「暇だから遊ぼうぜ!」
「のーさんきゅー」
天界の端の端、民家もなくあるがままに放置された草原。その天然の絨毯に仰向けになって空を見上げていた私。
それを遮るように顔を出した萃香に私は一言で応えると眼を閉じる。
ここの気温は穏やかで風も気持ちいいし、静かで昼寝するにはいい場所だ。
「そんなつれないこと言うなよー。遊ぼうよー」
ぐわんぐわん体を揺すってくる鬼が居なければの話だが。というかマジでやめろ首が取れる。
「ええい、ロリっ娘なのは外見だけにしなさいよ。日曜日の子供じゃあるまいし、うっとうしいわ」
私はまとわりつく萃香を引きはがして、上半身を起こす。彼女は不満そうに私を見ていた。
「だって暇だし。てんこだって暇だろ?」
「てんこじゃねえよ天子だよ。あんたと遊ぶ暇はないの」
「なんでさー」
「遊んでも萃香は本気でやらないでしょ。本気でやらない奴と遊んでもつまらないわ」
強者の自信か余裕なのか、こちらが必死になって牙をむいても彼女はのらりくらりとふざけたような動作で応えるだけだ。それでいて強いのだから面白いわけがない。
私がそう言うと、萃香は困ったように頬を掻いて言う。
「んー、私は遊びで出せる本気でやってるつもりなんだけどな」
「だったらなんで本気の本気でやらないのよ。鬼は手抜きが嫌いなんじゃないの?」
「私がしてるのは手抜きじゃなくて手加減だよ。そりゃあ、私も本気で出来るならしたいけどさ。たぶん、天子でも怪我じゃ済まないよ?」
それでもいいの? と逆に問い返されて言葉を詰まらせる。
ナイフも通さない、魔法も平気な天人の肉体でも、萃香の打撃は『痛い』と感じるのだ。
手加減していて『痛い』のに、本気で殴られたらどうなるかなんてたやすく想像できる。ミンチより酷いことになっても不思議ではない。
「そう言うわけだから、私は遊びの本気でやってるんだよ。だから勝負しようぜー」
そう言って萃香は再び私の体を揺すり始める。だからやめろ首が取れる。
「いーやーよ。服がずたずたになるだけじゃ済まないもの、割に合わないわ」
「じゃあ、割に合えばいいんだな?」
そう言って、背中に張り付いていた萃香は私の前に回って自慢げな表情を作る。
「じゃーん」
気の抜けた効果音と共に取り出される一升瓶。というかどっから出したそれ。
「密と疎を操ればちょちょいとね。で、見返りならこれで十分じゃない?」
勝ったとばかりに不敵な笑みを浮かべる萃香。
確かにかなり上等な酒のようだ。霊夢あたりならすぐにでも飛びつくのだろうが、
「お生憎様。酒なら天界にもそれなりのものはあるのよ」
だからそれじゃあ駄目ね、と続けようとして彼女の様子に気がつく。
普段の無闇矢鱈に陽気な雰囲気は何処へ行ったのか、がっくりと肩は落とされ視線は寂しげに伏せられていた。
「……そうだよね。天子はわざわざ私と遊ぶ必要はないよね」
そう言って、萃香は深い溜息をつく。
これは彼女の本音なのか、それとも構って欲しいが故の演技なのか。
私は普段の彼女からは想像できないいじけっぷりに狼狽していた。傲岸不遜で腹立たしいくらいに自信家の伊吹萃香が子どものように拗ねている。ただ遊びに付き合ってくれないという理由だけで。
その事実は受け入れ難かったが、心の何処かで確信もしていた。これは演技ではなく、本当に彼女は遊んでくれないのが悲しいのだと。
どうしてその確信に至ったのか。自身に問いかけてみるが、はっきりした答えは返ってこない。
ただ、記憶の奥底に一人の少女の姿がおぼろげに浮かび上がる。つまらない、と世界を拗ねた目で見つめていた少女の姿が。
「邪魔して悪かったよ。それはあげる。よかったら今度遊んでくれればいいから」
