夜の幻想郷。
人里の商店はもう全て閉まっている頃だが、人里の外、魔法の森の入り口にある香霖堂の窓にはまだ明かりが灯っていた。
人間だけでなく、妖怪に対しても開かれているこの店は、人間の一日の活動が終わった少し後、妖怪の時間になってもまだ営業している。
尤も四六時中開いているというわけではなく、閉店時間が迫っていた。
店内では、店主である森近霖之助が一人、カウンターで本を読んでいる。
ふと霖之助が時間を気にして窓を見ると、くっきりと自分の顔が映っているのが見えた。
夜の窓は、まるで鏡のようにあらゆる物を鮮明に映す。これは、夜の闇が明るい室内の生気を拒絶し、拒絶された生気が窓に映ることによって起こるのだと霖之助は考える。
闇と光、陰と陽の境界となった窓は、魂を映し出す鏡の力を得るのだ。
─カランカラン
香霖堂のドアが開き、カウベルが鳴った。
ここは仮にも店であるので、店主である霖之助は手元に開かれている本を閉じて接客に備えるべきである。
しかし彼はそうはしなかった。
残念な事に、この時点では訪れたのが客かどうかわからないからだ。
「いらっしゃい」
もし客でなければ挨拶をする必要は無いのだが、本から目を上げて確認するのが億劫な霖之助は、ドアの方を見ずに、来客の可能性に対して挨拶をした。
「いらっしゃったわよ。実に素晴らしい接客態度ね。」
ストレートな皮肉と共に入って来たのは、香霖堂のお得意先である紅魔館の当主、レミリア・スカーレットだった。
彼女は大抵の場合メイドの十六夜咲夜を連れているが、今は一人のようだ。
霖之助は名残惜しそうに本を閉じ、これに応じる。
「これは失礼した。今日は一人かい?珍しいね。」
全く失礼だと思っていない霖之助の態度に、特に気を悪くすることも無くレミリアは答える。
「ええ。夜だし。」
夜だし、という返答に霖之助は少し疑問を持った。
レミリアは吸血鬼であり、咲夜は人間である。であるから、夜にレミリアが活動し、咲夜が例えば紅魔館で寝ているとしても本来疑問を持つべき点は無い。
しかし霖之助は、あの完璧なメイドである咲夜が、どこかそういった人間のサイクルから外れたような存在である気がしていた。
あるいは単に、気持ちのいい夜だから一人で出歩きたくなっただけということかもしれない。
目の前の吸血鬼は実に気まぐれな性格をしているのだ。
霖之助がそんなことを考えてレミリアを見ていると、レミリアはさらに言った。
「何?私の顔に何か付いてるかしら?」
思わぬ疑問をぶつけられ、霖之助は慌てて否定する。
「いや、そんなことは無いが…」
「でしょうね。でもさっきまでは付いてたわ。」
「ん?」
さっきまで顔に何か付いていたから何だというのだろうか。霖之助はレミリアの発言の意図を図りかねた。
「そう、さっきまでは付いてたのよ。ここの辺りに夕食のソースか何かが。」
そう言ってレミリアは自分の頬を指差す。
「私は窓に映った自分の顔を見てそれに気づいたの。でも吸血鬼って鏡に映らないじゃない?どうして窓には映るのかしら。」
「まさかそれを僕に聞くためにここまで来たのか?」
霖之助は呆れたように聞く。気まぐれなレミリアの事だ、有り得ない話ではない。
「そんなわけ無いでしょ。『吸血鬼が映る鏡を作ってほしい』っていう仕事の依頼よ。夜の窓でしか自分の顔が見れないなんて不便だからね。」
霖之助の早合点に対して、レミリアの方も呆れたように返す。
互いに呆れ顔を晒しているわけだが、特に雰囲気が険悪なものにならないのは二人が人間の常識を超える程に長く生きている事と無関係ではないかも知れない。
「なるほど、そういう事か。」
霖之助は納得したように言った。
そうは言っても気まぐれには違いないだろう。
レミリアは、ほんの少し前に紅魔館で窓を見て、この依頼を思いついて香霖堂に来たのだ。
本当に不便なら、吸血鬼として500年以上生きてきたレミリアが、その問題を今の今まで放置するはずが無い。
きっと、鏡が無くとも身だしなみは咲夜が整えてくれるのだろう。と、霖之助は再び、ここには居ない咲夜の顔を思い浮かべる。
「ふむ…吸血鬼が映る鏡を作るというのは難しいことではない。まずは先ほどの疑問に答えるとしようか。」
