・没ネタ供養
・当然未完
・弔いの意味を籠めて読まなくて良いのでスクロールしてやって下さい。
▲▽▲▽▲▽▲▽
不意に鼻腔を擽る土の香。
ツクツクボウシが、夏の終わりを告げる。
何の変哲もない夏の光景が胸の奥をやんわりと締め付けた。
埃の被った薄暗い倉庫が、いつの間にか苔の生い茂る林床に姿を変えている。何時もの事だ。
ぼやり浮かぶ冷たい灯りも、萌える若葉の如き緑髪も全ては幻覚と知っている。驚きは無い。この時期はそう言う物だと諦めているからだ。
「? おかーさん。さぼり?」
甲高い少女の声が私を現実に引き戻す。自分が郷愁に浸っていた事に気が付く。可愛い愛娘は、絹糸の様な金髪を頬に張り付けて私に抗議していた「そんなこと無いわ、御夕飯の献立を考えていたのよ」ころりと騙された様で、愛娘は眼を輝かせて目茶苦茶な栄養バランスの献立を所望する。わが娘ながら欲望には忠実で心配になる。誰に似たのだろうか。
「あんたがちゃんと最後まで片づけられたらね。さぁ、今日中に蔵の掃除は終わらせるわよ」
「ぶへー。めんどくさくさくっさー」
品のない仕草で逃げようとする娘をひっ捕まえて、作業を続行する。大掃除を始めて二日目。未だ終わりは遠い。溜息ついでの深呼吸。桐箪笥に手を掛けようとした時、ふいに何かが鼻腔を擽った。
「まさかね」
言葉とは裏腹にこの手は棚に伸びている。確信に近い思い。だって、引き戸が動く毎、土の香りは強くなっている。
「……懐かしい物が出てきたわね」
十数年ぶりに光を浴びた中身が私の記憶を明るく照らす。気が付いたら誰かが私の顔を覗きこんでいる。私の娘だ。その子の口は、『これは魔道具かと』たずねている。そうだと答えると、元から丸い目を更にまん丸にしてずずいと這い寄ってきた。
「おかーさん、魔法使いだったの?」
その満面の笑みが、私の失態を教えてくれた。「あー、バレたか」動揺を誤魔化すためにオーバーリアクションで認めてみせた。「正しくは元・魔法使いよ。今は貴女のお母さんだからね」
娘は魔法使いに対して過剰な幻想を抱いている。魔法使いの人形劇を見る度、興奮して魔法への思いを力説されているのだから此方としても気が気でない。
「魔法使いなんて格好良いものじゃないわ。殆どは地味な材料集めだし、いくら頑張っても妖怪には追いつけないし。特に博麗なんかと張り合うとロクな目に合わない」
「そんなのお母さんが才能なかっただけじゃない! 私は違うもん! 私は将来大魔法使いになるのよ! ほら、私ならこれだって動かせるし!」
そうやって娘は八角形の火炉を掴んで天井に掲げる。それは人でない者が作った魔道具だ。力あるものが扱えば、小山一つを吹き飛ばすとも言われている。慌てて取り上げようとして、止めた。
「……あれ? ……あれぇ? なにこれ、壊れてるし」
ヒビだらけの八卦炉は壊れている。子供の頃、私はあれを酷使して幻想郷を駆け周り、妖怪と戦って、負けた。魔術的構造は壊れきっており、二度と動くことは無いだろう。
がっかりした様子で娘は棚漁りを再開する。「何これだっさ」白黒のエプロンドレスを広げて見る。次々と出てくる懐かしの品。茸粉末を仕込んだ試験管。折れた箒の一部。グリモワールという名の研究手帳。そして、一番奥。出てきたのは一冊の古ぼけたノートだった。
「……そっか。そういえばこれは捨てずに取っておいたんだっけ」
さりげなく裏の右端。名前の書かれた部分を握って取り上げる。今にも崩れ落ちそうなノートから、くらくらする位濃厚な土の香りが漂ってくる。
「それからは魔法の臭いがしないよ? 何でこんなのを取っておいてるの?」
「これは、最初の師匠の持ち物。処分を頼まれたんだけど、どうにも捨てられなくてね」
娘が眼をキラキラさせながらこちらを見ている。
「ははーん。さては恋ね。うんうん、魔法少女と恋は切っても切れないってね」
どんな顔を見られたのだろう。根拠のない自信に満ちた生意気なニヤケ面は私の若い頃にそっくりだ。
「何何、どんな人? イケメンだった?」
「馬鹿な事言ってないでお掃除、お掃除。あー掃除は楽しいなって」
胸の奥の締め付けが、だんだん強まっている。嫌な訳ではない。忘れたい訳でもない。ただ、自分だけの記憶に留めておきたいだけだ。例えそれが、自分の娘であっても。
「ちょっ、話してよ! 掃除しないよ!」
「だったら夕飯はニンジンのグラッセとピーマンの肉詰めね。後は奈良漬が良いかしら」
「鬼! ケチ! 守銭奴!」
「魔法使いは研究を共有しない。魔法つかなら常識よ」
「だってお母さん。今は主婦でしょ、だったら良いじゃんよ」
「あんたの母親兼、霧雨道具店当主ね。はいはいおそーじ、おそーじ!」
話題の変更を試みるが、娘はあっさりと看破し激しく抗議する。
「ねーおかーさん! 頼むよ。本気なんだ。少しだって知りたいんだ、魔法使いの事を。私は絶対に魔法使いになりたい。そのために、間違った努力なんてしたくないから」
真っ直ぐな眼だ。先の道が存在すると信じて微塵も疑っていない。昔の自分と同じ瞳。
「まぁ、良い機会と言えなくも。無いの……、かな。子供を導くのは親の義務。個人的な感情は控えないとね。大掃除は一旦休憩にしましょう」
期待に眼を輝かせた娘は既にソファに腰掛けて休憩モードに入っている。私はその横に腰掛けた。
どんな魔法を使うのか。今は何をしているのか。先走って質問を投げかける娘を宥める。
胸に抱えたままっだったノートを見つめ、記憶を整理する。少し胸が痛い。だけど、娘には聞いていて欲しかった。
「魔法使いになるのは勝手だけど、家は追い出すからね」
何時も通りの言葉で脅す。効果が無いのは自分が一番良く知っている。だけど、その程度の覚悟も無しに魔法使いを目指せば、必ず娘は不幸になる。それも私が一番良く知っている。
「お母さんが箱入り娘で、まだ魔法使いだった頃、」
何も知らない子供で、まだ魔法が使えなかった頃。
「その夏。私は初めて魔法の師を仰いで修行した」
その夏。私は初めての友人と幻想郷を遊び回った。
「そして、夏の終わり。私は魔法使いを辞めた。たったそれだけのお話。つまらないかもしれないけど、最後まで聞いておきなさい。魔法使いを目指すなら、無駄にはならないから」
鼻腔を満たすのはむせ返る土の香り。
見えるのは純粋な子供の瞳。
◇◇◇
「リグル・ナイトバグが行方不明かぁ……」
少女が白く傷ひとつ無い脚の指でなぞるのは、センセーショナルな見出しの一つである。
ガリ版で刷られた荒い紙面には小難しい漢字が所狭しと並んでいる。お世辞にも読みやすいとはいえない。故に、したり顔で瓦版を読み上げる少女の呟きは全て知ったかぶりだ。
「お嬢様」
「うーん。一体だれの『いんぼー』でかしら。だとしたら、いまだに動きを見せない博麗が何か知って……?」
『人と妖怪の間で三度の停戦を挟んで続く長い抗争がこの度終結』、『新月の夜に踊る猟奇殺人犯、未だ手がかりをつかめず。責任を追求された自警団の長、小兎姫が辞職』『南東区の朝倉工房で爆発事故、一ヵ月ぶり七度目』。彼女が読み上げる記事はどれも劣らずインパクトが強い。
「……瓦版。逆さまですよ」
「……頭の訓練よ」
呆れた顔をした女中が、少女の皿を取り上げる。
「あぁ、『妙さん』。まだ食べるから置いといて」
「ダメです。もうお稽古まで時間がありませんよ。とっととお着替えなさって下さい。『お嬢様』」
「ケチー、――あだぁ?!」
涙目でつねられた手をさする姿からは想像もできないが、彼女は里でも有名な道具店の一人娘であり、文字通りの意味でお嬢様だ。
「『霧雨道具店の跡取り』が汚い言葉を使わない。旦那様の言いつけを忘れましたか」
お嬢様は反省の言葉と共に味噌汁をわざとらしくずずりと啜った。不満気に鼻眼鏡をくいと上げるのは古株の女中であり、お嬢様の教育係を務めている『妙』だ。何かにつけて小言を口にする妙が、お嬢様はとても苦手だった。
「お嬢様。明日はもう少し早く起きて下さい。何回起こしに行ったと思ってるんですか?」
なおも続く忠告の連鎖に暇を持て余したお嬢様は、何気なく壁掛け時計に目をやる。時刻は既に十一時半。妙の言うとおり、何時もならとっくに家を出ている時間だった。
「仕方がないじゃないの。昨日の夜は経営学の宿題をやっていて遅かったのよ」
「昨日はお休みだったでしょう」
「昼間は親父と弦楽団のコンサートだったじゃないの! 私は嫌だって言った――、いっだぁ!?」
「お忙しい中時間を取って下さったんです。そんな言い方はいけません」
「――もうっ! 妙さんは一々細かいんだから」
「当然ですよ、亡くなった奥方様に代わってお嬢様をしつけるのが私の仕事。大人としての義務です」
「そうやって、妙さんはいっつも子供扱い――」
がらりと開くガラス戸が、お嬢様の声を遮った。
鼻腔を擽る、土の香り。
「妙さん。この荷物 どうしましょうか?」
ちりんと鳴る風鈴の様な声がまっすぐに部屋を通り抜けた。
何事かとお嬢様が声の主に視線を向ける。同時、お嬢様の時が止まった。
「うん? あぁ、旦那様のお荷物ね。作業場に置いといて。多分、後で確認されるでしょうし」
「了解、です」
お嬢様は声の主から眼を外す事ができない。子葉の輝きをそのまま写し取った緑髪と透き通る白い肌が、あまりに非現実的だったからだ。
『人間とは思えない』。
ぞっとする程整った容姿にお嬢様は思わずそんな感想を抱く。そうこうしている内に少年の背中はすりガラスの向こう側に消えてしまった。
「……ねえ。妙さん。あの子。誰?」
「あぁ、ちょっと前に入った丁稚(でっち)ですよ。見覚えありませんか?」
「全然知らないわ。人間……、なのよね?」
当たり前じゃないですか。妙の声色には一部の嘘も認められない。
確かに様々な人種の入り交じる人里において髪色は黒とは限らない。実際にお嬢様の髪は美しい金色だ。そうは言っても、ここは日の本の国。黒髪以外はマイノリティなのである。お嬢様の知る世界において、緑髪を持つ人間は僅か数人だった。
「ま、基本昼間だけ来て貰ってるし、お稽古の時間と被ってるせいかもしれませんね。今日みたいに、遅刻上等でご飯でも食べてない限りは、ですよ。お嬢様?」
怨念すら感じる声に思考が中断される。
「もー、ちゃんと行くって言ってるでしょー。ごちそうさまでした!」
がちゃりと箸を放り投げ、お嬢様は自室へ続く階段を駆け登った。
「忘れ物はありませんか? 宿題は? 参考書は持ちました?」
「ぜ、全部あるわ……。さっき確認したじゃない」
身支度の自己最短記録更新を引き換えに、上がってしまった息は未だに戻らない。ピンク色の革草履をつっかけると、肩掛けカバンを振り回すようにして玄関を出た。
「気をつけて下さいね。最近、妖怪絡みの事件が増えています。終わったらまっすぐに帰ってくるようにと、旦那様からも強く言いつけられているんですからね」
「はいはい」
「分かっているんですか? 秋にはお見合いなんですよ。今、体に傷でも着いたら申し訳が立ちません」
「はいはい」
「……知っているんですよ。最近、ちょくちょくお稽古サボってるの。私だって、旦那様に言いつけるなんてしたくありませんからね」
「行ってきまーす!」
口うるさい女中の言葉をかき消しながら、お嬢様は家を飛び出した。
▲▽▲▽▲▽▲▽
里中に響き渡るミンミンゼミが夏の隆盛を告げている。容赦なく降り注ぐ日差しの中、お嬢様は目前の光景を見てはてと首を傾げた。記憶が正しければ、朝に見たカレンダーは平日を示していた。平日の昼間に里を歩く者は主婦か行商人か、浮浪者と相場が決まっている。つまり、眼の前を行きかう童共は学習を放棄した敗北者と言う事になる。
そんはずがない。冷静な霧雨が否定した。
「そっか……。そういえば夏休みか……」
夏休み。遊びや休養、そして申し訳ばかりの課外学習の為に設けられた期間。当然里に溢れているのは、遊びにその全てを費やそうとするテンプレート的少年達である。真夏の日差しを物ともせずに駆け回る彼らとは対照的に、お嬢様の足取りは老人の如く重かった。
「精々、遊びまわってろ……。後で、無計画に貯めた宿題に追われて泣けば良い……」
ぎっしりと参考書の詰まった鞄は肩が外れそうな位に重い。家を出て五分、お嬢様は既に汗だくだった。
「そして、私の苦労を一ミリでも知れば良いん、だぜ!」
家にいる時とはまるで別人の様に荒い口調ではあるが、これがお嬢様の本来だ。そも、妙を除けば基本的に男ばかりの商家で育って女性らしい口調など身に付くはずもない。妙に注意され始めたのもここ数年のことだ。未だ違和感も拭えないので、家の外では基本的に男勝りな口調のままである。
頬からぽたりと落ちた大粒の汗が乾いた地面を黒く染めた。
「夏休みって何だ? そんなの貰ったこと無いぜ?」
それはお嬢様の絶望の原因である。お嬢様の予定はこの先もずっとお勉強で、周囲の童は少なくとも後一ヶ月は遊び放題。『なんで自分だけが、参考書を詰め込んだ鞄を抱えて喘がないといけない』。お嬢様が怨念のたっぷりと詰まった眼で道を行く童達を睨みつける。運の悪い少年が、ひっと小さな悲鳴を上げて何処かに去っていった。
「その上見合い? ふっざけんな! 私は美少女で、花の十代なんだぜ? 恋だってまだした事ないのに!」
お嬢様が乱暴に小石を蹴り飛ばす。数秒後、昼寝中の猫がぎゃっと悲鳴を上げた。
「くっそ! くっそ! くっそ! なーんで私ばっかりこんな目に遭うん、だ、ぜ!」
「こらこらべっぴんが台無しだよ。お嬢ちゃん」
背後から掛けられた声に慌てて振り向く。そこには見覚えのある行商人が居た。
「あ、氷屋のおっちゃん。氷饅頭ちょーだい」
ころりと表情を切り替えたお嬢様に、中年の行商人が苦笑する。基本的にストレートな感情表現をする彼女ではあるが、大人の中で育っただけあって妙な所で切り替えが早い。勿論、大人から見れば不自然この上ない物であるが、本人がその事を知る由もない。
お嬢様が上機嫌で鞄から引っ張りだした紙幣は、子供が払うにしては少々高すぎる額。ちょっと待ってね。そんな声を流し聞きながらお嬢様は四角い氷が削られていく光景を眺める。人の頭ほどもある巨大な塊。歪んだ景色が面に映し出されている。数メートルの距離を隔ててすらお嬢様の頬には冷涼な風が伝わった。久々の感覚に思わず眼が細くなる。
「これで、もーちょっと安ければ毎日でも買いに来るのにねー」
