※告※
・作者の過去作設定を引き継ぎます。
・地霊殿ストーリー以前のお話。
※告※
椅子の上で伸びをする元気すら湧かなかった。
もやの掛かる視界。私の背丈ほどもある封筒の山。年度末決済の書類に掛かりきりになってしまって、自分の執務室に篭りきりになってしまって、何日が経ったかか分からない。食事も睡眠も極限的には必要のない体だが、思考に限界はある。ルーチンワークを繰り返していた脳は働くのをやめている。
喉が渇いている。声の出ない喉は何かを猛烈に求めている。
──あぁ、そういえば。
どれほどの時間、妹の顔を見ていないのだろうか。
「──ぁ、あ」
うめき声を上げながら、完全に固まった肢体を動かそうとする。
立ちくらみ、筋肉の痙攣、運動の仕方を忘れた脳機能。
──あ、ダメだ。
大きな音が聞こえた。椅子から倒れてしまったことにしばらく気付かなかった。途中で腕を机の角にぶつけたらしいが痛みは感じない。視界がぼんやりとする。「うあ」と何を言いたいのか分からない声。監禁された者の気分。あながち間違いじゃない。だけどそれどころじゃない。とにかく会って。会って、話を。なんでもいい、お話を。
這ってでも外へ出て。みずみずしい声。笑顔にくっきりと浮かぶえくぼ。もちのような頬に触れて。声を。声を聞きたい。
視界は霞む。ドアが果てしなく遠い。たどり着く前に力尽きるだろう。冗談。あの子は、彼女は、これくらいじゃあ。私は、お姉ちゃんだから。お手本にならなくちゃ。あぁ、でも。でも。私じゃあ、ダメなのかも。
本が崩れてくる。頭に当たる。痛みは感じない。感じてる場合じゃない。
「わ、たし」
頑張ったはずだ。ゴールしたはずだ。だからもういいじゃない、クソ閻魔。私を閉じ込められるのはここまで。もう自由でいいはずだ。どこまで行ってもいいはずだ。だから私は向かう。顔が見たい。声が聞きたい。触れたい。
「さとりさま!? どうしましたさとり様!」
ドアの向こうから声。すごく慌ててる。誰だっけ、思い出せない。多分ペットだ。倒れた音を聞きつけてくれたのだろうか。ドアが叩かれる。鍵は。鍵は閉めたっけ?覚えてない。多分閉まっているのだろう。開けてくれないから。開けてくれたらお外に出られるのに。渇いたのをどうにかできるのに。
返事をしようとしても声がでない。このまま死んでしまうのだろうか。密室の中で死んでる私。ダメだ。第一発見者はペット。そんなのダメだ。妹が、妹達が泣いてしまう。なんとかドアにたどり着く。震える唇で返事を返す。返せない。声は出ない。ドアを叩こうとする。ダメ。力がまったく入らない。私は。
せめて。せめて──、一瞬でもいいから。
「さとりさま! 返事をしてください、さとりさま!」
頭に掛かっていた霧が深くなる。眠い。けど多分眠気とは違う。
昔、何度か経験した感覚。霧が濃くなって、全身が脱力して、声が出なくなる。
気絶するときの感覚。
意識が暗転する。
〜Pは止められない/半分こ妖怪〜
開けっ放しの窓からは熱を帯びた風が吹き込んできていたが、だからといって閉じたとしても待っているのは蒸し風呂状態。そんな季節が訪れてしまっている。
火加減を調整しつつ、かき混ぜつつ、辛抱強く待つこと三十分が過ぎた。
真っ白だったたまねぎはすっかり変色して飴色になっている。隣で炒めていた具材達も準備は出来た。一口サイズよりも少し小さく切ってある。村紗水蜜の作ったカレーの具はやたらと大きかった。奴と同じにするわけにはいかないのだ。
彼女がいきなりカレーを持ち込んできたのが数日前のことだ。何を血迷ったか夕食を一緒に食べようと言い出してきた傍らには寸胴鍋。一緒に来ていた一輪とぬえが後ろで笑っていたから、村紗自身にとってその行動が本意だったのかはわからない。
明らかに作りすぎているカレーは土色が強くて、私としては水気が多かったように感じられた。おまけに、妙に甘かった。村紗水蜜の作るカレーと聞いて最初に思い浮かべたのは、もっと辛さの極限を極めたような、香車のように直進しか出来ない村紗自身を表した様なものだ。しかし実際には甘かった。甘ったるくて拍子抜けした。
くやしいのは、想像と違っていたとはいえ目を見張るほどに味が確かだったことだ。
私は何故こんな味なのかと聞いてみた。村紗は「こっちのほうが美味しいから」としか答えてくれなかった。「美味しいからいいんだよ村紗の料理にケチつけんな」と何故かぬえがキレていた。一輪は悟りきった表情でスプーンを口に運んでいた。こいしは三杯おかわりしていた。
これは負ける訳にはいかない。私はその日から研究に研究を重ねた。長かった。長い道のりだった。これを村紗達に喰らわしたら半世紀はカレーを見たくない。しかしその甲斐もあって、遂に地底で作り得る限り最高のスパイスブレンドにたどり着いたのだった。
鍋の横には旧都中を走り回ってかき集めたスパイスのビンが並んでいる。私は一番手前の、あらかじめ調合しておいたビンを手に取る。蓋を開けると、むせ返るような香りが立ち込める。思い切り吸い込む。よろしい、香りはとんでいない。
「なに作ってるの? よる御飯?」
横からこいしが覗き込んできていた。小さな鼻の穴を目一杯広げて、香りを吸い込む。目を輝かせながら私を見た。
「もう少し待ってなさい。もうすぐ、これを入れたら究極のカレーが完成するわ」
「あ、カレー作ってるんだ。どうして? こないだ沢山食べたのに」
「わかってないわね。あれくらいで満足されちゃあ困るわ」私は肩を竦める。「あいつはわかってない。……まったく、甘ったるいカレーだなんて邪道もいいところだわ。カレーってのはね、汗に塗れながら、口内の痛みに耐えながら食べる物よ。あいつのは所詮子供だまし。大人の味ってやつを、私が、あいつらに教えてやるわ」
「ふぅん、劣等感の塊だね」
「ふん、そうやって笑ってられるのも今のうちよ……」
嬉しそうに笑うこいしに笑い返しながら、バターと小麦粉を落した。続いてスパイスの中身をあける。軽く炙って、香りを更に引き立たせる。
「こいし、ご飯の様子見てみて」
私は鍋から目を離さずに言った。「うん」と短い返事が帰ってくる。
「もういいよ、真っ白でツヤツヤで美味しそう」
「結構」
「ねえねえ」
「うん?」
「それって辛い? 甘い?」
「辛いに決まってるじゃない。もしかして辛いの嫌い? ダメよ、大人の女は辛さに耐えるものなんだから」
「それはよくわかんないけどね、別に辛いの嫌いじゃないよ。どっちかって言うと好き」
「じゃあなに?」
「ぬえはね、甘いの好きなんだって」
「へえ」
適当に頷く。正直あの正体不明娘の好みには興味が無い。それよりも、こいしが辛さを平気だと言ったことについて安心する。
……まあ、このむせ返るような香りの中で表情を曇らせない時点で心配すること
はなかったのかも知れない。
こいしは早くも食器の準備を始めていた。ひとり、ふたり、さんにん。少し止まって、もう三人分を用意する。
「ムラさんたちと一緒に食べるんだよね?」
「そうだけど、流石に早すぎるわね。これからカレー粉入れて、煮込まなくちゃいけないから」
「それって時間掛かる?」
「掛けたほうが美味しいっていうけどね。どっか行くの?」
こいしは首を振る。「ううん、見てるけど」
こいしは食器を並べずに重ねたまま置き、私の隣に立った。小さく身体を揺らしながら火に掛けられたカレー粉を眺めている。
「私、カレー好き」
視線を逸らさずにポツンと、そう言った。
「そりゃあよかったわね」
私はかき混ぜながら答えた。
炒めた野菜たちは今か今かと自分たちを包み込む主役の登場を待っている。手元の鍋からは食欲を掻き立てる香りが立ちこめている。私は火を止めた。そこで一度呼吸を落ち着かせる。そこまで緊張しているわけでも、する必要も無い。料理なんてものは結局は材料の詰め合わせだ。その材料に何を用い、どう準備するかに掛かっている。私はベストを尽くした。この街で知り得る限りの料理店を回り、味を盗んだ。スパイスの出所は一から聞き込みをして回った。
何故か。何故そこまでしてしまったのか。
自分でも分かりきっていることだ。あえてもう一度意識することもない。
私はこいしの方を見る。鍋から攫われそうになっていたじゃがいもを取り上げて、鍋に戻す。こいしは頬を膨らませる。
不意に、視界が揺らいだ。
意識が朦朧としたというよりも、ブレが生じたような感覚。ノイズが走り、一瞬だけ意識が飛びかける。しかし所詮は一瞬のことだった。
最近はこれの研究の為にあちこち走り回ったから疲れているのかもしれない。だけどもう完成は目の前なのだ。気にしている場合じゃない。
私は特に気に留めないことにした。優先事項は他にある。香りは絶頂まで導かれた。あとは今までの成果を合わせれば良い。焦がさないように、注意深く。私はカレー粉を鍋に投入しようとした。
「──でもね、シチューのほうが好きかなぁ」
材料に牛乳をぶっかける。
作り置きのブイヨンも一緒に入れて、蓋をして、火に掛けた。
私は鍋を離れて椅子に座り、冷め切った珈琲に口をつけた。
「さて、問題は村紗達にどう言いだすかだけね。こいし、悪いけどつれて来てくれる?」
「え? あ、うん。別にいいけど……」
「それならそうね、あと一時間くらいしたら呼びに行ってくれるかしら。私はそれまで他の準備をしておくから。……それにしても楽しみね、村紗の奴、どんな顔を見せてくれるかしら」
「うん、そうだね……」
「どうしたのよハトが豆鉄砲食らったような顔して」
「え、だって、ムラさんにカレー……」
こいしは黙って鍋を指差す。
中では真っ白なシチューが完成に向かっていることだろう。
いやぁ、シチューは良い。なんといっても優しい暖かさがある。たとえば雪の中、疲れ果てて帰ってくるとお婆ちゃんが笑いかけてくれて、鍋からは湯気が上がっている。悴んだ手も、震えていた唇も、その光景だけで元通りだ。柔らかく煮込まれた材料、笑顔のように優しい味。素晴らしきかなシチュー。カレー? なんですそれは異界の食べ物ですか? シチューの足元にも及ばないでしょう?
……そう、シチュー。
………シチュー?
…………シチュー!?
「え、ちょ、ちょっと待ってよ……」
立ち上がる。鍋を見る。真っ白に染まっている。
カレーは? 私が寝ずに研究を重ねたカレーは?
呆然と立ち尽くす。訳が分からん。その時、不思議なことが起こった。
私の右手が動き、お玉を掴んだ。そのまま右手で鍋蓋を持ち上げて、器用にかき混ぜ始める。
私はそれを、自分の右手が鍋をかき混ぜるという光景を、客観的に見ている。
とても優しい香りがしている。
「──って! ちょ、ちょっと待てって、コラ!」
慌てて左手で右手を止める。
「止めないでください」と右手が反抗してくる。右手と左手。
こいしが、妹がシチューを好きだと言ったのだから当然でしょう?
ふざけんな私の努力返しなさいよ。
そんな努力は妹の願いに比べたらゴミです、資源ごみです。
私の努力を再利用なんてさせないわよ!
それならば他に用いれば良い。カレーなんてどうせいつでも作れるのだから。
村紗に目に物言わせてやるんだから!
何度も言わせないで、妹に比べたらそんなもの──
やかましい、このシスコン!
シスコンで結構!
私は私を黙らそうと右胸を叩く。私は私に反撃するように右手を大きく振りかぶる。左側も負けじと振りかぶる。左右別々の方向に身体が捻られる。バキリ。嫌な音。痛覚はもちろん、どちらからも走ってくる。
「ぃ──ったぁ!」
振り返ろうとして、歩こうとして、身体が同時に違う方向へ動こうとする。転ぶ。膝を打ち付けた。
「もう! なによこれは! 私が何をブッ!」
喚こうとして口を開いて、何かがそれに割り込む。口は一つしかない。舌は一枚しかない。ふたつの言葉なんて同時に話せるはずが無い。
「舌が! ベロがぁ!」
もんどりうちながら、所々で身体がおかしな方向へ曲がろうとしてまた痛み。泣きたくなっていた。訳が分からない。
「こにょ、まひなさいって!」
寝転がったまま、自由な左手で暴れる右手を押さえつける。
左半身全体を使って右半身を抑えるようにして寝転がる。
とにかく停止だ。下手に動こうとするから問題になる。動くな。落ち着け。動じるな。黙ってろ!
