「霊夢殿、これは一体何なのだ?」
そう布都は霊夢に、さも寺子屋の生徒が慧音に質問する様な、それがごく当たり前といった風情で尋ねる。
客間で神子が率いる新参者の皆に茶を配り終えた霊夢は、その指差された方へと視線を向けた。
「こら、布都。他人の家で物の詮索は、失礼にあたるわよ」
「だって……気になるではないか」
屠自古が良識的観点からたしなめるが、布都も食い下がる。
そんなちょっと天然で好奇心旺盛な布都に対して、神子は笏を口元に当てながら、屠自古はやれやれといった呆れ顔をしながら、青娥は優艶な笑みを浮かべながら、芳香は何も考えていないが、こう心中で親指を立てた。
(布都、グッジョブ!!)
皆が躾の良い育ちという仮面を被りながら、心の底から異様に気になる物体が置かれた床の間に視線を飛ばす。
床の間には『お金大好き 巫女だもの』と書かれた掛け軸とルビンの壺。
そして、高座のミニ座布団に乗せられた真っ赤なスイッチが鎮座していたのだった。
――◇――
神子ら一行はここ幻想郷にて復活を果たし、あれやこれやの異変騒動を経て、この郷の一員として落ち着くことと相成った。
そこで神子は執政者の経験から、幻想郷の有力者に挨拶をしておこう、という話を皆に持ちかけた。
その意見に異議はなく、まずはこの幻想郷で1、2を争う重要人物かつ勘違いで迷惑をかけまくった霊夢の住まう博麗神社に訪れたのだった。
一度は弾幕を交えた相手。果たして友好な歓迎が望めるかどうか、一同は緊張していた。
だがフタを開けてみたら、博麗の巫女は思ったほど嫌悪の感情を見せず、神社に招き入れてくれた。
始めこそ面倒臭そうな態度だったが、こんな時にと買っておいた人里名菓『トラヤの羊羹』を差し出した途端、待遇は一変した。
相好を崩し、客間に通し、皆のお茶までいただいた。
こうして和やかなムードで現在に至るわけだが、その安堵や今後の為の人脈構成すらどーでもよくなる存在が目につきまくる。
それが、今も歴然と佇む赤いスイッチである。
台座は四角四面の立方体。豆腐一丁ほどの大きさで、鈍い金属光沢を放っていた。
その上に乗っかっているのが、手のひらサイズの大きなスイッチ。
どら焼きの様に真ん中がつるんと正しい放物線を描き、色はこれでもかと真っ赤。だが、そのスイッチの上には何やら直線が4本縦横に書いてあった。
だがそれ以外に装飾はなく、この物体がどこかに接続されている気配もない。
スイッチを押す、その為だけの機械。そんな印象を見受けた。
さて、人間は有史以来、次の命題に苦しんできた。それがこれだ。
『スイッチがあったら、とりあえず押したい』
これは人間の本能であり、『やるな、と言われたらやりたくなる』という悲しい性も併合した抗い難い欲望なのである。
そしてそれは邪仙や尸解仙、聖人でさえ例外ではない。
アレは何のスイッチなのだろう。押したら、何が起こるのだろう。
神子を含むほとんどの者の思考が、その一点に釘付けとなる。
もう「羊羹ありがとう」「いえいえそんな」なんて会話は上の空だ。
一刻も早く、スイッチの事情を聞きたかった。だが、格式と良識という壁が、その問いを口から発するのを拒んだ。
スイッチのことを聞いたら、ものすごくイヤな顔をされるかもしれない。下賤だと馬鹿にされるかもしれない。
ましてや、あわよくば押してみたいという要求は稚児の我儘に等しく、口が裂けても言えやしない。
まぁ要は、恥ずかしいのと話題に触れるタイミングを計っておとなしくしていたものだから、スイッチをガン見していた布都の一言に皆は称賛の拍手を静かに送ったのだ。
ともかく、火中の栗拾い役は布都が買って出た。皆は霊夢に注視する。
霊夢は布都の指差す物を察して、解説し始める。
「ああ、これ? これはEボタンよ」
「……いーぼたん?」
霊夢がさらりと布都に説明するのを、皆も聞く。
すると霊夢はやおら立ち上がり、件のスイッチを手に取り目の前まで持ってきた。
コトリ、と机に置かれたそれを、皆が凝視する。
「ほら、ここに『E』って書いてあるでしょ。だからEボタン」
どうやら4本の直線はEだったらしい。
だが、その情報だけでは何が何やらわからない。
しかし次の瞬間、霊夢がこの場で究極の殺し文句をあっさりと述べた。
「押したい? 今ここで押してもいいわよ」
なん……だと!?
