「屠自古、離婚しよう!」
「はい、では太子様。ここに拇印をお願いします」
ぐいっと、親指が朱肉に押し付けられて、そのままペタリ。
母屋の中央。文机の上に広げられた書類には、私の親指の指紋がこれでくっきりと。
……対応、早すぎやしないかな。何で記入済みの離婚届がもう用意されてるんだ?
ああ、なるほど!
「さすが屠自古。私のネタ振りを予測していたんだね? これぞまさに以心伝心!」
「いえ、半年前から準備しておりましたので」
え? おかしいな。
私がこのネタ。名づけて
『「り、離婚だなんて……そんな、私……」
「ふふっ。馬鹿だな屠自古、嘘だよ」
「え……嘘?」
「そうとも。私が本気でそんなこと言う筈、ないだろう?」
「そ、そうですよね。申し訳ありません、太子様。一瞬なりとは言え、この不肖屠自古、太子様の愛を疑ってしまうなんて!」
「いいんだよ屠自古、そんなことは。……その代わり今夜は、ね?」』
作戦を今日この日に展開しようと考えたのは、確か三日前のはずだけど。
恐々と屠自古の顔に目を向けると、そこには仮面を貼り付けたかのような無表情。
「と、屠自古」
「なんですか太子様」
なんだろうね、この空気。嵐の前の静けさってやつ?
どうしてこの私と屠自古との間にこんな、一触即発の空気なんてものが漂っているんだろう? ありえないよ。
「な、なんでそんな顔してるんだい?」
「すみません、不細工ゆえ、太子様のお気に召す顔には成り得ぬようです」
「バカ言っちゃあいけないよ! 屠自古のその漢らしく凛々しい顔を私は愛しているんだ!」
「そうですか」
うわ、声の温度がまるでシベリアをめくるめく吹き荒れるブリザード!
「シベリア知ってるんですか?」
「いや、知らないけど」
「あと、そのめくるめくは用法がおかしいと思います。まぁ、太子様のガラス球のような安い目には? 何もかもがキラッキラに見えているのかもしれませんがね」
「内心へのツッコミはやめようよ屠自古。そもそも、それ。本来は私がツッコミ側だろう? 私のアイデンティティを取っちゃあいけないな」
「ならその安直な脳内電気信号を何とかしてください」
くっ、さすが雷神の化身!
最近とみに電気の扱いに磨きがかかっているな。
って、歯噛みする私の目の前。くるりと屠自古が背を向けて、母屋の出口へふわふわと。
「屠自古。どこへ行くんだい?」
「お役所へ。この書類を提出してきますので」
「え?」
お役所に、提出する? いや……待て。
ちょっと待て! それは拙いだろう!?
「と、屠自古。今日が何の日かは知ってるよね」
「よく存じております」
「駄目じゃないか屠自古! 私のは単なるアメリカンジョークなんだよ? でもお役所はそれをジョークと取ってはくれないんだよ?」
「よく存じております」
「馬鹿な! ならば分かるだろう? お役所に提出したらそれ、受理されちゃうんだよそれ?」
「もとより、そのつもりです」
なん……だと……?
何故にそのような話になる!?
「そ、そんなに怒ることないじゃないか。エイプリルフールなんだよ? ちょっとぐらい嘘ついたっていいじゃない!」
「太子様。太子様は何も分かっていらっしゃらないのですね」
はぁ、とこれ見よがしにため息をつく屠自古。
あ、良かった。本気で怒っているときの屠自古は眦を吊り上げて、容赦なく脳天に雷落としてくるからなぁ。
とはいえ、苛立たしげに腕を組み、トントンと人差し指で肘を叩きながらの、
「太子様。私は何も、今日の嘘について怒っているわけではないのです」
「? なら、何も問題はないじゃないか」
「太子様の普段の行いが問題である、という思考には至れない、か。お可哀想に」
そう言われても……普段の行い? 屠自古に対する、だよね?
うーん。なんだろう?
