――梅雨を憂う魔法使い――
「どうしたのよ? 唸り声なんて上げて」
甘い香りの紅茶をテーブルに並べながらアリスが顔を覗き込んできた。
どうせアリスにはわからない悩みなんだ。
「教えてやるもんか」と帽子をかぶり直しながら私は答える。
「人の家に上り込んでずーっと難しい顔している人に理由を聞かないなんて出来る訳ないじゃないのよ」
「私が難しい顔ならアリスは簡単な顔しているな」
ふふっと笑いながら「なによそれ?」と答え、向かいの席に座るアリス。
外は雨。昨日も雨。その前の日も雨。どうせ明日も雨だ。明後日もその次の日も雨なんだろう。
じとじとと細かい雨粒が風に吹かれず空間を埋め尽くすように落ちてくる。そんな雨だ。
雨が止まない異変とかじゃなく、幻想郷は一週間程前から梅雨入りしたようで連日連夜雨雲が張り切っているのだ。
「当ててあげようか?」
「当てるって何をだよ」
「魔理沙の機嫌が悪い理由よ」
「お前にわかる訳がないと思うけどな」
ずずっと紅茶を啜る。ダージリンの香りが鼻孔に広がると心なしか少し落ち着けたような気がした。
「雨が嫌なんでしょ?」
「あぁ、雨は嫌だな。ってよくわかったな」
「ほら当たったでしょ。魔理沙の事ならお見通しよ」
得意げに腕組みまでしてみせるアリスが少し可愛らしく思えた。年上なのにたまにこういう子供っぽい仕草を見せるこいつはやっぱり好きだ。変な意味じゃないぜ。
「雨が降ると良い事がないぜ。髪はこんなんなるし、空飛ぶとびしょびしょだし、星も見えない」
「あんたみたいに癖毛だと雨の日大変でしょ?」
「まったくだ。これじゃどっちが箒だかわかりゃしないぜ」
「あはは、箒って。少しは手入れしてるの?」
「早苗から借りたヘアクリームを去年に使ったきりだな」
好き勝手に広がる髪に手櫛を通しながら答えると少しの間沈黙が流れた。
「ちゃんと手入れすれば綺麗な髪なんだからもったいないわよ」
湿気に負けずにさらさらと輝くアリスの髪を見る。私より少し薄い金色で、持ち主の性格とは違い癖がなく真っ直ぐで、肩ほどまで伸びた綺麗な髪。
嫌味にしか聞こえないが、やっぱり褒められると良い気分になってしまう。
「き、綺麗かな」なんて少し照れながら聞いてみる。
「えぇ。ちゃんと手入れすればね。私も小さい頃は少し癖毛だったから魔理沙の悩みは分かるわよ」
「そうなのか?」
「まぁあんたほど癖毛じゃなかったけどね。湿気の多い日は言う事聞かなくて大変なのよねぇ」
少し意外だった。私の中ではアリスも霊夢も妖夢もパチュリーもさらさらストレート派で私の敵だったんだが……
いや、昔は癖毛だったと言う発言を汲み取るとこいつは裏切り者だ。だからどうしたって話だな。
「癖毛って治るものなのか?」
「病気じゃないんだからそんな言い方しなくてもいいでしょ。そんな劇的に変わる人なんていないと思うけど、魔法使いになってしばらくしたら髪質が変わったのよね」
「そんな事あるのか?」
「捨食の法と捨虫の法を使って体質が変わったんじゃないかしら」
俄かに信じがたい話を聞かされた。
世界広しと言えど、己の癖毛を直すために不老不死の魔法使いを目指す奴なんていないだろう。
「さすがにそこまでして癖毛を治そうとは思わんな」
「いや、私だって癖毛を治すために魔法使いになった訳じゃないからね」
会話が一段落するとキッチンからチョコの香りが漂ってきた。
アリスもその香りに気付いた様で、指先を動かし人形に何か指示を出した。
しばらくすると人形がバスケットにクッキーを入れテーブルまで運んでくる。まったく不精しやがって。
「はいお待たせ。今日はチョコクッキーよ」
「オマタセー」
私も存外簡単な人間だったらしく、機嫌を治してクッキーを頬張っていた。
「私は雨の日ってそんなに嫌いじゃないわよ?」
ティーカップを持ち上げながらアリスは言う。
「私は嫌な事しかないな」
ティーカップを置きながら私は言う。
どうもかみ合わない。
「雨の日って傘を持たなきゃいけないだろ?」
「私はそんなことないけど」
あー、そうだ。アリスは身の回りの事は人形を使って済ませてしまうような不精な人間だ。いや魔法使いか。
「アリスノカサモツー」
上海人形が口を挟む。
「それに星が見えない」
口に入れたクッキーを飲み込むと私は言う。
「星以外にも綺麗なものはあるわ」
クッキーを口に入れる前にアリスは言う。
やはりかみ合わない。
その後はいつもの様に下らない話をして、ちゃっかり夕飯をご馳走になってから帰路に着いた。
――癖毛に救いを――
二日後、私は人里で一番大きい雑貨屋に来ていた。
今日は予想に反して雨が降っていなかった。とは言え空には灰色の雲が広がっていた。
日の光が届かず時間の感覚がおかしくなりそうな天気だった。
雨が降っていないならと、手入れをすれば綺麗と言われた髪を手入れしてみようとヘアクリームやら櫛やらを見に来たのだ。
意外と女の子やってるんだ。悪いか。
「さて、どんなのを選べば良いんだろうか」
アリスに付いて来てもらおうとも思ったんだが、どうせなら手入れをして綺麗になった状態の髪を見せて驚かせてやろうと一人で来てしまった。
おかげでいつになく悩んでいる。
ホホバオイルに椿油、馬油どれが良いんだ? 馬油はなんか臭そうだし……
椿油の瓶を手に取り黄金色の液体を照明に翳してみる。
「万引きは犯罪ですよ」
後ろから声をかけられた。
「ん?」
にこにこと笑顔の白蓮が立っていた。それにしても物騒な事を言いやがる。お蔭で頓狂な声を上げてしまったぜ。
「そんな事は知ってるよ。霧雨魔理沙の半分は善良な心で出来ているからな」
「あら、それは知らなかったです。それより珍しいですね、人里にいるなんて」
「善良な人間は人里で買い物をするんだ。お前こそ人里で買い物をするんだな」
「ええ、私も善良な人間ですのでお買い物ですよ」
お互いにふふっと笑う。
