」
妹紅が黙りこむ。
奥の部屋から「机の上に置いちゃって良いの?」という輝夜の声が聞こえてくる。
妹紅がじっと黙って喋らないので、慧音が不安そうに「妹紅」と名前を呼んだ。すると妹紅が一度苦しそうに眉を寄せてから、慧音と目を合わせた。
「分かった。輝夜が何もしてこない限りはこっちも何もしない」
「本当か? 説得するつもりだったけど、そんな簡単に同意してくれるとは」
「だってここは慧音の家だもん。慧音が言うなら従うよ」
「そうか」
慧音が安堵した表情を見せる。とにかく穏便にと妹紅はもう一度自分に言い聞かせてから、手を差し伸べた。
「じゃあ、はい、荷物」
「ん?」
「お客さんが来てるんだから、お茶とか出さなくちゃいけないでしょ? だから荷物は私が持ってくよ」
「あ、ああ、ありがとう。ただ」
慧音が不安そうな顔をするので、妹紅は慧音の不安を吹き飛ばす様に無理矢理に笑った。
「二人っきりでも大丈夫。何を言われても我慢するから」
「そうか? なら」
「うん、任せてよ。ちゃんと仲良くする」
そう言って、妹紅は慧音から荷物を受け取ると、輝夜の待つ奥の部屋へ向かった。
部屋の扉の前に立って、妹紅は大きく深呼吸する。部屋の中には、自分の人生を滅茶苦茶にした憎き仇が居る。今までずっと殺しあってきた最低最悪の怨敵が居る。けれど今日だけは、いや、今だけはせめて表面だけでも仲良くしなくちゃいけない。思いっきり拳を握りしめてから、妹紅はもう一度大きく息を吸って、部屋の中に足を踏み入れた。
中に入ると、輝夜が振り返って笑みを見せる。
「あ、妹紅。慧音は?」
「今、お茶を淹れてる」
「あら、本当に? 別に構わないのに」
輝夜がころころと笑った。
輝夜の余裕のある態度が鼻についた。妹紅は唇を噛み切りそうな程強く噛む。
「そう言えば、あなた達は何を買ったの?」
輝夜が荷物を漁りだしたのを見ても、やはり妹紅は唇を噛み切りながらその光景に耐え続けた。その間にも輝夜は袋の中を漁り続け、やがて小袋を取り出した。
「あ、これ、何?」
途端に、妹紅の中に羞恥と怒りが湧き上がる。
その袋の中には沢山のビーズとテグスが入っている。今度誕生日を迎える慧音の為に、アクセサリーを作ろうと、慧音にも内緒でこっそりと買った材料だった。
輝夜は恥ずかしさに顔を赤らめている妹紅に気が付かず、楽しそうに袋を開けて中を検める。
「中は……あら、綺麗ね。南京玉、だったっけ?」
「やめろ!」
思わず吠えて、輝夜から袋を奪い返した。
輝夜が目を丸くする。
「ちょっといきなりどうしたの?」
「うるさい! 黙れ! これに触るな!」
妹紅が袋を抱き締めて、上目遣いに輝夜を睨む。その様子を見た輝夜は、しばし考えてから、にっと口の端を持ち上げた。
「分かった。それ、慧音へのプレゼントでしょ? 何か装飾物作るのんでしょ?」
ばれた。慧音にも秘密にしようと思ってたのに。こんな奴に。妹紅の顔が恥ずかしさに赤く染まる。きっと馬鹿にされるに違いない。こんな自分が誰かにプレゼントだなんて。妹紅が目に涙を浮かべて輝夜を見つめると、輝夜は優しさに満ちた笑顔を浮かべていた。
「可愛いわね」
「え?」
「良いと思うわよ。可愛くて。きっと慧音も喜ぶと思う」
妹紅は輝夜の言葉を信じられない気持ちで聞いていた。
あの輝夜が自分を励ましている。いや、口先だけで実際は内心馬鹿にしているんじゃ。
あり得ない事に、妹紅が疑わしい気持ちで輝夜を見つめていると、輝夜が息を吹き出して笑った。
「何、その顔! 私が馬鹿にするとでも思ったの?」
「え?」
「やっぱり図星でしょ。馬鹿になんてしないわよ。きっとあなたは一所懸命に慧音の事を考えて、それでこれが一番良いって思ったんでしょ? そうやって選んだプレゼントを馬鹿にする訳無いじゃない。私達、友達でしょ?」
優しい言葉。
あの輝夜から優しい言葉が掛けられている。あの輝夜が、自分を殺そうと刺客を差し向ける様な奴が、ずっと殺し合いをしてきた輝夜が、今自分に優しい言葉をかけてきている。
妹紅は何だか目眩を覚えた。出来の悪い夢なんじゃないかと疑ってしまう。
輝夜は何か企んでいるに違いない。そう思うのだけれど、輝夜の優しい笑顔がその疑いをとろかしていく。何故だろう。輝夜の言う事を信じようとしている自分が居た。理性では怪しいと思っているのに、そう思いたくない自分が居る。
「ね、妹紅。私は本当に純粋に羨ましいと思ってるの。仲が良くて羨ましいなって。私も同じ位仲良くなりたいなって」
そうして顔を寄せてきた輝夜に、妹紅はほだされそうになって、思わず突き飛ばした。
「止めて!」
輝夜を睨みつる。感情が高ぶりすぎてその目から涙が溢れてくる。
「何なの? 何なんだよ、もう! 何でそういう、何で! いきなりそんな! 友達なんて! ずっと殺しあってきたのに! 憎みあってきたのに」
妹紅の叫びを聞いた輝夜は再び妹紅に寄って、妹紅の頬に手を添えた。
「突然変わる事がそんなにいけない事? 例え突然であろうと、友達になりたい、だから友達になる。友達なったから仲良くする。それはそんなにおかしい事?」
諭す輝夜の手を妹紅は振り払い、涙を浮いた目で睨み続けていると、慧音がやって来て妹紅の手に肩を載せながら、輝夜へ尋ねた。
「理由を知りたいんだよ。どうして急に? それが分からないから、妹紅は不安なんだ」
そう言うと、慧音は妹紅と輝夜の手を取った。
「とりあえずお茶を淹れたから居間で話を聞こうか」
慧音に連れられて輝夜と妹紅は大人しく居間へ向かった。輝夜はあくまで楽しそうに、妹紅は涙を擦って輝夜を睨みつけながら。
座卓につくと、輝夜は楽しそうに慧音と妹紅を交互に見つめてから、口を開いた。
「まあ、はっきり言ってしまうとね。飽きたのよ」
「飽きた?」
飽きたという唐突な宣言に、妹紅の心が一瞬ついていかなかった。
飽きた?
それを聞いた瞬間、思考がまっ更になる程の衝撃を受けている事に、妹紅は数秒して気が付いた。
飽きたってもしかして私と殺し合うのに飽きたという事?
