人も妖怪もほとんど訪れることのない無縁塚。
それは縁者のいない死者の悲しみか、しとしとと雨の音だけが響き渡る。
来る途中までは雨が降るなど有り得ないほどに快晴だったのにも関わらず、嫌な天気に霖之助は眉間に皺を寄せる。
「参ったな…。今日は大丈夫だと思ったんだが…」
彼は商売道具を拾い…もとい弔う為に無縁塚に来ていたのだが、予想外の天気に来て早々帰ろうかと思っていた。
全てを見て回ったというわけではないが、雨に濡れても大丈夫で尚且つ店先に出せるものはなかったので彼にとっては珍しい手ぶらでの帰路となった。
「まさか収穫0とは…ん?」
彼が帰る途中、というより無縁塚の入口に位置するところに妙な存在感を放つ1冊の本が目に入った。
目を背けたくなるような嫌悪感を放つ「それ」はまるで手に取れと言わんばかりに堂々と置いてあった。
もちろんそこは霖之助が一度来る時に通った道で来る時はなかったはずなのに。
そればかりかその本は媒体が紙なのにも関わらずこの雨で濡れてるばかりか湿った様子もない。
「これは…ネクロノミコン…用途は神を召喚するだって?」
自分の能力が道具の名前と用途を分かる程度の能力だということを一瞬だけ怨んだというのは後の彼の言葉である。
彼が曰くつきの道具を拾うのはこれが初めてなわけではないが、他の道具とは何か違うモノを彼は感じた。
「あら、霖之助さん。あなたの目的は幻想郷の破滅だったのかしら?」
「…紫か。驚かさないでくれ」
「これは失礼」
突如目の前に現れた紫に霖之助はうっかり本を落としそうになった。
彼女はいつものように胡散臭い笑顔を浮かべているが、いつもと違うのは目が笑っていなかったところだろうか。
それより霖之助は彼女のある一言が気にかかった。
「君は今幻想郷の破滅と言ったのかい?」
「ええ、その本に書かれていることは間違いなく幻想郷の破滅に直結しています」
「この本は神を召喚できるようだが、神なら既に幻想郷にもいるだろう?」
霖之助が想像するのは豪快に酒を飲み干す蛇の神や年齢と見た目が一致しない蛙の神である。
どちらも正真正銘神様だし確かに幻想郷の異変にもなったことはある。
しかし、破滅とまではいかないレベルだったからだ。
「ええ、確かに幻想郷に神は既に存在しているわ。でもその本に書かれている神は簡単に言えばベクトルが違うのよ」
「と、言うと?」
「説明が長くなりそうだし、とりあえず場所を変えましょうか」
そう言うと彼女は隙間を1つ開けた。
そういえば雨が降ってたんだと彼は今になって思い返す。
隙間の先はいつも自分が生活している香霖堂の居間だった。
二人分のお茶を用意し、静かに座る。
ネクロノミコンはいつの間にか彼女の手にあった。
彼女の能力であることは明白だしこれも初めてということはではないので特別驚きもしなかった。
相変わらずその本は見るたびに露骨な嫌悪感を思わせる。
いくら本好きな霖之助でもこれは読めそうになかった。
「もう名前はわかってるんでしょうけどこれはネクロノミコンと言って宇宙彼方に存在する神を召喚する方法が記されている魔導書よ」
「そこまでは分かってるんだが僕が知りたいのは幻想郷にいる神とその本に記されている神の違いだ」
「そうね…この本に記されているのは一言で言えば邪神…かしら」
邪神。
それは神でありながら人間に災いを齎す象徴。
言ってみれば幻想郷に存在する神が善、この本に書かれている神が悪である。
「…邪神を召喚して何か得るものがあるのかい?」
「全ての邪神を覚えてるわけではないけど、印象が大きいのは星を1個消せたりできるわよ」
外の世界では自分の命と引き換えに大量の人間を殺す「自殺テロ」というものがあるという。
今の紫の言葉でふとそう思ったが規模が違いすぎて違和感さえ覚える。
だが確かに星を消せる程の力なら幻想郷程度なら破滅など簡単にできそうではある。
「もちろん全ての邪神が破滅ばかりなのかと聞かれたらそうとは言い切れないんだけど」
