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リグルがえんやこらさっさする話

2013/04/01 06:36:08
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 ――「昔は蟲の力ももっと強かったような気がするのです。人間に寄生したりしたし、毒性だってもっと高かったし……」
 ――古来、蟲の妖怪と言えば、鬼や天狗と並ぶ恐怖の対象だったが、最近はその威厳を失って久しい蟲達のリーダーとも言える蟲の妖怪が、幼い少女の姿をしているのも、それを象徴していると言える。


 ~東方文花帖、東方求聞史記より抜粋~













▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


 暗い、冥い、闇の中。
 星の光も、木の葉に反射する月光も何一つ見えない林の中を私は走る。
 頼りにするのは足元の感覚と風の流れだけ。
 ほんの少しでも広い空間へ、一歩でも自分の元居た場所へと帰ろうと私は死に物狂いで走る。


 ああ、やんぬるかな。後方から追いかけてくる気配は自分よりもずっと素早い。
 足の音から数は二、三と言った所だろうか。
 どの獣も飢えているのか息を荒くして此方を狙っている。


 私は夢中で走った。
 樹の枝に服が引っ掛かり破けるのも厭わず、頬を細い枝が引き裂く事も気に留めず走り続けた。
 痙攣しようとする足を無理やりに動かし、鼻緒の切れた下足を投げ捨て林の中を駆け抜けた。


 だが、そんな努力をあざ笑うかのように、後方の気配は近づく一方。
 狩りを楽しむかのように当てるつもりの無い牙を振りかざしては、脚や腕の薄皮を剥いでいく。


 恐怖と痛みで既に顔はぐちゃぐちゃで、みっともない事になってしまっているけれどそんな事を気にしていられる程の余裕は無い。
 乳酸の溜まりきった脚は既に動きが固くなり始め、肺は酸素を取り込もうと必死に動いているが全く足りていない。
 酸欠で薄れる意識の中、それでも帰りたい一心で足を前へと出し続ける。


 だがしかし、無情にもその足は正面にあった倒木に引っ掛かり思い切りその場に転んでしまった。
 腐葉土と落ち葉でどろどろになった体を無理やり起こして、立ち上がろうとするが脚に力が入らない。
 何度も、何度も、脚を上げようとするけれど、まるで他人の物のようにそれは頑なに動こうとしない。


 「いっ……!?」


 津波の様に押し寄せてくる燃え盛る様な痛み。
 骨が折れてしまったのだろう。触ってみれば焼けるような熱を放ち、大きく腫れあがりつつある。
 極度の興奮状態と疲労で痛みを遮っていた脳は、体が安まった事でその痛みを容赦なく私へ伝え始める。
 意識が飛びそうになる程の痛みは、その激しさを増す一方だった。


 だがそうして悶絶している私へ絶望は容赦なく近寄ってくる。
 生臭い匂い、強烈な獣の臭い。
 私の眼と鼻の先には既に二頭程の獣が近づき、様子を伺っているようだった。


 「いや……、来ないで……!!」


 命乞いの声等、極上の獲物を眼の前にした獣の前では食事のスパイスにしかならない。
 味見をするかのように私の肌をべろりと生あたたく湿った物が舐め上げる。
 私は恐怖のあまり身を固くする事しか出来なかったが、彼らはそんな私の怯える様子を楽しんでいるかのようだった。


 やがて一頭がこちらにゆっくり近づいて来る。
 頭を抱え丸くなって身を守る事しか出来ない私はその獣が襲いかかってくるのを唯待つ事しかできなかった。
 頬に感じる風音、私に襲いかかって来たのだろう。獣の牙が頭に接近する事を感じた。


 「ひっ?!」


 土の香りが、上空から舞い降りたかと思うと、体が温もりに包み込まれる。
 それは、断じて冷たい牙等では無く ”温かな腕” 。


 「もう、大丈夫。恐くない」


 耳元に掛けられたのは優しい声。
 真っ暗な私の視界ではその顔を見る事は出来ないけれど、それが私を襲う獣でない事はすぐに分かった。


 「いたたた……。こまったなぁ。私の一張羅なのに」


 腕の向こうで唸る声が響く。
 どうやら、獣はこの場にまだ存在しているらしい。だとすれば目の前の存在は、私を庇ったのだろうか?
 間もなく漂ってきた自分では無い血の臭いがその予想を裏付けた。


 「すまないね。ちょっとそこで座っていて貰えるかな」


 一瞬の浮遊感の後に、私は樹の幹らしき所に降ろされた。
 遠ざかっていく気配。そして間もなく ”光” が視界を埋め尽くした。


 真っ暗な闇を切り裂く一条の閃光。
 力強いが決して目に刺さる様な物では無い、むしろ儚げで冷やかさすら感じると言うのに心の底から温まるような優しい光。
 それが、真っ直ぐに視界を過ぎったかと思うと獣の気配は遥か遠くへ去って行った。


 「もう大丈夫だよ。君は林間道を歩いていた商隊の子だね。私が場所を知らせておくから此処で待っていなさい。音を立てずに静かにしているんだよ」


 そう言い残した光はすぐに何処かへと消えて、間もなく私の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
 私は迎えが着ていると言うのに上の空で、先ほどの光景を思い返そうとそっと目を閉じた。
 そして私はその事実に気付く。


 それは、私の心を満たすと同時にどうしようもなく大きな穴を開けて行った。
 焦がされたのかもしれない、心の奥からじんわりと登ってくる渇望に気付くのに時間はかからなかった。
 いつもの生活をしていてもそっと瞼を閉じるとそれが思い浮かぶ。


 ああ、綺麗だなぁ……。

















▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


 ――朝露の着いた葉に乱反射する陽が閉じた瞼を透過する。


 「ふ、ふぁあぁぁぁ~……」


 洞の中に大鋸屑をひいただけの粗末な寝床。
 その中心で丸くなり、もぞもぞと蠢くのは一人の少女。
 リグル・ナイトバグは、差し込む朝の陽光に大欠伸を上げた。


 ねっとりと粘つく口内に、喉奥に感じる若干の渇き。
 それを鎮める為に傍の枝に滴る朝露に鮮やかな桃色の舌を出すと、それをちろりと舐めて渇きを潤す。
 ほんのりと甘く生命の潤いに満ちた雫は体の中に容易く浸透していった。


 時刻は早朝。
 爽やかな朝の風が吹き込むその時間。
 それは、真夏の最中である今の時期に唯一残された楽園であるとも言える。


 しかし、如何な桃源の地も眠気の前には儚い物でしか無い。
 のそりと起こした上半身に、寝ぼけ眼で虚空を見つめるリグル。
 大脳の殆どはまだ休眠状態にあり、意識も半覚醒した状態に過ぎない。


 外から聞こえる鳥の囀りや枝葉が擦れ合う音を右から左へ聞き流し微睡むリグルだが、ぼやりとした頭とは裏腹にその手だけはその背から伸びる一対の薄羽に伸びていた。
 それは習慣故の行動で、睡眠の内に着いた皺を丹念に伸ばして行く作業。
 幼少時代に手入れを怠りひどい ”癖” の着いた羽を馬鹿にされて以来欠かしたことは無い。


 半分も開かぬ瞼で手元を確認しつつ汗を吸い柔らかくなった筋に合わせて指を這わせる。
 強く力を入れると破れてしまう。神経の通わぬ羽を傷めないよう絶妙な力加減で間の薄膜をピンと張る。
 暫くそのままで静止すると、朝の風に吹かれ薄い羽は間もなく乾燥し緑がかった筋が茶へと変化する。
 一頻り手入れが終わった後にあったのは、皺一つなく美しく伸びた透き通った羽。
 その出来に満足したのか、その頭は眠気に負けぽすりと大鋸屑に沈む事になった。


 ゆっくりと眼を閉じ心地よい睡魔に身を委ねる。
 全身を包み込む温かい大鋸屑。徐々に意識が深層へ落ちて行き、やがて可愛らしく小さな寝息が響きだす。
 なだらかな胸元がゆっくりと上下し安らかな眠りが全身を包む事を感じた。




 ――莫大な閃光。後に空間の張り裂ける衝裂音。




 「なななな、何、何、なににな? ――あだっあ゛!?」


 寝耳に水の事態に、飛び起きたリグルは勢いもそのままに頭を天井にぶつける。
 小さなコブのできた頭に思わずうめき声を上げつつ洞の外を見渡すと、遠方に小さな白煙が立ち上っていた。


 「う~ん、あの方向って事はまさか……」
 「どうしたんだ、朝っぱらから騒々しい……」


 のそりと、リグルの懐から這い出てきたのは一匹の妖蟲。
 見た目こそ大きめの甲虫に過ぎないが、その姿形は現存するありとあらゆる蟲のどれとも似つかない。
 甲殻に刻まれた深い傷や、節くれだった関節などがかなりの年齢である事を物語っていた。


 「おはよう。貴方にしたら珍しいね。こんな早くに起きてくるなんて」
 「一人で盛って置いて良く言う。何、朝っぱらから騒がれて寝ておられる程、図太くも若くも無いのでな」
 「あのさぁ……、もっと”でりかしぃ”ってヤツを考えても罰は当たらないと思うん、だけどっ!」
 「おい。落ち着け、落ち着け。今連絡の蟲を飛ばして居るから――、おい話を、――」


 リグルはおもむろにむんずと老妖蟲を掴むと、引き攣った頬に怒りを塗りつぶし妖蟲を掴む手に力を籠める。
 飄々とした様子で諫めるが、その顔につつり、と小さな滴が流れた事にリグルは終ぞ気づく事は無かった。


 他愛の無い問答を数分も繰り返しただろうか。
 一匹の小蝿がリグルの周りに舞い寄ったかと思うとその手の甲に留まる。


 「ほら、もう “蟲の知らせ” が来た。内容を確認しようじゃないか。下らん事は後にしろ」
 「くっそ……。タイミングの悪い」


 老獪な蟲に幼き蟲の王。
 未熟な部分の目立つリグルをこの老妖蟲は長年に渡りサポートしてきた。
 故にこの二人の関係は少々落ち着きの足りない孫を見守る祖父のそれである。
 今日の様なやり取りも、普段のじゃれ合いの延長戦に過ぎない。


 「犯人は例の ”奇人” のようだな。場所はここから北西に一里。魔力的な爆発により古木が一本完全に倒壊。被害は蜘蛛の巣三軒倒壊に、爆風に飛ばされて蝶が軽傷」
 「うへぇ……、 ”また” なの?」


 「いつもに比べれば被害は少ない、だが――」
 「勘弁してよぉ。つい三日前だって――」


 「亀虫一家の住む別の倒木にて二回目の実験を準備中だそうだ」
 「わわわっ!? ちょっと行って来る!!」


 慌てた様子で洞から飛び出ると、煙の方へ駆けだして行くリグル。
 その背を老妖蟲は洞の淵で眺める。
 その背に向けられる視線に混じるのは、慈愛、郷愁、思慕、そして。












▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


 「あ゛~もぅ、つかれたぁ……。」


 心底疲れ切ったと言った様子で、肩を落としながら洞を潜り抜け自室へ戻る。
 誰も居ない様に視えた、洞の中からは暫くして聞き覚えのある声が返ってくる。


 「遅かったじゃないか。爆音がしなかった事から考えるに、どうにかなったようだな。」
 「何とかねぇ……。今度のは ”人形” に魔力を蓄積して自立稼働させる実験何だってさ。何が、 ”ばってりぃ” よ。どう見ても ”爆弾” 背負っているようにしか見えなかったわね。あれは。絶対大丈夫って言い張るものだから止めるのに苦労した……。
 「何故そのような発想に至るのか……。識者の考える事は分からんな……」


 リグルがようやく帰って来たのは正午前。
 その露骨に疲労した様子とは裏腹にその口調は明るい。
 あの変人と会う度にリグルはこのような奇妙な表情を浮かべる。
 二人の関係は決して悪い物では無いのだろうと老妖蟲は予想している。


 「でも、まぁ。ちゃんと話したら分かってくれるし。良い人には違いない筈なんだけどね……。お詫びにってクッキー貰っちゃった。食べる?」
 「いや、私は遠慮しておこう。お前一人で食べてくれ」
 「ん……、わかった」


 可愛らしいフリルの装飾が施された布袋の中から焦がしたバターと砂糖の甘いの香りが漏れ出る。
 その口を緩め、中から顔を出したのは実った稲穂のような色をしたバタークッキーだった。
 鼻孔を擽る香りに、下の根元から唾液が滲みでる。
 一つ手に取り口に頬張ると、口の中一杯に広がるバターのコクと爽やかな甘み。
 ほんの僅かに蜂蜜の風味がするそのクッキーを噛み締める様にリグルは味わう。
 採集生活を営むリグルにこのような人工物は貴重であるからだ。
 そして、暫し惚ける様な表情を浮かべていたリグルを、何を言うでもなく眺めている老妖蟲。


 「……いっつも思っていたんだけどさ。 ”人型” にならないのね。貴方は」
 「年を取ると常時化けるのも辛い物でな。この姿が気楽で良い」


 いつもと同じ質問に帰ってくるのは、いつもと同じ答え。
 人型は大凡その妖怪一個体に特定の姿を取る。目前の老妖蟲がどのような姿をしているのか。
 それはリグルにとって強い興味を惹かれる事象であったが、結果は見ての通り。
 リグルは終ぞ人型を取る所を見せて貰った事は無い。


 「一度くらい見せてくれても良いのに。ケチ」
 「何、そんな面白い物でも無かろうよ。それとも、お前 ”そう言う” 趣味か?」
 「何このクソジジイ……、殴りたい……」


 不穏な空気を感じたのか老妖蟲はワザとらしく視線を逸らす。
 その目線の先に在ったのは蜘蛛の巣。そこに居るのは妖蟲ではないが、巨大な蜘蛛。
 どれ程の年月を生きたのだろうか。黄と黒のコントラストが鮮やかな雌の女郎蜘蛛である。
 彼女は獲物を待ち構えつつ、折れた小枝の間に張った糸の中央に威風堂々鎮座していた。


 「そうだ、リグル知っているか。最近行方が分からなくなる妖蟲が増えておるようだぞ」
 「うん。知ってる。斑猫(ハンミョウ)のおじさんを探して欲しいってこの前に相談された。でも蟲達のネットワークを使っても居場所が分からなかったから、多分……」
 「まぁ、待て。そう落ち込むな。蟲達はその数故、昔から死者の数など数え切れん。だが、増加していると言うのがちと気になる。まぁ、杞憂であれば良いのだが……」
 「だからこそ、少しでも安心して皆が暮らせるように私が頑張らないといけない。だよね?」
 「……まぁ、そうだな」


 どこか遠い目をするリグル。
 先ほどの巣では蝶が身に絡みつく粘着質の糸にもがき、更にその身を沈め行く。
 刻一刻と這い寄る蜘蛛にその蝶は抵抗する術を持たなかった。それはあまりに無力。あまりに脆弱。
 現実と虚構。その瞳に映っていたのは目前の光景か、はたまた別の何かだったのか。


 「……ッ!?」




 ――ジ……ジジジッ…




 視界に――(思考に)、灰色の――(真っ赤な)ノイズが走る。
 立ち上る黒煙と土煙りに真っ黒に染まった雲が空一面を覆い、淀んだ陰鬱な空気が地上に立ちこめる。
 周囲に遍く生い茂る樹木が空間を圧迫し、昼間であると言うのに夜の闇の如き暗さがその場には訪れていた。


 黒く塗り潰された(血液が酸化した)木々の間に渡されているのは幾重もの糸。
 それは遥か西方、古の交易路より渡来したシルクのように白く、荒縄のように太い。
 それらは、ある ”一点” を中心として全方位に糸が伸び、同心円状の広がりを持つ。
 規則的に縦糸と横糸が交錯したそれは美しい多角形を描いていた。


 その中心に居るのは童。
 いや、童と言うのは語弊がある。その頭には小さな白い耳があり、脚には特徴的な一本足の下駄が履かれている。
 白狼天狗の子供だ。白狼天狗の子供がその中心に囚われていた。


 天狗とは傲慢な生き物である。
 権威にしがみつき目上の者には媚びへつらい、目下の者には横柄に振る舞う。
 自らを至高の種族だと信じて疑わず他の種族を見下す事で、自らの存在価値を見出すような碌でも無い連中だ。
 他人を見下して笑い、嘲って笑う。何があろうとも軽薄な笑みを崩さない鼻持ちならないのが天狗だ。




