数多の幻想が生まれ行く場所、東方創想話。
そこでは今も尚無数の物語が綴られ、新たな幻想に期待し訪れる人も多い。
その中で華々しい評価を受け、数年の時を経て語られ続ける物語も有れば、その陰でひっそりと読まれ、僅かな者の心に留められる物語も数えきれないだろう。
だが、そうして世に出された物語ですら、素材する全ての物語の中の極一部でしかない。
物語という一つの完成に至らず、名前すら与えられずにフォルダの中に取り残された物語の欠片。
そんな物語の欠片は人の目に触れる事すら叶わず、いずれは忘れ去られ、幻想となって行くのだ。
全ての物語は物語として完成されるという可能性を持っている。
では、何故それが物語として完成されなかったのだろうか、例を挙げて考えてみたいと思う。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『タイトル無し』
「まさかあんたが、ねぇ」
穏やかな春の博麗神社のお昼頃、博麗霊夢は布団に横たわったまま、突飛な客にそんな言葉を投げた。
「まさかの私が、よ」
風見幽香は、落ち着いた笑顔を崩さずそう返した。
日傘を畳んで神社の縁側に腰掛け、霊夢の方を見やる。
「急に、何の用?」
「別に警戒しなくても良いわよ、ただちょっと貴方のお手伝いに来ただけ」
「十分怪しいわよ」
霊夢は布団の中から数枚の御札を取り出し、それを幽香に向ける。
それを見て、幽香は愉快そうにクスクスと笑った。
「投げられる?」
「……ごめん、無理」
振り上げた霊夢の腕は、すぐに力なくしなだれた。
襦袢の袖の下にかすかに覗いたのは、隙間無く巻かれた、真新しい包帯。
「まさか博麗の巫女が、ただの魔法使いに後れを取るなんてねぇ」
「偶然よ、あんなの」
苦々しげに霊夢は呟く。
遡る事四日、霊夢は魔理沙との弾幕決闘の最中、魔理沙の放つレーザーの矛先に、空間を越えて突入してしまった。
遊び用に調整されていたとはいえ、レーザーの直撃を受けてまともで居られる人間など存在しない。
霊夢も博麗の巫女とはいえ、人間の身体は深い痛手を受けて、こうして寝床で臥せる事を余儀なくされていた。
「それで、調子はどう?」
「怪我は大分良くなったわ」
霊夢は得意気に笑みを零して、襦袢の肩を少し肌蹴て、その下の素肌を晒した。
そこは、かすかに火傷の様な跡は残っているものの、殆ど地肌に近い状態だった。
永遠亭の薬はさすがね、と傍らの塗り薬を手に取り、中身を捻り出して傷跡に薄く塗る。
「ただ、ここしばらく身体を動かしていなかったから、少しだるいわ」
「贅沢な悩みね。いつも似たような生活に見えるのだけど」
「いざっていう時に動けないとしょうがないじゃない。幽香もそう思うでしょ?」
「そうね」
小さく頷いて、幽香は靴を脱いで立ち上がり、霊夢の傍らに歩み寄った。
「うつ伏せになって。軽くマッサージしてあげる」
その声に霊夢が顔を上げると、穏やかな微笑が霊夢を見下ろしていた。
それはまるで、母親が愛娘を慈しむように。
「……うん」
不思議と霊夢は安心感を覚えて、身体を転がしてうつ伏せになる。
幽香は霊夢の身体を、脚から順番に揉み解し始めた。
「……下手」
「贅沢言わないの」
幽香のマッサージは力加減はまばらで、ツボもろくに考えられておらず、お世辞にも上手いと言えるものではなかった。
しかし霊夢は、幽香の手に触れられている所から熱が広がる様に、優しい心地良さを覚えていた、
「『手当て』っていう言葉が有るでしょう? 手を触れているだけで痛みが和らいだり、気分が落ち着いたりするの」
「『指圧の心はば』ったたたたた!」
「言葉には気をつけなさい」
幽香の手が拳を作り、霊夢のふくらはぎを強襲する。
霊夢が数回痛みを訴えたところで、幽香はその手を離した。
「あーうー……もう、優しいのか怖いのかどっちかにしなさいよ」
「今のは霊夢が悪いのよ」
ほんのり涙目になりながら、霊夢はふと思う。
「……それにしても、今日は随分優しいじゃない」