そう考えた瞬間、今までに無い程輝夜を恨む思いが心の中から噴き出してきた。
「輝夜! あんたは、あんたは自分が平和な世界で暮らせる様になった途端、今までずっと殺しあってきた事も、それまで私がずっと苦しんでいた事も、お前が私の家族にした事も、全部見捨てて逃げるつもり?」
妹紅は喉の奥からせり上がってくる何かに気が付いたが、沸き上がってくる言葉は止められない。
「そんなのずるいじゃない! あんたは私の敵よ? あんたを殺す為に私は生きてきた。ずっとずっと死にたくても死ねないから、あんたを殺す事だけ考えてずっと生きてきた。それなのにあんたは降りるつもり? 私を散々苦しめるだけ苦しめて、それで何も晴らさせないまま、これから更に苦しめるつもり?」
妹紅が嗚咽を堪えて輝夜を責める。
飽きたという言葉が妹紅の心を苛み続ける。
まるで自分の生を否定された気がした。妹紅にとって輝夜との死闘は人生の全てだった。けれど輝夜の方はそんな事を考えていなかった。輝夜にとって殺し合いなんかどうでも良い事で、別のもっともっと大事な物を持っている。当たり前だ。誰が殺しあいだなんて望むだろう。それが普通なのだ。殺し殺される関係なんて誰だって嫌だ。けれどそうやって誰もが背を向ける様な関係にすら、妹紅は頼らざるを得なかった。不死と狂気。その二つを受け入れてくれる受け皿は輝夜との殺し合いしか無かったから。妹紅はそれが異常と知りつつも、輝夜との殺し合いに生き甲斐を感じざるを得なかった。そうして、そんな関係に応じる輝夜もきっと自分と同じなのだろうという思いが少なからずあった。永遠亭という基盤を持ってはいるものの、きっとそれでは満たされぬ何かがあるから、自分と長い殺し合いを続けているのだろうと、そう思っていた。けれどそれは違った様だ。輝夜にとって、二人の殺し合いはあくまで暇つぶしの一つでしかなく、飽きてしまえる様な物だった。
考える内に頭の中がどんどんとぐちゃぐちゃになっていく。まるで鉄と鉄を打ち鳴らしている様な不快な痛みが頭の中に鳴り響いている。恨みと妬みが頭の中を満たしていく。
気が付くと、妹紅は輝夜の腕を掴んでいた。
「絶対に許さないから。そんな事絶対に許さないから。あんただけが一人だけ。そんな事絶対。もしもあんただけ抜けるっていうなら、良いよ。あんたと関わる全部、燃やしてあげるから」
妹紅の握る輝夜の腕が赤く熱して、肉の焼ける音と臭いが辺りに広がる。輝夜は焼ける自分の腕をちらりと見てから微笑んで、人差し指で妹紅の鼻の頭を突いた。
「はっずれー!」
そうして実に楽しそうに笑い声を上げる。
血反吐を吐く思いだった妹紅は、そんな輝夜の軽い様子に固まって動けなくなった。
すると輝夜は幾分呆れた様子で妹紅の手を解き、焦げた手を振るう。その焦げ跡は一瞬で修復された。
「さっきも言ったでしょ? 抜け出すのは私だけじゃない。あなたもよ。あなたは嫌気がささないの? ずっと二人で殺しあって。こんな事いつまで続けるつもり?」
「でも、今更」
「遅くなんかない。今からだって十分やり直せる。あなたが私を恨んでいるのは分かる。でもね、それで恨んで憎しみ合って、延々と延々と戦い続けるなんて、あなただって苦しいでしょ? それよりは尽き果てぬ苦しみは一緒かもしれないけれど、せめて二人で仲良く穏やかに楽しい時を生きたいじゃない? ね?」
輝夜が手を打ち鳴らす。
確かに楽しく笑い合っていられたらそれはどんなに素晴らしい事だろう。
けれどそうなったら、私の恨みはどうなる?
妹紅はゆっくりと顔を上げて、暗い笑みを浮かべた。諦めきった様な表情だった。
「嫌に決まってるでしょ」
「どうして?」
「ああ、分かったよ。分かった分かった。つまりあんたは嫌になった訳だ。私と殺しあうのが」
「だからそう言ってるでしょ。あなただってそうなんでしょ? だったら」
「つまり私があんたと殺し合い続ければ、あんたはこれからも苦しみ続ける訳だ」
そう言って妹紅は笑みを深くする。ただその笑みはすぐに分かる程苦しげだった。対する輝夜も顔を曇らせて、重たい沈黙が二人の間に降りる。その時、慧音が妹紅の肩に手を添えた。
「妹紅、私も輝夜の意見に賛成するよ」
「慧音! どうして? 輝夜につくつもり? 私の事を裏切るの?」
「違う! だって平穏にしている時の君は本当に嬉しそうにしている。それに比べて殺し合っている時の君は辛そうだ。妹紅、君だって本当は平和を望んでいるんだろ?」
「でも! だからってこいつと」
妹紅が立ち上がって輝夜を指さすと、その指差す手を輝夜は両手で優しく包み込んだ。
「初めから、友達で居ましょうとはいかないみたいね。だったらお試しっていうのはどう? 一年でも一月でも一週間でも良い。まずは友達のふりをして欲しい」
「友達のふり?」
「そう、ふりで良い。心の底から私の事を友達と思わなくても、ただ友達らしい事を一緒にしてくれれば良い。それでしばらくして、あなたがやっぱり友達になんてなれないって思うんだったら、私も諦める。その時は永遠に殺し合いをしていましょう? でももしも、少しでも何か感じる事があるならその間は友達のふりをして、それでもしも本当にそう思える様になったら、ずっと友達で居ましょう。どう? お試し期間」
「そんなの」
「今の私とあなたの関係は、歪過ぎる。初めから憎みあって殺しあって、仲が良かった時なんてありゃしない。もしかしたら、仲良くなれるかもしれないのに、もっと幸せな道を歩めるかもしれないのに、永遠亭のみんな、妹紅や慧音、他の人間達、みんなで楽しく出来るかもしれないのに。ねえ、妹紅、そっちの方が良いでしょう? 平穏にみんなで笑って過ごしていられた方が。それなのに、今の私達は殺し合いしか知らないから、ずっとそれにしがみついている。そんなの嫌じゃないの? あなたの隣に座っている慧音を見てご覧なさい? 本当に殺し合いなんか望んでいるの? ねえ、慧音。もう一度はっきりと言ってみて。あなたは私と妹紅が殺しあう事を望んでる?」
慧音が頭を振った。
「いいや。勿論望んでない。もしも君達が仲良く出来るなら、それで妹紅が苦しまなくて済むのなら、それは願ってもない事だ」
「ほら御覧なさい」
輝夜と慧音、二人の視線に曝されて、妹紅はうろたえた様子で慧音を見つめた。
「慧音」
「妹紅、私は君に幸せになって欲しいんだ」
慧音にまっすぐと見つめられて、妹紅が目を逸らした先には輝夜の真剣な瞳がある。
「一週間で良いの。それで駄目ならもう友達になろうだなんて言わない。殺し合いに文句は言わない。ねえ、たった一週間で良い。どう?」
妹紅は息を詰めて輝夜の目を見つめていたが、やがて耐え切れなくなった様子で口を開いた。
「一日待って」
「分かった」
輝夜は途端に椅子を立って、玄関へ向かう。
「また明日」
妹紅は応えない。代わりに慧音が立ち上がって、輝夜の後を追った。
「友達になれる勝算はあるのか?」
「さあ、知らないわ。でも駄目で元々でしょ? 失敗したって今まで通りだし」
輝夜が履物を吐きながら何処か他人事めいて言うので、慧音は心配になった。
「よろしく頼む。妹紅は本当に辛そうで」
