「まだ起きてたの、魔理沙」
不意に、声をかけられた。
抑揚のない声色。感情を押し殺している様子もないのに、その音はどことなく異質な平坦さを感じ取れる。
だけど、私は特に不快に思わなかった。
何故ならこれが彼女の――幼少時よりの腐れ縁である博麗霊夢の常なのだと、重々承知しているからだ。
「どうした、霊夢。寂しくて独りじゃ眠れないか」
「んなわけないじゃない。まだ明かりがついてるから、てっきりあんたが火を消し忘れたかと思っただけよ」
「ああ、悪い悪い。つい熱中しちまった」
「寝る前の読書が好きって気持ちは分かるけど……もったいないじゃない」
霊夢が若干眉を顰め、部屋で唯一の光源となっているロウソクに目を向けた。
つられて視線を移す。火を灯したときは新品同然だったロウソクは、今やあと五分と持たないであろう長さにまでなっている。
となると、今はもう深夜に近い時間帯なのだろう。
こんな時間まで明かりがついているとあらば、家主である霊夢が心配して見に来るのは至極当然なのかもしれない。
私は月光を淡く反射する障子に膝立ちで近寄りながら、軽く風を起こしてロウソクの火をかき消した。
暗闇に沈む室内。不機嫌そうな霊夢の姿すらも刹那の内に消失する。
霊夢が抗議の声を上げる気配がしたが、構わず手にかけていた障子を勢いよく開けた。
「……っ」
降り注ぐ月明かりに視界が歪み、たまらず目を閉じる。
それも一瞬。恐る恐る瞼を開けると、縁側の向こうに静謐とした気配を漂わせる木々が立ち並んでいた。
その隙間から囁くように流れてくる風は、外気に晒している肌には少し冷たい。
冬の季節は過ぎ去ったとはいえ、薄手の寝間着ではまだ寒い。歯が鳴りかけるのを、素知らぬ顔で噛み潰す。
博麗神社を取り囲む森は、今夜も人気がなく静かだった。
そう、今日は霊夢の家で泊まっていた。珍しいことに、霊夢からの誘いで。
「これでいいだろ? こんな日は、月下の読書も悪くない」
「……まあ、いいけどさ」
霊夢は何故か不満げに呟きながら、私が先ほどまで寝転がっていた布団に、ぺたりと腰を下ろした。
どうしたのだろうか。まるで部屋を出ていく気配がない。
私の怪訝そうな眼差しから逃れるように、霊夢はほどかれた髪を所在なさげに弄り始めた。
風呂に入ってから一時間以上は経過しているはずなのに、その絹糸のごとき黒髪は、未だに溢れんばかりの艶で輝いていた。
さらに薄桃色の浴衣をさらりと着流し、その隙間からは赤く染まった素肌が見え隠れしている。
同じ女性である私から見ても、思わず胸が高鳴るほど扇情的な姿だ。
「……ずるいよなぁ、霊夢は」
「な、なによいきなり」
「いつも私の一歩半は進んでる」
「……なんだか視線がいやらしい気がするんだけど、あんたどこ見て言ってんのよ」
相変わらず勘の良い奴だ。
身を縮めながら睨みつけてくる霊夢に肩をすくめ、淡い銀光に照らし出された手元の書物に視線を戻した。
しばらくはつらつらと書き連ねられた活字を目で追っていたのだが。
「……どうした、寝ないのか。というか、なんでまだここにいるんだ」
「べ、別にいつどこで私が寝ようが、私の勝手でしょうが。私の家なんだし!」
「そりゃあ、その通りなんだけどさ」
だからといって、じっと見つめられても困るのだが。
――待てよ。そもそも霊夢が、いや霊夢の方から泊まれと誘われたことに疑いを持つべきだったのだ。
ならば彼女がこうして、まるで私が寝付くのを待っているのにも説明がつく。
つまり霊夢は、私を秘密裏に亡き者にしようとしている。あるいは、それと近い状況に陥れようと画策しているのだ。
目的はなんだ? 理由は? 考えれば考えるほど、些細ながらも思い当たる節がちらほら出てくる。
「……魔理沙。もしかして、なんか変なこと考えてない?」
「実家とは絶縁状態だから、人質や脅迫は無意味だ。金なんて持っちゃいない。希少品はせいぜい珍種のキノコ程度だぜ」
「うん、あんたが私をどういう目で見ているかがよく分かった。ぶっ殺すぞこの女郎」
「いやん怖いわ霊夢ちゃん」
「すごいわ魔理沙。今の、下卑た笑みでからかってくる紫そっくりだった」
「ごめん。本当にごめん。だからあいつと一緒にするのはやめてくれ」
深々と頭を下げると、霊夢が眉根にしわを寄せて鼻を鳴らした。
別に本気で怒っているわけじゃない。それくらいの判別がつく程度には、親しいつもりだ。
「それで、実際のところ用があるのか。こんな夜半に訪ねてくるってことは、それなりの理由があると思うんだが」
「……用がなかったら顔も合わせたくない?」
「ああもう、調子狂うなぁ。その程度の仲だったら、さっさと家に帰ってるって」
だからやめてくれないか。
その、風雨に弄ばれながら、段ボールの中から縋るように見上げてくる子犬のような目は。
らしくない。本当にらしくないよ、霊夢。
そんな感情が表情に表れてしまったのだろう。
霊夢は慌てた様子で視線を周囲に彷徨わせ、やがて天空に輝く一点を指さして言った。
「あっ、ほらほら! 月が綺麗よ!」
「そうだな。でも、それはレミリアに言ってやった方がいいぞ」
「……なんでレミリアの名前が出てくるのよ」
「こんなにも月が紅いのだから、うんちゃらかんちゃらってやつだ」
見上げて、血色に染まりあがった満月の中心に、小さく紅い姿を幻視する。
あいつのことを思い出したのは、きっと未だに初対面時の記憶が鮮明だからだろう。
初めて弾幕ごっこを用いて起こされた異変。
あの頃はルールや傾向がまだまだ荒削りだったせいか、近年に比べて安全性の確保や弾幕の予測が困難だった。
そしてレミリアこそが、私を初めて敗北させた妖怪だったのだ。
あのときほど死を覚悟した瞬間は、他にない。
倒れ伏した私に、レミリアはとても愉快そうにかつ傲慢な仕草で手を伸ばした。
――このまま殺されるのか。弾幕ごっこの大原則すら頭から抜け落ちて、柄にもなく心の底から諦観したものだ。
今となっては、ほとんど懐かしい記憶となっている。時折レミリアが笑い話として提供してくるほどに。
「魔理沙。いま、あんたと話をしているのは、だれ」
明確に不機嫌さを露わにした声が鋭く突き刺さる。
追憶に耽っていた思考はあっという間に引き戻され、不機嫌そうに口を尖らせる霊夢と真正面から対峙することになった。
それにしても、先の会話のどこに霊夢が不愉快になる要素があったのか、まるで見当がつかない。
これ以上矛先が向かないよう、極力刺激しないよう答えた。
「えっと、博麗の巫女、博麗霊夢さん、です」
「そうね。そしてその博麗霊夢さんの目の前にいるのは、普通の魔法使いである霧雨魔理沙。間違いはある?」
「な、ないです……」
「よろしい。私は、あなたに、『月が綺麗ですね』って言ったの。他に登場人物がいましたか?」
「いませんでした。私と、貴方だけです」
「ぐれいと。レミリア・スカーレットなんていない。蓬莱山輝夜も登場しない。おーけい?」
「お、おっけーね」
「上白沢慧音もいないわよね。もしかして、体に教えなければならないのかしら」
「すいません、き、肝に銘じます!」
「肝は藤原妹紅を連想するからお仕置きね」
「理不尽だ!」
頭を抱えて叫ぶと、霊夢はふっと表情を緩めて微笑した。
つられて私も吹き出してしまう。そして二人して、穏やかな時間の中笑いあった。
再び夜の静寂が波引くように訪れ、ふと霊夢が私の手元に視線をやった。
「そういえば、その本どうしたの? また無縁塚から拾ってきたの」
「うんにゃ。広くて素敵な大図書館からの贈り物だぜ」
「決め台詞は?」
「死ぬまで借りるぜ」
「ふふっ、相変わらずサイッテーの文句ね」
「これっぽっちの自覚もないな」
「それで、大嘘つきの魔法使いさんは何の本を読んでいるのかしら」
好奇心に瞳を輝かせた霊夢が、身を乗り出すようにして覗き込んでくる。
そう――この時までは。
「主に不老長寿について記載された魔道書もどきだよ」
「…………」
霊夢の表情が一変した。
眉間に深々と皺が刻まれ、その眼光は目に映る全てを射殺さんと鋭利に研ぎ澄まされる。
幾度となく修羅場を潜ってきた私をして、全身を駆け巡る怖気で呼吸が止まるほどだ。
ともすれば、異変解決時よりも遥かに剣呑である。
「……私も寝るから、霊夢も早く寝室に戻った方がいいぜ」
故に。
私が選んだ行動は、見て見ぬふりだった。
書物を枕元に放り、強いて何事にも気付かなかったような態度を装いながら、布団を捲りあげて潜り込んだ。
これでいい。どことなく情緒不安定に見える霊夢を、あえて刺激する必要はない。
私は、蛇どころか鬼の気配すら漂う藪を突くような愚か者ではないのだから。
「……魔理沙。ねえ、魔理沙」
だが、鬼の方から出向かれてしまっては、どうしようもなかった。
「無視しないでよ。私を見てよ、魔理沙」
「……なんだよ、もう眠いんだが」
「嘘つき。逃げてるだけのくせに。……答えてよ。あんたは、人間を捨てるつもりなの?」
「……今のところは、その気はないな」
嘘だ。
現在の心境と魔法の習熟度を考慮すれば、おおよそ半々である。
「じゃあ、なんでそんなモノ読んでるのよ。成り変わるつもりがないなら、必要ないじゃない」
「今はないってだけで、将来的には分からんからな。いざというときに知識すらないんじゃ、話にならん」
「……でもさ。あんたは、人間のままの方がいいと思うんだけど」
「なんでだよ。素質がないとでも言いたいのか」
「ち、違うわよ。……ただ、その、だから」
深々と俯き、もごもごと口ごもる霊夢。
そして緩やかに面を上げた霊夢の顔は、夜の闇をも煌々と照らさんばかりに真っ赤に染まっていた。
「……私と一緒に、人間として生きて、死んでくれないかなって」
「はぁ?」
到底信じられない言葉を耳にし、思わず間の抜けた声が漏れる。
霊夢は顔を両手で顔を隠して、「うぅ~~~」と小さく呻きながら布団に突っ伏した。
普段の淡白な彼女からは想像できない、非常に可愛らしい仕草。
だが、私はそもそも目の前にいる女性が博麗霊夢であることに、強い疑問を覚えざるを得なかった。
「え、あ、ちょ、ちょっと魔理沙?」
「…………」
腕を少し乱暴に掴んで引き寄せる。
耳まで赤くして戸惑った様子の『博麗霊夢』を入念に観察し、ぺたぺたと色々な場所を探り触れていく。
「ま、魔理沙……そこは、いや、くぅんっ」
「…………」
体格、骨格、声、霊力の波長、味、瞳孔、髪、体温、肌の質――そして魔術妖術霊術神の御業などの影響。
刻まれた記憶の中の霊夢と照合し、考えられる限りの手段手法を考察し、判断する。
結論――こいつは、紛うことなく博麗霊夢だ。
ならば、先ほどの世迷言は如何にトチ狂って繰り出されたものなのか。
「霊夢」
「はぅ……な、なによぅ……」
「妖怪に化かされたりしたか? 最近意識が突然飛ぶとか、記憶が曖昧な部分があるんじゃないか?」
「ん、んなもんないわよ。なんだってのよ、急に」
「それは私の台詞だ。さっきから――いや、そういや最初からおかしかったな」
紅魔館からの帰り、ふと博麗神社まで足を伸ばしてみた夕方。
本当は霊夢の顔を見て、夕食を相伴にあずかってから帰る予定だったのだが、そこを引き留められたのだ。
飯は食わせてやるから、その代わりに泊まっていきなさいと。
いつもの霊夢ならばむしろさっさと追い返すはずだというのに、私は珍しいこともあると疑いなく受け入れてしまった。
「らしくない、なんてモノじゃない。どこまで血迷ったんだ、お前」
「そ、そこまで言う!? 別に、たまには人恋しくなってもいいじゃない! 人間なんだから!」
「博麗霊夢でなけりゃそうだがな。偽物だった方がまだ納得いく」
「……っ!」
上気した頬に別種の赤が加わる。
柳眉を逆立てて睨みつけてきた霊夢は、私の両肩を掴んで布団の上に押し倒した。
肩に激痛が走る。寝間着を貫いて、霊夢の爪が皮膚に食い込んでいるのが知覚できる。
その痛みを奥歯で噛み潰し、かつて脳を揺さぶった言葉を、そのまま紡いだ。
「『私は私、他人は他人』」
「っ!?」
「『私に他人の区別はない。個々人という差はあれど、そんな違いは些末事でしかない』」
「…………」
「『あるのは、私か他者か。私は私という世界で満たされているのだから、他人に興味なんて抱きようもない』」
「……やめてよ」
「『だから魔理沙、あんたもそこらの木端妖怪や名も知らない人間と何ら相違は――』」
「お願いだから、今それを口にするのはやめてっ!」
石でも吐くかのように、重苦しく叫ぶ霊夢。
そして大声を出したことを恥じたのか、視線を外して幾分沈んだ口調で続けた。
「ええ……その持論は、まだ曲げてないわ。……他人なんてどうでもいい」
霊夢は、懺悔するように他者への無関心を語りだす。
馬乗りされる私はといえば、今にもぷつりと切れそうなほど張りつめた表情を、ぼんやりと眺めていた。
「今朝、夢を見たの。自分が死ぬ夢」
あれは、いつだったか。
唐突に『死』が肌に触れるほど身近に感じ取れてしまい、長すぎる夜を泣いて過ごした日があった。
「死が怖いわけじゃなかった。私が恐怖を感じたのは、死んだ後のことだった」
確か寝入っていた母さんを起こして、泣きついたような気がする。
支離滅裂に泣き叫ぶ私に対し、優しく抱きしめながら一つ頷いてくれたんだ。
「私がいなくなっても変わらず回り続ける世界。誰かが博麗を継いで、幻想郷はまた安定を取り戻すの」
その時、何事かを耳元で囁かれた。
内容こそ霞がかったようにおぼろげだが、ある感触だけは、魂に焼き付いたように覚えている。
「私が生きていた意味が、存在していた意味が分からなくなった。後世に何も残せなかったのなら、その生涯が無価値じゃなかったと、いったい誰が言ってくれるのかしら。世界を救う英雄や前人未到の道を切り開く指導者になりたいわけじゃない。私は私のまま、自身の価値を認めてほしいだけなのに」
今はもう、顔すらおぼろげで。
実家に勘当されて一番悲しかったのは、きっと母さんに胸を張って会えなくなったことだろう。
「他人に興味を持てない私は、誰とも深い関係に至らなかった。その結果、私は独りで死ぬことになった。そこに悲嘆も後悔もない……けど、やっぱり寂しかったの。この結末を誰よりも覚悟していたのに、孤独が死の瞬間まで心を苛んでいたの。自業自得なのに」
ねえ、母さん。
未熟で幼稚な私に、大切な友達を助けることができるのかな。
「でも、この夢はありえないだろうなって起きてから思った。だって、魔理沙がいるから。寂しがりやで小ガモみたいについてくる魔理沙なら、きっと死の果てまで一緒なんだろうなって勝手に安心してたの。だけどあんたには……あんたの道があるってこと、すっかり忘れてた。ごめん、八つ当たりだった。やっぱり私は――」
「霊夢」
「――死ぬまで独りで」
「本当に馬鹿なんだからな、霊夢は」
いつしか力が抜けていた霊夢の手を払いのけ、彼女の腰へと腕を回し引き寄せた。
ぽすん、と抱える懊悩の大きさに反して軽すぎる体を受け止め、優しく抱きしめる。
「わわわっ、ま、魔理沙!?」
そのしっとりと濡れた霊夢の髪に鼻を埋め、清潔感溢れる石鹸の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「――霊夢は、ここにいるじゃないか」
腕の中で、霊夢の体が動揺するように震える。
「普段は何も考えてないのに、こういう時だけ考えすぎるんだからな」
「なによ、それ……」
「人間はおろか、妖怪や神ですら死ぬんだ。その瞬間は、誰であろうと孤独だよ。その後のことなんて知ったことじゃないだろ? 死神の愚痴を聞きながら三途の川を渡って、小言が多い閻魔の判決を受けて、そこから先は未知の領域だ。自分の死後についてなんて考えを巡らせる暇なんてありゃしないさ」
「それは……そうかもしれないけど」
「だから、気にするな。今のお前は、博麗神社の一室で私の腕の中にいるってことだけを考えていればいい」
返事はなかった。
代わりに霊夢の腕が私の背中に回り、少し息苦しくなるほどに密着度が高まる。