「誰が?」
「あんたが」
ビシ、と背中越しに指差す霊夢。
「私は花を愛でるのが好きなのよ」
「答えになって無い」
「そうね。――霊夢は花の様に綺麗で強いわ。そんな人も、愛でたくなるものよ」
恥ずかしげも無く、幽香は霊夢の前で言い切った。
「……よく分からない」
「霊夢は巫女で、私に敵うくらい強いわ。それに、凄く華があるもの。そんな貴重な花を放っておくなんて、勿体無いじゃない」
「それって、先代やその前の博麗の巫女もそうだったって事?」
「違うわ。確かに貴方より前の巫女は強かった。けど、ただ強いだけなんてのは、枯れた花と一緒。見た目は美しいのだけど、本当の美しさでは無いわ」
そんなものなのかな、と霊夢が呟く。
そんなものなのよ、と幽香は答える。
ぐいぐいと背中を適当に押す幽香の指に、痛いと霊夢は顔を顰めた。
「だから、今は大人しく愛でられてなさい」
「ん~」
痛い。痛いけど優しい。
何となく幽香の不器用さを感じながら、霊夢はこくりと頷いた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
これは、とある物語の欠片の一つである。
内容は見ての通り、風見幽香が負傷した博麗霊夢の看病をしているだけというものだ。
この時点で流れとしては一つの形になっており、物語の中に入っていても遜色無いと言えるだろう。
しかし、これはただの物語の一部でしかないのだ。
一つの完成形を想定して綴られる物語の中の一部、そこだけを書きだしたものであり、想定された物語ではない。
それでは物語として世に送り出せない、そう考えて書き手は世に送る事を止めてしまうのだ。
だが、話の流れとしてはここで一区切り付いてしまっているのである。
それが書き手の続きの執筆を鈍らせ、結果的にはこの流れを書き終えた段階で満足してしまい、物語として完成されないまま忘れられて行くのだ。
この物語の欠片は世に送られる事無く、フォルダの中に今も眠り続けている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『D.C』
「ああもう、どう書けって言うんですか!」
書きかけの紙をぐしゃぐしゃと丸めて、適当に放り投げる。
真っ直ぐ飛んで行った紙屑は三回ほど跳ね返って、くずかごへと綺麗にダイブした。
射命丸文がここ数日で出来たのは、丸めた紙を無意識にくずかごに投げ入れる事くらいだった。
文は今、元上司である鬼の記事を纏めようと悪戦苦闘している。
その内容は、とある念写記者が無謀にも鬼に勝負を挑み、惨敗したというものだった。
それをたまたま見てしまった文は見なかった事にしようとして、あえなく萃香に捕まり、記事を書く事にされてしまった。
正直に書けば天狗の面子を潰し、嘘を書けば鬼に嘘と記事の二重の罪で痛い目を見る事になる。
前門も後門も固く閉じられた中で、文は自分の不運を嘆いていた。
「だいたい……萃香さんは」
参考用に置いた写真の中で笑顔を浮かべている鬼、伊吹萃香を見て、愚痴を零す。
『山を取り戻す気は無い』とのたまいながら、その実結構な頻度で山へ関わって来ていた。
その度に文は出向き、白狼天狗は警戒し、大天狗達は会議を繰り返している。
山を去ったのは『山の一員』としてだけであって、萃香は自分の存在が与える影響の事などつゆ知らず、山を遊び場の一つの様に訪れるのだった。
「……」
鬼から念を押されており、曖昧な記事を書こうものならすぐに気づかれるだろう。
もう一度丸めた紙をスライダーでくずかごに投げ入れて、机に突っ伏した。
「どうして、あのお方は」
確かに、萃香は嘘は一つもついていない。
しかし、その立場はよく知っていたのだろう。
だからこそ、和を乱しかねない事も平気でやってのける。
考えれば考えるほど、前門も後門もより強大に見えてくる。
あの念写記者に責任を取らせようにも、あの世間知らずにそんな事をさせればどうなるかは想像したくも無い。
