私は里の通りを歩いていた。
誰も彼もが暢気そうに、平和そうに、太平楽な顔で道を歩いていく。それを尻目に見やりながら、感慨深いものを感じていた。
やがて、目的の場所についた。
大きなお屋敷だ。
私は呼び鈴を鳴らして、応答があるのを待つ。
どたどたと奥から玄関へ向かってくる足音。
がらがらと戸が開けられる。
そして。
「おや――?」
この家の主は不思議そうに私を見ていた。
私は軽く笑って、お辞儀をした。「おはようございます。朝早くにすみません」そう言うと、対面に立ち尽くす御仁は、困惑をあらわにした表情で、
「あの……」
「今日はひとつ、頼みごとがあるのですが――」
「……い、いえそれより、あなたは」
うん? と私は首をかしげた。
眼前には、依然混乱に彩られた顔がある。
「あなたが……あなたがなぜここにいるのですか。――古明地さとり」
そう言って、“稗田阿求”は奇天烈そうに“私”を見ていた。
※※※
中に通され、お茶を出される。礼を言って、軽く啜った。ここまでの道中ですっかり喉が渇いていた。何しろ誰もかれも、私のことを奇妙そうに見つめてくる。半分は私の奇妙な風体――身体にまとわりつく第三の目のコードを気にし、もう半分、サトリ妖怪について少しでも知識のある者は『なぜこんなところにサトリ妖怪が』と思っていた。
ただ、不思議なことに。
「……人里も、ずいぶんと様変わりしたのですね。私のことを見ても、私が何であるか知っていても、心底から恐れ忌避するものは少なかった。まるで、私が――」
ここにいてもいいみたいではないか。
その言葉は、飲み込んだ。
こいしが、あれほど地上に入り浸っていた理由がわかった気がする。
この世界は、幻想郷は、知らないうちにすっかり楽園になってしまっていた。
「……それより、どうして、あなたがここに……地霊殿の主は引き篭もっていると聞きましたが」
「『まさか、妹に罰ゲームでからし入りのお菓子を食べさせたのがばれたのか』ですか。ふふふ、こいしはよろしくやっているようですね」
「う、ぐっ……あなたの妹さんも、小傘さんや早苗さんと一緒に何度かここを訪れましたからね。ただそれだけのことです」
「『心を読まれるってやりづらいなぁ』ですか。そうでしょうねぇ。特にあなたは腹を隠すタイプのようですので」
「風邪を引いちゃあ堪りませんからねぇ」
阿求さんは頬をひくつかせながら、懸命に内心を読まれまいとしているようだった。例えばでたらめに様々な文字や記号を思い浮かべ、私の意識を攪拌しようとする。立体的な図形を次々に組み立てて複雑な壁を作るイメージをする。えっちぃ妄想で私の目に毒を盛ろうとする。
「……いやいや」
その妄想の中で、私は裸にひん剥かれていた。「いやん」とか私はそんなこと言わない。「だめぇ」とか言わせるのはやめてほしい。
毒のある人だとは聞いていたが、ここまでとは。
初対面の相手に躊躇なくここまでできる人は、そうそういない。
阿求さんは当初それらの読心対策を並行して行っていたのだが――それだけでも十分驚異的な思考速度といえる――興が乗ったのか次第にエロ妄想一本にシフトしていった。妄想の内容も段々と過激なものになり、「あの」、阿求さんが筆で私を責め立てる、「あのぉ」、現実のほうでもはぁはぁと息を荒げて頬を上気させ、「阿求さん」、辛抱たまらんと立ち上がったところで、
「お、落ち着いてください!」
私の声に、ようやく我に返ったようだった。
「ん……? あれ、なんで服着てるんです?」
「!? ま、周りが見えなくなるタイプとか言われたことありませんか……」
「……」
あるらしかった。
心を読めばわかる。
そもそも、先ほど阿求さんがやっていたことはどれも読心対策として有効ではない。いや、最後の妄想はちょっときつ……けふん。
「そんなことでは、サトリの能力をかいくぐることはできませんよ。強いて言うなら何も考えないことだけが唯一の対策なのです。そして、本当の意味で“何も考えない”ことは常人には不可能です」
「……しかたがありませんね」
「私も、少し度を外しました。元々、あなたをからかうために来たわけではないんです」
「……まぁ、それは信じましょう」
阿求さんの目は、私の手元の大きな鞄へ向けられている。
私はおもむろに手を突っ込み、紙の束を取り出した。
それは何だ? と阿求さんが心の中で聞いてくる。
「……あなたは、記録をとっていますね?」
「(! 記録とは……)」
「そうです。ひと月前、この人里で起こった奇怪な連続失踪事件、それに関する記録です」
「(……確かに取っていますよ。ただ、それを書いたのは一ヶ月も前で、あれから色々とわかったこともありますし、いずれ加筆修正するつもりですが……)」
「……好都合です。私の用件は、それに関することですし。……あの、喋ってくれません?」
「(こっちの方が楽でいいじゃないですか)」
「……お茶目な方ですね……」
「(私は私で、結構驚いていますよ。あの噂に名高いサトリ妖怪、どんな恐ろしい相手かと身構えていましたが……存外に物腰が柔らかいもので。近いうちに縁起の取材であなたのところも尋ねるつもりでして、割と不安だったんですが……)」
馬鹿な心配だったようです、と阿求さんは今度は声に出して、笑った。
「……私は、このまま終わらせたくない」
「……?」
「多々良小傘と東風谷早苗、二人がこのまますべてを忘れたままだなんて、嫌です」
「なっ……いえ、あなたが知っているのはおかしなことではありませんでしたね。他ならぬあなたの妹が、誰より深く事件に関わっていた……いえ、しかし、それはとうに忘れていることのはずです」
「確かに、普通は忘れてしまう。忘れたくないとどれだけ強く願ったとして、不足です。同じ文字を機械的に書き続けていると、その文字の形が不意にわからなくなってしまう現象があるように、忘れないことを思い浮かべ続けていると、次第に忘れないことそのものが目的になって、何を忘れたくなかったのか段々とわからなくなってしまう。だから私は、書きました」
「書いた……?」
阿求さんが首をかしげる。
私は答えず、話を続ける。
「あなたは、こいしからどれくらい聞いていますか?」
「……一通りのことは。なぜ人が消えるのか、小傘さんが消えた理由や、帰ってくるまでの経緯など」
「そうですか……。なら、私の“これ”もそれほど必要ではなかったかもしれませんね。ただ、できるなら――」
私は紙の束を机に置いて、差し出した。
阿求さんの目がずらりと並んだ文字列に引き寄せられる。
「これは……?」
「……読んでみてください。いえ、その、少し恥ずかしいですが」
「?」
阿求さんは私を横目に見つつも、紙の束を――私が書いた小説を読み始めた。
それなりの分量がある。すべて読み終えるのには一刻の時間を要した。
「……これは……この事件の詳細と、あっちの側で起こったことや、何より小傘さんや早苗さん、こいしさんの心情がかなり細かく書いてありますね」
「はい。それはこいし本人から事件のことを聞きながら書いたものです。……私は、前々から小説を読むのが好きでして。それが高じて物書きの真似事なんぞもしていたものです。私はこいしほど小傘さんや早苗さんと深い付き合いがあったわけではない。ただ、お二人には感謝しています。彼女たちとの交流の中で、こいしは徐々に心を開いているみたいでしたから。それどころか、一度は閉じていたサードアイすら開いたのです。私は彼女たちに何かしてやれないかと考えていた。妹のことを抜きにした個人的な感情としても、お二人には好ましい印象を覚えています。だから、嫌だったんです。忘れてほしくなかった。そんな折、こいしがこんな提案をしてきました。サードアイを瞬間開いたその日、息を荒げて帰ってきて」
彼女たちのことを、小説に書くことができないか。
物語仕立てにして、この事件を通して経験したことを追体験してもらう――それなら、もしかしたら、思い出せるのではないか。
「私は急いで筆を取りました。こいしは一度、早苗さんや小傘さんの心を直接のぞいています。それも、激情に荒れ狂っている心の中を。だから相当深い部分まで彼女たちの心理がわかっていたみたいです。私はこいしの話を聞きながら、私自身がのぞいた彼女たちの心のことも添えて、それを書き上げました。毎日筆を進めながら、何度も何度も読み返すんです。人の意識は流動する液体のようなもので、必ず手のひらからこぼれ落ちてしまう。忘れないためには外部に記憶を保存し、定期的に記憶を刺激しなければならない。それでも忘れることは多々ありましたが……そうしたときは改めてこいしに話を聞きました。それすら忘れたときは、こいしのほうから私に話すんです。それら何重もの措置ができる環境になければ、私もすべてを忘れていたでしょう。小傘さんたちと違って直接無意識の側へ行ったわけではないから、無意識への引力が弱かったというのもあるのでしょうが……」
ふと阿求さんの心にひとりの女性の顔が浮かび上がっているのが見えた。直接の面識はないが、私も知っている。銀色の髪と、珍しい形をした帽子。
「上白沢慧音さんですか」
「……いえ、少し前に聞いた話を思い出しまして。彼女もこの事件について忘れないために、色々と手を打っていたそうです。事実、里で私以外では唯一まだ事件のあらましを覚えています。元々慧音さんは種族柄抜群の記憶力を持っていますが……あるいはあなたのように覚え書きを作って、何度も見直したりしていたのかなと」
「……かもしれませんね。とはいえいずれ、本題は別です。私の目的はこれをあなたに見せることであり――」
そこまで言って、気づく。
阿求さんは聡慧なことに、すでに私の提案の趣旨を理解していた。
「――そして、私が記した事件の記録……こいしさんの知りおよばない里での出来事などをあわせて読ませれば、より強く記憶に訴えかけることができるのではないか……と」
「……えぇ。できれば一気呵成に多くの情報を見せるのが得策かと思います。そのためには、阿求さん、あなたの協力が不可欠だ。何卒、お願いできないでしょうか」
私は誠意の限り頭を下げた。
そのために何かやれと言われたら、何だってやる気でいた。
阿求さんは、困ったように笑い、「顔を上げてください」と言った。
「頭を下げるべき者がいるとすれば、それは私の方です。願ってもない。これなら……これなら、どうにか、なるかもしれない。もうご存知のことかと思いますが、以前早苗さんは完全に忘却した記憶を取り戻している。それは彼女自身の奇跡を起こす程度の能力に起因するものです。前例は、ある。必要な道具も、ここにそろっている。……やりましょう。信じましょう。彼女たちも同じことを望んでいる。だから、必ず」
必ず、取り戻せるはずだ。
阿求さんの瞳が、意志の輝きに爛々と彩られる。
私も、精一杯強くうなずいた。
「……それだけが、あなたにこの小説を託すことが私の使命でした。ひとまず、今日はお暇しますね。また何かあれば言ってください。あぁいえ地底は遠いでしょうから……今度、こちらから出向きます。……吉報を、期待しています」
「……えぇ」
「それでは、さようなら」
「……さとりさん」
膝を立て、帰り支度を進めようとしたときぽつりと阿求さんが言った。