 ところがどうした事だろうか。
 目前の白狼天狗が浮かべているのは、怯えきった表情。
 口から出るのは畏れ慄いた魂の悲鳴。




 その眼元と鼻からは垂れる雫が留まる事は無く、頭の上に乗るサイズの合わない帽子は既にずり落ちてしまっていた。
 その背にはその体躯には見合わぬ大きな団牌が背負われているが手元にだんびらは無い。
 代わりに地面に突き刺さる ”それ” は如何程も使われた跡が無く、虚しく新品の輝きを放ち続ける。
 そして、その近くに這い寄るのは巨大で、醜悪な、異形。


 体中に施された毒々しい黄色の斑に、口元にぎらりと光る漆黒の牙。
 頭から直接伸びるのは四対の長く、節くれ立った脚。
 牙元から滴る液が地面に落ちる度、草木は腐食し煙と共に異臭が立ち込める。


 一歩、また一歩とその異形は白狼天狗に近づく。
 半狂乱となった天狗の少年は逃げようと暴れる物のその体に絡みつく糸を増やすのみで遂には、身動きすら封じられてしまった。
 唯々その袴に黒い染みを広げるだけの天狗の少年に異形は覆いかぶさり、


 服の襟から覗く健康的な肌色の首筋に牙が突きたてられ、赤い鮮血が――






 「……グル、……リグル。どうした? 調子でも悪いのか?」


 ビクリ、と体を震わせ意識が引き戻される。
 思わず周りを見渡すがそこには何時も通りの魔法の森。
 ツグミの囀りが聞こえ、爽やかな風が吹き抜ける何時もの森だった。
 目の前に広がっているのは血みどろの非日常では無く、唯 ”普通” の蜘蛛が蝶を捕食しているだけの日常。


 「……?! ううん、なんでも……無いよ」


 「そうか……。なら良いが……。実は、急を要する仕事が一件ある。人里の民家に妖蟲もどきの蚰蜒(ゲジゲジ)が迷い込んだらしいぞ」
 「ぐ……。よりによって人里か。下手したら妖怪の山より面倒臭いね……」
 「気持ちは分かるが、妖蟲化しかかった者を放っておいて問題を起こされては取り返しがつかん。迎えにいくしかなかろう」


 幻想郷の人里。
 妖怪の賢者に保護された幻想郷唯一の人間の住居となっているが、それは表向きの話。
 その実内部に住むのは妖怪退治屋の末裔とも、外の人間社会からは追放された下法の術を使う者だとも言われている。
 表面上は平穏に日々を過ごす人々の集団である事がその不気味さに拍車を駆ける。


 排他的な性格が強く、数年前に発生した吸血鬼による一連の騒動から妖怪に対する警戒は更なる強まりを見せている。
 今自分がその里を訪れた際の扱いが頭に過ぎるだけで、暗くじめじめとした気持ちが胸の中に満ちて行った。


 「正直、気は進まないけど、私は ”いかないといけない” よね」
 「すまんな……、そうしてくれると助かる」
 「ううん。いいよ。あなたが謝る事じゃない。じゃあ、ちょっと言って来るよ。……多分夜には戻る」


 洞から勢いよく飛び降りたリグルは、背の外套を翻し里へ続く獣道へ分け入る。
 憂鬱な気分を忘れる為なのか、その足取りは不自然なまでに軽い物だった。










 魔法の森と言えば、鬱蒼とした原生林と濃密な瘴気に満たされた未開の地と言うイメージが強い。
 当然それも事実。
 真昼だと言うのに、リグルが歩く林床部に日は殆ど届かず薄闇と肌にまとわりつく様な冥い瘴気だけが周囲に広がり、極彩色の茸や仄暗い灯りを放つ苔がその地面を埋め尽くしていた。
 だが、その不気味の中に生命の営みが、命の輝きが満ち溢れる事をリグルは知っている。


 「や、こんにちは。今日も相変わらず綺麗だね」
 「はははっ、冗談は止してよ。でも、ありがとね。また来るから元気でね」


 道の脇、若木の葉に留まる玉虫の親子と親しげに言葉を交わす。
 老妖蟲に向ける物とはまた異なる優しい笑みを浮かべたリグル。
 対する玉虫の様子は一見何も変化したようには見えないが、見る角度により色を変える背甲を揺らし心もち興奮した様子でリグルを見つめていた。
 最後にその玉虫の殻を一撫でして別れの挨拶を告げると、リグルはまた里への道を歩き始める。


 広大な土地と手つかずの自然は蟲達にとって最高の住居である。
 妖怪では無いただの蟲であるといっても、妖蟲の王であるリグルならばある程度の意思疎通が可能な事から、出会った蟲達とは出来る限り世間話を交わすようにしていた。


 「う~ん心配だなぁ。玉虫のお母さん。子供も何だか元気が無いみたいだし……」




 にまにまと口元をにやつかせながら歩くリグル。
 だが、その上機嫌は、上空から舞い降りる黒い翼で瞬く間に消えうせる。


 それは、一迅の風。漆黒の風が質量を伴い、樹の幹に降り立った。
 地面から舞いあがった木の葉がその姿を隠すが、正体は明白。
 幻想郷の中でこれ程風を自在に操る存在はたった一種族しか存在しない。


 朽ちた葉の隙間から覗く不敵な笑み、手元で妖しい輝きを放つ鴉の羽毛製の軍配団扇。
 漆塗りの一本足の下駄が力強く大樹の枝を踏みしめる。


 「おやおや……、これは」


 収束する最後の風にクヌギの古木が大きな軋みを上げ、妖怪の山所属、風の化身 ”鴉天狗” が姿を露わした。


 「お久しぶりですね、リグル・ナイトバグ」
 「天狗……、殿」


 鼻に掛かった様な声と、見下した視線。
 樹の上から下りて来ようともせずに、その鴉天狗の少女は三白眼をリグルへ向けた。


 「何か用ですか? ここは妖怪の山からは遠く離れた地。貴女達の領域を犯している訳ではありませんが?」
 「嫌だなぁ、別に文句を言いに来た訳じゃありませんよ、ただ散歩をしていましたら貴女を見かけましたので挨拶に来た次第で。貴女みたいな、低級の妖蟲でも、王は王ですからねぇ……」
 「そうですか……、ありがとうございます。私は急ぎますのでこれで」
 「待って下さいよ。折角お会いしたのだし、少し ”お話” でもして行きませんか?」
 「いえ、急ぎますので。折角のお誘いなのですが、これで」


 その口調に含まれた嫌な響きを感じ取ったリグルは出来るだけ早くその場を逃げ出そうと、踵を返す。
 しかし、幻想郷最速を誇る天狗から逃げ切れる筈も無くあっさりと回り込まれてしまった。


 「待って下さいよ。ねぇ、暇だって言っているでしょう。もしかして、天狗の言う事が聞けませんか?」


 胸を掴まれ、至近に寄せられた瞳は燃える様な赤を湛え、少女の物とは思えぬドスの利いた低い声がリグルを体の芯から怯えあがらせた。
 鴉天狗のと言う妖怪はどの妖怪も例外なく、陰険で、傲慢で、気紛れだ。
 自らの愉悦の為に、里の外に出た人間を狩る事もあれば、道を究める人間の前に現れ師として技術を与える事もある。


 そして、今目の前に居る鴉の少女はその前者だ。
 暇は妖怪を殺す、それをこの上なく忠実に表現したのがこの鴉だ。
 剣術も、体術も、妖術も、その全てをその身で高められる限界まで究め、何をしようとこれ以上を望めない。
 かと言って、妖怪の山の組織の上には、鬼にも迫る程の体躯と、生まれつき桁違いの妖力を持った選りすぐりの大天狗がひしめき合う。
 哨戒業務や、軍備の増強は下っ端の白狼天狗が全て行っており、自分は名目だけの管理職、上に行ける望みもほぼ存在しない。
 最早、瓦版をする位しかやる事が無い、閑職の天狗にはこのように暇に潰されかかり、暇を潰せるなら大抵の事は躊躇なく行う恐るべき者が珍しく無い。


 「別にお前の所の適当な女をよこせだとか、低俗な白狼天狗みたいな事を言っている訳じゃない。ただ、そこに座って私の話を聞いていれば良い。お前は置き物だ。違うか?」
 「はっ……、はいっ!」


 がっちりと肩に手を回され、身動きが取れない様に拘束される。濁り切った瞳に射抜かれたリグルはただ、身を固くして頷く以外の行動を取る事が許され無かった。
 山の作物を食い荒らす害虫の事、自分の部屋に現れた油蟲の事、自らの上司の愚痴、他にも数え切れない程。
 結局三十分以上も、嫌みと愚痴の入り混じった話を一方的に話すと清々しそうな顔でその鴉天狗は帰って行った。


 「はぁ……」


 緊張から解き放たれ、全身の力が抜けたリグルはへなへなと地面にへたり込む。
 リグルは心の底から安堵していた、あの ”鴉天狗が粗暴な者で無かった” 事に。
 妖怪の山との領域近くで、領域侵犯の名目で連れ去られ凌辱の限りを尽くされた妖蟲はこれまでに数知れない。
 特に気性の荒い白狼天狗の男は現在の妖蟲にとって最大の天敵と言っても過言ではない。


 たっぷり五分程、茫然と座っていたリグルは、胸元からふと漂ってきた甘い香りで我に返る。
 汗で少しだけ湿ってしまったクッキーが袋に入ったまま残っていた。
 その内の一枚を口に運ぶ。






 それは、とても甘く心を落ち着かせてくれたけれど、ほんの少ししょっぱい味がした。

















▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


 「あいかわらず……、でっかいわねぇ……」


 整備された地面に立ち、リグルが見上げるのは途方もなく巨大な壁。
 東西に延びるその壁は里全体を覆う程に長大で、その端はリグルの視力を持ってしても見えない。
 その高さは優に二十メートルを超えるだろう。
 そして城壁の傍には等間隔に櫓が立ち並び見張りの衛視がそこに立っていた。


 良く目を凝らせば、整然と並べられその壁を構成しているのは巨大な丸太。
 それは魔法の森深部の原生林から切り出された数千年を生きた魔法樹。
 魔力の満ちる森で長きを生きる内に魔性を帯びた樹がそのまま一本丸ごと、壁として並べられている。
 長い年月を経て黒く硬化したその樹皮は、並の妖怪の攻撃では傷もつかず、ありとあらゆる衝撃を撥ね退ける。この幻想郷において最も堅牢な材質の一つである。


 これは、人里が妖怪に対して抱いている猜疑心の具現化だ。
 妖怪が人里を攻める。その限りなく低い可能性を零へと近付けるために作られた巨大な防壁。
 今よりも妖怪と人の力の均衡がとられていなかった時代、人族がその生活領域を守る為に作ったのがこの防壁の原型である。
 だがこの防壁の出番が来たのは過去にたった一度だけ。数年前の吸血鬼による人里の襲撃――そうは言っても、単騎で掛けてきた吸血鬼が壁を飛び越えたのでその役目を果たす事は無かったのだが――が、あっただけだった。


 抑止力としてだけなら管理者による保護と、博麗大結界の構築の寄与の方が遥かに大きく、現在ではその壁は本来の物理的防壁の役目を終え、安寧な生活を送る為の概念的な防波堤の意味合いが強くなっている。
 人の生きる領域と妖怪の領域。この二つをを隔てる事で必要以上の接触を避け無用の争いを避ける事、それが今の防壁の役割である。




 何も遮る物の無い日照りは強く目に差し込み、額からは湿る程度に汗が滲む。
 早く中に入ろうと、一歩足を踏み出し何気なくその壁をぐるりと見渡した。
 幻想郷最硬の名に恥じずその壁には文字通り傷一つ無い(無数の傷が刻まれている)。
 長い年月の経過により、風化が見られる個所が無い訳ではないが物理的な傷など無い(無事な所を探す方が難しい)に等しい。


 「――えっ?!」


 再び訪れた不思議な感覚。
 残酷な程の現実感を伴った空目と吐き気を催す程の既視感。
 見間違いかと思い眼を擦り再び壁を見るも、やはりその壁は何時もの通りの傷一つ無い――。




 ――ジ……ジジジッ…




 見慣れたその城壁には、何者かによって抉り取られたかのような深く、巨大な溝が刻まれていた。
 傷跡に残った真っ赤な染みは、壁一面へとじわりと広がり、硝煙と鉄の香りが立ち込める空気は息をする程にむせかえる。


 その他にも傷跡は数え切れない。


 巨大な鎌で切り付けられた傷跡。
 無数の物体がぶつかったかの様な弾痕。
 得体のしれぬ力で抉り取られたかのような巨大な溝。
 特に小さな弾痕は数え切れぬほど。傷の無い柱は無いと言っても良い程あちらこちらに傷跡が残っている。


 こうして見て居る間にすら、その壁には無数の蟲達が殺到する。
 それの一匹一匹は大人の拳ほどの大きさの甲殻蟲。
 しかしそれは、空を覆い尽くさんばかりの無数の蟲達がその場に集っていた。


 数え切れないほどの蟲が殺到してはその殆どは里からの迎撃か結界に焼かれ地へと落ち行く。
 だが、ほんの極稀にそれらを掻い潜り壁へと到達した蟲はそこへ大きな傷を残し力尽きて行った。


 そしてまた、目前を飛んでいた一際大きな甲殻蟲が霊撃を受けバラバラに四散し、その体液を――








 「ぐ……」


 強烈な眩暈を感じ思わずその場に座り込む。
 それは間もなく収まった物の、喉奥に感じる弱い吐き気は当分収まりそうには無かった。
 頭部に感じる鈍い痛みを抑える様に、手を額に添えゆるゆると立ち上がり壁へと眼を向ける。
 やはりと、言うべきか何故かと言うべきか。そこにあるのはいつも通りの傷一つ無い防壁の姿だった。


 「……なんなの……、一体……」


 ふらふらと歩くリグルの眼の前に広がって来たのは、広い堀に大きな橋。
 複数の魚影も見えるその深い堀の底は泥で覆われており、所々に黒い黒い穴が空いている。
 それは紛れも無く何者をも通さない強き意思表示。
 外部からの侵入を拒むありとあらゆる仕掛けがそこには存在していた。


 堀と門の間に掛る橋を渡ると見えてくる巨大な城門。
 その門には樹木を一本丸ごと使用した巨大な丸太に硬質な鉄の閂。
 カラクリ仕掛けでようやく開閉するその門は非常に頑丈に作られている。


 「人間は、なんでこんなのが無いと安心できないのかなぁ……」
 「弱いからだ。人間はお前たちと違って簡単に死んでしまうからだ。知らない訳じゃないだろう?」


 自然に口を突いて出た感想に、低く朗々とした言葉が答える。
 予想外のその応答に体をビクリと震わせるとその方向へ視線を向けた。


 「あ……、ごめんなさい。非難とかそういうのんじゃ無いんです。聞かれているとは思わなくて……」
 「それを決めるのはお前では無く聞いた側だと理解するべきだ。御託は良い、要件を言え」


 その年は三十程であろうか、門の前に立っていた筋骨隆々とした男がリグルへと歩み寄る。
 その身に纏うのは急所のみを覆う簡易的な防具と木製の柄の先端に三角錐状の刃が取りつけられた粗末な槍。


 「迷子になった子達が里の中に居ます。それを迎えに来ました。中に入れて貰えないでしょうか?」
 「却下だ。帰れ」
 「えっ、……ちょっと、待って。何で?! お願いだから!!」


 明らかに避けられている。
 男がリグルを視界の端に入れたその時から、表情に浮かぶ不快感を隠そうともしていないからだ。
 人里を訪れたのは、今回が初めてだが、その排他性は聞き及んでいる。
 そしてそれと同時に、このような状態の人間と正面から交渉をする事は難しい事だとリグルは理解していた。
 人間との関わりはこれまで多かった訳では無いが、妖怪の山の天狗も一種このような表情を見せる事が多い為である。


 「何処の馬の骨とも知れぬ妖蟲を入れる程、我々は不用心では無い。」


 今さらではあるが、リグルは妖蟲である正体を隠してはいない。
 それは不意に声を掛けられたと言う事もあるし、人間の振りをして門を通るのは見破られた際のリスクが大きいと判断したからだ。
 だがそれ以外にも懸案事項は有る。


 (本名は……名乗るべきじゃないか……)


