Coolier - 新生・東方創想話

紫陽花色の人形遣い

2011/08/02 01:09:16
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#1


「私の帽子がな、無くなったんだよ」


 梅雨時の晴れはとてもありがたい。ただ洗ったまま部屋の中に積まれている、一向に乾く気配を見せない洗濯物の山を外で干すことが出来るからだ。 
 桜は散り、華やかな花々が咲き誇った季節から、見ているだけで幸せになれるような、元気という言葉を体現する花々が顔を出す季節への変わり目。まさに梅雨時のここ一週間程、雨は降り止む気配を見せることはなかった。その所為で私はまだ生乾きの服をご主人様に着せられる事となり、ご主人様も渋々、苦汁を舐めるような顔を見せながら湿っている服に袖を通していた。
 そろそろ貴女の服を作る必要があるかもね、なんてご主人様が私に話しかけていたのを思い出す。昨日からご主人様は本格的にその思案を実行に移す為に計画を立てていたところ、でのこの晴天だ。私の心も弾む。

 「……で、私にどうしろってのよ」

 ご主人様も私と同じ気持ちだったようで、普段は見せないような軽やかなスキップで洗濯物を抱えて外へと飛び出していった。そうして家に戻ってくると、確かに洗濯物は腕に抱えていなかったが、もっと厄介な物を抱え込んできた、のは言うまでもない。ご主人様は先のステップが嘘のように陰鬱な顔で、それは最近ずっと私が眺めていた空が曇っているような表情だった。私の心も沈む。
 対照的に、あからさまに元気そうに見える魔法使いの表情。もし魔法使いで無い者がこの顔をしていれば、それは空元気なのではないかと疑ってしまうほどに明るい顔を見せている。雨の日には似合わない表情だが、晴れの日にされても鬱陶しいだけだ、と私は思った。今まで雨が長く続いていたから、気付く事でも無かったが。

 「だからさあ、アリス」

 そう言いながら人指し指をピン、と立てる魔法使い。まるで名案が思い付いたかのような表情だったが、今私が一番気になっているのは、果たして洗濯物全て無事に物干し竿にかける事が出来たのか、という事とご主人様のスキップが果たして魔法使いに見られてしまったのかどうか、この二点だ。

 「お菓子と紅茶を出してくれ」

 

 「……それ、いつも通りじゃない」


 はぁ、と大きなため息が聞こえる。






 「上海」
 
 ご主人様が私の名前を呼んだ。魔力で出来た糸から命令が伝わり、私の体が動き始める。ご主人様が私に下した命令は「魔理沙に紅茶と菓子を出すこと」。普段からよくある命令だったが、今日はいつもと違ってそこに棘を感じることは無かった。棚に腰掛けていた私の身体がふわり、と浮く。この妙な浮遊感にもいつの間にか慣れたものだ。
 私の身体は台所へ向かい、先ほどご主人様が淹れた紅茶が入っているティーポットからカップへと注ぐ。そして作り置きされたクッキーの瓶の蓋を開けて、紙を敷いたお皿へと幾つか載せた。

 「で、アンタはどこで帽子を失くしたのよ」

 居間の方からご主人様の声が聞こえる。どうやら、魔法使いの相談に乗るらしい。

 「んー……、どこで失くした、っていうか……家?」
 「……家?」
 「あー何て言うか、昨日雨だったろ? そんで、帽子を家に置いておいた……気がする」
 「いやに不明瞭ね」
 「あー、うん……。あんまし覚えてないんだよな、私にも色々あったし」
 「というか魔理沙、昨日雨が降ったっていうのに家から出て行ったの?」
 「ちょっとな。こーりんの所と図書館に用事があったんだ」
 「また泥棒したの、アンタ」
 「……いや、昨日は特に何も」

 私は用意したそれらを、トレイに載せる。調理場に向かっている私の身体は元来た方へと方向を変え、滑るように動き始めた。

 「そう、ならいいんだけど。……で、何で私の所に来た理由は何よ」
 「それならちゃんと覚えてるぜ。さっきも言った通り、私は帽子を落としたのか盗まれたのか分からないんだ」

 二人が見える位置まで来る。玄関の扉側、いつもの位置に魔法使いは腰掛けていた。ご主人様も窓側の特等席に座っている。

 「つまり、全く手がかりが無いと」
 「その通り。んで、手詰まりになったんで、いつも通り落ち着いて人から物をあやかろうと思ってな……っと、上海せんきゅー」

 魔法使いとご主人様が対極して座るテーブルの真ん中辺りに、持ってきたティーカップとクッキーの皿を置いた。
 私はご主人様の命令を実行し終え、所定の位置である棚の上に腰掛ける。途端、体は重くなり、腕は重力に負けてだらしなく下がる。体は動こうとする意思を失くしてしまった。

 「それで私も、いつも通りたかられてるのね……。一発殴りたい気分だわ」
 「ん、何か言ったかアリス?」

 ご主人様の呟きを、テーブルの中央に置かれた紅茶とクッキーに手を付けながら聞き返す魔法使い。その問いにご主人様が答えることは無く、魔法使いも言及せずに紅茶を口に付けた。

 「……っ、ふぅ。やっぱいつも通り旨いぜ」
 「当たり前でしょ」

 
 それから、ご主人様と魔法使いの間に何ら変わった言葉が飛び交う事は無かった。ゆっくりと、二人の間に時間が流れていく、至っていつも通りの光景。

 ……魔法使いの帽子が無い事を除いては。






 

 「そんじゃーな、アリスー」

 外から魔法使いの声が聞こえた。直後、空を切る凄まじい轟音。相変わらずではあるが、毎度毎度彼女の速度には驚かされてばかりだ。
 バタン、と戸が閉まる音。魔法使いを見送ったご主人様が再び家に戻ってきた。
 窓から傾いた日が差し、ご主人様の横顔を照らす。それはご主人様の顔に影を生んで、まるで寂しそうな表情を作り上げる。

 「……さて、と」

 こちらへ向き直るご主人様。その表情は普段通りの毅然と澄ましたご主人様の表情だった。私が見た先程の顔は、やはり錯覚のようなものか。そう考えるのが妥当だろう。又、それは不自然な事でもあるのだが。
 ご主人様が私へと近づいてくる。何か私に命令でもあるのだろうか? そう思い、少し身構えた気分でいると、ご主人様の目線はだんだんと下がっていく。
 ……ああ、そうか。ご主人様は私ではなく、私の腰掛けるこの棚に用があったんだ。恥ずかしい気分でいっぱいになる。勘違いが誰にも気付かれないのが、せめてもの救いだろうか。

 「…………はぁ」

 棚の戸を開いて、ご主人様は溜め息を吐いた。魔法使いの前で見せた物よりももっと、深く、暗い溜め息。
 私のこの位置からじゃあ、ご主人様の見据える物は見ることが出来ない。だけど、私はそこに何があるか知っていた。
 本来ならばこの部屋に在ってはならず、先ほどここを発ったばかりの魔法使いの頭に載っていなければならない物。


 黒く、闇に溶け込むような帽子が一つ、あるだけだ。
 




 


 #2



 思えば私は昔から、人の物を隠す癖があった。


 「アリスちゃん」

 私がまだ幼く、魔界で暮らしていた頃の話だ。私が母と慕う神綺の髪飾りを。

 「ねえ、私の髪飾り、知らないかしら」
 「知らないよ」

 髪飾りを、盗んだことがある。

 
 この部屋の机の中に、キラキラと自ら発光しているかと錯覚するほどに眩いそれは隠してあった。母は私の事をきっと信頼しているし、まず間違いなく利益の無い嘘は吐かない、と思い込んでいるだろう。つまり、神綺の手によって髪飾りは絶対に見つける事が出来ない。
 ……そう分かっていても、私を襲う不安と高鳴る鼓動は抑えられない。
 嘘を吐く、という行為。それだけで視界は今にも反転し、この二本の脚は私を支えきれずに倒れてしまいそうになる。それは全て罪悪感から来ているものなのだろうか。私は神綺の目を見つめた。

 「……念のために、少し探してもいいかしら」
 「うん」

 スリル。

 幼い私には、このドキドキが堪らなかった。

 
 そうして、神綺は私の部屋の捜索を始める。とは言っても、ベッドの下や髪飾りの入った机の中といった場所まで探すことはせずに、表面上の確認だけで終わってしまった。

 「うーん……、何処に失くしちゃったかなあ……」
 「お姉さま達の部屋は?」
 「もう先に探しちゃったわ……。ああ、こういう時になって馬鹿デカい空間にしなきゃ良かったなんて後悔するんだわ……」
 「お母さん」

 私は諭すかのように、優しく母に声をかけた。

 「きっとこの部屋には無いと思うよ」
 「後は私が一応探しておくから」
 「お母さんは他の所、探して来たら?」

 優しく、嘘を吐いた。
 
 「……そうね、それじゃあお願いするわ、アリスちゃん」

 ___嘘が優しいのかは、知らなかった。
 
 「うんっ」

 返事を返す。元気よく。バレナイヨウニ。
 










 視界が、ぐにゃりと歪んだ、瞬間、私は理解する。

 これは、「夢」だ。






 「……頭痛い」

 昔の事を夢見たのは、初めての経験かもしれない。ただ単に私が覚えていないだけの可能性だって、十二分に有り得るが。

 「上海」

 そう言いながら、右手の中指に巻きつけておいた糸に魔力を送る。すると、一体の人形がフワフワと浮いた体を揺らしながら私の元へとやって来た。

 「コップにお水と、後……胡蝶夢丸をお願い」

 外からはまだ日が差していない事に気が付き、お水の他に注文を付け足した。それでも文句一つ言わずに台所へ向かう上海。私のお願いを聞いてくれるのは、私が操っているから当然の事なのではあるが。

 「…………私はまだ、子供なのかしら」

 幼少期の思い出したくない記憶を、よりによって夢で再生する羽目になってしまった。気分は良いと言える訳が無く、むしろブルーだ。
 昔は髪飾り。今は帽子。盗んで、隠して。

 これじゃあ、魔理沙と何ら変わらない、泥棒まがいの魔法使いじゃない。

 そう口に出そうとして、止めた。声に出したらもっと自己嫌悪に襲われそうだったから。

 「シャンハーイ」

 悲しげな声が私の耳に届く。いつの間にか、頼んだ品を手にした上海が私の隣に居た。

 「……大丈夫、何でも無いわ。ありがとね」

 右手を伸ばして、上海の頭を撫でる。さらさらとした金髪が手に吸い付くようで、まるで人形の様には思えない。
 空いている左の手でコップを受け取り、頭の上に置いた右手で胡蝶夢丸の入った袋を受け取った。役目を終えた上海は、いつもの棚の上へと戻っていく。
 私は胡蝶夢丸を口に含んで、コップに口を付ける。水と一緒に舌の上に置かれた丸薬を飲み込んだ。

