おっはなばたけにゃ、おにがすむ♪
おはなにかこまれ、にこにっこえがお♪
ひーがさかたてに、わらってる♪
とーおりゃんせ、とおりゃんせ♪
小さな花だった。
初めて花を咲かせたときのことを、幽香は今でも覚えている。
小さな花だった。
風が吹き、雨が少し強く降れば、たちまち散ってしまうような、そんな。
その花のことが、気になって仕方が無く、幽香は、幾日も幾日も、お気に入りの日傘を手にして、どきどきと高鳴る胸でこの花のことを見守った。
花は、風が強く吹き、雨に晒され、ときには、獣やそこらの心得ない妖怪などが通りがかれば、踏まれて潰れてしまうかとも思われる。
花の花びらは、ほんの数枚で、指につまめないほどに小さく、そっと触れることもためらわれた。
幽香は、その強力な力をふるう指先で、おそるおそる花に触れ、そっとなぞっては揺れるのを確かめると、また離してため息をついた。
花は強かった。
何よりも強いように想われた。
いつまでもいつまでも、けして枯れることがなかったからだ。
その様は、やがて幽香の心にも、消えることのない一輪の花を咲かせ、いつまでも咲き続けることになった。
幽香は昔から、それこそ何百年と昔からだ。今のように、日傘片手に放浪する身となる以前から、花というのが、それはそれは好きだった。
それはそれは好きで好きで、一年中でも眺めていたいとさえ思っていたほどだった。
そう思いいたったあげくに、ある日、住んでいたところやなにやらをいっさいがっさい放って今の放浪生活に、ひょい、と入ってしまったほどだった。
巡る四季を追いかけて、花と共に移ろい、花と動き、花と過ごす暮らし。
幽香が、今の放浪をやらかすようになってからというもの、幽香の回りからは、花が絶えることはない。
幽香は、この暮らしがとても気に入っていて、幽香風に言うのなら、それはそれは満足だと思っていた。
妖怪であるから、幸せがなんだだの理想の生活がなんだだのと、そういう俗っぽいことは言い出さない。が、人間の価値観から照らしあわせて言えば、それは、そういうものにあてはまっていた。
幽香は、今の暮らしが、とてもとても気に入っていた。
妖怪というやつは、たとえば、組織に属する天狗やらでもない限りは、奔放なものだ。
たいがいが、今そこにあるもの、今自分の持っているものを手放すのに惜しいとは思わない。
ある日、手元にある物をいっさいがっさいひょい、と放り投げ捨ててしまうし、それがどんなに尊いものであっても『はい、もういらない』のひと言で終わり。
居場所も持たず、住み処も持たずに、ただの一匹、妖怪はふわふわとさすらい続ける。
そうして、いつの日かふっつりと消える日を迎える。
そのざまを、不義理、不道徳、と言う者はあれど、さもありなん、義理も道徳も何もなく、妖怪とは、もともとそういう生き物なのだった。
もともとがそのように生まれついているから、そうするのが、生のままの姿と言える。
ただ一匹きりの妖怪である幽香などは、ことのほか、その傾向が強いのだった。
その幽香が他のなによりもこだわるものが、大好きな花だった。
この世に生きる上で、花よりも大事なものはなく、また、花よりも尊いものはない。
あるいは、大事と言わず、尊いと言わず、たんに気が向かなければたちまちぶちりと引っこ抜いて、あるいは足で踏みにじったとしても、悼む心はこそとも持たないのかも知れない。
幽香が花に向ける眼差しには、そんな、なみなみならないものが見え隠れした。
なにせ、幽香が、花にそっと麗しい顔を寄せ、目を閉じて微笑み、香りを愉しんでいる姿には、そのような妖艶さ、または危うさといったものが、ひしひしと漂っており、見るものの心には、そういう一種の当惑さえ起こさせるようだった。
あるいは、もっと心の平々凡々とした者なら、単純に、こう感じたかもしれない。
なんとも、これは恐ろしい。と。
妖怪らしいと。
ある日のこと、このようなことがあった。
放浪の身を旨とするようなってからというもの、幽香は、ある日偶然見つけた土地に目をつけて、その日当たり心地の良さそうなのを好いことに、そこを、自分の所有する花畑と化してしまった。
物件などと言う、俗な概念のない妖怪にとってだから、それは、敷地と言うより『縄張り』のようなものだろう。
幽香の珍妙な能力の甲斐もあって、この無名の不思議な花園には、一年を通して、咲き誇る花が絶えないようになっている。
幽香は一年中を気まぐれに、ただふわふわと歩き回り、花を眺めて季節を過ごす。この畑を不在にすることも多かった。
しかし、いくら無謀で考え無しな、たとえば妖精のような連中であっても、この畑を通りかかって得意の悪戯におよぶ馬鹿者というのは、ひとつもいなかった。
それは、このような経緯も合ってのことだ。