その場に張りつめた感情を言葉で表すならこうである。実際は『ざわ……ざわ……』であったが。
「押して説明した方が早いしね。何なら……布都だっけ? 押してちょうだいな」
「おお! よいのか」
「いいわよ」
その言葉に、やや唇を噛みしめる3人。
こう簡単に許可が下りるんだったら、自分が押したかった。
こんなことなら、つまらないプライドなんぞ犬に食わせて、さっさとボタンに言及すればよかった……
だが、ここはメンバーの中でも比較的大人が揃っている。
とりあえず、ボタンの正体がわかるだけでも良しとしよう。
そう割り切って、今度は布都の挙動に注目する。
膨らむ想像と期待感。
神社が変形して立ち上がるのだろうか。はたまた、もう一度月ロケットが飛び出すのだろうか。
皆は固唾を飲んで、これから始まる何かを受け入れる準備をした。
「では、僭越ながら……ていっ」
布都は高らかに手を上げると、Eボタンに向けて思いきり振りおろした。
そしてバチンと小気味いい音がして、完全にボタンが沈み込んだ。
一同の鼓動が極限まで高まる。
が、何も起きない。
数秒して、布都がボタンを押し込む手を離した。ボタンは元の位置に戻ったが、特にボタン自体に変化はないようだ。
「…………あの」
「ん?」
「……何なのですか。これ」
とりあえず一同を代表して神子が霊夢に尋ねる。
すると、霊夢は淡々と説明し始める。
「このボタンの正式名称は、Emergency button。Eはその頭文字を取った物よ」
「え、えま」
「エマージェンシー ボタン。日本語に直すと、『緊急ボタン』。お分かり?」
「緊急……」
「そ。例えば、私が敵に襲われて動けない等不測の事態に陥った時、このボタンを押すと即座に郷の主要な人間や妖怪へ通報される仕組みになっているの。
つまり、声を出さず静かに外部に助けを求められるってわけ」
霊夢はそう何事もない様に、スイッチの素性を明かした。
布都はそれを聞いて「おお! これは便利で安心じゃのう!」などとのたまっているが、神子を含む知識人は急に狼狽し始めた。
そして能天気な布都を差し置き、神子がうっすら汗ばむ手で笏を持ち直しながら霊夢に問いかける。
「き、君」
「はい?」
「これは……この場で軽く押して良いものだったのですか?」
「……まぁ、普通ならダメでしょうね」
霊夢はそうお茶をすすりつつ、にこやかに断じる。
さらに、客として招き入れられたはずの一同にとって衝撃の一言も付け加えて。
「でも今は不測の事態中よ。
異変の首謀者が雁首揃ってここにいる。そんな好機は、外部に知らせなきゃいけないでしょう」
笑顔は、絶えなかった。
ただ差向いに座る一同の目には、悪魔の様に邪悪な笑みに見えた。
刹那動いたのは、屠自古と青娥。
屠自古は神子をかばうように立ちはだかり、青娥は芳香が戦闘モードに入る文言を唱えた。
神子は眉間に皺を寄せる。その反応は、屠自古の突飛な行動に対してではなく、目の前の巫女に対してだ。
ただ状況が把握できなかった布都のみが「えっ? えっ?」とオロオロ慌てだした。
だが、霊夢の弁舌は止まらない。
「今起こっている事を教えてあげましょうか。
まずボタンを押したら、八雲家、紅魔館、慧音の自宅に妖怪の山駐屯地、竹林から魔法の森にまで設置された警報赤ランプが光るわ。
それが光ったら最後、わずか10分あまりでこの神社は包囲される」
この時神子は、外から大量の欲の声を聴いた。しかし、内容は読み取れない。
数が多すぎる。まるでノイズのように声が入り混じり、判別は不可能だ。
これは、少なくとも10人以上の人妖が接近しているということを意味する。
「紅魔館の衛士隊が完全武装で周りを固める。人里の自警団は後方で包囲網の形成をしつつ待機」
『全員槍と盾を持ったか!?』
『ハッ!』
『横陣を組み、石段を抑える。斜面にも伏兵を配置せよ』
『後方にも配備完了しました』
『よし。命があるまで包囲を崩すな。里の人間とも連絡を密に取り連携を怠らないことにも注意せよ』
『了解しました。紅衛士長』
「魔理沙と鈴仙は射程の長さを買われて長距離支援ね。そして上空は天狗の1個分隊が制圧」
『南西の風、風力3。気温・湿度は標準……射角を2度上げて』
『さっすが元狙撃隊イチの観測手だっただけある。照準機や双眼鏡なしで補正できるなんてな』
『それは魔理沙も同じよ。この距離で弾道落下が起きない武器なんて、月の技術を除けば奇跡ね』
『八卦炉をくれた香霖がよろこぶな……っと、天狗の定期便がお出ましだ』
『すごい。翼が7割で空が3割しか見えない。この戦力なら、砦や城だって制圧できるわ』
『まったく、こんなのに睨まれた敵さんは不幸だな』
「社からは蟻の這い出る隙間もなくなり、突破口を開くのは」
『そろそろだと思っていたら、案の定』
『では紫様、鬨の声を』
『はい了解。
皆の者、今こそ博麗神社に跳梁する不届き物を、この手で叩きのめすのだ!
