「今日も神社を乗っ取りに着たわよ!!」
どんどん! 社務所の扉を叩く音に次いで、明るい声が威勢よく通る。
「おや、もうそんな時間ですか」
早苗は机を立ち上がり、そして階段を駆け下りてその声の主を迎えた。毎日3時ごろになると、神社を乗っ取りに来たという名目でお茶をねだりに来る少女を。
「天子さんお待ちして……どうしたんです?」
がらら、と戸をあけて早苗は言いよどんだ。
玄関の扉を開けたそこに立っている少女が、酷くずぶぬれだったために。
青い髪を雨に濃く染め上げ、白い服が肌に張り付いて肌を透けさせている。帽子から、髪の毛から、ぱたたたた、と水滴が滴り落ちて彼女の空色のスカートを藍に変えていた。
天人の少女、比那名居天子である。
「どうって、見ての通りよ。最悪。通り雨にやられたわ」
天子は早苗の問いに、不機嫌そうに答えた。それはそうだろう。女の子としては、服も髪の毛も滅茶苦茶にしてしまう雨は天敵。しかもそれに成す術も無く襲われたのだから。
「傘はどうしたんですか?」
「そんなもの無いわよ。緋想の剣を振りかざせば、私の上だけ晴れでも雪でも思うがままだもの」
「その剣はどちらに?」
「……家に忘れてきた。今日は雨降らないとおもったから」
天界の至宝が、ただの傘扱いというところに早苗はおかしさを覚えたが、今はそれよりも。
「天子さん、ウチに上がる前にちょっと髪の毛拭きましょう」
玄関に水溜りを作っている少女を何とかするほうが先決であった。
一回お風呂場に引っ込んで、バスタオルを持って玄関に戻る。
「もぅ、だめですよ天子さん。こんなにびしょぬれになって……。すっかり冷えちゃってるじゃないですか。さ、服も脱いでください」
「ふぇっ!? なななんで私が服を脱がなきゃいけないの!?」
「びしょぬれですからね。いや、さすがに裸になってくださいとは申しませんので」
おかしい、顔が熱い。なんで? 早苗は女、私も女。何も恥ずかしがることは無いはず。なのに。
天子は頭をブンブンと振って混乱する思考をなんとか振り払おうとした。その動きに追いすがる髪の毛がパタパタと水を撒き散らす。
「嫌ですか?」
「わ、私は天人様よ!! そんな簡単に他人に素肌を晒すことなんて……できるわけ無いじゃない!!」
我ながらいい感じに決まった、と天子は思う。そう、高貴なる天人様の肌を拝もうなんて百年早いわ!
「あら、それは残念。せっかく天子さんの綺麗なお腹が拝めると思ったのに」
そんな天子の心境を知ってかしらずか、早苗は天子にバスタオルをかけてやりながらも、にやりと笑って彼女を煽った。その一言に天子の頬がぱぁっと紅く染まるのを観て、早苗は愉しげに笑う。
「そんな!! えっと! 綺麗とか、それは天人だから絶対肌荒れとかしないし!! 当たり前だし……その、だから」
「はいはい。分かりましたのでその服は脱いでくださいね。私は先に部屋に戻りますので」
トントンと階段を上っていく早苗を、恨めしげに、けれどなんだか惜しそうに上目遣いで眺める。
「……ばか」
「ほら、脱いできたわよ。これで満足かしら!?」
階段を荒々しく昇る音に続いて、早苗の部屋の扉が開く。
「出来ればそのバスタオルも取り去っていただけると満足なのですが」
早苗はまだドアの隙間からこちらを覗き込んでいる天子を部屋に引っ張り込んだ。
「っ!! 変態!!」
早苗につかまれた手をあわてて引っ込める。タオルの端と端をぎゅーっと握り込んで縮こまるその姿はまるで小動物みたいだ。
「ふふ、冗談です。さすがにそのままっていうのもアレですし、とりあえず今日は私のお古をお貸ししますね」
