「吾輩は吸血鬼である。名前はまだ無い」
突如紅魔館の主の部屋に乗り込んできた、その妹が何を思ってか姉の目を真っ直ぐ見据えながらそんな事を口走った。姉は目を白黒させて、妹の精神状態に不安を覚える自分を振り払うかのように彼女の名前を呼ぼうとした。
「何言ってるの、フラ――」
「吾輩は吸血鬼である! 名前はまだ無い!」
しかし力強く遮られる。
おや、と首を傾げて姉はもう一度彼女の名前を呼ぼうとした。
「フ」
「名前はまだ、無い!」
詰め寄られながら屹然と忠告され、ようやく姉が頷いた。椅子に座っていた彼女を上から見下ろす形で威圧されてしまうと、それが実の妹なだけにちょっと怖く感じてしまう。
しかし、なるほど。そういう遊びか。
そうと了解して、ではどうやってそれに付き合うかを考える。妹が口にしているフレーズは文学に疎い彼女でさえ聞いた事のある有名な作品のものだ。その作品に沿って話を合わせてやれば喜ぶかもしれないが、生憎とそんな知識は持ち合わせていない。
さて困った。がっかりするかもしれないが、思ったままの質問をするしか無い。姉は一つ咳払いをして、妹を見上げる。
「相分かった。では君は、何と呼ばれたいのだね?」
口調も変えてみた。ひょっとすると姉は、妹の使う吾輩という一人称にまで合わせてやるつもりなのかもしれない。
問われた妹の方は予想していた質問と違ったのか少しだけ眉を顰めるも、直ぐに両手を組んでうんうんと唸り出す。そしてこうと続けた。
「吾輩にはそれが分からない。吾輩には確かに呼ばれたい名前があるのだが、どうしてもそれが何であるのか、その形すら見えてこないのだ」
矛盾しているようにも聞こえる台詞から、姉は妹が自分に求めている物を探っていく。
名前はまだ無いらしい。しかし既に呼ばれたい名前があるという。だが、その呼ばれたい名前がどんなものであるか彼女は皆目見当が付いていないようだ。
姉は足を組んで考えた。ふぅむ、さっぱり分からない。
かといってここで流れを止めるつもりは毛程も無い。なかなかどうして、楽しい遊びじゃないか。
彼女は足組を解いて凛と立つ。質問に対する解答の答え方が一つでは無い事をこの姉は知っていた。
「どうやら今の君に必要なのは、自分が何を見て何を思い、何を聞いて何を考えるか、その気持ちの在り様を知る事のようだ」
姉が選んだ答え方は、「模範解答を示す」のではなく、「答えの導き方を示す」事だった。これなら姉が答えられなくても、この問答の解釈を広げてまだまだ遊べるというもの。
立ち上がった姉はそのまま妹の隣を過ぎ去り、一歩進んだ所で振り返る。手を差し伸ばして、姉は犬歯を剥き出しにして愉快そうに笑った。
「君を探す旅に、どうかこの私を連れて行って欲しい」
一瞬呆けたようにその姿を見つめていた名無しの妹は暫くすると我に返り、金髪のサイドテールで表情を隠しながら姉に応じた。
「吾輩からも頼みたいと思う。貴殿が助けてくれるのであれば、見渡す限り野原のここに道を築く事も容易いだろう」
「相分かった。私は君の願いを聞き届け、可憐な花畑への道を切り開く剣となろう」
姉の手を妹の手が取った。二人は互いに照れたように笑い合いながら、姉の部屋を去り階下へと向かった。
その日は一日大雨が続いて洗濯物が干せなかった。従者は困り果てた顔で溜まった洗濯物を眺めていたが、やがて踵を返すと洗濯室から出て行き、その扉をそっと閉める。
吸血鬼に仕える彼女は時に太陽が恋しくなる。往々にしてそれは外に出れないお嬢様の暇潰しが面倒だったり今みたいに洗濯物が乾かない悩みを抱えたり人里に買出しへ行くその日の気分がたまたまそうだった時限定なのだが、理由が何であれ吸血鬼に仕える従者の数少ない悩みとも言えた。
明日になったらこの室内は生乾きの匂いで満たされているのだろう。
さて明日の洗濯当番はどの妖精だったかしら、と勤務体制を思い出して歩く内に、正面から非常に珍しい物が接近している事に気付いた。
それは仲睦まじい吸血鬼の姉妹である。二人で並んで歩いている光景だけでも一年にあるか無いかという希少な物なのに、何と手を繋いで歩いているのだ。しかもよくよく見れば、二人ともほんのり頬を染めているようで実に初々しく可愛らしい。数十年に一度、いや百年に一度あれば奇蹟の御業。この日この時この瞬間を、彼女は決して忘れる事無いだろう。
歩く内に二人も従者に気付いたのか、どちらともなく自然に手を離してほんの少し距離を開けてしまう。互いが意識し合う事で生まれる乙女の恥じらいとは何故かくも美しいものか。姉が少し視線を逸らして歩けば、その横顔を盗み見る妹の熱い眼差しの事よ。
兄たり難く弟たり難し。従者に見られたかもしれないと何でもない風を装う姉の気丈の高さも、他人の視線などお構いなしに姉へ敬慕の想いを送る妹の天衣無縫さも、いずれも素晴らしく胸の奥を熱く焦がす愛らしさを備えているのだ。
二人はただ普通に歩いているだけだった。それでも彼女はその何でもない姿を見るだけで胸を高鳴らせ、従者としての忠節を永遠を以って尽くそうと深く心に刻み込む。
頭を下げる従者の両脇を姉妹がそれぞれ通過していく。彼女は声もかけずに過ぎ去りいく二人の後姿を見つめ、言葉では言い表せない感情を、己の知っている花を思い浮かべる事でその代替とした。
姉の姿勢は芍薬を彷彿とさせ、その隣を歩む妹の密かなる想いを牡丹に夢想し、まるで寄り添うかのように離れた距離が徐々に縮まっていく様に百合の姿を重ねた。