「ほう?ということはそれなりに善心を持っている邪神も存在すると?」
「善心を持った邪神って矛盾してるわね。そうね…人間と交渉し絶大な力を授ける神もいるわ」
もちろんそれなりの対価が必要だけど、と彼女は煎餅を齧りながら囁く。
その魔道書が放つ嫌悪感に慣れてきた彼はその本の内容を一目見ようと手を伸ばす。
が、目的のものは触れる寸前に消え彼の手は宙を掴む。
「乙女の物を許可なく触ろうとするなんて失礼な人ね」
「元々は僕の物だったんだけどね」
そもそも乙女ってどこに…と言おうとしてやめた。
もし言ってしまったら邪神すらも恐怖する何かが生まれてしまうかもしれないからだ。
「まぁ読もうにもアラビア語で書かれてるから読めないでしょうけど」
「そこまで知ってる君は…読めたのかい?」
「ふふ…どうかしらね…」
彼女はにやぁっとまるで口が耳まで届いたのではないだろうかと思えるほど薄ら寒い笑みを浮かべた。
彼女の妖怪らしい顔を見たのは久しぶりかもしれない。
だが、その表情も一瞬で戻りいつもの胡散臭い表情に戻る。
「なんてね、嘘よ嘘。私は邪神召喚なんて興味ないし、そもそも読もうとも思わないわ。こんな気持ち悪いもの」
「それはなにより」
霖之助はふと視線を本に移すとぼそりと呟く。
「その本はやはり没収かな?」
「ええ、もちろん。それともあなたはやはり幻想郷の破滅を夢見てるのかしら?」
即答だった。
もちろん彼も本気で手に入れようとは思ってなかったが。
「まさか。僕だってここは好きだからね」
「良かった。もし本当にそうならあなたの命も没収してしまうところだったわ」
ニコリと微笑むがやはり目は笑っていない。
本気で殺す、とでも言ってるようだ。
いや、彼女なら例え親しい者でも幻想郷に何かしようものなら躊躇無く殺すだろう。
今までも、そしてこれからも。
「ちなみにだが、その本に書かれている神々は一体いくついるんだい?」
彼は少しぬるくなったお茶で喉を潤しながら聞くが、彼女は人差し指を顎に当て、しばし考えたが…。
「さぁ、私も読んだことはないから数までは分からないけどさすがに八百万の神々程はいないわね」
「そんなにいたらこの世という概念すらなかっただろうね」
八百万の邪神が暴れる様は地獄すらも生ぬるいだろう。
「それともう1つ、この本に記されているのは神だけではないわ」
「神だけではない…とは」
「そうね…幻想郷で言う妖精みたいなものかしら。そう言った存在の召喚方法もこの本には記されているわ」
彼の想像する妖精とは悪戯好きで子供っぽいところが印象深い氷の妖精を思い描く。
それはそれでいろんな意味で怖いが。
「ふむ。では例えば水の妖精を呼び出したとして、絶大な水の妖精の力を得るということもできるのかい?」
「水の妖精の信仰をしたところで水の力は得られないわねぇ」
彼女はずずずっと音を立ててお茶を啜る。
霖之助のお茶は冷えてしまったのに彼女のお茶はまだ湯気が出て暑そうなのは能力のおかげだろうか。
「じゃあ何を得られると?」
「…」
彼女はコトリと湯呑を置くと静かにこう話し始めた。
「ネクロノミコンで言う水の妖精…まぁこの場合司祭と言うんだけどその司祭の名はクトゥルフ、もしくはクトゥルーと呼ばれているの。でもこれは人間が聞き取った時の言葉であって本当の名前ではないわ」
正確に発音できない名前なんて霖之助は聞いたことがなかった。
いや、聞けたら発音できるのだから「聞けるはずがない」というのが正しいのだが。
「そのクトゥルフとやらは何を人間に授けるんだい?」
「世界よ」
「世界?」
司祭程度が世界を授けるなんてとんでもない話だ。
邪神クラスになるとどうなるやら想像すらできない。
「そう、と言っても星を授けるというわけではないのよ」
「確かに信者1人1人に星を分けていたらキリがないからね」
星と言っても様々で10km程度のものから太陽の何倍もある大きさのものまでピンキリだ。
さらに地球のように酸素がある星はほとんど無くまず生きていくことはできないだろう。
