決めたのだ。
私は、私のちっぽけな『時間』をかけて。
貴女のことを、世界一嫌いになる、と。
――秒針の毒素――
初めから、狂ってしまっていた、不良品の時計。
それが、私。
生きたいのか、死にたいのか。
そんなことさえ、二本の足で歩ける様になった頃には、とっくに見失っていた。
それでも、時を刻んできたのは。
殺されたくなかったからだ。
私を、殺されたくなかったからだ。
足掻いて、もがいて。
落ちて、墜ちて、堕ちて。
気がついた時には手にしていた、長針代わりの銀ナイフ。
運命に手繰られるようにして引き寄せられた紅い月へと振るったそれは、折られることなく包まれて。
近付いてきた赤い唇に『気に入った』と、耳元で囁かれた。
月の明るい夜だった。
星の見えない夜だった。
紅い館に連れられて。
首輪代わりにと、与えられた名前。
『いざよい さくや』
綺麗な響きが、短針《心》に染み渡る。
だって、綺麗な物を手にしたのは、初めてだったから。
奪われるのは嫌だけど、あげるのはいいかもしれないと、そう思った。
綺麗な物を返せないことを、少し残念に思いながら。
血に塗れた長針《握る両の手と、鈍く光るナイフ》を、差し出した。
私の時間は、私の物だ。
他の誰にもあげられない。
しかし、長針の所有権くらいならば、と。
紅い月は子供のように、または老人のように微笑むと。
自分の所有物ならば、手入れをしなければならないね、なんて。
そんなふうに嘯いて、私を湯船に投げ入れた。
あわあわ、ぶくぶく。
あったかな、お湯の向こうで笑い声。
――その後、鏡に映った自分の髪色を見て驚いた。
私の髪は、灰色ではなくて銀色だったのだと、初めて知ったからだ。
本当に、初めて尽くしの夜だった。
それから。
朝を迎えて、昼に別れを告げて、夜がまた降りてきて。
紅い月は、試しに淹れてみろと私に用意させた紅茶を口に含み、眉を顰め。
『お前には、様々な物が足りない』という台詞と一緒に吐き出した。
苦笑いしながら続けられた言葉の響きは、とても穏やかな物で。
『だけど、内緒の話。秘密だぞ? ……私にだって、足りない物はあるんだ。それなりに。つまりね、お前にあげたい物を、私自身持っていないんだよ。たぶん、ね』
だから、と。
私の手を引き、歩みだす。
分岐した、運命の枝の向こうへと。
『足りない物を持っている奴の所へ行こう。奪ってやるくらいの気持ちで』
そうして、そうして。
長い階段を下った先。
待ち受けていた私の《運命》は、屹立する書棚の中心に一輪咲く、藤の花、で。
『ッ――……!』
今まで、自分の中に存在していることにさえ気付いていなかった秒針《××》が、大きく揺れて。
新たな時を、刻みだす。
『――はじめまして』
藤の花を思わせる――貴女、は。
不器用に、でも確かな温かみを滲ませた《微笑み》を、私にくれた。
それは、本当に、本当に、どうしようもなく。
綺麗な物だと、思った。
だから。
決めたのだ。
私は、私のちっぽけな『時間』をかけて。
貴女のことを、世界一嫌いになる、と。
だって、ねえ。
汚い物は、もう差し出してしまったし。
綺麗な物なんて、貰い物の名前だけ。
私の手には何もなかった。
返せる物なんて、なんにも持っていなかったの。
だから、代わりに。
ありったけの感情を、ぶつけることにした。
一番強い感情は。
《嫌悪》だって、この世界が教えてくれたから。
――でもね。
もし、逆に。
貴女に嫌われることになってしまったら。
それは、嫌だなあ、なんて。
そんなふうに、思った。
読み書きを貴女が教えてくれたので。
膨大な知識の塊である本の山は、私の強い味方となった。
得た知識をもとに、実践に挑む。
ゴールデンルールを忠実に守って淹れた紅茶。
美味しくできたかな?