死について真面目に思索してしまうと、その先行きの不安に反して満足な答えを得られず、ずるずると泥沼的な思考に沈むことが多い。
というのも、これは私の経験則だ。なまじ早熟だったせいか、一時期は夜に独りで寝られなくなった。
それを解決――というより忘れさせてくれたのが、母だった。
母の体温は、自分がいま生きていることを実感させてくれた。ここにいるんだ、と教えてくれた。
だからこそ、抱きしめてやりたかった。
そしてそれが功を奏した事実が、何よりも嬉しかった。
だけど少しだけ恥ずかしくなって、つい冗談のひとつでも言いたくなってしまうのは、しょうがないことだろう。
「それに、お前だって何も残せないってことはないと思うぜ」
「……うん。どうやって」
「せっかく女に生まれてきたんだから、子供を産むとかさ。里の男どもとか、なんなら香霖から種でも貰ったらどうだ」
「……下品。女として恥じらいくらい持ちなさいよ」
霊夢が顔を上げる。
その目尻は濡れたように潤んでいるものの、表情はいたって穏やかだ。
目論見が成功したことに気を良くして、さらに冗談まじりの言葉を紡いでいく。
「こういう話題で取り繕っても仕方ないだろ? ウブなネンネじゃあるまいし」
「死語でしょ、それは」
「忘れ去られたものが集まる幻想郷で、何をいまさら」
「それもそうか。うん、そうだよね」
淡く儚げな笑みを浮かべる霊夢。
泣き顔も悪くないが笑顔の方がいいな、と思いながら見上げていると。
「魔理沙も、ウブなネンネじゃないもんね」
唐突に、霊夢が焦点の合わなくなる距離まで接近してきて。
その柔らかな微笑みが、茹だった吐息が、しっとりとした体温が、撫で上げるように神経をささくれ立たせていく。
口づけされるのかと狼狽し、受け入れるとも拒絶するとも分からず、ただぎゅっと固く目を閉じる。
数秒して、唇に期待――あるいは恐れか――していた感触は訪れず。
生ぬるく細い風が、首筋をそっと擦ったかと思うと。
「――ぐぅっ!?」
頸動脈付近に、シャレにならないほどの激痛が走った。
かっと目を見開く。一瞬呼吸が止まり、次いで酸素を求める魚のように口をパクパクと開閉させる。
痛みに耐えつつ視線を下に移す。艶を保っている黒髪が、私の首元に食らいついていた。
「れ、いむっ……! お前、何をやって!?」
「んふふ……やっぱりそうだ」
霊夢はゆっくりとした動作で面を上げると、わずかな鮮血が付着した舌で唇を舐め上げる。
そして、出血している私の首筋を指でぐりぐりと乱暴に弄りながら、愉快気に囁いた。
「魔理沙はさ、苛められてる時の方が可愛いのよね」
「な、なんだっ……いつ」
「普段の、野良犬みたいに虚勢張った顔も悪くないけど、怒りの奥底に隠れた怯える今の表情、すっごくぞくぞくする」
そう嘯くと、私の両手を自身のそれで封じ、再び首筋に唇を寄せた。
息が詰まるほどの痛みが神経を焦がす。体が勝手に硬直し、全身を強張らせる。
しかしそれすらも歯ごたえが増して良しと言わんばかりに、霊夢の顎が喉笛に食らいついてきた。
「ぅ……っ!」
てらてらと濡れた鋭利なものが、私の中に、容赦なく潜り込んでくる。
その尖り具合は槍を想起させる。博麗霊夢の犬歯だろうか。
苦悶の声を漏らさないように歯を食いしばりながら、首の皮膚が徐々にへこみ、やがてぶちっと音を立てて破れるのを感じ取った。
頭の中が焼き付いたように熱くなり、意識が漂白されるように空白と化していく。
――やばい、このままだと。
何がまずいのかも分からず、渾身の力を振り絞って抵抗した。
腕を振り上げ、敷かれた布団を蹴り出し、体を捩って博麗霊夢からの逃亡を試みる。
だが実際は、自分よりも若干体格の大きい霊夢に上からしかと押さえこまれ、動くことすらままならない。
それどころか、霊夢の顎の力がどんどん強くなっていく。
肌を突き破り肉にまで至ろうとする行為は、まるで『動くと噛み千切るぞ』と脅しているかのようだ。
いや事実、そういった意図が込められていたのだろう。
命を握られていると覚った私が全身を弛緩させると、霊夢も歯を外し、傷口を嬲るように舐め始めた。
「――ふっ、んう」
舌が這い回る感触がこそばゆかった。
犬に舐め回されてる気分だったが、この黒犬は時折、傷口に尖らせた舌をねじ込み、流れた血液を啜るのだから、より性質が悪い。
目を固くつぶり、舌の熱さだとか皮膚を覆う滑りだとか荒く吹き付ける吐息だとかを耐えしのぐ。
視覚が閉ざされたことで、それらがより鮮明になってしまい、頬をさらに紅潮させる結果となったが、直視するよりかは遥かにマシだ。
気を抜けば流されてしまいそうだった。流されたらどうなるか、そんなことすら想像できないのに。
こうして耐えること、十数分。
散々首を嬲り尽くして満足したのか、霊夢はゆったりとした動作で顔を上げた。
ようやく終わったか、と息も絶え絶えな状態で目を薄く開ける。……途端に後悔した。
霊夢の瞳は今までになく――見たこともないほどはっきりと、情欲と極度の興奮で爛々と輝いていた。
こんな目をする奴が、このまま満足して眠るはずがない。
寝たふりでやり過ごすのが正解だと確信し、横を向いて目を閉じたところで、傾けた方面の頬をそっと押さえられた。
無理やり正面を向かされてしまったが、それでも口を一文字に引き締めて、ぎゅっと瞑目する。
「狸寝入りにしてはお粗末よ、魔理沙」
ばれていた。こいつの勘なら見抜くかもと危惧していたが。
それでも続行する。対抗手段が、今のところこれしか思いつかないから。
「ならそのまま聞いてね。ちなみにこれは決定事項だから、変更は不可能よ」
「…………」
嫌な予感しかしない。
「私、あなたを犯したい」
「……………………はぁ!?」
予想外もいいところ、青天の霹靂とも言うべき言葉に、思わず目を剥いて叫んだ。
すると目の前には、クスクスと柔らかに微笑む霊夢がいた。
先ほどの行為中は剥き出しの刃物のような危うい雰囲気だったが、今はすっかりいつものふんわりとした捉えどころのないものに戻っていた。
……ただし、溢れんばかりの欲望を湛える双眸は、幾ばくも陰りを見せていないが。
「もう一度言うわね。私は、あなたを、犯したい」
「…………おかしたい?」
「うん。犯したい」
「…………お菓子タイ?」
「精神的に、性的に凌辱したい。嫌がって泣いても構わず抱きたい。それから……」
「ちょちょちょちょと待て! どうしてそうなった、脈絡がなさすぎてまるで意味がわからんぞ!」
いや、脈絡ならあったかもしれない。
ジンジンと鈍痛を訴える首。この行為こそ、ある意味『そういうこと』をするための前準備だったのではないだろうか。
認めたくはないのだが、今の霊夢の様子からして、さほど間違った推理ではなかろう。
だからといって許容するかといえば、そんなわけはない。
「あー、あれだ。私たち、女同士じゃないか」
「私は別にあんたが女だから求めてるんじゃなくて、魔理沙だから欲しいのだけれど」
「うん、少し嬉しいセリフありがとう。でもさ、そういう答えを望んでいるんじゃないんだよ」
「御託はいいから、さっさと脱ぎなさい。いえ、脱がなくていい。私が脱がせる。むしろ脱がさせて」
「まあ、落ち着けいやだからちょっと待て服に手をかけるな懐に差し込むな胸を揉むな馬鹿やろう!」
パジャマのボタンを外しにかかる霊夢を制するが、依然彼女が覆いかぶさってきている体勢のため、力負けは必至だ。
現に霊夢は、私の抵抗を楽しむかのように笑みを浮かべながら、払われた手で別の部位をまさぐろうとする。
それを止めさせんとパジャマから手を放すと、やはりボタンを狙ってくるのだ。
完全に霊夢の思うがままだ。逆転の一手すら浮かんでこず、今はその場しのぎを続けるしか他にない。
「い、一旦落ち着こう。ほら深呼吸深呼吸」
「ええ。ひっひっふー、ひっひっふー」
「誰がラマーズ法をしろと。まだ子供なんて産む段階じゃなかろうに」
「そうよね、今から作るのよね」
「女同士とはいえ、行為自体はそのためのものだからな……って、することを前提に話をするな!」
「あんた、魔法で生やせたりしない?」
「何をだよ! いや、言わなくていい。あと魔法は万能じゃないから無理だ!」
「幻想郷には奇跡も魔法もあるのよ」
「だったら奇跡の方に頼め! 魔法は理論の構築をしなきゃ発生しないから、研究なしじゃ火の玉ひとつも作れやしない」
「で、でもさ……見知った同性に、そういうこと頼むの、恥ずかしいわ……」
「今更過ぎる反応だよ! その恥じらいの八割だけでも私にも向けてくれ! というか、どれだけ突っ込ませるんだよ!」
「襲うのは私だから魔理沙は突っ込まれる役目だけど……魔理沙も突っ込んでみたい?」
「あぁぁぁぁぁもぉぉぉぉぉぉぉぉ! なんなんだよなんなんだよこんちくしょー!」
いい加減頭痛がひどくなってきて、頭を抱えながら身悶えする。
このまま暴れ続ければ抜け出せるかも、と脳裏をかすめた瞬間、それを察知したかのように強く抱きすくめられた。
霊夢の呼吸音が耳朶をくすぐる。鼻息が敏感な皮膚を刺激するので顔を背けた。
しかしそれを許さぬとばかりに、霊夢がぺろりと耳たぶを舐めてきた。ぞくっとした。
「私さ、この感情が何なのか全然分からなかった」
全身を拘束されたまま、耳元で呟かれる。
その固い声色に、昂っていた精神が徐々に落ち着きを取り戻し始めた。
これまでのふざけた態度は、言い辛いことを口にするための潤滑油だったのだろう。
ならばと表情を引き締め、一字一句聞き逃さぬよう集中する。
「魔理沙を苛めたくて、泣かせたくて、困らせたくて、怒らせたくて、嫌がる魔理沙を無理やり組み敷いて襲いたくなるの」
「うん、最低だなお前」
真面目に聞こうとした私が馬鹿だった。
「でも、こうして魔理沙と話をして、ようやく理解できたわ」
「……なにをだ?」
「この感情、この衝動。これはまさしく――」
少しだけ体を離し、鋭い眼差しで私を射抜くと、
「これが、恋なのね――!」
「ふっざけんなあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
一瞬で頭に血が上り、真っ赤に染まった視界の中で、霊夢を思い切り突き飛ばした。
あっけなく後方へと吹き飛ぶ霊夢。何故か心底驚いたといったように、呆けた顔でこちらを見ていた。
だがそんなことに構っている余裕はなかった。
あまりにも度し難い暴論、到底認めることのできない暴言に、爆発したように激情が吹き上がった。
今度は私の方から距離を詰め、戸惑う霊夢の両腕を掴んで睨みつける。
「いいか、それは断じて恋じゃない。もっと別の、嗜虐心のようなものに他ならない」
「な、魔理沙、その、近いわ」
「恋っていうのはもっと甘くてふわっとしていて、それでいて少し酸っぱくて時々苦みすら感じることもあるんだ」
「えーと、それって、わたあめに人参とレモンの絞り汁をかければいいんじゃないかしら?」
「だめだ、そんな考えはダメダメだ! 食べ物じゃ代用できない、理屈で説明できない感情! これこそが、恋!」
がくがくと揺さぶり、心の底から反論する。
しばらくはされるがままの霊夢だったが、私の熱に当てられたのか、彼女も言葉に熱を篭めながら問うてくる。
「わかった、わかったから! じゃあ、どういうのが恋なの? 行動とか心境で示してちょうだい」
「よろしい。ならば教えよう。例えば……そいつのことしか考えられなくなって、体温が上昇して鼓動が早くなったりするんだ」
って、慧音が言ってた。
「私は今、魔理沙のことしか考えてないわ。体温だって平熱よりも上だろうし、すごくドキドキしてる」
「ええいそれだけじゃない! 他にも、そいつの隣にいるだけですごく安心できたり、ふとした日常に多幸感を覚えたりする」
現在読んでいる恋愛小説ではそんな描写をしていた。
「縁側で魔理沙とお茶を飲んでると、最近切なくなるほど幸せだわ。こう、きゅっと胸が締め付けられるような」
「それは私も同じだ。どういうわけか、昔から霊夢の隣は安心できるんだよなぁ」
「じゃあ魔理沙も、私に恋してるってこと?」
「……あれ? い、いやそうじゃない! べ、別に霊夢が好きってわけじゃないんだからな!」
「直訳すると『あなたが好きです』なのね、わかります」
「だから違うって! あとは、えーとえーと……」
「もういいじゃない。あんたは、本当に素直じゃないんだから」
聞き分けのない子供を諭すような笑顔で、霊夢が優しく手を握ってきた。
慈愛に満ちた瞳に見つめられ、不覚にもドキリとしてしまう。
その心情を類まれなる勘で察知したのだろうか、ゆっくりと、しかし無駄のない動きで寝間着を脱がしにかかる霊夢。
ある種の雰囲気に酔っている状態で、少なからず好意を持っている相手に求められた。
流されて事を致しても仕方ないだろう。――などという思考停止に至らないのが、生粋の乙女たる私だった。
「やっぱりさ、こういう形じゃ嫌だよ……」
ゆっくりと首を振り、手から逃れるように身を引いた。
霊夢の表情が曇る。そのことに心が少し痛んだが、ここであえて見逃していた違和感を口にした。
「霊夢は、私が好きなのか?」
「――――――ええ」
「嘘だな。本当は、私のことなんてどうでもいいって思っているくせに」
「そんな、ことは」
「私といて幸福を感じるのも嘘。ドキドキするのも嘘。単に人恋しさが募って、身近にいた私に白羽の矢を立てただけだろ」
「…………」
「嘘をつくには嘘に精通してなきゃならない。私は嘘つきだからな、お前程度の嘘なら見破れるぜ」
そう、最初から分かっていた。
霊夢はただ孤独という寒さから逃れたくて、たまたま訪ねに来た私で暖を取りたかっただけだということを。
だから冗談交じりの抵抗であしらっていた。どうせすぐに飽きるだろうと高を括って。
ところが、彼女を苛む孤独は私の予想の上をいっていたみたいだ。
夢を見た。これはおそらく真実。自身がいなくとも回る世界に恐怖を覚えたのも事実。
普段の博麗霊夢なら、さしたる興味も抱かずに忘れ去ったであろう夢の内容を、どうしてか今回に限っては目が覚めても脳裏を離れなかった。
その理由は知らない。知りたくもないし、どうせ鬼の霍乱で片付く事案だ。
友人が寂しがっているのなら、それを癒してやりたいのは山々なのだが。
私にできるのは、せいぜい文字通り抱きしめてやることだけだった。
「ごめんな、霊夢とはそういうことはできないんだ」
「……どうして」
「花も恥じらう乙女だからな。初めては、それ以降だって、私が好きで私を好きだと言ってくれる人としたい」
具体的な人物は、まだ現実には現れてはいない。
それでも恋に恋して夢を見る女の子には、決して譲れないところだった。
真摯に告げる私の言葉をどう受け止めたかは、俯く霊夢からは窺い知れない。
霊夢のことは好きだ。本人に伝える気は毛頭ないが、おそらく知り合いの中なら断トツで好意を抱いている。
だからといって、軽々に体を許すつもりもない。ましてや、彼女が私を好きでないのならばなおさらだ。
この気持ちだけは絶対に妥協したくない。
それでも、握りしめた拳で私に縋り付き、静かに肩を震わせる霊夢を見て見ぬふりなどしたくなくて。
「ほ、ほら、霊夢が頼めば喜んで受け入れる奴なんて十指に余るほどいるから! そいつらに助けを請えばいいさ!」
「…………」
「何なら私からも頼んでやるから! どいつもこいつも、少なくとも私以上に豊かな体格……してるし」
「…………」
「レミリアや萃香はともかく、八雲紫とか文屋とか……あいつらは、私より遥かに、その、ボンキュッボン、だしさ」
ふふ、泣けてくるぜ。
なにが悲しゅうて自分がぺったんなお子様だと力説しなければならないのか。
霊夢のためなら泥さえ啜る覚悟でいたが、こんなに辛くて苦いとは想像だにしなかった。
母さん、大人になるって悲しいことなんだね。
心の中で流れた涙を振り払い、努めて明るい口調で言う。