慧音が懇願する様にそう言うと、輝夜は振り返って笑った。
「例え嘘であってもね、演じていると本当の事に思えてくるの。まして相手が本当はそれを望んでいるのなら尚更ね。って永琳が言ってた。だからもし妹紅が私と同じ様に今の殺し合いを嫌だと思っているなら。きっと大丈夫」
輝夜はそう言うと手を振って去っていった。慧音は何だか頼もしい思いで居間に戻ると、妹紅が沈み込んでいるのでまた不安になった。
「妹紅、あくまでお試しなんだ。君が心の底からあの女を恨んでいる事は分かっているけど、たった一週間位、友達のふりなんだし」
「なあ、慧音。友達のふりってどうすれば良いんだ?」
「え? ふりだから、友達らしくしていれば良いんじゃないか?」
「だって私友達なんてほとんど居なかったから。どうすれば良いの? 明日から友達のふりをするって言ったって、何をすれば良いのか分からなくて」
「いつも私と居る様な感じで良いんじゃない? おしゃべりしたり、買い物に言ったり」
「それで良いの? それで友達なのかな?」
「うーん、多分」
「おしゃべりに買い物ね。分かった。相手はあの輝夜だもん。絶対に負けないから」
そう言って、気合を入れる。
慧音は色々言いたい事があったけれど、とりあえず妹紅が張り切っている様なので、何も言わなかった。
次の日、妹紅が慧音の家に居ると、輝夜が遊びに来た。輝夜は息を切らして上がりこむなり妹紅の前に座り込んだ。
「妹紅、結局、あなたは殺し合いを選ぶ訳?」
「え? いや、とりあえずお試しで友達になろうと思ってるけど?」
「じゃあ、何で家に居ないの!」
「ここに」
「ここは慧音の家でしょ! あんたの所に遊びに行ったのに居ないから断られたのかと思ったじゃない!」
「そんなの!」
一方的に怒鳴られる事に我慢出来なくなった妹紅は応酬しようとしたが、友達のふりをするんだからと何とか堪えて我慢する。
「まあ、じゃあ、悪かったわよ」
妹紅があまりにもあっさりと謝ったので輝夜が目を丸くした。
「何よ。悪かったって言ってるの。確かに遊びに行ったのに居なかったらやだもんね」
「うん。そうだけど」
「だから謝ってるの。私達友達なんでしょ」
妹紅が顔を赤くしながら躊躇いがちにそう言うと、輝夜はうんと言って大きく頷いた。妹紅は何だか居心地の悪さを感じて、話を逸らす為に話題を変えた。
「それで何をするの? 天気が良いから何処かに出かける? それともここでお話する?」
「あ、それなんだけど、妹紅の服を見繕おうかなって」
「何?」
「妹紅っていっつもおんなじ服を着てるじゃない?」
それを指摘された途端に、妹紅は顔を赤らめて俯いた。
「悪かったわね。あんまり持ってないのよ」
輝夜が手を振るう。
「別にそれがどうこうって話じゃないわよ。私と戦った時に、駄目にしてるっていうのもあるだろうしね」
「そうよ! 前もお気に入りの服をあんたの所為で!」
激昂して立ち上がった妹紅は慌てて自分の口を抑えて座り直す。
「で、それで見繕うっていうのは?」
「うん、家にあった服を持ってきたの。洋服も和服もね。それで似合いそうなのを妹紅に上げようかなって」
「は? どういう事?」
輝夜は「ちょっと待ってて」と言い残して外へと出て、しばらくして両手いっぱいに服を抱えて戻ってきた。
「こんなに?」
その量に、妹紅と慧音が驚いていると、輝夜が笑った。
「まだもう少し」
結局、妹紅と慧音も手伝って、荷車に積まれた大量の服を運び入れ、部屋を服で一杯にした。
「何処がもう少し? 結局二十回位行き来したんだけど」
「まあまあ。で、この中から妹紅に似合いそうなのを上げようと思ってね」
輝夜が何枚か服を掴みあげると、その手を妹紅が掴んだ。
「ちょっと待って!」
「どうしたの? これは気に入らない?」
「そうじゃない! 正直目移りする。でも私はあなたから貰う謂われが無いでしょ?」
「だから友達なんだから」
「友達でもこういう事はしない。私と慧音はした事無い。だってこんなの乞食みたいじゃない」
「ふーん」
妹紅の苦しげな表情に何処か冷めた目付きで応えた輝夜は事の成り行きを見守っていた慧音へ顔を向けた。
「じゃあ、私よりも先に友達だった慧音に聞くけど、あなたは私が妹紅にこの服をプレゼントする事に反対? 勿論、妹紅だけに上げるつもりはないわよ。妹紅の友達なら私の友達だもの。妹紅が選んだ以外で気に入ったのがあったら上げる」
それを聞いた慧音は頭を掻いた。
「妹紅の意思を尊重するよ」
「あなたの意見を聞かせてよ。あなたは良いの? 妹紅がこのままで。お洒落も何もしないなんて悲しいとは思わない」
妹紅が身を縮こまらせる。
慧音はそれを見て小さく息を吐いた。
「どうせ余ってるんだろ、服?」
「ええ、勿論。こんなの端よ、端」
「じゃあ妹紅が気兼ねする必要は無いんじゃない? 私も余ったのを幾つかもらおうかな。ね、妹紅。友達なんだ。素直に本音を言おう。欲しくない?」
「欲しいよ。欲しいけど」
「遠慮するのが友達かい? 例えば私が着なくなった服を妹紅に上げるとしたらそれを断る?」
「断……らないと思うけど、こんなに沢山」
「量は関係ないだろ。輝夜が良いって言ってるんだし。遠慮する事は無いよ」
「そうそう。遠慮する事無いから。さて、じゃあどんな服が良いかな」
輝夜が楽しそうに言いながら、近くのスカートを取り上げた。
「そう言えば、妹紅がスカート穿いているの見た事無いなぁ」
何か企みを思いついた様な、更に言えば下卑た笑みを浮かべて、スカートを持って妹紅の前に屈みこむ。妹紅は慌てて後退って首を振った。
「やだよ、スカートなんてそんな」
「とか言ってホントは着てみたいんでしょ?」
「着てみたくない! 慧音、輝夜の奴が」
「私も妹紅のスカート姿、見てみたいな」
慧音も笑みの抑えきれない様子で妹紅へにじり寄る。
「ちょっと待って! 何か二人共怖い!」
「まあまあ。大人しくしていてよ」
「妹紅、ちょっと立ち上がって。大丈夫。見ているのは私達だけなんだし」
妹紅は恐ろしげに二人を見つめ回して、首を横に振りながら後退っていると、やがて壁に行き着いて、それ以上後ろに下がれなくなった。
それからしばらくの間、妹紅の悲鳴と二人の楽しそうな笑いが続き、やがて妹紅の着せ替えを堪能した二人は満足気に息を吐いた。
「結構妹紅に似合う服があったわね。時間が掛かって、半分も着せられなかったけど」
「服装で随分印象が変わるな、妹紅。お淑やかなお嬢さんみたいだったよ」
二人が笑顔で妹紅を見ると、妹紅は真っ赤にした顔を膝にうずめて、いじけた様に座っている。
「もう何でも良いよ」
妹紅の呟きを聞いた輝夜は満足気に何度か頷いてから、思い出した様に言った。
「そう言えば、まだ着物を試してなかったわ。あんた昔は和服着てたんだから。丁度そろそろ盆祭りもあるのだし」
輝夜が着物を探しだすと、妹紅は驚いて顔を上げた。
「嫌だからな!」
「まあまあ」
「絶対に嫌だからな! それだけは絶対に嫌だ!」
あまりにも激しく拒絶するので輝夜は不思議そうに妹紅を見る。
「どうして?」
「だって、私、髪の色こんなのになっちゃったから。こんなんじゃ着物なんて着れない! 昔と比べて滑稽に映るだけだよ」
