真っ直ぐと続く廊下はしっかりとした木組みのおかげで、力強い年季の入り方をしている。香木でも混じっているのか、何か鼻をくすぐる様な香りが漂っていて、歩いていると不思議な心地になる。自分が場違いな場所を歩いている気がしてならない。何か掛け違って幻惑でも見ている様な気持ちだった。
「先生、さようなら!」
「おう、さようなら」
背後から聞こえた子供達の挨拶に応じて魔理沙が振り返ろうとすると、子供達はあっという間に魔理沙の横を駆け抜けて、廊下を走り出口から飛び出していった。それを微笑ましく見つめながら、魔理沙もまた出口へと向かう。
庭に出ると整った木々が庭を囲う様に立ち並び、真ん中には溜池があって、一尾の魚の跳ねるのが見えた。庭を眺めながら門へ向かっていると、庭を掃いていた庭師の男が手を止めて魔理沙へ頭を下げた。
「どうもお疲れ様です。魔理沙先生」
魔理沙は気恥ずかしそうに頬を掻きながら、男の言葉に応える。
「どうも。大人から先生なんて言われると恥ずかしいぜ」
「いえいえ。魔理沙先生のお陰でうちの子も随分と賢くなりましたよ。それに毎日毎日魔理沙先生魔理沙先生と実に嬉しそうに。そういえば、昨日は鯉の呪いがどうとか言ってましたけど、何か偉い魔法なんですか?」
魔理沙が顔を赤らめながら困った顔をしていると、男が唐突にあっと口を開いて門を指さした。
「そういえば、博麗さんが門の前にいらしてましたよ。何だか先生を待っている様で」
「霊夢が?」
何の用だろうと、門を抜けると、男の言葉通り霊夢が待っていた。積み重なった本を両手で抱えている霊夢は魔理沙が出てきた事に気がつくと、微笑んで歩み寄ってきた。
「魔理沙先生}
「お前までそういう」
「何だか随分立派な校舎へ移ったみたいだけど」
「ああ、前に言った通りさ」
「前に言った?」
「凄い豪邸だろ? 飯も出てすげぇ上手いんだぜ」
「羨ましいわね」
「なら霊夢も巫女なんか辞めて転職したらどうだ? 慧音も喜ぶぜ」
「遠慮しておくわ」
霊夢は一瞬迷う様な顔をしたがすぐに諦めた様子で歩き出した。それを追いながら、魔理沙は霊夢に尋ねた。
「それで今日はどうしたんだ? 何か私に用でもあるのか?」
「いいえ。霖之助さんから本を譲ってもらった帰りにたまたま近くを寄ったから」
「じゃあ、これからどうするんだ?」
「家で本を読むけど?」
「何だ。そうなのか」
魔理沙が残念そうに呟いたきり、二人の会話が途絶える。しばらく二人して歩いている内に、何だか魔理沙は居心地の悪さを感じた。昔は別に無言だって気にならなかったし、顔をつきあわせれば話題が浮かんだし、二人出会えば何処かしらに遊びに行ったものなのに。何だか今は居心地が悪い。二人の間に何か名状しがたい溝を感じた。自分か霊夢か、あるいはその両方が変わってしまったんだろうかと、酷く不安になった。
何を言おうと悩んでいると、不意に霊夢が暗澹と呟いた。
「羨ましいわね」
「え?」
驚いて霊夢を見ると、霊夢はいつも通りの澄ました顔で前を向いて歩いている。今の暗い声音を発する様な表情には見えなかった。
「何が羨ましいんだ?」
「何だか幸せそうに働いているから。人に必要とされてて」
「霊夢だって巫女をやってるじゃないか」
「参拝に来る人なんてほとんど居ないもの。異変だって、みんなが先に解決しちゃうから私が解決する必要がなくなってきてるし。私なんて居ても居なくてもどっちでも良い存在なのよ」
「そうか? 正月はみんな神社に行くし、異変だってでかいのは霊夢が解決してるし、結界だって霊夢が居なくちゃいけないし、それに少なくとも私は霊夢が必要だと思ってるぜ」
「ありがとう」
それっきりまた無言になって、居心地の悪さがやって来る。何か話したいのに何も思い浮かばない。会えて嬉しいのに苦痛を感じる。薄靄の晴れない心を苦しく思いつつ、何とか話の糸口を探そうと、口を開きまた閉じる。
隣から漂ってくる霊夢の気配が堪らなく重かった。あの霊夢と一緒に居る事がどうしてこんなにも重苦しく感じるのか。数年前なら考えられなかった事なのに。
「なあ、霊夢」
そう声を掛けてみたが、隣からは何の反応も返って来ない。それがとても寂しくて、離れ離れになってしまった気がして、縋りつく様に隣を見た。
「やっぱり先生やらないか? きっと霊夢にとっても良いと思うんだ。教えるのって結構楽しいしさ、子供達も可愛いし、それに会う時間が増えてまた前みたいに遊べるだろ? ほら、良い事尽くめじゃん」
そう言って隣を見つめているのだが、全く反応が返って来ない。まるでこちらの言葉なんか届かなかったみたいに。不安な心を抑えながら、それでも霊夢に言葉を返して欲しくて、隣を見つめ続けていると、あらぬ方向から声が聞こえてきた。
「何してるんですか?」
前を向くと、早苗がこちらに向かって歩いてくるところだった。
「早苗。どうしたんだ?」
「いえ、特には。お散歩というか。魔理沙こそ」
「私も別に。ただ寺子屋の帰りに霊夢と久しぶりに会ったから、まあ遊んだりしたいなと」
早苗はしばらくぼんやりと魔理沙の事を眺めていたが、やがて笑顔になって魔理沙に言った。
「じゃあ、私もご一緒して良いですか? そう言えば、最近霊夢の事見てないし」
「おお、勿論。良いよな、霊夢」
霊夢に尋ねたが、やはり返答は返って来ない。昔の霊夢だったらすぐに承諾しただろうに。やはり変わってしまったのだろうかと、時の流れの残酷さに寂しくなった。
「霊夢と話してるの?」
「え? ああ、話してるというか何というか」