それは彼女自身にとっても想定外の、思わず漏れた呟きであったらしく、口元をはっと押さえている。
もう遅い。第三の目には見えてしまった。
今度会ったらそのときは。
おいしい紅茶を六人で、なんて。
ええ必ず、と答えると、阿求さんは火を吹くほどに赤面する。
笑みが浮かぶのを避けようもなく、きっと大丈夫だって、心から信じられた。
※※※
地霊殿へ帰り着くと、意外なことに来客があった。
こいしが、小傘さんを連れてきていたのだった。
「あ、お姉ちゃん」
「おね……? あなたのお姉さんなの?」
いったい何をしたのやら、小傘さんのこいしに対する視線は胡乱そのものである。
心をのぞいてみると、実際ものすごく警戒していた。
こいしをじと、と薄目を向ける。
「あはは、いやこれには深いわけが」
「いえ、いいです。わかりました」
小傘さんの心を読めば事のあらましは理解できた。
昨夜小傘さんはこいしに連れられて守矢神社へ行った。こいしが「今なら早苗は驚きやすいから」と唆したのである。それに従った小傘さんだが……早苗さんが想像以上に驚くし、その理由が切実な怪体験(今の彼女の認識の上では)によるものだったしで、申し訳なくなり、同時にこいしに対する信用を失したのだ。
「ちゃんと謝るのよ」
「はーい……」
こいしがしょぼくれた声で答える。
勝手に進んでいく話に小傘さんはきょろきょろと視線をさまよわせていた。
私は彼女を――以前一度そうしたように――応接室へ招きいれ、簡易にもてなした。強張り緊張しっぱなしだった小傘さんも徐々に気を緩めていった。
話は四方八方へ飛び、そんな中でふと、明日の予定なんてものになった。
「私は……そうだ、里のヒエーダさんちに……」
「ひえ……?」
「えっ?」
「えっ?」
「……こいし」
こいしはそろそろと逃げ出そうとしていた。
「待ちなさい」
事情を聞きだすと、稗田をヒエーダと教えていたらしい。
つくづく自由だ。
勘違いもすぐに訂正され、
「ふーん? 変だと思ったわ。……ほ、ほんとよ? ほんとに違和感覚えてたわよ? こほん。ともかく、その稗田さんちに行って、怪談を聞くのよ」
「そうですか……それなら、ひとつ、面白い話がありますよ。そうですね……“怪物にまつわる話”を所望してはどうでしょうか。きっとスリリングな体験ができます」
「怪物……?」
「それは、見てのお楽しみ」
こらえきれず、ついつい。
悪戯っ子のような笑みが浮かんだ。
あぁ、きっと、本当に、忘れられない体験になるだろう。
願わくは――
……
……
……
※※※
この翌日、宣言どおり小傘は稗田邸を訪れ――
※※※
「あっ」
「あっ」
ばったり。
完全な、偶然だった。
小傘は稗田邸の玄関の前に立ち、まさしくその戸を開こうとしていた。
そこに、横合いからもうひとつ手が伸びた。
見れば、つい一昨日見たばかりの顔。
「小傘……さん?」
「早苗……? どうして、ここに」
「いえ、私は……えーと……」
早苗はうんうんと唸り、
「そんな小傘さんこそ、どうして、ここに」
「えっ? いや、それは……」
二人してぐむむと黙り込むことしばし。
「……入ろっか」
「……はい」
馬鹿馬鹿しくなって、素直に入ることにした。
鍵がかかっていた。
「……」
「……」
当然といえば当然のことである。
まるで通い慣れた家に上がるように、極自然に戸が手に伸びていた。
気まずげに、早苗が呼び鈴を鳴らす。
程なく、鍵が外される音。
「あ――」
出てきた藤色の髪の少女は二人を見てなぜか間の抜けた顔をした。
それからくすくすと笑い、
「どうぞ、上がってください。――見せたいものがありますので」
奇妙極まりないことを言ってのける。
初対面の相手に、見せたいものとは何ぞや。
二人は始終、狐に摘まれたような面持ちであった。
※※※
そして、今。
今、二人は並んで同じ書物をのぞきこみ、滂沱と涙をこぼしている。
早苗とは別々に読もうとする小傘を阿求が寄り合わせてより一刻半。
渡された巻物と紙の束を最初訝しげに睨んでいた目は、途中から困惑に彩られていった。
内側から溢れてくる得体の知れない感情を、奇妙な感慨を、気のせいであると振り払うように。その一方で文字を追う目は止まらなくなり、紙をめくる速度はいや増していった。二人は食い入るように読み続けた。休みもいれず、会話もなく、ただ黙々と読み続けた。
それを阿求は、ずっと不安な気持ちで眺めていたものである。
もし、これで駄目だったらどうしよう。記憶が戻らなかったらどうしよう。さとりに確信ありげに言った手前ではあったが、元々賭けに近い試みであった。早苗の能力が以前と同じように作用する保障などない。前のそれは、それこそ奇跡であったかもしれぬ。奇跡は二度は起こらない。起こったとしたら、それは運命か、必然とでも呼ぶべきものである。
阿求は必然に賭けた。
二人が共に過ごした時間に、輝かしい一ヶ月の記憶に、思いに、願いに賭けた。
そして、今。
今である。
二人に言葉はない。もうすべてを読み終えて数分はたつのに、何も喋らず沈黙を保っている。緊張に喉が渇くのを感じた。湯飲みを掴もうとして、小刻みに震える指を知る。部屋は無音に閉ざされて、はやる鼓動が耳朶を打つ。
たまらず、口を開こうとする。「さ――」ひとまず早苗のほうへ言葉を発しようとして、
「……もし」
それより先に、早苗が言った。
ぽつり、と、呟くように、こぼすように。
「……もしも私がおかしくなったのでなければ。私が気を違えたのでないならば」
ひとつひとつ、噛み締めるように、確かめるように紡いでいく。
「小傘さん、ひとつだけ、ひとつだけ聞かせてください」
恐れと期待がない交ぜになった声だ。
小傘は何も言わず、首肯して答えを返す。
「“私たちと、あと一人の名前は”」
「……こいし。古明地こいし」
「この一ヶ月間、私たちは」
「……ずっと一緒にいた。覚えてる。覚えてる。覚えて……思い出して……ぅ、ぅぅぅぅ」
小傘がうめき、体を丸める。
いけない、と思った。自分はこの場にいるべきではないと直感した。阿求は立ち上がり、そっと部屋を出る。小走りに廊下を進み、部屋から極力遠い場所へと。外ではひゅうひゅうと風が鳴いている。肌寒く、人肌恋しいつむじ風。きたる冬を嘆き、遠い春を待ち焦がれているような、閑寂な音色。
直後。
風の音など、吹き飛んだ。
「――! ――!!」
離れた部屋のほうから、感情の塊が聞こえてくる。
誰かが大声で泣き喚いている。二人が大声で泣き喚いている。言っていることは聞き取れない。聞き取れない距離へ来て、よかったと思った。それは二人だけの言葉であるべきだと感じていた。あるいは三人の、もう一人、あの事件を通して深く関わりあった彼女を含めての。
古明地こいしはどこにいるだろう。
彼女は、今。
あるいは阿求が気づかなかっただけで、最初からあの部屋にいたのかもしれない。それだったらいいなと考える。これまで悲しかったぶん、これまで苦しかったぶんまで、全部全部泣いて笑って流してしまえばいいと思った。きっとそのときが、本当にあの事件の終わるときなのだ。
(彼女たちにとっての、事件は終わった)
自分にとっては、どうなのだろう。
五年前のあの日から事件の影に怯え続けていた、自分にとっての終わりとは。
(きっと……それは、もうすぐ)
遅すぎた雨の季節は終わりを告げた。早すぎた冬は過ぎ去った。春色の芽吹く季節まで、あと少し。
(準備は順調に進んでいる……あとひと月、いやふた月ほどで開催できる。……もうしばらくして、部屋に戻ったら二人に知らせてあげないと)
小傘が提案し、阿求と慧音が形を整えたお祭り。
近く迫るは葬想祭、無意識の怪物たちを、見送り弔う鎮魂の祭り、とめどなく漏れ聞こえる感涙の声を耳に受けながら、阿求は小さく、拳を握る。
……
……
……
※※※
文々。新聞 第百二十四期 睦月の三
人里で奇祭! 忘れ物はありませんか?
近々里では新しいお祭りが開催されるという。お祭りというと酒を飲む口実のように思っているものが少なからずいそうだが、祭りは本来宗教的・儀式的な意味合いを持つものが多く、新しい祭りが開かれるというのであれば、相応の理由があるはずである。酒を飲むためとか。
この祭りを主催するのは幻想郷縁起で御馴染み稗田阿求さんと里の守護者として信頼篤い上白沢慧音さん。二人はこの祭りを開くに至った経緯として、次のように語った。
「あなたは覚えていますか? あ、覚えてませんか。ではあなたは落し物や忘れ物についてどう思いますか? いえいえ、率直な感想をお答えください。あ、はい、そうですか。まぁそんなものですよねぇ。しかし落し物や忘れ物というのはあまり長いこと放っておくと付喪神化することもありますし、誰かが持ち主に届けてやるなりきちんと壊してやるなりする必要があります。しかし個人個人でそれを行うというのは、中々難しいものでしょう。ならばそういう場を設けてはどうかということで、この祭りには各々があるものを持ってくるんです。それは拾った落し物だったり誰かの忘れ物だったり、ともあれ打ち捨てられ忘れ去られてしまう運命にある物を持ち寄って、そして供養するんです。持ち主がいないか呼びかけてみて、いないならば火にくべます。物には想いが蓄積する。それを葬り弔うのがこの祭りの意義……というのは全部建前なんですけどね。本当の目的? さぁ、説明しても通じないと思いますし……」
「祭りの真意? 稗田殿が話さなかったということは、つまり……ふむ。そうだな、以前私を取材したことは覚えているか? それは覚えているのか。なら、そのとき書いた記事を読み返してみるといい。何か目ぼしい発見があるかもしれない」
とのことである。
以前慧音さんを取材したときの記事、というのは没になった記事のひとつで、確かあれこれと調査しているうちに時間が過ぎ……何だったか。ともあれ没になったのには没になったなりの理由があるのだろう。その記事には『里で連続失踪事件が起こっている』などと書かれていたが、そんな事実はなかったはずだ。大方酔いながら書いたのだろう。危うく我が文々。新聞に虚構の記事が載ってしまうところであった。発見というと、それだろうか。
祭りは今月の終わり頃に開催される。人間妖怪を問わず参加可能とのことなので、気の向いたものは顔を出してみるのもいいかもしれない。祭りの名前は『葬想祭』。想いを葬る祭りである。私もくだんの出鱈目記事あたりを持って参加してみるつもりだ。
※お詫び※
平素は文々。新聞をご愛読いただき誠にありがとうございます。さて、前回の新聞にて誤字がありました。記事の日付を本来『第百二十四期睦月の二』と書くところを『第百二十一期睦月の二』と書き誤っており、読者の方々に無用な混乱を生じさせたことを平にお詫びいたします。これからはこのような誤りのないよう……え、前もその前も誤字があったって? 同じような謝罪を聞いたって? いえいえ、速報性と情報量を売りにする新聞記者として速筆は最大の友でありますから、その過程で多少書き間違えることがあったとして、それはやむを得ないことと……あ、待って、破かないで。葬想祭で火にくべてやろうとか考えないで。ちゃんと反省してますからー。次からしっかり校正しますからー。ほんとですからー。雑巾はやめてー!