「はは。これでもかなり勉強してるんだよ。ただ、何事にも限界がある、何せ夏の氷は貴重品だからね。氷室(ひむろ)のレンタル料も馬鹿にならないんだよ」
「だったら、氷精かレティでも捕まえてくれば良いのに」
「そりゃ物騒な話だ。妖怪を捕まえておく程の設備も、連れてくる力も無い。霧の湖に居る氷精なら可能かもしれないが、あのバカを制御するなんてそれこそ不可能だ」
「じゃー、私達の出番ね。魔法使いが氷を作って貴方が削る。完璧じゃない?」
「それは悪くない案だが。ビジネスとしてはちょっと難しいな。真夏に氷を作る程の魔力をねん出するなら、どんな触媒をどの位の期間で作ってどの位必要だい?」
「……魔法の森の茸を使ったとして。五本分を、鍋で三日三晩煮込んでから抽出した液を陰干しして一週間。取れた乾燥粉末五グラムでどうにか」
「それと、さっきお嬢さんが払った金額。釣りあうかい?」
「……そういう問題じゃないだろ!」
「そうだね。魔法は子供の遊びだ。遊びのついでに氷菓子が食べられるなら万々歳だね。でも、商売はそれじゃ駄目なんだよ。最低限のコストで商品を用意しないと同業者に客を取られてしまう。結局、旧家の氷室を間借りして、こうやって少しずつ売り歩くのが一番安く上がるんだよ。……って。そんな話はお嬢さんが知らない訳ないか。でも、もっと安くで氷を売りたいのは本心だよ。あぁ、そう言えば。朝倉の『科学』工房が最近『持ち運べる氷室』を発明したらしいね。でか過ぎて動かせないのと、高過ぎて誰も買えないのが難点だそうだが。まぁ、所詮は『科学』だし正直期待はしてないけど、霧雨の旦那は食いつきそうだね。今度相談してみたらどうかな?」
「親父の仕事なんて興味ないし……、そんな事より。それ! 早くちょーだいよ」
店主から氷まんじゅうをひったくり仮設ベンチへと腰掛ける。しゃくしゃくと喉を通り抜ける氷が、茹で上がった体を内部から冷やした。
「……その様子だと、また妙さんに叱られたみたいだね」
「そうだぜ! お稽古サボってるでしょ……、って。何だよ。半分はちゃんと行ってるってのに!」
「ははっ。お嬢さんの半分だって俺にゃとても無理さ。えらいえらい」
「そーだ、そーだ。その優しさだ! 妙にもこの十分の一でも優しさがあれば~、あ~……、っもう! また腹立ってきた!」
怒りにまかせて一気に氷を掻き込む。独特の刺激で堪らず頭を抱えた。自然、低くなった視界に一つの小袋が映り込む。お守りか何かだろう。普通ならそう考えて気にもとめない。しかし、お嬢様はその気配を見逃さなかった。言うまでもなく、『趣味』の賜である 。
「お……、おっちゃん。こ……、これは……!!」
「見つかったか……。だけど、これは売り物じゃないんだ。すまないが――」
袋に掛かった手をむんずと掴む。ただでさえ深い眉間のしわが、さらに深くなった。
「そっ、それ! 『キノコの粉』だろ?! 『魔法の森』の! 私の眼はごまかせないんだぜ!」
「そ、その通りなんだけどね、お嬢ちゃん。ほら、お嬢さんならもっと他に幾らでも『玩具』を持ってるだろう?」
曖昧な笑みを浮かべた主人が頬をぽりぽりと掻く。面倒事をはぐらかそうとする態度。大人が浮かべるそれが、お嬢様は大嫌いだった。
「ごまかさないで。私がどれだけ魔法が好きかなんて、知らない訳ないでしょう?」
「し、知ってるさ。私の娘だってそうなんだから。でも、そんなキラキラした眼を向けられても困るんだよ。私の娘の誕生日プレゼントなんだから」
「そんな事言わずにー。おーねーがーいー! お金払うからぁ~」
「し、しかし。今は妖蟲共がうるさくて迂闊に森に入れないだろう? これだって、森の境に住む薬師の知り合いから偶然に譲ってもらったんだよ。そいつももう里に引き上げてきているし、他の行商連中も山の勢力圏に引っ込んでる。今森に残ってる奴なんて狂人か、もしくは人外だけだよ。もう、金額関係なく手に入らないんだよ」
「そこを何とかー。美少女の顔に免じて! ほらほら、このとーりだからさぁ!」
ただただ茸が欲しい。それだけだった。気が付いた時、店の主人は取り乱していてお嬢様の視界には地面が映っていた。
「勘弁しておくれよ。『霧雨のお嬢さん』に頭を下げさせるなんて。旦那さんに知れたら何を言われるやら……」
猫なで声の主人が茸の袋を差し出している。その事実がお嬢様にとってどうしようもなく、気に食わなかった。
「……やっぱりいらない。悪かったよ。おっちゃん」
背後ではお嬢様の名を呼ぶ主人の声が虚しく響いてる。しかし、そんな声も喧噪のなかにある街道を少し進めば掻き消えてしまう。町中に響くセミの声は相変わらず鬱陶しかった。
「なんなんだぜ、なんなんだぜ……!」
それから僅か数分。とっくに稽古場に着いていなければならない時間だが、とてもそんな気分ではなかった。今、お嬢様は書を食む代わりに団子を食んでいる。しかし、咀嚼する度に飛び出る餡子はまるで泥みたいだった。何もかもが気に食わなくてだんと皿に串を投げ捨てる。
からんと店内に響く乾いた音。向けられる視線。予想外に集まってしまった注目に、お嬢様は顔を赤らめた。
「あれ、霧雨の所の子よね」
「あの金髪。間違いないわ。何でこんな所に……」
流れ聞こえる声が心に刺さる。それこそがお嬢様の苛立ちの原因だ。
『霧雨道具店』
新興の商家ながら里の中央に店を構えるそれは、変化に乏しい里における注目の的だ。実際、現在も拡大を続ける霧雨道具店は里の中でも大きな影響力を持ち始めている。商人に限らずとも畏敬に近い念を持つ者は少なくない。当然、その対象にはお嬢様も含まれる。
それが、お嬢様はたまらなく嫌だった。
「どいつもこいつも霧雨霧雨って……。そんなに親父が怖いかよ……。くっそ……、私なんてどうでも良い癖に媚売りやがって……!」
慰める友人は居ない。霧雨の名が出るだけで同年代の子供は逃げていってしまうからだ。少なくとも本人はそう思っていた。
「あー、もう! こんな時は食べるしか無い。おっちゃん! あんみつ追加、特盛りでね!!」
客もまばらになった店内。壁掛け時計は昼の二時を指していた。
ぽよりと飛び出たお腹は完璧なサボタージュの代償だ。里は未だ暑いが茶屋の中なら汗が噴き出る程でも無い。
山から吹き降ろす風が窓から吹き込む。
荒んだ心を癒やしたのは、一時の清涼感か、何処から漂う土の香りか。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「……なにあれ?」
時刻は午後の五時、帰宅ラッシュの時間帯。どういう訳か人の波が門の方へ向けて流れていた。
面白そうな気配がする。お嬢様がその波の行き先へ脚を向けたのはその程度の理由だった。波に沿って歩くこと数分。終着点には黒山の人だかりがあった。
「……本当。最近物騒なんだな」
「こんな所まで……、自警団は何やってるんだ」
雑踏の中、流れ聞こえる会話はお嬢様の好奇心を刺激する。追われるようにして夢中に人波をかき分ける。ようやく中心にたどり着いた時、人々の視線の先にそれは横たわっていた。
「妖蟲?」
地面に広がる緑色の体液。無数の体節から延びる対の足。十メートルは達しようと言う巨体には針山の如く矢が突き刺さっている。脳天を槍で貫かれた百足が静かに横たわっていた。
「壁を超えて来たんだ。殺した所で文句は無いだろう、けどなぁ。最近多すぎないか? リグル・ナイトバグの奴……、行方不明だって聞いたけどもしや本当に死んだんじゃないだろな?」
「死んでてくれた方がありがたいだろ。そんな事より襲われた子供が居ると聞いたが?」
「あぁ、それだったら俺が見たぞ。百足が襲いかかってきた直後に、偶然近くに居た小兎の者が助けに入った。足から血が滲んでいたが、まぁ、大した怪我ではなさそうだったな」
「そうか……、死人が出なかったのは幸いだが、ついに怪我人とは。問題にならなければ良いが」
妙から話は聞いていた。『妖蟲の襲撃』が最近増えていると。実際に見たのは初めてだった。蟲の死骸位見た事はある。だけど、これ程に大きくなると話は別だ。姿の不気味さと、漂う死臭に居の中身がせり上がりそうになった。
帰ろう。
お嬢様が踵を返したのと、小兎の自警団員が駆け付けたのは同時の事だった。
「おい、襲われた子供はどうした?! 緑髪の少年が襲われたんじゃないのか」
「あぁ、その子だったらそこの木で休むって言って……、あれ?」
自警団の構成員と思しき男が門脇の木を指さす。そこには、誰の姿もなかった。
「もうこんな時間か」
日の傾きから六時頃と推定した。随分と長くなった日に感嘆する。
雑踏の中心。記憶も新しい緑髪が視界の端に入った。
背後から漂う土の香り。
本当に何気なく視線を門の向こう側にやる。
「あれ?」
木々の合間に、緑の髪が揺れた。……気がした。
「気の所為かなぁ」
ヒグラシの鳴き声が、一日の終わりを告げた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
壁掛け時計が七時を告げる。
炊事場から漂う味噌汁の香りが、すきっぱらをぐぅと鳴かせた。
「お嬢様! 何をこんな遅くまで出歩いていたんですか! 今は色々と物騒だとあれほど!」
冒頭の言葉は小言を聞き流す現実逃避。
「もう、うるさいなぁ。妙さん。そう言うのはお父さんの仕事でしょ」
「いいえ。旦那さまだけの仕事ではありません。子供を正しく導くのは、大人の義務 ですから」
「ねえ妙さん。あの緑髪の子ってまだ居る?」
「いいえ、あの子は夕方までですよ。2時間程前に帰りました」
「ふぅーん」
久々の午前休を貰ったお嬢様は緑髪の少年を見かけた。
その足首には、包帯が巻かれていた。
「ねぇ、ちょっとそこの貴方」
「あっ、はい。何でしょう……、お嬢様」
「足首、どうしたの?」
「あはは。昨日帰り道に転んでしまって。でも、大丈夫です。僕、身体だけは頑丈ですから」
「ふーん……」
「あんたさ。昨日の夕方、門の近くに居なかった?」
緑髪が慌てた様子を見せる。
「ひ、人違いじゃないでしょうか」
もう行っても良いですか、店先に目線を動かしながら緑髪の少年は言った。
「妙さん。あいつが家を出るのって何時頃?」
「五時ちょうどですけど、それが何か?」
「いいえ、なんでもありませんわ」
稽古が終わるのが四時半。霧雨道具店から稽古場まで徒歩二十分。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「……来た」
自宅の前で張り込む事二十分。目当ての人物が勝手口から出てくる。お嬢様の胸が一度大きく拍動した。私服らしい白のワイシャツが緑髪に良く映える。足取りから疲労は感じられない。鼻緒を確認。深呼吸と同時、少しの距離を置いて跡を着けはじめた。
夕方の通りは昨日と同じく、帰宅する住人達で溢れている。流れに逆行して門の方へ向かう少年の跡を追うのはそれ程難しい事ではなかった。
歩く事十五分。お嬢様の予想通り、緑髪の少年は里の門を潜った。
ビンゴ。霧雨の娘は心の中で小さくガッツポーズした。しかし、その後に続こうとして、若い男の声に呼び止められる。険しい顔は小兎の自警団員だ。
「ちょっとちょっと、お嬢さん。こんな時間に里の外に何の用だい? ただでさえ最近妖怪が暴れまわっているって言うのに」
「ちょっとちょっとはこっちセリフだぜ! さっきの子は素通しだったでしょうよ! 何で私だけ! あれか、私が女だからか。子供だからか!」
「少年? 何の事を言ってるんだい。誰であれ里を出るの者にはひと声かけさせてもらってるよ 」
「そんな訳ない、だってさっき――、ああっ!!」
緑髪が森の中に入っていく。数秒もせずに後を追えなくなるだろう。
「もうっ! 止めろって言われてる訳じゃないんだろ! 私は魔法使いだ、妖怪位自分で何とか出来る! 通らせてもらうぜ!」
「ちょっと、君!!」
門番の脇をすり抜けてお嬢さまが里の外に出る。忍ぶ事も忘れ、一直線に森へと飛び込んだ。
濃厚な土の香りで、頭がくらくらした。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「あっ、これもだ。凄い……、全部触媒に使える」
近くて遠い場所。魔法の森はよくそんな風に言われている。
実際、濃厚な魔力が満ち妖怪が跋扈する土地に好き好んで入る者は少ない。
「ふー。大量、大量。あー、やっぱり来てよかった。森は危ないなんて、言ってたけど。何だ全然大した事ないな」
ポケットの中には触媒用の茸がパンパンに入っている。これだけあれば優に数ヶ月は持つだろう。
胸を満たす満足感。ふぅと息を吐いて。お嬢様は我に返った。
駄目元で周りを見渡したが、当然の様に緑髪の気配は無かった。
「居ない……、当たり前かぁ……。はぁ、迂闊だった。私とした事が茸に眼を奪われて跡を追う事を忘れるなんて」
辺りにはすっかり夜の帳が降りている。苔や星の灯りで歩くのには困らないが、それ程遠くは見渡せなかった。
「帰ろ。茸も見つけたし、アイツの事はまた明日で良いや。さて、里の方向はっと……」
知らない内に森の奥へ入り込んでしまった様で、辺りの景色に見覚えは無い。
天蓋に浮かぶのはは真丸の月と無数の星。実は北の空、カシオペアの延長上に北極星が浮かんでいる。しかし、お嬢様がそんな事を知る筈も無かった。
「だだだ、大丈夫。なんだぜ。私は『魔法使い』なんだからな。悪い妖怪をやっつける正義の味方が、こんな夜の森位で――、ひあっ!?」
木の葉を揺らす森の風。がさりという音に素っ頓狂な悲鳴をあげた。
思わずその場にうずくまる。ポケットからばらばらと茸が落ちたが、気にしている余裕はない。震える手で、鞄をまさぐる。こっそりと忍ばせていた『八卦炉』を取りだした。
「くくくく、来るなら来い! わわわ、私は、魔法使いだぞ!! お前ら何か、怖くなんて……」
小山を焼きつくす火を生み出す火炉。大魔法使い魅魔が使っていた魔道具の再現。お嬢様の手作りであるそれは、いびつな形をしていた。ぱらぱらと茸粉末を火口(ほくち)に注ぐ。仄かな魔力が八卦炉から立ち上った。
唾を飲む。全神経を集中させて辺りを警戒する。ちりちりと額が熱くなってきた頃にようやく物音が風の仕業だったのだと気が付いた。
ほっと一息。八卦炉を下した時、不意に気配が枝を折った。