味見はしたけれど、味覚が衰えてしまっている私には、判断する事が出来ない。
紅い月には、次は絶対美味しい紅茶を飲ませなさいって、言われていたし。
そうしてあげられたらいいなあとも、思っていたから。
少し、悩んで――ひらめいた。
そうだ、貴女に飲んでもらおう、って。
もしかしたら、すごくすごーく不味いかもしれない紅茶。
でも、いいの。
だって、私は貴女のこと、嫌いなのだから。
世界で一番、嫌いになると決めたのだから。
嫌がらせは、その第一歩となるだろう、なんて。
ひとりで頷くと、少し冷めてしまった気がする紅茶は自分で飲み干し、改めて淹れなおした物を貴女のもとへと運んだ。
いつも読書をしている場所に姿がなかったから、湯気の立ち昇るカップを手に、書棚の間を探して歩いた。
絵本の並べられたコーナーで発見した貴女に、ティーカップを差し出す。
両手で受け取った貴女は、その水面をしばらく無言で眺めて。
時間差で驚いたみたいに肩を震わし、零れそうになった紅茶に慌てて見せる。
いつもは伏し目がちの目を丸くして、私と紅茶を交互に見比べる姿に、なんだか背中がむず痒くなった。
どうぞ、なんて一言さえ思い浮かばなくて、黙って立ち尽くす。
そんな私の顔を少し長い間見詰めた後、意を決したように口元へ運んだカップを傾けた。
そして。
『美味しい、わ。……ありがとう』
嬉しそうに笑いながら、そう言葉をかけてくれた。
笑顔とか、感謝の言葉とか。
そんな、綺麗な物。
貰うつもりなどなかったし、権利だって、持ち合わせていないのに。
『ッ、ただの、味見です。私にはよくわからないから。それだけ、で……』
だから、急かされるような気持ちで返した言葉に。
『――待って。わからないって、どういうことかしら』
真剣な様子で、貴女は問い返してきた。
味が、よくわからないのだ、と。
正直に告げると、途端に表情を歪めて。
どうしてだか、ひどく、傷付いた顔をした。
私は、それまで特別気に病んだことはなかったのだけれど。
その瞬間、初めて。
それが悲しいことなのだと、気付いた。
でも、麻痺しているのは味覚だけではないから、涙を溢したりは出来なくて。
むしろ、今にも泣き出しそうな貴女を、ただただ見上げるばかりで。
そんな私に向かって、伸ばされた手。
少し乱暴に、私の頭を撫で回す貴女。
への字になった口元が妙に幼く見えて、私よりも幼い子供のようだと思った。
――手から伝わる温もりで、茹ってしまったのかもしれない。
秒針《××》が、ぐるぐると、回る。
気がつくと、貴女の袖を握り締めていた。
甘い、辛い、しょっぱい、苦い。
不味い、美味しい。
少し、時間はかかったけれど。
料理本を武器に食材と格闘する貴女の手に、包丁によって名誉の負傷が刻まれる度、私の味覚にも、それらは刻まれていった。
あの日、決めたはず、なのだ。
私は、私のちっぽけな『時間』をかけて。
貴女のことを、世界一嫌いになる、と。
でも。
それはいつのまにか、とても難易度の高い課題となっていた。
貴女の優しさは、酸性を帯びた雨のように降り注ぎ、私の《しん》を蝕んでいったから。
一緒に料理をしている最中、味見をした貴女が『なにか足りない』と呟いた。
だけど、それが何であるのかがわからないと眉をしかめる貴女の手から匙を受け取り口に含む。
ああ、胡椒が足りないのだと、私は気付いた。
それを伝えると、新しい胡椒が棚の上にあるからと背伸びをする貴女。
ひょい、と。
軽く手を伸ばして取る私。
いつのまにか。
貴女の背を追い越していた。
人里の魚屋で、招き猫なんて呼ばれて可愛がられていたミケも、気付くと姿を消していた。
時は過ぎ去っていく。
止まることなく、進んでいく。
夢を視た。
薄汚れた路地裏で、水溜りに映った自分を踏みつける夢だ。
ゴミ捨て場で拾った安物の靴に水が染みて、背筋が凍えた。
その後、風邪を引いて酷い目に遭うことになる。
忘れることの出来ない、過去の記憶だ。
それ以来学習して、雨や水溜りからは極力身を守るようになった。
成長したのだ。
ベッドで目を覚ますと、下腹部を襲う鈍痛に気付き。
手を伸ばして、指先で触れた。
伝わった独特のぬめりに、もう一方の手で、顔を覆う。
鉄の臭いが鼻に届いた気がした。
――成長、したのだ。
きっと、これからもっと背が伸びるし、胸や腰周りも変化していくのだろう。
では、成長しきったならば。
その後は?