その前にお茶を入れてくるよ、と言って霖之助は店の奥に姿を消した。
一人店内に残されたレミリアは手近な椅子に座り、窓の方を見る。
紅魔館の窓より遥かに小さく安っぽい窓には、やはり自分の顔がくっきりと映っていた。
しばらくすると、霖之助は盆に二つの湯呑みを載せて戻ってきた。
レミリアは、霖之助が自分に気を使って紅茶を淹れて来るかもしれないと少し考えていたが、予想に反して湯呑みの中身は緑茶だった。
紅茶の方が好みではあるが、仮に霖之助が紅茶を淹れてきたところで、それが咲夜が淹れるものより不味いことは間違いないので、レミリアとしても特に構わない。
もしかすると、霖之助はそれがわかっていて緑茶を淹れたのかもしれない。
いずれにせよどうでもいい事だ。レミリアと霖之助はカウンターを挟んで向かい合った。
「何故吸血鬼は窓に映るのかということだったね…いや、何故吸血鬼が鏡に映らないかと言った方がいいか。」
「まあ、そうよね。」
先ほどレミリアは「どうして窓には映るのか」と聞いたが、別に窓に映るのは当たり前なので、主題は当然そちらになるだろう。
「君も吸血鬼として長年生きてきていると思うが、今までその理由を聞いたことは無いのかい?」
話好きの霖之助は、すぐに結論を話す気は無いようだ。
レミリアの方も暇潰しに来たようなものなので、喜んでその話に乗ることにする。
「そうね、鏡は魂を映し出す物だから魂の無い吸血鬼は鏡に映らない…なんて話を聞いたことはあるけど。でもただの死体なら鏡に映るし、いまいち納得いかないわ。」
「それは外の世界で吸血鬼の存在が信じられていた時代に、人間の間で広まっていた説だね。その説もある意味では間違いではない。確かに鏡は魂を映し出す道具だ。しかし、ここで魂というものに対する解釈が問題になる。魂という言葉は一般に生者に宿る自我の事を指すが、鏡が映す魂というのはその限りではない。この場合の魂とは、この世の全ての物質が持つエネルギーの事なんだ。だから鏡はこの世のあらゆる物質を映すことができる。それが魂を持たない死者であったとしてもだ。」
霖之助はここまで一息に話すと、一度話を止めてお茶を口にした。
既に香霖堂の閉店時間は過ぎているが、霖之助は特に気にしていない。
貴重な商売のチャンスだ。むしろ有難い。
どの道用事など無いし、営業時間外の、店の明かりが灯っていない時に上がりこんでくる非常識な客もいるのだ。来たときにはまだ営業時間内だっただけ常識的と言える。
尤も、目の前にいるレミリアの従者である咲夜が、その非常識な客の一人であるのだが。
「それでそれで?」
レミリアが続きを促した。
話している相手が魔理沙あたりであれば、「その魂の話が吸血鬼と何の関係があるんだ?」等と茶々を入れてくる頃合だが、吸血鬼本人のレミリアは興味津々のようだ。
そんなレミリアの知的好奇心に応じて、霖之助は話を再開する。
「つまり、窓にしろ水面にしろ魂を映していることには変わりない。鏡という道具だけが吸血鬼だけを映すことができないんだ。それには鏡の材質が関係しているんだが…鏡が何で出来ているか知っているかい?」
霖之助の問いかけに対して、レミリアは真面目な顔をして考える。
飽きっぽい性格でもあるレミリアだが、飽きていない間は模範的な聴講生になれるようだ。
「何って…ガラスじゃないの。まあ、ただのガラスじゃ鏡にならないから加工してあるんでしょうけど…材質って言うからには何か裏に塗ってあるのかしら?」
霖之助は満足気に頷く。レミリアは知識としては知らなかったようだが、中々に察しの良い回答だ。
「鋭いね。その何が塗ってあるかという事だが、幻想郷に存在するほとんどの鏡には銀が塗ってある。」
「銀が…なるほどねえ。」
レミリアは合点がいったように言った。
「もうわかっただろう?」
「ええ。つまり鏡には吸血鬼の弱点である銀が使われているから吸血鬼が映らないのね。」
「その通り。吸血鬼の魂は銀の持つ魔を滅する力によって鏡面に映し出されること無く消えてしまうんだ。だから吸血鬼は鏡に映らない。」
レミリアと霖之助が結論を述べた。ここに辿りつくまでに大分遠回りしており、夜も深まっているが、二人は特に気にしていない。
