Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第七話

2013/06/06 22:13:14
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『伊那騒動・二』




 無数に積み上げられた、竹簡の山また山。

「なぜ、ユグルの軍勢は籠城を続けられる? なぜ糧食が尽きぬ? よもや木の股から食い物が生まれ出るわけでもあるまいに」

 そのなかに半ば埋もれたようになりながら、訝しげに洩矢諏訪子は呟いた。
 独りごとである。

 まるで不精髭を撫でる男のように、片手で顎をさすりながら。もう片方の手には、一条の竹簡。ギジチの上諏訪商館より接収した、種々の取引の帳簿である。これで百と幾つめになるであろうか。水内よりの絹、諏訪よりの米、木曽よりの材木、安曇よりの狐の皮。あるいは、科野州より外から持ち込まれた、海産物の塩漬けや干物。諸々の品目と産地、その目方、取引のあらましが記された文書の束を、もうかれこれ半日はこうして吟味し続けている。

「はあ、ああ……」

 あくびとも溜め息ともつかぬものを諏訪子は吐き出した。
 ずっと文書に視線を落としていたので、すっかり目が痛くなっている。
 それもそのはずで、竹簡にはおよそ『文字』という物がほとんど用いられてはいない。否、王権に近いごく少数の商人たちの手になる文書にはまだかろうじて文字の使用が認められるが、大半の内容は品物の種類を示す記号や印――蚕の繭を図案化した楕円形や、稲の穂を表わす象形などだ――で表現されている。目方や分量に関しては、黒い丸をつけたり線を一本ずつ引いたりといった方法で表記されていた。

 出雲人が諏訪に文字の文化を本格的にもたらしたとはいえ、それが直ぐさま普及しきったわけではなかったのだ。科野国内の大半の商人たちは、未だ文字という存在の使用に慣れていないと見える。自分たちの仕事に障りが出ることを懸念してか、昔からの習慣や慣習法に則り、商品や分量を表す記号の方を優先的に使用しているのであった。しかも、各地域によって使用される記号や印が違っていることも度々だ。そういうわけだから、それぞれの表記が何をどのように意味しているかをいちいち照らし合わせなければならない。まるで『暗号』である。だから骨が折れる、目も痛くなる。人の姿に化身するというのは、こういうときの不快をも受け容れなければならないということだ。その辺、甚だ不便ではある。

「またもやこれといって成果なし。ギジチのやつめが、官衙(かんが)の眼を逃れてユグルの根城たる伊那辰野に糧食を売りさばいておるのではないかと思うたが、どうにも当ては外れたわ。いずれの帳簿を検めたところで、なにひとつ怪しいところはない」
「かねてよりの御懸念どおり、後ろ暗き取引はそもそも帳簿に残さぬものではないのでしょうか。後からよそに見咎められては甚だ都合悪きゆえ……」
「言われずともようく解っておる」

 その手にしていた竹簡をぽいと後ろに放りながら、諏訪子は忌々しげに中空に眼を走らせる。彼女の脳裏には、今や王としての権限揺らぐ八坂神奈子、騒乱の気運に乗じて諸豪族と違法ともいえる武器の取引をするギジチの顔が交互に浮かんでは消える。

「ぜんぶ検め終えた。返してこい」

 そのかたわらにあって、諏訪子と同じく帳簿を検めていた出雲人の文官は、弱々しくうなずいて人を呼びに行った。ふと部屋を見回せば、さっきまで諏訪子を含む数人の官人で確認を行っていた竹簡の山が、およそ数百は折り重なっていただろうか。やはりすべて、ギジチの商館から接収、押収した取引帳簿の山だ。子供の背丈に迫るくらいまで積み重なっている。こうまでしては、また書庫に戻すのも並大抵での苦労ではないだろう。とはいえ、そこで気遣うほどの余裕もまた、諏訪子のなかからは失われていたのだが。

 接収とは言えど――、洩矢諏訪子が官衙に属する亜相の権限を発動して、法に則り提出させた代物ではない。

『ギジチの武器取引を咎め立てせぬ代わりに、伊那辰野の豪族ユグルの叛乱に際し、ギジチには諏訪子のやり方に協力してもらう』。それが、洩矢諏訪子とギジチとのあいだで持たれた会見において、取り交わされた約束だった。一種の“取引”としても良い。言うなれば、ギジチの商売を見逃すのが諏訪子にとって越権なら、取引の帳簿を求めに応じて提出するのは、ギジチの側にとってすれば己の保身を目的とした進物にも等しい行為だった。いわばギジチの方から、諏訪子が差し出した首輪に繋がれに行ったかたちである。