なにかを当てる気にもならず、生臭いそれを垂れ流しながら歩く。
廊下の窓越しに目に入る中庭の花壇では、色とりどりの花々が日々成長し、満開に咲き誇る美しい姿を披露してくれていたが、最後の一輪も数日前に散った。
――ああ。
やっぱり。
扉を開く《なにかが閉じる》。
入室者に気付き、振り返った貴女。
一瞬表情を緩めた後、目を見開いて。
心配そうに駆け寄ってきてくれた貴女を見下ろしながら、あらためて思い知る。
私の手には何もなかった。
貴女に返せるものなんて、なんにも持っていなかった。
だから、決めたのだ。
私は、私のちっぽけな『時間』をかけて。
貴女のことを、世界一嫌いになる、と。
――貴女に、世界でいちばん、嫌われるために。
伸ばされた手を振り払う。
傷付いた顔をする貴女。
これが悲しいことなのだ、と。
私は、もう知っていた。
――だけれど。
それは、とてもとても難題だった。
私はどうしても貴女を嫌うことが出来なくて。
貴女も、ちっとも私のことを嫌ってくれない。
時計の針がぐるぐる回る。
まだ時間はあるから、と。
そう思っているうちに、タイムオーバーが近付いてきた。
しわくちゃの私の手を握り締め、泣いている貴女に。
枯れた喉の奥に潜めていた秒針《××》を突き出した。
これが、最期のチャンスだから。
精一杯の《毒素》に塗れたそれは、きっと、鋭い。
「世界でいちばん、貴女のことが嫌いです。――……パチュリー様」
パチュリー様は。
その渾身の一撃を、避けようとはしなかった。
「――……ッ、へえ、そうなの」
受け止めて、刺し貫かれて、そのうえで。
泣きながら、笑った。
「私は、私のことを必死になって嫌おうとする貴女が、愛しかったわ」
ううん、語弊があるわね、と。
自分の言葉に首を横へ振って、掠れた吐息と一緒に口にする。
「愛しているの。世界で一番」
ああ、今更気付くなんて。
貴女の秒針《毒素》は、とうの昔に私へ突き立てられていたらしい。
ぐるぐると回り続けていた秒針《恋心》が――回りきって、止まった。
「――……貴女のことが、世界でいちばん、大好きです」
私は、私のちっぽけな『時間』をかけて。
貴女のことを、世界一嫌いになる、と。
――秒針の毒素――
初めから、狂ってしまっていた、不良品の時計。
それが、私。
生きたいのか、死にたいのか。
そんなことさえ、二本の足で歩ける様になった頃には、とっくに見失っていた。
それでも、時を刻んできたのは。
殺されたくなかったからだ。
私を、殺されたくなかったからだ。
足掻いて、もがいて。
落ちて、墜ちて、堕ちて。
気がついた時には手にしていた、長針代わりの銀ナイフ。
運命に手繰られるようにして引き寄せられた紅い月へと振るったそれは、折られることなく包まれて。
近付いてきた赤い唇に『気に入った』と、耳元で囁かれた。
月の明るい夜だった。
星の見えない夜だった。
紅い館に連れられて。
首輪代わりにと、与えられた名前。
『いざよい さくや』
綺麗な響きが、短針《心》に染み渡る。
だって、綺麗な物を手にしたのは、初めてだったから。
奪われるのは嫌だけど、あげるのはいいかもしれないと、そう思った。
綺麗な物を返せないことを、少し残念に思いながら。
血に塗れた長針《握る両の手と、鈍く光るナイフ》を、差し出した。
私の時間は、私の物だ。
他の誰にもあげられない。
しかし、長針の所有権くらいならば、と。
紅い月は子供のように、または老人のように微笑むと。
自分の所有物ならば、手入れをしなければならないね、なんて。
そんなふうに嘯いて、私を湯船に投げ入れた。
あわあわ、ぶくぶく。
あったかな、お湯の向こうで笑い声。
――その後、鏡に映った自分の髪色を見て驚いた。
私の髪は、灰色ではなくて銀色だったのだと、初めて知ったからだ。
本当に、初めて尽くしの夜だった。
それから。
朝を迎えて、昼に別れを告げて、夜がまた降りてきて。
紅い月は、試しに淹れてみろと私に用意させた紅茶を口に含み、眉を顰め。
『お前には、様々な物が足りない』という台詞と一緒に吐き出した。
苦笑いしながら続けられた言葉の響きは、とても穏やかな物で。