話が一段落したところで、霖之助は再びお茶を口にした。既に冷めているが、話した後の口にはその方が心地良い。
それを見て、まだ湯呑みに手をつけていなかったレミリアも同じように軽くお茶を啜った。滅多に飲まないとはいえ緑茶が嫌いというわけではない。
茶というのは植物の血だ。だから吸血鬼は紅茶を飲む。
「さて、次は吸血鬼が映る鏡だったね。これは簡単だ。鏡に銀が使われているから吸血鬼が映らないのなら、銀以外の金属を使って鏡を作れば良い。」
「そうでしょうね。でもそれが出来るならどうしてわざわざほとんどの鏡に銀を使うのかしら?銀って高いらしいじゃない。」
レミリアは当然の疑問を口にした。またも結論に辿りつくには少し遠回りになるが、それに答えるのも良いだろうと霖之助は考える。
しかし、「高いらしい」という辺りがレミリアらしい。貴金属の類などは紅魔館ではありふれていて、その価値をあまり知らないのだろう。
「ふむ…それも単純な話でね、銀を使った鏡は作るのが比較的容易なんだ。そもそもガラスに金属を定着させるというのはなかなか難しい。だが銀だけは化学反応を利用して簡単に銀を薄く広くガラスに定着させる方法が発見されている。それは銀鏡反応と呼ばれるものなんだが…」
ここで霖之助はレミリアの顔色を伺う。それを見たレミリアは霖之助の意図を正しく察して口を開く。
「ああ、その銀鏡反応の説明はいらないよ。要は銀の鏡は作りやすいってことね。よくわかったわ。」
「そういうことだ。それで、銀を使わない鏡だが…実は作るまでも無くこの店にはいくつかあるんだ。外の世界では銀以外の金属をガラスに定着させる技術も確立されているらしい。」
そう言うと霖之助は立ち上がり、商品棚から手鏡を一つ取り出してレミリアに差し出した。
「これなんかがそうだ。銀の代わりにアルミニウムが使われている。」
レミリアは手鏡を受け取り、鏡面を覗き込む。そこにはレミリアの顔がはっきりと映っていた。
「あら…本当に私が映ってる。凄いじゃない。」
その言い分だと最初は期待していなかったようにも聞こえるが、そう言われると霖之助も悪い気はしない。
これは外の世界の鏡なので凄いのは霖之助では無いが。
「でも何だか安っぽいわねえ。他のやつ無いの?」
レミリアが指摘した通り、霖之助が取り出した手鏡には何の装飾も施されておらず、丸い鏡から模様の無い取っ手が真っ直ぐ伸びているだけの物だった。レミリアでなくとも安っぽいと形容するに足る代物である。
「銀を使っていない鏡はどれもそんなものだよ。当たり前だが外の世界で銀を使わずに鏡を作っているのは、吸血鬼を映すためではない。単に貴金属である銀を使わないことで、コストを下げるためだ。当然、銀を使わない鏡はそれ以外の部分にもコストをかけないようにして作られる。その手鏡のガラス部分も、ガラスではなくより安価なアクリルと呼ばれる物質が使われているよ。」
霖之助の言葉を受けて、レミリアは試しに手鏡の鏡の部分を軽く小突く。
ガラス特有のキンキンという高い音は鳴らず、コンコンというなんとも鈍い音が鳴った。
「うーん…安っぽいねえ。そういえば『吸血鬼が映る鏡を作るのは難しいことではない』って言ってたわよね。だったらあなたがもっと立派な鏡を作ればいいじゃない。」
「それも良いが…しかしその手鏡には蒸着という技術が使われていてね、今の幻想郷では実現不可能なんだ。だから別の方法を取ることになる。」
「その方法って?」
「皺の無い薄い金属箔をガラスに貼り付け、薬品に漬けて数ヶ月かけて定着させる。とても手間のかかる作業だから値段もそれなりになるが…」
レミリアが香霖堂に訪れてから既に数刻が経過していたが、ようやく商売の話が出てきた。
霖之助は、レミリアが鏡の話をしてきた時に商売のチャンスを感じ取り、こうして高価な鏡を作って売る事を思いついていたのだ。
しかし、その意図に気づいたレミリアは驚いたように目を丸くし、蝙蝠の羽をぴんと伸ばしていた。少なくとも吸血鬼が映る手鏡を見せられた時より驚いている。
(しまった!少し商売の話を出すのが露骨過ぎたか?しかしこちらも商売だしそういうのはレミリアもわかってくれると思ったが…いやしかしそれまで世間話のようなものだったのがいきなり金の話となれば不快に感じるのも仕方ないか…?)