背筋が冷える。気が付いた時、お嬢様の体は木の洞にあった。息を潜める事数秒。そっと洞の外を見ると、一匹の狼が周囲の様子を窺っていた。それを認識すると同時、がたがたと全身が震えだす。
「こ、これはそう。戦略的撤退なんだぜ……。私が本気になったらあんな狼位」
握りしめた八卦炉が急に頼りなく感じられる。真っ赤な瞳が、真っ直ぐに霧雨の娘を射抜いた。
「く、来るな!」
距離、五メートル。お嬢様の存在を認めた巨大な狼が接近する。
のそりと揺れる胴体にはアバラが浮いている。口元から垂れる涎は少女の肉を予想してだろうか。
もう隠れている意味は無い。勇気を振り絞って飛び出したお嬢様は、八卦炉を狼に向けた。
「わ、私は優しいからな! い、いま帰るなら見逃してやるぞ!」
狼の足は止まらない。ぎゅっと眼をつぶったお嬢様は八卦炉に力を籠めた。
立ち上る魔力が密度を増す。火口(ほくち)に光が収束する。
発射シークエンスの終了を確認。お嬢様は側面に付けたスイッチを押した。
『必殺・マスタースパーク』
放出された閃光が、夜の森に一時の昼を生み出す。
一秒。二秒。三秒。世界を支配した閃光はゆっくりと闇に飲まれていった。
「やったか?!」
光で眩んだ眼をこすり、魔法の成果を確認する。徐々に、除々に露わになる何者かのシルエット。
ようやく眼が戻った時、きょとりとした顔の狼がその場に立ち尽くしていた。狼の足元には星型の金平糖が転がっている。
「ぐ……、私のマスタースパークが通用しないなんて」
今の魔法は手持ちの魔法触媒で発揮できる最大出力だ。最早、お嬢様には為す術がない。
恐怖。我に返った狼はお嬢様を真っ直ぐに睨みつけた。
身が危ないというのに、体は動いてくれない。頼みの魔法は狼のおやつになっている。
無力で、悔しくて。自然と涙がこぼれおちる。
もう駄目だ。絶望と共にぎゅっと眼を瞑る。
丁度その時。優しい土の香りが、鼻腔を擽った。
「ちょいちょい。そこの狼殿。ここで狩りをするなら私達を通すの筋じゃないかな?」
のんきな声が頭上から届く。聞き覚えのある声だ。
「困るんだよねぇ。家の縄張りで勝手されちゃさぁ。そりゃ、私達だって今はヒトの事言えないかもしれない。だけど、あんたらが私の縄張りで好き勝手して良い理由にはならないよ。争い事はいやでしょ。お互いにさ」
大樹の枝から舞い降りた横顔が月光に照らされる。風になびく緑の横髪で顔は見えない。ただ、ぞっとするほど美しい。そんな印象を抱いた。
「あー。あんた見覚えあるよ。山裾あたりによく居るおばちゃんの息子だね。ほらほら、告げ口なんてしないから早く帰りなさい。心配性のあの人の事だ。今頃、あんたの事を探し回ってるよ」
標的を変えた狼が緑髪に牙を向ける。緑髪がため息を吐いた。
「困ったなぁ。言葉が通じないのか。あの人にはよくお世話になっているし、あんまり手荒な事はしたくないんだけど。仕方ないか」
緑髪の少年には数匹の夜光虫が付き従っている。人差し指の導きに従って、夜光虫が狼を包んだ。
「君はまだ子供だろう。夜はお家に帰るんだ。だから、眼が覚めたら君はお母さんの胸の中。少し叱られるかもしれないけど、心配はしなくても良い」
抵抗する間もなく狼の体が崩れ落ちる。上下する腹を見る限り、静かに眠っている様だった。それをみて、緑髪の口元が緩む。狼の体を優しく抱え、洞の中に寝かせた。
「おやすみ。後で送り届けさせるから、暫くそこで休んでてね」
お嬢様に背を向け、優しく頭を撫でている。それはさながら子をあやす親だった。
ゆっくりと立ち上がった緑髪がお嬢様に背を向けたまま口を開く。
「命知らずだね、人間。ここは私達の縄張りだよ。さぁどうしてくれようか?」
先ほどとは別人の様に強い口調。緑髪が振り返ると同時、その姿が月光に照らしだされた。
「――あんた緑髪の?」
「――ゲェ?! 『お嬢様』、何でここに!?」
夜の森に轟く間抜けな声二つ。
鼻腔を擽る、土の香り。
▲▽▲▽▲▽▲▽
リグル・ナイトバグは溜息を吐いた。
見捨てるべきか、救うべきか。
里を出た時、何者かにつけられているのは気が付いていた。しかし、まさか森の中まで追ってくるとは思わなかったのだ。
「帰ってくれるならそれに越したことは無い。だけど、……何やってんのあれ」
万一の事があっていけないと遠方から監視を始めて早一時間。少女らしき人影は、自分を追跡する事も忘れて茸の採取に耽っている。正直に言って、頭痛が痛い。
「子供が妖怪の領域で何やってんだよ……! ここ、私らの縄張りだぞ……! 襲われないのが不思議と思わないのか、あの子供は……!!」
逆である。子供だから分からないのだ。そんな事はリグルも分かっていた。だからこそ、こうやって辺りの妖蟲を遠ざけてやっている。
眠い目を擦り、監視を続ける。狼が接近しているとの連絡を受けたのはそんな時だった。
リグルは躊躇した。
この人間を助ければ十中八九自分が妖怪とばれる。そうすれば、もう里に居られなくなるかも知れない。かと言って、見捨てるなんてできなかった。
もしかしたら、少女が上手く逃げてくれるかもしれない。適当に狼を追い払うかもしれない。
そんな淡い願いも虚しく、少女の魔法は案の定遊びの域だ。
万策尽きた少女が狼の前で眼を瞑った時、自然リグルの体は動いていた。
「ああっ、もう! これだから人間って奴は、」
理由はただ一つ。リグルは何よりも『人間』の事が。
「大嫌いなんだよ」
▲▽▲▽▲▽▲▽
「蟲の王ってもっといかつい奴かと思ってたぜ」
「まだ王じゃないし……。って。ねぇ、ホント!ほんっとに黙ってて、お願いだからさぁ~」
「それは『リグル』の態度次第かなー?」
先程までの勇ましさは何処へやら。『リグル・ナイトバグ』は半泣きでお嬢様に縋り付いていた。
「絶対におかしいと思ったんだよ。何週間も前から居るって言うのに、顔も見たこと無い。それに、奉公人の誰もあんたの素性を知らないなんてあり得ない。それに疑問を持たないのも尚更だ。情報が命の商家で身辺調査は常識だぜ。教えろ。って言うかむしろ吐け。あんた、何した?」
びしりとお嬢様がリグルに指を突き付けた。
「ちょ、ちょっとみんなの記憶を弄っただけだよ。妖術でね。べ、別に害は無いしそれ以外は何もしてないよ、……ほ、本当だから!」
記憶操作の魔術は文献を漁れば幾らでも出てくる。どれも意識の表層に手を加えるだけで致命的な物では無かったと、お嬢様は記憶していた。
「だったら何で私の記憶は弄らなかったんだ?」
「……あんたの体中から魔法の香りがぷんぷんした。下手に弄ったら危ないと思ったんだよ」
「あっそ。私ったらやっぱり天才だな」
リグルの言葉がお嬢様の自尊心をくすぐる。卓越した魔法の使い手である程に魔法に対する感受性は高い物だ。魔法の腕をほめられたみたいで、お嬢様はどこか誇らしかった。
「違う。適当な魔法ばっかり何個も何個も掛けて。干渉して何が起こるか分かったものじゃなかったんだよ」
びしりと突き付けられた爪がきらりと光る。
「な、何だよそれ! 私の魔法が目茶苦茶だって言うのかよ!」
「目茶苦茶って言うか、殆どオリジナルじゃないか。おまじないならまだしも、魔法のレベルでこれだけ掛けられてると正直……、調べもせずに触りたくないかな。魔法は歴とした学術体系だけど、不明な点はまだ多い。魔法同士の相互作用が良い例だ。偶発的な作用が君の体にどんな影響を与えるのか。保証できない魔法を他人に掛けるほど私は無責任じゃないよ。……って言うか。危ないとか言われた事無いの? 友達とか、先生とかにさ」
切れ長の目と、筋の通った鼻。丸顔気味ながら、余裕を感じさせる表情からは重ねた年齢の違いが見えていた。つまるところ、お嬢様は始めて間近でみたリグルに見とれていたのだ。
「どうなのさ? お嬢様……、お嬢様?」
耳に刺さる鈴の様な声。我に帰った時、リグルは首を傾げてお嬢様を覗き込んでいた。
「な、何の話だっけ?」
「聞いてなかったの? オリジナル魔法を自分に掛けるの、辞めろって誰かに言われなかったの?」
「そ、そんなこと、無い。ただ……、友達なんて居ないし。魔法の師匠なんて居るわけ無いじゃん……。って」
「そ、そう……、わ、悪かった、よ」
「ちょ、ちょっと。その可愛そうな物を見る目、辞めろよな。私の才能に皆が嫉妬して寄ってこないだけだからな。別に私は悪くない」
「はぁ……、まぁ何でも良いけどさ。とりあえず見せて。今更記憶を弄ろうなんて思わないけど、ちょっと今の状態で放っては置けないからさ」
「別に良いけど。変なことすんなよ」
「はいはい」
緑の瞳がお嬢様へ向けられる。どうしようもない居心地の悪さに、お嬢様は空を見上げる。どうだった。さっぱわかんね。間もなくして帰ってきた調子はずれの声に、お嬢様は肩を落とした。
「お嬢様、貴女が思ったより真面目な奴だって事以外は。なんもわかんなかった」
「ふん、私が真面目だって? 何言ってんだよ。こんなの全部適当に掛けただけだぜ」
「嘘、脚には乳酸蓄積によるアシドーシスの抑制術式、脳には作業記憶の拡張術式、各種末梢神経系における電位『非』依存性チャネルの追加は反応速度向上の為かな? 表面に見える範囲では、混在も無いし、どれも実用的。こんなの適当で出来るわけがない」
ぐぬりとうなる。リグルの言っている事は事実だ。どれもこれも蔵の中から引っ張り出した魔道書を前に唸りながら掛けた記憶がある。
「だけど、圧倒的に力が足りない。やりたい事は分かるけど、駆動しなきゃ意味無いよ。後、無駄な式、多すぎ。こっちは少し絡まってる。これが一番危ないんだよ。全く」
「……うっさい」
照れと言うより純粋に苛ついた。理解できているだけに、見透かされている気がしたからだ。
「遊びにしては手が込んでるね。何でそんな真面目に魔法を勉強してるのさ。人間のくせに」
「何言ってるんだよ。魔法使いは皆の憧れ。常識だぜ。大魔法使い魅魔様を知らないの?」
「あぁ、博麗に喧嘩売って殺された変人だっけ?」
「ち~がーうー! いや……、あってるけど」
「里の英雄、魅魔様と言えば誰だって知ってるぜ。だって魅魔様は、博麗と対等に渡り合った唯一の人間なんだ。ド派手な魔法で何度も人里を守ったんだ。確かに、最後はちょっとした事で博麗と喧嘩して事故で死んだけど。それでも、魅魔様は私達のヒーローだ。絵本だって沢山あるし、子供なら誰だって一度は憧れる。じょーしきだぜ」
「そう言えばあったねぇ。『魔法ブーム』。当時は人間が使える魔法なんかじゃ、遊びにしかならないって知られてなかったもんね。今でも続いてたんだ。とっくに終わったと思ってたよ」
「違うぜ、遊びなのは誰も真剣にやってないからだ。私は違う」
「ふふ、やっぱり君は真面目なんだね」
「……? あー! あー!! 今の嘘、無し! 私みたいな天才は魔法だって使いこなせるって事だよ!」
「そう言う事にしておいてあげるよ。でも君は商人になるんじゃないの?」
「そんなの親父が勝手に決めただけだ。私は『魔法使い』になりたい」
「ふーん。英雄になってどうするの? なんで、『お嬢様』は英雄になりたいの?」
「それだよそれ。お嬢様、お嬢様、お嬢様って。私にはちゃんと名前があるんだっての! 霧雨道具店の娘だってだけで皆逃げていく。そうでない奴はおべっか使うおっさんだけだ。私はもうそんなのに飽き飽きしてるんだぜ。私はな、別に英雄になんてなりたい訳じゃない。ただ、普通の魔法使いになりたいんだ」
「その為に君は里での生活を全部捨てる覚悟はある? たった一人でのたれ死ぬ覚悟は? 当主を失った奉公人達が路頭に迷う事を許容する?」
「と、当然よ!」
狼狽した様子のお嬢様を見たリグルは優しく笑う。その後、わざとらしい嫌味な表情で言葉を続けた。
「ふぅん。覚悟はあるんだね。でも、辞めた方が良い。君は天才かもしれないけど、ちょっと修行の仕方が悪い。魔法は学問。優秀な師、書物、工房。せめてこの三つは揃ってないとね。人間って言うハードルはお嬢様が思ってるよりずっと高いよ」
「よ、余計なお世話だ」
「ああそうか。ま、がんばってね。絡まってた魔法は解除しておいたよ。これで、今日の事はチャラにしてくれると嬉しいな。明日から私はただの丁稚。無関心で居てくれれば十分だから」
リグルが去っていく。
その背中を見送る。苛立ちがお嬢様を動かした。
「ま、待てよ!」
「何さ」
「わ、私に魔法を教えろ」
「私は魔法使いじゃないよ」
「うるさい! 知ってるんだぜ。妖術と魔法は本質的に同じだ。私の魔法を看破できたのもそのおかげだろう? お前は確かに魔法使いじゃないかもしれないけど、一応妖怪だ。人間の私なんかよりはるかに高度な魔法を使える。違うか?」
「良く知ってるね。その通り。良いよ、教えてあげる」
「――もしも断ったら、親父にお前の素性をばらす……、って。えっ?」
「うん。だから別に良いよ。魔法。教えてあげる」
「や、やけにあっさりだな」
「何、断って欲しかったの? お嬢様」
「そんな訳あるか。まぁ、教えてくれるなら、文句ない。けど!」
「けど?」
「私を、お嬢様って呼ぶな」
「はいはい」
蛍の光を背景に、リグルが苦笑した。
▲▽▲▽▲▽▲▽
時刻は早朝。雀の鳴き声がアブラゼミの合唱にかき消される前。
息をしようとしたらぐずりと音が出た。鼻水のせいか、むせ返る様な土の香りはあまり感じない。
すすと腕をさする。日が昇ってから間がない森は、真夏とは言え少し肌寒かった。
「どうせ荷物あるなら何か羽織ってくれば良かったぜ……」
肩がずしりと重い。自信の魔法道具や研究ノートがぎゅうぎゅうに詰まっているのだから当然だ。
朝露に濡れた苔がくしゅりと音を立てる。滑らない様にと、草履に少しだけ力を籠めた。
「それにしても、あいつ。こんな森の奥を待ち合わせにするなんて。レディを何だと思ってるんだぜ。この道は安全だーなんて言ってたけど。それでも森の入口でエスコート位しやがれってんだ。空気が読めないのが、馬鹿真面目なのか知らないけど。本当、律儀に家では他人のフリしやがって碌に口もききやしない。迷子になったらどうするつもりだ。道しるべ位残しとけっての」
胸を高鳴らせるのは、鞄の魔道具達かそれとも緑髪への文句なのか。どちらにせよ、お嬢様の口元は緩みっぱなしであった。
「いやいや。別にあいつに会うのが楽しみな訳じゃないぞ。魔法を教えて貰えるのが楽しみなだけだし。そうだ、そうにきまってる」
目的の湖畔は間近だ。最後の垣根を超えると小さな泉が姿を現す。緑髪は多くの蟲に囲まれて談笑していた。