先人は私、八雲紫と八雲藍が切る。皆は各個に開かれたスキマから突入せよ!』
「貴様! 最初からこれが狙いか」
「まぁね。隙を見てボタンを押すつもりだったけど、まさか自分から押してくれるなんてね」
怒気をむき出しに猛る屠自古に対して、霊夢が余裕綽々に答える。
対して屠自古はぎり、と歯を噛みしめる。
「どうする? 降伏した方がいいと思うけど」
「ふざけるな。こんな卑怯なだまし討ちに、私は屈したりなどしない」
「そうですわ。この程度の障害、この青娥娘々には花に嵐も同然」
屠自古は覚悟を完了し、青娥の言葉通り芳香がグルグルと唸り始める。
布都もようやく事情が呑み込めたのか、両手を広げた戦闘態勢をとる。
そして、神子は冷静にこう宣言する。
「……私の信条は、和を以って貴しとなす。
新天地の皆さんとは打ち解けてやっていきたかったのですが、こんな結果となって残念です。
こうなれば身にかかる火の粉は振り払い、私は私のやり方で道を貫くのみです」
立ち上がり、剣の柄に手を掛けながらの言葉であった。
その言葉に滲む強靭な意志に、霊夢は不敵に笑う。
「そう、なら結構。紫、もう入ってきて」
まるで友達を招き入れる様な口調で、この地最大級の妖怪の名を空中に呼ぶ霊夢。
刹那、そこにリボンが結わえられたスキマがぱっくりと口を開く。
神子たちの緊張感が最高潮に達する。
そして、中からついに御大が姿を現した。
「はぁい、太古の聖人さん。幻想郷にようこそ。
ありきたりな台詞だけど、貴女たちは完全に包囲されているわ。
投降します? 徹底抗戦します?」
紫の挑発めいた告知に、一同は無言の圧をかけて答えとする。
もちろん選ぶのは後者だ、といった雰囲気をまきちらしている。
そしてついに、戦いの火ぶたが切って落とされる。
かと思われたが、霊夢は柱時計を見て紫に感心した様にこう述べた。
「すごい。新記録ね。動きもいい」
「ふふふ、日々の訓練の賜物よ。まぁ、そろそろ来るかなー、と思って準備していたんだけどね」
「それ、抜き打ちの意味ないじゃない」
「いつ抜き打ちが行われるか察知するのも、訓練の賜物ですわ」
「そろそろ普通の文法も訓練して欲しいのだけど」
そう互いに緊張感ゼロな会話を繰り広げるふたり。
初めは何かの合図かと思っていた神子たちだったが、何やら先ほどとは違う緩んだ空気を感じ取った。
ここでようやく神子は気づく。
外の欲の声に、全く敵意が無いことに。今やその声を台詞に表すなら「ああ~、終わった終わった」といったところである。
「……あの、これはどういう?」
神子は再び一同を代表して霊夢に問いかける。無論、神子を含め全員が戦闘状態を拍子抜けした様に解いた後である。
「んー、これね。話すと中々長いから、まずは外を見て」
霊夢に促され、皆は障子を開けて外に出る。
するとそこには、様々な人妖が入り乱れてござや小さなテーブルを並べる姿があった。
妖精メイドが食器をならべ、慧音と美鈴が談笑している。
向こうの上空からは魔理沙と鈴仙。そしてあの天狗がやってきた。
「あやや。こちらが今異変の首謀者の方々ですね。
初めまして、私は文々。新聞の記者の射命丸といいます。以後お見知りおきを」
「紹介するわ。これが話しかけられても無視した方が無難な天狗よ」
「あやや! なんと辛辣なお言葉。文はとてもショックですうぅ」
「そんなことより、今回の食事はあんたんとこが当番でしょ。大丈夫?」
「はい。その辺は抜かりなく。山の駐屯地から炊爨部隊を借りてきましたから」
そう文は空と石段を指し示す。
すると、空からは食料や酒を持ち、石段から移動式かまどや鍋釜調理道具を担いだ白狼天狗がえっちらおっちらとやってきた。
それを確認して、霊夢はむふふと笑みを浮かべる。
「それじゃ、めいめい始めましょうか。侵入者ならぬ、新入者の歓迎会を」
霊夢の唐突な開会宣言に、境内の一同は盛り上がり、神子一行は今日3度目の疑問符を頭に浮かべたのだった。
――◇――
「始めはね、本当に緊急時にしか押さないボタンだったのよ」
そう霊夢は、朱塗りの杯に入った日本酒をちびちびやりながら、ボタンの素性を語り始める。