※※※
「と、そういうわけだ」
いやに長く感じられた秋も過ぎ去り、白銀が地を覆う頃。
睦月も中旬を過ぎていよいよ寒冷となり、吐く息も白く濁る冬。
寺子屋、教壇に立って生徒たちの顔を見渡すのは雪すらかすむ銀色の髪、白皙の肌を持つ美人である。慧音は子供たちが話を聞く態勢に入っているのを確認し、ゆるく相好を崩した。
「皆読み終わったか? その新聞に書かれているように、近々新しいお祭りがある。落し物や忘れ物を見つけたら、その日のためにとっておくといい。もちろん、それより先に先生に届け出てくれても構わないぞ」
「せんせー、宿題は忘れ物に入りますか?」
「そうだな。提出期限を守れなかった宿題は忘れ物のうちだな。だからといって祭りのときに燃やしてしまおうなどとは考えるんじゃないぞ」
「せんせー、河原で拾ったえっちな本は落し物に入りますか?」
「そういうお前はお年頃だな、HAHAHA……とでも言えばいいのか。そんな話はせんでいい」
「せんせー、忘れたい過去を燃やすことはできますか?」
「暗黒の歴史が平和な時代を築くこともあるのだ。諦めろ」
てんやわんや。
その日の授業も一通り終わり帰宅を目前にした子供たちは何かと騒がしい。一部ませた発言をする子供もいるが、多くはお祭りという言葉の響きに目を輝かせるまだあどけない子供たちである。葬想祭当日は、そんな子供たちを眺めて酒を飲むのもいいな、と考えて、これでは大人も子供も大差ないと苦笑い。
もう一度、教室の生徒たちを見渡した。教師数の問題から年齢ごとに分けられてはおらず、まだ幼いものから少年少女と呼ぶべき年頃のものまで。その中にはあの事件で無意識の側へ引きずり込まれた三人の子供たちもいる。彼らがこうして当たり前のようにここにいる。込み上げるものがあった。情けない姿を見せてしまわぬよう、手早く話を切り上げる。子供たちは解散し、慧音は寺子屋を後にした。
(あの三人は、どうしているだろう)
思えば事件後会う機会がなかった。阿求の話によれば祭りに来る予定だそうなので、そのとき久々に話してみようか。
冬だというのに里は活気に満ちていた。お祭りが近くて浮かれている。その陽気さが、あちらの世界に届けばいい。そう願って、晴れ渡った空に伸びをした。
※※※
そして――
祭りの日が、やってきた。
葬想祭は夕暮れ時に始められた。商売気の旺盛なものたちが里の大通りや広場のあちこちに出店を開き、客引きの声がひっきりなしに響いている。浮かれきった喧騒に包まれた空気は財布の紐と、人々の頬を緩くした。何のために開かれた祭りであるかなど、大勢にとっては些細なことであった。楽しめるときに楽しもうとする性質は幻想人類共通のものである。しんみりとした悲しげな、湿っぽい雰囲気などどこを探しても見つかりはしない。そしてそれは、事件の渦中にあった人妖たちも同様であった。表面上は。
「あ、小傘さん小傘さん! くじ引きありますよ、くじ引き! 私くじ引きでは負けなしなんですよねぇ」
「くじ引きって勝ち負けを競うものだっけ……? というか、早苗、能力悪用してない?」
「一子相伝の秘術をそんな俗事に使ったりはしませんよ。満足度の問題なのです。くじ引きなんてそもそも絶対に当たりが出ないことだってあるんだから、楽しんだもの勝ちなんですよ。どんなつまらないものが当たってもそれをよしとできるなら、事実上負けはなくなるのです」
「勝ち負けを競うものだっけ……?」
「あ、焼き鳥もある。……って、あれ、ミスティアさんですよね? 何してるんでしょう」
「なんか抗議してるみたいだけど……あ、弾幕ごっこになった。焼き鳥の人、空飛んでるし何か燃えてるけど大丈夫なのかしら……?」
「あー、あれは竹林に住んでるふじ……ふじわ……不死身之妹紅? って人だね。名前どおり滅多なことじゃ死なないみたい。前に戦ってるのを見たことがあるよ」
「あ、こいし。いつから?」
「うん? 最初からいたわよ?」
「またそーゆー。隠れなくたっていいのに」
「癖なのよねぇ。気配をなくして歩くの。無意識のうちに無意識になってしまう」
「どこから無意識なのかしら? いやそうじゃなくて」
「あ、ミスティアさんが落ちましたよ」
「服が黒焦げだねー。あんなに大きい焼き鳥は食べきれないよ」
「お腹減りましたね。何か食べます?」
「あ、私たこ焼きで」
「小傘ちゃんに同じく」
「たこ焼きかー。どこかに屋台ありましたっけ」
ふらふらと歩いていると、程なく『たこ焼きアイ』と書かれた看板が見つかった。「なるほど、愛ね」と小傘はうなずき、人ごみを掻き分け近づいていく。
「あら」
「えっ」
見知った顔がそこにあった。
第三の眼を隠すかのように全身をすっぽりと覆う大きな外套を纏ったさとりが、たこ焼きを焼いていた。
「えっ」小傘は二度、繰り返す。
「あ、お姉ちゃん。売り上げはどう?」
「ぼちぼちですね。物珍しげに買っていく人がそれなりに。『なんでさとりがここにいるの?』ですか。小傘さん、それはこいしに誘われたからです。私自身、あの事件に関して思うところがありましたし、そのひとつの終幕を見届けたい気持ちがあったのです。たこ焼きを焼いているのは……最近ペットが増えてきたので食費がかさんで……」
言いながら、さとりはてきぱきとたこ焼きを仕上げていく。よく見れば、それは赤や青の毒々しい色に着色されていた。いかな技術を使ったものか、一様に目玉の形の焦げ目ができている。忌憚なく言うならば、ものすごく気味が悪い。思わず後ずさりしながら、屋台の看板を見た。『たこ焼きアイ』まさか眼のほうであったとは。
「これ、おいしいの……?」
「そうですね。中々好評なようでしたよ。『見た目はアレだけど味は普通』と」
「褒めてないよそれ!?」
「とはいえその意見はあくまで八割といったところで、残りの二割は『からい! いたい! 罰ゲーム用だったか……!』という感想でした」
「な、なにを入れて……?」
「阿求さんに触発されまして……一部にからしを、たっぷりと」
「売る気あるの!?」
「喧嘩なら、それなりに」
「好戦的だった!?」
「冗談です。単に驚き狼狽する心が見たかっただけです」
「なおたちが悪いよ!」
「というのも冗談で、多少博打要素があったほうが売れるかなと……」
「それなら、からしが入ってるって看板にでも書いておいたほうが効果があるんじゃ……」
「……ふむ」
さとりは思案げに看板を見上げた。「考えておきます」。
「それより、そろそろじゃないですか?」
「?」
「ほら、始まりますよ」
里の中心にある大きな広場のほうに人だかりができているのが見えた。「私もしばらくしたらペットを見張りに置いてそちらへ向かいます。先に行っていてください」とさとり。小傘たちは人だかりのほうへと向かう。
これから何があるかは知っていた。
程なく、広場の中心が見えてくる。キャンプファイアーなどでそうするように、木が平行に二本ずつ縦、横、縦、横と上から見て「口」の字を描くように組み上げられている。櫓のような風体である。それの中で轟々と火が焚かれていて、もうもうと煙が立ち昇っていた。冬の夜は寒い。暖を求めるように自然と人々は火の周りに集まってくる。
「みなさーん!」
女の子の声が聞こえる。聞きなれた声だ。阿求が台の上から声を張り上げている。
「今、ここには各々見つけた忘れ物や落し物を持った人々が集まっています。最近何か落としたり失くしたりした人は名乗り出てみてください! 案外すんなり見つかるかもしれません! 事前に告知したとおり、これからそれらは火にくべられてしまいます! お早めに! 声をあげずとも、手を挙げたりこの台の傍に近寄ってくるだけでもいいですので!」
これにそれなりの数の人がぞろぞろと動き出した。そのうちの何割かは紛失したものを見つけることができたし、見つけられなかったものもいた。それ以上誰も動かなくなったのを見計らったように、阿求は続ける。
「では、残りの人はそれぞれ持ってきたものを火に投げ入れてください! あまりに高価そうなものや重量のあるものは無理して投げ入れる必要はありませんが、投げ入れた人もそうでない人も、黙祷を! 物は物です! しかし何にだって魂が宿る! 捨てられたもの、忘れられたもの、誰にもかえりみられず孤独な想いを募らせる、そんな物の心を想像して、かなうならそれを悼み、弔ってやってください! 物だけじゃない! “我々が気づかないうちに忘れてしまっている、忘れたことにすら気づかないもの”を思い浮かべてみてください! これはそれを弔う祭りです!」
葬想祭の本旨はそこにあった。
あらゆる記憶と記録から消失し、無意識世界で畸形と成り果てた怪物。それを直接弔うことはできない。そもそも誰にも“認識できない”からだ。「我々には見えないだけで、こんな怪物が存在している。それを弔ってくれ」そうした言葉だけで実感を得ることは難しい。あやふやなイメージの中で曖昧模糊とした「それらしきもの」を追悼することはできるだろうが、不足である。そこで阿求たちが考えたのは「別のものを媒介として比喩的に怪物を弔うこと」であった。怪物は“忘れ去られたもの”である。ある意味で“人に捨てられたもの”ということもできる。だからそれを暗示する忘れ物や落し物を、そこに堆積した想念を仮想し火葬するのである。それは間接的に怪物を弔うことに繋がる。
月影さやけき葬想祭の夜、人々の中心で火の舞い立つ間、怪物は人間の輪の中にある。人恋しあやかしの成れの果ては、ほんのしばらく人心の中に浮き上がる。ぱちぱちと爆ぜる火の粉に混じり、無邪気に飛び跳ねころころと笑う――そんなことを思った。
小傘は燃え盛る火を眩しそうに見つめている。
これから先、葬想祭は毎年開かれる予定である。
定期的に行わなければ、その空白の期間に新たな怪物が誕生してしまう可能性があった。
(これで、全部、もう、あんな悲しいことがなくなるならば)
きっと素敵なことだ。と考える。目を閉じる。あの日阿求の屋敷で思い出した、かつて見えざる向こう側の世界で見たものを、無意識の怪物を思い浮かべる。
(もう大丈夫。寂しむことなんかない。だから、安心して眠っていいの)
誰かに手を握られる感触があった。その温かさを、覚えている。早苗は今、どんな顔をしているだろう。きっと安心したような、それでいて少しだけ不安そうな顔をしているのだろう。これで本当に終わるのか、無意識の怪物が生まれなくなるのかと。
無言で握り返す。先までの喧騒が嘘のように静まり返った広場、ぱちぱちと炎のはじける音がする。静謐な夜を総身に浴びながら、何気ない一瞬一瞬を噛み締める。
反対側の手が、別の手に握られる。考えるまでもなくわかった。こいしの手だ。清水のようにひんやりとして花弁のように柔らかい。ふと、青色の薔薇が脳裏に浮かぶ。こいしのイメージにぴったりはまっている気がして、少し楽しくなった。
(そういえば、青い薔薇って)
誰から聞いたのだったか。その花言葉は二つある。
不可能、そして奇跡。
(それなら、もう、しょうがない)
信じてみようと思った。
根拠なんてない。ただ二つの奇跡に挟まれているなら、少しくらい欲張りになってみようと思った。
もう怪物は生まれない。
願って、信じて、疑わず――
肩の力がすとんと抜けた。
憑き物が落ちたみたいだった。
(色んなことがあったなぁ……)
追想が溢れてくる。
事件が始まってからのこと。人々に認識されなくなって泥に塗れた雨の夜、死を覚悟して怪物と共にあると言ったこと、忘却に怯え続けた日々も、こうして三人でいることも。
人間が恨めしい気持ちと人間が好きな気持ちがせめぎあって苦しかったこと。
ほんのちょっとだけ素直になれたこと。
その答えを。
(私は、もう、知っている)
迷わない。迷うことなんてない。するべきことを、したいこと、全部、全部、わかってる。
葬想祭は朝まで続いた。
歴史にのみ刻まれる奇妙な失踪事件は、この年を境にぱったりとなくなったという。
※※※
『使い古した道具の未来は?