「ここで言う「世界」とはクトゥルフが降臨し、地球を支配した後の時代になるわね」
紫が言うには、クトゥルフ教の信者は神々の復活は必然であり、昔のようにまた地球を支配する。
この時教義を忠実に守り、信仰していた信者は神の境地に達し善悪などという矮小な感情の軛から自由となり、
人の従うべき法も守るべき道徳も放り捨て愉悦に満ちた殺戮を心ゆくまで味わう。
「偉大なる古き神々」は新たな殺戮を技を教示し、虐殺と破壊の黒き焔が地上を包み浄化していく。
そして信者たちは歓喜に満ちて踊り狂うのだという。
しばし無言の時が流れた。
それもそのはず、外の世界はもちろんのこと幻想郷ですら考えきれないことなのだから。
これを山の神々が聞いたら呆れ果てこの本を破り捨てることだろう。
「…とても信じられないな…いや、信じたくないのかもしれないが」
「そう、信じてしまったら正気を保てないでしょうね。そんな世界私もイヤだもの」
パリッと煎餅を一口。
急に現実に引き戻されたようで少し安堵の息が漏れる。
すると霖之助はふとある1つの疑問が思い浮かんだ。
「それにしても今日はなんでこんなに素直に教えてくれるんだい?いつもは有耶無耶にするというのに」
すると紫は口をへの字に曲げて呟く。
「ひどいわぁ…私はいつも素直よぉ?まるで私がいつも胡散臭いみたいに言わなくてもいいじゃない…」
よよよと泣き崩れたフリを見せる紫。
ご親切にハンカチを噛むのも忘れずに。
「はいはい。それで?」
「もうちょっと面白い反応はできなかったのかしら…」
まぁいいわ、と咳払い。
「そうね、敢えて言うなら私の気まぐれが4割、幻想郷が好きだと言ったのが1割」
「残りの5割は?」
「私からあなたへの愛♡」
ちゅっと投げキッスをされるが咄嗟に避けてしまった。
理由は分からないが名状しがたき何かが頭をよぎったからだ。
「…は置いといて、あなたになら教えても害はないと踏んだからよ。それにどこぞの黒白魔法使いが偶然この本を見つけた時とかに抑止力になりそうでしょ」
なんでもこのネクロノミコンは1冊だけではなく他の国の言語でも写本で出回っているとか。
確かにそれならとんでもない低確率だが彼女が手に入れてもおかしくはないだろう。
「そうだね、でも彼女なら多分読まないと思うよ」
まずあの嫌悪感を彼女が我慢できるとは思えない。
「あら、信用してるのね。なんだか妬けちゃうわ」
今の彼女には何を言っても無意味だろうと霖之助は思った。
もしかしてお茶を酒にでも変えたのではないだろうか。
彼女と共に店に帰ってきて既に数時間は経とうとしていた。
その間霖之助はそのクトゥルフのことも含め、いろんなことを紫に聞いていた。
それだけ邪神のことについて聞きたいことがあったからだ。
と言っても彼女も知らないこともあるのか(ただ知らないフリをしているだけだろうが)全ての質問に答えてくれるわけではない。
だから完全に知り得たわけではないのが残念だった。
「さて、私はそろそろ帰りますわ。藍に怒られそう」
「おや、もうこんな時間かい。付き合ってもらって悪いね」
「いえ、私と霖之助さんの仲ですもの。それではご機嫌様…」
彼女は隙間を開き、我が家であるマヨヒガに帰ろうとしていた。
だが、その時どこからか声が聞こえた。
野太い男の声だ。紫の声ではない。
いあ いあ くとぅるふ ふんぐるい むぐるうなふ
くとぅるふ るるいえ うがふ なぐる ふたぐん
「紫」
「なーに?」
どうやら彼女は気づいていないらしい。
「いや、なんでもない。またおいで」
「変な霖之助さん。まぁいいわ、じゃあまたね」
隙間が閉まる。
先ほどの声はもう聞こえてこない。
もしかしたら何かの幻聴だったのかもしれない。
ホラー話を聞いたあとはなんでも怖く感じるのと同じような感覚だろう。
今日はもう寝たほうがいいのかもしれない。
外ではまだ雨がしとしとと降り続いていた。