 「……これで、ちょっとはましな夢が見られるかしらね」
 
 私は起こした上体をもう一度ベッドに横たわらせて、頭まで毛布で包み隠すように潜り込んだ。

 
 今度こそ、良い夢が見られますように。


 「……おやすみなさい」











 #3



 「おはようだぜ」

 こんな科白と共にドアを相変わらず強く蹴飛ばす物だから、ご主人様が今さっきまで私の服を縫っていた両手は完全に止まってしまった。
 もう正午を回っている時刻に何を言っているのだこの魔法使いは、というような顔をしているご主人様と私。とは言っても自由自在に私の表情が変わるわけでもない。ご主人様がきちんと私の表情まで操って、それを魔法使いに向けているのだ。

 「なんだよ、二人揃って。私の顔がそんなにも見目麗しいか?」
 「……アンタ、今起きたの?」
 「ああ、ちょっと寝過ぎたな。確かに」
 
 至っていつも通りでおかしな事など一つも無さそうに返事をする魔法使い。ご主人様は呆れた顔で溜め息を吐いた。
 確かに魔法使いにしても、こんな時間まで寝ているのは不健康極まり無い生活ではあるが、逆にご主人様が規則正しい生活過ぎる節もある。つまりはご主人様の常識外なだけで、偶にそんなことがあっても人間おかしく無いと私は考えるのだが、そんな意志でご主人様の操りを止める事が出来る訳など無く。

 「シャンハーイ……」

 ご主人様の溜め息をなぞる様に呆れ声が再生される。それから思い出したのは、ご主人様が人間で無かった事だった。



 


 「……一緒に帽子を探して欲しい、って?」

 私は先日魔法使いが来た時と同じように台所へ向かった。勿論、ご主人様の命令に沿って、だ。

 「ああ。あれから近くの森を駆けずり回ったり家を引っ繰り返してみたり霊夢の所でお茶を啜ってみたりしたんだがな」
 「成程、そんな余裕があればそりゃあ出てこないでしょうね」

 いつも通りの手慣れた手つきで紅茶の入ったティーポットをカップへ注ぎ、クッキーをお皿に______。

 「結構切羽詰ってるんだよ。息抜きしないとやってらんないぜ」
 「へぇ____、ってあれ?」

 どうやら、私に下した命令が上手く実行されない事にご主人様も気づいたらしい。私は腰掛けているご主人様の方まで近寄っていく。

 「……もしかして」
 「シャ、シャンハーイ」

 私の中から聞こえる、焦るような声。ご主人様は「ちょっと」と呟くように魔法使いへ言い残してから、テーブルに手を付け、立ち上がるために椅子を引いた。床と椅子が擦れた時特有の音が私の耳まで届く。

 「シャンハーイ」

 私の身体はご主人様の方を向き、左手でクッキーが貯蔵されている瓶の方を指しながら、そちらへ誘導する様に動く。

 「……ああ、やっぱりなぁ」

 ああ、「貯蔵されている」というのには少し語弊があった。正しくは、「貯蔵されていた」クッキーの瓶。
 ご主人様は右手で髪をクシャクシャさせながら困り顔でその瓶を見つめている。

 「仕方ない、か」

 そう言い終えると、ご主人様はその場にしゃがみ込んでキッチンの棚の戸を開けた。前に買い置きした小麦粉を探しているのだろう。

 「……あれ」

 ゴソゴソ、と聞こえる物音は段々と大きさを増していく。周りの床には綺麗に整頓されていた筈の調理器具や調味料がバケツを引っ繰り返したように積み上げられていく。

 「____ない」

 最後にご主人様の手に掴まれていたのは、奇しくも「砂糖」と書かれた袋だった。


 

 「……魔理沙、ごめん。クッキー切らしちゃったみたい、小麦粉も無くって作れないわ」

 あはは、と快活に、それでいてどこか申し訳なさも含んだ笑い顔でご主人様が言った。一体この傲慢な魔法使いのどこに申し訳なさを感ずる必要があるのだろうか、と私は思わずにいられない。いくら主人と使いと言えども一心同体では無く、私には到底理解できないような事も多々ある。
 
 「…………ま、そういう事もあるよなぁ」

 魔法使いは自らの頭に載せた帽子の鍔を握り、深く握ろうとする。しかし、そこに帽子は載っておらず、手はそのまま何も握ること無く彼女の眉間辺りで動きを止めた。

 「私だってそーいう事はある、仕方ないぜ。アリスは悪くない」

 同じような台詞を二度繰り返しながら、魔法使いは一瞬だけ複雑な顔を見せた。
 ___いや、もしかすると見間違いかもしれない。今はそんな素振りも無くただ堂々と人の家で紅茶を啜る魔法使いの表情だ。それでも何故か、私はその一瞬を忘れる事が出来なかった。理由はさっぱり分からない。

 「って、そうだよ。私は別に今日こんなことをしに来たんじゃないんだ」

 正直言って、そんな事を深刻に考えるような私でも無いのは事実だ。他人がどうであろうと、思い馳せるのは一瞬で事足りる。
 私は再び、話に耳を傾ける事に集中する。

 「……何よ、じゃあ別に謝る必要無かったじゃない。損した」
 「おいおい……」

 そりゃあないぜ、と言わんばかりの顔を見せながら肩をすくめる魔法使い。そんな仕草を見てか、やっとご主人様の顔に心からの笑みが浮かんだ。

 「で、何しに来たのよ」

 ご主人様はまだ口元を緩めながらそう訊いた。

 「ああ、いや。まあ、少々手伝って欲しい事があるんだよ」
 「魔法の実験とか? 今は手が空いてるから……」
 「いや、まあ、手伝ってくれたりするのは毎度助かってるんだが、そうじゃないぜ」
 
 魔法使いは少しだけ俯いてから、ご主人様へと真っ直ぐ向き直った。その表情に、いつものへらへらとして少し人を小馬鹿にするような気持ちは見受けられない。ご主人様の糸から少しだけ、期待と緊張の入り混じった感情が伝わる。

 「帽子を探して欲しいんだ、一緒に」



 ご主人様の動きが止まった。


 それは一瞬だったのか一秒だったのか、或いはもっと長い時間だったのか。少なくとも私には、ご主人様の心情にさまざまな思いが浮かんでは消え、消えては浮かんだのだのではないかと、勝手な想像をする。私とご主人様を繋ぐ糸からは何一つとして感じうける物は無かったが、そんな私の考えのせいでそんな風に、まるで走馬灯のような感覚を覚えたのかもしれない。現に、私の耳に届く部屋の時計が刻み続ける針の音は歪んでいなかった。

 「____ぼうし、を?」

 ご主人様の綺麗な声が、いや、「綺麗過ぎる」声が慎重に、丁寧に音として空気を震わせる。私にはそれがどうも、不安定でズレのある物にしか聞こえない。
 しかしその発音には何の違和感もない。それどころか、先ほどまでおかしいと感じていたご主人様の声は至って普通であるとしか思えなくなる。実際そうなのだろう。

 「……勝手すぎるよな。ごめん、忘れてくれ。別に自分一人でだって探せないことは無いと思うし」

 先入観。その言葉が脳裏を過ぎる。
 この部屋の棚の中に、全ての真実が隠されている事を私は知っている。大袈裟かもしれないが、きっとそんなくだらない事のせいで先の台詞も変に捉えてしまっただけなのだろう。
 魔法使いはまた、いつものように後ろ頭を右手で掻きながら照れ笑いを浮かべている。

 「いや」

 ご主人様の声がした。

 「私も、行くわ」

 その視線は、魔法使いとぶつかっていない。ご主人様から見て右斜め後ろにある、あの棚を気にしているように見えない事も無い。が、それも先入観に過ぎないのだろうと私は一人結論付けた。

 「……ほら、小麦粉切らしちゃったし。ついでに、ね」

 ご主人様はあくまで「魔法使いの為」では無く「小麦粉の為」である事を強調する。それが自然な事だろう、そうでなければ只の興味本位くらいでしか動くような理由も無いだろうが、そういったことで一切動く事が無いのは魔法使いも承知の筈だ。
 しかし、そんな事をする位なら誘いを断ればいいのではないか、とも私は思った。今、特段自らが怪しまれている訳でもないだろうに。____もしかすると、ご主人様は自分が帽子を盗んだことに気づいて欲しいのだろうか? いくら糸で繋がれているからとはいえ、そこまでの本心は読み取ることが出来ないので、推測の域を出なくはあるが。

 「…………そっか、うん。助かる、ありがとな」

 少しだけ言葉に詰まりながら、魔法使いはそう言った。二人の間には少しだけ重い空気が流れている。
 会話はそこで途切れた。ぷつり、と音が聴こえる。立てたのは、机上に置かれていた服になる筈の布が落ちて切れた糸だ。その内に、釣られるようにしてもう一枚の布も滑り落ちる。私はただ、その二色の布とそれに繋がるべき垂れた二色の糸とを眺めていた。二人から、視線を逸らすように。




 「それで、アテはあるのかしら?」

 二人はいつも通りの椅子に腰掛ける。いつもと違うのは、テーブルに紅茶の入ったカップしか乗っておらず、クッキーが置かれていない事だ。因みに、私はいつもの棚の上にいる。

 「アテ? んー、……例えば?」
 「あんたね……、自分で探しに行くって誘っといて無計画なわけ?」
 「あー。まあ適当に探せば見つかるような気もしてるからなー、ここじゃあ」

 魔法使いはまるで、自分の帽子の居場所を既に特定しているかのような言い振りである。ご主人様はいつものように、少し呆れた表情を見せた。

 「……いい、あのね?」

 軽く溜め息を吐きながらご主人様が席を立つ。そして、私の置かれた棚の辺りまで来てから、私を右手で優しく拾い上げるように持った。
 その時、魔法使いに背を向けた形になったご主人様の目線が少しだけ、誰にも悟られないように下を向いたのを私は見逃せなかった。ほぼ無意識の行動なのだろう、しかしほんの些細な動きが私の端々を射止める。何故、だろうか。
 ご主人様は直ぐに向き直り、私を掲げて魔法使いに見せる。少し眉をしかめる魔法使いの顔がまじまじと見て取れた。

 「これは?」
 「…………は?」
 「これ」
 「……人形。上海人形」
 「ご名答」

 それじゃあ、とご主人様は口に出しながら椅子に座った。私を目の前のテーブルに、大切そうに横に倒して置く。丁度魔法使いから、スカートの中が見えてしまいそうな位置で少し恥ずかしかった。

 「これ、何が元になってると思う?」
 「おいおい、一体何の押し問答だよ、急に」
 「いいから答えなさいよ」

 有無を言わせないような強い語調で、ご主人様は魔法使いにほぼ強要させる形で答えを求める。一体何の意図があるのだろうか?