予想外のレミリアの反応に霖之助は思わず不安になるが、次にレミリアの口から出た言葉はさらに霖之助の予想とは外れるものだった。
「…あなたって、そんなに商売する気あったのねえ…驚いたわ。」
結局、レミリアは霖之助にいくつかの鏡の製作を依頼して帰っていった。手鏡、鏡台、姿見…全て二セットずつの注文だったのは紅魔館に篭っているという彼女の妹にプレゼントするのだろう。
それだけの鏡の製作ともなればかなりの額になるが、霖之助が初めに提示した金額が交渉されることなくそのまま採用された。それどころか次の瞬間には咲夜がその場に現れ、全額前払いで支払っていった。咲夜はそれまでその場におらず話も聞いていなかったはずだが、そんなことは考えても仕方が無い事を霖之助はよく知っている。
気がつけば朝になっていた。遅すぎる床につきながら霖之助は考える。彼は吸血鬼を鏡に映してみたことがあったわけではない。レミリアから吸血鬼は鏡には映らないが窓には映るという話を聞いたとき、鏡と銀、銀と吸血鬼の関係性に気づいたのだ。
霖之助が眠りについた時、既に幻想郷には日が昇り、境界の魔力を失った窓は鏡の力を失っていた。
人里の商店はもう全て閉まっている頃だが、人里の外、魔法の森の入り口にある香霖堂の窓にはまだ明かりが灯っていた。
人間だけでなく、妖怪に対しても開かれているこの店は、人間の一日の活動が終わった少し後、妖怪の時間になってもまだ営業している。
尤も四六時中開いているというわけではなく、閉店時間が迫っていた。
店内では、店主である森近霖之助が一人、カウンターで本を読んでいる。
ふと霖之助が時間を気にして窓を見ると、くっきりと自分の顔が映っているのが見えた。
夜の窓は、まるで鏡のようにあらゆる物を鮮明に映す。これは、夜の闇が明るい室内の生気を拒絶し、拒絶された生気が窓に映ることによって起こるのだと霖之助は考える。
闇と光、陰と陽の境界となった窓は、魂を映し出す鏡の力を得るのだ。
─カランカラン
香霖堂のドアが開き、カウベルが鳴った。
ここは仮にも店であるので、店主である霖之助は手元に開かれている本を閉じて接客に備えるべきである。
しかし彼はそうはしなかった。
残念な事に、この時点では訪れたのが客かどうかわからないからだ。
「いらっしゃい」
もし客でなければ挨拶をする必要は無いのだが、本から目を上げて確認するのが億劫な霖之助は、ドアの方を見ずに、来客の可能性に対して挨拶をした。
「いらっしゃったわよ。実に素晴らしい接客態度ね。」
ストレートな皮肉と共に入って来たのは、香霖堂のお得意先である紅魔館の当主、レミリア・スカーレットだった。
彼女は大抵の場合メイドの十六夜咲夜を連れているが、今は一人のようだ。
霖之助は名残惜しそうに本を閉じ、これに応じる。
「これは失礼した。今日は一人かい?珍しいね。」
全く失礼だと思っていない霖之助の態度に、特に気を悪くすることも無くレミリアは答える。
「ええ。夜だし。」
夜だし、という返答に霖之助は少し疑問を持った。
レミリアは吸血鬼であり、咲夜は人間である。であるから、夜にレミリアが活動し、咲夜が例えば紅魔館で寝ているとしても本来疑問を持つべき点は無い。
しかし霖之助は、あの完璧なメイドである咲夜が、どこかそういった人間のサイクルから外れたような存在である気がしていた。
あるいは単に、気持ちのいい夜だから一人で出歩きたくなっただけということかもしれない。
目の前の吸血鬼は実に気まぐれな性格をしているのだ。
霖之助がそんなことを考えてレミリアを見ていると、レミリアはさらに言った。
「何?私の顔に何か付いてるかしら?」
思わぬ疑問をぶつけられ、霖之助は慌てて否定する。
「いや、そんなことは無いが…」
「でしょうね。でもさっきまでは付いてたわ。」
「ん?」
さっきまで顔に何か付いていたから何だというのだろうか。霖之助はレミリアの発言の意図を図りかねた。