「……私なら?」
ある一つの考えが浮かんで来る。
門を開ける事が出来ないなら、壊せば良い。今の自分なら一矢報いる事は出来るかもしれない。
文はかつて、弾幕決闘において萃香に勝利した事を思い出す。
ルールを定めて勝ち、山の事情を分かってもらう事、これが天狗にとって最善に事なのではないか。
無謀だと知りながら、それしか道は無いと感じていた。
「私が、萃香さんに勝たなければ……!」
文は紙をくずかごにフォークで投げ入れて、立ち上がった。
『そうか、それじゃあ相手になるよ』
どこからともなく、声が文の耳に入って来る。
直後、文の後ろに二本の角を持つ少女が立っていた。
「次は文か。ああ、楽しいねぇ」
萃香が、笑っていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
これもまた、とある物語の欠片の一つである。
内容は、妖怪の山における鴉天狗と鬼の力関係と、その中の出来事の一つを書きだしたものだ。
実はこれは、既に物語の完成形に殆ど等しいと言っても過言では無かったものである。
何故これが物語の欠片となったのか、それは書き手自身の考えに他ならない。
物語の欠片と称する以上、まだ完成への道を残しているのだが、既に完成しているとも言えるこの物語に更に要素を追加するのは、考えている以上に難しいものである。
それにより、新たな要素を含ませられないまま、物語の欠片として眠りについてしまうのだ。
勿論、書き手によって基準は様々ではあるが。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『タイトル無し』
白玉楼の庭が、腐臭に満ちていた。
立ち並んでいた桜の木々はなぎ倒され、葉は泥とも死肉ともつかないものに浸されている。
美しかった緑と桜色の景観は、いまや見る影もなく穢されている。
その沼地の様な庭を、人の形をしたものが這い回る。
体は泥のようなものに塗れ、全身から悪臭を放ち、通り過ぎた後には一部を千切れ落としていく。
輪郭にのみ人の面影を残したものが、雪崩のように一方向に向かって進んでいた。
当然、そんな悪夢のような出来事を、白玉楼の住人が放っておくはずが無い。
未だ庭の姿を残す方から、一人の少女――白玉楼の庭師、魂魄妖夢が、抜身の刀を構えて飛び出した。
「貴方達! なに――――ッぐ!!?」
そして目の当たりにした光景に、口を押えて堪える。
変わり果てた庭を前に刀を落としかけるが、すんでの所で持ち堪えて、もう一振りの剣を抜く。
「こ……のっ!」
庭を汚すもの達に向かって、威嚇も忘れて二刀を振るう。
怒りに任せて振るわれる剣は、それでも的確に首を薙ぎ、容赦無く手足を飛ばしていく。
動くための手足を無くし、這いずる何かは動きを止めた。
「はぁっ、はぁっ……な、何なの、これは……」
そうして改めて、妖夢は目前の光景に怖気立たせる。
美しかった庭を満たす死肉のようなものと腐臭、倒れた桜の木は何かに覆われて、見る影も無い。
刀の汚れを落として、妖夢は辺りを見回す。
そして、遠くの方に此処と同じ様な穢れが有る事に、気が付いた。
「どうして……まさか、幽々子様の不調の所為……?」
疑問を頭の片隅に置いて、妖夢は走り出す。
此処よりも白玉楼に近い所に、穢れがいくつも現れていた。
二つ目、三つ目と、穢れに飛び込み、妖夢は二刀を振るう。
そこに蔓延る何かは、一体ならば脅威ではないものの、その数は時間を掛ける毎にその数を増していた。
それが数ヶ所、十数ヶ所、距離を置いて数多の塊を成している。
それを、一人で駆け回る妖夢は、やがて穢れに塗れ、肩で息を吐き、大汗を掻き始めていた。
「っ……次は、何処……」
切っても切っても、何かは数を減らす様子も無く、白玉楼への距離を詰めていく。
汗で滑る柄を服で拭い、次の穢れを探していく。
その一つが白玉楼のすぐ傍に見つけた時、妖夢は思わず声を張り上げた。
「幽々子様っ!!」