声を掛ける。どうしてか、たったそれだけの事に躊躇してしまった。悩むからだ。何と言うべきだろうか。主導権があるとは言え、教えて貰う側の身である。一定の敬意は払うべきだろう。
『すみません、よろしくお願いします』流石によそよそし過ぎる。
『ようリグル。今日はよろしくな』悪くない。しかし、少しフランク過ぎる気がする。
『おはよう、リグル。今日はお願いするぜ』これで行こう。丁度良い筈だ。
すぅと深呼吸。裏返ったりしないよう、驚かさないよう。呼気量に気を払って声帯を開いた。
「お、おは――」
「あれ。『お嬢様』。なんでこんな所に居るんですか?」
鈴の様な声がお嬢様の前を遮る。
緑の隙間に、間抜け面が覗いていた。
驚き。色んな段取りを吹き飛ばされた焦りもあって、お嬢様の頭は真っ白だ。現状や、リグルの言葉を把握するに従って。ゆっくりと怒りが立ち上り始めた。
「なんでっ……、て。『この前の満月の日に約束した』だろうが!」
「な、何の話さ。『お嬢様』。って言うか。だから何で貴女がこんな所に居るんです?」
「とぼけてんのか!!! そんなに私との修行が嫌か!!! えぇ、私の事が嫌いなら嫌いって言えよ!!! リグル!!」
「え、ちょ、わた――、ぼ、僕の名前は『弥助』で『リグル』って言うのは」
「ちょ、何言ってるんだ。リグル。お前は妖蟲のリグル・ナイトバグで、弥助は家での偽名だろ? この前教えてくれただろうか」
馬鹿みたいに真面目な間抜け面。その言葉に嘘がない事が分かってしまったが故に、苛立ちは募るばかりだった。
「そ、そうか。お前。私を馬鹿にしてるんだな」
その間抜け面にとっておきをお見舞いすべく、自信の魔力を注ぎ込んだ。
「乙女の純情、踏みにじりやがってぇぇっ……!!」
必殺『マスタースパーク』
「あっ、その光。やっと思い出したよ。あんた――」リグルの弁解が聞こえた時、既に世界は白い光で埋め尽くされていた 。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「ふいー。まだ眼がくらくらするよ」
「……謝らないからな」
かりりと金平糖を齧る小気味の良い音が響く。甘さ控えめだね、好みだよ。どうでも良いフォローをしてくるあたり罪悪感は覚えているのだろう。リグルは胡坐をかいてお嬢様の前に座っていた。
「いやはや。説明していなくて申し訳ない」
「説明って……、あんたの物覚えの悪さの事? 言っちゃ悪いけど有名だぜ。少なくとも家じゃね」
道具店でのリグルはお世辞にも有能と言えない。発注忘れに陳列ミスは当たり前。掃除でエントロピーを増やしたリグルに苦い笑みを浮かべる妙の顔は記憶にも新しい。
「あ、あはは。恥ずかしながらその通りだよ。私は妖蟲だし、こう見えて割と長く生きてるんでね。ただでさえ少ない頭の容量がもうかっつかつでね。一つ覚えたら一つ忘れる様にしてる。大事じゃない事は次々忘れないと、忘れたくない事 まで……、忘れてしまうからね」
子供の様だ。何時にもまして真丸な瞳はお嬢様にそんな印象を抱かせた。
時間も忘れ、見惚れていた。
「へー……、って。それ、結局私の約束は大事じゃないって事かよ!」
ばつの悪そうな顔で、リグルが頬を掻く。嫌いな仕草だ。誰にだってミスはある。そんな弁解が、お嬢様の頭にまたもや血を上らせた。矢継ぎ早にリグルが言い訳をしているが耳に入らない。問答無用。引き金を引こうとした時、ぱんと乾いた音がした。
「ご、ごめん。悪かった! 私が全部悪い!」
リグルが、両手を合わせ頭を下げていた。
「……許す」
お嬢様が八卦炉を下す。二つの溜息が、鳴き始めのアブラゼミにかき消された。
「そんなだから家でも怒られてばっかりなんだよ。どうにかできないのか?」
「そうだね。普段は、……こうやって」
周囲の草むらに潜んでいた蛍が宙を舞う。規則的な明滅。リグルの瞳に軌跡が刻まれていた。
「いやいや。家の中で蛍なんて纏わせてたら丸わかりだって。何言ってんの」
「そりゃそうか。まぁ、また何か考えとくよ」
「そんなことより。早くやろうぜ。魔法の特訓。教えて貰いたい事は山ほどある。そして今日は貴重な休日。一秒だって惜しいんだぜ」
「そうだね。そろそろ始めようか。でも、焦りは禁物だ。すっかり子供の遊びとして定着してる魔法だけど、本来はとても危険な物なんだよ。猛毒の触媒を使うこともあるし、自分の書いた魔道書に精神を蝕まれるなんてざらだ」
「そ、その位知ってるし。魔法の道はかくも険しい物なんだぜ」
「ふふ、お嬢様は博識でございますね。じゃ、何で君達が魔法で遊んでいられるのか、分かるかな?」
「決まってるぜ。そんな危険な領域に到達する程、本気で取り組む奴がいないからだ。『魔法使い』が使う魔法と、『人間』が使う魔法の間は果てしなく遠い」
「その通り。それじゃ、どうしてその間を埋めようとする人間は居ないんだろう」
お嬢様はぐっと睨みつける。お嬢様を除いてね。取って付けた様な言葉でリグルがフォローした。
「……魔法の費用対効果が最悪だからだ」
「その通り。火を起こしたければ薪を燃やせば良い。氷を作りたければ氷室を使えば良い。誰かを殺したいなら矢で射れば良い。並の人間が研究にが一生を捧げても、『魔法使い』になれるかはぎりぎりって所。よしんばなれても、無茶な研究と年齢でぼろぼろの肉体を引きずって工房に缶詰。終わらない研究の果てに精神か肉体のどちらかが摩耗しきって消えるのを待つだけの余生が始まる。その結果、得られるのは低級妖怪クラスの力と『魔族』に鼻で笑われるレベルの魔道書だけ。私の眼から見れば、魔界出身とか生まれが魔法使いの奴らと、人間の魔法使いは全くの別に見えるね。どっちがどっちとは言わないけれど」
「あいつらは生まれつき体に魔力がしみ込んでる。貯め込める魔力の量が桁違いだ。だから人間は足りない分を触媒に頼らないといけない。触媒を作るには……、とんでもなく時間が掛かる」
「だから、人間の魔法使いは不利。それでも貴女は魔法使いを目指すの? お嬢様」
「逆に考えれば、魔法を使えば薪が無くても火を起こせる。氷室なしに氷を出せる。弓を持たずに妖怪と戦える。言っただろ。私は別に魅魔様程の大魔法使いになりたい訳じゃない。その辺の妖怪やら妖獣と渡り合える位の力があれば良い。私は、『普通の魔法使い』になりたいんだ」
「へぇ。なんかそう言う変な所で常識的なの、旦那様にちょい似てるね。あぁ、いや。すまない。嫌みのつもりは無い。何はともあれ天狗が剣術を教えた人間が歴史に名を残した事もある。私は天狗に比べれば格段に劣るけれど……、まぁ。失望はさせないと思うよ。少し前置きが長くなったね。そろそろ始めないとね」
「あぁ、でも何をするんだ」
「そうだね。まずはお嬢様を知りたい、教えて」
「知りたい? 私を……、それって……? えっ……?」
お嬢様は頬を染める。勘違いをしていた。
「あ、ち。違うって! お嬢様の研究。魔術レベル。方向性。そう言うのが知りたいって事だよ」
「あ、あぁ。そう。そうだよね」
お嬢様は鞄を広げた。中からはばらばらと魔道具がこぼれおちた。
八卦炉を見る、触媒を見る。ノートをぱらぱらと、見ようとした。
「ちょ、ちょっと。流石にこれは見せられないぜ。魔道書は他人に見せない。常識だろ」
お嬢様はそれを取り上げる。
「そーいうのは、魔法使い名乗れる位に腕上げてから言いなって。ほら、それ見るのが一番手っ取り早いから」
ノートが取り合いになる。はずみで宙を舞ったノートがあるページを開いて切り株に落ちた。
「ふぅーん。へぇー。これはまた……」
「あー。それはだな。その……。私の考えた魔法装束だ。魔法の力を最大限に高めるドレスだぜ!」
研究ノートに書かれた絵。白黒のエプロンドレス。
「ど、どうだ?」
顔に少しだけ血が上っている事を感じた。
「良く分かってる。悪くないよ。魔法使いに型はとても大事だ。古典的だからこそ、基本に忠実。お嬢様の目指す、普通の魔法使いにはぴったりだ」
「そ、そうかそうだよな! やっぱり私は天才だな」
「そうそう。天才、天才。だから、凡才たる私に少しだけそのお考えをお見せ下さいな」
「全く……、仕方ないなぁ。絶対にばらすんじゃないぞ」
にこにこ顔でお嬢様はリグルにノートを見せた。そこには拙いながらも、光と熱の魔術が綴られていた。
「光熱魔術。一番シンプルで、汎用性に富む。ついでに派手。魅魔が得意とした術だね」
「そうだぜ。人間にはこう言うのが一番向いてるんだ。それに、派手なのは。好きだ」
「それじゃ、まずはお勉強。と行こうか」
「えー。リグルが座学?」
「記憶力が悪い事と、知識が少ない事は、必ずしも一致しないと憶えておくべきだよ。何と言っても、私はこう見えて君よりずっと長く生きているんだから」
リグルの言葉に嘘は無かった。リグルの講義はこれまでに読んだどんな魔術書よりも詳しく、これまで教えを乞うた勉学の師と同程度には分かり辛い。
それでもお嬢様は夕方まで居眠り一つしなかった。真っ黒になったノートを前に頭を抱える。たったそれだけの事が、こんなにも楽しく感じたのは今日が初めてだった。
「うひー。覚えきれないぜ」
頭の中を飛び交う数式や年表。筆を走らせるこの瞬間にも泡のように消えていく。こめかみにちりちりとした感覚を覚える。リグルがじっとこちらを見ていた。
「な、なんだよ。どっか間違ってる?」
「うん? ああ、うん。違う違う、そう。違う」
尚もぶつぶつと何事かを呟くリグルは明らかに上の空だ。
「そっか……。人間はそうやって紙に記憶を移して、記憶するんだね」
「そんなの当たり前だぜ? 悔しいけど、人間は殆どの面で妖怪に劣るからな。道具を使うのは当たり前だ。そんな事も知らずに里に入ってたのか?
「そうだ。そうだったね……。アイツもやってた事じゃないか。しまったなぁ。結構忘れてるよ」
まるで会話をしているとは思えない。赤い水面を眺める眼が捉えるのは、今では無いのだろう。
「アイツって?」
何の気なしにお嬢様はそう尋ねた。
「何でもないよ。私の恩人。そう。恩人だ」
リグルはやっとお嬢様を見て答える。すぐに、空中に視線は戻った。横顔が少し遠く感じる。
真夏だと言うのに、雪のように寂しげな表情だった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「よう、リグル。今日もよろしくな」
朝一番の一言とは緊張する物だ。だけど、それも何度か繰り返せばなれてくる。
朝露の付いた葉を手にリグルがこっちを見てほほ笑んでいる。何時も通りで少しほっとした。
「おはよう。相変わらず早起きだね。道には迷わなかった?」
魔法を教えて貰い始めてからはや二週間。一度だって迷った事は無い。その事を告げるとリグルは嫌みったらしくニヤケた。
「ありがたいけど、お節介なんだよ。毎回毎回」
「あ、気が付いた? 言われなきゃ黙っとこうと思ったんだけど」
「誰だって気が付くぜ。毎回毎回道の真ん中に『ハンミョウ』が居ればさ」
「道案内をするのは『道教え』のお家芸ってね。さーって、今日もはじめよっか――、ってそれ。何?」
リグルの視線がそれに注がれる。
「ふっふっふー。見て驚けよ。って言うか、ちょっと後ろ向け。私が良い言うまで動くな」
「はぁ? それってどういう……」
「いいから!」
お嬢様の手には大きな袋が握られている。絶対に覗くなよ。そんな声に気だるげな声が返って来た。そして数分後。
「じゃっじゃーん。どうだ?」
「ほぉ、これはこれは」
「へっへー。奉公人に一人手先の器用な変人が居てさ。親父に隠れてこっそり作らせたんだ。かわいいだろ?」
お嬢様はその場でくるりと一回転してみせる。それは見事な仕立てのエプロンドレス。白黒ツートンカラーのそれは、まさに少女のイメージする魔法少女が纏うそれだ。
「二百年前なら最高にナウくて、イケてる魔女スタイルだ。完璧だよ」
「そうだろうそうだろう。……って言うか、気になってたんだけどあんた何歳?」
「君の十倍以上は生きてるとだけ」
「へぇ、以外と大人なんだね……」
素直に眼を丸くする。
「そんなことないよ」
ちょっとトーンを落とした声でリグルが答える。
この辺でなんか適当に時間経過を描写。いつも通りの修行をする二人。
集中力が切れてぼんやりしたお嬢様にリグルが声を掛ける。
「聞いてる? 白黒」
「なんだよ。白黒って」
「あんたの名前だよ。人間の名前なんて覚えていられない。だから白黒」
お嬢様に代わる霧雨の呼び名として出す。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「さーて、後は工房か」
「工房……、でもこんな森の中の何処で工房が作れるって言うんだよ。穴でも掘るのか」
「それがあるんだよなぁ。実の所、あんたみたいに魔法使いを目指して森に籠る物好きは偶に居るんだよ。そう言う奴らが残して行った廃屋が森には点在している。その一つを頂こう」
「うん? 私以外にもそれなりに居るんだ。だったら最初にそう言ってくれれば良いのに」
「言っただろ。空き家が一杯だって。森に魔女は殆ど居ないのに」
お嬢様は押し黙る。
「怖がらせるつもりは無いよ。だけど、事実を知らないと対策は取れない。森の中で安全を確保するにはどうすれば良いか。よく考えておいた方が良いよ」
「へんっ、だったら簡単だ」
「どうするの?」
「私には有能なボディーガード兼師匠が居る」
「順番が逆だろ。白黒。でも、それってつまり、自分が死ぬまで傍にいろって事?」
「ちっ、ちが!? そんなつもりじゃ……」
「まぁ、長い人生。偶にはそう言うのも悪くは無いと、思わなくも無いけれど。即答はしかねるかな。私にもそれなりに事情はあるもんで」
「さぁ、着いた。今日からここが白黒の魔術工房だ」
現霧雨の家をリグルが紹介する。中に入って廃屋探索をする。
「白黒。部屋の中の物は不用意に触っちゃいけない。人間の魔法使いとは言え、危険な魔道具が混じっている可能性は否定できない」
「分かってるって」
リグルがフラグを立てるが、当然のようにお嬢様はグリモワールを手に取ろうとする。制止しようとしたリグル共々精神感応系のグリモワールに触れたことで、両者昏倒。
よくある感じの両者の記憶が混濁して、リグルの記憶をお嬢様が覗く感じの展開が入る。
→クライマックスへの伏線とする。