「そう、さっきまでは付いてたのよ。ここの辺りに夕食のソースか何かが。」
そう言ってレミリアは自分の頬を指差す。
「私は窓に映った自分の顔を見てそれに気づいたの。でも吸血鬼って鏡に映らないじゃない?どうして窓には映るのかしら。」
「まさかそれを僕に聞くためにここまで来たのか?」
霖之助は呆れたように聞く。気まぐれなレミリアの事だ、有り得ない話ではない。
「そんなわけ無いでしょ。『吸血鬼が映る鏡を作ってほしい』っていう仕事の依頼よ。夜の窓でしか自分の顔が見れないなんて不便だからね。」
霖之助の早合点に対して、レミリアの方も呆れたように返す。
互いに呆れ顔を晒しているわけだが、特に雰囲気が険悪なものにならないのは二人が人間の常識を超える程に長く生きている事と無関係ではないかも知れない。
「なるほど、そういう事か。」
霖之助は納得したように言った。
そうは言っても気まぐれには違いないだろう。
レミリアは、ほんの少し前に紅魔館で窓を見て、この依頼を思いついて香霖堂に来たのだ。
本当に不便なら、吸血鬼として500年以上生きてきたレミリアが、その問題を今の今まで放置するはずが無い。
きっと、鏡が無くとも身だしなみは咲夜が整えてくれるのだろう。と、霖之助は再び、ここには居ない咲夜の顔を思い浮かべる。
「ふむ…吸血鬼が映る鏡を作るというのは難しいことではない。まずは先ほどの疑問に答えるとしようか。」
その前にお茶を入れてくるよ、と言って霖之助は店の奥に姿を消した。
一人店内に残されたレミリアは手近な椅子に座り、窓の方を見る。
紅魔館の窓より遥かに小さく安っぽい窓には、やはり自分の顔がくっきりと映っていた。
しばらくすると、霖之助は盆に二つの湯呑みを載せて戻ってきた。
レミリアは、霖之助が自分に気を使って紅茶を淹れて来るかもしれないと少し考えていたが、予想に反して湯呑みの中身は緑茶だった。
紅茶の方が好みではあるが、仮に霖之助が紅茶を淹れてきたところで、それが咲夜が淹れるものより不味いことは間違いないので、レミリアとしても特に構わない。
もしかすると、霖之助はそれがわかっていて緑茶を淹れたのかもしれない。
いずれにせよどうでもいい事だ。レミリアと霖之助はカウンターを挟んで向かい合った。
「何故吸血鬼は窓に映るのかということだったね…いや、何故吸血鬼が鏡に映らないかと言った方がいいか。」
「まあ、そうよね。」
先ほどレミリアは「どうして窓には映るのか」と聞いたが、別に窓に映るのは当たり前なので、主題は当然そちらになるだろう。
「君も吸血鬼として長年生きてきていると思うが、今までその理由を聞いたことは無いのかい?」
話好きの霖之助は、すぐに結論を話す気は無いようだ。
レミリアの方も暇潰しに来たようなものなので、喜んでその話に乗ることにする。
「そうね、鏡は魂を映し出す物だから魂の無い吸血鬼は鏡に映らない…なんて話を聞いたことはあるけど。でもただの死体なら鏡に映るし、いまいち納得いかないわ。」
「それは外の世界で吸血鬼の存在が信じられていた時代に、人間の間で広まっていた説だね。その説もある意味では間違いではない。確かに鏡は魂を映し出す道具だ。しかし、ここで魂というものに対する解釈が問題になる。魂という言葉は一般に生者に宿る自我の事を指すが、鏡が映す魂というのはその限りではない。この場合の魂とは、この世の全ての物質が持つエネルギーの事なんだ。だから鏡はこの世のあらゆる物質を映すことができる。それが魂を持たない死者であったとしてもだ。」
霖之助はここまで一息に話すと、一度話を止めてお茶を口にした。
既に香霖堂の閉店時間は過ぎているが、霖之助は特に気にしていない。
貴重な商売のチャンスだ。むしろ有難い。
どの道用事など無いし、営業時間外の、店の明かりが灯っていない時に上がりこんでくる非常識な客もいるのだ。来たときにはまだ営業時間内だっただけ常識的と言える。