『だけど、内緒の話。秘密だぞ? ……私にだって、足りない物はあるんだ。それなりに。つまりね、お前にあげたい物を、私自身持っていないんだよ。たぶん、ね』
だから、と。
私の手を引き、歩みだす。
分岐した、運命の枝の向こうへと。
『足りない物を持っている奴の所へ行こう。奪ってやるくらいの気持ちで』
そうして、そうして。
長い階段を下った先。
待ち受けていた私の《運命》は、屹立する書棚の中心に一輪咲く、藤の花、で。
『ッ――……!』
今まで、自分の中に存在していることにさえ気付いていなかった秒針《××》が、大きく揺れて。
新たな時を、刻みだす。
『――はじめまして』
藤の花を思わせる――貴女、は。
不器用に、でも確かな温かみを滲ませた《微笑み》を、私にくれた。
それは、本当に、本当に、どうしようもなく。
綺麗な物だと、思った。
だから。
決めたのだ。
私は、私のちっぽけな『時間』をかけて。
貴女のことを、世界一嫌いになる、と。
だって、ねえ。
汚い物は、もう差し出してしまったし。
綺麗な物なんて、貰い物の名前だけ。
私の手には何もなかった。
返せる物なんて、なんにも持っていなかったの。
だから、代わりに。
ありったけの感情を、ぶつけることにした。
一番強い感情は。
《嫌悪》だって、この世界が教えてくれたから。
――でもね。
もし、逆に。
貴女に嫌われることになってしまったら。
それは、嫌だなあ、なんて。
そんなふうに、思った。
読み書きを貴女が教えてくれたので。
膨大な知識の塊である本の山は、私の強い味方となった。
得た知識をもとに、実践に挑む。
ゴールデンルールを忠実に守って淹れた紅茶。
美味しくできたかな?
味見はしたけれど、味覚が衰えてしまっている私には、判断する事が出来ない。
紅い月には、次は絶対美味しい紅茶を飲ませなさいって、言われていたし。
そうしてあげられたらいいなあとも、思っていたから。
少し、悩んで――ひらめいた。
そうだ、貴女に飲んでもらおう、って。
もしかしたら、すごくすごーく不味いかもしれない紅茶。
でも、いいの。
だって、私は貴女のこと、嫌いなのだから。
世界で一番、嫌いになると決めたのだから。
嫌がらせは、その第一歩となるだろう、なんて。
ひとりで頷くと、少し冷めてしまった気がする紅茶は自分で飲み干し、改めて淹れなおした物を貴女のもとへと運んだ。
いつも読書をしている場所に姿がなかったから、湯気の立ち昇るカップを手に、書棚の間を探して歩いた。
絵本の並べられたコーナーで発見した貴女に、ティーカップを差し出す。
両手で受け取った貴女は、その水面をしばらく無言で眺めて。
時間差で驚いたみたいに肩を震わし、零れそうになった紅茶に慌てて見せる。
いつもは伏し目がちの目を丸くして、私と紅茶を交互に見比べる姿に、なんだか背中がむず痒くなった。
どうぞ、なんて一言さえ思い浮かばなくて、黙って立ち尽くす。
そんな私の顔を少し長い間見詰めた後、意を決したように口元へ運んだカップを傾けた。
そして。
『美味しい、わ。……ありがとう』
嬉しそうに笑いながら、そう言葉をかけてくれた。
笑顔とか、感謝の言葉とか。
そんな、綺麗な物。
貰うつもりなどなかったし、権利だって、持ち合わせていないのに。
『ッ、ただの、味見です。私にはよくわからないから。それだけ、で……』
だから、急かされるような気持ちで返した言葉に。
『――待って。わからないって、どういうことかしら』
真剣な様子で、貴女は問い返してきた。
味が、よくわからないのだ、と。
正直に告げると、途端に表情を歪めて。
どうしてだか、ひどく、傷付いた顔をした。
私は、それまで特別気に病んだことはなかったのだけれど。
その瞬間、初めて。
それが悲しいことなのだと、気付いた。
でも、麻痺しているのは味覚だけではないから、涙を溢したりは出来なくて。
むしろ、今にも泣き出しそうな貴女を、ただただ見上げるばかりで。
そんな私に向かって、伸ばされた手。
少し乱暴に、私の頭を撫で回す貴女。
への字になった口元が妙に幼く見えて、私よりも幼い子供のようだと思った。