 仮にも王と呼ばれる物が安易に里に入るのは無駄な騒ぎを起こす切欠と成り得る。
 不必要なリスクを負う事は避けなければならない。だからリグルは少しの迷いの後に偽名を名乗る事にした。


 「私は妖蟲のグーバ、 ”フライ・グーバ” 。私の仲間が貴方達に迷惑を掛ける前に回収しに来ただけだ」
 「そうか、ご苦労な事だ。受け付けはしよう」


 即興で考えただけどの、適当な名前。
 だが、数の多い妖蟲であればそれが発覚する可能性は極めて低いだろう。
 門番は木製のクリップボードに止められた用紙に、黒鉛を木片で挟んだ特殊な筆で名を記す。
 懐にそれをしまうと、男は再びリグルへと向き直った。


 「だが、受け付ける事と通行許可は話が別だ。お前を此処に通す理由は何だ? 蟲一匹程度内部で ”処理” すれば特に問題になどならん」


 「――ッ! それを防ぐ為にも、私は、今、ここに居る」
 「それはお前の個人的な都合だ。私達には関係が無い」


 「そうか。なら貴方にとっても ”個人的な都合” にすれば入れてくれるのね?」
 「威勢の良さは認めるが、荒事は止めておいた方が良いぞ。 ”お互い” にな」


 一歩衛視に歩み寄る。
 目前に突き付けられた穂先は正確にリグルの眉間を捕え、びたりと停止する。
 迷いの無い動きは明らかに素人のそれと一線を画する。人間としてはかなり高い練度を誇るのだろう。


 張り詰める空気。
 背後に停まった商隊の荷馬車から異様な雰囲気を感じ取った商人たちが顔を出し始める。


 その間、微動だにしなかったリグルは目を僅かに鋭く見開くと手をそっと槍へと差し出した。
 リグルは目と鼻の先でぎらぎらと硬質な光を放つ刃の腹を優しく指で押さえ脇へと逸らすと、男がそれに反応する前に妖怪としての身体能力を活かし懐の奥深くへと入り込んでいた。


 懐への侵入を許した事に舌打ちをする男だが、耳元で何事かを囁かれたと共に、ポケットの中へ巾着袋を捩じり込まれる。
 男は苦々しげな表情を浮かべたままその姿を眼で追う。その視線の先、男の背後へと回るリグルはその手を上げ敵意の無い事を再度強調した。


 「私は此処を通して欲しいのだけれど、何か異論は?」
 「……特に無い。勝手に通れ、問題は起こしてくれるなよ」


 普段のリグルからは想像もできない程に感情の籠もらぬ平坦な声。
 ポケットに手を入れ ”それ” を確認した衛視は、背後にあった小さな扉が僅かに開く。
 そのまま衛視の隣を素通りし、滑り込むようにその隙間に入り込むと、小さな金属音が響き再び固くその扉が閉じられた。


 「……俗物がっ」


 少女の呻くような小さな怒りは、雑踏の中へと吸い込まれ誰の耳に届く事も無い。
 苛立ちをぶつける様に地面を強く踏みしめたリグルは、足元の小石を誰も居ない路地へ向かって蹴飛ばした。












 里内部に入ると同時に触角と羽は隠す。
 頭の上の二本の触角はぺたりと頭に付け髪の中へ、羽は外套の裏に畳み外からは見えない。
 一見すれば唯の人間の少女にしか見えないその変装は、手軽ながらも里内部での無用な騒ぎを避けるための効果的な自衛策である。


 「はあぁぁ~、ほぇぇぇ~」


 先ほどまでの苛立った胸中は何処へやら。
 間抜けな声を上げるのは、その街並みと人の行き来を目の当たりにしたからである。


 初めて訪れた人里はその外見から予想される以上に活気に満ちていた。
 通りの脇に立ち並ぶ多数の移動式店舗に、急ぎ足に通り過ぎる多数の人々。
 そこは平日の昼間であるのにも関わらず活気に満ちており、どの店も非常に繁盛していた。


 目に入るのは、子供向けの独楽やベイゴマを売る店。
 無邪気な子供と若い店主が親しげに会話をしている。
 向かいの豆腐屋では中年の女性が店主と世間話に興じていた。


 犇めき合う看板に、河の如く流れ続ける人の波。
 これまでに、体験をした事も無い程の膨大とも言える情報の奔流にリグルは唯ひたすら圧倒される。


 くいくい。



 ふらふらと吸い寄せられるように道の脇の露店に足を運ぶ。
 そこでは色取り取りの水飴や、飴細工の人形が飾られ濃厚な糖蜜の香りが漂っていた。
 思わず垂れた一筋の涎を白いブラウスの裾で拭うも、目だけはそれから離せない。


 ぐいぐい。


 そうして見ている内にも飴細工職人は、鍋の中より取り出した飴の塊を整え棒の先へ取りつける。
 手で大まかな形を作ると、鉄鋏で腕、脚等を切り出していく。
 筆で食紅を塗り付け彩色されたそれは見事な虎の飴人形が出来上がっていた。
 職人の無骨な手から作り出される魔法の如き技術にリグルはうっとりとした表情で眺めていた。


 ぐいっぐいっ――ビリッ。
 「?!」


 背中に感じる鋭い痛みに思わず身を翻し、その犯人を視界に捕える。
 そこには、見覚えの無い童が立ち、外套ごと薄羽を無造作に掴んでいた。


 ぐいっ――ビリリッ


 「やめてー?!」


 何を思ったのか手元へ外套を引き寄せようとするその動きに、デリケートな薄羽には亀裂が入り見て居る間にも音を立てて裂けて行っていた。


 「おねーちゃーん……」


 年の頃は三、四歳と言った所だろうか。
 物心すらついていないような男の童が真ん丸の眼でリグルを見つめ返していた。
 先ほどの "おねえちゃん" と言う言葉から察するに、兄妹か何かと勘違いをしているらしい。


 「えーっと……、お母さんはどうしたのかな?」


 ぶんぶん。と頭を振る童。
 困った。完全に迷子の様である。
 本来なら親元まで送り届けてあげるべきなのだろうが、今日初めて人里に来たリグルにそれは困難。
 ならば警吏に引き渡せばとも思うが、先ほどの門番との事もあり、あまり顔を合わせたくないと言うのが正直な感想だった。


 故に選択肢はおのずと絞られ、行動の決定は消極的に行われる。


 「……飴、食べる?」


 こくりと無言で頷く童。
 この場で保護者が来るまで待つ事。それが今考えられる中では最もベターな選択肢だと判断した。
 決して自分が飴を食べる口実が欲しかった訳ではない。
 そう言い聞かせながらリグルは軽くなった財布を取り出し職人へ声を掛けた。
 威勢の良い声と共に、愛想の良い中年の男が此方に顔を向ける。


 その厚ぼったい手から受け取ったのは、店で売られていた一番小さな瓶に入った水飴。
 光に反射しきらきらと光る瓶には何も入って言い無いと錯覚するほど透明度の高い飴が満たされていた。
 リグルは童の手を握りすぐ近くに落ちて居た角材に腰掛けその瓶を開封した。


 開封と全く同時に鼻孔を擽り出すのは、一面に広がる甘い香り。
 柔らかく鼻の粘膜を覆うような粘度の高いその香りに、口の中から涎が溢れだす。


 その瓶に入った飴に箸を突っ込み、中の粘性の極めて高い液体を掻き回す。
 巻き取る様箸へそれを絡みつけると、瓶の外へ取り出しそのまま口へ運ぶ。
 瞬間。口の中に広がる蕩ける様な甘さに思わず頬がだらしなく緩んでしまった。


 「……ん、……あまい」
 「あまーい!! はむはむっ」


 お金が無いので一つの瓶を二人で訳あっている訳なのだが、童も童でその甘さの虜になってしまったようで、次から次へと瓶の中身を口へと運んでいる。
 このままでは自分の食べる分が無くなってしまうと、負けじとリグルも瓶へと箸を突っ込んだ。


 暫し無言で、時が経つのも忘れて飴を貪る。
 箸では一度に僅かな量しか巻き取る事ができず長く楽しめるのが水飴の良さである。
 しかし、二人のその猛烈な勢いに瓶の中身はみるみる減って行き、一刻も経たずに瓶の中は空になってしまった。


 「ふー、美味しかったねー」
 「うん。おねーちゃんありがとう!」


 素直で直球な言葉に思わず口元がにやける。
 その坊主頭をわしわしと撫でたくなる衝動に駆られるが流石に知らぬ子にそこまでするのはと躊躇う心がその手を止めた。


 だが、飴を食べ終わってしまうと一気に所在が無くなってしまう。
 周りを見渡しても保護者らしき人物は現れず、童も暇そうに手遊びを始めている。
 どうした物かと思案していると突如として大きな声が聞こえてきた。


 「あ、居た! おかーさーん。居たよー」


 その声の出所は通りの向こう側から。
 遠くに居る人物に手招きをしつつ此方へ駆けてくるのは一人の少女だった。


 「あんた! なにやってんのよ。探していたのよ!」
 「あ、おねーちゃん!おかえり!」


 やりとりを聞く限り兄妹の様らしい。
 成程確かに、隣で呑気な顔をしている童の姉と思しき目前の少女はブラウスを身に付けパンツスタイルの洋風の装束を着ている。
 和服の普及している人里ではその装束は少数派である。


 「ご迷惑を掛けてすみません。あなたがこの子のお守りをして下さっていたんですね」
 「別にお守りって程の事もしてないよ。ほっとく訳にもいかないし、一緒に居てあげただけだよ」


 しきりに頭を下げ、礼を告げる少女。
 見た目の年齢はリグルと同程度だと言うのに随分としっかりとした少女である。
 後から遅れてきたのは童と少女の親と思しき妙齢の女性。


 「はぁ、はぁ。やっと追い付いた。あなたが私の子を見つけてくれたのね、ありが……と……――」


 下げた頭を上げると同時に女性は何故か口ごもる。
 その真っ黒な瞳に映り込んでいたのは紛れも無く深緑の髪をした少女の相貌。


 「あ、ま、まぁありがとうね。助かった……わ。さ、さっさと帰るわよ。ほらっ」


 慌てた様子でそう言うと、妙齢の女性は二人の子を連れてさっさと帰って行ってしまった。
 繋がれた手とは反対の空いた手を此方に向けて振る童に、茫然としながらも辛うじてひらひらと手を振る事で答えた。
 そして、一気に静けさの訪れた空間に漂うのは一抹の寂しさ。


 しかし、そうとばかりも言って居られないと、その緑の髪の毛の中から触角の先をひょこりと僅かに露出した。
 人里内に生息する唯の蟲達と連絡を取り、視界及びその気配を共有する事で周囲の妖気を探索する為だ。
 暫しの後に、多くは無いものの、幾らかの人外の気配が確認できた。




 八百屋で威勢よく大根を売る店主。
 毬を追いかけ、空き地を駆け回る子供。
 屋根に留まりアホウと鳴く鴉。
 机に向かい只管に書を綴る少女。
 井戸端会議に花を咲かせる主婦。
 忙しなく道を駆ける飛脚。
 小さな小部屋で寝込む女性。
 倉庫で荷物を整理する若い男。




 里に居る蟲達の視界を介して観察した彼らは、何れも人に有らざる気配を有している。
 見た目はただの人間。だが、内に秘める妖気は明らかに人の持つそれとは一線を画していた。
 恐らくは、各勢力の斥候だろう。天狗らしき気配もその中には混じっていた。


 そして、肝心の妖怪化しかかった蟲の気配。
 その反応があったのは人里のとある一角。


 里の中心にあるとある一角。その一室にその気配は存在した。
 塀の上で休む飛蝗(バッタ)から送られてきた視界にはその家屋の屋号が映っていた。


 切り株を薄く切りだして作られた看板は長い年月を雨風に晒され黒ずんでいたものの刻まれた文字は、はっきりと読みとる事ができる。


 「霧雨……、道具店……?」














▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


 その気配を辿り、着いた先に存在したのは大きな屋敷。
 名は霧雨道具店。
 人里でも有数の規模を誇る道具屋にして、里の権力者。
 魔道具までをも扱うその店の話はリグルも聞いた事があったが、その内実については全くの未知。


 その屋敷は通りに面した一階部分に店舗を構え、盛んに人が出入りしている。
 所狭しと並ぶ、食器や家具等の日用雑貨。
 通りに大きく開かれた店内には眼も眩まんばかりの多彩な商品が、曼荼羅の如く並べられていた。
 微弱に漂う霊力の香り。一部の区画には霊力を籠めた術符が並べられている。
 火符が安売りされている辺り、日常使用のレベルでかなりの需要があるのだろう。
 主婦が料理にでも使用するのだろうか? そんな下らない妄想を浮かべながらリグルは気配の漂う地点をさり気なく探る。


 よく気配を探ると、弱い妖蟲の気配が立ち上っているのは裏手側。
 人の集う店舗の後ろ側から弱々しい妖怪の気配が立ち上っていた。


 だが、店舗内に入る事が出来ても流石に居住区まで入るのは怪しまれる可能性が高い。
 どうしたものかと腕を組み、暫し思案に耽るリグル。


 「うーん。 ”確か” 裏にある勝手口からなら入れるかな……」


 霧雨屋店舗と、隣家の間。
 幅は狭く薄暗い通路、人一人がやっと歩ける程度の路地がそこには存在していた。
 店頭の商品を眺めるふりをしながら、店の端まで移動すると周囲を軽く確認しながらさり気ない動作で裏路地へとその身を滑り込ませた。









 「忍び込むしか……、無いか……」


 大通りとは打って変わって静かな裏路地に面する店の裏側。
 恐らく住居スペースなのだろう。通常の民家と同じ造りをした店舗の裏にある窓際から気配が流れ出ていた。
 通りとその窓までの間を阻むのは装飾的な門とよく整備された庭。
 物理では無く意味として空間を区切るそれは、侵入の障害とは成り得ないだろう。
 極限まで気配を抑え、庭に入り込むも周りに人の気配は無い。


 罠の気配を確認し安全が確保されるとリグルはその窓のすぐ下の植え込みに滑り込む。
 そっと壁に耳を着け、内部の音を探る。


 ――かささ、かささ、かささ……。


 聞こえてくるのは、細い脚が絹を撫でるかすかな音。
 それ以外に動く物の音は感じられない。


 (よし。誰も居ない。今の内に……)


 鍵の付いていない和式の窓を引き、その縁に脚を掛ける。
 残った脚で地面を蹴り、身をその窓へと引き上げ腰を縁に乗せ、そして――






  “そして、ベッドの上で蚰蜒(ゲジゲジ)と戯れる少女と眼が合った”






 「――――」
 「…………」


 凍りつく。
 全身の筋肉が硬直し窓枠に脚を掛けた状態のまま静止する。
 時間が停止したかのような感覚。時計の秒針が歯車により時を刻む音だけが響く。
 一瞬とも永劫ともつかぬその空間。
 だが、その張り詰められた雑巾のような緊張を破り捨てたのもまたベッドの上の少女。


 その少女はリグルから視線を外すと、何事も無かったのように”その白い手で再び蚰蜒(ゲジゲジ)を弄び始める。


 しなやかな柳の竿の様に細長く伸びる触角で、柔らかな指の凹凸を探り、十五対の脚で複雑怪奇な掌を踏みしめる。
 意思を持ち水を掻く水夫の櫂(かい)の様に整然と動く脚は、少女の柔らかな皮膚を的確に捕え、手の甲と掌を目まぐるしく移動していった。
 その歩みは変化する手の形状に合わせ、柔軟に対応し十五の節に分かれた体を折り曲げながらその表面を這い回る。


 少女はその様子は何処か遠い瞳で唯々眺め続ける。
 その瞳は琥珀の様な何処までも透き通った黄色で、眺めていると吸い込まれる様な錯覚を覚え――


 「……って?! 何か言う事があるでしょう?!」
 「……何、 ”やっぱり” 誰か居たの?」


 「居たよ!!思いっきり居たよ!! むしろ何も聞かれないのにびっくりだよ!!」
 「聞いて欲しいの?」
 「別にそう言う訳じゃないけど!! でも、聞いてくれないと私、物凄い怪しい人に成るじゃん?!」
 「既に十分妖しいから大丈夫だと思うけど、――まぁ良いわ」




 「あなたは、誰?」









▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


 「私が言うのも変な話だけどさ、気持ち悪いとか思わないの?  “理沙” 」
 「……別に。変な形だとは思うけど」


 窓際に腰かけたまま、所在無さ気に脚をぶらつかせるリグルは少女へと話しかける。
 相も変わらず手の上で蟲を弄ぶ少女はその触角を指先で触るのに夢中でリグルを見る事すらしない。


