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4.射命丸文
「いただきます――」
と、言ってはみたものの。
文に早苗を傷つける意思は毛頭なかった。当然だ。そうすることで自分の身に振りかかる事態を正確に予想できないほど馬鹿ではない。山から追い出される程度で済めば御の字で、守矢との関係性を保つために殺されることすら選択肢に入ってくる。
では、そうと取られるリスクを犯してまで早苗を脅す理由とは何なのか。
早苗が無縁塚に来た原因が、本当に自分の書いた新聞であったと分かったことだ。
読んでいること自体は分かっていた。守矢の動向は山における最大の関心事の一つだ。早苗が秘密裏に博麗神社の新聞を持ち帰っていることなど、千里眼を持たざるものであっても大半が知っている。知らぬは本人ばかりなり。それを表出させない程度には天狗社会が老成しているというだけで、文々。新聞の数少ない購読者に守矢が入っていることくらい、公然の秘密ではあったのだ。
――でも。
まさか偶然にも早苗の知る建物の記事を書いてしまうとは。
迂闊だった。
自分に非があるのかと言われれば、断固として否と答えられる。どうせ早晩誰かの新聞を賑わしていたであろう事件ではあったし、そうすることで河童との友好関係を繋ぐという政治的な理由も存在する。記事を書かない理由など、小町から話を聞いた時点では一つもなかったのだ。
そうして書かれた他人の記事が何らかの拍子に早苗の目に触れる可能性もあったわけで、文にしてみれば非を認めることは心情的に不可能だった。
それでも、何故という思いは拭い切れない。
何故、今なのか。
何故、ここなのか。
何故、早苗なのか――。
何かに当たり散らしたい気分だった。
……実際問題、文が新聞の持つ力を不当に過小評価していたというわけではない。幻想郷の人妖を相手にするのであれば、影響力はほとんどないのだという認識で問題なかった。この件に関してのみ言えることは、早苗が外の人間であり、マスメディアをある程度以上に信用する――してしまう――素養があったからこそ起きた、いわば”間違い”のような自体なのだ。
”天狗の記事は嘘八百”、新聞に載っていたからといって野次馬に来るような者はこの場ほぼいないのだし、こうして二人が会話している様を目撃されることもまた同様に稀だ。
だからこそ、文は強硬手段に訴えることを決めたのだ。
危険性を滔々と説いたところで、意外に我の強い早苗のことである。引き下がらないであろうことは想像がつく。ならば、少々脅してでもこちらへの協力姿勢を――有り体に言えばこのまま帰ってくれるという姿勢を――引き出そうと思ったのだ。
無論、限度というものはある。
若干ではあるが――そう思うことにした――踏み越えてはいけない線を読み違えてしまった感は否めない。自分で仕掛けたことながら、あまりに怖がられると些か以上に居心地が悪いこともまた事実だった。これもまた何事も真っ向から受け止めてしまう早苗だったからこそ起きた事態なのだろうが、居心地の悪さが邪魔をして考察しようという頭が働かない。
――と、とりあえずこれで帰るって言ってくれれば良いんだけど。
文の頭には現在それしか浮かんでいないのだった。繰り返すが実際に傷つける意思は微塵もないのである。
……どうしたものか。
悩んだ末に結局、
「と言うようにですね、私のような大妖怪でも狂ってしまう可能性があるのですよここは。恐ろしいでしょう?」
そう言いながら。
文はせいぜい茶目っ気を押し出して、早苗の肩に手を載せた。
早苗はわざとらしい苦笑を浮かべた文をきょとんと見て、
「は――ひぇ」
「……何ですかその声は」
「何、って」
と、虚脱したような声を出した。ゆるゆると肩が下がっていく。
さも呆れた様子を演じながら文は言う。
「いくら私でも積極的に知己を殺そうとも食べようとも思いませんよ。まあ、貴女が非常に美味そうだという点については否定しませんがね」
強い妖力を持った人間は基本的に味が良さそうに見えるのだ。特に恐怖を抱いた人間や絶望の淵に立っているような人間は非常に美味で――、考えかけて、文は生唾を飲み込んだ。
――どうも今日は食い意地が張っていけないわね。
それもこれも場所のせいだ、と文は適当に決めつける。
「私のように慎み深いモノばかりではありません。先程のような不逞の輩も多いですし、目撃されなければ食べても構わないだろうと考える者も無縁塚には沢山います。貴女は早く帰った方がいいでしょう。と言っても、ただ帰るというのも芸がないですね……そうだ、食事にでも行きませんか。呑めなくても料理が美味い店を見つけたんです。奢りますよ、さあさあ」
立て板に水とまくし立て、文は早苗の腕を引きながら立ち上がる。
しかし。
「文さん!」
「あや、大声を出さないで下さいな」
きっ、と睨みつけられた。文は振りほどかれた手で、自分の耳をわざとらしく塞ぐ。
――いいぞ。
行動とは反対に、内心小さく拳を握る。
逆上して正常な判断能力を失ってくれれば、山へ連れ戻すことは容易になる……はずだ。どうせ早苗からの心象を良くしようなどという考えは毛頭持ち合わせていない。双方向の興味を保ち続けられればいいのだ。対象の怒りを誘い情報を得ることは、長い記者生活の中で幾度となく繰り返してきたことでもある。こういう場合は怒らせた分だけ得だ。老練な記者はそのことをよく知っていた。
何ですか急にぃ、と意識して情けない声を出す文に、膝の上で――こちらは実際に――拳を握りしめた早苗が噛み付く。
「何ですか、じゃないですよ! 言っていい冗談と悪い冗談があるでしょう!」
「あやー、それについては悪いと思いますがね。貴女があまりにも無防備すぎるのでつい」
「どうせそんなことこれっぽっちも思ってないんでしょう」
ふい、と早苗は顔を背ける。
拗ねないで下さいよ、と文は適当に取りなすつもりで言った。
「この通り、謝りますから」
「……文さんの謝罪って軽いんですよ」
「軽い冗談だったって言ってるでしょう? 謝罪だって軽くなるというものです。さっきも言った通り、奢りますから。ね?」
「食べ物なんかじゃ釣られません」
それに、と頑なな声が続く。
「私、目的ができてしまったので」
「目的――ですか?」
――あや?
いきなり雲行きが――怪しくなってきたような。
「はい。帰すんですよ、この学校を」
引き締まった表情で早苗は言った。
――な。
何を言い出すのだろうこの小娘は。
「……私は邪魔をすると忠告したはずですが」
険しさを隠し切れない声で言ってみるが、邪魔をされたって私のすることは変わりませんよと早苗はにべもなく言う。
「どうにかして中に入って、何とかこっちに来てしまった理由を探すんです。だって、普通じゃないですもん。こっち側に来る理由なんて、一つも思い浮かびませんから。幸い霊夢さんに借りたランタンもありますし。少しくらい暗くなっても大丈夫です、きっと」
決然と見上げてくる。文はぽかんと口を開けた。……そっちに転がるとは思っていなかった。反発するにしても神奈子に注進する程度かと思っていたのに。脅しが効き過ぎたのか? 何にせよ大きすぎる誤算だ。先述の通り、この子どもは言い出したら聞かないのだから。
――はあ。
好きにすればいいじゃないもう――と、言ってしまえればどれだけ楽だろう。思うが、それはできないことも分かりきっている。時刻は既に逢魔ヶ刻を迎えようとしている。幻想郷においてはこれからが最も危ない時間帯だ。知能が低い妖怪であればあるほど、夜行性の気は強くなる。無縁塚はそうした妖怪の巣窟なのだ。
――私が。
ついていなければ。
早晩早苗は命を落とすだろう。推測でも憶測でもなく、確信としてそう思う。先刻見た間一髪の場面からしてそうだ。気配の薄い存在に対する警戒心が欠けている。
ただ。
それを説明するのは面倒だし、言って聞く性格かどうかなど、考えるまでもなく否である。ならば、
「――分かった。分かりましたよ」
文は。
「どうしてもというのであれば貴女がここへ入ることを止めはしないでおきましょう」
早々に諦めることにした。
早苗が憮然とした表情を作る。
「別に文さんに許可されなくても――」
「ただし、私も同行しますが」
有無を言わせぬ口調で文は言った。
「宜しいですね?」
「……一緒に行ってくれるんですか?」
「何か問題でも?」
「いえ、あの、ありませんけど。っていうか、まあそれは心強いですけど、どうして」
――ふむ。
文は瞬間、思案する。
――理由ねえ。
適当にでっち上げることは得意だが、ここはにとりに頼まれた例の調査で誤魔化せるか。巫女は総じて勘が鋭いと来ている。真実を話せる範囲ではそうした方が身のためだ。
「にとりから頼まれごとをしているといったでしょう。解体する前に事前調査をしてくれとね」
「事前、調査?」
「追跡調査とも被るので明言はしなかったのですが。先程も言った通り、この建物は鉱山です。何が採取できるかを調べておくのは重要なことなのですよ」
「わ、私は学校を帰したいって言ってるんですよ?」
「それは貴女の目的です。私には私の目的というものがあるわけでして」
「……なんか」
文さん今日は冷たくないですか――と、訊かれて。文はしばし、答えを迷った。
――貴女を連れ帰ることさえできればそれでいいのよ私は。
そう暴露できればどれだけ楽だろうか。しかし上からの達しには、”できるかぎり守矢の祝を自由にさせておくこと”も含まれている。無理矢理に連れ帰れば後々の考課に関わりかねない。だからこその妥協案なのだ。
連れ帰るか。
付き添うか。
世話役として正しい職務遂行の姿勢がどちらなのか、ということはこの際どこか別の場所に押し込めておくとして。
「まあいいじゃないですかそんなことは。入るに当たり、一つだけ契約をお願いします」
再び早苗の手を取り、今度は立ち上がらせながら、文は誤魔化すように言う。
契約? と早苗は鸚鵡返しに問うた。
「……まさかまた私を食べようとかそういうのじゃありませんよね」
「あやや、それはいい考えですね。貴女が人間として寿命を迎えるときには八坂神に掛けあってみましょう」
「文さん!」
「これは失礼。契約といっても、それほど重大なものではないので安心してください。早苗さんはサルタヒコの逸話を御存知ですか?」
古典に興味は無さそうだが、これくらいなら知っているだろうか。
果たして、早苗はええ、と頷いてくれた。
「天孫降臨に際してのお話ですよね」
「はい。天より神降りし折、容貌魁偉なる神が先導を買って出たというあれです。では、かの神と我々天狗とを同一視する向きがあることも?」
「鼻高天狗の皆さんが仰ってました。我ら天狗は神仏と同列に擬えられることもあるのだぞ、と自慢げに」
「その一行には調子に乗るなと灸を据えたいところですが。まあ、知っているのならば重畳です。その謂れを利用したおまじないのようなものなのですよ」
謂れ。
早苗がつい一刻ばかり前にもその言葉を耳にしていると、文は知らない。
知らぬままに、言葉を続ける。
「特別何かをするというわけではなくて、目的と場所を私に言って、”お願いします”と申し添えるだけなのです。案内役として天狗が交わす契約の一種、というわけですね。簡単でしょう?」
「具体的な効果や対価は何なんです。無茶な要求をされても困りますよ」
「効果は――そうですね、私の士気に関わります。対価は特に必要ありません」
「それだけ、ですか?」
「はい。あくまでもおまじないですから。言うなれば口約束のようなものでしょうか」
言うと、早苗は拍子抜けしたような顔をした。半信半疑なのだろう。
「……ちなみに、契約しない場合はどうなるのか、聞かせてもらっても構いませんか」
疑りを込めた声音で訊かれる。
文は素知らぬ顔で首を振った。
「特に何も。貴女と私の仲ではありませんか」
「そ、そんなことさっきの今で恥ずかしげもなくよく言えますね」
「そこはそれ。記者ですので」
気楽な笑みで締めくくる。
「如何ですか?」
ええと、と早苗は考えこむ姿勢に入った。
妖怪と安易に契約を結ばないこと。
それは幻想郷の理として、まず最初に教えた鉄則である。
我々は言霊を大切にします。契約の対価――あるいは代償――として求められるもの、そしてその結果をよく吟味した上で、かつ相手の妖怪が信用に足ると確信している場合にのみ、頷いても構いません、と。
でなければ、対価として生命を奪われても文句は言えないのだから。
例外は相手をねじ伏せられるだけの力を持っている場合のみ。
それはまだ、早苗が相手の力量を適切に見られないことを理由に、保護者から禁じられているのだと聞いている。
翻って。
文の契約は、表向き何の対価も要求していない――ように見える。
しかし、只より安いものはないと言う言葉があるように。
話の裏側には、必ず何かが潜んでいる。
それを考えさせることもまた、文の目的だった。
――実地研修、ってところよね。
そうしなければ分からないことというものは存在するのだ。
と言っても、そう考えこむこともなく文の契約に裏があることには気付けるはずだ。
道行の安寧。
つまり。
危険な状況に陥ったとき、助けに入ってくれる可能性を買うか否かという話なのだ。効果は文の士気を上げること。対価は自身の安全。自分で身を守れる確証があるのなら、全くと言っていいほど結ぶ必要のない契約なのだった。
文が世話役であるということは、早苗の知るところではない。助けに入るかどうかは五分と五分。そう思われているだろう。故に成り立つそれ、というわけである。
――まあ、この子がそこまで読むかどうかなんだけど。
時間もかかってるし。
表情を変えず、心中で小さく苦笑したそのときだ。
早苗がおずおずと右手を差し出してきた。
「目的は学校内の探検、場所は当然、この校舎。えっと、それじゃあ、その……よろしくお願いします」
熟慮と緊張の結果なのだろう。わずかに手が震えている。
「承知しました。射命丸文は東風谷早苗の導き手となり、行(こう)の終わるまでこれを守ることを約します」
文はさらりと握手を交わした。
先よりしっとりと汗ばんだ手が思考の迷走ぶりを示しているように思えたけれど。
何も気付いていない体で。
「さて。まずはどうやって中に入るかですが」
文は昇降口を検分する。金属製の枠に嵌めこまれた前面ガラスの引き戸である。その外側から板で塞がれていることを抜きにしても、おそらく内鍵がかかっているはずだ。単純に開けられるとは思えない。
「蹴破るつもりなんですか?」
脳裏を過る乱暴な考えを、早苗が実際に言葉にする。
「必要であればそうしますし、それが早いでしょうがね。これを叩き割ることは得策ではないでしょう。破片がどう飛散するか分かったものではありませんし、音を聞きつけた第三者が寄ってこないとも限りません」
「じゃあどうするんです」
「切断するのが手っ取り早いでしょうね」
風を操ることでかまいたちを作り出す。下がって下さい。言うや、文はするりと宙を撫でた。途端、小気味いい音を立ててベニヤ板が四散する。
「へえぇ、そんな使い方もあるんですね」
「貴女だってこれくらいのことはできるでしょう」
いくらか気持ちが軽くなったのだろう。微妙に口数が増えた早苗の戯言をいなしながら、もう一度。金属製の枠でもかまいたちは簡単に切り裂いてしまう。
このように折に触れて早苗に風の扱いを見せている文ではあるが、そうすることによって向けられる尊敬を受け止めることは苦手だ。
――貧乏性なのかしらね。
八坂神が教え上手ならこんなことをしなくてもすむのだけれど、とも思う。
考え事をしていても、文の手は止まらない。硝子の引き戸を力任せに持ち上げ、対象的にそこそこ慎重に脇へ除ける。
「行きますね」
早苗がこくりと頷いた。どことなく悲壮な面持ちだ。口数と裏腹に緊張感が抜け切っていない。それ自体は悪くないことなのだが、硬くなりすぎるのも問題だ。まあ気を楽にして下さい。言いながら、文は屋内へ足を踏み入れる。
「……埃が凄いですねえ。たったあれだけの動作でこれとは。ああ、まだ入らないで下さい。ここからは私の合図に従ってもらいます」
「はい」
校舎内は暗闇と静寂、そして独特の古ぼけた匂いで満ちていた。
「私が卒業したときには、築八十年くらいでしたっけ」
語るともなく早苗が言う。それから五年あまりが経過しているというから、おおよそ築九十年近い計算になるだろうか。
――九十年、か。
天狗にとっても決して短くはない期間だ。妖怪というものは六十年周期で記憶が薄れていく。九十年前の出来事ともなれば、よほど印象深くない限りは忘れてしまう。それだけの期間を生き、人間に使われてきた建物。解体しようということに何ら痛痒を感じないわけではないが、いっそ新しい生を全うさせてやることが、この建物にとっても幸福に繋がるのではないかと文は思う。
そんな文個人の感傷を抜きにしても、古い建物であることに変わりはなく。
そして、
「ふむ……しかし本当に埃っぽいですねえ」
換気が行き届いていないことも明らかだった。
「空気が淀み切っているではないですか」
「あー、窓を開け放っていればそれなりに風通りは良かったんですけどね」
苦笑しながら早苗が言う。この状態ではそれも望めないということか。彼女は袖口から何かを取り出した。かちりと底の釦を押すと、周囲を明るい光が照らし出す。
「それが先刻言っていた?」
「ランタンです。明るいでしょう」
「用意がいいですね。初めから中に入るつもりだったのでは?」
「そんなことはないですよ。鍵、かかってましたし。私だけだったら無理矢理入ろうなんて思いませんでしたもん。周りをぐるっと見て回るだけで終わってたと思います」
「私が来たから、ですか」
来なければ良かったのかと微かに思う。けれど、早苗はいいえとかぶりを振った。
「来てくれたから、助かったんですよ? ……一応。そのあとがアレでしたけど」
「ま、まあまあ」
灯明は霊夢が香霖堂で渡してくれたのだという。こうなることを予見していたのだろうか。十中八九勘ではあるのだろうが相手が霊夢であるだけに不気味なものを感じてしまう。
「何にせよ助かりますね。どうにも私は鳥目がちなものでして」
「妖怪なのにですか?」
「元が烏だからでしょうかねえ。まあ、いざとなれば便利な術の一つや二つはあるのですがね。あ、もう大丈夫ですよ」
文に続いて、早苗も屋内へ入る。すんすんと空気の匂いを嗅ぐようにして、
「なんか――この中、外の夏が閉じ込められてるような気がしますね」
「外の、夏?」
「幻想郷の夏より、もっと重苦しいような感じっていうか。うまくは言えないんですけど」
文にそんな感覚はない。
「雰囲気のせいではないですか。閉塞感とか、そういうものの類とか」
「そう――なんでしょうか」
早苗は煮え切らない様子で瞳を揺らした。
「……そうかもしれませんね。とにかく、探検してみれば分かりますよね」
「然り。と、それはいいのですが」
はい? と早苗は首を傾げる。
「探検なんていう軽い気持ちでいられると少々困るのですが」
「なんでです? あ、探検じゃなくて冒険の方でしたか」
「いやいやそういう意味ではなく。危険性を認識しているのかどうかという話ですよ」
「それなら大丈夫ですよ。文さんが守ってくれるんでしょ」
「う」
微妙な横目で早苗は言う。そう言われると弱いのだが。わずかにたじろいだ文は口中で文句を噛み殺す。やはり契約を交わしたのは間違いだったのか? それだけ子憎たらしい表情だった。放っておいた方が、いや、でも絶対怪我するしなあと思いながら、建物内を見渡す。
光に照らし出されて、黒々とした木目が浮かんでいる。見方によっては人の顔にも見えるななどと益体もないことを考える。外観と同じく古ぼけた室内だが、埃が積もっていることを除けば意外と手入れは行き届いているようだ。それにしては外との落差が少々大きすぎるような気もするのだが。
――まあ、それはこれから分かることよね。
「では始めましょうか」
「はい。えっと――」
記憶にある限りでは、この建物の教室と呼ばれる部屋は全部で六部屋あり、一階部分には二部屋、それに図書室と職員室という部屋があって、二階部分には四部屋が存在しているのだという。
まあ数字の小さい順に見て回ればいいか、と文は適当な計画を立てる。昇降口から上がって突き当りを右に折れれば一番目の教室があるらしい。その向こうは図書室なんです――早苗の言葉に従って、彼女の先に立つ。突き当りを左に折れた先には二年の教室、職員室と並んでいて、廊下の端にも階段があるそうだ。二階へはそちらから上がればいいか、などと考えて、だったら尚更右からね、と道筋を決める。図書館を調べ、引き返した後、職員室の先の階段を上ろう。
広くはない空間に、二人分の足音が響く。下駄で板の間を往く音など平素耳にするものではないから、ひどく耳障りに感じてしまう。
カンカンと。
高い音だ。
「文さんは、要するに何をするつもりなんですか?」
唐突に早苗が訊いた。
「要するにとは?」
「にとりさんに頼まれたとか言ってたじゃないですか」
「ああ」
埋蔵物の調査とここにいるモノを追い出す作業ですよ、と文は言った。
「鉱山のようなものだと言ったでしょう? そうした土地はまず地質調査から始めるものだと聞きましたよ」
「それは分かりますけど。何を追い出すっていうんです? ここには誰もいないように見えますけど」
「そう見えますか」
「……はい? まさか」
「いえいえ。今は何もいませんとも。包囲されていたりしたなら、私が放っておくわけがないでしょう。……ですがねえ」
「な、何ですか」
「時として出ることもあるのですよ。貴女が今、想像しているようなものがね」
早苗の足音が一瞬、乱れる。特に何をと指定したわけではなかったのだが、この建物について思うところがあったのだろう。薄気味悪い空気の中だ。無理もない。
「外界の変化について行けず、さりとて自力で幻想郷へ入ることが叶わなかったモノが、よくこういう場所に住み着くのです。あるいは幻想郷へ、というわずかな期待を持ってね。だからそうしたものに幻想郷へ着いたのだと知らしめるため、我々が出向くのです。こういうのは本来八雲の――」
言いながら、昇降口から伸びる廊下の突き当りを右に折れた文は、唐突に言葉を切った。
「どうしたんです?」
訝しげに早苗が訊く。彼女は文の影から身を乗り出し、そして同じく絶句した。早速指示を無視される形になったのだけれど、文は注意することも忘れて目の前の光景を眺めていた。
外側に面した窓一面に――否、教室側の窓にもびっしりと御札が貼り付けられている。内側にも施された目張り板の、その上から。隙間の一つも残さないかのように。
「これは、一体」
こぼれた呟きはほぼ無意識のものだった。札に書かれた文字を、目が追う。守矢神社。言葉は馴染みのものであるにも関わらず、全く知らない言語のように映る文字を。
「あー……ずいぶんと奇抜な装飾を好む学び舎だったのですね?」
「そんなわけないじゃないですか。私が通ってた頃にはこんなモノ……それに」
早苗は札にぐっと顔を近づける。弱視ではなかったはずだが。近くで見たところで妖力の質が分かるわけでもあるまいに。……いや、実際のところはどうなのだろう。考えて首を捻っていると、彼女はおもむろに振り返ってこちらを見た。
「これ、うちの御札じゃないです」
「あや?」
札の文字に見覚えがなく、また力の一つも込められていないらしい。本当にあれでわかってしまったのか。肝心なのは向こう側に残った親族の手によるものではない――つまり神の抜け殻となってしまった、外界の守矢神社関係者すら噛んでいない呪符であるらしい。
早苗に倣って顔を近づける。……確かに、ただ”書いただけ”というような薄さを感じるような、そうでもないような。文自身、信仰を感じ取れるのかと言われれば微妙なところなので断言することができない。神職の者が書いたとは到底思えないような筆跡であることだけは何となく分かるが。丁寧ではあるが術を知らない字であるように――見える。それが全ての窓に貼り付けられているのだ。それはどちらかというと”狂気”を感じさせるもので、背にうそ寒いものが這ったような感触を覚える。
文は写真機を取り出し、写真を撮った。記録しておけば何かの役には立つだろうか。一緒くたに解体してしまって差し障りが出なければいいのだが。
「力を込めていないのならばどうしてこんなにベタベタと貼ってあるのでしょうねえ?」
「分かりませんよ。でも」
「でも?」
「もしかすると、さっき文さんが言ったような、何かこう、妙なものが入り込んでやむを得ず、とか」
不定形のモノを表すように、早苗はゆらゆらと手を動かす。
「ふうむ。建物に何かを封印するための結界、ですか」
考えられないことではない――か?
――いえ。
「それにしては中途半端ですよ。入り口にはこの札はなかったではありませんか」
「えっと、ほら。そこまでは貼らなくても何とかなると思った――とか……」
「そこまで浅薄な考え方ではないでしょう。外の人間といってもね」
「……まあ、そうなんですけど……」
自信なさそうに語尾が萎んだ。とはいえここで結論を出してしまうのは尚早に過ぎるというものでしょう――と、文は取りなすつもりでそう言った。
「まだ調査は始まってもいないわけですからね」
「……ですよね。もう少し調べを進めて、考察するべきなんでしょう」
「何かご不満な点でも?」
いえ特に、と応じる早苗の声を背中で聞きながら、文は立ち止まった。青白い灯の中に、一年と書かれた木札が浮かび上がっている。
「開けますよ。覚悟はよろしいですね?」
「は、はい」
答えに続いて小さく喉を鳴らす音が廊下に響く。一拍置いて、文は眼前の遣り戸を引いた。ほぼ無音のままに木戸が開く。多少は軋んで耳障りな音がすると身構えていた分、少し拍子抜けしてしまう。
中は。
廊下よりもなお、暗かった。
――む。
文はすうと目を細める。距離があるためよく見えないのだが、ここもやはり内側から封が施してあるらしい。その密度は廊下よりも薄いようだが、してあるということには何ら変わりがない。
あるいは。
信仰のない呪物でも、折り重ねることで呪(しゅ)を成しているのかもしれない。こんな節操もない貼り方では無理だとは思うけれども。
とにかく様子を見ようと一歩踏み出した、その足元で、
かたん。
と、かすかな音がした。
「文さん?」
「いえ、何か蹴飛ばしたような――。灯をもらえますか?」
言うと、灯がすいっと降下した。二人で足元を覗き込む。
「……これ、は?」
「はて、何でしょうね」
盃に盛られた白い物体が転がっている。蹴られてもこぼれていないところからすると、硬い――のだろうか。文は屈みこんでそれに触れた。ざらざらとした触感が指に伝わる。やはり硬い。何となく思うところがあったので、掬ってみようと思ったのだけれど。
――まあ、いいでしょう。
味を見るには、
「あむ」
指先に付着した少量で十分だ。
「文さん!?」
何やってるんですか、と早苗が腕を引っ張る。が、文は素知らぬ顔で舌の上に白いものを転がした。
「塩です」
「は?」
「盛塩なのでしょうね、これは」
端的に言う。脱力したように早苗の手から力が抜けた。
「む、無茶しないで下さい!」
睨まれるが、文にとってこれくらいはどうということもない事態である。仮に毒であったとしても、よほど強力でない限り天狗の身に効きはしない。
『妖怪用に調合された特殊な毒物であればまあ危険だったのかもしれませんが、建物に張ってある結界を見るにその可能性は薄そうでしたからね。万一私に効くような毒があるのならにとりには少し待ってもらう必要があるわけで、要するに自分で実験をしてみたかったのです。仮にここから解毒できる場所に飛ぶとしても、数分ですしね――』
という事情を説明するのもなんだかまどろっこしいし馬鹿馬鹿しかっただけなのだ。”万一”を引き当ててしまったらそれこそ永遠亭くんだりまで退散すればいいのだし、保護をするという観点で見ても悪いことではなかったろうと文は思う。
「心配してくれるのならば、説明することもやぶさかではなかったのですがねえ」
「文さんの心配なんかじゃありません! 一人でこの中歩くのもな、何ていうか……怖いじゃないですか」
「あや」
――存外に可愛らしいところもあるわね。無理もないか。
思うが、口にすることはない。また一段と騒がしくなってしまいそうな予感がしたからだ。
今はそんなことよりも、この建物に対する興味が勝り始めていた。にとりからの頼まれごとという点を抜きにしても、御札や盛塩といった興味をそそられる部分が多い。これまでに見た外のどんな建物とも趣が異なっている。具体的な建築様式に特段の工夫は感じられないが、その後の歴史には見るべき点があるように思える。
そう。
――何かある。
早苗の保護を考えなければ、今少し無理が利くのだが。
文は気分が高揚し始める自分を感じていた。外れだと思っていた事件が、思いのほか面白そうだと分かったときの感覚だ。
何か楽しめるような存在がここにいるのかもしれない。心がにわかに奮う。そのためにはまず、この場所の情報を集めることが肝要だ。敵を知り己を知れば百戦危うからず。情報産業に関わる鴉天狗は、経験的にそれを知っている。
気を取り直して室内を見回す。
灯に照らされた部屋の中は、空っぽだった。埃っぽい空気の他には何もないようだ。
有り体に――いうならば。
予感とは正反対に。
「何も――なさすぎる」
「え?」
呟いた声に、早苗の疑問が飛ぶ。いえ、と首を振って、文は室内をぐるりと見回した。
学校――学び舎という以上、往時には机が並んでいたであろう空間。実際以上に寒々しく見えるのは、そうした生活の痕跡がわずかに散見されるせいなのかもしれない。
別れを惜しむ言葉が並べられた黒板。
床に刻まれた傷跡。
中途半端に整理されて放り出されたと思しき文庫。
その全てに降り積もった埃――。
ただ、足りないのだ。
文がこの部屋に予想していたものは、こんなつまらない、がらんとした光景ではなかった。魑魅魍魎のたぐいが朧朧に行き交う、正しくこの世ならぬ光景。故にこそ封印を施された――そんな理屈付けを受け入れざるを得ない場所。それが文の期待する光景だったのだ。
とはいえ、完全に予想外だったのかといわれるとそうでもないのだが。廊下に姿が見えなかった時点でおかしいとは思っていたのだし。
もしかすると本当に何らかの結界が発生している可能性も考慮しなければならないだろうか。死霊除去の手間を考えれば、封印の撤去も同じくらいに面倒だ。双方ともここにはないのだと確認できることが最も望ましい。それはそれで退屈なのだけれども。
思い入れがない分だけ冷静に観察できているのかもしれないなと、何となく文は思う。背後の灯が落ち着かなげに揺れている。早苗の内心を反映しているのだろう。
「しかし――これは。本当に資源としては少なそうですね」
文は努めて後ろを気にしないようにしながら、言った。
「典型的な木造建築のようですし。分解してみなければ分かりませんが、この音では」
とんとんと壁を小突いて、
「どうにも望み薄です」
「じゃあやっぱり解体しない、とか……」
控えめな早苗の意見を、言下に否定する。
「この場で朽ちるに任せるよりはいいですよ。木材とて豊富にあるわけではないのですから」
「……ですよねえ」
はは、と早苗は乾いた笑みをこぼす。
文花帖を取り出して、灯を頼りに書き付ける。『期待するべからず。さしたる収穫は望めない』。木材の集積と見ればどれくらいになるのだろう。思ってみたものの、その辺りの計算はあまり得意ではない。詳しいことはにとりに丸投げするか。考えながら後ろを振り返ると、早苗は黒板をじっと見つめていた。
「……早苗さん?」
「は、はいっ」
振り向いた瞳がやけに煌めいて見えたのは――否、きっと気のせいなのだろう。己に言い聞かせるように、文は小さく笑みを作って、
「次、行きましょうか」
と、言った。これ以上何もない部屋に留まっていても、得られる利益はない。早々に調査を終わらせて――そして、早苗の気が済むように仕向けて――帰ってしまうのが、自分にとっても早苗にとってもいいことのはずだと文は思う。
部屋の前後にある扉のうち、後ろを選んで部屋を出る。ちなみに前後とも鍵がかかっていなかった。放棄された建物という印象を改めて受ける。
慕われていたはずのモノが、唐突に幻想郷へと辿り着いてしまう。
早苗は妙に事件化したがっているようだが、過去にもいくつか例のあることだ。そのいずれも、結界が不安定となる時期なり季節なりを狙うように入ってきた。季節の変わり目というのはその最たるものだ。今回の件も、突発的な事故に過ぎないのではないかと文は考えている。
結界を超える物の仕組みを完全に理解しているのは、妖怪の中においてもかの八雲を置いて他にいないが、その一端くらいならば文たちにも知らされている。
現実と幻想を分ける境界――根幹をなす理論は、世界が論理的整合性を失わないため、消えたヒトやモノが向こう側において忘却されるということである。
在ったはずのモノが失われる。それは、幻想を気取られる端緒となりかねない危険だから。
故に記憶記録の全てが砂上の楼閣のように消失してしまう。幻想郷に迷い込んだ人間が外の世界に帰るために、博麗神社という正当な帰路を辿らなければならないのは、その過程で世界の記憶を再生させているからなのだ。
翻って。
幻想郷の側から博麗神社を介することなく外界へ干渉すること――これもまた、結界の機能として阻まれてしまう事柄の一つである。内側からどれだけ干渉しようと、外側には何の影響も及ぼすことができない。そう――たとえば、境界を直接弄るような力を持ってでもいない限りは。だからこそ、八雲と強い繋がりを持っていればいるだけ幻想郷の中では豊かな振る舞いができるのだ。無論、彼女らは容易に姿を表わすことがない上、友人関係になることは更に困難を極めるのだけれども。
人一人を帰すというだけでもこれだけ大事なのだ。建物を、となると何をか言わんやである。そのことは早苗にだって分かっているはずなのに、と文は思いかけて、けれどと思い直す。守矢神社がこちら側に入ってきた経緯は複雑だ。その存在を未だ覚えている人間がいるのかもしれない。残してきた親族とやらがそれに該当してしまうのか。
結界の理論を無視した、神力を使っての大術式。
その結果が守矢神社という巨大な存在の移動であり、忘却されていないのだとするならば。空隙に無理矢理戻すことも、
――できる、のかしらね。
実際のところは八雲にでも訊いてみなければ分からないのだどうけれど。あれを全能と頼むことは、あまり良い傾向でないと文はそう思っている。
――なにかいい餌でもあればなあ。
霊夢と同じような思考を――それとは知らないながら――止めないまま、何気なく図書室の扉を開けようと手を伸ばして、
「あれ?」
戸惑うような声と、明滅し始めた灯に動きを止めた。
「電池切れですかね」
「え、そんなことはないとおもうんですけど。もらったばかりなんですよ?」
「初めからある程度消耗していたのでは?」
振り返り訊くと、早苗はああ、と小さく頷いた。
「かもしれませんけど」
博麗の直感が投げて寄越したにせよ、こちらに流れ着いた時点で必要のないものとして扱われていた可能性は否定できない。ばかりか、香霖堂で売られている商品は、基本的に店主のお眼鏡に”適わなかったもの”ばかりである。最初から使える代物ではなかったのかもしれない。
耳障りな音を残して灯が消える。真っ暗だ。わ、と小さく言った早苗の手を、気流から逆算して掴み、どうしますか――と、文は訊いた。
「引き返しますか? これでは何も見えないでしょう」
「あ、いえ。ちょっと待ってて下さいね」
言うなり、早苗は灯を上下に振り始めた――ようだ。初めは軽く、徐々に強く。途中から文の手を離しての平手打ちも加わった。ばしばしという割と容赦ない音が廊下に響く。
はらはらしながら待っていると、始まった時と同様唐突に、何事もなかったように灯は元の光度を取り戻した。青白い光に自慢気な笑顔が浮かんでいる。
「どうですか!」
「いやはや奇跡の無駄遣いですねえ」
胸を張られても扱いに困る。というか動かなくなった機械に衝撃を与えて解決するのは外でも変わらないのか。にとりが工具でぶん殴っている姿を思い出して可笑しくなる。まああれの場合は加減というものをしないのでお釈迦になってしまうこともままあるのだが。
ともかく。
気を取り直して文は図書室の扉と向き合った。向こう側に若干の違和感は感じるが、自分の相手になりえそうな気配は感じられない。
「開けます」
「はい」
返答は決然として聞こえた。一連の騒ぎでようやく心が落ち着いたのか。ささやかな灯にささやかな感謝をして、扉を引いた。わずかに軋む音を立てたものの、案外すんなりと――、
開いた。
けれど。
そこで、文はまたしても絶句した。
「どうしたんです?」
灯と共に覗き込んだ早苗も、文に倣う。
淡く照らしだされた図書館は、放置された本棚と、散乱する大量の蔵書と、光を弱めるほどに舞う埃と、年季の入った机や帳場と、そして。
大量の”もや”の巣窟だった。
昏い闇に溶け込んで全容の把握が難しいが、十メートル四方程度と思しき部屋に所狭しと蠢いている。ざっと二十は下らないか。本棚の影にいるものも含めれば、その数は更に膨らむだろう。
「こ、これ」
「おそらく、そうなのでしょうが」
――そんな気配は。
なかった――というのに。今更のようにそっと扉を締める。気配を探りなおしてみるが、やはり些細な――この建物全体が発していると思しき、外の世界の残滓らしい感覚意外には何も感じられない。
「活力が枯渇しているから、とか? いえ、封印のせいで気配がかき消されているのでしょうか。ですが」
「ですが?」
「消滅する間際の行動として、これらが一箇所に留まって大人しくしているなんて。生き長らえる――いやいや、死んでいるのですが、自己の存在をできるだけ長く保とうとする生前の働きからしてですね――ために共食いを始めてもおかしくはないはずなのです」
「とっ、共食いするんですか、あれ」
「共食いと言いますか吸収と言いますか。見ていて気持ちのいいものでないことだけは確かなのですが」
軟体動物が絡みあうところを想像すれば近いのだが、そんなものを好き好んで想像する馬鹿がどこにいるのかと文は思う。思うのだが、そう考えてしまったということは要するに想像してしまったわけで、
「……ふむ。意外と盛塩という奴の効果も馬鹿にできるものではないですね」
「は?」
「あー、知らない方がいいことというものも存在する、ということです」
山盛りの塩で想像上の蛞蝓をかき消したのだ。
――しかし、どうしたものかしら。
最初からあれだけ大きな足音を響かせて建物内を闊歩していたのである。向こうから襲いかかってきていても不思議ではなかったし、正直、それを狙ってすらいた。人間の臭いに釣られた輩を片端から外に追い出していけば、探索もできて一石二鳥。早苗の保護を目論む思考の片隅に、そんな断片が紛れ込んでいたことを否定するつもりはないけれど、
「何というか――面倒なことになってきましたね」
「何ブツブツ言ってるんです?」
「あや、この建物に些か興味が出てきたというだけのことでして」
感光性はないのだったか。ざざざと虫の大群のように退かれでもしたら夢に見そうだが。早苗に灯を要求する。素直に差し出されたそれを、身を屈めて薄く開けた扉の隙間に置いた。
ことり。
内部に反応はない。
「近付いたら反応するんですかね」
文の上から身を乗り出して早苗が言う。危険を確かめている最中なのだから軽挙妄動は謹んで下さい――というのはもはや言っても無駄なことだろう。どうも危機感が薄いので見ている側は堪ったものではないのだが。
「行ってみますか?」
水を向けると、早苗は慌てたように首を振った。
「や、やめて下さいよ冗談でしょ。あんなのの中に放り込まれたくありませんって」
先刻の襲撃が心に残っているらしい。それならそれで大人しくしていてほしいものである。
「差し当たってはこの状況をどうするか、ですねえ」
「何か考えとかあるんですか?」
「特に何も。それなりにまとまった数ですから、敵対すると面倒だなと思う程度で」
「そ、それでどうするんです」
「どうするも何も」
追い出すのですよ――と、文は言う。どうやって、と問われていることは承知しているのだが、実際問題その方策が浮かんでいないことも事実なのだ。
「方法、とかって何か考えてるんですか?」
「方法と言われましても」
「……も?」
「まあ、どうにかして――としか言い様がないのですが。依頼のこともありますから、どうにかして出て行ってもらわなければ困るわけで」
「こんなもの満載で送り返すわけにはいかないですもんねえ」
「いえいえ、これは我々の共有財産ですって」
声をひそめて応酬しながら、文は室内に目を凝らしていた。
立ち並ぶ本棚の向こう、薄ぼんやりと灯に照らされた窓には、廊下のそれと同じ札が貼り付けてある。
「屋内に向けた封印であると仮定するなら」
「はい?」
「中にいるモノを、外へ出さないようにする目的だと考えるべきなのでしょうか」
ううん、と早苗は首を傾げて、
「そうとも限らないんじゃないですか? シェルターみたいに外敵の侵入を拒む目的かもしれないでしょう。気配を殺すような効果が――あ、そうでもなければ文さんが分からないはずないと思うので――あるのなら、中のモノの気配を外から気取られないようにする、外向きの結界である可能性もあるような気がしますけど」
と言う。自信は無さそうだが結界を扱うことは巫女の役割の一つでもあるのだから、一定の価値がある言葉ではあるだろう。
しかし。
「私の勘はどうも内向きの結界だと囁いているのですよねえ」
「経験上――ですか?」
「それも含めて、ですね」
文もまた、早苗に倣うように首を傾げた。
「どちらなのか。それさえ分かれば対処法も――」
言いかけて。
――対処法?