 とはいえ、薄氷を踏むようなやり方であるというのは諏訪子自身が重々に承知していることでもある。洩矢諏訪子と豪族ギジチ、ふたり揃って八坂神の王権に叛き奉るようなことを容認しているのだ。その王権を護るためのことだとはいえ。

 現に、いま諏訪子が居るのは神奈子の本拠地である諏訪の柵ではない。自身の巣である下諏訪御所でもなかった。上諏訪に整備された、ギジチの商館の一室である。ユグル糾問のために兵権を神奈子に委ねられたのなら、将兵を飢えさせぬための兵糧が要る。その調達と称してギジチの商館に足を運ぶのは、豪族たちの取引のあらましをつぶさに調べ上げるには最適とも言える口実ではあった。しかし。

「三日間、何の成果も出なかった」
「八坂さまよりいっさいの沙汰なきことが、むしろ幸いではありますが」
「とは申せ、あのお方のことだ。きっとそのお心のうちではひどく焦れておいでに違いない」

 見終えた竹簡を次々と運び出す人足たちには眼も遣らず、諏訪子と文官たちとは互いに困った顔を交わしていた。

 念のためと言うべきか、ギジチの武器取引を容認するという意思は、自らの近辺に仕える彼らにさえ諏訪子はひと言も伝えていない。ただ、ことを荒立てては王権の外聞が悪いとして、直に商館へ乗り込んで帳簿を検めると言っているに過ぎない。敵を欺くにはまず味方から、と言うほどのことでもないが、うっかり口を滑らせればどこから誰に足を引っ張られるか知れたものではない。諏訪豪族たちの権力闘争を目の当たりにしてきた諏訪子の、それが知恵のような何かだった。

 けれど、幾ら知恵があったところで、元から存在しないものを『見つけ出す』ことはできないのである。種もないまま草木が生えてくることはない。言うまでもなく、それは天地自然の道理である。

 そう、道理なのだ……と、諏訪子はここ数日間、ずっと頭のなかで反芻し続けていた事柄を呟いた。無から有が生まれ出ることはない。飢えて腹を空かした軍勢のもとに、糧食が天から降ったり地から湧いたりするということはあり得ない。元から備蓄しておいたものを口にするか、あるいは新たに買い入れるか。ユグルなる伊那の小豪族が――、豪族ダラハドとの土地争いに際し、それほど本格的に軍備を整えられぬまま砦に籠ったに過ぎない彼らが、いったいどうして数か月ものあいだ飢えずに持ち堪えることができるのか。それを突き止めさえすれば、あるいは戦わずして……とも思うのだが。

「また、ギジチを問い詰めてみるかな」

 ぽつりと呟いて、諏訪子は立ち上がろうとした。
 が、一刻近くにも渡って胡坐をかいていた彼女の脚は、骨の髄までびりびりと痺れて、とても立ち上がるどころではなくなっていた。親指の先をチョンと床に触れるだけでも、毛羽立った刷毛で力任せにこすられるようなぞわぞわした感じが、骨肉の奥から湧きあがってしまう。あまりの気持ち悪さに立ち上がるのを諦め、また座り込む諏訪子。文官たちから、可笑しみ混じりの眼が集まってくる。

「否、そもそも。やり方をもっと吟味する必要があるかもしれぬ……」

 差し当たっての重要な課題は、足の痺れが取れるのを待つことだったのだが。
 こてん、と、後ろに倒れ込むと、未だ運び出されていない竹簡の山が、いささか固すぎる枕となってくれる。


――――――


「くどいようだが……では、其許(そこ)がこの諏訪子に提出せる帳簿の類は、あれですべてであるのだな?」
「もう何度も申し上げております通り、すべての取引の帳簿はひとつたりとも余すことなく、諏訪子さまに御提出を致しておりまする。このうえ未だお疑いあらば、壁の裏でも床の下でもご自由に探して頂いて、ギジチはいっこう差し支えございませぬ」