 「……人、か? 人の形って書くくらいだし」
 「その通り。つまり私が言いたいのは、人形も、無論魔法だって形から入るのが基本なの。でしょ?」
 「ああ……って、それが何なんだよ」

 私にも、まだご主人様の言わんとする事が理解し得難かった。見れば魔法使いも頭の上に疑問符を浮かべた様な表情だ。
 ご主人様は、少し誇らしげに背筋を伸ばして口を開いた。

 「無論、物探しにも例外は無いわ」



 「……それは少し無茶な理論だぜ」

 私もそう思う。




 要は、ご主人様の言う「形」というのはどうも、魔法使いの「帽子を失くした日の行動」と言う物に置き換える事らしかった。
 それならば道理に適っているとは思う。思うのだが、何でもかんでも例えに自分の専門の魔法や人形を絡めるのは如何なものかと、人形の私が感じるのも何だか被虐的で少し愉快だった。

 「で、最初に向かった場所は何処よ? ……でもその前に貴女の家に寄った方がいいのかしら」
 「あー、確か香霖堂だったと思うぜ。あと私の家には行かない方が良い。今日一日の用事が掃除一色になる」
 「……そう。じゃあ霖之助さんの所に向かいましょうか」
 「…………なんだよ、今の間」
 「何でもないわ」

 ご主人様がそう言ったのとほぼ同時に、二人は席を立った。いや、少しだけご主人様の方が早かった気もするが誤差の範囲内だろう。
 魔法使いは立て掛けて置いた箒を手に取り、ご主人様は本を左手に、右手で私に対して「付いてくるように」という命令を出した。私の身体がふわり、と浮く。初めはこの浮遊感にもなかなか慣れなかったものだったが、それは速さが足りなかったからだと気づいたのは初めての弾幕ごっこの時からだろうか。あの疾走感を肌で感じてからは、飛ぶことに対する抵抗を忘れてしまったように思える。

 魔法使いが扉を開けた。外は曇り。雲は層のように重なっているのか、暗く少しだけ湿っぽさを感じる。いつ雨が降ってもおかしくなさそうな天気だ。
 ご主人様が魔法使いに続いて、私は最後に扉をくぐった。それから、ノブを掴んで扉を閉めようとする。扉に鍵をかけないのは、こんな森の偏屈な家に泥棒などやってこないからである。
 今まで何も盗まれた事もないしね、とご主人様が言っていた事を思い出しながら扉を締め切った。バタン、と言う音が聞こえる。

 一路、古錆びた小道具屋へと私たちは向かった。
 私はあの場所が好きだったので、それは少し嬉しい事だった。口には出せない。









#4



 
 「はい、紅茶です。今日はハーブティーですよ」

 私はこの空気が好きだ。 数多の本が並んだこの図書館の空気が好きだ。
 新しく棚に入れられたばかりのまだ真っ白な本。何度も様々な手によってその頁が捲られ巡り、切れ端が折れ擦り減り時には破れた紙の破片が繋げられた古びた本。誰にも興味を向けられずただ埃を被り続けた本。
 そのすべてが共存し、同じ空間に置かれ、生き続けるこの空気が好きだった。そこに流れる静寂も、またその空気を好む一因だろう。

 大きく息を吸えば、その特有の空気が私の中に入ってくる。私の中で一周し、また私から吐き出される。
 その感覚も、ここでしか味わうことは出来ないだろう。私は司書の小悪魔が出してくれたハーブティーを啜りながらそんな取り留めの無い事を一人夢想する。

 「おいしいわ、ありがと小悪魔」
 「いえいえ、これもお仕事ですから」

 言いながら、ニコリと笑みを浮かべる小悪魔。そして普段通り蔵書の整理の仕事に取り掛かる為に、彼女は本棚の樹海に姿を消した。

 「アリス、貴女珍しく期限を過ぎたわね。まあとやかく言うつもりはないけれど」

 私の前に置かれているテーブルの向こう側から、そう呼びかけられる。

 「私にだって都合はあるものなのよ」

 と、軽く返事を返しておいた。
 見上げるとそこには一人の少女が写る。紫の長い髪と病弱で不健康そうな白い肌の少女、パチュリー・ノーレッジ。この図書館の管理者だ。
 つまり、先ほどの司書は彼女の部下、いわばコキ使われ係なのである。それを嫌な顔一つせず命令を受け続ける彼女は私は少し尊敬していた。その反面、まるで人形みたく、自分の意志が存在しないようにも思えて、少しだけ陰鬱な気分にもなる。
 そんな考えが浮かばないようにするためにも、早く自立人形を作らねばならないな、と私は一人勝手に奮い立ったりもしていた。

 「……ふうん、まあいいわ。興味ないし」

 彼女は他人に興味がない。干渉だって、滅多にあることではない。
 ただ、本・知識・魔法があれば、世界は取るに足ると考えるような、まさに普通の魔女の鏡みたいな少女だ。
 
 だからこそ私は、

 「そうね、助かるわ」

 この図書館を少し居心地良くも感じるのかもしれない。
 心から素直に、口に出した言葉を思うことが出来た。

 互いにまだ温かい紅茶の入ったティーカップを手に取る。紅茶の柔らかい味だけが私の物になった。




 「そういえば」

 本に夢中になっていた意識が、その声でふと引きずり戻されるような感覚を覚える。その声は間違いなく私に向けられた物のようだったので、活字の集合体から目を離して声を発したテーブルの斜向かいに居る主に顔を向ける。

 「最近、あの子の姿を見ないんだけど」

 あの子。私にはそれが誰なのか、直感的に分かった。
 ____霧雨魔理沙。
 ……だから、だからどうしたというのだ、という言葉を私は呑みこむ。

 「それはいいことなんじゃないかしら?、泥棒の被害件数も軒並減っていく兆候よきっと」
 「逆に不吉だわ。貴女、最近魔理沙の事見た?」

 私は言われてすぐさま思い返してみる。指を追って、その回数を右手に覚えさせた。

 「昨日と一昨日と一昨昨日」
 「アリス、それ幻覚じゃないのかしら」

 ……まるで彼女の危ない茸コレクションを、私がをつまみ食いしたのかと疑うような目で、こちらを訝しく見てくる。

 「酷い言いようね、ちゃんと魔道書で毎度頭殴ってるわよ」
 「酷いやりようね」

 仕方がないのだ、それくらいしないとあいつは懲りない。というか、それでも懲りてないのだからどうしようもない。
 私にとって魔理沙はある意味、台風のような存在だ。掻き乱され、いつの間にか私の隣でのうのうと紅茶を啜る台風。霧雨だなんて、至って嘘っぱちな苗字だ。

 「にしてもアリス、魔理沙に懐かれてるのかしらね。完全に愛の巣じゃない、婚約おめでとう」
 「ありがとう」

 パチュリーの冗談には結構キツい物だったり、冗談にならないものが多かったりする。それに反応すると面白がって囃し立てて来るので皮肉に素直で返してあげるのが一番効果的だ、という事をやっと最近学んだ。それまでにいったいどれだけ面白がられていたのか、と思うと少し鬱屈だ。

 見るとパチュリーは既に本に視線を向けていた。
 ここで会話を区切りましょう、という無言の合図なのか。単なる魔女の気まぐれ自体に意味など無く、終わらせるべきタイミングすらも気まぐれだと言うのか。
 私には彼女のことをそこまで推し量ることは出来ない。
 
 ただ。私は、口を開いた。

 「……私、魔理沙は嫌いだわ」

 単なる気まぐれだ。何故なら私だって、魔女なのだから。

 
__何をムキになっているんだろう。

 「最近になってほぼ毎日訪れるようになってきたけど、その前からだって何度も私の家にやってきて」

__何に私は怒っているのだろう。

 「正直言って鬱陶しいのよ。人がのんびりしてる時にいつも押しかけてきて」

__何が私は嫌いなのだろう。

 「玄関のドアだってロクに開けやしないし窓から出ていくし、そうやって可笑しな事をするのも好きになれない」

 最後の問いにだけは、私にも答えが見つかっていた。

 自分を他の何者でも無い、誰でもない「霧雨魔理沙」という人間になりたいという、その顕示欲が。

 「私はあいつが嫌いだわ」

 私は何よりも嫌いだった。彼女の中のそれが。


 
 「……ふうん」

 一間おいてから、パチュリーは声を漏らした。目線は私を向いている。でも、そこにはいつも通りの興味など無さそうな瞳が写っていた。
 でも何故だか私には、そこに一筋の光が射しこんでいるようにも見える。

 「私にはわからないわね」

 一蹴。それも当たり前だろう。

 「でも、」

 私は少し驚いた。彼女がそこから言葉を続けるだなんて、とても珍しい事だ。小さく息を吸う音が聞こえた。

 「元々人間だった貴女になら、分かるんじゃないのかしら」


 その小さな声が、静寂に包まれる図書館にはとても似つかわしい。










#5



 扉にくくりつけた鈴の音が鳴る。それは何度も響き、私に夏の訪れを感じさせた。

 「よう、久しいな」
 「魔理沙、君はこないだ会っただろ」
 「アリスの分だぜ」
 「図々しいにも程があるわ」

 まだ季節は梅雨の真っ直中で、確かに夏は目鼻の先にはあるのかもしれないが、この曇り空には全く以て似合わない明るくはずんだ音を今聞く事になるとは思わなかった。
 大体、こういう所に付けるものはもっと小洒落た物ではないのだろうか。用途を間違えられたこの鈴が店主さんのセンスだとすれば、残念ながら褒めるべきではないだろう。

 「……お、其処に居るのは彼女じゃないか」
 「霖之助さん、私が来るたびに気にしてるわよね」
 「うんうん、今日もかわいらしい動きで結構。君の人形の形状がそう見せるのも手伝っているのだろうが、そうだとしてもまるで生きているような挙動だ。毎度毎度感心するよ」