最近、雨も降っていないのに傘をさした妖怪が人間の里を彷徨っているという。この正体は何とベビーシッターだ。
頼まれもないのに、東に泣いている子供が居れば威かしてあやし、西に笑っている子供が居れば威かして泣かすという。それを仕掛けているのは多々良小傘さん(唐傘お化け)である。
何故この様な仕事を始めたのだろう。その事について彼女はこう語る。
「知らないの? 傘で空を飛ぶのはベビーシッターの仕事なんだってさ」
唐傘お化けとは付喪神の一種で、長年使われた傘が放置された結果、妖怪化したものである。かなり古典的な妖怪であり、どちらかというと人間を困らせる妖怪なのだが、それがベビーシッターとどう結びつくのだろうか。
「よく判らないけど外の世界では、ベビーシッターは傘で空を飛ぶらしいよ。それにならって私もこの商売を始めてみたの。子供なら威かすの簡単だしねー」
彼女の話を簡単には信用できなかったので、他の情報筋から話を聞いた。それによると、傘で空を飛ぶベビーシッターは実在するらしいが、魔法が使えるような一部のプロフェッショナルだけの話だそうである。私はてっきり『こうもり(子守り)傘』という言葉遊びだと勘違いしたが……。
「傘として使って貰えないのなら、自分から役に立つ道具になりたいの。私は人を驚かすことぐらいしか出来ないけど……、人間が何を欲しているか予想して、道具の方から人間に合わしていきたいの。それが新しい付喪神の姿だと思っているわ」
子供を威かして回る姿は残念ながらベビーシッターと言うより、ただの変質者にしか見えなかった。現に人間の親の間では手配書まで作られているようである。付喪神の存在意義を見いだせるかどうか、その挑戦はまだ始まったばかりだ。』
――文々。新聞 百二十一期 睦月の二より
※※※
「続・備忘録」
これが――。
これが、私の見聞きした「あの事件」に関するすべてのことです。あなたは果たして、思い出すことができたでしょうか。そうであることを願っています。こいしさんは「たぶんもう忘れない」なんて言っていましたが、やっぱり不安なものは不安でした。念には念を入れるということで、この備忘録を書き始めたのです。
さて、さて。
書くべきことはもうすべて書いてしまいましたし……ここからの余白は、あの事件ではなくこの備忘録について少し記しておきましょう。ここまで読んできた私なら、きっとこの「備忘録」の特異さに気づいているでしょう。これまでの記述の中で、この「備忘録」だけ“浮いている”。そう感じはしませんでしたか? 具体的にはこの「備忘録」だけが他の記述と時系列的に断絶されたものであることをあなたはとっくにわかっている。
この「備忘録」中には、何度か何者かの述懐が出てきている。(前略)とされた怪談の導入のような文章や、前後を(略)で囲われた『ああ、なんと恨めしい』で始まる文章、『――そう、怪物にまつわる事件だけは』で始まる薄暗い未来図を想起させる文章、そしてバッドエンドを告げた『後書き』を。
あなたは覚えていますね?
伏せるべき情報はもうなくなりましたので、ここでネタばらしと行きましょう。
まず最初の怪談の導入を思わせる文章、あれは過去にあなたが書いた『事件の記録』です。事件当時、あなたがわけのわからぬままに翻弄され、見聞きしたものをそのまま書いたものの、その前書きの部分に当たります。(前略)としたのは、その部分に『事件の記録の前書き部分』だとわかってしまう記述があったからですね。
……お分かりでしょう。私はこの「備忘録」内において、意図的に情報を伏せている。挙句、時系列に逆らい叙述トリックを仕込みもした。
いえまぁ、大した理由はないのです。ちょっとした悪戯心の発露です。だって、そうでしょう? 未来の私がもし本当にこの「備忘録」内に書かれたことを忘れてしまっているのなら、私はとても貴重な体験をしていることになります。“自分で自分を騙す”なんてこと、普通はできませんものねぇ。私ならわかってくれると思います。この気持ち。
さて、(略)で囲われた文章です。あれはさとりさんの書いた小説の前書きから抜粋したものです。著者が私でないことがわかってしまいそうな記述があったので、前後を(略)せざるを得ませんでした。次に途中で差し込まれた『――そう、怪物にまつわる事件だけは』からの述懐。あれもさとりさんの小説の中にあったものですね。私が書いたものでないと推測できる情報があったので載せるか迷いましたが……中途半端に穴抜けになるし、まぁそのときはそのときかなと。そして最後のバッドエンドを告げる文章……これは言うまでもないでしょう。さとりさんの小説の後書きです。これも私が書いたものでないと推察される可能性があったのですけど。
未来の私は、まんまと騙されてくれたのでしょうか。
それともやっぱり自分が書いたものなので、早い段階で見抜かれてしまったでしょうか。
この「備忘録」は『事件の記録』と『さとりさんの小説』を元に、事件の顛末を小説風味に纏めたものです。途中文々。新聞からの抜粋もありますがね。特に後者『第百二十一期睦月の二』はかつて私の屋敷で新勢力の三者対談が行われたとき、乗り込んできた霊夢さんが引き合いに出したものです。ことさら記憶に新しいのではないでしょうか。覚えていたら。
えっと……。
もう、書くことがありませんね。盛大な自分へのネタばらしも終わりましたし、そろそろ筆を置くべきかもしれません。ん? あの後三人がどうなったかって? それはあなたがよく知っている通りですよ。自分の目で確かめてください。ただ、そうですねぇ。神霊の異変の折、小傘さんが人間(霊夢さんとか魔理沙さんとか)に助けを求めていたらしいことが、少し印象的ですね。人間に隔意を持っていた頃と比べると、やはり色々と変わっているよう思えます。
幻想郷は今日も明日も、ほんの少しずつ移り変わって行きます。
それでもずっと変わらないものもあると信じて――此度はこれで、文を閉じるとしましょうか。
誰も彼もが暢気そうに、平和そうに、太平楽な顔で道を歩いていく。それを尻目に見やりながら、感慨深いものを感じていた。
やがて、目的の場所についた。
大きなお屋敷だ。
私は呼び鈴を鳴らして、応答があるのを待つ。
どたどたと奥から玄関へ向かってくる足音。
がらがらと戸が開けられる。
そして。
「おや――?」
この家の主は不思議そうに私を見ていた。
私は軽く笑って、お辞儀をした。「おはようございます。朝早くにすみません」そう言うと、対面に立ち尽くす御仁は、困惑をあらわにした表情で、
「あの……」
「今日はひとつ、頼みごとがあるのですが――」
「……い、いえそれより、あなたは」
うん? と私は首をかしげた。
眼前には、依然混乱に彩られた顔がある。
「あなたが……あなたがなぜここにいるのですか。――古明地さとり」
そう言って、“稗田阿求”は奇天烈そうに“私”を見ていた。
※※※
中に通され、お茶を出される。礼を言って、軽く啜った。ここまでの道中ですっかり喉が渇いていた。何しろ誰もかれも、私のことを奇妙そうに見つめてくる。半分は私の奇妙な風体――身体にまとわりつく第三の目のコードを気にし、もう半分、サトリ妖怪について少しでも知識のある者は『なぜこんなところにサトリ妖怪が』と思っていた。
ただ、不思議なことに。
「……人里も、ずいぶんと様変わりしたのですね。私のことを見ても、私が何であるか知っていても、心底から恐れ忌避するものは少なかった。まるで、私が――」
ここにいてもいいみたいではないか。
その言葉は、飲み込んだ。
こいしが、あれほど地上に入り浸っていた理由がわかった気がする。
この世界は、幻想郷は、知らないうちにすっかり楽園になってしまっていた。
「……それより、どうして、あなたがここに……地霊殿の主は引き篭もっていると聞きましたが」
「『まさか、妹に罰ゲームでからし入りのお菓子を食べさせたのがばれたのか』ですか。ふふふ、こいしはよろしくやっているようですね」
「う、ぐっ……あなたの妹さんも、小傘さんや早苗さんと一緒に何度かここを訪れましたからね。ただそれだけのことです」
「『心を読まれるってやりづらいなぁ』ですか。そうでしょうねぇ。特にあなたは腹を隠すタイプのようですので」
「風邪を引いちゃあ堪りませんからねぇ」
阿求さんは頬をひくつかせながら、懸命に内心を読まれまいとしているようだった。例えばでたらめに様々な文字や記号を思い浮かべ、私の意識を攪拌しようとする。立体的な図形を次々に組み立てて複雑な壁を作るイメージをする。えっちぃ妄想で私の目に毒を盛ろうとする。
「……いやいや」
その妄想の中で、私は裸にひん剥かれていた。「いやん」とか私はそんなこと言わない。「だめぇ」とか言わせるのはやめてほしい。
毒のある人だとは聞いていたが、ここまでとは。
初対面の相手に躊躇なくここまでできる人は、そうそういない。
阿求さんは当初それらの読心対策を並行して行っていたのだが――それだけでも十分驚異的な思考速度といえる――興が乗ったのか次第にエロ妄想一本にシフトしていった。妄想の内容も段々と過激なものになり、「あの」、阿求さんが筆で私を責め立てる、「あのぉ」、現実のほうでもはぁはぁと息を荒げて頬を上気させ、「阿求さん」、辛抱たまらんと立ち上がったところで、
「お、落ち着いてください!」
私の声に、ようやく我に返ったようだった。
「ん……? あれ、なんで服着てるんです?」
「!? ま、周りが見えなくなるタイプとか言われたことありませんか……」
「……」
あるらしかった。
心を読めばわかる。
そもそも、先ほど阿求さんがやっていたことはどれも読心対策として有効ではない。いや、最後の妄想はちょっときつ……けふん。
「そんなことでは、サトリの能力をかいくぐることはできませんよ。強いて言うなら何も考えないことだけが唯一の対策なのです。そして、本当の意味で“何も考えない”ことは常人には不可能です」
「……しかたがありませんね」
「私も、少し度を外しました。元々、あなたをからかうために来たわけではないんです」
「……まぁ、それは信じましょう」
阿求さんの目は、私の手元の大きな鞄へ向けられている。
私はおもむろに手を突っ込み、紙の束を取り出した。
それは何だ? と阿求さんが心の中で聞いてくる。
「……あなたは、記録をとっていますね?」
「(! 記録とは……)」
「そうです。ひと月前、この人里で起こった奇怪な連続失踪事件、それに関する記録です」
「(……確かに取っていますよ。ただ、それを書いたのは一ヶ月も前で、あれから色々とわかったこともありますし、いずれ加筆修正するつもりですが……)」
「……好都合です。私の用件は、それに関することですし。……あの、喋ってくれません?」
「(こっちの方が楽でいいじゃないですか)」
「……お茶目な方ですね……」
「(私は私で、結構驚いていますよ。あの噂に名高いサトリ妖怪、どんな恐ろしい相手かと身構えていましたが……存外に物腰が柔らかいもので。近いうちに縁起の取材であなたのところも尋ねるつもりでして、割と不安だったんですが……)」
馬鹿な心配だったようです、と阿求さんは今度は声に出して、笑った。
「……私は、このまま終わらせたくない」
「……?」
「多々良小傘と東風谷早苗、二人がこのまますべてを忘れたままだなんて、嫌です」
「なっ……いえ、あなたが知っているのはおかしなことではありませんでしたね。他ならぬあなたの妹が、誰より深く事件に関わっていた……いえ、しかし、それはとうに忘れていることのはずです」
「確かに、普通は忘れてしまう。忘れたくないとどれだけ強く願ったとして、不足です。同じ文字を機械的に書き続けていると、その文字の形が不意にわからなくなってしまう現象があるように、忘れないことを思い浮かべ続けていると、次第に忘れないことそのものが目的になって、何を忘れたくなかったのか段々とわからなくなってしまう。だから私は、書きました」
「書いた……?」
阿求さんが首をかしげる。
私は答えず、話を続ける。
「あなたは、こいしからどれくらい聞いていますか?」
「……一通りのことは。なぜ人が消えるのか、小傘さんが消えた理由や、帰ってくるまでの経緯など」
「そうですか……。なら、私の“これ”もそれほど必要ではなかったかもしれませんね。ただ、できるなら――」
私は紙の束を机に置いて、差し出した。
阿求さんの目がずらりと並んだ文字列に引き寄せられる。
「これは……?」
「……読んでみてください。いえ、その、少し恥ずかしいですが」