「ああ、さっきから独り言みたいに何言ってるんだろうと思ってたけど、電話でもしてたんですね」
「ん? いや、普通にここに居る霊夢と話してただけだけど」
そう言って、隣を指さしながら、早苗を見ると、早苗は訝しむ様な表情で魔理沙の隣を見た。
「霊夢が何処に?」
「何処ってここ」
隣を指さしながら、霊夢が居るはずの隣を見ると、霊夢の姿が消えていた。慌てて辺りを見回したが霊夢の姿は何処にも無い。
「あれ? 霊夢? いつの間に?」
「さあ? 少なくとも私が見かけた時には居ませんでしたけど」
「そんな。でも今までずっと話してたんだぜ。一体いつ?」
困惑する魔理沙に、早苗の表情もどんどんと混迷の色を濃くしていったが、やがて笑顔になって魔理沙の背後を指さした。
「きっと分かれ道で別れたんじゃない? 丁度博麗神社へ向かう道と分かれてるから」
「え? あ、そうか?」
魔理沙が振り返って、未だ納得出来ない様子で道の先の微かに見える分かれ道を見ると、その背を早苗が押した。
「とにかく博麗神社に行ってみれば分かるでしょ。久しぶりに霊夢に会いたいし、行きましょう」
早苗は魔理沙の背を押して、魔理沙は早苗に背を押されて、博麗神社へ向かって歩き出した。夕暮れが迫っていた。
神社に着くと、霊夢がとても驚いた様子で出迎えてくれた。
「いらっしゃい。どうしたの?」
「ちょっと遊びに」
「遊びに来ました!」
霊夢は二人を見ると丁度良かったと言った。二人が不思議そうな顔をすると、今夜は鍋にしようと思っていたという。ではご相伴に与ろうと、二人が遠慮なく上がるのを、霊夢はこの上無く嬉しそうな笑顔で迎え入れた。
やけに嬉しそうだなと魔理沙が尋ねると、最近みんなとゆっくり話す機会が無かったからと、本当に嬉しそうに笑った。それを見て、魔理沙も何だか嬉しくなった。
廊下を行くと、途中で満開の桜が咲き誇っているのが見えた。神社へやって来るまでにも沢山の桜が咲いていた。もうすっかりと春めいている。心地の良い暖かさに、陽気と眠気が誘われる。花見酒だと魔理沙は思った。
前を行く霊夢に提案すると、霊夢が何故か酷く不服そうな顔で振り返った。そんな霊夢の表情に、もしや自分達とお酒を飲むのは嫌になったのかと、魔理沙は不安になりながら何がそんなに嫌なのか聞くと、どうやら毎日見ていて見飽きたらしい。だったらと、早苗が妖怪の山の桜を見に行こうと提案した。するとまた霊夢は晴れやかな笑顔になって、今直ぐにでも行きたい様子であっさりと承諾したので、三人は桜と鍋を肴に小さな酒宴を開く事になった。
「じゃあ、ちょっと待ってて。準備してくるから」
二人を居間に通した霊夢はそう言って、実に嬉しそうに台所へ向かった。魔理沙が手伝おうか提案すると、霊夢は良いから待っててと行って、慌ただしく駆けて行った。
残された魔理沙と早苗が酒宴を楽しみ腰を落ち着けようとしたが、霊夢が出て行ってから数秒も立たぬ内に、魔理沙は驚いて霊夢の出て行った方を見た。
「どうした? もう用意出来たのか?」
だがどう見てもそこに、鍋の用意は無かった。魔理沙は不審に思ったが、じっと見つめている内に、霊夢には何か話したい事があるんじゃないかと思った。
「何か悩みでもあるのか?」
何となく答えは分かっていた。
「孤独」
それが霊夢の悩みだろうと思った。そう言えば最近ずっと霊夢に会っていなかった。会っても忙しくて、挨拶をして別れるだけ。霊夢は自分の事を羨ましいと言った。人の役に立てるのが羨ましいと。霊夢だって人の役には立っている。この博麗神社を管理しているし、異変も解決している。それに何より結界を保っている。もしも霊夢が居なかったら、この幻想郷という存在自体が崩れてしまう。けれどその役はあまりにも大き過ぎて、普通に暮らしてたってその凄さなんかわからないし、ありがたいとも思わない。当たり前の様にそれがあるから、感謝される事が無い。何もしていない様に見られるだろう。自分の様にほんの些細な事しかしていないのに人々から感謝される一方で、霊夢の様に大きな事を成しても感謝されない事がある。そんな孤独を霊夢は感じ続けていたんじゃないだろうか。
どうすれば良いだろうと考える。答えはさっき霊夢に提案した通りだ。先生になれば良い。そうすれば目の前で授業を受ける子供達がそのまま感謝を伝えてくれる。さっきは先生になろうと言っても断られたけれど、満更でもない様子だった。それはきっと霊夢が他人に物を教える事に不安を感じているからだ。
魔理沙は立ち上がって真っ直ぐに見つめた。
「霊夢、先生にならないか?」
すると呼応して、早苗も立ち上がって元気な声を上げる。
「良いですね! そうしたらみんな異変を解決出来る様になりますよ」
物騒だなと魔理沙は笑った。
けれど教える事なんてそんなのでも良いのだ。
「不安に感じるのは分かるぜ。私も最初は自分が人に何を教えられるんだろうって思った。けど教える事なんて何でも良いんだ。子供達はまだ何にも知らない。私達に出来る事なんて何だってあって、だから本当に何でも。例えば昔話をするだけだって良い。霊夢が解決した異変の話なんてきっと子供達は喜んで聞くと思うぜ。どうせ霊夢は神社の仕事暇なんだろだったら」
早苗が楽しそうに追従する。
「私も良いですか? 最近お手伝いさんが増えてちょっと暇なんです」
「おお、良いぜ!」
「私、子供達が奇跡を起こせる様に教育しますから!」
早苗が本気でそんな事を言うので魔理沙は笑い、それから真面目な顔付きになる。