妹紅が悲しげに呻いた。
慧音が胸をつまらせてにじり寄っていた足を止める。
けれど輝夜は笑い飛ばして歩み寄った。
「大丈夫だって。髪の色が白くたって似合うから。間違いない」
ずっと悩んでいた事をあまりにも豪放磊落に笑われたので、妹紅は唖然として何も言い返せない。
「昔の事なんて良いじゃない。どうせ覚えているのは私とあなただけ。二人がひっそりとしまい込めば、誰も知りえぬ事でしょう? 大事なのは今よ、妹紅。今のあなたもきっと着物が似合う。ね?」
輝夜の微笑みに蕩かされて、妹紅は思わず頷いて、輝夜の持つ着物へ歩み出した。輝夜の手には薄っすらと青みがかった生地に鳥の絵をあしらった単衣がある。その感じの良い着物を持つ輝夜の美しい笑顔。気が付くと、輝夜の持つ着物を受け取り、身につけ始めていた。随分と長い間着ていなかったのに、何故か体は着物の付け方を覚えていて、あっという間に着込んだ妹紅は自然と鏡に自分の姿を写して微笑んでいた。
懐かしいという感じはしない。今着ている着物は昔着ていた物と作りが違う。けれど何故だか胸の内からこみ上げてくるものがあって、輝夜の手前こらえなければならないと思いつつも、せり上がってくる郷愁は抑えきれずに、いつの間にか目の端から涙が流れていた。
しばらく妹紅の嗚咽だけが辺りに流れる。それを輝夜と慧音はじっと黙って見守った。
妹紅が泣き止んだ時には既に外はすっかり暗くなっていた。妹紅が泣き止んだのを見て、輝夜は微笑みを浮かべて立ち上がる。
「気に入っていただけたみたいで何よりよ。とりあえず今日着たのは全部上げるから」
妹紅は慌てて涙を拭う。
「でも、それじゃあ」
「多すぎると思うなら、慧音に譲るなりなんなりすれば良いでしょ?」
「でも」
輝夜は笑って妹紅の前に立った。妹紅も自然と立ち上がって、二人は見つめ合う。
「思うのだけれど、過去と向き合い過ぎるのも、過去から目を背け続けるのも、どっちも不自然でいつか耐え切れなくなる時が来る。今までの事を水に流すのは難しいでしょうけど、それを踏まえて新しい関係が築けるんじゃないかと思うの。過去は過去、今は今、私達は今を生きているんだから」
「それだけ」と言って、輝夜は背を向けて外へ向かった。履物を履いて玄関を出ると空は雲一つ無い星空で、闇夜の月明かりに浮かんだ輝夜に妹紅は躊躇いがちに声を掛ける。
「輝夜」
「何?」
「また明日」
「ええ、また明日会いましょう」
輝夜は口元を抑えて楽しそうにそう言うと、荷車の上に乗って、何処からともなくやって来たイナバ達に引かれて去っていった。
それを見送りながら妹紅は呟いた。
「ねえ、慧音」
「何?」
「私輝夜の事を信じても良いのかな」
「それは君が決める事だよ。妹紅はどう思うんだい?」
「私は……分からない。だってずっとずっと憎しみ合って殺しあって、そんな関係だったのに、突然あんな。まだ答えなんて出せないよ」
「だろうね」
「どうすれば良いのかな? 答えが見つからないんだ」
「その為の一週間だろ? お試し期間は一週間。まだ最初の一日目じゃないか。これから見極めれば良いんだよ」
「そう、だよね。うん、そうだ」
何だかまたやる気になっている妹紅を見つめながら、慧音はそっと笑みを浮かべた。
けれどもう君の心は傾きだしているんだろう?
そう心の中で呟きながら。
「なーんて事言ってるのかなぁ」
輝夜は空を見上げて辺りを照らす月に笑顔を向け、やがて笑い声が起こり、それは段々と高まって、辺りの木々を揺さんばかりの哄笑になった。
「誰が友達になんかなるかっての」
荷車に積まれた服の上で倒れこんだ輝夜は段々と笑い声を抑えて、今度は酷薄な笑みを浮かべる。
「体が壊せないなら、心を壊せば良いってね。思ったよりも簡単に信じてくれたし、簡単に籠絡されそうだったわね。私の演技力もあるんだろうけれど」
輝夜は月を見ながら今回の策を立案した人物の顔を思い浮かべる。
「例え嘘であっても演じている内に、本当だと錯覚しだす、か。流石永琳」
くすくすと笑いながら、輝夜は沢山の服の上を前方へ転がって、荷車を引っ張るイナバ達へ声を掛けた。
「あなた達にも面倒な事させて悪いわね。こんな大量の服を用意させたり、車を引っ張らせたり。でもそれも明日までだから」
「明日? 永琳様の計画では相手の信頼を確かなものにする為、最低でも一週間という話では? 幾ら輝夜様でも仇敵とあらば完全に籠絡するにはそれ位掛かるとか」
「飽きちゃったの。こんな事をしてるのが。良いじゃない。ちょっと信頼させてそれを裏切って、人間不信にでもさせておけば」
「ですが、それでは心を壊す事が」
「妹紅が人間不信に陥れば慧音への依存を益々高めるでしょ? そうしたら慧音を殺すなりなんなりすれば良いじゃない。心を壊すならそっちの方がよっぽど手っ取り早いわ」
「それは……確かにそうですね。そちらの方が簡単だ。永琳様は気付いていなかったのでしょうか」
「どうせ永琳の事だからターゲット以外は傷つけない様にとか考えてるんじゃないの? 頭が良い所為か妙に完璧主義なところがあるから」
輝夜はそれで話を打ち切る様に手を叩いて声をあげた。
「とにかく! この茶番は明日で終わり! 分かった?」
イナバ達の応じる声が夜の闇を震わせた。
翌日に輝夜が妹紅の家に行くと、妹紅と慧音が輝夜の事を快く出迎えた。
「いらっしゃい、輝夜。昨日は……服くれてありがとう」
そう言った妹紅は、昨日輝夜達が見繕ったワンピースを着ている。
「別に良いわよ。それより、ちゃんと着てくれて嬉しいわ。やっぱりそういう服の方が可愛くて似合ってる」
気恥ずかしそうに照れる妹紅の顔に敵意は見えない。そんな妹紅の様子を見て、輝夜はほくそ笑む。何か見ていて清々しい気持ちになった。後一押し。そう考えて、輝夜は二人へ提案した。
「今日は山へ行かない?」
「山? 妖怪の山?」
「そう。良いでしょ? ね、妹紅? お弁当も作ってきたの。半分は鈴仙が作ったんだけど」
妹紅を見ると、青白い怯える様な顔をしていた。
「どうしたの、妹紅? 気分でも悪い?」
「いや、ううん。大丈夫。行くよ」
輝夜は心配する様な素振りで妹紅の傍へ近寄ったが、内心は笑っていた。妹紅は常日頃から山へ入る事を極度に恐れている。それが何故かは分からないけれど、それを利用しない手は無い。
慧音も心配そうにしていたが、妹紅が気丈な態度で行くといって聞かないので、結局は折れて三人で山へ登る事になった。頂上を目指すには少し遅い時間だったけれど、何か目的がある訳でも無いので、三人はのんびりとした足取りで山道を寄り道しながら登っていった。妹紅も初めの内こそ青い顔をしていたが、慧音と輝夜に話しかけられて笑っている内に、段々と元気になっていった。どうやら友達の手前元気で居なくちゃいけないと笑い続けた結果、本当に元気になってしまったらしく、改めて演じる事でそれが本物になるのだという事を輝夜は実感した。
登っている内に、ふと様々な花が咲き乱れている一角を見つけた。整った様子はどうやら誰かが手入れをしているらしい。そうは言っても柵も看板もない。慧音と妹紅がそれをただ嬉しそうに眺めている傍で、輝夜はあっさりと花畑に入って、花をつみはじめた。