霊夢の奴は妖怪寺の悪住職と随分な言い様だが、私からしたら霊夢だって妖怪神社の悪巫女だ。大差ない。
魔法使いとしての技術は確かなものがあるし、魔界にも連れて行ってくれるから白蓮とは案外仲が良い。
「珍しく真剣な顔をしていたけど何を見ていたの?」
「あー、何でもない」
何か恥ずかしかったので誤魔化してみた。
「髪油?」
「ぐ」
優しい笑顔からいやらしい笑顔になった白蓮は「魔理沙も年頃の女の子ですものね」とにやにやしている。
「わ、悪いかよ、これでも年頃の女の子なんだ。毎年この季節になると髪の毛がぼっさぼさになって困ってるんだよ」
「あら、私も癖毛だからその気持ちわかるわよ」
そう言い金色と紫色のグラデーションのかかった髪をそっと梳く。
確かに癖毛だった。私なんかよりずっと癖の強そうな髪じゃないか。でも綺麗に纏まっている。
「随分と綺麗に纏まってるな。お勧めのヘアオイルがあるなら教えてくれよ」
「うちの子達はみんな癖毛だからお寺で髪油を作ってるのよ。良かったら少し別けてあげましょうか?」
「それって妖怪用なんじゃないか?」
「妖怪用って。髪油にそんなのある訳無いでしょう」
「悪い、冗談だ」
そんな訳でヘアオイルを別けてもらう為に命蓮寺に向かった。
元気に境内の掃き掃除をしていた山彦も、水たまりに笹船を浮かべ遊んでいた船幽霊も、大声を上げて走り回る尼さんも、逃げ回る正体不明の妖怪も、部下に怒られている毘沙門天代理も、上司を怒っている鼠も、その様子を見て笑っている狸も見事に全員癖毛だった。在家信者のこいしも確か癖毛だったな。
そしてどいつもこいつも綺麗に髪が纏まっている。
命蓮寺は癖毛に救いを与えるお寺だったのか……
下らない事を考えながら白蓮の後を歩く。
連れて来られたのは共同の洗面所。鏡の横にそれぞれの名前が書かれた引き出しがある。
白蓮と随分と達筆な文字で書かれた引き出しを開け、中から小さな瓶を取り出すと私に差し出した。
「これはまだ使っていないものですので良かったらどうぞ」
「悪いな」と受け取り、瓶の蓋を開ける。
ほのかに何かの花の匂いが広がる。強すぎず、癖もない。良い香りだ。
「お風呂上りの少し濡れた状態で使って下さい。付け過ぎては駄目です。櫛で良く馴染ませてあげて」
「ふむ」
「毎日使っていればすぐに纏まりのある髪になりますよ」
「そっか」
「魔理沙の髪は芯がしっかりしているからきっと綺麗になるわ」
「……そっか」
あまり褒められると恥ずかしくなる。鏡に映った自分の顔は薄らと赤かった。
「ついでに櫛も貰えると有難いんだが」
「……櫛持ってないの?」
「いつも手でやってる」
「年頃の女の子はどこへ行ったのやら……」
「だって面倒じゃんか」
「魔法使いは身だしなみも大切ですよ。客人用の櫛が余っているのでこれも差し上げます」
少しいや、かなり呆れた様子で引き出しから櫛を一本取り出す白蓮。
「ありがとな」
「せっかくだし、少しお茶でも飲んでいきますか?」
「いや、今日は良いよ。ヘアオイルも櫛も貰った上にお茶までご馳走になったら悪いぜ」
「あら、珍しい事を言うのね。大雨が降るんじゃない?」
酷い言われ様だぜ。
「里での買い物があってな。お茶とか食品類がなんもなくて」
「そうですか。それじゃまた遊びに来てくださいね」
「おう」
白蓮に手を振り命蓮寺を後にした。
――大雨、泣きべそ、散歩――
人里に戻り商店街に降り立つ。
さっさと買い物を済ませよう。なんだか雲行きが怪しくなってきやがった。
茶葉に日持ちしそうな野菜類と米と卵を買って店を出る。
――どしゃ降りだった。
私が珍しい事言うもんだから大雨だ。いや、そんな事があってたまるか。
とにかくこれだけ大雨じゃ空は飛べない。
「雨が弱くなるまで軒先でのんびりするか」と買い物袋を持ち直し、ベンチに腰掛ける事にした。
突然の大雨に商店街を歩いていた人間達は大慌てだった。
商店の軒先に走り込む連中や手拭いを広げて傘の代わりに使ったりと何とか雨に濡れないように必死そうだった。
どれだけ待っても雨は止む気配がなかった。
商店街を慌てて走り回っていた人間達の姿も見えなくなった。
「傘、買うかな……」
飛んで帰るのは諦めて歩いて帰ろう。
商店のレジ横に置いてあった傘を思い出し、店内に戻ろうと座っていたベンチから立ち上がった時だった。
向かいの蕎麦屋の軒先で座り込み、雨宿りをしている妖怪が視界に入る。
つい気になってしまい、どしゃ降りの商店街を横切りその妖怪の元へ向かった。
「よう。お前が雨宿りとはずいぶん滑稽だな」
「うぅぅ、魔理沙ぁぁ」
私を見上げる赤と青の瞳は赤く腫れていた。
「小傘、お前泣いてんのか?」
「泣いてないよ。目からしょっぱい水が溢れて来るだけだから」
人里で活動する数少ない妖怪の一人。多々良小傘はなぜか泣きべそをかいている。
「ああ、そうかよ。じゃあなんで目からしょっぱい水を溢れさせてるんだよ」
少し面倒だな。と思いながらも雨宿りの時間潰しの相手にしてやろうと思い、話を聞く事にした。
「なんだががなじぐで」
「良いから一度鼻をかめ」とちり紙を渡す。
勢いよく鼻をかみ、そのまま涙を拭う。余りに勢いよく鼻水をかんだせいで鼻水が手と鼻の回りに少し着いている。
「あーかたじけない」
「で、どうしたんだ? 相変わらず誰も驚いてくれないのか?」
「ぐすっ、そんな事はもう慣れた」
人を驚かす事を生業にしている妖怪の発言とは思えないが、本人がそう言うのなら気にしないでおこう……
「ねぇ魔理沙っ!」
鼻水が付いた手で私の手を握る小傘。
「どうしたんだよ」と笑顔を作ってはみたものの、内心は「汚えなこの野郎」と叫んでいた。でもまぁ泣いてる奴にそんな事言える訳がない。相手が妖怪だとしてもだ。
「ここで会ったのも何かの縁だ。言ってみろよ」
「う、うん」
また鼻水と涙をいっぱい流しながら口を開くと、