「他の連中がご要望なら、なんとしても渡りをつけてやるから……」
「魔理沙」
「ん? 誰がいいかもう決めてるのか――うわぁ!?」
視界が勢いよく変化し、背中に強い衝撃を受けて肺の空気が無理やり吐き出させられた。
しばし明滅する目を見開いて現状を確認する。
影のかかった霊夢の顔が、呼気すら届く距離にある。その両手は私の顔の両側面に突き立てられ、両膝で私の胴部を挟みこんでいる。
その後ろには見慣れた天井が広がっていることから、またもや霊夢に押し倒されたらしい。
つい先ほどの状態に戻ったかのようだが、一つだけ違う点がある。
それは霊夢の目だ。荒々しい情欲に満ちていたそれは、いつしか深く透明感のある何かに置き換わっていた。
この瞳は、いつか見たことがある。
夜が終わらない異変のときの、月の兎。いきなり山に越してきた神に追従していた、風祝。地の底で友人を思い騒動を起こした、火の猫。
これは確固たる覚悟を決めた者だけが宿す煌めきだと、対峙した瞬間に直感したものだ。
霊夢は、いったい何を覚悟したのか。
その答えは他ならぬ彼女自身が、緩やかに口を開いて語った。
「私も、魔理沙と同じ初めてなのよ」
「そうか。むしろ経験があったら、目玉が飛び出るくらい驚いてるだろうぜ」
「さっきまでは、魔理沙でいいやって思ってたけど」
「やっぱりその程度の認識だったか。いや、私が優先順位の上位にあるのは光栄ではあるけどな」
「今は、魔理沙がいいって思ってる。ううん、初めてだから魔理沙じゃなきゃ嫌だ」
「……私の答えは変わらないぞ。好きと思ってくれる奴じゃないと……」
「なら、それを行動で示して」
言うや、霊夢は自分の腰に手を回した。
すらりと抜き放たれる凶器。柔らかな月光を鈍く剣呑な輝きで反射するのは、一本の針である。
手のひらより長いそれは、数多の妖怪を物理的に貫き叩きのめしてきた、博麗霊夢御用達の武器だ。
霊力を込めれば鋭さが数倍増すという触れ込みの品だが、当然平時でも刺されば肌を破り肉を抉る危険な代物。
それを手で弄ぶ霊夢の姿に、さしもの霧雨魔理沙とて肝を冷やさないわけがない。
「はい、これ」
と、ビクビクしていたのも束の間。
霊夢はいたって冷静に凶器を手放すと、私の右手にしかと握らせた。
その意図が読めず、恐る恐る問いかける。
「こ、これで……どうしろって?」
博麗霊夢は、事もなさげに言い切った。
「もしも嫌なら、それで私を殺しなさい」
「はぁ!?」
「確かに一方的に襲うのは不公平だったわね。でも、これで平等。あんたにも権利を与えたんだから、好きにするわよ」
言って、霊夢は私の左手を持ち上げて、薬指に唇を寄せて。
「ぃたっ」
噛んだ。首の時より弱いが、歯形はしっかり残るであろう力加減だった。
そのまま舌で舐め回し、隣の指に移ってさらに咀嚼する。食い千切られないか心配だが、どうやら味わうに留まっているようだ。
粘ついた水音が静謐な寝室に響く。追随するように、徐々に速度を増す誰かの呼吸音。
私のだった。もはや鼻ではなく口で、まるで獣のように烈々と息を吸っては吐いている。
その原因は明白だ。
目の前で繰り広げられている、首の時は見れなかった、霊夢が私を食む姿。
さすがに本当の意味で『食べられる』のは御免被りたいが、指と指の間を熱心に舐められる感触に、全身が燃えるように熱くなった。
求められていると自覚すると、沸々と湧き上がるのは喜びの感情。
しばしうっとりと目を細めて享受するが――すぐに正気を取り戻して叫んだ。
「おい、霊夢!」
「刺しなさいよ。ほら、喉も心臓もがら空きじゃない」
「んなことできるかっ! 冗談もいい加減に……!」
針を部屋の隅に投げ捨ててから声を荒げるが、薄らと涙を浮かべながらも厳しい眼差しに射止められ、言葉を失う。
「嫌なら、遠慮せずに殴りなさいよ。唾を吐き捨てて見下してよ。気持ち悪い女だって振り払って出て行ってよ」
「……霊夢」
「顔を踏みつけて罵倒してよ。こんなのと知り合いだったことを後悔して忘れてよ。二度と私に会いたくないって拒絶してよ……」
五本の指を丁寧に噛み終わった後、上腕部へと昇るように唇を滑らせる霊夢。
そこに情欲の色は見て取れず、ただただ慈しむように舌を這わせては噛り付き、丹念に愛撫していく。
自身の欲望を解消するためではなく、まるで捨てられることを恐れて奉仕するような彼女に、二の句が継げなくなった。
……こうなっては、私も腹をくくるしかない。
「どうしても、したいんだな」
「私も、もう自分を抑えられない。優しくできるのも今が限度。だから、どうしても嫌なら……」
「頼みがあるんだが」
「なに? 大したことは叶えられないわよ」
「いや、その、な?」
顔がぐんぐん紅潮していっているのが、自分でも分かる。
それを見られるのが嫌で、霊夢の首に両腕を回し、頬と頬をこすり合わせられるほどに密着した。
そして、深夜の葉擦れよりも小さな囁きを、耳元に放つ。
「最中の姿、霊夢以外に見られたくないから……障子、閉めて?」
「――――――――ごめん」
◆
その夜。
巫女服を着た妖怪に全身を貪り食われる夢を見た。
◆
薄闇に広がるのは、自宅とは似ても似つかぬ天井だった。
ぼんやりとした視界を瞬きで正すこと数回。なおも判然としない意識の中、体を起こそうと力を込める。
――途端。全身を突き刺すような鈍痛が襲った。
たまらずきつく眉を顰め、顎を引いて視線を下に移す。
一糸も纏わぬ己の裸体。鳩尾から下部は布団で覆い隠されていたが、すぐにその元凶を発見した。
「ひどいなこりゃ……」
呻くように呟き、浮かんだ頭を再び枕に落とした。
血まみれだった。初めての時は血が出ると聞いてはいたが、明らかにその比ではない。
何しろ、露わになっている素肌に余すことなく朱色がこびりついていたのだ。
無論、それら全てが純潔を失ったがためではない。
理由は考えるまでもなく、いま隣でのんきに寝息を立てている少女だろう。
彼女の、妖怪顔負けの捕食行動により、乙女の柔肌は無残にも食い破られ、無数の歯形を刻まれてしまった。
「湯あみでもしたいところだが……たぶん地獄の苦しみだろうな」
出血こそ収まっているものの、ただの人間に一夜で傷を回復する能力はない。
血とか唾液とかその他もろもろの液体で汚れた体を清めたい欲求はあるが、少なくとも今夜は諦めるしかないようだ。
ちらりと目を横に向け、ほとんど諦めの溜息が口から溢れる。
「マジかよ……明日から出歩けるのかな、私は」
真っ先に目に飛び込んできたのは、夜空に君臨する、鮮血を身にまとった丸い月。
これはつまり、今の今まで屋内と外界を遮断する障子が開きっぱなしだったことを意味する。
記憶はおぼろげだが、確か閉めるよう霊夢に頼んだはずだ。
とはいうものの、この過失で彼女を責めたてる気にならない。いっぱいいっぱいだったのはお互い様だからだ。
「まあ、なるようになるよな」
ほとんど現実逃避するように、唯一の観客のはずの満月に向かって同意を求めた。
月は黙するばかりである。
「――ごめんね、魔理沙」
代わりに答える声があった。
誰かと問うまでもない。今この場には、私ともう一人しかいない。
「なんだ霊夢、起きてたなら言ってくれればいいのに」
「……月に話しかけるおバカと関係があるなんて思われたくなかったから」
「ひどいなっ! そりゃ私だって馬鹿みたいとは思ったけど、独り言をぶつぶつ口走るのも十分怪しいじゃないか」
「……どっちにしても、お近づきになりたくない人物だわ。まだお人形と友達になる方がマシね」
「さりげなくアリスを貶めてやるな。あれはあれで便利な――って、なんで顔を背けてるんだよ」
霊夢は、私の視線から逃れるように背中を向けていた。
彼女も服を着ていない。そのため、ゆで卵の白身のようにつるりとした白い肌が、惜しげもなく眼前に晒されている。
少し躊躇いながらも手を伸ばし、顔を合わせるべく肩を掴んで引っ張った。
すると霊夢は一瞬硬直した後、慌てた様子で私の手を腕だけで払いのけようとした。
「ちょ、ちょっとやめてよ!」
「あー? 人の目を見て会話をしろって親から教わらなかったのか、お前は」
「知らないわよ、そんなの! 自分の常識を押し付けないで!」
「いや、さすがにそれはないだろ。万国共通の常識だって、ほらほらこっち向け」
「だからやめ、ま、魔理沙!」
「なんなんだよその反応は、まったく失礼しちゃう……ぜ……」
業を煮やした私は、じたばたと暴れる霊夢を馬乗りで押さえつけ、両の頬を手で挟み込み、無理やり正面に向き直させた。
そして霊夢の顔を見た瞬間に絶句する。
「あの、霊夢さん?」
「……なによ」
「なんで、そんなに、お顔が真っ赤なんでしょうか?」
「ううううるさいわね! 今日は熱帯夜だから、ものすんごく暑いだけだから!」
へっくち、と可愛らしいくしゃみが小さく響いた。
それはそうだ。まだ冬が過ぎてから一か月も経過していない。むしろ肌寒いくらいだ。
鼻を軽く啜ってから、自分自身で言い訳を否定してしまったことに気付いた霊夢の赤面が、さらに朱色を増していった。
こみ上げる笑いを必死に堪えながら、剥き出しの肌を擦ってやる。
そんなんじゃ足りないわよ、と毒づきながらも、霊夢は心地よさそうに目を細めて微笑んだ。
だが、私の体中に刻印された霊夢の痕を見て、その表情が一気に暗くなった。
「……ごめん、痛かったよね」
「その思いやりは数時間前に欲しかったよ。痛いなんてもんじゃなかった」
「うぐ……だって初めてだったから、加減とか、全然分からなかったし」
「私もそうだって言ったじゃないか。噛みつきはもちろん、愛撫自体も強引すぎるんだよ。へたくそ」
「んなっ!? あれだけアンアンよがってたくせに、言うに事欠いてそれ!?」
「最後だけじゃないか。痛がってるのに『本当は気持ちいいんでしょう?』とか明後日の方向に勘違いして無理に続行してたし」
「うぐっ……だ、大体ほとんど私が責めてばっかだったじゃない! 少しは私にもしなさいよ!」
「む、むぅ……それは悪かったけど……だ、だけどお前ががっつきすぎて責める機会なんてなかったんだよ、この発情犬!」
「なにその言いぐさは! 魔理沙のくせに!」
「なんだと!」
「なによ!」
鼻息がかかるほどの至近距離で睨みあう。
そしてどちらからともなく吹き出し、互いに何の屈託もなく大笑いした。
一線を越えてしまったにもかかわらず、霊夢との関係が何一つ変わっていないことに安心したからだろう。
些細なことで喧嘩して、ふとした拍子に仲直りして、つまらないことで笑いあう。
こんなどうでもいい日常が、たまらなく愛おしい。
霊夢と性的な関わりを持つことに躊躇いを覚えたのは、この居心地のいい場所を失いたくなかったからでもある。
そう、博麗霊夢さえいれば。
霧雨魔理沙は、弱くて意地っ張りな霧雨魔理沙のまま、どんな空にだって笑顔で挑んでいけるから――。
腹の筋肉が引きつりそうなくらいに笑い通した後。
ふと霊夢は悲しみで潤んだ眼差しを布団に落とし、沈痛な面持ちで言った。
「私、魔理沙の優しさに甘えてばっかりね」
「甘えられるのは嫌いじゃない」
いつになく弱々しい霊夢の仕草が可愛くて、その黒髪をわしゃわしゃと撫で回した。
霊夢は困惑したように瞳を揺らすと、「……子供じゃないのに」と言い訳するように呟き、頭を私の胸にぽんと預けた。
きめ細やかな長い黒髪が素肌を刺激して、いやにむず痒い。
そして当然のように刻まれていた、今なお存在を主張する博麗霊夢の証も、疼きのような痛みを訴え続けている。
痛みは苦しくて嫌なものだとばかり思っていたが、幸せを感じることもあるらしい。
ぐりぐりと頭を擦り当ててきながら、霊夢は言った。
「骨が当たって痛いわ」
「申し訳ないぜ。ただいま乳房は絶賛家出中だ」
「でも、あたたかい」
「この程度の温もりで良ければ、いつでも」
「もう少しだけ、今夜だけは弱い私を許して。明日になったら、いつもの私だから。誰にも頼らず興味も抱かない博麗霊夢だから」
凍り付いたように平坦な声色だったが、きっと涙は瞼で必死に堪えているんだろう。
博麗霊夢はそういう奴だ。誰よりも冷めているくせに、誰よりも感情表現が豊かなのだ。
そんな彼女が、私は好きなのだ。
「本当に、どうしようもない馬鹿だなぁ」
霊夢の後頭部と腰に手をやり、力任せに引き寄せる。
その背中が驚いたようにびくりと跳ねたが、それ以上は、抵抗はおろか反応すらなかった。
代わりに、呆れかえった声が鼓膜に届いた。
「バカにバカって言われたくないわよ。ほら、傷口が開いちゃってるじゃない」
「噛んだ張本人に言われたくないよ。ああもう、それにしてもめちゃくちゃ痛いぞ。泣いてしまいそうだ」
「……朝、治療してあげるから忘れてちょうだい」
「無理だ。手足はおろか首に太ももに股間にふくらはぎに、もうとにかく体中がすんごく痛い。全身を包丁で刺されてる気分だぜ」
「悪かったわよ。だから許して……」
霊夢は少しだけ離れ、こちらを見やった。
眉を八の字に寄せて上目遣いにしている。理性がぶっ飛んでしまいそうなほど可愛いが、今の私には通用しない。
何せ、これまでの人生の中で一番怒っているのだから。
「いや、絶対に許さない。この怒りは三代末まで語り継いで、絶対に忘れないようにする」
「まりさぁ……」
「たとえ魔法使いとして悠久の時を過ごしても、霊夢のことは忘れない」
「……え?」
霊夢が、きょとんとした表情で固まった。
理解が追い付いていないらしい。口を半開きにしたまま、時間が止まったかのように静止している。
不意に、胸の中で小さな欲求が生まれた。
だが行為の正邪を見定める心的余裕もなく、また躊躇いすら一瞬たりとも過ぎらなかった。
唇に、ぷるんと柔らかなものが触れる。
味覚は味を感知しなかったのに、ただ甘いとだけ感じた。
「う、あ、ま、ままままままままりまりまりっ!?」
「え、えへへ……しちゃった」
「ああああああなたなななななになにしててっ!?」
完全に想像の埒外だったようだ。
霊夢は刹那の内に顔を沸騰させると、両手を無意味にわたわたと右往左往させる。
こんなものよりずっと凄いことをしたというのに、たかがちゅーでこれほど狼狽えるとは。
調子に乗って、もう一回重ねた。
今度は二人の唇が潰れて形を変えるくらいの力加減で、時間もちょっとだけ長い。
立ち上る湯気を幻視できるくらい頬を染めながら受け入れる霊夢。
心臓が破裂しそうなほど脈打っている。鼓動は今までになく躍動し、耳の奥で血液の激流が荒れ狂う音が鳴り響いている。
恥ずかしくて死んでしまいそうだ。でももっと続けたいという欲求だけが体を動かしている。
擦るだけの拙い口づけ。触れては離れ、照れ隠しに笑って、また重ね合わせる。
長年ゼロだった経験回数が、この数分だけで加速度的に増加していく。
徐々に手馴れてきて、無意識のうちにより気持ちよくなれる口づけを求めていった。
頬をそっと撫でさすり、手をしっかりと握りしめ、舌で歯茎や歯間を舐め回し、熱の籠った吐息すらも奪うように食らいつく。
思考力が極端に低下した私は、彼女のわずかな戸惑いすら無視して、ただ快楽を高めあう接吻と愛撫に浸った。
「んちゅ……ん、んん、ぷはぁ」
「~~~~~、~~~~!」
普段は、ぽけーっと間の抜けた顔でお茶を飲んでいることが多い霊夢。
どちらかというとあまり感情を表に出ない彼女が、私の一挙一動に翻弄されて悶える姿に強い征服感が湧き上がる。
次第に霊夢の方からも舌を絡ませてきて、溢れた涎が口端から垂れてきて、布団を汚していく。
段々体が火照ってくる。ちらりと視線を下ろすと、霊夢の太ももが何かを我慢するようにもじもじと擦りあわされていた。
理性の限界点を感じ取った私は、名残惜しく思いながらも唇を離す。
小さく突き出された互いの舌は唾液の橋で結ばれ、やがて重力に負けてぷつんと切れた。
「……まあ、なんだ、そういうわけだから」
今更気恥ずかしくなって、頭を掻きながら言った。
顔はおろか耳から首元まで鮮やかな朱色に染めた霊夢が、熱に浮かされたように焦点の合わない瞳を向けてくる。