二人の姿が見えなくなった頃、ようやく自分の仕事を思い出した従者は一度閉めた扉を開け放つ。
紅魔館から集められた大量の洗濯物を前にして、やはり心が折れそうになった彼女は扉を開けたままアイロンを取りにその場を後にした。
紅魔館の地下に広がる大図書館を、本の森と例える人は少なくない。同時に、これほど堅牢に舗装された洞窟は見た事が無い、とも評されるようになった。
自分の家の敷地内とはいえ、その全容までは把握していない姉が友の姿を探して本棚の間を抜けていく。その後ろを、並ぶ本の数々に目移りしながらも妹が着いて行く。
紅の色が目に付くこの館にあって、静謐とした大図書館だけは異質な空気を放っていた。本来ならそれこそが正常な感覚である筈なのに、長い間紅色だけを愛でてきた姉にはここが異様に見えて仕方なかった。
姉は気付いていなかったが、二人の距離は少しずつ離れていた。目的の者を探して進む姉と、探す事自体が目的になっている妹との差が如実に現れる。本に夢中になっていた妹は途中でそれに気付いて慌てて姉を追った。
二人が並んで歩き始めた時、最初にその変化を感じたのは妹だった。少しずつだが、確かに明るくなってきている。光が強くなっているのだ。あと数歩も歩けば目的の魔女に会える。
果たして妹の感覚は違える事無く目的の者を見付け、駆け寄る姉の後を翼を揺らして追いかけさせた。
「やあ、私の友達よ」
本を読んでいた魔女がぴくり、と肩を振るわせた。
「私の友達?」
今までに無い親友の呼び方に戸惑いと疑問符を載せて彼女が二人を見た。その視線を受けた姉が胸を張り、妹はそんな姉の少し後ろから魔女を見ていた。
姉が妹に向かって、魔女を紹介する。
「彼女は私の友達だよ。きっと自分を知ろうとする君の心強い助けとなってくれるだろう」
「レミィ? 頭大丈夫? 咲夜に何か変なものでも盛られたの?」
ごっこ遊びを続ける吸血鬼の姉に反して、何も知らない魔女は当然のように冷たい視線を返した。
厄介事の匂いを感じ取り、どう追い返そうかと考える魔女だったが、そんな彼女の思考は妹の言葉によって方向を変えられる事になる。
「吾輩は吸血鬼である。名前はまだ無い。吾輩は吾輩を知る為に彼女の案内でここに来た」
その言葉が何を意味するのか直ぐに悟った魔女は一度妹を見、そして姉を見てから再び妹を見た。表情に乏しい彼女が笑う。その変化だけで姉は自分の企みが成功したのだと内心悦に入り、今か今かと彼女の台詞を待っていた。
「おお、残念ながら矮小たるこの身では、高貴なる貴方様の名前をお告げする事叶いません。私は貴方様の名前を知る者、しかしその名を口にする事は許されざる者なのです」
「私の友達よ、彼女はこんなにも自分を知る事を欲しているのだ。謎を紐解くその欠片だけでも頂けないだろうか」
長年連れ添った親友とはそんなものなのだろうか。姉と魔女の息の合った会話は妹から見ると、まるでこの二人はこうなる事を最初から知っていたのではないかと想像してしまう程滑らかだ。
付け加え、妹は魔女の言葉に深く驚いたようだ。目を見張りどこか感嘆とさえしているのは、今の魔女の姿が普段妹の知るその人物像とかけ離れていたからだろう。
対する姉の方は慣れたもので、次々と後付けされていく設定にも難なく対応し言葉を紡ぎ出している。
それを見た妹は静かな嫉妬の火を燃やすのだが、それは自分へと向けられた魔女の言葉によって沈静されてしまう事になった。
「ああ、矮小なる私と友達になってくれた貴方よ。それすらも私には許されていないのです。なぜなら自らを求めている彼女が探す答えは、他ならぬ貴方が持っているのですから」
吸血鬼の妹はほとほと感心した。魔女の頭の何と回る事なのだろう。そう、まさしくその通り、妹が求める答えは彼女の姉が携えているのだ。
気を遣ってくれたのだろう魔女に返礼するべく、妹は一歩前に出ると恭しく彼女に頭を下げた。
「彼女の友達よ、吾輩を知る名も無き賢しき賢者よ。貴殿の言葉は吾輩の胸に心地良い澄んだ鐘の音を鳴らしてくれた。これを持って吾輩は次なる可能性を彼女と求めようと思う」
「ええ、ええ。貴方様の御心のままに。いずれは高貴なる器が目覚めを果たし、貴方様が知らずともその名を知る者が答えを授けて下さるでしょう」
どうにも自分を置いて通じ合っているらしい二人の会話を聞きながら、姉は必死にその答えが何なのか考えていた。私が持っている、とは一体いかなる意味なのか。考えてみても浮かぶのはどれも微妙な答えばかりで、妹の望む答えを本当に自分が言えるのか不安にさえ思ってしまう。
ただ。
こうして妹と魔女が楽しそうにお喋りしている姿を見れたのは姉として、友として純粋に喜ばしい事であり、この二人の為に少しばかり妹にがっかりされる結果になったとしてもお釣がくると感じてしまうくらいにはこの遊びに満足出来そうだった。
「ああ、高貴なる貴方様よ。見つめるべきは足元では無く、頭上であるとだけ伝える事をお許し下さい。どうか貴方様の探す答えを、私の友人が見付けてくれますように。私はただここで祈るばかりです」
「約束しよう、私の友達よ。私が必ず彼女の求める答えを手に入れ、そしてその名でいの一番に彼女を呼ぶのだと」
三人は少しばかりの雑談を交わし、吸血鬼の姉妹は魔女に伝えられた方向へと踏み出した。
いつの間にか大雨は止んでいて、外はすっかり夜の帳が落ち着いていた。
