灼けつくような夏のある日の昼下がり、日曜であるにも関わらず、僕は一人会社ビルの屋上にいた。
都内の某企業に勤めて三年、休みもままならない、息の詰まるような毎日に僕は辟易していた。
足下を見下ろすと、今日も無数の人と車が忙しなく道を行き来している。
恐らくは一生、話すことも無い人達。当たり前のことだが、彼らは僕の生になど関心は無いのだろう。
この無関心のなんと心地好いことか。僕はこの優しい無関心に包まれたまま、八方塞がりの人生を終えることを夢想し、それを実行に移すべく目を閉じ右足を踏み出した。
次の瞬間、僕は重力に従い落下し、多分強烈な衝撃と共にこのつまらない人生を終える筈。
――が、おかしい。確かに足を踏み出したのに、いつまでたっても地面に叩き付けられることは無かった。
恐る恐る目を開くと、僕は依然としてビルの屋上の縁に立っていた。
ならばもう一度、再度足を上げ、踏み出した。
しかし、今回も駄目である。確かに前に向かって踏み出した筈の右足は、僕の意識とは裏腹に、一寸たりとも前に進むことはなく、上げる前と同じ地面を踏みしめていた。
理由が解らない二度の失敗。ここで不意に死に対する本能的な恐れが脳をよぎり、僕はよろめきながら縁を離れた。
口の中はカラカラに渇き苦味に満ち、舌は強ばっている。しばし放心していた僕は、背後から声をかけられ我に返った。
お兄さん、どうしたの、と問いかける声は年端の行かぬ、少女のソプラノ。
腰が抜け、後ろを振り向くことさえままならないことを察したのだろう。声の主は、歩いて僕の前に姿を現した。
年の頃は十に届くか、届かないかといったところだろう。
緩いウェーブのかかった銀髪の、可愛らしい少女である。
彼女はへたりこんだ僕に視線を合わせるべくしゃがみこみ、目が合うとそこでにこり、と微笑んだ。
嬰児のみが為し得る、何の打算も無い無意識の笑顔。目の前の少女が浮かべていたのは正にそれ。
つい無意識にこちらも笑みを返したくなるような、透明な笑顔。僕は何故かその笑顔に強く惹き付けられた。
「あなたの意識はわからないけど――」
少女は胸の、閉じた瞳を模した飾りを玩びながら語りかける。
「無意識ならわかるから。だから、なんでそんなことを考えたのか、話してみてくれないかしら。」
随分と年不相応なことを訊ねる子供だな、等と思いつつも、僕は話すことにした。
――なんかね。何をやっても上手く行かない毎日に倦んでしまってね。
何故だろう。同僚にも両親にも話せなかった漠然とした不安や不満、そういったものがこの娘相手なら、意識すること無く次々と出てくる。
僕の独白をどこまで理解しているものかは解らないが、少女は遮ること無く耳を傾ける。
ここらが多分僕の限界、これ以上この生活を続けていても心が削れていくだけ、ならばいっそのこと一息に、と思ってさ。
だけどあの通り、僕は最後の一歩すら踏み出すことが出来ない。
そう自嘲を浮かべひとしきり話終わったところで、彼女は再度口を開いた。
――それはあなたの無意識が、生きたがっているから。
たったそれだけのこと、だから。
「とりあえず、無意識にも死を求めるようになるまで、もう少し頑張ってみたら?」
その問いかけに僕は、頷くことしかできなかった。
「それじゃあお兄さん、これからも頑張って生きていってね。」
そう呟き僕の瞳を覗き込み、少女はやはり微笑みを浮かべる。
今度はなんとか微笑みを返すことが出来た。
彼女は嬉しそうに僕の頭を数度撫で――不意に姿を消した。
驚いて周りを見渡すも、屋上にはカラス一羽の気配すらない。銀髪の少女は、現れたときと同様、全く唐突に居なくなっていた。
そしてその時には、もう人生を投げだそうなどという考えは、頭の片隅にも無くなっていた。
◇
あれから数年の歳月が経ち、僕は相も変わらぬ忙しない日々を過ごしている。
ただ、その間に僕は妻と出会い家庭を持ち、更に二月前には娘が産まれ父親となった。
あの優しい無意識の少女は果たして実在していたのか、あるいは僕の無意識が見せた幻だったのか。今となってはわからない。
何れにせよ――。僕は今、生きている。などと感慨に耽ったところで、妻が僕を呼ぶ声が。
今、この子笑ったわよ、とのこと。
僕は娘の笑顔を目に納めるべく、急いでリビングを後にした。
◇◇◇◇◇
古明地こいしは嬰児の横、幸せそうな家族を眺めて静かに微笑む。無意識に彼女を知覚した赤子が再度微笑むのを目にし、こいしは家に帰ることにした。
都内の某企業に勤めて三年、休みもままならない、息の詰まるような毎日に僕は辟易していた。
足下を見下ろすと、今日も無数の人と車が忙しなく道を行き来している。
恐らくは一生、話すことも無い人達。当たり前のことだが、彼らは僕の生になど関心は無いのだろう。
この無関心のなんと心地好いことか。僕はこの優しい無関心に包まれたまま、八方塞がりの人生を終えることを夢想し、それを実行に移すべく目を閉じ右足を踏み出した。