ふと、文の脳裏を疑問が過ぎった。
果たしてそんなものは必要なのか?
「文さん?」
急に黙り込んだ文を気遣うように、早苗が声を掛けてくる。
「ああ――いえ。果たしてそんなものを考える必要はあるのかな、と思いまして」
率直に答える。
「正面切って突き崩したところで、我々が不利益を被るような事態は考えづらいと思うのです」
「じゃあ」
「最終的に何かを防ぐための結界であるとするなら、内向きであれ外向きであれ破ってしまっても構わないのではないでしょうか。どちらも同じような空間の”質”でしょうし、どうせ入ってきて欲しくないモノも出て欲しくないモノも内外に等しく揃ってしまっているわけですから」
「……なんですか、その無茶苦茶な屁理屈」
早苗が呆れたように息を吐く。
考えてもみて下さい――と、文は根気強く言った。
「我々の目的はこの建物の調査であり、加えてあれらを追い出すことです」
文は図書室の中を指す。
「ところが、先刻貴女が襲われたことからも明らかなように、あれらは幻想郷のルールを――この場合は弾幕ごっこのことですが――理解することはできません。根本的に話が通用しないためです」
「さっきのは文さんが言葉で追い払ったじゃないですか」
「あれはただ単純に彼我の力量差を感じ取ったから逃げたに過ぎませんよ。私に勝てそうだと判断すれば、もろともに襲われていたはずです」
「知恵の有無とは違う――んですか?」
明確に違いますね、と文は言う。
「死魂というものは学習することがありません。あれらの行動原理は常に生前の本能なのです。この部屋にいる者達はもともと力の弱い妖怪であったと推測されますから、なおのこと知恵などというモノとは無縁なのですよ」
「幽霊と同じじゃないですか」
「幽霊はあくまでも気質の塊であり、此岸の存在です。ある程度意思の疎通が可能ですしね。強い妖怪であればあるほど孤高を保ちたがるものですが、狭く深い付き合いは誰しもが持っています。そういう者達が葬送して、普通は転生をするはず。これはそういった意味で行けば、誰にも送られることのなかった、力のない妖怪の成れの果てなのです。言葉が通じる道理はありません」
だったらどうするんです――と、早苗は焦れたような口調で言った。
「ここで議論しても無駄、あれをぶっ飛ばすことが最善だとでも言うんですか?」
「最善なのか、という点に関しては判じかねますが、ここでぐだぐだと喋っているよりはマシな結果を掴めそうな気がするのですよね」
「はあ」
「あー、ほら。謂れですよ、謂れ。我々が導き手であるという」
「またですかあ? とりあえずそれ出しとけば私が黙るとか思ってません?」
早苗は嫌そうに声を上げる。反応がいちいち大きい。外にいた頃の習慣が一時的に戻っているのかなあ、などと愚にもつかないことを考える。普段の彼女はもう少しこう、物静かな印象があるのだけれど。
「あやや、重要なことなのですよ?」
全てはそこに帰結するといっても過言ではないのだ――ということにしておく方が通りがいいだろう。にとりの依頼という大義名分を立てながら行動すること。それを第一に考えさせなければ、早苗がこの建物の境遇に感情移入してしまいすぎる気がするからだ。
――半ばは本当のことだしね。
「私がにとりの頼み事を引き受けたのは、何も友人としての誼ばかりが理由ではないのです。サルタヒコの神話に関わっているからこそ、引き受けざるを得なかった部分というのが大半で」
「分かりました。好きにすればいいじゃないですか」
早苗は投げやりに言うと、すっと立ち上がった。
「私、ここで見てますから。先導役がどういうものなのか、早く実演して下さい」
「あやー」
機嫌を損ねてしまったか? まあいい。動かないという確証が得られただけでも良しとしよう。
結界が張り巡らされた戦場を、全て風で洗い流す。古くから天狗が得意としてきた戦法だ。天の八衢。天狗道の開風。それらは皆、古い技を対人用に仕立て直したスペルである。それを本来の用途に使ってやれば、この程度の建物は跡形もなく消し飛ばすことも可能だろう。
問題は。
他の部屋に、まだ死魂化していない妖怪がいるかもしれないということだ。それを見殺しにすることは、先導役の倫理に反する。よって、建物全てを一掃するやり方は最善ではない。それらの命を幾許か削ってもいいというなら、外に出てまるごと吹き飛ばしてしまうのが一番だったりするのだが。
――結局、限定的なものに限るべき、か。
ほう、と息を整える。
全力を出せないことには不満を感じてしまうが仕方ない。仮に”封印”が幻想郷に来たことで何らかの力を得てしまっているとすれば――それも幻想郷では事欠かない事例だ。ただの古い図面が魔法陣として扱われ、また実際に何らかの魔物を召喚してしまうこともままある――ここらで一つ、風穴を開けて様子を見ることも必要だ。結界術に詳しい者が身内にいないわけではないが、組織のつてを使うのは苦手なのである。破ってみることで得られるものもあるだろう。
――よし。
やろう。身をもって得た実証結果の方が、にとりにとっても使いやすいはずなのだし。
「私がいいというまで、絶対に中へ入らないで下さいね」
「動きませんし助けもしません」
「ふむ。ま、そういうことでよろしくお願いします」
扉を大きく押し開ける。不穏な音が廊下に響く。
文はつかつかと室内に踏み入った。
反応はない。どれだけの期間放置されていたのか分からないが、死んで期間が経つほど死魂というものは新しい肉体を求めて彷徨う行動力は低くなり、反対に三途の川を渡る確率は高くなる。
ちょうどいい。
動かないのならば、それなりの対処をするまでの話だ。
何故動かないのか。
あるいは――動けないのか。
それを今から試してやる。
葉団扇を鞄から取り出す。
戸惑う声が、聞こえた気がして。
けれど。
文はそれを無視した。
団扇を。
振るう。
どっ、と豪風が室内を食い荒らす。
本が舞う。
棚がわななく。
床板が騒ぐ。
巡れ、周れ。
書棚が音を立てて移動し始める。宙を舞う本の数が増えてゆく。紅魔館に売りつければまとまった金額になるかもな、と思ってはみたが既に手遅れだった。ボロボロになってしまえば買い取ってはくれないだろうと適当に考える。風を起こすという作業は、文にとって斯様に何も考えずとも為せる業なのである。
部屋の全てを飲み込むように。
耳を塞ぎたくなる轟音は、けれど文には子守唄のようなものだ。
三振り、四振りと回数を重ねるごとに音は大きくなり、風の圧はいや増していく。
「歓迎しますよ。新たな同胞たち。――と言っても、あなた方に言葉が通じるとも思えませんが」
苦笑。
それでも。
手は止めず。
弾幕に言葉を込め、言弾と成す。
言葉が通用しない相手であるからこそ、この方法は最大の効果を発揮する。
八衢下る天つ神を、国つ神が迎えた作法。それはきっと、荒っぽい歓待の形を借りていたに違いない。天狗の間の通説だ。でなければ異民族を受け入れることは、容易でなかったはずだから。
先達たちがそうしたであろう、多少手荒な手段を以て、文は”彼ら”を迎え入れる。天狗流の、そして現在の幻想郷のルールに則って。
――我々は全てを受け入れますとも。
部屋を舐めるように膨張した風が、死魂を飲み込みながら駆け巡り、
「風符「天狗道の開風」!」
瞬間、臨界点を超えた。
図書室の壁を一気に打ち破り、風は外へと走り出る。轟音。もうもうと埃が舞う。取り返しの付かない大穴が口を開けている。封印は。壁ごと根こそぎ吹き飛んでいる――が、室内にさしたる変化はない。黒いもやの個体数が零になったこと以外には。やはり、結界と見えただけの何でもない代物であったのか。
誤算があったとすれば、一つ。
開口部が東を向いていて、西日が差し込んでくることはなく、室内の明度があまり上がらなかったことだ。誤算と言い切ってしまうのは無理があるか。明るくなればいいなという程度に考えていたので、あまり落胆することはなかったのだけれど。秋の日はつるべ落とし。予測以上に日暮れが早いことは不思議でも何でもない。
ともあれ、閉塞感は幾らか和らいだ。
――うむ。
残響音に耳を傾け、満足感に浸る。そうして、文が自分の仕事に頷いたときである。
「――ぁにやってるんですか!」
怒鳴り声は後ろからだ。振り返ると、眦を吊り上げた早苗が灯を片手に駆け寄ってくるところだった。
「何、とは?」
「とぼけないで下さい! これ、明らかにやり過ぎじゃないですか! オーバーキルですよオーバーキル!」
「いやだなあ、既に死んでいるじゃありませんか」
「そういう問題じゃないですって!」
「流儀の差ですよ、そこは。あれくらいは貴女だって経験したはずでしょう」
「へ?」
霊夢さんと一戦交えたでしょう――と、文は言った。
「それと同じですよ」
「同じわけないでしょう! 相手は無抵抗な――無抵抗な……」
「死魂」
「っ」
早苗がはっと言葉に詰まったところを見計らって、文は畳み掛ける。
「あれらは死者なのです。生者の流儀――言葉が通じない以上、別の手段で通過儀礼を済ませる必要がある。まして先ほどの弾幕はただの弾ではありませんでした。そのくらいは貴女にだって分かったでしょう?」
「それは――でも」
「死人は火葬(ひ)を以て送られ、冥土の住人となります。死魂を弾幕(ひ)で以て迎えることの何がいけないというのです」
だからって何も吹き飛ばさなくたっていいじゃないですか、と早苗は憤る。
「普段の文さんならもっと丁寧に――」
――それはあんたが一緒にいるからよ。
「……と、言えればいいのですがねえ」
「――やるでしょう……って、何か言いました?」
「いえいえ、別に。まあこの程度で驚いてもらっていては困ります。この先、生者がいる可能性は否定できないわけですし。そのときになったら、言葉での通過儀礼というものをご覧に入れられることもあるでしょうがね」
「露骨に誤魔化さないで下さい!」
「露骨でなければいいのですか?」
そういう問題じゃないです! と早苗は地団駄を踏む。文はまあまあと適当に宥めて、
「粗末なものとはいえ結界を破ってしまったことですし、先を急ぎましょうか」
と続けた。当然、早苗はますます憤慨する。
「ほらやっぱり誤魔化してる!」
「ああ、仰る通り、放っておくのも不用心ですかね。ちょっと失礼」
「わ、ちょ」
結界代わりに風を張り巡らせた文は、早苗の言葉を雑に受け流しながら図書室を出る。廊下にも僅かではあるが光が入っていた。それによって浮かぶ光景が大量の札だというのは正直ぞっとしないものがあるのだが、力を持たない――あるいは、持っていてもほんの小さなものである――と理解した今となっては不気味なだけの装飾としか映らない。
――大したこと、ないのよね。
本当に――と思って、文は思考を切り替える。
目指できる距離にまで近づいても反応を示さなかった死魂。あれらがどこから来たのか。興味の対象は、その一点に移り始めていた。外の世界で死んだのか。それにしては、数が多すぎる気がした。この建物が建っていたのは、仮にも八坂神奈子の加護がある土地だったのだ。そう短期間で悪いものが寄り集まってくるとも思えない。他にも、分からないことがある。封印を解いたことで何も起こらないのは何故だ。”封印”に力があって、それ故にあの死魂たちが動かなかったのだと仮定すれば、一部とはいえそれを壊したのだから、幽霊が流入してきてもいいはずだ。しかし出入りを禁ずるまでもなく、そんなことが起こる気配はなかった。
で、あれば。
まだ封印の力は生きているのか――?
「文さん?」
急に黙りこくった文を心配するように早苗が声を発するが、その声は文の耳に届けども、入ってくることはなかった。
建物の由来は?
死魂の由来は?
ここに妖怪は住んでいたのか?
早苗は気付いていたのか?
気付いていたのならば放置はすまい。ならばやはり、彼女が通わなくなったあとにこの状態になったのか? だとすれば――。
「文さんってば! もう!」
気分が高揚している。
風を起こしたことが引き金になったのだ。否――。
なってしまった、というべきなのか。
悪い、癖。
そんな思考を持つことすら、今の文はできていなかったのだけれど。
5.東風谷早苗
東風谷早苗は将来を嘱望される人間――否、現人神だった。
しかし、それはあくまでも身内でのことである。外界と触れ合うようになって――特に"イマジナリー・フレンド"が徐々に姿を消し始める幼稚園児の頃から――早苗は自己と世界とのギャップに悩むようになる。
すなわち。
神の実在とそれを認めない人々との狭間に彼女は置かれ、以来悩み続けることを余儀なくされたのだ。
実際に見え、触れられ、けれど他の人々は実在を信じてくれすらしない神を取るか。
そんな寂しがり屋な神様たちを認められない人間の側を取るか。
幼い早苗にとって、その二択は究極の選択だったといってもいい。両者を融和させようと、一時期は慣れぬ力を使って学校そのものに干渉したりもした。おかげでミステリースポットとして有名になりかけたこともあったけれど、それは早苗の望む方向とは違う融和の――融合の姿だった。
学校は、そんな早苗の空回りをいつも泰然と受け止めてくれる場所だった。
親族が無駄なことはおやめくださいと止めたって。
早苗が納得するまで抗い続けられたのは、いつも変わらない姿で学校がそこに在ったからだった。
廃校になることを知っていれば。
守矢神社に残された僅かな権力を頼んで反対運動をするか、あるいは幻想郷へ連れてくることを選んだかもしれないくらいには、その信頼は篤かったのだ。
からかわれたり、疎んじられたりした場所でもあったから、良いイメージが勝っているということは決してないのだが。
まあ――こうして校舎の中に入ってみるまでは、そうした思い入れもすっかり忘れてしまっていたのだけれど。それだけ、この一年が色濃かったということである。
とにかく。
また自分のような子どもがまかり間違って外の守矢に生まれたとしたなら、受け皿となるのは自分の力が注ぎ込まれたここのような場所であって欲しいと思ったから、早苗はどうにかしてここを元の環境へ――、
「風符「天狗道の開風」!」
その思考を遮るように、ごお、と烈風が室内を暴れ回り、轟音を残して窓から飛び出した。教室が半壊し、裂け目から満月が覗く。容赦がない――としか思えない――一撃。無論、文が部屋にいた”もや”を打ち払うために放った一撃だ。
「あ、文さん!」
大声を張り上げるが、どうも文の耳には届いていないらしい。彼女がこちらを一顧だにすることはなかった。凛とした後ろ姿からは感情が窺えなくて、早苗は気後れを新たに抱く。気付いていないのか、それとも意図してこちらを無視しているのか。図書室を出て以降、こういう場面が何度かあった。その度に同じような感情を抱き続け、ここへ来てそれがついに臨界点を超えたというわけだ。
怒っているのかもしれない。
ただ――、直截に怒っているのか、などとは訊けない。それで本当に気分を害されて放り出されては堪らない。契約は結んだといっても、なにせ初めてのケースなのでどこまで信用していいものか判断がつかないのである。
「文さんってば!」
「あや?」
半ば自棄になって呼ぶと、文はようやくこちらに顔を向けた。あかがね色の瞳がランタンに煌めく。反射的に怯みそうになる心をぐっと押し殺して、早苗は怒鳴った。
「あや、じゃないですよ! よりによって私の前でそんなにどんどん壊すことないじゃないですか!」
「と、言われましてもね。追い出すことが第一義なわけですから。私だって好きで壊しているわけではありませんよ? 壊さないでどうにかするというのは――あー、そう、面倒ですしね」
「め、面倒って! 面倒って言った!」
感情に任せて叫ぶ。そうしないと押し返されてしまいそうな気がしたからだ。同時に何だか文に見せたことのない自分が露呈してしまっている気もして、いくらか恥ずかしくなったのだけれど、取材の矛先がこちらに向いていないのをいいことに、早苗はその感情を封印してしまった。
やってやれないことはない――のだろう。多分。文にその程度の実力があることは、早苗も重々承知している。どうせ壊すことになる建物の事情を斟酌することが面倒だと言いたいのかもしれない。言葉でなく態度で語れば、文句も出づらいと思っているのか。他者との関係において、彼女は重きを置くべき場所というものを心得た上で動くことが多い。この場合、その重点が早苗ではないということなのだろうけれども、
――それでも。
もどかしいものはもどかしいのである。
早苗は文のことを、力量的にだけではなく人間関係においても信用している。信頼していると言い換えても構わない。だからこそ、外での文の行動に信憑性を感じてしまったり、こうして抗議の声を上げることができているのだ。これが見ず知らずの妖怪であったなら、もっと物怖じするか、あるいは調伏するといった行動に出ていただろう。後者の手段を取ることができないのも、彼我の実力が開いている、と早苗が思っていることに起因している。
当たり前ではあるのだけれど、文とは一年前、こちらに移ってからの付き合いである。取材を口実にいろいろと面倒を見てくれたので、いいヒトなんだろうなと思っているのだが、他人からの評価があまり芳しくないことも知っている。多少の二面性は誰しも持っているものだと思うので、あまり気にしてはいないのだけれども。口が減らないことでも有名であり、滅多なことでは自分のペースを崩さない。だから、こうして言葉を重ねることは無駄なのかもしれないけれど。
「す、少しは私の気持ちも考えて下さいよ」
苦し紛れに言ってみる。しかし、その言葉は軽く笑って受け流されてしまった。
「まあまあ。そんなことより」
「そんなことって――」
先述のようなイメージがあったにしても、大事な思い出であることは変わりないのだ。だからこそ、壊されることには抵抗があって――、
「死魂の発生している場所には、規則性があるようですね」
「……はあ」
あまりにも簡単にスルーされたので、早苗の言葉は行き場を失って口中を転がった。結果、ため息のような返答をしてしまう。文はええ、と頷いて、
「図書室、職員室、そしてこの部屋。共通点はなんだと思いますか?」
と言った。
――共通点?
そう言われても、文が行ったことのインパクトが強すぎて思い当たるフシがない。
現在地は二階の三年教室――つまり、校舎を入って左側の突き当たりにある階段を上ってすぐの教室である。一、二年の教室とは打って変わり、机や椅子が残されたままになっていた。運び出す手間を惜しんだのだろうか。その割には盛塩や札は貼り付けられていて、侵入したものに対する何らかの意志が感じられる。職員室の大きな机に関しては納得もできるのだけれど。妙にアンバランスさを覚えてしまう。強いて共通する点を挙げるならその点くらいで、他に何かあったかと言われても何も思い浮かばないのが現状だ。
早苗が率直にそう言うと、
「分かりませんか? ……そうですか。どうしましょうね、言わないでおくというのも面白そうですが」
などと、文はさも楽しげに言う。入ることを渋っていた――少なくとも早苗はそう思っている――ときとは大違いだ。何か変なスイッチを押してしまったらしいが、こちらも早苗には思い当たるフシがないのだった。何だか自分がとんでもなく間抜けのような気がして凹んでくる。
「あや、そう気落ちしないで下さいな」
文は心なしか慌てたようにそう言って、早苗に向かって解説をし始めた。
「共通点、三部屋におけるそれは、"生活の記憶"です」
「……なんですか、それ」
「机、本などまあなんでもいいのですが、ともかく人がいた往時の様子が残っている場所に"もや"は多く巣食っているようなのです」
「私が言ったのと同じようなものじゃないですか。モノが残っていることが共通点なんでしょう? それが一体、何だっていうんです」
「ですから」
文はじれったそうにカンカンと足を踏み鳴らして、
「重要なのはそこではないのですよ。使っていた者の痕跡を多く残している部屋であること。すなわち、建物自体の"記憶"が死魂の根源となっている。それが共通点であり重要なことなのです」
と言った。建物の記憶――? と早苗は懐疑的な目を文に向ける。
「それがどうやって死ぬっていうんです? モノなら朽ちて腐るのも分かりますけど、記憶なんて形のないもの――」
「モノの持つ記憶というのは」
付喪神になる絶対条件なのです、と文は早苗の言葉を遮った。
「はあ……?」
「つまり、外の世界で付喪神となり、なったとしても卑小であるが故にすぐさま死に至ってしまい、そしてその度に幻想の度合いを強めた建物自体が、最終的に幻想郷に入ってしまったのではないかと思うのです」
「付喪神って一つのモノから一つしか生まれないんじゃ」
「付喪神は人間で言うところの幽霊のようなものです。一つのものから複数が生まれることも往々にしてあるのですよ」
前例はいくつか存在しているのだという。使われなくなった建物は言うに及ばず、乗り物や、挙げ句の果てには土地も幻想郷へ来ることがあったのだと。
「図書室の封印を壊したときに、外から幽霊が入り込まなかったところを見たでしょう? 私も一応、封をし直しはしましたが、それ以前の問題として、ね」
「付喪神であることとどういう関連があるんです?」
「生命体の中に生命体は入り込めないということですよ。生命とは死を内包する存在です。食事などはその最たる例でしょうか。死ねば複数の幽霊として分裂することはありますが、複数の幽霊が融合することで一個の巨大な幽霊になる、という話はありません。”生命の重ね合わせ”は此岸において、原理的に存在し得ないのです。それは彼岸における最大の秘術。融合させることで新たな生命を生み出すというのが、彼らの言う輪廻転生のやり方なのですから」
「……じゃあ、どうして私たちは入れているんですか」
「その辺りの関係性はまた別の難しさを孕んでいますね。共生という生存形態があるでしょう? あれは生命と生命が寄り添いあって生きるものですし、重ね合わせとは若干異なった形態の生き方ではありますが、似ているといえば似ていますかね」
「はあ……」
「共生という形態が分かりにくいのでしたら、我々をはっきり異物と断定することもいいでしょう。その場合、何らかの免疫反応が見られてもおかしくはないと思うのですが――それにしてはこの建物、静かですから、異物とは看做されていないのかもしれないですね」
……よく、分からない。
なんだか文が物理か数学の教師のように見えてきた。
「死は特別な場合を除いて不可逆なものです。そう――幻想郷に入ることと同じように。この建物の記憶が死に逝くということは、建物自体が付喪神となり始めていることに同義です。形を持たぬが故に死ねない、ということはありえません。早苗さんの記憶だって、日夜”死んで”いるでしょう? それらは微生物と同じように食物連鎖の最下層に位置する幽霊として辺りを彷徨っているわけです。ぷらんくとん、とか言いましたっけ。緑物なんかが近いですかね。仙人の喰う"霞"という奴は、元々そうしてできているものでして。それを食物連鎖の上位に位置する我々が食らって身の内に取り込み、力となすわけですね」
記憶という奴が気質的生命なのか物質的生命なのかを論じなければこの辺りは決着を見ることができないかもしれませんが、と文は言う。
「死魂化をしているところから見れば、やはり気質的生命なのでしょうかねえ」
「妖怪と同じような――ですか」
「はい。ま、ことこの建物の記憶ということに関しては、貴女のほうが私よりも詳しいのではないかと思われますがね」
「は?」
文は意味深な表情で早苗を見た。
――まさか。
「……私たち守矢が幻想郷へ来たことが関係しているとでも言うんですか」
「まるでないとも言い切れないのです。これだけの存在を幻想とするには、よほど強い"縁"が必要ですからね。守矢神社という大規模な幻想化が行われた土地でなければ、普通に朽ちていったのではないかと思いますよ。でなければ、都の建物などはいくらでも付喪神となっているでしょうし。早苗さん、ここに来ていた頃に何かしたんじゃないですか?」
思い起こせば。
身に覚えがあるようなないような。
「水泳の授業が嫌だから雨を降らせてみたりとか、長距離走が嫌で雨を降らせてみたりとか……」
「……運動嫌いだったのですか?」
「……まあその、はい……」
微妙に呆れたような視線が頬に痛い。
「そ、それが関係あるんです?」
「そういう小事が積み重なって、あるいはこちら側に天秤が傾いていたのかもしれませんねえ。だからこそ、記憶の死魂化が――ひいてはこの建物の付喪神化が起こり始めているのではないかと。あくまで仮説ですがね」
言いながら、文は教室を出ようとする。
そんな。
それでは――。
「私たち守矢がここに来たことで、学校が引きずられるようにして越境し、そしてここでまた付喪神となり始めている――?」
「有り体に言えばそうなりますか」
何となく間延びしたような声で文が言う。
否。
これは。
ショックで聴覚がおかしくなっているのだ、と早苗は気付く。きぃん、と耳鳴りまで聞こえ始める。ぐらぐらと平衡感覚が失われているような錯覚に陥る。眩暈。有り体に言えばそうなりますか。リフレイン。私たちのせいで、故郷の学校が失われたのだ。違う。私が分別のない力の使い方をしたから、そうなってしまった。帰せない。不可逆の結界。二度とこの校舎が向こう側の人間を迎え入れることはない。私のせいだ。私が悪いんだ。私の――私さえ、こんな力を持たずにいれば――?
「深く考えないで下さい、と言っても無理でしょうが」
背中越しに文が言った。はっと早苗は我に返る。
「これはまだ仮説の段階です。証明することができなければ、貴女が責任を感じることはありませんよ」
「……はい」
そう言われても消沈することを止められはしなかった。気持ちを切り替えられないまま、早苗は文の後を追う。
「仮に貴女の責任だったとしても、我々のように感謝する者だっているわけですし」
慰めになっていない言葉を文が口にする。流石に自分でも言っておいてまずいと思ったのか、文は取り繕うように言葉を続ける。
「きちんと供養してやれば、次は何がしかの命としてこの世界に生まれ出ずるかもしれませんよ」
「……あり得るんですか?」
「私のように長く生きていれば、信じ難いことなど山のように目にするものです」
貴女だって長く生きる予定があるんでしょうに――と、文が言ったときだった。
またしてもランタンが明滅を始めて、
「あや」
が、今度は何事もなかったようにあっさりと元に戻った。目線の高さまで掲げたそれを、早苗はちょいちょいと突ついてみて、
「……何なんでしょうね」
「先程の部屋に入るときには反応しませんでしたから、中のモノに反応しているわけではないのでしょうが……。単純に調子が悪いだけなのでは?」
言いながら、文は四年のプレートが下げられた教室を開放する。
中は。
ただ、がらんとした空間が広がるばかりだ。机も椅子も何もない。黒板の落書きだけが虚しく残っている。記憶というのならあれも含まれるような気がするのだが、その周辺に死魂がいる様子はなかった。一過性の思い出――記憶に関しては付喪神の条件を満たしていないだけなのだろうか。記憶が抜け出してプランクトンと同じ位置に属する、という先達ての説明と矛盾しているような気もするのだが。
もはや中を覗き見ただけで、文はとっとと次の教室に移りかけている。文さん。声を掛けると、
「死んでいないものがいるとすれば、そちらに話を聞いたほうが早いでしょう?」
と言う。それはそうなのかもしれないが、確証もなく歩き続けるだけで生者に巡り会えると考えているのだろうか?