司書として大図書館で過ごす彼女は気紛れに視線を向けた窓の向こうに晴れた月空を見つけ、その妖しさに暫し時を忘れ仕事を中断していた。
地下から無理矢理作った地上を覗ける窓は分厚く、往来の使用目的である換気といった事が出来ないのが残念だった。
彼女は一日振り続けた雨の上がった外を見つめ続け、今日というこの日がいかなる幕引きを下ろすのか想像に胸を馳せる。それは到底計り知れない事なのだが、だからこそ想う価値があるのだと彼女は思っていた。
大図書館の司書は不意に話し声を耳にする。この地下図書館にあって、人の話し声ほど珍しい物は無い。一体誰なんだろう。ちょっとした好奇心に突き動かされて向かった先にいたのは、吸血鬼の姉妹だった。
どちらも自分より圧倒的に力に秀で、長生きしているというのにその容姿は極端に幼い。見れば見るほど子供らしい姿見に心を和ませて、束の間の安息に頬を緩めた。
言い争っているというより、二人で謎解きでもしているかのような口論が耳に届くのだ。きっと何かの遊びなのだろうが、遠目からでも二人が楽しそうにしているのが見て取れる。姉妹に仕える身でもある彼女としては、その事実がただただ喜ばしいばかりであった。
たまにこちらの命が危うくなる程の大喧嘩をしたりもする姉妹だが、基本的には仲がいいのだ。その二人が自分を見つけて何やら大仰な喋り方をしているのには戸惑ったが、何も言えずにいるとそれでも満足した様子の姉が妹の手を引っ張って図書館から去って行った。
見ていて微笑ましい姉妹だった。黙って見守りたくなるような幼さがそこにはあり、同時に敬愛する主達なのだと再認識して彼女は自分の仕事に戻っていく。
「見たまえ、真紅よりも紅いこの薔薇園を! まるで君を求める私達の進むべき道を指し示しているようではないか」
「――……実に壮観である」
大図書館の魔女の言に従って庭園へと出た二人を迎えたのは一面に広がる真っ赤な薔薇園だった。重く巨大な扉を開いた先に咲き誇る彼らを見て自慢げに高らかと告げる姉に対して、それを初めてまともに見た妹はいたく感動しているようだ。
そもそも妹は外に出た経験が無い。閉じ込められているとか単に引きこもりなだけとか諸説あるがそんな事は今ここでは瑣末な議論でしか無い。眼前に映る現実は姉に手を引っ張られて連れて行かれた先がこの庭だった妹のその心境にしか無いのだから。
彼女は姉の声に対して実に控えめな感想を漏らしていた。肌に感じる外の風には雨の匂いが残っていて彼女の七色の翼をはためかせた。しっとりと濡れている空気が胸を溶かし名前を求める彼女の目的を一瞬忘れさせるくらいにはそれは妹に感銘を与えた。
「私達の求める君の名前はこの先にあるのだろうか」
姉が先導するように前に立ち、妹へと背中でそう語る。立派な蝙蝠翼を堂々と広げる姉の背を見つめた妹は返事も忘れてその隣に並んだ。右手を揺らし、その指先は迷い迷った挙句姉のスカートの裾を摘む。
目敏くそれに気付いた姉が妹の顔を見て笑ったかと思うと、彼女の正面に回り込み片膝を付く。当然妹の指先は離れてしまうのだが、その右手が完全に離れる前に捕まえると姉は妹の掌を返す。白く美しい穢れ無き手の甲へと唇を落とした。肩が跳ね上がる程の衝撃が妹を襲う。
「心配しなくてもいい。私が共にいる限り、君が感じるあらゆる恐怖も不安もこの身体が振り払うと約束しよう」
どうやら勘違いをしているらしかった姉の言葉に妹はちょっとだけ不満を感じるものの、口付けられた手の甲をまじまじと見ている内に些細な文句は雪のように溶けて消えていった。変わりに別の感情が湧き上がる。
妹の手を解放した姉は再び正面を向いた。妹がいつでも追い着けるようにいつもよりずっと緩やかにした歩幅で先を歩く。
彼女はその背を眩しそうに見て、右手の甲に自分の唇を触れさせた。
「確かに吾輩は吾輩を現す名前を探している。欲しくて欲しくて仕方が無い物を求めている。けれども吾輩は、一瞬に等しいこの時間を終わらせたくないと思っているのだ」
聞こえないように呟いた言葉は濡れた空気と混ざり合い、姉の耳に届く前に地面へと落ちていく。彼女の呟きを確かに聞き届けた紅い薔薇が慰めるようにその花を揺らし、妹は心優しい彼らを見てその表情を和らげた。
所詮遊びなのだから、深く考える必要は無い。恋しくなったらまた興じればいい、所詮遊びなのだから。そう励まされた気がした。
姉の背に追い着いた妹が言う。
「吾輩の名前は相変わらず霧がかかったように判然としない。けれども吾輩は不安を感じていないのだ。これは何故だろうか」
そうして姉の腕に抱きついた妹はその顔を見上げる。期待する色がその瞳に輝いていた。
「君の疑問に答えよう。それは私が君の傍にいるからだ」
瞳を覗き込むように身を屈めた姉が耳元でそう囁いてやった。途端にきらきらとした翼を揺らして頬擦りしてくる妹の頭を撫でてやり、そろそろこの遊びも終わりかな、と正面を窺う。
門を守る彼女が自分達に背を向けて立っている。彼女と話して部屋に戻ったら妹の質問に答えよう。だんだんと妹が甘え出してきたのを見るに、さっきは少し大袈裟に振る舞い過ぎたかもしれないと反省する。この遊びを長引かせると好きなように振舞えなくて癇癪を起こすかも。
姉は妹をしがみつかせたまま門を潜り、わざわざ門番をしている彼女の前に回ってから口を開いた。
「雨上がりの夜は涼しく、私の身体を軽くさせる。月を見つめる黄昏人よ、彼女の話を聞いて欲しい」