 纏うのは深い紺の行燈袴に矢絣の小袖、うなじが辛うじて隠れる程度のセミロングの黒髪が子供らしい丸顔を包む。
 窓辺へ向けられた丸い瞳は、伏し目がちの琥珀。
 全体がほんの少し黄色に濁った球面にはリグルの姿が映り込むが、その視線は何処に向けられている訳でも無い。
 仏頂面を崩さない少女はベッドの端に腰かけ、苦笑いを浮かべるリグルに興味薄気に相槌を打っていた。


 「変な奴。普通の人間はだいたい気持ち悪いって言って理不尽にも叩き潰そうとしてくるのに」
 「え、悪さする虫は躊躇なく叩き潰すよ? 蚊とか」


 名前は ”霧雨理沙” と言うらしい。
 病的に白い肌とは対照的な少し癖のある黒の髪が特徴的な少女。
 初対面で不審者であるリグルに気を許している訳でもないが、いぶかしむ様子も無い。
 まことに不思議な雰囲気を持つ少女であるとリグルは感じていた。


 「その子らも悪気がある訳じゃないからできたら見逃して欲しいんだけどな……」
 「嫌よ、うっとおしい」
 「あなた一体、蟲が好きか嫌いかどっちなの?」
 「私が可愛いと思ったら可愛い。うっとおしいと思ったらうっとおしいの」
 「気分家なのね」
 「そうよ。何か問題あるの?  “リグル” 」


 彼女には偽名を使っていない。特に意図は無い。何となく偽名を使う事が躊躇われたからだ。
 だが、その少女は此方が苦言を呈せば皮肉が返り、嫌みを言っても受け流される。
 そんな随分と捻くれた精神とは裏腹に、見た目は一二歳前後の少女。
 女性らしい体つきへの過渡期にある少女にしか見えない。


 「別に無いけどさ……。何か釈然としないって言うか……、腑に落ちないって言うか」
 「別に貴方に分かって貰わなくても私は困らないけどね。所でさ、一つ聞いても良い?」
 「へ? 別に構わないよ。私に答えられる事なら」


 「さっきから思っていたんだけどさ――、あなた何しに来たの?」
 「今さらっ?!」


 だが不思議とリグルはそんな少女とのやりとりを ”楽しい” と感じていた。
 裏表なしに軽い口を叩きあえる。それはリグルのこれまでのどの経験とも違う感覚。


 「貴方私が何やってるかなんてどうでも良いんじゃなかったの?!」
 「いや、部屋の中に知らない人が居たら気になるでしょ」
 「じゃ、今までのはっ?!」
 「…………………………………………話の流れ?」
 「絶対今考えただろぉ?! 本当はどうでも良かったんだよね?!」
 「…………そんな事ないわよ」
 「むー。まぁ良いけどさ。正直話すタイミング見失っていたし……。私はその子を迎えに来たのよ。ただそれだけ。回収したから帰るからさっさと渡しなさい」


 そう言いながらリグルは、少女の掌の上で丸くなり寝息を立てている蟲を指さす。
 全くもって人の気も知らずに呑気な物だが、蟲の睡眠など自分以外には見分けが着きはしないだろう。
 少々考え込んでいる様子の理沙を、リグルはその黒い瞳でじっと見つめた。


 「んー………………、やだ」
 「なんでっ?! どうして?!」


 驚きのあまり一歩後じさる。
 それは完全に予想の外からの反応。最初に会った時から感じていたが、この少女の考えている事が読めない。
 だがしかし、リグルの脳が理解を放棄しかかった所で掛けられたのは更に想定外の言葉。


 「だって、この子面白い。 ”ただの蟲じゃない” んでしょ?」


 「………………」


 弛緩していた触角が俄かに張り詰め硬直する。
 無意識の内にリグルは押し黙り、警戒を強める為に思考を回し始める。
 完全に怪異となった蟲ならば兎も角として、ただの人間に半妖蟲と蟲の違いが分かるとは思えない。
  “返さない” そう彼女は先ほど言った。その言葉が悪意を持った物であるのならば……、続く言葉によっては多少強引にでも回収を――――




 「何となく分かるの。なんかこう、ぶわーぁーっとした感じ? 他よりあったかいって言うか。」




 「…………………………………………ぷっ、はっはっは! 何それ?!ぶわぁーって何よ、全然訳分かんない」
 「うるさいわね。感覚的な物なんだから仕方ないでしょ。こうして遊んであげると凄く”喜んでいる”気がするのよ。もう少し遊ばせて貰っても良いでしょう?」


 僅かに上気した頬に、開き直ったかのように強い語調。
 そこからは既に警戒すべき事象は何一つ見つけられない。


 「あ~、ごめんごめん。何か拍子抜けしちゃって。別に構わないよ、その子も別に良いって言っているし」


 黒い触角がひこりと揺れる。
 半妖の蚰蜒(ゲジゲジ)も蚰蜒(ゲジゲジ)で、飽きたのか察したのかは分からないが唯の蟲の”ふり”をするのを辞め、差し出された指に組みついたり、掌を転がったりと凡そ蟲らしからぬ様子を晒している。
 それはまるで猫じゃらしにじゃれつく猫の様で、リグルは思わず笑みが零れる。


 ふらふらと揺れる触角は、時折風に揺れる髪に触れかさりとかさり音を立てる。
 暫くはその様子を唯々見つめるだけだが、直に苦笑が漏れ出た。


 (そうは言ってもなぁ……)


 贔屓目に視ても美しい少女と、異形に入るであろう蚰蜒(ゲジゲジ)。
 その二人が仲良く遊ぶ光景と言うのは、はた目から見ると何とも奇妙な物である。
 無論それは自らにも当てはまる物であるのだが、本人がそれに気付く事は無い。
 暫し黙考するリグルは、突如何かを閃いたかのように目を輝かせるとぶつぶつと何事かを ”己の内” に語りかける。


 間もなくして服の袖の中から一匹の蟲が這い出て来る。
 長い長い触角に黒い体。背から映える一対の羽は何処までも透明で向こうの景色が寸分も曇らずに見える程。
 それは鈴虫だった。立派な成虫の鈴虫だ。
 見た目こそ通常の蟲と何ら違いはない。だが、この少女ならこの個体が普通ではない事を感じ取るだろう。


 「ねぇ、理沙。こんなのはどうかな?」


 掌に乗った鈴虫が、威風堂々背の羽を大きく広げる。
 一瞬踏みしめたかと思うと外骨格の下に存在するピンク色の筋繊維が急速に収縮を繰り返し、その羽へと力を伝える。
 左右へと小刻みに揺れ始めた羽は、間もなくその根元に刻まれた微細な溝同士を擦れ合わせることで微細な振動を発生させる。
 それは、静かな水面に落ちる木の葉が起こす物よりも僅かな振動に過ぎない。
 だがしかし、その僅かな振動は羽全体を震わせ、羽により増幅された波同士が共鳴し合いさらに大気へと広がって行く。
 そこには当初の掠れるような音はどこにも無く、澄みわたる響きへとその姿を変化させ、部屋の中に硝子製の鈴の音色が満ちていった。


 「ほわぁ……」


 陶酔するようにその音色に聞き入る理沙。
 流れる音は単調な物ながらも、時に激しく時に優しく。大気を揺るがしながら部屋を駆け廻った。


 「凄く……良い声ね。でも、鈴虫なんてどこから連れて来たの? 今年はまだ聞いた事がないのだけれど」
 「私は体の中に蟲達を飼っているの。怪我をしている子、生まれる時期を間違えた子、おせっかいな子。数は多くないけど、常に私は皆と一緒に居る。この子もそんな中の一人。昨年の秋の終わりに生まれてしまったお寝坊さん。のんびり家だけれど誰よりも優しい子」


 慈しむ様な眼で掌の上の ”彼” を見つめるリグル。
 照れるかのように身を捩らせた ”彼” は、一層の響きを持ってそれに答えた。


 暫し時を忘れその声に聞き惚れる二人。
 一刻程も過ぎただろうか。気付けば差し込む陽に赤い物が混じりだす。
 遠くに聞こえる鴉の鳴き声からも夜の訪れを感じたリグルはその空を見上げた。


 (そういえば、夕方には帰るって言ったっけ……、遅くなると心配するかなぁ……)


 「そろそろ、その子返して貰っても良いかな?」
 「んー……、やっぱりやだ」


 またもや予想外の答え。
 だがしかし、驚くのにも飽きたのか、リグルは最早頭をぼりぼりと掻くのみであった。
 再び朱の刺す空を見上げ、一頻りその緋色の空間に思いを馳せた所で少女へと話しかける。


 「今度はなんでなの?」
 「何か気に入ったから、この子貸して」


 「はいっ?!」


 思わず漏れ出た声は、驚くほどに上ずった物。
 貸してほしいとその少女は言った。だが貸して欲しいとは何だ? 半妖蟲の蚰蜒(ゲジゲジ)を飼いたいと言うのか? この少女は。だとすれば、それは驚愕すべき事態である。
 リグルが言うのも可笑しな話ではあるが、それは”一般的な人間の感性”とは天蓋に輝く彼方のベテルギウス程にも離れていると言わざるを得ない。


 「遊んでいて飽きないし。それにこの子も、もう少し此処に居たいって言っている気がするし」


 掌の上で仰向けになり、出された指を甘噛みする妖蟲。何のつもりかは分からないがあざとさ全開である。
 そんな姿を見せられたリグルは苦笑いを浮かべる以外にできる事は無かった。


 「ま、まぁ、その子も嫌じゃなさそうだし……、――寧ろちょっと喜んでいるのがムカつくけれど――、別に良いっちゃ良いけどさ……」
 「あらそう? ありがとう! 絶対大切にするから。だから――」
 「私よりその子の方が良いっての……全く――」


 口を尖らせ、ぶつぶつと小声で不平を漏らす。
 外を走り抜ける童の声にかき消されたそれは、誰かの耳に届く事は無かった。
 だがそれと同時に重なったのは、凛とした鈴の様な少女の声。




 「――だからさ、 ”また” 迎えに来てあげてよ」




 風向きが変わり突如として窓枠から差し込んだ陽が部屋中を明るく照らし出した。


 唯々、眼を丸く見開く事しかできない。
  “また” と彼女は言った。 ”もう一度” 自分と会いたいと彼女は示した。
 「この少女は何を言っているのだ」それが正直な感想だった。
 その言葉が意味するのは妖怪である自分と積極的に関わりたいと言う意思。
 胸の中に生じた ”それ” が一体何を意味しているのか、その時のリグルには全く理解ができなかった。


 「……分かったよ、また明日も来るから。その子大切にしてあげてね」


 「死なない程度には大切にしてあげるから安心して良いよ」
 「なんか全然安心できないっ!? 危ないと思ったら逃げていいからね!!」
 「冗談よ。丁度お話の聞き役が欲しかったの。知っている? この子とても聞き上手なのよ」
 「……………………あはは、知らなかったよ。帰ってきたら色んなお話を聞かせて貰おうかな」


 何年振りだろうか。
 こんな風に妖蟲以外と話をして自然な笑みを零せたのは。
 苦笑と愛想笑いに凝りきった顔の筋肉が解れる事を確かに感じる。


 「それじゃ、さようなら、理沙」
 「ええ。 ”またね” 、リグル」


 初夏の夕暮。
 振り返った窓から覗く裏路地は空に浮かぶ巨大な陽に照らされ、どこまでもどこまでも赤く照らし出されていた。













▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


 「どうした、そんなニヤケ面をして。何か良い事でも起こったのか?」
 「べっつにぃー。凄―く、嫌みな奴と知り合いになって散々だっただけよ」
 「そうか、……まぁ、気にし過ぎるなよ」


 ぴこり、ぴこりと触角を揺らし抗議の声を上げるリグル。
 右へ左へ揺れる黒の枝は、月の光に反射する度に妖しく輝く。
 もぞもぞと簡素な寝巻へと着替えたリグルは、ふてくされる様に大鋸屑の山へと潜り込む。
 山の端から飛び出た薄羽をふるふると左右に振りながら収まりの良い場所を探り出す。
 身を丸くして眠る体勢に入るリグルを、妖老蟲は唯々黙って見つめる。


 「…………」


 間もなくして聞こえ出す静かな寝息に、緩やかに上下する大鋸屑の山。
 定位置となっている洞の縁に腰掛ける老妖蟲は、大きく一息を着くとその眼に慈しみを灯らせた。


 (知っているぞ。お前は機嫌が良い時、 ”触角が左右に触れる” のだ……)


 老妖蟲はぼりぼりと頭を掻くとそのまま夜空を仰ぎ見る。
 一五夜の月は何時もと変わらず明るく地を照らし、流れる雲はいつもと変わりなく優雅である。
 暫しそれに身を委ねその流れを観測し続ける。
 月に掛かる雲が森に暫しの闇を取り戻し、闇夜に北極星が浮き上がった。










▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


 「んーんぅぁ~」


 翌日の人里。
 道の中央に立つリグルは、こきりこきりと小気味の良い音を立てながら深く深く息を吸い込み肺の奥まで空気を満たして行く。
 肺に満たされるのは、夜の間に凝結した空中の水分によって塵が除かれた清涼な空気。
 清涼な水が何よりのごちそうとなる蛍にとってはこれ以上ない物である。


 吹き込む風に捲り上がったシャツの裾から入り込む風が、ひやりとした清涼感を届ける。
 昨日と変わらぬ快晴の空によって滲んだ汗が、風によって蒸発したちまちの内に熱を奪っていった。
 朝の人里へ清々しく吹き込むそれは、昨日と変わらぬ快晴の空をより一層引き立てていた。


 人里への侵入自体は昨日よりもずっと容易であった。
 適当な偽名と、僅かばかりを袖の下に捻じ込めば大抵の人間は文句を言ってこない。
 それが、昨日の人里への侵入で学んだ一番のコツである。
 因みにお金は、魔法の森で行き倒れた人間の荷物を漁って手に入れた物だ。


 リグルは霧雨道具店へと向かう通りを歩く。
 時刻は午前。昼までには少し時間のあるこの時、通りは昨日と同じく朝の活力に満ちていた。


 通りの両脇に並ぶ屋台は昨日と同じ顔ぶれの様で微妙に異なる。
 昨日浮世絵を売っていた屋台には、色取り取りの出目金が桶内を優雅に泳ぎ、涼を演出する。
 昨日大福を売っていた屋台が今日売っているのは氷菓。氷室から取り出した貴重な氷塊を削り甘い蜜を掛けた物を氷饅頭として売り出していた。


 (……じゅるり)


 無意識に口の端から流れ出た物を袖で拭う。清流をそのまま静止させたかのような氷と、甘い蜜の香りにリグルは思わず胃を蠕動させるが、随分と寂しくなった懐にそれを買う余裕は無かった。
 精巧な細工が施された髪留を売る店、出来たての豆腐を売る店、蝋燭を売る店。その他にも様々な店が道脇に並ぶ。


 通りの向こう側で親子連れが仲睦まじく駄菓子を選んでいる。
 中年の婦人が豆腐職人と談笑しながらも、僅かでも値切ろうと裏で必死の交渉を行っている。
 子供たちが駄菓子屋の隣でベイゴマに興じている。ガキ大将らしき体格の良い子供のコマが盤の外に弾き飛ばされ、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
 その何れの店にも幾人かの人が脚を止め何事かを楽しげに話している。


 昨日までの自分であれば人間同士の交流に対してなど、他人事としか感じ無かっただろう。
 だが今日は違う。昨日からは決定的に異なる。
 昨日出会った少女、あの不思議な少女の事を思うと不思議と寂しいと言う感情が湧きあがって来た。
 自分は今から理沙に会いに行くのだ。 ”望まれて” 理沙に会いに行くのだ
 そう考えると自然にその足取りは軽くなっていった。


 その時だった。吸い込まれるように視線がある一点へと誘導される。
 その先に会ったのは巨大な空き地。メインストリート沿いの一等地にも関わらず何も建物が無く、建材すら積まれていない。
 両隣りには大きな酒屋と商店が軒を連ね、背後には酒蔵が立ち並んでいる。
 避ける様に建物が建てられているとも見えかねないそれは、 ”無” があるとしか形容しようの無い状況だった。
 まばらに雑草が生えるだけの(崩れ落ちた祠の瓦礫が散乱する)、場所に人っ子一人居はしない(折り重なるように人が倒れている)。


 ――ジ……ジジジッ…


 (また……、この感覚は……?)