周囲ではいつも通り人と妖怪が入り乱れてのどんちゃん騒ぎが繰り広げられている。
神子たちも勧められるまま酒を注がれ、戸惑いつつもほろ酔いで霊夢の話に耳を傾けている状態だ。
「決闘ルールが出来る前は、この地も結構殺伐としていてね。博麗の巫女に何かあってはマズイから、その安全策としてこのボタンが設置されたのよ。
でもまぁ、この私とその一族に喧嘩吹っかけようなんて実力のある奴は、大抵身を引くかそこで楽しく酒かっ喰らうかを選択するのよね」
霊夢が顎をしゃくって境内の一角を指し示す。
そこでは萃香が瓢箪片手にうたたねをしており、その隙に魔理沙がストローでこっそり瓢箪の酒をくすねる愉快な現象が発生していた。
「そんなわけで、最早この緊急ボタンの存在理由は風前の灯だけど、万一に備えて作動確認はしておきたい」
「それで……適当な時期、この場合は異変が起きたらボタンを押すわけですか」
「そう。赤ランプ側の出動や対策の練習を兼ねて、ね」
霊夢は神子のするどい予想に首を振って是を表す。
「では、この宴会はなんなのだ?」
屠自古の真っ当な問いに、全員が頷く。
すると霊夢は、ここが核心である、と言わんばかりに間を置いて話を続ける。
「この幻想郷ではね、無意味な行動は面白くないと皆乗り気にならないのよ。
それこそ、これが終わったらお酒が飲み放題のご褒美、とかね。
だからいつの間にか食事や酒を持ち回りで用意して、宴会を開く合図としてこのボタンが使われる様になったのよ。
今やこのボタンのEは、『宴会(ENNKAI)』のEという意味が適当よ」
「じゃあ……これはつまり」
「まぁ、ありきたりなことで言えば、ドッキリ企画ね。それと企画成功後の打ち上げってこと」
あっけらかんと明かされた事の真相に、つい先ほどまで一番殺気を放出していた屠自古はくたりと脱力する。
神子はやれやれと首を振り、青娥はマイペースに芳香と食事をしている。
布都に至っては、そこらの宴席に交じって過去の武勇伝を披露しながら酒を飲んでいて、周囲と完全に馴染んでいた。
「本当に、胆が縮みましたよ」
「ごめんごめん。でも、新参者の通過儀礼だと思ってちょうだい。
貴女の啖呵、なかなかシビれたわよ。今後も海千山千の幻想郷でやっていけそうでよかったわ」
そう勝手な理屈を権力者にこねられれば、神子たちはもう何も言えない。
しかし、今回の一件で幻想郷がどんなところか、だいぶ飲み込めた。
一筋縄ではいかない様相のこの地で、私はどれだけのことを成せるのか。
神子は久しぶりに感じる困難に対する胸の高鳴りを、透明な冷酒で熱く醒ました。
そんな情熱を知ってか知らずか、霊夢が締めの言葉を発する。
「まぁ、何にしても、幻想郷は全てを受け入れる。
あまりおイタをして私に迷惑かけないように、これからよろしく」
そう、右手を差し出す霊夢。
神子はその習慣をキチンと知っていた。
「こちらこそ、私たちを受け入れてくれてありがとう。どうぞよろしく」
神子と巫女が、祝宴の片隅で固い握手を交わす。
こうして、この幻想郷に根性の据わった新たな住人が混ざったのであった――
「ところで、次回このボタンが押されたら、アンタたちも来るのよ。
あ、いい酒持っているならそれ持参でね。拒否権はないから、新人さん」
「……ええ~」
神子は学んだ。
とりあえず、この巫女には逆らわない方が無難だと。
【終】
そう布都は霊夢に、さも寺子屋の生徒が慧音に質問する様な、それがごく当たり前といった風情で尋ねる。
客間で神子が率いる新参者の皆に茶を配り終えた霊夢は、その指差された方へと視線を向けた。
「こら、布都。他人の家で物の詮索は、失礼にあたるわよ」
「だって……気になるではないか」
屠自古が良識的観点からたしなめるが、布都も食い下がる。
そんなちょっと天然で好奇心旺盛な布都に対して、神子は笏を口元に当てながら、屠自古はやれやれといった呆れ顔をしながら、青娥は優艶な笑みを浮かべながら、芳香は何も考えていないが、こう心中で親指を立てた。
(布都、グッジョブ!!)