早苗に服を手渡されると、天子はバスタオルの中でもぞもぞやって器用に着替えた。その間も、早苗からは片時も目をはなさない。
そんなに警戒しなくても、と早苗は苦笑混じりに小さく漏らした。
「……あのさ、早苗」
もうほとんど着替えが終わったであろうところで、天子が切り出した。
「はい?」
「もうちょっと胸の辺りが小さいのってないかしら?」
「申し訳ありません、それは私が12歳の時に着ていた物でして、それよりも小さいのは……」
「……そう」
微妙に気まずい沈黙の後、天子の体を覆っていたバスタオルがはらりと落ちる。巫女服なのに、早苗の胸の大きさを考慮してダーツで突起を作っているため胸のあたりがいつもの天子よりも少し膨らんでいた。もちろんその下にあるのは空気であるが。
さらに腋が空いているため、横から覗き込めば天子の桃色の下着が覆う優しいふくらみをはっきりと見ることができる。
「天子さん、櫛使います?」
そんな微妙な空気を変えようと、早苗は彼女の机の引き出しから可愛らしいピンク色の櫛を差し出した。雨に濡れ、そしてタオルで拭いたためその髪はあちこちであらぬ方向に撥ねている。
なるほど、さすがにこのままでは女の子として如何なものか。
「使わせてもらうわ。鏡はあるかしら?」
いかにも早苗らしい色だな、と思いつつ天子はそのアクリル製の櫛を受け取った。
「洗面所に」
早苗に案内されて洗面所に立つと、天子の上半身を映し出せるほど大きな鏡が低めの洗面台に据え付けられていた。鏡に映りこんだ自分は間違いなく自分なのだけれど、その自分が早苗と同じ服を着ているのを見ると何ともいえない違和感。
と、天子がそんなことを思いつつ鏡を眺めていると、天子をぐいと身体で押しやり、鏡の中に早苗が入ってきた。
「こうやって並んで立つと、姉妹みたいに見えませんか?」
早苗は鏡の中の天子に無邪気な笑みを向けて楽しそうに言う。
「そ……そんなこと」
鏡の中に二人、肩を並べる蒼と翠。なるほど、確かに巫女姉妹といわれればそう見えるかもしれない。けれど、どうしてか恥ずかしくて、天子は素直な返事ができなかった。
「嫌ですか?」
「ち、違うわよ! その……アレよ! 目の色とかも違うし」
「気にしない気にしない。私が今日から天子さんのお姉さんです」
なんで早苗が私より年上ってことになるかな。天子は口を開きかけたが、その前に早苗が天子の後ろにすいと回りこみ、そして彼女の手から櫛をもぎ取った。
「髪の毛長いと梳かすの大変ですから、二人で梳かし合いしませんか?」
「……そうね」
早苗のちゃっかりとした行動にすっかり突っ込む機会を逃し、ついでに選択肢も逃した。ほっそりとした早苗の指が、長い髪の毛を一束ほど掴むのが分かる。
「天子さんの髪、とても大事になされているんですね。ぜんぜん枝毛が無いです」
すーっと、櫛が通る感覚。早苗の手が、天子の腰まである長い蒼髪をやさしく撫ぜる。それはいつも天界で侍女たちにしてもらうのと同じ、けれどまったく違った感覚だった。
「別に。天人だもん、髪の毛が綺麗なのは頑丈なだけよ」
なんだか、とても心の奥の辺りがむず痒いというか。悪い気はしないのだけれど。
「そうですか? やわらかくて、触っているととっても気持ちいいですよ……?」
「え……いや、そんなことは無いわ!」
鏡のなかの自分の頬がぽっと紅潮するのが見え、天子は思わず顔をぷいと背けた。
本当は、何よりも大切にしている髪の毛。分かってくれるのは嬉しいんだけれど、でもそんなに誉められたらやっぱり恥ずかしい。