「あべがうっでうのに――」
感情が昂っているようで何を言っているのかさっぱりわからない。慌ててポケットからもう一枚ちり紙を取り出して渡してやる。
「うぅ、魔理沙ぁぁ」
私の前で座り込み、泣きじゃくる小傘。傍から見たら私がこいつを苛めて泣かせたような構図が出来上がっているに違いない。
仕方ないので小傘の隣に座り、背中をさすってやることにした。
「すっきりするまで泣け。ここにいてやるから。な?」
「が、がだじげない」
大粒の涙をぼろぼろと零しながら小傘は泣いた。
小傘の泣きっぷりと来たらそりゃ凄かったぜ。もう少しで過呼吸を起してぶっ倒れそうになる寸前だったんだ。
普段の喧騒が嘘のように静まり返った商店街に泣き声と雨音が響いた。
「あーすっきりした」
小傘は一通り泣き終えると言葉の通り、どこか清々しい表情になっていた。
「で、どうしたんだよ」
間髪入れずに泣いていた理由を聞いてみると、少し照れくさそうに頭に手を回して、
「恥ずかしい話なんだけどさ、悲しくなっちゃって」
「悲しく?」
「前に魔理沙に雨を凌げるようになったら人間が驚いてくれるかもって教えてくれたじゃない?」
「あー言ったかもしれん」
「それでさ、あれから雨が降った日は人里に来て、傘が必要な人間を探し回ってたの」
「どうだったんだ?」と聞いてはみたものの何となく答えは予想出来た。
「誰も使ってくれない……」
「そっか……」
「それになんだか昔を思い出しちゃってさ」
「昔?」
「うん。今日みたいにどしゃ降りの雨の日にデザインが嫌だって言われて捨てられたのよ」
そりゃそんなセンスの悪い傘使いたがる奴の気がしれないぜ。と馬鹿にしてやりたかったがこれでも血は赤いんだ。
「い、言う程ダサくないと思うぜ?」と励ましてみる。
「本当?」
「ああ、個性的で良いと思う」
「魔理沙、あんた良い奴だったんだね」
おい、顔を赤らめるな。
さっきまでの泣き顔はすっかり消えて嬉しそうに笑みを浮かべる。
「なんだか元気出たよ。へへ、ありがとう」
おい、そんな目で私を見ないでくれ。
今度は少し照れたような表情を浮かべる。なんだこれ。
「良かったら魔理沙の家まで雨を凌いであげるよ。雨宿りしてたんでしょう?」
「気持ちだけで嬉しいよ」
「まあまあそう言わずにさ。私の個性的な傘は個性的な魔理沙に似合うと思うよ」
あーまったく、優しくしてやったら完全に調子乗りやがって。かといってここで突き放すような発言をしたらショックで小傘は消滅しかねないしな。
「そ、それじゃ頼むぜ。ちょうど雨宿りにも飽きたところだったんだ」
「へへー、任せて! 多々良小傘、こう見えて義理に厚いんだ」
「お、おう」
小傘に傘を差されながら商店街を進む。
すれ違う人、軒先で雨宿りをしている人の視線が心なしか痛い。
うわっ、あの子あんな色の傘刺して――地霊殿のさとりじゃなくても今なら人の心を読める気がするぜ……
私の気持ちも知らずに小傘の奴は随分と上機嫌だった。鼻歌交じりにスキップなんて始める始末。
スキップする度に水滴が飛んでくるので流石に止めさせたがな。
商店街を抜け徐々に人里の端へ近づく。
バケツをひっくり返したような雨だ。視界に入る民家の窓は閉め切られているし、もちろん外を歩いている人も見当たらない。
「静かだな」
「雨だからね」
「……」
「……」
相合傘なんてしているけれど、正直な所こいつとはそんなに親しくない。
なんというか会話が持たない。何を話して良いのかが分からないと言った方が正しいだろう、こういう場合。
傘を打つ雨音、濡れた地面を踏む足音。なんだかあまり聞き慣れない音だと思った。
ふと立ち止まり空を見上げる。
「どうしたの急に止まって?」
「雨の日の音ってなんだか良いなと思ってさ」
傘から出した左手で空を仰ぐ。
「あんな高い所から数えきれないほどの雨粒が落ちて来るんだからもっと煩くても良いと思うんだけど、意外と優しい音がするんだな」
「大地を打つ音、木々を打つ音、川や湖を打つ音、雨の日は色んな物が太鼓になるんだよ」
妖怪の癖に邪気の一切ない笑顔を私に向けて随分とロマンチックな言い様をする小傘は何だか眩しかった。
確かに小傘の言う通り、今の幻想郷は優しい音色が溢れている。
雨の日に傘をさして歩くのも悪くないかもしれない、そんな事を思った雨降りのお昼過ぎ。
――曇りのち銀河――
翌日は昼過ぎに起きた。こんな所で言い訳するつもりはないが、昨日小傘の奴に家まで送ってもらった後に少し探し物をしていたのだ。
日用品の部類に分類される物だし、すぐに見つかると思ったのだが我が家の散らかり具合を甘く見ていた。我ながら……
机の下にベッドの下、押入れの奥に屋根裏部屋、庭の物置、思い当たる場所を探しても見つからなかったので結局朝方まで家の中をひっくり回して大騒ぎしていた。
結局、玄関の傘立てにて発見出来たのだが、いつも少しは部屋を片付けろと口うるさいアリスの小言が身に染みた。
そんな訳で今日は少し片付けでもしようと昼食を済ませると雑巾片手に樹海と化した寝室へ足を踏み入れた。
気温はそこまで高くないのに湿度が高い。お蔭で汗まみれだ。
ふと窓の外に視線をやると雨が止んでいた。空は生憎の曇り空だったが。
「あーなんか甘い物食いたいな」
部屋の掃除程度で程良い疲労感に支配された体が糖分を求めているのが分かる。
昨日の買い物の時に何か買っとけば良かったなと後悔混じりに溜息を漏らす。
「なんか集るか」
呟くと同時に箒を手に家を飛び出した。昨日探し回って見つけた折り畳み傘も忘れずに持って行かないとな。
鬱蒼とした魔法の森の中を低速で飛ぶ。連日の雨のお陰で瘴気が少ないのは良いが湿度がやたらと高い。
それでも白蓮から貰ったヘアオイルは早速効果を発揮している。心なしか髪のまとまりが良い気がする。
じとっと纏わり着くような風を受けながらも私は上機嫌でアリス宅を目指した。