「……どしたの? なんか変だよ?」
不思議そうな、引きつったような顔でこいしが覗き込んでくる。
そりゃあそうだ、いきなり自分を殴り始めて、一人で寝転がって、一人で騒いで。どっからどうみても立派な変人だ。
「し、知らない! 急に身体が……くそ、静まれ私の右半身……! ちょっとこいし! コレ、右手! どうにかしてよ!」
「どうにかって言っても……どうしちゃったの?」
「私が知りたいわよ! あ、こら待てって!」
下敷きになっていた右手が自分でも信じられない力を発揮して抜け出してきた。右足が床を蹴って、寝転がった姿勢のままこいしのほうへ飛んでいく。私は自分の身体に引き摺られるのを止められない。
「逃げなさいこいし!」
「うわぁ、お姉ちゃん気持ち悪い!」
こいしは後ろに跳ねて私を避ける。伸ばされた右手がビクンと跳ねる。
私は身体を回転させてこいしから右側を引き離そうとした。同じくこいしに近づこうとする私。結果、身体はくるりと一回転するだけ。
「とにかく逃げてこいし、早く!」
「う、うん!」
こいしは振り返る。
私はまた一回転していた。
「だけど大丈夫なの? お姉ちゃん」
「大丈夫じゃないけど!」
「誰か呼んでくる?」
「誰でもいいから、お願い! あぁ、またこいつは! このッ、大人しくしてなさい!」
私は転がりながら部屋の端へ向かっていく。
「……なんか、楽しそうだね」
「暢気なこと言ってる場合じゃないでしょうか! 早く!」
「わかった!」
「こいし! あぁこいし! 会いたかった!」
左手で口を塞ぐ。
……今、私の声がした。私の声が確かに、こいしを呼んだ。
窓枠に足を引っ掛けていたこいしも動きを止める。ゆっくりと、私を見る。
「……いま、なんか言った?」
私は口を塞いだまま、大きく頭を振る。馬鹿な。
「うーん、だけどなんか、不思議な感じが。……わかんないけど、すごく聞きなれた感じっていうか」
「うん、私も、すごく、聞き慣れたというか……」
「お姉ちゃん?」
「あー……」
──さとり?
私は、私を見下ろして、私に聞いた。返事は無い。右側の感覚は相変わらず不自然で不自由だから、解消されたわけじゃない。私は自分の右胸を叩いてみる。おいこら、でてこい。知らん振りしてるんじゃない。反応は無い。
「まさかねー」
冗談だよぉ、とこいしは柔らかく笑った。「そうよねー」と私も返した。
「ははは」と私達は笑いあっていた。そんな馬鹿な。
まさか古明地さとりが意識だけの存在になって私の身体に憑依し、右半身を乗っ取ったなんてそんな馬鹿な話、あるはずが──
「──こいし!」
あった。あって欲しくなかった。
不意打ちに飛び出した私の身体は、窓際に立っていたこいしに飛びかかっていた。こいしでさえも対応しきれない、自分の身体の限界を超えた速度。私の右手はこいしの服を掴むと一気に引き寄せる。こいしの顔が急激に近づいてくる。餅のように柔らかい肌の感触を頬に感じた。私の半分とこいしが引き剥がそうと暴れているのに、私の半分は吸盤でもついているかのように剥がれない。
「こいし! あぁこいし、こいし!」
止めて、私の声でそんな狂喜乱舞しないで恥ずかしい!
私の叫びを無視して、私はこいしを抱きしめる。
頬擦りをして、抱きしめて、また頬擦りした。
やわらかくて、小さくて、かわいい。かわいい。
こいしは訳が分からないままで、反応しきれずにされるがままになっていた。
そのまま、小一時間ほど、私はこいしを愛で続けていた。
2
疲労困憊で椅子に座る私を、こいしがじっと見つめている。騒ぎすぎて火照った身体に吹き込む風が不愉快なほどに蒸し暑い。
こいしは「むー」と呻きながら私と私を見比べて、私を指差した。
「こっちが、お姉ちゃん?」
さとりは私の右手を勝手に挙げて「そうよ」と答える。
こいしはすばやく紙に何かを書き込んで、私の右胸に貼った。さとりの胸にある、第三の目が描かれていた。
「それじゃあこっちがお姉ちゃんで……」
続けて、髪にハート型の髪留めをつける。とりあえずではあるが区別はつくようになった。
こいしは満足そうに頷く。そうして今度は私の左側を──私のいる側を指差す。
「こっちが……お姉ちゃん!」
「いや待ちなさい、それじゃあわかんないでしょう」
「えー、わかるよー。お姉ちゃんでしょ? それでこっちが、お姉ちゃん……あれ? お姉ちゃんに、お姉ちゃん。お姉ちゃんがお姉ちゃんでお姉ちゃんの中にお姉ちゃんがいて右がお姉ちゃんで左がお姉ちゃんで……あぁもう、わっかんないー! むきー!」
「なんでよ! さとりの側と私の側でいいじゃない」
「だって、お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだもん。わかんないんだもん」
「なによそれ、訳わかんないのはこっちだわ」
私は左手を頭に乗せて唸る。こめかみを軽く押さえる。まあ、自分で勝手に混乱しているこいしは放って置いても良いだろう。それよりもやたらと落ち着いているほうが怖い。混乱もせず、むしろこの状況を利用しているふしすらある。
「……それで、さとり。どういうことなのか説明してくれるんでしょうね?」
私は、私に聞いた。頭の中に直接、感情を隠さない声が聞こえてくる。
(それが、私にもよく分からないんです。仕事が終わって、外に出ようとしたところまでは覚えているんですけど……そこで意識を失ってしまって。気がついたら貴方の体の中というわけですよ。幽体離脱、というものでしょうか。そうしたら目の前にはかわいい妹の姿が。つい取り乱してしまいまして。どちらにせよ、こんな愉快な状態はそうそう無いのでしょうけどね)
(なによ、妙に冷静じゃない)
(妹エネルギーを補充できましたからね。もう怖い物なんてありませんよ。それに……)
さとりは私の右腕を持ち上げて、開いたり閉じたりした。私の頬に触れて、輪郭をなぞる。
(こんな経験は初めてです。確かに妖怪という物は肉体的な要素よりも精神的な要素のほうが強い。他者に憑依し、思うが侭に操る妖怪もいるでしょう。でもね、考えてもみてください。他人の身体に意識だけが入り込むなんてことは簡単なことじゃない、それも貴方自身の自我も残っているだなんて! 私と貴方は入れ替わったり乗り移られたわけではなく、ひとつの身体に同居しているんです。とても興味深い状況だとは思いませんか?)
(それって、喜ぶところ? 物凄く不味い状態だと思うんだけど……)
(何を言いますか! 他者を知るのに一番の方法は実際にその対象人物になってしまうことです。今、私と貴方は同じものを見て、感覚を共有している。貴方の目線は私の目線で、貴方の感覚は私の感覚でもあるのですよ? つまり感情の境地、まさしく愛のちから! ……素晴らしいでしょう!?)
間違いなく不味い状態だ。なによりも、さとり自身が楽しんでしまっている。
楽しんではいません。嬉しいんです。
心を読むな、毎度のことながら鬱陶しい。
読んでなんていませんよ、思考回路が同じ箇所を通っているだけです。聞こうと思えば貴方にだって私の考えてること、聞こえるはずですけど。
試しに目を瞑り、意識を集中させてみる。
こいしこいしこいし。かわいいこいし。
止めた。
自分の頭に握りこぶしを落す。
痛いじゃないですか。
うっさい。
頬を抓る。
状況がわかって気色悪い感覚にもいくらか慣れてしまった自分が末恐ろしい。少し集中してみると、別に自分の意思でまったく半身を動かせないというわけもでもないらしいことがわかった。ただ、半身における動作とか感覚の優先権はさとりにある。つまり今の私には半身分の優先権しか存在しないのである。さとりが黙ってされるがままになってくれていれば私ひとりで行動するのとさほど変わらない。問題は、さとりがそう簡単に黙ってくれるような奴じゃないということだが。
ともかく、私は立ち上がることにした。身体に渇をいれて、両足で踏ん張ることをイメージし、一気に立ち上がる。さとりからの抵抗はほとんど無かった。いちいち許可を貰って行動しているようで違和感だけはどうしようもなかった。
「……さとりのところに、行って見ましょうか」
いちいちさとりを口止めしてから、私は言った。私なら此処にいますけど?それ違う。
「身体の話。意識がこっちに飛んできてるってことは身体は空っぽなわけでしょう? 原因も気になるところだけど、身体のほうを放って置いたらどうなるかわかったもんじゃないわ。猫に死体と間違われたらたまったもんじゃない」
それもそうですね、とさとりが言う。いままで忘れてましたと付け足されて、私は溜息をつく。そんなことだろうと思った。
私はその場で足踏みしながら言った。
「とりあえず、あんたは下手に動こうとしないこと。やっぱり私の身体なんだから、私のほうが動かし慣れてる」
「わかりましたよ」さとりは若干不満そうに言う。
「こんな状態いつまでも続けるわけにはいかないわ。さとりの身体の安全を確保したら、さっさと元に戻す方法見つけるわよ」
私は鍋の火を止めて、中身を一度かき回したあと、上着を着た。どうしても右側が不自由なものだからいつもより手間取ってしまう。結局、最後にはさとりに頼んだ。着せてもらっているようで腹立たしかった。
そうして私は部屋のドアを開けて、外に出ようとした。
「お姉ちゃんがお姉ちゃんでお姉ちゃんをお姉ちゃんがお姉ちゃんにおねえちゃんはお姉ちゃんとお姉ちゃんだし、お姉ちゃんがお姉ちゃんで私は妹でお姉ちゃんが居て私はこいしでおねえちゃんはちっちゃくてお姉ちゃんは大きくておねえちゃんおねえちゃんお姉ちゃん……」
とりあえずは、大丈夫なのだと考えることにした。
3
目の前に運ばれてきたどんぶりからは湯気が立ち上り、葱しか乗せられていない簡素なうどんは簡素だからこそ麺自身が白く輝いているように見えた。私は鼻先に薄くにじみ出ていた汗を指先でぬぐって、左手だけで割り箸を割った。不揃いに割れた箸で汁を混ぜた。
「最初に言っておくけどね。これはあんたがお腹が空いたなんて言い出したから仕方なく寄ってやってるんだからね」
(最初にお腹が空いたとお店を眺めたのは貴方じゃあありませんか)
「うっさい。こんなことしてる場合じゃないのよ、まったく」
私は辺りを伺った。店には十人ほどの客が入っていたが、私に注目している奴は見当たらなかった。
(そんなに警戒しなくてもいいんですよ。他のひとたちから見たら何の変化もないんですから。それよりも私に向かって言っていることを口に出しているほうが怪しい)
私はハッとしてとっさに開いていた口を閉じた。そうして、やはりこんなところでのんきにうどんを啜っている場合ではないと、当たり前のことを今更に思った。だけど仕方がないことなのだ。食欲をそそられる香りに導かれたのは確かだ。だけど付け加えておけば、私の身体を店の中に引きづり込んだのはやはりさとりだったことも事実。
(過ぎたことをネチネチ言っても仕方がないでしょう。それに、これもなかなかに経験しがたい状況ですからね、せっかくだから美味しく頂きましょうか。ほら、口を開けて箸をこちらに渡してくださいなパルスィ、利き手ではない左手では食べにくいでしょう?)
私は声を出さずに言った。
(いいけど、変なことしないって約束できるんでしょうね)
(変なことなんてしようがないでしょう?)
(そこに並んでる調味料全部乗せする実験とか。ほんとに止めてよ、ここのおばちゃん七味多く入れるだけで怒るくらい自分の味を大事にしてるんだから)
(失礼ですね、そんなことする筈がないでしょう? 私のことが信じられないっていうんですか)
(信じてないから心配なんじゃない。だけど……)
私はうぅんと唸って丼を見た。箸から滑り落ちたうどんが跳ねて、汁が机を汚していた。これだっておばちゃんに叱られる原因になりかねない。仕方がない。うまく乗せられているような気分を感じたまま、私は左手で形悪く持っていた箸を右手に移した。
さとりは何度か箸を持ち替えてから、うどんをすくいあげて、
(はい、あーん)
「やっぱりかっ! あんたは本当に期待を裏切ってくれるわね!」
声が店中に響いていた。
目の前で白く輝いたうどんがふるふると震えていた。
私は箸を持ち上げた体勢のまま、視線だけを動かして周りを見た。皆、こちらを見ていた。私の身体は動かないまま、頬に冷たい汗を流した。そうして正面に影が落ちた。恐る恐る見上げると、視界を遮るほどの巨体が腰に手を当て、薄ら笑いを浮かべながら立ちふさがっていた。
「は、ははは……おばちゃん、ごめんね、五月蝿かった?」
目の前の壁が、ゆっくりとうなずいた。何もいってくれないのが益々恐ろしかった。
右手が、開きっぱなしになった口にうどんを突っ込んだ。私は反射的に啜った。
「美味しいかい、パルちゃん」
私は咀嚼しながら大きく頷いた。何度も頷いた。
「……そうかい。今度から、喧嘩するなら誰かとしなよ。いつまでも独り身じゃあ、寂しいだろう?」
おばちゃんはぶぉんと身体を回転させて、がに股で厨房に戻っていった。
いつの間にか、目の前に漬物の並んだ小鉢が置いてあった。
(……彼女の夫は数十年前に他界しています。この味はその主人の残したものだそうです。喧嘩も多かったですが、よい夫婦だったようです。最後に見せた表情には同情に似た感情が読み取れました。彼女の喧嘩相手はもういません。一人で感情的になっていた貴方に自分の姿を重ねてしまい、その先に亡き喧嘩相手を見ていたのかもしれませんね)
さとりは沢庵を一切れつまみ、口に運んできた。
私は何も言わずにそれを咥え、箸まで奪い取って、汁の一滴も残さずに流し込んだ。
(パルスィ? 聞いていますか、彼女の夫は──)
「ごちそうさま」と言って立ち上がり、会計でまたおばちゃんと鉢合わせ、懐から財布を取り出して小銭を持っていないことに気づき、乾いた笑いを浮かべて、謝りながら大きな札を渡して、お釣りをもらい、また謝ってから、店を出た。
「美味しかったですね、また来ましょう」と、店を出るなりさとりがのたまったので私は左手で頭に拳骨を落とした。ゴン、と鈍い音が頭の中を駆け巡る。左手で殴ったのだから殴られたのは左即頭部だ。殴った私のほうが痛いとはこのことだ。
(……痛いじゃあありませんか)
「五月蝿い! あんたのせいで変な奴だと思われたじゃない!」
(誰もそんなことは思ってませんでしたよ?『あぁ、またパルちゃんが変なことしてるなぁ』って皆さん思ってました)
「それだって、大体いつもあんたらのせいじゃない! あぁもう、私の橋姫としてのイメージが……」
(そんなの、気にしてるひと居ませんって)
「笑うなぁ!」
(ところで、また声に出してますけど)
私は抱えていた頭を持ち上げて、そして、声にならない悲鳴を上げた。
逃げるようにして走り出す。
(そっちは地霊殿とは反対ですよ)
踵を返して、来た道をもう一度走り抜ける。
視線を感じた。
顔がますます熱くなるのがわかった。
(身体も火照ってきましたし、ちょっと踊ってみませんか? お腹ごなしにあなたの身体で)
(それを本気で言っているなら今すぐ右手足をへし折る)
(止めてくださいよ、もう貴方ひとりの身体じゃないんですから)
(私の身体よ。あんたにくれてやったつもりは微塵も無いし、これからもそのつもりは無いから)
(私はいいですよ。もし反対の立場だったら私の身体、貴方に預けても)
(そういうこと言わない)
(だから少しだけ、ほんの出だしだけでいいですから。イントロだけ乗ったらあとはノリと勢いらしいですから!)