ある日のことだ。一匹の、それこそ、どこにでもいるような妖精が、この畑を通りがかった。例の如く、妖精お得意の悪戯心を起こして、本能の赴くままに、その場で畑を荒らし始めたことがあったのだそうだ。
妖精は、もともと自然現象の具現なのであるから、それは草や木や花を大切にするのだろうと、まったく妖精にうといものにはたまに思わせるが、実のところは、真逆である。
妖精、というのは、総じて馬鹿であり、むしろ何をもって馬鹿、というのかといえば、たいていのものが、ものの痛みや、自分以外の生きものに対してその価値をみいだそうとしないことに、その主因があるのだという。ようするに、たとえば、これはよく言われることだが無邪気な子供というやつは、自分以外の小さな命に、価値やなにやらを見いだせず、楽しみの赴くままに羽根を千切って遊び、足をもぎとり、必死げにもがく体をつかんでかくも無造作にぶちりと二つに裂いてみたり、ぺりぺりと、まっぷたつに割ってみたりする。これは、無知と経験のなさがそうさせるのだというが、妖精と言えば、まさにそれを具現化したようなもので、人間とやらのように、ある程度の成長を見せないぶん、まことにたちが悪かった。それはあまり洒落にもならないことや、冗談にもならないようなことを、冗談として受けとってしまうし、やってしまうからだった。
あの花びらやら、羽根やら、脚やらをむしったりして、「きゃっきゃ」と笑いあう心理というのは、実際にやったものでなければ分からないのだが、ただひとつ言えるのは、やっている当人にとっては、それは、まことに楽しいものだということだった。
それは、自分が人の目にどう映るかと言うことをわきまえていないからだったし、あるいは、本当にたまたまの偶然、そこの畑の持ち主が、ひょっこりと帰ってきて、たまたまその現場に居合わせてしまったりしたときに、いったい自分の姿を見て、どういう感想をいだくのかということを、こそとも考えていないからだろう。
その後、恰好の遊び場を得て、幾人かの仲間を誘い、花畑に出かけていったその妖精が、仲間と一緒に根こそぎふっつりと消え去ったのは、それから数日ほどが経ってからのことだった。
何があったのかはしれない。
妖精というのは、たとえ死んだとしてもすぐ復活するはずだ。
それが、なぜかいつまでたってもその畑からは戻ってくる気配がない。
これを気にした少々慎重な妖精が、こっそりと畑に行って様子を見てきたが、やはり、どこにも姿がない。
妖精というのは、不思議なことが大好きで、臆病なくせにつきとめずにはおられない生き物ではあったが、しかしさすがに臆病なので、この不気味なことには、そろって尻込みし首をかしげていた。
はて、どういうことだろう。
不思議だな。へんだねえ。
のちに語られる逸話によると、ここへ、しばらくしてから、ぎゃあ、ぎゃああ、と青い顔をした妖精のひとりがやってきて、みなにことの真相を明かすことになっている。
この妖精というのは、行方知れずになった妖精たちとは、また、別の妖精のひとりで、なんとも愚劣きわまりないことに、例の行方不明事件の後にもあの畑に出かけて、ひとり遊んでいたというのだ。
というのも、なんともありがちな話で、この妖精、いわゆる仲間のうちでは、ちょっとした、嫌われ者のはぐれものである。生来の勝手すぎ、配慮のなさすぎがうとまれて、遊びの輪から遠ざけられることしきり、当然ながら友人の少ないこともしきりだったのだが、ある日、この噂を小耳に挟んで、よし、それならいっちょ自分がいってやろうと、まことにさもしい考えを描きながら、いさましく畑に向かったのだという。
まあ、不心得な者は者なりに、やはりだれにも相手にされないのはたいそうさみしいという気持ちがあったのだろう。自分を相手にしない連中を、なにか違う形で見かえしてやろう、ふりむかしてやろうとするのは、人間にせよ妖精にせよ同じことで、ただ惜しむらくは、どうにもこの妖精には前述の妖精とは違い、少々慎重さが足りていなかったということだった。
行ってみて、あまりに何もないことに安心したのか、それとも愚か者特有の根拠のない慢心故にか、しだいに生来の悪戯心に任せて、この花畑を遊び場と定めてしまったのだった。まともに考えて分析をするならば、前後の状況から見ても、どう考えても、それは絶対にやってはいけないことだっただろう。英断と愚行のはざまとういおうか、なんといおうか。ともかく、その勇敢な妖精の、いとも楽しげに一人遊ぶ様子を目にして、ある日、ゆっくりと日傘片手に歩み寄る、呑気な麗人姿の笑顔があった。
もちろんこれが、妖精の行動をほんのたまたま目にした花畑の主、風見幽香その人であったことは、もう言うまでもないが。
あらあら、とってもたのしそうねえ。
どこか呑気そうだが、ひどく聞く者の心に鳥肌を立てるような響きをもって、その麗人はまず言ったという。
あなたはどちらの妖精さん? 悪い妖精さん? それとも、善い妖精さんなのかしら?