 そんな声が聞こえると、眼鏡を掛けた銀髪の男性が私の元へとやってくる。

 「やあ、上海」

 私は是非とも、彼に訊きたい事があった。あの扉の鈴の話だ。けれども、私は人形だ。上海人形だ。勿論そんな言葉も録音されていない。私は胸中だけで、彼に質問を呟いた。

 「シャンハーイ」

 どうして、風鈴なんかぶら下げているのかしら、店主さん。

 私たちは挨拶を交わした。





 「ほう、魔理沙が帽子をねえ」

 ご主人様、魔法使い、それから店主さんの三人は狭いスペースの中で何とか、用意された椅子三つに腰掛けた。
 この建物自体はそれなりに大きく、敷地もそこそこにあるのだが如何せん店主さんが「商品」と言う名のガラクタを集めては放置し続けるものだからどうしても人が入れる場所は小さくなってしまう。言葉は悪いが、生きるべき人間よりも死んでいる形質を重視するとは変わっている性質だと思う。

 「で、こないだ来たときにもしかするとここに置いてってかもしれないと思って」
 「なるほど」

 店主さんは、少し神妙そうな、そして残念な顔つきになる。その表情を見るだけで結果はとても分かりやすく察することが出来た。

 「生憎、その商品はここには無いよ」
 「……こーりん、お前もしも私が置いて言ったら商品にする気だったのか?」
 「おっと、口が滑った」
 「あー……、要するに無かったんだな?」
 「そういうことになる。ああ、もし帽子があれば今までのツケと引き換えに売り飛ばせたのに」
 「……こーりん」

 魔法使いは勘弁してくれ、と引き攣った笑みを浮かべながら店主さんの方を向いている。対して店主さんは、カラカラと今にも快活に笑いだしそうな笑顔だ。ふと目をやれば、ご主人様の顔も少し綻んでいるように見えた。だが、それは私の瞬きと共に消失し、いつもの毅然な表情に戻っている。
 三人はそのまま、談笑を始めた。私はそれに耳を傾けていても仕方がないので、そこらに積まれた沢山のガラクタを眺めることにした。とは言っても、体は動かせず、視界も自分自体では決められないので、今自分から見えている物に触りもせずただ凝視するだけになってしまう。
 しかし、もしも私がガラクタを触ったら触ったで店主さんに怒られてしまうから、それがいいのだと思っている。私は色々な事に対しての好奇心が少し強い。禁止されればされるほどそれを破りたくなってしまうような、性質の悪い性格だ。もし、私が自立人形なる物になったとして、その時果たしてどんな問題児になるのだろうか。……まあ、私は今動く事を禁止されているからこそ触りたいと思ってしまうのかもしれないが。

 「……そ…にしてもアリス、本当に君が彼女を動かしてるのかい?」

 不意に店主さんの質問が聞こえる。今まで意識していなかった言葉は耳に入り込んできた。ご主人様が名前を呼ばれた事で、その緊張が私にも伝わってくるのだ。
 それとほぼ同時にご主人様は右手を動かした……のだと思う。今まで三人に背を向けている恰好だったので、ご主人様がどのような操り方をしたのか私は見ることが出来なかったが、私の体はくるりと180度回転し、座っている三人の方を向く。その中で顔が見合ったのは店主さんとご主人様だけだ。魔法使いは左隣に置かれたガラクタに夢中で話が頭に入っていない素振りだった。

 「ええ、そうよ。生きているみたいでしょう? ……ああ、そういえば霖之助さんが上海をそうやって呼ぶ由来って」
 「彼女が如何にも生き物らしいからね。下手に生きてるそこらの妖怪や人間よりもよっぽど」

 自立人形。
 先ほども脳裏に浮かんだそのワードが、再び私の思考の頂点を占めた。
 
 「あくまで立ち振る舞いは人間らしくないと、ね。最終目標は自立人形なんだから」

 私はどうも、ご主人様の目指す「自立人形」計画に使われる人形候補として、筆頭になっているらしかった。その事を聞かされてからは私も少しずつ興味を持ち、ご主人様の独り言を棚に座りながら聞き流すように脳裏にとどめている。
 しかし、どうしてもわからないのは私が筆頭になっている理由だ。私は少し旧式で、もっと新しく性能もいい人形をそれ以降沢山作り出しているにも関わらず、ご主人様は私を自立人形にしようとしている。流石にその理由まで、糸に乗って私に届くはずもなく。もし私がそれを知るためには、いつか出会った地霊殿の主人の形で模らなければ不可能だろう。
 ……いや、むしろ模っていれば私にも心が読めるようになるのだろうか? 私は自立し喋れるようになることがあれば、この研究出来そうな題材についてご主人様に是非とも伝えよう。きっと嬉々としてまた研究を始める筈だ。ご主人様の笑顔を思い浮かべた。

 「僕としては、是非見てみたいものだね。君の命令がなくとも自らで動く自立人形を」
 「いつになるかわからないけれど」
 「シャンハーイ」

 私も店主さんに対するような返事としてか、声が再生された。
 実際この声というのは、実を言えばご主人様の声なのである。普段は凛と澄ましているご主人様が絶対に出さないような裏声を張り上げて、幾つかの声のパターンを録り、それを再生している。
 その時と普段のご主人様の差異というものが、これまたいつも一緒にいる私からも考えられないような可愛さを滲みだしているのだ。きっと其処の魔法使いやあの巫女がその場面を見たならば驚いて七転八倒くらいはするのではないだろうか、と思わせる程に。……まあ、抱腹絶倒という表現の方が本当は正しいのだろうが。笑い過ぎて死ぬのではないだろうか。

 「……あと魔理沙。いつも言ってるだろ、商品に触るな」
 「げっ、バレたか」

 いつの間にか魔法使いは見るだけで我慢出来ず商品に触れようとしていたらしい。店主さんは其方を見ていなかったはずだが、長年の勘なのだろうか。まあ確かに、魔法使いがやりそうな事ではある。
 それを見て、相変わらずね、という意味を込めた溜め息がご主人様の口から漏れる。

 
 

 「それじゃあ今度来るときはツケを払ってくれよ」
 「アリスに頼んでくれ」
 「あら、帽子探しはもういいのね」
 「わわっ、冗談冗談、って本当に飛んでくなよー! じゃあなこーりん、ってアリスまってくれー!」

 魔法使いは何とかご主人様に追いつき、再び空を並翔した。店主さんは手を振るのもそこそこに店内へと入っていく。またあの鈴の音が私の耳に聞こえる。それには遠すぎる距離だろうから、きっと思い込みなのだろう。けれど、私はそれを本当だと信じたい。
 また、あそこへ行けたらいいな、と思う。

 
 次の目的地は、二人が言葉を交わすことなくともわかっているようだった。無論、この方向から言って私にも場所を察する事が出来る。出不精なご主人様もよく通る道だからだ。

 紅い館の、大図書館。そこではきっと無表情の魔女が紅茶を啜っているのだろう。






 
 #6




 私の脳裏のこびり付いた記憶。それは、遠い昔にみた或る踊り。

 「それ」の操り手が男性だったのか、それとも女性だったのか。
 その辺りの記憶は既にあやふやで、どちらか判別することは出来ない。

 けれども。

 ただ一点。その一点において私は鮮烈に覚えていることがあった。

 「それ」、つまり「自立人形」について。


 その人形は他とすべてを画していた。動きも表情も身体も全て、全てがまるで違った。それを操る人はその人形と一心同体の恋人のように、お互いを深く深く愛し合うかのように踊り、リズムを刻んでいたことを覚えている。
 まだ、魔法という物の頭文字すらも理解していない程に未熟だった私はその光景に心を奪われるのは容易かった。そして、思ったのである。

 私も願わくば、このように成りたい、と。

 「自立人形」なる物を作ってみたい、と。


 幼き時分に植え付けられた目標。その頃は高すぎて見えなかった壁も、今は少しだけ見据えられるようになった。しかし、依然として高すぎる壁だ。まだ体当たりするのにも、こちらの身体が壊れて終わってしまうだけだろう。
 そんな事が計れるようになっただけで、昔よりは成長しているのかもしれない。

 私は人形師、魔法使い、七色。今までだって様々な研究をし、物を見、、理解してきたつもりだ。
 勿論目標は変わらない。ただそれだけの為に今まで続けてきたのだ。しかし、幾ら探しても探しても「自立人形」に関する文献の類はさっぱり見つけることができなかった。

 いくつもの人形を作り、そして失敗を繰り返す、その長いスパンで得た経験や知識に置いては、他の人形師に引けを取るとは思っていない。操る技術に置いても、しっかりと鍛錬をして、昔とは比べ物にならないほど上手くなったはずだ。
 けれども、私が目指しているのはそんな所ではないのだ。自立人形、その言葉が私にはいつまでも付きまとっていた。

 そのようなジレンマを抱えていた頃。私はついに、とある一冊の本と巡り合う事になる。

 そう、自立人形について記された本だ。

 一体それは誰が書いたのか。気になって真っ先に裏表紙を見たが、そこはただの無地で、著名は分からず誰が纏めたのかは一切不明だった。そんな本でも、私にとっては希望の一冊だ。
 
 
 「ねえ上海」

 私は彼女に語りかけてみる。私が一番信頼を置き、ゆくゆくは自立人形として私と共に踊るべく為作られた彼女に。

 「どうやったら意識なんて生まれるのかしらね、こうやって毎日語りかけていて」

 生まれるものなのかしらね。

 その言葉は飲み込んだ。


 自立、それは、人形に「自我」という動きだけでなく、それを自ら行うと思う「意識」が伴う事。
 つまり、自立人形には普段私が動かすことで生まれる「自我」のみならず、「意識」という、生き物にとって常になくてはならない根底の物が必要なのだ。

 それまでが希望の一冊に書かれていたこと。それを生み出す方法については、全く記されていなかった。

 私は独り、勝手にある想像をしていた。
 その本は、昔私が憧れを抱いた二人が書いた本ではないか、という想像だ。
 勿論確証なんてものは無く、私の虚偽妄想に過ぎない。しかし、この本には確かに、二つの違う筆跡が残されているのだ。
 それは丁度、本の真ん中辺りで分け隔てられていて、その前半部分があの操り手、後半部分は憧れの自立人形が書いたのではないか。そう考えるだけでも、私は少しワクワクする。
 そしてまるで運命みたいな不確定かつ不明瞭な物の存在を信じたくなる心持ちになるのだ。

 そんなこと馬鹿だ、とは思いつつも、それを肯定したがる私がいるのも事実だった。きっと間違いない、これは神様の思し召しで、私はこの本と出会うべくして出会ったのだ、と。