「なあ、霊夢。本当に何でも良いんだ。教える事なんて。だから不安にならずに一回試しに寺子屋に来てみないか? 飯も上手いぜ」
そう言って、手を差し伸べた。
「失礼な事を言うけどさ。今の霊夢は寂しそうだぜ。この神社は人里から遠すぎる。週に一回でも良いから先生やって子供達の笑顔に囲まれたらきっと笑顔になれる。私は霊夢に元気になって欲しいんだ」
魔理沙は手を差し伸べてじっと待つ。そうしてしばらく経って、手を握り締めた。
「じゃあ、二人の新米教師のお祝いに、花見酒に行こうぜ」
そう言って、二人は妖怪の山へ向かった。
久しぶりの宴だ。それどころか久しぶりに人と話せる機会だ。ここ最近ほとんど人と話せなかった。魔理沙とだって、早苗とだって、他のみんなとだって会う事自体がまれで、会ってもほとんど話せなかった。でも今日は違う。今日は昔みたいにまた沢山話が出来る。気分を浮つかせつつ、ようやく準備し終えた食材を抱えた霊夢が、鍋の道具が入った大きな風呂敷を背に居間へ戻ろうとすると、玄関へ向かって歩く魔理沙と早苗が見えた。どうしたのかと思って、大きな荷物によろめきながら後を追うと、二人は何か談笑しながら足早に外へと出て行ってしまう。不安になった霊夢が必死で荷物の重みに耐えながら外へ出ると、二人は既に空を飛んでいて、置いていかれた霊夢は呆然とその小さくなった姿を見上げる事しか出来なかった。
「何で?」
霊夢の呟きが湿り気を帯びる。
「何で置いて行っちゃうの? 一緒に食べるんじゃなかったの?」
魔理沙達の姿が見えなくなる。
「折角、折角久しぶりに楽しく出来ると思ったのに。嬉しかったのに」
霊夢は歯を噛み締めて俯いた。
まただ。
最近こんな事ばかりだった。
相手が自分を無視して置いて行ってしまう。話していてもまるで突然こちらの言葉が耳に入らなくなったかの様にこちらを見なくなってしまう。その癖、久しぶりに会うと、今まで一度も話した事が無かった様な話をまるで既知の事の様に話してくる。
まるでみんなが自分という存在を上手く認識出来ていないかの様だった。
本当に居ても居なくてもどっちでも良い様な存在になってしまったかの様だった。
胸が苦しくて堪らなくなった。
小さい頃からずっと関わりのあった魔理沙ですら、自分を置いて行ってしまった。今日本を受け取りに行った時、霖之助も途中で自分を置いて何処かへ行ってしまった。昨日は紫が。その前はアリスが。みんなみんな、自分を無視して何処かへ行ってしまう。
自分が何か悪い事をしただろうかと考えても、まるで答えは見当たらない。自分の全く与り知らぬ何かが、自分を孤独に貶めている。そのどうしようもないやるせなさが、悲しかった。誰かを倒せば良いという様な単純な話ではないから、やり場のない怒りと悲しみが溜まっていく。それを愚痴る事すら出来ず、自分の中に悲しみが貯めこまれていって、自分がどんどん惨めになっていく。
霊夢が悲しみを堪えて俯いていると、声が聞こえた。
「あ、霊夢。どうしたの荷物持って」
見ると、萃香が瓢箪の酒を浴びながら歩いてきた。
「私は鍋を。あんたこそどうしたの?」
「私は勇儀と一緒に、桜を肴に飲み合おうと思ってさ。そっちこそ何か沈んでるけど悩み事?」
霊夢は何でもないと答えようとしたが、一人でに口が動き悩みを曝し出す。
「うん、ちょっと今、きついかも」
「珍しいな。何? 悩みなら何でも言ってよ」
萃香が駆け寄ってきて見上げてくるので、霊夢はみんなから無視に似た態度を取られている事を話した。話している内に、魔理沙が去っていった時の事を思い出して、涙が溢れ出そうになってそれを堪える。
萃香は真剣な表情で聞いてくれているが、そんな萃香すらも他のみんなと同じ様に途中で自分を無視して去って行ってしまうのではないかと思うと、怖くて怖くて仕方がなかった。こんなどうしようもない、そしてごく個人的な悩みなんて相談されたって迷惑なんじゃないかと思う。もしかしたらそれを理由に嫌われてしまうかもしれない。そう思うと、段段霊夢の口調は鈍っていって、やがて喋れなくなって、言葉が止まった。
霊夢の話は途中であったけれど、萃香はちゃんと理解した様でしばらく考える様に無言になっていたかと思うと、真剣な表情になって霊夢に尋ねた。
「それっていつから?」
「分からない。結構前。でも最近は本当に酷くなってきて」
それを聞いて萃香は溜息を吐いた。
「それさ、誰かに言ったの?」
「いや、あんたに言うのが初めてだけど」
霊夢が力無く言うと、萃香がまた溜息を吐いた。
「私には原因は分からないけど、それが悪いんじゃん? ちゃんと言いなよ、他の人にも。辛いなら」
「だって、そもそもみんな話を聞いてくれないし。それに迷惑じゃない。こんな自分勝手な悩み事話したって」
「迷惑になんか感じるもんか。もしも私達が霊夢の事を無視して何処かに行っちゃおうとするなら、霊夢がそれを訴えるなり、掴みかかってでも止めるなりすれば良いだろ?」
「でも、だから、そんな事したら」
「迷惑になんか感じない! とりあえずその魔理沙と早苗を追ったら? 妖怪の山に行ったんでしょ?」
「それは分からないけど」
霊夢は荷物を背負い直して妖怪の山の方角を見た。確かに萃香の言う通り、向こうが悪意なんてまるで無くこちらを無視してしまっているなら、萃香の言った通りの事をすればなんとかなるかもしれない。けれどもしも向こうが無視をしたくて無視しているのだとしたら、本当に悲惨な目に合う。掴みかかりなんてすれば、冷たく鬱陶しそうな目を向けてくるに違いない。それを想像して霊夢は恐ろしくなった。もしもみんならそんな目をされたら立ち直れそうにない。