それに、こうして誉められると逆にある種の劣等感のようなものも混じるのだ。さっきから、髪の毛越しに柔らかいものがむにむにと背中に当たっている。同じように髪を大切にしている早苗。けれど彼女は、私なんかよりもずっと女の子らしい体つきをしていて……。
そんなことを考えていると、天子は心の中に恥じらいでも劣等感でもない、焦燥にも似た何かが自分の胸に湧いてくることに気がついた。じれったさとくすぐったさの混じったようなそれに耐え切れなくなり。
「もういい! 今度は私が早苗の髪の毛を梳かす番よ!」
早苗の手から櫛をひったくった。彼女の背中に手を回して押し出し前に立たせる。今、自分はどんな顔をしているだろうか。鏡で見るのも見られるのも嫌。天子は早苗の陰にぴったり重なり、その胸の動悸が治まるのを待った。
「いいんですか?」
「いいの、もうおしまい!」
女の子は髪の毛を触ってくれる人に特別な感情を抱くのだそうだ。天子も、齢数百年の天人とはいえその心の中は十五、六の女の子。よってこの定義には当てはまる……いや、当てはまれ! 理屈に焦燥のすべてをぶん投げて、天子は櫛を持ち直す。
「えへへ……それじゃ、お願いしますね?」
早苗が天子を振り返ると、早苗の髪が遠心力にさらりと花開く。北向きの窓から洩れ入る青白い光を纏って艶やかに花開く彼女の髪に、天子は思わずその目を奪われた。
「どうしました?」
「なっ……なんでも……ないわ」
そうだ、決して、何かあるなんてことはない。そうでありたい。とっさに口走ったその答えは早苗への返答ではなく、自分への確認の意味が強かったかもしれない。不思議そうに振り返る早苗の横顔。目が合って、それがなんとなく耐えられなくて目を伏せた。
「髪の手入れはずっと一人でやっていましたから、こうしてもらえるととっても楽です」
視界の端で早苗がにっこりと微笑むのが見えた。早苗の髪の毛にただ集中して、その笑顔をやり過ごす。
「そう……長いものね」
心のタスクの大半がぼんやりとした感情で占められたあいまいな返答。早苗の髪は絹のような手触りで、彼女の髪を梳かしているこちらが心地よくなってしまうようだった。
加えて、石鹸の香りだろうか。心地よい清潔感のある香りが鼻腔をくすぐる。
なんというか、この髪の毛に顔を埋めてモフモフしたい! そんな衝動に駆られるのだ。
早苗の頭を見据えて、天子は暫しの間動きを止めた。彼女との距離はほんの三センチ程度。それも早苗のほうが天子よりも一回りほど大きいときた。
いいですよ、いらっしゃい? 早苗の香りが天子を誘惑する。
ちらりと鏡を覗けば、早苗は猫のように目を細めて気持ちよさそうにしている。今なら……気づかれない、かも?
――ちょっとぐらい、いいよね。
すん、すん、すーっ。甘い香りに、肺が満たされる。けれど、それだけではない。その香りは、心の中にも入ってきて、何ともいえない、締め付けるような高揚感と切なさのような感情を巻き起こす。
なんだろう。この気持ちは。
もう一回。
くんくん。すー、はー。艶やかな髪の間から漏れる甘く淑やかなその香り。この匂いが特別に好き、というわけではない。天子だって、髪の匂いには気を使っているし、似たような洗髪料だって持っている。
けれど、違う。
何が違うんだろう。くんくんと早苗の髪を嗅ぎ、天子は考える。
彼女の髪を梳く手は知らぬ間に早苗の髪を撫ぜていて、その心地よい手触りに心をとろけさせた。
早苗の匂いが魅力的なのは、早苗自身が魅力的だからじゃないだろうか。と、天子は思う。とすれば、この匂いに心奪われた私は、早苗のことが……?
――いやいや、そんなのダメっ!!