すっかり暗くなった廊下を、足音が反響する。
校舎中央の階段前を横切り、木板の間から薄く差し込む月光を見ながら――実際、足元を照らすには全く足りていない。ランタンがあってよかった――五年の教室へと向かう。文の歩調はここへ入ったときと比べてずいぶん早くなっている。鳴り響く足音を隠そうともしていない。熊よけの鈴みたいなものなのかな、と考えて早苗は一人、何となく納得した。強い妖怪であればあるほど、直接の戦いは避ける傾向にある――のだったか。
供養。
騒がしくすることで、死者の魂を弔おうとする文化などもあるのだったか。何かの漫画で麻雀をしている場面があったのを思い出す。ならばこれは、文なりの――幻想郷なりの葬送のやり方なのかもしれない。弾幕で以て迎えると言っていた先頃の説明とも、また矛盾してしまうのだけれども。
――案外、文さんってば何も考えずに喋ってるんじゃないかしら。
がらり。
思う間に、五年の教室が開けられた。目を細めて中を一瞥した文は、早くも手元に風を作り始めている。その横合いから強引にランタンを突っ込んで観察すると、整然と並べられた机の間に数個の黒いもやがいるのが見えて、
「風符「天狗道の開風」!」
瞬間、鼻先を掠めるようにして大風が外壁を抉り抜いた。ぼんやりと提灯持ちをしていた早苗は、度肝を抜かれて尻餅をつきそうになるのをこらえて、三歩ばかり後ずさった。
裂傷のように屋根が割れ砕けて。
月光が。
強く見える。
「あ――危ないじゃないですか! やるんならやるって言って下さい!」
「加減はしていましたから大丈夫です。急に覗き込んだのはどっちですか」
「そういう問題じゃ――」
怒りをぶつけようとして、止めた。ようやく、いつだか誰かに言われた言葉を思い出す。文は取材が絡んだりすると性格が変わるというか、周囲が見えなくなることがあるのだと。
――さっきからアレなのは取材スイッチが入ったからだったのかなあ。
ぼんやりとそんなことを思う間に、文はすたすたと次の教室に向かっている。何にせよ、これでまた一つ仮説が証明されてしまったのだが、着いて行くことに必死なため、それに思い至ることもなく五年の教室を後にする。
文は、最後の戸を前に心持ち引き締まった表情をしていた。隣に並び立つと、
「開けますよ」
そう言って小さく呼吸をした。緊張、しているのだろうか。そんなはずはない――か?
「気配はしない――ですね」
「動くモノがないとしても、何もいないとは限りませんよ」
「セオリー通りなら、この教室の中にボスとかいたりするんですよね」
「縁起でもないことを。私としてはその方が都合よいのですがね」
行きます。
改めて言うと。
文は白い指にぐっと力を込めて。
引いた。
がらり。
間髪入れずにランタンを差し入れる。
そこに死魂はいなかった。
代わりにいたのは、
――生徒?
瞬間、早苗はそう思った。古めかしい感じの学生服――学ランを着て、机にきちんと座っていたからだ。微かな違和感を覚えたのは、彼が一人だったためなのか。否。そうではない。頭、というより服を着ても隠れていない部分が不定形に揺れている。服装から直感的に男性だと思ったのだが、確証が持てない。そのせいで不気味な印象が拭い取れないのだ。
「死魂化が始まっているのでしょう」
細い声で文は言って、つかつかと室内へ入っていく。
危なくないんですか――そう問うことも忘れて、早苗は文の後姿を目で追った。免疫反応。それが作り出した人形、なのだろうか? 考察は薄ぼんやりした尻尾を残して去ってしまった。人影はかろうじて原型を留めている顔をぼんやりとこちらへ向けている。光に照らされた、肌色。けれど顔貌は判別できない。不思議な――不気味な感覚だった。
「私は鴉天狗の射命丸文と申します。二、三訊きたいことがあるのですが、宜しいでしょうか?」
問いかけに、相手は反応を示さない。
「貴方は――"何"です?」
それを気にする風もなく、文は歩と問いかけを重ねていく。
けれど。
こちらに気付いていないのか、相手はやはり何も反応しない。言葉での交渉。それを見せてくれようとしているのか。だったら、言葉が通じる相手だと文は判断したということなのか?
――こっちに気付いてないはずないと思うんだけど。
思い。
近付いて行く文を追って、早苗が敷居をまたいだ、
そのとき。
怨、と声のようなものを"もや"が発した。
――何?
考える間もなく、
「早苗さん!」
鋭い声が文から飛んで、
ぱりん。
「きゃっ!」
やけに軽い音を発してランタンが割れた。
真っ暗だ。
眼前に風を感じた。
揉みあう、音。
動かなかったのはこちらを油断させるためだったのか!
――やっぱり。
私たちを排除しようとしているのか。免疫反応。
息遣いが聞こえそうな場所で、文が相手を抑えている。早く逃げて。言われるが、他人事のように体が動かない。
まただ。
鳥目。
断片的なフレーズ。
もしかして、文には相手が満足に見えていない――?
「ぐっ」
くぐもった声が聞こえた。文が危ない。そう思った刹那、体の硬直は解けていた。
「文さん!」
叫ぶと同時にスペルカードを発動。
開海「海が割れる日」。
ざざ、ざ。
ざ、ざざ。
潮騒の錯覚。満ちた空気の粒子一つ一つを知覚。広がる空間を海と見立てる。教室内の物体は、海底に沈むサンゴの如く。思いの欠片は舞い踊る魚。空気を水と置換して。早苗はそれを割り開く。
砕けろ。
開け。
この磯は、私たちが泳ぐにはあまりに狭い――!
押し開く弾幕は引き潮のように速やかだった。振り下ろした右腕に従い、校舎が音を立てて破砕する。
月光。
目と鼻の先に迫った、二つの人影。
やってしまった、という感情を覚える間もなく、早苗の身体は勝手に動いた。
否。
動かされた。
人影が一気に遠ざかってゆく。
文が腹部を抱えて飛んでいる。
「一旦、退きます!」
声。
浮遊感。
ほぼ同時に訪れる感覚。
満月が空に浮かんでいる。
早苗と文は、校舎から外へ飛び出した。
◆
「大丈夫でしたか、早苗さん」
「あれくらいの高さ、飛んだうちに入りませんよ」
早苗は肩で息をしながら、せいぜい強がってみせた。昇降口を覆うポーチの下で――要するに学校へ入る前に座っていた場所だ――、二人は並んで座っていた。"彼"は追ってくる気配を見せなかった。文の推測によると、どうも死魂化と同時に地縛霊の属性も獲得しつつあり、あの場所を動くことができないのだろうということだった。
「単純に妖力が枯渇しているだけ、という可能性も考えられますが。重要なのは動けないことでしょうし、無視しておきましょう」
「そ、そんなのでいいんですか」
「不覚を取らなければ大した相手ではないでしょう。――おそらく、ですがね」
無縁塚の中であっても、満月のお陰で夕方と変わらないか、それ以上に明るくなっている。追われたとしても探査の術を幾重にもかけてあるし、この明るさならば見落とすこともないだろう。
手当てをしながら文はこれまでの情報をまとめ、推測をしているようだ。どうやら文は上腕の辺りを怪我しているらしかった。見せて下さいと言ってみたものの、自分で手当できますの一点張りで、傷の様子は分からなかったのだが。
――ああもう。
分からないこと、もどかしいことだらけだ。
「あれを封じていた結界だったんでしょうか」
「だとしたら、外へ出てこない説明が付きませんし、あんな脆弱な結界――結界と呼ぶこともできない代物でしたが――を張った意味が分かりませんよ。順当に考えれば、我々を迎え撃つための抗体――存在でしょうね」
「ですよねえ……」
早苗は深くため息をつく。
しゅっ、と衣擦れの音をさせて包帯を巻き終えた文が、こちらを向いた。ようやく取材の昂揚から"戻ってきた"のだろうか。
「他の可能性として考えられるのは、あれが付喪神の本体であるか、全くの第三者であるかの二つです」
「二つ目って凄く広いんじゃ……」
「そうでもありません。外にいて、かつ現在まで生存していたことになるのですから、それなりに力を持った神霊か妖怪といったところでしょう。我々にとってはこの方が嬉しくない結論です」
信仰されていたのかもしれませんねと文は言う。
――信仰。
「ランタンが割れたのも、おそらくはあの咆哮に妖力を含ませていたからでしょうしね」
「だとしたら、追いかけてこないのはやっぱりさっきので最後の力を使い果たしたから、とかなんですかね」
「それもまた可能性の一つでしょう。といっても力の大きなものが死魂化を始めて尚、力を隠せるとは思えないですし、後者の可能性は決して高くないと思いますがね――さて」
出し抜けに文は立ち上がった。
見上げながら早苗は訊く。
「さて、ってどうする気なんですか」
「それはまあ、あれをどうにかしないといけませんから。どうにかしに行くのですよ?」
――ど、
「どうにかって! 文さんは怪我させられたんでしょう!? 山の人を連れてきて、大勢でかかった方が」
「私にそんな権限はありませんし」
そんなことをすれば本当にあの方は殺されるかもしれないでしょう、と文は言った。
「て、敵じゃないんですか! 殺されることだって自業自得――」
「間違えないで下さい、早苗さん。あの方は"取材対象"です。それもあなた方守矢に付随する形で現れた、大きな存在」
「しゅ、って」
あれ?
こ――これは。
「文さん?」
「私がスクープを報じられることなんて、滅多にあるものではありませんしねえ。ふふ、ふふふ」
駄目だ。まだ"戻って"いなかったのだ!
「さあ行きますよ早苗さん!」
文は今にも飛ぼうとしている。
――止めなきゃ。
理由もなく早苗はそう判断して、
「待って下さい!」
ぐっと引っ張ると、文は面白いようにバランスを崩した。
「何をするのです!」
そう聞くことのない文の大声に早苗はびくついたが、文は気付いた様子もなく、
「私の邪魔をしようというのなら、何人たりとも許す気はありませんよ!」
――私の。
私のせいだ、と早苗はまた思った。文をこの件に深入りさせたばかりか、怪我までさせた挙句に、まだ離れることができない"呪縛"がかかっている。最後の一つは文自身の問題だが、前者二つは間違いなく早苗のせいだ。
おまけに、気付いたことが一つある。
「……文さん、もしかして怪我のせいで力が入らなくなったりしてないですか」
そうでもなければ不意を突いたくらいで姿勢を崩す文ではないからだ。
「あや」
「……図星なんですね」
「確かに瘴気へ手を突っ込んだような感覚はありましたが」
言い訳じみたことを言って、文は手を振りほどこうとする。その勢いを利用して、早苗はぐんと立ち上がった。
「協力します」
「――貴女が?」
文は鼻で笑った。
「貴女に何ができるというのです? これから私がしようとしているのは、弾幕による会話です。ことによると――いえ、確実に校舎を破壊することになるでしょう。貴女にそれができますか?」
「それ、は」
「できないのでしょう?」
「で、できるって言ったらどうするんです」
「できるのならば援護に入ってもらってあれを抑えてもらいます。聞きたいことがあるのでね」
「聞かれることを望んでいないかもしれないじゃないですか」
「私を誰だと思っているのです。新聞記者という生き物は因果なものでしてね、それと分かっていても危険に飛び込まずにはいられない性分なのですよ」
「だからって、無縁塚なんて場所に現れて安らかに眠りたがっているかもしれないヒトを無理矢理叩こうだなんて――」
「無縁塚に現れたということは、建物それ自体が付喪神として人格を獲得した末に自殺を選択したからかもしれないのですよ? 貴女にそれを受け止めるだけの覚悟はありますか? 自らが関わった者の自害を止めることは、良いことばかりではないのです。死なせてやった方が良かったのではないか。死なせることこそ幸福なのではないか。せめて安らかな眠りを与えることが最善ではないのか。無理に命長らえた者の末路をあなたは知っているのですか? 安易な選択肢を選んだ故に、恨まれ、憎まれ、道連れにされるかもしれないのですよ。ましてやあなたは既に向こう側では忘れられた存在。これを戻せなかったからと言って、誰に責められるわけでもないのです。これほどの条件が整っていてなお、"彼"の自害を止めようというのですか? 私は違う。私はあれを殺してみせる。あれの安らかなるを願うために殺すのです。こんな場所では死魂化が早まるばかりで治療することなどできないのですから。あなたは私の所業を看過できるというのですか」
怒涛のように文は畳み掛けてくる。
――ああもう。
埒が。
明かない。
……多分。
そのとき、早苗はキレたのだ。そこまで言われる筋合いはないとか、今まで愛想笑いで受け流していたことが、我慢できなくなって。
何が何だか分からなくなって。
後になって思い返せば、子供っぽくて嫌になるのだけれども。
「……かりました」
「だったらいいのです。さっさと帰って神様の食事でも――」
「だったら! だったらせめて私の手で送ってやります!」
「あや?」
「譲ることができないのなら、弾幕を以て語らうべしと文さんが教えてくれたんです!」
「……は?」
「私は――いえ、私が送ります。私が校舎ごと全部もろとも吹き飛ばして、あれが二度と変な気を起こさないようにして見せます!」
筒袖から大幣を取り出す。札を数枚、まとめて文の方へ投げつける。文は慌てて距離をとる。
「……どういうつもりだ、東風谷早苗。吹き飛ばす? 貴女が? ならば私たちの利害は一致して――」
「私は送ると言いました! 文さんたちが資材の調達をすることもできないくらい、完膚なきまでに吹き飛ばして――そして、”あのひと”に来世を与えてあげるんです!」
はっ、と睨みつけてくる目は、けれどまだ不可解そうに揺れている。しかし早苗はその隙をチャンスと見て、更に両の手を打ち鳴らした。神奈子の神力をプールしている”総体”にアクセス。神奈子の許可を得ていないので使える力は限られているが、この場合は私闘を覚られないことの方が優先だ。風使いとしての文の実力は分かっているが、それ以上に風を扱うことのできる者として、相性が決して悪い相手ではないということも、本能的に早苗は悟っていた。上手くすれば相打ちか、もしくは倒すことすら可能だろうと頭のどこかが計算して、
「五枚!」
宣言した早苗は、戦うために頭を切り替えていた。半端な気持ちで勝ちを拾えるような"敵"ではないことも確かなのだ。少なくとも、これまで戦ったことのある相手の中でも、最上位の部類に入る相手なのだから。
「四枚!」
束の間の沈黙を破り、文はそう宣言した。鞄から葉団扇を取り出し、臨戦体制に入る。あかがね色の瞳が、ぎんとこちらを睨み据える。本当に勝てるのか――そう思わせんばかりの、殺気。
「風符「天狗道の開風!」
わずかに怯んだ、その隙に。
大きく振り下ろされた団扇の軌道に従い、風が周囲を覆い尽くす。瞬間、早苗は文の姿を見失う。まずい。考える間もなく、
準備「サモンタケミナカタ」。
カウンター気味に放った弾幕が、前進していた文を押し留め、無理矢理に退かせた。星九字を模した、それ自体は威力に欠けるが、牽制としては良くできた避けにくい弾幕。危なかった。思う間もなく、文はこちらに風を打ち付けて竦ませると、一気に上へと飛んだ。早苗も慌てて後を追うが、機を逸した感は否めない。弾幕戦は基本的に上を取った方が有利だ。先に仕掛けたのだから、先手を打って上に出るべきだったのに。
上空でにや、と口元を曲げた文は、
「岐符「天の八衢」!」
宣言して、また団扇を振る。木の葉状の弾幕が文を中心に散り、追いすがる早苗を迎撃するように、不規則な軌道を描きながら落下を始める。避けるべきかを迷った早苗は、考えた一瞬が仇となって、もはやその隙が残されていないことを悟る。
怯む暇も与えてもらえず、準備していたスペルを緊急でキャンセル。上方の弾幕を排除する手段は、と考えてしまうところが早苗の戦い慣れしていないところなのだが、それを神の力というデタラメでカバーして、早苗はただ一心に大幣を振る。
蛇符「神代大蛇」。
口に出して宣言をする暇すら与えられない。上方に――というよりも周辺一帯に風を発生させるスペルで、こちらも迎撃の体勢を整える。神奈子の力を借りて発現できるように開発中の技だ。体内神力の消耗はやや激しいが止むを得まい。ここからしばらくは"総体"の力を使わず自分の力で何とかする。決めて、強い風を起こす。
大幣が振られる方向に従って。
文の弾幕が――消える。
消える。
弾幕の狭間に文の姿を垣間見ながら。
振るう。
消える。
振るう。
消え――、
かき消えた。
文の姿が。
大幣を一振りする間に――、
――っ。
見えた、と思った刹那。
強い衝撃を肩に受けた。ぁ、とかすかに吐息のような声をこぼして、早苗は落ちる。落ちる。姿勢を立て直すには高度が足りない。
ままよ。思い切って反対側の腕を出す。着地とは言えないような姿を晒して、早苗は泥臭く落下した。両の腕に重いダメージ。くそ。口中で悪罵を噛み殺す。弾に気を取られすぎて、蹴りの一撃を受けたのだ。判断したのは赤い一本の跡を見てからのこと。やはり判断が遅すぎる。実戦慣れしていないことが、これほどの差になって現れるとは。自ら起こした土煙の中、やみくもに御札を投げる。少しは時間を稼ぎたい。そんな早苗の考えをあざ笑うように、
「まだ続けますか?」
上空。
降り仰ぐと、文が悠然とした態度でこちらを見下ろしていた。
「ぎりぎりで当たる場所をずらしましたね? 関節を狙ったつもりだったのですが」
「……読めるんですよ、風の流れは。ある程度」
「ほう、面白い。ならば風を超える速さで攻めるとしましょうか」
追撃することすら必要ないと言わんばかりの態度。宣言は四枚。使わせたのは辛うじて二枚。ここから巻き返すのは可能か? 大丈夫。五枚と四枚の差をそこで見せてやればいい。二枚を三枚使って耐え切ればこちらの勝ちなのだから。
「やって見せて下さいよ! 風を超えるっていうのがどんなものなのかをね!」
自分と文の両方に言い聞かせるように、早苗は叫んだ。
「結構」
言った文の姿がブレる。
「幻想風靡」
ドップラー効果を伴って、遠ざかる方向に文の声が流れて行く。
立て続けの弾幕でこちらを圧倒するように仕掛けてくる。嫌な時間だが、上下――攻守が固定された現在の状況では如何ともし難い。
動け。
高速で動く文を、人間の目で捉えることは不可能だ。そこから放たれる弾幕を、とにかく避け続けることしかできない。再度地面を蹴って、空へ。
動く。
弾へ突っ込まない程度の距離――地面すれすれをスライドするように飛行しながら、左右の動きをメインに避ける。
動く。
時に地面を蹴り、時に弾幕を風でずらし、強引に弾の間に体をねじ込んで行く。
動く。
どうしても避けられそうにない弾にはチャフ代わりに札をばら撒き、簡易な結界を構築。
動く。
スペルカードを使おうという思考に到達することができない。耐えるしかない時間がジリジリと流れて行く。
動く。
しゃん、しゃん、と弾が地面に落ちて砕ける音を聞きながら。
動く。
動く。
動く。
動く――。
しゃん。
最後の弾が、地面に落ちた。
どうにか捌き切ったことを悟ったのは、それから数秒後のことで。文の姿をどうにか捉えられたのは、さらにその後、文が言葉を発してからのことだった。
「よく避けましたね」
「……それは……どうも」
「残りは一枚。そちらは三枚。ふむ。ここらで決着をつけなければまずいですかねえ」
余裕ありげに文は言って、葉団扇で口元を覆い隠す。
「今なら、まだ降参を聞き入れることもできますが?」
「……っ、冗談! 決めたんです、私は。私が私の手で送ってあげること――それ以上の葬送はないと思うから。相手がたとえ文さんだって、いいえ、文さんたち山の皆さんを全て敵に回したとしても、私は私の意思を貫くと!」
会話のうちに回復したわずかな体力を使って、ぱん、と手を打ち鳴らす。今日は妙に消耗が早い。自分だけの力を使っているにしても、だ。仕方なく神力の総体へ接続を再開。ホールドしていた出力系を解放し、一気に勝負を掛けるべく、早苗は急上昇を開始する。
文の姿が肉薄する。彼女は余裕の表情を崩していない。何をされても対応できると舐められているのか。その反応が苛立たしい。絶対、勝ってやる!
「決めさせてもらいます!」
叫ぶ。
タケミナカタは呼んである。
あとはその力を解放するだけだ。
文を倒すための切り札。既に何度となく見られている技だから、対策はされているかもしれないが――というか対策されなくても避けられやすい大味なスペルだということに最近になってようやく気付いた――、歯牙にもかけられていない可能性を考慮すれば勝ちを拾える確率は少なくないはず。力技なら風使いの格が物をいう。押し切れるはずだ。否、押し切れなければジリ貧で負けてしまうに違いない。やはり正面からぶつかり合うしかないのだ!
思って。
文がそう読んでいるだろうと、早苗はそう――読んだ。
だから。
早苗はあえてその道を捨てた。
「奇跡「客星の明るすぎる夜!」
振るった大幣の先端で光弾が弾ける。本来は移動しながら発動するタイプのスペルではない。発射した光線に追いつかんばかりのスピードで、飛ぶ。目が眩む。視界と引き換えに最後の吶喊。これでダメなら打つ手はない。それで終わりにされてしまえば、もはやと諦めていた。潰れた目は、文を捉えられずにいた。
ゆえに。
正確に何が起きたか、というのを早苗は見ていない。
「突風「猿田彦の先導」!」
焦ったような、声。生きていた耳はそれだけを聞いていて。
止め切れなかっただけなのか。それとも、真っ向勝負ならば絶対の自信があったのか。
勝負の明暗を分けたのは、読み合いを制した早苗の判断力だったわけではない。捨て鉢になった己を自覚していたのだ。判断も何もあったものではないのだから。それを分けたのは、文が負っていた小さな瑕疵か、あるいは捨て鉢になったが故の覚悟の産物だったのか。
理由は知れない。だが起きた現象はひどく単純明快なそれだった。狙いすました一撃を放つスペルと、突進するタイプのスペルが真っ向からぶつかり合った。ただそれだけのことだった。
すなわち。
光弾と文の衝突だ。
激突音。
そして。
光を取り戻した早苗の目が捉えたのは。
何もない夜空。
一拍遅れて、下方から大きな衝撃音が届く。
「……え、あ」
慌てて振り向いた早苗は、見た。校舎の壁に突っ込んで伸びている文を。木製の壁には人間大のクレーターができている。立ち込める土煙の中心になって見えにくいけれど、再び立ち上がってくる気配はない。脊髄反射で無事を確認しに行きたくなる心を抑えて、早苗はプールしていた神力を集中し直す。まさかとは思うがこちらを油断させるための策なんじゃないか。ついつい疑心暗鬼が生じてしまう。一応、宣言した枚数四枚は凌ぎ切ったのでこちらの勝ちといえば勝ちなのだろが、何となく釈然としない。不完全燃焼。まだこちらは二枚も残っているのに。
用心しながら近づくが、文は一切動く気配を見せなかった。
「勝っ、た……の?」
肩で荒い息をしながら、呆然と呟く。こんなにあっさりした幕切れは予想だにしていなかった――というか、文があれほど真っ直ぐに突っ込んでくるような戦術を選択するとはさすがに思っていなかったので――まぐれ勝ちというのもはばかられるような勝ち方だ。両肩がズキズキと痛みを伝えてくる。勝利の余韻もへったくれもあったものではない。
――当たりどころが悪かった……とか?
とりあえずこの場から離さないと。ぼんやりとそう思考する。校舎ごと全部吹き飛ばしてやる、なんて息巻いてはみたけれど、こんな状態の文をどうこうしようとまで思っていたわけではない。
着地して文を抱きかかえる。
軽い。
羽のように――とまでは行かないだろうが、同性として少々羨ましく思ってしまうくらいには。というか、これは鞄の重さの方が勝っているんじゃないのか。微妙な嫉妬は置いておいて、これからしようとしていることを前に、少々大きめの距離をとっておく。卒塔婆の群れに埋もれる形になって、縁起でもない格好になってしまったのはご愛嬌だ。
まあ、それはそれとして。
どうやって葬送しようかと考えて、早苗は自分の手中にあるものを見やった。
……折れた、大幣。
ぶつけたのか、力を注ぎすぎたのかは知れない。ともかくこれがなければ普段の半分も力を出せはしない。唸って唸って――そして、文が握っているものに目が行った。
葉団扇。
いや――確かに、増幅器としては申し分のないものではあるが。
――か、借りちゃおっかなー。
「……いやいやいや、魔理沙さんじゃないんだし」
しかし選択肢がそうないことに気付く。これを借りないなら一旦帰るかすることになるけれど、その間に文は目を覚ましてしまうだろう。そうなったが最後、早苗の預かり知らぬところでさっさと解体されてしまうかもしれない。
仕方ない。
そう、言い訳をして。
文の手から、葉団扇をそっと抜き取る。
「ちゃんと返しますからね、っと――」
重厚感のあるそれを触らせてもらったことは、考えてみれば一度もなくて、こんなときなのに緊張してしまう。まあ勝ったんだから、と思いながら、早苗はプールしていた神力を今度こそ開放にかかる。
あまりこのあとのことを考えていたわけではない。これからどうするかなんて、考えている暇がなかったことも事実だが、それでも何とか文を運んでいる間に朧げなビジョンは浮かびかけていた。場所にふさわしく、ただ送ってやることが良かろうと思う。廃材を利用したがっている文たちには悪いが、そうさせたくない自分の理由を優先させるべくして弾幕戦を挑み、その結果として勝ちを拾った。だから文句は出ないだろう、と無理矢理な理屈をくっつけてみた。
あまり考えていなかったけれど。
葬送をするのなら。
風祝らしく。
"風葬"をしてやろうと思うのだ。
ぱん。
葉団扇を持ったまま器用に両手を打ち合わせ、神力の総体へ接続を再開。結局、準備したタケミナカタの力を使わずに済んだのは幸いだった。何故だか自分の力を使い果たしてしまっているので、これを使って風葬を行おう。
校舎を見渡す。昇降口前からの大雑把な見立てだが、横の差し渡しが五十メートルといったところだろうか。まあ少々大きく見積もっておけば間違いはないだろう。見誤って巻き込まれるようなヘマをやらかさなければいいだけの話だ。
……とはいえ、護身のために自分の前方を中心とした楔形の結界を敷いておく。何しろ触媒が触媒なので、うまく扱えるかどうかが分からない。万一のことも考えて後方の文まで守れるようにしておきたい。
付喪神の幸福。
モノの幸福。
それはきちんと用途に沿って使い潰されるか、針供養のように使い手の手で送り出されることだと聞いたから。ふう、と息を吐き心を落ち着ける。
――まあ、私が今更何を、って思われるかもしれませんけど。
葉団扇を腰だめに構える。さあ、始めよう。刀を鞘から抜き放つような動作で、左腰から右に一閃。軌跡が月夜に浮き上がる。早九字をアレンジしたそれは、
臨――!
東風谷に伝わる、風の秘術。九字を切りながら横縦に空へと印字し、結界をなし、対象とする範囲に大風を巻き起こす儀式。通常は大幣を刀と見立てて行うそれだが、今日は天狗の葉団扇だ。故にいくらか心配もしていたのだけれど、
兵――!
ごう、と風が唸る。この分なら、心配は無用だったようだ。申し分のない――というより多少過剰な――風が吹き荒れ、校舎の波板をわななかせる。神力を徐々に、蛇口を捻るように葉団扇へ、
闘――!
注ぎ込む。どんどん力を吸収されて行く感覚は、大幣では味わったことのないそれだ。怖くもあり、また面白くもあると素直にそう感じる。どうやら天狗の葉団扇と風神の巫女――風祝とは、
者――!
抜群に相性が良いらしい。神奈子の力を借り受けていないにも関わらず――風圧は今まで早苗が体験したどんな風よりも強い。
一画を刻むごとに、早苗の髪が、袖が、裾がはためく。不気味な、地鳴りのような音が響きはじめる。漂っていた幽霊が巻き込まれまいと逃げていく。古木の枝が揺れている。荒れた無縁塚の土を巻き上げて、風威はさらに強くなる。
そして、
皆――!
校舎に変化が表れる。一番耳障りな音を立てているのは窓だ。ガラスがまだ保っているのが不思議なくらい、激しい音を立てている。
みしり――背筋の寒くなるような音。校舎全体が揺れ始めている。
陣――!
――まだだ。
早苗はきっ、と目に力を込める。
文はそれと推測していなかったが、校舎には鉄筋が入っていたはず。この程度では壊れない。
裂――!
鈍い音を立てて庇が天高く舞い上がる。木材が風に乗り旋回する。
風は竜巻と呼ぶに相応しい大きさに成長している。強烈な上昇気流が学び舎を破壊せんと牙を剥く。砂埃に隠れて校舎の姿は捉えづらくなっている。それでも、まだ壁と柱は残っている。撓み、揺れてはいても壊れてはいない。
当たり前だ。
地域の避難所にも指定されていた場所だ。
そうやすやすと壊れてたまるものか。
壊れてほしいのか、ほしくないのか――早苗のないまぜになった気持ちをもかき混ぜるように、風は勢いを増す。
在――!
私の思い出ごと、飛んでいけ。
あまりいい思い出があるわけではないけれど。
それでも、六年間過ごした場所なんだ。さよならくらいはちゃんと言おう。
私はこっちで生きていくから。
だから――。
前――!
最後の横一閃を放つ。
巻き起こる旋風。
崩壊は一瞬の出来事だった。
屋根が弾け。
窓ごと壁が吹き飛び。
柱が折れ砕けて。
全てを飲み込んだ風の渦が、天空高く立ち上る。
ちょっとだけ、惜しいと思ってしまった。
遠くから見れば、さぞかし勇壮な光景だったに違いない。
風圧に押されて半歩、後ずさる。その背中を、いつから目覚めていたのか、文が受け止めた。視線を交わす。非難がましいような、詫びているような。早苗の勘違いかもしれないけれど。複雑そうな表情。何を考えているのだろう。そこまでは、読めない。
「全く。無茶をしすぎです」
「文さんにだけは言われたくないセリフですね。……取材、邪魔しちゃってすいませんでした」
「取材――ねえ。舞い上がってしまっていましたが、実際、あれに取材を行うことで得られる利益など知れていましたから、構いませんよ」
どうやらようやく”戻ってきた”らしい文が笑う。もう大丈夫なのだろうか。大丈夫だと信じたいが。少しだけふらついた早苗を、文がしっかりと支える。
落下音。
破砕した木片が散らばる。コンクリートが突き立つ。基礎部分は外の世界に残ったままなのか、その量はさして多くない。建物部分だけ綺麗に幻想郷へ来たらしい。校舎跡に地肌が覗いている。ならば外には平らなコンクリートの広場が出現したというわけだ。廃校舎を利用した施設の話は、早苗も聞いたことがあった。ここもそのまま残っていれば、活用されることもあったのかもしれないとふと考えて、
――まあ、仕方ないよね。
言い聞かせるように、思う。ここで看取られることなくひっそりと朽ち果ててしまうよりは、存命中のことを知っている自分が送り出してやることの方が良かったのだとそう信じて――けれど信じきることはできなくて――早苗は手をぎゅっと握りしめた。
竜巻の起きていた範囲外には、不思議と破片が落下してこない。隣に立った文がわずかに腰を引いているのを見て、早苗はくすりと笑みを作った。万が一にも、自分たちの方へと飛んでくることはないと分かっている。理屈は簡単。奇跡を信じていればいい。風が弱まるにつれて、落下音は数を増した。しかし、早苗はその場を動かない。現場からは数メートルと離れていないのに。
文さんは――と、唐突に早苗は言った。
「奇跡ってどういうものだと思いますか?」
「奇跡、ですか。起こりえないことを示す言葉でしょう?」
轟音の中、言葉は不思議と伝搬し、二人の間を繋いでいた。文が能力を使っているわけではない。その証拠に、彼女は頭襟が飛ばされないように押さえている。
早苗はしたり顔で頷いた。
「そうなんです。奇跡は常に起こりえない。起きるのは――単なる現象でしかない」
「まあ、確かにそうかもしれませんが。何を言いたいんです」
「ならば奇跡を起こしているのは、観測している者だということになるでしょう?」
文は狐につままれたような表情をした。
「……それが?」
「つまり、神風などというものは本来存在しないんです。風はただ吹き、去って行くだけ。そこに何らかの意思を見出し、己の良いように解釈するのは、いつだって人間や、あるいは妖怪なんですよ」
大軍を押し返した大風然り。
旱魃に潤いと恵みをもたらす慈雨然り。
そんなものは。
タイミングが良かっただけの偶然だ。
「それを、神様のお陰だと伝えたのは私の係累。なのに、神様に借りているだけの力を、人間が持っているのだと勘違いしてしまった」
「伝えた人間が本当に奇跡を起こせるようになったんです。"奇跡"を恣意的に起こせる人間が現人神と名乗っているんです。元々はただの勘違いだったのに」
「かつての奇跡はね、文さん。科学が発展するとともに単なる現象にしか過ぎなくなったんですよ。私の住んでいた世界では、科学でも解明できないような、ほんの一握りの事象だけが奇跡と呼ばれるようになっていたんです」
だから。
「この程度のことは、わけもないことなんです」
がたん、と二人の眼前に大きなものが落下してきた。
職員室に備え付けられていた、仮眠用のベッドだった。
その上に。
ぽす。
やけに軽い音を立てて、人影が着地した。
「……あや?」
文がぽかんと口を開けた。早苗はどうだと言わんばかりに胸を張る。
それは。
紛れもなく、文に傷を負わせた人影だった。
「人の言葉は分かるんですよね」
一歩。
早苗は文の手を離れ、人影に近づく。相手は抵抗することを忘れてしまったかのように動かない。じっと顔のような部位をこちらに向けたまま、固まっている。
「人間の言葉は分かりますよね?」
「う――あ、あ」
鈍いが反応らしきものは返ってきた。だったら、そのままで聞いて下さい――そう言ってから、早苗はふむと首を捻った。何を話すかなんて段取りは決めていない。それをしてくれるはずの文の口からは助け舟が出るわけでもなく。肘で突っついてみても、こちらからは反応が返ってこないのだ。仕方がないなあ。小さく嘆息。図書室で聞いた断片を元に、それっぽいことを言って茶を濁すことにした。
「歓迎します――なんて、私が言えた言葉じゃないですけど、歓迎します。この地は幻想の郷。あなたは現し世での役割を終えて、ここに来ました。あなたの中にいた――あった――らしきモノたちは、残念ながらここに辿り着く前に亡くなってしまっていたようですが」
相手は表情がよく分からないなりに肩を落とした――ように見えた。感情と呼べるものはあるのだろうか?