魔法の森を流れる小川に差し掛かった時だった。
目の前を小さな光の粒が横切った。
「ん、何だ?」
つい気になってしまい、光の粒を追いかける事にした。魔法や妖術かもしれんしな。
「思いのほか早いな」
光の粒を見失わないように速度を上げる。
どうやら川を遡る様に飛行しているようだ。
この先には小さな池があったはずだが……
光の粒は私の追跡に気付いた様で速度を速めた。おいおい、怪しいじゃないか。
「逃がさん」
右に左に蛇行しながらも川上を目指す光の粒。
川の左右には茂みが広がっているのでそっちに逃げられると厄介だなと思いながら右に左に回り込むように飛ぶ。
しばらくすると川幅が徐々に狭くなり、川の流れが急になってきた。
あと百メートルも進めば池に出るな。
森の中にぽつりと開けた空間が広がる。と言ってもそんなに広い池ではない。山の雪解け水が湧いてくる小さな池で、鱒なんかが捕れたりもするんだ。
どうやら光の粒の目的地はこの池のようで、池の上に出ると逃げるのを止めて旋回を始めた。
「さて、追い詰めたぜ」
「あー、その子を苛めないで欲しいんだけどな」
「うわっ!」
背後からいきなり声をかけられ危うく箒から落ちる所だった。温かくなってきたとはいえ、雪解け水の中で泳ぐにはまだ早い。
体勢を崩しながらも振り返るとリグルがいた。
永夜異変でこいつをやっつけてからと言うもの随分と私やアリスに怯えた様子のリグルだったが今日はどうも様子が違う。
妖怪らしく人間を脅かすような口調で話しかけてきているのだ。
「びっくりさせんなよ」
「私の蛍を苛めるようならびっくりさせないと」
「お前の蛍? あれの事か?」
くるくるとリグルの回りを飛ぶ光の粒を指差す。
「そうだよ」
「なんだ、蛍か」
「なんだとはなんだ!」
「あー悪い。蛍ってお前みたいに大きい奴しか見たことなかったからさ。空飛ぶ怪しい光だと思って追いかけてただけだ」
手をぶんぶんと振り回し怒るリグルを宥める。なんだか最近妖怪を宥めてばかりだな……
「見たことがない? 魔理沙、君人生損してるよ」
なんだかカチンとくる言い方だな。ぐっとこらえて、
「そうなのか?」と笑顔で聞いてみる。
「夜空に浮かぶ星に負けない位綺麗なんだから」
「ほう、星の魔法を使う私に随分な言い草だな」
「ちょうど蛍達が成虫になる季節だからね。蛍を見たことがないならここでしばらく待っているといい」
「いや、もう見たから満足だ」
「そう言わずにさ。沢山の蛍達が一斉に飛ぶ様子は本当に綺麗なんだから。むしろ見ていってよ」
今度はなんだか張り切り始めた。
怒ったり張り切ったり忙しい奴だ。あー昨日の小傘も十分忙しい奴だったな……
「わかった、わかった」
「それじゃ少し静かにしててもらえる?」
私は手で返事をしてから岸に降り立った。適当な大きさの岩を見つけてそこに腰を下ろす。
リグルの回りを飛んでいた光の粒が池の中央へ飛んで行く。
一匹、もう一匹と光の粒が集まっていく。
池の中央で渦を巻く様に飛ぶ数匹の光の粒の点滅に合わせるように池の周りが一斉に点滅を始める。
「おいおい、何匹いるんだ?」
つい声が出てしまった。
何百何千の光の粒が一斉に飛び立つ。
全ての光の粒が水面に反射しその数は倍になる。
渦を巻く様に飛べば銀河のように、列をなして飛べば天の川のように姿を変える。
気が付けば弾幕とは違う美しさを持った光の群れを無言で眺めていた。
曇りの日に満天の星空が拝めるとは……
「どう、綺麗でしょ?」
「ああ、すげぇな」
いつの間にか私の横に腰掛けていたリグルが得意げに話しかけてきた。
常に動き続ける星空を見ているようで見ていて飽きない。
どれだけ蛍を見続けていたんだろうか。
懐中時計を取り出すと日付が変わる少し前と言ったところだった。
アリスの家に行くのは明日にしてもう帰ろう。
綺麗なものを見ても腹は膨れない。さっきから腹の虫が鳴き止まないのだ。虫を操る妖怪でもこの虫はどうしようも出来ないだろうしな。
――梅雨を楽しむ魔法使い――
「どうしたのよ。随分と楽しそうな顔しちゃって?」
可愛らしいマグカップをテーブルに並べながらアリスが顔を覗き込んできた。
「私が楽しそうな顔ならお前はつまらなそうな顔だな」
「これだけ毎日雨だと洗濯も出来ないからね」
「梅雨だからな」
ため息交じりにそう溢すとアリスは私の向かいに腰掛ける。
「髪、何かしたの?」
「お、わかるか」
「綺麗に纏まってるじゃないの」
「ああ、白蓮の奴にヘアオイルを別けてもらってさ」
「それで機嫌が良いんだ。単純ね」
「それだけじゃないぜ? 雨の日にはそれなりの楽しみがあるんだよ」
「数日前の発言が嘘のようね」
「嘘はついてないさ。ものの見方が変わっただけだ」
「珍しい事もあるのね。それでそれなりの楽しみって何よ?」
「それはな――」
私はここ数日の出来事をアリスに話した。
笑ったり驚いたり呆れたり感心したり、こいつの顔は忙しいな。
「さて、そろそろ日も暮れるし行くか」
「行くってどこによ?」
「あー蛍に決まってるだろ? 話で聞くより見てもらった方が良い」
私の持って来た折り畳み傘にアリスを招き入れ、蛍の飛ぶ池へ向かった。
「雨音って良いな」
「そうね。魔理沙の台詞とは思えないけど」
わざとらしく笑うアリス。
「そう言えば、この間雨の日は嫌いじゃないって言っていたけど何でだ?」
「……いつもどっかに出かけてるあんたが大人しくしてるから」
「そ、そっか……」
アリスが恥ずかしい事を言うもんだからしばらくの間沈黙が続いてしまった。
小雨が降る森の中、二人で傘に収まり闇に舞う蛍を眺めた。
うん、雨の日も悪くない。
「どうしたのよ? 唸り声なんて上げて」
甘い香りの紅茶をテーブルに並べながらアリスが顔を覗き込んできた。
どうせアリスにはわからない悩みなんだ。
「教えてやるもんか」と帽子をかぶり直しながら私は答える。
