ほろ酔いと呼ぶにはいささか強く酔いが回っていた。きっと眠いせいだ。
眠気覚しに合成ライム果汁が入った新型コロナビールをグイとあおる。
黄金色の瓶越しに見える蓮子の顔も真っ赤だった。彼女だって、標高3000mの世界で飲んでいるのだ。たとえ新型酒であったとしても、富士山の山頂と同じくらい酸素が薄い場所で飲んで平気でいられるはずがない。
「でさー、周りは全部砂漠な上にネットも不安定でしょ。娯楽が少ないのよ、ビクーニャを眺めるくらいしか楽しみがないのよ」
ゆらゆら揺れる蓮子が指を鳴らすと酒場の壁が透け、荒涼とした砂の大地とアルパカをスリムにしたような動物の群れが映った。彼女よりも酒に強そうな顔をしていた(あくまで私の主観である)。
「ビクーニャ可愛いでしょ、ビクーニャ」
蓮子がとろけた顔で笑った。
確かに私のゼミの教授よりは可愛いとは思う。だが、大学内に生息する猫と比べてどうだろうか。妙に人馴れして媚びた鳴き声をあげるとはいえ、ツバを吐いてこないだけマシではないだろうか。いや、ツバを吐くのはアルパカだったっけ。
回らない頭を必死に回そうとしているうちに、ビクーニャとやらの姿は消え、青々とした海と長崎めいた坂の街が映し出された。
「この間、サンティアゴに戻った時に、研究室の仲間と海の方まで旅行にでかけたの。これはバルパライソって街」
蓮子はケラケラと笑ってクンツマンビール(向こうで人気のビールらしい)をあおった。
無視されたようでなんだか腹がたったので、向こうの酒の肴を少しつついてやった。
「美味しいわね、このアヒージョ」
「あっはは。さすがメリー、味が分かるんだ。でも、こっちだとアヒージョじゃなくてピルピルって呼ぶの。間違えたら喧嘩になるよ」
短期留学で一ヶ月前に初めて南米はチリ共和国の土を踏んだばかりなのに、すっかり事情通の顔をしている。ああ、その高々とした鼻を折ってやりたい。
「エビとマッシュルームをにんにくとオリーブオイルで煮る、同じじゃない」
「文化が違うのよ。バスク地方からの移民が多かったみたいで」
「じゃあ、そっちのマリネは」
「セビーチェ。マリネじゃなくてセビーチェ!」
「何が違うっての」
「レモンじゃなくてライムの汁を使っているところ?」
お互い酔いが回っているせいなのか、会話がどんどん雑になっていく。まあ、京都の旧型酒専門酒場に通い詰めていた頃と大して変わっていない。変わったのは物理的距離くらいだ。
「訳知り顔で言わないでよ。自分で作ったこともないくせに」
「当たり。お惣菜屋さんって偉大ね」
蓮子はタコの足を咥えてチュルんと吸った。いつの間にか彼女の相棒はビールから白ワインに移っていた。
私も空になったコロナビールの瓶を部屋の隅にやり、用意しておいた赤ワインのボトルの栓を抜く。もちろん、チリ産だ。
温暖化によるブドウの産地の変化と新型酒への移行の荒波を越え、チリは未だにワインの一大産地の座を保っている。そして、学生御用達の安くて美味しいワインの座も。
今日のワインはパタゴニア産のカルメネール。どこかマゼランペンギンの味がする赤だ(あくまでも私の主観である)。
「パタゴニアかぁ。時間があったら行ってみたいんだよね」
「行ったらいいじゃない。高速鉄道なら日帰りで行けるんでしょ?」
「こう見えてもね、忙しいのよ。私には宇宙の真理を解き明かす使命があるから」
彼女が大仰に掲げたグラスから白ワインの雫が飛び散った。
「ああ、もったいない。格好つけたバチが当たったわね」
「科学の発展に犠牲は付き物よ」
「何を言っているんだか」
マゼランペンギンの血を飲み、ひとりごちる。見上げた頭上には満点の星空。
そして、四方の壁には太平洋の港町に代わって、星空の下に鎮座する無数のパラボラアンテナが映し出されていた。これが、今の彼女の目たちだ。ため息が出るくらいに美しい。
「きれいね」
「その上、飛び切り優秀よ。何十年も前に作られたとは思えないくらいに」
「ノーベル賞間違いなしね」
「物理学賞なら任せなさい」
「未来の受賞者に乾杯」
「そっちも生理学? 医学賞? とにかく乾杯」
南十字星の下で私たちはグラスを打ち付けた。
大言壮語もいいところだけど、アルコールは全てを笑いに変えてくれた。まあ、今はこれで良いのだと思う。たぶん、きっと。
「あっ」
「もう時間?」
携帯端末が鳴った。名残惜しいけど講義が始まってしまう。
私はグラスを置き、即効性の酔い醒ましを探した。
「オンライン講義ならアバターで参加しておけばいいじゃん。酒の臭いなんて分からないよ」
「うちの精神学の教授はそういうのにうるさいのよ。旧世紀の人間だから」
「へぇ、大変だね」
全然大変じゃなさそうに蓮子はワインをあおった。もっとこの時間と酒精を共有したかったけど仕方がない。
「また後でね。おやすみ」
「うん。またね」
蓮子に向かって手を降ってからVRゴーグルを外した。途端に夜のアタカマ砂漠が散らかった自室になる。窓の外に見える京都タワーが、嫌でもここが私の日常の世界だと教えてくれる。
地球の裏側の人間と宴会ができるなんて、ずいぶんと便利な時代になったものだ。
私はテーブルの上のどんちゃん騒ぎを片付け、グラスに少しだけ残ったパタゴニアの残照を飲み干した。