(あぁもう、やかましい!)
「──っい!」
「そんなことしないって言って──」
「おい無視すんな!」
「──は?」
やかましい声が私に向けられていたことに気付く。顔をあげた。目の前には大木の柱が立ちふさがっていて、
「い──ったぁ!」
歩いたままの速度で激突する。また頭の中で鈍い音が反響した。さとりが憑依しているからとかそんなものは一切合切関係なく、ただの前方不注意だった。
「おっとごめんよ」気さくな声がした。額を擦りながら見ると、頭に鉢巻を巻いた鬼が木材を肩に担いでいる。私はそれにぶつかったようだった。
「おいおい、大丈夫だったか? なにやらぶつぶつ言ってたが」
「え、ええ、大丈夫、大丈夫……ただの独り言」
なんとか笑ってみせる。心配そうにしていた鬼の表情が緩む。
大丈夫、嘘は言ってない。痛いじゃあないですか。五月蝿い、痛くない。
「悪かったのはこっちだから、気にしないで」
「そいつはよかった。ほんと、悪かったな」
そう言って、作業場に駆けていく。
私は薄っすらと膨れた額を押さえながら辺りを見回した。私に掛けられていた声は彼のものじゃない、もっと幼い声だった。
「こっちだよ、こっち」
「こっちって言われても……」
街の通りは人通りが多くて、子供ひとり見つけるのには結構苦労する。私はぐるりと視界を一周させるが、それらしい人物は見当たらない。
と、右手が動いて、指先を立てた。目線を指差された方向へ向けると、白いのと黒いのが屋根の上に座っていた。嫌な奴に会ってしまった。
声の主はぬえ。相変わらずの黒尽くめで胡坐をかきながら笑っている。村紗はその横で私をじっと見ていた。私は彼女を見返した。彼女の緑眼に見つめられているのが、ぬえみたいに面と向かって笑われるよりも不愉快だった。
(そんなに敵視しなくても)
(敵視なんてもうしてない。ただ、なんか嫌な感じがするのよ。なに考えてるの、あいつ)
(今の私は心を読めませんから。貴方の感じたとおりに)
(ほんと、肝心なところで役に立たないんだから)
「ひとりで、なに面白いことやってんだよー!」
ぬえは私に向かって言ってくる。わたしはむかついた。
「好きで考え込んでたわけじゃないわよ、あんたらこそ、そんなとこでなにやってんの? 逢引?」
「なにって、見回りにきまってんじゃん。それで、そこに奇行を繰り返す橋姫が通りかかったってわけ。これは見逃せないよねぇ。ね、村紗」
「……え? あ、うん」
「どうしたの難しい顔して。なんか気になるの? ただの変な奴じゃん?」
村紗は私を──私達をじっと観察しているように感じた。口元に手をやって、じろじろとこちらを見つめてくる。
「パルスィ、聞いてもいい?」
嫌だ。
とは言わせてくれないのだろうなと思いつつ、私は黙り込む。
村紗はそんな私の態度など全く意に介せず、真っ直ぐに言った。
「それ、どうなってんの?」
それ、とはなにか。なんてことを聞くまでも無いことは明白だった。
あいつは、村紗水蜜は、見抜いている。
(ちょっと、なんでバレてるのよ。あんた変なことなんてしてないでしょう?)
(そのはずですけど……村紗さんはあれでも幽霊です。魂に依存する部分が私達よりも大きいのですから、もしかしたら、何か感じ取ってしまったのかも)
(冗談じゃない、一番笑われたくない奴に知られちゃったじゃないの。どうするのよ!)
(どうすると言っても、どうしようもありませんよ。むしろ相談すべきだと思います)
(それだけは死んでもごめんだわ)
村紗は屋根から飛び降りて、帽子を押さえながら、私達の目の前に着地した。ぬえも続いて降りてくる。顔立ちとか色々と似ているものだから、姉の後ろに付きまとう妹の様にも見えた。妹のように。妹が付きまとってくれたらいいのに。……やかましい。
「もしかして、憑かれてる?」
言いながら流し目で見られる。怪訝さと、ほんの少しの心配を感じた。わけがない。
「なんとなく分かるんだ。これでも一応は幽霊だからね、霊的なものには敏感らしい」
「それが分かったところで、どうにかできるというものじゃないんでしょう? それなら何の意味も無いわ」
「それはそうだけどね。状況次第じゃあ、なんとか出来るものもある。悪霊とか、怨霊とかを払うノウハウは齧った程度にはあるから。否定しないってことは普通の状態じゃあないんでしょう? 聞かせてよ、何があったか」
「別に……」
私はそっぽを向こうとした。させません、とそう言われる気はしていた。
「さとりの奴がね」さとりが勝手に言う。そこまで言わされたら誤魔化せない。分かった、お手上げだ。
「さとりが、ここに居るの」
投げやりに言って、私は左手で自分の右胸を指差した。そこにはこいし手作りの第三の目ワッペンが付いている。
村紗も、ぬえも、私の言っていることの意味がわからないという表情をした。
当たり前だ。訳がわからないように説明している。
(パルスィ?)
(なによ怒らないでよ。ちゃんと説明してやったじゃない)
(これは説明とは言いません、ただの仄めかしです。そんなもので彼女達の興味が薄れると思っているんですか?)
(う、五月蝿い。これしか思いつかなかったんだから仕方が無いじゃない)
「まぁ、とにかく、そういうことだから。悪いけど急いでいるの。あんまり邪魔しないで欲しいんだけど」
おざなりに言って、私は今度こそ身体を地霊殿の方向に向ける。事細かに説明してやる義理なんてない。悪霊払いでどうにかなるものでもあるまい。むしろそんなことをされたら取り返しの付かないことになるに違いない。
「へえ!」
と、何故かここでぬえが声をあげた。
立ち去ろうとする私の目の前に回りこんで、浮かびながら私の目を覗き込んでくる。瞳の奥が夕焼けよりも赤く燃えていた。
「な、なによ……」
「なんかダッサいアクセ付けてると思ったらそんなことになってんだ、……いいね、いいよ、すげぇ面白いことになってんじゃん! なに、もしかしてこっちのダサい方がさとりとか、そういうことになってんの? 橋姫の身体に乗り移っちゃってたんだ、こいしの姉ちゃん!」
「だから、邪魔しないでって言ってるじゃない」
「なに、どうやったの? 教えてくれよ今度村紗で試してみるからさ!」
「ああもう、村紗、こいつどうにかしてよ!」
言ってから、しまったと思った。よりにもよって助けを求めてしまうだなんて!
村紗の方を恐る恐る見てみると、難しい顔で何かを考えていた。
「村紗の言ってるとおりだったね、あんたらすっごく面白いよ。こんな滅茶苦茶な奴ら、都の妖怪の中にはいなかった。自分の精神ぶっ飛ばせるさとり妖怪だなんて希少種にもほどがある! ね、そう思うでしょ村紗? ……村紗?」
ぬえもはっきりしない村紗を見つけて、私から離れた。心配そうに村紗の顔を覗き込む。
「ほんと、どうしちゃったのさ、村紗ったら」
「いや、ごめん……」村紗は改めて私達を見る。
「ねえパルスィ。地霊殿に行くんでしょう? 私も行かせてもらっていいかな。さとりさんの様子を、見てみたい」
そうして、とんでもない提案をしてきやがった。
4
さとりの部屋の前にはペット達が押し寄せていて、ランタンに照らされている狭い廊下を埋め尽くしていた。犬やら猫やら烏やら。変化出来ない連中が各々の鳴き声をあげている。さとりが私のところに着てから随分時間が経っているというのに、もしかしたらこいつらは、その間ずっとこうしていたのだろうか。
「大した愛されっぷりじゃない」と、私は言った。
さとりが恥ずかしがりながら頷いている気がした。
(いいですから、とにかく中を)
(はいはい、分かってるって)
私は踏みつけないように注意しながらドアの前に向かった。ペット達が避けてくれるわけもないので何度か尻尾を踏みつけたりしてしまう。そのたびに一層大きな鳴き声が上がった。私はそのたびに言葉の通じない動物に謝ることをさとりに強いられた。
ようやくで部屋の前までたどり着く。ドアに手を掛けて回してみるが、案の定鍵が掛かっていた。
「壊そうか」
脳筋が言う。
「物騒なこと言わないでよ。向こう側にいるさとりが怪我でもしたら大変じゃない」
「じゃあどうするの」
「まあ見てなさい」
私は部屋の向かいのランタンに手を伸ばした。蓋を外し、火を消してから、蓋の裏に貼り付けてある土色の鍵を取り出す。ずいぶん使われていないものだから、若干歪に歪んでいる。
「なるほど、さとりさんがこっち側にいるからこそ、隠し場所も知ってるってわけだ」
「いなくても同じよ。こいつが」私は右胸を叩く。「鍵を隠しそうな場所なんて簡単に予想がつくじゃない」
私は鍵を鍵穴に挿し込み、少し強引に回した。錆付き始めていた鍵はなんとか回ってくれて、重い音と感触と共にドアが開く。
僅かに開いたドアからペット達が雪崩れ込んでいく。鳴き声がわけの分からないことになっている。私と村紗は間を縫って部屋に入った。
さとりの部屋は面積ばかりは無駄に広いが、その殆どが積み上げられた本と書類で埋め尽くされていた。今はそれに追加でペットたちが騒ぎまわっている。本当にこいつらは飼い主が心配で集まったのだろうかと心配になるほどだった。
そうしてさとり本人は、ドアからさほど離れていない床の上に、うつぶせになっていた。猫達が傍に集まって、指先や頬を舐めている。近づいていって、身体を抱き上げた。目元に隈を作っていたりで健康には見えなかったが、それはいつものこと。私の目にはむしろ、穏やかに眠っている姿に見えた。呼吸もあるし脈も正常で、気絶しているだけのようだ。
「よかった……とりあえず無事みたいね」
私は首の後ろと膝に手を回してさとりを抱き上げて、所謂お姫様抱っこの格好で部屋の奥に向かった。そこは小部屋が分かれていて、さとりの寝室になっている。さとりの身体は意識がないとはいえ、不調なところは見当たらなかった。体温も普通だし、心拍も変わりない。
(自分を抱いてベットに運ぶのって、不思議なものですね。出来れば意識があるときにされたかったけれど)
話が逆だ。気絶してるからこんなことをしてやっている。
ペットたちがあんまりにやかましいので、私はさとりをベットに寝かせた後、うしろに付いてきていたペット達を追い出して、ドアを閉めた。払っても払っても湧き出るように部屋に入ってくるものだから骨が折れた。
やっとでドアを締め切ってみると、村紗が腰を落としてさとりの顔を覗き込んでいた。顔をうんと近づけて、確かめるようにして、頬をゆっくりとなぞっていて、
「で、あんたはいったい何がそんなに気になるの」
私は声を掛けた。村紗は手を離す。振り返らないままで、何か言い悩んでいるようだった。
「黙ってちゃ分からないわ。あんたの助言が欲しいってさとりが言うから連れてきてやったのに。……あーあ、こんなことなら私一人でお目覚めのキスをさとりにしてやろうとなんとか──って何を言わせるのよ! ……そもそも自分にキスして何が嬉しいんだか。虚しくなるだけじゃない」
(まあ、何事も経験ですから)
「そんな経験いらないから!」
「──私は」
虚空に向かって怒っていると、村紗はいきなり落ち着いた声をだした。はっきりとした言葉。勢いに任せて言ったような、そんな気がした。私とさとりは急に恥ずかしくなった。場違いを互いに認めてて、静かに村紗の背中を見つめた。
「私は、自分が死んでいくのを見たことがある」
村紗は、自分の口調を落ち着かせながら言う。
「海に投げ出されて、泳ぐ体力もなくなって、もう死ぬんだなって諦めた。このまま溺れ死ぬんだなって。もちろんそんなの嫌だった。もっと海を旅したかったし、やりたいことだっていろいろあった、会いたいひとだって沢山いた。だけど身体は冷たくなっていくし、手足は動かなくなっていくしでどうしようもなかった。光が遠くなっていって、次第に何も見えなくなって、それでね……」
村紗はそこで振り向く。見たことのないくらい、悲しい顔をしていた。
「気が付いたら、そんな自分を見ていた。この意味がわかる?」
私は黙って首を振った。
「暗闇に沈んでいく私を、抵抗することを止めた私を、私は見てた。助けもせず、沈んでいく自分の姿を見ても波風ひとつ立たなかった。やがて海底にたどり着いて、私の身体は人間の形じゃあなくなった。水圧で潰されたり、魚の餌になったりしてて、そういうのもあったけど、まるで溶けるみたいに身体が人間の形じゃあなくなった。不思議な気持ちだった。だって、手元を見たら人間の姿のままの私がいたんだから。どっちが本当の自分かなんて分からなかった。だけど私の知っている私の姿は骨と皮だけのモノじゃなかったから、こうして考えている私が、私なんだろうなって思った」
「何が言いたいの」
わかっている。
「早く戻らないと、大変なことになる」
村紗は大股に近づいてきて、私の右肩を握った。人間離れした握力に痺れるような痛みが走った。村紗は問い詰めるようにして顔を寄せてきた。