じゃあね。立ち去ろうとする萃香の手を掴む。私よりも小さくて細い頼りない手だった。
萃香は不思議そうに私を見つめる。私は彼女の瞳をじっと睨み返す。
その少女を思い出して、だから彼女を行かせてはいけないと思った。
伊吹萃香という妖怪が涙をながすのかわからない。けれど、このまま何もしなければ、彼女は一人何処かで静かに涙をこぼすだろう。明日になれば誰にも素振りを見せることはなく、強がった笑顔を浮かべて。
脳裏に浮かんだ鮮明なイメージに突き動かされ、私は言う。
「……今度っていつよ」
「さてね。今以外ってことじゃない。近い未来?」
「今なんて今しかないじゃない。一秒先だって未来よ」
「それはそうだけど……それが? なにが言いたいのかよくわからないんだけど」
「だから、もう『今』じゃなくて『今度』なの」
「……?」
「だから!」
意味がわからないと首をひねる萃香に、私は半ばキレながら怒鳴りつける。
「『今』遊ぶのは嫌だけど、『今度』遊んでもいいって言ってるの!」
「んー……?」
ぽんぽんと頭を突いて思案をはじめる萃香。
いいからさっさと理解しろ恥ずかしいんだよ。
理不尽な怒りを込めた私の視線を受けながら、マイペースに思案し続けること十数秒。その間私の体温は上がりっぱなしだ。
そろそろ体温が限界に達するんじゃないかと思い始めたとき、
「じゃあ遊んでくれるのか!?」
萃香は沈んでいた顔を一気に輝かせて、私に詰め寄る。
間近に迫った顔から視線を逸らしつつ私は応える。
「さっき言ったでしょ。感謝しなさい」
「うん! ありがとう天子!」
皮肉に気がついているのかいないのか、愚直に謝礼を述べた萃香は私の手を握りしめると上下にぶんぶん振って喜びを表現する。
ここまで素直に喜ばれると、こちらとしては感情の処理に困る。
わたしと同じかそれ以上に生きているはずなのに、こういうことに関して彼女は本当の子どもようだった。
「ほら早く始めよう! はやくはやく!」
「わかったってば」
急かす萃香に半ば呆れながら返して、自分の声が弾んでいることに気がつく。
遊ぶ暇はないと言っていたのに、どうしてノリ気になり始めているのだろう。
少しだけ考えてみたが、すぐに思考を放棄する。
暇がなかったのは『今』で『今度』は暇だったから。それだけだ。
◇
数分前には風が草を凪ぐ音だけが支配する世界だったのが嘘のように騒がしい。
所々陥没した大地を私達は駆けまわり、飛び回る。
「っと!」
「うまく避けるねえ。それもうひとつ」
「調子に乗って!」
「強者の特権ってやつさ」
私の体ギリギリを掠める炎弾を最小限の動作で躱し、大地を蹴って間合いを詰める。彼女との間合いは十歩ほど。確実に仕留めるためにはまだまだ遠い。私の弾幕では鬼の力には全て砕かれてしまうだろう。しかし、『相手の気質を見極める』緋想の剣ならば鬼が相手でも致命傷になるはずだ。
だが、近づきすぎるのも良くない。接近戦は彼女の独壇場。相手の攻撃を躱すことができ、尚且つこちらの攻撃を当てることができる間合いを取る必要がある。
そんな都合のいい間合いはあるのか知らないが――やるしかない。
「こっちからもいくよ」
萃香は私と自分との中間点に炎弾を放る。ゆるい放物線を描いたそれは、落下ベクトルが向いた瞬間花火のような音と閃光をまき散らして炸裂する。
私は脚を止めずにそのまま突っ込む。これはただの牽制だ、当たったところで大したダメージはない。ひるんで脚を止めてしまえば、もう一発『花火』を投げ込まれる。そうなれば余計不利な体勢になってしまうだろう。