「人の家に上り込んでずーっと難しい顔している人に理由を聞かないなんて出来る訳ないじゃないのよ」
「私が難しい顔ならアリスは簡単な顔しているな」
ふふっと笑いながら「なによそれ?」と答え、向かいの席に座るアリス。
外は雨。昨日も雨。その前の日も雨。どうせ明日も雨だ。明後日もその次の日も雨なんだろう。
じとじとと細かい雨粒が風に吹かれず空間を埋め尽くすように落ちてくる。そんな雨だ。
雨が止まない異変とかじゃなく、幻想郷は一週間程前から梅雨入りしたようで連日連夜雨雲が張り切っているのだ。
「当ててあげようか?」
「当てるって何をだよ」
「魔理沙の機嫌が悪い理由よ」
「お前にわかる訳がないと思うけどな」
ずずっと紅茶を啜る。ダージリンの香りが鼻孔に広がると心なしか少し落ち着けたような気がした。
「雨が嫌なんでしょ?」
「あぁ、雨は嫌だな。ってよくわかったな」
「ほら当たったでしょ。魔理沙の事ならお見通しよ」
得意げに腕組みまでしてみせるアリスが少し可愛らしく思えた。年上なのにたまにこういう子供っぽい仕草を見せるこいつはやっぱり好きだ。変な意味じゃないぜ。
「雨が降ると良い事がないぜ。髪はこんなんなるし、空飛ぶとびしょびしょだし、星も見えない」
「あんたみたいに癖毛だと雨の日大変でしょ?」
「まったくだ。これじゃどっちが箒だかわかりゃしないぜ」
「あはは、箒って。少しは手入れしてるの?」
「早苗から借りたヘアクリームを去年に使ったきりだな」
好き勝手に広がる髪に手櫛を通しながら答えると少しの間沈黙が流れた。
「ちゃんと手入れすれば綺麗な髪なんだからもったいないわよ」
湿気に負けずにさらさらと輝くアリスの髪を見る。私より少し薄い金色で、持ち主の性格とは違い癖がなく真っ直ぐで、肩ほどまで伸びた綺麗な髪。
嫌味にしか聞こえないが、やっぱり褒められると良い気分になってしまう。
「き、綺麗かな」なんて少し照れながら聞いてみる。
「えぇ。ちゃんと手入れすればね。私も小さい頃は少し癖毛だったから魔理沙の悩みは分かるわよ」
「そうなのか?」
「まぁあんたほど癖毛じゃなかったけどね。湿気の多い日は言う事聞かなくて大変なのよねぇ」
少し意外だった。私の中ではアリスも霊夢も妖夢もパチュリーもさらさらストレート派で私の敵だったんだが……
いや、昔は癖毛だったと言う発言を汲み取るとこいつは裏切り者だ。だからどうしたって話だな。
「癖毛って治るものなのか?」
「病気じゃないんだからそんな言い方しなくてもいいでしょ。そんな劇的に変わる人なんていないと思うけど、魔法使いになってしばらくしたら髪質が変わったのよね」
「そんな事あるのか?」
「捨食の法と捨虫の法を使って体質が変わったんじゃないかしら」
俄かに信じがたい話を聞かされた。
世界広しと言えど、己の癖毛を直すために不老不死の魔法使いを目指す奴なんていないだろう。
「さすがにそこまでして癖毛を治そうとは思わんな」
「いや、私だって癖毛を治すために魔法使いになった訳じゃないからね」
会話が一段落するとキッチンからチョコの香りが漂ってきた。
アリスもその香りに気付いた様で、指先を動かし人形に何か指示を出した。
しばらくすると人形がバスケットにクッキーを入れテーブルまで運んでくる。まったく不精しやがって。
「はいお待たせ。今日はチョコクッキーよ」
「オマタセー」
私も存外簡単な人間だったらしく、機嫌を治してクッキーを頬張っていた。
「私は雨の日ってそんなに嫌いじゃないわよ?」
ティーカップを持ち上げながらアリスは言う。
「私は嫌な事しかないな」
ティーカップを置きながら私は言う。
どうもかみ合わない。
「雨の日って傘を持たなきゃいけないだろ?」
「私はそんなことないけど」
あー、そうだ。アリスは身の回りの事は人形を使って済ませてしまうような不精な人間だ。いや魔法使いか。
「アリスノカサモツー」
上海人形が口を挟む。
「それに星が見えない」
口に入れたクッキーを飲み込むと私は言う。
「星以外にも綺麗なものはあるわ」
クッキーを口に入れる前にアリスは言う。
やはりかみ合わない。
その後はいつもの様に下らない話をして、ちゃっかり夕飯をご馳走になってから帰路に着いた。
――癖毛に救いを――
二日後、私は人里で一番大きい雑貨屋に来ていた。
今日は予想に反して雨が降っていなかった。とは言え空には灰色の雲が広がっていた。
日の光が届かず時間の感覚がおかしくなりそうな天気だった。
雨が降っていないならと、手入れをすれば綺麗と言われた髪を手入れしてみようとヘアクリームやら櫛やらを見に来たのだ。
意外と女の子やってるんだ。悪いか。
「さて、どんなのを選べば良いんだろうか」
アリスに付いて来てもらおうとも思ったんだが、どうせなら手入れをして綺麗になった状態の髪を見せて驚かせてやろうと一人で来てしまった。
おかげでいつになく悩んでいる。
ホホバオイルに椿油、馬油どれが良いんだ? 馬油はなんか臭そうだし……
椿油の瓶を手に取り黄金色の液体を照明に翳してみる。
「万引きは犯罪ですよ」
後ろから声をかけられた。
「ん?」
にこにこと笑顔の白蓮が立っていた。それにしても物騒な事を言いやがる。お蔭で頓狂な声を上げてしまったぜ。
「そんな事は知ってるよ。霧雨魔理沙の半分は善良な心で出来ているからな」
「あら、それは知らなかったです。それより珍しいですね、人里にいるなんて」
「善良な人間は人里で買い物をするんだ。お前こそ人里で買い物をするんだな」
「ええ、私も善良な人間ですのでお買い物ですよ」
お互いにふふっと笑う。
霊夢の奴は妖怪寺の悪住職と随分な言い様だが、私からしたら霊夢だって妖怪神社の悪巫女だ。大差ない。
魔法使いとしての技術は確かなものがあるし、魔界にも連れて行ってくれるから白蓮とは案外仲が良い。
「珍しく真剣な顔をしていたけど何を見ていたの?」