「暢気に漫才やってる場合じゃない。意識の抜けた身体が真っ暗の中に沈んでいくのを私は見ていたんだよ。生きようって意志を失った身体の行き先は一つしかない。ねぇ聞かせてさとりさん。貴方は本当に、自分の意思でこんなことをしたんじゃないんだね?」
「当たり前じゃない!」
私は村紗の手を乱暴に振り払った。喉の奥が閉じていくような感覚があった。今のは村紗の話だ、ずっと昔に死んだ人間の話だ。さとりに関係なんてあるはずが無い。
「私は、さとりさんに聞いたんだけど」
「私がもう聞いてるわ。どうしてこうなったかだなんて、さとり自身にだって分かってないって言ってた。ねぇ、そうでしょう、さとり」
「それじゃあ机の上にあった本は偶然だって言うの?」
村紗は語感を荒げることもなく、まっすぐに私の目を覗き込んでくる。私は言い返せなかった。さとりは何も言わない。私の口からも、私に向かっても。
「……本ってなんのことよ」
「さとりさんを運んでいる間に部屋の中を見ていたら見つけたんだ。交霊術に関する文献だった。他人に意識を移す方法が書いてあった。丁寧にしおりが挟まれていて、そこに書いてある『必要なもの』が、机の下に落ちていた」
私は身体を思い切り回転させて、右半身を引きずるようにして部屋を出た。さとりの部屋には本の山と書類の山とペットの川がひろがっている。それらを全部崩しながら私はさとりの執務机にたどり着き、そこに開かれてた本を見つけた。『今日から出来る! 簡単交霊術!』胡散臭い挿絵と、胡散臭い口説き文句。
「……どういうこと。さとり」
握った拳が震えている。さとりは黙ったままだった。もう此処にはいないかのように。
「──さとり!」
抑えきれずに叫ぶ。こんな馬鹿みたいなことを隠していたことに対しての怒りからもある。だけど、それ以上に、なんでもいいから返事をして欲しかった。黙っていたって仕方が無い、右側の違和感は消えてなんていない。隠れたって隠れられない状態なんだから、おとなしく観念して欲しい。私はどうせ、さとりの持病のくだらない好奇心だと高をくくっていたのに、どうしてこんなことを言われなくちゃいけない。村紗の奴を連れてきたのはあんただ。説明されたのだから反応を返すべきはあんただ。なんで私が村紗からあんなことを聞かなきゃならない。こんな冗談みたいな本で、何で。
さとりだって馬鹿だけど頭が悪いわけじゃない、肉体と精神を分けた者がどうなるかなんて考えないわけがない。
「あんたは知ってるんでしょう? 元に戻す方法を!」
さとりは応えない。知らないわけが無い。知らないままでこんなことをしたのなら大馬鹿を通り越している。
「だから応えて、応えなさい、応えてよ!」
さとりは応えない。意識を集中すれば考えていることがわかる? 思考回路が同じ場所を通ってる? そんなのは嘘だ。私には何も聞こえない。
私は本のページを滅茶苦茶に捲った。何を言っているのか全く分からない文章を追いかけるが、それらしい部分は見当たらない。馬鹿な。そんなことあるはずが無い。知らないままでこんなことをしたのなら、それはただの自殺行為だ。
私は椅子に身体を落とした。さとりは応えない。足元でペット達が喧しく鳴き叫んでいる。蹴散らしたくなったが右足は動かなかった。村紗が何かを言って部屋を出て行くのが見えた。部屋の中にはペットの他には私一人になった。この姉妹はいつもいつも、自分の都合が悪くなるといなくなる。こいしは物理的に、さとりは精神的に。
5
ぼんやりとした意識がしだいにはっきりしていき、私は自分が眠っていたことに気づいた。薄情なことにペット達はほとんどが姿を消している。首を回してから、もしやと思い確認してみたが、身体の不自由さは取れていなかった。だらりと垂れ下がった右手は血が抜けきってしまったように冷たかった。
格好悪い。不貞寝だなんて。
意味もなく、肺が空になるまで息を吐く。空っぽになっても息を吐いた。考えていたことや、焦っていた気持ちとか、全部吐き出して、再び意識が遠くなっていく。そこで反射的に息を吸った。
私は、意味のないことを考えることにした。
水橋パルスィは橋姫で、地底と地上を結ぶ縦穴の番人をしている。嫉妬深い彼女は地上の光を求めて地底を出て行こうとする奴らを許せないのである。そんなある日、力づくで地上へ出て行こうとする輩が現れた。名前は村紗水蜜。地底の街でも有名な荒くれ者である。水橋パルスィは地底と地上の平和を守るため、村紗を橋の上で迎え撃つことを決意する。だがそれがいけなかった。橋の下を通る地下水脈は村紗にとって絶好の戦場だったのだ。水を操る村紗に苦戦するパルスィ、彼女は嫉妬心を操る程度の能力をもった妖怪ではあったが、なんと村紗は精神攻撃を無力化するというチート体質だったのだ。
しかし、なんやかんやでパルスィは勝利した。村紗は水脈に乗ってどこかへ流されていった。街の人々は彼女に感謝した。ありがとうパルスィ! ありがとう橋姫!
しかし彼女は喜ぶことなく黙って姿を消し、いつものように縦穴で煙草の煙を眺めている。彼女が欲しかったのは感謝なんてものではなかった。嫉妬心だったのだ。
己に向けられる嫉妬心。
感謝と嫉妬は表裏一体であることに、彼女は気づかなかったのだった……
「5点」
ようやく、私の口から言葉が出た。
待ちくたびれた。私は乾いた喉で笑った。
「褒めるところが見つからないくらい酷いお話。しかもすごく適当。よくもそんなものが考えられると逆に感心してしまうくらい」
「それでも5点はくれるのね」
「ゼロをあげてしまったら、これ以上酷くなったときに困ってしまうでしょう?」
「あぁ、そう。それじゃあ聞かせてくれるかしらね、今度はあんたの話。せめて5点以上はあげられるものなんでしょう?」
私は言って、目を閉じた。
意識を内側に向けて、首を捻る。
私の台詞は以上。今度はそっちの番。
私は、ため息を吐く。
「村紗さんに言われるまでは、正直自分でも半信半疑でした」
早速口を挟んで悪いが、私の声で『村紗さん』とか言わないで欲しい。虫唾が走る。
「村紗さんが言ったことは彼女の過去であって、私の今の状態には関係ないのかもしれません。だけど、村紗さんの経験は参考になりました。村紗さんのようなことになれば確かに私の身体はすぐに持たなくなってしまうでしょう。精神と肉体というのは本来、離れるはずがないものですから。むしろこうして貴方の身体にたどり着いたことが奇跡的です。まさにあいのちから。未練とかそういうものかも知れませんけどね。そういう意味で村紗さんは」
「さとり」
「彼女は生きる意志を失った身体の話をしました。もしかしたら私は本当は、仕事を終えてすぐに死んでいたのかもしれない。……極論ですけどね。実際の身体はまだ呼吸をしているし、心臓だって動いてます。人間でいうならただの気絶状態です。私は仕事を終えて疲労困憊になり、体力の限界に倒れてしまった。意識を失ってしまった。確かにそれ以前にあの本を読んではいました。興味深い内容でした。誰かの身体に意識を飛ばすなんて、と。だけど、それを実践した記憶はありませんよ。だけど多分、貴方が羨ましかった。妹と一緒にいられた貴方が」
「もったいぶった言い方はしなくていいわ」
「私は、意識が無くなっていたんです」
私は足を振り上げ、椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がった。足元で眠っていた猫が驚いて走っていくのが見えたが、無視して寝室の方へ大股で歩いた。
ドアを開けて、さとりの身体に詰め寄る。運んできた時に気づかなかったのが信じられなかった。さとりは気づいていたのだろうか、どちらにせよ、教えてくれなかったのだから関係ない。
さとりは目を閉じて、気絶していた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
「……あんたって奴は、」
怒りとか、焦りとか、そういうものを通り越してしまって、私はなぜか笑っていた。本当に、冗談じゃない。こいしだってここまで馬鹿なことはしない。こいつは姉だ。悪いところばかり勝っていてどうする。
「倒れるくらい仕事に張り付く羽目になったのも、くだらない本にうつつを抜かしていていつまでも仕事が片付かなかったのも、挙句に疲労でぶっ倒れたのも、元はといえば全部自分が悪いんじゃない。それでこんな風に意識を飛ばして、それで大変な目にあって、怒るよりも早く呆れるわ、まったく」
私の口が何かを言おうとした。私はそれを押さえつけて続けた。
「何で言わなかったの。なんで頼らなかったの。あんたが無理して倒れる理由なんてどこにも無い。まして、それで私に迷惑掛ける理由なんてあるはずが無い。ふざけないでよさとり、こいしに会いたいのなら、這ってでも会いに行きなさいよ。なんで私を巻き込んだのよ」
「だって、」とさとりは言った。
「会いたかったんだもん」
ふざけるな。
かわいこぶるな。
無意識だったから仕方が無い?
笑わせてくれちゃって。
そんなのが許されるのは天国地獄にただ一人。
かわいいかわいい妹だけだ。
6
ベットに腰を落として、私はさとりの顔を見ていた。死んでいるように安らかで、しかし当の本人が隣で自分の顔を見ているのだからやはり気持ち悪い。私はさとりの腕を胸の前で組んでみたり、頬を抓ったりしてみた。当然、反応は無いままだ。
結局、何が原因でさとりの意識がこちらへ飛んできてしまったのかは分からないままだった。あの胡散臭い本の内容なんて眉唾ものでしかない。ふたりで中身を見返してもとても今の状況を作り出せるような代物ではなかった。それなら、さとりが独力で行ったことなのだろうか。それだって仮に事実だと分かっても意味が無い。さとり自身、元に戻す方法なんて知らないのだ。
そう、全ては事故でしかない。
古明地さとりの強すぎる愛が撒き散らした、無意識という名の事故なのだ。
「……ちょっと待ってよ」私は口に出して言った。「勝手に綺麗に終わらせようとしないでよ」
「いいじゃありませんか」私が言い終わってから、さとりが言った。「真実は闇の中へ消えていく。そういうのだって」
「いや、消えていかれたら困るって言ってるんだけど」
「大丈夫ですよ。たとえ古明地さとりの肉体が滅びようとも、魂は生き残り、貴方の中で行き続けますから」
「それが嫌だって言ってるのよ!」
「だけど、もうどうしようもないんですから。それにね、こういう終わり方も悪くないって思うんです。もし身体が滅びて、魂さえ貴方の中で消えていっても」
「縁起の悪いこと言わないでよ、気色悪い」
「私の願いは叶いましたから」
さとりの言葉で、身体から力が抜けていくような気がした。
「……そう、」と、何故かそれだけしか返せない。
「はい」と、さとりも簡素な返事をした。
何故か、それで納得できた気がした。
部屋の外は再び騒がしさを取り戻し始めていた。ペット達の鳴き声が聞こえてきて、そこに人の言葉が混じっていた。人化できるペットの誰かがやってきたのだろう。部屋に入ってみたらさとりの姿がどこにもない、そんなことになっていたら彼女はどんな表情をするのだろうか。
(迷惑、かけちゃいましたね)
(そうよ、ちゃんと謝りなさい)
(村紗さんにも)
(それは嫌。私の口から謝ることになるじゃない)
(そういうわけにはいかないでしょう?)
(……まあ、そうだけど)
私は笑って、最後にさとりの顔に手を伸ばした。
瞼を撫で、頬に触れて、唇に触れた。
ドアが開く音が聞こえて、私は顔を上げた。
そこには、目前に迫る黒い物体があった。
まったく、騒がしいペットだ。
それは迷うことなく、一直線にこちらに飛んできて、
「──って!」
止まらない。
止まることなんて考えていないに違いない。
真っ黒な帽子。黄色のライン。
私は避けようとした。さとりも反射的に避けようとした。
もちろん、それぞれ逆方向にだった。体は左右に分離してくれなかった。
鈍い感覚が頭の中を駆け巡る。
頭骨同士がぶつかった時の感覚だった。
つまり頭突きされたのだろうか。
部屋に飛び込んでくるなり、断りもせずに。
あまりの衝撃に私はベットに倒れ込んだ。紛いなりにも地霊殿の主のベットらしく反動はバネの軋む音に変換されて幾らか柔らぐ。頭突きで突っ込んできたこいしはそのまま私たちの上に倒れ込んできた。起き上がろうとした私に手足を絡めて、顔を埋めてしまった。
「やだ」
とこいしは言った。
「紛らわしいから、やだ」
私は肩を落としながら唸った。帽子越しに手を乗せてゆっくりと頭を撫でてやると、こいしは抱きつく力を一層強めてくる。逃がしてはくれないらしい。
「……だそうよ、さとり」
私は隣を見ながら言った。
見てみなよ、これが全ての理を蹴っ飛ばす言葉だ。
さとり本人の意思なんて関係ない。
さとりがさとりである限り、お姉ちゃんである限り、絶対に蹴り返すことのできないものだ。
それでもあんたは、満足だって言える?