――手から伝わる温もりで、茹ってしまったのかもしれない。
秒針《××》が、ぐるぐると、回る。
気がつくと、貴女の袖を握り締めていた。
甘い、辛い、しょっぱい、苦い。
不味い、美味しい。
少し、時間はかかったけれど。
料理本を武器に食材と格闘する貴女の手に、包丁によって名誉の負傷が刻まれる度、私の味覚にも、それらは刻まれていった。
あの日、決めたはず、なのだ。
私は、私のちっぽけな『時間』をかけて。
貴女のことを、世界一嫌いになる、と。
でも。
それはいつのまにか、とても難易度の高い課題となっていた。
貴女の優しさは、酸性を帯びた雨のように降り注ぎ、私の《しん》を蝕んでいったから。
一緒に料理をしている最中、味見をした貴女が『なにか足りない』と呟いた。
だけど、それが何であるのかがわからないと眉をしかめる貴女の手から匙を受け取り口に含む。
ああ、胡椒が足りないのだと、私は気付いた。
それを伝えると、新しい胡椒が棚の上にあるからと背伸びをする貴女。
ひょい、と。
軽く手を伸ばして取る私。
いつのまにか。
貴女の背を追い越していた。
人里の魚屋で、招き猫なんて呼ばれて可愛がられていたミケも、気付くと姿を消していた。
時は過ぎ去っていく。
止まることなく、進んでいく。
夢を視た。
薄汚れた路地裏で、水溜りに映った自分を踏みつける夢だ。
ゴミ捨て場で拾った安物の靴に水が染みて、背筋が凍えた。
その後、風邪を引いて酷い目に遭うことになる。
忘れることの出来ない、過去の記憶だ。
それ以来学習して、雨や水溜りからは極力身を守るようになった。
成長したのだ。
ベッドで目を覚ますと、下腹部を襲う鈍痛に気付き。
手を伸ばして、指先で触れた。
伝わった独特のぬめりに、もう一方の手で、顔を覆う。
鉄の臭いが鼻に届いた気がした。
――成長、したのだ。
きっと、これからもっと背が伸びるし、胸や腰周りも変化していくのだろう。
では、成長しきったならば。
その後は?
なにかを当てる気にもならず、生臭いそれを垂れ流しながら歩く。
廊下の窓越しに目に入る中庭の花壇では、色とりどりの花々が日々成長し、満開に咲き誇る美しい姿を披露してくれていたが、最後の一輪も数日前に散った。
――ああ。
やっぱり。
扉を開く《なにかが閉じる》。
入室者に気付き、振り返った貴女。
一瞬表情を緩めた後、目を見開いて。
心配そうに駆け寄ってきてくれた貴女を見下ろしながら、あらためて思い知る。
私の手には何もなかった。
貴女に返せるものなんて、なんにも持っていなかった。
だから、決めたのだ。
私は、私のちっぽけな『時間』をかけて。
貴女のことを、世界一嫌いになる、と。
――貴女に、世界でいちばん、嫌われるために。
伸ばされた手を振り払う。
傷付いた顔をする貴女。
これが悲しいことなのだ、と。
私は、もう知っていた。
――だけれど。
それは、とてもとても難題だった。
私はどうしても貴女を嫌うことが出来なくて。
貴女も、ちっとも私のことを嫌ってくれない。
時計の針がぐるぐる回る。
まだ時間はあるから、と。
そう思っているうちに、タイムオーバーが近付いてきた。
しわくちゃの私の手を握り締め、泣いている貴女に。
枯れた喉の奥に潜めていた秒針《××》を突き出した。
これが、最期のチャンスだから。
精一杯の《毒素》に塗れたそれは、きっと、鋭い。
「世界でいちばん、貴女のことが嫌いです。――……パチュリー様」
パチュリー様は。
その渾身の一撃を、避けようとはしなかった。
「――……ッ、へえ、そうなの」
受け止めて、刺し貫かれて、そのうえで。
泣きながら、笑った。
「私は、私のことを必死になって嫌おうとする貴女が、愛しかったわ」
ううん、語弊があるわね、と。
自分の言葉に首を横へ振って、掠れた吐息と一緒に口にする。
「愛しているの。世界で一番」
ああ、今更気付くなんて。
貴女の秒針《毒素》は、とうの昔に私へ突き立てられていたらしい。
ぐるぐると回り続けていた秒針《恋心》が――回りきって、止まった。
「――……貴女のことが、世界でいちばん、大好きです」