「あー、何でもない」
何か恥ずかしかったので誤魔化してみた。
「髪油?」
「ぐ」
優しい笑顔からいやらしい笑顔になった白蓮は「魔理沙も年頃の女の子ですものね」とにやにやしている。
「わ、悪いかよ、これでも年頃の女の子なんだ。毎年この季節になると髪の毛がぼっさぼさになって困ってるんだよ」
「あら、私も癖毛だからその気持ちわかるわよ」
そう言い金色と紫色のグラデーションのかかった髪をそっと梳く。
確かに癖毛だった。私なんかよりずっと癖の強そうな髪じゃないか。でも綺麗に纏まっている。
「随分と綺麗に纏まってるな。お勧めのヘアオイルがあるなら教えてくれよ」
「うちの子達はみんな癖毛だからお寺で髪油を作ってるのよ。良かったら少し別けてあげましょうか?」
「それって妖怪用なんじゃないか?」
「妖怪用って。髪油にそんなのある訳無いでしょう」
「悪い、冗談だ」
そんな訳でヘアオイルを別けてもらう為に命蓮寺に向かった。
元気に境内の掃き掃除をしていた山彦も、水たまりに笹船を浮かべ遊んでいた船幽霊も、大声を上げて走り回る尼さんも、逃げ回る正体不明の妖怪も、部下に怒られている毘沙門天代理も、上司を怒っている鼠も、その様子を見て笑っている狸も見事に全員癖毛だった。在家信者のこいしも確か癖毛だったな。
そしてどいつもこいつも綺麗に髪が纏まっている。
命蓮寺は癖毛に救いを与えるお寺だったのか……
下らない事を考えながら白蓮の後を歩く。
連れて来られたのは共同の洗面所。鏡の横にそれぞれの名前が書かれた引き出しがある。
白蓮と随分と達筆な文字で書かれた引き出しを開け、中から小さな瓶を取り出すと私に差し出した。
「これはまだ使っていないものですので良かったらどうぞ」
「悪いな」と受け取り、瓶の蓋を開ける。
ほのかに何かの花の匂いが広がる。強すぎず、癖もない。良い香りだ。
「お風呂上りの少し濡れた状態で使って下さい。付け過ぎては駄目です。櫛で良く馴染ませてあげて」
「ふむ」
「毎日使っていればすぐに纏まりのある髪になりますよ」
「そっか」
「魔理沙の髪は芯がしっかりしているからきっと綺麗になるわ」
「……そっか」
あまり褒められると恥ずかしくなる。鏡に映った自分の顔は薄らと赤かった。
「ついでに櫛も貰えると有難いんだが」
「……櫛持ってないの?」
「いつも手でやってる」
「年頃の女の子はどこへ行ったのやら……」
「だって面倒じゃんか」
「魔法使いは身だしなみも大切ですよ。客人用の櫛が余っているのでこれも差し上げます」
少しいや、かなり呆れた様子で引き出しから櫛を一本取り出す白蓮。
「ありがとな」
「せっかくだし、少しお茶でも飲んでいきますか?」
「いや、今日は良いよ。ヘアオイルも櫛も貰った上にお茶までご馳走になったら悪いぜ」
「あら、珍しい事を言うのね。大雨が降るんじゃない?」
酷い言われ様だぜ。
「里での買い物があってな。お茶とか食品類がなんもなくて」
「そうですか。それじゃまた遊びに来てくださいね」
「おう」
白蓮に手を振り命蓮寺を後にした。
――大雨、泣きべそ、散歩――
人里に戻り商店街に降り立つ。
さっさと買い物を済ませよう。なんだか雲行きが怪しくなってきやがった。
茶葉に日持ちしそうな野菜類と米と卵を買って店を出る。
――どしゃ降りだった。
私が珍しい事言うもんだから大雨だ。いや、そんな事があってたまるか。
とにかくこれだけ大雨じゃ空は飛べない。
「雨が弱くなるまで軒先でのんびりするか」と買い物袋を持ち直し、ベンチに腰掛ける事にした。
突然の大雨に商店街を歩いていた人間達は大慌てだった。
商店の軒先に走り込む連中や手拭いを広げて傘の代わりに使ったりと何とか雨に濡れないように必死そうだった。
どれだけ待っても雨は止む気配がなかった。
商店街を慌てて走り回っていた人間達の姿も見えなくなった。
「傘、買うかな……」
飛んで帰るのは諦めて歩いて帰ろう。
商店のレジ横に置いてあった傘を思い出し、店内に戻ろうと座っていたベンチから立ち上がった時だった。
向かいの蕎麦屋の軒先で座り込み、雨宿りをしている妖怪が視界に入る。
つい気になってしまい、どしゃ降りの商店街を横切りその妖怪の元へ向かった。
「よう。お前が雨宿りとはずいぶん滑稽だな」
「うぅぅ、魔理沙ぁぁ」
私を見上げる赤と青の瞳は赤く腫れていた。
「小傘、お前泣いてんのか?」
「泣いてないよ。目からしょっぱい水が溢れて来るだけだから」
人里で活動する数少ない妖怪の一人。多々良小傘はなぜか泣きべそをかいている。
「ああ、そうかよ。じゃあなんで目からしょっぱい水を溢れさせてるんだよ」
少し面倒だな。と思いながらも雨宿りの時間潰しの相手にしてやろうと思い、話を聞く事にした。
「なんだががなじぐで」
「良いから一度鼻をかめ」とちり紙を渡す。
勢いよく鼻をかみ、そのまま涙を拭う。余りに勢いよく鼻水をかんだせいで鼻水が手と鼻の回りに少し着いている。
「あーかたじけない」
「で、どうしたんだ? 相変わらず誰も驚いてくれないのか?」
「ぐすっ、そんな事はもう慣れた」
人を驚かす事を生業にしている妖怪の発言とは思えないが、本人がそう言うのなら気にしないでおこう……
「ねぇ魔理沙っ!」
鼻水が付いた手で私の手を握る小傘。
「どうしたんだよ」と笑顔を作ってはみたものの、内心は「汚えなこの野郎」と叫んでいた。でもまぁ泣いてる奴にそんな事言える訳がない。相手が妖怪だとしてもだ。
「ここで会ったのも何かの縁だ。言ってみろよ」
「う、うん」
また鼻水と涙をいっぱい流しながら口を開くと、
「あべがうっでうのに――」
感情が昂っているようで何を言っているのかさっぱりわからない。慌ててポケットからもう一枚ちり紙を取り出して渡してやる。
「うぅ、魔理沙ぁぁ」
私の前で座り込み、泣きじゃくる小傘。傍から見たら私がこいつを苛めて泣かせたような構図が出来上がっているに違いない。