「え? お嬢様?」
普段と全然違う喋り方をする主を前にきょとんとする彼女。その反応を無視して姉妹は自分達の遊びを楽しんでいく。
「吾輩は吸血鬼である。名前はまだ無い。魔女から助言を受け、吾輩の名前を知る可能性を求めてここに来た」
「私の友達はここが私達の向かうべき場所だと言った。黄昏人よ、貴方は彼女を知っているだろうか」
困惑を体言してみせたように狼狽する門番。何となく吸血鬼の姉妹が自分に求めている役割を理解するものの、生憎と無茶振りは苦手な彼女だった。
だがとりあえず、これだけは言っておかなければならないだろう。
「黄昏ているわけじゃなくて、門番をしているんですが」
「そんな事はどうでもいい」
弱々しい反論は姉妹二人に揃って封じられてしまった。やはり何か気の聞いた事でも言わなければいけないのだろうが、そうと気負えば気負う程言葉は見付からない。
おろおろと困り果てる彼女を見た妹が姉に問う。
「吾輩が思うに、ここは違うんじゃないだろうか」
「奇遇とはこういう事を言うのだろう。私もそう思っていた所だよ」
「少々歩き疲れた。貴殿の部屋へと帰りたい」
「相分かった。君の望みは私の望み。外は寒い、一度私の部屋へ戻ろうか」
「……えー」
ほっとしたような、期待に応えられず顔向け出来ないような、彼女は複雑な表情をしてみせた。とりあえず帰ってくれるらしいので、言及はしなかったが。
自分にじゃれつく妹を一度引き離すと、不満げな妹を姉がおもむろに抱きかかえた。
顔を真っ赤にする妹。
「ひ、一人で歩ける」
「歩き疲れたのだろう?」
優雅に笑ってみせる姉の言葉に赤面を濃くしながら、妹は門番の視線を気にする素振りを見せた。一緒になって姉もそちらを見やる。
直ぐに了解した門番が苦笑いを浮かべながら二人に背中を向ける。妹はそれを確認してからおずおずと姉の首に腕を回した。
「私の部屋で良かったのかな?」
当初は自分もそのつもりだったが、あまり見ない妹の様子にもう少しからかいたくなったのか姉が行く先を指定させる。妹はもっと姉に抱かれていたい誘惑に負け、顔を背けながらお願いした。
「湖を見下ろしたい。吾輩の探す答えは湖の水面に揺れているかもしれない」
「相分かった。ちょうど近くに湖がある。しっかりと掴まっておくれ」
無言で身体を姉に預ける妹。姉は自分の身体よりも大きな翼を広げると、空高く舞い上がった。
台風のように気紛れに訪れては気分で去って行く二人を眺め、門番は今夜は眠らないと心に決めた。
月を背負った吸血鬼が夜空を飛ぶ姿を何人かが目撃した。それだけなら珍しい事では無いのだが、その日ばかりは一度見た彼女達の視線を縫いとめる程の魔力がその姿にはあった。
まるで囚われのお姫様を救い出した勇者のような姿。凱旋するは静かな波の音と虫の声。月光に照らされた姉妹が風を切り、湖を通り過ぎて聳え立つ山を超え竹林の上を通れば幾つもの視線が二人を見送った。
初めて見る景色に妹は姉の腕に抱かれている事も忘れてつい見惚れてしまった。自分の住む世界にはたくさんの素敵なもので溢れている。姉に捕まる腕に力が篭った。
足早に幻想郷を回った姉は紅魔館の屋根へと足を下ろす。妹を抱き抱えたまま腰を下ろせば、ちょうど視界には月を映す湖が一望出来た。
どちらともなく口を噤み、暫くの間ありふれた光景に息を吐く。妹は姉の胸に頭を預けて、ぽそりと呟いた。
「吾輩は吸血鬼である。名前はまだ無い。名前を探してここまで来たけれど、吾輩は名前が無くてもいい気がしてきた」
「寂しい事を言わないでくれ。私は私の友達に誓ったのだ、一番最初に君の名前を呼ぼう、と」
姉が妹の額に口付けを落とした。妹が見上げると慈愛に満ちた眼差しが向けられていて何も言えなくなり身悶えてしまう。その表情を姉に見られないように隠して、妹は言葉を続けた。
「名前などあっても無くても変わらない。吾輩には名前など無くても、傍にいたい人がこうして吾輩を抱き締めてくれるのだから」
「しかし君を抱き締める誰かは、君の名前を呼びたいと願っている」
頭を撫でられる感触が心地良く、妹は足をバタつかせて抵抗を続ける。
「吾輩は怖いのだ。ひとたび吾輩の求めるものが見付かってしまえば、吾輩が本当に欲しいものは吾輩から離れてしまう。それが吾輩には堪えようも無く寂しく、辛い」
答えを求めるように妹は姉を盗み見た。
姉は妹の両目を掌で遮ってしまう。そして彼女にこう囁くのだ。
「君が本当に欲しいと願っているものを、君は既に持っている。私には君の名前がついぞ分からなかったが、君が欲しいと思うものを与えられるのが私である事実が素直に嬉しい」
妹は唇に触れる柔らかく暖かいものを感じたが、それが何かを口にする事は無く、またそれ以上の会話を姉妹がする事は無かった。
湖畔には紅い館が建っている。吸血鬼の姉妹の声が夜に溶けて消えていく。
突如紅魔館の主の部屋に乗り込んできた、その妹が何を思ってか姉の目を真っ直ぐ見据えながらそんな事を口走った。姉は目を白黒させて、妹の精神状態に不安を覚える自分を振り払うかのように彼女の名前を呼ぼうとした。
「何言ってるの、フラ――」
「吾輩は吸血鬼である! 名前はまだ無い!」
しかし力強く遮られる。
おや、と首を傾げて姉はもう一度彼女の名前を呼ぼうとした。
「フ」
「名前はまだ、無い!」
詰め寄られながら屹然と忠告され、ようやく姉が頷いた。椅子に座っていた彼女を上から見下ろす形で威圧されてしまうと、それが実の妹なだけにちょっと怖く感じてしまう。