・当然未完
・弔いの意味を籠めて読まなくて良いのでスクロールしてやって下さい。
▲▽▲▽▲▽▲▽
不意に鼻腔を擽る土の香。
ツクツクボウシが、夏の終わりを告げる。
何の変哲もない夏の光景が胸の奥をやんわりと締め付けた。
埃の被った薄暗い倉庫が、いつの間にか苔の生い茂る林床に姿を変えている。何時もの事だ。
ぼやり浮かぶ冷たい灯りも、萌える若葉の如き緑髪も全ては幻覚と知っている。驚きは無い。この時期はそう言う物だと諦めているからだ。
「? おかーさん。さぼり?」
甲高い少女の声が私を現実に引き戻す。自分が郷愁に浸っていた事に気が付く。可愛い愛娘は、絹糸の様な金髪を頬に張り付けて私に抗議していた「そんなこと無いわ、御夕飯の献立を考えていたのよ」ころりと騙された様で、愛娘は眼を輝かせて目茶苦茶な栄養バランスの献立を所望する。わが娘ながら欲望には忠実で心配になる。誰に似たのだろうか。
「あんたがちゃんと最後まで片づけられたらね。さぁ、今日中に蔵の掃除は終わらせるわよ」
「ぶへー。めんどくさくさくっさー」
品のない仕草で逃げようとする娘をひっ捕まえて、作業を続行する。大掃除を始めて二日目。未だ終わりは遠い。溜息ついでの深呼吸。桐箪笥に手を掛けようとした時、ふいに何かが鼻腔を擽った。
「まさかね」
言葉とは裏腹にこの手は棚に伸びている。確信に近い思い。だって、引き戸が動く毎、土の香りは強くなっている。
「……懐かしい物が出てきたわね」
十数年ぶりに光を浴びた中身が私の記憶を明るく照らす。気が付いたら誰かが私の顔を覗きこんでいる。私の娘だ。その子の口は、『これは魔道具かと』たずねている。そうだと答えると、元から丸い目を更にまん丸にしてずずいと這い寄ってきた。
「おかーさん、魔法使いだったの?」
その満面の笑みが、私の失態を教えてくれた。「あー、バレたか」動揺を誤魔化すためにオーバーリアクションで認めてみせた。「正しくは元・魔法使いよ。今は貴女のお母さんだからね」
娘は魔法使いに対して過剰な幻想を抱いている。魔法使いの人形劇を見る度、興奮して魔法への思いを力説されているのだから此方としても気が気でない。
「魔法使いなんて格好良いものじゃないわ。殆どは地味な材料集めだし、いくら頑張っても妖怪には追いつけないし。特に博麗なんかと張り合うとロクな目に合わない」
「そんなのお母さんが才能なかっただけじゃない! 私は違うもん! 私は将来大魔法使いになるのよ! ほら、私ならこれだって動かせるし!」
そうやって娘は八角形の火炉を掴んで天井に掲げる。それは人でない者が作った魔道具だ。力あるものが扱えば、小山一つを吹き飛ばすとも言われている。慌てて取り上げようとして、止めた。
「……あれ? ……あれぇ? なにこれ、壊れてるし」
ヒビだらけの八卦炉は壊れている。子供の頃、私はあれを酷使して幻想郷を駆け周り、妖怪と戦って、負けた。魔術的構造は壊れきっており、二度と動くことは無いだろう。
がっかりした様子で娘は棚漁りを再開する。「何これだっさ」白黒のエプロンドレスを広げて見る。次々と出てくる懐かしの品。茸粉末を仕込んだ試験管。折れた箒の一部。グリモワールという名の研究手帳。そして、一番奥。出てきたのは一冊の古ぼけたノートだった。
「……そっか。そういえばこれは捨てずに取っておいたんだっけ」
さりげなく裏の右端。名前の書かれた部分を握って取り上げる。今にも崩れ落ちそうなノートから、くらくらする位濃厚な土の香りが漂ってくる。
「それからは魔法の臭いがしないよ? 何でこんなのを取っておいてるの?」
「これは、最初の師匠の持ち物。処分を頼まれたんだけど、どうにも捨てられなくてね」
娘が眼をキラキラさせながらこちらを見ている。
「ははーん。さては恋ね。うんうん、魔法少女と恋は切っても切れないってね」
どんな顔を見られたのだろう。根拠のない自信に満ちた生意気なニヤケ面は私の若い頃にそっくりだ。
「何何、どんな人? イケメンだった?」
「馬鹿な事言ってないでお掃除、お掃除。あー掃除は楽しいなって」
胸の奥の締め付けが、だんだん強まっている。嫌な訳ではない。忘れたい訳でもない。ただ、自分だけの記憶に留めておきたいだけだ。例えそれが、自分の娘であっても。
「ちょっ、話してよ! 掃除しないよ!」
「だったら夕飯はニンジンのグラッセとピーマンの肉詰めね。後は奈良漬が良いかしら」
「鬼! ケチ! 守銭奴!」
「魔法使いは研究を共有しない。魔法つかなら常識よ」
「だってお母さん。今は主婦でしょ、だったら良いじゃんよ」
「あんたの母親兼、霧雨道具店当主ね。はいはいおそーじ、おそーじ!」
話題の変更を試みるが、娘はあっさりと看破し激しく抗議する。
「ねーおかーさん! 頼むよ。本気なんだ。少しだって知りたいんだ、魔法使いの事を。私は絶対に魔法使いになりたい。そのために、間違った努力なんてしたくないから」
真っ直ぐな眼だ。先の道が存在すると信じて微塵も疑っていない。昔の自分と同じ瞳。
「まぁ、良い機会と言えなくも。無いの……、かな。子供を導くのは親の義務。個人的な感情は控えないとね。大掃除は一旦休憩にしましょう」
期待に眼を輝かせた娘は既にソファに腰掛けて休憩モードに入っている。私はその横に腰掛けた。
どんな魔法を使うのか。今は何をしているのか。先走って質問を投げかける娘を宥める。
胸に抱えたままっだったノートを見つめ、記憶を整理する。少し胸が痛い。だけど、娘には聞いていて欲しかった。
「魔法使いになるのは勝手だけど、家は追い出すからね」
何時も通りの言葉で脅す。効果が無いのは自分が一番良く知っている。だけど、その程度の覚悟も無しに魔法使いを目指せば、必ず娘は不幸になる。それも私が一番良く知っている。
「お母さんが箱入り娘で、まだ魔法使いだった頃、」
何も知らない子供で、まだ魔法が使えなかった頃。
「その夏。私は初めて魔法の師を仰いで修行した」
その夏。私は初めての友人と幻想郷を遊び回った。
「そして、夏の終わり。私は魔法使いを辞めた。たったそれだけのお話。つまらないかもしれないけど、最後まで聞いておきなさい。魔法使いを目指すなら、無駄にはならないから」
鼻腔を満たすのはむせ返る土の香り。
見えるのは純粋な子供の瞳。
◇◇◇
「リグル・ナイトバグが行方不明かぁ……」
少女が白く傷ひとつ無い脚の指でなぞるのは、センセーショナルな見出しの一つである。
ガリ版で刷られた荒い紙面には小難しい漢字が所狭しと並んでいる。お世辞にも読みやすいとはいえない。故に、したり顔で瓦版を読み上げる少女の呟きは全て知ったかぶりだ。
「お嬢様」
「うーん。一体だれの『いんぼー』でかしら。だとしたら、いまだに動きを見せない博麗が何か知って……?」
『人と妖怪の間で三度の停戦を挟んで続く長い抗争がこの度終結』、『新月の夜に踊る猟奇殺人犯、未だ手がかりをつかめず。責任を追求された自警団の長、小兎姫が辞職』『南東区の朝倉工房で爆発事故、一ヵ月ぶり七度目』。彼女が読み上げる記事はどれも劣らずインパクトが強い。
「……瓦版。逆さまですよ」
「……頭の訓練よ」
呆れた顔をした女中が、少女の皿を取り上げる。
「あぁ、『妙さん』。まだ食べるから置いといて」
「ダメです。もうお稽古まで時間がありませんよ。とっととお着替えなさって下さい。『お嬢様』」
「ケチー、――あだぁ?!」
涙目でつねられた手をさする姿からは想像もできないが、彼女は里でも有名な道具店の一人娘であり、文字通りの意味でお嬢様だ。
「『霧雨道具店の跡取り』が汚い言葉を使わない。旦那様の言いつけを忘れましたか」
お嬢様は反省の言葉と共に味噌汁をわざとらしくずずりと啜った。不満気に鼻眼鏡をくいと上げるのは古株の女中であり、お嬢様の教育係を務めている『妙』だ。何かにつけて小言を口にする妙が、お嬢様はとても苦手だった。
「お嬢様。明日はもう少し早く起きて下さい。何回起こしに行ったと思ってるんですか?」
なおも続く忠告の連鎖に暇を持て余したお嬢様は、何気なく壁掛け時計に目をやる。時刻は既に十一時半。妙の言うとおり、何時もならとっくに家を出ている時間だった。
「仕方がないじゃないの。昨日の夜は経営学の宿題をやっていて遅かったのよ」
「昨日はお休みだったでしょう」
「昼間は親父と弦楽団のコンサートだったじゃないの! 私は嫌だって言った――、いっだぁ!?」
「お忙しい中時間を取って下さったんです。そんな言い方はいけません」
「――もうっ! 妙さんは一々細かいんだから」
「当然ですよ、亡くなった奥方様に代わってお嬢様をしつけるのが私の仕事。大人としての義務です」
「そうやって、妙さんはいっつも子供扱い――」
がらりと開くガラス戸が、お嬢様の声を遮った。
鼻腔を擽る、土の香り。
「妙さん。この荷物 どうしましょうか?」
ちりんと鳴る風鈴の様な声がまっすぐに部屋を通り抜けた。
何事かとお嬢様が声の主に視線を向ける。同時、お嬢様の時が止まった。
「うん? あぁ、旦那様のお荷物ね。作業場に置いといて。多分、後で確認されるでしょうし」
「了解、です」
お嬢様は声の主から眼を外す事ができない。子葉の輝きをそのまま写し取った緑髪と透き通る白い肌が、あまりに非現実的だったからだ。
『人間とは思えない』。
ぞっとする程整った容姿にお嬢様は思わずそんな感想を抱く。そうこうしている内に少年の背中はすりガラスの向こう側に消えてしまった。
「……ねえ。妙さん。あの子。誰?」
「あぁ、ちょっと前に入った丁稚(でっち)ですよ。見覚えありませんか?」
「全然知らないわ。人間……、なのよね?」
当たり前じゃないですか。妙の声色には一部の嘘も認められない。
確かに様々な人種の入り交じる人里において髪色は黒とは限らない。実際にお嬢様の髪は美しい金色だ。そうは言っても、ここは日の本の国。黒髪以外はマイノリティなのである。お嬢様の知る世界において、緑髪を持つ人間は僅か数人だった。
「ま、基本昼間だけ来て貰ってるし、お稽古の時間と被ってるせいかもしれませんね。今日みたいに、遅刻上等でご飯でも食べてない限りは、ですよ。お嬢様?」
怨念すら感じる声に思考が中断される。
「もー、ちゃんと行くって言ってるでしょー。ごちそうさまでした!」
がちゃりと箸を放り投げ、お嬢様は自室へ続く階段を駆け登った。
「忘れ物はありませんか? 宿題は? 参考書は持ちました?」
「ぜ、全部あるわ……。さっき確認したじゃない」
身支度の自己最短記録更新を引き換えに、上がってしまった息は未だに戻らない。ピンク色の革草履をつっかけると、肩掛けカバンを振り回すようにして玄関を出た。
「気をつけて下さいね。最近、妖怪絡みの事件が増えています。終わったらまっすぐに帰ってくるようにと、旦那様からも強く言いつけられているんですからね」
「はいはい」
「分かっているんですか? 秋にはお見合いなんですよ。今、体に傷でも着いたら申し訳が立ちません」
「はいはい」
「……知っているんですよ。最近、ちょくちょくお稽古サボってるの。私だって、旦那様に言いつけるなんてしたくありませんからね」
「行ってきまーす!」
口うるさい女中の言葉をかき消しながら、お嬢様は家を飛び出した。
▲▽▲▽▲▽▲▽
里中に響き渡るミンミンゼミが夏の隆盛を告げている。容赦なく降り注ぐ日差しの中、お嬢様は目前の光景を見てはてと首を傾げた。記憶が正しければ、朝に見たカレンダーは平日を示していた。平日の昼間に里を歩く者は主婦か行商人か、浮浪者と相場が決まっている。つまり、眼の前を行きかう童共は学習を放棄した敗北者と言う事になる。
そんはずがない。冷静な霧雨が否定した。
「そっか……。そういえば夏休みか……」
夏休み。遊びや休養、そして申し訳ばかりの課外学習の為に設けられた期間。当然里に溢れているのは、遊びにその全てを費やそうとするテンプレート的少年達である。真夏の日差しを物ともせずに駆け回る彼らとは対照的に、お嬢様の足取りは老人の如く重かった。
「精々、遊びまわってろ……。後で、無計画に貯めた宿題に追われて泣けば良い……」
ぎっしりと参考書の詰まった鞄は肩が外れそうな位に重い。家を出て五分、お嬢様は既に汗だくだった。
「そして、私の苦労を一ミリでも知れば良いん、だぜ!」
家にいる時とはまるで別人の様に荒い口調ではあるが、これがお嬢様の本来だ。そも、妙を除けば基本的に男ばかりの商家で育って女性らしい口調など身に付くはずもない。妙に注意され始めたのもここ数年のことだ。未だ違和感も拭えないので、家の外では基本的に男勝りな口調のままである。
頬からぽたりと落ちた大粒の汗が乾いた地面を黒く染めた。
「夏休みって何だ? そんなの貰ったこと無いぜ?」
それはお嬢様の絶望の原因である。お嬢様の予定はこの先もずっとお勉強で、周囲の童は少なくとも後一ヶ月は遊び放題。『なんで自分だけが、参考書を詰め込んだ鞄を抱えて喘がないといけない』。お嬢様が怨念のたっぷりと詰まった眼で道を行く童達を睨みつける。運の悪い少年が、ひっと小さな悲鳴を上げて何処かに去っていった。
「その上見合い? ふっざけんな! 私は美少女で、花の十代なんだぜ? 恋だってまだした事ないのに!」
お嬢様が乱暴に小石を蹴り飛ばす。数秒後、昼寝中の猫がぎゃっと悲鳴を上げた。
「くっそ! くっそ! くっそ! なーんで私ばっかりこんな目に遭うん、だ、ぜ!」
「こらこらべっぴんが台無しだよ。お嬢ちゃん」
背後から掛けられた声に慌てて振り向く。そこには見覚えのある行商人が居た。
「あ、氷屋のおっちゃん。氷饅頭ちょーだい」
ころりと表情を切り替えたお嬢様に、中年の行商人が苦笑する。基本的にストレートな感情表現をする彼女ではあるが、大人の中で育っただけあって妙な所で切り替えが早い。勿論、大人から見れば不自然この上ない物であるが、本人がその事を知る由もない。
お嬢様が上機嫌で鞄から引っ張りだした紙幣は、子供が払うにしては少々高すぎる額。ちょっと待ってね。そんな声を流し聞きながらお嬢様は四角い氷が削られていく光景を眺める。人の頭ほどもある巨大な塊。歪んだ景色が面に映し出されている。数メートルの距離を隔ててすらお嬢様の頬には冷涼な風が伝わった。久々の感覚に思わず眼が細くなる。
「これで、もーちょっと安ければ毎日でも買いに来るのにねー」