別に屠自古の普段着を学ランや紋付袴に替えたり、は、喜ばれてるはずだし。
「今日も屠自古は雄雄しくて男前だね」って毎日褒めるのも忘れてないし……。
屠自古愛用のスプリングフィーバーをサムライに掏り変えたのだってむしろ当然のことをしたまでだし。
うん、やはり私は何も失態など犯してはいないぞ?
「私、なんか悪いことしてるかな?」
深い深い、憐憫の視線。
そこにユーモアの一片も混入していないという事実が、その、痛い。
「太子様、胸に手を当てて考えてみてください」
「こうかい?」
そっと、右手を己が左胸に当てた、その時。
「72」
「ぐうっ!?」
ば、馬鹿な。その数字は!?
「ちなみに私は87あります。どっちがより男に近いですかね」
「hahaha! いけないな屠自古。いくらエイプリルフールだからって数字を詐称してはいけOuth!」
ウォーバリバリ!! と、常人なら心停止するほどの、容赦ない雷。
も、愛の鞭と思えば気持イイものさ!
と、流せればよいのだけどねー。死ねる。
「私が嘘をついているかいないかなど、太子様には一発で分かるでしょうに」
「いや、屠自古は生と死に関する欲がないからね。欲が足りない屠自古は私を欺いてイヤイヤゴメンナサイ冗談ですから雷やめてホントやめて!?」
まったく、酷いな屠自古は。
そんな力ずくで87なんて嘘を押し通さなくても「太子様のアホ面には、心底うんざりさせられます」
さあ、お空を見上げてごらん?
点から降り注ぐあれが、旧約聖書にあるソドムとゴモラを滅ぼした天の火だよ。
§
「確かに、豊聡耳神子改め神アフロのバストは72ですが、蘇我屠自古は……88ありますね」
くっ、卑怯じゃないか屠自古。私が感電している間に、
「ご足労、ありがとうございました閻魔様。協力痛み入ります」
「……こんなことのために私を呼びつけたのは貴女たちが初めてですよ」
なんでも白黒はっきりつける、非情なる死刑執行人を連れて来るなんてさ!
誰だって明らかにされたくない真実の一つや二つくらい、あるだろう?
「「貴女がそれを言いますか」」
まだ言ってないじゃないか!
そもそも貧乳勝負だったら閻魔様だって「ちなみに私は76あります」チッ。
「はっ! 威張って言うほどの値かい!? それが!?」
「負け犬の遠吠えですか……悲しいものですね」
余裕のオーラ。こちらに背を向け、ふっと肩越しにせせら笑う閻魔の顔の、なんと憎たらしいことよ。
ふん、まぁいいさ別に! どうせまだ下はいる――
「ちなみに、物部布都ですら74あります」
「なん……だと?」
ば、馬鹿な。そんな馬鹿な話はあるか!
以前布都はバストサイズは71だと言っていたはずなのに!
「布都、布都はおるか!」
パンパン、と手を叩くと、さすがは忠実なる家臣。
静々とこの元・母屋(焼け落ちちゃったからね)の前に現れた物部布都が、私の前に恭しく傅く。
「お呼びですか太子様」
「うむ。ときに布都くん、君は以前――バストサイズは71だと、言っていたね?」
ビシリ、と布都の顔に稲妻が走り。
顔を、伏せる。
「そ、それは……」
閻魔を前にしての、その態度。
……そうか、そうなんだね、布都。
「あぁ布都よ、私は悲しい。布都は私に嘘をついていたんだね? この、聖徳王たる私に?」
「十の欲がある布都の心の声は、太子様には丸聞こえだった筈ですけどね」
「誰だって聞きたくない音からは耳をそむけるものです」
「あれで『ひざまずけ、君は聖徳王の前にいるのだ!』とかよく言うものです」
「なんと浅薄な……聖人とはとても思えない言動ですね」
そこ、外野うるさいよ。
私は今布都と話をしているんだ。
「ねぇ? 布都?」
「も、申し訳ございませぬ! それは、その……」
「小さくしたまえ」
「は?」
はっと、弾かれたかのように面を上げる布都。
ふふ、どうしたんだい? 布都。そんな呆けたような顔をして。
そうとも、私たちの間に、嘘なんてあっていいはずがないじゃないか。
「嘘は、いけないだろう? 私たちの身体は今や、自在に姿形を弄れる筈だ。小さくしたまえ」
「それは、しかし……」
「ああ、悲しいよ布都。腹心たる君に裏切られるなんて、私の心は今や千々に張り裂けてしまいそうだ!!」
胸を抑えてよろめく私の姿に、布都はたいそう心を打たれた様子であった。
ふふっ、いいぞ布都よ。そう、そうでなくてはならない。
膝をついたまま、ギュッと拳を握り締めた布都が、決心したように――
さあ、やるんだ布都!