しかし、なるほど。そういう遊びか。
そうと了解して、ではどうやってそれに付き合うかを考える。妹が口にしているフレーズは文学に疎い彼女でさえ聞いた事のある有名な作品のものだ。その作品に沿って話を合わせてやれば喜ぶかもしれないが、生憎とそんな知識は持ち合わせていない。
さて困った。がっかりするかもしれないが、思ったままの質問をするしか無い。姉は一つ咳払いをして、妹を見上げる。
「相分かった。では君は、何と呼ばれたいのだね?」
口調も変えてみた。ひょっとすると姉は、妹の使う吾輩という一人称にまで合わせてやるつもりなのかもしれない。
問われた妹の方は予想していた質問と違ったのか少しだけ眉を顰めるも、直ぐに両手を組んでうんうんと唸り出す。そしてこうと続けた。
「吾輩にはそれが分からない。吾輩には確かに呼ばれたい名前があるのだが、どうしてもそれが何であるのか、その形すら見えてこないのだ」
矛盾しているようにも聞こえる台詞から、姉は妹が自分に求めている物を探っていく。
名前はまだ無いらしい。しかし既に呼ばれたい名前があるという。だが、その呼ばれたい名前がどんなものであるか彼女は皆目見当が付いていないようだ。
姉は足を組んで考えた。ふぅむ、さっぱり分からない。
かといってここで流れを止めるつもりは毛程も無い。なかなかどうして、楽しい遊びじゃないか。
彼女は足組を解いて凛と立つ。質問に対する解答の答え方が一つでは無い事をこの姉は知っていた。
「どうやら今の君に必要なのは、自分が何を見て何を思い、何を聞いて何を考えるか、その気持ちの在り様を知る事のようだ」
姉が選んだ答え方は、「模範解答を示す」のではなく、「答えの導き方を示す」事だった。これなら姉が答えられなくても、この問答の解釈を広げてまだまだ遊べるというもの。
立ち上がった姉はそのまま妹の隣を過ぎ去り、一歩進んだ所で振り返る。手を差し伸ばして、姉は犬歯を剥き出しにして愉快そうに笑った。
「君を探す旅に、どうかこの私を連れて行って欲しい」
一瞬呆けたようにその姿を見つめていた名無しの妹は暫くすると我に返り、金髪のサイドテールで表情を隠しながら姉に応じた。
「吾輩からも頼みたいと思う。貴殿が助けてくれるのであれば、見渡す限り野原のここに道を築く事も容易いだろう」
「相分かった。私は君の願いを聞き届け、可憐な花畑への道を切り開く剣となろう」
姉の手を妹の手が取った。二人は互いに照れたように笑い合いながら、姉の部屋を去り階下へと向かった。
その日は一日大雨が続いて洗濯物が干せなかった。従者は困り果てた顔で溜まった洗濯物を眺めていたが、やがて踵を返すと洗濯室から出て行き、その扉をそっと閉める。
吸血鬼に仕える彼女は時に太陽が恋しくなる。往々にしてそれは外に出れないお嬢様の暇潰しが面倒だったり今みたいに洗濯物が乾かない悩みを抱えたり人里に買出しへ行くその日の気分がたまたまそうだった時限定なのだが、理由が何であれ吸血鬼に仕える従者の数少ない悩みとも言えた。
明日になったらこの室内は生乾きの匂いで満たされているのだろう。
さて明日の洗濯当番はどの妖精だったかしら、と勤務体制を思い出して歩く内に、正面から非常に珍しい物が接近している事に気付いた。
それは仲睦まじい吸血鬼の姉妹である。二人で並んで歩いている光景だけでも一年にあるか無いかという希少な物なのに、何と手を繋いで歩いているのだ。しかもよくよく見れば、二人ともほんのり頬を染めているようで実に初々しく可愛らしい。数十年に一度、いや百年に一度あれば奇蹟の御業。この日この時この瞬間を、彼女は決して忘れる事無いだろう。
歩く内に二人も従者に気付いたのか、どちらともなく自然に手を離してほんの少し距離を開けてしまう。互いが意識し合う事で生まれる乙女の恥じらいとは何故かくも美しいものか。姉が少し視線を逸らして歩けば、その横顔を盗み見る妹の熱い眼差しの事よ。
兄たり難く弟たり難し。従者に見られたかもしれないと何でもない風を装う姉の気丈の高さも、他人の視線などお構いなしに姉へ敬慕の想いを送る妹の天衣無縫さも、いずれも素晴らしく胸の奥を熱く焦がす愛らしさを備えているのだ。
二人はただ普通に歩いているだけだった。それでも彼女はその何でもない姿を見るだけで胸を高鳴らせ、従者としての忠節を永遠を以って尽くそうと深く心に刻み込む。
頭を下げる従者の両脇を姉妹がそれぞれ通過していく。彼女は声もかけずに過ぎ去りいく二人の後姿を見つめ、言葉では言い表せない感情を、己の知っている花を思い浮かべる事でその代替とした。
姉の姿勢は芍薬を彷彿とさせ、その隣を歩む妹の密かなる想いを牡丹に夢想し、まるで寄り添うかのように離れた距離が徐々に縮まっていく様に百合の姿を重ねた。
二人の姿が見えなくなった頃、ようやく自分の仕事を思い出した従者は一度閉めた扉を開け放つ。
紅魔館から集められた大量の洗濯物を前にして、やはり心が折れそうになった彼女は扉を開けたままアイロンを取りにその場を後にした。
紅魔館の地下に広がる大図書館を、本の森と例える人は少なくない。同時に、これほど堅牢に舗装された洞窟は見た事が無い、とも評されるようになった。
自分の家の敷地内とはいえ、その全容までは把握していない姉が友の姿を探して本棚の間を抜けていく。その後ろを、並ぶ本の数々に目移りしながらも妹が着いて行く。