「とりあえず、こっちで生きていくのならその身体をどうにかしないとですよね。文さん、永遠亭へ行けば延命措置をとることもできるんですよね?」
「え――ええ。あそこは命に関わることなら何でも請け負っていますから。できるできないはあるにせよ、ですが」
「不吉なこと言わないで下さいよ。とにかく、良かったですね!」
前半は文へ、後半は人影に向かって言う。
「じゃあ早速永遠亭に行きましょう! ……話してみたいこと、あるんですよ、沢山」
「いやいや、とりあえずといえば早苗さん」
文が苦笑しながら言う。
「とりあえず返してくれませんかね、それ」
「あ」
握りしめたままだった葉団扇の存在に今更気づき、早苗はにわかに赤面した。
強奪したまま持ちっぱなしだったそれを文に手渡そうと――。
手を、伸ばして。
身体が。
ふらりとよろめいた。
「早苗さん?」
「あれ――」
怪訝な表情で文が覗き込んでくる。
大丈夫ですと言おうとして。
けれど、口がうまく動いてくれない。
おかしいな。
なんでだろう。
「早苗さん!」
手を伸ばしたまま唐突に、早苗の意識は暗転した。
いやに焦った文の声を耳に残して。
6.射命丸文
妖怪の山の人里から見えない側には、妖怪たちの大集落が作られている。
と言っても、人里のように切り出した木材を利用しているわけではない。妖力に中てられ異常に肥大化した木のウロを利用したり、折り重なった根の間に住み着いたりと、基本的に木を切らない方法で作られた家が並んでいる。限られた石材や貴重な木材は集会所など重要な建物に使われるくらいだ。人間よりも個体数が多いため場所を有効に活用することが必要とされ、さらにこうすることで自然から力を得やすくなるという、永きに渡って培われた知恵の結晶のような集落なのである。
文の家もそうした樹上の一角にある。こぢんまりとした空間がいかにも"巣"っぽくて気に入っているのだが、そう考えるのは他の鴉天狗も同じで、手に入れられたのはクジ引きの末の運によるものだった。汚い手を使ったわけではない。……断じて。
その自宅に。
文はようよう帰り着こうとしていた。
今日は色々なことが起こりすぎて、疲れた。妖怪は肉体的な疲労に関しては滅法強いのだが、精神的な疲れに対しては人間と同じく耐性が低いのである。もっとも、精神的な疲れを感じられるような妖怪は一握りしかいないのだけれど。
あの後。
倒れてしまった早苗と付喪神を永遠亭に運び、診断してもらったところ、
『過労ね』
と早苗については一言で言われてしまった。疲れているところというか病み上がりというか、そんな状況で大きな力を使ったことがまずかったらしい。どこから仕入れた情報なのか、世話役なんでしょう何をしているのと怒られてしまった。月人の情報収集力が空恐ろしくなる。それとも案外広まってしまっているのか? 山の情報管理能力に危機を唱えるべきなのだろうか。他にも言われたことはあるが、実際の要因として最も大きいのは心身の疲労である、とのことだった。一晩預かっておくからあなたは帰りなさい。促されるままに妖怪の山へ針路を取り、守矢神社に簡単な事の次第を報告して現在に至るというわけだ。
付喪神の方は――と、改めて思い出そうとしたところで、ようやく自宅が見えてきた。大きなウロの前には人影がある。予想はしていたが、やはりか。
「お疲れ」
声。
ウロ前に設えられた踊り場――一応、これが玄関だ――には、椛が立っていた。既に日付が変わろうとしている深夜である。椛は千里眼を貸与する関係上、文に合わせて日勤が多い。歩哨の番が終わり、早苗の容体を聞きに来たのだろう。とはいえ仕事の優先度としてはどうせほとんど来ない敵の警戒をするよりも早苗の容体を聞くことのほうが高いのだろうから、監視を置いてもここへは来たのかもしれないが。それでも勤務時間外にまで顔を出すとはつくづく職務に忠実な、と文は内心笑った。
「そっちもね。これから報告なんでしょ」
「事情聴取は得意じゃないんだが」
二人揃って苦笑する。一部始終は文字通り"見て"いたのだが、実際に何があったのかを文の口から聞きたいのだ。早苗が倒れるという事態を重く見たのか。守矢が殴りこみにでも来たらたまらないと――ものの例えだ。あの神様はそこまで単純な性格の持ち主ではない――思う一派が、山の上層部には未だ存在するのである。
「上には私から報告しておくよ。同じ説明を二度するのは堪えるだろう」
「……借り一つ、でいいのかしら」
「そんなに大げさなことじゃない。酒樽一つで済む話さ」
「よく言うわ」
気の抜けた笑いをこぼして、文は踊り場に座り込んだ。椛は特に姿勢も変えず立ったままで、
「結局、あの建物は何だったんだ」
と訊いた。
結局――。
全てを話そうとすればそこからになるのか。
「推測でしか語れないわよ」
「構わない。貴女の推測はかなりの精度だから」
「……照れるわね」
世辞でも褒められ慣れていない身には嬉しい。
「おだてておいた方が口も軽くなるだろう」
肩をすくめて椛は言う。……そういうのは言わない方がいいんじゃないのか。まあいいけれど。結論から言うと――と、文はそう前置きして、
「あれはね、東風谷早苗を祀る社だったの」
至極端的に言った。椛は怪訝そうに首を傾げた。
「……社、ねえ。現人神だろう。外にそんな風習は」
「まるで残っていないというわけではないでしょう。生祠なんてもの、ちょっと前までは珍しくもなかったんだし」
「なおさら現在の人間からは想像もできないな。外来人の生態から見てもそれは明らかだと思わないか?」
訝しげな表情を崩さずに椛は言う。
生祠(せいし)とは、故人や神霊などではなく、俗に「生き神」や「生き仏」と呼ばれるような偉人を祀ったり、あるいは自己の霊魂を祀り長命を祈願したりするための祠である。今回の場合は前者だろうと文は推測している。
「現人神として何度となく奇跡を見せるうちに、あの子自身への信仰が集まり、八坂神への信仰は薄れた。結果、行き場を失った信仰心が"場"に凝り」
「あの建物を社に作り替えた、か。無意識であったなら、東風谷殿が気付かなくとも無理はない……のか?」
「多分ね。私にもよく分からないけど、あの付喪神になりかけていたモノの供述から察するとそうなるんじゃないかしら。建物へ入ろうとした時、あの子が感じた圧迫感にも説明がつくわ」
文は文花帖を取り出して、はらりと開く。
『何者か:ヤシロである。社? 何の、と言う言及はなし。付喪神ではなかったのかもしれない?
何故来たのか:早苗のためである。詳しい情報は判読不能。
何をしに〃:返答なし。
どうやって〃:返答なし。
言葉は詳細な判断が難しく、まともな返答はほとんど得られなかった。
追記:永遠亭にて
早苗の社であったことを認める。成った経緯は不明とのこと?
八意永琳の弁:早苗は過労だった。今回の件との因果関係を匂わせていた。
追々:早苗のため+社であるという返答を踏まえれば、彼女を祀っていた社という可能性がある。
?:現人神を祀る社? 興味深いが、壊してしまった今となっては究明できない。』
深く追求することは命に関わると永琳に止められてしまった。それでなくとも付喪神はそのものから離れると命を失ってしまう存在である。永琳の言うところによると、文が追求しなくとも持って今夜がせいぜいで、明日の朝には消えてしまうかもしれないらしい。それ乗り越えられればあるいは――と言っていたが、無縁塚に現れたことを鑑みれば、その可能性は著しく低いものに思われてならなかった。つまり、真相は永久に闇の中というわけだ。要するにこうして取材したことも記事にできる確率は低くて――何者であれ、お涙頂戴の記事は面白くないと思うので書かない主義なのだ――何となく今日一日を損した気分は晴れなかった。
分社を建立する際にも、土地を神の気に染める手法は使われる。ただし、そちらは外部の手を介して神降ろしが行われなければならないのだが、そうした行為が行われた痕跡は確認できなかった。純粋に早苗の力で染められた社だったのだ。それを可能にするほどの早苗の力に感服するべきなのか、幼心の暴走というものに脅威を覚えるべきなのか、判断に苦しむ。
「社という個人のものに成ったが故、あの建物は付喪神になる資格を得た。あれだけの規模が付喪神となるには相応の年月がかかるはずだけれど、何かしらの外的要因があったのだと考えれば不思議ではないわ」
「外的要因?」
「例えば――守矢神社がこちら側へ来たことで、"諏訪"という場所の属性が幻想に傾いたとか」
あそこも昔はいい場所だったんだけど、と何となく回顧してみる。自然が豊かで妖怪の暮らしにはもってこいの場所だった気もするのだが、六十年周期が二巡するより以前の記憶だ。今どうなっているかなんて、考えるまでもなく分からない。
椛は難しそうな顔になる。報告する上で詳細な情報が欲しいのは山々だが、説明が面倒くさくなることは避けたいのだろう。意外と面倒くさがりなところがあるのである。
「なるほど。"引きずられた"ということか。東風谷殿が倒れたのは、その社を自ら壊した反動ということも考えられるな」
「八意氏もその可能性を指摘していたわ」
「妙に説得力があるなあ。”八意”という名がそうさせるのかな」
「まあ、体調が万全でないところへ大きな力を使ったことが最大の理由ではあるそうだけどね」
「風邪、か」
「風祝なのにねえ」
「あの建物が何か、ということは分かった。が、解せないな。やはり何故無縁塚に――という疑問は解消できない」
「死にたかったんじゃないの?」
「建物の状態でそこまで思考能力を獲得できるものだろうか?」
「んー、建物といっても神霊と同格の存在と考えたほうがいいのかもしれないわ。それだけの霊格を持ったお社だったのかも。死にたい、とまでは行かなくても、自己の現状を鑑みて、自分に価値がないのだと思ってしまうことはあったんじゃないかしら」
「我々が想像できる学び舎の行先は――確かに、解体されることくらいだな」
「それでも再利用するっていう手段が私たちにはあるけどね。外ならそんなこともなく、廃棄されてしまうって運命を知っていたから、なんていうのは考えられない?」
「壊される前に自分から、それも自分を知ってくれていたヒトの元へ行きたいという願望が、幻想郷へ来る原因を作った――ということか」
「最期をどう過ごすか。それは私たちでも考える命題でしょう。唯一”死を思”ってくれるのがあの子だけだと判断したら?」
「……来ることになるかもしれないな。しかしまあ、それが原因で彼女を倒れさせてしまったとなれば」
「悔いる、かしらね。そこはあの子の自業自得でもあると思うけれど。といっても――責任感とかそういうものは大きそうよね、学び舎なんだし」
「恥じ入って消えてしまう、とかな」
「あー、ありそうねー」
「脅威の度合いとして考えた場合、どうなんだ。一応、貴女も怪我をさせられていたわけだが」
「あんなのはマグレよ。もう治ってるし。この時期の無縁塚でもなければ怪我することもなかったでしょうね」
「脅威にはなりえないと?」
「まあね。仮に付喪神になったとしても、人間に対して危害を加えるようなものであるとも思えないわ。……付喪神なのに、ね」
「ふうむ」
一旦整理をしよう、と椛は言った。
「付喪神に関しては報告するほどの脅威になりえない。東風谷殿の体調不良に関しては、あの建物が絡んでいた可能性もあるにせよ、彼女自身の落ち度もある。あー、貴女が戦いを受けてしまったがゆえに無理をさせたという側面は無視できるものではないが」
「無視しといてくれていいのよ?」
「できるわけがないだろう。報告は報告だ。きちんとやらせてもらう」
「ケチ」
「気前はいい方だと言われるがね。それ以外には何もないか?」
「特には」
おそらく、軽々しく葉団扇を貸し与えたことにより、過剰な神力を使ってしまったという原因もあるとは思うのだが。永琳にも椛にも尋ねられなかったので言わなくても構わないだろう――多分。
椛は軽く頷くと、文の肩にぽんと手を載せた。
「なら、そういう方向で上奏しておくよ」
願ってもいない。
「じゃ、もういいかしら。眠いのよね、私」
「ああ。あとは任せて寝るがいいさ」
ボロが出ないうちにとっとと切り上げてしまおうとする。そも、烏は夜中に起きているものではないのであって――、
ただね、と椛は被せるように言った。肩にかかる力が微妙に強くなった――気がした。……嫌な予感。追求されるか? 予想はしかし、外れていた。
「社という外の世界での楔を失ったことで、何らかの変化が彼女に訪れるかもしれないな。例えば――そう、今まで以上に奔放になる、とか。社を持たないのに信仰だけは確保している神がどういう性格をしているか、貴女もよく知っているだろう?」
「ちょっ、止めてよ。これ以上面倒な性格になられでもしたら」
本格的に配置換えしてもらわないと、と言いかけて、文は思いとどまった。
「何事も言霊よね。言わぬが花、言わぬが花」
「……そうかい。ああ、面倒といえば」
最近、守矢に怪しい動きがあると報告が出ていてな――と、椛は言う。早苗は関与していないらしいが、二柱が何か企んでいるようだと。それがどうも地下に関係していることらしく、これまで以上にその動向が注視されているのだそうだ。地下。もしかして――地底?
「なーんかろくでもない臭いがするわね」
「貴女も東風谷殿を見ていて気付いたことがあったら言うように。この情報は只にしておこう」
「只でもいらないっつーの」
「そう言うな。貴女が一番情報を得やすい位置にいるのは確かなんだ」
文は思い切り顔をしかめて、
「春の人事異動が楽しみね」
とだけ言った。椛はくくく、と押し殺したような笑い声を出した。
「今更、貴女と東風谷殿の距離を考えれば無理な話だよ。急に離れるのも不自然すぎるだろう」
「……はあ」
ため息は。
風に紛れて、椛に届かない。
――それが。
二人に横たわる距離があるから。
「仕切りなおしたいんじゃない」
「? 何か言ったか」
「いーえ。何でも」
「……そうか?」
こうして冗談口に語ることはあっても、本当に上奏したことはないというのに。この朴念仁は、と文は内心にため息をこぼす。
分かってないわね――と文は独り言つ。どれだけ早苗に触れないように報告したと思っているのか。
訝しげな表情の椛を残して、文は家へと転がり込んだ。
靴を脱ぎ捨て、短い廊下を抜けて寝室に入る。
編集室は片付いているのだが、寝室はわりあい雑然としている。こちらにまで整理の手が回らないのだ。徹夜明けですぐさま潜り込めるよう、敷きっぱなしの万年床。着替えが詰まった箪笥。年末年始の祭事などで着る礼装が壁に掛かっている。
文は鞄と頭襟を壁際に放り投げ、むしるようにタイを外して薄い布団へと俯せに倒れこんだ。
枕元の灯を点す。
体感時刻は既に日が変わったことを告げている。
――疲れた。
改めて――ため息を、こぼした。
碌でもない一日だった。
薄闇の中、のろのろと転じた視線は真新しい包帯と――そこに滲む血痕を捉える。椛にも言ったとおり、既に傷口は塞がっている。今は些細な痒みが残る程度だ。そもそも彼岸を控えた無縁塚、という特殊な環境でもなければ、こんな手傷を負うこともなかったのだけれど。まぐれ。冥界が――突き詰めれば死が――顕界と近づいている時期だからこそ、あんなできそこないでも天狗に傷を付けられたのだ。
しかし。
文の頭を占めているのは、自分の傷のことなどではなかった。
脳裏に浮かんでいるのは。
風だ。
早苗の起こした大風が、目に焼き付いて離れない。
ずいぶんとよく喋る風だった。思いを凝縮した、それ故に傍観者であった文の心にも深く届いた早苗の叫び。それは、文の中に眠っていた忌避感の正体を文に悟らせるには十分な風で。
「いっそ、気付かなきゃ良かったのに」
呟く。
気付かなければ、あと数十年をやり過ごして終わっていたはずなのに。
世話役を解任されようと続投しようと、その程度なら待てたはずだ。
吹けば飛ぶような人の命。
それで終わっていてくれれば、こんな悩みを抱えることもなかっただろう。
避けていたかったのは。
きっと気付いたら、同じことを考えてしまうからだったのだ。
早苗の――早苗が纏う風を――欲しいと思ってしまうこと。
手に入れたい。
それは。
所有欲から始まるものは。
考えないようにしていたのは何故だ。
あんなものに魅せられたのでは、眠れるはずがないではないか。ごろりと横たわる身体が、わずかに熱を帯びている。
――ああもう。
「らしくないわね、私」
文はむくりと起き上がった。寝乱れた髪を手櫛で整え、鞄を拾う。
文花帖と写真機を取り出す。寝室から出て編集室へと向かう。
体を動かしていなければ落ち着かない。とにかく暗室の中で黙々と作業をしていれば、どうにか新聞記者としての貌(かお)を取り戻せる。そんな気がした。
気付いてしまった感情と。
自覚したくなかった思いを抱えたまま。
――とにかく。
撮った写真を現像し、聞いた話をまとめよう。
こと調査という点において、自分に並ぶものはそういないと文は自負している。
――どのみちまだしばらくはあの神社に関わることになりそうね。
文は小さくため息を吐いた。
けれどその口元は、かすかに――しかし確かに微笑んでいた。
悪癖がどちらへ転んで行くのか。それは、文にも知る由のないことだった。
7.東風谷早苗
泣いている子どもの後ろ姿を、誰だか分からないヒトと見下ろしていた。それが自分自身の幼い頃の姿なのだと気付いたのは、その子どもが泣き終えて去ろうとする横顔を見たからで――まあ要するに最後の最後まで気付かなかったわけで。観察力のなさに微妙な敗北感を覚えていると、隣のヒトがくすくすと笑いながら声をかけてきた。
「覚えているかな。君が初めて、私の元で泣いた日のことを」
ああそういうことなのか。そういえば小学校に上がりたての頃は、両柱を模したアクセサリも付けていなかったっけ。
――もう、ほとんど覚えていないんです。あんまり色んなことがこの学校では起きたし――、泣いたことだって一度や二度じゃなかったから。
「私は覚えているよ。詳細な回数に至るまで、ね。全てを気にして見ていたからかな」
隣人の顔を見る。茫漠とした闇がそこにはあった。相貌失認とはこういう感覚なのだろうか。が、不思議と怖くはなかった。むしろ暖かい感じがした。
――あなたは、あの学校なんですよね?
無貌のヒトはこくりと頷いた。
「そうだよ」
――どうして、ここへ?
「ここがどこだか分かるのかい?」
――夢、でしょう。私の。
「正解だ。だから君はここで起きたこと、交わした会話の一握りしか、現し世に持ち帰ることはできない。もちろん、私のことも。故に私が現れる余地があったともいえるけれどね」
もっとも、と”彼”は続ける。
「私は全てを持って行ける。器物だったものにもそれくらいの権利は認めてくれるのだそうだ。こちらの閻魔様は寛大だね?」
――そう、なんですか。
そして、もう一度訊いた。
――どうして、”ここ”へ来たんです?
”彼”は切々と語った。観光資源の消失と、それに伴う産業の衰退。人口の流出に伴う児童数の減少。閉校。そして、自分が壊されそうだったこと。
「理由は――そう、壊されそうだったことが大きいのかもしれないね。君たちのせいではないよ、と言いたいところだけれど、言った通り間接的には君たちの責任も少なからずある。大きな”拠り所”をあの町が無くしてしまったことに変わりはなかったから」
――……。
「といっても、それを察知できた人間はそう多くなかったのだけれどね。君の親族や、中央官庁の特別室くらいのものだろうか」
かすかに肩をすくめて、
「だけれど、君のおかげでもある。こうして君と話せたこと。心配の種を取り除けたことは」
――何が心配だったっていうんです。
「君と君に付帯する状況の全てが、かな。もどかしかったのさ。何もできない自分というモノがね」
――解消できたんですか?
「できたさ。君はこちら側でとても楽しそうに見えた。彼女のような友人が他にもいるんだね?」
――それは、まあ。
向こうがどう思っているかは知らないが、こちらはそう思っている。本音を話せる”友人”は、あちら側にいたときよりも格段に増えている。こちらの方が暮らしやすいと思ってしまう程度には。
「心配することは、なかったのかもしれない」
はっと我に返ると、無貌の人は少し俯き加減になっていた。
「それでも心配してしまったのは――きっと、君が私に”考える力”を与えてくれたからなのだろうけれど」
――そんなこと、しましたっけ。
「したのさ。君に自覚はないのかもしれないが」
具体的には話してくれそうにない雰囲気だった。”彼”はまた、ふふ、と笑う。
「心配して損をした、とまでは言わない。数多の卒業生の行く末の中で、唯一君のことを見届けられたのには理由があったと思いたいし、そう思いながら逝かせてくれ」
――もう、会えないんですか。
「縁が合ったら、としか言えないね。来世でのことでもある。出会えても記憶はないだろうし。魂が惹かれ合うことを願おうか」
――魂。
だったら大丈夫ですよきっと。
根拠もなく、言う。
――魂のカタチ、ちゃんと覚えましたから。どんな姿になってても、絶対分かると思いますから!
”彼”は堪えかねたように吹き出した。
「荒唐無稽だが、君が言うと真実のように聞こえるね。分かった。来たる世を楽しみにするとしよう」
光が夢の中に差し込んできた。それを見上げながら、無貌の人影は、
「じゃあ、また」
――逝くんですね。
「ああ」
最期に話せてよかった。
――私も。
浮遊感。
そして――。
◆
目を覚ますと、視界いっぱいに蛙帽子が広がっていた。
「……お、おはようございます?」
気圧されながらもそう言うと、帽子は満足気に頷いた。
「ん、おはよ。おーい、早苗が目ー覚ましたよー」
洩矢諏訪子は間延びした声を部屋の外へ投げた。暫しの間があって、遠くの方で少し待っていてと返答があった。そこでようやく、早苗はここが自室でないことに気がついた。ベッドを幾らか配した――病室? のような空間だ。それにしては随分と和室っぽいのが気になるが、かすかに漂う薬品臭が第一印象に説得力を与えている。
「洩矢様、ここは?」
訊くと、永遠亭という答えが返ってきた。入院するのは初めてだが、寝込んでいた時に薬を使わせてもらったので、名前は知っていた。確か人と妖怪を分け隔てなく診る変わった医者の営む診療所なのだったか。
くるりと一回り室内を観察して――そうして、やっと昨夜の記憶が蘇ってきた。
――そっか。私、倒れたんだっけ。
ここにはいないようだが、おそらく文が運んでくれたのだ。結局昨日は最後の最後に迷惑をかけてしまったことになるのか。それを思うと、ちょっとばかり気持ちが沈んだ。
「かなり無茶したらしいじゃない」
諏訪子は言った。簡単な事情は既に文が知らせてくれたのだという。笑顔は早苗の気持ちを察したが故なのだろうか。身を乗り出して、こちらの目元を拭う。涙? ……そういえば、何か夢を見ていたような気がする。中身はよく思い出せないけれど、誰か大切な人が出てきたような――、
そう考えたとき、襖がからりと開かれた。赤と青を左右に配した不思議な服。どことなく憂いを感じさせる顔立ちと、銀の髪を太い三つ編みにした髪型。その上に青い色のナースキャップを被った女性だった。文の新聞で見かけたことがある。八意永琳。薬師――医者、なのだろう。外の世界基準で言うと――と紹介されていたっけ。諏訪子が椅子ごと脇に寄って、女性に場所を譲った。
「体調はどう?」
譲られるなり開口一番に訊いてくる。
「あ、なんか、大丈夫みたいです。正直、どうして自分がここにいるのかも分からないくらいで」
「それは結構。貴女は一応、過労ということだったから、あまり心配はしていなかったけれど、すぐに退院してもらって構わなそうね」
「過労?」
「病み上がりに無茶をしたんでしょう? 過労よ」
「はあ」
「でも一応簡単に問診をさせてもらうから答えて頂戴。ああ、もう察しが付いているのかもしれないけれど、私は八意永琳。医者よ」
永琳は薄らと微笑んだ。安心をさせるような、医者っぽい表情、というものを幻想郷に来てから初めて見たような気がする。風邪薬は神奈子が買ってきてくれたので、医者に診てもらうことをしなかったのだ。
「東風谷早苗です。――って、もうご存知ですよね」
「そうね。新聞屋があることないこと話していったから。名無しさんのカルテが増えなくて良かったわ」
「そ、そうですか」
「それじゃあ、問診を始めます」
いくつか質問に答えると、永琳は一つ頷いて、
「貴女と一緒に運び込まれたひとのこと、聞きたい?」
――一緒に?
そう言われても意識がなかったので反応のしようがない。惑っていると、
「話してあげて。多分、この子には大切なことだから」
諏訪子が助け舟を出してくれた。なぜだかわずかに沈痛な面持ちで。保護者の意向を確認できればそれでよかったのか、永琳はまた一つ頷いた。妙に仕草が芝居がかっている人だなあと思う間に、彼女は持ってきていたもう一つのカルテを開いた。
「じゃあ話すわね。貴女と一緒に運ばれてきた、付喪神に成り切れなかったモノのこと」
「あ」
そう――か。
どうして、思い浮かばなかったのだろう。
あれだけ話をしてみたいと思っていたのに。
そうするだけのモチベーションが削がれている。まさか――夢枕にでも立っていたからなのか。早苗がその意味するところを思いつく前に、
「あれは先程、付喪神に成り切ることなく死亡しました」
と、永琳はひどく端的にそう言った。
「! そう、ですか」
ベッドのシーツをぎゅっと握る。
でなければ、諏訪子が滅多に見せない表情を表にしていた理由が説明できないものな、と他人事のように思う。他人事のように思えてしまったその理由に、思い至らないままで。
けれど。
「ただ」
永琳の言葉には、続きがあった。
「貴女に命をもらったから、来世は物でなく生物として転生するでしょう。いつになるかは分からないけれどね。どうしてもその前に会いたいというのなら、その道の大家を紹介するわよ?」
「いえ――いいです。なんか、私がしたことは間違っていなかったみたいだから」
「そう」
私は他の患者を診ないといけないから。永琳はそう言って背を向けた。あとのフォローは身内に任せる、ということなのだろうか。素っ気なさがイメージの中の"できる"医者っぽくて微笑を誘う。それだけで終わるのも悪いと思い、早苗はあの、と言って永琳を呼び止めた。
「ありがとう、ございました。あの人を看取ってくれて」
永琳は小さく頷いて、部屋を出ていった。その後姿を見送って、
「あの学校は」
「?」
早苗は語るともなしに言う。
「私の――原点だったんです。あそこで拒絶されることがなければ、こうして幻想郷へ来ることはなかったでしょうし」
洩矢様や八坂様を見られなくなっていたでしょう。
「……そうかい」
「だから」
「待った、早苗」
「?」
諏訪子は掌をこちらに向けて、続けようとした言葉を遮った。
「そこから先は、自分の心の中にしまっておきな。言葉にしたら、それはもうお前の思い出ではなくなってしまうからね」
「私、の――?」
「そう。思い出。どう関わりを持ったか覚えておくことはいいけれど、それは話した途端に思い出から記録になってしまうから」
「はあ」
まあ深く考えすぎなくてもいいんだけど、と諏訪子は言って。
「よーするに、有り難みがなくなっちゃうから黙っとけってこと」
雰囲気を切り替えるように手を打った。
「お社の――分社の調子が上がんないことの報告はどうなったの?」
「あ」
色々あってすっかり忘れていた。帰ったら話そうと思っていたのだけれど。言うと諏訪子は、
「そういうことなら仕方ないか。じゃあ、帰ったらきちんと報告義務を果たすこと」
「はあい」
ちょっと強引な話題の転換だなと思いながら、早苗は乗った。沈みすぎることは未練になる。未練が残れば、縁が生じ――望むと望まざるとに関わらず、相手を縛り付けてしまう。それは、双方にとって良い結果を招かないから。
まずは着替えておいで、と諏訪子は言った。部屋を出て行こうとするその背中で、
「神奈子も心配してた。アレはお社の心配も入ってたんだろうけど。はちにーくらいで」
……どちらが八なのかは訊かないでおこう。
「どうせなら博麗の分社は壊しちゃえばいいんですよ。管理が面倒だし、これから調整し直すのはもっと面倒だって言ってましたよ?」
冗談めかして言ってみると、諏訪子はひどく驚いた様子で振り返った。
「どうかしました?」
「どうかって――そっちこそ。昨日までなら絶対そんなこと言わなかっただろうなって」
言われて、早苗はきょとんと目を丸くした。そういえば、そうかもしれない。祀っている祭神のお社を壊すだなんて、発想すらも出てこなかっただろうか。
「……何か心境の変化でもあったんですかね?」
「そりゃ私が訊きたいよ。早苗がよく分かってないなら気のせいだったりするかもね」
「それにしてはタチの悪い変化ですけど」
苦笑。
「なんか、あれだね。だいじょぶそうだね」
「だから大丈夫だって言ってるじゃないですか。お医者さんのお墨付きももらったし」
「そっか」
じゃあやっぱり渡しとこうかな、と言って諏訪子は壺装束の袖口をごそごそと探り、一通の封筒を取り出した。
「今朝方、改めて挨拶をとか言いながらカラスが置いてったんだけど。症状が安定してるようなら早苗にってさ」
「はあ」
カラス? と首を傾げて思い至る。文のことだ。宛名には『守矢神社風祝 東風谷早苗様』と記されている。手を焼かせてしまったことに対する詫び状のようなものだ、と諏訪子には説明をしたらしい。
「中身は――あー、見てないよ」
「何ですかその間」
「次会ったらちゃんと礼を言っておくこと。迷惑かけただのかけられただのはお互い様みたいだし?」
「わ、分かってますよ。そこまで礼儀知らずじゃないですって」
「そ。じゃあいいや」
医者とちょっと話してくるから着替えるんだよ、と言って諏訪子は部屋を出て行った。
――迷惑、か。
どちらかというと最後の最後で迷惑をかけたのはこちらだと思っているので、書面にまでされて詫びられるのは些か居心地が悪い。今ひとつキメきれなかったのがなあと思い、そして、また文さんを氏子に計画が一歩遠ざかったなと小さく唸った。カミサマ的に氏子の有無は死活問題である。数が多いに越したことはない。文自身はどこの氏子にもならないと公言して憚らないが、事と次第によってはチャンスは十分あると早苗は思っている。予防線を張るのは、一旦転がり始めると止めることが難しいからなのだろう、と。
――どうせなら。
今回のことで負ける気がしなくなったので、一丁弾幕ごっこで引きずり込むっていうのもアリなのかなあ――などと、また昨日までなら考えつかなかったであろう不穏な考えに至る寸前で、
からり。
閉まったはずの襖が軽い音を立てて開いた。
「みょーなこと考えてないで、早いとこ着替えちゃってよね」
「は、はいっ! すぐに行きます!」
「あいあい」
けろけろと愉快そうな笑い声を残して、今度こそ諏訪子は去ったようだった。
後ろ姿を見送った早苗は、のそのそと布団から這い出る。足をぶらつかせながら、不器用な手つきで破り開ける。逆さに振る。はらりと一枚の便箋が滑り落ちた。
『拝啓 東風谷様におかれましては、お身体の具合に問題はありませんでしょうか。
八意氏はただの疲労だと言っておられました。ゆっくり静養なさって下さい。
さて、昨日は守ると契約を結んだにも関わらず、最終的に貴女の手をわずらわせることになってしまい、申し訳有りませんでした。
お詫びと言っては何ですが、今度食事に行きませんか。昨日言った食事処を紹介させて下さい。事の顛末も明かしましょう。
返事は次に会った時で構いません。貴女が元気になる日を心待ちにしております。
敬具』
文のイメージからはちょっと離れた達筆で、ずいぶん言葉を選んだ様子の垣間見える手紙だった。律儀さと殊勝さを微笑で迎えた早苗は、
――待って。
と、思い直す。
詫びたいというなら素直に受け入れよう。そして、氏子になってもらう足掛かりとするのはどうだろう。弱みにつけ込むようで微妙に気が引けるがガードの固い文を突き崩すための戦略としては申し分ないように思える。それだけというのも何なので、今回のように外のモノが入り込んできた場合にはアドバイザーのような立場になってあげるというのはどうだろうか。
「よし!」
自分を勇気づけるように、早苗は大きく頷いた。
その考え方は、やはり昨日までの自分と変わっているのだと気付きもせずに。
エピローグ
鴉天狗は風を読む。
それはもはや、生きることの一部だと言っても過言ではない。
故にこそ。
文は早苗の起こした風に心奪われたのだ。
まして、鴉天狗は烏の習性を色濃く受け継ぐ妖怪である。
烏。
彼らは生涯を一羽の伴侶と共にするという、そんな一途な鳥でもあり、また光るものを収集する習性でも良く知られている。
これからいかにして文は獲物を狙うつもりなのか。
はたまた早苗がその思いに気付くことはあるのか。
それは誰も知る由などないけれど。
冬になれば。
彼女たちの好むと好まざるとに関わらず、地底から噴出した怨霊が異変を引き起こすことになる。
それがどういう反応を引き起こすのか。
これもまた誰にも知られることはなく、ただその時は着実に近づいているのだった。
4.射命丸文
「いただきます――」
と、言ってはみたものの。
文に早苗を傷つける意思は毛頭なかった。当然だ。そうすることで自分の身に振りかかる事態を正確に予想できないほど馬鹿ではない。山から追い出される程度で済めば御の字で、守矢との関係性を保つために殺されることすら選択肢に入ってくる。
では、そうと取られるリスクを犯してまで早苗を脅す理由とは何なのか。
早苗が無縁塚に来た原因が、本当に自分の書いた新聞であったと分かったことだ。
読んでいること自体は分かっていた。守矢の動向は山における最大の関心事の一つだ。早苗が秘密裏に博麗神社の新聞を持ち帰っていることなど、千里眼を持たざるものであっても大半が知っている。知らぬは本人ばかりなり。それを表出させない程度には天狗社会が老成しているというだけで、文々。新聞の数少ない購読者に守矢が入っていることくらい、公然の秘密ではあったのだ。
――でも。
まさか偶然にも早苗の知る建物の記事を書いてしまうとは。
迂闊だった。
自分に非があるのかと言われれば、断固として否と答えられる。どうせ早晩誰かの新聞を賑わしていたであろう事件ではあったし、そうすることで河童との友好関係を繋ぐという政治的な理由も存在する。記事を書かない理由など、小町から話を聞いた時点では一つもなかったのだ。
そうして書かれた他人の記事が何らかの拍子に早苗の目に触れる可能性もあったわけで、文にしてみれば非を認めることは心情的に不可能だった。
それでも、何故という思いは拭い切れない。
何故、今なのか。
何故、ここなのか。
何故、早苗なのか――。
何かに当たり散らしたい気分だった。
……実際問題、文が新聞の持つ力を不当に過小評価していたというわけではない。幻想郷の人妖を相手にするのであれば、影響力はほとんどないのだという認識で問題なかった。この件に関してのみ言えることは、早苗が外の人間であり、マスメディアをある程度以上に信用する――してしまう――素養があったからこそ起きた、いわば”間違い”のような自体なのだ。
”天狗の記事は嘘八百”、新聞に載っていたからといって野次馬に来るような者はこの場ほぼいないのだし、こうして二人が会話している様を目撃されることもまた同様に稀だ。
だからこそ、文は強硬手段に訴えることを決めたのだ。
危険性を滔々と説いたところで、意外に我の強い早苗のことである。引き下がらないであろうことは想像がつく。ならば、少々脅してでもこちらへの協力姿勢を――有り体に言えばこのまま帰ってくれるという姿勢を――引き出そうと思ったのだ。
無論、限度というものはある。
若干ではあるが――そう思うことにした――踏み越えてはいけない線を読み違えてしまった感は否めない。自分で仕掛けたことながら、あまりに怖がられると些か以上に居心地が悪いこともまた事実だった。これもまた何事も真っ向から受け止めてしまう早苗だったからこそ起きた事態なのだろうが、居心地の悪さが邪魔をして考察しようという頭が働かない。
――と、とりあえずこれで帰るって言ってくれれば良いんだけど。
文の頭には現在それしか浮かんでいないのだった。繰り返すが実際に傷つける意思は微塵もないのである。
……どうしたものか。
悩んだ末に結局、
「と言うようにですね、私のような大妖怪でも狂ってしまう可能性があるのですよここは。恐ろしいでしょう?」
そう言いながら。
文はせいぜい茶目っ気を押し出して、早苗の肩に手を載せた。
早苗はわざとらしい苦笑を浮かべた文をきょとんと見て、
「は――ひぇ」
「……何ですかその声は」
「何、って」
と、虚脱したような声を出した。ゆるゆると肩が下がっていく。
さも呆れた様子を演じながら文は言う。
「いくら私でも積極的に知己を殺そうとも食べようとも思いませんよ。まあ、貴女が非常に美味そうだという点については否定しませんがね」
強い妖力を持った人間は基本的に味が良さそうに見えるのだ。特に恐怖を抱いた人間や絶望の淵に立っているような人間は非常に美味で――、考えかけて、文は生唾を飲み込んだ。
――どうも今日は食い意地が張っていけないわね。
それもこれも場所のせいだ、と文は適当に決めつける。
「私のように慎み深いモノばかりではありません。先程のような不逞の輩も多いですし、目撃されなければ食べても構わないだろうと考える者も無縁塚には沢山います。貴女は早く帰った方がいいでしょう。と言っても、ただ帰るというのも芸がないですね……そうだ、食事にでも行きませんか。呑めなくても料理が美味い店を見つけたんです。奢りますよ、さあさあ」
立て板に水とまくし立て、文は早苗の腕を引きながら立ち上がる。
しかし。
「文さん!」
「あや、大声を出さないで下さいな」
きっ、と睨みつけられた。文は振りほどかれた手で、自分の耳をわざとらしく塞ぐ。
――いいぞ。
行動とは反対に、内心小さく拳を握る。
逆上して正常な判断能力を失ってくれれば、山へ連れ戻すことは容易になる……はずだ。どうせ早苗からの心象を良くしようなどという考えは毛頭持ち合わせていない。双方向の興味を保ち続けられればいいのだ。対象の怒りを誘い情報を得ることは、長い記者生活の中で幾度となく繰り返してきたことでもある。こういう場合は怒らせた分だけ得だ。老練な記者はそのことをよく知っていた。
何ですか急にぃ、と意識して情けない声を出す文に、膝の上で――こちらは実際に――拳を握りしめた早苗が噛み付く。
「何ですか、じゃないですよ! 言っていい冗談と悪い冗談があるでしょう!」
「あやー、それについては悪いと思いますがね。貴女があまりにも無防備すぎるのでつい」
「どうせそんなことこれっぽっちも思ってないんでしょう」
ふい、と早苗は顔を背ける。
拗ねないで下さいよ、と文は適当に取りなすつもりで言った。
「この通り、謝りますから」
「……文さんの謝罪って軽いんですよ」
「軽い冗談だったって言ってるでしょう? 謝罪だって軽くなるというものです。さっきも言った通り、奢りますから。ね?」
「食べ物なんかじゃ釣られません」
それに、と頑なな声が続く。
「私、目的ができてしまったので」
「目的――ですか?」
――あや?