返しの牽制に要石を数発放つ。螺旋状に突き進むそれは、萃香が腕を振るうだけであっさりと打ち砕かれてしまう。わかっているとはいえ、これには悪態の一つもつきたくなる。
「相変わらずの馬鹿力ね!」
「そんなに褒めなくたっていいのに」
「褒めてない!」
要石を砕くと同時に間合いを詰め始めた萃香との距離は残り五歩。まだ剣の間合いには遠い。
だが、鬼は常識を力で破壊する。
「ほいさっ」
「っこの!」
私はとっさに防御用の要石を前面に展開。瞬間、重い衝撃が要石越しに腕に伝わってくる。
間合いを一気に詰めるダッシュの勢いを慣性に乗せた回転体当たり。ふざけたような攻撃方法であるが、鬼が行ったのならば強力な一撃となる。
この脳筋め! そんな悪態をつく間もなく、さらに腕に衝撃が走る。歯を食いしばり、衝撃が止む瞬間を見計らって腕を振り上げる。
「天罰!」
私の叫びに応えて天から一対の石柱が落下し、私と萃香を分断するように地面に突き刺さる。
その隙にスペルカードを一枚取り出す。これを盾に――
「ならないんだなぁ、それが」
石柱の向こう側から彼女が腕を振り回す気配がした。この石柱ごと砕こうというのだろう。なるほど、たしかにそれだけの力が彼女にはある。
世界のすべての音が鳴り止んだ。剣を握る手はじっとりと汗ばんでいる。体内時間が泥のようにゆっくりと流れる感覚。間近に迫る必殺の脅威に覚悟を決めたから? 断じて否。
足に力を込めて跳ぶ。
力尽くで砕くことはわかっていた。だからこうして冷静でいられる。
石柱の頂点に脚がかかる。
そして、間合いを詰めることが出来たのは萃香だけじゃない。
石柱の下半分が吹き飛ぶ。
この距離は、私の距離でもある――!
残った石柱を踏み台に萃香の真上に跳んで、人一人分の大きさの要石を召喚。霊力を噴出し、ベクトルを下に向ける。
私プラス要石の重量で押しつぶすだけの単純な攻撃だ。それ故に鬼にすら通じる攻撃。
萃香は私を見上げていた――気がした。石柱を砕いた直後、裏をかかれた今なら回避は不可能なはず。
「潰れろォ!」
私の叫びに萃香は、
「うん、そう来ると思ってた」
あっさりとなんでもないことのように、一歩飛び退く。岩を砕く程度、難儀でも困難でもないと言うように。
そして、落下する物体は重力には逆らえない。重力までも武器にしたなら尚更だ。
押しつぶす勢いそのままに、要石は無人の大地を貫く。
「だから、これで終わりだね」
萃香は無邪気に笑って、拳を振り上げる。先ほどよりも込められた力は上なんだろう。力が滾る拳を前に冷静にそう思った。
ああ、そうだ。冷静だ。何故、冷静でいられるかって? それは――
「っ!」
今まさに拳が振り下ろされようとしたとき、驚きに顔を染めた萃香は慌てたように大きく距離をとる。私は彼女に気が付かれないように小さく安堵の息を漏らした。
「どうしたの? 打ってくればいいじゃない」
「……自分から痛い目にあう趣味はないよ」
そう言って、憎々しげな視線をぶつける萃香。その視線の先にあったのは私の右手に握られたスペルカード『天道是非の剣』。あのまま私を攻撃していれば、カウンターでふっ飛ばされていただろう。私に使う気があれば、だが。
「今のタイミングだったら間に合ったかもしれないのに」
「間に合わないかもしれない、だったけどね。ずいぶん駆け引きがうまくなったじゃないか」
「おかげ様でね」
私の挑発に苦々しい顔で応える萃香。どうやら狙い通りの結果になったようだ。
スペルカードは見せるだけで使うつもりはなかった。彼女ならば私が宣言するよりも先に回避するだろう。だから、私の裏を読んでいたつもりだった萃香に、自ら拳を下ろさせることで精神的ダメージを与えることが目的だった。そしてもうひとつ。