にこにことした天使のような笑顔が日傘に隠れ、なぜか妖精にとっては、それが邪悪な魔物の舌なめずりするような顔に見えたらしい。
見た瞬間からなぜか腰が抜け、すでにその場から動けなくなるほどの恐怖を覚えていた。
まあ、そんなはずはないわよねえ。魔物は言う。
善い妖精さんなら、こんな悪さをするはずがないものね。それはそれは悪い妖精さんに決まっているわ。困ったわねー。魔物はむしろ幼子をあやす、慈母のような声音で言った。悪いことをしたら、罰を受けなければいけないもの。悪い妖精さんには、お仕置きをしてあげなければならないわ。本当なら、私もとても心根が優しいものだから、こんなことはしたくないのだけれどね。
それこそ妖精の頭にもわかるほどの白々しさで、その綺麗な顔の魔物は言ったという。地獄の閻魔様が聞いたら、むしろ青筋を立てて「地獄行き」と怒りだしていただろう。
それともあなたは、ほんとは善い妖精さんなのかしら? いえ、もしそうなら私も見逃してあげようと思ってね。
魔物は、続けざまに言う。
だって、善い妖精さんなら、こんな悪さをするはずがないでしょう?
なら、これをやったのは、あなたじゃない他の誰か。あなたはたまたまここに居合わせただけの、運の悪い、とっても可哀想な妖精さん。つまりはそういうことじゃないかしら?ちがう?
魔物の言うことは、どこか微妙におかしいような気もしたが、まあ考えても見て欲しい。蛇ににらまれた蛙の如き妖精には、自分がさっき千切って遊んでいた花の茎を握りしめ、半泣きのふるふる顔で、ぶるぶると頭を振るくらいしかできることはない。
ちがいます。
わたしじゃないです。
そういう口がぱくぱくと空回り、あうあうと言葉もなく尻餅をつくのみだった。もちろん、言ったら言ったで、目の前の魔物は許さなかったのだろうが。
あらまあ、可哀想に。声も立てられなくなっちゃったのかしら?
くすくすと、邪気のない笑い声を立てて言う。
まあ、それでも別に構わないのだけれど。
魔物は笑わない目で言った。
ああ、そうね。それなら、あなたが善い妖精なのかどうか、これから私が魔法をかけて、確かめてあげようかしらね。
魔物はさらに言う。
「この魔法はね、とても便利な花の魔法。魔法をかけられたものの心が、潔白であるなら何も起きないのだけれど、もしそのものが悪い心を持っていたのなら、たちまち体が花に変わってしまうのよ」
あくまで優しく、諭すように魔物は言った。
あるいは、ちょっと愉しむように、とも言えたが。
「ついこのあいだも、この魔法を掛けてあげた子たちがいたけれど、どの子もやっぱり花に変わってしまったわ。なんて悲しいことなのかしらね。ああ。ちょうどその辺りにどの子も咲いていたんだったかしらねえ。そうそう。どの子もそれはそれは綺麗な花になってくれていたわ。残念なことに、それももう散ってしまったようだけれど」
と、白い指先で示したのは、さっきまで妖精が遊んでいたところではないか。
もちろん妖精自身の手によってそこらの花はいたずらに引っこ抜かれ、無邪気にちぎられ、ばらばらと散乱してはいた。
なんてことをするのよ。
痛い。
やめてよ。
痛いよ。
痛い。
声のない叫びが、なぜか聞こえる気がして、妖精は震え上がった。
手にした茎の付け根から、真っ赤な血がだらだらとしたたっているような、そんな錯覚を覚えた。
「妖精ならともかく、花では声もあげられないものねえ。まあその子たちは少々騒がしすぎたようだから、ちょうどよかったのだろうけど。さてさて、あなたははたして、花に変わるのかしら。変わらないのかしら。変わるとして、それは、どんな綺麗な色の花なのかしらねえ…」
そこらへんが、その妖精の限界だった。
「うずどぎゃああああああああああ!!」
と、いてもたてもたまらず、悲鳴を上げ、ガクガク揺さぶれる脚を動かして、その場を転げるように逃げ出した。
愚か者の強いところというのは思うにこういうところであって、鈍いが故に、そこらの中途半端にはしこいものより生物的な本能に忠実に行動できるというか、なんというか。
「あら残念」
置き去りにされた魔物は、肩をすくめて言った。
「魔法をかけるまでもなかったわね、これじゃ」
そんな経緯もあってか、花畑の秩序は、暗黙のうちに静かに保たれていた。