いきなり雲行きが――怪しくなってきたような。
「はい。帰すんですよ、この学校を」
引き締まった表情で早苗は言った。
――な。
何を言い出すのだろうこの小娘は。
「……私は邪魔をすると忠告したはずですが」
険しさを隠し切れない声で言ってみるが、邪魔をされたって私のすることは変わりませんよと早苗はにべもなく言う。
「どうにかして中に入って、何とかこっちに来てしまった理由を探すんです。だって、普通じゃないですもん。こっち側に来る理由なんて、一つも思い浮かびませんから。幸い霊夢さんに借りたランタンもありますし。少しくらい暗くなっても大丈夫です、きっと」
決然と見上げてくる。文はぽかんと口を開けた。……そっちに転がるとは思っていなかった。反発するにしても神奈子に注進する程度かと思っていたのに。脅しが効き過ぎたのか? 何にせよ大きすぎる誤算だ。先述の通り、この子どもは言い出したら聞かないのだから。
――はあ。
好きにすればいいじゃないもう――と、言ってしまえればどれだけ楽だろう。思うが、それはできないことも分かりきっている。時刻は既に逢魔ヶ刻を迎えようとしている。幻想郷においてはこれからが最も危ない時間帯だ。知能が低い妖怪であればあるほど、夜行性の気は強くなる。無縁塚はそうした妖怪の巣窟なのだ。
――私が。
ついていなければ。
早晩早苗は命を落とすだろう。推測でも憶測でもなく、確信としてそう思う。先刻見た間一髪の場面からしてそうだ。気配の薄い存在に対する警戒心が欠けている。
ただ。
それを説明するのは面倒だし、言って聞く性格かどうかなど、考えるまでもなく否である。ならば、
「――分かった。分かりましたよ」
文は。
「どうしてもというのであれば貴女がここへ入ることを止めはしないでおきましょう」
早々に諦めることにした。
早苗が憮然とした表情を作る。
「別に文さんに許可されなくても――」
「ただし、私も同行しますが」
有無を言わせぬ口調で文は言った。
「宜しいですね?」
「……一緒に行ってくれるんですか?」
「何か問題でも?」
「いえ、あの、ありませんけど。っていうか、まあそれは心強いですけど、どうして」
――ふむ。
文は瞬間、思案する。
――理由ねえ。
適当にでっち上げることは得意だが、ここはにとりに頼まれた例の調査で誤魔化せるか。巫女は総じて勘が鋭いと来ている。真実を話せる範囲ではそうした方が身のためだ。
「にとりから頼まれごとをしているといったでしょう。解体する前に事前調査をしてくれとね」
「事前、調査?」
「追跡調査とも被るので明言はしなかったのですが。先程も言った通り、この建物は鉱山です。何が採取できるかを調べておくのは重要なことなのですよ」
「わ、私は学校を帰したいって言ってるんですよ?」
「それは貴女の目的です。私には私の目的というものがあるわけでして」
「……なんか」
文さん今日は冷たくないですか――と、訊かれて。文はしばし、答えを迷った。
――貴女を連れ帰ることさえできればそれでいいのよ私は。
そう暴露できればどれだけ楽だろうか。しかし上からの達しには、”できるかぎり守矢の祝を自由にさせておくこと”も含まれている。無理矢理に連れ帰れば後々の考課に関わりかねない。だからこその妥協案なのだ。
連れ帰るか。
付き添うか。
世話役として正しい職務遂行の姿勢がどちらなのか、ということはこの際どこか別の場所に押し込めておくとして。
「まあいいじゃないですかそんなことは。入るに当たり、一つだけ契約をお願いします」
再び早苗の手を取り、今度は立ち上がらせながら、文は誤魔化すように言う。
契約? と早苗は鸚鵡返しに問うた。
「……まさかまた私を食べようとかそういうのじゃありませんよね」
「あやや、それはいい考えですね。貴女が人間として寿命を迎えるときには八坂神に掛けあってみましょう」
「文さん!」
「これは失礼。契約といっても、それほど重大なものではないので安心してください。早苗さんはサルタヒコの逸話を御存知ですか?」
古典に興味は無さそうだが、これくらいなら知っているだろうか。
果たして、早苗はええ、と頷いてくれた。
「天孫降臨に際してのお話ですよね」
「はい。天より神降りし折、容貌魁偉なる神が先導を買って出たというあれです。では、かの神と我々天狗とを同一視する向きがあることも?」
「鼻高天狗の皆さんが仰ってました。我ら天狗は神仏と同列に擬えられることもあるのだぞ、と自慢げに」
「その一行には調子に乗るなと灸を据えたいところですが。まあ、知っているのならば重畳です。その謂れを利用したおまじないのようなものなのですよ」
謂れ。
早苗がつい一刻ばかり前にもその言葉を耳にしていると、文は知らない。
知らぬままに、言葉を続ける。
「特別何かをするというわけではなくて、目的と場所を私に言って、”お願いします”と申し添えるだけなのです。案内役として天狗が交わす契約の一種、というわけですね。簡単でしょう?」
「具体的な効果や対価は何なんです。無茶な要求をされても困りますよ」
「効果は――そうですね、私の士気に関わります。対価は特に必要ありません」
「それだけ、ですか?」
「はい。あくまでもおまじないですから。言うなれば口約束のようなものでしょうか」
言うと、早苗は拍子抜けしたような顔をした。半信半疑なのだろう。
「……ちなみに、契約しない場合はどうなるのか、聞かせてもらっても構いませんか」
疑りを込めた声音で訊かれる。
文は素知らぬ顔で首を振った。
「特に何も。貴女と私の仲ではありませんか」
「そ、そんなことさっきの今で恥ずかしげもなくよく言えますね」
「そこはそれ。記者ですので」
気楽な笑みで締めくくる。
「如何ですか?」
ええと、と早苗は考えこむ姿勢に入った。
妖怪と安易に契約を結ばないこと。
それは幻想郷の理として、まず最初に教えた鉄則である。
我々は言霊を大切にします。契約の対価――あるいは代償――として求められるもの、そしてその結果をよく吟味した上で、かつ相手の妖怪が信用に足ると確信している場合にのみ、頷いても構いません、と。
でなければ、対価として生命を奪われても文句は言えないのだから。
例外は相手をねじ伏せられるだけの力を持っている場合のみ。
それはまだ、早苗が相手の力量を適切に見られないことを理由に、保護者から禁じられているのだと聞いている。
翻って。
文の契約は、表向き何の対価も要求していない――ように見える。
しかし、只より安いものはないと言う言葉があるように。
話の裏側には、必ず何かが潜んでいる。
それを考えさせることもまた、文の目的だった。
――実地研修、ってところよね。
そうしなければ分からないことというものは存在するのだ。
と言っても、そう考えこむこともなく文の契約に裏があることには気付けるはずだ。
道行の安寧。
つまり。
危険な状況に陥ったとき、助けに入ってくれる可能性を買うか否かという話なのだ。効果は文の士気を上げること。対価は自身の安全。自分で身を守れる確証があるのなら、全くと言っていいほど結ぶ必要のない契約なのだった。
文が世話役であるということは、早苗の知るところではない。助けに入るかどうかは五分と五分。そう思われているだろう。故に成り立つそれ、というわけである。
――まあ、この子がそこまで読むかどうかなんだけど。
時間もかかってるし。
表情を変えず、心中で小さく苦笑したそのときだ。
早苗がおずおずと右手を差し出してきた。
「目的は学校内の探検、場所は当然、この校舎。えっと、それじゃあ、その……よろしくお願いします」
熟慮と緊張の結果なのだろう。わずかに手が震えている。
「承知しました。射命丸文は東風谷早苗の導き手となり、行(こう)の終わるまでこれを守ることを約します」
文はさらりと握手を交わした。
先よりしっとりと汗ばんだ手が思考の迷走ぶりを示しているように思えたけれど。
何も気付いていない体で。
「さて。まずはどうやって中に入るかですが」
文は昇降口を検分する。金属製の枠に嵌めこまれた前面ガラスの引き戸である。その外側から板で塞がれていることを抜きにしても、おそらく内鍵がかかっているはずだ。単純に開けられるとは思えない。
「蹴破るつもりなんですか?」
脳裏を過る乱暴な考えを、早苗が実際に言葉にする。
「必要であればそうしますし、それが早いでしょうがね。これを叩き割ることは得策ではないでしょう。破片がどう飛散するか分かったものではありませんし、音を聞きつけた第三者が寄ってこないとも限りません」
「じゃあどうするんです」
「切断するのが手っ取り早いでしょうね」
風を操ることでかまいたちを作り出す。下がって下さい。言うや、文はするりと宙を撫でた。途端、小気味いい音を立ててベニヤ板が四散する。
「へえぇ、そんな使い方もあるんですね」
「貴女だってこれくらいのことはできるでしょう」
いくらか気持ちが軽くなったのだろう。微妙に口数が増えた早苗の戯言をいなしながら、もう一度。金属製の枠でもかまいたちは簡単に切り裂いてしまう。
このように折に触れて早苗に風の扱いを見せている文ではあるが、そうすることによって向けられる尊敬を受け止めることは苦手だ。
――貧乏性なのかしらね。
八坂神が教え上手ならこんなことをしなくてもすむのだけれど、とも思う。
考え事をしていても、文の手は止まらない。硝子の引き戸を力任せに持ち上げ、対象的にそこそこ慎重に脇へ除ける。
「行きますね」
早苗がこくりと頷いた。どことなく悲壮な面持ちだ。口数と裏腹に緊張感が抜け切っていない。それ自体は悪くないことなのだが、硬くなりすぎるのも問題だ。まあ気を楽にして下さい。言いながら、文は屋内へ足を踏み入れる。
「……埃が凄いですねえ。たったあれだけの動作でこれとは。ああ、まだ入らないで下さい。ここからは私の合図に従ってもらいます」
「はい」
校舎内は暗闇と静寂、そして独特の古ぼけた匂いで満ちていた。
「私が卒業したときには、築八十年くらいでしたっけ」
語るともなく早苗が言う。それから五年あまりが経過しているというから、おおよそ築九十年近い計算になるだろうか。
――九十年、か。
天狗にとっても決して短くはない期間だ。妖怪というものは六十年周期で記憶が薄れていく。九十年前の出来事ともなれば、よほど印象深くない限りは忘れてしまう。それだけの期間を生き、人間に使われてきた建物。解体しようということに何ら痛痒を感じないわけではないが、いっそ新しい生を全うさせてやることが、この建物にとっても幸福に繋がるのではないかと文は思う。
そんな文個人の感傷を抜きにしても、古い建物であることに変わりはなく。
そして、
「ふむ……しかし本当に埃っぽいですねえ」
換気が行き届いていないことも明らかだった。
「空気が淀み切っているではないですか」
「あー、窓を開け放っていればそれなりに風通りは良かったんですけどね」
苦笑しながら早苗が言う。この状態ではそれも望めないということか。彼女は袖口から何かを取り出した。かちりと底の釦を押すと、周囲を明るい光が照らし出す。
「それが先刻言っていた?」
「ランタンです。明るいでしょう」
「用意がいいですね。初めから中に入るつもりだったのでは?」
「そんなことはないですよ。鍵、かかってましたし。私だけだったら無理矢理入ろうなんて思いませんでしたもん。周りをぐるっと見て回るだけで終わってたと思います」
「私が来たから、ですか」
来なければ良かったのかと微かに思う。けれど、早苗はいいえとかぶりを振った。
「来てくれたから、助かったんですよ? ……一応。そのあとがアレでしたけど」
「ま、まあまあ」
灯明は霊夢が香霖堂で渡してくれたのだという。こうなることを予見していたのだろうか。十中八九勘ではあるのだろうが相手が霊夢であるだけに不気味なものを感じてしまう。
「何にせよ助かりますね。どうにも私は鳥目がちなものでして」
「妖怪なのにですか?」
「元が烏だからでしょうかねえ。まあ、いざとなれば便利な術の一つや二つはあるのですがね。あ、もう大丈夫ですよ」
文に続いて、早苗も屋内へ入る。すんすんと空気の匂いを嗅ぐようにして、
「なんか――この中、外の夏が閉じ込められてるような気がしますね」
「外の、夏?」
「幻想郷の夏より、もっと重苦しいような感じっていうか。うまくは言えないんですけど」
文にそんな感覚はない。
「雰囲気のせいではないですか。閉塞感とか、そういうものの類とか」
「そう――なんでしょうか」
早苗は煮え切らない様子で瞳を揺らした。
「……そうかもしれませんね。とにかく、探検してみれば分かりますよね」
「然り。と、それはいいのですが」
はい? と早苗は首を傾げる。
「探検なんていう軽い気持ちでいられると少々困るのですが」
「なんでです? あ、探検じゃなくて冒険の方でしたか」
「いやいやそういう意味ではなく。危険性を認識しているのかどうかという話ですよ」
「それなら大丈夫ですよ。文さんが守ってくれるんでしょ」
「う」
微妙な横目で早苗は言う。そう言われると弱いのだが。わずかにたじろいだ文は口中で文句を噛み殺す。やはり契約を交わしたのは間違いだったのか? それだけ子憎たらしい表情だった。放っておいた方が、いや、でも絶対怪我するしなあと思いながら、建物内を見渡す。
光に照らし出されて、黒々とした木目が浮かんでいる。見方によっては人の顔にも見えるななどと益体もないことを考える。外観と同じく古ぼけた室内だが、埃が積もっていることを除けば意外と手入れは行き届いているようだ。それにしては外との落差が少々大きすぎるような気もするのだが。
――まあ、それはこれから分かることよね。
「では始めましょうか」
「はい。えっと――」
記憶にある限りでは、この建物の教室と呼ばれる部屋は全部で六部屋あり、一階部分には二部屋、それに図書室と職員室という部屋があって、二階部分には四部屋が存在しているのだという。
まあ数字の小さい順に見て回ればいいか、と文は適当な計画を立てる。昇降口から上がって突き当りを右に折れれば一番目の教室があるらしい。その向こうは図書室なんです――早苗の言葉に従って、彼女の先に立つ。突き当りを左に折れた先には二年の教室、職員室と並んでいて、廊下の端にも階段があるそうだ。二階へはそちらから上がればいいか、などと考えて、だったら尚更右からね、と道筋を決める。図書館を調べ、引き返した後、職員室の先の階段を上ろう。
広くはない空間に、二人分の足音が響く。下駄で板の間を往く音など平素耳にするものではないから、ひどく耳障りに感じてしまう。
カンカンと。
高い音だ。
「文さんは、要するに何をするつもりなんですか?」
唐突に早苗が訊いた。
「要するにとは?」
「にとりさんに頼まれたとか言ってたじゃないですか」
「ああ」
埋蔵物の調査とここにいるモノを追い出す作業ですよ、と文は言った。
「鉱山のようなものだと言ったでしょう? そうした土地はまず地質調査から始めるものだと聞きましたよ」
「それは分かりますけど。何を追い出すっていうんです? ここには誰もいないように見えますけど」
「そう見えますか」
「……はい? まさか」
「いえいえ。今は何もいませんとも。包囲されていたりしたなら、私が放っておくわけがないでしょう。……ですがねえ」
「な、何ですか」
「時として出ることもあるのですよ。貴女が今、想像しているようなものがね」
早苗の足音が一瞬、乱れる。特に何をと指定したわけではなかったのだが、この建物について思うところがあったのだろう。薄気味悪い空気の中だ。無理もない。
「外界の変化について行けず、さりとて自力で幻想郷へ入ることが叶わなかったモノが、よくこういう場所に住み着くのです。あるいは幻想郷へ、というわずかな期待を持ってね。だからそうしたものに幻想郷へ着いたのだと知らしめるため、我々が出向くのです。こういうのは本来八雲の――」
言いながら、昇降口から伸びる廊下の突き当りを右に折れた文は、唐突に言葉を切った。
「どうしたんです?」
訝しげに早苗が訊く。彼女は文の影から身を乗り出し、そして同じく絶句した。早速指示を無視される形になったのだけれど、文は注意することも忘れて目の前の光景を眺めていた。
外側に面した窓一面に――否、教室側の窓にもびっしりと御札が貼り付けられている。内側にも施された目張り板の、その上から。隙間の一つも残さないかのように。
「これは、一体」
こぼれた呟きはほぼ無意識のものだった。札に書かれた文字を、目が追う。守矢神社。言葉は馴染みのものであるにも関わらず、全く知らない言語のように映る文字を。
「あー……ずいぶんと奇抜な装飾を好む学び舎だったのですね?」
「そんなわけないじゃないですか。私が通ってた頃にはこんなモノ……それに」
早苗は札にぐっと顔を近づける。弱視ではなかったはずだが。近くで見たところで妖力の質が分かるわけでもあるまいに。……いや、実際のところはどうなのだろう。考えて首を捻っていると、彼女はおもむろに振り返ってこちらを見た。
「これ、うちの御札じゃないです」
「あや?」
札の文字に見覚えがなく、また力の一つも込められていないらしい。本当にあれでわかってしまったのか。肝心なのは向こう側に残った親族の手によるものではない――つまり神の抜け殻となってしまった、外界の守矢神社関係者すら噛んでいない呪符であるらしい。
早苗に倣って顔を近づける。……確かに、ただ”書いただけ”というような薄さを感じるような、そうでもないような。文自身、信仰を感じ取れるのかと言われれば微妙なところなので断言することができない。神職の者が書いたとは到底思えないような筆跡であることだけは何となく分かるが。丁寧ではあるが術を知らない字であるように――見える。それが全ての窓に貼り付けられているのだ。それはどちらかというと”狂気”を感じさせるもので、背にうそ寒いものが這ったような感触を覚える。
文は写真機を取り出し、写真を撮った。記録しておけば何かの役には立つだろうか。一緒くたに解体してしまって差し障りが出なければいいのだが。
「力を込めていないのならばどうしてこんなにベタベタと貼ってあるのでしょうねえ?」
「分かりませんよ。でも」
「でも?」
「もしかすると、さっき文さんが言ったような、何かこう、妙なものが入り込んでやむを得ず、とか」
不定形のモノを表すように、早苗はゆらゆらと手を動かす。
「ふうむ。建物に何かを封印するための結界、ですか」
考えられないことではない――か?
――いえ。
「それにしては中途半端ですよ。入り口にはこの札はなかったではありませんか」
「えっと、ほら。そこまでは貼らなくても何とかなると思った――とか……」
「そこまで浅薄な考え方ではないでしょう。外の人間といってもね」
「……まあ、そうなんですけど……」
自信なさそうに語尾が萎んだ。とはいえここで結論を出してしまうのは尚早に過ぎるというものでしょう――と、文は取りなすつもりでそう言った。
「まだ調査は始まってもいないわけですからね」
「……ですよね。もう少し調べを進めて、考察するべきなんでしょう」
「何かご不満な点でも?」
いえ特に、と応じる早苗の声を背中で聞きながら、文は立ち止まった。青白い灯の中に、一年と書かれた木札が浮かび上がっている。
「開けますよ。覚悟はよろしいですね?」
「は、はい」
答えに続いて小さく喉を鳴らす音が廊下に響く。一拍置いて、文は眼前の遣り戸を引いた。ほぼ無音のままに木戸が開く。多少は軋んで耳障りな音がすると身構えていた分、少し拍子抜けしてしまう。
中は。
廊下よりもなお、暗かった。
――む。
文はすうと目を細める。距離があるためよく見えないのだが、ここもやはり内側から封が施してあるらしい。その密度は廊下よりも薄いようだが、してあるということには何ら変わりがない。
あるいは。
信仰のない呪物でも、折り重ねることで呪(しゅ)を成しているのかもしれない。こんな節操もない貼り方では無理だとは思うけれども。
とにかく様子を見ようと一歩踏み出した、その足元で、
かたん。
と、かすかな音がした。
「文さん?」
「いえ、何か蹴飛ばしたような――。灯をもらえますか?」
言うと、灯がすいっと降下した。二人で足元を覗き込む。
「……これ、は?」
「はて、何でしょうね」
盃に盛られた白い物体が転がっている。蹴られてもこぼれていないところからすると、硬い――のだろうか。文は屈みこんでそれに触れた。ざらざらとした触感が指に伝わる。やはり硬い。何となく思うところがあったので、掬ってみようと思ったのだけれど。
――まあ、いいでしょう。
味を見るには、
「あむ」
指先に付着した少量で十分だ。
「文さん!?」
何やってるんですか、と早苗が腕を引っ張る。が、文は素知らぬ顔で舌の上に白いものを転がした。
「塩です」
「は?」
「盛塩なのでしょうね、これは」
端的に言う。脱力したように早苗の手から力が抜けた。
「む、無茶しないで下さい!」
睨まれるが、文にとってこれくらいはどうということもない事態である。仮に毒であったとしても、よほど強力でない限り天狗の身に効きはしない。
『妖怪用に調合された特殊な毒物であればまあ危険だったのかもしれませんが、建物に張ってある結界を見るにその可能性は薄そうでしたからね。万一私に効くような毒があるのならにとりには少し待ってもらう必要があるわけで、要するに自分で実験をしてみたかったのです。仮にここから解毒できる場所に飛ぶとしても、数分ですしね――』
という事情を説明するのもなんだかまどろっこしいし馬鹿馬鹿しかっただけなのだ。”万一”を引き当ててしまったらそれこそ永遠亭くんだりまで退散すればいいのだし、保護をするという観点で見ても悪いことではなかったろうと文は思う。
「心配してくれるのならば、説明することもやぶさかではなかったのですがねえ」
「文さんの心配なんかじゃありません! 一人でこの中歩くのもな、何ていうか……怖いじゃないですか」
「あや」
――存外に可愛らしいところもあるわね。無理もないか。
思うが、口にすることはない。また一段と騒がしくなってしまいそうな予感がしたからだ。
今はそんなことよりも、この建物に対する興味が勝り始めていた。にとりからの頼まれごとという点を抜きにしても、御札や盛塩といった興味をそそられる部分が多い。これまでに見た外のどんな建物とも趣が異なっている。具体的な建築様式に特段の工夫は感じられないが、その後の歴史には見るべき点があるように思える。
そう。
――何かある。
早苗の保護を考えなければ、今少し無理が利くのだが。
文は気分が高揚し始める自分を感じていた。外れだと思っていた事件が、思いのほか面白そうだと分かったときの感覚だ。
何か楽しめるような存在がここにいるのかもしれない。心がにわかに奮う。そのためにはまず、この場所の情報を集めることが肝要だ。敵を知り己を知れば百戦危うからず。情報産業に関わる鴉天狗は、経験的にそれを知っている。
気を取り直して室内を見回す。
灯に照らされた部屋の中は、空っぽだった。埃っぽい空気の他には何もないようだ。
有り体に――いうならば。
予感とは正反対に。
「何も――なさすぎる」
「え?」
呟いた声に、早苗の疑問が飛ぶ。いえ、と首を振って、文は室内をぐるりと見回した。
学校――学び舎という以上、往時には机が並んでいたであろう空間。実際以上に寒々しく見えるのは、そうした生活の痕跡がわずかに散見されるせいなのかもしれない。
別れを惜しむ言葉が並べられた黒板。
床に刻まれた傷跡。
中途半端に整理されて放り出されたと思しき文庫。
その全てに降り積もった埃――。
ただ、足りないのだ。
文がこの部屋に予想していたものは、こんなつまらない、がらんとした光景ではなかった。魑魅魍魎のたぐいが朧朧に行き交う、正しくこの世ならぬ光景。故にこそ封印を施された――そんな理屈付けを受け入れざるを得ない場所。それが文の期待する光景だったのだ。
とはいえ、完全に予想外だったのかといわれるとそうでもないのだが。廊下に姿が見えなかった時点でおかしいとは思っていたのだし。
もしかすると本当に何らかの結界が発生している可能性も考慮しなければならないだろうか。死霊除去の手間を考えれば、封印の撤去も同じくらいに面倒だ。双方ともここにはないのだと確認できることが最も望ましい。それはそれで退屈なのだけれども。
思い入れがない分だけ冷静に観察できているのかもしれないなと、何となく文は思う。背後の灯が落ち着かなげに揺れている。早苗の内心を反映しているのだろう。
「しかし――これは。本当に資源としては少なそうですね」
文は努めて後ろを気にしないようにしながら、言った。
「典型的な木造建築のようですし。分解してみなければ分かりませんが、この音では」
とんとんと壁を小突いて、
「どうにも望み薄です」
「じゃあやっぱり解体しない、とか……」
控えめな早苗の意見を、言下に否定する。
「この場で朽ちるに任せるよりはいいですよ。木材とて豊富にあるわけではないのですから」
「……ですよねえ」
はは、と早苗は乾いた笑みをこぼす。
文花帖を取り出して、灯を頼りに書き付ける。『期待するべからず。さしたる収穫は望めない』。木材の集積と見ればどれくらいになるのだろう。思ってみたものの、その辺りの計算はあまり得意ではない。詳しいことはにとりに丸投げするか。考えながら後ろを振り返ると、早苗は黒板をじっと見つめていた。
「……早苗さん?」
「は、はいっ」
振り向いた瞳がやけに煌めいて見えたのは――否、きっと気のせいなのだろう。己に言い聞かせるように、文は小さく笑みを作って、
「次、行きましょうか」
と、言った。これ以上何もない部屋に留まっていても、得られる利益はない。早々に調査を終わらせて――そして、早苗の気が済むように仕向けて――帰ってしまうのが、自分にとっても早苗にとってもいいことのはずだと文は思う。
部屋の前後にある扉のうち、後ろを選んで部屋を出る。ちなみに前後とも鍵がかかっていなかった。放棄された建物という印象を改めて受ける。
慕われていたはずのモノが、唐突に幻想郷へと辿り着いてしまう。
早苗は妙に事件化したがっているようだが、過去にもいくつか例のあることだ。そのいずれも、結界が不安定となる時期なり季節なりを狙うように入ってきた。季節の変わり目というのはその最たるものだ。今回の件も、突発的な事故に過ぎないのではないかと文は考えている。
結界を超える物の仕組みを完全に理解しているのは、妖怪の中においてもかの八雲を置いて他にいないが、その一端くらいならば文たちにも知らされている。
現実と幻想を分ける境界――根幹をなす理論は、世界が論理的整合性を失わないため、消えたヒトやモノが向こう側において忘却されるということである。
在ったはずのモノが失われる。それは、幻想を気取られる端緒となりかねない危険だから。
故に記憶記録の全てが砂上の楼閣のように消失してしまう。幻想郷に迷い込んだ人間が外の世界に帰るために、博麗神社という正当な帰路を辿らなければならないのは、その過程で世界の記憶を再生させているからなのだ。
翻って。
幻想郷の側から博麗神社を介することなく外界へ干渉すること――これもまた、結界の機能として阻まれてしまう事柄の一つである。内側からどれだけ干渉しようと、外側には何の影響も及ぼすことができない。そう――たとえば、境界を直接弄るような力を持ってでもいない限りは。だからこそ、八雲と強い繋がりを持っていればいるだけ幻想郷の中では豊かな振る舞いができるのだ。無論、彼女らは容易に姿を表わすことがない上、友人関係になることは更に困難を極めるのだけれども。
人一人を帰すというだけでもこれだけ大事なのだ。建物を、となると何をか言わんやである。そのことは早苗にだって分かっているはずなのに、と文は思いかけて、けれどと思い直す。守矢神社がこちら側に入ってきた経緯は複雑だ。その存在を未だ覚えている人間がいるのかもしれない。残してきた親族とやらがそれに該当してしまうのか。
結界の理論を無視した、神力を使っての大術式。
その結果が守矢神社という巨大な存在の移動であり、忘却されていないのだとするならば。空隙に無理矢理戻すことも、
――できる、のかしらね。
実際のところは八雲にでも訊いてみなければ分からないのだどうけれど。あれを全能と頼むことは、あまり良い傾向でないと文はそう思っている。
――なにかいい餌でもあればなあ。
霊夢と同じような思考を――それとは知らないながら――止めないまま、何気なく図書室の扉を開けようと手を伸ばして、
「あれ?」
戸惑うような声と、明滅し始めた灯に動きを止めた。
「電池切れですかね」
「え、そんなことはないとおもうんですけど。もらったばかりなんですよ?」
「初めからある程度消耗していたのでは?」
振り返り訊くと、早苗はああ、と小さく頷いた。
「かもしれませんけど」
博麗の直感が投げて寄越したにせよ、こちらに流れ着いた時点で必要のないものとして扱われていた可能性は否定できない。ばかりか、香霖堂で売られている商品は、基本的に店主のお眼鏡に”適わなかったもの”ばかりである。最初から使える代物ではなかったのかもしれない。
耳障りな音を残して灯が消える。真っ暗だ。わ、と小さく言った早苗の手を、気流から逆算して掴み、どうしますか――と、文は訊いた。
「引き返しますか? これでは何も見えないでしょう」
「あ、いえ。ちょっと待ってて下さいね」
言うなり、早苗は灯を上下に振り始めた――ようだ。初めは軽く、徐々に強く。途中から文の手を離しての平手打ちも加わった。ばしばしという割と容赦ない音が廊下に響く。
はらはらしながら待っていると、始まった時と同様唐突に、何事もなかったように灯は元の光度を取り戻した。青白い光に自慢気な笑顔が浮かんでいる。
「どうですか!」
「いやはや奇跡の無駄遣いですねえ」
胸を張られても扱いに困る。というか動かなくなった機械に衝撃を与えて解決するのは外でも変わらないのか。にとりが工具でぶん殴っている姿を思い出して可笑しくなる。まああれの場合は加減というものをしないのでお釈迦になってしまうこともままあるのだが。
ともかく。
気を取り直して文は図書室の扉と向き合った。向こう側に若干の違和感は感じるが、自分の相手になりえそうな気配は感じられない。
「開けます」
「はい」
返答は決然として聞こえた。一連の騒ぎでようやく心が落ち着いたのか。ささやかな灯にささやかな感謝をして、扉を引いた。わずかに軋む音を立てたものの、案外すんなりと――、
開いた。
けれど。
そこで、文はまたしても絶句した。
「どうしたんです?」
灯と共に覗き込んだ早苗も、文に倣う。
淡く照らしだされた図書館は、放置された本棚と、散乱する大量の蔵書と、光を弱めるほどに舞う埃と、年季の入った机や帳場と、そして。
大量の”もや”の巣窟だった。
昏い闇に溶け込んで全容の把握が難しいが、十メートル四方程度と思しき部屋に所狭しと蠢いている。ざっと二十は下らないか。本棚の影にいるものも含めれば、その数は更に膨らむだろう。
「こ、これ」
「おそらく、そうなのでしょうが」
――そんな気配は。
なかった――というのに。今更のようにそっと扉を締める。気配を探りなおしてみるが、やはり些細な――この建物全体が発していると思しき、外の世界の残滓らしい感覚意外には何も感じられない。
「活力が枯渇しているから、とか? いえ、封印のせいで気配がかき消されているのでしょうか。ですが」
「ですが?」
「消滅する間際の行動として、これらが一箇所に留まって大人しくしているなんて。生き長らえる――いやいや、死んでいるのですが、自己の存在をできるだけ長く保とうとする生前の働きからしてですね――ために共食いを始めてもおかしくはないはずなのです」
「とっ、共食いするんですか、あれ」
「共食いと言いますか吸収と言いますか。見ていて気持ちのいいものでないことだけは確かなのですが」
軟体動物が絡みあうところを想像すれば近いのだが、そんなものを好き好んで想像する馬鹿がどこにいるのかと文は思う。思うのだが、そう考えてしまったということは要するに想像してしまったわけで、
「……ふむ。意外と盛塩という奴の効果も馬鹿にできるものではないですね」
「は?」
「あー、知らない方がいいことというものも存在する、ということです」
山盛りの塩で想像上の蛞蝓をかき消したのだ。
――しかし、どうしたものかしら。
最初からあれだけ大きな足音を響かせて建物内を闊歩していたのである。向こうから襲いかかってきていても不思議ではなかったし、正直、それを狙ってすらいた。人間の臭いに釣られた輩を片端から外に追い出していけば、探索もできて一石二鳥。早苗の保護を目論む思考の片隅に、そんな断片が紛れ込んでいたことを否定するつもりはないけれど、
「何というか――面倒なことになってきましたね」
「何ブツブツ言ってるんです?」
「あや、この建物に些か興味が出てきたというだけのことでして」
感光性はないのだったか。ざざざと虫の大群のように退かれでもしたら夢に見そうだが。早苗に灯を要求する。素直に差し出されたそれを、身を屈めて薄く開けた扉の隙間に置いた。
ことり。
内部に反応はない。
「近付いたら反応するんですかね」
文の上から身を乗り出して早苗が言う。危険を確かめている最中なのだから軽挙妄動は謹んで下さい――というのはもはや言っても無駄なことだろう。どうも危機感が薄いので見ている側は堪ったものではないのだが。
「行ってみますか?」
水を向けると、早苗は慌てたように首を振った。
「や、やめて下さいよ冗談でしょ。あんなのの中に放り込まれたくありませんって」
先刻の襲撃が心に残っているらしい。それならそれで大人しくしていてほしいものである。
「差し当たってはこの状況をどうするか、ですねえ」
「何か考えとかあるんですか?」
「特に何も。それなりにまとまった数ですから、敵対すると面倒だなと思う程度で」
「そ、それでどうするんです」
「どうするも何も」
追い出すのですよ――と、文は言う。どうやって、と問われていることは承知しているのだが、実際問題その方策が浮かんでいないことも事実なのだ。
「方法、とかって何か考えてるんですか?」
「方法と言われましても」
「……も?」
「まあ、どうにかして――としか言い様がないのですが。依頼のこともありますから、どうにかして出て行ってもらわなければ困るわけで」
「こんなもの満載で送り返すわけにはいかないですもんねえ」
「いえいえ、これは我々の共有財産ですって」
声をひそめて応酬しながら、文は室内に目を凝らしていた。
立ち並ぶ本棚の向こう、薄ぼんやりと灯に照らされた窓には、廊下のそれと同じ札が貼り付けてある。
「屋内に向けた封印であると仮定するなら」
「はい?」
「中にいるモノを、外へ出さないようにする目的だと考えるべきなのでしょうか」
ううん、と早苗は首を傾げて、
「そうとも限らないんじゃないですか? シェルターみたいに外敵の侵入を拒む目的かもしれないでしょう。気配を殺すような効果が――あ、そうでもなければ文さんが分からないはずないと思うので――あるのなら、中のモノの気配を外から気取られないようにする、外向きの結界である可能性もあるような気がしますけど」
と言う。自信は無さそうだが結界を扱うことは巫女の役割の一つでもあるのだから、一定の価値がある言葉ではあるだろう。
しかし。
「私の勘はどうも内向きの結界だと囁いているのですよねえ」
「経験上――ですか?」
「それも含めて、ですね」
文もまた、早苗に倣うように首を傾げた。
「どちらなのか。それさえ分かれば対処法も――」
言いかけて。
――対処法?