「はは。これでもかなり勉強してるんだよ。ただ、何事にも限界がある、何せ夏の氷は貴重品だからね。氷室(ひむろ)のレンタル料も馬鹿にならないんだよ」
「だったら、氷精かレティでも捕まえてくれば良いのに」
「そりゃ物騒な話だ。妖怪を捕まえておく程の設備も、連れてくる力も無い。霧の湖に居る氷精なら可能かもしれないが、あのバカを制御するなんてそれこそ不可能だ」
「じゃー、私達の出番ね。魔法使いが氷を作って貴方が削る。完璧じゃない?」
「それは悪くない案だが。ビジネスとしてはちょっと難しいな。真夏に氷を作る程の魔力をねん出するなら、どんな触媒をどの位の期間で作ってどの位必要だい?」
「……魔法の森の茸を使ったとして。五本分を、鍋で三日三晩煮込んでから抽出した液を陰干しして一週間。取れた乾燥粉末五グラムでどうにか」
「それと、さっきお嬢さんが払った金額。釣りあうかい?」
「……そういう問題じゃないだろ!」
「そうだね。魔法は子供の遊びだ。遊びのついでに氷菓子が食べられるなら万々歳だね。でも、商売はそれじゃ駄目なんだよ。最低限のコストで商品を用意しないと同業者に客を取られてしまう。結局、旧家の氷室を間借りして、こうやって少しずつ売り歩くのが一番安く上がるんだよ。……って。そんな話はお嬢さんが知らない訳ないか。でも、もっと安くで氷を売りたいのは本心だよ。あぁ、そう言えば。朝倉の『科学』工房が最近『持ち運べる氷室』を発明したらしいね。でか過ぎて動かせないのと、高過ぎて誰も買えないのが難点だそうだが。まぁ、所詮は『科学』だし正直期待はしてないけど、霧雨の旦那は食いつきそうだね。今度相談してみたらどうかな?」
「親父の仕事なんて興味ないし……、そんな事より。それ! 早くちょーだいよ」
店主から氷まんじゅうをひったくり仮設ベンチへと腰掛ける。しゃくしゃくと喉を通り抜ける氷が、茹で上がった体を内部から冷やした。
「……その様子だと、また妙さんに叱られたみたいだね」
「そうだぜ! お稽古サボってるでしょ……、って。何だよ。半分はちゃんと行ってるってのに!」
「ははっ。お嬢さんの半分だって俺にゃとても無理さ。えらいえらい」
「そーだ、そーだ。その優しさだ! 妙にもこの十分の一でも優しさがあれば~、あ~……、っもう! また腹立ってきた!」
怒りにまかせて一気に氷を掻き込む。独特の刺激で堪らず頭を抱えた。自然、低くなった視界に一つの小袋が映り込む。お守りか何かだろう。普通ならそう考えて気にもとめない。しかし、お嬢様はその気配を見逃さなかった。言うまでもなく、『趣味』の賜である 。
「お……、おっちゃん。こ……、これは……!!」
「見つかったか……。だけど、これは売り物じゃないんだ。すまないが――」
袋に掛かった手をむんずと掴む。ただでさえ深い眉間のしわが、さらに深くなった。
「そっ、それ! 『キノコの粉』だろ?! 『魔法の森』の! 私の眼はごまかせないんだぜ!」
「そ、その通りなんだけどね、お嬢ちゃん。ほら、お嬢さんならもっと他に幾らでも『玩具』を持ってるだろう?」
曖昧な笑みを浮かべた主人が頬をぽりぽりと掻く。面倒事をはぐらかそうとする態度。大人が浮かべるそれが、お嬢様は大嫌いだった。
「ごまかさないで。私がどれだけ魔法が好きかなんて、知らない訳ないでしょう?」
「し、知ってるさ。私の娘だってそうなんだから。でも、そんなキラキラした眼を向けられても困るんだよ。私の娘の誕生日プレゼントなんだから」
「そんな事言わずにー。おーねーがーいー! お金払うからぁ~」
「し、しかし。今は妖蟲共がうるさくて迂闊に森に入れないだろう? これだって、森の境に住む薬師の知り合いから偶然に譲ってもらったんだよ。そいつももう里に引き上げてきているし、他の行商連中も山の勢力圏に引っ込んでる。今森に残ってる奴なんて狂人か、もしくは人外だけだよ。もう、金額関係なく手に入らないんだよ」
「そこを何とかー。美少女の顔に免じて! ほらほら、このとーりだからさぁ!」
ただただ茸が欲しい。それだけだった。気が付いた時、店の主人は取り乱していてお嬢様の視界には地面が映っていた。
「勘弁しておくれよ。『霧雨のお嬢さん』に頭を下げさせるなんて。旦那さんに知れたら何を言われるやら……」
猫なで声の主人が茸の袋を差し出している。その事実がお嬢様にとってどうしようもなく、気に食わなかった。
「……やっぱりいらない。悪かったよ。おっちゃん」
背後ではお嬢様の名を呼ぶ主人の声が虚しく響いてる。しかし、そんな声も喧噪のなかにある街道を少し進めば掻き消えてしまう。町中に響くセミの声は相変わらず鬱陶しかった。
「なんなんだぜ、なんなんだぜ……!」
それから僅か数分。とっくに稽古場に着いていなければならない時間だが、とてもそんな気分ではなかった。今、お嬢様は書を食む代わりに団子を食んでいる。しかし、咀嚼する度に飛び出る餡子はまるで泥みたいだった。何もかもが気に食わなくてだんと皿に串を投げ捨てる。
からんと店内に響く乾いた音。向けられる視線。予想外に集まってしまった注目に、お嬢様は顔を赤らめた。
「あれ、霧雨の所の子よね」
「あの金髪。間違いないわ。何でこんな所に……」
流れ聞こえる声が心に刺さる。それこそがお嬢様の苛立ちの原因だ。
『霧雨道具店』
新興の商家ながら里の中央に店を構えるそれは、変化に乏しい里における注目の的だ。実際、現在も拡大を続ける霧雨道具店は里の中でも大きな影響力を持ち始めている。商人に限らずとも畏敬に近い念を持つ者は少なくない。当然、その対象にはお嬢様も含まれる。
それが、お嬢様はたまらなく嫌だった。
「どいつもこいつも霧雨霧雨って……。そんなに親父が怖いかよ……。くっそ……、私なんてどうでも良い癖に媚売りやがって……!」
慰める友人は居ない。霧雨の名が出るだけで同年代の子供は逃げていってしまうからだ。少なくとも本人はそう思っていた。
「あー、もう! こんな時は食べるしか無い。おっちゃん! あんみつ追加、特盛りでね!!」
客もまばらになった店内。壁掛け時計は昼の二時を指していた。
ぽよりと飛び出たお腹は完璧なサボタージュの代償だ。里は未だ暑いが茶屋の中なら汗が噴き出る程でも無い。
山から吹き降ろす風が窓から吹き込む。
荒んだ心を癒やしたのは、一時の清涼感か、何処から漂う土の香りか。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「……なにあれ?」
時刻は午後の五時、帰宅ラッシュの時間帯。どういう訳か人の波が門の方へ向けて流れていた。
面白そうな気配がする。お嬢様がその波の行き先へ脚を向けたのはその程度の理由だった。波に沿って歩くこと数分。終着点には黒山の人だかりがあった。
「……本当。最近物騒なんだな」
「こんな所まで……、自警団は何やってるんだ」
雑踏の中、流れ聞こえる会話はお嬢様の好奇心を刺激する。追われるようにして夢中に人波をかき分ける。ようやく中心にたどり着いた時、人々の視線の先にそれは横たわっていた。
「妖蟲?」
地面に広がる緑色の体液。無数の体節から延びる対の足。十メートルは達しようと言う巨体には針山の如く矢が突き刺さっている。脳天を槍で貫かれた百足が静かに横たわっていた。
「壁を超えて来たんだ。殺した所で文句は無いだろう、けどなぁ。最近多すぎないか? リグル・ナイトバグの奴……、行方不明だって聞いたけどもしや本当に死んだんじゃないだろな?」
「死んでてくれた方がありがたいだろ。そんな事より襲われた子供が居ると聞いたが?」
「あぁ、それだったら俺が見たぞ。百足が襲いかかってきた直後に、偶然近くに居た小兎の者が助けに入った。足から血が滲んでいたが、まぁ、大した怪我ではなさそうだったな」
「そうか……、死人が出なかったのは幸いだが、ついに怪我人とは。問題にならなければ良いが」
妙から話は聞いていた。『妖蟲の襲撃』が最近増えていると。実際に見たのは初めてだった。蟲の死骸位見た事はある。だけど、これ程に大きくなると話は別だ。姿の不気味さと、漂う死臭に居の中身がせり上がりそうになった。
帰ろう。
お嬢様が踵を返したのと、小兎の自警団員が駆け付けたのは同時の事だった。
「おい、襲われた子供はどうした?! 緑髪の少年が襲われたんじゃないのか」
「あぁ、その子だったらそこの木で休むって言って……、あれ?」
自警団の構成員と思しき男が門脇の木を指さす。そこには、誰の姿もなかった。
「もうこんな時間か」
日の傾きから六時頃と推定した。随分と長くなった日に感嘆する。
雑踏の中心。記憶も新しい緑髪が視界の端に入った。
背後から漂う土の香り。
本当に何気なく視線を門の向こう側にやる。
「あれ?」
木々の合間に、緑の髪が揺れた。……気がした。
「気の所為かなぁ」
ヒグラシの鳴き声が、一日の終わりを告げた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
壁掛け時計が七時を告げる。
炊事場から漂う味噌汁の香りが、すきっぱらをぐぅと鳴かせた。
「お嬢様! 何をこんな遅くまで出歩いていたんですか! 今は色々と物騒だとあれほど!」
冒頭の言葉は小言を聞き流す現実逃避。
「もう、うるさいなぁ。妙さん。そう言うのはお父さんの仕事でしょ」
「いいえ。旦那さまだけの仕事ではありません。子供を正しく導くのは、大人の義務 ですから」
「ねえ妙さん。あの緑髪の子ってまだ居る?」
「いいえ、あの子は夕方までですよ。2時間程前に帰りました」
「ふぅーん」
久々の午前休を貰ったお嬢様は緑髪の少年を見かけた。
その足首には、包帯が巻かれていた。
「ねぇ、ちょっとそこの貴方」
「あっ、はい。何でしょう……、お嬢様」
「足首、どうしたの?」
「あはは。昨日帰り道に転んでしまって。でも、大丈夫です。僕、身体だけは頑丈ですから」
「ふーん……」
「あんたさ。昨日の夕方、門の近くに居なかった?」
緑髪が慌てた様子を見せる。
「ひ、人違いじゃないでしょうか」
もう行っても良いですか、店先に目線を動かしながら緑髪の少年は言った。
「妙さん。あいつが家を出るのって何時頃?」
「五時ちょうどですけど、それが何か?」
「いいえ、なんでもありませんわ」
稽古が終わるのが四時半。霧雨道具店から稽古場まで徒歩二十分。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「……来た」
自宅の前で張り込む事二十分。目当ての人物が勝手口から出てくる。お嬢様の胸が一度大きく拍動した。私服らしい白のワイシャツが緑髪に良く映える。足取りから疲労は感じられない。鼻緒を確認。深呼吸と同時、少しの距離を置いて跡を着けはじめた。
夕方の通りは昨日と同じく、帰宅する住人達で溢れている。流れに逆行して門の方へ向かう少年の跡を追うのはそれ程難しい事ではなかった。
歩く事十五分。お嬢様の予想通り、緑髪の少年は里の門を潜った。
ビンゴ。霧雨の娘は心の中で小さくガッツポーズした。しかし、その後に続こうとして、若い男の声に呼び止められる。険しい顔は小兎の自警団員だ。
「ちょっとちょっと、お嬢さん。こんな時間に里の外に何の用だい? ただでさえ最近妖怪が暴れまわっているって言うのに」
「ちょっとちょっとはこっちセリフだぜ! さっきの子は素通しだったでしょうよ! 何で私だけ! あれか、私が女だからか。子供だからか!」
「少年? 何の事を言ってるんだい。誰であれ里を出るの者にはひと声かけさせてもらってるよ 」
「そんな訳ない、だってさっき――、ああっ!!」
緑髪が森の中に入っていく。数秒もせずに後を追えなくなるだろう。
「もうっ! 止めろって言われてる訳じゃないんだろ! 私は魔法使いだ、妖怪位自分で何とか出来る! 通らせてもらうぜ!」
「ちょっと、君!!」
門番の脇をすり抜けてお嬢さまが里の外に出る。忍ぶ事も忘れ、一直線に森へと飛び込んだ。
濃厚な土の香りで、頭がくらくらした。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「あっ、これもだ。凄い……、全部触媒に使える」
近くて遠い場所。魔法の森はよくそんな風に言われている。
実際、濃厚な魔力が満ち妖怪が跋扈する土地に好き好んで入る者は少ない。
「ふー。大量、大量。あー、やっぱり来てよかった。森は危ないなんて、言ってたけど。何だ全然大した事ないな」
ポケットの中には触媒用の茸がパンパンに入っている。これだけあれば優に数ヶ月は持つだろう。
胸を満たす満足感。ふぅと息を吐いて。お嬢様は我に返った。
駄目元で周りを見渡したが、当然の様に緑髪の気配は無かった。
「居ない……、当たり前かぁ……。はぁ、迂闊だった。私とした事が茸に眼を奪われて跡を追う事を忘れるなんて」
辺りにはすっかり夜の帳が降りている。苔や星の灯りで歩くのには困らないが、それ程遠くは見渡せなかった。
「帰ろ。茸も見つけたし、アイツの事はまた明日で良いや。さて、里の方向はっと……」
知らない内に森の奥へ入り込んでしまった様で、辺りの景色に見覚えは無い。
天蓋に浮かぶのはは真丸の月と無数の星。実は北の空、カシオペアの延長上に北極星が浮かんでいる。しかし、お嬢様がそんな事を知る筈も無かった。
「だだだ、大丈夫。なんだぜ。私は『魔法使い』なんだからな。悪い妖怪をやっつける正義の味方が、こんな夜の森位で――、ひあっ!?」
木の葉を揺らす森の風。がさりという音に素っ頓狂な悲鳴をあげた。
思わずその場にうずくまる。ポケットからばらばらと茸が落ちたが、気にしている余裕はない。震える手で、鞄をまさぐる。こっそりと忍ばせていた『八卦炉』を取りだした。
「くくくく、来るなら来い! わわわ、私は、魔法使いだぞ!! お前ら何か、怖くなんて……」
小山を焼きつくす火を生み出す火炉。大魔法使い魅魔が使っていた魔道具の再現。お嬢様の手作りであるそれは、いびつな形をしていた。ぱらぱらと茸粉末を火口(ほくち)に注ぐ。仄かな魔力が八卦炉から立ち上った。
唾を飲む。全神経を集中させて辺りを警戒する。ちりちりと額が熱くなってきた頃にようやく物音が風の仕業だったのだと気が付いた。
ほっと一息。八卦炉を下した時、不意に気配が枝を折った。