この話を伝え聞いた妖精たちが、恐ろしさのあまり、花畑に入るのを自粛するようになったのは言うまでもなかったが、そもそも、反省も成長も知らない妖精を自粛に追い込むこと自体が、並大抵のことではないと知れる。
恐るべきは、風見幽香である。
ちなみに、この話の後日談として、花に変えられたはずの妖精たちが、三月ほどして全員戻ってきたという話が存在するが、蛇足なので、ここでは割愛させていただきたい。
そういうわけで、この話は、ここで終わりであるが、話自体はまだ続く。
そのようにして、順調に周囲に恐怖を植え付けていき、自分なりの暮らしやすい環境をつとめて自然に作り上げていった幽香だったが、そこへある日、珍しいことが起こった。
それは、幽香自身にとっても少々予期せぬ事態ではあったのだが、大したことであったかと言えば、どうやらそうでもない。
そもそも、あの悪名高い(妖怪のあいだではだ。もちろんだが)博麗の社のすぐ近くに、これだけ堂々と居を構えのほほんとしている時点で、風見幽香というのは尋常ではないたちの妖怪だったといえるのだが、なにせ、当代における博麗神社の主、博麗霊夢といえば、妖怪とやり合えば百戦錬磨、はてはあの恐ろしい魔界に単身乗り込んでいって、魔人や悪魔、または強力な力を有する、魔界の創造神とすらがちで渡り合い、ひょっこり生きて戻ってきたという噂のある人間界最強の豪傑(暫定)、生ける伝説なのである。
ちらりとでも、その名を知っている妖怪なら、裸足で逃げ出すこと請け合いの怪物であるし、妖怪の中の賢明な者なら、まず半時と視界のなかには収まっていたくない相手ではあった。
半時もあれば、自分が祓われるのに十分すぎるからである。
そんな妖怪にとっての化け物と、少しも恐れることなくつきあえるという時点で、風見幽香を脅かせる者は、人妖含めてもこの幻想郷にはめったにいないと言えたし、幽香自身も、けして慢心するようなたちではないので、ごく自然に『私が強い? ええ、そんなことはわかっているけど、それが?』と、人に言われて、小憎たらしく首をかしげられるようなところだった。
そんなだから嫌われるのだが。
まあ、だものだから今さら、本気でそのような真似に及ぶ馬鹿者が出るとは、思ってもみなかったのだ。
風見幽香の噂を、ちょっとでも耳にしているものならば、その視界に半時と収まっていたくないという考えくらい、普通に抱くだろうからだ。
まあ言ってみれば、なんのことはない。
畑に泥棒が出たのだ。
花泥棒。
花泥棒である。
なんとも無謀な響きである。
幽香の大事な大事な花畑を荒らす者が、どういう末路をたどるかは、だいたい前述して示したとおりだが、そもそも風見幽香というのは、妖怪の中でもたいそう手前勝手な類のもので、その清楚で可憐(笑い話だが、人里のなかでは本気でそう思う者もいるらしい)な姿とは裏腹に、その実、あまり女生らしくない性格をしていた。
どうせ妖怪などというのは、姿かたちが人間に似ている、というだけで、その正体や中身は、かぎりなく近いながら、実はまったくその限りでない。
と、いうのは通例ではある。
だから、幽香は女性らしい、というよりは、かぎりなく妖怪らしい性格をしていて、むしろそのほうが自然である、というのは、もう言うまでもないことではあった。
すなわち、自分よりも弱い者には、すこしも興味がいかない。すなわち、基本的に相手の神経を逆なでして話すのが大好きである。また、非常に好戦的であり、そのじつ、自分の身を腐心し危険を避けるすべに長けている。
後半は、その姿どおり、女性らしいともとれるだろうか。
もうすこし付け加えれば、基本的に残忍で、狡猾で、やや陰気をこのむふしがあり、たとえば力で弱者をいたぶるのに、躊躇いや情けを感じたりしないというところがあるだろう。また、己のためなら、他者の犠牲をなんらいとわず、鼻歌交じりにふみにじって平気でいられる、というのも挙げられる。
そんな幽香が、あからさまな花泥棒の所業を見つけ、また相手が明らかに何の力も持たない脆弱そうな人間だったことを確認したとして、どうするかといえば。
こうだった。
まず、声をかけたとたんに、相手が逃げ出したために、適当なところで追いついて、にこにこといつもの笑顔で、幽香は相手を追いつめた。
いけない子ね。