「魔理沙ぁ……」
「お前に残せるものがないってんなら、私が残してやる。博麗霊夢の生きた証を語り継ぐ」
霊夢は言った。
私が死んでも、博麗霊夢がいなくなっても平穏に回り続ける幻想郷が怖いと。
人生の主役である己が、世界にとっては取るに足らない小さな歯車だったことが、否応なく思い知らされるから。
幻想郷にとって博麗の巫女は不可欠だが、別に『博麗霊夢』でなければならないわけでもない。
霊夢が死んでも他の人間が『博麗』を名乗り、また幻想郷は恙なく続いていく。
いくらでも代わりがいるという事実は、その存在意義を大いに疑わせる。生きている意味を揺らがせるのだ。
でも、私にとって博麗霊夢はお前ひとりで、そんな霊夢が大好きで。
「私が霊夢の残したモノになるから、安心して死んでくれ」
我ながら、酷く不器用な物言いだ。
伝えたい想いは言葉に尽くせないほどあるのに、しかも素直に言えずに照れ隠しの棘を混ぜてしまう。
……だって、恥ずかしいし。
「――あんたの方が、よっぽどバカよ」
だが霊夢は、全てをお見通しと言わんばかりに優しい微笑みを浮かべる。
目尻から細々と伝い落ちるのは一筋の雫。
その綺麗な表情にしばし見惚れ、それがくしゃりと歪んだ瞬間、咄嗟に霊夢の頭を胸に抱きかかえた。
「う、うぅぅ……」
「これだけ変わり者が集まる幻想郷だ。一人くらいそんな馬鹿がいたっておかしくないよな」
「ふぐっ、そう……かも、ね。ごめん、ごめん……なさい」
霊夢の腕が背中に回され、息苦しいほどに力を籠められる。
正直な話、かなり痛い。なにせ背中にも霊夢の噛み跡がしっかりと残っているからだ。
しかしそんなことはおくびにも出さず、霊夢の頭を撫でてやる。
「気にすんな、どうせ魔法を極めるまでのついでだ」
「でも……そのせいで、あんたは、決めちゃったじゃない……妖怪になって、長すぎる時間を……生きることを」
徐々に背中の震えが大きくなっていく霊夢。
どうやら私が不老長寿になることに対して負い目を感じているようだ。
それこそお門違いだというのに、何を勘違いしているのだろうか。
「変わらないぜ、霊夢。今までのように、これからだってそうだ。私たちは、死ぬまで生きるんだ」
「死ぬまで……生きる?」
「ああ。その間が百年だろうと千年、万年だろうと関係ない。せいぜい、死ぬまでだからな」
そう、死ぬまで。
私はきっと死ぬまで覚えているだろう。
記憶は薄れていく。
霊夢が死んで五十年経てば感触を、百年経てば匂いを、五百年経てば声を、千年経てば姿を忘れるに違いない。
それでも、一万年経っても忘れられないものだってあるはずだ。
幻想郷には博麗霊夢という少女がいて、そいつは他人に無関心で、だけど感情が豊かで、少し寂しがりやで。
たまたま隣で座っていた霧雨魔理沙を襲い、全身に自分の痕を刻み込んだ迷惑な奴。
そのことだけは、死ぬまで忘れたりはしない。
そう断言すると、霊夢は涙を零しながら口元を綻ばせた。
「うん……嬉しい。だけど、やっぱり寂しい」
「これ以上どうしてほしいんだ?」
「じゃあ、一緒に死んで。一緒に三途の川を渡って、閻魔の裁きを受けて、地獄の底までついてきてよ」
冗談っぽく、しかしその眼差しはどこまでも透き通っていて、その決意の程が窺える。
だが即座に拒否した。それだけはごめんだからだ。
「いやだ。絶対に、お前とは死にたくない」
「どうしてよ。もしかしたら来世でも一緒になれるかもしれないわよ」
「だからだよ」
また出会ったら、絶対にまた好きになる。
長い長い輪廻の旅路だ。どうせなら、今度は違う奴を好きになりたいものだ。
口には出さないで、さらさらの黒髪を指に絡めて手櫛でゆっくりと梳く。
心地よさそうに目を閉じながら、霊夢は問うた。
「魔理沙」
「なんだ」
「私のこと、好き?」
「そうでもないぜ」
「死んでも一緒にいてくれる?」
「死んだらお別れだよ」
「大好きって言ったら信じてくれる?」
「嘘は私の専売特許だぜ」
「そうよね、魔理沙は嘘つきだもんね」
「お前だって嘘をついただろうが」
「うん。じゃあ、あと一回だけ嘘つかせて」
降り注ぐ月光の下。
私たちは誓うように手を重ね、凍える声で互いを温めた。
「大嫌いよ、魔理沙」
「大嫌いだぜ、霊夢」
◆
翌日。
朝食を食べ終わった私は、縁側で晴れ渡った空を眺めていた。
澄みきった青空。朝の目覚めを告げる鳥の声。夏の薫りを伴うそよ風の匂い。
朝特有の清浄な空気を胸いっぱいに吸い込んでいると、汚泥のように身体の奥底に沈殿した熱が、ゆっくりと排出されていく。
徐々に冴えていく頭は、複雑に組み合わさっていた気持ちを緩やかに整理していった。
起きて朝食を食べる頃には、私と霊夢は以前と変わらぬ関係に戻っていた。
私が「野菜の天ぷらと味噌汁だけってしけたおかずだな」と悪態をつけば、「なら食うな無駄飯食らい」と素っ気なく返される。
昨夜の、嵐のような出来事が本当に夢であったと思えるほどだ。
それはそれで少しだけ寂しい気がしたが、あれに引きずられて霊夢とギクシャクする方が余程嫌だった。
傷の手当は、起床してすぐに行われた。全身に軟膏を塗る霊夢は、特に詫びや悔いる言葉を口にすることもなく、無言で淡々となされた。
霊夢が忘れようとしている、あるいはもうどうでもよくなっているのであれば、私も倣うべきだろう。
処女を奪われたのは、まあ犬に噛まれたようなものだと無理やり飲み込むしかない。
加えて色々と恥ずかしいセリフを連発していた記憶があるが、異変でも起こればすぐに頭から抜け落ちるだろう。
「あ~あ、誰か超弩級の異変を起こさないかなぁ」
なんて、後先考えず呟いたのがまずかったのだろうか。
異変が起きた。
それも幻想郷の長き歴史の中においても群を抜いて強大で、かつ長期に渡って解決されることのないものが。
首謀者は、幻想の箱庭を守護する立場であるはずの人物。
そう――博麗霊夢その人である。
ふと、背後に人の気配を感じた。
私は微動だにしなかった。霧雨魔理沙にとって、もっとも馴染みのある人間の気配だったからだ。
変わらず彼方の空を遠望しながら、真横の床を軽く叩いた。
その意思表示を正確に理解した彼女は、静かに腰を下ろした。手のひら一つ分の隙間が、心地よい距離だった。
特に会話はない。だが息苦しい沈黙でもない。
話さなくては気まずい、なんてちっぽけな絆を繋いでいるような関係ではないから。
だが――心がざわつくような、チリチリと肌がひりつくような感覚があった。
わずかな不快感が棘のように突き刺さる。どうした、と声をかける前に、ちらりと視線をそちらに向けた。
霊夢が、私を見ていた。
しかもその表情はいつもの仏頂面ではなく、凪のように穏やかな微笑。
驚きや疑問よりも先に、強く鼓動が高鳴った。
「――魔理沙」
桜色の唇が、小さく開いて名前を呼んだ。
自分の顔が熱くなるのを自覚し、動揺を何とか押し込めながら聞いた。
「な、なんだよ。霊夢」
「呼んでみただけ」
悪戯っぽく、しかし邪気のない笑みで答える霊夢。
私は情けなく口ごもりながら「そ、そうか」と頷くに留まった。
「魔理沙」
「……今度はなんだよ?」
「ふふ、返事してもらいたかっただけ」
「あ、ああ……」
なんだろう、この状況。
霊夢が楽しそうなのは喜ばしいことだが、違和感が半端ない。
一体何がどうなっていて、私は何を求められているのだろうか。
「魔理沙」
「……なんだ」
「魔理沙」
「どうした……霊夢」
「うん、名前を呼んでもらいたかっただけっ」
言うや、はにかんだ霊夢の顔が急接近してきて。
「……ちゅ」
「っ!?」
触れるだけの、ちゅーをされた。
かっと頭に血液が昇る。見開いた瞳に映った視界が真紅に染まり、瞬くように明滅した。
すぐに離れるも、照れくさそうに頬を赤らめた霊夢は、再び唇を重ねてくる。
「んちゅ……ふわ、魔理沙ぁ……れろ」
「ちょ、ま、ちゅう……れ、れいむっ!」
「んー? なぁに?」
「ななななな、なにすんだよ! その、ちゅ、ちゅーなんて!」
「え? だって、したかったんだもん」
にっこりと微笑み、感触を確かめるように自身の唇を指でなぞった。
その口唇は濡れ光っており、それが私の唾液かもしれないと思うと、お腹の奥がじわりと熱くなる。
首をぶんぶんと振り、脳裏をよぎったふしだらな光景を打ち消した。
「だから! 別に私たちはそんな関係じゃないだろう!?」
「え? だって、昨日は魔理沙の方からキスしてきたじゃない。つまり私が好きなんでしょう?」
まるで私の方が意味不明なことを言っているというように、霊夢は不思議そうに首を傾げた。
うぐっと言葉に詰まる。
「た、確かに私からちゅーしたけど……でもあれは、うん、雰囲気に流されたというか!」
「流されて、好きでもない相手とキスできるの?」
できない。土下座されてもお断りだ。
好きでもない相手に迫られたなら、そいつの喉笛を食い千切ってでも拒絶する程度の貞操観念は持ち合わせているつもりである。
だが、それを認めてしまうと、私がまるで霊夢のことを心から大好きだと認めてしまうみたいだった。
歯を強く噛み合わせ、なんとか良い言い訳はないかと脳内を高速で検索する。
そんな私を面白がるように、霊夢は朗らかに言った。
「ほら、やっぱり。両想いならキスしたっておかしくないわよ」
「りょ!? ううううう嘘つけ、霊夢は、私のことなんてどうでもいいだろ、興味だってないはずだ!」
「ううん、好き。私、博麗霊夢は、霧雨魔理沙が大好きっ」
ひまわりの花弁が目の前で開いたと錯覚するほど、輝かしい笑顔が満面に広がる。
絶句した。あの博麗霊夢が、これほど好意を露わにする姿など、今まで一度たりとも目撃したことはなかったから。
もしも異変認定委員会なんてものがあるのなら、満場一致で確定だ。
名は『でれいむ異変』なんてどうだろうか。異変の損害は、霧雨魔理沙の心臓が定期的に爆発するとか。
それにしても――
霊夢の発言には、まるで嘘の気配を感じ取れなかった。
長年嘘をつき続けた玄人としての五感が、何よりも信頼している直感が、彼女は本音を語っていると断言する。
霊夢が、私を好きだって?
一度は狂おしいほどに強く望んだ言葉。
けれども、いざ本人の口から語られると、遠い国の夢物語のセリフのように現実味がない。
あまりに衝撃的な展開に硬直していると、霊夢は思い出したように言った。
「あ、そうだ。これから出かけるから準備してね」
「……お? おお、そうか。いってらっしゃい」
「なんで他人事なの。あんたも行くに決まってるでしょうが」
「どこに、というかなんでだ。それに悪いけど、今はちょっと出歩きたくない……」
視線を落とし、ああ、と納得したように頷く霊夢。
現在私こと霧雨魔理沙の全身は、まるで刺青のように刻まれた霊夢の歯形で埋まっているのだ。
遠目ならいざ知らず、至近距離で顔を突き合わせれば、これが何なのかは一目瞭然。
その隣で素知らぬ態度の霊夢がいるのなら、『お相手』が誰なのかを察するのは簡単だろう。
仮に霊夢が本当に私を好きなんだとしても、やはり喧しい連中にむやみやたらと吹聴する真似は避けたかった。
――なんて至極切実な願いを、霊夢はあっさりと却下する。
「駄目よ。魔理沙には私とずっと一緒にいてもらわないといけないし」
「……は? どういう意味だ」
「善は急げっていうしね。帰りに魔理沙の家に寄って、すぐに必要なものだけでも移動させないと」
「何の話を……いや、移動ってどこに?」
当然の疑問を、疑問など持ちようもないという態度で返された。
「うちに。だって、これからは一緒に暮らすんだから」
「えっ」
「でもあんた一人だと無駄なガラクタも大量に持ってくるだろうから、見張りしなきゃね」
「ちょ、ちょっと待てって! だからど……同棲とか、なんで……」
「――私が残したモノに、なってくれるんでしょ?」
手のひらに温かな感触。
指と指の間にも隙間が出来ないよう、固く握りしめられる。
絶対に逃がさないわよ、と心を鷲掴みされた気がした。
「これから毎日、二度と忘れないように刻み込んであげる。あらゆる行動を共にして、全ての感情をあんたにあげる」
「……じゃあ、いずれ霊夢のことなら私が一番詳しくなれるのか?」
「もちろん。私の好物も嫌いなものも、どう思考して立ち振る舞って何を願っていたのかも、喜怒哀楽も大好きも大嫌いも、くまなく惜しみなく与えるわ」
「全部知るには、どれくらいかかるんだよ」
霊夢は笑った。
小さく小さく、それでいて心の底から幸せそうに。
「私が死ぬまでに決まってるじゃない。死ぬまで教え続けてあげる」
「その後は、妖怪になった私が死ぬまで霊夢を覚えていなきゃならないんだな」
「本当は物理的に一緒に逝きたいけどね。でも、そういう死に方も悪くないわ」
どういう意味だ、と目で問いかける。
繋いでいない方の手が伸びる。細くて柔らかいそれは、私の胸の中心にそっと置かれた。
「魔理沙が覚えている限り、私は生き続ける。だから、魔理沙が死ぬときは、私が死ぬときでもあるの」
「誰の記憶からも消え去った瞬間が、その人物が本当に死ぬとき……か」
「ええ。だから、ずっと一緒。そこに私の魂はないけど、どんな状況であんたが死んでも、私が一緒だから」
私たちはこれから先、何が起ころうとも決して孤独じゃない。
私には霊夢がいる。霊夢には私がいる。
そして他ならぬ霊夢が、その役目を私に求めている事実に、目頭が急激に熱くなった。
「格好つかないんだから。でも、やっぱり魔理沙の泣き顔は可愛いわね」
からかうような言葉に、けれど私は反論できなかった。
唇を強く噛みしめているから。喋るために口を開こうとすれば、即座に滂沱たる涙が零れると自覚していたから。
それを解きほぐそうとするように、霊夢は目尻に唇を寄せる。
どこまでも優しく、いつまでも温かく、誰よりも近くで、こんなにも愛おしげに。
「私の前では、あんたはあんたらしくいなさい。そんな魔理沙が、好きなんだから」
――ああ。
――私も、霊夢のことが好きだぜ。
◆
「ところでさ」
「うん、なぁに魔理沙」
「今からどこに行く予定なんだ?」
「紅魔館よ。正確に言えば、その地下にある大図書館」
「パチュリーに用事か? それとも本でも探してるのか」
「後者ね。まあ、その本を見つけるためにパチュリーを頼ることは十分考えられるけど」
「へえ、霊夢も本を読む日があるんだ。何の本をご所望なんだ?」
「調教の本」
「……霊夢、何か動物でも飼ってたか? それとも妖精どもに使うのか」
「あっちこっち忙しなく走り回る黒白犬を、主人の後追い自殺させる躾の方法が知りたいの」
「………………そっか」
「魔理沙も手伝ってくれない?」
「…………いや、私は」
「返事は?」
「………………………………………………………………はい」
不意に、声をかけられた。
抑揚のない声色。感情を押し殺している様子もないのに、その音はどことなく異質な平坦さを感じ取れる。
だけど、私は特に不快に思わなかった。
何故ならこれが彼女の――幼少時よりの腐れ縁である博麗霊夢の常なのだと、重々承知しているからだ。
「どうした、霊夢。寂しくて独りじゃ眠れないか」
「んなわけないじゃない。まだ明かりがついてるから、てっきりあんたが火を消し忘れたかと思っただけよ」
「ああ、悪い悪い。つい熱中しちまった」
「寝る前の読書が好きって気持ちは分かるけど……もったいないじゃない」
霊夢が若干眉を顰め、部屋で唯一の光源となっているロウソクに目を向けた。
つられて視線を移す。火を灯したときは新品同然だったロウソクは、今やあと五分と持たないであろう長さにまでなっている。
となると、今はもう深夜に近い時間帯なのだろう。
こんな時間まで明かりがついているとあらば、家主である霊夢が心配して見に来るのは至極当然なのかもしれない。
私は月光を淡く反射する障子に膝立ちで近寄りながら、軽く風を起こしてロウソクの火をかき消した。
暗闇に沈む室内。不機嫌そうな霊夢の姿すらも刹那の内に消失する。