行くのか行かないのか。
霊夢は迷う。
行きたいと行くのが怖いがせめぎ合っている。
もしも追いすがって魔理沙達と一緒にいられるのなら嬉しい。けれどもし、行ってみて、迷惑そうな顔をされたら。それはきっと二度と立ち直れない位の悲しみを覚えるに違いない。魔理沙が自分に冷たく鬱陶しそうな目をしてきたらと想像するとそれだけで、死にたくなる様などす黒い気持ちが湧いた。そう考えると、中中踏ん切りがつかなかった。
迷いに迷った霊夢はやがて決意した。
傷付かない事を選び、諦めの籠もった視線を萃香に向ける。
萃香が一瞬睨む様な目つきをしたので、霊夢は体を震わせる。そんな霊夢の態度に萃香が三度目の溜息を吐いた。
「随分と弱くなったね、霊夢。まあ、分かったよ。とりあえず今日は一緒に飲むか?」
そう言って、萃香は霊夢を手招いて歩き出した。
明らかに失望した態度を示した萃香を追って良いものか迷っていると、萃香はさっさと行ってしまった。
「あ、ちょっと待って」
霊夢は酷く嫌な予感がして、萃香に声を掛けたが、萃香はまるで気がついていない様子で、何も無い虚空に笑いかけ話しかけながら歩いて行ってしまう。
「ちょっと待って!」
霊夢が慌ててそれに追いすがり、萃香の体に抱きついたが、萃香はそれすらも気が付かなかった様子で、霊夢を引きずりながら、虚空と談笑し合い、そうして霊夢が手を放して地面にへばりついたまま動かなくなっても萃香はそれに気が付かずに、歩いて行ってしまった。
地面に倒れ伏した霊夢は、去っていく萃香を呆然と眺めていたが、やがてその視界が滲み出し、嗚咽が漏れだした。また置いていかれてしまった。もう自分には何も無い。
しばらくの間嗚咽が流れていたが、不意に風が吹いたかと思うと、唐突に泣き声が聞こえなくなった。つい一瞬前まで霊夢の倒れていた場所には何も無くなり、人影の無くなった境内を次第に夜が覆っていった。
萃香の言葉に魔理沙達を追う事に決めた霊夢だが、、妖怪の山までやって来て、意外と山が広い事に気が付いた。広すぎて二人が何処に居るのか分からない。守矢神社に行ってみたが二人は居らず、桜の咲いた場所を回っても二人は居ない。
八方塞がりになった霊夢は結局諦めて、桜の大木の根元に腰を下ろした。
空には月が照っている。満月だった。明るい月の光に照らされて、一面の満開の桜が仄白く輝いている。月と桜を眺めながら、霊夢は一人酒の瓶を開け、盃に注いで一気に呷った。焼ける様な熱さが喉を通って胸に広がり、夜の肌寒さと相まって心地良い。眺める月と桜がだんだんと揺らぎ始め、何処からか軽やかな風がやって来たかと思うと桜の間を吹き抜けて花びらを散らした。桜吹雪に見舞われた霊夢は、次第に酩酊を始めた視界と意識の中で、こうして一人で飲んでいるのも悪くはないかと思い始めた。寂しくはあるだろうが、幸せが無い訳じゃない。
そんな事を考えていると、横合いから声が聞こえた。
「こんな所に居たのかよ。探したぜ」
霊夢が驚いて声のした方を見ると魔理沙が呆れた様子で立っていた。
その姿を見た瞬間、喜びと悔しさが胸に上ってきて、一気に酔いが吹っ飛んだ。
「魔理沙! どうして?」
さっきは置いて行った癖に。
「どうしてって。三人で飲んでたらお前が急に居なくなったから探してたんだろ。大丈夫か? 記憶あるか?」
魔理沙が近寄ってきて霊夢の目の前で手を振った。
霊夢はその手の動きに合わせて視線を揺らめかせながら呟いた。
「見つけてくれたの?」
こんなに広い山の中で。
「だからそう言ってんだろ? ほら早く戻ろうぜ。って、鍋の道具あるじゃんか。何だよ、忘れたとか言ってた癖に」
魔理沙は少し苛立った様子になったが、霊夢の顔を見た瞬間、驚いて固まった。
霊夢が泣いていた。
「見つけてくれたんだ」
こんな居ても居なくても良い様な自分を。
涙を流しながら霊夢は魔理沙の手を握り締める。
「おいおい、酔い過ぎだぜ。いつの間に泣き上戸になったんだよ」
魔理沙が後退ろうとするのを、霊夢は更に力強く手を握り締めて引いた。
「待って!」
霊夢のあまりの必死な形相に魔理沙はたじろぎながら弱々しく尋ねる。
「どうしたんだ?」
「私を一人にしないで」
そう言って懇願してくる霊夢に、魔理沙は初めの内こそ呆気に取られていたが、やがて笑い出した。
「何だ。やっぱり寂しいかったんならそう言えよ。そりゃあ、あんな奥の神社で一人で暮らしてたら息が詰まるよな。じゃあ、やっぱり先生やろうぜ! 早苗も乗り気みたいだしさ。子供達は可愛いし、教えるのも面白いし、きっと楽しいから」
握りしめる手に魔理沙の温かさが伝わってきて、霊夢はまた涙を流れでた。安堵感が全身を包んでいる。ずっと離れたくないと思った。握り締める手を放したらもう二度と孤独から逃れられない気がした。
霊夢が頷くと、魔理沙は笑顔で霊夢の手を引いた。
何処からか風が吹く。その風に身を震わせながら、魔理沙は嬉しそうに霊夢の手を引いて桜の中を歩いて行く。
明るい魔理沙の横顔を見て、霊夢は心の中が暖かさで一杯になる様な安心感を抱いた。けど一方で、これ以上わがままを言って嫌われたくないという思いも湧いた。だから魔理沙の手を強く握りしめた霊夢は聞こえない位小さな声でそっと呟いた。
「絶対放さないで」
風に紛れて消える様な声であったのに、それを魔理沙は耳聡く捉え、振り返って笑う。
「ずっと放さないって」