「……ならぬのです」
なに?
「この私が太子様より大きくあっていいはずがない、と。何度も試してみたのです。ですが、ですが!」
はらはらと、涙を零しながら。
「どうやっても、我が胸は74より小さくならないのです! 申し訳ありませぬ、ありませぬ……!!」
どもりながらそう、口にした、後。わっとその場に泣き崩れる布都。
……そんな、馬鹿な。それは一体どういうことだ!?
「分かっているのではないですか? 聖徳王よ」
ぽん、と私の肩を叩く閻魔の顔は、まるで燕雀を哀れむ鴻鵠めいていて。
「真理、というものがあるのです。誰にも、それを覆すことはできない」
や、やめろ……
「そう、貴女がどれだけ大豆イソフラボンを摂取しようとも」
やめろ!
「毎朝の食事をスクランブルエッグと焼き魚とバナナに変えようとも」
やめろと言っている!
「貴方の胸は決して、物部布都をすら凌駕し得ないのです」
「やろう、ぶっころしてやる!」
たまらず閻魔に掴みかかった私の身体はしかし、あっさりと屠自古に後ろから羽交い絞めにされてしまう。
「太子様、閻魔を殴っても太子様の胸は大きくなりません」
屠自古の言葉が重く、背中に、そう。二つの双丘に形を変えて、我が背中に。
その圧倒的重圧と迫力に、思わず膝を屈しそうになるけれど、
「そんなことない! 白黒はっきりつけるあいつがいなくなれば境目が揺らいでもっと大きくなるはずだ!」
「むしろそっちは八雲の領分だと思いますがね」
「申し訳ありませぬ太子様! 布都の、布都めの胸囲が、脅威が74もあるばかりに!」
「やめるんだ布都。それ以上は太子様の埃に傷をつける」
き、君たちねぇ……。
「貴女たち誤字と見せかけて容赦ないですね。……もう私は失礼してもよろしいでしょうか?」
「あっはい、ありがとうございました。すみません、こんなくだらないことで呼びつけてしまって」
「きっちり線を引き、反省を促すのは閻魔の役目です。まぁ、いいでしょう」
荒れ狂う私を前に「現実を受け入れること。それが今貴女が積める善行です」などと言い残して去っていく閻魔こそ地獄に落ちるがいいさこの貧乳!
と、思ったら。階の途中。
くるり、閻魔が振り向いて。
「智恵の石、いと高く投げ上げられたる石よ。されど投げられし石の落ちて返らぬことの何処にかある?」
喧しい、とっとと帰ってくれよもぅ!
§
とんてんかんてん、と、布都が廟を修理する音が高らかに響く、中。
「とまあ、要するに太子様は女として神霊廟の最下層にいるわけですけど……なんですか?」
『逃げる』を選択した勇者を見下す大魔王のような表情で、屠自古。見下した、顔。
「まだ「なんでしたらウェストとヒップの値も挙げてみましょうか」
「やめてくださいお願いします」
土下座である。
皮肉の一つも許されない、猛攻。ついに私の心は折れた。
私のこの、水洗便所のように美しい内心は容赦なく打擲され、無残にも粉々に破壊されてしまったのである。
でも、でも、
「仕方ないじゃないか。私だって女の子なんだよ?」
そうとも。愛くるしい顔立ちに、ふわふわの毛髪。
でっぱりがないのはロリロリし「それは布都一人で十分ですので」ああ分かってるよ畜生!