「?」
阿求さんは私を横目に見つつも、紙の束を――私が書いた小説を読み始めた。
それなりの分量がある。すべて読み終えるのには一刻の時間を要した。
「……これは……この事件の詳細と、あっちの側で起こったことや、何より小傘さんや早苗さん、こいしさんの心情がかなり細かく書いてありますね」
「はい。それはこいし本人から事件のことを聞きながら書いたものです。……私は、前々から小説を読むのが好きでして。それが高じて物書きの真似事なんぞもしていたものです。私はこいしほど小傘さんや早苗さんと深い付き合いがあったわけではない。ただ、お二人には感謝しています。彼女たちとの交流の中で、こいしは徐々に心を開いているみたいでしたから。それどころか、一度は閉じていたサードアイすら開いたのです。私は彼女たちに何かしてやれないかと考えていた。妹のことを抜きにした個人的な感情としても、お二人には好ましい印象を覚えています。だから、嫌だったんです。忘れてほしくなかった。そんな折、こいしがこんな提案をしてきました。サードアイを瞬間開いたその日、息を荒げて帰ってきて」
彼女たちのことを、小説に書くことができないか。
物語仕立てにして、この事件を通して経験したことを追体験してもらう――それなら、もしかしたら、思い出せるのではないか。
「私は急いで筆を取りました。こいしは一度、早苗さんや小傘さんの心を直接のぞいています。それも、激情に荒れ狂っている心の中を。だから相当深い部分まで彼女たちの心理がわかっていたみたいです。私はこいしの話を聞きながら、私自身がのぞいた彼女たちの心のことも添えて、それを書き上げました。毎日筆を進めながら、何度も何度も読み返すんです。人の意識は流動する液体のようなもので、必ず手のひらからこぼれ落ちてしまう。忘れないためには外部に記憶を保存し、定期的に記憶を刺激しなければならない。それでも忘れることは多々ありましたが……そうしたときは改めてこいしに話を聞きました。それすら忘れたときは、こいしのほうから私に話すんです。それら何重もの措置ができる環境になければ、私もすべてを忘れていたでしょう。小傘さんたちと違って直接無意識の側へ行ったわけではないから、無意識への引力が弱かったというのもあるのでしょうが……」
ふと阿求さんの心にひとりの女性の顔が浮かび上がっているのが見えた。直接の面識はないが、私も知っている。銀色の髪と、珍しい形をした帽子。
「上白沢慧音さんですか」
「……いえ、少し前に聞いた話を思い出しまして。彼女もこの事件について忘れないために、色々と手を打っていたそうです。事実、里で私以外では唯一まだ事件のあらましを覚えています。元々慧音さんは種族柄抜群の記憶力を持っていますが……あるいはあなたのように覚え書きを作って、何度も見直したりしていたのかなと」
「……かもしれませんね。とはいえいずれ、本題は別です。私の目的はこれをあなたに見せることであり――」
そこまで言って、気づく。
阿求さんは聡慧なことに、すでに私の提案の趣旨を理解していた。
「――そして、私が記した事件の記録……こいしさんの知りおよばない里での出来事などをあわせて読ませれば、より強く記憶に訴えかけることができるのではないか……と」
「……えぇ。できれば一気呵成に多くの情報を見せるのが得策かと思います。そのためには、阿求さん、あなたの協力が不可欠だ。何卒、お願いできないでしょうか」
私は誠意の限り頭を下げた。
そのために何かやれと言われたら、何だってやる気でいた。
阿求さんは、困ったように笑い、「顔を上げてください」と言った。
「頭を下げるべき者がいるとすれば、それは私の方です。願ってもない。これなら……これなら、どうにか、なるかもしれない。もうご存知のことかと思いますが、以前早苗さんは完全に忘却した記憶を取り戻している。それは彼女自身の奇跡を起こす程度の能力に起因するものです。前例は、ある。必要な道具も、ここにそろっている。……やりましょう。信じましょう。彼女たちも同じことを望んでいる。だから、必ず」
必ず、取り戻せるはずだ。
阿求さんの瞳が、意志の輝きに爛々と彩られる。
私も、精一杯強くうなずいた。
「……それだけが、あなたにこの小説を託すことが私の使命でした。ひとまず、今日はお暇しますね。また何かあれば言ってください。あぁいえ地底は遠いでしょうから……今度、こちらから出向きます。……吉報を、期待しています」
「……えぇ」
「それでは、さようなら」
「……さとりさん」
膝を立て、帰り支度を進めようとしたときぽつりと阿求さんが言った。
それは彼女自身にとっても想定外の、思わず漏れた呟きであったらしく、口元をはっと押さえている。
もう遅い。第三の目には見えてしまった。
今度会ったらそのときは。
おいしい紅茶を六人で、なんて。
ええ必ず、と答えると、阿求さんは火を吹くほどに赤面する。
笑みが浮かぶのを避けようもなく、きっと大丈夫だって、心から信じられた。
※※※
地霊殿へ帰り着くと、意外なことに来客があった。
こいしが、小傘さんを連れてきていたのだった。
「あ、お姉ちゃん」
「おね……? あなたのお姉さんなの?」
いったい何をしたのやら、小傘さんのこいしに対する視線は胡乱そのものである。
心をのぞいてみると、実際ものすごく警戒していた。
こいしをじと、と薄目を向ける。
「あはは、いやこれには深いわけが」
「いえ、いいです。わかりました」
小傘さんの心を読めば事のあらましは理解できた。
昨夜小傘さんはこいしに連れられて守矢神社へ行った。こいしが「今なら早苗は驚きやすいから」と唆したのである。それに従った小傘さんだが……早苗さんが想像以上に驚くし、その理由が切実な怪体験(今の彼女の認識の上では)によるものだったしで、申し訳なくなり、同時にこいしに対する信用を失したのだ。
「ちゃんと謝るのよ」
「はーい……」
こいしがしょぼくれた声で答える。
勝手に進んでいく話に小傘さんはきょろきょろと視線をさまよわせていた。
私は彼女を――以前一度そうしたように――応接室へ招きいれ、簡易にもてなした。強張り緊張しっぱなしだった小傘さんも徐々に気を緩めていった。
話は四方八方へ飛び、そんな中でふと、明日の予定なんてものになった。
「私は……そうだ、里のヒエーダさんちに……」
「ひえ……?」
「えっ?」
「えっ?」
「……こいし」
こいしはそろそろと逃げ出そうとしていた。
「待ちなさい」
事情を聞きだすと、稗田をヒエーダと教えていたらしい。
つくづく自由だ。
勘違いもすぐに訂正され、
「ふーん? 変だと思ったわ。……ほ、ほんとよ? ほんとに違和感覚えてたわよ? こほん。ともかく、その稗田さんちに行って、怪談を聞くのよ」
「そうですか……それなら、ひとつ、面白い話がありますよ。そうですね……“怪物にまつわる話”を所望してはどうでしょうか。きっとスリリングな体験ができます」
「怪物……?」
「それは、見てのお楽しみ」
こらえきれず、ついつい。
悪戯っ子のような笑みが浮かんだ。
あぁ、きっと、本当に、忘れられない体験になるだろう。
願わくは――
……
……
……
※※※
この翌日、宣言どおり小傘は稗田邸を訪れ――
※※※
「あっ」
「あっ」
ばったり。
完全な、偶然だった。
小傘は稗田邸の玄関の前に立ち、まさしくその戸を開こうとしていた。
そこに、横合いからもうひとつ手が伸びた。
見れば、つい一昨日見たばかりの顔。
「小傘……さん?」
「早苗……? どうして、ここに」
「いえ、私は……えーと……」
早苗はうんうんと唸り、
「そんな小傘さんこそ、どうして、ここに」
「えっ? いや、それは……」
二人してぐむむと黙り込むことしばし。
「……入ろっか」
「……はい」
馬鹿馬鹿しくなって、素直に入ることにした。
鍵がかかっていた。
「……」
「……」
当然といえば当然のことである。
まるで通い慣れた家に上がるように、極自然に戸が手に伸びていた。
気まずげに、早苗が呼び鈴を鳴らす。
程なく、鍵が外される音。
「あ――」
出てきた藤色の髪の少女は二人を見てなぜか間の抜けた顔をした。
それからくすくすと笑い、
「どうぞ、上がってください。――見せたいものがありますので」
奇妙極まりないことを言ってのける。
初対面の相手に、見せたいものとは何ぞや。
二人は始終、狐に摘まれたような面持ちであった。
※※※
そして、今。
今、二人は並んで同じ書物をのぞきこみ、滂沱と涙をこぼしている。
早苗とは別々に読もうとする小傘を阿求が寄り合わせてより一刻半。
渡された巻物と紙の束を最初訝しげに睨んでいた目は、途中から困惑に彩られていった。
内側から溢れてくる得体の知れない感情を、奇妙な感慨を、気のせいであると振り払うように。その一方で文字を追う目は止まらなくなり、紙をめくる速度はいや増していった。二人は食い入るように読み続けた。休みもいれず、会話もなく、ただ黙々と読み続けた。
それを阿求は、ずっと不安な気持ちで眺めていたものである。
もし、これで駄目だったらどうしよう。記憶が戻らなかったらどうしよう。さとりに確信ありげに言った手前ではあったが、元々賭けに近い試みであった。早苗の能力が以前と同じように作用する保障などない。前のそれは、それこそ奇跡であったかもしれぬ。奇跡は二度は起こらない。起こったとしたら、それは運命か、必然とでも呼ぶべきものである。
阿求は必然に賭けた。
二人が共に過ごした時間に、輝かしい一ヶ月の記憶に、思いに、願いに賭けた。
そして、今。
今である。
二人に言葉はない。もうすべてを読み終えて数分はたつのに、何も喋らず沈黙を保っている。緊張に喉が渇くのを感じた。湯飲みを掴もうとして、小刻みに震える指を知る。部屋は無音に閉ざされて、はやる鼓動が耳朶を打つ。
たまらず、口を開こうとする。「さ――」ひとまず早苗のほうへ言葉を発しようとして、
「……もし」
それより先に、早苗が言った。
ぽつり、と、呟くように、こぼすように。
「……もしも私がおかしくなったのでなければ。私が気を違えたのでないならば」
ひとつひとつ、噛み締めるように、確かめるように紡いでいく。
「小傘さん、ひとつだけ、ひとつだけ聞かせてください」
恐れと期待がない交ぜになった声だ。
小傘は何も言わず、首肯して答えを返す。
「“私たちと、あと一人の名前は”」
「……こいし。古明地こいし」
「この一ヶ月間、私たちは」
「……ずっと一緒にいた。覚えてる。覚えてる。覚えて……思い出して……ぅ、ぅぅぅぅ」
小傘がうめき、体を丸める。
いけない、と思った。自分はこの場にいるべきではないと直感した。阿求は立ち上がり、そっと部屋を出る。小走りに廊下を進み、部屋から極力遠い場所へと。外ではひゅうひゅうと風が鳴いている。肌寒く、人肌恋しいつむじ風。きたる冬を嘆き、遠い春を待ち焦がれているような、閑寂な音色。
直後。
風の音など、吹き飛んだ。
「――! ――!!」
離れた部屋のほうから、感情の塊が聞こえてくる。
誰かが大声で泣き喚いている。二人が大声で泣き喚いている。言っていることは聞き取れない。聞き取れない距離へ来て、よかったと思った。それは二人だけの言葉であるべきだと感じていた。あるいは三人の、もう一人、あの事件を通して深く関わりあった彼女を含めての。
古明地こいしはどこにいるだろう。
彼女は、今。
あるいは阿求が気づかなかっただけで、最初からあの部屋にいたのかもしれない。それだったらいいなと考える。これまで悲しかったぶん、これまで苦しかったぶんまで、全部全部泣いて笑って流してしまえばいいと思った。きっとそのときが、本当にあの事件の終わるときなのだ。
(彼女たちにとっての、事件は終わった)
自分にとっては、どうなのだろう。
五年前のあの日から事件の影に怯え続けていた、自分にとっての終わりとは。
(きっと……それは、もうすぐ)
遅すぎた雨の季節は終わりを告げた。早すぎた冬は過ぎ去った。春色の芽吹く季節まで、あと少し。
(準備は順調に進んでいる……あとひと月、いやふた月ほどで開催できる。……もうしばらくして、部屋に戻ったら二人に知らせてあげないと)
小傘が提案し、阿求と慧音が形を整えたお祭り。
近く迫るは葬想祭、無意識の怪物たちを、見送り弔う鎮魂の祭り、とめどなく漏れ聞こえる感涙の声を耳に受けながら、阿求は小さく、拳を握る。
……
……
……
※※※
文々。新聞 第百二十四期 睦月の三
人里で奇祭! 忘れ物はありませんか?