その言葉を信じたくて、霊夢はもう一度魔理沙の手をぎゅっと握りしめた。
「先生、さようなら!」
「おう、さようなら」
背後から聞こえた子供達の挨拶に応じて魔理沙が振り返ろうとすると、子供達はあっという間に魔理沙の横を駆け抜けて、廊下を走り出口から飛び出していった。それを微笑ましく見つめながら、魔理沙もまた出口へと向かう。
庭に出ると整った木々が庭を囲う様に立ち並び、真ん中には溜池があって、一尾の魚の跳ねるのが見えた。庭を眺めながら門へ向かっていると、庭を掃いていた庭師の男が手を止めて魔理沙へ頭を下げた。
「どうもお疲れ様です。魔理沙先生」
魔理沙は気恥ずかしそうに頬を掻きながら、男の言葉に応える。
「どうも。大人から先生なんて言われると恥ずかしいぜ」
「いえいえ。魔理沙先生のお陰でうちの子も随分と賢くなりましたよ。それに毎日毎日魔理沙先生魔理沙先生と実に嬉しそうに。そういえば、昨日は鯉の呪いがどうとか言ってましたけど、何か偉い魔法なんですか?」
魔理沙が顔を赤らめながら困った顔をしていると、男が唐突にあっと口を開いて門を指さした。
「そういえば、博麗さんが門の前にいらしてましたよ。何だか先生を待っている様で」
「霊夢が?」
何の用だろうと、門を抜けると、男の言葉通り霊夢が待っていた。積み重なった本を両手で抱えている霊夢は魔理沙が出てきた事に気がつくと、微笑んで歩み寄ってきた。
「魔理沙先生}
「お前までそういう」
「何だか随分立派な校舎へ移ったみたいだけど」
「ああ、前に言った通りさ」
「前に言った?」
「凄い豪邸だろ? 飯も出てすげぇ上手いんだぜ」
「羨ましいわね」
「なら霊夢も巫女なんか辞めて転職したらどうだ? 慧音も喜ぶぜ」
「遠慮しておくわ」
霊夢は一瞬迷う様な顔をしたがすぐに諦めた様子で歩き出した。それを追いながら、魔理沙は霊夢に尋ねた。
「それで今日はどうしたんだ? 何か私に用でもあるのか?」
「いいえ。霖之助さんから本を譲ってもらった帰りにたまたま近くを寄ったから」
「じゃあ、これからどうするんだ?」
「家で本を読むけど?」
「何だ。そうなのか」
魔理沙が残念そうに呟いたきり、二人の会話が途絶える。しばらく二人して歩いている内に、何だか魔理沙は居心地の悪さを感じた。昔は別に無言だって気にならなかったし、顔をつきあわせれば話題が浮かんだし、二人出会えば何処かしらに遊びに行ったものなのに。何だか今は居心地が悪い。二人の間に何か名状しがたい溝を感じた。自分か霊夢か、あるいはその両方が変わってしまったんだろうかと、酷く不安になった。
何を言おうと悩んでいると、不意に霊夢が暗澹と呟いた。
「羨ましいわね」
「え?」
驚いて霊夢を見ると、霊夢はいつも通りの澄ました顔で前を向いて歩いている。今の暗い声音を発する様な表情には見えなかった。
「何が羨ましいんだ?」
「何だか幸せそうに働いているから。人に必要とされてて」
「霊夢だって巫女をやってるじゃないか」
「参拝に来る人なんてほとんど居ないもの。異変だって、みんなが先に解決しちゃうから私が解決する必要がなくなってきてるし。私なんて居ても居なくてもどっちでも良い存在なのよ」
「そうか? 正月はみんな神社に行くし、異変だってでかいのは霊夢が解決してるし、結界だって霊夢が居なくちゃいけないし、それに少なくとも私は霊夢が必要だと思ってるぜ」
「ありがとう」
それっきりまた無言になって、居心地の悪さがやって来る。何か話したいのに何も思い浮かばない。会えて嬉しいのに苦痛を感じる。薄靄の晴れない心を苦しく思いつつ、何とか話の糸口を探そうと、口を開きまた閉じる。
隣から漂ってくる霊夢の気配が堪らなく重かった。あの霊夢と一緒に居る事がどうしてこんなにも重苦しく感じるのか。数年前なら考えられなかった事なのに。
「なあ、霊夢」
そう声を掛けてみたが、隣からは何の反応も返って来ない。それがとても寂しくて、離れ離れになってしまった気がして、縋りつく様に隣を見た。
「やっぱり先生やらないか? きっと霊夢にとっても良いと思うんだ。教えるのって結構楽しいしさ、子供達も可愛いし、それに会う時間が増えてまた前みたいに遊べるだろ? ほら、良い事尽くめじゃん」
そう言って隣を見つめているのだが、全く反応が返って来ない。まるでこちらの言葉なんか届かなかったみたいに。不安な心を抑えながら、それでも霊夢に言葉を返して欲しくて、隣を見つめ続けていると、あらぬ方向から声が聞こえてきた。
「何してるんですか?」
前を向くと、早苗がこちらに向かって歩いてくるところだった。
「早苗。どうしたんだ?」
「いえ、特には。お散歩というか。魔理沙こそ」
「私も別に。ただ寺子屋の帰りに霊夢と久しぶりに会ったから、まあ遊んだりしたいなと」
早苗はしばらくぼんやりと魔理沙の事を眺めていたが、やがて笑顔になって魔理沙に言った。
「じゃあ、私もご一緒して良いですか? そう言えば、最近霊夢の事見てないし」
「おお、勿論。良いよな、霊夢」
霊夢に尋ねたが、やはり返答は返って来ない。昔の霊夢だったらすぐに承諾しただろうに。やはり変わってしまったのだろうかと、時の流れの残酷さに寂しくなった。
「霊夢と話してるの?」
「え? ああ、話してるというか何というか」
「ああ、さっきから独り言みたいに何言ってるんだろうと思ってたけど、電話でもしてたんですね」
「ん? いや、普通にここに居る霊夢と話してただけだけど」
そう言って、隣を指さしながら、早苗を見ると、早苗は訝しむ様な表情で魔理沙の隣を見た。