白玉楼の中では、幽々子が体調を崩して寝込んでいる。
もしも、その身に何か有れば。
「今、行き……ます……!」
悲鳴を上げる足を叱咤し、妖夢は白玉楼へと走り出した。
白玉楼を背にして、妖夢は迫り来る何かを待ち受けた。
型はとうに崩れ、重量に任せて振り回す刀は何かの動きを封じ、見るに堪えない山を築き上げる。
目に見える範囲の全ての動くものを切り伏せて、妖夢は刀を杖にしてもたれ掛り、暴風の様な息を吐く。
「っぐ……幽々子様、だけは……」
例え人間とは違い、日頃から鍛え上げられていた妖夢とて、その膂力は無限に続くものではない。
よろめく身体を刀で支えて、残りが居ないか辺りを見回す。
「……?」
ベチャ、ベチャ、と汚物を撒き散らすような不快になる音が、妖夢の耳に入って来た。
左右を見回しても、その音の元は見つからない。
その間にも、音は大きくなり、数を増して、妖夢のすぐ傍に。
ベチャ
「ひっ! あああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
妖夢の足に、何かが纏わり付いていた。
忘れていた恐怖感が妖夢の感情を埋め尽くし、刀を握るのも忘れて飛びずさる。
斬られて動かなくなっていた何かが、ベチャベチャと転がって、白玉楼へと迫っていた。
「や、やだっ!来ないで、来ないで!!」
最早戦う事も忘れて、妖夢は逃げ出そうとしていた。
斬られた腕、脚、頭、体、全部が、個別に意志を持っているように、地を転がり動いている。
その光景は、未だ若い妖夢にとって、耐えられる物ではなかった。
「来ないで、来ないで……」
逃げ出そうとする手足は、疲労で言う事を聞いていない。
その間にも、何かは妖夢に迫り、白玉楼に迫り、幽々子に迫る。
地面にへたり込んだ妖夢は、ただ恐怖に駆られてもがき続けていた。
「妖……夢」
妖夢のすぐ後ろで、声がした。
見上げてみると、白玉楼の屋根を背に、幽々子が立っていた。
「ゆ、幽々子様っ! そのお体では……!」
「大丈夫よ……それに、これは、私の所為だもの……」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
見ても分かる通り、途中で止まっている物語である。
物語は、綴られている途中で書き手にも予想だにしない方向に進む事が有る。
それを良しと見て新たな幻想を生み出そうと試みるが、中には物語の根本から覆す必要性の有る事も有る。
そうして物語の完成が見えないまま書き手は次の幻想へと移り行き、この物語の欠片は忘れ去られてしまうのだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『さとり、電車、横から見て』
紫「こんばんは、さとり。 服の具合はどう?」
さとり「何度会いに来られても腋を出す気は有りません、それではお帰りください想起」
脇から見えない程度なのが良いのよー、という台詞を遺して、紫は突如現れた電車に跳ね飛ばされた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
既に物語の欠片とも言えないと思うだろうが、れっきとした物語の欠片である。
良く見れば極限まで無駄を排した物語とも呼べるかもしれないが、そう見る人はまず居ないだろう。
しかし文章の個々を見れば決して物語が読み取れない訳ではなく、一つの流れの根本であるとも見える。
物語の完成形が何処に有るのか、それは誰にもわからない。書き手にも。
色々な例を挙げてみたが、書かれなくなった理由は他にも様々だろう。
だが、これだけは言える。
『全ての作品は、完成する可能性が有る』
物語の良し悪しは書き手だけでなく、読者が決めるものなのだ。
一人の書き手として、他の書き手に願う事が有る。
『ボツになってしまった作品の事を、時々で良いから思い出して欲しい』
時を経て、風化しかけた頃にまた思い出してみれば、新しい可能性が見えてくるのだから。