「それなら、仕方がないですね」
さとりは上半身だけ起き上がって、眠たげな視線を私たちに向けていた。それから私の手に自分の手を重ねて、同じようにしてこいしを撫でた。こいしはハッとして体を起こし、さとりの姿を見た。私を見てさとりを見てもう一度私を見て、それからまたさとりを見た。そしてなぜか、頬を膨らませた。
「お腹がすいたよ、お姉ちゃん」
私たちは顔を見合わせて肩を揺らした。
そういえば私たちは、妹の為にシチューを作っていたのだった。
・作者の過去作設定を引き継ぎます。
・地霊殿ストーリー以前のお話。
※告※
椅子の上で伸びをする元気すら湧かなかった。
もやの掛かる視界。私の背丈ほどもある封筒の山。年度末決済の書類に掛かりきりになってしまって、自分の執務室に篭りきりになってしまって、何日が経ったかか分からない。食事も睡眠も極限的には必要のない体だが、思考に限界はある。ルーチンワークを繰り返していた脳は働くのをやめている。
喉が渇いている。声の出ない喉は何かを猛烈に求めている。
──あぁ、そういえば。
どれほどの時間、妹の顔を見ていないのだろうか。
「──ぁ、あ」
うめき声を上げながら、完全に固まった肢体を動かそうとする。
立ちくらみ、筋肉の痙攣、運動の仕方を忘れた脳機能。
──あ、ダメだ。
大きな音が聞こえた。椅子から倒れてしまったことにしばらく気付かなかった。途中で腕を机の角にぶつけたらしいが痛みは感じない。視界がぼんやりとする。「うあ」と何を言いたいのか分からない声。監禁された者の気分。あながち間違いじゃない。だけどそれどころじゃない。とにかく会って。会って、話を。なんでもいい、お話を。
這ってでも外へ出て。みずみずしい声。笑顔にくっきりと浮かぶえくぼ。もちのような頬に触れて。声を。声を聞きたい。
視界は霞む。ドアが果てしなく遠い。たどり着く前に力尽きるだろう。冗談。あの子は、彼女は、これくらいじゃあ。私は、お姉ちゃんだから。お手本にならなくちゃ。あぁ、でも。でも。私じゃあ、ダメなのかも。
本が崩れてくる。頭に当たる。痛みは感じない。感じてる場合じゃない。
「わ、たし」
頑張ったはずだ。ゴールしたはずだ。だからもういいじゃない、クソ閻魔。私を閉じ込められるのはここまで。もう自由でいいはずだ。どこまで行ってもいいはずだ。だから私は向かう。顔が見たい。声が聞きたい。触れたい。
「さとりさま!? どうしましたさとり様!」
ドアの向こうから声。すごく慌ててる。誰だっけ、思い出せない。多分ペットだ。倒れた音を聞きつけてくれたのだろうか。ドアが叩かれる。鍵は。鍵は閉めたっけ?覚えてない。多分閉まっているのだろう。開けてくれないから。開けてくれたらお外に出られるのに。渇いたのをどうにかできるのに。
返事をしようとしても声がでない。このまま死んでしまうのだろうか。密室の中で死んでる私。ダメだ。第一発見者はペット。そんなのダメだ。妹が、妹達が泣いてしまう。なんとかドアにたどり着く。震える唇で返事を返す。返せない。声は出ない。ドアを叩こうとする。ダメ。力がまったく入らない。私は。
せめて。せめて──、一瞬でもいいから。
「さとりさま! 返事をしてください、さとりさま!」
頭に掛かっていた霧が深くなる。眠い。けど多分眠気とは違う。
昔、何度か経験した感覚。霧が濃くなって、全身が脱力して、声が出なくなる。
気絶するときの感覚。
意識が暗転する。
〜Pは止められない/半分こ妖怪〜
開けっ放しの窓からは熱を帯びた風が吹き込んできていたが、だからといって閉じたとしても待っているのは蒸し風呂状態。そんな季節が訪れてしまっている。
火加減を調整しつつ、かき混ぜつつ、辛抱強く待つこと三十分が過ぎた。
真っ白だったたまねぎはすっかり変色して飴色になっている。隣で炒めていた具材達も準備は出来た。一口サイズよりも少し小さく切ってある。村紗水蜜の作ったカレーの具はやたらと大きかった。奴と同じにするわけにはいかないのだ。
彼女がいきなりカレーを持ち込んできたのが数日前のことだ。何を血迷ったか夕食を一緒に食べようと言い出してきた傍らには寸胴鍋。一緒に来ていた一輪とぬえが後ろで笑っていたから、村紗自身にとってその行動が本意だったのかはわからない。
明らかに作りすぎているカレーは土色が強くて、私としては水気が多かったように感じられた。おまけに、妙に甘かった。村紗水蜜の作るカレーと聞いて最初に思い浮かべたのは、もっと辛さの極限を極めたような、香車のように直進しか出来ない村紗自身を表した様なものだ。しかし実際には甘かった。甘ったるくて拍子抜けした。
くやしいのは、想像と違っていたとはいえ目を見張るほどに味が確かだったことだ。
私は何故こんな味なのかと聞いてみた。村紗は「こっちのほうが美味しいから」としか答えてくれなかった。「美味しいからいいんだよ村紗の料理にケチつけんな」と何故かぬえがキレていた。一輪は悟りきった表情でスプーンを口に運んでいた。こいしは三杯おかわりしていた。
これは負ける訳にはいかない。私はその日から研究に研究を重ねた。長かった。長い道のりだった。これを村紗達に喰らわしたら半世紀はカレーを見たくない。しかしその甲斐もあって、遂に地底で作り得る限り最高のスパイスブレンドにたどり着いたのだった。
鍋の横には旧都中を走り回ってかき集めたスパイスのビンが並んでいる。私は一番手前の、あらかじめ調合しておいたビンを手に取る。蓋を開けると、むせ返るような香りが立ち込める。思い切り吸い込む。よろしい、香りはとんでいない。
「なに作ってるの? よる御飯?」
横からこいしが覗き込んできていた。小さな鼻の穴を目一杯広げて、香りを吸い込む。目を輝かせながら私を見た。
「もう少し待ってなさい。もうすぐ、これを入れたら究極のカレーが完成するわ」
「あ、カレー作ってるんだ。どうして? こないだ沢山食べたのに」
「わかってないわね。あれくらいで満足されちゃあ困るわ」私は肩を竦める。「あいつはわかってない。……まったく、甘ったるいカレーだなんて邪道もいいところだわ。カレーってのはね、汗に塗れながら、口内の痛みに耐えながら食べる物よ。あいつのは所詮子供だまし。大人の味ってやつを、私が、あいつらに教えてやるわ」
「ふぅん、劣等感の塊だね」
「ふん、そうやって笑ってられるのも今のうちよ……」
嬉しそうに笑うこいしに笑い返しながら、バターと小麦粉を落した。続いてスパイスの中身をあける。軽く炙って、香りを更に引き立たせる。
「こいし、ご飯の様子見てみて」
私は鍋から目を離さずに言った。「うん」と短い返事が帰ってくる。
「もういいよ、真っ白でツヤツヤで美味しそう」
「結構」
「ねえねえ」
「うん?」
「それって辛い? 甘い?」
「辛いに決まってるじゃない。もしかして辛いの嫌い? ダメよ、大人の女は辛さに耐えるものなんだから」
「それはよくわかんないけどね、別に辛いの嫌いじゃないよ。どっちかって言うと好き」
「じゃあなに?」
「ぬえはね、甘いの好きなんだって」
「へえ」
適当に頷く。正直あの正体不明娘の好みには興味が無い。それよりも、こいしが辛さを平気だと言ったことについて安心する。
……まあ、このむせ返るような香りの中で表情を曇らせない時点で心配すること
はなかったのかも知れない。
こいしは早くも食器の準備を始めていた。ひとり、ふたり、さんにん。少し止まって、もう三人分を用意する。
「ムラさんたちと一緒に食べるんだよね?」
「そうだけど、流石に早すぎるわね。これからカレー粉入れて、煮込まなくちゃいけないから」
「それって時間掛かる?」
「掛けたほうが美味しいっていうけどね。どっか行くの?」
こいしは首を振る。「ううん、見てるけど」
こいしは食器を並べずに重ねたまま置き、私の隣に立った。小さく身体を揺らしながら火に掛けられたカレー粉を眺めている。
「私、カレー好き」
視線を逸らさずにポツンと、そう言った。
「そりゃあよかったわね」
私はかき混ぜながら答えた。
炒めた野菜たちは今か今かと自分たちを包み込む主役の登場を待っている。手元の鍋からは食欲を掻き立てる香りが立ちこめている。私は火を止めた。そこで一度呼吸を落ち着かせる。そこまで緊張しているわけでも、する必要も無い。料理なんてものは結局は材料の詰め合わせだ。その材料に何を用い、どう準備するかに掛かっている。私はベストを尽くした。この街で知り得る限りの料理店を回り、味を盗んだ。スパイスの出所は一から聞き込みをして回った。
何故か。何故そこまでしてしまったのか。
自分でも分かりきっていることだ。あえてもう一度意識することもない。
私はこいしの方を見る。鍋から攫われそうになっていたじゃがいもを取り上げて、鍋に戻す。こいしは頬を膨らませる。
不意に、視界が揺らいだ。
意識が朦朧としたというよりも、ブレが生じたような感覚。ノイズが走り、一瞬だけ意識が飛びかける。しかし所詮は一瞬のことだった。
最近はこれの研究の為にあちこち走り回ったから疲れているのかもしれない。だけどもう完成は目の前なのだ。気にしている場合じゃない。
私は特に気に留めないことにした。優先事項は他にある。香りは絶頂まで導かれた。あとは今までの成果を合わせれば良い。焦がさないように、注意深く。私はカレー粉を鍋に投入しようとした。
「──でもね、シチューのほうが好きかなぁ」
材料に牛乳をぶっかける。
作り置きのブイヨンも一緒に入れて、蓋をして、火に掛けた。
私は鍋を離れて椅子に座り、冷め切った珈琲に口をつけた。
「さて、問題は村紗達にどう言いだすかだけね。こいし、悪いけどつれて来てくれる?」
「え? あ、うん。別にいいけど……」
「それならそうね、あと一時間くらいしたら呼びに行ってくれるかしら。私はそれまで他の準備をしておくから。……それにしても楽しみね、村紗の奴、どんな顔を見せてくれるかしら」
「うん、そうだね……」
「どうしたのよハトが豆鉄砲食らったような顔して」
「え、だって、ムラさんにカレー……」
こいしは黙って鍋を指差す。
中では真っ白なシチューが完成に向かっていることだろう。
いやぁ、シチューは良い。なんといっても優しい暖かさがある。たとえば雪の中、疲れ果てて帰ってくるとお婆ちゃんが笑いかけてくれて、鍋からは湯気が上がっている。悴んだ手も、震えていた唇も、その光景だけで元通りだ。柔らかく煮込まれた材料、笑顔のように優しい味。素晴らしきかなシチュー。カレー? なんですそれは異界の食べ物ですか? シチューの足元にも及ばないでしょう?
……そう、シチュー。
………シチュー?
…………シチュー!?
「え、ちょ、ちょっと待ってよ……」
立ち上がる。鍋を見る。真っ白に染まっている。
カレーは? 私が寝ずに研究を重ねたカレーは?
呆然と立ち尽くす。訳が分からん。その時、不思議なことが起こった。
私の右手が動き、お玉を掴んだ。そのまま右手で鍋蓋を持ち上げて、器用にかき混ぜ始める。
私はそれを、自分の右手が鍋をかき混ぜるという光景を、客観的に見ている。
とても優しい香りがしている。
「──って! ちょ、ちょっと待てって、コラ!」
慌てて左手で右手を止める。
「止めないでください」と右手が反抗してくる。右手と左手。
こいしが、妹がシチューを好きだと言ったのだから当然でしょう?
ふざけんな私の努力返しなさいよ。
そんな努力は妹の願いに比べたらゴミです、資源ごみです。
私の努力を再利用なんてさせないわよ!
それならば他に用いれば良い。カレーなんてどうせいつでも作れるのだから。
村紗に目に物言わせてやるんだから!
何度も言わせないで、妹に比べたらそんなもの──
やかましい、このシスコン!
シスコンで結構!
私は私を黙らそうと右胸を叩く。私は私に反撃するように右手を大きく振りかぶる。左側も負けじと振りかぶる。左右別々の方向に身体が捻られる。バキリ。嫌な音。痛覚はもちろん、どちらからも走ってくる。
「ぃ──ったぁ!」
振り返ろうとして、歩こうとして、身体が同時に違う方向へ動こうとする。転ぶ。膝を打ち付けた。
「もう! なによこれは! 私が何をブッ!」
喚こうとして口を開いて、何かがそれに割り込む。口は一つしかない。舌は一枚しかない。ふたつの言葉なんて同時に話せるはずが無い。
「舌が! ベロがぁ!」
もんどりうちながら、所々で身体がおかしな方向へ曲がろうとしてまた痛み。泣きたくなっていた。訳が分からない。
「こにょ、まひなさいって!」
寝転がったまま、自由な左手で暴れる右手を押さえつける。
左半身全体を使って右半身を抑えるようにして寝転がる。
とにかく停止だ。下手に動こうとするから問題になる。動くな。落ち着け。動じるな。黙ってろ!
「……どしたの? なんか変だよ?」
不思議そうな、引きつったような顔でこいしが覗き込んでくる。
そりゃあそうだ、いきなり自分を殴り始めて、一人で寝転がって、一人で騒いで。どっからどうみても立派な変人だ。
「し、知らない! 急に身体が……くそ、静まれ私の右半身……! ちょっとこいし! コレ、右手! どうにかしてよ!」
「どうにかって言っても……どうしちゃったの?」
「私が知りたいわよ! あ、こら待てって!」
下敷きになっていた右手が自分でも信じられない力を発揮して抜け出してきた。右足が床を蹴って、寝転がった姿勢のままこいしのほうへ飛んでいく。私は自分の身体に引き摺られるのを止められない。
「逃げなさいこいし!」
「うわぁ、お姉ちゃん気持ち悪い!」
こいしは後ろに跳ねて私を避ける。伸ばされた右手がビクンと跳ねる。
私は身体を回転させてこいしから右側を引き離そうとした。同じくこいしに近づこうとする私。結果、身体はくるりと一回転するだけ。
「とにかく逃げてこいし、早く!」
「う、うん!」
こいしは振り返る。
私はまた一回転していた。
「だけど大丈夫なの? お姉ちゃん」
「大丈夫じゃないけど!」
「誰か呼んでくる?」
「誰でもいいから、お願い! あぁ、またこいつは! このッ、大人しくしてなさい!」
私は転がりながら部屋の端へ向かっていく。
「……なんか、楽しそうだね」
「暢気なこと言ってる場合じゃないでしょうか! 早く!」
「わかった!」
「こいし! あぁこいし! 会いたかった!」
左手で口を塞ぐ。
……今、私の声がした。私の声が確かに、こいしを呼んだ。
窓枠に足を引っ掛けていたこいしも動きを止める。ゆっくりと、私を見る。
「……いま、なんか言った?」
私は口を塞いだまま、大きく頭を振る。馬鹿な。
「うーん、だけどなんか、不思議な感じが。……わかんないけど、すごく聞きなれた感じっていうか」
「うん、私も、すごく、聞き慣れたというか……」
「お姉ちゃん?」
「あー……」
──さとり?