「女の子扱いされないのは前の亡失異変の時、調子に乗ってマントなんか纏っちゃったからでしょう?」
「い、いいじゃないか。目立ちたかったんだよ! 皆に愛される聖徳王になりたかったんだよ!!」
「聖人なら聖人らしさで信仰を獲得してはいかがです? 民衆に功徳を説くとか」
「そんなのは坊主の仕事だ。私はね、屠自古。私の時間は私の為だけに使いたいんだ。愚民どもに付き合っている暇なんてないんだよ」
へーい屠自古の目線が氷柱のようだぞうぇーい!
「ま、まぁ、とにかくあれだ。私だって女の子なんだ。恋愛の一つや二つくらい、体験したっていいだろう?」
「……で、なんで私を男装させるんですか。一応私は太子様の『妻』なんですけどね」
「いいじゃないか! 屠自古ほど雄大で凛々しくて男前な郎女はいないよ!」
「やはり離婚しましょう太子様」
「まてはやまるんじゃないとじこ」
離婚届を手に颯爽と身を翻す屠自古の足? に、ガッとしがみつく。
そんな私のなりふり構わぬ懇願に、屠自古は僅かに困ったように、
「……離婚の何が不満だと言うのです? 私と別れ、今度こそ立派な殿方を見つければよいではないですか」
「そういうわけにもいかないんだよ。屠自古。落ち着いてよく考えてみろ。ここは創想話なんだよ?」
「今日は違います」
ガッデム!
そういう細かいことはいいんだよ。
「とにかくだ。オリキャラ男と私の恋愛なんて書いてみろ? たちまち一億一千万の神子様ファンが炎上してあたりは火の海さ。荒れ狂う非難の嵐。飛び交う10点妖精。君はそんなものが見たいというのか!」
「……じゃああれです。私の父上とかはどうです? 半オリキャラ」
「年齢差がありすぎる!」
「じゃあ豊兄はいかがです?」
「それこそ駄目だ。もし私と毛人が恋愛関係になってだよ? 毛人が私に向かって「王子(はぁと)!」なんて言いだしてみろ! 私は吹くね。ああ吹くね! あのキャラの顔と発言とのギャップに腹筋崩壊確定だよ! 屠自古だってそんな毛人なんか見たくはないだろう!?」
「まぁ、それはちょっと嫌ですが……でしたら倉兄など」
「あいつ影薄すぎて駄目」
「小野妹子」
「あいつ船に乗って以降、海洋のロマンがとか言い出して悲惨」
「吉士雄成」
「口ばっかり達者な男は嫌いだ」
「秦河勝」
「金だけ出してくれればいいよあいつは」
「……」
「ほら、もう屠自古しかいないじゃないか!」
「……一つ、お聞きしたいのですが」
理解できない、といったふうに首を傾げる屠自古。人差し指で額をカリカリと。
「女同士の恋愛はよろしいのですか?」
「許される。むしろこの界隈では推奨されているくらいだ。見てみろ! 周囲の光景を。百合の花が咲き乱れているじゃあないか!! 屠自古には見えないのか、画面の向こうに広がる、あのお花畑が!」
「残念ながら私にはそっち系の能力がありませんので!」
「さっき披露した電気信号読解能力はどうした!?」
「もうハクタクになかったことにしてもらいました」
ええい、ああいえば上祐! こういえばSo You said! キリがないね!
「いいかい、女同士の恋愛は許される。そして私たちは夫婦なんだ。後はもう、分かるだろう?」
「ベッドがニャンニャンですね? どうぞ」
「そうじゃない! それはもう千年以上前に十分堪能した!!」
「はい浮気の確証をゲット」
「え?」
スルリと私の手を振り払って、ボイスレコーダー片手にこの場を去る屠自古。
「じゃ、私これ提出してきますんで。さようなら皇子ーー」
え?
なに? 本当にこれで終わるの? エイプリルフールだよね?
あとがきで救いはあるよね、ね? 最後に屠自古デレるよね?
……ね?
依姫「胸なんて無い」
天子「いいね?」
理由はわからない