紅の色が目に付くこの館にあって、静謐とした大図書館だけは異質な空気を放っていた。本来ならそれこそが正常な感覚である筈なのに、長い間紅色だけを愛でてきた姉にはここが異様に見えて仕方なかった。
姉は気付いていなかったが、二人の距離は少しずつ離れていた。目的の者を探して進む姉と、探す事自体が目的になっている妹との差が如実に現れる。本に夢中になっていた妹は途中でそれに気付いて慌てて姉を追った。
二人が並んで歩き始めた時、最初にその変化を感じたのは妹だった。少しずつだが、確かに明るくなってきている。光が強くなっているのだ。あと数歩も歩けば目的の魔女に会える。
果たして妹の感覚は違える事無く目的の者を見付け、駆け寄る姉の後を翼を揺らして追いかけさせた。
「やあ、私の友達よ」
本を読んでいた魔女がぴくり、と肩を振るわせた。
「私の友達?」
今までに無い親友の呼び方に戸惑いと疑問符を載せて彼女が二人を見た。その視線を受けた姉が胸を張り、妹はそんな姉の少し後ろから魔女を見ていた。
姉が妹に向かって、魔女を紹介する。
「彼女は私の友達だよ。きっと自分を知ろうとする君の心強い助けとなってくれるだろう」
「レミィ? 頭大丈夫? 咲夜に何か変なものでも盛られたの?」
ごっこ遊びを続ける吸血鬼の姉に反して、何も知らない魔女は当然のように冷たい視線を返した。
厄介事の匂いを感じ取り、どう追い返そうかと考える魔女だったが、そんな彼女の思考は妹の言葉によって方向を変えられる事になる。
「吾輩は吸血鬼である。名前はまだ無い。吾輩は吾輩を知る為に彼女の案内でここに来た」
その言葉が何を意味するのか直ぐに悟った魔女は一度妹を見、そして姉を見てから再び妹を見た。表情に乏しい彼女が笑う。その変化だけで姉は自分の企みが成功したのだと内心悦に入り、今か今かと彼女の台詞を待っていた。
「おお、残念ながら矮小たるこの身では、高貴なる貴方様の名前をお告げする事叶いません。私は貴方様の名前を知る者、しかしその名を口にする事は許されざる者なのです」
「私の友達よ、彼女はこんなにも自分を知る事を欲しているのだ。謎を紐解くその欠片だけでも頂けないだろうか」
長年連れ添った親友とはそんなものなのだろうか。姉と魔女の息の合った会話は妹から見ると、まるでこの二人はこうなる事を最初から知っていたのではないかと想像してしまう程滑らかだ。
付け加え、妹は魔女の言葉に深く驚いたようだ。目を見張りどこか感嘆とさえしているのは、今の魔女の姿が普段妹の知るその人物像とかけ離れていたからだろう。
対する姉の方は慣れたもので、次々と後付けされていく設定にも難なく対応し言葉を紡ぎ出している。
それを見た妹は静かな嫉妬の火を燃やすのだが、それは自分へと向けられた魔女の言葉によって沈静されてしまう事になった。
「ああ、矮小なる私と友達になってくれた貴方よ。それすらも私には許されていないのです。なぜなら自らを求めている彼女が探す答えは、他ならぬ貴方が持っているのですから」
吸血鬼の妹はほとほと感心した。魔女の頭の何と回る事なのだろう。そう、まさしくその通り、妹が求める答えは彼女の姉が携えているのだ。
気を遣ってくれたのだろう魔女に返礼するべく、妹は一歩前に出ると恭しく彼女に頭を下げた。
「彼女の友達よ、吾輩を知る名も無き賢しき賢者よ。貴殿の言葉は吾輩の胸に心地良い澄んだ鐘の音を鳴らしてくれた。これを持って吾輩は次なる可能性を彼女と求めようと思う」
「ええ、ええ。貴方様の御心のままに。いずれは高貴なる器が目覚めを果たし、貴方様が知らずともその名を知る者が答えを授けて下さるでしょう」
どうにも自分を置いて通じ合っているらしい二人の会話を聞きながら、姉は必死にその答えが何なのか考えていた。私が持っている、とは一体いかなる意味なのか。考えてみても浮かぶのはどれも微妙な答えばかりで、妹の望む答えを本当に自分が言えるのか不安にさえ思ってしまう。
ただ。
こうして妹と魔女が楽しそうにお喋りしている姿を見れたのは姉として、友として純粋に喜ばしい事であり、この二人の為に少しばかり妹にがっかりされる結果になったとしてもお釣がくると感じてしまうくらいにはこの遊びに満足出来そうだった。
「ああ、高貴なる貴方様よ。見つめるべきは足元では無く、頭上であるとだけ伝える事をお許し下さい。どうか貴方様の探す答えを、私の友人が見付けてくれますように。私はただここで祈るばかりです」
「約束しよう、私の友達よ。私が必ず彼女の求める答えを手に入れ、そしてその名でいの一番に彼女を呼ぶのだと」
三人は少しばかりの雑談を交わし、吸血鬼の姉妹は魔女に伝えられた方向へと踏み出した。
いつの間にか大雨は止んでいて、外はすっかり夜の帳が落ち着いていた。
司書として大図書館で過ごす彼女は気紛れに視線を向けた窓の向こうに晴れた月空を見つけ、その妖しさに暫し時を忘れ仕事を中断していた。
地下から無理矢理作った地上を覗ける窓は分厚く、往来の使用目的である換気といった事が出来ないのが残念だった。
彼女は一日振り続けた雨の上がった外を見つめ続け、今日というこの日がいかなる幕引きを下ろすのか想像に胸を馳せる。それは到底計り知れない事なのだが、だからこそ想う価値があるのだと彼女は思っていた。
大図書館の司書は不意に話し声を耳にする。この地下図書館にあって、人の話し声ほど珍しい物は無い。一体誰なんだろう。ちょっとした好奇心に突き動かされて向かった先にいたのは、吸血鬼の姉妹だった。