霊夢が抗議の声を上げる気配がしたが、構わず手にかけていた障子を勢いよく開けた。
「……っ」
降り注ぐ月明かりに視界が歪み、たまらず目を閉じる。
それも一瞬。恐る恐る瞼を開けると、縁側の向こうに静謐とした気配を漂わせる木々が立ち並んでいた。
その隙間から囁くように流れてくる風は、外気に晒している肌には少し冷たい。
冬の季節は過ぎ去ったとはいえ、薄手の寝間着ではまだ寒い。歯が鳴りかけるのを、素知らぬ顔で噛み潰す。
博麗神社を取り囲む森は、今夜も人気がなく静かだった。
そう、今日は霊夢の家で泊まっていた。珍しいことに、霊夢からの誘いで。
「これでいいだろ? こんな日は、月下の読書も悪くない」
「……まあ、いいけどさ」
霊夢は何故か不満げに呟きながら、私が先ほどまで寝転がっていた布団に、ぺたりと腰を下ろした。
どうしたのだろうか。まるで部屋を出ていく気配がない。
私の怪訝そうな眼差しから逃れるように、霊夢はほどかれた髪を所在なさげに弄り始めた。
風呂に入ってから一時間以上は経過しているはずなのに、その絹糸のごとき黒髪は、未だに溢れんばかりの艶で輝いていた。
さらに薄桃色の浴衣をさらりと着流し、その隙間からは赤く染まった素肌が見え隠れしている。
同じ女性である私から見ても、思わず胸が高鳴るほど扇情的な姿だ。
「……ずるいよなぁ、霊夢は」
「な、なによいきなり」
「いつも私の一歩半は進んでる」
「……なんだか視線がいやらしい気がするんだけど、あんたどこ見て言ってんのよ」
相変わらず勘の良い奴だ。
身を縮めながら睨みつけてくる霊夢に肩をすくめ、淡い銀光に照らし出された手元の書物に視線を戻した。
しばらくはつらつらと書き連ねられた活字を目で追っていたのだが。
「……どうした、寝ないのか。というか、なんでまだここにいるんだ」
「べ、別にいつどこで私が寝ようが、私の勝手でしょうが。私の家なんだし!」
「そりゃあ、その通りなんだけどさ」
だからといって、じっと見つめられても困るのだが。
――待てよ。そもそも霊夢が、いや霊夢の方から泊まれと誘われたことに疑いを持つべきだったのだ。
ならば彼女がこうして、まるで私が寝付くのを待っているのにも説明がつく。
つまり霊夢は、私を秘密裏に亡き者にしようとしている。あるいは、それと近い状況に陥れようと画策しているのだ。
目的はなんだ? 理由は? 考えれば考えるほど、些細ながらも思い当たる節がちらほら出てくる。
「……魔理沙。もしかして、なんか変なこと考えてない?」
「実家とは絶縁状態だから、人質や脅迫は無意味だ。金なんて持っちゃいない。希少品はせいぜい珍種のキノコ程度だぜ」
「うん、あんたが私をどういう目で見ているかがよく分かった。ぶっ殺すぞこの女郎」
「いやん怖いわ霊夢ちゃん」
「すごいわ魔理沙。今の、下卑た笑みでからかってくる紫そっくりだった」
「ごめん。本当にごめん。だからあいつと一緒にするのはやめてくれ」
深々と頭を下げると、霊夢が眉根にしわを寄せて鼻を鳴らした。
別に本気で怒っているわけじゃない。それくらいの判別がつく程度には、親しいつもりだ。
「それで、実際のところ用があるのか。こんな夜半に訪ねてくるってことは、それなりの理由があると思うんだが」
「……用がなかったら顔も合わせたくない?」
「ああもう、調子狂うなぁ。その程度の仲だったら、さっさと家に帰ってるって」
だからやめてくれないか。
その、風雨に弄ばれながら、段ボールの中から縋るように見上げてくる子犬のような目は。
らしくない。本当にらしくないよ、霊夢。
そんな感情が表情に表れてしまったのだろう。
霊夢は慌てた様子で視線を周囲に彷徨わせ、やがて天空に輝く一点を指さして言った。
「あっ、ほらほら! 月が綺麗よ!」
「そうだな。でも、それはレミリアに言ってやった方がいいぞ」
「……なんでレミリアの名前が出てくるのよ」
「こんなにも月が紅いのだから、うんちゃらかんちゃらってやつだ」
見上げて、血色に染まりあがった満月の中心に、小さく紅い姿を幻視する。
あいつのことを思い出したのは、きっと未だに初対面時の記憶が鮮明だからだろう。
初めて弾幕ごっこを用いて起こされた異変。
あの頃はルールや傾向がまだまだ荒削りだったせいか、近年に比べて安全性の確保や弾幕の予測が困難だった。
そしてレミリアこそが、私を初めて敗北させた妖怪だったのだ。
あのときほど死を覚悟した瞬間は、他にない。
倒れ伏した私に、レミリアはとても愉快そうにかつ傲慢な仕草で手を伸ばした。
――このまま殺されるのか。弾幕ごっこの大原則すら頭から抜け落ちて、柄にもなく心の底から諦観したものだ。
今となっては、ほとんど懐かしい記憶となっている。時折レミリアが笑い話として提供してくるほどに。
「魔理沙。いま、あんたと話をしているのは、だれ」
明確に不機嫌さを露わにした声が鋭く突き刺さる。
追憶に耽っていた思考はあっという間に引き戻され、不機嫌そうに口を尖らせる霊夢と真正面から対峙することになった。
それにしても、先の会話のどこに霊夢が不愉快になる要素があったのか、まるで見当がつかない。
これ以上矛先が向かないよう、極力刺激しないよう答えた。
「えっと、博麗の巫女、博麗霊夢さん、です」
「そうね。そしてその博麗霊夢さんの目の前にいるのは、普通の魔法使いである霧雨魔理沙。間違いはある?」
「な、ないです……」
「よろしい。私は、あなたに、『月が綺麗ですね』って言ったの。他に登場人物がいましたか?」
「いませんでした。私と、貴方だけです」
「ぐれいと。レミリア・スカーレットなんていない。蓬莱山輝夜も登場しない。おーけい?」
「お、おっけーね」
「上白沢慧音もいないわよね。もしかして、体に教えなければならないのかしら」
「すいません、き、肝に銘じます!」
「肝は藤原妹紅を連想するからお仕置きね」
「理不尽だ!」
頭を抱えて叫ぶと、霊夢はふっと表情を緩めて微笑した。
つられて私も吹き出してしまう。そして二人して、穏やかな時間の中笑いあった。
再び夜の静寂が波引くように訪れ、ふと霊夢が私の手元に視線をやった。
「そういえば、その本どうしたの? また無縁塚から拾ってきたの」
「うんにゃ。広くて素敵な大図書館からの贈り物だぜ」
「決め台詞は?」
「死ぬまで借りるぜ」
「ふふっ、相変わらずサイッテーの文句ね」
「これっぽっちの自覚もないな」
「それで、大嘘つきの魔法使いさんは何の本を読んでいるのかしら」
好奇心に瞳を輝かせた霊夢が、身を乗り出すようにして覗き込んでくる。
そう――この時までは。
「主に不老長寿について記載された魔道書もどきだよ」
「…………」
霊夢の表情が一変した。
眉間に深々と皺が刻まれ、その眼光は目に映る全てを射殺さんと鋭利に研ぎ澄まされる。
幾度となく修羅場を潜ってきた私をして、全身を駆け巡る怖気で呼吸が止まるほどだ。
ともすれば、異変解決時よりも遥かに剣呑である。
「……私も寝るから、霊夢も早く寝室に戻った方がいいぜ」
故に。
私が選んだ行動は、見て見ぬふりだった。
書物を枕元に放り、強いて何事にも気付かなかったような態度を装いながら、布団を捲りあげて潜り込んだ。
これでいい。どことなく情緒不安定に見える霊夢を、あえて刺激する必要はない。
私は、蛇どころか鬼の気配すら漂う藪を突くような愚か者ではないのだから。
「……魔理沙。ねえ、魔理沙」
だが、鬼の方から出向かれてしまっては、どうしようもなかった。
「無視しないでよ。私を見てよ、魔理沙」
「……なんだよ、もう眠いんだが」
「嘘つき。逃げてるだけのくせに。……答えてよ。あんたは、人間を捨てるつもりなの?」
「……今のところは、その気はないな」
嘘だ。
現在の心境と魔法の習熟度を考慮すれば、おおよそ半々である。
「じゃあ、なんでそんなモノ読んでるのよ。成り変わるつもりがないなら、必要ないじゃない」
「今はないってだけで、将来的には分からんからな。いざというときに知識すらないんじゃ、話にならん」
「……でもさ。あんたは、人間のままの方がいいと思うんだけど」
「なんでだよ。素質がないとでも言いたいのか」
「ち、違うわよ。……ただ、その、だから」
深々と俯き、もごもごと口ごもる霊夢。
そして緩やかに面を上げた霊夢の顔は、夜の闇をも煌々と照らさんばかりに真っ赤に染まっていた。
「……私と一緒に、人間として生きて、死んでくれないかなって」
「はぁ?」
到底信じられない言葉を耳にし、思わず間の抜けた声が漏れる。
霊夢は顔を両手で顔を隠して、「うぅ~~~」と小さく呻きながら布団に突っ伏した。
普段の淡白な彼女からは想像できない、非常に可愛らしい仕草。
だが、私はそもそも目の前にいる女性が博麗霊夢であることに、強い疑問を覚えざるを得なかった。
「え、あ、ちょ、ちょっと魔理沙?」
「…………」
腕を少し乱暴に掴んで引き寄せる。
耳まで赤くして戸惑った様子の『博麗霊夢』を入念に観察し、ぺたぺたと色々な場所を探り触れていく。
「ま、魔理沙……そこは、いや、くぅんっ」
「…………」
体格、骨格、声、霊力の波長、味、瞳孔、髪、体温、肌の質――そして魔術妖術霊術神の御業などの影響。
刻まれた記憶の中の霊夢と照合し、考えられる限りの手段手法を考察し、判断する。
結論――こいつは、紛うことなく博麗霊夢だ。
ならば、先ほどの世迷言は如何にトチ狂って繰り出されたものなのか。
「霊夢」
「はぅ……な、なによぅ……」
「妖怪に化かされたりしたか? 最近意識が突然飛ぶとか、記憶が曖昧な部分があるんじゃないか?」
「ん、んなもんないわよ。なんだってのよ、急に」
「それは私の台詞だ。さっきから――いや、そういや最初からおかしかったな」
紅魔館からの帰り、ふと博麗神社まで足を伸ばしてみた夕方。
本当は霊夢の顔を見て、夕食を相伴にあずかってから帰る予定だったのだが、そこを引き留められたのだ。
飯は食わせてやるから、その代わりに泊まっていきなさいと。
いつもの霊夢ならばむしろさっさと追い返すはずだというのに、私は珍しいこともあると疑いなく受け入れてしまった。
「らしくない、なんてモノじゃない。どこまで血迷ったんだ、お前」
「そ、そこまで言う!? 別に、たまには人恋しくなってもいいじゃない! 人間なんだから!」
「博麗霊夢でなけりゃそうだがな。偽物だった方がまだ納得いく」
「……っ!」
上気した頬に別種の赤が加わる。
柳眉を逆立てて睨みつけてきた霊夢は、私の両肩を掴んで布団の上に押し倒した。
肩に激痛が走る。寝間着を貫いて、霊夢の爪が皮膚に食い込んでいるのが知覚できる。
その痛みを奥歯で噛み潰し、かつて脳を揺さぶった言葉を、そのまま紡いだ。
「『私は私、他人は他人』」
「っ!?」
「『私に他人の区別はない。個々人という差はあれど、そんな違いは些末事でしかない』」
「…………」
「『あるのは、私か他者か。私は私という世界で満たされているのだから、他人に興味なんて抱きようもない』」
「……やめてよ」
「『だから魔理沙、あんたもそこらの木端妖怪や名も知らない人間と何ら相違は――』」
「お願いだから、今それを口にするのはやめてっ!」
石でも吐くかのように、重苦しく叫ぶ霊夢。
そして大声を出したことを恥じたのか、視線を外して幾分沈んだ口調で続けた。
「ええ……その持論は、まだ曲げてないわ。……他人なんてどうでもいい」
霊夢は、懺悔するように他者への無関心を語りだす。
馬乗りされる私はといえば、今にもぷつりと切れそうなほど張りつめた表情を、ぼんやりと眺めていた。
「今朝、夢を見たの。自分が死ぬ夢」
あれは、いつだったか。
唐突に『死』が肌に触れるほど身近に感じ取れてしまい、長すぎる夜を泣いて過ごした日があった。
「死が怖いわけじゃなかった。私が恐怖を感じたのは、死んだ後のことだった」
確か寝入っていた母さんを起こして、泣きついたような気がする。
支離滅裂に泣き叫ぶ私に対し、優しく抱きしめながら一つ頷いてくれたんだ。
「私がいなくなっても変わらず回り続ける世界。誰かが博麗を継いで、幻想郷はまた安定を取り戻すの」
その時、何事かを耳元で囁かれた。
内容こそ霞がかったようにおぼろげだが、ある感触だけは、魂に焼き付いたように覚えている。
「私が生きていた意味が、存在していた意味が分からなくなった。後世に何も残せなかったのなら、その生涯が無価値じゃなかったと、いったい誰が言ってくれるのかしら。世界を救う英雄や前人未到の道を切り開く指導者になりたいわけじゃない。私は私のまま、自身の価値を認めてほしいだけなのに」
今はもう、顔すらおぼろげで。
実家に勘当されて一番悲しかったのは、きっと母さんに胸を張って会えなくなったことだろう。
「他人に興味を持てない私は、誰とも深い関係に至らなかった。その結果、私は独りで死ぬことになった。そこに悲嘆も後悔もない……けど、やっぱり寂しかったの。この結末を誰よりも覚悟していたのに、孤独が死の瞬間まで心を苛んでいたの。自業自得なのに」
ねえ、母さん。
未熟で幼稚な私に、大切な友達を助けることができるのかな。
「でも、この夢はありえないだろうなって起きてから思った。だって、魔理沙がいるから。寂しがりやで小ガモみたいについてくる魔理沙なら、きっと死の果てまで一緒なんだろうなって勝手に安心してたの。だけどあんたには……あんたの道があるってこと、すっかり忘れてた。ごめん、八つ当たりだった。やっぱり私は――」
「霊夢」
「――死ぬまで独りで」
「本当に馬鹿なんだからな、霊夢は」
いつしか力が抜けていた霊夢の手を払いのけ、彼女の腰へと腕を回し引き寄せた。
ぽすん、と抱える懊悩の大きさに反して軽すぎる体を受け止め、優しく抱きしめる。
「わわわっ、ま、魔理沙!?」
そのしっとりと濡れた霊夢の髪に鼻を埋め、清潔感溢れる石鹸の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「――霊夢は、ここにいるじゃないか」
腕の中で、霊夢の体が動揺するように震える。
「普段は何も考えてないのに、こういう時だけ考えすぎるんだからな」
「なによ、それ……」
「人間はおろか、妖怪や神ですら死ぬんだ。その瞬間は、誰であろうと孤独だよ。その後のことなんて知ったことじゃないだろ? 死神の愚痴を聞きながら三途の川を渡って、小言が多い閻魔の判決を受けて、そこから先は未知の領域だ。自分の死後についてなんて考えを巡らせる暇なんてありゃしないさ」
「それは……そうかもしれないけど」
「だから、気にするな。今のお前は、博麗神社の一室で私の腕の中にいるってことだけを考えていればいい」
返事はなかった。
代わりに霊夢の腕が私の背中に回り、少し息苦しくなるほどに密着度が高まる。
死について真面目に思索してしまうと、その先行きの不安に反して満足な答えを得られず、ずるずると泥沼的な思考に沈むことが多い。
というのも、これは私の経験則だ。なまじ早熟だったせいか、一時期は夜に独りで寝られなくなった。
それを解決――というより忘れさせてくれたのが、母だった。
母の体温は、自分がいま生きていることを実感させてくれた。ここにいるんだ、と教えてくれた。
だからこそ、抱きしめてやりたかった。
そしてそれが功を奏した事実が、何よりも嬉しかった。
だけど少しだけ恥ずかしくなって、つい冗談のひとつでも言いたくなってしまうのは、しょうがないことだろう。
「それに、お前だって何も残せないってことはないと思うぜ」
「……うん。どうやって」
「せっかく女に生まれてきたんだから、子供を産むとかさ。里の男どもとか、なんなら香霖から種でも貰ったらどうだ」
「……下品。女として恥じらいくらい持ちなさいよ」
霊夢が顔を上げる。
その目尻は濡れたように潤んでいるものの、表情はいたって穏やかだ。
目論見が成功したことに気を良くして、さらに冗談まじりの言葉を紡いでいく。