「輝夜。ここって誰かの花壇なんじゃ」
「でも別に看板も何もないじゃない。ならみんなの物よ」
「でも」
「これだけ咲いているんだから、少し位摘んでも大丈夫よ」
適当に答えながら、輝夜はそろそろ頃合いかなと考えていた。ここからは妹紅を徹底的にいじめぬいてやろうと、花を摘んでは冠を作っていく。そうして出来上がった冠を妹紅の下へ持っていった。
「ねえ、これ作ってみたんだけどどう? 欲しい?」
妹紅はそれを見て、それから輝夜を見て、驚いた様に目を丸くして頷いた。
「可愛いと思う。良く出来てて。うん、欲しい」
「本当に?」
「うん」
「そっか。良く出来てるんだ。じゃあ、慧音上げる」
輝夜が花冠を慧音へと差し出すと
「え?」
慧音と妹紅が同時に素っ頓狂な声を上げた。
「私に? 妹紅に上げるんじゃないのか?」
「違うけど? 最初から慧音に上げる為に作ってたんだし」
二人が妹紅を見ると、妹紅は両手を差し出して受け取ろうとしていた体勢で固まっていて、二人の視線に気がつくと顔を赤らめて慌てて両腕を引っ込めた。その様子を輝夜は不思議そうな表情で眺めつつ、内心では大笑いしていた。
「あ、そうだ。妹紅にも花冠の作り方教えてあげようか?」
「え? あ、うん」
輝夜が再び花畑の中に入ると、途端に妹紅は嬉しそうな表情で輝夜の後を追った。そうして輝夜の教えに一一頷きながら、花冠を作り上げる。輝夜はその様子を楽しそうに見つめる。花冠が出来た時に妹紅は誰に渡すのか、可能性は二分の一だ。
そうして出来上がると、妹紅は案の定輝夜へ花冠を差し出した。
「あのさ、これ、輝夜に受け取って欲しいんだ。服のお礼、にはならないのかもしれないけど、少しでも私から何か」
その瞬間、輝夜の心は外溢れ出そうな程の暗い笑みに満たされた。
輝夜は妹紅の言葉を聞きながら想像する。自分が拒絶すれば妹紅がどんな表情になるのか。差し出された花冠を払い除ければ妹紅は一体どんな反応を見せるのか。地面に落ちた花冠を踏みにじれば妹紅がどんな事を言うのか。
たっぷりと想像して、暗い愉悦に浸ってから、輝夜は笑顔のまま妹紅に言った。
「要らないわよ。そんなのが昨日のお礼になると思ってるの?」
その瞬間、妹紅の表情が脱色したみたいに真っ白になった。信じられない様な表情を越えて、何を言われたのか聞き取れなかったみたいに、何の表情も浮かべられなくなっている。ただ唇だけは震えていて、目に浮かんだ涙が何よりも雄弁に妹紅の心の内を現していた。
輝夜の手は更に花冠を払いのける体勢に入っていたが、その手は動かなかった。代わりに口が開く。
「え、あ、そうじゃなくて! だってそれは初めて作った大事な花冠なんでしょ? だったら私に上げるんじゃなくて、慧音に上げるべきじゃない? それに昨日の服なんてお金で買える物だし、それみたいにお金に代えられない価値のある物と交換したら罰が当たるわよ」
あれ?
言い訳をしながら、内心輝夜はどうしてそんな言い訳をしているのか自分でも分からなかった。
妹紅は気を取り直した様子で顔をあげる。
「ありがとう。でもやっぱり輝夜に受け取って欲しいんだ。今の私にはこれ位しか出来ないから」
そうしてまた花冠が差し出される。
輝夜はそれを払わなくちゃいけないと思いつつも、気がつくと受け取って、自然と笑みがこぼれた。
「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとう。嬉しいわ」
輝夜の言葉に妹紅も笑う。
二人で笑いあいながら、「違う!」と輝夜は心の中で叫ぶ。こんな事をしたかったんじゃない。妹紅の心をぐちゃぐちゃに踏みにじろうとした筈なのに、どうして。
輝夜が混乱している間にも妹紅はもう一つ花冠を作って、慧音にプレゼントして嬉しそうにしている。輝夜がその様子に苛々としていると、二人が輝夜を手招いた。
「行こう」
自分の心の動きを疑問に思いながら、輝夜は二人について行く。
何故妹紅の花冠を払いのけられなかったのか。何故妹紅を励ます様に言い訳をしてしまったのか。何故妹紅の悲しげな表情を見て胸が傷んだのか。
物思いにふけっていると、前を歩いている妹紅が声をかけてきた。
「ごめん、ちょっと」
輝夜は慌てて顔をあげると、妹紅は叢の向こうに入っていく。一方で、慧音は妹紅を追わずに道端で妹紅を見送っている。輝夜は妹紅の行動の意味が良く分からなくて慧音の傍へ寄った。
「ねえ、慧音。妹紅はどうしたの?」
「ん? ちょっとな」
歯切れの悪い慧音を不思議に思う。
「何かあった訳? ちょっと見てくるわ」
「あ、ちょっと、輝夜」
輝夜が森の中へ入ってしばらく行くと妹紅が崖縁でしゃがみ込んでいるのが見えた。何か水気のある音が聞こえて、近付いてみるとどうやら吐瀉している様だった。背後に立った輝夜にも気が付かない程弱っている。
どうやら無理して山を登ってきたものの、ここに来て耐え切れなくなったらしい。
うずくまる妹紅の背中を見て輝夜は一瞬同情しかけたが、すぐさま頭を振って、妹紅のすぐ前にある崖を見下ろした。人の背丈位の深さしかない低い崖だ。突き落としたところで妹紅は怪我一つ負わないだろうし、負ってもすぐに治ってしまうだろう。けれど心の方はどうだろうかと輝夜は暗く笑う。恐らく傷付くだろう。友達が自分を突き落とし、剰えその友達が喜悦に満ちた表情を浮かべていれば、妹紅は傷付くに違いない。そうして悟る筈だ。友達なんていう関係を望めない事に。所詮敵同士なんだという事に。信じきっていた妹紅はきっと人間不信になり、慧音にしか心を許せなくなり、そうしてその頼みの綱の慧音が死ねば、妹紅は支えを失って倒れるだろう。後は助け起こす者を寄せ付けなければ、妹紅はずっと一人で二度と立ち上がる事無く、死んだ様に生きるはずだ。
輝夜はそっと腰を屈めて、えずいている妹紅の背中を見定めて、手を構える。後は思いっきり手で押し出せば良い。そうすれば妹紅は崖から飛び出し、下へ落ち、二度と誰も信じられなくなる。
輝夜は緊張している自分に気が付いた。どうしてだか分からないが、妹紅の背を押す事を躊躇している。理由は分からない。きっと、さっき花冠を払いのけられなかった理由と一緒だろうと思う。それが何なのかは分からない。分からないから些事なのだろうと思った。
妹紅がえずいている、その背中。あまり妹紅の背中を見た事は無かった。睨みつけてくる表情は何度も見たのに、こんな風にうずくまっている姿はほとんど無い。数百年の憎しみ合い。それは自分にとって些事なのだろうと思った。数百年の殺し合い。果てのない悠久の年月からすれば、それはほんの些事なのだ。そして、これからする事もまた、ほんの些事。
輝夜は一度力を溜めてから、妹紅の背へ思いっきり腕を押し出す。
「輝夜?」
押す直前、妹紅が振り返って弱々し気な表情を見せた。それを見た輝夜の体は硬直したが、既に妹紅は崖から押し出されていて、投げ出された妹紅の信じられないと言いたげな表情と目があった。気が付くと輝夜は崖から飛び出して、妹紅の後を追っていた。そうして落ちる妹紅に抱きつくと、二人して崖の下に落ちる。