尤も、目の前にいるレミリアの従者である咲夜が、その非常識な客の一人であるのだが。
「それでそれで?」
レミリアが続きを促した。
話している相手が魔理沙あたりであれば、「その魂の話が吸血鬼と何の関係があるんだ?」等と茶々を入れてくる頃合だが、吸血鬼本人のレミリアは興味津々のようだ。
そんなレミリアの知的好奇心に応じて、霖之助は話を再開する。
「つまり、窓にしろ水面にしろ魂を映していることには変わりない。鏡という道具だけが吸血鬼だけを映すことができないんだ。それには鏡の材質が関係しているんだが…鏡が何で出来ているか知っているかい?」
霖之助の問いかけに対して、レミリアは真面目な顔をして考える。
飽きっぽい性格でもあるレミリアだが、飽きていない間は模範的な聴講生になれるようだ。
「何って…ガラスじゃないの。まあ、ただのガラスじゃ鏡にならないから加工してあるんでしょうけど…材質って言うからには何か裏に塗ってあるのかしら?」
霖之助は満足気に頷く。レミリアは知識としては知らなかったようだが、中々に察しの良い回答だ。
「鋭いね。その何が塗ってあるかという事だが、幻想郷に存在するほとんどの鏡には銀が塗ってある。」
「銀が…なるほどねえ。」
レミリアは合点がいったように言った。
「もうわかっただろう?」
「ええ。つまり鏡には吸血鬼の弱点である銀が使われているから吸血鬼が映らないのね。」
「その通り。吸血鬼の魂は銀の持つ魔を滅する力によって鏡面に映し出されること無く消えてしまうんだ。だから吸血鬼は鏡に映らない。」
レミリアと霖之助が結論を述べた。ここに辿りつくまでに大分遠回りしており、夜も深まっているが、二人は特に気にしていない。
話が一段落したところで、霖之助は再びお茶を口にした。既に冷めているが、話した後の口にはその方が心地良い。
それを見て、まだ湯呑みに手をつけていなかったレミリアも同じように軽くお茶を啜った。滅多に飲まないとはいえ緑茶が嫌いというわけではない。
茶というのは植物の血だ。だから吸血鬼は紅茶を飲む。
「さて、次は吸血鬼が映る鏡だったね。これは簡単だ。鏡に銀が使われているから吸血鬼が映らないのなら、銀以外の金属を使って鏡を作れば良い。」
「そうでしょうね。でもそれが出来るならどうしてわざわざほとんどの鏡に銀を使うのかしら?銀って高いらしいじゃない。」
レミリアは当然の疑問を口にした。またも結論に辿りつくには少し遠回りになるが、それに答えるのも良いだろうと霖之助は考える。
しかし、「高いらしい」という辺りがレミリアらしい。貴金属の類などは紅魔館ではありふれていて、その価値をあまり知らないのだろう。
「ふむ…それも単純な話でね、銀を使った鏡は作るのが比較的容易なんだ。そもそもガラスに金属を定着させるというのはなかなか難しい。だが銀だけは化学反応を利用して簡単に銀を薄く広くガラスに定着させる方法が発見されている。それは銀鏡反応と呼ばれるものなんだが…」
ここで霖之助はレミリアの顔色を伺う。それを見たレミリアは霖之助の意図を正しく察して口を開く。
「ああ、その銀鏡反応の説明はいらないよ。要は銀の鏡は作りやすいってことね。よくわかったわ。」
「そういうことだ。それで、銀を使わない鏡だが…実は作るまでも無くこの店にはいくつかあるんだ。外の世界では銀以外の金属をガラスに定着させる技術も確立されているらしい。」
そう言うと霖之助は立ち上がり、商品棚から手鏡を一つ取り出してレミリアに差し出した。
「これなんかがそうだ。銀の代わりにアルミニウムが使われている。」
レミリアは手鏡を受け取り、鏡面を覗き込む。そこにはレミリアの顔がはっきりと映っていた。
「あら…本当に私が映ってる。凄いじゃない。」
その言い分だと最初は期待していなかったようにも聞こえるが、そう言われると霖之助も悪い気はしない。