眠気覚しに合成ライム果汁が入った新型コロナビールをグイとあおる。
黄金色の瓶越しに見える蓮子の顔も真っ赤だった。彼女だって、標高3000mの世界で飲んでいるのだ。たとえ新型酒であったとしても、富士山の山頂と同じくらい酸素が薄い場所で飲んで平気でいられるはずがない。
「でさー、周りは全部砂漠な上にネットも不安定でしょ。娯楽が少ないのよ、ビクーニャを眺めるくらいしか楽しみがないのよ」
ゆらゆら揺れる蓮子が指を鳴らすと酒場の壁が透け、荒涼とした砂の大地とアルパカをスリムにしたような動物の群れが映った。彼女よりも酒に強そうな顔をしていた(あくまで私の主観である)。
「ビクーニャ可愛いでしょ、ビクーニャ」
蓮子がとろけた顔で笑った。
確かに私のゼミの教授よりは可愛いとは思う。だが、大学内に生息する猫と比べてどうだろうか。妙に人馴れして媚びた鳴き声をあげるとはいえ、ツバを吐いてこないだけマシではないだろうか。いや、ツバを吐くのはアルパカだったっけ。
回らない頭を必死に回そうとしているうちに、ビクーニャとやらの姿は消え、青々とした海と長崎めいた坂の街が映し出された。
「この間、サンティアゴに戻った時に、研究室の仲間と海の方まで旅行にでかけたの。これはバルパライソって街」
蓮子はケラケラと笑ってクンツマンビール(向こうで人気のビールらしい)をあおった。
無視されたようでなんだか腹がたったので、向こうの酒の肴を少しつついてやった。
「美味しいわね、このアヒージョ」
「あっはは。さすがメリー、味が分かるんだ。でも、こっちだとアヒージョじゃなくてピルピルって呼ぶの。間違えたら喧嘩になるよ」
短期留学で一ヶ月前に初めて南米はチリ共和国の土を踏んだばかりなのに、すっかり事情通の顔をしている。ああ、その高々とした鼻を折ってやりたい。
「エビとマッシュルームをにんにくとオリーブオイルで煮る、同じじゃない」
「文化が違うのよ。バスク地方からの移民が多かったみたいで」
「じゃあ、そっちのマリネは」
「セビーチェ。マリネじゃなくてセビーチェ!」
「何が違うっての」
「レモンじゃなくてライムの汁を使っているところ?」
お互い酔いが回っているせいなのか、会話がどんどん雑になっていく。まあ、京都の旧型酒専門酒場に通い詰めていた頃と大して変わっていない。変わったのは物理的距離くらいだ。
「訳知り顔で言わないでよ。自分で作ったこともないくせに」
「当たり。お惣菜屋さんって偉大ね」
蓮子はタコの足を咥えてチュルんと吸った。いつの間にか彼女の相棒はビールから白ワインに移っていた。
私も空になったコロナビールの瓶を部屋の隅にやり、用意しておいた赤ワインのボトルの栓を抜く。もちろん、チリ産だ。
温暖化によるブドウの産地の変化と新型酒への移行の荒波を越え、チリは未だにワインの一大産地の座を保っている。そして、学生御用達の安くて美味しいワインの座も。
今日のワインはパタゴニア産のカルメネール。どこかマゼランペンギンの味がする赤だ(あくまでも私の主観である)。
「パタゴニアかぁ。時間があったら行ってみたいんだよね」
「行ったらいいじゃない。高速鉄道なら日帰りで行けるんでしょ?」
「こう見えてもね、忙しいのよ。私には宇宙の真理を解き明かす使命があるから」
彼女が大仰に掲げたグラスから白ワインの雫が飛び散った。
「ああ、もったいない。格好つけたバチが当たったわね」
「科学の発展に犠牲は付き物よ」
「何を言っているんだか」
マゼランペンギンの血を飲み、ひとりごちる。見上げた頭上には満点の星空。
そして、四方の壁には太平洋の港町に代わって、星空の下に鎮座する無数のパラボラアンテナが映し出されていた。これが、今の彼女の目たちだ。ため息が出るくらいに美しい。
「きれいね」
「その上、飛び切り優秀よ。何十年も前に作られたとは思えないくらいに」
「ノーベル賞間違いなしね」
「物理学賞なら任せなさい」
「未来の受賞者に乾杯」
「そっちも生理学? 医学賞? とにかく乾杯」
南十字星の下で私たちはグラスを打ち付けた。
大言壮語もいいところだけど、アルコールは全てを笑いに変えてくれた。まあ、今はこれで良いのだと思う。たぶん、きっと。
「あっ」
「もう時間?」
携帯端末が鳴った。名残惜しいけど講義が始まってしまう。
私はグラスを置き、即効性の酔い醒ましを探した。
「オンライン講義ならアバターで参加しておけばいいじゃん。酒の臭いなんて分からないよ」
「うちの精神学の教授はそういうのにうるさいのよ。旧世紀の人間だから」
「へぇ、大変だね」
全然大変じゃなさそうに蓮子はワインをあおった。もっとこの時間と酒精を共有したかったけど仕方がない。
「また後でね。おやすみ」
「うん。またね」
蓮子に向かって手を降ってからVRゴーグルを外した。途端に夜のアタカマ砂漠が散らかった自室になる。窓の外に見える京都タワーが、嫌でもここが私の日常の世界だと教えてくれる。
地球の裏側の人間と宴会ができるなんて、ずいぶんと便利な時代になったものだ。
私はテーブルの上のどんちゃん騒ぎを片付け、グラスに少しだけ残ったパタゴニアの残照を飲み干した。
異国情緒に溢れる楽しい宴会、堪能させていただきました。