笑顔とはいえ、当然のことながら、例の如く、目は少しも笑っていない。
そして、そこへ来て、いつものあの柔和な声である。
小癪なる不届き者の正体は、なんとまだ年端もいかない人間の娘で、いくら自業自得とはいえ、むしろ、こんな小さな少女が、あの風見幽香の笑顔の前に引き立てられていることを、心ある者は同情するべきだった。
「自分がなにをしてるのかわかっているのかしら?」
ちょうど季節は夏の盛り。みんみん蝉の鳴く真っ白な日ざしの中、緊張と恐怖に汗ばむ肩から伸びる未発達の手足は細く、幽香がちょっとつかんで「えい」と力をこめたら、まるで飛蝗の脚のように、ぽきりと折れてしまいそうではあった。
「みのがしてください」
不届き者は恐怖にかすれ、か細く震える声で、なんとも気丈にそう言った。ちいさい唇がたえがたい緊張に震えており、白い喉が、いまにも詰まりそうになっている。
うちの犬が、病気なの。
今年の夏は、暑いから、ずっと元気がなくて。
このままじゃ、死んでしまうの。この花はおくすりになるから。だから。
「あら、その花が薬になるだなんて、よく知っていたわね」
幽香は呑気に言った。
「あなたは、自分の犬のためにここまで来たの?」
おずおずと少女が頷くのに、幽香はいかにも気まぐれそうな様子で肩の日傘を揺らした。
ふうん。
そう。
それはさぞかし大事なお友達なんでしょうね。
いつもの優しげな口調で言い、笑顔で少女を見下ろし、続けてこう言う。
「でも、あなたは私が大事にしている花を無惨に摘み取ったのだから、それなりの覚悟はあるんでしょう?」
幽香は目を糸のように細めて、首をかしげた。
「悪いことをしたら、報いを受けなければいけないわよね?」
幽香は言うと脚を上げ、反射的に思わず片手で顔をかばった少女を蹴りつけ、腹を蹴りつけ、地面に倒れた後にも、さんざんに蹴りつけて、たちまちずたぼろになるまで、華奢な体を痛めつけてのけた。
もちろん、妖怪が本気の力でこれをやったら、そのまま骨からなにからぐしゃぐしゃになってもおかしくなかった。が、そこは幽香もちゃんと加減をしていた。
ただ、それが嫌味なほど正確に、死なない程度で、しかも笑ったままそれをやるものだから、はた目には凄まじく恐ろしげに見えた。
少女がぴくりとも動かなくなると、幽香はさすがに痛めつけるのを止めて、あとはその場にほったらかしにして、帰って行った。遠目から見れば鬼である。
まあ幽香の力のほどや、もともとの性情を考えれば、命があっただけでも、御の字とはいえる。
いくら平和呆けが進んだとはいえ、幻想郷の力ある妖怪を下手に怒らせた場合、そのまま慰み者になったり、最悪の場合は殺されて食料になっていても、なんら不思議はない。
幻想郷の妖怪たちの間では、妖怪の長老同士や、賢人とあだ名される者たち同士が集会して、その秩序を守るため、独自の掟を制定しているのだ。幻想郷屈指の古参妖怪のひとりでありながら、孤高を保ち続ける幽香などは、これを“敬老会”と揶揄して笑うが、そのために基本的に妖怪は、人間を過度に殺して喰ってはならないと決まっている。
これは、法ではなく、しきたりであるから、破ったときの刑罰は過度に重かった。最低で殺されるし、最悪、外の世界への追放がある。
誰もこれを破ることはないのはそのためだし、もちろんのこと、幽香もそうだった。
あの八雲の賢人のように、怪物じみた頭脳を有しているわけでもないが、ひょいひょいと自分の愉しみの最中にも、自分の身をおもんばかって事態を愉しみ、また、たとえそれに夢中になるようであっても、引き際を誤らない程度には、幽香は奸智を備えているといえる。
要するに、敬老会の面々を敵にしてやりあっては、自分も無事に済まないくらいのことは、分かりきっていたのだ。
幽香は自分の力が絶対のものだなどと信じてはいなかったし、また、現実的で正直でもあったために、力を抑制し、強い力を求めるのには手間を惜しまなかった。
それからすこし経って、わずか二週間かそこらのことだったと思うが、少し変わったことが起きた。
その日も同じように、幽香は、日傘片手に畑の見回りにいそしんでいた。
すると、つい先頃にあんなことがあったばかりだというのに、畑の背の高い花の影で、蠢いている不審な影を発見した。