仕方ないので小傘の隣に座り、背中をさすってやることにした。
「すっきりするまで泣け。ここにいてやるから。な?」
「が、がだじげない」
大粒の涙をぼろぼろと零しながら小傘は泣いた。
小傘の泣きっぷりと来たらそりゃ凄かったぜ。もう少しで過呼吸を起してぶっ倒れそうになる寸前だったんだ。
普段の喧騒が嘘のように静まり返った商店街に泣き声と雨音が響いた。
「あーすっきりした」
小傘は一通り泣き終えると言葉の通り、どこか清々しい表情になっていた。
「で、どうしたんだよ」
間髪入れずに泣いていた理由を聞いてみると、少し照れくさそうに頭に手を回して、
「恥ずかしい話なんだけどさ、悲しくなっちゃって」
「悲しく?」
「前に魔理沙に雨を凌げるようになったら人間が驚いてくれるかもって教えてくれたじゃない?」
「あー言ったかもしれん」
「それでさ、あれから雨が降った日は人里に来て、傘が必要な人間を探し回ってたの」
「どうだったんだ?」と聞いてはみたものの何となく答えは予想出来た。
「誰も使ってくれない……」
「そっか……」
「それになんだか昔を思い出しちゃってさ」
「昔?」
「うん。今日みたいにどしゃ降りの雨の日にデザインが嫌だって言われて捨てられたのよ」
そりゃそんなセンスの悪い傘使いたがる奴の気がしれないぜ。と馬鹿にしてやりたかったがこれでも血は赤いんだ。
「い、言う程ダサくないと思うぜ?」と励ましてみる。
「本当?」
「ああ、個性的で良いと思う」
「魔理沙、あんた良い奴だったんだね」
おい、顔を赤らめるな。
さっきまでの泣き顔はすっかり消えて嬉しそうに笑みを浮かべる。
「なんだか元気出たよ。へへ、ありがとう」
おい、そんな目で私を見ないでくれ。
今度は少し照れたような表情を浮かべる。なんだこれ。
「良かったら魔理沙の家まで雨を凌いであげるよ。雨宿りしてたんでしょう?」
「気持ちだけで嬉しいよ」
「まあまあそう言わずにさ。私の個性的な傘は個性的な魔理沙に似合うと思うよ」
あーまったく、優しくしてやったら完全に調子乗りやがって。かといってここで突き放すような発言をしたらショックで小傘は消滅しかねないしな。
「そ、それじゃ頼むぜ。ちょうど雨宿りにも飽きたところだったんだ」
「へへー、任せて! 多々良小傘、こう見えて義理に厚いんだ」
「お、おう」
小傘に傘を差されながら商店街を進む。
すれ違う人、軒先で雨宿りをしている人の視線が心なしか痛い。
うわっ、あの子あんな色の傘刺して――地霊殿のさとりじゃなくても今なら人の心を読める気がするぜ……
私の気持ちも知らずに小傘の奴は随分と上機嫌だった。鼻歌交じりにスキップなんて始める始末。
スキップする度に水滴が飛んでくるので流石に止めさせたがな。
商店街を抜け徐々に人里の端へ近づく。
バケツをひっくり返したような雨だ。視界に入る民家の窓は閉め切られているし、もちろん外を歩いている人も見当たらない。
「静かだな」
「雨だからね」
「……」
「……」
相合傘なんてしているけれど、正直な所こいつとはそんなに親しくない。
なんというか会話が持たない。何を話して良いのかが分からないと言った方が正しいだろう、こういう場合。
傘を打つ雨音、濡れた地面を踏む足音。なんだかあまり聞き慣れない音だと思った。
ふと立ち止まり空を見上げる。
「どうしたの急に止まって?」
「雨の日の音ってなんだか良いなと思ってさ」
傘から出した左手で空を仰ぐ。
「あんな高い所から数えきれないほどの雨粒が落ちて来るんだからもっと煩くても良いと思うんだけど、意外と優しい音がするんだな」
「大地を打つ音、木々を打つ音、川や湖を打つ音、雨の日は色んな物が太鼓になるんだよ」
妖怪の癖に邪気の一切ない笑顔を私に向けて随分とロマンチックな言い様をする小傘は何だか眩しかった。
確かに小傘の言う通り、今の幻想郷は優しい音色が溢れている。
雨の日に傘をさして歩くのも悪くないかもしれない、そんな事を思った雨降りのお昼過ぎ。
――曇りのち銀河――
翌日は昼過ぎに起きた。こんな所で言い訳するつもりはないが、昨日小傘の奴に家まで送ってもらった後に少し探し物をしていたのだ。
日用品の部類に分類される物だし、すぐに見つかると思ったのだが我が家の散らかり具合を甘く見ていた。我ながら……
机の下にベッドの下、押入れの奥に屋根裏部屋、庭の物置、思い当たる場所を探しても見つからなかったので結局朝方まで家の中をひっくり回して大騒ぎしていた。
結局、玄関の傘立てにて発見出来たのだが、いつも少しは部屋を片付けろと口うるさいアリスの小言が身に染みた。
そんな訳で今日は少し片付けでもしようと昼食を済ませると雑巾片手に樹海と化した寝室へ足を踏み入れた。
気温はそこまで高くないのに湿度が高い。お蔭で汗まみれだ。
ふと窓の外に視線をやると雨が止んでいた。空は生憎の曇り空だったが。
「あーなんか甘い物食いたいな」
部屋の掃除程度で程良い疲労感に支配された体が糖分を求めているのが分かる。
昨日の買い物の時に何か買っとけば良かったなと後悔混じりに溜息を漏らす。
「なんか集るか」
呟くと同時に箒を手に家を飛び出した。昨日探し回って見つけた折り畳み傘も忘れずに持って行かないとな。
鬱蒼とした魔法の森の中を低速で飛ぶ。連日の雨のお陰で瘴気が少ないのは良いが湿度がやたらと高い。
それでも白蓮から貰ったヘアオイルは早速効果を発揮している。心なしか髪のまとまりが良い気がする。
じとっと纏わり着くような風を受けながらも私は上機嫌でアリス宅を目指した。
魔法の森を流れる小川に差し掛かった時だった。
目の前を小さな光の粒が横切った。
「ん、何だ?」
つい気になってしまい、光の粒を追いかける事にした。魔法や妖術かもしれんしな。
「思いのほか早いな」
光の粒を見失わないように速度を上げる。