近々里では新しいお祭りが開催されるという。お祭りというと酒を飲む口実のように思っているものが少なからずいそうだが、祭りは本来宗教的・儀式的な意味合いを持つものが多く、新しい祭りが開かれるというのであれば、相応の理由があるはずである。酒を飲むためとか。
この祭りを主催するのは幻想郷縁起で御馴染み稗田阿求さんと里の守護者として信頼篤い上白沢慧音さん。二人はこの祭りを開くに至った経緯として、次のように語った。
「あなたは覚えていますか? あ、覚えてませんか。ではあなたは落し物や忘れ物についてどう思いますか? いえいえ、率直な感想をお答えください。あ、はい、そうですか。まぁそんなものですよねぇ。しかし落し物や忘れ物というのはあまり長いこと放っておくと付喪神化することもありますし、誰かが持ち主に届けてやるなりきちんと壊してやるなりする必要があります。しかし個人個人でそれを行うというのは、中々難しいものでしょう。ならばそういう場を設けてはどうかということで、この祭りには各々があるものを持ってくるんです。それは拾った落し物だったり誰かの忘れ物だったり、ともあれ打ち捨てられ忘れ去られてしまう運命にある物を持ち寄って、そして供養するんです。持ち主がいないか呼びかけてみて、いないならば火にくべます。物には想いが蓄積する。それを葬り弔うのがこの祭りの意義……というのは全部建前なんですけどね。本当の目的? さぁ、説明しても通じないと思いますし……」
「祭りの真意? 稗田殿が話さなかったということは、つまり……ふむ。そうだな、以前私を取材したことは覚えているか? それは覚えているのか。なら、そのとき書いた記事を読み返してみるといい。何か目ぼしい発見があるかもしれない」
とのことである。
以前慧音さんを取材したときの記事、というのは没になった記事のひとつで、確かあれこれと調査しているうちに時間が過ぎ……何だったか。ともあれ没になったのには没になったなりの理由があるのだろう。その記事には『里で連続失踪事件が起こっている』などと書かれていたが、そんな事実はなかったはずだ。大方酔いながら書いたのだろう。危うく我が文々。新聞に虚構の記事が載ってしまうところであった。発見というと、それだろうか。
祭りは今月の終わり頃に開催される。人間妖怪を問わず参加可能とのことなので、気の向いたものは顔を出してみるのもいいかもしれない。祭りの名前は『葬想祭』。想いを葬る祭りである。私もくだんの出鱈目記事あたりを持って参加してみるつもりだ。
※お詫び※
平素は文々。新聞をご愛読いただき誠にありがとうございます。さて、前回の新聞にて誤字がありました。記事の日付を本来『第百二十四期睦月の二』と書くところを『第百二十一期睦月の二』と書き誤っており、読者の方々に無用な混乱を生じさせたことを平にお詫びいたします。これからはこのような誤りのないよう……え、前もその前も誤字があったって? 同じような謝罪を聞いたって? いえいえ、速報性と情報量を売りにする新聞記者として速筆は最大の友でありますから、その過程で多少書き間違えることがあったとして、それはやむを得ないことと……あ、待って、破かないで。葬想祭で火にくべてやろうとか考えないで。ちゃんと反省してますからー。次からしっかり校正しますからー。ほんとですからー。雑巾はやめてー!
※※※
「と、そういうわけだ」
いやに長く感じられた秋も過ぎ去り、白銀が地を覆う頃。
睦月も中旬を過ぎていよいよ寒冷となり、吐く息も白く濁る冬。
寺子屋、教壇に立って生徒たちの顔を見渡すのは雪すらかすむ銀色の髪、白皙の肌を持つ美人である。慧音は子供たちが話を聞く態勢に入っているのを確認し、ゆるく相好を崩した。
「皆読み終わったか? その新聞に書かれているように、近々新しいお祭りがある。落し物や忘れ物を見つけたら、その日のためにとっておくといい。もちろん、それより先に先生に届け出てくれても構わないぞ」
「せんせー、宿題は忘れ物に入りますか?」
「そうだな。提出期限を守れなかった宿題は忘れ物のうちだな。だからといって祭りのときに燃やしてしまおうなどとは考えるんじゃないぞ」
「せんせー、河原で拾ったえっちな本は落し物に入りますか?」
「そういうお前はお年頃だな、HAHAHA……とでも言えばいいのか。そんな話はせんでいい」
「せんせー、忘れたい過去を燃やすことはできますか?」
「暗黒の歴史が平和な時代を築くこともあるのだ。諦めろ」
てんやわんや。
その日の授業も一通り終わり帰宅を目前にした子供たちは何かと騒がしい。一部ませた発言をする子供もいるが、多くはお祭りという言葉の響きに目を輝かせるまだあどけない子供たちである。葬想祭当日は、そんな子供たちを眺めて酒を飲むのもいいな、と考えて、これでは大人も子供も大差ないと苦笑い。
もう一度、教室の生徒たちを見渡した。教師数の問題から年齢ごとに分けられてはおらず、まだ幼いものから少年少女と呼ぶべき年頃のものまで。その中にはあの事件で無意識の側へ引きずり込まれた三人の子供たちもいる。彼らがこうして当たり前のようにここにいる。込み上げるものがあった。情けない姿を見せてしまわぬよう、手早く話を切り上げる。子供たちは解散し、慧音は寺子屋を後にした。
(あの三人は、どうしているだろう)
思えば事件後会う機会がなかった。阿求の話によれば祭りに来る予定だそうなので、そのとき久々に話してみようか。
冬だというのに里は活気に満ちていた。お祭りが近くて浮かれている。その陽気さが、あちらの世界に届けばいい。そう願って、晴れ渡った空に伸びをした。
※※※
そして――
祭りの日が、やってきた。
葬想祭は夕暮れ時に始められた。商売気の旺盛なものたちが里の大通りや広場のあちこちに出店を開き、客引きの声がひっきりなしに響いている。浮かれきった喧騒に包まれた空気は財布の紐と、人々の頬を緩くした。何のために開かれた祭りであるかなど、大勢にとっては些細なことであった。楽しめるときに楽しもうとする性質は幻想人類共通のものである。しんみりとした悲しげな、湿っぽい雰囲気などどこを探しても見つかりはしない。そしてそれは、事件の渦中にあった人妖たちも同様であった。表面上は。
「あ、小傘さん小傘さん! くじ引きありますよ、くじ引き! 私くじ引きでは負けなしなんですよねぇ」
「くじ引きって勝ち負けを競うものだっけ……? というか、早苗、能力悪用してない?」
「一子相伝の秘術をそんな俗事に使ったりはしませんよ。満足度の問題なのです。くじ引きなんてそもそも絶対に当たりが出ないことだってあるんだから、楽しんだもの勝ちなんですよ。どんなつまらないものが当たってもそれをよしとできるなら、事実上負けはなくなるのです」
「勝ち負けを競うものだっけ……?」
「あ、焼き鳥もある。……って、あれ、ミスティアさんですよね? 何してるんでしょう」
「なんか抗議してるみたいだけど……あ、弾幕ごっこになった。焼き鳥の人、空飛んでるし何か燃えてるけど大丈夫なのかしら……?」
「あー、あれは竹林に住んでるふじ……ふじわ……不死身之妹紅? って人だね。名前どおり滅多なことじゃ死なないみたい。前に戦ってるのを見たことがあるよ」
「あ、こいし。いつから?」
「うん? 最初からいたわよ?」
「またそーゆー。隠れなくたっていいのに」
「癖なのよねぇ。気配をなくして歩くの。無意識のうちに無意識になってしまう」
「どこから無意識なのかしら? いやそうじゃなくて」
「あ、ミスティアさんが落ちましたよ」
「服が黒焦げだねー。あんなに大きい焼き鳥は食べきれないよ」
「お腹減りましたね。何か食べます?」
「あ、私たこ焼きで」
「小傘ちゃんに同じく」
「たこ焼きかー。どこかに屋台ありましたっけ」
ふらふらと歩いていると、程なく『たこ焼きアイ』と書かれた看板が見つかった。「なるほど、愛ね」と小傘はうなずき、人ごみを掻き分け近づいていく。
「あら」
「えっ」
見知った顔がそこにあった。
第三の眼を隠すかのように全身をすっぽりと覆う大きな外套を纏ったさとりが、たこ焼きを焼いていた。
「えっ」小傘は二度、繰り返す。
「あ、お姉ちゃん。売り上げはどう?」
「ぼちぼちですね。物珍しげに買っていく人がそれなりに。『なんでさとりがここにいるの?』ですか。小傘さん、それはこいしに誘われたからです。私自身、あの事件に関して思うところがありましたし、そのひとつの終幕を見届けたい気持ちがあったのです。たこ焼きを焼いているのは……最近ペットが増えてきたので食費がかさんで……」
言いながら、さとりはてきぱきとたこ焼きを仕上げていく。よく見れば、それは赤や青の毒々しい色に着色されていた。いかな技術を使ったものか、一様に目玉の形の焦げ目ができている。忌憚なく言うならば、ものすごく気味が悪い。思わず後ずさりしながら、屋台の看板を見た。『たこ焼きアイ』まさか眼のほうであったとは。
「これ、おいしいの……?」
「そうですね。中々好評なようでしたよ。『見た目はアレだけど味は普通』と」
「褒めてないよそれ!?」
「とはいえその意見はあくまで八割といったところで、残りの二割は『からい! いたい! 罰ゲーム用だったか……!』という感想でした」