落ちた先は固い地面で、妹紅と地面に挟まれた輝夜は臓腑を圧迫されて胃液を吐いた。痛みはすぐに引いたものの、頭は呆然として上手く働かない。自分が何をしたのか、自分で信じられない。
上に被さる妹紅が気遣わしげな顔で覗きこんでくる。
「ごめん、輝夜。大丈夫」
輝夜は慌てて妹紅を払いのけて、妹紅の下から逃れた。睨みつけたが、妹紅が汚れてしまったワンピースをつまみ上げて、すまなさそうな顔をしているのを見て、今が戦闘中では無い事を思い出す。
「あ、ごめん、妹紅」
「ううん、こっちこそ。折角昨日もらったワンピースも汚しちゃって」
「何か気持ち悪そうにしてたから、気になって。それで後ろに立ったら、急に振り返って声を上げるから驚いて」
本当は突き落とそうとした等とは言えなかった。
妹紅も輝夜の悪意には気がついていない様で、首を振る。
「私は大丈夫。気持ち悪いのも、別に病気だとかじゃない。蓬莱の薬を飲んだんだしね。ただ山は駄目なんだ」
妹紅が苦しそうに俯くのを見て、輝夜は我慢出来ずに聞いた。
「どうして?」
「昔ちょっとね」
妹紅ははぐらかそうと言葉を濁らせたが、輝夜は更に追求する。
「どうして? もしかして私の所為なの?」
不安な思いでそう聞くと、妹紅は首を横に振った。
「違うよ。でもあの頃の事」
「何があったの?」
はぐらかせそうに無いと感じた妹紅は溜息を吐いて、躊躇いがちに言った。
「ずっと昔、初めて人を殺した時の事がまだ忘れられないんだ」
「初めて人を殺した?」
「そう。笑っちゃうでしょ? 今まで妖怪も、偶に人間も、憂さ晴らしの為に殺しまくってきたのに、それは何にも感じていないのに、どうしてか最初のだけは忘れられないんだ」
「どうして?」
「多分、この生きているんだか死んでいるんだか分からない暮らしの始まりだったからじゃないかな。あの時、あの夏の暑い日に、山の中で、私は人を殺して蓬莱の薬を手に入れて、それで永遠の命を得た。きっと暑さで狂ってたんだ。ただただ恨みを晴らしたい一心で蓬莱の薬を奪って飲んだ」
「私を殺す為に?」
「違う。そんな思いで奪ったのなら、きっとあの時の私はまだ正気だ。でも違う。あの時の私はね、ただあんたが残した何かを私の手で処分したかったんだ。そんな、それだけの為に人を殺した。その時の事を思い出すと、何だか気分が悪くなる。だから山は駄目なんだ。あの時みたいに暑い日は特に」
妹紅は自嘲して輝夜を見る。
「狂ってるでしょ? 笑っちゃうよね」
輝夜は俯いて呟いた。
「笑える訳無いじゃない」
「そう? 自分では結構狂ってると思うけど、大した事無い?」
「だって、そんな風に狂わせてしまったのは私なんでしょ? だったら私があなたを笑える訳無いじゃない!」
輝夜の言葉に妹紅は驚いた様に目を見開き、やがて笑った。
「何か、お前からそんな言葉を聞くとは思ってなかったな」
笑う妹紅を、輝夜はぼんやりと見つめた。
「今でも私を恨んでる?」
「当然。恨みはあるよ。ずっと恨んできた事だからそう簡単に消えない」
「そうよね」
輝夜が俯く。
「でも、私達は友達でしょ?」
「え?」
「私達は友達なんだ。だったら昔の恨みは流して仲良くするべきだと思う。今はまだ難しいけど、いずれは。それが良いと思う。お前の言う通り、憎しみ合って、周りを悲しませて、自分だって苦しいなんて、そんなのがずっと続くなんて、私だって嫌だ。今はまだ恨む気持ちがある。今日だって、輝夜、あんたを殺したいと不意に思う事があった。そんな事を思わなくて済むのならそれが良い。だから、私達は友達なんだから、本当の友達になれる様に、努力しなくちゃいけないと思う」
妹紅は微笑みを浮かべた。
「だからさっきの質問に正確に答えるなら、恨んでる、けどいずれはそうでなくなりたい、かな」
そう言って微笑んでいる妹紅を輝夜は見つめ続け、何か言おうと口を開いた時、崖の上から声が掛かった。
「おおい! 大丈夫か!」
二人が声のする方を見ると、慧音が手招いている。
「あ、慧音!」
妹紅は嬉しそうに慧音の下へ上がる。
輝夜はまだ心の整理が付かぬまま、二人の元へ辿り着き、そうしてその後も思考の纏まらぬまま、二人の後に付き従って、気がつくと山登りは終わった。
山を下りると馬車が一台止まっていた。馬の上にはイナバが乗って、車の部分には永琳が乗っている。どうやら輝夜を待っているらしかった。
輝夜は妹紅と慧音に別れの挨拶をすると、馬車に乗って去って行った。それを見送った妹紅はふと自分の服を見下ろして、それが泥で汚れている事に顔をしかめ、隣に立つ慧音に聞いた。
「折角もらったのにこんなに汚しちゃった。ねえ、謝った方が良いかな?」
ワンピースをつまみ上げながらそう言う妹紅を見て、慧音は微笑みを浮かべる。
「きっと輝夜は気にしていないと思うけど、もしも気になるなら、明日謝れば良いんじゃないかな?」
「うん、でも」
「でも?」
「出来れば早く謝りたい」
「そうか。確かに謝るのなら早い方が良いのかもな。なら追いかけると良い。そんなに速度は出ていなかったから空を飛んでいけばすぐに追いつくだろう」
「そうだね。うん!」
慧音の言葉に励まされた妹紅は嬉しそうに輝夜達の後を追った。
馬車が出発してしばらく経ってから、永琳は隣の輝夜を労った。
「お疲れ様です、姫。首尾はいかがでしたか?」
輝夜は仏頂面で答える。
「友達にはなったわよ」
「それは何よりです」
輝夜は仏頂面で前を見つめ続けている。
永琳も澄ました顔のまま前を向いて言った。
「流石は姫様。人を誑かすのはお手の物ですか」
「褒めてんの? 喧嘩売ってんの?」
「喧嘩? どうしてですか?」
「別に」
「そう言えば、昨日予定を早めるとおっしゃっていましたけど、そちらはどうなったのですか? その様子ですと、失敗した様ですが」
「ええ、そうよ」
「どうしてですか? まだ早かった?」
どうしてなのかは輝夜自身にも分からなかった。自分の気持ちがままならない事に苛立って、輝夜は馬車の床を思いっきり踏みつけ怒鳴る。
「うっさいわね! 別に良いでしょ! 一日遅れたって! どうせ最初から一週間したら裏切って、あいつを絶望に追い込んでやるんだから! 今日やろうと明日やろうと一週間後にやろうと一緒でしょ? 私達の長い生の中じゃ!」
「そうですね」
「そんなに言うなら良いわよ! 明日やるから! 明日妹紅の心を完全に叩き折って、誰も信じられなくしてやるから!」
「姫、落ち着いてください」
「どうせあいつ貧乏だから何かあげときゃころっと落ちるんだから! そこにつけこめば簡単にやれるんだから! 見てなさい!」
「けしかけた訳ではないのですが」
溜息を吐いた永琳はふと背後を振り返った。背後には両側を林に挟まれた夜の道が伸びている。特に何の異常も無い。
「どうしたの、永琳?」
「いえ、何か音が聞こえた気が」
「音?」
「ええ、風切り音の様な」
「なら風でしょ」
そのまま馬車は何事も無く走り続けた。
その頭上高くでは、汚れたワンピースを着た妹紅が唇を震わせていた。
翌日、輝夜は新しいワンピースを持って妹紅の家へ向かった。妹紅が昨日の山登りでワンピースを汚してしまった事に心を痛めている様子だったので、新しいそして妹紅に似合いそうなワンピースを選んで、プレゼントするつもりだった。