幽香はすぐに近寄っていって、声をかけようと思ったが、その影の正体を認めて、それを止めた。
影の面には見覚えがあった。
よりにもよって、それは先日、自分がずたぼろに痛めつけてやったあの娘ではないか。
まだ怪我が治りきっていないらしく、幽香の蹴り足を入れられた顔には、目の上や頬には、湿布やら何やらが痛々しく貼られてあった。
幽香は言った、
「何をしているのかしら?」
幽香が近づいてくることには気づいていたのだろうが、娘はちらりと見ただけだった。そのまま別段逃げる様子もなく、しゃがんだ手元に視線を落として、植えられた花に手をのばしている。
ぼそりと言う。
「お花の世話」
ぽそりとだが、はっきりとそう言って、娘はたしかに、言ったとおりのことを続けているように見える。
すぐ傍では、自分で持参したらしい水鉢の水が、なみなみと揺れている。
「誰かがあなたにそれを頼んだのかしら?」
「別に。頼まれてないけど」
娘は頑固そうな横顔をこちらに見せて、もくもくと手元を動かしている。
はしこそうだが、どことなく生意気そうな口調である。
「あなたに花の世話が出来るとは思えないんだけど?」
幽香は言った。
「出来るわよ。私の家、お花屋だもの」
娘は言った。
「あら。するとお花を摘みとって売るお店なのね」
「そうよ。ちゃんと大事に育ててるもん。種だって売ってるし」
やや子供っぽい口調で、娘は言った。
間近で見ると、ずいぶん肌が白いなと幽香は思った。
「そう。まあ、勝手になさい」
幽香は言った。
娘は黙々と手を動かしている。
その日の夕方頃まで、娘はそれを続けた。そして、日が傾きかける前に、帰って行った。
暗くなりかける前に帰りなさいよ、と言ったのを、聞いたのかはわからない。
娘は、翌日も同じようにしてやってきた。
そして同じように花の世話をしていく。幽香は黙っていた。
そう言う日は、その後何日か続いた。
よほど天気の悪い日以外は、娘は休む様子もない。毎日畑にやってくる。
雨具や何かは持ってきているようだが、幽香は雨の日や、急な土砂降りのあった日は、風邪なんか引かないよう、娘の身体を気遣ってやった。
娘はありがとう、と礼はきちんと言うが、いらないことはまったく喋らなかった。時折幽香に話しかけてくることもある。花の世話で分からないことがあると、ちゃんと聞くところがあった。幽香は丁寧に答えてやった。
そんな日が、さらに何日か続いた。
娘はまだもくもくと畑に出入りしている。
幽香はだんだん、いらいらしたものを感じはじめた。
娘のことが、わずらわしくなりはじめたのだ。
妖怪というのは、もともと人に馴れないものである。それでなくても、幽香は自分の領域を他人に侵されるというのが一番嫌いなたちである。
理由もよくわからない人間の小娘が、自分のお気に入りの空間にながながと出入りしているのを見ては、さすがに不快を感じる。
そろそろ追っ払うか、と幽香は思い、ある日その旨を伝えた。
「悪いけれど、明日からは来ないでちょうだい。正直、迷惑なのよ」
さらりと幽香が言うと、娘はとくに反応も見せなかった。ただ少し、眉が動いたのが目に入った。
動揺したのだろうか。
幽香の目の辺りを見て、娘はちょっと視線を彷徨わせた。幽香は、さっさときびすを返した。
翌日、娘は同じようにやってきた。
幽香は娘を見つけると、水鉢を蹴って転がした。
ばしゃり、と水が跳ねる。
幽香は言った。
「昨日、私が言ったことを聞いていなかったの? 迷惑だって言ったでしょう」
娘は、水鉢を拾うと、黙って帰って行った。
こころなしか、足どりは重くなっていたようだ。
幽香はとくになんとも思わずに、花の世話を続けた。
その翌日。
また娘はやってきていた。
幽香は娘を見つけると、黙って近づいて、胸ぐらを掴み上げた。だらん、と娘の細い身体が宙に浮く。
娘はさすがに、恐怖の色を浮かべていた。
幽香を見る瞳が強ばっている。
幽香は言った。
「食べるわよ、あんた?」
幽香は、娘を見て言った。
娘は悲鳴も漏らさずに、身じろぎした。
幽香は言った。
「いい加減にしなさいよ。昨日、私がなんて言ったのか聞いていたでしょう? その前も。ふざけてるの? 私は、あんたがここに来るのが、迷惑だって言ったのよ。さっさと消えなさい」
幽香は言った。