それは縁者のいない死者の悲しみか、しとしとと雨の音だけが響き渡る。
来る途中までは雨が降るなど有り得ないほどに快晴だったのにも関わらず、嫌な天気に霖之助は眉間に皺を寄せる。
「参ったな…。今日は大丈夫だと思ったんだが…」
彼は商売道具を拾い…もとい弔う為に無縁塚に来ていたのだが、予想外の天気に来て早々帰ろうかと思っていた。
全てを見て回ったというわけではないが、雨に濡れても大丈夫で尚且つ店先に出せるものはなかったので彼にとっては珍しい手ぶらでの帰路となった。
「まさか収穫0とは…ん?」
彼が帰る途中、というより無縁塚の入口に位置するところに妙な存在感を放つ1冊の本が目に入った。
目を背けたくなるような嫌悪感を放つ「それ」はまるで手に取れと言わんばかりに堂々と置いてあった。
もちろんそこは霖之助が一度来る時に通った道で来る時はなかったはずなのに。
そればかりかその本は媒体が紙なのにも関わらずこの雨で濡れてるばかりか湿った様子もない。
「これは…ネクロノミコン…用途は神を召喚するだって?」
自分の能力が道具の名前と用途を分かる程度の能力だということを一瞬だけ怨んだというのは後の彼の言葉である。
彼が曰くつきの道具を拾うのはこれが初めてなわけではないが、他の道具とは何か違うモノを彼は感じた。
「あら、霖之助さん。あなたの目的は幻想郷の破滅だったのかしら?」
「…紫か。驚かさないでくれ」
「これは失礼」
突如目の前に現れた紫に霖之助はうっかり本を落としそうになった。
彼女はいつものように胡散臭い笑顔を浮かべているが、いつもと違うのは目が笑っていなかったところだろうか。
それより霖之助は彼女のある一言が気にかかった。
「君は今幻想郷の破滅と言ったのかい?」
「ええ、その本に書かれていることは間違いなく幻想郷の破滅に直結しています」
「この本は神を召喚できるようだが、神なら既に幻想郷にもいるだろう?」
霖之助が想像するのは豪快に酒を飲み干す蛇の神や年齢と見た目が一致しない蛙の神である。
どちらも正真正銘神様だし確かに幻想郷の異変にもなったことはある。
しかし、破滅とまではいかないレベルだったからだ。
「ええ、確かに幻想郷に神は既に存在しているわ。でもその本に書かれている神は簡単に言えばベクトルが違うのよ」
「と、言うと?」
「説明が長くなりそうだし、とりあえず場所を変えましょうか」
そう言うと彼女は隙間を1つ開けた。
そういえば雨が降ってたんだと彼は今になって思い返す。
隙間の先はいつも自分が生活している香霖堂の居間だった。
二人分のお茶を用意し、静かに座る。
ネクロノミコンはいつの間にか彼女の手にあった。
彼女の能力であることは明白だしこれも初めてということはではないので特別驚きもしなかった。
相変わらずその本は見るたびに露骨な嫌悪感を思わせる。
いくら本好きな霖之助でもこれは読めそうになかった。
「もう名前はわかってるんでしょうけどこれはネクロノミコンと言って宇宙彼方に存在する神を召喚する方法が記されている魔導書よ」
「そこまでは分かってるんだが僕が知りたいのは幻想郷にいる神とその本に記されている神の違いだ」
「そうね…この本に記されているのは一言で言えば邪神…かしら」
邪神。
それは神でありながら人間に災いを齎す象徴。
言ってみれば幻想郷に存在する神が善、この本に書かれている神が悪である。
「…邪神を召喚して何か得るものがあるのかい?」
「全ての邪神を覚えてるわけではないけど、印象が大きいのは星を1個消せたりできるわよ」
外の世界では自分の命と引き換えに大量の人間を殺す「自殺テロ」というものがあるという。
今の紫の言葉でふとそう思ったが規模が違いすぎて違和感さえ覚える。
だが確かに星を消せる程の力なら幻想郷程度なら破滅など簡単にできそうではある。
「もちろん全ての邪神が破滅ばかりなのかと聞かれたらそうとは言い切れないんだけど」
「ほう?ということはそれなりに善心を持っている邪神も存在すると?」