「霊夢が何処に?」
「何処ってここ」
隣を指さしながら、霊夢が居るはずの隣を見ると、霊夢の姿が消えていた。慌てて辺りを見回したが霊夢の姿は何処にも無い。
「あれ? 霊夢? いつの間に?」
「さあ? 少なくとも私が見かけた時には居ませんでしたけど」
「そんな。でも今までずっと話してたんだぜ。一体いつ?」
困惑する魔理沙に、早苗の表情もどんどんと混迷の色を濃くしていったが、やがて笑顔になって魔理沙の背後を指さした。
「きっと分かれ道で別れたんじゃない? 丁度博麗神社へ向かう道と分かれてるから」
「え? あ、そうか?」
魔理沙が振り返って、未だ納得出来ない様子で道の先の微かに見える分かれ道を見ると、その背を早苗が押した。
「とにかく博麗神社に行ってみれば分かるでしょ。久しぶりに霊夢に会いたいし、行きましょう」
早苗は魔理沙の背を押して、魔理沙は早苗に背を押されて、博麗神社へ向かって歩き出した。夕暮れが迫っていた。
神社に着くと、霊夢がとても驚いた様子で出迎えてくれた。
「いらっしゃい。どうしたの?」
「ちょっと遊びに」
「遊びに来ました!」
霊夢は二人を見ると丁度良かったと言った。二人が不思議そうな顔をすると、今夜は鍋にしようと思っていたという。ではご相伴に与ろうと、二人が遠慮なく上がるのを、霊夢はこの上無く嬉しそうな笑顔で迎え入れた。
やけに嬉しそうだなと魔理沙が尋ねると、最近みんなとゆっくり話す機会が無かったからと、本当に嬉しそうに笑った。それを見て、魔理沙も何だか嬉しくなった。
廊下を行くと、途中で満開の桜が咲き誇っているのが見えた。神社へやって来るまでにも沢山の桜が咲いていた。もうすっかりと春めいている。心地の良い暖かさに、陽気と眠気が誘われる。花見酒だと魔理沙は思った。
前を行く霊夢に提案すると、霊夢が何故か酷く不服そうな顔で振り返った。そんな霊夢の表情に、もしや自分達とお酒を飲むのは嫌になったのかと、魔理沙は不安になりながら何がそんなに嫌なのか聞くと、どうやら毎日見ていて見飽きたらしい。だったらと、早苗が妖怪の山の桜を見に行こうと提案した。するとまた霊夢は晴れやかな笑顔になって、今直ぐにでも行きたい様子であっさりと承諾したので、三人は桜と鍋を肴に小さな酒宴を開く事になった。
「じゃあ、ちょっと待ってて。準備してくるから」
二人を居間に通した霊夢はそう言って、実に嬉しそうに台所へ向かった。魔理沙が手伝おうか提案すると、霊夢は良いから待っててと行って、慌ただしく駆けて行った。
残された魔理沙と早苗が酒宴を楽しみ腰を落ち着けようとしたが、霊夢が出て行ってから数秒も立たぬ内に、魔理沙は驚いて霊夢の出て行った方を見た。
「どうした? もう用意出来たのか?」
だがどう見てもそこに、鍋の用意は無かった。魔理沙は不審に思ったが、じっと見つめている内に、霊夢には何か話したい事があるんじゃないかと思った。
「何か悩みでもあるのか?」
何となく答えは分かっていた。
「孤独」
それが霊夢の悩みだろうと思った。そう言えば最近ずっと霊夢に会っていなかった。会っても忙しくて、挨拶をして別れるだけ。霊夢は自分の事を羨ましいと言った。人の役に立てるのが羨ましいと。霊夢だって人の役には立っている。この博麗神社を管理しているし、異変も解決している。それに何より結界を保っている。もしも霊夢が居なかったら、この幻想郷という存在自体が崩れてしまう。けれどその役はあまりにも大き過ぎて、普通に暮らしてたってその凄さなんかわからないし、ありがたいとも思わない。当たり前の様にそれがあるから、感謝される事が無い。何もしていない様に見られるだろう。自分の様にほんの些細な事しかしていないのに人々から感謝される一方で、霊夢の様に大きな事を成しても感謝されない事がある。そんな孤独を霊夢は感じ続けていたんじゃないだろうか。
どうすれば良いだろうと考える。答えはさっき霊夢に提案した通りだ。先生になれば良い。そうすれば目の前で授業を受ける子供達がそのまま感謝を伝えてくれる。さっきは先生になろうと言っても断られたけれど、満更でもない様子だった。それはきっと霊夢が他人に物を教える事に不安を感じているからだ。
魔理沙は立ち上がって真っ直ぐに見つめた。
「霊夢、先生にならないか?」
すると呼応して、早苗も立ち上がって元気な声を上げる。
「良いですね! そうしたらみんな異変を解決出来る様になりますよ」
物騒だなと魔理沙は笑った。
けれど教える事なんてそんなのでも良いのだ。
「不安に感じるのは分かるぜ。私も最初は自分が人に何を教えられるんだろうって思った。けど教える事なんて何でも良いんだ。子供達はまだ何にも知らない。私達に出来る事なんて何だってあって、だから本当に何でも。例えば昔話をするだけだって良い。霊夢が解決した異変の話なんてきっと子供達は喜んで聞くと思うぜ。どうせ霊夢は神社の仕事暇なんだろだったら」
早苗が楽しそうに追従する。
「私も良いですか? 最近お手伝いさんが増えてちょっと暇なんです」
「おお、良いぜ!」
「私、子供達が奇跡を起こせる様に教育しますから!」
早苗が本気でそんな事を言うので魔理沙は笑い、それから真面目な顔付きになる。
「なあ、霊夢。本当に何でも良いんだ。教える事なんて。だから不安にならずに一回試しに寺子屋に来てみないか? 飯も上手いぜ」
そう言って、手を差し伸べた。
「失礼な事を言うけどさ。今の霊夢は寂しそうだぜ。この神社は人里から遠すぎる。週に一回でも良いから先生やって子供達の笑顔に囲まれたらきっと笑顔になれる。私は霊夢に元気になって欲しいんだ」