そこでは今も尚無数の物語が綴られ、新たな幻想に期待し訪れる人も多い。
その中で華々しい評価を受け、数年の時を経て語られ続ける物語も有れば、その陰でひっそりと読まれ、僅かな者の心に留められる物語も数えきれないだろう。
だが、そうして世に出された物語ですら、素材する全ての物語の中の極一部でしかない。
物語という一つの完成に至らず、名前すら与えられずにフォルダの中に取り残された物語の欠片。
そんな物語の欠片は人の目に触れる事すら叶わず、いずれは忘れ去られ、幻想となって行くのだ。
全ての物語は物語として完成されるという可能性を持っている。
では、何故それが物語として完成されなかったのだろうか、例を挙げて考えてみたいと思う。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『タイトル無し』
「まさかあんたが、ねぇ」
穏やかな春の博麗神社のお昼頃、博麗霊夢は布団に横たわったまま、突飛な客にそんな言葉を投げた。
「まさかの私が、よ」
風見幽香は、落ち着いた笑顔を崩さずそう返した。
日傘を畳んで神社の縁側に腰掛け、霊夢の方を見やる。
「急に、何の用?」
「別に警戒しなくても良いわよ、ただちょっと貴方のお手伝いに来ただけ」
「十分怪しいわよ」
霊夢は布団の中から数枚の御札を取り出し、それを幽香に向ける。
それを見て、幽香は愉快そうにクスクスと笑った。
「投げられる?」
「……ごめん、無理」
振り上げた霊夢の腕は、すぐに力なくしなだれた。
襦袢の袖の下にかすかに覗いたのは、隙間無く巻かれた、真新しい包帯。
「まさか博麗の巫女が、ただの魔法使いに後れを取るなんてねぇ」
「偶然よ、あんなの」
苦々しげに霊夢は呟く。
遡る事四日、霊夢は魔理沙との弾幕決闘の最中、魔理沙の放つレーザーの矛先に、空間を越えて突入してしまった。
遊び用に調整されていたとはいえ、レーザーの直撃を受けてまともで居られる人間など存在しない。
霊夢も博麗の巫女とはいえ、人間の身体は深い痛手を受けて、こうして寝床で臥せる事を余儀なくされていた。
「それで、調子はどう?」
「怪我は大分良くなったわ」
霊夢は得意気に笑みを零して、襦袢の肩を少し肌蹴て、その下の素肌を晒した。
そこは、かすかに火傷の様な跡は残っているものの、殆ど地肌に近い状態だった。
永遠亭の薬はさすがね、と傍らの塗り薬を手に取り、中身を捻り出して傷跡に薄く塗る。
「ただ、ここしばらく身体を動かしていなかったから、少しだるいわ」
「贅沢な悩みね。いつも似たような生活に見えるのだけど」
「いざっていう時に動けないとしょうがないじゃない。幽香もそう思うでしょ?」
「そうね」
小さく頷いて、幽香は靴を脱いで立ち上がり、霊夢の傍らに歩み寄った。
「うつ伏せになって。軽くマッサージしてあげる」
その声に霊夢が顔を上げると、穏やかな微笑が霊夢を見下ろしていた。
それはまるで、母親が愛娘を慈しむように。
「……うん」
不思議と霊夢は安心感を覚えて、身体を転がしてうつ伏せになる。
幽香は霊夢の身体を、脚から順番に揉み解し始めた。
「……下手」
「贅沢言わないの」
幽香のマッサージは力加減はまばらで、ツボもろくに考えられておらず、お世辞にも上手いと言えるものではなかった。
しかし霊夢は、幽香の手に触れられている所から熱が広がる様に、優しい心地良さを覚えていた、
「『手当て』っていう言葉が有るでしょう? 手を触れているだけで痛みが和らいだり、気分が落ち着いたりするの」
「『指圧の心はば』ったたたたた!」
「言葉には気をつけなさい」
幽香の手が拳を作り、霊夢のふくらはぎを強襲する。
霊夢が数回痛みを訴えたところで、幽香はその手を離した。
「あーうー……もう、優しいのか怖いのかどっちかにしなさいよ」
「今のは霊夢が悪いのよ」
ほんのり涙目になりながら、霊夢はふと思う。
「……それにしても、今日は随分優しいじゃない」
「誰が?」