「少し舐めていたんじゃないかしら? 私が直情的だから甘い考えで動いていると」
「……かもね」
萃香は唇を噛んで応える。
彼女に本気を出させること。そうでなければ、この勝負は面白くはならない。
もちろん、彼女が気が付かない可能性も0ではないしそのまま打ってくる可能性もあった。そのギリギリでなければ意味が無いとはいえ、かなり心臓に悪い作戦ではあったが――成功したのならそれが全てだ。
「仕切りなおしと行きましょうか?」
緋想の剣の切先を彼女に突きつけ、言う。
立ち振舞いは淑やかに、胸の内は紅蓮のように激しく。
「よく言うよ……。まぁ、勝負はこうじゃないと面白くないからね」
萃香は苦い顔を消し去り、一転して楽しそうに笑う。
それには私も同意だ。一方的な勝負なんてつまらない。互角以上の駆け引きをして勝つからこそ、面白いのだ。
「それじゃあ……」
「行きますか!」
私が要石を放つのと、萃香が炎弾を投げつけるのはほぼ同時。ぶつかりあった二つは破片と炎を撒き散らす。
それを勝負再開の号砲として、再び世界は騒がしくなる。
◇
「いい加減当たりなさいっ!」
「おっと」
怒声と共に空中から放たれた満身の力を込めた要石は、萃香の酔っぱらいのような動作にカスリもせず地面を穿ち、突き刺さる。
「甘い甘い。だんだん動きが単調になってきてるよ」
萃香は物分りの悪い子どもを窘めるようにヘラヘラと笑いながら言う。
その物言いは私の神経を逆なでし、つい叫び返してしまう。
「うるさい! これでいいのよ!」
「よく吠えるお嬢さんだね」
着地と同時に私は緋想の剣を振りかぶる。限界まで、背中に届くと思うくらいまで腕を引く。
それを萃香は怪訝そうな目で見ていた。当然だ、剣の間合いには遠すぎる距離で振りかぶっているのだ。彼女が不審に思うのも無理はない。
ならば何故剣を振りかぶっているのか。その答えは自分の身で味わえ――!
「っわ!?」
再び顔を驚愕の色で染めた萃香は、閃く緋色の刃を鎖を腕に巻くことでガードする。弾かれた緋想の剣は地面に落ちるよりも早く、再び私の手に握られていた。
一瞬だが、動きが止まった――!
私はその隙を逃さず、要石を発射、一気に畳み掛けにかかる。
「っぐ!」
緋想の剣を受け止めた衝撃で動きが止まっていた萃香は、要石を砕いて防ぐことは出来ず胴体に直撃を受け、苦痛の声を漏らす。
(やった!)
この勝負が始まってから初の直撃を与えた私は、心のなかでガッツポーズをする。
成功の一手を担った届くはずのない剣による攻撃。なんのことはない、私はただ全力で緋想の剣を投げつけただけである。
冥界の庭師が聞いてたら卒倒しそうな行為だが、私だって一品物の名刀でやろうとは思わない。緋想の剣を自在に操ることができる天人の能力、実体がない緋想の剣があってこそ可能な攻撃だ。
「もう一発!」
好機を逃すまいと、私は足に力を込め踏み出す――瞬間、背筋が凍る。
冷たい怒気を放つ正体は言うまでもない。プライドを傷つけられた怒りか、油断した自分への怒りか。空間に滾る威圧感は途方も無い。
萃香は強烈な怒りを眼前の敵にぶつけようと、腕に巻いていた鎖を左から右へ薙ぎ払う。
大きく唸りを上げる鎖に思わず舌打ちが漏れる。鬼の腕力に加えて遠心力までプラスされた鎖なんてどんな威力があるかなんて想像もしたくない。
だが、この距離ならギリギリ回避は間に合う。一歩後ろにステップして躱せば、それでおしまい。相手の第二撃よりもこちらのほうが速い。
――しかし、彼女が怒りに任せた攻撃をするのか?
一歩下がって踏み込むために脚に力込めていた私に、もう一人の私が囁く。
伊吹萃香という妖怪はそんなに甘い相手なのかと?