「こういう話題で取り繕っても仕方ないだろ? ウブなネンネじゃあるまいし」
「死語でしょ、それは」
「忘れ去られたものが集まる幻想郷で、何をいまさら」
「それもそうか。うん、そうだよね」
淡く儚げな笑みを浮かべる霊夢。
泣き顔も悪くないが笑顔の方がいいな、と思いながら見上げていると。
「魔理沙も、ウブなネンネじゃないもんね」
唐突に、霊夢が焦点の合わなくなる距離まで接近してきて。
その柔らかな微笑みが、茹だった吐息が、しっとりとした体温が、撫で上げるように神経をささくれ立たせていく。
口づけされるのかと狼狽し、受け入れるとも拒絶するとも分からず、ただぎゅっと固く目を閉じる。
数秒して、唇に期待――あるいは恐れか――していた感触は訪れず。
生ぬるく細い風が、首筋をそっと擦ったかと思うと。
「――ぐぅっ!?」
頸動脈付近に、シャレにならないほどの激痛が走った。
かっと目を見開く。一瞬呼吸が止まり、次いで酸素を求める魚のように口をパクパクと開閉させる。
痛みに耐えつつ視線を下に移す。艶を保っている黒髪が、私の首元に食らいついていた。
「れ、いむっ……! お前、何をやって!?」
「んふふ……やっぱりそうだ」
霊夢はゆっくりとした動作で面を上げると、わずかな鮮血が付着した舌で唇を舐め上げる。
そして、出血している私の首筋を指でぐりぐりと乱暴に弄りながら、愉快気に囁いた。
「魔理沙はさ、苛められてる時の方が可愛いのよね」
「な、なんだっ……いつ」
「普段の、野良犬みたいに虚勢張った顔も悪くないけど、怒りの奥底に隠れた怯える今の表情、すっごくぞくぞくする」
そう嘯くと、私の両手を自身のそれで封じ、再び首筋に唇を寄せた。
息が詰まるほどの痛みが神経を焦がす。体が勝手に硬直し、全身を強張らせる。
しかしそれすらも歯ごたえが増して良しと言わんばかりに、霊夢の顎が喉笛に食らいついてきた。
「ぅ……っ!」
てらてらと濡れた鋭利なものが、私の中に、容赦なく潜り込んでくる。
その尖り具合は槍を想起させる。博麗霊夢の犬歯だろうか。
苦悶の声を漏らさないように歯を食いしばりながら、首の皮膚が徐々にへこみ、やがてぶちっと音を立てて破れるのを感じ取った。
頭の中が焼き付いたように熱くなり、意識が漂白されるように空白と化していく。
――やばい、このままだと。
何がまずいのかも分からず、渾身の力を振り絞って抵抗した。
腕を振り上げ、敷かれた布団を蹴り出し、体を捩って博麗霊夢からの逃亡を試みる。
だが実際は、自分よりも若干体格の大きい霊夢に上からしかと押さえこまれ、動くことすらままならない。
それどころか、霊夢の顎の力がどんどん強くなっていく。
肌を突き破り肉にまで至ろうとする行為は、まるで『動くと噛み千切るぞ』と脅しているかのようだ。
いや事実、そういった意図が込められていたのだろう。
命を握られていると覚った私が全身を弛緩させると、霊夢も歯を外し、傷口を嬲るように舐め始めた。
「――ふっ、んう」
舌が這い回る感触がこそばゆかった。
犬に舐め回されてる気分だったが、この黒犬は時折、傷口に尖らせた舌をねじ込み、流れた血液を啜るのだから、より性質が悪い。
目を固くつぶり、舌の熱さだとか皮膚を覆う滑りだとか荒く吹き付ける吐息だとかを耐えしのぐ。
視覚が閉ざされたことで、それらがより鮮明になってしまい、頬をさらに紅潮させる結果となったが、直視するよりかは遥かにマシだ。
気を抜けば流されてしまいそうだった。流されたらどうなるか、そんなことすら想像できないのに。
こうして耐えること、十数分。
散々首を嬲り尽くして満足したのか、霊夢はゆったりとした動作で顔を上げた。
ようやく終わったか、と息も絶え絶えな状態で目を薄く開ける。……途端に後悔した。
霊夢の瞳は今までになく――見たこともないほどはっきりと、情欲と極度の興奮で爛々と輝いていた。
こんな目をする奴が、このまま満足して眠るはずがない。
寝たふりでやり過ごすのが正解だと確信し、横を向いて目を閉じたところで、傾けた方面の頬をそっと押さえられた。
無理やり正面を向かされてしまったが、それでも口を一文字に引き締めて、ぎゅっと瞑目する。
「狸寝入りにしてはお粗末よ、魔理沙」
ばれていた。こいつの勘なら見抜くかもと危惧していたが。
それでも続行する。対抗手段が、今のところこれしか思いつかないから。
「ならそのまま聞いてね。ちなみにこれは決定事項だから、変更は不可能よ」
「…………」
嫌な予感しかしない。
「私、あなたを犯したい」
「……………………はぁ!?」
予想外もいいところ、青天の霹靂とも言うべき言葉に、思わず目を剥いて叫んだ。
すると目の前には、クスクスと柔らかに微笑む霊夢がいた。
先ほどの行為中は剥き出しの刃物のような危うい雰囲気だったが、今はすっかりいつものふんわりとした捉えどころのないものに戻っていた。
……ただし、溢れんばかりの欲望を湛える双眸は、幾ばくも陰りを見せていないが。
「もう一度言うわね。私は、あなたを、犯したい」
「…………おかしたい?」
「うん。犯したい」
「…………お菓子タイ?」
「精神的に、性的に凌辱したい。嫌がって泣いても構わず抱きたい。それから……」
「ちょちょちょちょと待て! どうしてそうなった、脈絡がなさすぎてまるで意味がわからんぞ!」
いや、脈絡ならあったかもしれない。
ジンジンと鈍痛を訴える首。この行為こそ、ある意味『そういうこと』をするための前準備だったのではないだろうか。
認めたくはないのだが、今の霊夢の様子からして、さほど間違った推理ではなかろう。
だからといって許容するかといえば、そんなわけはない。
「あー、あれだ。私たち、女同士じゃないか」
「私は別にあんたが女だから求めてるんじゃなくて、魔理沙だから欲しいのだけれど」
「うん、少し嬉しいセリフありがとう。でもさ、そういう答えを望んでいるんじゃないんだよ」
「御託はいいから、さっさと脱ぎなさい。いえ、脱がなくていい。私が脱がせる。むしろ脱がさせて」
「まあ、落ち着けいやだからちょっと待て服に手をかけるな懐に差し込むな胸を揉むな馬鹿やろう!」
パジャマのボタンを外しにかかる霊夢を制するが、依然彼女が覆いかぶさってきている体勢のため、力負けは必至だ。
現に霊夢は、私の抵抗を楽しむかのように笑みを浮かべながら、払われた手で別の部位をまさぐろうとする。
それを止めさせんとパジャマから手を放すと、やはりボタンを狙ってくるのだ。
完全に霊夢の思うがままだ。逆転の一手すら浮かんでこず、今はその場しのぎを続けるしか他にない。
「い、一旦落ち着こう。ほら深呼吸深呼吸」
「ええ。ひっひっふー、ひっひっふー」
「誰がラマーズ法をしろと。まだ子供なんて産む段階じゃなかろうに」
「そうよね、今から作るのよね」
「女同士とはいえ、行為自体はそのためのものだからな……って、することを前提に話をするな!」
「あんた、魔法で生やせたりしない?」
「何をだよ! いや、言わなくていい。あと魔法は万能じゃないから無理だ!」
「幻想郷には奇跡も魔法もあるのよ」
「だったら奇跡の方に頼め! 魔法は理論の構築をしなきゃ発生しないから、研究なしじゃ火の玉ひとつも作れやしない」
「で、でもさ……見知った同性に、そういうこと頼むの、恥ずかしいわ……」
「今更過ぎる反応だよ! その恥じらいの八割だけでも私にも向けてくれ! というか、どれだけ突っ込ませるんだよ!」
「襲うのは私だから魔理沙は突っ込まれる役目だけど……魔理沙も突っ込んでみたい?」
「あぁぁぁぁぁもぉぉぉぉぉぉぉぉ! なんなんだよなんなんだよこんちくしょー!」
いい加減頭痛がひどくなってきて、頭を抱えながら身悶えする。
このまま暴れ続ければ抜け出せるかも、と脳裏をかすめた瞬間、それを察知したかのように強く抱きすくめられた。
霊夢の呼吸音が耳朶をくすぐる。鼻息が敏感な皮膚を刺激するので顔を背けた。
しかしそれを許さぬとばかりに、霊夢がぺろりと耳たぶを舐めてきた。ぞくっとした。
「私さ、この感情が何なのか全然分からなかった」
全身を拘束されたまま、耳元で呟かれる。
その固い声色に、昂っていた精神が徐々に落ち着きを取り戻し始めた。
これまでのふざけた態度は、言い辛いことを口にするための潤滑油だったのだろう。
ならばと表情を引き締め、一字一句聞き逃さぬよう集中する。
「魔理沙を苛めたくて、泣かせたくて、困らせたくて、怒らせたくて、嫌がる魔理沙を無理やり組み敷いて襲いたくなるの」
「うん、最低だなお前」
真面目に聞こうとした私が馬鹿だった。
「でも、こうして魔理沙と話をして、ようやく理解できたわ」
「……なにをだ?」
「この感情、この衝動。これはまさしく――」
少しだけ体を離し、鋭い眼差しで私を射抜くと、
「これが、恋なのね――!」
「ふっざけんなあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
一瞬で頭に血が上り、真っ赤に染まった視界の中で、霊夢を思い切り突き飛ばした。
あっけなく後方へと吹き飛ぶ霊夢。何故か心底驚いたといったように、呆けた顔でこちらを見ていた。
だがそんなことに構っている余裕はなかった。
あまりにも度し難い暴論、到底認めることのできない暴言に、爆発したように激情が吹き上がった。
今度は私の方から距離を詰め、戸惑う霊夢の両腕を掴んで睨みつける。
「いいか、それは断じて恋じゃない。もっと別の、嗜虐心のようなものに他ならない」
「な、魔理沙、その、近いわ」
「恋っていうのはもっと甘くてふわっとしていて、それでいて少し酸っぱくて時々苦みすら感じることもあるんだ」
「えーと、それって、わたあめに人参とレモンの絞り汁をかければいいんじゃないかしら?」
「だめだ、そんな考えはダメダメだ! 食べ物じゃ代用できない、理屈で説明できない感情! これこそが、恋!」
がくがくと揺さぶり、心の底から反論する。
しばらくはされるがままの霊夢だったが、私の熱に当てられたのか、彼女も言葉に熱を篭めながら問うてくる。
「わかった、わかったから! じゃあ、どういうのが恋なの? 行動とか心境で示してちょうだい」
「よろしい。ならば教えよう。例えば……そいつのことしか考えられなくなって、体温が上昇して鼓動が早くなったりするんだ」
って、慧音が言ってた。
「私は今、魔理沙のことしか考えてないわ。体温だって平熱よりも上だろうし、すごくドキドキしてる」
「ええいそれだけじゃない! 他にも、そいつの隣にいるだけですごく安心できたり、ふとした日常に多幸感を覚えたりする」
現在読んでいる恋愛小説ではそんな描写をしていた。
「縁側で魔理沙とお茶を飲んでると、最近切なくなるほど幸せだわ。こう、きゅっと胸が締め付けられるような」
「それは私も同じだ。どういうわけか、昔から霊夢の隣は安心できるんだよなぁ」
「じゃあ魔理沙も、私に恋してるってこと?」
「……あれ? い、いやそうじゃない! べ、別に霊夢が好きってわけじゃないんだからな!」
「直訳すると『あなたが好きです』なのね、わかります」
「だから違うって! あとは、えーとえーと……」
「もういいじゃない。あんたは、本当に素直じゃないんだから」
聞き分けのない子供を諭すような笑顔で、霊夢が優しく手を握ってきた。
慈愛に満ちた瞳に見つめられ、不覚にもドキリとしてしまう。
その心情を類まれなる勘で察知したのだろうか、ゆっくりと、しかし無駄のない動きで寝間着を脱がしにかかる霊夢。
ある種の雰囲気に酔っている状態で、少なからず好意を持っている相手に求められた。
流されて事を致しても仕方ないだろう。――などという思考停止に至らないのが、生粋の乙女たる私だった。
「やっぱりさ、こういう形じゃ嫌だよ……」
ゆっくりと首を振り、手から逃れるように身を引いた。
霊夢の表情が曇る。そのことに心が少し痛んだが、ここであえて見逃していた違和感を口にした。
「霊夢は、私が好きなのか?」
「――――――ええ」
「嘘だな。本当は、私のことなんてどうでもいいって思っているくせに」
「そんな、ことは」
「私といて幸福を感じるのも嘘。ドキドキするのも嘘。単に人恋しさが募って、身近にいた私に白羽の矢を立てただけだろ」
「…………」
「嘘をつくには嘘に精通してなきゃならない。私は嘘つきだからな、お前程度の嘘なら見破れるぜ」
そう、最初から分かっていた。
霊夢はただ孤独という寒さから逃れたくて、たまたま訪ねに来た私で暖を取りたかっただけだということを。
だから冗談交じりの抵抗であしらっていた。どうせすぐに飽きるだろうと高を括って。
ところが、彼女を苛む孤独は私の予想の上をいっていたみたいだ。
夢を見た。これはおそらく真実。自身がいなくとも回る世界に恐怖を覚えたのも事実。
普段の博麗霊夢なら、さしたる興味も抱かずに忘れ去ったであろう夢の内容を、どうしてか今回に限っては目が覚めても脳裏を離れなかった。
その理由は知らない。知りたくもないし、どうせ鬼の霍乱で片付く事案だ。
友人が寂しがっているのなら、それを癒してやりたいのは山々なのだが。
私にできるのは、せいぜい文字通り抱きしめてやることだけだった。
「ごめんな、霊夢とはそういうことはできないんだ」
「……どうして」
「花も恥じらう乙女だからな。初めては、それ以降だって、私が好きで私を好きだと言ってくれる人としたい」
具体的な人物は、まだ現実には現れてはいない。
それでも恋に恋して夢を見る女の子には、決して譲れないところだった。
真摯に告げる私の言葉をどう受け止めたかは、俯く霊夢からは窺い知れない。
霊夢のことは好きだ。本人に伝える気は毛頭ないが、おそらく知り合いの中なら断トツで好意を抱いている。
だからといって、軽々に体を許すつもりもない。ましてや、彼女が私を好きでないのならばなおさらだ。
この気持ちだけは絶対に妥協したくない。
それでも、握りしめた拳で私に縋り付き、静かに肩を震わせる霊夢を見て見ぬふりなどしたくなくて。
「ほ、ほら、霊夢が頼めば喜んで受け入れる奴なんて十指に余るほどいるから! そいつらに助けを請えばいいさ!」
「…………」
「何なら私からも頼んでやるから! どいつもこいつも、少なくとも私以上に豊かな体格……してるし」
「…………」
「レミリアや萃香はともかく、八雲紫とか文屋とか……あいつらは、私より遥かに、その、ボンキュッボン、だしさ」
ふふ、泣けてくるぜ。
なにが悲しゅうて自分がぺったんなお子様だと力説しなければならないのか。
霊夢のためなら泥さえ啜る覚悟でいたが、こんなに辛くて苦いとは想像だにしなかった。
母さん、大人になるって悲しいことなんだね。
心の中で流れた涙を振り払い、努めて明るい口調で言う。
「他の連中がご要望なら、なんとしても渡りをつけてやるから……」
「魔理沙」
「ん? 誰がいいかもう決めてるのか――うわぁ!?」
視界が勢いよく変化し、背中に強い衝撃を受けて肺の空気が無理やり吐き出させられた。
しばし明滅する目を見開いて現状を確認する。
影のかかった霊夢の顔が、呼気すら届く距離にある。その両手は私の顔の両側面に突き立てられ、両膝で私の胴部を挟みこんでいる。
その後ろには見慣れた天井が広がっていることから、またもや霊夢に押し倒されたらしい。
つい先ほどの状態に戻ったかのようだが、一つだけ違う点がある。
それは霊夢の目だ。荒々しい情欲に満ちていたそれは、いつしか深く透明感のある何かに置き換わっていた。
この瞳は、いつか見たことがある。
夜が終わらない異変のときの、月の兎。いきなり山に越してきた神に追従していた、風祝。地の底で友人を思い騒動を起こした、火の猫。
これは確固たる覚悟を決めた者だけが宿す煌めきだと、対峙した瞬間に直感したものだ。
霊夢は、いったい何を覚悟したのか。
その答えは他ならぬ彼女自身が、緩やかに口を開いて語った。
「私も、魔理沙と同じ初めてなのよ」
「そうか。むしろ経験があったら、目玉が飛び出るくらい驚いてるだろうぜ」