「あんたが」
ビシ、と背中越しに指差す霊夢。
「私は花を愛でるのが好きなのよ」
「答えになって無い」
「そうね。――霊夢は花の様に綺麗で強いわ。そんな人も、愛でたくなるものよ」
恥ずかしげも無く、幽香は霊夢の前で言い切った。
「……よく分からない」
「霊夢は巫女で、私に敵うくらい強いわ。それに、凄く華があるもの。そんな貴重な花を放っておくなんて、勿体無いじゃない」
「それって、先代やその前の博麗の巫女もそうだったって事?」
「違うわ。確かに貴方より前の巫女は強かった。けど、ただ強いだけなんてのは、枯れた花と一緒。見た目は美しいのだけど、本当の美しさでは無いわ」
そんなものなのかな、と霊夢が呟く。
そんなものなのよ、と幽香は答える。
ぐいぐいと背中を適当に押す幽香の指に、痛いと霊夢は顔を顰めた。
「だから、今は大人しく愛でられてなさい」
「ん~」
痛い。痛いけど優しい。
何となく幽香の不器用さを感じながら、霊夢はこくりと頷いた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
これは、とある物語の欠片の一つである。
内容は見ての通り、風見幽香が負傷した博麗霊夢の看病をしているだけというものだ。
この時点で流れとしては一つの形になっており、物語の中に入っていても遜色無いと言えるだろう。
しかし、これはただの物語の一部でしかないのだ。
一つの完成形を想定して綴られる物語の中の一部、そこだけを書きだしたものであり、想定された物語ではない。
それでは物語として世に送り出せない、そう考えて書き手は世に送る事を止めてしまうのだ。
だが、話の流れとしてはここで一区切り付いてしまっているのである。
それが書き手の続きの執筆を鈍らせ、結果的にはこの流れを書き終えた段階で満足してしまい、物語として完成されないまま忘れられて行くのだ。
この物語の欠片は世に送られる事無く、フォルダの中に今も眠り続けている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『D.C』
「ああもう、どう書けって言うんですか!」
書きかけの紙をぐしゃぐしゃと丸めて、適当に放り投げる。
真っ直ぐ飛んで行った紙屑は三回ほど跳ね返って、くずかごへと綺麗にダイブした。
射命丸文がここ数日で出来たのは、丸めた紙を無意識にくずかごに投げ入れる事くらいだった。
文は今、元上司である鬼の記事を纏めようと悪戦苦闘している。
その内容は、とある念写記者が無謀にも鬼に勝負を挑み、惨敗したというものだった。
それをたまたま見てしまった文は見なかった事にしようとして、あえなく萃香に捕まり、記事を書く事にされてしまった。
正直に書けば天狗の面子を潰し、嘘を書けば鬼に嘘と記事の二重の罪で痛い目を見る事になる。
前門も後門も固く閉じられた中で、文は自分の不運を嘆いていた。
「だいたい……萃香さんは」
参考用に置いた写真の中で笑顔を浮かべている鬼、伊吹萃香を見て、愚痴を零す。
『山を取り戻す気は無い』とのたまいながら、その実結構な頻度で山へ関わって来ていた。
その度に文は出向き、白狼天狗は警戒し、大天狗達は会議を繰り返している。
山を去ったのは『山の一員』としてだけであって、萃香は自分の存在が与える影響の事などつゆ知らず、山を遊び場の一つの様に訪れるのだった。
「……」
鬼から念を押されており、曖昧な記事を書こうものならすぐに気づかれるだろう。
もう一度丸めた紙をスライダーでくずかごに投げ入れて、机に突っ伏した。
「どうして、あのお方は」
確かに、萃香は嘘は一つもついていない。
しかし、その立場はよく知っていたのだろう。
だからこそ、和を乱しかねない事も平気でやってのける。
考えれば考えるほど、前門も後門もより強大に見えてくる。
あの念写記者に責任を取らせようにも、あの世間知らずにそんな事をさせればどうなるかは想像したくも無い。
「……私なら?」