背筋が冷える。気が付いた時、お嬢様の体は木の洞にあった。息を潜める事数秒。そっと洞の外を見ると、一匹の狼が周囲の様子を窺っていた。それを認識すると同時、がたがたと全身が震えだす。
「こ、これはそう。戦略的撤退なんだぜ……。私が本気になったらあんな狼位」
握りしめた八卦炉が急に頼りなく感じられる。真っ赤な瞳が、真っ直ぐに霧雨の娘を射抜いた。
「く、来るな!」
距離、五メートル。お嬢様の存在を認めた巨大な狼が接近する。
のそりと揺れる胴体にはアバラが浮いている。口元から垂れる涎は少女の肉を予想してだろうか。
もう隠れている意味は無い。勇気を振り絞って飛び出したお嬢様は、八卦炉を狼に向けた。
「わ、私は優しいからな! い、いま帰るなら見逃してやるぞ!」
狼の足は止まらない。ぎゅっと眼をつぶったお嬢様は八卦炉に力を籠めた。
立ち上る魔力が密度を増す。火口(ほくち)に光が収束する。
発射シークエンスの終了を確認。お嬢様は側面に付けたスイッチを押した。
『必殺・マスタースパーク』
放出された閃光が、夜の森に一時の昼を生み出す。
一秒。二秒。三秒。世界を支配した閃光はゆっくりと闇に飲まれていった。
「やったか?!」
光で眩んだ眼をこすり、魔法の成果を確認する。徐々に、除々に露わになる何者かのシルエット。
ようやく眼が戻った時、きょとりとした顔の狼がその場に立ち尽くしていた。狼の足元には星型の金平糖が転がっている。
「ぐ……、私のマスタースパークが通用しないなんて」
今の魔法は手持ちの魔法触媒で発揮できる最大出力だ。最早、お嬢様には為す術がない。
恐怖。我に返った狼はお嬢様を真っ直ぐに睨みつけた。
身が危ないというのに、体は動いてくれない。頼みの魔法は狼のおやつになっている。
無力で、悔しくて。自然と涙がこぼれおちる。
もう駄目だ。絶望と共にぎゅっと眼を瞑る。
丁度その時。優しい土の香りが、鼻腔を擽った。
「ちょいちょい。そこの狼殿。ここで狩りをするなら私達を通すの筋じゃないかな?」
のんきな声が頭上から届く。聞き覚えのある声だ。
「困るんだよねぇ。家の縄張りで勝手されちゃさぁ。そりゃ、私達だって今はヒトの事言えないかもしれない。だけど、あんたらが私の縄張りで好き勝手して良い理由にはならないよ。争い事はいやでしょ。お互いにさ」
大樹の枝から舞い降りた横顔が月光に照らされる。風になびく緑の横髪で顔は見えない。ただ、ぞっとするほど美しい。そんな印象を抱いた。
「あー。あんた見覚えあるよ。山裾あたりによく居るおばちゃんの息子だね。ほらほら、告げ口なんてしないから早く帰りなさい。心配性のあの人の事だ。今頃、あんたの事を探し回ってるよ」
標的を変えた狼が緑髪に牙を向ける。緑髪がため息を吐いた。
「困ったなぁ。言葉が通じないのか。あの人にはよくお世話になっているし、あんまり手荒な事はしたくないんだけど。仕方ないか」
緑髪の少年には数匹の夜光虫が付き従っている。人差し指の導きに従って、夜光虫が狼を包んだ。
「君はまだ子供だろう。夜はお家に帰るんだ。だから、眼が覚めたら君はお母さんの胸の中。少し叱られるかもしれないけど、心配はしなくても良い」
抵抗する間もなく狼の体が崩れ落ちる。上下する腹を見る限り、静かに眠っている様だった。それをみて、緑髪の口元が緩む。狼の体を優しく抱え、洞の中に寝かせた。
「おやすみ。後で送り届けさせるから、暫くそこで休んでてね」
お嬢様に背を向け、優しく頭を撫でている。それはさながら子をあやす親だった。
ゆっくりと立ち上がった緑髪がお嬢様に背を向けたまま口を開く。
「命知らずだね、人間。ここは私達の縄張りだよ。さぁどうしてくれようか?」
先ほどとは別人の様に強い口調。緑髪が振り返ると同時、その姿が月光に照らしだされた。
「――あんた緑髪の?」
「――ゲェ?! 『お嬢様』、何でここに!?」
夜の森に轟く間抜けな声二つ。
鼻腔を擽る、土の香り。
▲▽▲▽▲▽▲▽
リグル・ナイトバグは溜息を吐いた。
見捨てるべきか、救うべきか。
里を出た時、何者かにつけられているのは気が付いていた。しかし、まさか森の中まで追ってくるとは思わなかったのだ。
「帰ってくれるならそれに越したことは無い。だけど、……何やってんのあれ」
万一の事があっていけないと遠方から監視を始めて早一時間。少女らしき人影は、自分を追跡する事も忘れて茸の採取に耽っている。正直に言って、頭痛が痛い。
「子供が妖怪の領域で何やってんだよ……! ここ、私らの縄張りだぞ……! 襲われないのが不思議と思わないのか、あの子供は……!!」
逆である。子供だから分からないのだ。そんな事はリグルも分かっていた。だからこそ、こうやって辺りの妖蟲を遠ざけてやっている。
眠い目を擦り、監視を続ける。狼が接近しているとの連絡を受けたのはそんな時だった。
リグルは躊躇した。
この人間を助ければ十中八九自分が妖怪とばれる。そうすれば、もう里に居られなくなるかも知れない。かと言って、見捨てるなんてできなかった。
もしかしたら、少女が上手く逃げてくれるかもしれない。適当に狼を追い払うかもしれない。
そんな淡い願いも虚しく、少女の魔法は案の定遊びの域だ。
万策尽きた少女が狼の前で眼を瞑った時、自然リグルの体は動いていた。
「ああっ、もう! これだから人間って奴は、」
理由はただ一つ。リグルは何よりも『人間』の事が。
「大嫌いなんだよ」
▲▽▲▽▲▽▲▽
「蟲の王ってもっといかつい奴かと思ってたぜ」
「まだ王じゃないし……。って。ねぇ、ホント!ほんっとに黙ってて、お願いだからさぁ~」
「それは『リグル』の態度次第かなー?」
先程までの勇ましさは何処へやら。『リグル・ナイトバグ』は半泣きでお嬢様に縋り付いていた。
「絶対におかしいと思ったんだよ。何週間も前から居るって言うのに、顔も見たこと無い。それに、奉公人の誰もあんたの素性を知らないなんてあり得ない。それに疑問を持たないのも尚更だ。情報が命の商家で身辺調査は常識だぜ。教えろ。って言うかむしろ吐け。あんた、何した?」
びしりとお嬢様がリグルに指を突き付けた。
「ちょ、ちょっとみんなの記憶を弄っただけだよ。妖術でね。べ、別に害は無いしそれ以外は何もしてないよ、……ほ、本当だから!」
記憶操作の魔術は文献を漁れば幾らでも出てくる。どれも意識の表層に手を加えるだけで致命的な物では無かったと、お嬢様は記憶していた。
「だったら何で私の記憶は弄らなかったんだ?」
「……あんたの体中から魔法の香りがぷんぷんした。下手に弄ったら危ないと思ったんだよ」
「あっそ。私ったらやっぱり天才だな」
リグルの言葉がお嬢様の自尊心をくすぐる。卓越した魔法の使い手である程に魔法に対する感受性は高い物だ。魔法の腕をほめられたみたいで、お嬢様はどこか誇らしかった。
「違う。適当な魔法ばっかり何個も何個も掛けて。干渉して何が起こるか分かったものじゃなかったんだよ」
びしりと突き付けられた爪がきらりと光る。
「な、何だよそれ! 私の魔法が目茶苦茶だって言うのかよ!」
「目茶苦茶って言うか、殆どオリジナルじゃないか。おまじないならまだしも、魔法のレベルでこれだけ掛けられてると正直……、調べもせずに触りたくないかな。魔法は歴とした学術体系だけど、不明な点はまだ多い。魔法同士の相互作用が良い例だ。偶発的な作用が君の体にどんな影響を与えるのか。保証できない魔法を他人に掛けるほど私は無責任じゃないよ。……って言うか。危ないとか言われた事無いの? 友達とか、先生とかにさ」
切れ長の目と、筋の通った鼻。丸顔気味ながら、余裕を感じさせる表情からは重ねた年齢の違いが見えていた。つまるところ、お嬢様は始めて間近でみたリグルに見とれていたのだ。
「どうなのさ? お嬢様……、お嬢様?」
耳に刺さる鈴の様な声。我に帰った時、リグルは首を傾げてお嬢様を覗き込んでいた。
「な、何の話だっけ?」
「聞いてなかったの? オリジナル魔法を自分に掛けるの、辞めろって誰かに言われなかったの?」
「そ、そんなこと、無い。ただ……、友達なんて居ないし。魔法の師匠なんて居るわけ無いじゃん……。って」
「そ、そう……、わ、悪かった、よ」
「ちょ、ちょっと。その可愛そうな物を見る目、辞めろよな。私の才能に皆が嫉妬して寄ってこないだけだからな。別に私は悪くない」
「はぁ……、まぁ何でも良いけどさ。とりあえず見せて。今更記憶を弄ろうなんて思わないけど、ちょっと今の状態で放っては置けないからさ」
「別に良いけど。変なことすんなよ」
「はいはい」
緑の瞳がお嬢様へ向けられる。どうしようもない居心地の悪さに、お嬢様は空を見上げる。どうだった。さっぱわかんね。間もなくして帰ってきた調子はずれの声に、お嬢様は肩を落とした。
「お嬢様、貴女が思ったより真面目な奴だって事以外は。なんもわかんなかった」
「ふん、私が真面目だって? 何言ってんだよ。こんなの全部適当に掛けただけだぜ」
「嘘、脚には乳酸蓄積によるアシドーシスの抑制術式、脳には作業記憶の拡張術式、各種末梢神経系における電位『非』依存性チャネルの追加は反応速度向上の為かな? 表面に見える範囲では、混在も無いし、どれも実用的。こんなの適当で出来るわけがない」
ぐぬりとうなる。リグルの言っている事は事実だ。どれもこれも蔵の中から引っ張り出した魔道書を前に唸りながら掛けた記憶がある。
「だけど、圧倒的に力が足りない。やりたい事は分かるけど、駆動しなきゃ意味無いよ。後、無駄な式、多すぎ。こっちは少し絡まってる。これが一番危ないんだよ。全く」
「……うっさい」
照れと言うより純粋に苛ついた。理解できているだけに、見透かされている気がしたからだ。
「遊びにしては手が込んでるね。何でそんな真面目に魔法を勉強してるのさ。人間のくせに」
「何言ってるんだよ。魔法使いは皆の憧れ。常識だぜ。大魔法使い魅魔様を知らないの?」
「あぁ、博麗に喧嘩売って殺された変人だっけ?」
「ち~がーうー! いや……、あってるけど」
「里の英雄、魅魔様と言えば誰だって知ってるぜ。だって魅魔様は、博麗と対等に渡り合った唯一の人間なんだ。ド派手な魔法で何度も人里を守ったんだ。確かに、最後はちょっとした事で博麗と喧嘩して事故で死んだけど。それでも、魅魔様は私達のヒーローだ。絵本だって沢山あるし、子供なら誰だって一度は憧れる。じょーしきだぜ」
「そう言えばあったねぇ。『魔法ブーム』。当時は人間が使える魔法なんかじゃ、遊びにしかならないって知られてなかったもんね。今でも続いてたんだ。とっくに終わったと思ってたよ」
「違うぜ、遊びなのは誰も真剣にやってないからだ。私は違う」
「ふふ、やっぱり君は真面目なんだね」
「……? あー! あー!! 今の嘘、無し! 私みたいな天才は魔法だって使いこなせるって事だよ!」
「そう言う事にしておいてあげるよ。でも君は商人になるんじゃないの?」
「そんなの親父が勝手に決めただけだ。私は『魔法使い』になりたい」
「ふーん。英雄になってどうするの? なんで、『お嬢様』は英雄になりたいの?」
「それだよそれ。お嬢様、お嬢様、お嬢様って。私にはちゃんと名前があるんだっての! 霧雨道具店の娘だってだけで皆逃げていく。そうでない奴はおべっか使うおっさんだけだ。私はもうそんなのに飽き飽きしてるんだぜ。私はな、別に英雄になんてなりたい訳じゃない。ただ、普通の魔法使いになりたいんだ」
「その為に君は里での生活を全部捨てる覚悟はある? たった一人でのたれ死ぬ覚悟は? 当主を失った奉公人達が路頭に迷う事を許容する?」
「と、当然よ!」
狼狽した様子のお嬢様を見たリグルは優しく笑う。その後、わざとらしい嫌味な表情で言葉を続けた。
「ふぅん。覚悟はあるんだね。でも、辞めた方が良い。君は天才かもしれないけど、ちょっと修行の仕方が悪い。魔法は学問。優秀な師、書物、工房。せめてこの三つは揃ってないとね。人間って言うハードルはお嬢様が思ってるよりずっと高いよ」
「よ、余計なお世話だ」
「ああそうか。ま、がんばってね。絡まってた魔法は解除しておいたよ。これで、今日の事はチャラにしてくれると嬉しいな。明日から私はただの丁稚。無関心で居てくれれば十分だから」
リグルが去っていく。
その背中を見送る。苛立ちがお嬢様を動かした。
「ま、待てよ!」
「何さ」
「わ、私に魔法を教えろ」
「私は魔法使いじゃないよ」
「うるさい! 知ってるんだぜ。妖術と魔法は本質的に同じだ。私の魔法を看破できたのもそのおかげだろう? お前は確かに魔法使いじゃないかもしれないけど、一応妖怪だ。人間の私なんかよりはるかに高度な魔法を使える。違うか?」
「良く知ってるね。その通り。良いよ、教えてあげる」
「――もしも断ったら、親父にお前の素性をばらす……、って。えっ?」
「うん。だから別に良いよ。魔法。教えてあげる」
「や、やけにあっさりだな」
「何、断って欲しかったの? お嬢様」
「そんな訳あるか。まぁ、教えてくれるなら、文句ない。けど!」
「けど?」
「私を、お嬢様って呼ぶな」
「はいはい」
蛍の光を背景に、リグルが苦笑した。
▲▽▲▽▲▽▲▽
時刻は早朝。雀の鳴き声がアブラゼミの合唱にかき消される前。
息をしようとしたらぐずりと音が出た。鼻水のせいか、むせ返る様な土の香りはあまり感じない。
すすと腕をさする。日が昇ってから間がない森は、真夏とは言え少し肌寒かった。
「どうせ荷物あるなら何か羽織ってくれば良かったぜ……」
肩がずしりと重い。自信の魔法道具や研究ノートがぎゅうぎゅうに詰まっているのだから当然だ。
朝露に濡れた苔がくしゅりと音を立てる。滑らない様にと、草履に少しだけ力を籠めた。
「それにしても、あいつ。こんな森の奥を待ち合わせにするなんて。レディを何だと思ってるんだぜ。この道は安全だーなんて言ってたけど。それでも森の入口でエスコート位しやがれってんだ。空気が読めないのが、馬鹿真面目なのか知らないけど。本当、律儀に家では他人のフリしやがって碌に口もききやしない。迷子になったらどうするつもりだ。道しるべ位残しとけっての」
胸を高鳴らせるのは、鞄の魔道具達かそれとも緑髪への文句なのか。どちらにせよ、お嬢様の口元は緩みっぱなしであった。
「いやいや。別にあいつに会うのが楽しみな訳じゃないぞ。魔法を教えて貰えるのが楽しみなだけだし。そうだ、そうにきまってる」
目的の湖畔は間近だ。最後の垣根を超えると小さな泉が姿を現す。緑髪は多くの蟲に囲まれて談笑していた。