「な、なにを入れて……?」
「阿求さんに触発されまして……一部にからしを、たっぷりと」
「売る気あるの!?」
「喧嘩なら、それなりに」
「好戦的だった!?」
「冗談です。単に驚き狼狽する心が見たかっただけです」
「なおたちが悪いよ!」
「というのも冗談で、多少博打要素があったほうが売れるかなと……」
「それなら、からしが入ってるって看板にでも書いておいたほうが効果があるんじゃ……」
「……ふむ」
さとりは思案げに看板を見上げた。「考えておきます」。
「それより、そろそろじゃないですか?」
「?」
「ほら、始まりますよ」
里の中心にある大きな広場のほうに人だかりができているのが見えた。「私もしばらくしたらペットを見張りに置いてそちらへ向かいます。先に行っていてください」とさとり。小傘たちは人だかりのほうへと向かう。
これから何があるかは知っていた。
程なく、広場の中心が見えてくる。キャンプファイアーなどでそうするように、木が平行に二本ずつ縦、横、縦、横と上から見て「口」の字を描くように組み上げられている。櫓のような風体である。それの中で轟々と火が焚かれていて、もうもうと煙が立ち昇っていた。冬の夜は寒い。暖を求めるように自然と人々は火の周りに集まってくる。
「みなさーん!」
女の子の声が聞こえる。聞きなれた声だ。阿求が台の上から声を張り上げている。
「今、ここには各々見つけた忘れ物や落し物を持った人々が集まっています。最近何か落としたり失くしたりした人は名乗り出てみてください! 案外すんなり見つかるかもしれません! 事前に告知したとおり、これからそれらは火にくべられてしまいます! お早めに! 声をあげずとも、手を挙げたりこの台の傍に近寄ってくるだけでもいいですので!」
これにそれなりの数の人がぞろぞろと動き出した。そのうちの何割かは紛失したものを見つけることができたし、見つけられなかったものもいた。それ以上誰も動かなくなったのを見計らったように、阿求は続ける。
「では、残りの人はそれぞれ持ってきたものを火に投げ入れてください! あまりに高価そうなものや重量のあるものは無理して投げ入れる必要はありませんが、投げ入れた人もそうでない人も、黙祷を! 物は物です! しかし何にだって魂が宿る! 捨てられたもの、忘れられたもの、誰にもかえりみられず孤独な想いを募らせる、そんな物の心を想像して、かなうならそれを悼み、弔ってやってください! 物だけじゃない! “我々が気づかないうちに忘れてしまっている、忘れたことにすら気づかないもの”を思い浮かべてみてください! これはそれを弔う祭りです!」
葬想祭の本旨はそこにあった。
あらゆる記憶と記録から消失し、無意識世界で畸形と成り果てた怪物。それを直接弔うことはできない。そもそも誰にも“認識できない”からだ。「我々には見えないだけで、こんな怪物が存在している。それを弔ってくれ」そうした言葉だけで実感を得ることは難しい。あやふやなイメージの中で曖昧模糊とした「それらしきもの」を追悼することはできるだろうが、不足である。そこで阿求たちが考えたのは「別のものを媒介として比喩的に怪物を弔うこと」であった。怪物は“忘れ去られたもの”である。ある意味で“人に捨てられたもの”ということもできる。だからそれを暗示する忘れ物や落し物を、そこに堆積した想念を仮想し火葬するのである。それは間接的に怪物を弔うことに繋がる。
月影さやけき葬想祭の夜、人々の中心で火の舞い立つ間、怪物は人間の輪の中にある。人恋しあやかしの成れの果ては、ほんのしばらく人心の中に浮き上がる。ぱちぱちと爆ぜる火の粉に混じり、無邪気に飛び跳ねころころと笑う――そんなことを思った。
小傘は燃え盛る火を眩しそうに見つめている。
これから先、葬想祭は毎年開かれる予定である。
定期的に行わなければ、その空白の期間に新たな怪物が誕生してしまう可能性があった。
(これで、全部、もう、あんな悲しいことがなくなるならば)
きっと素敵なことだ。と考える。目を閉じる。あの日阿求の屋敷で思い出した、かつて見えざる向こう側の世界で見たものを、無意識の怪物を思い浮かべる。
(もう大丈夫。寂しむことなんかない。だから、安心して眠っていいの)
誰かに手を握られる感触があった。その温かさを、覚えている。早苗は今、どんな顔をしているだろう。きっと安心したような、それでいて少しだけ不安そうな顔をしているのだろう。これで本当に終わるのか、無意識の怪物が生まれなくなるのかと。
無言で握り返す。先までの喧騒が嘘のように静まり返った広場、ぱちぱちと炎のはじける音がする。静謐な夜を総身に浴びながら、何気ない一瞬一瞬を噛み締める。
反対側の手が、別の手に握られる。考えるまでもなくわかった。こいしの手だ。清水のようにひんやりとして花弁のように柔らかい。ふと、青色の薔薇が脳裏に浮かぶ。こいしのイメージにぴったりはまっている気がして、少し楽しくなった。
(そういえば、青い薔薇って)
誰から聞いたのだったか。その花言葉は二つある。
不可能、そして奇跡。
(それなら、もう、しょうがない)
信じてみようと思った。
根拠なんてない。ただ二つの奇跡に挟まれているなら、少しくらい欲張りになってみようと思った。
もう怪物は生まれない。
願って、信じて、疑わず――
肩の力がすとんと抜けた。
憑き物が落ちたみたいだった。
(色んなことがあったなぁ……)
追想が溢れてくる。
事件が始まってからのこと。人々に認識されなくなって泥に塗れた雨の夜、死を覚悟して怪物と共にあると言ったこと、忘却に怯え続けた日々も、こうして三人でいることも。
人間が恨めしい気持ちと人間が好きな気持ちがせめぎあって苦しかったこと。
ほんのちょっとだけ素直になれたこと。
その答えを。
(私は、もう、知っている)
迷わない。迷うことなんてない。するべきことを、したいこと、全部、全部、わかってる。
葬想祭は朝まで続いた。
歴史にのみ刻まれる奇妙な失踪事件は、この年を境にぱったりとなくなったという。
※※※
『使い古した道具の未来は?
最近、雨も降っていないのに傘をさした妖怪が人間の里を彷徨っているという。この正体は何とベビーシッターだ。
頼まれもないのに、東に泣いている子供が居れば威かしてあやし、西に笑っている子供が居れば威かして泣かすという。それを仕掛けているのは多々良小傘さん(唐傘お化け)である。
何故この様な仕事を始めたのだろう。その事について彼女はこう語る。
「知らないの? 傘で空を飛ぶのはベビーシッターの仕事なんだってさ」
唐傘お化けとは付喪神の一種で、長年使われた傘が放置された結果、妖怪化したものである。かなり古典的な妖怪であり、どちらかというと人間を困らせる妖怪なのだが、それがベビーシッターとどう結びつくのだろうか。
「よく判らないけど外の世界では、ベビーシッターは傘で空を飛ぶらしいよ。それにならって私もこの商売を始めてみたの。子供なら威かすの簡単だしねー」
彼女の話を簡単には信用できなかったので、他の情報筋から話を聞いた。それによると、傘で空を飛ぶベビーシッターは実在するらしいが、魔法が使えるような一部のプロフェッショナルだけの話だそうである。私はてっきり『こうもり(子守り)傘』という言葉遊びだと勘違いしたが……。
「傘として使って貰えないのなら、自分から役に立つ道具になりたいの。私は人を驚かすことぐらいしか出来ないけど……、人間が何を欲しているか予想して、道具の方から人間に合わしていきたいの。それが新しい付喪神の姿だと思っているわ」
子供を威かして回る姿は残念ながらベビーシッターと言うより、ただの変質者にしか見えなかった。現に人間の親の間では手配書まで作られているようである。付喪神の存在意義を見いだせるかどうか、その挑戦はまだ始まったばかりだ。』
――文々。新聞 百二十一期 睦月の二より
※※※
「続・備忘録」
これが――。
これが、私の見聞きした「あの事件」に関するすべてのことです。あなたは果たして、思い出すことができたでしょうか。そうであることを願っています。こいしさんは「たぶんもう忘れない」なんて言っていましたが、やっぱり不安なものは不安でした。念には念を入れるということで、この備忘録を書き始めたのです。
さて、さて。
書くべきことはもうすべて書いてしまいましたし……ここからの余白は、あの事件ではなくこの備忘録について少し記しておきましょう。ここまで読んできた私なら、きっとこの「備忘録」の特異さに気づいているでしょう。これまでの記述の中で、この「備忘録」だけ“浮いている”。そう感じはしませんでしたか? 具体的にはこの「備忘録」だけが他の記述と時系列的に断絶されたものであることをあなたはとっくにわかっている。
この「備忘録」中には、何度か何者かの述懐が出てきている。(前略)とされた怪談の導入のような文章や、前後を(略)で囲われた『ああ、なんと恨めしい』で始まる文章、『――そう、怪物にまつわる事件だけは』で始まる薄暗い未来図を想起させる文章、そしてバッドエンドを告げた『後書き』を。
あなたは覚えていますね?