「さっきまでは、魔理沙でいいやって思ってたけど」
「やっぱりその程度の認識だったか。いや、私が優先順位の上位にあるのは光栄ではあるけどな」
「今は、魔理沙がいいって思ってる。ううん、初めてだから魔理沙じゃなきゃ嫌だ」
「……私の答えは変わらないぞ。好きと思ってくれる奴じゃないと……」
「なら、それを行動で示して」
言うや、霊夢は自分の腰に手を回した。
すらりと抜き放たれる凶器。柔らかな月光を鈍く剣呑な輝きで反射するのは、一本の針である。
手のひらより長いそれは、数多の妖怪を物理的に貫き叩きのめしてきた、博麗霊夢御用達の武器だ。
霊力を込めれば鋭さが数倍増すという触れ込みの品だが、当然平時でも刺されば肌を破り肉を抉る危険な代物。
それを手で弄ぶ霊夢の姿に、さしもの霧雨魔理沙とて肝を冷やさないわけがない。
「はい、これ」
と、ビクビクしていたのも束の間。
霊夢はいたって冷静に凶器を手放すと、私の右手にしかと握らせた。
その意図が読めず、恐る恐る問いかける。
「こ、これで……どうしろって?」
博麗霊夢は、事もなさげに言い切った。
「もしも嫌なら、それで私を殺しなさい」
「はぁ!?」
「確かに一方的に襲うのは不公平だったわね。でも、これで平等。あんたにも権利を与えたんだから、好きにするわよ」
言って、霊夢は私の左手を持ち上げて、薬指に唇を寄せて。
「ぃたっ」
噛んだ。首の時より弱いが、歯形はしっかり残るであろう力加減だった。
そのまま舌で舐め回し、隣の指に移ってさらに咀嚼する。食い千切られないか心配だが、どうやら味わうに留まっているようだ。
粘ついた水音が静謐な寝室に響く。追随するように、徐々に速度を増す誰かの呼吸音。
私のだった。もはや鼻ではなく口で、まるで獣のように烈々と息を吸っては吐いている。
その原因は明白だ。
目の前で繰り広げられている、首の時は見れなかった、霊夢が私を食む姿。
さすがに本当の意味で『食べられる』のは御免被りたいが、指と指の間を熱心に舐められる感触に、全身が燃えるように熱くなった。
求められていると自覚すると、沸々と湧き上がるのは喜びの感情。
しばしうっとりと目を細めて享受するが――すぐに正気を取り戻して叫んだ。
「おい、霊夢!」
「刺しなさいよ。ほら、喉も心臓もがら空きじゃない」
「んなことできるかっ! 冗談もいい加減に……!」
針を部屋の隅に投げ捨ててから声を荒げるが、薄らと涙を浮かべながらも厳しい眼差しに射止められ、言葉を失う。
「嫌なら、遠慮せずに殴りなさいよ。唾を吐き捨てて見下してよ。気持ち悪い女だって振り払って出て行ってよ」
「……霊夢」
「顔を踏みつけて罵倒してよ。こんなのと知り合いだったことを後悔して忘れてよ。二度と私に会いたくないって拒絶してよ……」
五本の指を丁寧に噛み終わった後、上腕部へと昇るように唇を滑らせる霊夢。
そこに情欲の色は見て取れず、ただただ慈しむように舌を這わせては噛り付き、丹念に愛撫していく。
自身の欲望を解消するためではなく、まるで捨てられることを恐れて奉仕するような彼女に、二の句が継げなくなった。
……こうなっては、私も腹をくくるしかない。
「どうしても、したいんだな」
「私も、もう自分を抑えられない。優しくできるのも今が限度。だから、どうしても嫌なら……」
「頼みがあるんだが」
「なに? 大したことは叶えられないわよ」
「いや、その、な?」
顔がぐんぐん紅潮していっているのが、自分でも分かる。
それを見られるのが嫌で、霊夢の首に両腕を回し、頬と頬をこすり合わせられるほどに密着した。
そして、深夜の葉擦れよりも小さな囁きを、耳元に放つ。
「最中の姿、霊夢以外に見られたくないから……障子、閉めて?」
「――――――――ごめん」
◆
その夜。
巫女服を着た妖怪に全身を貪り食われる夢を見た。
◆
薄闇に広がるのは、自宅とは似ても似つかぬ天井だった。
ぼんやりとした視界を瞬きで正すこと数回。なおも判然としない意識の中、体を起こそうと力を込める。
――途端。全身を突き刺すような鈍痛が襲った。
たまらずきつく眉を顰め、顎を引いて視線を下に移す。
一糸も纏わぬ己の裸体。鳩尾から下部は布団で覆い隠されていたが、すぐにその元凶を発見した。
「ひどいなこりゃ……」
呻くように呟き、浮かんだ頭を再び枕に落とした。
血まみれだった。初めての時は血が出ると聞いてはいたが、明らかにその比ではない。
何しろ、露わになっている素肌に余すことなく朱色がこびりついていたのだ。
無論、それら全てが純潔を失ったがためではない。
理由は考えるまでもなく、いま隣でのんきに寝息を立てている少女だろう。
彼女の、妖怪顔負けの捕食行動により、乙女の柔肌は無残にも食い破られ、無数の歯形を刻まれてしまった。
「湯あみでもしたいところだが……たぶん地獄の苦しみだろうな」
出血こそ収まっているものの、ただの人間に一夜で傷を回復する能力はない。
血とか唾液とかその他もろもろの液体で汚れた体を清めたい欲求はあるが、少なくとも今夜は諦めるしかないようだ。
ちらりと目を横に向け、ほとんど諦めの溜息が口から溢れる。
「マジかよ……明日から出歩けるのかな、私は」
真っ先に目に飛び込んできたのは、夜空に君臨する、鮮血を身にまとった丸い月。
これはつまり、今の今まで屋内と外界を遮断する障子が開きっぱなしだったことを意味する。
記憶はおぼろげだが、確か閉めるよう霊夢に頼んだはずだ。
とはいうものの、この過失で彼女を責めたてる気にならない。いっぱいいっぱいだったのはお互い様だからだ。
「まあ、なるようになるよな」
ほとんど現実逃避するように、唯一の観客のはずの満月に向かって同意を求めた。
月は黙するばかりである。
「――ごめんね、魔理沙」
代わりに答える声があった。
誰かと問うまでもない。今この場には、私ともう一人しかいない。
「なんだ霊夢、起きてたなら言ってくれればいいのに」
「……月に話しかけるおバカと関係があるなんて思われたくなかったから」
「ひどいなっ! そりゃ私だって馬鹿みたいとは思ったけど、独り言をぶつぶつ口走るのも十分怪しいじゃないか」
「……どっちにしても、お近づきになりたくない人物だわ。まだお人形と友達になる方がマシね」
「さりげなくアリスを貶めてやるな。あれはあれで便利な――って、なんで顔を背けてるんだよ」
霊夢は、私の視線から逃れるように背中を向けていた。
彼女も服を着ていない。そのため、ゆで卵の白身のようにつるりとした白い肌が、惜しげもなく眼前に晒されている。
少し躊躇いながらも手を伸ばし、顔を合わせるべく肩を掴んで引っ張った。
すると霊夢は一瞬硬直した後、慌てた様子で私の手を腕だけで払いのけようとした。
「ちょ、ちょっとやめてよ!」
「あー? 人の目を見て会話をしろって親から教わらなかったのか、お前は」
「知らないわよ、そんなの! 自分の常識を押し付けないで!」
「いや、さすがにそれはないだろ。万国共通の常識だって、ほらほらこっち向け」
「だからやめ、ま、魔理沙!」
「なんなんだよその反応は、まったく失礼しちゃう……ぜ……」
業を煮やした私は、じたばたと暴れる霊夢を馬乗りで押さえつけ、両の頬を手で挟み込み、無理やり正面に向き直させた。
そして霊夢の顔を見た瞬間に絶句する。
「あの、霊夢さん?」
「……なによ」
「なんで、そんなに、お顔が真っ赤なんでしょうか?」
「ううううるさいわね! 今日は熱帯夜だから、ものすんごく暑いだけだから!」
へっくち、と可愛らしいくしゃみが小さく響いた。
それはそうだ。まだ冬が過ぎてから一か月も経過していない。むしろ肌寒いくらいだ。
鼻を軽く啜ってから、自分自身で言い訳を否定してしまったことに気付いた霊夢の赤面が、さらに朱色を増していった。
こみ上げる笑いを必死に堪えながら、剥き出しの肌を擦ってやる。
そんなんじゃ足りないわよ、と毒づきながらも、霊夢は心地よさそうに目を細めて微笑んだ。
だが、私の体中に刻印された霊夢の痕を見て、その表情が一気に暗くなった。
「……ごめん、痛かったよね」
「その思いやりは数時間前に欲しかったよ。痛いなんてもんじゃなかった」
「うぐ……だって初めてだったから、加減とか、全然分からなかったし」
「私もそうだって言ったじゃないか。噛みつきはもちろん、愛撫自体も強引すぎるんだよ。へたくそ」
「んなっ!? あれだけアンアンよがってたくせに、言うに事欠いてそれ!?」
「最後だけじゃないか。痛がってるのに『本当は気持ちいいんでしょう?』とか明後日の方向に勘違いして無理に続行してたし」
「うぐっ……だ、大体ほとんど私が責めてばっかだったじゃない! 少しは私にもしなさいよ!」
「む、むぅ……それは悪かったけど……だ、だけどお前ががっつきすぎて責める機会なんてなかったんだよ、この発情犬!」
「なにその言いぐさは! 魔理沙のくせに!」
「なんだと!」
「なによ!」
鼻息がかかるほどの至近距離で睨みあう。
そしてどちらからともなく吹き出し、互いに何の屈託もなく大笑いした。
一線を越えてしまったにもかかわらず、霊夢との関係が何一つ変わっていないことに安心したからだろう。
些細なことで喧嘩して、ふとした拍子に仲直りして、つまらないことで笑いあう。
こんなどうでもいい日常が、たまらなく愛おしい。
霊夢と性的な関わりを持つことに躊躇いを覚えたのは、この居心地のいい場所を失いたくなかったからでもある。
そう、博麗霊夢さえいれば。
霧雨魔理沙は、弱くて意地っ張りな霧雨魔理沙のまま、どんな空にだって笑顔で挑んでいけるから――。
腹の筋肉が引きつりそうなくらいに笑い通した後。
ふと霊夢は悲しみで潤んだ眼差しを布団に落とし、沈痛な面持ちで言った。
「私、魔理沙の優しさに甘えてばっかりね」
「甘えられるのは嫌いじゃない」
いつになく弱々しい霊夢の仕草が可愛くて、その黒髪をわしゃわしゃと撫で回した。
霊夢は困惑したように瞳を揺らすと、「……子供じゃないのに」と言い訳するように呟き、頭を私の胸にぽんと預けた。
きめ細やかな長い黒髪が素肌を刺激して、いやにむず痒い。
そして当然のように刻まれていた、今なお存在を主張する博麗霊夢の証も、疼きのような痛みを訴え続けている。
痛みは苦しくて嫌なものだとばかり思っていたが、幸せを感じることもあるらしい。
ぐりぐりと頭を擦り当ててきながら、霊夢は言った。
「骨が当たって痛いわ」
「申し訳ないぜ。ただいま乳房は絶賛家出中だ」
「でも、あたたかい」
「この程度の温もりで良ければ、いつでも」
「もう少しだけ、今夜だけは弱い私を許して。明日になったら、いつもの私だから。誰にも頼らず興味も抱かない博麗霊夢だから」
凍り付いたように平坦な声色だったが、きっと涙は瞼で必死に堪えているんだろう。
博麗霊夢はそういう奴だ。誰よりも冷めているくせに、誰よりも感情表現が豊かなのだ。
そんな彼女が、私は好きなのだ。
「本当に、どうしようもない馬鹿だなぁ」
霊夢の後頭部と腰に手をやり、力任せに引き寄せる。
その背中が驚いたようにびくりと跳ねたが、それ以上は、抵抗はおろか反応すらなかった。
代わりに、呆れかえった声が鼓膜に届いた。
「バカにバカって言われたくないわよ。ほら、傷口が開いちゃってるじゃない」
「噛んだ張本人に言われたくないよ。ああもう、それにしてもめちゃくちゃ痛いぞ。泣いてしまいそうだ」
「……朝、治療してあげるから忘れてちょうだい」
「無理だ。手足はおろか首に太ももに股間にふくらはぎに、もうとにかく体中がすんごく痛い。全身を包丁で刺されてる気分だぜ」
「悪かったわよ。だから許して……」
霊夢は少しだけ離れ、こちらを見やった。
眉を八の字に寄せて上目遣いにしている。理性がぶっ飛んでしまいそうなほど可愛いが、今の私には通用しない。
何せ、これまでの人生の中で一番怒っているのだから。
「いや、絶対に許さない。この怒りは三代末まで語り継いで、絶対に忘れないようにする」
「まりさぁ……」
「たとえ魔法使いとして悠久の時を過ごしても、霊夢のことは忘れない」
「……え?」
霊夢が、きょとんとした表情で固まった。
理解が追い付いていないらしい。口を半開きにしたまま、時間が止まったかのように静止している。
不意に、胸の中で小さな欲求が生まれた。
だが行為の正邪を見定める心的余裕もなく、また躊躇いすら一瞬たりとも過ぎらなかった。
唇に、ぷるんと柔らかなものが触れる。
味覚は味を感知しなかったのに、ただ甘いとだけ感じた。
「う、あ、ま、ままままままままりまりまりっ!?」
「え、えへへ……しちゃった」
「ああああああなたなななななになにしててっ!?」
完全に想像の埒外だったようだ。
霊夢は刹那の内に顔を沸騰させると、両手を無意味にわたわたと右往左往させる。
こんなものよりずっと凄いことをしたというのに、たかがちゅーでこれほど狼狽えるとは。
調子に乗って、もう一回重ねた。
今度は二人の唇が潰れて形を変えるくらいの力加減で、時間もちょっとだけ長い。
立ち上る湯気を幻視できるくらい頬を染めながら受け入れる霊夢。
心臓が破裂しそうなほど脈打っている。鼓動は今までになく躍動し、耳の奥で血液の激流が荒れ狂う音が鳴り響いている。
恥ずかしくて死んでしまいそうだ。でももっと続けたいという欲求だけが体を動かしている。
擦るだけの拙い口づけ。触れては離れ、照れ隠しに笑って、また重ね合わせる。
長年ゼロだった経験回数が、この数分だけで加速度的に増加していく。
徐々に手馴れてきて、無意識のうちにより気持ちよくなれる口づけを求めていった。
頬をそっと撫でさすり、手をしっかりと握りしめ、舌で歯茎や歯間を舐め回し、熱の籠った吐息すらも奪うように食らいつく。
思考力が極端に低下した私は、彼女のわずかな戸惑いすら無視して、ただ快楽を高めあう接吻と愛撫に浸った。
「んちゅ……ん、んん、ぷはぁ」
「~~~~~、~~~~!」
普段は、ぽけーっと間の抜けた顔でお茶を飲んでいることが多い霊夢。
どちらかというとあまり感情を表に出ない彼女が、私の一挙一動に翻弄されて悶える姿に強い征服感が湧き上がる。
次第に霊夢の方からも舌を絡ませてきて、溢れた涎が口端から垂れてきて、布団を汚していく。
段々体が火照ってくる。ちらりと視線を下ろすと、霊夢の太ももが何かを我慢するようにもじもじと擦りあわされていた。
理性の限界点を感じ取った私は、名残惜しく思いながらも唇を離す。
小さく突き出された互いの舌は唾液の橋で結ばれ、やがて重力に負けてぷつんと切れた。
「……まあ、なんだ、そういうわけだから」
今更気恥ずかしくなって、頭を掻きながら言った。
顔はおろか耳から首元まで鮮やかな朱色に染めた霊夢が、熱に浮かされたように焦点の合わない瞳を向けてくる。
「魔理沙ぁ……」
「お前に残せるものがないってんなら、私が残してやる。博麗霊夢の生きた証を語り継ぐ」
霊夢は言った。
私が死んでも、博麗霊夢がいなくなっても平穏に回り続ける幻想郷が怖いと。
人生の主役である己が、世界にとっては取るに足らない小さな歯車だったことが、否応なく思い知らされるから。
幻想郷にとって博麗の巫女は不可欠だが、別に『博麗霊夢』でなければならないわけでもない。
霊夢が死んでも他の人間が『博麗』を名乗り、また幻想郷は恙なく続いていく。
いくらでも代わりがいるという事実は、その存在意義を大いに疑わせる。生きている意味を揺らがせるのだ。
でも、私にとって博麗霊夢はお前ひとりで、そんな霊夢が大好きで。
「私が霊夢の残したモノになるから、安心して死んでくれ」
我ながら、酷く不器用な物言いだ。
伝えたい想いは言葉に尽くせないほどあるのに、しかも素直に言えずに照れ隠しの棘を混ぜてしまう。
……だって、恥ずかしいし。
「――あんたの方が、よっぽどバカよ」
だが霊夢は、全てをお見通しと言わんばかりに優しい微笑みを浮かべる。
目尻から細々と伝い落ちるのは一筋の雫。