私は、私を見下ろして、私に聞いた。返事は無い。右側の感覚は相変わらず不自然で不自由だから、解消されたわけじゃない。私は自分の右胸を叩いてみる。おいこら、でてこい。知らん振りしてるんじゃない。反応は無い。
「まさかねー」
冗談だよぉ、とこいしは柔らかく笑った。「そうよねー」と私も返した。
「ははは」と私達は笑いあっていた。そんな馬鹿な。
まさか古明地さとりが意識だけの存在になって私の身体に憑依し、右半身を乗っ取ったなんてそんな馬鹿な話、あるはずが──
「──こいし!」
あった。あって欲しくなかった。
不意打ちに飛び出した私の身体は、窓際に立っていたこいしに飛びかかっていた。こいしでさえも対応しきれない、自分の身体の限界を超えた速度。私の右手はこいしの服を掴むと一気に引き寄せる。こいしの顔が急激に近づいてくる。餅のように柔らかい肌の感触を頬に感じた。私の半分とこいしが引き剥がそうと暴れているのに、私の半分は吸盤でもついているかのように剥がれない。
「こいし! あぁこいし、こいし!」
止めて、私の声でそんな狂喜乱舞しないで恥ずかしい!
私の叫びを無視して、私はこいしを抱きしめる。
頬擦りをして、抱きしめて、また頬擦りした。
やわらかくて、小さくて、かわいい。かわいい。
こいしは訳が分からないままで、反応しきれずにされるがままになっていた。
そのまま、小一時間ほど、私はこいしを愛で続けていた。
2
疲労困憊で椅子に座る私を、こいしがじっと見つめている。騒ぎすぎて火照った身体に吹き込む風が不愉快なほどに蒸し暑い。
こいしは「むー」と呻きながら私と私を見比べて、私を指差した。
「こっちが、お姉ちゃん?」
さとりは私の右手を勝手に挙げて「そうよ」と答える。
こいしはすばやく紙に何かを書き込んで、私の右胸に貼った。さとりの胸にある、第三の目が描かれていた。
「それじゃあこっちがお姉ちゃんで……」
続けて、髪にハート型の髪留めをつける。とりあえずではあるが区別はつくようになった。
こいしは満足そうに頷く。そうして今度は私の左側を──私のいる側を指差す。
「こっちが……お姉ちゃん!」
「いや待ちなさい、それじゃあわかんないでしょう」
「えー、わかるよー。お姉ちゃんでしょ? それでこっちが、お姉ちゃん……あれ? お姉ちゃんに、お姉ちゃん。お姉ちゃんがお姉ちゃんでお姉ちゃんの中にお姉ちゃんがいて右がお姉ちゃんで左がお姉ちゃんで……あぁもう、わっかんないー! むきー!」
「なんでよ! さとりの側と私の側でいいじゃない」
「だって、お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだもん。わかんないんだもん」
「なによそれ、訳わかんないのはこっちだわ」
私は左手を頭に乗せて唸る。こめかみを軽く押さえる。まあ、自分で勝手に混乱しているこいしは放って置いても良いだろう。それよりもやたらと落ち着いているほうが怖い。混乱もせず、むしろこの状況を利用しているふしすらある。
「……それで、さとり。どういうことなのか説明してくれるんでしょうね?」
私は、私に聞いた。頭の中に直接、感情を隠さない声が聞こえてくる。
(それが、私にもよく分からないんです。仕事が終わって、外に出ようとしたところまでは覚えているんですけど……そこで意識を失ってしまって。気がついたら貴方の体の中というわけですよ。幽体離脱、というものでしょうか。そうしたら目の前にはかわいい妹の姿が。つい取り乱してしまいまして。どちらにせよ、こんな愉快な状態はそうそう無いのでしょうけどね)
(なによ、妙に冷静じゃない)
(妹エネルギーを補充できましたからね。もう怖い物なんてありませんよ。それに……)
さとりは私の右腕を持ち上げて、開いたり閉じたりした。私の頬に触れて、輪郭をなぞる。
(こんな経験は初めてです。確かに妖怪という物は肉体的な要素よりも精神的な要素のほうが強い。他者に憑依し、思うが侭に操る妖怪もいるでしょう。でもね、考えてもみてください。他人の身体に意識だけが入り込むなんてことは簡単なことじゃない、それも貴方自身の自我も残っているだなんて! 私と貴方は入れ替わったり乗り移られたわけではなく、ひとつの身体に同居しているんです。とても興味深い状況だとは思いませんか?)
(それって、喜ぶところ? 物凄く不味い状態だと思うんだけど……)
(何を言いますか! 他者を知るのに一番の方法は実際にその対象人物になってしまうことです。今、私と貴方は同じものを見て、感覚を共有している。貴方の目線は私の目線で、貴方の感覚は私の感覚でもあるのですよ? つまり感情の境地、まさしく愛のちから! ……素晴らしいでしょう!?)
間違いなく不味い状態だ。なによりも、さとり自身が楽しんでしまっている。
楽しんではいません。嬉しいんです。
心を読むな、毎度のことながら鬱陶しい。
読んでなんていませんよ、思考回路が同じ箇所を通っているだけです。聞こうと思えば貴方にだって私の考えてること、聞こえるはずですけど。
試しに目を瞑り、意識を集中させてみる。
こいしこいしこいし。かわいいこいし。
止めた。
自分の頭に握りこぶしを落す。
痛いじゃないですか。
うっさい。
頬を抓る。
状況がわかって気色悪い感覚にもいくらか慣れてしまった自分が末恐ろしい。少し集中してみると、別に自分の意思でまったく半身を動かせないというわけもでもないらしいことがわかった。ただ、半身における動作とか感覚の優先権はさとりにある。つまり今の私には半身分の優先権しか存在しないのである。さとりが黙ってされるがままになってくれていれば私ひとりで行動するのとさほど変わらない。問題は、さとりがそう簡単に黙ってくれるような奴じゃないということだが。
ともかく、私は立ち上がることにした。身体に渇をいれて、両足で踏ん張ることをイメージし、一気に立ち上がる。さとりからの抵抗はほとんど無かった。いちいち許可を貰って行動しているようで違和感だけはどうしようもなかった。
「……さとりのところに、行って見ましょうか」
いちいちさとりを口止めしてから、私は言った。私なら此処にいますけど?それ違う。
「身体の話。意識がこっちに飛んできてるってことは身体は空っぽなわけでしょう? 原因も気になるところだけど、身体のほうを放って置いたらどうなるかわかったもんじゃないわ。猫に死体と間違われたらたまったもんじゃない」
それもそうですね、とさとりが言う。いままで忘れてましたと付け足されて、私は溜息をつく。そんなことだろうと思った。
私はその場で足踏みしながら言った。
「とりあえず、あんたは下手に動こうとしないこと。やっぱり私の身体なんだから、私のほうが動かし慣れてる」
「わかりましたよ」さとりは若干不満そうに言う。
「こんな状態いつまでも続けるわけにはいかないわ。さとりの身体の安全を確保したら、さっさと元に戻す方法見つけるわよ」
私は鍋の火を止めて、中身を一度かき回したあと、上着を着た。どうしても右側が不自由なものだからいつもより手間取ってしまう。結局、最後にはさとりに頼んだ。着せてもらっているようで腹立たしかった。
そうして私は部屋のドアを開けて、外に出ようとした。
「お姉ちゃんがお姉ちゃんでお姉ちゃんをお姉ちゃんがお姉ちゃんにおねえちゃんはお姉ちゃんとお姉ちゃんだし、お姉ちゃんがお姉ちゃんで私は妹でお姉ちゃんが居て私はこいしでおねえちゃんはちっちゃくてお姉ちゃんは大きくておねえちゃんおねえちゃんお姉ちゃん……」
とりあえずは、大丈夫なのだと考えることにした。
3
目の前に運ばれてきたどんぶりからは湯気が立ち上り、葱しか乗せられていない簡素なうどんは簡素だからこそ麺自身が白く輝いているように見えた。私は鼻先に薄くにじみ出ていた汗を指先でぬぐって、左手だけで割り箸を割った。不揃いに割れた箸で汁を混ぜた。
「最初に言っておくけどね。これはあんたがお腹が空いたなんて言い出したから仕方なく寄ってやってるんだからね」
(最初にお腹が空いたとお店を眺めたのは貴方じゃあありませんか)
「うっさい。こんなことしてる場合じゃないのよ、まったく」
私は辺りを伺った。店には十人ほどの客が入っていたが、私に注目している奴は見当たらなかった。
(そんなに警戒しなくてもいいんですよ。他のひとたちから見たら何の変化もないんですから。それよりも私に向かって言っていることを口に出しているほうが怪しい)
私はハッとしてとっさに開いていた口を閉じた。そうして、やはりこんなところでのんきにうどんを啜っている場合ではないと、当たり前のことを今更に思った。だけど仕方がないことなのだ。食欲をそそられる香りに導かれたのは確かだ。だけど付け加えておけば、私の身体を店の中に引きづり込んだのはやはりさとりだったことも事実。
(過ぎたことをネチネチ言っても仕方がないでしょう。それに、これもなかなかに経験しがたい状況ですからね、せっかくだから美味しく頂きましょうか。ほら、口を開けて箸をこちらに渡してくださいなパルスィ、利き手ではない左手では食べにくいでしょう?)
私は声を出さずに言った。
(いいけど、変なことしないって約束できるんでしょうね)
(変なことなんてしようがないでしょう?)
(そこに並んでる調味料全部乗せする実験とか。ほんとに止めてよ、ここのおばちゃん七味多く入れるだけで怒るくらい自分の味を大事にしてるんだから)
(失礼ですね、そんなことする筈がないでしょう? 私のことが信じられないっていうんですか)
(信じてないから心配なんじゃない。だけど……)
私はうぅんと唸って丼を見た。箸から滑り落ちたうどんが跳ねて、汁が机を汚していた。これだっておばちゃんに叱られる原因になりかねない。仕方がない。うまく乗せられているような気分を感じたまま、私は左手で形悪く持っていた箸を右手に移した。
さとりは何度か箸を持ち替えてから、うどんをすくいあげて、
(はい、あーん)
「やっぱりかっ! あんたは本当に期待を裏切ってくれるわね!」
声が店中に響いていた。
目の前で白く輝いたうどんがふるふると震えていた。
私は箸を持ち上げた体勢のまま、視線だけを動かして周りを見た。皆、こちらを見ていた。私の身体は動かないまま、頬に冷たい汗を流した。そうして正面に影が落ちた。恐る恐る見上げると、視界を遮るほどの巨体が腰に手を当て、薄ら笑いを浮かべながら立ちふさがっていた。
「は、ははは……おばちゃん、ごめんね、五月蝿かった?」
目の前の壁が、ゆっくりとうなずいた。何もいってくれないのが益々恐ろしかった。
右手が、開きっぱなしになった口にうどんを突っ込んだ。私は反射的に啜った。
「美味しいかい、パルちゃん」
私は咀嚼しながら大きく頷いた。何度も頷いた。
「……そうかい。今度から、喧嘩するなら誰かとしなよ。いつまでも独り身じゃあ、寂しいだろう?」
おばちゃんはぶぉんと身体を回転させて、がに股で厨房に戻っていった。
いつの間にか、目の前に漬物の並んだ小鉢が置いてあった。
(……彼女の夫は数十年前に他界しています。この味はその主人の残したものだそうです。喧嘩も多かったですが、よい夫婦だったようです。最後に見せた表情には同情に似た感情が読み取れました。彼女の喧嘩相手はもういません。一人で感情的になっていた貴方に自分の姿を重ねてしまい、その先に亡き喧嘩相手を見ていたのかもしれませんね)
さとりは沢庵を一切れつまみ、口に運んできた。
私は何も言わずにそれを咥え、箸まで奪い取って、汁の一滴も残さずに流し込んだ。
(パルスィ? 聞いていますか、彼女の夫は──)
「ごちそうさま」と言って立ち上がり、会計でまたおばちゃんと鉢合わせ、懐から財布を取り出して小銭を持っていないことに気づき、乾いた笑いを浮かべて、謝りながら大きな札を渡して、お釣りをもらい、また謝ってから、店を出た。
「美味しかったですね、また来ましょう」と、店を出るなりさとりがのたまったので私は左手で頭に拳骨を落とした。ゴン、と鈍い音が頭の中を駆け巡る。左手で殴ったのだから殴られたのは左即頭部だ。殴った私のほうが痛いとはこのことだ。
(……痛いじゃあありませんか)
「五月蝿い! あんたのせいで変な奴だと思われたじゃない!」
(誰もそんなことは思ってませんでしたよ?『あぁ、またパルちゃんが変なことしてるなぁ』って皆さん思ってました)
「それだって、大体いつもあんたらのせいじゃない! あぁもう、私の橋姫としてのイメージが……」
(そんなの、気にしてるひと居ませんって)
「笑うなぁ!」
(ところで、また声に出してますけど)
私は抱えていた頭を持ち上げて、そして、声にならない悲鳴を上げた。
逃げるようにして走り出す。
(そっちは地霊殿とは反対ですよ)
踵を返して、来た道をもう一度走り抜ける。
視線を感じた。
顔がますます熱くなるのがわかった。
(身体も火照ってきましたし、ちょっと踊ってみませんか? お腹ごなしにあなたの身体で)
(それを本気で言っているなら今すぐ右手足をへし折る)
(止めてくださいよ、もう貴方ひとりの身体じゃないんですから)
(私の身体よ。あんたにくれてやったつもりは微塵も無いし、これからもそのつもりは無いから)
(私はいいですよ。もし反対の立場だったら私の身体、貴方に預けても)
(そういうこと言わない)
(だから少しだけ、ほんの出だしだけでいいですから。イントロだけ乗ったらあとはノリと勢いらしいですから!)