敵に塩を送るだけだと言い聞かせながら、妹紅の家に出向いて呼びかけると、中から慧音が現れた。何処か沈み込んだ表情をしているのが気になった。
「輝夜、何の用だ?」
「何の用って遊びに来たのよ」
慧音の表情が歪む。
「そうか。けど、妹紅は取り込み中なんだ。悪いけど今日のところは帰ってくれないか?」
「取り込み中って何かあったの?」
輝夜が中を除こうとした時、中から妹紅の怒鳴り声と走る足音が聞こえた。
「輝夜? 輝夜が来たのか!」
凄まじい足音を立てて妹紅が現れる。輝夜はそれを眺めながて、こんな風に必死に会おうとするなんて随分と依存されているなと考えながら、持ってきたワンピースを持ち上げた。
「輝夜」
軋る様な妹紅の声音に気が付かず、輝夜は笑顔を浮かべて妹紅に近づく。
「おはよう、妹紅。遊びに来たわよ。はい、これ」
輝夜がワンピースを妹紅へ渡す。
「ほら、昨日汚して落ち込んでたでしょ? だから新しいのあげる」
輝夜は微笑んで妹紅の反応を待った。きっと予想もしていなかっただろう。もしかしたら感極まって泣き出すかもしれない。そんな風に楽しみに待っていると、ワンピースに目を落としていた妹紅が突然顔を上げて睨んできた。
「そっかぁ。今日はこれで私に取り入るつもり?」
敵意の籠もった猫撫声。輝夜は訳が分からず後退る。妹紅は後ずさった輝夜の足元にワンピースを放る。
「こんなの要らない! こんなの! こんなのであんたに騙されてなんかやるもんか!」
「ちょっといきなり何言ってるの?」
「ずっと嘘だったんだろ? 友達になるだなんて。私を騙す為にこんなものまで用意して、私を馬鹿にしてたんだ!」
そうして妹紅はワンピースを踏みにじりながら輝夜の目前に立って、鼻の付くほどの間近で睨みつけた。
輝夜はうろたえながら妹紅の目を見つめ返す。
まるで分からない。
どうしてばれた? 昨日までは気が付いていなかった。演技は完璧だった筈なのに。
「どうして分かったのかって顔してるね? 簡単だよ。昨日馬車の中でお前と永琳と話しているのを聞いたんだ! 私が、ワンピースの事謝ろうとして近付いたら、あんたの声が」
そういう事か。
なら言い逃れは出来そうにない。
「何でだ! どうしてこんな事したんだ! こんな回りくどい」
「ぐだぐだうっさいなぁ」
輝夜が蔑む様な目で睨み返すと、妹紅は体を震わせた。
「どうしてって決まってるじゃん。これが一番あんたに効きそうだったから。どうせ体なんていくら傷つけたって死なないんだし、だったら心を潰そうと思っただけ。現にほら、今あんた涙目になってるし」
妹紅は飛び退いて目元を拭う。
「そもそも今まで散々殺しあって来たのに、今更騙した何だって馬鹿じゃないの? 考え方が甘すぎんのよ!」
輝夜が妹紅を嘲笑うと、妹紅は顔を真赤にしながら怒鳴り返した。
「私は! お前が言った言葉を本当に良いなって思ったんだ! 未来永劫憎しみ合うなんてそんな馬鹿みたいな輪廻から抜けて、辛くても苦しくても、仲良くやっていけたら良いなって。私も憎しみを消していけたらって。だから仲良くしようと、協力し合おうと思ったのに! それなのにお前は!」
「何を責任転嫁してるんだよ!」
輝夜が妹紅の襟首を掴み上げる。
「元はと言えばあんたの所為でしょ! 私は仲良くしたかったのに!」
「何を。あんたが騙すから」
「私はあの時、竹林であんたと久しぶりに再開した時、本当に嬉しかった! ずっと昔に顔を合わせた友達が生きているのが分かって。同じ蓬莱の薬を飲んだ者同士、そうしてあの都を共に生きた者同士、仲良くやっていけると思って。だから声を掛けた! でもあんたは問答無用で襲いかかってきた! だからこんな事になってるんじゃない! それが今になって友達になってくれなかったから、騙された、裏切られた、馬鹿にされた? だったら最初にあんたのした事はどうなんの?」
「でもそれは」
「私がお前の父親をコケにしたから? 蓬莱の薬を飲む元凶になったから? どっちも私はあんたに何にもしてない! 父親は勝手に私に言い寄ってきて勝手に恥をかいただけだし、あんたが不老不死になった事になんかそれこそ私は何もしてない! あんたが勝手に蓬莱の薬を奪って飲んだだけでしょ! 馬鹿じゃないの! 勝手に恨んで、勝手に襲ってきて、それで騙されたら、お前が悪い、お前は酷い! そんな自分勝手だからあんたは他人と深く付き合えないんだよ!」
そう言って、妹紅を突き放すと、妹紅は呆然とした様子で目尻から涙を溢していた。
急に罪悪感に襲われて、輝夜は思わず謝りそうになったが、すぐに自分の心を戒め、足元のワンピースを蹴り飛ばした。
「じゃあね! 次会う時はまた殺し合いの憎しみ合い! これからも長い付き合いになりそうね!」
そんな捨て台詞を吐いて輝夜が去った後、妹紅はその場に崩れ落ちてぐちゃぐちゃになったワンピースに手を這わせた。
「ただいま」
輝夜が永遠亭に帰るなり永琳の部屋に向かった。
「お帰りなさい、輝夜。どうだったの? ってその顔を見ると、また失敗?」
永琳が驚き混じりの、けれど楽しそうな表情で輝夜に問いかける。
輝夜は酷く鬱屈とした表情で沈んだ声を出した。
「もう最悪。やっぱり私、あいつと相性悪い」
「そうかしら? 良き友達になれると思うけれど」
「あり得ないわ。つい今しがた、喧嘩して嫌われてきたばかりだもの」
「あら、何があったの?」
輝夜が今日の出来事を話すと、永琳はくすくすと笑い出した。
「成程ね。それはまた随分と」
「完全に潰えたわ」
「そう? 雨降って地固まるとも言うけれど」
「いや、もう無理でしょ? っていうか、無理。しんどい」
永琳がまた笑う。
「また随分と」
「さっきから何よそれ。何が随分なの?」
「いいえ」
「何よ、もう」
「まあ、とにかく今日は疲れたでしょうから、早く休みなさい。明日になれば明日の風が吹くでしょう」
「はいはい。何か永琳お母さんみたい」
「私もお母さんになった気分よ」
不機嫌そうに出て行く輝夜を目で追いながら、永琳は小さく息を吐いて再び笑った。
翌日輝夜は妹紅の家へ向かおうとはしなかった。縁側に座って、夏の日差しで白く陰った景色をぼんやりと眺めていた。多くのイナバはいつもの輝夜だと思って気にしなかった。幾人かの事情を知るイナバは何があったのだろうと不思議がった。そして永琳は患者の持ってきた西瓜を見せびらかしに行った。
その西瓜が切り分けられて輝夜の所へ届けられた時、丁度庭に人が現れた。輝夜は食べようと手にとった西瓜を戻して、立ち上がる。
「妹紅。どうしてここに?」
妹紅は黙ったまま歩み寄ってくる。
まさかここで戦う気かと西瓜を持ってきた鈴仙を手で追い払って妹紅と対峙した。
「昨日言ったわよね。次会う時は殺し合う時だって。という事はここで殺し合いたいって事?」
輝夜の問いに、妹紅はやはり黙ったまま歩み寄る。
妹紅は輝夜の眼前で立ち止まると、昨日のワンピースを輝夜の前に突きつけた。汚れ一つない。どうやら洗ったらしかった。
「昨日忘れていったでしょ。返しに来た」