伏せるべき情報はもうなくなりましたので、ここでネタばらしと行きましょう。
まず最初の怪談の導入を思わせる文章、あれは過去にあなたが書いた『事件の記録』です。事件当時、あなたがわけのわからぬままに翻弄され、見聞きしたものをそのまま書いたものの、その前書きの部分に当たります。(前略)としたのは、その部分に『事件の記録の前書き部分』だとわかってしまう記述があったからですね。
……お分かりでしょう。私はこの「備忘録」内において、意図的に情報を伏せている。挙句、時系列に逆らい叙述トリックを仕込みもした。
いえまぁ、大した理由はないのです。ちょっとした悪戯心の発露です。だって、そうでしょう? 未来の私がもし本当にこの「備忘録」内に書かれたことを忘れてしまっているのなら、私はとても貴重な体験をしていることになります。“自分で自分を騙す”なんてこと、普通はできませんものねぇ。私ならわかってくれると思います。この気持ち。
さて、(略)で囲われた文章です。あれはさとりさんの書いた小説の前書きから抜粋したものです。著者が私でないことがわかってしまいそうな記述があったので、前後を(略)せざるを得ませんでした。次に途中で差し込まれた『――そう、怪物にまつわる事件だけは』からの述懐。あれもさとりさんの小説の中にあったものですね。私が書いたものでないと推測できる情報があったので載せるか迷いましたが……中途半端に穴抜けになるし、まぁそのときはそのときかなと。そして最後のバッドエンドを告げる文章……これは言うまでもないでしょう。さとりさんの小説の後書きです。これも私が書いたものでないと推察される可能性があったのですけど。
未来の私は、まんまと騙されてくれたのでしょうか。
それともやっぱり自分が書いたものなので、早い段階で見抜かれてしまったでしょうか。
この「備忘録」は『事件の記録』と『さとりさんの小説』を元に、事件の顛末を小説風味に纏めたものです。途中文々。新聞からの抜粋もありますがね。特に後者『第百二十一期睦月の二』はかつて私の屋敷で新勢力の三者対談が行われたとき、乗り込んできた霊夢さんが引き合いに出したものです。ことさら記憶に新しいのではないでしょうか。覚えていたら。
えっと……。
もう、書くことがありませんね。盛大な自分へのネタばらしも終わりましたし、そろそろ筆を置くべきかもしれません。ん? あの後三人がどうなったかって? それはあなたがよく知っている通りですよ。自分の目で確かめてください。ただ、そうですねぇ。神霊の異変の折、小傘さんが人間(霊夢さんとか魔理沙さんとか)に助けを求めていたらしいことが、少し印象的ですね。人間に隔意を持っていた頃と比べると、やはり色々と変わっているよう思えます。
幻想郷は今日も明日も、ほんの少しずつ移り変わって行きます。
それでもずっと変わらないものもあると信じて――此度はこれで、文を閉じるとしましょうか。
色々な要素を組み合わせ、話として纏め上げ最後まで魅せる。お見事でした。
個人的にはホラーの不気味さと小傘の心情描写が来ましたね。特に小傘が忘れられた時の早苗への叫びはもう凄かったです。
ああ、いい話を読み終えて気持ち良く眠れそうだ。素敵なお話を有難うございました。
いまひとつノリきれなかったところなどありつつ、
でもいまは、主役、小傘が放ってみせたエネルギーを
ハクタクのごとく(?)反芻していたい気持ちです
ただ、一番盛り上がるはずの、忘れられたよくわからないモノと決戦に至る、と言う展開の辺りはよくわからず、物語の外から眺めるばかりだった
その後、小傘と早苗とこいしが思い出を徐々に無意識の彼方へ放逐してしまうと言う辺りの描写は寂しくて素敵だった
ただそこまでホラーって感じがしなかった(黒幕の造形も含めて)です。
なんというか昔読んだジュブナイルホラーを思い出す、爽やかな読後感がありました。
無意識という概念には、様々な事柄(思念や残思など)が関わっているということに驚き、感服しました。
それにしても壮大なストーリーですね。
ここまでミステリーじみて、キャラ達の感情、心理描写を見事に表現できていて、素直に凄い作品だなと思いました
印象に残った場面は小傘と早苗が泣きあっている場面です。
守矢神社と稗田家。両方の場所でのことでを言っているのですが、この二人が泣きあう場面は想像するだけで、胸にジーンと来ました。
こいしちゃんもかなり悩んだり、悔やんだりしてましたけど、最後には明るく、誰とも笑いあえる元気なこいしちゃんになってくれて、本当によかったです。
いろいろと感動するお話をありがとうございました。
それでは失礼いたします。
ホラーなのは前編だけで、確かに中編はファンタジー怪奇譚にしてライトノベル。それ以上に、6人目が『』である意味。見ていていっそ痛々しいですが、同時にこれほどまでに強くなったことに感銘を受けました。
それにしても超級の名作でした。数年前なら60,000点超えしたことでしょう!原作にどこまでも忠実で、それでいてそれらしく引き込まれる状況設定。怪異解決に乗り出しそうな周囲のキャラまで、すべてのキャラクターに見せ場と想いを持たせる完成度。カリスマあふれる叙述トリックや随所のダブルミーニングといった洗練された技巧。ダイナミックにそして自然に移り変わる場のムードが情緒や笑いや緊迫感そして切なさを増幅し、表現の端々からキャラクターたちの激烈な感情が伝わってきます。なんといっても一番盛り上がった場面、阿求と慧音とさとりの苦心と願いが奇跡を起こすシーン。あれほどの感動はそうそう味わえません。
これほど素晴らしい作品を本当にありがとうございます。読んでいる間緊張のしすぎで筋肉痛になりそうでした。
前回に引き続き楽しませていただきました。
ありがとうございます。
その苦悩は葬想祭で報われ、我慢して読んで良かったと思いました。
早苗とこいしと手を繋いで弔いを見守る締め括り。尊くて切なくて、情緒的です。素晴らしい。
洗練された作品全体の構成もお見事。作者様の頭を開いて中を拝見したい。
そして後半に入ってからの、緻密に計算された伏線の回収に次ぐ回収!
校正にどれほどの時間をかけたのでしょうか? 構想から完成まで一年半!? ひゃー!
ところで、あとがきで書きたい事がまだまだ沢山あったとありますが、
読者からしたら、100kb地点を超えたらあとは最後まで読む以外に道はありません。
ハードカバー三冊分とか、もっともっと長くても問題ありません。
たとえば美味しい料理は量もあった方が嬉しいですから!
サイズを見て開く読者はガチ勢が多いかと思うので、
――なので、作者様の作品であるならば、――苦しゅうないもっと長いのを持って参れ!
個人的には、小傘と早苗が「反動」からもっと抗ってほしかったなと。
一か月間行く先々で何かしらの方法を模索したりだとかしてると、良かったかも。
以上、読了の感情に任せて書きなぐってしまいました。
しかし、時間も忘れて一気読みでした。ああ良い作品だったぁ、面白かったぁ。しかしもう朝だぜえ。
大変有意義な時間を過ごすことが出来ました。執筆お疲れ様でした。
だんだん表情が増えていくこいしちゃんもよかった!
いざ読み終わったら、読み落とした文章にすごく申し訳ない気分になり
かといって350kbを一字一句見逃さないとか難しいなぁと思ったり
とりあえずもう一周だけしてきます
それでも読み落とす部分があったら、幻想郷のお祭りで供養してもらってください
話が終わっても頭に何か居座っている気がする……
一気に読んで満足感がすごかったけど、疲労感もすごい……
しかし、無意識的に感動しました。
意識して読んでない文章が、無意識に私を感動に誘った訳ですね。
よし、二周目行って来ます!!
「死」や「無意識」のような、蝕知不可能なもの、到達不可能なものに対する畏怖は常に私たちにつきまといます。「もし死んでしまったら、一年もたってしまえば誰も自分のことを覚えていないのでは」ということを考えると、怖い。でもそんなとき、この物語に登場する小傘や早苗、阿求に慧音、そしてこいしとさとりのように、それらを受け入れて、強くあれたら、と思います。
素敵な物語をありがとうございました。
でも、過去の阿求がこう成ると思っていないと、この話は書けないんじゃないですか?
勝手がわからずびくびくしつつも少しばかりのコメ返しなど。
>>1様 読了ありがとうございます。具体的にどこがよかったという感想は糧になります。
>>3様 あそこらへんノリノリで書いてた覚えがあります。だといって肝心な場面に作品外の要素を持ち込んでしまったのは確かに失敗でしたねぇ。気をつけたいです。
>>4様 感想ありがとうございます。ただ読み手を作品世界に引き込めなかった己の技量不足が純粋に悔しいところです。
>>5様 実は作者自身構想を煮詰めていく過程で「これホラーじゃないんじゃないか」とは思ってましたw 下で指摘している方がいるとおりだから前編にしかタグがありません。爽やかな読後感というのは結構意識してたところなので、嬉しいです。ありがとうございます。
>>8様 ありがとうございます。キャラクターの心理描写にはかなり力を込めてたので、そう言ってもらえると嬉しいです。
>>9様 前編にしかタグをつけなかった意図と『』の意味、まさしくその通りです。他にも事件に深く関わったすべてのキャラに「想い」を持たせたところとか、書くとき意識してたところ次々と当てられて変な声出そうになりました。
>>10様 前作を覚えていてくださった方がいるとは。「もうみんな忘れてるよなぁ」と思ってたので、むずがゆ嬉しい気分です。楽しんでいただけたようで、幸いです。
>>11様 ありがとうございます。視点変更の多さ、場面転換の多さは書いてて不安の残る部分でした。書きたいもの全部ぶち込んだのが仇となったか、功を奏したか。次はもっとスリムな構成にまとめてみたいものです。
>>12様 ありがとうございます。校正は……もう読み返すの嫌になるくらいw 何回読み直しても不安で不安で。その分完成度は高められたと思うのですが、なんというか、作品が凝ってしまった気もします。あと後書きについては……紛らわしかったですね。「他にも書きたいネタはたくさん」というのはこの作品中に書きたいことではなく、他の作品の構想について言っていました。この作品中に書きたいことは、すべて書いてあります。それであほみたいな長さになってしまいましたが……作者としては、たぶん、後悔はありません。
>>13様 ありがとうございます。こいしのキャラ付けってほんと人によって違いますよね。作者的には現段階ではあんな感じのこいしです。黄昏新作に出てるそうでまた色々変わってくるかもしれないのですが。
>>16様 350kbはやっぱ長いですよねぇ。それを「せっかく書いたんだから読め」などと言える筋合いは作者にはありません。できるとしたら作中の言葉でもって引きずり込むことだけです。それができなかったのは、ついぞ僕の力量不足によるものでしょう。もっと上手くなりたいです。
>>17様 読了お疲れ様です。読んでて疲れる文章、というのは個人的に戴けないので色々試してみます。
>>18様 ありがとうございます。無理に二周する必要はありませんが、してもらえたら、冥利に尽きます。
>>20様 ありがとうございます。次の話でも楽しんでもらえたら、幸いです。
>>23様 感想ありがとうございます。無意識というものには思うところ多々ありまして、作中では構成上悪者みたいな扱いでしたが、人間にとって無意識は絶対不可欠なものだとも考えています。忘れることはつらいですが、忘れられなければ狂ってしまう。誰しも知らず知らずのうちに無意識の恩恵にあやかりながら、被害を受けて悩みます。心の中にだけありながら、人間に振り回され人間を振り回す。その有り様は神に近い。神へと向ける感情ならば、それは確かに畏怖でしょう。内なる神様と付き合いながら、それでも確かに生きてはいたい。僕もそう思います。
>>26様 感想ありがとうございます。が、すみません。過去の阿求がこう成ると思っていないと……というのがよくわからないのです。阿求が予測だけで先の事実を書いている部分はなかったはずです。考えた結果、おそらく前編の“中書き”内の記述「この翌日二人はようやく顔をあわせ、少しばかりの親交を育むだろう」の「だろう」を見て中書きその他を書いたのが“事件の記録”執筆時の阿求で、かつ彼女が先のことを想像で書いていると思われたのではないかと判断したのですが……。
あの部分を書いたのは備忘録執筆時の阿求、つまり事件解決後それなりの時間がたった阿求です。この時点で阿求は事件の成り行きをすべて知っています。しかし忘却が完了した小傘がこいしの先導で守矢神社を訪れ一泊した翌日、地霊殿を訪れるまでの間に彼女らがどのような会話を交わしたかなどまではさすがに知らないだろうという脳内イメージがあったので、その部分を「だろう」と推測の形にしていたようです。ただ確実に紛らわしい記述だと思いますので、微修正しておきます。
少しと言いつつ長くなりました。
前編中編のコメントもすべて読ませていただいておりますが、そこまで返信するとますます長くなってしまうので、これくらいで。
次が書き終わるのがいつになるかはわかりませんが、水羊羹でも食べながらのんべんまったり待つでもなく待ってくだされば。
それでは。
ああ、あたいはこういうのが好きなんだなあ
読み終わった後に体が満足するような
おもしろかったです。ありがとうございました
二人の繋がりを考えたことも無かったです。脱帽。
物を大切にしようと思わせてくれる素晴らしいSSでした。
とても面白く満足でした
書いてくれてありがとうございます
心から出会えてよかったと思える作品でした。
配役もぴったりはまってますね。物語の魅力マシマシです。
最後のネタばらしはなるほど感は強まりますが、ハッピーエンドで締め感が多少薄まりますね。どちらが良いかは人それぞれでしょうが。
それでも貴方の前作の内容は見に行ってすぐ思い出せたし、今作も
同様に印象に残る大作だったと思います。ありがとうございました。
この作品の投稿からもう1年も経っている…願わくば作者さんの新作が読みたいなぁ