次の瞬間、僕は重力に従い落下し、多分強烈な衝撃と共にこのつまらない人生を終える筈。
――が、おかしい。確かに足を踏み出したのに、いつまでたっても地面に叩き付けられることは無かった。
恐る恐る目を開くと、僕は依然としてビルの屋上の縁に立っていた。
ならばもう一度、再度足を上げ、踏み出した。
しかし、今回も駄目である。確かに前に向かって踏み出した筈の右足は、僕の意識とは裏腹に、一寸たりとも前に進むことはなく、上げる前と同じ地面を踏みしめていた。
理由が解らない二度の失敗。ここで不意に死に対する本能的な恐れが脳をよぎり、僕はよろめきながら縁を離れた。
口の中はカラカラに渇き苦味に満ち、舌は強ばっている。しばし放心していた僕は、背後から声をかけられ我に返った。
お兄さん、どうしたの、と問いかける声は年端の行かぬ、少女のソプラノ。
腰が抜け、後ろを振り向くことさえままならないことを察したのだろう。声の主は、歩いて僕の前に姿を現した。
年の頃は十に届くか、届かないかといったところだろう。
緩いウェーブのかかった銀髪の、可愛らしい少女である。
彼女はへたりこんだ僕に視線を合わせるべくしゃがみこみ、目が合うとそこでにこり、と微笑んだ。
嬰児のみが為し得る、何の打算も無い無意識の笑顔。目の前の少女が浮かべていたのは正にそれ。
つい無意識にこちらも笑みを返したくなるような、透明な笑顔。僕は何故かその笑顔に強く惹き付けられた。
「あなたの意識はわからないけど――」
少女は胸の、閉じた瞳を模した飾りを玩びながら語りかける。
「無意識ならわかるから。だから、なんでそんなことを考えたのか、話してみてくれないかしら。」
随分と年不相応なことを訊ねる子供だな、等と思いつつも、僕は話すことにした。
――なんかね。何をやっても上手く行かない毎日に倦んでしまってね。
何故だろう。同僚にも両親にも話せなかった漠然とした不安や不満、そういったものがこの娘相手なら、意識すること無く次々と出てくる。
僕の独白をどこまで理解しているものかは解らないが、少女は遮ること無く耳を傾ける。
ここらが多分僕の限界、これ以上この生活を続けていても心が削れていくだけ、ならばいっそのこと一息に、と思ってさ。
だけどあの通り、僕は最後の一歩すら踏み出すことが出来ない。
そう自嘲を浮かべひとしきり話終わったところで、彼女は再度口を開いた。
――それはあなたの無意識が、生きたがっているから。
たったそれだけのこと、だから。
「とりあえず、無意識にも死を求めるようになるまで、もう少し頑張ってみたら?」
その問いかけに僕は、頷くことしかできなかった。
「それじゃあお兄さん、これからも頑張って生きていってね。」
そう呟き僕の瞳を覗き込み、少女はやはり微笑みを浮かべる。
今度はなんとか微笑みを返すことが出来た。
彼女は嬉しそうに僕の頭を数度撫で――不意に姿を消した。
驚いて周りを見渡すも、屋上にはカラス一羽の気配すらない。銀髪の少女は、現れたときと同様、全く唐突に居なくなっていた。
そしてその時には、もう人生を投げだそうなどという考えは、頭の片隅にも無くなっていた。
◇
あれから数年の歳月が経ち、僕は相も変わらぬ忙しない日々を過ごしている。
ただ、その間に僕は妻と出会い家庭を持ち、更に二月前には娘が産まれ父親となった。
あの優しい無意識の少女は果たして実在していたのか、あるいは僕の無意識が見せた幻だったのか。今となってはわからない。
何れにせよ――。僕は今、生きている。などと感慨に耽ったところで、妻が僕を呼ぶ声が。
今、この子笑ったわよ、とのこと。
僕は娘の笑顔を目に納めるべく、急いでリビングを後にした。
◇◇◇◇◇
古明地こいしは嬰児の横、幸せそうな家族を眺めて静かに微笑む。無意識に彼女を知覚した赤子が再度微笑むのを目にし、こいしは家に帰ることにした。
死にたくないという気持ちが個人としての感情なのか種としての生存本能なのか、そこの線引きで読み方が全く異なる気がするし、どちらだったとしてもラストは説明不足に思う。この場合だと無意識という言葉だけじゃ曖昧であまり共感は出来ないかなあ。
ちなみに、もし後味の悪いモノを書く時があったら、その理屈付けは異常なくらい大変だから気をつけて
もうちょい長くしたら結構良かったんじゃないかと思います。
雰囲気は良かったです。
折角なら色々なキャラで試して捻ってみてはいかがでしょう?読んでみたいです。
〉3さんの指摘事項を明確化すれば、話を最も肉付けし、掘り下げることが出来るかもしれません。改稿の際はしっかりと調べてかかります。
〉6さんにつきましては、お気に入り頂きありがとうございます。他キャラの日常入りにつきましては、ネタが思い付き次第、書いてみようかと思います。
他の皆様につきましても、特に雰囲気についてご好評戴きました様で。意図する雰囲気を醸し出せるよう、今後とも精進していきますので、是非よろしくお願いします。
ですがそれ以上に語る事がないのもまた事実という感じ。
FACKだな