娘は答えようもなく、苦しげにみじろいでいる。幽香は逃がさないよう、襟を絞って、娘を大人しくさせた。ちょっと力を入れれば、簡単に折れる身体だ。
幽香は、娘をぶら下げたまま、黙って瞳をのぞきこんだ。
妖怪などがよく持っている、人外の赤い瞳である。娘の瞳は、恐怖と不安と苦しさがないまぜになった色で固まって、ときおり激しく揺れてもいた。
「……ら……」
と。
身じろぎも出来ないと思っていたが、娘はなにか言っている。
唇が動いている。幽香はちょっと怪訝に思った。
娘は黙って、幽香の目を見ている。いや、たんに首が固定されていて、逸らせないのだろうが。幽香は、娘の目を見た。少しでもの詫びと懇願を求めて、目まぐるしく瞳の色が変わっている。
「なに?」
幽香は気まぐれを起こした。声が出るくらいには緩めてやったのだ。
「……お礼だから……」
お礼だから、と娘は言った。
お礼だから。
幽香は怪訝な顔をした。
黙ってみていると、娘は恐怖に押されるようにして、懸命にしゃべりはじめた。
あなたは、私のことめちゃくちゃに殴ったけど、でも花だけは取らなかったでしょ。私の犬がそのおかげで助かったから。だから、これはそのお礼だから。
「おね、おねがいします……」
娘は、恐怖のあまりに、どもりながら言った。幽香にお願いした。
「……。……はあ?」
幽香は思わず、素になって問い返していた。
襟首を掴んだ指が、思わず緩んでいた。が、幽香は構う余裕がない。
そのまま、娘をぼとりと落とす。
娘は、こほ、げほ、と足もとで、大きく咳き込んだ。
幽香は、じっとりと見下ろした。
――この娘は、一体何を言ってるんだろう。
幽香は思った。わりと本気で悩んで。
こいつは、頭がおかしいのか?
お礼ってなんだ、お礼って。
幽香は思った。もろもろのことが、頭のなかをぐるぐると駆けめぐる。
幽香はずばぬけて頭が切れるほうではあっても、妖怪なので、実はあまり細かいことが考えられない。
やがてそのえたいのしれない感覚は、怒りのようなものから、徐々に急激に、呆れへと変わっていった。
幽香は、眉をひそめ、頭を抱えた。
なにやら頭痛がしそうな気分だった。
ここ何十年か、全然感じてなかった感情である。
どうやら、自分は心底、目の前の娘に「呆れた」ようだ。
それはわかる。
さっきまで感じていた殺意じみたものもすっぽり消えてしまっていた。
なるほど。自分はどうやら、すっかり気を削がれているらしい。
幽香は、なんともつかない顔で、眉を思いっきりハの字にした。はためには、困り顔のように見える顔で考えた。「うう」とうなり声でも上げそうな顔である。
そして、やがてあきらめたらしい。
「……そう。ああ。そう、ええと。まあ、うん。なら勝手になさい」
幽香は言った。
結局、億劫そうにそう言った。
娘はなにも言わなかった。ただ、翌日からも花畑に来て、もくもくと動いていただけである。
そうして、このちょっとへんな関係は、ようやく、両者の合意の元に黙認されることになった。なってしまった。
一度、心底呆れてからは、幽香は何も言わなくなった。
ただ単純にニコニコ顔をむけると言うことも無くなった。
どちらかというと、娘に接するやり方に、不自由を覚えているような様子だった。
娘は気にすることなく幽香にときおり花のことを聞いた。
娘は無愛想だった。
幽香もとくに愛想良くすることなく、丁寧に花のことを教えてやった。
娘は幽香に対しては笑わなかった。
が、花の世話をしているときなどは、横顔がやや緩んでいるように見えた。幽香はそのことに気づいていたが、相変わらず娘に対しては、気軽に笑わなかった。
娘は、いつしか、一度来た年の夏から、次の年の夏、また次の年の夏、と、毎年、太陽の丘にやってくるようになった。そうして、幽香がしつらえた花畑の世話をしていく。
それは、幽香が何も言わずとも変わらなかった。幽香もそのことについては、何か言う気は沸かなかった。
娘は黙々と花の世話を続けていた。年を追うにつれ、来る日数は少なくなっていたが、世話に関してだけは、手間を惜しまなかった。
もともと、幽香の気質は花のようなものである。
相手が自分や、自分の住む環境に害を為すようなものでないとわかれば、風景の一部として相手を受けいれることはできた。娘もそのようなものとして受けいれられた。