ふと、文の脳裏を疑問が過ぎった。
果たしてそんなものは必要なのか?
「文さん?」
急に黙り込んだ文を気遣うように、早苗が声を掛けてくる。
「ああ――いえ。果たしてそんなものを考える必要はあるのかな、と思いまして」
率直に答える。
「正面切って突き崩したところで、我々が不利益を被るような事態は考えづらいと思うのです」
「じゃあ」
「最終的に何かを防ぐための結界であるとするなら、内向きであれ外向きであれ破ってしまっても構わないのではないでしょうか。どちらも同じような空間の”質”でしょうし、どうせ入ってきて欲しくないモノも出て欲しくないモノも内外に等しく揃ってしまっているわけですから」
「……なんですか、その無茶苦茶な屁理屈」
早苗が呆れたように息を吐く。
考えてもみて下さい――と、文は根気強く言った。
「我々の目的はこの建物の調査であり、加えてあれらを追い出すことです」
文は図書室の中を指す。
「ところが、先刻貴女が襲われたことからも明らかなように、あれらは幻想郷のルールを――この場合は弾幕ごっこのことですが――理解することはできません。根本的に話が通用しないためです」
「さっきのは文さんが言葉で追い払ったじゃないですか」
「あれはただ単純に彼我の力量差を感じ取ったから逃げたに過ぎませんよ。私に勝てそうだと判断すれば、もろともに襲われていたはずです」
「知恵の有無とは違う――んですか?」
明確に違いますね、と文は言う。
「死魂というものは学習することがありません。あれらの行動原理は常に生前の本能なのです。この部屋にいる者達はもともと力の弱い妖怪であったと推測されますから、なおのこと知恵などというモノとは無縁なのですよ」
「幽霊と同じじゃないですか」
「幽霊はあくまでも気質の塊であり、此岸の存在です。ある程度意思の疎通が可能ですしね。強い妖怪であればあるほど孤高を保ちたがるものですが、狭く深い付き合いは誰しもが持っています。そういう者達が葬送して、普通は転生をするはず。これはそういった意味で行けば、誰にも送られることのなかった、力のない妖怪の成れの果てなのです。言葉が通じる道理はありません」
だったらどうするんです――と、早苗は焦れたような口調で言った。
「ここで議論しても無駄、あれをぶっ飛ばすことが最善だとでも言うんですか?」
「最善なのか、という点に関しては判じかねますが、ここでぐだぐだと喋っているよりはマシな結果を掴めそうな気がするのですよね」
「はあ」
「あー、ほら。謂れですよ、謂れ。我々が導き手であるという」
「またですかあ? とりあえずそれ出しとけば私が黙るとか思ってません?」
早苗は嫌そうに声を上げる。反応がいちいち大きい。外にいた頃の習慣が一時的に戻っているのかなあ、などと愚にもつかないことを考える。普段の彼女はもう少しこう、物静かな印象があるのだけれど。
「あやや、重要なことなのですよ?」
全てはそこに帰結するといっても過言ではないのだ――ということにしておく方が通りがいいだろう。にとりの依頼という大義名分を立てながら行動すること。それを第一に考えさせなければ、早苗がこの建物の境遇に感情移入してしまいすぎる気がするからだ。
――半ばは本当のことだしね。
「私がにとりの頼み事を引き受けたのは、何も友人としての誼ばかりが理由ではないのです。サルタヒコの神話に関わっているからこそ、引き受けざるを得なかった部分というのが大半で」
「分かりました。好きにすればいいじゃないですか」
早苗は投げやりに言うと、すっと立ち上がった。
「私、ここで見てますから。先導役がどういうものなのか、早く実演して下さい」
「あやー」
機嫌を損ねてしまったか? まあいい。動かないという確証が得られただけでも良しとしよう。
結界が張り巡らされた戦場を、全て風で洗い流す。古くから天狗が得意としてきた戦法だ。天の八衢。天狗道の開風。それらは皆、古い技を対人用に仕立て直したスペルである。それを本来の用途に使ってやれば、この程度の建物は跡形もなく消し飛ばすことも可能だろう。
問題は。
他の部屋に、まだ死魂化していない妖怪がいるかもしれないということだ。それを見殺しにすることは、先導役の倫理に反する。よって、建物全てを一掃するやり方は最善ではない。それらの命を幾許か削ってもいいというなら、外に出てまるごと吹き飛ばしてしまうのが一番だったりするのだが。
――結局、限定的なものに限るべき、か。
ほう、と息を整える。
全力を出せないことには不満を感じてしまうが仕方ない。仮に”封印”が幻想郷に来たことで何らかの力を得てしまっているとすれば――それも幻想郷では事欠かない事例だ。ただの古い図面が魔法陣として扱われ、また実際に何らかの魔物を召喚してしまうこともままある――ここらで一つ、風穴を開けて様子を見ることも必要だ。結界術に詳しい者が身内にいないわけではないが、組織のつてを使うのは苦手なのである。破ってみることで得られるものもあるだろう。
――よし。
やろう。身をもって得た実証結果の方が、にとりにとっても使いやすいはずなのだし。
「私がいいというまで、絶対に中へ入らないで下さいね」
「動きませんし助けもしません」
「ふむ。ま、そういうことでよろしくお願いします」
扉を大きく押し開ける。不穏な音が廊下に響く。
文はつかつかと室内に踏み入った。
反応はない。どれだけの期間放置されていたのか分からないが、死んで期間が経つほど死魂というものは新しい肉体を求めて彷徨う行動力は低くなり、反対に三途の川を渡る確率は高くなる。
ちょうどいい。
動かないのならば、それなりの対処をするまでの話だ。
何故動かないのか。
あるいは――動けないのか。
それを今から試してやる。
葉団扇を鞄から取り出す。
戸惑う声が、聞こえた気がして。
けれど。
文はそれを無視した。
団扇を。
振るう。
どっ、と豪風が室内を食い荒らす。
本が舞う。
棚がわななく。
床板が騒ぐ。
巡れ、周れ。
書棚が音を立てて移動し始める。宙を舞う本の数が増えてゆく。紅魔館に売りつければまとまった金額になるかもな、と思ってはみたが既に手遅れだった。ボロボロになってしまえば買い取ってはくれないだろうと適当に考える。風を起こすという作業は、文にとって斯様に何も考えずとも為せる業なのである。
部屋の全てを飲み込むように。
耳を塞ぎたくなる轟音は、けれど文には子守唄のようなものだ。
三振り、四振りと回数を重ねるごとに音は大きくなり、風の圧はいや増していく。
「歓迎しますよ。新たな同胞たち。――と言っても、あなた方に言葉が通じるとも思えませんが」
苦笑。
それでも。
手は止めず。
弾幕に言葉を込め、言弾と成す。
言葉が通用しない相手であるからこそ、この方法は最大の効果を発揮する。
八衢下る天つ神を、国つ神が迎えた作法。それはきっと、荒っぽい歓待の形を借りていたに違いない。天狗の間の通説だ。でなければ異民族を受け入れることは、容易でなかったはずだから。
先達たちがそうしたであろう、多少手荒な手段を以て、文は”彼ら”を迎え入れる。天狗流の、そして現在の幻想郷のルールに則って。
――我々は全てを受け入れますとも。
部屋を舐めるように膨張した風が、死魂を飲み込みながら駆け巡り、
「風符「天狗道の開風」!」
瞬間、臨界点を超えた。
図書室の壁を一気に打ち破り、風は外へと走り出る。轟音。もうもうと埃が舞う。取り返しの付かない大穴が口を開けている。封印は。壁ごと根こそぎ吹き飛んでいる――が、室内にさしたる変化はない。黒いもやの個体数が零になったこと以外には。やはり、結界と見えただけの何でもない代物であったのか。
誤算があったとすれば、一つ。
開口部が東を向いていて、西日が差し込んでくることはなく、室内の明度があまり上がらなかったことだ。誤算と言い切ってしまうのは無理があるか。明るくなればいいなという程度に考えていたので、あまり落胆することはなかったのだけれど。秋の日はつるべ落とし。予測以上に日暮れが早いことは不思議でも何でもない。
ともあれ、閉塞感は幾らか和らいだ。
――うむ。
残響音に耳を傾け、満足感に浸る。そうして、文が自分の仕事に頷いたときである。
「――ぁにやってるんですか!」
怒鳴り声は後ろからだ。振り返ると、眦を吊り上げた早苗が灯を片手に駆け寄ってくるところだった。
「何、とは?」
「とぼけないで下さい! これ、明らかにやり過ぎじゃないですか! オーバーキルですよオーバーキル!」
「いやだなあ、既に死んでいるじゃありませんか」
「そういう問題じゃないですって!」
「流儀の差ですよ、そこは。あれくらいは貴女だって経験したはずでしょう」
「へ?」
霊夢さんと一戦交えたでしょう――と、文は言った。
「それと同じですよ」
「同じわけないでしょう! 相手は無抵抗な――無抵抗な……」
「死魂」
「っ」
早苗がはっと言葉に詰まったところを見計らって、文は畳み掛ける。
「あれらは死者なのです。生者の流儀――言葉が通じない以上、別の手段で通過儀礼を済ませる必要がある。まして先ほどの弾幕はただの弾ではありませんでした。そのくらいは貴女にだって分かったでしょう?」
「それは――でも」
「死人は火葬(ひ)を以て送られ、冥土の住人となります。死魂を弾幕(ひ)で以て迎えることの何がいけないというのです」
だからって何も吹き飛ばさなくたっていいじゃないですか、と早苗は憤る。
「普段の文さんならもっと丁寧に――」
――それはあんたが一緒にいるからよ。
「……と、言えればいいのですがねえ」
「――やるでしょう……って、何か言いました?」
「いえいえ、別に。まあこの程度で驚いてもらっていては困ります。この先、生者がいる可能性は否定できないわけですし。そのときになったら、言葉での通過儀礼というものをご覧に入れられることもあるでしょうがね」
「露骨に誤魔化さないで下さい!」
「露骨でなければいいのですか?」
そういう問題じゃないです! と早苗は地団駄を踏む。文はまあまあと適当に宥めて、
「粗末なものとはいえ結界を破ってしまったことですし、先を急ぎましょうか」
と続けた。当然、早苗はますます憤慨する。
「ほらやっぱり誤魔化してる!」
「ああ、仰る通り、放っておくのも不用心ですかね。ちょっと失礼」
「わ、ちょ」
結界代わりに風を張り巡らせた文は、早苗の言葉を雑に受け流しながら図書室を出る。廊下にも僅かではあるが光が入っていた。それによって浮かぶ光景が大量の札だというのは正直ぞっとしないものがあるのだが、力を持たない――あるいは、持っていてもほんの小さなものである――と理解した今となっては不気味なだけの装飾としか映らない。
――大したこと、ないのよね。
本当に――と思って、文は思考を切り替える。
目指できる距離にまで近づいても反応を示さなかった死魂。あれらがどこから来たのか。興味の対象は、その一点に移り始めていた。外の世界で死んだのか。それにしては、数が多すぎる気がした。この建物が建っていたのは、仮にも八坂神奈子の加護がある土地だったのだ。そう短期間で悪いものが寄り集まってくるとも思えない。他にも、分からないことがある。封印を解いたことで何も起こらないのは何故だ。”封印”に力があって、それ故にあの死魂たちが動かなかったのだと仮定すれば、一部とはいえそれを壊したのだから、幽霊が流入してきてもいいはずだ。しかし出入りを禁ずるまでもなく、そんなことが起こる気配はなかった。
で、あれば。
まだ封印の力は生きているのか――?
「文さん?」
急に黙りこくった文を心配するように早苗が声を発するが、その声は文の耳に届けども、入ってくることはなかった。
建物の由来は?
死魂の由来は?
ここに妖怪は住んでいたのか?
早苗は気付いていたのか?
気付いていたのならば放置はすまい。ならばやはり、彼女が通わなくなったあとにこの状態になったのか? だとすれば――。
「文さんってば! もう!」
気分が高揚している。
風を起こしたことが引き金になったのだ。否――。
なってしまった、というべきなのか。
悪い、癖。
そんな思考を持つことすら、今の文はできていなかったのだけれど。
5.東風谷早苗
東風谷早苗は将来を嘱望される人間――否、現人神だった。
しかし、それはあくまでも身内でのことである。外界と触れ合うようになって――特に"イマジナリー・フレンド"が徐々に姿を消し始める幼稚園児の頃から――早苗は自己と世界とのギャップに悩むようになる。
すなわち。
神の実在とそれを認めない人々との狭間に彼女は置かれ、以来悩み続けることを余儀なくされたのだ。
実際に見え、触れられ、けれど他の人々は実在を信じてくれすらしない神を取るか。
そんな寂しがり屋な神様たちを認められない人間の側を取るか。
幼い早苗にとって、その二択は究極の選択だったといってもいい。両者を融和させようと、一時期は慣れぬ力を使って学校そのものに干渉したりもした。おかげでミステリースポットとして有名になりかけたこともあったけれど、それは早苗の望む方向とは違う融和の――融合の姿だった。
学校は、そんな早苗の空回りをいつも泰然と受け止めてくれる場所だった。
親族が無駄なことはおやめくださいと止めたって。
早苗が納得するまで抗い続けられたのは、いつも変わらない姿で学校がそこに在ったからだった。
廃校になることを知っていれば。
守矢神社に残された僅かな権力を頼んで反対運動をするか、あるいは幻想郷へ連れてくることを選んだかもしれないくらいには、その信頼は篤かったのだ。
からかわれたり、疎んじられたりした場所でもあったから、良いイメージが勝っているということは決してないのだが。
まあ――こうして校舎の中に入ってみるまでは、そうした思い入れもすっかり忘れてしまっていたのだけれど。それだけ、この一年が色濃かったということである。
とにかく。
また自分のような子どもがまかり間違って外の守矢に生まれたとしたなら、受け皿となるのは自分の力が注ぎ込まれたここのような場所であって欲しいと思ったから、早苗はどうにかしてここを元の環境へ――、
「風符「天狗道の開風」!」
その思考を遮るように、ごお、と烈風が室内を暴れ回り、轟音を残して窓から飛び出した。教室が半壊し、裂け目から満月が覗く。容赦がない――としか思えない――一撃。無論、文が部屋にいた”もや”を打ち払うために放った一撃だ。
「あ、文さん!」
大声を張り上げるが、どうも文の耳には届いていないらしい。彼女がこちらを一顧だにすることはなかった。凛とした後ろ姿からは感情が窺えなくて、早苗は気後れを新たに抱く。気付いていないのか、それとも意図してこちらを無視しているのか。図書室を出て以降、こういう場面が何度かあった。その度に同じような感情を抱き続け、ここへ来てそれがついに臨界点を超えたというわけだ。
怒っているのかもしれない。
ただ――、直截に怒っているのか、などとは訊けない。それで本当に気分を害されて放り出されては堪らない。契約は結んだといっても、なにせ初めてのケースなのでどこまで信用していいものか判断がつかないのである。
「文さんってば!」
「あや?」
半ば自棄になって呼ぶと、文はようやくこちらに顔を向けた。あかがね色の瞳がランタンに煌めく。反射的に怯みそうになる心をぐっと押し殺して、早苗は怒鳴った。
「あや、じゃないですよ! よりによって私の前でそんなにどんどん壊すことないじゃないですか!」
「と、言われましてもね。追い出すことが第一義なわけですから。私だって好きで壊しているわけではありませんよ? 壊さないでどうにかするというのは――あー、そう、面倒ですしね」
「め、面倒って! 面倒って言った!」
感情に任せて叫ぶ。そうしないと押し返されてしまいそうな気がしたからだ。同時に何だか文に見せたことのない自分が露呈してしまっている気もして、いくらか恥ずかしくなったのだけれど、取材の矛先がこちらに向いていないのをいいことに、早苗はその感情を封印してしまった。
やってやれないことはない――のだろう。多分。文にその程度の実力があることは、早苗も重々承知している。どうせ壊すことになる建物の事情を斟酌することが面倒だと言いたいのかもしれない。言葉でなく態度で語れば、文句も出づらいと思っているのか。他者との関係において、彼女は重きを置くべき場所というものを心得た上で動くことが多い。この場合、その重点が早苗ではないということなのだろうけれども、
――それでも。
もどかしいものはもどかしいのである。
早苗は文のことを、力量的にだけではなく人間関係においても信用している。信頼していると言い換えても構わない。だからこそ、外での文の行動に信憑性を感じてしまったり、こうして抗議の声を上げることができているのだ。これが見ず知らずの妖怪であったなら、もっと物怖じするか、あるいは調伏するといった行動に出ていただろう。後者の手段を取ることができないのも、彼我の実力が開いている、と早苗が思っていることに起因している。
当たり前ではあるのだけれど、文とは一年前、こちらに移ってからの付き合いである。取材を口実にいろいろと面倒を見てくれたので、いいヒトなんだろうなと思っているのだが、他人からの評価があまり芳しくないことも知っている。多少の二面性は誰しも持っているものだと思うので、あまり気にしてはいないのだけれども。口が減らないことでも有名であり、滅多なことでは自分のペースを崩さない。だから、こうして言葉を重ねることは無駄なのかもしれないけれど。
「す、少しは私の気持ちも考えて下さいよ」
苦し紛れに言ってみる。しかし、その言葉は軽く笑って受け流されてしまった。
「まあまあ。そんなことより」
「そんなことって――」
先述のようなイメージがあったにしても、大事な思い出であることは変わりないのだ。だからこそ、壊されることには抵抗があって――、
「死魂の発生している場所には、規則性があるようですね」
「……はあ」
あまりにも簡単にスルーされたので、早苗の言葉は行き場を失って口中を転がった。結果、ため息のような返答をしてしまう。文はええ、と頷いて、
「図書室、職員室、そしてこの部屋。共通点はなんだと思いますか?」
と言った。
――共通点?
そう言われても、文が行ったことのインパクトが強すぎて思い当たるフシがない。
現在地は二階の三年教室――つまり、校舎を入って左側の突き当たりにある階段を上ってすぐの教室である。一、二年の教室とは打って変わり、机や椅子が残されたままになっていた。運び出す手間を惜しんだのだろうか。その割には盛塩や札は貼り付けられていて、侵入したものに対する何らかの意志が感じられる。職員室の大きな机に関しては納得もできるのだけれど。妙にアンバランスさを覚えてしまう。強いて共通する点を挙げるならその点くらいで、他に何かあったかと言われても何も思い浮かばないのが現状だ。
早苗が率直にそう言うと、
「分かりませんか? ……そうですか。どうしましょうね、言わないでおくというのも面白そうですが」
などと、文はさも楽しげに言う。入ることを渋っていた――少なくとも早苗はそう思っている――ときとは大違いだ。何か変なスイッチを押してしまったらしいが、こちらも早苗には思い当たるフシがないのだった。何だか自分がとんでもなく間抜けのような気がして凹んでくる。
「あや、そう気落ちしないで下さいな」
文は心なしか慌てたようにそう言って、早苗に向かって解説をし始めた。
「共通点、三部屋におけるそれは、"生活の記憶"です」
「……なんですか、それ」
「机、本などまあなんでもいいのですが、ともかく人がいた往時の様子が残っている場所に"もや"は多く巣食っているようなのです」
「私が言ったのと同じようなものじゃないですか。モノが残っていることが共通点なんでしょう? それが一体、何だっていうんです」
「ですから」
文はじれったそうにカンカンと足を踏み鳴らして、
「重要なのはそこではないのですよ。使っていた者の痕跡を多く残している部屋であること。すなわち、建物自体の"記憶"が死魂の根源となっている。それが共通点であり重要なことなのです」
と言った。建物の記憶――? と早苗は懐疑的な目を文に向ける。
「それがどうやって死ぬっていうんです? モノなら朽ちて腐るのも分かりますけど、記憶なんて形のないもの――」
「モノの持つ記憶というのは」
付喪神になる絶対条件なのです、と文は早苗の言葉を遮った。
「はあ……?」
「つまり、外の世界で付喪神となり、なったとしても卑小であるが故にすぐさま死に至ってしまい、そしてその度に幻想の度合いを強めた建物自体が、最終的に幻想郷に入ってしまったのではないかと思うのです」
「付喪神って一つのモノから一つしか生まれないんじゃ」
「付喪神は人間で言うところの幽霊のようなものです。一つのものから複数が生まれることも往々にしてあるのですよ」
前例はいくつか存在しているのだという。使われなくなった建物は言うに及ばず、乗り物や、挙げ句の果てには土地も幻想郷へ来ることがあったのだと。
「図書室の封印を壊したときに、外から幽霊が入り込まなかったところを見たでしょう? 私も一応、封をし直しはしましたが、それ以前の問題として、ね」
「付喪神であることとどういう関連があるんです?」
「生命体の中に生命体は入り込めないということですよ。生命とは死を内包する存在です。食事などはその最たる例でしょうか。死ねば複数の幽霊として分裂することはありますが、複数の幽霊が融合することで一個の巨大な幽霊になる、という話はありません。”生命の重ね合わせ”は此岸において、原理的に存在し得ないのです。それは彼岸における最大の秘術。融合させることで新たな生命を生み出すというのが、彼らの言う輪廻転生のやり方なのですから」
「……じゃあ、どうして私たちは入れているんですか」
「その辺りの関係性はまた別の難しさを孕んでいますね。共生という生存形態があるでしょう? あれは生命と生命が寄り添いあって生きるものですし、重ね合わせとは若干異なった形態の生き方ではありますが、似ているといえば似ていますかね」
「はあ……」
「共生という形態が分かりにくいのでしたら、我々をはっきり異物と断定することもいいでしょう。その場合、何らかの免疫反応が見られてもおかしくはないと思うのですが――それにしてはこの建物、静かですから、異物とは看做されていないのかもしれないですね」
……よく、分からない。
なんだか文が物理か数学の教師のように見えてきた。
「死は特別な場合を除いて不可逆なものです。そう――幻想郷に入ることと同じように。この建物の記憶が死に逝くということは、建物自体が付喪神となり始めていることに同義です。形を持たぬが故に死ねない、ということはありえません。早苗さんの記憶だって、日夜”死んで”いるでしょう? それらは微生物と同じように食物連鎖の最下層に位置する幽霊として辺りを彷徨っているわけです。ぷらんくとん、とか言いましたっけ。緑物なんかが近いですかね。仙人の喰う"霞"という奴は、元々そうしてできているものでして。それを食物連鎖の上位に位置する我々が食らって身の内に取り込み、力となすわけですね」
記憶という奴が気質的生命なのか物質的生命なのかを論じなければこの辺りは決着を見ることができないかもしれませんが、と文は言う。
「死魂化をしているところから見れば、やはり気質的生命なのでしょうかねえ」
「妖怪と同じような――ですか」
「はい。ま、ことこの建物の記憶ということに関しては、貴女のほうが私よりも詳しいのではないかと思われますがね」
「は?」
文は意味深な表情で早苗を見た。
――まさか。
「……私たち守矢が幻想郷へ来たことが関係しているとでも言うんですか」
「まるでないとも言い切れないのです。これだけの存在を幻想とするには、よほど強い"縁"が必要ですからね。守矢神社という大規模な幻想化が行われた土地でなければ、普通に朽ちていったのではないかと思いますよ。でなければ、都の建物などはいくらでも付喪神となっているでしょうし。早苗さん、ここに来ていた頃に何かしたんじゃないですか?」
思い起こせば。
身に覚えがあるようなないような。
「水泳の授業が嫌だから雨を降らせてみたりとか、長距離走が嫌で雨を降らせてみたりとか……」
「……運動嫌いだったのですか?」
「……まあその、はい……」
微妙に呆れたような視線が頬に痛い。
「そ、それが関係あるんです?」
「そういう小事が積み重なって、あるいはこちら側に天秤が傾いていたのかもしれませんねえ。だからこそ、記憶の死魂化が――ひいてはこの建物の付喪神化が起こり始めているのではないかと。あくまで仮説ですがね」
言いながら、文は教室を出ようとする。
そんな。
それでは――。
「私たち守矢がここに来たことで、学校が引きずられるようにして越境し、そしてここでまた付喪神となり始めている――?」
「有り体に言えばそうなりますか」
何となく間延びしたような声で文が言う。
否。
これは。
ショックで聴覚がおかしくなっているのだ、と早苗は気付く。きぃん、と耳鳴りまで聞こえ始める。ぐらぐらと平衡感覚が失われているような錯覚に陥る。眩暈。有り体に言えばそうなりますか。リフレイン。私たちのせいで、故郷の学校が失われたのだ。違う。私が分別のない力の使い方をしたから、そうなってしまった。帰せない。不可逆の結界。二度とこの校舎が向こう側の人間を迎え入れることはない。私のせいだ。私が悪いんだ。私の――私さえ、こんな力を持たずにいれば――?
「深く考えないで下さい、と言っても無理でしょうが」
背中越しに文が言った。はっと早苗は我に返る。
「これはまだ仮説の段階です。証明することができなければ、貴女が責任を感じることはありませんよ」
「……はい」
そう言われても消沈することを止められはしなかった。気持ちを切り替えられないまま、早苗は文の後を追う。
「仮に貴女の責任だったとしても、我々のように感謝する者だっているわけですし」
慰めになっていない言葉を文が口にする。流石に自分でも言っておいてまずいと思ったのか、文は取り繕うように言葉を続ける。
「きちんと供養してやれば、次は何がしかの命としてこの世界に生まれ出ずるかもしれませんよ」
「……あり得るんですか?」
「私のように長く生きていれば、信じ難いことなど山のように目にするものです」
貴女だって長く生きる予定があるんでしょうに――と、文が言ったときだった。
またしてもランタンが明滅を始めて、
「あや」
が、今度は何事もなかったようにあっさりと元に戻った。目線の高さまで掲げたそれを、早苗はちょいちょいと突ついてみて、
「……何なんでしょうね」
「先程の部屋に入るときには反応しませんでしたから、中のモノに反応しているわけではないのでしょうが……。単純に調子が悪いだけなのでは?」
言いながら、文は四年のプレートが下げられた教室を開放する。
中は。
ただ、がらんとした空間が広がるばかりだ。机も椅子も何もない。黒板の落書きだけが虚しく残っている。記憶というのならあれも含まれるような気がするのだが、その周辺に死魂がいる様子はなかった。一過性の思い出――記憶に関しては付喪神の条件を満たしていないだけなのだろうか。記憶が抜け出してプランクトンと同じ位置に属する、という先達ての説明と矛盾しているような気もするのだが。
もはや中を覗き見ただけで、文はとっとと次の教室に移りかけている。文さん。声を掛けると、
「死んでいないものがいるとすれば、そちらに話を聞いたほうが早いでしょう?」
と言う。それはそうなのかもしれないが、確証もなく歩き続けるだけで生者に巡り会えると考えているのだろうか?
すっかり暗くなった廊下を、足音が反響する。
校舎中央の階段前を横切り、木板の間から薄く差し込む月光を見ながら――実際、足元を照らすには全く足りていない。ランタンがあってよかった――五年の教室へと向かう。文の歩調はここへ入ったときと比べてずいぶん早くなっている。鳴り響く足音を隠そうともしていない。熊よけの鈴みたいなものなのかな、と考えて早苗は一人、何となく納得した。強い妖怪であればあるほど、直接の戦いは避ける傾向にある――のだったか。
供養。
騒がしくすることで、死者の魂を弔おうとする文化などもあるのだったか。何かの漫画で麻雀をしている場面があったのを思い出す。ならばこれは、文なりの――幻想郷なりの葬送のやり方なのかもしれない。弾幕で以て迎えると言っていた先頃の説明とも、また矛盾してしまうのだけれども。
――案外、文さんってば何も考えずに喋ってるんじゃないかしら。
がらり。
思う間に、五年の教室が開けられた。目を細めて中を一瞥した文は、早くも手元に風を作り始めている。その横合いから強引にランタンを突っ込んで観察すると、整然と並べられた机の間に数個の黒いもやがいるのが見えて、
「風符「天狗道の開風」!」
瞬間、鼻先を掠めるようにして大風が外壁を抉り抜いた。ぼんやりと提灯持ちをしていた早苗は、度肝を抜かれて尻餅をつきそうになるのをこらえて、三歩ばかり後ずさった。
裂傷のように屋根が割れ砕けて。
月光が。
強く見える。
「あ――危ないじゃないですか! やるんならやるって言って下さい!」
「加減はしていましたから大丈夫です。急に覗き込んだのはどっちですか」
「そういう問題じゃ――」
怒りをぶつけようとして、止めた。ようやく、いつだか誰かに言われた言葉を思い出す。文は取材が絡んだりすると性格が変わるというか、周囲が見えなくなることがあるのだと。
――さっきからアレなのは取材スイッチが入ったからだったのかなあ。
ぼんやりとそんなことを思う間に、文はすたすたと次の教室に向かっている。何にせよ、これでまた一つ仮説が証明されてしまったのだが、着いて行くことに必死なため、それに思い至ることもなく五年の教室を後にする。
文は、最後の戸を前に心持ち引き締まった表情をしていた。隣に並び立つと、
「開けますよ」
そう言って小さく呼吸をした。緊張、しているのだろうか。そんなはずはない――か?