声を掛ける。どうしてか、たったそれだけの事に躊躇してしまった。悩むからだ。何と言うべきだろうか。主導権があるとは言え、教えて貰う側の身である。一定の敬意は払うべきだろう。
『すみません、よろしくお願いします』流石によそよそし過ぎる。
『ようリグル。今日はよろしくな』悪くない。しかし、少しフランク過ぎる気がする。
『おはよう、リグル。今日はお願いするぜ』これで行こう。丁度良い筈だ。
すぅと深呼吸。裏返ったりしないよう、驚かさないよう。呼気量に気を払って声帯を開いた。
「お、おは――」
「あれ。『お嬢様』。なんでこんな所に居るんですか?」
鈴の様な声がお嬢様の前を遮る。
緑の隙間に、間抜け面が覗いていた。
驚き。色んな段取りを吹き飛ばされた焦りもあって、お嬢様の頭は真っ白だ。現状や、リグルの言葉を把握するに従って。ゆっくりと怒りが立ち上り始めた。
「なんでっ……、て。『この前の満月の日に約束した』だろうが!」
「な、何の話さ。『お嬢様』。って言うか。だから何で貴女がこんな所に居るんです?」
「とぼけてんのか!!! そんなに私との修行が嫌か!!! えぇ、私の事が嫌いなら嫌いって言えよ!!! リグル!!」
「え、ちょ、わた――、ぼ、僕の名前は『弥助』で『リグル』って言うのは」
「ちょ、何言ってるんだ。リグル。お前は妖蟲のリグル・ナイトバグで、弥助は家での偽名だろ? この前教えてくれただろうか」
馬鹿みたいに真面目な間抜け面。その言葉に嘘がない事が分かってしまったが故に、苛立ちは募るばかりだった。
「そ、そうか。お前。私を馬鹿にしてるんだな」
その間抜け面にとっておきをお見舞いすべく、自信の魔力を注ぎ込んだ。
「乙女の純情、踏みにじりやがってぇぇっ……!!」
必殺『マスタースパーク』
「あっ、その光。やっと思い出したよ。あんた――」リグルの弁解が聞こえた時、既に世界は白い光で埋め尽くされていた 。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「ふいー。まだ眼がくらくらするよ」
「……謝らないからな」
かりりと金平糖を齧る小気味の良い音が響く。甘さ控えめだね、好みだよ。どうでも良いフォローをしてくるあたり罪悪感は覚えているのだろう。リグルは胡坐をかいてお嬢様の前に座っていた。
「いやはや。説明していなくて申し訳ない」
「説明って……、あんたの物覚えの悪さの事? 言っちゃ悪いけど有名だぜ。少なくとも家じゃね」
道具店でのリグルはお世辞にも有能と言えない。発注忘れに陳列ミスは当たり前。掃除でエントロピーを増やしたリグルに苦い笑みを浮かべる妙の顔は記憶にも新しい。
「あ、あはは。恥ずかしながらその通りだよ。私は妖蟲だし、こう見えて割と長く生きてるんでね。ただでさえ少ない頭の容量がもうかっつかつでね。一つ覚えたら一つ忘れる様にしてる。大事じゃない事は次々忘れないと、忘れたくない事 まで……、忘れてしまうからね」
子供の様だ。何時にもまして真丸な瞳はお嬢様にそんな印象を抱かせた。
時間も忘れ、見惚れていた。
「へー……、って。それ、結局私の約束は大事じゃないって事かよ!」
ばつの悪そうな顔で、リグルが頬を掻く。嫌いな仕草だ。誰にだってミスはある。そんな弁解が、お嬢様の頭にまたもや血を上らせた。矢継ぎ早にリグルが言い訳をしているが耳に入らない。問答無用。引き金を引こうとした時、ぱんと乾いた音がした。
「ご、ごめん。悪かった! 私が全部悪い!」
リグルが、両手を合わせ頭を下げていた。
「……許す」
お嬢様が八卦炉を下す。二つの溜息が、鳴き始めのアブラゼミにかき消された。
「そんなだから家でも怒られてばっかりなんだよ。どうにかできないのか?」
「そうだね。普段は、……こうやって」
周囲の草むらに潜んでいた蛍が宙を舞う。規則的な明滅。リグルの瞳に軌跡が刻まれていた。
「いやいや。家の中で蛍なんて纏わせてたら丸わかりだって。何言ってんの」
「そりゃそうか。まぁ、また何か考えとくよ」
「そんなことより。早くやろうぜ。魔法の特訓。教えて貰いたい事は山ほどある。そして今日は貴重な休日。一秒だって惜しいんだぜ」
「そうだね。そろそろ始めようか。でも、焦りは禁物だ。すっかり子供の遊びとして定着してる魔法だけど、本来はとても危険な物なんだよ。猛毒の触媒を使うこともあるし、自分の書いた魔道書に精神を蝕まれるなんてざらだ」
「そ、その位知ってるし。魔法の道はかくも険しい物なんだぜ」
「ふふ、お嬢様は博識でございますね。じゃ、何で君達が魔法で遊んでいられるのか、分かるかな?」
「決まってるぜ。そんな危険な領域に到達する程、本気で取り組む奴がいないからだ。『魔法使い』が使う魔法と、『人間』が使う魔法の間は果てしなく遠い」
「その通り。それじゃ、どうしてその間を埋めようとする人間は居ないんだろう」
お嬢様はぐっと睨みつける。お嬢様を除いてね。取って付けた様な言葉でリグルがフォローした。
「……魔法の費用対効果が最悪だからだ」
「その通り。火を起こしたければ薪を燃やせば良い。氷を作りたければ氷室を使えば良い。誰かを殺したいなら矢で射れば良い。並の人間が研究にが一生を捧げても、『魔法使い』になれるかはぎりぎりって所。よしんばなれても、無茶な研究と年齢でぼろぼろの肉体を引きずって工房に缶詰。終わらない研究の果てに精神か肉体のどちらかが摩耗しきって消えるのを待つだけの余生が始まる。その結果、得られるのは低級妖怪クラスの力と『魔族』に鼻で笑われるレベルの魔道書だけ。私の眼から見れば、魔界出身とか生まれが魔法使いの奴らと、人間の魔法使いは全くの別に見えるね。どっちがどっちとは言わないけれど」
「あいつらは生まれつき体に魔力がしみ込んでる。貯め込める魔力の量が桁違いだ。だから人間は足りない分を触媒に頼らないといけない。触媒を作るには……、とんでもなく時間が掛かる」
「だから、人間の魔法使いは不利。それでも貴女は魔法使いを目指すの? お嬢様」
「逆に考えれば、魔法を使えば薪が無くても火を起こせる。氷室なしに氷を出せる。弓を持たずに妖怪と戦える。言っただろ。私は別に魅魔様程の大魔法使いになりたい訳じゃない。その辺の妖怪やら妖獣と渡り合える位の力があれば良い。私は、『普通の魔法使い』になりたいんだ」
「へぇ。なんかそう言う変な所で常識的なの、旦那様にちょい似てるね。あぁ、いや。すまない。嫌みのつもりは無い。何はともあれ天狗が剣術を教えた人間が歴史に名を残した事もある。私は天狗に比べれば格段に劣るけれど……、まぁ。失望はさせないと思うよ。少し前置きが長くなったね。そろそろ始めないとね」
「あぁ、でも何をするんだ」
「そうだね。まずはお嬢様を知りたい、教えて」
「知りたい? 私を……、それって……? えっ……?」
お嬢様は頬を染める。勘違いをしていた。
「あ、ち。違うって! お嬢様の研究。魔術レベル。方向性。そう言うのが知りたいって事だよ」
「あ、あぁ。そう。そうだよね」
お嬢様は鞄を広げた。中からはばらばらと魔道具がこぼれおちた。
八卦炉を見る、触媒を見る。ノートをぱらぱらと、見ようとした。
「ちょ、ちょっと。流石にこれは見せられないぜ。魔道書は他人に見せない。常識だろ」
お嬢様はそれを取り上げる。
「そーいうのは、魔法使い名乗れる位に腕上げてから言いなって。ほら、それ見るのが一番手っ取り早いから」
ノートが取り合いになる。はずみで宙を舞ったノートがあるページを開いて切り株に落ちた。
「ふぅーん。へぇー。これはまた……」
「あー。それはだな。その……。私の考えた魔法装束だ。魔法の力を最大限に高めるドレスだぜ!」
研究ノートに書かれた絵。白黒のエプロンドレス。
「ど、どうだ?」
顔に少しだけ血が上っている事を感じた。
「良く分かってる。悪くないよ。魔法使いに型はとても大事だ。古典的だからこそ、基本に忠実。お嬢様の目指す、普通の魔法使いにはぴったりだ」
「そ、そうかそうだよな! やっぱり私は天才だな」
「そうそう。天才、天才。だから、凡才たる私に少しだけそのお考えをお見せ下さいな」
「全く……、仕方ないなぁ。絶対にばらすんじゃないぞ」
にこにこ顔でお嬢様はリグルにノートを見せた。そこには拙いながらも、光と熱の魔術が綴られていた。
「光熱魔術。一番シンプルで、汎用性に富む。ついでに派手。魅魔が得意とした術だね」
「そうだぜ。人間にはこう言うのが一番向いてるんだ。それに、派手なのは。好きだ」
「それじゃ、まずはお勉強。と行こうか」
「えー。リグルが座学?」
「記憶力が悪い事と、知識が少ない事は、必ずしも一致しないと憶えておくべきだよ。何と言っても、私はこう見えて君よりずっと長く生きているんだから」
リグルの言葉に嘘は無かった。リグルの講義はこれまでに読んだどんな魔術書よりも詳しく、これまで教えを乞うた勉学の師と同程度には分かり辛い。
それでもお嬢様は夕方まで居眠り一つしなかった。真っ黒になったノートを前に頭を抱える。たったそれだけの事が、こんなにも楽しく感じたのは今日が初めてだった。
「うひー。覚えきれないぜ」
頭の中を飛び交う数式や年表。筆を走らせるこの瞬間にも泡のように消えていく。こめかみにちりちりとした感覚を覚える。リグルがじっとこちらを見ていた。
「な、なんだよ。どっか間違ってる?」
「うん? ああ、うん。違う違う、そう。違う」
尚もぶつぶつと何事かを呟くリグルは明らかに上の空だ。
「そっか……。人間はそうやって紙に記憶を移して、記憶するんだね」
「そんなの当たり前だぜ? 悔しいけど、人間は殆どの面で妖怪に劣るからな。道具を使うのは当たり前だ。そんな事も知らずに里に入ってたのか?
「そうだ。そうだったね……。アイツもやってた事じゃないか。しまったなぁ。結構忘れてるよ」
まるで会話をしているとは思えない。赤い水面を眺める眼が捉えるのは、今では無いのだろう。
「アイツって?」
何の気なしにお嬢様はそう尋ねた。
「何でもないよ。私の恩人。そう。恩人だ」
リグルはやっとお嬢様を見て答える。すぐに、空中に視線は戻った。横顔が少し遠く感じる。
真夏だと言うのに、雪のように寂しげな表情だった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「よう、リグル。今日もよろしくな」
朝一番の一言とは緊張する物だ。だけど、それも何度か繰り返せばなれてくる。
朝露の付いた葉を手にリグルがこっちを見てほほ笑んでいる。何時も通りで少しほっとした。
「おはよう。相変わらず早起きだね。道には迷わなかった?」
魔法を教えて貰い始めてからはや二週間。一度だって迷った事は無い。その事を告げるとリグルは嫌みったらしくニヤケた。
「ありがたいけど、お節介なんだよ。毎回毎回」
「あ、気が付いた? 言われなきゃ黙っとこうと思ったんだけど」
「誰だって気が付くぜ。毎回毎回道の真ん中に『ハンミョウ』が居ればさ」
「道案内をするのは『道教え』のお家芸ってね。さーって、今日もはじめよっか――、ってそれ。何?」
リグルの視線がそれに注がれる。
「ふっふっふー。見て驚けよ。って言うか、ちょっと後ろ向け。私が良い言うまで動くな」
「はぁ? それってどういう……」
「いいから!」
お嬢様の手には大きな袋が握られている。絶対に覗くなよ。そんな声に気だるげな声が返って来た。そして数分後。
「じゃっじゃーん。どうだ?」
「ほぉ、これはこれは」
「へっへー。奉公人に一人手先の器用な変人が居てさ。親父に隠れてこっそり作らせたんだ。かわいいだろ?」
お嬢様はその場でくるりと一回転してみせる。それは見事な仕立てのエプロンドレス。白黒ツートンカラーのそれは、まさに少女のイメージする魔法少女が纏うそれだ。
「二百年前なら最高にナウくて、イケてる魔女スタイルだ。完璧だよ」
「そうだろうそうだろう。……って言うか、気になってたんだけどあんた何歳?」
「君の十倍以上は生きてるとだけ」
「へぇ、以外と大人なんだね……」
素直に眼を丸くする。
「そんなことないよ」
ちょっとトーンを落とした声でリグルが答える。
この辺でなんか適当に時間経過を描写。いつも通りの修行をする二人。
集中力が切れてぼんやりしたお嬢様にリグルが声を掛ける。
「聞いてる? 白黒」
「なんだよ。白黒って」
「あんたの名前だよ。人間の名前なんて覚えていられない。だから白黒」
お嬢様に代わる霧雨の呼び名として出す。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「さーて、後は工房か」
「工房……、でもこんな森の中の何処で工房が作れるって言うんだよ。穴でも掘るのか」
「それがあるんだよなぁ。実の所、あんたみたいに魔法使いを目指して森に籠る物好きは偶に居るんだよ。そう言う奴らが残して行った廃屋が森には点在している。その一つを頂こう」
「うん? 私以外にもそれなりに居るんだ。だったら最初にそう言ってくれれば良いのに」
「言っただろ。空き家が一杯だって。森に魔女は殆ど居ないのに」
お嬢様は押し黙る。
「怖がらせるつもりは無いよ。だけど、事実を知らないと対策は取れない。森の中で安全を確保するにはどうすれば良いか。よく考えておいた方が良いよ」
「へんっ、だったら簡単だ」
「どうするの?」
「私には有能なボディーガード兼師匠が居る」
「順番が逆だろ。白黒。でも、それってつまり、自分が死ぬまで傍にいろって事?」
「ちっ、ちが!? そんなつもりじゃ……」
「まぁ、長い人生。偶にはそう言うのも悪くは無いと、思わなくも無いけれど。即答はしかねるかな。私にもそれなりに事情はあるもんで」
「さぁ、着いた。今日からここが白黒の魔術工房だ」
現霧雨の家をリグルが紹介する。中に入って廃屋探索をする。
「白黒。部屋の中の物は不用意に触っちゃいけない。人間の魔法使いとは言え、危険な魔道具が混じっている可能性は否定できない」
「分かってるって」
リグルがフラグを立てるが、当然のようにお嬢様はグリモワールを手に取ろうとする。制止しようとしたリグル共々精神感応系のグリモワールに触れたことで、両者昏倒。
よくある感じの両者の記憶が混濁して、リグルの記憶をお嬢様が覗く感じの展開が入る。
→クライマックスへの伏線とする。