その問には即答できる。否、そんなはずがない。戦闘に関しては最強とも言える鬼が無思考の攻撃を繰り出すなどありえない。
このままでは、負ける。
脳裏に走る直感に、私は緋想の剣を構える。攻撃のためではなく、攻撃を受け止めるための防御姿勢。
右から襲いかかる殺人的な唸り声。そうだ、確かに彼女の鎖には分銅が付けられている。
だが、この音は分銅のそれではない。もっと大きく、重いものが付けられている――!
「っぐぅ!」
こんの馬鹿力め――!
受け止めた緋想の剣ごと砕かれるそうになる錯覚。歯を食いしばって必死に衝撃に耐える。
そのまま食らった勢いに逆らわず、左に吹っ飛び地面を転がることで衝撃を殺す。階段から転がり落ちる蹴鞠のように転がりながらも、その勢いを使って立ち上がる。
荒れた息と体勢を整え萃香を睨む。受け止めた腕は衝撃のせいで痺れていた。今追撃されれば敗北は決定的だ。
なんでもない、あんたの攻撃は効きやしない。そういう顔をするんだ。早く、早く動け。
焦燥感に支配される私を、しかし萃香はただ感心したように私を見るだけだった。
「驚いた。今のを防ぐとは思わなかったよ」
そう言って萃香は鎖を引き寄せ、先に括りつけられていた凶器――愛用の瓢箪――を呷る。私はそれを忌まわしい目で眺めることしか出来ない。
もし、鎖のリーチで回避していれば間違い無く腕をやられていた。折れはしないにしろ、それは決定的な一撃になっただろう。
とはいえ、結果的に言えば衝撃を殺しきれなかった私の腕は痺れている。なのに、彼女が何もしないのは敬意のつもりだろう。
渾身の攻撃を防ぎきった者を追い詰めても面白く無い。決着を付けるのは万全の状態でなければ意味が無い。
「はん、相変わらずムカツクわ。如何にも上から目線って感じで」
「そうかい? そんなつもりはないんだけどな」
本当にわからない、と言うように萃香は頬を掻く。
「自覚ないってのは質が悪い。少しは省みなさい」
「そのまま返すよ。上から目線っていうなら天子も仲間さ」
「私が上にいるんじゃなくて、私が普通であなたが下にいるのよ」
「たいした自信だよね、本当に。私は嫌いじゃないけどさ」
軽口を叩き合っている間に、腕の痺れは引いてきた。万全とは言い難いが、どのみちこれ以上の状態は望めないだろう。
ちらり、と萃香に視線を向ける。二人を隔てる楔のように突き刺さる要石の向こう側で、彼女は腕を組んで挑発的な笑みを浮かべていた。
もう限界? その笑みはそう言ってるように思えた。
「冗談。あんたを張り倒すくらいの力は残ってるっての」
とは言ったものの、これ以上長引けば勝利はない。勝利を掴むのは、今この瞬間しかあり得ない。
私は大きく息を吸って、同じだけの時間をかけて息を吐く。ゆっくりと緋想の剣を天に向かって振り上げる。気質の流れが変わったことを察したのか、薄ら笑いを引っ込めた萃香は鋭い目付きで私を睨む。
「気符『無念無想の境地』!」
咆哮と同時に体を緋色の電撃が駆けまわる。これ自体に意味は無い、ただ覚悟を決めるための儀式のようなものだ。
あらゆる攻撃を耐え、決して怯まず、前へと突き進む。
その覚悟を今決めた。心の中に雑念妄念その他一切なし。あるのは勝利への渇望だけ。
「さあ、鬼退治と行きましょう! 古の大妖の力、私が打ち砕いてみせる!」
萃香は突きつけられた切先を黙ったまま見つめていた。が、突然表情を崩すと心の底から嬉しそうに笑い、瓢箪を投げ捨て叫び返す。
「来なよ天人! 雲の上の存在の力、我が前に示せ!」
陳腐なくらいの挑戦者と頂点者の掛け合い。だが、これくらいでちょうどいい。遊びにはこれくらいの没入感こそが華を添える。
そして、ここから先に言葉は要らない。爽やかな風も穏やかな日差しも必要ない。この場に必要なものは相手を打ち倒したという結果だけだ。
睨み合う間も惜しく、私と萃香は示し合わせたように地を蹴る。
――仕込みは済んでいる。後は詰めるだけ……!