「善心を持った邪神って矛盾してるわね。そうね…人間と交渉し絶大な力を授ける神もいるわ」
もちろんそれなりの対価が必要だけど、と彼女は煎餅を齧りながら囁く。
その魔道書が放つ嫌悪感に慣れてきた彼はその本の内容を一目見ようと手を伸ばす。
が、目的のものは触れる寸前に消え彼の手は宙を掴む。
「乙女の物を許可なく触ろうとするなんて失礼な人ね」
「元々は僕の物だったんだけどね」
そもそも乙女ってどこに…と言おうとしてやめた。
もし言ってしまったら邪神すらも恐怖する何かが生まれてしまうかもしれないからだ。
「まぁ読もうにもアラビア語で書かれてるから読めないでしょうけど」
「そこまで知ってる君は…読めたのかい?」
「ふふ…どうかしらね…」
彼女はにやぁっとまるで口が耳まで届いたのではないだろうかと思えるほど薄ら寒い笑みを浮かべた。
彼女の妖怪らしい顔を見たのは久しぶりかもしれない。
だが、その表情も一瞬で戻りいつもの胡散臭い表情に戻る。
「なんてね、嘘よ嘘。私は邪神召喚なんて興味ないし、そもそも読もうとも思わないわ。こんな気持ち悪いもの」
「それはなにより」
霖之助はふと視線を本に移すとぼそりと呟く。
「その本はやはり没収かな?」
「ええ、もちろん。それともあなたはやはり幻想郷の破滅を夢見てるのかしら?」
即答だった。
もちろん彼も本気で手に入れようとは思ってなかったが。
「まさか。僕だってここは好きだからね」
「良かった。もし本当にそうならあなたの命も没収してしまうところだったわ」
ニコリと微笑むがやはり目は笑っていない。
本気で殺す、とでも言ってるようだ。
いや、彼女なら例え親しい者でも幻想郷に何かしようものなら躊躇無く殺すだろう。
今までも、そしてこれからも。
「ちなみにだが、その本に書かれている神々は一体いくついるんだい?」
彼は少しぬるくなったお茶で喉を潤しながら聞くが、彼女は人差し指を顎に当て、しばし考えたが…。
「さぁ、私も読んだことはないから数までは分からないけどさすがに八百万の神々程はいないわね」
「そんなにいたらこの世という概念すらなかっただろうね」
八百万の邪神が暴れる様は地獄すらも生ぬるいだろう。
「それともう1つ、この本に記されているのは神だけではないわ」
「神だけではない…とは」
「そうね…幻想郷で言う妖精みたいなものかしら。そう言った存在の召喚方法もこの本には記されているわ」
彼の想像する妖精とは悪戯好きで子供っぽいところが印象深い氷の妖精を思い描く。
それはそれでいろんな意味で怖いが。
「ふむ。では例えば水の妖精を呼び出したとして、絶大な水の妖精の力を得るということもできるのかい?」
「水の妖精の信仰をしたところで水の力は得られないわねぇ」
彼女はずずずっと音を立ててお茶を啜る。
霖之助のお茶は冷えてしまったのに彼女のお茶はまだ湯気が出て暑そうなのは能力のおかげだろうか。
「じゃあ何を得られると?」
「…」
彼女はコトリと湯呑を置くと静かにこう話し始めた。
「ネクロノミコンで言う水の妖精…まぁこの場合司祭と言うんだけどその司祭の名はクトゥルフ、もしくはクトゥルーと呼ばれているの。でもこれは人間が聞き取った時の言葉であって本当の名前ではないわ」
正確に発音できない名前なんて霖之助は聞いたことがなかった。
いや、聞けたら発音できるのだから「聞けるはずがない」というのが正しいのだが。
「そのクトゥルフとやらは何を人間に授けるんだい?」
「世界よ」
「世界?」
司祭程度が世界を授けるなんてとんでもない話だ。
邪神クラスになるとどうなるやら想像すらできない。
「そう、と言っても星を授けるというわけではないのよ」
「確かに信者1人1人に星を分けていたらキリがないからね」
星と言っても様々で10km程度のものから太陽の何倍もある大きさのものまでピンキリだ。
さらに地球のように酸素がある星はほとんど無くまず生きていくことはできないだろう。