どちらも自分より圧倒的に力に秀で、長生きしているというのにその容姿は極端に幼い。見れば見るほど子供らしい姿見に心を和ませて、束の間の安息に頬を緩めた。
言い争っているというより、二人で謎解きでもしているかのような口論が耳に届くのだ。きっと何かの遊びなのだろうが、遠目からでも二人が楽しそうにしているのが見て取れる。姉妹に仕える身でもある彼女としては、その事実がただただ喜ばしいばかりであった。
たまにこちらの命が危うくなる程の大喧嘩をしたりもする姉妹だが、基本的には仲がいいのだ。その二人が自分を見つけて何やら大仰な喋り方をしているのには戸惑ったが、何も言えずにいるとそれでも満足した様子の姉が妹の手を引っ張って図書館から去って行った。
見ていて微笑ましい姉妹だった。黙って見守りたくなるような幼さがそこにはあり、同時に敬愛する主達なのだと再認識して彼女は自分の仕事に戻っていく。
「見たまえ、真紅よりも紅いこの薔薇園を! まるで君を求める私達の進むべき道を指し示しているようではないか」
「――……実に壮観である」
大図書館の魔女の言に従って庭園へと出た二人を迎えたのは一面に広がる真っ赤な薔薇園だった。重く巨大な扉を開いた先に咲き誇る彼らを見て自慢げに高らかと告げる姉に対して、それを初めてまともに見た妹はいたく感動しているようだ。
そもそも妹は外に出た経験が無い。閉じ込められているとか単に引きこもりなだけとか諸説あるがそんな事は今ここでは瑣末な議論でしか無い。眼前に映る現実は姉に手を引っ張られて連れて行かれた先がこの庭だった妹のその心境にしか無いのだから。
彼女は姉の声に対して実に控えめな感想を漏らしていた。肌に感じる外の風には雨の匂いが残っていて彼女の七色の翼をはためかせた。しっとりと濡れている空気が胸を溶かし名前を求める彼女の目的を一瞬忘れさせるくらいにはそれは妹に感銘を与えた。
「私達の求める君の名前はこの先にあるのだろうか」
姉が先導するように前に立ち、妹へと背中でそう語る。立派な蝙蝠翼を堂々と広げる姉の背を見つめた妹は返事も忘れてその隣に並んだ。右手を揺らし、その指先は迷い迷った挙句姉のスカートの裾を摘む。
目敏くそれに気付いた姉が妹の顔を見て笑ったかと思うと、彼女の正面に回り込み片膝を付く。当然妹の指先は離れてしまうのだが、その右手が完全に離れる前に捕まえると姉は妹の掌を返す。白く美しい穢れ無き手の甲へと唇を落とした。肩が跳ね上がる程の衝撃が妹を襲う。
「心配しなくてもいい。私が共にいる限り、君が感じるあらゆる恐怖も不安もこの身体が振り払うと約束しよう」
どうやら勘違いをしているらしかった姉の言葉に妹はちょっとだけ不満を感じるものの、口付けられた手の甲をまじまじと見ている内に些細な文句は雪のように溶けて消えていった。変わりに別の感情が湧き上がる。
妹の手を解放した姉は再び正面を向いた。妹がいつでも追い着けるようにいつもよりずっと緩やかにした歩幅で先を歩く。
彼女はその背を眩しそうに見て、右手の甲に自分の唇を触れさせた。
「確かに吾輩は吾輩を現す名前を探している。欲しくて欲しくて仕方が無い物を求めている。けれども吾輩は、一瞬に等しいこの時間を終わらせたくないと思っているのだ」
聞こえないように呟いた言葉は濡れた空気と混ざり合い、姉の耳に届く前に地面へと落ちていく。彼女の呟きを確かに聞き届けた紅い薔薇が慰めるようにその花を揺らし、妹は心優しい彼らを見てその表情を和らげた。
所詮遊びなのだから、深く考える必要は無い。恋しくなったらまた興じればいい、所詮遊びなのだから。そう励まされた気がした。
姉の背に追い着いた妹が言う。
「吾輩の名前は相変わらず霧がかかったように判然としない。けれども吾輩は不安を感じていないのだ。これは何故だろうか」
そうして姉の腕に抱きついた妹はその顔を見上げる。期待する色がその瞳に輝いていた。
「君の疑問に答えよう。それは私が君の傍にいるからだ」
瞳を覗き込むように身を屈めた姉が耳元でそう囁いてやった。途端にきらきらとした翼を揺らして頬擦りしてくる妹の頭を撫でてやり、そろそろこの遊びも終わりかな、と正面を窺う。
門を守る彼女が自分達に背を向けて立っている。彼女と話して部屋に戻ったら妹の質問に答えよう。だんだんと妹が甘え出してきたのを見るに、さっきは少し大袈裟に振る舞い過ぎたかもしれないと反省する。この遊びを長引かせると好きなように振舞えなくて癇癪を起こすかも。
姉は妹をしがみつかせたまま門を潜り、わざわざ門番をしている彼女の前に回ってから口を開いた。
「雨上がりの夜は涼しく、私の身体を軽くさせる。月を見つめる黄昏人よ、彼女の話を聞いて欲しい」
「え? お嬢様?」
普段と全然違う喋り方をする主を前にきょとんとする彼女。その反応を無視して姉妹は自分達の遊びを楽しんでいく。
「吾輩は吸血鬼である。名前はまだ無い。魔女から助言を受け、吾輩の名前を知る可能性を求めてここに来た」
「私の友達はここが私達の向かうべき場所だと言った。黄昏人よ、貴方は彼女を知っているだろうか」
困惑を体言してみせたように狼狽する門番。何となく吸血鬼の姉妹が自分に求めている役割を理解するものの、生憎と無茶振りは苦手な彼女だった。
だがとりあえず、これだけは言っておかなければならないだろう。