 通り過ぎた荷車の上げる土煙りが(真っ赤に広がる血煙りが)視界を遮る。
 真っ赤な霧を突き破って巨大な鎌がまた一人男を引き裂く。
 たぱぱと、宙に舞った紅は砂に混じり、たちまち黒く濁り風に流され消えて行く。


 刹那。広がる閃光。ホワイトアウトする視界。
 視界が戻った時に眼に映ったのは男を切り裂いた鎌の持ち主が四散する光景。
 ぎらぎらと禍々しく輝く鎌も、三角形の鋭い頭も、長い脚もバラバラに周囲に散り、青の体液を撒き散らす躯と化している。
 地面に転がる妖蟲だった頭部が発するのは、戦慄する程の怨念を滾らせた視線。
 自らを散らせた閃光の犯人を射殺さんと、その身に残る全てを籠めて妖弾を放った。


 男へと殺到する呪いの籠った妖弾。
 しかし、それは男に到達する前に何かに阻まれ空中に搔き消えてしまった。
 全てを賭しても傷一つ付けられなかった無念、己の無力さに嘆き、涙を零しながら妖蟲は事切れる。


 男と妖弾の間を遮るように存在したのはどうしようもなく神々しく、そして傲慢なまでに強固な光の壁。
 崩れ落ちた祠を囲うように四人の和装に烏帽子を付けた男たちが陣を構成しそれを阻んだのだ。
 男達により構築された陣は崩れた祠を中心に里を分断し、 ”侵入者” の侵攻を阻む防壁として機能していた。


 陣を切り崩そうと術者を狙う蟲達に、護衛する兵達。
 術者へ飛ぶ斬撃をその身を四散させる事で喰い止める兵士に、術者の放つ霊撃で次々と爆散する蟲達。


 そしてまた、蟲の集合体に符が直撃し真っ青な体液が一面に降り注ぐ。
 それは自らの顔に降りかかりその視界は青に染まり――。






 「あうぅ……」
 「………………」


 何時に無く鮮明に浮かんだその光景に思わず頭を抱えその場にうずくまる。
 息を荒げて、必死に吐き気を堪えるリグルに、懐から這い出た老妖蟲はしかし何を言う事もせず暫し無言でその背中を撫でさすり続けていた。


 「……うん、……ありがとう。もう大丈夫……」
 「……そうか」


 「最近……たまに ”視る” んだ。ここ数週間かな……」
 「……疲れているんだろう。恐らく。今日は早く帰って休め」
 「理沙に会ったらそうするよ。……ありがとう」


 気持ちを切り替える様に明るく言ったリグルは、勢い良く立ち上がり肩に乗る老妖蟲を懐に突っ込んだ。








 「何度見ても大きなお店だなぁ……」
 「そうだな。ここがその娘が居ると言う店か?」
 「ちょっと……まだ、出てこないでよ。見られたら面倒だから」
 「少し位は良いだろう。――おい、まて、うごっ」


 胸元から出てきた老妖蟲を服の中へ再び押し込める。
 懐から聞こえるくぐもった抗議の声を無視し顔を上げると目前にその建物が現れる。


 正門から続く中央通り(メインストリート)を暫し歩き東西に里を割る通りに交差した所に立つその建物。
 角地に立つ大きな道具店、霧雨道具店。
 昨日は気付かなかったが、そこに集うのは実に多彩な人々。
 一般庶民らしき、夫人や若者から身なりの良い富裕層まで。
 数多くの人が店頭に並べられた色取り取りの商品に群がっていた。


 「ま……、まぁ、私には縁の無い物ばかりだよね……」
 「その割には目が釘付けだな。――ふがっ」


 リグルの目線の先に有るのは髪留めやリボン等の女性向け装身具。
 一般庶民向けに創られたそれはシンプルながらも趣向を凝らした細工が施されどれも魅力的に輝いている。
 年頃の少女であるリグルも興味が無い訳ではない。
 だが、懐と現在の状況を重ね合わせるとその思いはぐっと堪え顔を赤く染めながら老妖蟲を再び懐へと押しこんだ。


 理沙の居る裏手へ回ろうと店の前を通ると、店員らしき装束を纏った人物が視界を横切る。
 だれも同じ霧雨道具店の屋号の入った前掛けを付けている事から店員なのだろう。


 客からの質問に答え商品を説明する者、会計に追われる者、商品を陳列する者
 誰もが忙しなく動き回る店内。
 だが、 ”その気配” には店の直前を通るまで微塵も気付く事はできなかった。
 それはあまりに微弱な気配。だから、店の商品棚が眼と鼻の先、道路に向かって張り出したひさしの下に足を踏み入れるまで気付く事は無かった。
 脚元から立ち上る鼻の奥を鈍く麻痺させるような重金属の匂い、鉄臭いその気配の正体をリグルは確かに知っている。
 それは魔法の森に最近やって来た迷惑者で、変人な ”あの人物” と同種の匂い。


 (魔術的な回路の気配……? しかもこれ、道具なんかじゃない。本物の魔法使いのもの?)
 (だとしたら、なんで魔術使いが人里なんかに……)


 人里は魔法使いにとって ”住みやすい場所では無い” 。それがリグルの認識だった。
 思わず足を止めてしまうリグル。


 「んー……、ま、人間にも色々あるだろうし」


 脳裏を過ぎった違和感を呑みこみそのまま店頭を素通りする。
 不用意に他者の問題には首を突っ込まない事、それがリグルの処世術。
 現状の妖蟲に対する扱いへの対処に取り得る、数少ない自衛手段である。


 店と隣家の間にある薄暗い路地を通り裏手に出ると、昨日と同じ静かな居住区に出る。
 路地から見える窓際から頭を覗かせるのは昨日と同じ少女。
 相手は見えないが何事かを話しているようである。
 おおよその予想は着くが、少々の悪戯心が芽生えたリグルはその窓際までこそりと這い寄った。
 そっと耳を壁に付けるとその会話を盗み聞く。




 「――でねー、 ”あるじさま” っていがいに泣き蟲でねー。おどろいたりなんかすると――」
 「――、意外。もっとクールな感じの子だと思っていた。意外と――」




 聞きなれない少年の様な声と、少女の声。
 だがそれ以前に鼻の先がむずむずする。それは気恥かしさが極まった時に特有の感覚。
 それもその筈、話の内容に心当たりが多”過ぎる”のだ。
 それは心当たりと言ったレベルで ”すらない” 、己の記憶と記録の近傍を余さず掠めて行くといっても過言ではない。
 予想は間をおかずに確信へ、ぎりぎりと腕の筋肉が急速に収縮して行くのが自分でもはっきりと認識できた。


 「その時の眼を真っ赤にした ”あるじさま” はほんとに可愛くてね、――」
 「おいっ?! ちょっとまてや?!」


 ついに、我慢ならず飛び出すリグル。
 その方で息をする闖入者をベッドの上の二人は眼を点にして見つめていた。


 「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」
 「あら、リグルいらっしゃい。思ったより早かったね」
 「あっ、 ”あるじさま” !! いらっしゃーい!」
 「何が”いらっしゃーい”よ!! 人が居ないからって好き勝手!! って言うか、あんた人語喋れたの!?」
 「んーん。昨日いっぱい理沙がお話してくれたからおぼえた」
 「お話が思ったより楽しくって、つい教えちゃった」


 首を振る蚰蜒(ゲジゲジ)を良く見れば心なしか昨日よりも一回り大きく。そして、動作が人間染みている。
 己が蟲の範囲を脱しつつある事を自覚した事で一足飛びに変化が進んだのだろう。
 冷静に分析する自分と赤に染まる頬の二つの自分に揺れ動く頭はしかし、間もなく冷静に傾き何かを誤魔化すに様に頬を掌で覆いながらリグルはぼやくのだった。


 「私はあんまり妖怪化してほしくないんだけどなぁ……」
 「そうですか? 僕は色んなお話ができる今の方が楽しいけど」
 「その内分かるわよ。蟲の方が絶対に気楽なんだから……」
 「まぁ、遅かれ早かれそうなっていただろうよ。元から変化しかかっていた者だ」


 何時の間にやら肩へと移動していた老妖蟲が相槌を挟む。
 突然蟲が話し出すと言うのは、十分に非日常の範疇の筈である。
 だがしかし、理沙はと見れば特段驚いた様子もなく平然としている。
 目前の幼い妖蟲のお陰で耐性が出来ているのであろう。


 「まぁ、それもそうね。理沙、こいつ何か迷惑かけなかった?」
 「全然。昨日の貴方よりずーーっと大人しくて良い子だったわよ」
 「さわがしくさせたのは何処の誰よ?!」


 「知らないわ。だよねー?」
 「ねー!」


 示し合わせたかのように向かい合い首を傾げ合う二人。


 「むー……」


 一晩でなんともまぁ良く打ちとけた物だと感心するが、口には出さない。
 それを口にするのは少し ”負けた” 気がするからだ。もっとも、 ”何” に負けたのかなどリグル自身にすら分かりはしないのだが。
 せめてもの抵抗とリグルは拗ねたに様に頬を着き、口を尖らせた。


 「でもまぁ……、ありがとね。この子と色々お話できて楽しかった。あなたなんでしょ? この子をこの部屋に連れて来たのって」
 「……え? 何の事。私は迎えに来ただけだったんだけど」
 「そうなの? 全然出て行こうとしないから、何か用があるのかと思ったんだけど気のせいだったのかな」
 「大方迷い込みはしたが帰りの道が分からんかったんだろう。当人に聞いてみねば分かる筈もないがな」


 その本人はと言えば呆けた顔で首を傾げるばかりであるから真相など分かりはしない。


 「色んなお話聞けたしねー? ねー ”泣き蟲” 陛下さま?」
 「わーッ!! わーッ!! 忘れてッッ!! その話一生忘れてッ!! お願いだからッ!!」


 「んー。…………やだ」
 「――!!!???!!!」



 姦しい部屋の中、他愛もない会話で時間はあっという間に過ぎて行く。
 楽しかった。純粋に楽しかった。裏表を使い分ける必要もない。話の裏を考える必要もない。
 ただ、大きな理由も無く傍に居られるこの空間と時間がどうしようもなく嬉しかった。
 可能ならばずっとこの関係が続けば良いとすらリグルは思っていた。








 そんな心境だったから、リグルはその足音に気付く事が出来なかった。


 普段のリグルなら気付いていただろう。妖蟲の聴覚は人間のそれよりは遥かに優れている。
 しかし、 "今日は” 気付く事ができなかった。久々の楽しいひと時が周囲に対する警戒を疎かにさせていた。






 だから、リグルがその気配に気づいたのは”彼女”が戸に手を掛けた時だった。






 「お嬢様、お昼をお持ちしま……?! 妖怪っ?!」


 盆が床に落ち、陶器が砕け散る音。
 塩を軽く振られた焼き魚は無残に床板へ散らばり、吸い物だった泥の水が木片に染みを広げて行く。


 「ッッ?! ――あの、これは違うのッ! 落ち着いて!」
 「……ぅ、……ぁ、……来ないでッ……!!」


 怯えきった瞳が見つめる先に居るのは蛍の少女。
 頭から覗く黒く長い触角も、外套から出た薄く美しい羽も、それら全てが彼女が人間でない事を主張する。
 必死で呼び掛ける理沙の声は空しく部屋に響くのみ。


 陽光の差し込む室内から、薄暗く影の刺した廊下へ、一歩、また一歩と廊下へ向けて後じさる。
 廊下へと後退した女中と思しき女性は階下へ転がり落ちる様に降りて行った。
 残された部屋に漂う重い沈黙。間もなく、あの女性は家人をつれてこの部屋へ戻ってくるだろう。


 そうすれば全ては終わり。
 自らは咎を受け、二度とこの家に近づく事は叶わない。


 ――二度と目前の少女と笑いながら言葉を交わす事は無い。


 幼き少女と何も知らぬ蟲は顔を青ざめさせ、老いた蟲は打開策を打ち出そうと頭を捻る。
 そして未熟な王は唯只管にその眼をぐるぐると回し虚ろな表情を浮かべ続けていた。


 「おい。リグル、私の声が聞こえるか?」




 ――嫌な予感を感じ取れたのは周りを見る余裕を保っていたから。
 ――対処法を知っていたのは付き合いが長かったから。




 「リグル……、お前は今 ”恐がって良い” 。当然の事だ。恐がって漏らしても構わない。笑いはしない。だから、――まずは一度だけ深呼吸をするんだ」
 「し、……しんこきゅ……う?」


 部屋に響くのは何処までも何処までも落ち着いた低い声。低音は下腹部に響きそのざわつきを治める。
 だが、リグルにとって ”それ” はただ ”それ” だけの意味を持った物ではない


 酷く懐かしい感覚。
 記憶と意識の深層。心のもっとも深い部分へ直接語りかける音が、混迷とした意識の渦に干渉しその波を鎮める。それには理屈などと言う、合理的で具体的な物を介してはいない。
 あるのはただ、純粋な懐かしさ。赤子が揺り籠の中で聞く子守唄のそれと言っても良い。


 「そうだ、良い子だ。そうしたら、今を認識するんだ。対応なんて考えなくて良い。――ただ今何が起こっているかだけを考えるんだ」
 「……うん、…………」


 「そうすれば分かるだろう? お前が ”思っている程絶望的ではない” し、楽観できる程の ”余裕も無い” 筈だ」
 「理沙……の家の人に見つかって、……人を呼ばれて……、妖しい人物だと思われている……」
 「そうだ。その通りだ。私達は不審者として認識されているが、顔を見られている。このまま逃げ出すのは後々まずい上、そこの女子とも二度と会えぬだろうな。ではどうすれば良いと思う?」
 「ちゃんと……、説明して、分かって……貰う」
 「……良い顔だな。そうだ、堂々としていろ。お前はただそれだけで良い」


 「うん」と子供の様に唯一つ返事をして鼻をすするリグル。
 ほんの少しだけ表情が解れ穏やかな物がそこには戻っていた。




 その様子を理沙は ”戸惑いの瞳” で見つめていた。








 階下で俄かに広がる人の気配。
 最初は一つだった足音は一人、また一人と増え此方へと向かって来る事がはっきりと感じられた。
 そして間もなく、その足音は部屋へと到着する。




 「動くな、不審者。下手に動けば容赦なく調伏する」




 目の前に現れたのは店頭で客に人の良い笑顔を見せていた青年、そしてその後方に店主らしき恰幅の良い男性と先ほどの女中。
 青年はその手に幾枚もの術符を構え、リグルに対峙する。
 その身から感じる気配は、予想を遥かに超える程に ”洗練された” 物、忌々しい程に清浄な気が手元の符からは立ち昇っていた。


 「此処には迷い込んだ仲間を迎えに来た。私は蛍の妖蟲だ、人を傷つけるような能力は持っていないし、その意思もない」


 半分は事実で半分は嘘。
  “蛍の妖蟲” 自体に攻撃能力は無いが、 ”リグル” が持つ能力は蛍と言う種に依存しない。
 だが極めて落ち着いた、ゆっくりとした口調でリグルはそう言い切った。


 「妖蟲……、だと……」


 男の眼がぎらりと光る。
 その目線はリグルの触角、そして外套からちらりと覗く薄い羽へと動いていく。
 次の瞬間に男の眼に灯ったのは ”怒り” 。それは恐怖や不信感と言った感情を塗りつぶす程では無い。
 だがしかし、あらゆる感情の裏に ”それ” は確かに強く、そして吐き気を催す程に深く深く根ざしていた。


 「爪と牙を持たぬから戦う意思は無いと? 妖怪と言う物はそもそも妖力の塊ではないか。 ”信管” の無い程度で不戦の証明にはならない。大方、慧音先生の倒れている隙を狙って悪さをしに来たのだろう?」
 「それは誤解だ。私達は蟲を母体とした存在。妖力は長い年月を生きる過程で最低限を得ているに過ぎない。そもそも私達に人里をどうこうする程の力は無いし、その意思も無い」
 「どの口で物を言う。妖怪の言う事を信じろと? 御阿礼(みあれ)の子が生まれたばかりの今、妖怪が里に忍び込む理由など腐るほどあろう。卑しい妖蟲の考えそうな事だ。信用しろと言うならば証拠を示せ。何故忍び込むような真似をしたのか合理的な説明をして見せろ」
 「ぐ……、それは………………無駄な騒動を――」


 唯一の落ち度を突かれ思わず臍(ほぞ)を噛む。
 確かに無駄な騒動を避けると言う名目で家人との交渉を行わなかったのはリグルの怠慢である。
 これはどうあがいても言い訳の出来ない事実。
 だから言い淀んでしまった。リグルが普段から口先で生きて居ればあるいは、切り抜けられたのかもしれない。
 だが十割の完全な嘘を吐くにはリグルは正直過ぎた。


 傍目にも分かる程動揺した様子を見せてしまったリグルと、顔が険しくなる男。
 そのいつ決壊してもおかしくない張り詰めた空気を破ったのは、最も意外な人物、――理沙の声だった。


 「――待ちなさい。この子を中に入れたのは私よ」


 「……それは、一体どういう事ですか?」
 「私が家の中に招いたからその子は此処に居る。文字どおりの意味よ」
 「いえ、そうではなく、何故中に招いたのかを聞いています。妖怪を中に入れれば家人がどんな反応をするかなど貴女が ”知らない筈が無い” 」
 「 ”知らない” 妖怪が、でしょう?」
 「 ”あの男” は別です。ご主人の縁者からの頼みで此処に居る」
 「ならば問題ないわね。この子は此処に居るべきだから此処に居るのよ」
 「どういう意味ですか?」




 「この子は今から私専属の ”女中” にする」




 「「はっ?!」」


 リグルの間の抜けた声と、男の素っ頓狂な声が重なる。


 (ちょっ、理沙ッ! 何言ってんの?!)
 (良いから! 話を合わせて!)