魔理沙は手を差し伸べてじっと待つ。そうしてしばらく経って、手を握り締めた。
「じゃあ、二人の新米教師のお祝いに、花見酒に行こうぜ」
そう言って、二人は妖怪の山へ向かった。
久しぶりの宴だ。それどころか久しぶりに人と話せる機会だ。ここ最近ほとんど人と話せなかった。魔理沙とだって、早苗とだって、他のみんなとだって会う事自体がまれで、会ってもほとんど話せなかった。でも今日は違う。今日は昔みたいにまた沢山話が出来る。気分を浮つかせつつ、ようやく準備し終えた食材を抱えた霊夢が、鍋の道具が入った大きな風呂敷を背に居間へ戻ろうとすると、玄関へ向かって歩く魔理沙と早苗が見えた。どうしたのかと思って、大きな荷物によろめきながら後を追うと、二人は何か談笑しながら足早に外へと出て行ってしまう。不安になった霊夢が必死で荷物の重みに耐えながら外へ出ると、二人は既に空を飛んでいて、置いていかれた霊夢は呆然とその小さくなった姿を見上げる事しか出来なかった。
「何で?」
霊夢の呟きが湿り気を帯びる。
「何で置いて行っちゃうの? 一緒に食べるんじゃなかったの?」
魔理沙達の姿が見えなくなる。
「折角、折角久しぶりに楽しく出来ると思ったのに。嬉しかったのに」
霊夢は歯を噛み締めて俯いた。
まただ。
最近こんな事ばかりだった。
相手が自分を無視して置いて行ってしまう。話していてもまるで突然こちらの言葉が耳に入らなくなったかの様にこちらを見なくなってしまう。その癖、久しぶりに会うと、今まで一度も話した事が無かった様な話をまるで既知の事の様に話してくる。
まるでみんなが自分という存在を上手く認識出来ていないかの様だった。
本当に居ても居なくてもどっちでも良い様な存在になってしまったかの様だった。
胸が苦しくて堪らなくなった。
小さい頃からずっと関わりのあった魔理沙ですら、自分を置いて行ってしまった。今日本を受け取りに行った時、霖之助も途中で自分を置いて何処かへ行ってしまった。昨日は紫が。その前はアリスが。みんなみんな、自分を無視して何処かへ行ってしまう。
自分が何か悪い事をしただろうかと考えても、まるで答えは見当たらない。自分の全く与り知らぬ何かが、自分を孤独に貶めている。そのどうしようもないやるせなさが、悲しかった。誰かを倒せば良いという様な単純な話ではないから、やり場のない怒りと悲しみが溜まっていく。それを愚痴る事すら出来ず、自分の中に悲しみが貯めこまれていって、自分がどんどん惨めになっていく。
霊夢が悲しみを堪えて俯いていると、声が聞こえた。
「あ、霊夢。どうしたの荷物持って」
見ると、萃香が瓢箪の酒を浴びながら歩いてきた。
「私は鍋を。あんたこそどうしたの?」
「私は勇儀と一緒に、桜を肴に飲み合おうと思ってさ。そっちこそ何か沈んでるけど悩み事?」
霊夢は何でもないと答えようとしたが、一人でに口が動き悩みを曝し出す。
「うん、ちょっと今、きついかも」
「珍しいな。何? 悩みなら何でも言ってよ」
萃香が駆け寄ってきて見上げてくるので、霊夢はみんなから無視に似た態度を取られている事を話した。話している内に、魔理沙が去っていった時の事を思い出して、涙が溢れ出そうになってそれを堪える。
萃香は真剣な表情で聞いてくれているが、そんな萃香すらも他のみんなと同じ様に途中で自分を無視して去って行ってしまうのではないかと思うと、怖くて怖くて仕方がなかった。こんなどうしようもない、そしてごく個人的な悩みなんて相談されたって迷惑なんじゃないかと思う。もしかしたらそれを理由に嫌われてしまうかもしれない。そう思うと、段段霊夢の口調は鈍っていって、やがて喋れなくなって、言葉が止まった。
霊夢の話は途中であったけれど、萃香はちゃんと理解した様でしばらく考える様に無言になっていたかと思うと、真剣な表情になって霊夢に尋ねた。
「それっていつから?」
「分からない。結構前。でも最近は本当に酷くなってきて」
それを聞いて萃香は溜息を吐いた。
「それさ、誰かに言ったの?」
「いや、あんたに言うのが初めてだけど」
霊夢が力無く言うと、萃香がまた溜息を吐いた。
「私には原因は分からないけど、それが悪いんじゃん? ちゃんと言いなよ、他の人にも。辛いなら」
「だって、そもそもみんな話を聞いてくれないし。それに迷惑じゃない。こんな自分勝手な悩み事話したって」
「迷惑になんか感じるもんか。もしも私達が霊夢の事を無視して何処かに行っちゃおうとするなら、霊夢がそれを訴えるなり、掴みかかってでも止めるなりすれば良いだろ?」
「でも、だから、そんな事したら」
「迷惑になんか感じない! とりあえずその魔理沙と早苗を追ったら? 妖怪の山に行ったんでしょ?」
「それは分からないけど」
霊夢は荷物を背負い直して妖怪の山の方角を見た。確かに萃香の言う通り、向こうが悪意なんてまるで無くこちらを無視してしまっているなら、萃香の言った通りの事をすればなんとかなるかもしれない。けれどもしも向こうが無視をしたくて無視しているのだとしたら、本当に悲惨な目に合う。掴みかかりなんてすれば、冷たく鬱陶しそうな目を向けてくるに違いない。それを想像して霊夢は恐ろしくなった。もしもみんならそんな目をされたら立ち直れそうにない。
行くのか行かないのか。
霊夢は迷う。
行きたいと行くのが怖いがせめぎ合っている。