「気配はしない――ですね」
「動くモノがないとしても、何もいないとは限りませんよ」
「セオリー通りなら、この教室の中にボスとかいたりするんですよね」
「縁起でもないことを。私としてはその方が都合よいのですがね」
行きます。
改めて言うと。
文は白い指にぐっと力を込めて。
引いた。
がらり。
間髪入れずにランタンを差し入れる。
そこに死魂はいなかった。
代わりにいたのは、
――生徒?
瞬間、早苗はそう思った。古めかしい感じの学生服――学ランを着て、机にきちんと座っていたからだ。微かな違和感を覚えたのは、彼が一人だったためなのか。否。そうではない。頭、というより服を着ても隠れていない部分が不定形に揺れている。服装から直感的に男性だと思ったのだが、確証が持てない。そのせいで不気味な印象が拭い取れないのだ。
「死魂化が始まっているのでしょう」
細い声で文は言って、つかつかと室内へ入っていく。
危なくないんですか――そう問うことも忘れて、早苗は文の後姿を目で追った。免疫反応。それが作り出した人形、なのだろうか? 考察は薄ぼんやりした尻尾を残して去ってしまった。人影はかろうじて原型を留めている顔をぼんやりとこちらへ向けている。光に照らされた、肌色。けれど顔貌は判別できない。不思議な――不気味な感覚だった。
「私は鴉天狗の射命丸文と申します。二、三訊きたいことがあるのですが、宜しいでしょうか?」
問いかけに、相手は反応を示さない。
「貴方は――"何"です?」
それを気にする風もなく、文は歩と問いかけを重ねていく。
けれど。
こちらに気付いていないのか、相手はやはり何も反応しない。言葉での交渉。それを見せてくれようとしているのか。だったら、言葉が通じる相手だと文は判断したということなのか?
――こっちに気付いてないはずないと思うんだけど。
思い。
近付いて行く文を追って、早苗が敷居をまたいだ、
そのとき。
怨、と声のようなものを"もや"が発した。
――何?
考える間もなく、
「早苗さん!」
鋭い声が文から飛んで、
ぱりん。
「きゃっ!」
やけに軽い音を発してランタンが割れた。
真っ暗だ。
眼前に風を感じた。
揉みあう、音。
動かなかったのはこちらを油断させるためだったのか!
――やっぱり。
私たちを排除しようとしているのか。免疫反応。
息遣いが聞こえそうな場所で、文が相手を抑えている。早く逃げて。言われるが、他人事のように体が動かない。
まただ。
鳥目。
断片的なフレーズ。
もしかして、文には相手が満足に見えていない――?
「ぐっ」
くぐもった声が聞こえた。文が危ない。そう思った刹那、体の硬直は解けていた。
「文さん!」
叫ぶと同時にスペルカードを発動。
開海「海が割れる日」。
ざざ、ざ。
ざ、ざざ。
潮騒の錯覚。満ちた空気の粒子一つ一つを知覚。広がる空間を海と見立てる。教室内の物体は、海底に沈むサンゴの如く。思いの欠片は舞い踊る魚。空気を水と置換して。早苗はそれを割り開く。
砕けろ。
開け。
この磯は、私たちが泳ぐにはあまりに狭い――!
押し開く弾幕は引き潮のように速やかだった。振り下ろした右腕に従い、校舎が音を立てて破砕する。
月光。
目と鼻の先に迫った、二つの人影。
やってしまった、という感情を覚える間もなく、早苗の身体は勝手に動いた。
否。
動かされた。
人影が一気に遠ざかってゆく。
文が腹部を抱えて飛んでいる。
「一旦、退きます!」
声。
浮遊感。
ほぼ同時に訪れる感覚。
満月が空に浮かんでいる。
早苗と文は、校舎から外へ飛び出した。
◆
「大丈夫でしたか、早苗さん」
「あれくらいの高さ、飛んだうちに入りませんよ」
早苗は肩で息をしながら、せいぜい強がってみせた。昇降口を覆うポーチの下で――要するに学校へ入る前に座っていた場所だ――、二人は並んで座っていた。"彼"は追ってくる気配を見せなかった。文の推測によると、どうも死魂化と同時に地縛霊の属性も獲得しつつあり、あの場所を動くことができないのだろうということだった。
「単純に妖力が枯渇しているだけ、という可能性も考えられますが。重要なのは動けないことでしょうし、無視しておきましょう」
「そ、そんなのでいいんですか」
「不覚を取らなければ大した相手ではないでしょう。――おそらく、ですがね」
無縁塚の中であっても、満月のお陰で夕方と変わらないか、それ以上に明るくなっている。追われたとしても探査の術を幾重にもかけてあるし、この明るさならば見落とすこともないだろう。
手当てをしながら文はこれまでの情報をまとめ、推測をしているようだ。どうやら文は上腕の辺りを怪我しているらしかった。見せて下さいと言ってみたものの、自分で手当できますの一点張りで、傷の様子は分からなかったのだが。
――ああもう。
分からないこと、もどかしいことだらけだ。
「あれを封じていた結界だったんでしょうか」
「だとしたら、外へ出てこない説明が付きませんし、あんな脆弱な結界――結界と呼ぶこともできない代物でしたが――を張った意味が分かりませんよ。順当に考えれば、我々を迎え撃つための抗体――存在でしょうね」
「ですよねえ……」
早苗は深くため息をつく。
しゅっ、と衣擦れの音をさせて包帯を巻き終えた文が、こちらを向いた。ようやく取材の昂揚から"戻ってきた"のだろうか。
「他の可能性として考えられるのは、あれが付喪神の本体であるか、全くの第三者であるかの二つです」
「二つ目って凄く広いんじゃ……」
「そうでもありません。外にいて、かつ現在まで生存していたことになるのですから、それなりに力を持った神霊か妖怪といったところでしょう。我々にとってはこの方が嬉しくない結論です」
信仰されていたのかもしれませんねと文は言う。
――信仰。
「ランタンが割れたのも、おそらくはあの咆哮に妖力を含ませていたからでしょうしね」
「だとしたら、追いかけてこないのはやっぱりさっきので最後の力を使い果たしたから、とかなんですかね」
「それもまた可能性の一つでしょう。といっても力の大きなものが死魂化を始めて尚、力を隠せるとは思えないですし、後者の可能性は決して高くないと思いますがね――さて」
出し抜けに文は立ち上がった。
見上げながら早苗は訊く。
「さて、ってどうする気なんですか」
「それはまあ、あれをどうにかしないといけませんから。どうにかしに行くのですよ?」
――ど、
「どうにかって! 文さんは怪我させられたんでしょう!? 山の人を連れてきて、大勢でかかった方が」
「私にそんな権限はありませんし」
そんなことをすれば本当にあの方は殺されるかもしれないでしょう、と文は言った。
「て、敵じゃないんですか! 殺されることだって自業自得――」
「間違えないで下さい、早苗さん。あの方は"取材対象"です。それもあなた方守矢に付随する形で現れた、大きな存在」
「しゅ、って」
あれ?
こ――これは。
「文さん?」
「私がスクープを報じられることなんて、滅多にあるものではありませんしねえ。ふふ、ふふふ」
駄目だ。まだ"戻って"いなかったのだ!
「さあ行きますよ早苗さん!」
文は今にも飛ぼうとしている。
――止めなきゃ。
理由もなく早苗はそう判断して、
「待って下さい!」
ぐっと引っ張ると、文は面白いようにバランスを崩した。
「何をするのです!」
そう聞くことのない文の大声に早苗はびくついたが、文は気付いた様子もなく、
「私の邪魔をしようというのなら、何人たりとも許す気はありませんよ!」
――私の。
私のせいだ、と早苗はまた思った。文をこの件に深入りさせたばかりか、怪我までさせた挙句に、まだ離れることができない"呪縛"がかかっている。最後の一つは文自身の問題だが、前者二つは間違いなく早苗のせいだ。
おまけに、気付いたことが一つある。
「……文さん、もしかして怪我のせいで力が入らなくなったりしてないですか」
そうでもなければ不意を突いたくらいで姿勢を崩す文ではないからだ。
「あや」
「……図星なんですね」
「確かに瘴気へ手を突っ込んだような感覚はありましたが」
言い訳じみたことを言って、文は手を振りほどこうとする。その勢いを利用して、早苗はぐんと立ち上がった。
「協力します」
「――貴女が?」
文は鼻で笑った。
「貴女に何ができるというのです? これから私がしようとしているのは、弾幕による会話です。ことによると――いえ、確実に校舎を破壊することになるでしょう。貴女にそれができますか?」
「それ、は」
「できないのでしょう?」
「で、できるって言ったらどうするんです」
「できるのならば援護に入ってもらってあれを抑えてもらいます。聞きたいことがあるのでね」
「聞かれることを望んでいないかもしれないじゃないですか」
「私を誰だと思っているのです。新聞記者という生き物は因果なものでしてね、それと分かっていても危険に飛び込まずにはいられない性分なのですよ」
「だからって、無縁塚なんて場所に現れて安らかに眠りたがっているかもしれないヒトを無理矢理叩こうだなんて――」
「無縁塚に現れたということは、建物それ自体が付喪神として人格を獲得した末に自殺を選択したからかもしれないのですよ? 貴女にそれを受け止めるだけの覚悟はありますか? 自らが関わった者の自害を止めることは、良いことばかりではないのです。死なせてやった方が良かったのではないか。死なせることこそ幸福なのではないか。せめて安らかな眠りを与えることが最善ではないのか。無理に命長らえた者の末路をあなたは知っているのですか? 安易な選択肢を選んだ故に、恨まれ、憎まれ、道連れにされるかもしれないのですよ。ましてやあなたは既に向こう側では忘れられた存在。これを戻せなかったからと言って、誰に責められるわけでもないのです。これほどの条件が整っていてなお、"彼"の自害を止めようというのですか? 私は違う。私はあれを殺してみせる。あれの安らかなるを願うために殺すのです。こんな場所では死魂化が早まるばかりで治療することなどできないのですから。あなたは私の所業を看過できるというのですか」
怒涛のように文は畳み掛けてくる。
――ああもう。
埒が。
明かない。
……多分。
そのとき、早苗はキレたのだ。そこまで言われる筋合いはないとか、今まで愛想笑いで受け流していたことが、我慢できなくなって。
何が何だか分からなくなって。
後になって思い返せば、子供っぽくて嫌になるのだけれども。
「……かりました」
「だったらいいのです。さっさと帰って神様の食事でも――」
「だったら! だったらせめて私の手で送ってやります!」
「あや?」
「譲ることができないのなら、弾幕を以て語らうべしと文さんが教えてくれたんです!」
「……は?」
「私は――いえ、私が送ります。私が校舎ごと全部もろとも吹き飛ばして、あれが二度と変な気を起こさないようにして見せます!」
筒袖から大幣を取り出す。札を数枚、まとめて文の方へ投げつける。文は慌てて距離をとる。
「……どういうつもりだ、東風谷早苗。吹き飛ばす? 貴女が? ならば私たちの利害は一致して――」
「私は送ると言いました! 文さんたちが資材の調達をすることもできないくらい、完膚なきまでに吹き飛ばして――そして、”あのひと”に来世を与えてあげるんです!」
はっ、と睨みつけてくる目は、けれどまだ不可解そうに揺れている。しかし早苗はその隙をチャンスと見て、更に両の手を打ち鳴らした。神奈子の神力をプールしている”総体”にアクセス。神奈子の許可を得ていないので使える力は限られているが、この場合は私闘を覚られないことの方が優先だ。風使いとしての文の実力は分かっているが、それ以上に風を扱うことのできる者として、相性が決して悪い相手ではないということも、本能的に早苗は悟っていた。上手くすれば相打ちか、もしくは倒すことすら可能だろうと頭のどこかが計算して、
「五枚!」
宣言した早苗は、戦うために頭を切り替えていた。半端な気持ちで勝ちを拾えるような"敵"ではないことも確かなのだ。少なくとも、これまで戦ったことのある相手の中でも、最上位の部類に入る相手なのだから。
「四枚!」
束の間の沈黙を破り、文はそう宣言した。鞄から葉団扇を取り出し、臨戦体制に入る。あかがね色の瞳が、ぎんとこちらを睨み据える。本当に勝てるのか――そう思わせんばかりの、殺気。
「風符「天狗道の開風!」
わずかに怯んだ、その隙に。
大きく振り下ろされた団扇の軌道に従い、風が周囲を覆い尽くす。瞬間、早苗は文の姿を見失う。まずい。考える間もなく、
準備「サモンタケミナカタ」。
カウンター気味に放った弾幕が、前進していた文を押し留め、無理矢理に退かせた。星九字を模した、それ自体は威力に欠けるが、牽制としては良くできた避けにくい弾幕。危なかった。思う間もなく、文はこちらに風を打ち付けて竦ませると、一気に上へと飛んだ。早苗も慌てて後を追うが、機を逸した感は否めない。弾幕戦は基本的に上を取った方が有利だ。先に仕掛けたのだから、先手を打って上に出るべきだったのに。
上空でにや、と口元を曲げた文は、
「岐符「天の八衢」!」
宣言して、また団扇を振る。木の葉状の弾幕が文を中心に散り、追いすがる早苗を迎撃するように、不規則な軌道を描きながら落下を始める。避けるべきかを迷った早苗は、考えた一瞬が仇となって、もはやその隙が残されていないことを悟る。
怯む暇も与えてもらえず、準備していたスペルを緊急でキャンセル。上方の弾幕を排除する手段は、と考えてしまうところが早苗の戦い慣れしていないところなのだが、それを神の力というデタラメでカバーして、早苗はただ一心に大幣を振る。
蛇符「神代大蛇」。
口に出して宣言をする暇すら与えられない。上方に――というよりも周辺一帯に風を発生させるスペルで、こちらも迎撃の体勢を整える。神奈子の力を借りて発現できるように開発中の技だ。体内神力の消耗はやや激しいが止むを得まい。ここからしばらくは"総体"の力を使わず自分の力で何とかする。決めて、強い風を起こす。
大幣が振られる方向に従って。
文の弾幕が――消える。
消える。
弾幕の狭間に文の姿を垣間見ながら。
振るう。
消える。
振るう。
消え――、
かき消えた。
文の姿が。
大幣を一振りする間に――、
――っ。
見えた、と思った刹那。
強い衝撃を肩に受けた。ぁ、とかすかに吐息のような声をこぼして、早苗は落ちる。落ちる。姿勢を立て直すには高度が足りない。
ままよ。思い切って反対側の腕を出す。着地とは言えないような姿を晒して、早苗は泥臭く落下した。両の腕に重いダメージ。くそ。口中で悪罵を噛み殺す。弾に気を取られすぎて、蹴りの一撃を受けたのだ。判断したのは赤い一本の跡を見てからのこと。やはり判断が遅すぎる。実戦慣れしていないことが、これほどの差になって現れるとは。自ら起こした土煙の中、やみくもに御札を投げる。少しは時間を稼ぎたい。そんな早苗の考えをあざ笑うように、
「まだ続けますか?」
上空。
降り仰ぐと、文が悠然とした態度でこちらを見下ろしていた。
「ぎりぎりで当たる場所をずらしましたね? 関節を狙ったつもりだったのですが」
「……読めるんですよ、風の流れは。ある程度」
「ほう、面白い。ならば風を超える速さで攻めるとしましょうか」
追撃することすら必要ないと言わんばかりの態度。宣言は四枚。使わせたのは辛うじて二枚。ここから巻き返すのは可能か? 大丈夫。五枚と四枚の差をそこで見せてやればいい。二枚を三枚使って耐え切ればこちらの勝ちなのだから。
「やって見せて下さいよ! 風を超えるっていうのがどんなものなのかをね!」
自分と文の両方に言い聞かせるように、早苗は叫んだ。
「結構」
言った文の姿がブレる。
「幻想風靡」
ドップラー効果を伴って、遠ざかる方向に文の声が流れて行く。
立て続けの弾幕でこちらを圧倒するように仕掛けてくる。嫌な時間だが、上下――攻守が固定された現在の状況では如何ともし難い。
動け。
高速で動く文を、人間の目で捉えることは不可能だ。そこから放たれる弾幕を、とにかく避け続けることしかできない。再度地面を蹴って、空へ。
動く。
弾へ突っ込まない程度の距離――地面すれすれをスライドするように飛行しながら、左右の動きをメインに避ける。
動く。
時に地面を蹴り、時に弾幕を風でずらし、強引に弾の間に体をねじ込んで行く。
動く。
どうしても避けられそうにない弾にはチャフ代わりに札をばら撒き、簡易な結界を構築。
動く。
スペルカードを使おうという思考に到達することができない。耐えるしかない時間がジリジリと流れて行く。
動く。
しゃん、しゃん、と弾が地面に落ちて砕ける音を聞きながら。
動く。
動く。
動く。
動く――。
しゃん。
最後の弾が、地面に落ちた。
どうにか捌き切ったことを悟ったのは、それから数秒後のことで。文の姿をどうにか捉えられたのは、さらにその後、文が言葉を発してからのことだった。
「よく避けましたね」
「……それは……どうも」
「残りは一枚。そちらは三枚。ふむ。ここらで決着をつけなければまずいですかねえ」
余裕ありげに文は言って、葉団扇で口元を覆い隠す。
「今なら、まだ降参を聞き入れることもできますが?」
「……っ、冗談! 決めたんです、私は。私が私の手で送ってあげること――それ以上の葬送はないと思うから。相手がたとえ文さんだって、いいえ、文さんたち山の皆さんを全て敵に回したとしても、私は私の意思を貫くと!」
会話のうちに回復したわずかな体力を使って、ぱん、と手を打ち鳴らす。今日は妙に消耗が早い。自分だけの力を使っているにしても、だ。仕方なく神力の総体へ接続を再開。ホールドしていた出力系を解放し、一気に勝負を掛けるべく、早苗は急上昇を開始する。
文の姿が肉薄する。彼女は余裕の表情を崩していない。何をされても対応できると舐められているのか。その反応が苛立たしい。絶対、勝ってやる!
「決めさせてもらいます!」
叫ぶ。
タケミナカタは呼んである。
あとはその力を解放するだけだ。
文を倒すための切り札。既に何度となく見られている技だから、対策はされているかもしれないが――というか対策されなくても避けられやすい大味なスペルだということに最近になってようやく気付いた――、歯牙にもかけられていない可能性を考慮すれば勝ちを拾える確率は少なくないはず。力技なら風使いの格が物をいう。押し切れるはずだ。否、押し切れなければジリ貧で負けてしまうに違いない。やはり正面からぶつかり合うしかないのだ!
思って。
文がそう読んでいるだろうと、早苗はそう――読んだ。
だから。
早苗はあえてその道を捨てた。
「奇跡「客星の明るすぎる夜!」
振るった大幣の先端で光弾が弾ける。本来は移動しながら発動するタイプのスペルではない。発射した光線に追いつかんばかりのスピードで、飛ぶ。目が眩む。視界と引き換えに最後の吶喊。これでダメなら打つ手はない。それで終わりにされてしまえば、もはやと諦めていた。潰れた目は、文を捉えられずにいた。
ゆえに。
正確に何が起きたか、というのを早苗は見ていない。
「突風「猿田彦の先導」!」
焦ったような、声。生きていた耳はそれだけを聞いていて。
止め切れなかっただけなのか。それとも、真っ向勝負ならば絶対の自信があったのか。
勝負の明暗を分けたのは、読み合いを制した早苗の判断力だったわけではない。捨て鉢になった己を自覚していたのだ。判断も何もあったものではないのだから。それを分けたのは、文が負っていた小さな瑕疵か、あるいは捨て鉢になったが故の覚悟の産物だったのか。
理由は知れない。だが起きた現象はひどく単純明快なそれだった。狙いすました一撃を放つスペルと、突進するタイプのスペルが真っ向からぶつかり合った。ただそれだけのことだった。
すなわち。
光弾と文の衝突だ。
激突音。
そして。
光を取り戻した早苗の目が捉えたのは。
何もない夜空。
一拍遅れて、下方から大きな衝撃音が届く。
「……え、あ」
慌てて振り向いた早苗は、見た。校舎の壁に突っ込んで伸びている文を。木製の壁には人間大のクレーターができている。立ち込める土煙の中心になって見えにくいけれど、再び立ち上がってくる気配はない。脊髄反射で無事を確認しに行きたくなる心を抑えて、早苗はプールしていた神力を集中し直す。まさかとは思うがこちらを油断させるための策なんじゃないか。ついつい疑心暗鬼が生じてしまう。一応、宣言した枚数四枚は凌ぎ切ったのでこちらの勝ちといえば勝ちなのだろが、何となく釈然としない。不完全燃焼。まだこちらは二枚も残っているのに。
用心しながら近づくが、文は一切動く気配を見せなかった。
「勝っ、た……の?」
肩で荒い息をしながら、呆然と呟く。こんなにあっさりした幕切れは予想だにしていなかった――というか、文があれほど真っ直ぐに突っ込んでくるような戦術を選択するとはさすがに思っていなかったので――まぐれ勝ちというのもはばかられるような勝ち方だ。両肩がズキズキと痛みを伝えてくる。勝利の余韻もへったくれもあったものではない。
――当たりどころが悪かった……とか?
とりあえずこの場から離さないと。ぼんやりとそう思考する。校舎ごと全部吹き飛ばしてやる、なんて息巻いてはみたけれど、こんな状態の文をどうこうしようとまで思っていたわけではない。
着地して文を抱きかかえる。
軽い。
羽のように――とまでは行かないだろうが、同性として少々羨ましく思ってしまうくらいには。というか、これは鞄の重さの方が勝っているんじゃないのか。微妙な嫉妬は置いておいて、これからしようとしていることを前に、少々大きめの距離をとっておく。卒塔婆の群れに埋もれる形になって、縁起でもない格好になってしまったのはご愛嬌だ。
まあ、それはそれとして。
どうやって葬送しようかと考えて、早苗は自分の手中にあるものを見やった。
……折れた、大幣。
ぶつけたのか、力を注ぎすぎたのかは知れない。ともかくこれがなければ普段の半分も力を出せはしない。唸って唸って――そして、文が握っているものに目が行った。
葉団扇。
いや――確かに、増幅器としては申し分のないものではあるが。
――か、借りちゃおっかなー。
「……いやいやいや、魔理沙さんじゃないんだし」
しかし選択肢がそうないことに気付く。これを借りないなら一旦帰るかすることになるけれど、その間に文は目を覚ましてしまうだろう。そうなったが最後、早苗の預かり知らぬところでさっさと解体されてしまうかもしれない。
仕方ない。
そう、言い訳をして。
文の手から、葉団扇をそっと抜き取る。
「ちゃんと返しますからね、っと――」
重厚感のあるそれを触らせてもらったことは、考えてみれば一度もなくて、こんなときなのに緊張してしまう。まあ勝ったんだから、と思いながら、早苗はプールしていた神力を今度こそ開放にかかる。
あまりこのあとのことを考えていたわけではない。これからどうするかなんて、考えている暇がなかったことも事実だが、それでも何とか文を運んでいる間に朧げなビジョンは浮かびかけていた。場所にふさわしく、ただ送ってやることが良かろうと思う。廃材を利用したがっている文たちには悪いが、そうさせたくない自分の理由を優先させるべくして弾幕戦を挑み、その結果として勝ちを拾った。だから文句は出ないだろう、と無理矢理な理屈をくっつけてみた。
あまり考えていなかったけれど。
葬送をするのなら。
風祝らしく。
"風葬"をしてやろうと思うのだ。
ぱん。
葉団扇を持ったまま器用に両手を打ち合わせ、神力の総体へ接続を再開。結局、準備したタケミナカタの力を使わずに済んだのは幸いだった。何故だか自分の力を使い果たしてしまっているので、これを使って風葬を行おう。
校舎を見渡す。昇降口前からの大雑把な見立てだが、横の差し渡しが五十メートルといったところだろうか。まあ少々大きく見積もっておけば間違いはないだろう。見誤って巻き込まれるようなヘマをやらかさなければいいだけの話だ。
……とはいえ、護身のために自分の前方を中心とした楔形の結界を敷いておく。何しろ触媒が触媒なので、うまく扱えるかどうかが分からない。万一のことも考えて後方の文まで守れるようにしておきたい。
付喪神の幸福。
モノの幸福。
それはきちんと用途に沿って使い潰されるか、針供養のように使い手の手で送り出されることだと聞いたから。ふう、と息を吐き心を落ち着ける。
――まあ、私が今更何を、って思われるかもしれませんけど。
葉団扇を腰だめに構える。さあ、始めよう。刀を鞘から抜き放つような動作で、左腰から右に一閃。軌跡が月夜に浮き上がる。早九字をアレンジしたそれは、
臨――!
東風谷に伝わる、風の秘術。九字を切りながら横縦に空へと印字し、結界をなし、対象とする範囲に大風を巻き起こす儀式。通常は大幣を刀と見立てて行うそれだが、今日は天狗の葉団扇だ。故にいくらか心配もしていたのだけれど、
兵――!
ごう、と風が唸る。この分なら、心配は無用だったようだ。申し分のない――というより多少過剰な――風が吹き荒れ、校舎の波板をわななかせる。神力を徐々に、蛇口を捻るように葉団扇へ、
闘――!
注ぎ込む。どんどん力を吸収されて行く感覚は、大幣では味わったことのないそれだ。怖くもあり、また面白くもあると素直にそう感じる。どうやら天狗の葉団扇と風神の巫女――風祝とは、
者――!
抜群に相性が良いらしい。神奈子の力を借り受けていないにも関わらず――風圧は今まで早苗が体験したどんな風よりも強い。
一画を刻むごとに、早苗の髪が、袖が、裾がはためく。不気味な、地鳴りのような音が響きはじめる。漂っていた幽霊が巻き込まれまいと逃げていく。古木の枝が揺れている。荒れた無縁塚の土を巻き上げて、風威はさらに強くなる。
そして、
皆――!
校舎に変化が表れる。一番耳障りな音を立てているのは窓だ。ガラスがまだ保っているのが不思議なくらい、激しい音を立てている。
みしり――背筋の寒くなるような音。校舎全体が揺れ始めている。
陣――!
――まだだ。
早苗はきっ、と目に力を込める。
文はそれと推測していなかったが、校舎には鉄筋が入っていたはず。この程度では壊れない。
裂――!
鈍い音を立てて庇が天高く舞い上がる。木材が風に乗り旋回する。
風は竜巻と呼ぶに相応しい大きさに成長している。強烈な上昇気流が学び舎を破壊せんと牙を剥く。砂埃に隠れて校舎の姿は捉えづらくなっている。それでも、まだ壁と柱は残っている。撓み、揺れてはいても壊れてはいない。
当たり前だ。
地域の避難所にも指定されていた場所だ。
そうやすやすと壊れてたまるものか。
壊れてほしいのか、ほしくないのか――早苗のないまぜになった気持ちをもかき混ぜるように、風は勢いを増す。
在――!
私の思い出ごと、飛んでいけ。
あまりいい思い出があるわけではないけれど。
それでも、六年間過ごした場所なんだ。さよならくらいはちゃんと言おう。
私はこっちで生きていくから。
だから――。
前――!
最後の横一閃を放つ。
巻き起こる旋風。
崩壊は一瞬の出来事だった。
屋根が弾け。
窓ごと壁が吹き飛び。
柱が折れ砕けて。
全てを飲み込んだ風の渦が、天空高く立ち上る。
ちょっとだけ、惜しいと思ってしまった。
遠くから見れば、さぞかし勇壮な光景だったに違いない。
風圧に押されて半歩、後ずさる。その背中を、いつから目覚めていたのか、文が受け止めた。視線を交わす。非難がましいような、詫びているような。早苗の勘違いかもしれないけれど。複雑そうな表情。何を考えているのだろう。そこまでは、読めない。
「全く。無茶をしすぎです」
「文さんにだけは言われたくないセリフですね。……取材、邪魔しちゃってすいませんでした」
「取材――ねえ。舞い上がってしまっていましたが、実際、あれに取材を行うことで得られる利益など知れていましたから、構いませんよ」
どうやらようやく”戻ってきた”らしい文が笑う。もう大丈夫なのだろうか。大丈夫だと信じたいが。少しだけふらついた早苗を、文がしっかりと支える。
落下音。
破砕した木片が散らばる。コンクリートが突き立つ。基礎部分は外の世界に残ったままなのか、その量はさして多くない。建物部分だけ綺麗に幻想郷へ来たらしい。校舎跡に地肌が覗いている。ならば外には平らなコンクリートの広場が出現したというわけだ。廃校舎を利用した施設の話は、早苗も聞いたことがあった。ここもそのまま残っていれば、活用されることもあったのかもしれないとふと考えて、
――まあ、仕方ないよね。
言い聞かせるように、思う。ここで看取られることなくひっそりと朽ち果ててしまうよりは、存命中のことを知っている自分が送り出してやることの方が良かったのだとそう信じて――けれど信じきることはできなくて――早苗は手をぎゅっと握りしめた。
竜巻の起きていた範囲外には、不思議と破片が落下してこない。隣に立った文がわずかに腰を引いているのを見て、早苗はくすりと笑みを作った。万が一にも、自分たちの方へと飛んでくることはないと分かっている。理屈は簡単。奇跡を信じていればいい。風が弱まるにつれて、落下音は数を増した。しかし、早苗はその場を動かない。現場からは数メートルと離れていないのに。
文さんは――と、唐突に早苗は言った。
「奇跡ってどういうものだと思いますか?」
「奇跡、ですか。起こりえないことを示す言葉でしょう?」
轟音の中、言葉は不思議と伝搬し、二人の間を繋いでいた。文が能力を使っているわけではない。その証拠に、彼女は頭襟が飛ばされないように押さえている。
早苗はしたり顔で頷いた。
「そうなんです。奇跡は常に起こりえない。起きるのは――単なる現象でしかない」
「まあ、確かにそうかもしれませんが。何を言いたいんです」
「ならば奇跡を起こしているのは、観測している者だということになるでしょう?」
文は狐につままれたような表情をした。
「……それが?」
「つまり、神風などというものは本来存在しないんです。風はただ吹き、去って行くだけ。そこに何らかの意思を見出し、己の良いように解釈するのは、いつだって人間や、あるいは妖怪なんですよ」
大軍を押し返した大風然り。
旱魃に潤いと恵みをもたらす慈雨然り。
そんなものは。
タイミングが良かっただけの偶然だ。
「それを、神様のお陰だと伝えたのは私の係累。なのに、神様に借りているだけの力を、人間が持っているのだと勘違いしてしまった」
「伝えた人間が本当に奇跡を起こせるようになったんです。"奇跡"を恣意的に起こせる人間が現人神と名乗っているんです。元々はただの勘違いだったのに」
「かつての奇跡はね、文さん。科学が発展するとともに単なる現象にしか過ぎなくなったんですよ。私の住んでいた世界では、科学でも解明できないような、ほんの一握りの事象だけが奇跡と呼ばれるようになっていたんです」
だから。
「この程度のことは、わけもないことなんです」
がたん、と二人の眼前に大きなものが落下してきた。
職員室に備え付けられていた、仮眠用のベッドだった。
その上に。
ぽす。
やけに軽い音を立てて、人影が着地した。
「……あや?」
文がぽかんと口を開けた。早苗はどうだと言わんばかりに胸を張る。
それは。
紛れもなく、文に傷を負わせた人影だった。
「人の言葉は分かるんですよね」
一歩。
早苗は文の手を離れ、人影に近づく。相手は抵抗することを忘れてしまったかのように動かない。じっと顔のような部位をこちらに向けたまま、固まっている。
「人間の言葉は分かりますよね?」
「う――あ、あ」
鈍いが反応らしきものは返ってきた。だったら、そのままで聞いて下さい――そう言ってから、早苗はふむと首を捻った。何を話すかなんて段取りは決めていない。それをしてくれるはずの文の口からは助け舟が出るわけでもなく。肘で突っついてみても、こちらからは反応が返ってこないのだ。仕方がないなあ。小さく嘆息。図書室で聞いた断片を元に、それっぽいことを言って茶を濁すことにした。
「歓迎します――なんて、私が言えた言葉じゃないですけど、歓迎します。この地は幻想の郷。あなたは現し世での役割を終えて、ここに来ました。あなたの中にいた――あった――らしきモノたちは、残念ながらここに辿り着く前に亡くなってしまっていたようですが」
相手は表情がよく分からないなりに肩を落とした――ように見えた。感情と呼べるものはあるのだろうか?