 私は初め、彼女を手に入れたい、と思った。
 でも彼女は違った。彼女は手に入らない事にいつしか気づいてしまった。

 ならば、と私は思ったのだ。

 「手に入らないのなら、作ればいいじゃないか」

 と。








 #7
 



 「あらいらっしゃい」
 「どうも、パチュリー」
 「おっと、今日は客だぜ。きちんと招いてくれ」
 「魔理沙、本は?」
 「生憎私は本じゃないぜ」

 紅魔館の大図書館。そこは静寂に包まれていて、私の肌にはあまり合わないようにも感じる。……そうは言っても、慣れるまでの話でもある。いつも家に台風がやってくるせいで、騒々しさが耳に刷り込まれてしまってるのかもしれない。

 「……まあいいわ。一応客人らしいし、小悪魔。紅茶、私の分も含めて三つ」
 「パチュリー様、良い事を思いつきました。こないだ仕入れた吃驚紅茶とやらを出してみては? 毒見には丁度いいかと」
 「そうね、じゃあそうして頂戴」
 「あー……、お前ら、聞こえてるぞ」

 魔法使いが顔をしかめながら茶々を入れる。きっと想像しただけなのだろうが、それだけで舌をだらしなく出しかけた、如何にも嫌そうな顔になっている。とても感情的で情緒的な人間、だけれど、私は何故かそういう部分は嫌いになれなかった。むしろご主人様と違い、分かりやすいお蔭で助かる。

 「ええ、聞こえるように言ったもの。是非いかが?」
 「是非ご遠慮願いたいぜ」
 「そうね、魔理沙はともかく私には普通のを頂戴」

 どちらかと言えば、テーブルに座ったまま陰鬱そうな雰囲気を身に纏う、そこの魔女の方に私は苦手意識を持つ。冷静で思慮深く、そして何より、いつも鬱屈な表情を浮かべている魔女の方が、私は好ましく思えない。……無表情という点において言えば、私も同じなのだが。

 「で、要件は?」
 「あ、そうそう。いやあ、こないだここに丁重にお邪魔しただろ? その時に私の帽子、落としたかもしれないと思って」
 「丁重に本を奪ってったわね」
 「丁重に本を借りてったんだ」
 「……あんた、こないだ泥棒してないっていったじゃない」
 「ん、そうだったか?」
 「……はぁ」

 半ば諦め気味のご主人様の口から、もう何度目かわからない溜め息が漏れる。今回に至っては眉間まで抑えているので、相当残念がっているようだ。

 「そうね……、例えば、貴女の帽子をここで見かけたとして私なら」
 「私は?」
 「とっくに灰にしてる」

 空気が変わったのを感じた。ご主人様が一瞬で、いつでも動ける状態になったことに遅れて気が付く。だとすればこれは緊張感のようなものだろうか。

 「……それ、本気で言ってるのか、パチュリー」

 私はびくっ、と体を震わせる。いや、違った。ご主人様の震えが糸を伝って私を震わせたのだ、それほどに、魔法使いの言葉は鋭かった。

 私の帽子に何かしたら、ただじゃすまない。

 あの魔法使いとは思えないような、鋭い言葉。それを聞いても目の前の魔女は意にも関せず、持っている本の頁をパラパラとしている。

 「あら、凄んじゃって。例えば、って言ったでしょ? 残念ながらここには無いわよ。と言うより」

 魔女はやっと本から視線を外して、魔法使いの方を向いた。その瞳に光は無く、全く興味のない事実を見せられてうんざりしたような、そんな事を感じる。

 「貴女、前に来たとき帽子被ってなかったわよ?」

 「…………は?」

 その言葉が、まるでこの館のメイドみたく時を止めた。魔法使いの素っ頓狂な声だけが響いて消える。




 「……そうだった、っけ?」

 一間置いてから、魔法使いがようやく科白を吐いた。

 「貴女、結構動揺してたみたいだし。何でここに盗みにきたのかしらねえ、あれで」
 「……まあ、一種の習慣みたいなものだからなあ。やっぱり落ち着きたいときは普段通りの事をするのが一番なんだよ。でも門番は余裕でぶっ飛ばした覚えがあるぜ?」
 「習慣にすな。あと、あんたは後で美鈴に謝ってきなさい」
 「……美鈴を叱るのはメイドに任せておきましょうか。兎に角、帽子は被ってなかったわ。だからあんな冗談云ったのに、本気にするんだもの」

 状況は好転。ご主人様にとってはどうなのだろうか。それでも魔法使いはやっと安堵の表情を浮かべ、先ほどまでの殺気にも似た空気はどこかへ消えてしまったようだった。





 「………だから、………で」
 「………………なるほど、それで……」
 「でも、…………でしょ? だったら……で……」

 と、私がそんな風に思えていたのも束の間だった。見た目相応とは言わないが、そこそこの年齢の女性、それも魔法使い三人。
 そんな状況で、状況が好転したら終わるだけなんて有りえないのだ。何かと機会さえあれば議論したがるのが魔法使いという生き物、それにこの三人が集まるなんて滅多に無い事でもある。
 ……だからといって、ここがいくら図書館だからといって、そんなに小さな声で姦しくしなくても良いのでは、と私は思ってしまう。それも仕方ないのかもしれない、私は人形であって魔法使いでは無いのだ。しかし、小さな声で姦しく感じるのは、やはり私がさっぱり分からない話をしているからなのか。

 「シャンハーイ」

 私の音声パターンから、退屈そうな声が再生される。五月蠅い、と魔女に睨まれてしまわないかと直ぐに心配してそちらを向いたが、こちらの事など気にしている様子で無く、話し合いに夢中のようだった。

 「……ん、上海どうしたんだよ。つまんなかったのか?」

 一番最初に反応したのは魔法使いだった。少し息抜きという程度に絡まれているのだろうか。

 「どれ、真似でもしてやるよ。あーコホン。……シャンハーイ」

 私は内心、むっ、とした。それは怒りからではなく、どちらかと言うと嫉妬に近い感情だ。ご主人様の声が一番綺麗だろうと思っていたのだが、魔法使いのその声も引けを取るとも劣らないと言える程に、可愛げのある少女らしい声だったからだ。加えてここは図書館だ。魔法使いのその声は強調され、耳に響いた。
 そして私が一番驚いたのは、普段の自らの声とは全く違うその声を、恥ずかしげも無く発した事。ご主人様ならば絶対にしない事だろう。

 「ちょっと、魔理沙」
 「ここ、図書館なんだけど」

 ご主人様と魔女が、ほぼ同時に魔法使いに怒った様子で注意する。その声もさほど大きくはない。

 「すまんすまん、ついつい……って、あ」
 「つい、じゃないわよ……で、今度は誰の声真似よ」
 「いや違う違う、ほら。あれ」

 魔法使いは少し反省したような面持ちで後ろ頭を掻きながら、右手で窓の外を指した。帽子の乗っていない照れ隠しは、やはり普段と少し雰囲気が違うように感じられる。

 「ほら、紫陽花」
 「……あ、ほんと」
 「それなら美鈴が育ててるのよ。なかなか綺麗で、私も気に入ってるわ」

 魔女にも、花を見て、それを綺麗だと思う心があったのか。私は少し意外に思った。
 どちらかといえば、全てを理詰めして最後には下らないと吐き捨てるような印象が強い。同様に花に対しても、全て理論づけて同じことを言う物だとばかり考えていたので、素直に褒めることもあるのだなあ、と少々奇異な目線で魔女の方を見る。

 「綺麗だよな、ほんとに。なんていうか、いろんな色があってアリスみたいだし」
 「……そうかしら」
 「でも実際ぴったしじゃないかしら。紫陽花は七変化の花、って言われてるしね。七色人形遣いさんにはお似合いじゃない?」
 「へえ……、流石、博識だな」
 「これは最近調べたのよ。今年から育て始めて、それから実物を見たら興味が沸いてね」

 私にもまだまだ知らない事は多いわ、そうじゃなきゃ伊達に引きこもってらんないわよ、とは続けて魔女の弁だ。

 「お、この本か? ちょっと見させてもらうぜ」

 持前の好奇心で、テーブルの上に置かれたそれらしき本を見付けた魔法使いが手をかける。小道具屋でも同じようなことがあったが、やはり思い立ったが吉日思考なのだろうか。

 「いいけど開けたら噛まれるわよそれ」
 「____っ!?」

 魔法使いはその科白を聞くと、一瞬の内にその本を投げ捨てる。間一髪、本は開かず何事も怒らなかったようだ。

 「おいおい、危ないぜ……ったく……」
 「あんたが適当に手を出すのが悪いんでしょうが」

 そう言いながら空いた左手で魔法使いの頭を叩くご主人様。あいてっ、と声を出しながらも、二人ともが少し幸せそうに見えるのは気のせいなのだろうか。

 「……ねえ」

 魔女がポツリと呟く。どうやら、ご主人様と魔法使いに対してではないらしい。一人ごとだろうか。

 「あなたは、あの二人。どうなると思う?」

 ……一人ごとじゃ、ない? となると、この言葉を聞いているもう一人必然的に。

 「何キョトンとしてるのよ。あなたに訊いてるの」

 __私しか、いない。
 その予想を裏付けるかのように、私の眼前に指が付きつけられた。その最中、まだご主人様と魔法使いは互いにいつもの言い合いをしているようで、こちらの様子には気づいていない。

 「……まあ、答えられないだろうけど」

 ふぅ、と一息ついて魔女は喧噪を続ける二人の元へと歩き出す。

 ……そんな直ぐに、答えは出ない。少しだけ考えたい。
 そんな風に、胸中だけで返事をした。聞こえていなくても構わなかった。

 「ここは図書館だと」

 何故だか、私自身に必要ある問いだと思ったからだ。

 「何回言わなきゃいけないのかしらね」

 魔女が懐から一枚の紙を取り出すと、二人は顔を青ざめて静かになった。やはり年の功の差なのだろうか、魔女を怒らせると怖いのはあの二人が一番知っている筈だ。


 
 それから魔女は、魔法使いに今度こそ本当に害のない本を渡した。

 「本当に呪われてたりしないんだよな……?」

 と、何度も聞いては慎重に確認していた魔法使いの姿は、いつもの大胆で大雑把に見える姿と違って、ご主人様も少し笑っていたのを思い出す。
 それからのご主人様はというと、何か借りるための本を探すために無数の本棚が連なる図書館の中へと潜り込んでいった。もちろん私も付いていく。
 この図書館の図書量は膨大である。主である魔女でさえ全ては読めていないというのだから、まあ、この図書館に一度来て光景を一目見れば何となく察しはつくのだが、それを私は頭で理解していても実際は到底理解の追いつかない知識量が保存されているのだろう。しかもそれを裏返せば、欲しい本を見付ける事も一苦労、という事になる。偶に訪れるご主人様が把握し切れる筈もない。