もしも追いすがって魔理沙達と一緒にいられるのなら嬉しい。けれどもし、行ってみて、迷惑そうな顔をされたら。それはきっと二度と立ち直れない位の悲しみを覚えるに違いない。魔理沙が自分に冷たく鬱陶しそうな目をしてきたらと想像するとそれだけで、死にたくなる様などす黒い気持ちが湧いた。そう考えると、中中踏ん切りがつかなかった。
迷いに迷った霊夢はやがて決意した。
傷付かない事を選び、諦めの籠もった視線を萃香に向ける。
萃香が一瞬睨む様な目つきをしたので、霊夢は体を震わせる。そんな霊夢の態度に萃香が三度目の溜息を吐いた。
「随分と弱くなったね、霊夢。まあ、分かったよ。とりあえず今日は一緒に飲むか?」
そう言って、萃香は霊夢を手招いて歩き出した。
明らかに失望した態度を示した萃香を追って良いものか迷っていると、萃香はさっさと行ってしまった。
「あ、ちょっと待って」
霊夢は酷く嫌な予感がして、萃香に声を掛けたが、萃香はまるで気がついていない様子で、何も無い虚空に笑いかけ話しかけながら歩いて行ってしまう。
「ちょっと待って!」
霊夢が慌ててそれに追いすがり、萃香の体に抱きついたが、萃香はそれすらも気が付かなかった様子で、霊夢を引きずりながら、虚空と談笑し合い、そうして霊夢が手を放して地面にへばりついたまま動かなくなっても萃香はそれに気が付かずに、歩いて行ってしまった。
地面に倒れ伏した霊夢は、去っていく萃香を呆然と眺めていたが、やがてその視界が滲み出し、嗚咽が漏れだした。また置いていかれてしまった。もう自分には何も無い。
しばらくの間嗚咽が流れていたが、不意に風が吹いたかと思うと、唐突に泣き声が聞こえなくなった。つい一瞬前まで霊夢の倒れていた場所には何も無くなり、人影の無くなった境内を次第に夜が覆っていった。
萃香の言葉に魔理沙達を追う事に決めた霊夢だが、、妖怪の山までやって来て、意外と山が広い事に気が付いた。広すぎて二人が何処に居るのか分からない。守矢神社に行ってみたが二人は居らず、桜の咲いた場所を回っても二人は居ない。
八方塞がりになった霊夢は結局諦めて、桜の大木の根元に腰を下ろした。
空には月が照っている。満月だった。明るい月の光に照らされて、一面の満開の桜が仄白く輝いている。月と桜を眺めながら、霊夢は一人酒の瓶を開け、盃に注いで一気に呷った。焼ける様な熱さが喉を通って胸に広がり、夜の肌寒さと相まって心地良い。眺める月と桜がだんだんと揺らぎ始め、何処からか軽やかな風がやって来たかと思うと桜の間を吹き抜けて花びらを散らした。桜吹雪に見舞われた霊夢は、次第に酩酊を始めた視界と意識の中で、こうして一人で飲んでいるのも悪くはないかと思い始めた。寂しくはあるだろうが、幸せが無い訳じゃない。
そんな事を考えていると、横合いから声が聞こえた。
「こんな所に居たのかよ。探したぜ」
霊夢が驚いて声のした方を見ると魔理沙が呆れた様子で立っていた。
その姿を見た瞬間、喜びと悔しさが胸に上ってきて、一気に酔いが吹っ飛んだ。
「魔理沙! どうして?」
さっきは置いて行った癖に。
「どうしてって。三人で飲んでたらお前が急に居なくなったから探してたんだろ。大丈夫か? 記憶あるか?」
魔理沙が近寄ってきて霊夢の目の前で手を振った。
霊夢はその手の動きに合わせて視線を揺らめかせながら呟いた。
「見つけてくれたの?」
こんなに広い山の中で。
「だからそう言ってんだろ? ほら早く戻ろうぜ。って、鍋の道具あるじゃんか。何だよ、忘れたとか言ってた癖に」
魔理沙は少し苛立った様子になったが、霊夢の顔を見た瞬間、驚いて固まった。
霊夢が泣いていた。
「見つけてくれたんだ」
こんな居ても居なくても良い様な自分を。
涙を流しながら霊夢は魔理沙の手を握り締める。
「おいおい、酔い過ぎだぜ。いつの間に泣き上戸になったんだよ」
魔理沙が後退ろうとするのを、霊夢は更に力強く手を握り締めて引いた。
「待って!」
霊夢のあまりの必死な形相に魔理沙はたじろぎながら弱々しく尋ねる。
「どうしたんだ?」
「私を一人にしないで」
そう言って懇願してくる霊夢に、魔理沙は初めの内こそ呆気に取られていたが、やがて笑い出した。
「何だ。やっぱり寂しいかったんならそう言えよ。そりゃあ、あんな奥の神社で一人で暮らしてたら息が詰まるよな。じゃあ、やっぱり先生やろうぜ! 早苗も乗り気みたいだしさ。子供達は可愛いし、教えるのも面白いし、きっと楽しいから」
握りしめる手に魔理沙の温かさが伝わってきて、霊夢はまた涙を流れでた。安堵感が全身を包んでいる。ずっと離れたくないと思った。握り締める手を放したらもう二度と孤独から逃れられない気がした。
霊夢が頷くと、魔理沙は笑顔で霊夢の手を引いた。
何処からか風が吹く。その風に身を震わせながら、魔理沙は嬉しそうに霊夢の手を引いて桜の中を歩いて行く。
明るい魔理沙の横顔を見て、霊夢は心の中が暖かさで一杯になる様な安心感を抱いた。けど一方で、これ以上わがままを言って嫌われたくないという思いも湧いた。だから魔理沙の手を強く握りしめた霊夢は聞こえない位小さな声でそっと呟いた。
「絶対放さないで」
風に紛れて消える様な声であったのに、それを魔理沙は耳聡く捉え、振り返って笑う。
「ずっと放さないって」
その言葉を信じたくて、霊夢はもう一度魔理沙の手をぎゅっと握りしめた。
2.ポジティブな思考は分身の方に移行し、本体はネガティブなまま。またネガティブによる鬱状態に拠り、この異常を察知できない。
3.分身は一定の時間で消える。
つまり、霊夢を孤独地獄に陥れようとする誰かの罠?