「とりあえず、こっちで生きていくのならその身体をどうにかしないとですよね。文さん、永遠亭へ行けば延命措置をとることもできるんですよね?」
「え――ええ。あそこは命に関わることなら何でも請け負っていますから。できるできないはあるにせよ、ですが」
「不吉なこと言わないで下さいよ。とにかく、良かったですね!」
前半は文へ、後半は人影に向かって言う。
「じゃあ早速永遠亭に行きましょう! ……話してみたいこと、あるんですよ、沢山」
「いやいや、とりあえずといえば早苗さん」
文が苦笑しながら言う。
「とりあえず返してくれませんかね、それ」
「あ」
握りしめたままだった葉団扇の存在に今更気づき、早苗はにわかに赤面した。
強奪したまま持ちっぱなしだったそれを文に手渡そうと――。
手を、伸ばして。
身体が。
ふらりとよろめいた。
「早苗さん?」
「あれ――」
怪訝な表情で文が覗き込んでくる。
大丈夫ですと言おうとして。
けれど、口がうまく動いてくれない。
おかしいな。
なんでだろう。
「早苗さん!」
手を伸ばしたまま唐突に、早苗の意識は暗転した。
いやに焦った文の声を耳に残して。
6.射命丸文
妖怪の山の人里から見えない側には、妖怪たちの大集落が作られている。
と言っても、人里のように切り出した木材を利用しているわけではない。妖力に中てられ異常に肥大化した木のウロを利用したり、折り重なった根の間に住み着いたりと、基本的に木を切らない方法で作られた家が並んでいる。限られた石材や貴重な木材は集会所など重要な建物に使われるくらいだ。人間よりも個体数が多いため場所を有効に活用することが必要とされ、さらにこうすることで自然から力を得やすくなるという、永きに渡って培われた知恵の結晶のような集落なのである。
文の家もそうした樹上の一角にある。こぢんまりとした空間がいかにも"巣"っぽくて気に入っているのだが、そう考えるのは他の鴉天狗も同じで、手に入れられたのはクジ引きの末の運によるものだった。汚い手を使ったわけではない。……断じて。
その自宅に。
文はようよう帰り着こうとしていた。
今日は色々なことが起こりすぎて、疲れた。妖怪は肉体的な疲労に関しては滅法強いのだが、精神的な疲れに対しては人間と同じく耐性が低いのである。もっとも、精神的な疲れを感じられるような妖怪は一握りしかいないのだけれど。
あの後。
倒れてしまった早苗と付喪神を永遠亭に運び、診断してもらったところ、
『過労ね』
と早苗については一言で言われてしまった。疲れているところというか病み上がりというか、そんな状況で大きな力を使ったことがまずかったらしい。どこから仕入れた情報なのか、世話役なんでしょう何をしているのと怒られてしまった。月人の情報収集力が空恐ろしくなる。それとも案外広まってしまっているのか? 山の情報管理能力に危機を唱えるべきなのだろうか。他にも言われたことはあるが、実際の要因として最も大きいのは心身の疲労である、とのことだった。一晩預かっておくからあなたは帰りなさい。促されるままに妖怪の山へ針路を取り、守矢神社に簡単な事の次第を報告して現在に至るというわけだ。
付喪神の方は――と、改めて思い出そうとしたところで、ようやく自宅が見えてきた。大きなウロの前には人影がある。予想はしていたが、やはりか。
「お疲れ」
声。
ウロ前に設えられた踊り場――一応、これが玄関だ――には、椛が立っていた。既に日付が変わろうとしている深夜である。椛は千里眼を貸与する関係上、文に合わせて日勤が多い。歩哨の番が終わり、早苗の容体を聞きに来たのだろう。とはいえ仕事の優先度としてはどうせほとんど来ない敵の警戒をするよりも早苗の容体を聞くことのほうが高いのだろうから、監視を置いてもここへは来たのかもしれないが。それでも勤務時間外にまで顔を出すとはつくづく職務に忠実な、と文は内心笑った。
「そっちもね。これから報告なんでしょ」
「事情聴取は得意じゃないんだが」
二人揃って苦笑する。一部始終は文字通り"見て"いたのだが、実際に何があったのかを文の口から聞きたいのだ。早苗が倒れるという事態を重く見たのか。守矢が殴りこみにでも来たらたまらないと――ものの例えだ。あの神様はそこまで単純な性格の持ち主ではない――思う一派が、山の上層部には未だ存在するのである。
「上には私から報告しておくよ。同じ説明を二度するのは堪えるだろう」
「……借り一つ、でいいのかしら」
「そんなに大げさなことじゃない。酒樽一つで済む話さ」
「よく言うわ」
気の抜けた笑いをこぼして、文は踊り場に座り込んだ。椛は特に姿勢も変えず立ったままで、
「結局、あの建物は何だったんだ」
と訊いた。
結局――。
全てを話そうとすればそこからになるのか。
「推測でしか語れないわよ」
「構わない。貴女の推測はかなりの精度だから」
「……照れるわね」
世辞でも褒められ慣れていない身には嬉しい。
「おだてておいた方が口も軽くなるだろう」
肩をすくめて椛は言う。……そういうのは言わない方がいいんじゃないのか。まあいいけれど。結論から言うと――と、文はそう前置きして、
「あれはね、東風谷早苗を祀る社だったの」
至極端的に言った。椛は怪訝そうに首を傾げた。
「……社、ねえ。現人神だろう。外にそんな風習は」
「まるで残っていないというわけではないでしょう。生祠なんてもの、ちょっと前までは珍しくもなかったんだし」
「なおさら現在の人間からは想像もできないな。外来人の生態から見てもそれは明らかだと思わないか?」
訝しげな表情を崩さずに椛は言う。
生祠(せいし)とは、故人や神霊などではなく、俗に「生き神」や「生き仏」と呼ばれるような偉人を祀ったり、あるいは自己の霊魂を祀り長命を祈願したりするための祠である。今回の場合は前者だろうと文は推測している。
「現人神として何度となく奇跡を見せるうちに、あの子自身への信仰が集まり、八坂神への信仰は薄れた。結果、行き場を失った信仰心が"場"に凝り」
「あの建物を社に作り替えた、か。無意識であったなら、東風谷殿が気付かなくとも無理はない……のか?」
「多分ね。私にもよく分からないけど、あの付喪神になりかけていたモノの供述から察するとそうなるんじゃないかしら。建物へ入ろうとした時、あの子が感じた圧迫感にも説明がつくわ」
文は文花帖を取り出して、はらりと開く。
『何者か:ヤシロである。社? 何の、と言う言及はなし。付喪神ではなかったのかもしれない?
何故来たのか:早苗のためである。詳しい情報は判読不能。
何をしに〃:返答なし。
どうやって〃:返答なし。
言葉は詳細な判断が難しく、まともな返答はほとんど得られなかった。
追記:永遠亭にて
早苗の社であったことを認める。成った経緯は不明とのこと?
八意永琳の弁:早苗は過労だった。今回の件との因果関係を匂わせていた。
追々:早苗のため+社であるという返答を踏まえれば、彼女を祀っていた社という可能性がある。
?:現人神を祀る社? 興味深いが、壊してしまった今となっては究明できない。』
深く追求することは命に関わると永琳に止められてしまった。それでなくとも付喪神はそのものから離れると命を失ってしまう存在である。永琳の言うところによると、文が追求しなくとも持って今夜がせいぜいで、明日の朝には消えてしまうかもしれないらしい。それ乗り越えられればあるいは――と言っていたが、無縁塚に現れたことを鑑みれば、その可能性は著しく低いものに思われてならなかった。つまり、真相は永久に闇の中というわけだ。要するにこうして取材したことも記事にできる確率は低くて――何者であれ、お涙頂戴の記事は面白くないと思うので書かない主義なのだ――何となく今日一日を損した気分は晴れなかった。
分社を建立する際にも、土地を神の気に染める手法は使われる。ただし、そちらは外部の手を介して神降ろしが行われなければならないのだが、そうした行為が行われた痕跡は確認できなかった。純粋に早苗の力で染められた社だったのだ。それを可能にするほどの早苗の力に感服するべきなのか、幼心の暴走というものに脅威を覚えるべきなのか、判断に苦しむ。
「社という個人のものに成ったが故、あの建物は付喪神になる資格を得た。あれだけの規模が付喪神となるには相応の年月がかかるはずだけれど、何かしらの外的要因があったのだと考えれば不思議ではないわ」
「外的要因?」
「例えば――守矢神社がこちら側へ来たことで、"諏訪"という場所の属性が幻想に傾いたとか」
あそこも昔はいい場所だったんだけど、と何となく回顧してみる。自然が豊かで妖怪の暮らしにはもってこいの場所だった気もするのだが、六十年周期が二巡するより以前の記憶だ。今どうなっているかなんて、考えるまでもなく分からない。
椛は難しそうな顔になる。報告する上で詳細な情報が欲しいのは山々だが、説明が面倒くさくなることは避けたいのだろう。意外と面倒くさがりなところがあるのである。
「なるほど。"引きずられた"ということか。東風谷殿が倒れたのは、その社を自ら壊した反動ということも考えられるな」
「八意氏もその可能性を指摘していたわ」
「妙に説得力があるなあ。”八意”という名がそうさせるのかな」
「まあ、体調が万全でないところへ大きな力を使ったことが最大の理由ではあるそうだけどね」
「風邪、か」
「風祝なのにねえ」
「あの建物が何か、ということは分かった。が、解せないな。やはり何故無縁塚に――という疑問は解消できない」
「死にたかったんじゃないの?」
「建物の状態でそこまで思考能力を獲得できるものだろうか?」
「んー、建物といっても神霊と同格の存在と考えたほうがいいのかもしれないわ。それだけの霊格を持ったお社だったのかも。死にたい、とまでは行かなくても、自己の現状を鑑みて、自分に価値がないのだと思ってしまうことはあったんじゃないかしら」
「我々が想像できる学び舎の行先は――確かに、解体されることくらいだな」
「それでも再利用するっていう手段が私たちにはあるけどね。外ならそんなこともなく、廃棄されてしまうって運命を知っていたから、なんていうのは考えられない?」
「壊される前に自分から、それも自分を知ってくれていたヒトの元へ行きたいという願望が、幻想郷へ来る原因を作った――ということか」
「最期をどう過ごすか。それは私たちでも考える命題でしょう。唯一”死を思”ってくれるのがあの子だけだと判断したら?」
「……来ることになるかもしれないな。しかしまあ、それが原因で彼女を倒れさせてしまったとなれば」
「悔いる、かしらね。そこはあの子の自業自得でもあると思うけれど。といっても――責任感とかそういうものは大きそうよね、学び舎なんだし」
「恥じ入って消えてしまう、とかな」
「あー、ありそうねー」
「脅威の度合いとして考えた場合、どうなんだ。一応、貴女も怪我をさせられていたわけだが」
「あんなのはマグレよ。もう治ってるし。この時期の無縁塚でもなければ怪我することもなかったでしょうね」
「脅威にはなりえないと?」
「まあね。仮に付喪神になったとしても、人間に対して危害を加えるようなものであるとも思えないわ。……付喪神なのに、ね」
「ふうむ」
一旦整理をしよう、と椛は言った。
「付喪神に関しては報告するほどの脅威になりえない。東風谷殿の体調不良に関しては、あの建物が絡んでいた可能性もあるにせよ、彼女自身の落ち度もある。あー、貴女が戦いを受けてしまったがゆえに無理をさせたという側面は無視できるものではないが」
「無視しといてくれていいのよ?」
「できるわけがないだろう。報告は報告だ。きちんとやらせてもらう」
「ケチ」
「気前はいい方だと言われるがね。それ以外には何もないか?」
「特には」
おそらく、軽々しく葉団扇を貸し与えたことにより、過剰な神力を使ってしまったという原因もあるとは思うのだが。永琳にも椛にも尋ねられなかったので言わなくても構わないだろう――多分。
椛は軽く頷くと、文の肩にぽんと手を載せた。
「なら、そういう方向で上奏しておくよ」
願ってもいない。
「じゃ、もういいかしら。眠いのよね、私」
「ああ。あとは任せて寝るがいいさ」
ボロが出ないうちにとっとと切り上げてしまおうとする。そも、烏は夜中に起きているものではないのであって――、
ただね、と椛は被せるように言った。肩にかかる力が微妙に強くなった――気がした。……嫌な予感。追求されるか? 予想はしかし、外れていた。
「社という外の世界での楔を失ったことで、何らかの変化が彼女に訪れるかもしれないな。例えば――そう、今まで以上に奔放になる、とか。社を持たないのに信仰だけは確保している神がどういう性格をしているか、貴女もよく知っているだろう?」
「ちょっ、止めてよ。これ以上面倒な性格になられでもしたら」
本格的に配置換えしてもらわないと、と言いかけて、文は思いとどまった。
「何事も言霊よね。言わぬが花、言わぬが花」
「……そうかい。ああ、面倒といえば」
最近、守矢に怪しい動きがあると報告が出ていてな――と、椛は言う。早苗は関与していないらしいが、二柱が何か企んでいるようだと。それがどうも地下に関係していることらしく、これまで以上にその動向が注視されているのだそうだ。地下。もしかして――地底?
「なーんかろくでもない臭いがするわね」
「貴女も東風谷殿を見ていて気付いたことがあったら言うように。この情報は只にしておこう」
「只でもいらないっつーの」
「そう言うな。貴女が一番情報を得やすい位置にいるのは確かなんだ」
文は思い切り顔をしかめて、
「春の人事異動が楽しみね」
とだけ言った。椛はくくく、と押し殺したような笑い声を出した。
「今更、貴女と東風谷殿の距離を考えれば無理な話だよ。急に離れるのも不自然すぎるだろう」
「……はあ」
ため息は。
風に紛れて、椛に届かない。
――それが。
二人に横たわる距離があるから。
「仕切りなおしたいんじゃない」
「? 何か言ったか」
「いーえ。何でも」
「……そうか?」
こうして冗談口に語ることはあっても、本当に上奏したことはないというのに。この朴念仁は、と文は内心にため息をこぼす。
分かってないわね――と文は独り言つ。どれだけ早苗に触れないように報告したと思っているのか。
訝しげな表情の椛を残して、文は家へと転がり込んだ。
靴を脱ぎ捨て、短い廊下を抜けて寝室に入る。
編集室は片付いているのだが、寝室はわりあい雑然としている。こちらにまで整理の手が回らないのだ。徹夜明けですぐさま潜り込めるよう、敷きっぱなしの万年床。着替えが詰まった箪笥。年末年始の祭事などで着る礼装が壁に掛かっている。
文は鞄と頭襟を壁際に放り投げ、むしるようにタイを外して薄い布団へと俯せに倒れこんだ。
枕元の灯を点す。
体感時刻は既に日が変わったことを告げている。
――疲れた。
改めて――ため息を、こぼした。
碌でもない一日だった。
薄闇の中、のろのろと転じた視線は真新しい包帯と――そこに滲む血痕を捉える。椛にも言ったとおり、既に傷口は塞がっている。今は些細な痒みが残る程度だ。そもそも彼岸を控えた無縁塚、という特殊な環境でもなければ、こんな手傷を負うこともなかったのだけれど。まぐれ。冥界が――突き詰めれば死が――顕界と近づいている時期だからこそ、あんなできそこないでも天狗に傷を付けられたのだ。
しかし。
文の頭を占めているのは、自分の傷のことなどではなかった。
脳裏に浮かんでいるのは。
風だ。
早苗の起こした大風が、目に焼き付いて離れない。
ずいぶんとよく喋る風だった。思いを凝縮した、それ故に傍観者であった文の心にも深く届いた早苗の叫び。それは、文の中に眠っていた忌避感の正体を文に悟らせるには十分な風で。
「いっそ、気付かなきゃ良かったのに」
呟く。
気付かなければ、あと数十年をやり過ごして終わっていたはずなのに。
世話役を解任されようと続投しようと、その程度なら待てたはずだ。
吹けば飛ぶような人の命。
それで終わっていてくれれば、こんな悩みを抱えることもなかっただろう。
避けていたかったのは。
きっと気付いたら、同じことを考えてしまうからだったのだ。
早苗の――早苗が纏う風を――欲しいと思ってしまうこと。
手に入れたい。
それは。
所有欲から始まるものは。
考えないようにしていたのは何故だ。
あんなものに魅せられたのでは、眠れるはずがないではないか。ごろりと横たわる身体が、わずかに熱を帯びている。
――ああもう。
「らしくないわね、私」
文はむくりと起き上がった。寝乱れた髪を手櫛で整え、鞄を拾う。
文花帖と写真機を取り出す。寝室から出て編集室へと向かう。
体を動かしていなければ落ち着かない。とにかく暗室の中で黙々と作業をしていれば、どうにか新聞記者としての貌(かお)を取り戻せる。そんな気がした。
気付いてしまった感情と。
自覚したくなかった思いを抱えたまま。
――とにかく。
撮った写真を現像し、聞いた話をまとめよう。
こと調査という点において、自分に並ぶものはそういないと文は自負している。
――どのみちまだしばらくはあの神社に関わることになりそうね。
文は小さくため息を吐いた。
けれどその口元は、かすかに――しかし確かに微笑んでいた。
悪癖がどちらへ転んで行くのか。それは、文にも知る由のないことだった。
7.東風谷早苗
泣いている子どもの後ろ姿を、誰だか分からないヒトと見下ろしていた。それが自分自身の幼い頃の姿なのだと気付いたのは、その子どもが泣き終えて去ろうとする横顔を見たからで――まあ要するに最後の最後まで気付かなかったわけで。観察力のなさに微妙な敗北感を覚えていると、隣のヒトがくすくすと笑いながら声をかけてきた。
「覚えているかな。君が初めて、私の元で泣いた日のことを」
ああそういうことなのか。そういえば小学校に上がりたての頃は、両柱を模したアクセサリも付けていなかったっけ。
――もう、ほとんど覚えていないんです。あんまり色んなことがこの学校では起きたし――、泣いたことだって一度や二度じゃなかったから。
「私は覚えているよ。詳細な回数に至るまで、ね。全てを気にして見ていたからかな」
隣人の顔を見る。茫漠とした闇がそこにはあった。相貌失認とはこういう感覚なのだろうか。が、不思議と怖くはなかった。むしろ暖かい感じがした。
――あなたは、あの学校なんですよね?
無貌のヒトはこくりと頷いた。
「そうだよ」
――どうして、ここへ?
「ここがどこだか分かるのかい?」
――夢、でしょう。私の。
「正解だ。だから君はここで起きたこと、交わした会話の一握りしか、現し世に持ち帰ることはできない。もちろん、私のことも。故に私が現れる余地があったともいえるけれどね」
もっとも、と”彼”は続ける。
「私は全てを持って行ける。器物だったものにもそれくらいの権利は認めてくれるのだそうだ。こちらの閻魔様は寛大だね?」
――そう、なんですか。
そして、もう一度訊いた。
――どうして、”ここ”へ来たんです?
”彼”は切々と語った。観光資源の消失と、それに伴う産業の衰退。人口の流出に伴う児童数の減少。閉校。そして、自分が壊されそうだったこと。
「理由は――そう、壊されそうだったことが大きいのかもしれないね。君たちのせいではないよ、と言いたいところだけれど、言った通り間接的には君たちの責任も少なからずある。大きな”拠り所”をあの町が無くしてしまったことに変わりはなかったから」
――……。
「といっても、それを察知できた人間はそう多くなかったのだけれどね。君の親族や、中央官庁の特別室くらいのものだろうか」
かすかに肩をすくめて、
「だけれど、君のおかげでもある。こうして君と話せたこと。心配の種を取り除けたことは」
――何が心配だったっていうんです。
「君と君に付帯する状況の全てが、かな。もどかしかったのさ。何もできない自分というモノがね」
――解消できたんですか?
「できたさ。君はこちら側でとても楽しそうに見えた。彼女のような友人が他にもいるんだね?」
――それは、まあ。
向こうがどう思っているかは知らないが、こちらはそう思っている。本音を話せる”友人”は、あちら側にいたときよりも格段に増えている。こちらの方が暮らしやすいと思ってしまう程度には。
「心配することは、なかったのかもしれない」
はっと我に返ると、無貌の人は少し俯き加減になっていた。
「それでも心配してしまったのは――きっと、君が私に”考える力”を与えてくれたからなのだろうけれど」
――そんなこと、しましたっけ。
「したのさ。君に自覚はないのかもしれないが」
具体的には話してくれそうにない雰囲気だった。”彼”はまた、ふふ、と笑う。
「心配して損をした、とまでは言わない。数多の卒業生の行く末の中で、唯一君のことを見届けられたのには理由があったと思いたいし、そう思いながら逝かせてくれ」
――もう、会えないんですか。
「縁が合ったら、としか言えないね。来世でのことでもある。出会えても記憶はないだろうし。魂が惹かれ合うことを願おうか」
――魂。
だったら大丈夫ですよきっと。
根拠もなく、言う。
――魂のカタチ、ちゃんと覚えましたから。どんな姿になってても、絶対分かると思いますから!
”彼”は堪えかねたように吹き出した。
「荒唐無稽だが、君が言うと真実のように聞こえるね。分かった。来たる世を楽しみにするとしよう」
光が夢の中に差し込んできた。それを見上げながら、無貌の人影は、
「じゃあ、また」
――逝くんですね。
「ああ」
最期に話せてよかった。
――私も。
浮遊感。
そして――。
◆
目を覚ますと、視界いっぱいに蛙帽子が広がっていた。
「……お、おはようございます?」
気圧されながらもそう言うと、帽子は満足気に頷いた。
「ん、おはよ。おーい、早苗が目ー覚ましたよー」
洩矢諏訪子は間延びした声を部屋の外へ投げた。暫しの間があって、遠くの方で少し待っていてと返答があった。そこでようやく、早苗はここが自室でないことに気がついた。ベッドを幾らか配した――病室? のような空間だ。それにしては随分と和室っぽいのが気になるが、かすかに漂う薬品臭が第一印象に説得力を与えている。
「洩矢様、ここは?」
訊くと、永遠亭という答えが返ってきた。入院するのは初めてだが、寝込んでいた時に薬を使わせてもらったので、名前は知っていた。確か人と妖怪を分け隔てなく診る変わった医者の営む診療所なのだったか。
くるりと一回り室内を観察して――そうして、やっと昨夜の記憶が蘇ってきた。
――そっか。私、倒れたんだっけ。
ここにはいないようだが、おそらく文が運んでくれたのだ。結局昨日は最後の最後に迷惑をかけてしまったことになるのか。それを思うと、ちょっとばかり気持ちが沈んだ。
「かなり無茶したらしいじゃない」
諏訪子は言った。簡単な事情は既に文が知らせてくれたのだという。笑顔は早苗の気持ちを察したが故なのだろうか。身を乗り出して、こちらの目元を拭う。涙? ……そういえば、何か夢を見ていたような気がする。中身はよく思い出せないけれど、誰か大切な人が出てきたような――、
そう考えたとき、襖がからりと開かれた。赤と青を左右に配した不思議な服。どことなく憂いを感じさせる顔立ちと、銀の髪を太い三つ編みにした髪型。その上に青い色のナースキャップを被った女性だった。文の新聞で見かけたことがある。八意永琳。薬師――医者、なのだろう。外の世界基準で言うと――と紹介されていたっけ。諏訪子が椅子ごと脇に寄って、女性に場所を譲った。
「体調はどう?」
譲られるなり開口一番に訊いてくる。
「あ、なんか、大丈夫みたいです。正直、どうして自分がここにいるのかも分からないくらいで」
「それは結構。貴女は一応、過労ということだったから、あまり心配はしていなかったけれど、すぐに退院してもらって構わなそうね」
「過労?」
「病み上がりに無茶をしたんでしょう? 過労よ」
「はあ」
「でも一応簡単に問診をさせてもらうから答えて頂戴。ああ、もう察しが付いているのかもしれないけれど、私は八意永琳。医者よ」
永琳は薄らと微笑んだ。安心をさせるような、医者っぽい表情、というものを幻想郷に来てから初めて見たような気がする。風邪薬は神奈子が買ってきてくれたので、医者に診てもらうことをしなかったのだ。
「東風谷早苗です。――って、もうご存知ですよね」
「そうね。新聞屋があることないこと話していったから。名無しさんのカルテが増えなくて良かったわ」
「そ、そうですか」
「それじゃあ、問診を始めます」
いくつか質問に答えると、永琳は一つ頷いて、
「貴女と一緒に運び込まれたひとのこと、聞きたい?」
――一緒に?
そう言われても意識がなかったので反応のしようがない。惑っていると、
「話してあげて。多分、この子には大切なことだから」
諏訪子が助け舟を出してくれた。なぜだかわずかに沈痛な面持ちで。保護者の意向を確認できればそれでよかったのか、永琳はまた一つ頷いた。妙に仕草が芝居がかっている人だなあと思う間に、彼女は持ってきていたもう一つのカルテを開いた。
「じゃあ話すわね。貴女と一緒に運ばれてきた、付喪神に成り切れなかったモノのこと」
「あ」
そう――か。
どうして、思い浮かばなかったのだろう。
あれだけ話をしてみたいと思っていたのに。
そうするだけのモチベーションが削がれている。まさか――夢枕にでも立っていたからなのか。早苗がその意味するところを思いつく前に、
「あれは先程、付喪神に成り切ることなく死亡しました」
と、永琳はひどく端的にそう言った。
「! そう、ですか」
ベッドのシーツをぎゅっと握る。
でなければ、諏訪子が滅多に見せない表情を表にしていた理由が説明できないものな、と他人事のように思う。他人事のように思えてしまったその理由に、思い至らないままで。
けれど。
「ただ」
永琳の言葉には、続きがあった。
「貴女に命をもらったから、来世は物でなく生物として転生するでしょう。いつになるかは分からないけれどね。どうしてもその前に会いたいというのなら、その道の大家を紹介するわよ?」
「いえ――いいです。なんか、私がしたことは間違っていなかったみたいだから」
「そう」
私は他の患者を診ないといけないから。永琳はそう言って背を向けた。あとのフォローは身内に任せる、ということなのだろうか。素っ気なさがイメージの中の"できる"医者っぽくて微笑を誘う。それだけで終わるのも悪いと思い、早苗はあの、と言って永琳を呼び止めた。
「ありがとう、ございました。あの人を看取ってくれて」
永琳は小さく頷いて、部屋を出ていった。その後姿を見送って、
「あの学校は」
「?」
早苗は語るともなしに言う。
「私の――原点だったんです。あそこで拒絶されることがなければ、こうして幻想郷へ来ることはなかったでしょうし」
洩矢様や八坂様を見られなくなっていたでしょう。
「……そうかい」
「だから」
「待った、早苗」
「?」
諏訪子は掌をこちらに向けて、続けようとした言葉を遮った。
「そこから先は、自分の心の中にしまっておきな。言葉にしたら、それはもうお前の思い出ではなくなってしまうからね」
「私、の――?」
「そう。思い出。どう関わりを持ったか覚えておくことはいいけれど、それは話した途端に思い出から記録になってしまうから」
「はあ」
まあ深く考えすぎなくてもいいんだけど、と諏訪子は言って。
「よーするに、有り難みがなくなっちゃうから黙っとけってこと」
雰囲気を切り替えるように手を打った。
「お社の――分社の調子が上がんないことの報告はどうなったの?」
「あ」
色々あってすっかり忘れていた。帰ったら話そうと思っていたのだけれど。言うと諏訪子は、
「そういうことなら仕方ないか。じゃあ、帰ったらきちんと報告義務を果たすこと」
「はあい」
ちょっと強引な話題の転換だなと思いながら、早苗は乗った。沈みすぎることは未練になる。未練が残れば、縁が生じ――望むと望まざるとに関わらず、相手を縛り付けてしまう。それは、双方にとって良い結果を招かないから。
まずは着替えておいで、と諏訪子は言った。部屋を出て行こうとするその背中で、
「神奈子も心配してた。アレはお社の心配も入ってたんだろうけど。はちにーくらいで」
……どちらが八なのかは訊かないでおこう。
「どうせなら博麗の分社は壊しちゃえばいいんですよ。管理が面倒だし、これから調整し直すのはもっと面倒だって言ってましたよ?」
冗談めかして言ってみると、諏訪子はひどく驚いた様子で振り返った。
「どうかしました?」
「どうかって――そっちこそ。昨日までなら絶対そんなこと言わなかっただろうなって」
言われて、早苗はきょとんと目を丸くした。そういえば、そうかもしれない。祀っている祭神のお社を壊すだなんて、発想すらも出てこなかっただろうか。
「……何か心境の変化でもあったんですかね?」
「そりゃ私が訊きたいよ。早苗がよく分かってないなら気のせいだったりするかもね」
「それにしてはタチの悪い変化ですけど」
苦笑。
「なんか、あれだね。だいじょぶそうだね」
「だから大丈夫だって言ってるじゃないですか。お医者さんのお墨付きももらったし」
「そっか」
じゃあやっぱり渡しとこうかな、と言って諏訪子は壺装束の袖口をごそごそと探り、一通の封筒を取り出した。
「今朝方、改めて挨拶をとか言いながらカラスが置いてったんだけど。症状が安定してるようなら早苗にってさ」
「はあ」
カラス? と首を傾げて思い至る。文のことだ。宛名には『守矢神社風祝 東風谷早苗様』と記されている。手を焼かせてしまったことに対する詫び状のようなものだ、と諏訪子には説明をしたらしい。
「中身は――あー、見てないよ」
「何ですかその間」
「次会ったらちゃんと礼を言っておくこと。迷惑かけただのかけられただのはお互い様みたいだし?」
「わ、分かってますよ。そこまで礼儀知らずじゃないですって」
「そ。じゃあいいや」
医者とちょっと話してくるから着替えるんだよ、と言って諏訪子は部屋を出て行った。
――迷惑、か。
どちらかというと最後の最後で迷惑をかけたのはこちらだと思っているので、書面にまでされて詫びられるのは些か居心地が悪い。今ひとつキメきれなかったのがなあと思い、そして、また文さんを氏子に計画が一歩遠ざかったなと小さく唸った。カミサマ的に氏子の有無は死活問題である。数が多いに越したことはない。文自身はどこの氏子にもならないと公言して憚らないが、事と次第によってはチャンスは十分あると早苗は思っている。予防線を張るのは、一旦転がり始めると止めることが難しいからなのだろう、と。
――どうせなら。
今回のことで負ける気がしなくなったので、一丁弾幕ごっこで引きずり込むっていうのもアリなのかなあ――などと、また昨日までなら考えつかなかったであろう不穏な考えに至る寸前で、
からり。
閉まったはずの襖が軽い音を立てて開いた。
「みょーなこと考えてないで、早いとこ着替えちゃってよね」
「は、はいっ! すぐに行きます!」
「あいあい」
けろけろと愉快そうな笑い声を残して、今度こそ諏訪子は去ったようだった。
後ろ姿を見送った早苗は、のそのそと布団から這い出る。足をぶらつかせながら、不器用な手つきで破り開ける。逆さに振る。はらりと一枚の便箋が滑り落ちた。
『拝啓 東風谷様におかれましては、お身体の具合に問題はありませんでしょうか。
八意氏はただの疲労だと言っておられました。ゆっくり静養なさって下さい。
さて、昨日は守ると契約を結んだにも関わらず、最終的に貴女の手をわずらわせることになってしまい、申し訳有りませんでした。
お詫びと言っては何ですが、今度食事に行きませんか。昨日言った食事処を紹介させて下さい。事の顛末も明かしましょう。
返事は次に会った時で構いません。貴女が元気になる日を心待ちにしております。
敬具』
文のイメージからはちょっと離れた達筆で、ずいぶん言葉を選んだ様子の垣間見える手紙だった。律儀さと殊勝さを微笑で迎えた早苗は、
――待って。
と、思い直す。
詫びたいというなら素直に受け入れよう。そして、氏子になってもらう足掛かりとするのはどうだろう。弱みにつけ込むようで微妙に気が引けるがガードの固い文を突き崩すための戦略としては申し分ないように思える。それだけというのも何なので、今回のように外のモノが入り込んできた場合にはアドバイザーのような立場になってあげるというのはどうだろうか。
「よし!」
自分を勇気づけるように、早苗は大きく頷いた。
その考え方は、やはり昨日までの自分と変わっているのだと気付きもせずに。
エピローグ
鴉天狗は風を読む。
それはもはや、生きることの一部だと言っても過言ではない。
故にこそ。
文は早苗の起こした風に心奪われたのだ。
まして、鴉天狗は烏の習性を色濃く受け継ぐ妖怪である。
烏。
彼らは生涯を一羽の伴侶と共にするという、そんな一途な鳥でもあり、また光るものを収集する習性でも良く知られている。
これからいかにして文は獲物を狙うつもりなのか。
はたまた早苗がその思いに気付くことはあるのか。
それは誰も知る由などないけれど。
冬になれば。
彼女たちの好むと好まざるとに関わらず、地底から噴出した怨霊が異変を引き起こすことになる。
それがどういう反応を引き起こすのか。
これもまた誰にも知られることはなく、ただその時は着実に近づいているのだった。
2人纏めて吹き飛ばされて「ありがとうございます!」って言ってる絵しか思い付かないんだけど、何でだろう。
それはさておき、天狗の団扇を構える早苗と支える文の構図って、ケーキ入刀みたいですね。何となくロマンチック。
別に読みづらい文章というわけでもないのになんででしょうね?
先の展開が気になるような部分がないのに、丁寧に丁寧に描写してテンポが悪くなってしまっているのかも。
文、ガンバレ
文ちゃんはこれから大変ですねww
あやさな未満でもなんでこんなに振り回し・振り回されてが似合うんでしょうか
早苗さんの成長も文の意識し具合も綺麗にすとんと来ました
これからどう早苗さんが意識していくのか気になります
いつものようにコメレスをばー。
>>待ってました
三ヶ月も待たせてしまって申し訳ありませんでした。その分楽しんでいただけたのなら幸いです。
>>ケーキ入刀/二人まとめて〜
正直、そのイメージはしていなかったです。そうかそういう見方もできるなと思った次第。
この一件を境にはっちゃけた早苗さんなら吹っ飛ばすのもありえそうですね。
>>テンポ
自分で書いている分にはそういった視点を持つことができないので、指摘してもらえるとすごく嬉しいです。
作中の文ではないですが、作品を客観視できる人のことが羨ましくなることがあります。
途中で放棄せず読みきってくださりありがとうございました。
>>文はこれからが大変/早苗がどう意識していくのか
ですねえ。文が早苗と結ばれるためにはまだまだ障壁が多いと思っています。
人間と妖怪の壁であったり、同性同士の壁であったり、保護者の壁であったり。
何より互いを好きあえるのかという大問題もありますし。文が振られる可能性は大いにあるのではなかろうか。
まああやさな好きなのでどうにかくっつける方向で頑張ってみたいとは思うのですが。
相性は決して悪く無いと私も信じていますので。
それでは今回はこの辺りで。読了ありがとうございました。
今後の早苗と文が気になる。
続くなら期待しています。
回り回って同じことを言っているように感じられ、もどかしさこそありましたが、
総じての感想としては「待ってて良かった」です。
次作も楽しみにしております。
また続きが気になりますなぁ
いや、面白くないのではないです。決して。ただ「面白かった気がした」という表現が一番合うと思っただけで。
長編を書ける人は尊敬します。