早苗の髪に顔を埋めて天子はその思考を振り払う。だって自分は女、早苗も女だ。女の子が女の子の事を好きになるなんて普通はありえない。
けれど、それでも天子の心は切なく締め付けるように疼く。出来ることならば、このまま早苗を後ろから抱きしめたい衝動に駆られる。たとえ自分が普通でなくなってしまっても、壊れてしまってもいいから、この少女を抱きしめたい。
なんてことを考えていると、不意に早苗が口を開いた。
「気に入って下さいました? 椿油から作った石鹸の香りです。守矢神社謹製ですよ」
バレてた。
「あ……あ……その……」
全身の血液が一気に頭に向かって駆け上がるのを感じた。弁明の言葉が次々と浮かんでは消えて行き、結局何一つとして口には出ない。どうしよう。これじゃぁ、私がヘンタイみたいじゃない……!
「いいんですよ? 私は何も気にしてませんし」
早苗が振り返ると、天子は両手で顔を隠してへたり込んでいた。そんな天子の手を取って立ち上がらせ。
「それに、天子さんの髪の毛もとってもいい香りがしますよ?」
早苗は天子のこめかみに顔を寄せ、そして天子の髪の匂いを嗅ぐ。まるで口付けをするかのように、愛おしそうに。
「っ~~~~~!! ばかぁっ! 早苗のばかーっ!!」
いよいよ限界だった。天子は雪のように白い頬を桃色に紅潮させ、早苗を突き放して洗面所を飛び出していってしまった。まるで湯気でも出しそうな勢いで。
けれどこれ以上あんなことをされたら、どうなっていたか分からない。もしかすると間違いだって犯してしまっていたかもしれない。
「え!? 天子さん!? 私何か変なこと言いました!? ちょっとー!!」
後から追いかける早苗の声を振り切って、天子は天界へと逃げるようにして帰っていった。
翌日は昨日とは打って変わって快晴であった。にもかかわらず、早苗は玄関に立つ少女の姿を見て言いよどむ。
「あ、天子さん。昨日は……えっと、どうなさいました?」
外は気持ちのいいほどの快晴だというのに、その少女は酷くずぶ濡れだった。その少女の周りだけ五月雨のような激しい雨が打ち付けている。
「どうって、見ての通りよ。さぁ、はやくタオルを寄越しなさい。それから、櫛を用意しておいてね」
どんどん! 社務所の扉を叩く音に次いで、明るい声が威勢よく通る。
「おや、もうそんな時間ですか」
早苗は机を立ち上がり、そして階段を駆け下りてその声の主を迎えた。毎日3時ごろになると、神社を乗っ取りに来たという名目でお茶をねだりに来る少女を。
「天子さんお待ちして……どうしたんです?」
がらら、と戸をあけて早苗は言いよどんだ。
玄関の扉を開けたそこに立っている少女が、酷くずぶぬれだったために。
青い髪を雨に濃く染め上げ、白い服が肌に張り付いて肌を透けさせている。帽子から、髪の毛から、ぱたたたた、と水滴が滴り落ちて彼女の空色のスカートを藍に変えていた。
天人の少女、比那名居天子である。
「どうって、見ての通りよ。最悪。通り雨にやられたわ」
天子は早苗の問いに、不機嫌そうに答えた。それはそうだろう。女の子としては、服も髪の毛も滅茶苦茶にしてしまう雨は天敵。しかもそれに成す術も無く襲われたのだから。
「傘はどうしたんですか?」
「そんなもの無いわよ。緋想の剣を振りかざせば、私の上だけ晴れでも雪でも思うがままだもの」
「その剣はどちらに?」
「……家に忘れてきた。今日は雨降らないとおもったから」
天界の至宝が、ただの傘扱いというところに早苗はおかしさを覚えたが、今はそれよりも。
「天子さん、ウチに上がる前にちょっと髪の毛拭きましょう」
玄関に水溜りを作っている少女を何とかするほうが先決であった。
一回お風呂場に引っ込んで、バスタオルを持って玄関に戻る。
「もぅ、だめですよ天子さん。こんなにびしょぬれになって……。すっかり冷えちゃってるじゃないですか。さ、服も脱いでください」
「ふぇっ!? なななんで私が服を脱がなきゃいけないの!?」
「びしょぬれですからね。いや、さすがに裸になってくださいとは申しませんので」
おかしい、顔が熱い。なんで? 早苗は女、私も女。何も恥ずかしがることは無いはず。なのに。
天子は頭をブンブンと振って混乱する思考をなんとか振り払おうとした。その動きに追いすがる髪の毛がパタパタと水を撒き散らす。
「嫌ですか?」
「わ、私は天人様よ!! そんな簡単に他人に素肌を晒すことなんて……できるわけ無いじゃない!!」
我ながらいい感じに決まった、と天子は思う。そう、高貴なる天人様の肌を拝もうなんて百年早いわ!