「ここで言う「世界」とはクトゥルフが降臨し、地球を支配した後の時代になるわね」
紫が言うには、クトゥルフ教の信者は神々の復活は必然であり、昔のようにまた地球を支配する。
この時教義を忠実に守り、信仰していた信者は神の境地に達し善悪などという矮小な感情の軛から自由となり、
人の従うべき法も守るべき道徳も放り捨て愉悦に満ちた殺戮を心ゆくまで味わう。
「偉大なる古き神々」は新たな殺戮を技を教示し、虐殺と破壊の黒き焔が地上を包み浄化していく。
そして信者たちは歓喜に満ちて踊り狂うのだという。
しばし無言の時が流れた。
それもそのはず、外の世界はもちろんのこと幻想郷ですら考えきれないことなのだから。
これを山の神々が聞いたら呆れ果てこの本を破り捨てることだろう。
「…とても信じられないな…いや、信じたくないのかもしれないが」
「そう、信じてしまったら正気を保てないでしょうね。そんな世界私もイヤだもの」
パリッと煎餅を一口。
急に現実に引き戻されたようで少し安堵の息が漏れる。
すると霖之助はふとある1つの疑問が思い浮かんだ。
「それにしても今日はなんでこんなに素直に教えてくれるんだい?いつもは有耶無耶にするというのに」
すると紫は口をへの字に曲げて呟く。
「ひどいわぁ…私はいつも素直よぉ?まるで私がいつも胡散臭いみたいに言わなくてもいいじゃない…」
よよよと泣き崩れたフリを見せる紫。
ご親切にハンカチを噛むのも忘れずに。
「はいはい。それで?」
「もうちょっと面白い反応はできなかったのかしら…」
まぁいいわ、と咳払い。
「そうね、敢えて言うなら私の気まぐれが4割、幻想郷が好きだと言ったのが1割」
「残りの5割は?」
「私からあなたへの愛♡」
ちゅっと投げキッスをされるが咄嗟に避けてしまった。
理由は分からないが名状しがたき何かが頭をよぎったからだ。
「…は置いといて、あなたになら教えても害はないと踏んだからよ。それにどこぞの黒白魔法使いが偶然この本を見つけた時とかに抑止力になりそうでしょ」
なんでもこのネクロノミコンは1冊だけではなく他の国の言語でも写本で出回っているとか。
確かにそれならとんでもない低確率だが彼女が手に入れてもおかしくはないだろう。
「そうだね、でも彼女なら多分読まないと思うよ」
まずあの嫌悪感を彼女が我慢できるとは思えない。
「あら、信用してるのね。なんだか妬けちゃうわ」
今の彼女には何を言っても無意味だろうと霖之助は思った。
もしかしてお茶を酒にでも変えたのではないだろうか。
彼女と共に店に帰ってきて既に数時間は経とうとしていた。
その間霖之助はそのクトゥルフのことも含め、いろんなことを紫に聞いていた。
それだけ邪神のことについて聞きたいことがあったからだ。
と言っても彼女も知らないこともあるのか(ただ知らないフリをしているだけだろうが)全ての質問に答えてくれるわけではない。
だから完全に知り得たわけではないのが残念だった。
「さて、私はそろそろ帰りますわ。藍に怒られそう」
「おや、もうこんな時間かい。付き合ってもらって悪いね」
「いえ、私と霖之助さんの仲ですもの。それではご機嫌様…」
彼女は隙間を開き、我が家であるマヨヒガに帰ろうとしていた。
だが、その時どこからか声が聞こえた。
野太い男の声だ。紫の声ではない。
いあ いあ くとぅるふ ふんぐるい むぐるうなふ
くとぅるふ るるいえ うがふ なぐる ふたぐん
「紫」
「なーに?」
どうやら彼女は気づいていないらしい。
「いや、なんでもない。またおいで」
「変な霖之助さん。まぁいいわ、じゃあまたね」
隙間が閉まる。
先ほどの声はもう聞こえてこない。
もしかしたら何かの幻聴だったのかもしれない。
ホラー話を聞いたあとはなんでも怖く感じるのと同じような感覚だろう。
今日はもう寝たほうがいいのかもしれない。
外ではまだ雨がしとしとと降り続いていた。
また一つ知識が増えました。
Thank-you .
中々良かったです
邪神なんか来たらもう、終わりだよね。