「そんなの別に要らないわよ。持ってって」
輝夜がワンピースを妹紅へ突きつけ返すと、妹紅は不承不承それを受け取り、そして言った。
「輝夜、私はあんたと友達になれそうにない」
拒絶されるだろうと思って吐いたが、分かっていても胸が突かれた様な息苦しさを感じた。
「私はお前を許せそうにないし、きっと仲良くしようとしたって昨日みたいな事になるだろう。きっとどうあがいたって、私達は殺し合う。私達は殺し合っているのがお似合いなんだ」
「ええ、そうね。そうでしょうね」
結局何も変わらない。
二人は殺し合うしかない。
輝夜がそれに悲しみを覚えていると、妹紅が言った。
「でもね、輝夜。あんたが飽きたって言った時、私は本当に目の前が真っ暗になった」
「え?」
思わぬ言葉に輝夜は眉を寄せて不思議そうな顔をした。
「それで私は気がついたの。あんたの事を憎んでる。けど殺し合いをしているのはその為にじゃない。だってそうでしょ? そもそもあんたの事を殺せないんだから。本当に憎んでいるなら、殺し合いなんて何の意味もない。もしも本当に何かするのなら、あんたが今回やったみたいに別の手段を取るしかない」
輝夜は自分の取ろうとした行動を思い出して胃の腑の辺りが痛くなった。自分は本気で妹紅を壊そうとしていたんだ。
今更謝ったところで許してはもらえないだろう。
寂しさで胸がいっぱいになっていると、妹紅が輝夜の手を取った。
輝夜は驚いて顔をあげる。
妹紅の目には涙が浮かんでいた
「でも私はそんな事出来ない。殺し合いは良い。けど精神的に追い詰める事はしたくない。だから私は本気で輝夜をどうにかしたい訳じゃないんだ。それでどうしてだろうってここ何日か考えてみたんだけど、私はどうやら輝夜とずっと殺しあっていたかったんだ。憎しみとかそういうのじゃなくて、私の心をこの世に留めておく為に。今の私にとって生きるっていうのはあんたと殺し合う事。だから私の人生はきっと、あんたと殺し合う事でしか紡げない。だから私は殺しあっていたいんだ。だから私に生きてるって実感を与え続けて欲しいんだ」
妹紅がくちゃくちゃになった顔を俯ける。
輝夜は喉の辺りから何かがせり上がってくるのを感じて、気がつくと自分の目からも涙があふれていた。
妹紅の言葉が続く。
「だから、でも! 今回みたいな事はしないで欲しい! 今回みたいな本当にお互いが苦しくなる様な酷い事は、しないで欲しい! 飽きたなんて言わないで欲しい。ずっと二人でずっと、ただ」
その先の言葉は涙でつかえて止まってしまった。
けれど輝夜は妹紅の言いたい事を全て察して、握る手を握り返した。
結局、芯の思いは一緒だったんだ。二人でずっと一緒に居たい。その点で二人は共通していて、そうしてそれで十分なんだ。
「妹紅、良いよ。殺しあいましょう」
妹紅がしゃくりながら輝夜を見つめる。
「殺しあいましょう。二人でずっと、ずっとずっといつまでも」
輝夜もそれ以上は喋れなくなって、二人で手を握り合いながら泣きだした。
それを診察室から眺めていた慧音が永琳に向かって言った。
「いや、凄いね、先生。あの二人が涙を流しながら、手を握り合ってるよ」
「そうね。でも思っていた結末と少し違う」
「完璧主義だなぁ。当初の目的の憎しみ合っている二人を仲良くするっていうのは出来た訳じゃないか」
「殺し合うとか言ってるんですけど」
「まあ、そうは言っても二人の心に変化が訪れた訳だし、良い傾向じゃない?」
「そうかしら」
「そうだよ。あなた、結構教師に向いてるんじゃない? どう? 寺子屋」
「遠慮するわ。あの二人をあやすだけでこんなに疲れたのに」
疲れきった溜息を吐く永琳を笑いながら、慧音は窓の外の手を握り合う二人を見つめ続けた。
やがて二人は泣き止んで、どちらかともなく手を離す。
「ねえ、輝夜」
「何?」
「これ、沢山服をくれたお礼」
そう言って、妹紅はビーズで作ったブレスレットを取り出した。
「これって慧音にプレゼントする為のじゃ」
「それは別に作ってある。材料はいっぱいあったから、だからお礼にと思って。もし良かったら」
「でもお礼はもうもらったのに」
「じゃあ、このワンピースのお礼」
妹紅がワンピースを握りしめる。
輝夜は躊躇していたが、やがてブレスレットを受け取った。そして笑って尋ねる。
「どうする? これから殺し合う?」
妹紅は首を横に振る。
「止めておく。周りの人を巻き込むだろうし、ワンピースが燃えちゃうし」
「そうね。じゃあ明日にしましょう」
「明日? せっかちだね。良いよ。いつ?」
「その」
急に輝夜が自信無さげに言い淀んだので、妹紅は怪訝な表情になる。
「どうしたの? やっぱり明日は止めとく? 私はいつでも」
「ううん、明日にしましょう。明日に。で、その、明日はお祭りがあるじゃない? 人里で」
「あ、うん。盆祭りね」
「だからみんなでそれを見に行って、それが終わった後にしましょう?」
「え? 良いけど。もしかしてお祭りも一緒に回るの?」
「だって! ほら! 折角お祭りがあるのに参加しないのは勿体無いし、それに一緒に回った方が後々何処かで待ち合わせする必要も無いでしょ? ね?」
輝夜が慌てて言い重ねる。
妹紅はその必死な輝夜に吹き出して、それから頷いてみせた。
「分かった。じゃあそうしよう。着物、もらった奴を着ていくよ」
「うん。私もこのブレスレットつけていくから」
輝夜が嬉しそうに笑い、妹紅もそれに合わせて、二人で笑いあった。
「じゃあ」
妹紅が手を上げて去っていこうとして、数歩歩いて立ち止まる。
「あ、ごめん、やっぱり明日は無しにしよう」
妹紅が振り返ってそんな事を言うので、輝夜は嫌われたのかと絶望的な気持ちになって問い尋ねる。
「何で?」
「だって折角もらった着物が燃えちゃうでしょ?」
「あ」
確かにその通りで、殺し合いともなれば、きっと着物もブレスレットも灰になってしまう。
「だから明後日。明後日にしよう。明日はお祭りだけ」
妹紅の提案に輝夜は力強く頷いて、晴れやかに笑った。
「うん! 絶対だからね!」
「勿論。絶対に殺してみせるから」
意地悪そうに笑う妹紅に、輝夜は苦笑する
「じゃあ、また、明日」
「また明日」
手を振り合って、妹紅は庭を去って行った。
妹紅の姿が見えなくなってから、輝夜はブレスレットを一度握りしめ、それから陽光に翳してみた。
ブレスレットは太陽の光を幾つもの煌めきに変えて、きらきらと輝いている。
輝夜はそれを綺麗だと思った。
次は妹紅と輝夜が百合百合で夏祭りを
楽しむSSが読みたいです
鬱になりかけました(笑)
でも、こんな関係も良いな。
と、思ってみたり。
これからも頑張ってください
主人公コンビもスキマ妖怪も頭をかかえますが、2人は異変など起こさないでしょう………たぶん
誤字報告です
「何の様だ、輝夜!」→「何の用だ、輝夜!」
そして、先の展開も単なるハッピーエンドではないと。
ですが、このSSは私の予想のはるか上を行きましたね。
慧音がやけに友好的というか、作戦に協力的だったのに疑問でしたが、
なるほど最初から永琳とつながっていたとは。
今まで読んだかぐもこSSの中でも特にお気に入りの作品となりました。。