ある一つの考えが浮かんで来る。
門を開ける事が出来ないなら、壊せば良い。今の自分なら一矢報いる事は出来るかもしれない。
文はかつて、弾幕決闘において萃香に勝利した事を思い出す。
ルールを定めて勝ち、山の事情を分かってもらう事、これが天狗にとって最善に事なのではないか。
無謀だと知りながら、それしか道は無いと感じていた。
「私が、萃香さんに勝たなければ……!」
文は紙をくずかごにフォークで投げ入れて、立ち上がった。
『そうか、それじゃあ相手になるよ』
どこからともなく、声が文の耳に入って来る。
直後、文の後ろに二本の角を持つ少女が立っていた。
「次は文か。ああ、楽しいねぇ」
萃香が、笑っていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
これもまた、とある物語の欠片の一つである。
内容は、妖怪の山における鴉天狗と鬼の力関係と、その中の出来事の一つを書きだしたものだ。
実はこれは、既に物語の完成形に殆ど等しいと言っても過言では無かったものである。
何故これが物語の欠片となったのか、それは書き手自身の考えに他ならない。
物語の欠片と称する以上、まだ完成への道を残しているのだが、既に完成しているとも言えるこの物語に更に要素を追加するのは、考えている以上に難しいものである。
それにより、新たな要素を含ませられないまま、物語の欠片として眠りについてしまうのだ。
勿論、書き手によって基準は様々ではあるが。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『タイトル無し』
白玉楼の庭が、腐臭に満ちていた。
立ち並んでいた桜の木々はなぎ倒され、葉は泥とも死肉ともつかないものに浸されている。
美しかった緑と桜色の景観は、いまや見る影もなく穢されている。
その沼地の様な庭を、人の形をしたものが這い回る。
体は泥のようなものに塗れ、全身から悪臭を放ち、通り過ぎた後には一部を千切れ落としていく。
輪郭にのみ人の面影を残したものが、雪崩のように一方向に向かって進んでいた。
当然、そんな悪夢のような出来事を、白玉楼の住人が放っておくはずが無い。
未だ庭の姿を残す方から、一人の少女――白玉楼の庭師、魂魄妖夢が、抜身の刀を構えて飛び出した。
「貴方達! なに――――ッぐ!!?」
そして目の当たりにした光景に、口を押えて堪える。
変わり果てた庭を前に刀を落としかけるが、すんでの所で持ち堪えて、もう一振りの剣を抜く。
「こ……のっ!」
庭を汚すもの達に向かって、威嚇も忘れて二刀を振るう。
怒りに任せて振るわれる剣は、それでも的確に首を薙ぎ、容赦無く手足を飛ばしていく。
動くための手足を無くし、這いずる何かは動きを止めた。
「はぁっ、はぁっ……な、何なの、これは……」
そうして改めて、妖夢は目前の光景に怖気立たせる。
美しかった庭を満たす死肉のようなものと腐臭、倒れた桜の木は何かに覆われて、見る影も無い。
刀の汚れを落として、妖夢は辺りを見回す。
そして、遠くの方に此処と同じ様な穢れが有る事に、気が付いた。
「どうして……まさか、幽々子様の不調の所為……?」
疑問を頭の片隅に置いて、妖夢は走り出す。
此処よりも白玉楼に近い所に、穢れがいくつも現れていた。
二つ目、三つ目と、穢れに飛び込み、妖夢は二刀を振るう。
そこに蔓延る何かは、一体ならば脅威ではないものの、その数は時間を掛ける毎にその数を増していた。
それが数ヶ所、十数ヶ所、距離を置いて数多の塊を成している。
それを、一人で駆け回る妖夢は、やがて穢れに塗れ、肩で息を吐き、大汗を掻き始めていた。
「っ……次は、何処……」
切っても切っても、何かは数を減らす様子も無く、白玉楼への距離を詰めていく。
汗で滑る柄を服で拭い、次の穢れを探していく。
その一つが白玉楼のすぐ傍に見つけた時、妖夢は思わず声を張り上げた。
「幽々子様っ!!」