「あら、それは残念。せっかく天子さんの綺麗なお腹が拝めると思ったのに」
そんな天子の心境を知ってかしらずか、早苗は天子にバスタオルをかけてやりながらも、にやりと笑って彼女を煽った。その一言に天子の頬がぱぁっと紅く染まるのを観て、早苗は愉しげに笑う。
「そんな!! えっと! 綺麗とか、それは天人だから絶対肌荒れとかしないし!! 当たり前だし……その、だから」
「はいはい。分かりましたのでその服は脱いでくださいね。私は先に部屋に戻りますので」
トントンと階段を上っていく早苗を、恨めしげに、けれどなんだか惜しそうに上目遣いで眺める。
「……ばか」
「ほら、脱いできたわよ。これで満足かしら!?」
階段を荒々しく昇る音に続いて、早苗の部屋の扉が開く。
「出来ればそのバスタオルも取り去っていただけると満足なのですが」
早苗はまだドアの隙間からこちらを覗き込んでいる天子を部屋に引っ張り込んだ。
「っ!! 変態!!」
早苗につかまれた手をあわてて引っ込める。タオルの端と端をぎゅーっと握り込んで縮こまるその姿はまるで小動物みたいだ。
「ふふ、冗談です。さすがにそのままっていうのもアレですし、とりあえず今日は私のお古をお貸ししますね」
早苗に服を手渡されると、天子はバスタオルの中でもぞもぞやって器用に着替えた。その間も、早苗からは片時も目をはなさない。
そんなに警戒しなくても、と早苗は苦笑混じりに小さく漏らした。
「……あのさ、早苗」
もうほとんど着替えが終わったであろうところで、天子が切り出した。
「はい?」
「もうちょっと胸の辺りが小さいのってないかしら?」
「申し訳ありません、それは私が12歳の時に着ていた物でして、それよりも小さいのは……」
「……そう」
微妙に気まずい沈黙の後、天子の体を覆っていたバスタオルがはらりと落ちる。巫女服なのに、早苗の胸の大きさを考慮してダーツで突起を作っているため胸のあたりがいつもの天子よりも少し膨らんでいた。もちろんその下にあるのは空気であるが。
さらに腋が空いているため、横から覗き込めば天子の桃色の下着が覆う優しいふくらみをはっきりと見ることができる。
「天子さん、櫛使います?」
そんな微妙な空気を変えようと、早苗は彼女の机の引き出しから可愛らしいピンク色の櫛を差し出した。雨に濡れ、そしてタオルで拭いたためその髪はあちこちであらぬ方向に撥ねている。
なるほど、さすがにこのままでは女の子として如何なものか。
「使わせてもらうわ。鏡はあるかしら?」
いかにも早苗らしい色だな、と思いつつ天子はそのアクリル製の櫛を受け取った。
「洗面所に」
早苗に案内されて洗面所に立つと、天子の上半身を映し出せるほど大きな鏡が低めの洗面台に据え付けられていた。鏡に映りこんだ自分は間違いなく自分なのだけれど、その自分が早苗と同じ服を着ているのを見ると何ともいえない違和感。
と、天子がそんなことを思いつつ鏡を眺めていると、天子をぐいと身体で押しやり、鏡の中に早苗が入ってきた。
「こうやって並んで立つと、姉妹みたいに見えませんか?」
早苗は鏡の中の天子に無邪気な笑みを向けて楽しそうに言う。
「そ……そんなこと」
鏡の中に二人、肩を並べる蒼と翠。なるほど、確かに巫女姉妹といわれればそう見えるかもしれない。けれど、どうしてか恥ずかしくて、天子は素直な返事ができなかった。
「嫌ですか?」
「ち、違うわよ! その……アレよ! 目の色とかも違うし」
「気にしない気にしない。私が今日から天子さんのお姉さんです」
なんで早苗が私より年上ってことになるかな。天子は口を開きかけたが、その前に早苗が天子の後ろにすいと回りこみ、そして彼女の手から櫛をもぎ取った。
「髪の毛長いと梳かすの大変ですから、二人で梳かし合いしませんか?」