 「あ、小悪魔。最近入った魔術書類の棚はどこかしら」
 「はいアリスさん、ご案内します」

 その為に居るのが、魔女の使い魔である、司書だ。司書は先程、紅茶を淹れてご主人様等に振る舞ってもいたが、それよりももっと大事な仕事はこの図書館の把握、本の整理と言っても過言ではないだろう。
 ご主人様が望みの棚に案内され、司書は元々していた整理仕事へと戻った。そして、並んだ本の帯を一つ一つ手でなぞりながら。ご主人様は借りるべきものを考える作業に入る。
 

 その間、私も先ほどの質問に対する答えを一人悶々と考え込んでいた。

 『あの二人、どうなると思う?』

 あの時、魔女は確かに私に対して訊いた。その科白が何度も何度も再生を繰り返し、その度に頭の中で反響する。


 私は、どうなると思っているのだろうか。どうなってほしいのだろう。
 
 考えた事は無かった。あったとしても滅多にあることではないし、どうせ聞き流すように考えた雑多な思いだけだろう。その証拠にそんな記憶は残されていない。

 どうなんだろう。

 …………駄目だ。いくら考えても、魔女に提出すべきような答えは一向に浮かぶ気配がない。

 ただ。私は、ご主人様に幸せになってほしいとは思う。ご主人様が幸せになるためならば、自分さえ厭おうと思う。ご主人様が幸せならば、たとえ台風のような魔法使いであっても喜ばしく思えるようになろう。
 あの時見せた表情が本当のご主人様なのか、それとも上っ面のご主人様なのかは分からないけれど。
 

 

 「お、アリス」
 
 ふと魔法使いの声が聞こえた。幻聴かと思い意識をそちらにやると、目の前には確かに魔法使いの姿があって、いつの間にかご主人様は本を数冊抱え、あの連なる本棚の姿はもう無い。

 「なによ」
 「これこれ」

 魔法使いはご主人様を呼ぶと、先ほど魔女から渡された本の一頁を開いて見せる。

 「えっーと、紫陽花ね……って、毒?」
 「そう」

 その相槌は、まるで百物語でも語るかのように相手を脅かすような小声だ。

 「花弁に毒があるんだってさ。あんなに綺麗なのに」

 ____紫陽花の花弁に、毒。

 「ちぇ、折角摘んで食べようと思ったのに」
 「……魔理沙、あんたに美的感覚を疑うわ」

 ____毒。

 「ん、まあな」
 「褒めてないわよ」

 私はどうしても、その言葉が胸につかえた。そして離れない。

 「……って、ちょっと、雨振り出してるじゃない! あーもうっ、小麦粉買えないじゃない…………」
 「あ…………お、本当だな。風情がある」

 魔法使いはご主人様の事を、「紫陽花」と表現した。魔女もまた然りだ。

 それでは、ご主人様に花弁があるとして、そこには毒があるのだろうか?

 「風情、って、紫陽花食べようとしてた奴が何言ってんのよ」

 綺麗な花には棘がある。
 
 私の脳裏には、そんな諺が浮かんだ。

 「うるさい、それに紫陽花本体じゃなくて花びらだ」
 「それどっちも変わってないじゃない!、大体ね…………」

 ならば。

 可憐な妖には、毒がある____?

 「二人とも五月蠅いわね。本当に死にたい?」




 窓の外を見る。雨が紫陽花の花びらに溜まりこんでいる事に気が付いた。そこから雫が流れ落ちる時、紫陽花は何を想うのだろう。


 「シャンハーイ」

 
 本が一冊飛んできた。頭に当たる。痛い。
















#8








 「……はぁ」

 つい、陰気な溜め息が口を吐いて出る。魔理沙の前では自然と多くなるものだったが、ここ最近は彼女がいない時にでも吐くのが癖になりかけていた。
 私の耳に届くものは、屋根を打つ雨音ばかりだ。窓から外を覗いてやれば、はっきりと視認できる程に白い雨が降り注ぐ。

 「どうにも、駄目ね」

 ここ最近、全くと言っていいほど研究に手が付かない。私は自分自身が思っている以上に、帽子を盗んだことへの罪悪感を感じているのだろうか。それ以外に思い当たるのは、あれ以来魔理沙がめっきり姿を現さなくなった事と、自立人形についての文献からこれ以上必要性を感じるような内容を読み取れずに限界を感じつつあることだった。
 魔理沙については、むしろ清々してもいる。外はこんな天気だが、私の心は晴れ模様だ。私を邪魔するものはいなくなったし、研究にも専念できるというもの。むしろ私は後者に原因があるのだと思っている。
 見つけた時には、まさに世紀の大発見のような気分であった。これさえあれば、とまで思ったほどだ。ところが今では、この書物に果たして意味があったのか、それすら疑問を抱いている。
 確かに、開けば其処には「自立人形」を命題に書かれているのは確かだ。だが、後半はほぼ全て、「彼」と「彼女」の日記。ただの日誌だ。二人の愛の記録。私はこの「彼」が本当にあの時見た操り手であり、そして「彼女」が可憐に踊る人形だったのか、今では疑う念の方が日に日に増している。

 「だからきっとこれもそうだわ」

 私の気分転換の一つである料理。他にも裁縫やら何やら、普段人形に行わせている自分の身の回りの事を自分自身で行う。
 いつもは、そうやって鬱屈な気分を誤魔化し誤魔化し、転換へと繋げているのだが。
 
 「……きっと疲れてるからよ」

 紅茶を二人分淹れてしまうなんて。まるで誰かさんの為みたいじゃないか。












 急に扉が音を立てた。私は反射的にそちらを向く。見ると、それはずぶ濡れの魔理沙の姿だった。

 「……アリス」

 普段よりも引き締まった、緊張感のある声。それと、改めてかしこまった態度。
 そのせいか、いつも魔理沙が押しかけてくるこの場所で、まるで彼女は赤の他人のようにも感じられた。

 「……びしょびしょじゃない」
 「ああ、いいんだ。わかってる」

 帽子を被っていない彼女の美しい金髪は、雨滴に浸したように濡れていた。額から流れる水滴はまるで涙のようにも見える。

 「話しがあるんだ」

 そう言った彼女を良く見れば、袋のような何かを両手で抱えている。まるで赤子か何か、落としてしまえば大変な、取り返しのつかない事が起こってしまうような大切な物のようだ。
 雨にでも濡れないようにしてきたのか、見る限り両腕の辺りには水滴があまりついていない。

 「……お風呂、貸すわよ」
 「……いや。少なくとも、今の私にそんな資格は無いんだ」

 私はこの場に流れる空気が、何か悪い方向へと収束しているような気がしてならなかった。
 魔理沙の台詞も、屋根がこぎ見よく奏でる音も、私の中の本能のようなものが、警笛を鳴らして逃げたがっていることも。





 「……ごめん」


 彼女は頭を下げて、それから持っていた袋を両手でつかんで私に差し出した。

 
 「______小麦粉。あれ、私なんだ」



 ____小麦、粉?



 「……アリスの家、いつも空いてるだろ。こないだ私、来たんだけどさ」


 彼女は涙をこらえるようにして、顔は決して上げることなく一言一句を発している。
 私はまだ、何が起こったのか全くわからず、頭も身体も心も追いつけていない。


 「紅茶を淹れて、あげようと思って。そしたら、小麦粉、間違えて、ぶちまけちゃって」

 まずは頭が理解を始める。小麦粉。私の台所から忽然と姿を消した小麦粉。
 あれは、魔理沙が犯人だった。

 「ごめん、言えなかった。予備の分も盗まなきゃ、いけないと思って、全部、家に置いてて」


 『あー、確か香霖堂だったと思うぜ。あと私の家には行かない方が良い。今日一日の用事が掃除一色になる』
 
 あの科白は、小麦粉を隠しておくための言葉だったんだ。

 私の頭が冴えたような気分になり、今まで数日間の魔理沙とのやり取りを全て、鮮明に思い出し始める。そして私は、私が思っている以上に魔理沙とのやり取りを覚えている事に気が付いた。忘れていると思っていたことさえ、全てはっきりと記憶していたのだ。

 「……許してくれなくてもいい。身勝手だって思う。でも、謝りたい」

 そして、心が頭に追いつき始めた。急激に私の中で、突沸したかのように感情が湧き上がる。それが頭と繋がって、自分自身にハッとする。

 
 「ごめん。…………本当に、ごめん」

 そう言いながら、深々と頭を下げる魔理沙。けれど今の私は、そんな彼女の行動を気にしている余裕なんて無かった。


 わたしは。

 

 わたしは、



 一体、何に期待していたのだろう______?





 ふと、脳裏に或る映像が再生される。それは、私の過去のお話。髪飾りを盗んだ顛末だ。



 「アリスちゃん、一体どうして」

 母は、少し驚いた表情で、……きっと深く哀しみながら、私にその理由を問いただしていた。
 私は、そういわれても答える事が出来ない。罪悪感だのスリルだの、そんな物を引き合いに出す気はさらさらなかったのである。

 「ねえ、怒らないから。教えてちょうだい」

 言葉ではそう語りながらも、語調は確かに普段よりも強い。

 「……綺麗で」 

 私の口からはスラスラと思っても見ない言葉が出てくる。……その時分の私には分からなかったろうが、いつか母が話していたことをふと思い出した。幼い時の癖で、私は嘘を吐く時はいつも目があちらこちらを彷徨い泳いでいたそうだ。
 今思えばそうだったのかもしれない、と思う事が出来る。確かにその時の私の記憶の中には、母を見つめた記憶が一切存在していないからだ。

 「……綺麗で、欲しかったの。羨ましかった」
 「この、髪飾りが?」

 今でも鮮烈に覚えている。この言葉。このやり取りの空気。

 私は、____何故かその言葉にうなずく事が出来なかった。

 口で嘘八百を並べるよりも遙かに簡単な事だ。ただ、その一挙動が私にはどうしても行えなかった。それに連動するように、言葉も喉に詰まりかかったまま口から出ていかなくなる。

 「____そうね」

 ……その時の母の、慈愛に満ちた瞳と抱擁の感覚をまだ、私は忘れてはいなかった。



 きっと今なら。
 あの時の私自身の感情も葛藤も全て理解することが出来るのかもしれない。
 
 けれど今さら。
 あの時の私自身の感情も葛藤も全て理解することが出来たとして、それで。


 ____過去が変わる、なんて事になるはずがないのだ。




 最中、ようやく身体が追いつく。


 そこから先の動きはまるで、私自身が操り人形であるかのようにスムーズだった。


 私は魔理沙を目線の先から外して、くるりと向きを変える。

 私は上海を目線の先に入れて、すとんと向きを固定させた。

 
 上海の腰掛ける、棚。そこが私の目標だ。

 自棄にでもなっているのか。
 やめろ。
 全部が破綻するぞ。

 私の内なる叫び声は私にしか届かない筈だ。だけど、もう既に漏れているのかもしれない。私は漏らしたいのかもしれない。いつの間にか繋げた上海への糸から、彼女に向かって。