 「私が昔、里の外に用事で出た時に道に迷ったのは覚えている?」
 「妖怪の山麓の、集落への仕入れに御同行された時のお話ですか? 確かに道中お嬢様の姿が消えて騒ぎになりましたね、ですが、その事と何か関係があるのですか?」
 「私が一人で ”戻れる筈が無い” でしょう? 私は一瞬皆と離れた隙に妖怪に攫われていたのよ」
 「はっ?!」
 「皆に言えば二度と、同行させて貰えなくなると思った。だから何も言わなかった。無事に戻れたのは助けてくれた妖怪が居たからよ。そこまで言えば、私が何を言いたいのか分かるわよね?」
 「――その時に、お嬢様を助けたのがそこの妖蟲であると?」
 「その通り。妖怪に襲われ食べられる寸前だった私を助け、皆の所まで送り届けてくれた。これは、この子が安全である事のこの上ない証拠になる筈よ」




 「その話が本当である根拠は――」
 「待て……、そこの妖蟲。名前は何と言う」




 若い男の後方から低く荘厳な声が掛けられる。
 それまで沈黙を保っていた、壮年の男がその重い口を開いていた。
 恰幅の良い体格に、若者と同じ商売着ながら丁寧な衣装の施された上質の被覆。
 間違い無くこの男性が霧雨道具店の主人なのだろう。


 「……グーバ。フライ・グーバ」
 「そうか。グーバ、今の話は本当か?」


 「………………」
 (リグル!! 話を合わせて!! リグル!!)


 必死に眼で訴える理沙。
 その間もリグルの瞳を見据える霧雨の主人は微動だにせず、強く強くその視線をリグルに向けて突き付けていた。
 視線に込められたあまりに強い意志。
 その視線を真正面から受け止め続けるリグルは、泣きそうな顔をしていたのかもしれない、情けない顔をしていたのかもしれない。


 心が挫けそうになる中、それでもその真っ黒な瞳だけは閉じられる事なく重き視線と向き合い続けていた。
 その時間は数十秒だったかもしれないし、数分間だったかもしれない。
 永遠とも思える重苦しい時間の果てに、男は先ほどまでと変わらぬ低く落ち着いた声でリグルに答えた。


 「そうか……。分かった……。何も言いはしない。お転婆で我儘な娘だが宜しく頼む。多くは払えないが給金も出そう」


 「親父さん?!」
 「お父さま!!」


 「親父さん、何を言い出すんですか!! 慧音先生が伏せっておられる今、里で何か起きれば誰が対処してくれるのです? 博麗の巫女はお歳で、もはや迅速な対応は望めないのですよ?!」
 「分かっている。その上での話だ……、理沙」
 「はい」
 「 ”何か” が起こればその者は早急に ”処分” される。お前の責任でな。束縛は責任からの解放であり自由は責任への回帰に過ぎない。その事を努々忘れるな」
 「……分かっています。何も起こりはしません」
 「ならば良い。おい、お前達仕事に戻るぞ。お客様をこれ以上待たせる訳にはいかない」


 途方もなく重い眼光に一貫して変わる事の無い低く厳かなその口調。
 部屋を出る最後の瞬間まで終えさせる事無く、来た時と異なるゆっくりとした歩みで階下へと降りていった。
 「待って下さい」そんな若者の声が遠ざかり、そして、足音が完全に離れた時になってようやく部屋中の張り詰めた空気が一気に崩壊する。




 「「ぷっは~。こわかったぁー……」」




 ぶわりと、体中から汗が噴き出るような感覚。それはまるで、今まで忘れていた夏の暑さが今この瞬間に纏めて襲いかかっているかのようだった。
 二人揃ってベッドへ倒れ込み、四肢を柔らかな布地の上へと投げだす。
 冷たい羽毛が体温を吸い取りひやりとした感覚が体を至福へと導いた。


 「でも、何? あの女中って? 何で私あなたのお手伝いさんする事になってんの?!」
 「良いじゃない? 私基本的に外出ないから、朝の身支度と簡単な掃除位しか仕事無いと思うよ」
 「そうじゃなくってさぁ、――」


 わかってるよ。そんな軽い口調で彼女はリグルの声を遮った。
 それは、今まで聞いたどの声よりも優しく、そして若干上ずった様な、気恥ずかしさが籠もった物。




 「だって、そうでもしなきゃ、また貴女に会えないじゃない?」
 「――――――――?!」




 顔が耳たぶまで真っ赤に染まる事をリグルは感じる。
  “また” だ、またこの子は自分などと会いたいと言ってくれた。自分を妖蟲と知り、現状を知った上でも会いたいと変わらず言ってくれた。


 駄目だった。何となく気恥ずかしくて、かっこ悪いと思われる様な気がして、ほんの少しだけ ”それ” を我慢して見ようと思ったけどやっぱり無理だった。
 今度こそ込み上がってくる涙をこらえきる事は出来ず目元に涙溜まりが広がって行く。


 「……っ、……その……、ありがとう……、後ごめん、そんなに気を使わせて……」
 「良いよ、でも良かった。リグルもそう思っていてくれて、 ”本当に” 良かった……」


 普段は捻くれた言動をする割に時折見せるこの危うい程の素直さ。
 やはり、理沙も年相応の少女なのだ。だから自分がこの子の傍に居るのなら最低限、この子を危険に巻き込む事があってはいけない。悲しみを背負わせるような事があってはいけない。あるべきではない。
 だから、絶対に守ろう。何があってもこの子の為なら謹んで耐えよう。そうリグルは心の中でそう固く、固く誓っていた。








▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


 里の有力者、霧雨道具店。
 その主人である霧雨の権力は絶大であった。
 妖怪である事を隠さずとも、渡された手形を見せるだけで殆どの者は退いて行く。


 女中と言う名目で毎日出入りしているが、実態は朝限定の理沙専属の世話係に近い。
 それも、簡単な身支度から部屋の掃除等時間のかからない物であるから、自然二人は部屋でとりとめのない話に精をだす事になる。


 何事も無く平坦な、それでいてどこか落ち着く日々。
 それは、特別大きな喜びがあった訳ではないが、何よりも貴重で掛け替えのないと物であると感じていた。


 時の流れとは主観的な物。辛い時は永劫にも感じ、楽しい期間は瞬く間に過ぎる。
 それは、リグルが霧雨の家に出入りするようになって数週間が経ったある日。
 夏の暑さが和らぎを見せ、朝夕の風に秋の薫りが混じり始めたある日の事。




 一つの事実がリグルの目前に立ちはだかる。














 「ねぇ、理沙。ちょっと里にお使いを頼まれたのだけど、一緒に行かない?」
 「はぁ? 何で私が貴女と一緒に行くの?」


 頂点からほんの少しばかり傾き始めた太陽が、晩夏とは言えまだまだ強い日差しを照りつける。
 しっとりと汗ばむ様な陽気の中、うちわ片手に机に向かっていた理沙の背にリグルはごく自然を装って話しかけた。


 「いや、別に理由なんてないけど……、偶には外に出た方が良いんじゃない?」
 「……部屋の中が好きなの。私の人生なんだから、別にどうしようと私の勝手でしょう?」
 「……もやし」
 「あら、日光に当たるのが健康的何て誰が決めてのかしら?」
 「私を見て――」
 「いや、あんた如何にもよわっちそうじゃない」
 「人を見た目で判断しないでよ……、私この里の中に詳しく無いの。道案内のつもりで着いて来てれない?」
 「…………仕方ないなぁ。何処よ、お使いに行くのって?」
 「ありがとう。此処。確か、こ……、小兎家とか、なんとか言う所に行って来いって」
 「……なんでわざわざ、あの変人の家にリグル向かわせるのよ。馬鹿じゃないの……」
 「……?」
 「気にしないで、行こう。少なくとも悪い人では無いから」


 手を引っ張られて部屋から出て行こうとする理沙の背中をリグルは、新鮮な気持ちで見つめていた。
 今日ほんの少し、強引にでも理沙を連れ出そうとしたのは、当然地理に詳しくないと言う事もあるが、それ以上に理沙と外に出かけてみたかったからと言うのが大きい。
 引きこもりと言っても過言ではないレベルで部屋から出ようとしない理沙をリグルは内心、気遣っていた。
 そんなリグルの内心を知ってか知らずか。理沙はリグルの手をしっかりと握り、寄り添う様にして、外を歩いていた。


 「小兎家の駐在所は実の所里のあちこちにあるの。手紙を届ける位なら、近くの駐在さんに任せましょう」
 「うん。そしたら、帰りにさ、ちょっとおやつでも買いに行かない?」
 「良いわよ。……でもリグルって、お金持っているの?」
 「実はお昼代はご主人から何時も貰っているんだ。おやつ位どうって事無いわよ」


 じゃらり、じゃらりと巾着袋を手元に揺らす。
 金属の触れ合う音が出る度に、ずしりとした小銭の重みが手に伝わって来た。


 「うわ……、ほんとだ。下手したら私より持っているんじゃないの?」
 「ま、基本使わないから溜まるばっかりだしね」
 「だったら、少し奢って貰おうかな? 早く用事をすませましょ。この先の角を曲った所に確かあった筈よ」


 曲がり角の先に、白い屋根の平屋建て家屋が覗く。
 角を曲った時に眼に入ったのは、制服らしき洋装をした女性が午後の陽気に大きな欠伸を返している様子だった。
 理沙を視界に入れ姿勢を正したその女性に軽く会釈をすると、理沙は預かっていた手紙を渡しその場を後にした。




 「……もしかして、理沙って物凄いお嬢様?」
 「まぁ、腐ってもね……。でもそんな大したものじゃない。ただ、 ”ウチ” が有名なだけ。良くも悪くもね……」
 「……?」


 自重する様なその口調に、物悲しいその表情にリグルは一抹の不安を覚える。
 そして、その背後から掛けられた声は皮肉にもそれを裏付けるような物だった。


 「よぉ、 ”魔女の子供” 。こんな昼間に外に出て大丈夫なのか? 融けたりしないのか?」


 それは、声ばかりを迎えたばかりの様な不安定な低音。
 つんつるてんの麻の浴衣を着た男児の三人組だった。
 内最も、体格の良い男児がからかう様な笑みを浮かべて理沙へと詰め寄っている。


 「ふざけんな。私はそんなんじゃない……」
 「じゃぁ、何なんだよ? お前が居るとな、皆不安になるんだよ。とっとと、家に籠もって研究でもしてろよ、 ”魔女” 」
 「だから! 私は魔女じゃな――」


 無言で、理沙の前に出る人影があった。
 漂って来る土の香りと緑色のそのシルエットは紛れも無くリグルの物。
 リグルは、頭一つ大きいその男児を出来る限り鋭くした瞳で睨みつけていた。


 「理沙は私の友達。傷つけるのは許さない」
 「はぁ、誰だお前?」
 「グーバ、妖蟲よ。理沙の使用人をやっている」
 「 ”妖蟲” に “魔女” か。嫌われ者同士お似合いな事だな。……傷のなめ合いか?」
 「それは、貴女には関係無い。さぁ、さっさとどっかへ行って。さもないと、」
 「どうなるって? 荒事を起こす気か? 里の中で?」
 「ううん。そんな事する必要なんてないよ。ほら、人間なんてちょっとこうするだけでさ……」


 いつの間にか少年の草鞋の上を、百足が這う。
 掌ほどのサイズはあるだろうか、自在にうねる脚と体を指の間に撒き付ける様にして進むそれに少年は、すっかり青ざめた表情を浮かべていた。
 脚の上に纏わりつく百足を放り出し、一目散に逃げ出す少年たち。
 後に残されたリグルはくすくすと悪戯っぽい笑みを浮かべその背中を眺めて居たが、理沙は相変わらず俯いたままだった。










 「魔法使いが人里で忌避されているのは知っていたけど……、まさか、関係無い理沙にまで言いがかりを付けるなんて……、とんでもない奴ね」
 「…………」
 「私の経験からして、あーいうのは無視するに限るよ。相手にしていたら付け上げるから」
 「…………」
 「……理沙。私は聞かないよ。だって、理沙は私の事を何も聞かずに仲良くしてくれる。誰にだって聞かれたくない事情の一つ二つはある。……でも、もしも一つだけでも、ほんの少しだけでも教えてくれるのなら。私は、貴女の力になる。約束する」


 理沙は相変わらず、リグルの事を見ようとしない。
 俯いたままのその表情を伺い知る事はできない。
 ただ、何か己の内から溢れる物を堪えようとしている事だけはリグルにも伝わって来た。


 「リグルは……、ウチの……、霧雨家の事をどこまで知っている?」


 ぽつりと、出た声は酷く平坦で、ともすれば聞き逃しかねない程小さな声。


 「え、うん……、里一番の道具屋で、ご主人は里の重役だから、割と名家なのかなとは思っていたけど……」
 「確かにそれも一つの要素。でも、もっと決定的なの事は私達の過去にある。私達は里に魔術を取り込んだ第一人者なのよ。そして、 ”魔術の危険性を植え付けた” 当事者でもある」
 「…………」


 人里の中で魔術の研究が禁じられている事は有名な話だ。
 魔法の研究には重金属を始めとする数多くの有害物質が多量に使われるからだ。
 幻想郷でも魔法使いはそれほど多く無い、リグルの知っている限りでは、湖の脇の悪魔の館に一人、森に一人、ただその二人だけ。


 「私の母はね……、 ”魔法使い” だった。そして研究にのめり込んだ結果、 ”気を違えて” しまった、その結果 ”討伐” された。何があったかは聞かないで欲しい……」
 「うん……、聞かない」


 明言はしなかったが、その理沙の表情から予想はできる。
 恐らくは、人間の間で最も忌避される部類に入る事象、禁忌とも言える邪法に手を出したのだろう。
 昔その様な事が人里で起こったのは、風のうわさで聞いた事がある。








 「あのさ……、理沙。今夜、暇?」
 「何を突然……、まぁ、何か用事がある訳じゃないけど……」
 「ちょっと……、里の外に出てみない?」
 「え……」












 夕刻の人里、少女の部屋。
 整然と立ち並ぶ民家と淡く広がる雲の隙間に落陽が顔を覗かせる。
 今にも消え去らんとする陽の残照が少女の白磁の如き肌を朱に染め上げていた。


 一日の終わりを告げる光景に童達は別れの言葉を交わし合い、職人たちは晩酌の相談を始める。
 少女がそんな混沌としながらも生命の輝きに満ちた里の喧騒に静かに耳を傾けていると、かさりと枯れ枝がこすれ合うような軽い音を立てて何者かが窓辺に降り立った。


 「やぁ、お嬢さん。お迎えに上がりました」


 耳に良く馴染む振動に、違和感を多分に含んだ口調。
 いつも身につけている白いシャツの上には紺色(ミッドナイトブルー)のジャケット。
 前合わせはウェストのあたりまでだが、その後部は蛍の外翼のように二つに割れて長く伸びる。
 それはいわゆる ”燕尾服” と人里で呼ばれる礼装に近い物、リグルにとっては ”先代より譲り受けた” 一張羅である。