白玉楼の中では、幽々子が体調を崩して寝込んでいる。
もしも、その身に何か有れば。
「今、行き……ます……!」
悲鳴を上げる足を叱咤し、妖夢は白玉楼へと走り出した。
白玉楼を背にして、妖夢は迫り来る何かを待ち受けた。
型はとうに崩れ、重量に任せて振り回す刀は何かの動きを封じ、見るに堪えない山を築き上げる。
目に見える範囲の全ての動くものを切り伏せて、妖夢は刀を杖にしてもたれ掛り、暴風の様な息を吐く。
「っぐ……幽々子様、だけは……」
例え人間とは違い、日頃から鍛え上げられていた妖夢とて、その膂力は無限に続くものではない。
よろめく身体を刀で支えて、残りが居ないか辺りを見回す。
「……?」
ベチャ、ベチャ、と汚物を撒き散らすような不快になる音が、妖夢の耳に入って来た。
左右を見回しても、その音の元は見つからない。
その間にも、音は大きくなり、数を増して、妖夢のすぐ傍に。
ベチャ
「ひっ! あああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
妖夢の足に、何かが纏わり付いていた。
忘れていた恐怖感が妖夢の感情を埋め尽くし、刀を握るのも忘れて飛びずさる。
斬られて動かなくなっていた何かが、ベチャベチャと転がって、白玉楼へと迫っていた。
「や、やだっ!来ないで、来ないで!!」
最早戦う事も忘れて、妖夢は逃げ出そうとしていた。
斬られた腕、脚、頭、体、全部が、個別に意志を持っているように、地を転がり動いている。
その光景は、未だ若い妖夢にとって、耐えられる物ではなかった。
「来ないで、来ないで……」
逃げ出そうとする手足は、疲労で言う事を聞いていない。
その間にも、何かは妖夢に迫り、白玉楼に迫り、幽々子に迫る。
地面にへたり込んだ妖夢は、ただ恐怖に駆られてもがき続けていた。
「妖……夢」
妖夢のすぐ後ろで、声がした。
見上げてみると、白玉楼の屋根を背に、幽々子が立っていた。
「ゆ、幽々子様っ! そのお体では……!」
「大丈夫よ……それに、これは、私の所為だもの……」
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見ても分かる通り、途中で止まっている物語である。
物語は、綴られている途中で書き手にも予想だにしない方向に進む事が有る。
それを良しと見て新たな幻想を生み出そうと試みるが、中には物語の根本から覆す必要性の有る事も有る。
そうして物語の完成が見えないまま書き手は次の幻想へと移り行き、この物語の欠片は忘れ去られてしまうのだ。
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『さとり、電車、横から見て』
紫「こんばんは、さとり。 服の具合はどう?」
さとり「何度会いに来られても腋を出す気は有りません、それではお帰りください想起」
脇から見えない程度なのが良いのよー、という台詞を遺して、紫は突如現れた電車に跳ね飛ばされた。
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既に物語の欠片とも言えないと思うだろうが、れっきとした物語の欠片である。
良く見れば極限まで無駄を排した物語とも呼べるかもしれないが、そう見る人はまず居ないだろう。
しかし文章の個々を見れば決して物語が読み取れない訳ではなく、一つの流れの根本であるとも見える。
物語の完成形が何処に有るのか、それは誰にもわからない。書き手にも。
色々な例を挙げてみたが、書かれなくなった理由は他にも様々だろう。
だが、これだけは言える。
『全ての作品は、完成する可能性が有る』
物語の良し悪しは書き手だけでなく、読者が決めるものなのだ。
一人の書き手として、他の書き手に願う事が有る。
『ボツになってしまった作品の事を、時々で良いから思い出して欲しい』
時を経て、風化しかけた頃にまた思い出してみれば、新しい可能性が見えてくるのだから。