ズン、と大地が小さく鼓動した。
◇
――ここまで出来るとは思わなかったけど、やっぱりまだ甘いね。
地を駆け、こちらに肉薄せんとする天子を前に萃香は思う。
確かにあのスペルカードを使えば打撃には耐えられるだろう。だが、それだけだ。腕力が増すわけでも素早くなるわけでもない。
鬼の腕力で掴んでしまえばそれで終わり。ただ真正面から突っ込んで来るだけなら、なお容易い。
限界に達していないと強がってはいたが、やはり焦っていたのだろう。
駆けながら萃香はスペルカードを取り出し、タイミングを図る。天子との間合いは残り六歩。それを遮るのは地面に突き刺さったままの要石だけだが、この程度なら障害とも言えない。躓いてこけるなんてミスを二人がするはずもなく、ただの読み合い、撃ち合いの残滓。
そのはずだった。少なくとも萃香はそう思っていた。
――もう、剣を振りかぶっている?
それが揺らいだのは、迫る天子を前に気がついた不審があった故。
まだ剣の間合いには遠い。なのに、彼女の体には剣を振り抜こうという力が込められていた。
真っ先に思いついた可能性は、先ほどの投擲。しかし、あれは一度きりの奇襲だからこそ萃香にも通じたのだ。
互いに接近している今やったところで、躱された剣を手元に戻すよりも萃香が捉えるほうが速い。
なのに、何故?
肉薄するまでの僅かな時間。萃香はそれを最大限に生かすために思考を最大稼働させる。
今までの言動、行動、全てを思い出せ。彼女はまだ何かを、切り札を持っている――!
『甘い甘い。だんだん動きが単調になってきてるよ』
『うるさい! これでいいのよ!』
要石を躱したとき、これでいいと彼女は言った。その要石は直線上にあり、剣は今にも振りぬかれようとされている。
ズン、と小さく大地が揺れる。体勢を崩すこともない、思考を集中させていなければ気が付かなかった微小な揺れ。その瞬間、眼前の要石が風船のように一回り膨らんだのを萃香は見た。
◇
勝った! 躊躇いなく真っ直ぐ突っ込んでくる萃香を認めた瞬間、私はそう確信していた。
萃香までの距離は三歩。緋想の剣が届く間合いではないし、二度は奇襲も通じない。
同じ奇襲ならば、の話だが。
「おおぉおおおお!」
右手に構えた緋想の剣を振りぬく。だが、斬り裂くの萃香ではない。私が斬り裂くのは眼前に突き刺さる要石だ。
緋色の剣閃が要石を袈裟斬りに斬り裂く。瞬間、要石に蓄えられていたエネルギーは爆発的に大地を揺るがす。立っていられないどころか、弾幕の余波で吹き飛んだ草々が舞い上がるほどに激しく上下に揺れ、大地は隆起する。そして舞い上げられるのはこの場にいる者も例外ではない。
「――――!」
叫びを掻き消す怒号をあげる大地は萃香の身体を跳ね上げ、その身体は無防備に晒される。
自分よりも強く、経験もある相手に勝つならば不意をついて隙を作るしか無い。
『天子は一撃を無理やり耐えて、返しの一撃を見舞う』。萃香はスペルカードを使い、真っ直ぐに突っ込む私を見てそう思い込んだ。
それこそが私の狙い。敢えて、敢えてだ。力を込めた要石を外し、大地を揺るがす爆弾とし、悟られないように真っ向勝負に持ち込む。
そして、この瞬間を待っていた。どんな強者であろうと不意を突かれれば体勢を崩す。空中に跳ね上げられるなんてことになれば尚更だ。
後は、トドメだけ――!