どうやら川を遡る様に飛行しているようだ。
この先には小さな池があったはずだが……
光の粒は私の追跡に気付いた様で速度を速めた。おいおい、怪しいじゃないか。
「逃がさん」
右に左に蛇行しながらも川上を目指す光の粒。
川の左右には茂みが広がっているのでそっちに逃げられると厄介だなと思いながら右に左に回り込むように飛ぶ。
しばらくすると川幅が徐々に狭くなり、川の流れが急になってきた。
あと百メートルも進めば池に出るな。
森の中にぽつりと開けた空間が広がる。と言ってもそんなに広い池ではない。山の雪解け水が湧いてくる小さな池で、鱒なんかが捕れたりもするんだ。
どうやら光の粒の目的地はこの池のようで、池の上に出ると逃げるのを止めて旋回を始めた。
「さて、追い詰めたぜ」
「あー、その子を苛めないで欲しいんだけどな」
「うわっ!」
背後からいきなり声をかけられ危うく箒から落ちる所だった。温かくなってきたとはいえ、雪解け水の中で泳ぐにはまだ早い。
体勢を崩しながらも振り返るとリグルがいた。
永夜異変でこいつをやっつけてからと言うもの随分と私やアリスに怯えた様子のリグルだったが今日はどうも様子が違う。
妖怪らしく人間を脅かすような口調で話しかけてきているのだ。
「びっくりさせんなよ」
「私の蛍を苛めるようならびっくりさせないと」
「お前の蛍? あれの事か?」
くるくるとリグルの回りを飛ぶ光の粒を指差す。
「そうだよ」
「なんだ、蛍か」
「なんだとはなんだ!」
「あー悪い。蛍ってお前みたいに大きい奴しか見たことなかったからさ。空飛ぶ怪しい光だと思って追いかけてただけだ」
手をぶんぶんと振り回し怒るリグルを宥める。なんだか最近妖怪を宥めてばかりだな……
「見たことがない? 魔理沙、君人生損してるよ」
なんだかカチンとくる言い方だな。ぐっとこらえて、
「そうなのか?」と笑顔で聞いてみる。
「夜空に浮かぶ星に負けない位綺麗なんだから」
「ほう、星の魔法を使う私に随分な言い草だな」
「ちょうど蛍達が成虫になる季節だからね。蛍を見たことがないならここでしばらく待っているといい」
「いや、もう見たから満足だ」
「そう言わずにさ。沢山の蛍達が一斉に飛ぶ様子は本当に綺麗なんだから。むしろ見ていってよ」
今度はなんだか張り切り始めた。
怒ったり張り切ったり忙しい奴だ。あー昨日の小傘も十分忙しい奴だったな……
「わかった、わかった」
「それじゃ少し静かにしててもらえる?」
私は手で返事をしてから岸に降り立った。適当な大きさの岩を見つけてそこに腰を下ろす。
リグルの回りを飛んでいた光の粒が池の中央へ飛んで行く。
一匹、もう一匹と光の粒が集まっていく。
池の中央で渦を巻く様に飛ぶ数匹の光の粒の点滅に合わせるように池の周りが一斉に点滅を始める。
「おいおい、何匹いるんだ?」
つい声が出てしまった。
何百何千の光の粒が一斉に飛び立つ。
全ての光の粒が水面に反射しその数は倍になる。
渦を巻く様に飛べば銀河のように、列をなして飛べば天の川のように姿を変える。
気が付けば弾幕とは違う美しさを持った光の群れを無言で眺めていた。
曇りの日に満天の星空が拝めるとは……
「どう、綺麗でしょ?」
「ああ、すげぇな」
いつの間にか私の横に腰掛けていたリグルが得意げに話しかけてきた。
常に動き続ける星空を見ているようで見ていて飽きない。
どれだけ蛍を見続けていたんだろうか。
懐中時計を取り出すと日付が変わる少し前と言ったところだった。
アリスの家に行くのは明日にしてもう帰ろう。
綺麗なものを見ても腹は膨れない。さっきから腹の虫が鳴き止まないのだ。虫を操る妖怪でもこの虫はどうしようも出来ないだろうしな。
――梅雨を楽しむ魔法使い――
「どうしたのよ。随分と楽しそうな顔しちゃって?」
可愛らしいマグカップをテーブルに並べながらアリスが顔を覗き込んできた。
「私が楽しそうな顔ならお前はつまらなそうな顔だな」
「これだけ毎日雨だと洗濯も出来ないからね」
「梅雨だからな」
ため息交じりにそう溢すとアリスは私の向かいに腰掛ける。
「髪、何かしたの?」
「お、わかるか」
「綺麗に纏まってるじゃないの」
「ああ、白蓮の奴にヘアオイルを別けてもらってさ」
「それで機嫌が良いんだ。単純ね」
「それだけじゃないぜ? 雨の日にはそれなりの楽しみがあるんだよ」
「数日前の発言が嘘のようね」
「嘘はついてないさ。ものの見方が変わっただけだ」
「珍しい事もあるのね。それでそれなりの楽しみって何よ?」
「それはな――」
私はここ数日の出来事をアリスに話した。
笑ったり驚いたり呆れたり感心したり、こいつの顔は忙しいな。
「さて、そろそろ日も暮れるし行くか」
「行くってどこによ?」
「あー蛍に決まってるだろ? 話で聞くより見てもらった方が良い」
私の持って来た折り畳み傘にアリスを招き入れ、蛍の飛ぶ池へ向かった。
「雨音って良いな」
「そうね。魔理沙の台詞とは思えないけど」
わざとらしく笑うアリス。
「そう言えば、この間雨の日は嫌いじゃないって言っていたけど何でだ?」
「……いつもどっかに出かけてるあんたが大人しくしてるから」
「そ、そっか……」
アリスが恥ずかしい事を言うもんだからしばらくの間沈黙が続いてしまった。
小雨が降る森の中、二人で傘に収まり闇に舞う蛍を眺めた。
うん、雨の日も悪くない。
でも雨ならではの楽しみもある。
夏はやっぱり蛍。
幽玄な夜が待ち遠しいです。
小傘可愛い
あと魔理沙いい子
雨降らな過ぎてちょっと雨が恋しいですね
マリアリ
とても素敵な雰囲気でした。
魔理沙が梅雨を気に行っていく過程がよく伝わってきました。
魔理沙は可愛らしい
くせげが好きになりそう
あと台詞回しというか言葉遊びというか読んでいて面白かったです。
事情がバレたら霊夢にからかわれたりして
特に魔理沙がいいですね。年頃の少女してます。