皆が躾の良い育ちという仮面を被りながら、心の底から異様に気になる物体が置かれた床の間に視線を飛ばす。
床の間には『お金大好き 巫女だもの』と書かれた掛け軸とルビンの壺。
そして、高座のミニ座布団に乗せられた真っ赤なスイッチが鎮座していたのだった。
――◇――
神子ら一行はここ幻想郷にて復活を果たし、あれやこれやの異変騒動を経て、この郷の一員として落ち着くことと相成った。
そこで神子は執政者の経験から、幻想郷の有力者に挨拶をしておこう、という話を皆に持ちかけた。
その意見に異議はなく、まずはこの幻想郷で1、2を争う重要人物かつ勘違いで迷惑をかけまくった霊夢の住まう博麗神社に訪れたのだった。
一度は弾幕を交えた相手。果たして友好な歓迎が望めるかどうか、一同は緊張していた。
だがフタを開けてみたら、博麗の巫女は思ったほど嫌悪の感情を見せず、神社に招き入れてくれた。
始めこそ面倒臭そうな態度だったが、こんな時にと買っておいた人里名菓『トラヤの羊羹』を差し出した途端、待遇は一変した。
相好を崩し、客間に通し、皆のお茶までいただいた。
こうして和やかなムードで現在に至るわけだが、その安堵や今後の為の人脈構成すらどーでもよくなる存在が目につきまくる。
それが、今も歴然と佇む赤いスイッチである。
台座は四角四面の立方体。豆腐一丁ほどの大きさで、鈍い金属光沢を放っていた。
その上に乗っかっているのが、手のひらサイズの大きなスイッチ。
どら焼きの様に真ん中がつるんと正しい放物線を描き、色はこれでもかと真っ赤。だが、そのスイッチの上には何やら直線が4本縦横に書いてあった。
だがそれ以外に装飾はなく、この物体がどこかに接続されている気配もない。
スイッチを押す、その為だけの機械。そんな印象を見受けた。
さて、人間は有史以来、次の命題に苦しんできた。それがこれだ。
『スイッチがあったら、とりあえず押したい』
これは人間の本能であり、『やるな、と言われたらやりたくなる』という悲しい性も併合した抗い難い欲望なのである。
そしてそれは邪仙や尸解仙、聖人でさえ例外ではない。
アレは何のスイッチなのだろう。押したら、何が起こるのだろう。
神子を含むほとんどの者の思考が、その一点に釘付けとなる。
もう「羊羹ありがとう」「いえいえそんな」なんて会話は上の空だ。
一刻も早く、スイッチの事情を聞きたかった。だが、格式と良識という壁が、その問いを口から発するのを拒んだ。
スイッチのことを聞いたら、ものすごくイヤな顔をされるかもしれない。下賤だと馬鹿にされるかもしれない。
ましてや、あわよくば押してみたいという要求は稚児の我儘に等しく、口が裂けても言えやしない。
まぁ要は、恥ずかしいのと話題に触れるタイミングを計っておとなしくしていたものだから、スイッチをガン見していた布都の一言に皆は称賛の拍手を静かに送ったのだ。
ともかく、火中の栗拾い役は布都が買って出た。皆は霊夢に注視する。
霊夢は布都の指差す物を察して、解説し始める。
「ああ、これ? これはEボタンよ」
「……いーぼたん?」
霊夢がさらりと布都に説明するのを、皆も聞く。
すると霊夢はやおら立ち上がり、件のスイッチを手に取り目の前まで持ってきた。
コトリ、と机に置かれたそれを、皆が凝視する。
「ほら、ここに『E』って書いてあるでしょ。だからEボタン」
どうやら4本の直線はEだったらしい。
だが、その情報だけでは何が何やらわからない。
しかし次の瞬間、霊夢がこの場で究極の殺し文句をあっさりと述べた。
「押したい? 今ここで押してもいいわよ」
なん……だと!?