「黄昏ているわけじゃなくて、門番をしているんですが」
「そんな事はどうでもいい」
弱々しい反論は姉妹二人に揃って封じられてしまった。やはり何か気の聞いた事でも言わなければいけないのだろうが、そうと気負えば気負う程言葉は見付からない。
おろおろと困り果てる彼女を見た妹が姉に問う。
「吾輩が思うに、ここは違うんじゃないだろうか」
「奇遇とはこういう事を言うのだろう。私もそう思っていた所だよ」
「少々歩き疲れた。貴殿の部屋へと帰りたい」
「相分かった。君の望みは私の望み。外は寒い、一度私の部屋へ戻ろうか」
「……えー」
ほっとしたような、期待に応えられず顔向け出来ないような、彼女は複雑な表情をしてみせた。とりあえず帰ってくれるらしいので、言及はしなかったが。
自分にじゃれつく妹を一度引き離すと、不満げな妹を姉がおもむろに抱きかかえた。
顔を真っ赤にする妹。
「ひ、一人で歩ける」
「歩き疲れたのだろう?」
優雅に笑ってみせる姉の言葉に赤面を濃くしながら、妹は門番の視線を気にする素振りを見せた。一緒になって姉もそちらを見やる。
直ぐに了解した門番が苦笑いを浮かべながら二人に背中を向ける。妹はそれを確認してからおずおずと姉の首に腕を回した。
「私の部屋で良かったのかな?」
当初は自分もそのつもりだったが、あまり見ない妹の様子にもう少しからかいたくなったのか姉が行く先を指定させる。妹はもっと姉に抱かれていたい誘惑に負け、顔を背けながらお願いした。
「湖を見下ろしたい。吾輩の探す答えは湖の水面に揺れているかもしれない」
「相分かった。ちょうど近くに湖がある。しっかりと掴まっておくれ」
無言で身体を姉に預ける妹。姉は自分の身体よりも大きな翼を広げると、空高く舞い上がった。
台風のように気紛れに訪れては気分で去って行く二人を眺め、門番は今夜は眠らないと心に決めた。
月を背負った吸血鬼が夜空を飛ぶ姿を何人かが目撃した。それだけなら珍しい事では無いのだが、その日ばかりは一度見た彼女達の視線を縫いとめる程の魔力がその姿にはあった。
まるで囚われのお姫様を救い出した勇者のような姿。凱旋するは静かな波の音と虫の声。月光に照らされた姉妹が風を切り、湖を通り過ぎて聳え立つ山を超え竹林の上を通れば幾つもの視線が二人を見送った。
初めて見る景色に妹は姉の腕に抱かれている事も忘れてつい見惚れてしまった。自分の住む世界にはたくさんの素敵なもので溢れている。姉に捕まる腕に力が篭った。
足早に幻想郷を回った姉は紅魔館の屋根へと足を下ろす。妹を抱き抱えたまま腰を下ろせば、ちょうど視界には月を映す湖が一望出来た。
どちらともなく口を噤み、暫くの間ありふれた光景に息を吐く。妹は姉の胸に頭を預けて、ぽそりと呟いた。
「吾輩は吸血鬼である。名前はまだ無い。名前を探してここまで来たけれど、吾輩は名前が無くてもいい気がしてきた」
「寂しい事を言わないでくれ。私は私の友達に誓ったのだ、一番最初に君の名前を呼ぼう、と」
姉が妹の額に口付けを落とした。妹が見上げると慈愛に満ちた眼差しが向けられていて何も言えなくなり身悶えてしまう。その表情を姉に見られないように隠して、妹は言葉を続けた。
「名前などあっても無くても変わらない。吾輩には名前など無くても、傍にいたい人がこうして吾輩を抱き締めてくれるのだから」
「しかし君を抱き締める誰かは、君の名前を呼びたいと願っている」
頭を撫でられる感触が心地良く、妹は足をバタつかせて抵抗を続ける。
「吾輩は怖いのだ。ひとたび吾輩の求めるものが見付かってしまえば、吾輩が本当に欲しいものは吾輩から離れてしまう。それが吾輩には堪えようも無く寂しく、辛い」
答えを求めるように妹は姉を盗み見た。
姉は妹の両目を掌で遮ってしまう。そして彼女にこう囁くのだ。
「君が本当に欲しいと願っているものを、君は既に持っている。私には君の名前がついぞ分からなかったが、君が欲しいと思うものを与えられるのが私である事実が素直に嬉しい」
妹は唇に触れる柔らかく暖かいものを感じたが、それが何かを口にする事は無く、またそれ以上の会話を姉妹がする事は無かった。
湖畔には紅い館が建っている。吸血鬼の姉妹の声が夜に溶けて消えていく。
フランが可愛くてたまりませんでした。
エスコートするレミリアもカリスマたっぷりでかっこよかったです。
仲が良くて嬉しい限りです。
じゃあ一体このレベルの高さはどうしたことか。
聞こえないように呟いた言葉は濡れた空気と混ざり合い、姉の耳に届く前に地面へと落ちていく。
ここと、パッチェさんとの掛け合いが凄く好み。
っ全集
あ、自分は乙女オーラ全開の姉妹が可愛かったと思う。
超可愛い話だった。
どのくらい可愛いかと言うと全文に渡りませ藤田和日郎絵のヒロインで脳内再生されたレベルで可愛い。
あとこの姉妹可愛すぎです。
私もその名前に重なりたい!
そしてその人に私の名を見出して欲しい…
乙女ココロとは難解である。
>往来の使用目的である換気
「往来」でも意味は通りますけど少しちぐはぐを覚えたので… 「本来」とか?
ご指摘ありがとうございます。
ただ私としましては一度投稿したSSに手を加えるのは抵抗がありますので、この作品上ではこのままにさせて頂きます。
次からSSを書く時の参考にさせて頂きますので、ご理解して頂けると幸いです。
レミリアイケメンですなぁ。
他の皆もそれぞれ「らしい」感じでした。素敵。