 
 私は上海と向き合う。全部終わらそう、もう一度、そう自覚するために。私の中の私はいつの間にか声を上げなくなった。呼吸の音すら聞こえない。私の耳は、ただ荒げた私の息遣いだけを受け取っている。雨は止んでいるようだった。



 棚に、手を掛ける。木は擦れ合う。音を立てる。暗闇だったであろうその空間に光が満ちる。そうして私は視認する。




 「……ねえ、魔理沙」
 


 私はその棚の中に入っていた物を取り出して、上海をもう一度覗く。
 その瞳に映る私が、上手く嘲笑を浮かべているかどうかを確かめるかのように。
 きっと、それは彼女の瞳にもそのまま映るのだろうから。




 「これ、なんだと思う?」









 全てを告げます。嘘偽り無く告げます。けれど、それはもう今更過ぎます。遅すぎます。そんなことは分かっているのです。けれど、私は全てを告げます。


 ……全てを、あなただけに白状します。




 私は。

 



 _________霧雨魔理沙の事が、大好きです。


 





#9



 


 「____アリス、なんで、お前、それ」



 魔法使いの口は驚きに震えて、上手く動けていない。頭も身体もまだきっと完全には理解できていないのだろう。私はその様子を眺めながら体をふわりと浮かせた。


 ご主人様はその隙に、いつも魔法使いがやっている事の真似なのか、窓を開けて私を操りながら豪雨が降りしきる家の外へと飛び出す。



 外は雨が一層激しさを増していた。まるでこれじゃあ、ご主人様の気分や場面に合わせてころころと変わり続ける小説みたいじゃないか、と私は思う。
 私はこんな時にでも、否、こんな時にだからこそ回る思考を止められなかった。


 私は今、ご主人様の後をつける形になっている。勿論、ご主人様の命令で身体は動いている。ただ、ご主人様の動く速さが異常で、私がそれに付いていけていないのだ。弾幕ごっこをするときですら、こんなスピードを出さないというのに。

 「……てよ、待てよアリス!!」

 さらに恐るべきは、魔法使いはこのスピードに付かず離れずだということだ。
 この豪雨の中、行く先も決まっていないご主人様の逃避行を見失わずに追えるほどの速さを出せる魔法使いを、私は末恐ろしく感じた。

  「何で、お前が! 私の帽子を持ってるんだよ!」

 魔法使いが叫ぶ。風雨に晒されて、聞き取れるか聞き取れないかの瀬戸際辺りの声だ。しかし、私にはその言葉が聞こえるべくして聞こえたような気がしてならなかった。
 それはやはり、実際あの帽子触れて盗んだ張本人が私、だからなのか。

 取り留めの無い思考を止めて、私は回想する。魔法使いが小麦粉を溢したあの日、ご主人様と私が居た場所のことを。







 
 「……魔理沙の姿は、ないわね」


 ご主人様は、魔法使いの家に取り付けられた窓を覗いてそう呟いた。


 私の繋がれた糸から、ご主人様の命令が下される。「あそこに置かれている帽子を取れ」。


 私の意思とは無関係に、私は動き始めた。なぜだか、少し腹立たしかったのを覚えている。



 魔法使いの家の扉はノブを回すと、すぐに開いた。ご主人様だけでなく、この森に住む者は皆空き巣被害に合う意識が低いのではないか、と思ってしまう。まあこの濃い瘴気が漂う森の中枢に住んでいて、確固とした雨風の防げる家を持っているのは私の知る限りこの二人だけだし、ここに来る奴で家を訪れるなんて輩は、自殺願望者が生への執着を思い出し、光の方へと向かう時か本当に迷子になってしまった時くらいだろう。どちらにしても、屍で見る数の方が圧倒的に多いのも事実だ。

 私は魔法使いの家を見まわす。それもご主人様の命令だ。案外片付いていて、質素とした雰囲気があった。ただ危なそうな茸がそこらに転がっていて危険な印象も同時に受ける。
 そしてテーブルの上に無防備に置かれている、魔法使いのトレードマークを私は手に掴んだ。




 今思えば、魔法使いが帽子を置いて行った事だってただの偶然だし、あの時ご主人様が家を空けていたのも偶然だ。初めご主人様は全く別の用事があった筈なのだが、魔法使いが居ない事と帽子があまりに盗んでくださいと言わんばかり無造作に置かれていたのが、ご主人様を駆り立てた原因だったのだろうか。

 

 ぴたっ、と動きが止まる。前を向けばご主人様が止まっている。


 「…………こんな、もの」


 私は直感的にご主人様が何を行うのか理解した。ただ、それを止められる身体が私にはない。いまから起こる出来事を傍観する事しかできない。目を閉じる事も出来ない。


 「……いらない、いらなかったのよ!」


 ご主人様は、手に持っている帽子を、空中へと投げた。





 瞬間、世界がスローモーションのように見て取れた。まるで死ぬ直前のような感覚に襲われる。

 くるりくるりと、黒い帽子は空を飛んだ。遠くから見れば、まるで鴉のようにも見えるかもしれない。

 降りしきる豪雨などまるでないかのように、重力だけがゆるりとその帽子に掛かっているように。

 まるでそれは、最初からそうなることが決まっていたかのように。

 円形の、所謂魔女が被るようなウィッチハット。ゆっくりと落ちている姿にはやがて、重力を遮ってそのまま空高くに上がって消えてしまうのではないか、という錯覚さえ覚える。

 くるくると、弧を描きながら。風にも流されず、その帽子自身の意志で。いや、その帽子自身の運命で。


 「_________!?」


 真下の湖へと、落ちていく。






 ぽちゃん、と帽子が水に着いた音。
 降りしきる風雨の中で、その音がなぜか聞こえたような気がした。


 





 こんな激しい雨の中で、帽子がその影響を受けないはずがない。先程見えたのはやはり気のせいで、本当は豪雨に打たれ向かい風に流され、結果ほぼ真下の湖に着水してしまった。
 普段のご主人様ならばそんなミスは絶対に犯さない。しかし、今のご主人様は違う。私とご主人様を繋ぐ糸からはいつもと違って、動揺と恐れと、そして悲しみしか伝わってこないのだから。

 きっと予想外だったに違いない。ご主人様は慌てて帽子の後を追う。そうしている間にも、帽子は水を吸いながらどんどんと沈んでいく。

 

 ご主人様が帽子を掴んだ時には、すでにそれはもう帽子と呼べる代物ではなくなっていた。雑巾、と言った表現のほうが幾分か似つかわしい。魔法使いの頭の上で保っていた形は今や無残な姿だ。
 
 「……アリス、ぼうっ……し………」

 魔法使いがようやく、空から姿を現した。そして、自分の帽子だったものを見て言葉をのどに詰まらせる。

 「……魔理沙」

 ご主人様が応えるように声を上げる。

 「____ごめん、あんたの帽子、二度と使い物にならなくなっちゃった」
 
 私から見れば如何にもわざとらしい嘲笑を浮かべる。それは見ようによれば、毒に苦しみ歪んだ姿にも見えた。
 ご主人様は、紫陽花の花弁を食べて苦しんでいるのだろうか。自らの毒に苦しんでいるのだろうか。

 「どう……して…………」
 「あんたが嫌いだったから」

 ご主人様はただ笑う。

 「____あんたが大っ嫌いだから」

 本音を押し殺して。
 

 パシン、と乾いた音が鳴った。魔法使いが、ご主人様の頬を叩いた音だ。


 「…………お前、最低だよ」
 「…………ありがとう、褒め言葉だわ」

 二人を挟んで奥に見えたのは紫陽花の花だ。その花弁には毒がある。今のご主人様の言葉にも毒がある。本当は、そんなことない筈のに。もっと綺麗なものなのに。
 雫が、花びらから零れる。それはまるで、紫陽花が泣いているように見えた。

















 #10




 あれから、数日が経った。






 今日は見事な五月晴れで、今まで長らく降り続いていた五月雨は止んでいた。もしかしたら、もうこれで梅雨も終わってしまったのかもしれない。
 私の耳には、久方振りに囀る鳥の声が聞こえていた。おそらく二匹、だろうか。彼らが寄り添うように仲良く暮らせているならば、私も嬉しいと思う。想像するだけで、微笑ましい気分にもなれた。
 
 そんな私はいつも通りだ。自立人形を研究して、紅茶を飲んで、クッキーを作る日々。

 あの日の事を、思い出してみる。頭の中にはもやがかかったような部分が多く、はっきりとした記憶はこの頬に伝わった彼女の憎悪と悲哀だけだ。もう熱は引き、手を合わせてみても何も感じなくなる程に腫れは引いてしまった。
 ずっと、残っていればよかったのに。一生私の戒めとして残り続ける熱であればよかったのに。
 ……それは本当だけれど、嘘でもある。私はこの期に及んで、私にまだ嘘を吐いていた。一つ呼吸を吐いて、嘘を裏返す。
 ____本当はただ、ただ彼女との繋がりを残しておきたかっただけなのだろう。もう姿も見ない彼女との、最後の繋がりを。どんな形でも良かった。
 なのに、その熱はもう何処かへ飛んでしまったように消えている。時間というのは、残酷だ。


 それに最近は彼女がこないから研究が順調、という訳でもない。私は自立人形の事を考える度に、脳裏に映像がちらつき、ふと考え込んでしまうからだ。それは、あの記憶の中の二人の事。

 もしかすると私は、自立人形に憧れていたのではではないのかもしれない、と。

 勿論、少しの魅力も感じなければ研究に没頭するほど入れ込んだりはしないだろう。けれど、あの日を境に私の中で、昔ほどの熱意が薄らいでいるような気がしていた。
 私が自立人形に憧れたと思ったのは、自分を丸め込むただの言い訳だったのかもしれない。
 本当に憧れていたのは、くるくると踊り、互いを愛し合っていたあの二人だったのかも、しれない。

 
 髪飾りと帽子の事だって。
 私は、物を隠す行為にスリルなんてもの、きっとこれっぽっちも感じていなかった。
 私は謝らなければならない。今まで彼女に対して、抱いてきたこと。
 「構って欲しい」?「顕示欲」? 今思えば、そうやって考える事自体が浅ましく思われる。大体、私の考え自体が間違っていた。
 