その場に張りつめた感情を言葉で表すならこうである。実際は『ざわ……ざわ……』であったが。
「押して説明した方が早いしね。何なら……布都だっけ? 押してちょうだいな」
「おお! よいのか」
「いいわよ」
その言葉に、やや唇を噛みしめる3人。
こう簡単に許可が下りるんだったら、自分が押したかった。
こんなことなら、つまらないプライドなんぞ犬に食わせて、さっさとボタンに言及すればよかった……
だが、ここはメンバーの中でも比較的大人が揃っている。
とりあえず、ボタンの正体がわかるだけでも良しとしよう。
そう割り切って、今度は布都の挙動に注目する。
膨らむ想像と期待感。
神社が変形して立ち上がるのだろうか。はたまた、もう一度月ロケットが飛び出すのだろうか。
皆は固唾を飲んで、これから始まる何かを受け入れる準備をした。
「では、僭越ながら……ていっ」
布都は高らかに手を上げると、Eボタンに向けて思いきり振りおろした。
そしてバチンと小気味いい音がして、完全にボタンが沈み込んだ。
一同の鼓動が極限まで高まる。
が、何も起きない。
数秒して、布都がボタンを押し込む手を離した。ボタンは元の位置に戻ったが、特にボタン自体に変化はないようだ。
「…………あの」
「ん?」
「……何なのですか。これ」
とりあえず一同を代表して神子が霊夢に尋ねる。
すると、霊夢は淡々と説明し始める。
「このボタンの正式名称は、Emergency button。Eはその頭文字を取った物よ」
「え、えま」
「エマージェンシー ボタン。日本語に直すと、『緊急ボタン』。お分かり?」
「緊急……」
「そ。例えば、私が敵に襲われて動けない等不測の事態に陥った時、このボタンを押すと即座に郷の主要な人間や妖怪へ通報される仕組みになっているの。
つまり、声を出さず静かに外部に助けを求められるってわけ」
霊夢はそう何事もない様に、スイッチの素性を明かした。
布都はそれを聞いて「おお! これは便利で安心じゃのう!」などとのたまっているが、神子を含む知識人は急に狼狽し始めた。
そして能天気な布都を差し置き、神子がうっすら汗ばむ手で笏を持ち直しながら霊夢に問いかける。
「き、君」
「はい?」
「これは……この場で軽く押して良いものだったのですか?」
「……まぁ、普通ならダメでしょうね」
霊夢はそうお茶をすすりつつ、にこやかに断じる。
さらに、客として招き入れられたはずの一同にとって衝撃の一言も付け加えて。
「でも今は不測の事態中よ。
異変の首謀者が雁首揃ってここにいる。そんな好機は、外部に知らせなきゃいけないでしょう」
笑顔は、絶えなかった。
ただ差向いに座る一同の目には、悪魔の様に邪悪な笑みに見えた。
刹那動いたのは、屠自古と青娥。
屠自古は神子をかばうように立ちはだかり、青娥は芳香が戦闘モードに入る文言を唱えた。
神子は眉間に皺を寄せる。その反応は、屠自古の突飛な行動に対してではなく、目の前の巫女に対してだ。
ただ状況が把握できなかった布都のみが「えっ? えっ?」とオロオロ慌てだした。
だが、霊夢の弁舌は止まらない。
「今起こっている事を教えてあげましょうか。
まずボタンを押したら、八雲家、紅魔館、慧音の自宅に妖怪の山駐屯地、竹林から魔法の森にまで設置された警報赤ランプが光るわ。
それが光ったら最後、わずか10分あまりでこの神社は包囲される」
この時神子は、外から大量の欲の声を聴いた。しかし、内容は読み取れない。
数が多すぎる。まるでノイズのように声が入り混じり、判別は不可能だ。
これは、少なくとも10人以上の人妖が接近しているということを意味する。
「紅魔館の衛士隊が完全武装で周りを固める。人里の自警団は後方で包囲網の形成をしつつ待機」
『全員槍と盾を持ったか!?』
『ハッ!』
『横陣を組み、石段を抑える。斜面にも伏兵を配置せよ』
『後方にも配備完了しました』
『よし。命があるまで包囲を崩すな。里の人間とも連絡を密に取り連携を怠らないことにも注意せよ』
『了解しました。紅衛士長』
「魔理沙と鈴仙は射程の長さを買われて長距離支援ね。そして上空は天狗の1個分隊が制圧」
『南西の風、風力3。気温・湿度は標準……射角を2度上げて』
『さっすが元狙撃隊イチの観測手だっただけある。照準機や双眼鏡なしで補正できるなんてな』
『それは魔理沙も同じよ。この距離で弾道落下が起きない武器なんて、月の技術を除けば奇跡ね』
『八卦炉をくれた香霖がよろこぶな……っと、天狗の定期便がお出ましだ』
『すごい。翼が7割で空が3割しか見えない。この戦力なら、砦や城だって制圧できるわ』
『まったく、こんなのに睨まれた敵さんは不幸だな』
「社からは蟻の這い出る隙間もなくなり、突破口を開くのは」
『そろそろだと思っていたら、案の定』
『では紫様、鬨の声を』
『はい了解。
皆の者、今こそ博麗神社に跳梁する不届き物を、この手で叩きのめすのだ!