「要石『天地開闢プレス』!」
私は吠えて、宙に投げ出された体勢の萃香に向かって跳ぶ。
当身でさらに体勢を崩し、最大級の要石で押しつぶす。如何に鬼と言えど、この攻撃で倒れないわけが――
「危なかった。本当に危なかったよ」
揺れる大地の鼓動が響く中で、心底感心したような声が聞こえた。
ぞわっと全身が総毛立つ。
そんなはずはない、あり得ないと否定するが確かに声は聞こえている。
「ギリギリだったけど、なんとか気がつけた。ここまで私を苦しませるなんて大したもんだよ」
宙に投げ出されたはずの萃香は一瞬で体勢を立て直し両手を突き出す。それを突進する私が避けられる訳もなく、吸い寄せられるように抱きとめられる。
こうなってしまえば、私に為す術など残っていない。抵抗は一切無意味。骨が軋むような締め上げに苦悶の声を漏らすことしか出来ない。
裏をかいたつもりで裏をかかれたのは私か――!
せめてもの抵抗として間近に迫った萃香の顔を睨む。彼女は、腹立たしいくらいの笑顔で応えた。
「っかは……この……!」
「てんこが要石を切り裂くのと同時に跳んで不意を突かれたように見せかける。駄目押しに仕掛ける攻撃を逆に掴む。とっさだったけど、間に合って良かったよ」
だから、てんこじゃなくて天子だって言ってるだろ――!
私が叫び返す間もなく、
「萃鬼『天手力男投げ』」
意識は闇に落ちた。
◇
「よっ、おはよう」
意識が戻った私が最初に見たものは、こちらを覗きこむ萃香の顔だった。
周囲は闇に包まれ、空には月が登っている。どうやら随分と長い時間気絶していたようだ。
「おはよう。もう夜みたいだけどね」
私は体を起こそうとして、走った痛みにそれを諦める。
そろそろと腕を上げて、身体を確かめる。服は破けているが、何処も骨折していないのは幸いと言ったところか。
それを見て萃香は心配そうに訊ねてくる。
「怪我、してない?」
「ん、大丈夫よ。痛むところはあるけどすぐ治るから」
「そっか。よかった」
ほっと、安心したように息を吐く萃香。だったが、すぐに意地悪そうな笑顔になってこちらを覗きこむ。
「……なによ」
「いやぁ、寝顔、って言っていいのかな? まあともかく寝ているところは天人様も可愛いんだなっと」
「げっ」
言われてやっと気がつく。私が枕にしているのは萃香の脚だ。
慌てて起き上がろうとするが、走った痛みに逆戻りすることになる。
「あいだだ……」
「なーにやってんのさ。いいじゃん、大人しく休んでなよ」
「うう……負けただけじゃなくて寝顔を視姦されるなんて……」
「……なんか云われのない罪が加わってるけど、まあいいや」
そう言ったきり、萃香は何も言わずに夜空を見上げる。
私も何も言わずに星を数えることにする。この体勢は恥ずかしかったし、はやく解放されたかったが言って聞くような彼女じゃない。
それに、まぁその、枕にするのはちょうどよかったし、萃香が私を気遣ってくれるのは嬉しかった。
たとえ、負けた相手に対する情けであっても、このむず痒い感触は悪いものとは思えなかった。
「……負けちゃったわね、私」
数えた星が百を超えたあたりで、未だ夜空を見上げ続ける萃香に語りかける。
そうだね、と萃香は一言応えて私の髪を指で撫でる。
「だけど楽しかった。負けたのに悔しくないって言うか、いや悔しいんだけど、なんかすっきりした」
「私だって楽しかったよ。久しぶりに思いっきり暴れたし、天子は強くなったしね」
「私が強くなると嬉しいの?」
「そりゃね。競う相手がいないとつまらない、鬼ってのは一人じゃ生きていけない生き物なんだ」
要するに寂しがりやの構ってちゃんてことさ。
萃香は自虐的な台詞で〆る。
「一人じゃ、ね……」
萃香の言葉を反復して、考える。
なんだ、それなら私も同じだ。
幼いころから何も変わってない。誰も遊んでくれないのが悲して悔しくて、世界を拗ねた目で眺めていた。