「……そうね」
早苗のちゃっかりとした行動にすっかり突っ込む機会を逃し、ついでに選択肢も逃した。ほっそりとした早苗の指が、長い髪の毛を一束ほど掴むのが分かる。
「天子さんの髪、とても大事になされているんですね。ぜんぜん枝毛が無いです」
すーっと、櫛が通る感覚。早苗の手が、天子の腰まである長い蒼髪をやさしく撫ぜる。それはいつも天界で侍女たちにしてもらうのと同じ、けれどまったく違った感覚だった。
「別に。天人だもん、髪の毛が綺麗なのは頑丈なだけよ」
なんだか、とても心の奥の辺りがむず痒いというか。悪い気はしないのだけれど。
「そうですか? やわらかくて、触っているととっても気持ちいいですよ……?」
「え……いや、そんなことは無いわ!」
鏡のなかの自分の頬がぽっと紅潮するのが見え、天子は思わず顔をぷいと背けた。
本当は、何よりも大切にしている髪の毛。分かってくれるのは嬉しいんだけれど、でもそんなに誉められたらやっぱり恥ずかしい。
それに、こうして誉められると逆にある種の劣等感のようなものも混じるのだ。さっきから、髪の毛越しに柔らかいものがむにむにと背中に当たっている。同じように髪を大切にしている早苗。けれど彼女は、私なんかよりもずっと女の子らしい体つきをしていて……。
そんなことを考えていると、天子は心の中に恥じらいでも劣等感でもない、焦燥にも似た何かが自分の胸に湧いてくることに気がついた。じれったさとくすぐったさの混じったようなそれに耐え切れなくなり。
「もういい! 今度は私が早苗の髪の毛を梳かす番よ!」
早苗の手から櫛をひったくった。彼女の背中に手を回して押し出し前に立たせる。今、自分はどんな顔をしているだろうか。鏡で見るのも見られるのも嫌。天子は早苗の陰にぴったり重なり、その胸の動悸が治まるのを待った。
「いいんですか?」
「いいの、もうおしまい!」
女の子は髪の毛を触ってくれる人に特別な感情を抱くのだそうだ。天子も、齢数百年の天人とはいえその心の中は十五、六の女の子。よってこの定義には当てはまる……いや、当てはまれ! 理屈に焦燥のすべてをぶん投げて、天子は櫛を持ち直す。
「えへへ……それじゃ、お願いしますね?」
早苗が天子を振り返ると、早苗の髪が遠心力にさらりと花開く。北向きの窓から洩れ入る青白い光を纏って艶やかに花開く彼女の髪に、天子は思わずその目を奪われた。
「どうしました?」
「なっ……なんでも……ないわ」
そうだ、決して、何かあるなんてことはない。そうでありたい。とっさに口走ったその答えは早苗への返答ではなく、自分への確認の意味が強かったかもしれない。不思議そうに振り返る早苗の横顔。目が合って、それがなんとなく耐えられなくて目を伏せた。
「髪の手入れはずっと一人でやっていましたから、こうしてもらえるととっても楽です」
視界の端で早苗がにっこりと微笑むのが見えた。早苗の髪の毛にただ集中して、その笑顔をやり過ごす。
「そう……長いものね」
心のタスクの大半がぼんやりとした感情で占められたあいまいな返答。早苗の髪は絹のような手触りで、彼女の髪を梳かしているこちらが心地よくなってしまうようだった。
加えて、石鹸の香りだろうか。心地よい清潔感のある香りが鼻腔をくすぐる。
なんというか、この髪の毛に顔を埋めてモフモフしたい! そんな衝動に駆られるのだ。
早苗の頭を見据えて、天子は暫しの間動きを止めた。彼女との距離はほんの三センチ程度。それも早苗のほうが天子よりも一回りほど大きいときた。
いいですよ、いらっしゃい? 早苗の香りが天子を誘惑する。
ちらりと鏡を覗けば、早苗は猫のように目を細めて気持ちよさそうにしている。今なら……気づかれない、かも?