 彼女がそう見せてたんじゃない。
 私が、勝手にそう見ていたんだ。
 
 私が卑下したものを持っていたのは、私自身だった。



 どうして自分はこんなに不器用なんだろうか。

 他人には器用と言われ続けてきた。何もかも出来て、何もかも完璧で、私もその心づもりでいた。
 でも、それだってきっと、誰にも「不器用」だなんて言われたくなくって、必死になってただけ。
 本当は誰よりも不器用で、何にも出来なくて、何でも不完全だった。

 そんな私から見て魔理沙は、とても羨ましかった。私に無いものをたくさん持っていた。私には、不釣合いなほどに、輝いていた。

 手を伸ばすのは怖かった。一緒に居ても遠かった。本音は何一つ出せなかった。

 ____そんな私にも笑ってくれた。





 気付けば、私の空になったティーカップには涙が溜まっていた。私が紫陽花だと言った彼女の言葉で捉えれば、きっとそれは浄化作用か何かだと思う。私の瞳から毒がぽろぽろと溢れて、零れていく。

 私はやっぱり、まだうそつきだった。
 何が、「いつも通り」だ。こんな泣き腫らした目じゃ彼女に笑えないじゃないか。わらえないじゃないか。
 私は彼女といる時、とても安らいでいた。今思えば、風は凪いでいたような気さえしてくる。彼女が例え台風だとしても、きっと私はその目の中に居たんだろう。

 紅茶は勿論、二人分淹れてある。クッキーだって、少し湿った袋の小麦粉できちんと二人分焼いた。けれど、それを笑って食べてくれる人はもう来ない。

 「シャンハーイ」

 ぐしゃぐしゃの顔で、隣で声をかけてくれた彼女に笑顔を向けてみる。新調した衣装はとっても彼女にお似合いで、可愛らしい。

 ねえ、私ちゃんと笑えてるかな。____魔理沙。
 
 







#11




 ご主人様は少し買い物があると言い残して出て行ってから少し経つ。その為今は糸も繋がっていない、ただの動かない人形だ。

 扉が音を立てた。もう帰ってきたのか、早いなぁ、なんていつも通り呑気に考えながらそちらを眺める。……しかし、残念ながら、私の目に入ってきたのはご主人様ではない。

 「……じゃま、するぜ」

 今まで聞いたことがないような、魔法使いの弱々しい声が聞こえた。



 私はテーブルの上の、まさに玄関から真正面の位置に置かれている。いつも魔法使いが座っていた椅子辺りの場所だろう。それ故、扉を開けた魔法使いからは真っ先に見え目立つ物のはずなのに、辺りをキョロキョロと伺いながら侵入してきたその視界にはまだ映っていないようだ。
 しかし、それから程無くして魔法使いは私に気づいた。そして、大きく目を見開く。

 「…………上海、か?」

 恐る恐る近づいてくる魔法使い。私と魔法使いの距離はだんだんと狭まる。そして、魔法使いと私は丁度見つめあうような恰好になった。
 するといきなり少し乱暴っぽく右手で私を持ち上げ、魔法使いのほぼ顔の辺りで留められる。

 私の目は、魔法使いの瞳に写りこんだ私の姿を映していた。
 _____それは、その姿はまるで。


 「私、じゃないか」
 魔法使い、じゃないか。



 瞬間、はっとした。私が今まで抱えていた疑問は一気に氷解を始める。
 
 何故、私が自立人形にされるのか。その理由は今までいくら考えても、分からなかった。けれどやっといま、その謎が解けた。

 私が、この目の前の魔法使いをなぞらえて作られた人形だからだ。
 ご主人様は、実際の魔法使いでなく。
 彼女にも届く、彼女にとっての理想の魔法使いとして、私を自立人形にしようとしていたのだ。

 いつだか、ご主人様が、自らの持論を帽子探しの順序立てとして無理やり引用していたのを思い出す。

 『人形も、無論魔法だって形から入るのが基本なの』

 私の形は、魔法使いの形だったのだ。
 私は、魔法使いの人形だったのだ。

 「シャンハーイ」

 何故だか、小さく声が漏れ出た。ご主人様の魔力の残り香でもあったのだろうか。しかしその小さな声が魔法使いの耳に届くのには十分過ぎる声量である。

 「……これ、って」

 紅魔館の大図書館。魔女に叱られながらも、魔法使いがふざけて口にしたあの時のあの声が、私から再生されたのだ。魔法使いが驚くのも無理はないだろう。ここ最近は、ずっとこの声を使っている。ふと魔法使いの口元を見ると、それは強く噛まれていて、表情はとても苦しそうだった。
 ギュッ、と魔法使いの右手に力が入ったのだろうか。身体が絞めつけられて痛みを感じる。そして魔法使いは私の頭の上に載った、魔法使い本人の物と比べるとずいぶん小振りな帽子を外して、あの棚の中へと放り込んだ。
 よく見ると、魔法使いの左手にはふやけた帽子が握られている。それではなく、私の帽子をあの棚に放り込んだ魔法使いの気持ちも、私には察する事が出来た。
 私の、ひいては魔法使いの帽子を模ったものを棚に戻すことで、また昔の関係に戻りたいのだろう。


 魔法使いは肘で扉を器用に開けた。外は晴れ渡っていて、とても日差しが眩しかった。私は帽子を目深に被ろうと右手で帽子の鍔を握ろうとしたが、其処にはもう帽子は無かった。













 着いた場所は、湖の真上。こないだとは打って変わって雲一つない景色の中だ、通り抜ける風も気持ちの良いものばかりであった。

 「……なにが、ありがとう、だ」

 魔法使いがポツリと呟いた。私は黙ってそれを聞く事しか出来ない。

 「……私だって、さいてーだよ」

 …………嗚呼。そうか。
 魔法使いは、私を此処に投げ捨てる心算なのだ。
 しわくちゃの帽子の中に私を包んだ時、一瞬見えた魔法使いは、とても悲しそうな顔をしていた。私の表情ももしかしたら、あんな風になっているかもしれない。直ぐに私の視界は闇に覆われて何も見えなくなる。

 「…………ほんとうに、ごめんな」

 そう言いながら、振り上げた右手をそのまま______。




 ……そのまま、右手に掴まれたまま、動きは止まったようだった。現に、私と帽子は空を舞っていない。


 ____やっぱり、出来ない。


 そんな思いが、帽子で姿形も見えない魔法使いから聞こえた気がした。



 「……じれったい、ああ、もう」

 私はそう口にして、身体を震わせ彼女の右手から自らを振りほどかせた。

 あっ、と素っ頓狂な魔法使いの声が聞こえた気がする。本当なのか気のせいなのか、なんて、もうどうだってよかった。


 私はとっくに、決めていたのだ。
 私はご主人様の幸せの為なら、自らも厭うと。



 世界はスローモーションなどにはならない。何かを感じる暇もない。

 ぐるりぐるりと決して規則的には回転せず、お世辞にも空を飛んでいるとは言えない形だろう。弾幕ごっこで落とされたようには見えるかもしれない。

 時々、帽子の隙間から眩しい日差しが覗き、私を襲う。重力が私を押しつぶすかのように、私とそれを包む帽子を押し潰す。

 まるでこれは、地獄のような一瞬でもあった。けれどこれもきっと、こうならなければならない運命だったのだろう。

 楕円形の、よく分からない物体になりさがった二つは急加速して落ちていく。重力に勝てる訳などない。どうせ、このまま湖に落ちるだけだ。

 けれども、確かに私は私自身の意志で、……私自身の運命なのかも、しれないけれど。


 「__________。」


 真下の湖へと、落ちていく。







 ザブンっ、と水しぶきをあげて湖の底まで一気に落ちていく。
 帽子とはその中で逸れてしまい、どこか視界の隅へと消えてしまった。







 きっとこのまま、私は何もかもすべて消えてしまうのだろう。誰にも拾われることなく、この湖の藻屑になるのかもしれない。
 けれど、それも構わない、と私は思えていた。
 
 ふと、水で歪む視線の先に見覚えのある形をした花が沈んでいたのが見える。

 紫陽花。

 水分を吸い過ぎてしまったのだろうか、それは既に枯れ切って、もうすぐ形を留める事すら出来ない程にボロボロになっている。
 きっともう毒は無いのだろう。私には何の変哲もないその事さえ、何の心配もいらない、ありがとう、とご主人様が私へそう伝えてくれているように思えて。

 薄れゆく意識の中で、確かに私は笑った。
 
 帽子と人形、それから溢した小麦粉。
 
 それだけのものを失くしたけれど、ようやく二人は笑いあえた。

 きっと、二人は幸せだ。
 
つばさ
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コメント



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8.無評価名前が無い程度の能力削除
ハーブティーは紅茶じゃないよ
9.100名前が無い程度の能力削除
こういう話好きだなぁ
12.40名前が無い程度の能力削除
紫陽花といえば梅雨ですが、作中で雨を意識させてくれれば、と思うのは贅沢でしょうか。
基本的には上海人形の一人称で語られるこの物語。どこか感情移入ができません。
何故か? 情報が後出しだからかな、と。

上海が魔理沙との相似に気付くシーンがあります。しかしそれまで、暗喩なり直喩がありません。
あったかもしれませんが、気付けませんでした。読み込み不足と言えばそうですが、分かりやすくして頂ければ、と。
それが代表ですが、他にも幾らか。
例えば、帽子に拘る魔理沙の理由です。何故そこまで固執するのか? 分かりません。代替なら幾らでもあるでしょうに。
そうした点で、印象的なシーンを入れて欲しかったな、と思います。根幹とも言える部分で、「大変そうだなー」としか思えません。

アリスの隠し切れない感情的な面。人間味が溢れていて、これは好感を持てました。
魔法使いとしてどうなのか、と言われれば首を傾げざるを得ませんが、こういった面もありだと思います。

寂しがり屋と献身的な人形。儚く救われない物語でしたが、やはり綺麗だとも思いました。

>本は開かず何事も怒らなかったようだ。
誤字の報告。

それと老婆心ながら。
括弧で一字下げは必要ありません。
「ダッシュ」を変換したら「―」がでます。
13.70名前が無い程度の能力削除
上海視点だからこそできた作品だなぁ
後書きで二人のハッピーはほのめかしてるけど、願わくば帽子と上海にもハッピーを…とか思うのはわがままかな
19.無評価名前が無い程度の能力削除
人の本は取っていくのに自分の取られたら怒るとかマジクズだな魔理沙は