これは外の世界の鏡なので凄いのは霖之助では無いが。
「でも何だか安っぽいわねえ。他のやつ無いの?」
レミリアが指摘した通り、霖之助が取り出した手鏡には何の装飾も施されておらず、丸い鏡から模様の無い取っ手が真っ直ぐ伸びているだけの物だった。レミリアでなくとも安っぽいと形容するに足る代物である。
「銀を使っていない鏡はどれもそんなものだよ。当たり前だが外の世界で銀を使わずに鏡を作っているのは、吸血鬼を映すためではない。単に貴金属である銀を使わないことで、コストを下げるためだ。当然、銀を使わない鏡はそれ以外の部分にもコストをかけないようにして作られる。その手鏡のガラス部分も、ガラスではなくより安価なアクリルと呼ばれる物質が使われているよ。」
霖之助の言葉を受けて、レミリアは試しに手鏡の鏡の部分を軽く小突く。
ガラス特有のキンキンという高い音は鳴らず、コンコンというなんとも鈍い音が鳴った。
「うーん…安っぽいねえ。そういえば『吸血鬼が映る鏡を作るのは難しいことではない』って言ってたわよね。だったらあなたがもっと立派な鏡を作ればいいじゃない。」
「それも良いが…しかしその手鏡には蒸着という技術が使われていてね、今の幻想郷では実現不可能なんだ。だから別の方法を取ることになる。」
「その方法って?」
「皺の無い薄い金属箔をガラスに貼り付け、薬品に漬けて数ヶ月かけて定着させる。とても手間のかかる作業だから値段もそれなりになるが…」
レミリアが香霖堂に訪れてから既に数刻が経過していたが、ようやく商売の話が出てきた。
霖之助は、レミリアが鏡の話をしてきた時に商売のチャンスを感じ取り、こうして高価な鏡を作って売る事を思いついていたのだ。
しかし、その意図に気づいたレミリアは驚いたように目を丸くし、蝙蝠の羽をぴんと伸ばしていた。少なくとも吸血鬼が映る手鏡を見せられた時より驚いている。
(しまった!少し商売の話を出すのが露骨過ぎたか?しかしこちらも商売だしそういうのはレミリアもわかってくれると思ったが…いやしかしそれまで世間話のようなものだったのがいきなり金の話となれば不快に感じるのも仕方ないか…?)
予想外のレミリアの反応に霖之助は思わず不安になるが、次にレミリアの口から出た言葉はさらに霖之助の予想とは外れるものだった。
「…あなたって、そんなに商売する気あったのねえ…驚いたわ。」
結局、レミリアは霖之助にいくつかの鏡の製作を依頼して帰っていった。手鏡、鏡台、姿見…全て二セットずつの注文だったのは紅魔館に篭っているという彼女の妹にプレゼントするのだろう。
それだけの鏡の製作ともなればかなりの額になるが、霖之助が初めに提示した金額が交渉されることなくそのまま採用された。それどころか次の瞬間には咲夜がその場に現れ、全額前払いで支払っていった。咲夜はそれまでその場におらず話も聞いていなかったはずだが、そんなことは考えても仕方が無い事を霖之助はよく知っている。
気がつけば朝になっていた。遅すぎる床につきながら霖之助は考える。彼は吸血鬼を鏡に映してみたことがあったわけではない。レミリアから吸血鬼は鏡には映らないが窓には映るという話を聞いたとき、鏡と銀、銀と吸血鬼の関係性に気づいたのだ。
霖之助が眠りについた時、既に幻想郷には日が昇り、境界の魔力を失った窓は鏡の力を失っていた。
強いていうなれば、もう少し解説が欲しかったかな。
でもそうしてたらレミリア飽きちゃうね。
独創的な作品でした。
霖之助さんらしい、香霖堂らしい雰囲気を感じました。
むしろそれを実践で形にする彼はなかなかに素敵だ。
姿見の前でくるっと回ってキャッキャするフランと、暖かく見守るレミリアまで幻視できた。
すごくいいですよ
>そんなに商売する気あったのねえ
あたりも、霖之助相手なら言いそうで、実に良いです。
霖之助の語りがえらく面白かったです。