――ちょっとぐらい、いいよね。
すん、すん、すーっ。甘い香りに、肺が満たされる。けれど、それだけではない。その香りは、心の中にも入ってきて、何ともいえない、締め付けるような高揚感と切なさのような感情を巻き起こす。
なんだろう。この気持ちは。
もう一回。
くんくん。すー、はー。艶やかな髪の間から漏れる甘く淑やかなその香り。この匂いが特別に好き、というわけではない。天子だって、髪の匂いには気を使っているし、似たような洗髪料だって持っている。
けれど、違う。
何が違うんだろう。くんくんと早苗の髪を嗅ぎ、天子は考える。
彼女の髪を梳く手は知らぬ間に早苗の髪を撫ぜていて、その心地よい手触りに心をとろけさせた。
早苗の匂いが魅力的なのは、早苗自身が魅力的だからじゃないだろうか。と、天子は思う。とすれば、この匂いに心奪われた私は、早苗のことが……?
――いやいや、そんなのダメっ!!
早苗の髪に顔を埋めて天子はその思考を振り払う。だって自分は女、早苗も女だ。女の子が女の子の事を好きになるなんて普通はありえない。
けれど、それでも天子の心は切なく締め付けるように疼く。出来ることならば、このまま早苗を後ろから抱きしめたい衝動に駆られる。たとえ自分が普通でなくなってしまっても、壊れてしまってもいいから、この少女を抱きしめたい。
なんてことを考えていると、不意に早苗が口を開いた。
「気に入って下さいました? 椿油から作った石鹸の香りです。守矢神社謹製ですよ」
バレてた。
「あ……あ……その……」
全身の血液が一気に頭に向かって駆け上がるのを感じた。弁明の言葉が次々と浮かんでは消えて行き、結局何一つとして口には出ない。どうしよう。これじゃぁ、私がヘンタイみたいじゃない……!
「いいんですよ? 私は何も気にしてませんし」
早苗が振り返ると、天子は両手で顔を隠してへたり込んでいた。そんな天子の手を取って立ち上がらせ。
「それに、天子さんの髪の毛もとってもいい香りがしますよ?」
早苗は天子のこめかみに顔を寄せ、そして天子の髪の匂いを嗅ぐ。まるで口付けをするかのように、愛おしそうに。
「っ~~~~~!! ばかぁっ! 早苗のばかーっ!!」
いよいよ限界だった。天子は雪のように白い頬を桃色に紅潮させ、早苗を突き放して洗面所を飛び出していってしまった。まるで湯気でも出しそうな勢いで。
けれどこれ以上あんなことをされたら、どうなっていたか分からない。もしかすると間違いだって犯してしまっていたかもしれない。
「え!? 天子さん!? 私何か変なこと言いました!? ちょっとー!!」
後から追いかける早苗の声を振り切って、天子は天界へと逃げるようにして帰っていった。
翌日は昨日とは打って変わって快晴であった。にもかかわらず、早苗は玄関に立つ少女の姿を見て言いよどむ。
「あ、天子さん。昨日は……えっと、どうなさいました?」
外は気持ちのいいほどの快晴だというのに、その少女は酷くずぶ濡れだった。その少女の周りだけ五月雨のような激しい雨が打ち付けている。
「どうって、見ての通りよ。さぁ、はやくタオルを寄越しなさい。それから、櫛を用意しておいてね」
ふぅ…
早苗さんは読心術でも持っているのか…?w
あまり見ない組み合わせですがありですね。