その綺麗な表情にしばし見惚れ、それがくしゃりと歪んだ瞬間、咄嗟に霊夢の頭を胸に抱きかかえた。
「う、うぅぅ……」
「これだけ変わり者が集まる幻想郷だ。一人くらいそんな馬鹿がいたっておかしくないよな」
「ふぐっ、そう……かも、ね。ごめん、ごめん……なさい」
霊夢の腕が背中に回され、息苦しいほどに力を籠められる。
正直な話、かなり痛い。なにせ背中にも霊夢の噛み跡がしっかりと残っているからだ。
しかしそんなことはおくびにも出さず、霊夢の頭を撫でてやる。
「気にすんな、どうせ魔法を極めるまでのついでだ」
「でも……そのせいで、あんたは、決めちゃったじゃない……妖怪になって、長すぎる時間を……生きることを」
徐々に背中の震えが大きくなっていく霊夢。
どうやら私が不老長寿になることに対して負い目を感じているようだ。
それこそお門違いだというのに、何を勘違いしているのだろうか。
「変わらないぜ、霊夢。今までのように、これからだってそうだ。私たちは、死ぬまで生きるんだ」
「死ぬまで……生きる?」
「ああ。その間が百年だろうと千年、万年だろうと関係ない。せいぜい、死ぬまでだからな」
そう、死ぬまで。
私はきっと死ぬまで覚えているだろう。
記憶は薄れていく。
霊夢が死んで五十年経てば感触を、百年経てば匂いを、五百年経てば声を、千年経てば姿を忘れるに違いない。
それでも、一万年経っても忘れられないものだってあるはずだ。
幻想郷には博麗霊夢という少女がいて、そいつは他人に無関心で、だけど感情が豊かで、少し寂しがりやで。
たまたま隣で座っていた霧雨魔理沙を襲い、全身に自分の痕を刻み込んだ迷惑な奴。
そのことだけは、死ぬまで忘れたりはしない。
そう断言すると、霊夢は涙を零しながら口元を綻ばせた。
「うん……嬉しい。だけど、やっぱり寂しい」
「これ以上どうしてほしいんだ?」
「じゃあ、一緒に死んで。一緒に三途の川を渡って、閻魔の裁きを受けて、地獄の底までついてきてよ」
冗談っぽく、しかしその眼差しはどこまでも透き通っていて、その決意の程が窺える。
だが即座に拒否した。それだけはごめんだからだ。
「いやだ。絶対に、お前とは死にたくない」
「どうしてよ。もしかしたら来世でも一緒になれるかもしれないわよ」
「だからだよ」
また出会ったら、絶対にまた好きになる。
長い長い輪廻の旅路だ。どうせなら、今度は違う奴を好きになりたいものだ。
口には出さないで、さらさらの黒髪を指に絡めて手櫛でゆっくりと梳く。
心地よさそうに目を閉じながら、霊夢は問うた。
「魔理沙」
「なんだ」
「私のこと、好き?」
「そうでもないぜ」
「死んでも一緒にいてくれる?」
「死んだらお別れだよ」
「大好きって言ったら信じてくれる?」
「嘘は私の専売特許だぜ」
「そうよね、魔理沙は嘘つきだもんね」
「お前だって嘘をついただろうが」
「うん。じゃあ、あと一回だけ嘘つかせて」
降り注ぐ月光の下。
私たちは誓うように手を重ね、凍える声で互いを温めた。
「大嫌いよ、魔理沙」
「大嫌いだぜ、霊夢」
◆
翌日。
朝食を食べ終わった私は、縁側で晴れ渡った空を眺めていた。
澄みきった青空。朝の目覚めを告げる鳥の声。夏の薫りを伴うそよ風の匂い。
朝特有の清浄な空気を胸いっぱいに吸い込んでいると、汚泥のように身体の奥底に沈殿した熱が、ゆっくりと排出されていく。
徐々に冴えていく頭は、複雑に組み合わさっていた気持ちを緩やかに整理していった。
起きて朝食を食べる頃には、私と霊夢は以前と変わらぬ関係に戻っていた。
私が「野菜の天ぷらと味噌汁だけってしけたおかずだな」と悪態をつけば、「なら食うな無駄飯食らい」と素っ気なく返される。
昨夜の、嵐のような出来事が本当に夢であったと思えるほどだ。
それはそれで少しだけ寂しい気がしたが、あれに引きずられて霊夢とギクシャクする方が余程嫌だった。
傷の手当は、起床してすぐに行われた。全身に軟膏を塗る霊夢は、特に詫びや悔いる言葉を口にすることもなく、無言で淡々となされた。
霊夢が忘れようとしている、あるいはもうどうでもよくなっているのであれば、私も倣うべきだろう。
処女を奪われたのは、まあ犬に噛まれたようなものだと無理やり飲み込むしかない。
加えて色々と恥ずかしいセリフを連発していた記憶があるが、異変でも起こればすぐに頭から抜け落ちるだろう。
「あ~あ、誰か超弩級の異変を起こさないかなぁ」
なんて、後先考えず呟いたのがまずかったのだろうか。
異変が起きた。
それも幻想郷の長き歴史の中においても群を抜いて強大で、かつ長期に渡って解決されることのないものが。
首謀者は、幻想の箱庭を守護する立場であるはずの人物。
そう――博麗霊夢その人である。
ふと、背後に人の気配を感じた。
私は微動だにしなかった。霧雨魔理沙にとって、もっとも馴染みのある人間の気配だったからだ。
変わらず彼方の空を遠望しながら、真横の床を軽く叩いた。
その意思表示を正確に理解した彼女は、静かに腰を下ろした。手のひら一つ分の隙間が、心地よい距離だった。
特に会話はない。だが息苦しい沈黙でもない。
話さなくては気まずい、なんてちっぽけな絆を繋いでいるような関係ではないから。
だが――心がざわつくような、チリチリと肌がひりつくような感覚があった。
わずかな不快感が棘のように突き刺さる。どうした、と声をかける前に、ちらりと視線をそちらに向けた。
霊夢が、私を見ていた。
しかもその表情はいつもの仏頂面ではなく、凪のように穏やかな微笑。
驚きや疑問よりも先に、強く鼓動が高鳴った。
「――魔理沙」
桜色の唇が、小さく開いて名前を呼んだ。
自分の顔が熱くなるのを自覚し、動揺を何とか押し込めながら聞いた。
「な、なんだよ。霊夢」
「呼んでみただけ」
悪戯っぽく、しかし邪気のない笑みで答える霊夢。
私は情けなく口ごもりながら「そ、そうか」と頷くに留まった。
「魔理沙」
「……今度はなんだよ?」
「ふふ、返事してもらいたかっただけ」
「あ、ああ……」
なんだろう、この状況。
霊夢が楽しそうなのは喜ばしいことだが、違和感が半端ない。
一体何がどうなっていて、私は何を求められているのだろうか。
「魔理沙」
「……なんだ」
「魔理沙」
「どうした……霊夢」
「うん、名前を呼んでもらいたかっただけっ」
言うや、はにかんだ霊夢の顔が急接近してきて。
「……ちゅ」
「っ!?」
触れるだけの、ちゅーをされた。
かっと頭に血液が昇る。見開いた瞳に映った視界が真紅に染まり、瞬くように明滅した。
すぐに離れるも、照れくさそうに頬を赤らめた霊夢は、再び唇を重ねてくる。
「んちゅ……ふわ、魔理沙ぁ……れろ」
「ちょ、ま、ちゅう……れ、れいむっ!」
「んー? なぁに?」
「ななななな、なにすんだよ! その、ちゅ、ちゅーなんて!」
「え? だって、したかったんだもん」
にっこりと微笑み、感触を確かめるように自身の唇を指でなぞった。
その口唇は濡れ光っており、それが私の唾液かもしれないと思うと、お腹の奥がじわりと熱くなる。
首をぶんぶんと振り、脳裏をよぎったふしだらな光景を打ち消した。
「だから! 別に私たちはそんな関係じゃないだろう!?」
「え? だって、昨日は魔理沙の方からキスしてきたじゃない。つまり私が好きなんでしょう?」
まるで私の方が意味不明なことを言っているというように、霊夢は不思議そうに首を傾げた。
うぐっと言葉に詰まる。
「た、確かに私からちゅーしたけど……でもあれは、うん、雰囲気に流されたというか!」
「流されて、好きでもない相手とキスできるの?」
できない。土下座されてもお断りだ。
好きでもない相手に迫られたなら、そいつの喉笛を食い千切ってでも拒絶する程度の貞操観念は持ち合わせているつもりである。
だが、それを認めてしまうと、私がまるで霊夢のことを心から大好きだと認めてしまうみたいだった。
歯を強く噛み合わせ、なんとか良い言い訳はないかと脳内を高速で検索する。
そんな私を面白がるように、霊夢は朗らかに言った。
「ほら、やっぱり。両想いならキスしたっておかしくないわよ」
「りょ!? ううううう嘘つけ、霊夢は、私のことなんてどうでもいいだろ、興味だってないはずだ!」
「ううん、好き。私、博麗霊夢は、霧雨魔理沙が大好きっ」
ひまわりの花弁が目の前で開いたと錯覚するほど、輝かしい笑顔が満面に広がる。
絶句した。あの博麗霊夢が、これほど好意を露わにする姿など、今まで一度たりとも目撃したことはなかったから。
もしも異変認定委員会なんてものがあるのなら、満場一致で確定だ。
名は『でれいむ異変』なんてどうだろうか。異変の損害は、霧雨魔理沙の心臓が定期的に爆発するとか。
それにしても――
霊夢の発言には、まるで嘘の気配を感じ取れなかった。
長年嘘をつき続けた玄人としての五感が、何よりも信頼している直感が、彼女は本音を語っていると断言する。
霊夢が、私を好きだって?
一度は狂おしいほどに強く望んだ言葉。
けれども、いざ本人の口から語られると、遠い国の夢物語のセリフのように現実味がない。
あまりに衝撃的な展開に硬直していると、霊夢は思い出したように言った。
「あ、そうだ。これから出かけるから準備してね」
「……お? おお、そうか。いってらっしゃい」
「なんで他人事なの。あんたも行くに決まってるでしょうが」
「どこに、というかなんでだ。それに悪いけど、今はちょっと出歩きたくない……」
視線を落とし、ああ、と納得したように頷く霊夢。
現在私こと霧雨魔理沙の全身は、まるで刺青のように刻まれた霊夢の歯形で埋まっているのだ。
遠目ならいざ知らず、至近距離で顔を突き合わせれば、これが何なのかは一目瞭然。
その隣で素知らぬ態度の霊夢がいるのなら、『お相手』が誰なのかを察するのは簡単だろう。
仮に霊夢が本当に私を好きなんだとしても、やはり喧しい連中にむやみやたらと吹聴する真似は避けたかった。
――なんて至極切実な願いを、霊夢はあっさりと却下する。
「駄目よ。魔理沙には私とずっと一緒にいてもらわないといけないし」
「……は? どういう意味だ」
「善は急げっていうしね。帰りに魔理沙の家に寄って、すぐに必要なものだけでも移動させないと」
「何の話を……いや、移動ってどこに?」
当然の疑問を、疑問など持ちようもないという態度で返された。
「うちに。だって、これからは一緒に暮らすんだから」
「えっ」
「でもあんた一人だと無駄なガラクタも大量に持ってくるだろうから、見張りしなきゃね」
「ちょ、ちょっと待てって! だからど……同棲とか、なんで……」
「――私が残したモノに、なってくれるんでしょ?」
手のひらに温かな感触。
指と指の間にも隙間が出来ないよう、固く握りしめられる。
絶対に逃がさないわよ、と心を鷲掴みされた気がした。
「これから毎日、二度と忘れないように刻み込んであげる。あらゆる行動を共にして、全ての感情をあんたにあげる」
「……じゃあ、いずれ霊夢のことなら私が一番詳しくなれるのか?」
「もちろん。私の好物も嫌いなものも、どう思考して立ち振る舞って何を願っていたのかも、喜怒哀楽も大好きも大嫌いも、くまなく惜しみなく与えるわ」
「全部知るには、どれくらいかかるんだよ」
霊夢は笑った。
小さく小さく、それでいて心の底から幸せそうに。
「私が死ぬまでに決まってるじゃない。死ぬまで教え続けてあげる」
「その後は、妖怪になった私が死ぬまで霊夢を覚えていなきゃならないんだな」
「本当は物理的に一緒に逝きたいけどね。でも、そういう死に方も悪くないわ」
どういう意味だ、と目で問いかける。
繋いでいない方の手が伸びる。細くて柔らかいそれは、私の胸の中心にそっと置かれた。
「魔理沙が覚えている限り、私は生き続ける。だから、魔理沙が死ぬときは、私が死ぬときでもあるの」
「誰の記憶からも消え去った瞬間が、その人物が本当に死ぬとき……か」
「ええ。だから、ずっと一緒。そこに私の魂はないけど、どんな状況であんたが死んでも、私が一緒だから」
私たちはこれから先、何が起ころうとも決して孤独じゃない。
私には霊夢がいる。霊夢には私がいる。
そして他ならぬ霊夢が、その役目を私に求めている事実に、目頭が急激に熱くなった。
「格好つかないんだから。でも、やっぱり魔理沙の泣き顔は可愛いわね」
からかうような言葉に、けれど私は反論できなかった。
唇を強く噛みしめているから。喋るために口を開こうとすれば、即座に滂沱たる涙が零れると自覚していたから。
それを解きほぐそうとするように、霊夢は目尻に唇を寄せる。
どこまでも優しく、いつまでも温かく、誰よりも近くで、こんなにも愛おしげに。
「私の前では、あんたはあんたらしくいなさい。そんな魔理沙が、好きなんだから」
――ああ。
――私も、霊夢のことが好きだぜ。
◆
「ところでさ」
「うん、なぁに魔理沙」
「今からどこに行く予定なんだ?」
「紅魔館よ。正確に言えば、その地下にある大図書館」
「パチュリーに用事か? それとも本でも探してるのか」
「後者ね。まあ、その本を見つけるためにパチュリーを頼ることは十分考えられるけど」
「へえ、霊夢も本を読む日があるんだ。何の本をご所望なんだ?」
「調教の本」
「……霊夢、何か動物でも飼ってたか? それとも妖精どもに使うのか」
「あっちこっち忙しなく走り回る黒白犬を、主人の後追い自殺させる躾の方法が知りたいの」
「………………そっか」
「魔理沙も手伝ってくれない?」
「…………いや、私は」
「返事は?」
「………………………………………………………………はい」
この作品は私から言えば「許容範囲を越えた百合話」としか思えない。
というのも、霊夢の行動が明らかに度を越している。
「霊夢ってこんな肉食派だったけ?」ってこれを読んだ人は誰もがそう思うはずです。私は。
霊夢が抱える寂しさだけが、唯一のシリアス。
この辺だけが(いつもの)霊夢らしい一面だと思います。
魔理沙だけ半分以上、乙女で魔理沙らしいけど。
私が言うのもあれですが、百合話を書くなら、もう少し控えめにした方が良いかと思います。
そろそろ失礼いたします。
最後に。
これ、紫やアリスが見てたらどう思うだろうなあ...。
最近さとまり読んでないなぁ(チラッ
霊夢が病みすぎなのはちょっと違和感ありましたがレイマリちゅっちゅは賛成します。
思いついたら即断即決即実行する行動力は霊夢という感じがしました。
そして、魔理沙の感情を二の次にする自分本位さも…本来であれば勝手なキャラとしか
なりえないのに、そういった気性すらも魅力としてしまうのが霊夢の凄いところなのでしょう。
…人間よりも妖怪に近い性質なのでしょうが。
何をって、決まってんだろそんなの。
砂糖吐いたんだよ大量に!
「霊夢や魔理沙ってこんな感じだよな」っていう感覚もいいが、「こんなレイマリがあるのか」と驚かされるのもたまらない。
この作品は驚かされたという点で私は満足です。
とても良くできていると思いました。
ただ……エロすぎるよ……!
霊夢の母周りの回想(幼少)から突然の大人すぎる行動にギャップを感じたのかもしれません。間が抜け落ちてるよ、的な。
多少性知識についての経過などもあれば、自然に感じたのかもしれませんが。
ううむ、ゆり行動に走る説得力が欲しかったかな、という感じです
それを受け止める魔理沙は乙女的というか格好良いです
ちょっと霊夢の暴力が度を越してるかなと
前言撤回、当時のコメントは一部否定いたします。
当時はこういうのに免疫がなかったからです。
こういうちゅっちゅは好物だ!
多少のアレは許容範囲です!
否定できない部分もありますけど...
とりあえずこれは良い百合話だということで。
では失礼いたしました!
霊夢さんも鬼とか色々言われますがこうしてみると一人の乙女なんだなーと。
吐いた砂糖でケーキでも作ってきます。
何を作るって? ・・・ウェディングケーキだよ!!
あなたのレイマリが大好きでした
ありがとうございます