 それは、背中に穴やあちこちにほつれはあるが、大切に保存されている物である事は見てとれる。


 優雅に、と言うには少しばかり不器用が過ぎる動作で――着なれない服に違和感を覚えながら――ベッドへと歩みよる。
 その時リグルの胸を満たしていたのは、この”小さな冒険”を少しでも良い形少女に届けたいと言う純粋な願い。
 それは、自らにとって最も大切だと考える人間の友人であるからこそ、外に出る事が楽しいと知って欲しかったからだ。
 夕日を背に抱えたリグルは少女の反応を期待し、口元で笑みを噛み殺していた。


 「あぁ、リグル。いらっしゃい。待っていたわ」


 だがしかし、帰って来たのは、何時もと何一つ変わらない柔らかく穏やかな声。
 それは豪雨と大風の渦中にある心であっても瞬く間に癒すだろう優しい響き。
 ただしそれには、驚きや感嘆と言った感情を見出す事は出来ない。
 僅かばかりに頬に差す朱色は、背後の陽の所為か、渾身の ”格好付け” に触れて貰えなかった羞恥か。
 動揺した心を振り払うように、リグルはベッドの上の少女の腕を取る。


 「話している時間も勿体ない。一応連絡はしといたけど、遅くなり過ぎないように念を押されたからね」
 「焦らなくても用意はできているわよ……。でも、場所も行き方も私は聞いてないんだけど?」
 「場所は着いてのお楽しみ。私の取って置きの場所! そこまでは私が運んであげるから安心してよ」


 言うが早いか、動くが早いか。
 返事すらも待たずにリグルは少女を抱え上げると夕焼けの空に飛び出していく。
 家の者や里の警吏を驚かせぬ様、最初は息を忍ばせゆっくりと。
 鴉と人の見分けすら着かなくなる高さまで、ゆっくりと空を駆け昇って行った。







 少女の頬を仄かに温もりの残る夕暮の風が撫でる。
 下界に見えるのは天へと届かんばかりにそびえ立つ、人と妖怪の領域を隔てる防壁。
 普段通りなら幾人もの警吏が見張り櫓で警戒に当たっているはずだが、上空からではその櫓ですら豆粒ほどにしか見えない。
 次第に落ちて行く陽を追いかけるように二人は空を駆ける。


 壁を越えた先にあるのは、申訳ばかりの街道とただならぬ雰囲気を醸し出す一面の原生林。
 街道沿いの森は僅かばかりに手が加えられ、上空からでもその地面が露出している部分もあるが、それも人里に近い所のみ。


 僅かに人里を離れれば、瞬く間に樹木の密度は濃くなって行き、やがてそれ以外は見えなくなる。
 昏く深い輝きを湛えた海の如き樹海は見渡す限りに広がっていた。
 魔法の森と呼ばれるこの原生林は、低級で分別の無い妖怪が数多く住み着く幻想郷でも屈指の危険地帯である。
 だが、そんな中でも良く見ればぽつりぽつりと、飛び石のように小さな集落が森の中に存在している事が見て取れる。
 魔法の森のみで採れる貴重な薬草や、妖怪の山との取引の為に職人達が小規模な集落を築いているのだ。


 少女がこれまでに視た事が無いと思われる景色達。
 それらを、リグルは時に冗談を交えつつ得意げに説明をしていった。
 少女自身も、商品の取引等でそれらの集落を訪れた事が無い訳ではないが、そのような場所へ行く時には隊商を組むのが普通である。
 自由に見て回れる時間も無かった上、妖怪の視点からの説明は理沙にとっても新鮮でありその話と、空の旅に暫し心を奪われていた。


 「何と言っても、この森で一番気のいい奴は ”木人” ね。殆ど喋る事も動く事も無いから人間は気付かないけど、この森にはあちこちに居るよ。枝を折ったりしない限り襲ってこないから安心して良いと思う。逆に気を着けないといけないのが ”妖獣” とか ”妖獣もどき” 。特に肉食の動物を母体にした奴らは危険よ。分別が無い上に常に腹を空かせているから」
 「うん。分かったわ。それで後、どの位で着くのかしら?」


 あれほど外出に消極的だった割に、意外なほど戸惑いが少ない事にリグルは内心少し驚いていた。
 それだけ信頼されているのだろうか? そんな疑問を胸に浮かべた所で、ふいに森が途切れ目前に巨大な湖が姿を現す。


 「もうすぐだよ。ほら、今見えた」


 湖に近づくにつれて薫るのは、濃厚な森の香り。
 それは雨が降り始めた時に誰しもが嗅いだ事があるだろう、生命の息吹が凝縮された香り。
 その発生源はこの湖の中心部を覆う薄い霧である。
 年間を通して晴れる事の無いその霧は、下界から湖を切り離す境界の如く働きその光景を酷く幻想的にしていた。


 霧の覆う湖と樹海の境界線。
 小さな若木と、切り株が幾つか残る湖の畔へと二人はゆっくりと降り立った。


 「ここが、わたしの ”とっておきの場所” 良い景色でしょ?」
 「……そうね。空気も綺麗だし、静かで……凄く、落ち着くわ」
 「良く晴れた昼間なら、霧の向こうに紅い館が見えるのよ。”例”の吸血鬼達が住んでいるらしいけど近づかなければ大丈夫」
 「五、六年位前だっけ……、 ”あの時” は大変だったなぁ……」


 寂しげな瞳を見せる理沙。
 丁度一年ほど前に起きた、新参吸血鬼による一連の事件の事を思っているのだろう。
 人里に妖怪の山に単身で乗り込み、代表者に一騎打ちを仕掛けた吸血鬼の長が居た事は記憶にも新しい。
 民間への被害は殆どなかった物の、妖怪の恐怖を再認識させるのにその事件は十分過ぎる物だった。


 「んと……、ごめん。嫌な事を思い出させちゃって。でも、昔の事は今の間だけ忘れてさ、今はこの場所を楽しんで欲しいな」


 そう言ってリグルが遠くの景色を見やれば、既に落陽は水平線の彼方に覗くのみ。
 それは黄昏時の終わり、人の世界が終わり妖魔の支配する時が近づく事を意味する。
 暫く黄昏を眺め高揚感に浸っていたリグル、しかしその脇で少女は不安げに周囲を仰ぎ見ていた。


 「ん、ありがとう……そんなに気にしている訳ではないのだけれどね、聞いただけの所が多いし。それはそれとして……と、リグル……。何だか……雨が降ってきそうな気配がしない?」
 「へ? あぁ、確かに雲が増えてきているね」


 少女の言うとおりだった。
 闇が進むと同時に急激に曇が増えて行き、空が斑の模様で覆い尽くされていく。
 雨が降るかは分からないが、 ”本来なら” 天体観測には支障が出るだろう。


 「でも大丈夫よ。元々 ”空が見えてなくたって関係無い” 、ちょっとだけ……座って待ってて」


 それはどう言う事かと茫然とその場に立ち尽くす少女に、傍にある切り株へ切り株に座るよう促す。
 だが少女はすぐには座らず、暗闇の中で周囲を手で探るような動作をしている。
 それ程にどんくさい奴だっただろうか? またもや疑問を感じつつもその手を握り、切り株へと導いてやった。


 「ん……。ありがとう……」
 「いやいや。どういたしまして。さて……、夜も良い感じに迫って来た所で早速 ”天体観測” と行きましょうか」


 丁度湖の畔の森側と湖側、観客と演者の様に向かい合う二人。
 指揮者の様な動きでゆっくりと右手を空に掲げたリグルは、そっと目を瞑り ”声” とも ”音” ともつかない不思議な言葉を紡いでいった。


 最初に起こった変化は周囲の空気。
 先ほどまで僅かに騒めいていた森が停止したかのように静まり返る。
 唐突に訪れた完全な静寂。
 少々驚いた様子の少女を、薄眼を開けて確認したリグルは次の言葉を紡ぎ出して行った。


 間もなくして薄暗い闇に、一つまた一つと淡い光が灯っていく。
 リグルの伸ばす右腕にじゃれつく様に、ぐるりぐるりと淡い光球が飛び回る。
 その光球の正体は蛍。
 蛍が何処からともなくリグルの元に集まり、見る間に数を増しながらリグルの周りを優雅に舞い踊る。
 光球達の眩いばかりの飛翔は、さながら王女に謁見する周辺諸公の娘達の様であった。
 そしてリグルはさもそれが当り前であるかのようにその場で眼を瞑り蛍の挨拶を受け入れる。


 リグルが行使するのは ”蟲を操る能力” 、それは蟲達の意識に ”干渉” し ”支配” する事に他ならない。
 だが、妖蟲ならともかく、通常の蟲と言う物は複雑な反射中枢の組み合わせで動く生体機械に近い存在だ。
 つまり、リグルはその蟲達の中枢に直接干渉する事でその動きを操っている。


 だが、今リグルの周りに集まって来た、妖蟲や妖蟲もどきなら話が別だ。
 明確な自我を持つ彼らに対し、最上位個体であるリグルは、フェロモンを介した ”強制力のある命令権” を持つ。
 だが、今リグルが行っているのは唯の ”お願い” だ。
 理由は本人のみぞ知る所ではあるが、それでも従って貰える程にリグルが慕われていると言う事を同時に意味する。


 目を瞑ったままのリグルと彼女らの ”挨拶” が済んだ後、空を切るようにその掲げた腕をゆっくりと振り下ろした。


 それと同時。
 優雅に自分の踊りを繰り広げていた光球達が、突如規律を持って動き出す。
 指揮棒の様に振られる手に合わせ、ばらばらだった光球達は一条の光となりて空を駆け廻る。
 少女たちの周りを大きくぐるりと回った奔流は、高々と掲げられたリグルの腕に合わせ、天へと昇る龍の様に空へ駆けあがって行った。


 頭上で光輝くのはこの世で最も冷たく、そして最も力強い生命の光。
 真っ黒い画布(キャンバス)に真っ白な絵の具を弾いて散らすように、光球達は流星となって空を駆け廻っていった。
 散らばかされた星達は、一頻り空を流れると各々の位置でその場に静止する。


 蟲達と共有する意識により準備の完了を感じ取る。
 ゆっくりと息を吸い込み、胸を少しだけ膨らませたリグルは目を瞑ったまま口上を述べる。


 「今宵お披露目するのは、蟲達の天象儀。古来、人が夢見続けた星空の物語を存分にご堪能あれ」


 気づけばリグルの周囲360度は光球達で覆い尽くされている。
 各々が異なる強さの光を発するが、されとて瞬きは互いに同期し絢爛に夜空を照らし上げる。


 おそらくは天蓋が支えを失い地上に墜落すればこのような光景が広がるのだろう。
 浮世に離れた現実感を伴いそれらは周囲に存在していた。
 ぱちん、と突如鳴り響く乾いた音。




 真っ直ぐ上空に延ばされた腕。
 打ち鳴らされた指に呼応して星空は蠢き、お伽噺の再現が始まる。




 一瞬全ての光が消え暗闇が広がったかと思うと、北の空に一際眩く輝きだす七つの光源。
 北斗七星、数多存在する星空の案内役(コンダクター)であり、古来数え切れぬほどの旅人が頼りにした空の道しるべ。
 星の一つ、ドゥーベに周囲から小さな蛍が寄り添い始めたかと思うと、メラクへとその列は伸びて行く。
 そうして浮かび上がったのは巨大な柄杓。
 その巨大な柄杓は海の星々を軽々と掬い上げるとざばりと南の空に星屑を零した。


 零された星屑が空を流れ、始め小川のせせらぎであったそれは、徐々に勢いを増し大河へと変貌を遂げる。
 天の川(ミルキーウェイ)、大空を流れる一大星団は果てない夜空を二つに分断し淡く世界を照らし出す。
 行軍を続ける無数の光に一部ぽっかりと穴が開いたように真っ暗な場所もある。
 暗黒星雲だ、いかなる光も通さない漆黒の闇は手招きをするように周囲の光を呼び込んでいた。


 その河の流れを間に挟み、見つめ合うように畔に佇むベガとアルタイル。
 意を決したように、流れへと足を踏み入れるアルタイルだが、その流れの前に無情にも押し戻されてしまう。
 何度も、何度も。流されては押し戻されを繰り返し、それでも挑む事を諦めない。
 そんなアルタイルを前に祈る事しかできぬベガは、静かにその場で跪き神へ慈悲を乞い続ける。


 幾度目とも知れぬ渡河を試みるアルタイルの前に、またもや小さな小さな光達が集い始める。
 取るに足らぬほどのその小さな光達は、しかし、やがて河を埋め尽くすほどに集結する。
 突如として出現した、天の川を跨ぐ光の架け橋。
 それは決して出会う運命に無かった二つの星の文字通り架け橋となってその場に在った。


 ベガもアルタイルも、一歩、また一歩と噛み締めるようにゆっくりと橋を渡る。
 そして橋の中央まで来た所、二人は遂に出会いを果たす。




 二つの光は一つになり、そして巨大な一つの恒星へとその姿を変える。
 暗闇の広がる夜空の海に、真っ白な光がきらきらと乱反射した。




 物語の終焉(フィナーレ)を告げるように、一つまた一つと灯りが消えて行き暗闇が周囲に戻り始める。
 不自然なまでの静寂はリグルが腕をゆっくりと降ろすと同時に晴れ、森のざわめきが耳に届き始めた。
 整然と空中に浮かんでいた蟲達は最低限の灯り役だけを残し森へと散って行く。


 感じるのは体の軽い火照りと気分の高揚。
 それは久々に大規模な使役を成功させた達成感か、それとも蟲達に ”中てられた” のか。
 だがそれも理性を失う程ではない。
 目前の少女には喜んで貰えただろうか、そんな事を考えながら蟲達の集合意識から自我をゆっくりと引き剥がす。
 ゆっくりと目を開け、少女の様子を伺う為に視線を動かし、そして、


 ――眉をひそめた。


 あらぬ方向を向き、その小さな手で拍手を ”虚空へ向かって” 送り続ける少女。
 その異様とも思える光景にリグルは一瞬言葉を発する事を忘れた。
 少女の不可解な行動を理解しようとするが、リグルのそれほどデキが良くない頭は唯々ぐるぐると空転を続けるだけであった。


 「やっぱり……、気に入らなかったかな……?」


 自らの演武は少女にとってまともに視る事にも値しない下らない物であったのか。
 恐慌状態にも似た疑念と、寄る辺の無い不安感に苛まれながらも必死の思いで喉から声を絞り出す。


 「な……なんでそんな事聞くの? 凄く、綺麗だったわよ」
 「本当? 気なんか使ってくれなくて良いからね?」


 否定して貰ったのに胸騒ぎは止まらない。
 先ほどからリグルの方を見ようとせずに、微妙にずれた方向に話しかけ続ける少女に何もおかしな所など見受けられない。
 だがどこか様子がおかしいと感じてしまう。声は何時もの風を装っているが違和感がある。


 「気なんて使ってないし、そんな必要も無いでしょ?」
 「う……うん。そうだよね。なんかごめん。変な事を聞いて」


 早まる心臓の鼓動。何がおかしいのか何て自分でも分かりはしない。ただ、漠然とした不安感。
 僅かに晴れた雲の隙間からわざとらしく顔を覗かせる月に、少女の顔が照らし出される。
 シルクの様な白い頬にきらりと光るのは、一筋の滴。


 「貴方の指揮だって凄く堂に入っていたし、それに――」






 「――凄く綺麗だったわよ、……さっきの ”十二星座” 」




 思考が――停止した。


 俄かに吹き込む濃厚な湿気を置きざりにする風。




 「……………………………………え?」




 遅れる事数秒。
 枝から落ちる木の葉が地に付く程の時間の後にリグルはようやく反応を見せる。


 「どうしたの、リグル?」


 いつもと変わらぬ声が今のリグルには堪らなく怖ろしい。
 ぼたり、と頬を伝った汗が地面に黒い染みを広げる。
  “それ” に思考が触れた時、背に嫌な汗が噴き出す事を感じてしまう。