先人は私、八雲紫と八雲藍が切る。皆は各個に開かれたスキマから突入せよ!』
「貴様! 最初からこれが狙いか」
「まぁね。隙を見てボタンを押すつもりだったけど、まさか自分から押してくれるなんてね」
怒気をむき出しに猛る屠自古に対して、霊夢が余裕綽々に答える。
対して屠自古はぎり、と歯を噛みしめる。
「どうする? 降伏した方がいいと思うけど」
「ふざけるな。こんな卑怯なだまし討ちに、私は屈したりなどしない」
「そうですわ。この程度の障害、この青娥娘々には花に嵐も同然」
屠自古は覚悟を完了し、青娥の言葉通り芳香がグルグルと唸り始める。
布都もようやく事情が呑み込めたのか、両手を広げた戦闘態勢をとる。
そして、神子は冷静にこう宣言する。
「……私の信条は、和を以って貴しとなす。
新天地の皆さんとは打ち解けてやっていきたかったのですが、こんな結果となって残念です。
こうなれば身にかかる火の粉は振り払い、私は私のやり方で道を貫くのみです」
立ち上がり、剣の柄に手を掛けながらの言葉であった。
その言葉に滲む強靭な意志に、霊夢は不敵に笑う。
「そう、なら結構。紫、もう入ってきて」
まるで友達を招き入れる様な口調で、この地最大級の妖怪の名を空中に呼ぶ霊夢。
刹那、そこにリボンが結わえられたスキマがぱっくりと口を開く。
神子たちの緊張感が最高潮に達する。
そして、中からついに御大が姿を現した。
「はぁい、太古の聖人さん。幻想郷にようこそ。
ありきたりな台詞だけど、貴女たちは完全に包囲されているわ。
投降します? 徹底抗戦します?」
紫の挑発めいた告知に、一同は無言の圧をかけて答えとする。
もちろん選ぶのは後者だ、といった雰囲気をまきちらしている。
そしてついに、戦いの火ぶたが切って落とされる。
かと思われたが、霊夢は柱時計を見て紫に感心した様にこう述べた。
「すごい。新記録ね。動きもいい」
「ふふふ、日々の訓練の賜物よ。まぁ、そろそろ来るかなー、と思って準備していたんだけどね」
「それ、抜き打ちの意味ないじゃない」
「いつ抜き打ちが行われるか察知するのも、訓練の賜物ですわ」
「そろそろ普通の文法も訓練して欲しいのだけど」
そう互いに緊張感ゼロな会話を繰り広げるふたり。
初めは何かの合図かと思っていた神子たちだったが、何やら先ほどとは違う緩んだ空気を感じ取った。
ここでようやく神子は気づく。
外の欲の声に、全く敵意が無いことに。今やその声を台詞に表すなら「ああ~、終わった終わった」といったところである。
「……あの、これはどういう?」
神子は再び一同を代表して霊夢に問いかける。無論、神子を含め全員が戦闘状態を拍子抜けした様に解いた後である。
「んー、これね。話すと中々長いから、まずは外を見て」
霊夢に促され、皆は障子を開けて外に出る。
するとそこには、様々な人妖が入り乱れてござや小さなテーブルを並べる姿があった。
妖精メイドが食器をならべ、慧音と美鈴が談笑している。
向こうの上空からは魔理沙と鈴仙。そしてあの天狗がやってきた。
「あやや。こちらが今異変の首謀者の方々ですね。
初めまして、私は文々。新聞の記者の射命丸といいます。以後お見知りおきを」
「紹介するわ。これが話しかけられても無視した方が無難な天狗よ」
「あやや! なんと辛辣なお言葉。文はとてもショックですうぅ」
「そんなことより、今回の食事はあんたんとこが当番でしょ。大丈夫?」
「はい。その辺は抜かりなく。山の駐屯地から炊爨部隊を借りてきましたから」
そう文は空と石段を指し示す。
すると、空からは食料や酒を持ち、石段から移動式かまどや鍋釜調理道具を担いだ白狼天狗がえっちらおっちらとやってきた。
それを確認して、霊夢はむふふと笑みを浮かべる。
「それじゃ、めいめい始めましょうか。侵入者ならぬ、新入者の歓迎会を」
霊夢の唐突な開会宣言に、境内の一同は盛り上がり、神子一行は今日3度目の疑問符を頭に浮かべたのだった。
――◇――
「始めはね、本当に緊急時にしか押さないボタンだったのよ」
そう霊夢は、朱塗りの杯に入った日本酒をちびちびやりながら、ボタンの素性を語り始める。
周囲ではいつも通り人と妖怪が入り乱れてのどんちゃん騒ぎが繰り広げられている。
神子たちも勧められるまま酒を注がれ、戸惑いつつもほろ酔いで霊夢の話に耳を傾けている状態だ。
「決闘ルールが出来る前は、この地も結構殺伐としていてね。博麗の巫女に何かあってはマズイから、その安全策としてこのボタンが設置されたのよ。
でもまぁ、この私とその一族に喧嘩吹っかけようなんて実力のある奴は、大抵身を引くかそこで楽しく酒かっ喰らうかを選択するのよね」
霊夢が顎をしゃくって境内の一角を指し示す。
そこでは萃香が瓢箪片手にうたたねをしており、その隙に魔理沙がストローでこっそり瓢箪の酒をくすねる愉快な現象が発生していた。