一人でも平気だと強がっているうちに、本当にそんな気になっていた。
天人であることを笠に着て、周囲を自分と付き合う価値もないと見下すくらいしか私に出来ることはなかった。
だけど、結局私は一人が嫌な寂しがり屋の構ってちゃんだ。何かと理由をつけて一人でいることを正当化してただけ。
現に、こうやって萃香と『遊んだ』ことが楽しくてしょうがない。あれだけ面倒だなんて言っていたくせに。
「私もあなたと同じってことか」
「まあ、類友ってとこだね。私は自覚があったけど」
ため息混じりの私の言葉に、萃香は苦笑いで応える。
「だけどさ、付き合って欲しい時に付き合ってくれる相手なんて一人いればいいもんさ。で、私には天子がいるし、天子には私がいる。それはそれは幸せなことなのでしょう」
「それ、紫の真似?」
「うん。似てる?」
「ぜんぜん」
笑顔で応えて私はゆっくりと体を起こす。所々痛むが、痛みはだいぶマシになっていた。
とは言え、まだまだ座っているのもつらいことには変わらない。変わらないので、
「天子?」
不思議そうな顔をする萃香の左肩に自身を預けるように身を寄せる。
「お酒」
「えっ?」
「お酒飲むのに寝っ転がったままじゃ飲めないでしょ。それだけよ」
すぐ隣りに座る萃香は、ぼけっとこちらの顔を眺めていた。
私は視線を逸らしたら負けたような気がして、彼女の瞳に映る自身を睨み続ける。
……夜であったことを感謝しよう。そうじゃなければ、すぐにでも逸らしていただろう。
「……うん、そうだね。飲もうか」
嬉しそうに、弾んだ声で応えた萃香は何処からともなく、一升瓶と一組の猪口を取り出す。
ゆっくりと猪口に注がれていく水面は、月の光を吸い込んで神聖とも思える輝きを持っていた。
「はい。さあ、目一杯楽しもう」
猪口を差し出す萃香の表情は、この場の空気までもが肴だと言うように、歓喜と期待に満ちていた。
自然と受け取った私も頬がゆるむ。
だって、本当に嬉しそうに彼女は笑うんだ。それで嬉しくならないわけがない。
「そうだ、せっかくだから衣玖とかも呼ばない? 多いほうが楽しいでしょ」
私の提案に、萃香は困ったように頬を掻く。いつもはすぐに答えを返す彼女が珍しく迷っている。
揺れるように動かす視線と一瞬交差するが、すぐに逸らされてしまう。
何か彼女を困らせることを言ってしまっただろうか?
「んー、それもいいけどさ。この一本が飲み終わるまでは二人で飲まない?」
萃香は私と視線を合わせないまま、夜空を見上げたまま言う。
どうして、と聞き返そうと口を開こうとした瞬間、右手に躊躇うように触れるものがあった。
細くて小さい、いつもは力強い萃香の左手が私の右手に重ねられている。
それに思わず息を呑む私。萃香は何も言わずにただ夜空を仰いでる。
しかし、薄栗色の髪から覗く耳は赤く染まっているように見えた。
私は小さく深呼吸して、彼女の細い手を握り締める。
それに萃香はびくりと体を震わせたが、すぐに同じように握り返してきた。
それから私たちは何も言わずに猪口を傾ける。月の色を輝かせる酒を飲み干して、右手に伝わる彼女の体温を感じて――
この時がいつまでも続きますように。
柄にもなく、そんなことを星々に祈ってしまうくらいにこの場の空気は心地よかった。
そっと隣を窺うと、示し合わせたようにこちらを窺う萃香と目があう。二人で同時に動きが止まって、同時に吹き出す。
「今度は私が勝つからね、酔っぱらい鬼」
「そうしてほしいもんだね、寂しがり天人」
勢い良く猪口をぶつけあって笑い合う。
今宵は幾度も過ごした夜の中で、最高のものになるに違いない。
心の底から笑い声を上げながら、私はそう思った。
駆け引きが格好よかったです
うれしい!
それと独壇場ですが、ただしくは独擅場どくせんじょうです!
天道はほんま優秀やでぇ…
非想天則やりたくなってきた。
さわやかさとほんのりとした甘さがよかったです。