 不快そう、と言うにはいささか表情に乏しい顔つきである。とは申せ、この男が他人(ひと)と話すときにはそう珍しいことでもあるまいが。商館に設えられた、さのみ広くもない客間で、諏訪子はやはり顎をさする。相対するギジチは、自身もよほど忙しかろうに、背まで達するその長の黒髪には少しのほつれも脂の気も見られなかった。結髪はせずとも清潔に保ち、櫛を入れることも欠かさないのであろう。あるいは、そうして身ぎれいさを保つこともまた彼なりの交渉の手段に類するものか。

「いっそそうしたいのはやまやまだが、壁だの床だのを壊してまで調べ上げるのは御免被りたい。あまり派手に動いては、八坂さまに“ばれる”」
「では、やはり一層強く申し上げなければなりますまい。“この商館にて行われたる取引の帳簿は、すべて御提出を致しました”と」

 語気を強めるギジチの返答。
 渋々ながら、諏訪子もうなずくよりほかなかった。
 もう何度か繰り返してきた問答を、またさらに行うことには彼女自身が飽いていたと言わざを得ない。こんなことで時間を浪費するわけにはいかないのである。時はすでに十月二十四日。神奈子が伊那郡にまでユグル糾問の軍勢を発して、しかもそれが壊滅させられてからはかなりの時間が経っている。土地の権利争いひとつ、軍勢まで繰り出しているのにまともに処理できぬとなれば、諸方の領主豪族たちに八坂神奈子は侮られよう。豪族たちが八坂神の諏訪王権に恭順を誓うかたちで、いちどは収まったはずの科野諸州での騒乱が、またぞろ火を放ちかねない。

 さて、いかにすべきや?

 眉根を皺で切り刻み、諏訪子は深く思案した。けれど、考えれば考えるほど泥濘(どろ)に落ち込むみたいにしてまともな結論が遠ざかる気がしていく。ギジチはじめ、上諏訪商館で取引を行った各地の商人たちが、わざわざ伊那辰野の方面へ向けて物資を供給した形跡は――少なくとも帳簿のうえでは――存在しない。さすがに官衙の目をはばかったのか。王権の肝煎りでつくられた商館で、王権に背くような商いはできなかったのか……。この商館においては。

「いや、待て。ギジチ」

 フと、諏訪子は唐突に気づいたことがあった。
 沈思に埋めていた顔を上げ、ギジチへと再び向き直る。

「其許は、いまさっき“この商館にて行われた”と申したな」
「確かに」
「商館の外での取引までは、其許自らも与り知らぬことと言うのか?」

 ほとんど、言いがかりに近い追及だった。
 さすがの諏訪子もそれは自分でよく承知している。相手の“言葉のあや”を取り上げて、ことさら揚げ足取りのように弄ぶ問いだ。だけれど、今の彼女にはギジチの言い回しが妙に気になった。意外の感に打たれたかのように、ギジチはどこか躊躇いがちに口を開く。

「……お恥ずかしい話ではございまするが。いかに八坂神の王権より庇護を賜いしギジチとは申せ、わが力のはっきりと及ぶ場所は、本拠地たる水内郡を中心とする北科野数郡。両諏訪への進出それ自体、八坂さまより許しを得てこの商館を得たのを契機としたもの。まして、南科野一帯には未だわが手の及ばぬ地も数多ございまする」
「なに。……斯様な立場で、其許は八坂さまの政に口を挟んだのか」

 今度は、諏訪子が眼を剥く番だった。
 行商人を神奴と為すべきこと、市の立つ日を公に定むべきこと。そして洩矢諏訪子を商業の司に任ずべきこと。この三つの腹案について神奈子がギジチと協議していたということは、すでに解りきった事実である。『八坂政権』の商業政策を左右する協議である。しかし裏を返せば、ギジチはその商圏を諏訪以南に持たない身で、幾らか大それた進言をしたということにもなろう。「ううん……」と、諏訪子は唸る。彼女の困惑を察してか、ギジチが応えた。