「そんなわけで、最早この緊急ボタンの存在理由は風前の灯だけど、万一に備えて作動確認はしておきたい」
「それで……適当な時期、この場合は異変が起きたらボタンを押すわけですか」
「そう。赤ランプ側の出動や対策の練習を兼ねて、ね」
霊夢は神子のするどい予想に首を振って是を表す。
「では、この宴会はなんなのだ?」
屠自古の真っ当な問いに、全員が頷く。
すると霊夢は、ここが核心である、と言わんばかりに間を置いて話を続ける。
「この幻想郷ではね、無意味な行動は面白くないと皆乗り気にならないのよ。
それこそ、これが終わったらお酒が飲み放題のご褒美、とかね。
だからいつの間にか食事や酒を持ち回りで用意して、宴会を開く合図としてこのボタンが使われる様になったのよ。
今やこのボタンのEは、『宴会(ENNKAI)』のEという意味が適当よ」
「じゃあ……これはつまり」
「まぁ、ありきたりなことで言えば、ドッキリ企画ね。それと企画成功後の打ち上げってこと」
あっけらかんと明かされた事の真相に、つい先ほどまで一番殺気を放出していた屠自古はくたりと脱力する。
神子はやれやれと首を振り、青娥はマイペースに芳香と食事をしている。
布都に至っては、そこらの宴席に交じって過去の武勇伝を披露しながら酒を飲んでいて、周囲と完全に馴染んでいた。
「本当に、胆が縮みましたよ」
「ごめんごめん。でも、新参者の通過儀礼だと思ってちょうだい。
貴女の啖呵、なかなかシビれたわよ。今後も海千山千の幻想郷でやっていけそうでよかったわ」
そう勝手な理屈を権力者にこねられれば、神子たちはもう何も言えない。
しかし、今回の一件で幻想郷がどんなところか、だいぶ飲み込めた。
一筋縄ではいかない様相のこの地で、私はどれだけのことを成せるのか。
神子は久しぶりに感じる困難に対する胸の高鳴りを、透明な冷酒で熱く醒ました。
そんな情熱を知ってか知らずか、霊夢が締めの言葉を発する。
「まぁ、何にしても、幻想郷は全てを受け入れる。
あまりおイタをして私に迷惑かけないように、これからよろしく」
そう、右手を差し出す霊夢。
神子はその習慣をキチンと知っていた。
「こちらこそ、私たちを受け入れてくれてありがとう。どうぞよろしく」
神子と巫女が、祝宴の片隅で固い握手を交わす。
こうして、この幻想郷に根性の据わった新たな住人が混ざったのであった――
「ところで、次回このボタンが押されたら、アンタたちも来るのよ。
あ、いい酒持っているならそれ持参でね。拒否権はないから、新人さん」
「……ええ~」
神子は学んだ。
とりあえず、この巫女には逆らわない方が無難だと。
【終】
思いっきりバキッと押したくてたまらないです。
他の異変首謀者たちも皆押してきたのかねえ、このスイッチ、とか妄想してしまいました。
最初に頭に浮かんだ言葉は「避難訓練」でした。いや、避難というか迎撃だけど
押したことは無いデス。どうでもいいですよねスミマセン。
おお、同志よ。そのテのボタンでも特に、学校の廊下にある非常ボタンは罠同然の吸引力がありますよね。
良い子は何もない時に絶対に押しちゃダメ!
10番様
分かっていただけますか。ありがたや。
歴代首謀者もこの洗礼を浴びて、それで出動側にまわって驚かせることに楽しみを感じちゃったりするんでしょうなぁ。広がる謎の結束です。
14番様
もはやあの文句は霊夢の既定路線なので、誰もツッコまないのではないでしょうか(笑)
15番様
サイフォンの原理で別の容器にちょろちょろ、っと移していたりもします。
まさにご感想の通り、迎撃訓練を想定しました。平和ボケしていそうで、いざって時は非常に有能な国、というイメージです。
奇声を発する程度の能力様
分かって頂けますか。ありがとうございます。
意外と同意してくれる人がいないのですよ(泣)
超門番様
自爆ボタンっ! ああ、なんて甘美な響きなんでしょう(オイ)
押したらどうなるか詳細が激しく気になりますが、そーゆーボタンは押さないで、押した結果は想像だけに留めておくのが無難ですかね。
……でも、やっぱりちょっとくらいなら(マテ)
タッチパネルに一抹の味気なさを感じているがま口でした。
なかなかに良い話でした。
異変の度にこういうやりとりがあったと考えると面白いですね。
すっきり起承転結
ご感想ありがとうございます。ボタンは魔物です(笑)
しかし、過去の異変メンバー相手にこのドッキリは下手したら幻想郷が滅びそうだ……
でも協力関係を築いてこられたのならよかったなぁ、と思います。
ばかのひ様
ありがとうございます。オーソドックスを常に意識しております。
27番様
ありがとうございます。あっさりライトな作風が大好きなのであります。