(あぁもう、やかましい!)
「──っい!」
「そんなことしないって言って──」
「おい無視すんな!」
「──は?」
やかましい声が私に向けられていたことに気付く。顔をあげた。目の前には大木の柱が立ちふさがっていて、
「い──ったぁ!」
歩いたままの速度で激突する。また頭の中で鈍い音が反響した。さとりが憑依しているからとかそんなものは一切合切関係なく、ただの前方不注意だった。
「おっとごめんよ」気さくな声がした。額を擦りながら見ると、頭に鉢巻を巻いた鬼が木材を肩に担いでいる。私はそれにぶつかったようだった。
「おいおい、大丈夫だったか? なにやらぶつぶつ言ってたが」
「え、ええ、大丈夫、大丈夫……ただの独り言」
なんとか笑ってみせる。心配そうにしていた鬼の表情が緩む。
大丈夫、嘘は言ってない。痛いじゃあないですか。五月蝿い、痛くない。
「悪かったのはこっちだから、気にしないで」
「そいつはよかった。ほんと、悪かったな」
そう言って、作業場に駆けていく。
私は薄っすらと膨れた額を押さえながら辺りを見回した。私に掛けられていた声は彼のものじゃない、もっと幼い声だった。
「こっちだよ、こっち」
「こっちって言われても……」
街の通りは人通りが多くて、子供ひとり見つけるのには結構苦労する。私はぐるりと視界を一周させるが、それらしい人物は見当たらない。
と、右手が動いて、指先を立てた。目線を指差された方向へ向けると、白いのと黒いのが屋根の上に座っていた。嫌な奴に会ってしまった。
声の主はぬえ。相変わらずの黒尽くめで胡坐をかきながら笑っている。村紗はその横で私をじっと見ていた。私は彼女を見返した。彼女の緑眼に見つめられているのが、ぬえみたいに面と向かって笑われるよりも不愉快だった。
(そんなに敵視しなくても)
(敵視なんてもうしてない。ただ、なんか嫌な感じがするのよ。なに考えてるの、あいつ)
(今の私は心を読めませんから。貴方の感じたとおりに)
(ほんと、肝心なところで役に立たないんだから)
「ひとりで、なに面白いことやってんだよー!」
ぬえは私に向かって言ってくる。わたしはむかついた。
「好きで考え込んでたわけじゃないわよ、あんたらこそ、そんなとこでなにやってんの? 逢引?」
「なにって、見回りにきまってんじゃん。それで、そこに奇行を繰り返す橋姫が通りかかったってわけ。これは見逃せないよねぇ。ね、村紗」
「……え? あ、うん」
「どうしたの難しい顔して。なんか気になるの? ただの変な奴じゃん?」
村紗は私を──私達をじっと観察しているように感じた。口元に手をやって、じろじろとこちらを見つめてくる。
「パルスィ、聞いてもいい?」
嫌だ。
とは言わせてくれないのだろうなと思いつつ、私は黙り込む。
村紗はそんな私の態度など全く意に介せず、真っ直ぐに言った。
「それ、どうなってんの?」
それ、とはなにか。なんてことを聞くまでも無いことは明白だった。
あいつは、村紗水蜜は、見抜いている。
(ちょっと、なんでバレてるのよ。あんた変なことなんてしてないでしょう?)
(そのはずですけど……村紗さんはあれでも幽霊です。魂に依存する部分が私達よりも大きいのですから、もしかしたら、何か感じ取ってしまったのかも)
(冗談じゃない、一番笑われたくない奴に知られちゃったじゃないの。どうするのよ!)
(どうすると言っても、どうしようもありませんよ。むしろ相談すべきだと思います)
(それだけは死んでもごめんだわ)
村紗は屋根から飛び降りて、帽子を押さえながら、私達の目の前に着地した。ぬえも続いて降りてくる。顔立ちとか色々と似ているものだから、姉の後ろに付きまとう妹の様にも見えた。妹のように。妹が付きまとってくれたらいいのに。……やかましい。
「もしかして、憑かれてる?」
言いながら流し目で見られる。怪訝さと、ほんの少しの心配を感じた。わけがない。
「なんとなく分かるんだ。これでも一応は幽霊だからね、霊的なものには敏感らしい」
「それが分かったところで、どうにかできるというものじゃないんでしょう? それなら何の意味も無いわ」
「それはそうだけどね。状況次第じゃあ、なんとか出来るものもある。悪霊とか、怨霊とかを払うノウハウは齧った程度にはあるから。否定しないってことは普通の状態じゃあないんでしょう? 聞かせてよ、何があったか」
「別に……」
私はそっぽを向こうとした。させません、とそう言われる気はしていた。
「さとりの奴がね」さとりが勝手に言う。そこまで言わされたら誤魔化せない。分かった、お手上げだ。
「さとりが、ここに居るの」
投げやりに言って、私は左手で自分の右胸を指差した。そこにはこいし手作りの第三の目ワッペンが付いている。
村紗も、ぬえも、私の言っていることの意味がわからないという表情をした。
当たり前だ。訳がわからないように説明している。
(パルスィ?)
(なによ怒らないでよ。ちゃんと説明してやったじゃない)
(これは説明とは言いません、ただの仄めかしです。そんなもので彼女達の興味が薄れると思っているんですか?)
(う、五月蝿い。これしか思いつかなかったんだから仕方が無いじゃない)
「まぁ、とにかく、そういうことだから。悪いけど急いでいるの。あんまり邪魔しないで欲しいんだけど」
おざなりに言って、私は今度こそ身体を地霊殿の方向に向ける。事細かに説明してやる義理なんてない。悪霊払いでどうにかなるものでもあるまい。むしろそんなことをされたら取り返しの付かないことになるに違いない。
「へえ!」
と、何故かここでぬえが声をあげた。
立ち去ろうとする私の目の前に回りこんで、浮かびながら私の目を覗き込んでくる。瞳の奥が夕焼けよりも赤く燃えていた。
「な、なによ……」
「なんかダッサいアクセ付けてると思ったらそんなことになってんだ、……いいね、いいよ、すげぇ面白いことになってんじゃん! なに、もしかしてこっちのダサい方がさとりとか、そういうことになってんの? 橋姫の身体に乗り移っちゃってたんだ、こいしの姉ちゃん!」
「だから、邪魔しないでって言ってるじゃない」
「なに、どうやったの? 教えてくれよ今度村紗で試してみるからさ!」
「ああもう、村紗、こいつどうにかしてよ!」
言ってから、しまったと思った。よりにもよって助けを求めてしまうだなんて!
村紗の方を恐る恐る見てみると、難しい顔で何かを考えていた。
「村紗の言ってるとおりだったね、あんたらすっごく面白いよ。こんな滅茶苦茶な奴ら、都の妖怪の中にはいなかった。自分の精神ぶっ飛ばせるさとり妖怪だなんて希少種にもほどがある! ね、そう思うでしょ村紗? ……村紗?」
ぬえもはっきりしない村紗を見つけて、私から離れた。心配そうに村紗の顔を覗き込む。
「ほんと、どうしちゃったのさ、村紗ったら」
「いや、ごめん……」村紗は改めて私達を見る。
「ねえパルスィ。地霊殿に行くんでしょう? 私も行かせてもらっていいかな。さとりさんの様子を、見てみたい」
そうして、とんでもない提案をしてきやがった。
4
さとりの部屋の前にはペット達が押し寄せていて、ランタンに照らされている狭い廊下を埋め尽くしていた。犬やら猫やら烏やら。変化出来ない連中が各々の鳴き声をあげている。さとりが私のところに着てから随分時間が経っているというのに、もしかしたらこいつらは、その間ずっとこうしていたのだろうか。
「大した愛されっぷりじゃない」と、私は言った。
さとりが恥ずかしがりながら頷いている気がした。
(いいですから、とにかく中を)
(はいはい、分かってるって)
私は踏みつけないように注意しながらドアの前に向かった。ペット達が避けてくれるわけもないので何度か尻尾を踏みつけたりしてしまう。そのたびに一層大きな鳴き声が上がった。私はそのたびに言葉の通じない動物に謝ることをさとりに強いられた。
ようやくで部屋の前までたどり着く。ドアに手を掛けて回してみるが、案の定鍵が掛かっていた。
「壊そうか」
脳筋が言う。
「物騒なこと言わないでよ。向こう側にいるさとりが怪我でもしたら大変じゃない」
「じゃあどうするの」
「まあ見てなさい」
私は部屋の向かいのランタンに手を伸ばした。蓋を外し、火を消してから、蓋の裏に貼り付けてある土色の鍵を取り出す。ずいぶん使われていないものだから、若干歪に歪んでいる。
「なるほど、さとりさんがこっち側にいるからこそ、隠し場所も知ってるってわけだ」
「いなくても同じよ。こいつが」私は右胸を叩く。「鍵を隠しそうな場所なんて簡単に予想がつくじゃない」
私は鍵を鍵穴に挿し込み、少し強引に回した。錆付き始めていた鍵はなんとか回ってくれて、重い音と感触と共にドアが開く。
僅かに開いたドアからペット達が雪崩れ込んでいく。鳴き声がわけの分からないことになっている。私と村紗は間を縫って部屋に入った。
さとりの部屋は面積ばかりは無駄に広いが、その殆どが積み上げられた本と書類で埋め尽くされていた。今はそれに追加でペットたちが騒ぎまわっている。本当にこいつらは飼い主が心配で集まったのだろうかと心配になるほどだった。
そうしてさとり本人は、ドアからさほど離れていない床の上に、うつぶせになっていた。猫達が傍に集まって、指先や頬を舐めている。近づいていって、身体を抱き上げた。目元に隈を作っていたりで健康には見えなかったが、それはいつものこと。私の目にはむしろ、穏やかに眠っている姿に見えた。呼吸もあるし脈も正常で、気絶しているだけのようだ。
「よかった……とりあえず無事みたいね」
私は首の後ろと膝に手を回してさとりを抱き上げて、所謂お姫様抱っこの格好で部屋の奥に向かった。そこは小部屋が分かれていて、さとりの寝室になっている。さとりの身体は意識がないとはいえ、不調なところは見当たらなかった。体温も普通だし、心拍も変わりない。
(自分を抱いてベットに運ぶのって、不思議なものですね。出来れば意識があるときにされたかったけれど)
話が逆だ。気絶してるからこんなことをしてやっている。
ペットたちがあんまりにやかましいので、私はさとりをベットに寝かせた後、うしろに付いてきていたペット達を追い出して、ドアを閉めた。払っても払っても湧き出るように部屋に入ってくるものだから骨が折れた。
やっとでドアを締め切ってみると、村紗が腰を落としてさとりの顔を覗き込んでいた。顔をうんと近づけて、確かめるようにして、頬をゆっくりとなぞっていて、
「で、あんたはいったい何がそんなに気になるの」
私は声を掛けた。村紗は手を離す。振り返らないままで、何か言い悩んでいるようだった。
「黙ってちゃ分からないわ。あんたの助言が欲しいってさとりが言うから連れてきてやったのに。……あーあ、こんなことなら私一人でお目覚めのキスをさとりにしてやろうとなんとか──って何を言わせるのよ! ……そもそも自分にキスして何が嬉しいんだか。虚しくなるだけじゃない」
(まあ、何事も経験ですから)
「そんな経験いらないから!」
「──私は」
虚空に向かって怒っていると、村紗はいきなり落ち着いた声をだした。はっきりとした言葉。勢いに任せて言ったような、そんな気がした。私とさとりは急に恥ずかしくなった。場違いを互いに認めてて、静かに村紗の背中を見つめた。
「私は、自分が死んでいくのを見たことがある」
村紗は、自分の口調を落ち着かせながら言う。
「海に投げ出されて、泳ぐ体力もなくなって、もう死ぬんだなって諦めた。このまま溺れ死ぬんだなって。もちろんそんなの嫌だった。もっと海を旅したかったし、やりたいことだっていろいろあった、会いたいひとだって沢山いた。だけど身体は冷たくなっていくし、手足は動かなくなっていくしでどうしようもなかった。光が遠くなっていって、次第に何も見えなくなって、それでね……」
村紗はそこで振り向く。見たことのないくらい、悲しい顔をしていた。
「気が付いたら、そんな自分を見ていた。この意味がわかる?」
私は黙って首を振った。
「暗闇に沈んでいく私を、抵抗することを止めた私を、私は見てた。助けもせず、沈んでいく自分の姿を見ても波風ひとつ立たなかった。やがて海底にたどり着いて、私の身体は人間の形じゃあなくなった。水圧で潰されたり、魚の餌になったりしてて、そういうのもあったけど、まるで溶けるみたいに身体が人間の形じゃあなくなった。不思議な気持ちだった。だって、手元を見たら人間の姿のままの私がいたんだから。どっちが本当の自分かなんて分からなかった。だけど私の知っている私の姿は骨と皮だけのモノじゃなかったから、こうして考えている私が、私なんだろうなって思った」
「何が言いたいの」
わかっている。
「早く戻らないと、大変なことになる」
村紗は大股に近づいてきて、私の右肩を握った。人間離れした握力に痺れるような痛みが走った。村紗は問い詰めるようにして顔を寄せてきた。
「暢気に漫才やってる場合じゃない。意識の抜けた身体が真っ暗の中に沈んでいくのを私は見ていたんだよ。生きようって意志を失った身体の行き先は一つしかない。ねぇ聞かせてさとりさん。貴方は本当に、自分の意思でこんなことをしたんじゃないんだね?」
「当たり前じゃない!」