「そもそも私は北科野の豪族。それゆえ、王権のお墨付きを得たことを機に南科野にまで手を広げる腹積もりでございました。はっきりとしたことを申さば、諸方との武器の売り買いすら、南科野においては間に諸々の商人を置いて、莫大な進物と共に仲介を依頼せねば。なれど、諏訪に商館を築いて人が集まれるように計らえば、その手間も幾らか省けるのです。まこと、歯痒きことなれど」

 およそ悪びれる体(てい)や殊勝さというものがギジチにはいっさいなかった。当然あるべき自分の権利を諏訪子に踏み荒らされまいと、今の今まで策を巡らしていたかのように、しゃあしゃあと事の次第を口にしてみせる。斯様な事実を秘していたとは、このわたしを愚弄するにもほどがある……と、思わず諏訪子は口まで出かかる。けれど、すんでのところで思いとどまった。

 ギジチの言から類推するなら――ひと口に科野国内で活動する商人とは言っても、各地域ごとにそれぞれ異なる勢力が存在していることになる。各々の勢力は各々の結束や慣習に則り、他の勢力との取引に臨んでいたはずだ。ということは、各地域ごとに帳簿の表記方法が異なっていたことにも合点がいく。帳簿においてある表記を等しく使用しているということは、その表記は、同じ商集団に属する者同士で情報を共有し合うための『符丁』の役目を果たしている可能性がある。当然、その符丁は外部の人間から見てそう簡単に意味が解る類のものでもないだろう。何も複雑な策を用いる必要はない。少し頭の回る者なら、その符丁を“何か”の隠れ蓑、暗号として使うということは十分に思いつくはずである。

 では、それなら――なぜギジチは、その情報を今になって明かしたのか。

 意味するものは、ただひとつだろうと諏訪子は心中に臍(ほぞ)を噛む。『すべては商館の外で起きたこと。痛くもない腹を探られるのは迷惑至極』という意思としか思えない。やはり、何かを隠しているのだろうか。……いや、よもや商館の外で起きていることを自らの勢力外だからと『黙殺』『黙認』しているのではないかと思える節もある。あたかも、諏訪子がギジチの武器取引に対してそうしたごとく。それなら、南科野にギジチが勢力圏を持たないという話にもある程度は辻褄が合う。

 しかし、それだけである。
 どうにか糸口らしいものを掴んだところで、事の真相が重々しく闇の向こう側に横たわっていることは変わりがない。結局、ギジチの力でも科野の商取引を完全に把握することは未だ難しいということが明らかになっただけだ。長々とした溜息を、諏訪子は腹の底から吐き出した。苦労して手に入れた果実なのに、酸味ばかりで甘味は少ない。喩えて言うなら、そんな気分だった。

「御用向きの方は、もうよろしうございまするか。何もなければ、ギジチはこれにてお暇(おいとま)を致しとうございまする」
「どこへ行く」
「どこへとは……商人ゆえ、商いをしなければ。冬が来て雪で道が閉ざされてしまう前に、大方の取引を終えておきたいという者は、この商館に数多やって来ております。科野諸州のうちのみならず、国外からも」

 そう言うと、ギジチは諏訪子の許しも得ずに立ち上がる。
 最初の頃に彼が見せていた鷹揚さからすると、驚かずにはいられないような不遜ぶりだ。が、それはギジチもまた、血の通ったひとりの人間ということの証拠かも知れないと、諏訪子は思う。「さして何の実りもない会見に、貴重な時間を取られてしまった」。そんな具合の焦りが、彼が去り際に吐いた溜め息には、言外ながらもありありと滲み出ていたからだ。

「――やはり、どうかして次の手を考えねばならぬのかな」

 だが、どうやって。
 慣習として続いてきた商人同士の連帯が、特権の共有を意味するものであるのなら、そこに公の権限が立ち入ることはもっとも招かれざる事態のはずだ。何より、常に殊勝な態度だったギジチでさえ、自分の腹のうちを探られることを少なからず不快に思っているのは確実である。では、今いちど、帳簿の記述を検めることから始めるか。商館の床という床、壁という壁を暴いて何かの秘密が隠されていないか探し回るのか。

「ああ、忌々しい……」

 ユグルが、その根城に食べ物が無限に生えてくる木でも植えているのなら、それをはるばる引っこ抜きに行ってやる。そんな空想に浸りたい気分にさせられるほど、考え尽くしの諏訪子は頭が痛くなっていた。


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