娘が来ても、幽香は特に何も言わなかった。来なくても何も言わなかった。変わらずに接した。
だものだから、娘がしばらくして、畑に来なくなったのを気づいても、あとからふとああ、そういえばと思っただけだった。
それだけだった。
娘が畑に来るようになって、そのとき、すでに七,八年が経っていたが、それでも幽香はそう思っただけだった。
人間にとってはけっこうな年月でも、幽香にとっては、ほんのひょいとした昨日のことである。
感慨なんかはあるはずもない。
娘が来なくなっても、幽香は、いつものように、一人で花の世話をした。
いつもよりも、妙に手間がかかったな、と、ちらりと思ったが、それもまるで気にしなかった。
来なくなる直前の娘は、まるで花のように色づいていたな、と少しだけそう思った。
そんなふうにして、最初の夏から十数年ほどが経った年の夏だった。
しばらくのあいだ、顔を出していなかった娘が、その年の夏、花畑にやってきた。
人間の成長というのは早いものだ。
すっかりと背も伸び、手足は長く、大人びた顔立ちに、頑固そうな眼差しだけが変わっていないようだった。
「こんにちは」
娘はにこりと笑った。
ああ、誰かと思えば。
「また来たの? てっきりもう来ないものだと思っていたけど」
幽香はそっけない様子で対応した。娘は笑って、すみません、と言う。お店の方が忙しくて。たまにしか来れませんでした。
そう。
幽香はいつものとおりにあっさりとかわし、慣れた手つきで花の世話をいそしんだ。いつものごとく、時間が流れる。
「本当のこと言うと、わたし、ずっと幽香さんのこと恐かったんですよ」
なんの前触れもなく娘が言った。
「ほら。幽香さんて、いつもにこにこしてるけど、ときどきすごく恐い顔するじゃないですか。わたし、いつかその顔が自分に向けられて、食べられちゃうんじゃないかって、本当はずっとそう思ってたんですよ」
「ふうん」
ふうん。
幽香は言った。今さら言うことでもないな、と思う。
結局、娘は、幽香に並んで花の手入れを一通りやった。
袖の端から伸びた素肌がとても白く輝いているな、と幽香は思った。
そのまま、またたくまに夕方になった。
結局一言も口をきかなかったが、娘は帰り際に話しかけてきた。
「それじゃあ。今日は帰ります」
「ええ」
幽香は言った。
娘は笑った。
「私、今度結婚するんです」
不意に言う。
「そうなの? おめでとう」
幽香は言った。
「子供が出来たら、ここに連れてきてもいいですか」
「……いい加減にして欲しいわね」
幽香は、険悪げにうなって言った。
「あなたは、私を、いったい何だと思っているの」
幽香は言った。
娘は、それを聞くと、猫のように元気な微笑みを浮かべて言った。
――そう。
「残念」
言う。笑って。
それじゃ。また。
ちらりと視界のはしに花が映った。
ちいさな白い花びらが、空を渡る風にそよがれ、雲のように揺れている。
あの娘が、最後まで育てていた花だった。幽香は眉をひそめ、ちりちりと胸のあたりで焦げつく感情に、口を引き結んだ。
こんな感情は初めてだった。
花がこんなにも憎たらしいものに見えたのは、生まれて初めてだった。
一瞬、この場で引っこ抜いて引きちぎって、踏みつぶしてやろうかとさえ思ったほどだ。
なぜかその花だけが憎たらしい。
じっとうろんな目で花をにらみやり、幽香は静かな夏影の匂いをかいで、蝉の声を聞いていた。
その後、娘が本当に自分の子供を連れてきたのか、または、幽香がその花を結局どうしたのか。
それは今のところ、幽香自身にも語る気がないらしい。
そういうわけで、残念ながらこの話はここで終わりである。
太陽の降りそそぐあの丘には、今でも怖い鬼が一匹住んでいるらしい。
誤字っぽいものが
<それこそm妖精の頭にもわかるほどの白々しさで
まさに風見幽香だと言うしかないな。
けして→決して
回り→周り
脱字報告。
>「そうなの? おめでとう
閉じるカギ括弧が抜けてます。
そして多分幽香自身も自分のことあんまりわかってないんだろうね。
何にしても、幽香さんの考えは推し量りかねますね
女性じゃないですか?
ゆうかりんはオリキャラといると映えるね
ただ、幽香さん本気で怖いと思ったのは確かね。
でも、妖怪らしさを表す意図で書いたのなら、その技量は凄いですね。