私は村紗の手を乱暴に振り払った。喉の奥が閉じていくような感覚があった。今のは村紗の話だ、ずっと昔に死んだ人間の話だ。さとりに関係なんてあるはずが無い。
「私は、さとりさんに聞いたんだけど」
「私がもう聞いてるわ。どうしてこうなったかだなんて、さとり自身にだって分かってないって言ってた。ねぇ、そうでしょう、さとり」
「それじゃあ机の上にあった本は偶然だって言うの?」
村紗は語感を荒げることもなく、まっすぐに私の目を覗き込んでくる。私は言い返せなかった。さとりは何も言わない。私の口からも、私に向かっても。
「……本ってなんのことよ」
「さとりさんを運んでいる間に部屋の中を見ていたら見つけたんだ。交霊術に関する文献だった。他人に意識を移す方法が書いてあった。丁寧にしおりが挟まれていて、そこに書いてある『必要なもの』が、机の下に落ちていた」
私は身体を思い切り回転させて、右半身を引きずるようにして部屋を出た。さとりの部屋には本の山と書類の山とペットの川がひろがっている。それらを全部崩しながら私はさとりの執務机にたどり着き、そこに開かれてた本を見つけた。『今日から出来る! 簡単交霊術!』胡散臭い挿絵と、胡散臭い口説き文句。
「……どういうこと。さとり」
握った拳が震えている。さとりは黙ったままだった。もう此処にはいないかのように。
「──さとり!」
抑えきれずに叫ぶ。こんな馬鹿みたいなことを隠していたことに対しての怒りからもある。だけど、それ以上に、なんでもいいから返事をして欲しかった。黙っていたって仕方が無い、右側の違和感は消えてなんていない。隠れたって隠れられない状態なんだから、おとなしく観念して欲しい。私はどうせ、さとりの持病のくだらない好奇心だと高をくくっていたのに、どうしてこんなことを言われなくちゃいけない。村紗の奴を連れてきたのはあんただ。説明されたのだから反応を返すべきはあんただ。なんで私が村紗からあんなことを聞かなきゃならない。こんな冗談みたいな本で、何で。
さとりだって馬鹿だけど頭が悪いわけじゃない、肉体と精神を分けた者がどうなるかなんて考えないわけがない。
「あんたは知ってるんでしょう? 元に戻す方法を!」
さとりは応えない。知らないわけが無い。知らないままでこんなことをしたのなら大馬鹿を通り越している。
「だから応えて、応えなさい、応えてよ!」
さとりは応えない。意識を集中すれば考えていることがわかる? 思考回路が同じ場所を通ってる? そんなのは嘘だ。私には何も聞こえない。
私は本のページを滅茶苦茶に捲った。何を言っているのか全く分からない文章を追いかけるが、それらしい部分は見当たらない。馬鹿な。そんなことあるはずが無い。知らないままでこんなことをしたのなら、それはただの自殺行為だ。
私は椅子に身体を落とした。さとりは応えない。足元でペット達が喧しく鳴き叫んでいる。蹴散らしたくなったが右足は動かなかった。村紗が何かを言って部屋を出て行くのが見えた。部屋の中にはペットの他には私一人になった。この姉妹はいつもいつも、自分の都合が悪くなるといなくなる。こいしは物理的に、さとりは精神的に。
5
ぼんやりとした意識がしだいにはっきりしていき、私は自分が眠っていたことに気づいた。薄情なことにペット達はほとんどが姿を消している。首を回してから、もしやと思い確認してみたが、身体の不自由さは取れていなかった。だらりと垂れ下がった右手は血が抜けきってしまったように冷たかった。
格好悪い。不貞寝だなんて。
意味もなく、肺が空になるまで息を吐く。空っぽになっても息を吐いた。考えていたことや、焦っていた気持ちとか、全部吐き出して、再び意識が遠くなっていく。そこで反射的に息を吸った。
私は、意味のないことを考えることにした。
水橋パルスィは橋姫で、地底と地上を結ぶ縦穴の番人をしている。嫉妬深い彼女は地上の光を求めて地底を出て行こうとする奴らを許せないのである。そんなある日、力づくで地上へ出て行こうとする輩が現れた。名前は村紗水蜜。地底の街でも有名な荒くれ者である。水橋パルスィは地底と地上の平和を守るため、村紗を橋の上で迎え撃つことを決意する。だがそれがいけなかった。橋の下を通る地下水脈は村紗にとって絶好の戦場だったのだ。水を操る村紗に苦戦するパルスィ、彼女は嫉妬心を操る程度の能力をもった妖怪ではあったが、なんと村紗は精神攻撃を無力化するというチート体質だったのだ。
しかし、なんやかんやでパルスィは勝利した。村紗は水脈に乗ってどこかへ流されていった。街の人々は彼女に感謝した。ありがとうパルスィ! ありがとう橋姫!
しかし彼女は喜ぶことなく黙って姿を消し、いつものように縦穴で煙草の煙を眺めている。彼女が欲しかったのは感謝なんてものではなかった。嫉妬心だったのだ。
己に向けられる嫉妬心。
感謝と嫉妬は表裏一体であることに、彼女は気づかなかったのだった……
「5点」
ようやく、私の口から言葉が出た。
待ちくたびれた。私は乾いた喉で笑った。
「褒めるところが見つからないくらい酷いお話。しかもすごく適当。よくもそんなものが考えられると逆に感心してしまうくらい」
「それでも5点はくれるのね」
「ゼロをあげてしまったら、これ以上酷くなったときに困ってしまうでしょう?」
「あぁ、そう。それじゃあ聞かせてくれるかしらね、今度はあんたの話。せめて5点以上はあげられるものなんでしょう?」
私は言って、目を閉じた。
意識を内側に向けて、首を捻る。
私の台詞は以上。今度はそっちの番。
私は、ため息を吐く。
「村紗さんに言われるまでは、正直自分でも半信半疑でした」
早速口を挟んで悪いが、私の声で『村紗さん』とか言わないで欲しい。虫唾が走る。
「村紗さんが言ったことは彼女の過去であって、私の今の状態には関係ないのかもしれません。だけど、村紗さんの経験は参考になりました。村紗さんのようなことになれば確かに私の身体はすぐに持たなくなってしまうでしょう。精神と肉体というのは本来、離れるはずがないものですから。むしろこうして貴方の身体にたどり着いたことが奇跡的です。まさにあいのちから。未練とかそういうものかも知れませんけどね。そういう意味で村紗さんは」
「さとり」
「彼女は生きる意志を失った身体の話をしました。もしかしたら私は本当は、仕事を終えてすぐに死んでいたのかもしれない。……極論ですけどね。実際の身体はまだ呼吸をしているし、心臓だって動いてます。人間でいうならただの気絶状態です。私は仕事を終えて疲労困憊になり、体力の限界に倒れてしまった。意識を失ってしまった。確かにそれ以前にあの本を読んではいました。興味深い内容でした。誰かの身体に意識を飛ばすなんて、と。だけど、それを実践した記憶はありませんよ。だけど多分、貴方が羨ましかった。妹と一緒にいられた貴方が」
「もったいぶった言い方はしなくていいわ」
「私は、意識が無くなっていたんです」
私は足を振り上げ、椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がった。足元で眠っていた猫が驚いて走っていくのが見えたが、無視して寝室の方へ大股で歩いた。
ドアを開けて、さとりの身体に詰め寄る。運んできた時に気づかなかったのが信じられなかった。さとりは気づいていたのだろうか、どちらにせよ、教えてくれなかったのだから関係ない。
さとりは目を閉じて、気絶していた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
「……あんたって奴は、」
怒りとか、焦りとか、そういうものを通り越してしまって、私はなぜか笑っていた。本当に、冗談じゃない。こいしだってここまで馬鹿なことはしない。こいつは姉だ。悪いところばかり勝っていてどうする。
「倒れるくらい仕事に張り付く羽目になったのも、くだらない本にうつつを抜かしていていつまでも仕事が片付かなかったのも、挙句に疲労でぶっ倒れたのも、元はといえば全部自分が悪いんじゃない。それでこんな風に意識を飛ばして、それで大変な目にあって、怒るよりも早く呆れるわ、まったく」
私の口が何かを言おうとした。私はそれを押さえつけて続けた。
「何で言わなかったの。なんで頼らなかったの。あんたが無理して倒れる理由なんてどこにも無い。まして、それで私に迷惑掛ける理由なんてあるはずが無い。ふざけないでよさとり、こいしに会いたいのなら、這ってでも会いに行きなさいよ。なんで私を巻き込んだのよ」
「だって、」とさとりは言った。
「会いたかったんだもん」
ふざけるな。
かわいこぶるな。
無意識だったから仕方が無い?
笑わせてくれちゃって。
そんなのが許されるのは天国地獄にただ一人。
かわいいかわいい妹だけだ。
6
ベットに腰を落として、私はさとりの顔を見ていた。死んでいるように安らかで、しかし当の本人が隣で自分の顔を見ているのだからやはり気持ち悪い。私はさとりの腕を胸の前で組んでみたり、頬を抓ったりしてみた。当然、反応は無いままだ。
結局、何が原因でさとりの意識がこちらへ飛んできてしまったのかは分からないままだった。あの胡散臭い本の内容なんて眉唾ものでしかない。ふたりで中身を見返してもとても今の状況を作り出せるような代物ではなかった。それなら、さとりが独力で行ったことなのだろうか。それだって仮に事実だと分かっても意味が無い。さとり自身、元に戻す方法なんて知らないのだ。
そう、全ては事故でしかない。
古明地さとりの強すぎる愛が撒き散らした、無意識という名の事故なのだ。
「……ちょっと待ってよ」私は口に出して言った。「勝手に綺麗に終わらせようとしないでよ」
「いいじゃありませんか」私が言い終わってから、さとりが言った。「真実は闇の中へ消えていく。そういうのだって」
「いや、消えていかれたら困るって言ってるんだけど」
「大丈夫ですよ。たとえ古明地さとりの肉体が滅びようとも、魂は生き残り、貴方の中で行き続けますから」
「それが嫌だって言ってるのよ!」
「だけど、もうどうしようもないんですから。それにね、こういう終わり方も悪くないって思うんです。もし身体が滅びて、魂さえ貴方の中で消えていっても」
「縁起の悪いこと言わないでよ、気色悪い」
「私の願いは叶いましたから」
さとりの言葉で、身体から力が抜けていくような気がした。
「……そう、」と、何故かそれだけしか返せない。
「はい」と、さとりも簡素な返事をした。
何故か、それで納得できた気がした。
部屋の外は再び騒がしさを取り戻し始めていた。ペット達の鳴き声が聞こえてきて、そこに人の言葉が混じっていた。人化できるペットの誰かがやってきたのだろう。部屋に入ってみたらさとりの姿がどこにもない、そんなことになっていたら彼女はどんな表情をするのだろうか。
(迷惑、かけちゃいましたね)
(そうよ、ちゃんと謝りなさい)
(村紗さんにも)
(それは嫌。私の口から謝ることになるじゃない)
(そういうわけにはいかないでしょう?)
(……まあ、そうだけど)
私は笑って、最後にさとりの顔に手を伸ばした。
瞼を撫で、頬に触れて、唇に触れた。
ドアが開く音が聞こえて、私は顔を上げた。
そこには、目前に迫る黒い物体があった。
まったく、騒がしいペットだ。
それは迷うことなく、一直線にこちらに飛んできて、
「──って!」
止まらない。
止まることなんて考えていないに違いない。
真っ黒な帽子。黄色のライン。
私は避けようとした。さとりも反射的に避けようとした。
もちろん、それぞれ逆方向にだった。体は左右に分離してくれなかった。
鈍い感覚が頭の中を駆け巡る。
頭骨同士がぶつかった時の感覚だった。
つまり頭突きされたのだろうか。
部屋に飛び込んでくるなり、断りもせずに。
あまりの衝撃に私はベットに倒れ込んだ。紛いなりにも地霊殿の主のベットらしく反動はバネの軋む音に変換されて幾らか柔らぐ。頭突きで突っ込んできたこいしはそのまま私たちの上に倒れ込んできた。起き上がろうとした私に手足を絡めて、顔を埋めてしまった。
「やだ」
とこいしは言った。
「紛らわしいから、やだ」
私は肩を落としながら唸った。帽子越しに手を乗せてゆっくりと頭を撫でてやると、こいしは抱きつく力を一層強めてくる。逃がしてはくれないらしい。
「……だそうよ、さとり」
私は隣を見ながら言った。
見てみなよ、これが全ての理を蹴っ飛ばす言葉だ。
さとり本人の意思なんて関係ない。
さとりがさとりである限り、お姉ちゃんである限り、絶対に蹴り返すことのできないものだ。
それでもあんたは、満足だって言える?
「それなら、仕方がないですね」
さとりは上半身だけ起き上がって、眠たげな視線を私たちに向けていた。それから私の手に自分の手を重ねて、同じようにしてこいしを撫でた。こいしはハッとして体を起こし、さとりの姿を見た。私を見てさとりを見てもう一度私を見て、それからまたさとりを見た。そしてなぜか、頬を膨らませた。
「お腹がすいたよ、お姉ちゃん」
私たちは顔を見合わせて肩を揺らした。
そういえば私たちは、妹の為にシチューを作っていたのだった。
良いお話ですね。コミカルな部分もあって、楽しませてもらいました。
シチューはおいしいですよね。
カレーは辛口が良いですね。