 「ねぇっ! 返事してよ、リグル!」


 「違う……」


 蚊の鳴く程の声。
 俯けた顔の下から届いた、頼りない声の行き着く先は少女の小さな耳の中。


 「違うんだ…… 十二星座なんて、今日は見せてない……」


 「…………っ?!」


 「つまらなかったなら正直に言ってくれたら良いじゃない……。そしたら、途中でだってもっと別の事ができたのに……」


 それは単なる現実逃避。
 ただ、その言葉を肯定して貰いたかった。肯定であれば良かったと言う余りに身勝手なエゴに頼った言葉。


 「違う!! 私はそんなつもりじゃないっ!!!」


 ばさり、ばさりと少女の慟哭に木陰に休む鳥が騒ぎ出す。
 最後の寄る辺を失ったリグルの思考は ”それ” に向かって歩み出す。


 「じゃ……」


 駄目だ。
  “それ” を言ってはいけない。”それ”を言ってしまっては全てが確定してしまう。




 「じゃあっ、なんでっ?!」




 それでも、喉から飛び出てしまったその言葉はもう、戻せない。




 「私はッッッ!!! 私にはッッッ!!! “何も視えない” のよッ!!!」
 「――ッ?!」






 ぎらぎらとした無作法な星々に、薄い雲が寄りかかる。






 「今までも……ずっと、視えていなかった……?」
 「……」


 少女は無言で首肯した。


 「……ごめん。私、今まで何にも知らずに……」
 「……して?」
 「え?」
 「……どうしてリグルが謝るのよ?」


 この時の少女の顔に浮かんだのは”怒り”。
 しかしそれは、リグルを更に混乱させる結果となった。


 「だって……、私が勝手な事したせいであなたに辛い思いを……」
 「私が黙っていたのが悪いのであって、あなたが謝る理由は無いはずでしょう?」
 「たしかにそうかもしれないけどっ!」


 「だから謝らないでよ……私が、みじめになるじゃない……」


 あまり儚いその響きは、吹き込む風に遮られ風下へと流れ行く。
 目前で嗚咽を漏らす少女に、リグルはただその場で立ち尽くす以外にできる事は無かった。
 薫風にざわめく湖の畔。雲に隠れた星の淡い光が湖面にゆらゆらと揺れていた。












▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


 背で泣きじゃくる理沙は間もなく、眠りに着いてしまった。
 そっと、ベッドに降ろし帰ろうと歩いていた真っ暗な廊下にその人影は立っていた。


 「年頃の娘を夜遅くまで連れ出すのは、自重して貰えんか?」
 「ご主人……」


 小窓から入り込んだ月光にその堀の深い顔が浮かび上がる。


 「……その様子、理沙の事を知ったんだな」
 「流石ご主人。心を読むのがお上手ですね」
 「顔を見れば今日何があって、何を考えているのか感じ取れる。この程度は商人の嗜みだ。……お前はそれを知ってどう思った?」
 「悪い事をしたな……、と思いました」
 「そうか……」


 一瞬、霧雨の主人の顔に酷く残念そうな物が浮かんでは消える。
 何事かと見返した時には既に普段の仏頂面に戻っていたそれからはもう何も読みとる事はできない。
 


 「理沙はな……、幼少期の事故で理沙は視力障害を起こしている。昼間であればほんの僅かに、夜ともなれば何も見る事は出来ない程度にしか見えてはいない。回復の見込みは無い。 ”魔術師製の義眼” でも使わない限りはな」
 「私は……、何をしてあげられるでしょうか?」
 「自分で考えるんだ。私からはこれ以上の事は言えない」


 呼びとめる間もなく男の姿は廊下の闇に搔き消える。
 誰も居ない夜中の廊下にリグルは一人取り残された。




 ――だが、願わくば。お前が、理沙の支えとなる事を。




 「……ご主人?」


 幻聴だったのか、現だったのかは分からない。
 ただ一つ確かなのは、振り返ってもそこには誰にも居なかったという事だけだった。











 「分かんないなぁ……」
 「あの人間の少女の事か?」
 「うん……」


 魔法の森深部、目前に広がる苔生した大樹の根を踏みしめ、朽ちた倒木の陸橋を潜り抜けながらリグルは林床を進んでいた。
 理沙を家に送り届け、霧雨の家を出たのが数刻程前の事。
 林冠に覗く朝日を眺めながらリグルは小さく溜息を吐く。
 触角をしゅんと垂らし、しょんぼりとした表情を浮かべるリグルを、見つめるのは掌で佇む老妖蟲。


 「何であんなに怒ったのかも、何で隠していたのかも。何も分からないや……。ねぇ、私どうしたら良いと思う?」


 暫しの間の後、リグルは、今日何度目かも分からない溜息を吐くと独り言のように呟いた。


 「そんな事、私は知らん。自分で考えるんだな」
 「そりゃ、確かにその通りだけどさ、知恵ぐらい貸してくれても良いじゃない」


 蟲とは思えぬ人間臭い動作で胡坐を搔く。
 随分と冷たく突き放したような言い方をしているが、言葉とは裏腹に体はリグルに向け次の言葉を待っている。
 これが何時もの老妖蟲である。
 何だかんだと言っても、自分の愚痴を最後まで聞いてくれる老妖蟲の存在はリグルにとって心の支えとなっていた。


 「それじゃぁ、一つだけ。お前だったら、今回の状況 ”どうしていた” と思う?」
 「私だったら? ……そう言われても、人間と付き合うののなんて今回が初めてだし、どうすれば良いのかなんて……。あぁ、こんな相手の気持ちを分からない体たらくだから理沙を傷つけちゃったのかな……。きっとそうだよね……」


 情けない瞳に、薄い涙がきらりと光る。
 鼻をすすり俯いてぐずつき始めたリグルを、老妖蟲はぼりぼりと頭を掻き見つめていた。
 ぽすりと、ふいに頭頂部に訪れたのは柔らかく、そして少しごつごつとした温かな感覚。
 驚く間もなく頭全体を包み込むその ”大きな掌” でわしゃりわしゃりと髪の毛を乱暴に掻き回される。
 その無骨で、ぎこちない手の動きにも関わらず不思議と荒れた心は鎮まっていった。


 「焦る必要など無い。これからゆっくりと理解して行けば良いんだ」


 頭をゆっくりと上げ声の先に目を向ける。
 しかし、その先に居たのは何時も通りの老妖蟲。
 何時も通りに甲殻を黒光りさせ、妙に人間臭い動きで胡坐を組む蟲がそこに居た。


 「他人事だからって……、悠長な……」
 「そうだな。その通り他人事だ。だから、どうするかはお前次第だ」
 「前から思っていたけど、あなたも大概に意地悪だよね。もっとはっきり言ってくれたって――」


 「待て。……何か……来る」
 「来客……? 間、悪過ぎだよ……」




 空気中に走るぴりりとした鋭い衝撃。
 リグルの頬の皮膚が、触角が、それを捕えたのは、倒木を乗り越え、霧の湖へと流れ込む小さな小川を跨いだ所だった。
 それと期を同じくして、樹木の隙間から異様な気配が複数押し寄せる。
 刻一刻と迫る気配にリグルは素早い身のこなしで傍の樹木の上へ登りその身を潜めた。


 間もなくして現れたのは数頭の山犬の群れ。
 歴戦を感じさせる古色蒼然とした漆黒の毛皮に、異常なまでに発達した岩山の如き筋肉。
 何れの個体も身の丈は人間の子供程もあるだろう。
 その常軌を逸した気配は、まさに生物である事を辞めた夜の世界の存在だけが持つそれであった。


 息を潜めて妖獣達をやり過ごすリグル。
 だが、そんな願いとは裏腹にリグルの潜む樹木の下へと妖獣が集いだす。
 直に皮膚を震わせる低音、酷く不明瞭な声が心を震わせる。


 「蟲の王よ、そんな所で何をしている? お高い処で踏ん反り返るのは自分の縄張りに戻ってからにしてはいかがか?」
 「私はただ、ここを通り掛っただけよ。あなた達と争うつもりは無い」


 その声にリグルは聞き覚えがある。
 これは魔法の森南東部、妖怪の山近くを拠点にする山犬の頭領。
 白狼天狗のなり損ないとも呼ばれる低級の妖獣に過ぎないが、非常に荒々しい気性を持つ。
 他の群れとの衝突が絶えない危険な集団であり、できれば遭遇を避けたかったが、魔法の森のほぼ中央に位置するこの小川に現れるのは予想外であった。


 「はッ、笑えない冗談だ。妖蟲如きが、通行料も無しに俺たちの縄張りを通るつもりか? それは少し筋が通らない話だ」
 「そんな?! この水辺は先々代から蛍の生息地。私の眷属の土地だったはずッ!!」
 「……ん? はて、そんな話は聞いた事が無いな……。まぁ、そんな事はどうでも良いんだ。今は ”俺達が”この縄張りの支配者である事に変わりは無い。早々に立ち去るか、実力で押し通るか、好きな方を選ばれよ」


 下卑た笑みを浮かべた犬共は、リグルの居る樹木を取り囲みながらそう告げる。
 飛んで逃げようがこの距離と妖獣の身体能力ならたちまちの内に捕えられるだろう。
 これは実質的な脅迫だ。
 その理不尽極まりない要求にぎりりと唇を噛み締めながらも、リグルは改めて交戦の意思が無い事を示す。


 「……最初に言った通り争うつもりは無いわ。騒がせて悪かった、別の道を行くから道を開けて貰える?」
 「物わかりの良い様で幸いだ。おい、お前ら道を開けろ」


 樹木から降り立ったリグルが頭目と思しき山犬に伝えると、周囲を取り囲んでいた犬達が退き道を開く。
 苦虫を噛み潰したような顔でその場を去ろうとするリグル、だがその背に追い打ちを掛けるかの如く無情な言葉が突き刺さる。


 「――だが今後この付近には近付いてくれるなよ。この辺は俺達の縄張りに ”なった” のだからな」
 「――ッ!!!」


 ばきり、と食いしばった奥歯にヒビが入る音が頭蓋に響く。
 胸元からこみ上げる吐き気を催す程の感情を必死の思いで押し留め、それでも抑えきれぬ感情を振り払うように駆け足でその場を後にする。
 口元に垂れる紅い筋が白い肌に何処までも鮮やかに浮き上がっていた。









 息は切れ、脚の筋肉は痙攣をし始めるが、構わず走り続ける。
 肩でしきりに落ち着けと語りかける老妖蟲の言葉も無視して、リグルは森の中を駆けていた。
 ようやく止まったのは、その思ったように上がらない脚が切り株に引っ掛かり、思い切りつんのめって地面へと体が打ちつけられた時。
 顔は泥に、体には腐葉土をまみれさせたリグルは、ぺたりとお尻を付けその場に座り込む。


 「リグル……。それで良いのか? “また” 縄張りが取られてしまったぞ」


 そんなリグルの横に静かに付きそう老妖蟲は、諦めや達観を含んだ複雑な表情を浮かべ語りかける。
 リグルは零れ落ちそうになる涙を必死に堪えるような顔をしながら首を横に振った。


 「――嫌なの……、戦いたくないの……。戦う。そう思うだけでどうしようもなく恐いの。だったら逃げて居た方が何倍も良い……。この森にはまだまだ別の住処はあるのだから……」


 激しく肩で息をしながら樹木にもたれ掛かるリグル。
 手の震えは尚も止まらない。肩が戦慄き全身が冷たく冷えて行く。
 血と胃液の混ぜ合わさった液体により喉の奥に焼けつく様な痛みが走る、胸から止め処なくせり上がる吐き気は押してはまた繰り返す波の様にその高さを上げてリグルを襲う。


 「でもね……、ちょっとだけ辛いかも……。くぅ……」


 遂に ”それ” を抑えきれなくなったリグルは思わずその場に胃の中の物を吐瀉する。
 びちゃびちゃと地面に未消化の雑穀が跳ね、溜まった液溜まりから立ち上る饐(す)えた臭いが鼻を突く。
 僅かばかり落ち着きを取り戻したリグルは大きな樹木に背をもたれ、大きく息を付いた。
 肩に止まり、何かを言いたげな瞳でその疲労が濃い横顔を見つめる年老いた妖蟲。


 「ごめん。今は何にも言わないで……」


 妖怪にも多様な種類が居るが、魔法の森に多いのは部族社会を築く種。
 日々縄張りをを争い合う彼らの中において妖蟲はあまりにも非力な存在だった。
 事実、今日の様な事は全く珍しくない。
 広い森の中であっても、立地に優劣は存在する。
 肥沃な土地は力ばかりが強く智慧の無い妖獣に奪われ、隠れるように住んでいた土地はどこからともなくやって来た妖精に荒らされる。
 戦うと言う選択肢の ”無い” リグルにとっては逃げる以外に道は無く、結果として次々と住処を追われ今や魔法の森の奥地に僅かな住居を構えるのみとなっていた。


 リグルは懐から取り出した水筒で、胃液にまみれた口元を濯ぎ、顔を洗う。
 気づけば昨夜から一睡もせずに朝を迎えている、肉体と精神の疲労は著しく脚元は覚束ないが、どうにかよろよろと立ち上がると住居としている樹木を目指し、重い脚を動かした。




 ようやく住処とする樹木へと辿りつき、部屋に入る事と藁で作られたベッドに倒れ込むのはほぼ全く同時であった。
 一張羅に皺が付くかも知れないが、今はそれよりも休息を優先しろと体が訴える。
 ベッドで見上げる目線の先、樹木の壁に誂えられた硝子の窓に映る顔は、笑ってしまう位に情けない物だった。
 惨め、哀れ、無情、悲壮、ありとあらゆる哀の感情がごちゃまぜになったその顔は、まさしく ”あの時の彼女” が浮かべていた物。


 「あの子も恐かったのかなぁ……。だけど、 ”そうだったとしたら余計に辛い” なぁ。私はすぐに ”気付いてあげられた” 筈なのに……」


 ――彼女もまた、自分と ”同じ” なのかもしれない。


 「馬鹿だなぁ……私。 ”同情されるのが一番辛い” の何て自分が一番知ってる筈なのになぁ、何で忘れてたんだろう……」
 「自分を責めるな……。あの子もそのような事は望んでいない」
 「――ありがとう。分かっているよ、あなたは安っぽい気持ちで同情を送る様な人じゃない。でもね、駄目なのよ。そんなのは ”受け取る側には関係無い” 」
 「情けないなぁ……、本当に情けない……」


 それは、一体何に向けられた言葉だったのか。
 ごろりと、大きく寝返りを打つと、その弾みで老妖蟲はベッドとして敷いてある藁へと落ちる。
 やれやれといった様子で洞の縁へと腰かけた老妖蟲は朝日を背にそんなリグル見守った。









▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


 ひたり、ひたりと少々薄暗い廊下を歩く。
 一歩その歩みを進める度に、足裏にひやりとした木材特有の柔らかい冷たさが伝わる。
 掃除の行き届いた廊下には見渡す限り塵の一つも落ちておらず、曇り気味の空から差し込む光にぼやりと身が映り込む。


 「はぁ~……」


 口から洩れるのは溜息ばかり。
 結局、一睡もしなかった――妖怪にとっては娯楽程度の意味しか持たないのだが――リグルは重い頭を引きずって霧雨屋の廊下を歩く。
 人里でも有数の名家と言う事もあり、その家の作りも名に恥じぬ誂えである。


 廊下に置かれた古びた花瓶。
 小窓に置かれた小さなインテリア。
 取っ手の裏や、内部にまで施された繊細な細工は一般に出回る数打ちの品とは一線を画している。
 リグルには気付く由も無いが、見る物が見ればその何れもが名のある職人の手により作られた至高の逸品であると分かるだろう。


 この調度品や家屋の大きさ、そして何よりもリグル等と言う人ですら無い者を雇用する余裕がある事が、この家の経済状況を如実に表している。
 事実この家に雇われているのはリグルだけでは無い。奉公人として数人の女中が家事を担当している。


 ふと前を見れば廊下の突き当たり、左右に分かれた曲がり角から現れるは一人の女中。
 地味な渋染めの紬に白い割烹着、実用性を重視ながら美しさを損なわない機能的美の象徴ともいえる出で立ちの女中は、多量の洗濯物を抱え此方に向かって歩いて来る。
 特に用が有る訳では無いリグルは邪魔をしないようにそっと廊下の端により、軽く会釈をして脇をすり抜ける。
 そして女中もまた軽く会釈を返すと、 ”訝しむ様な” 眼でリグルを見据え何を言うでも無くその場を去って行った。


 ずきりと、胸に感じる鈍い痛み。
 どろどろと広がって行く黒い思いは、しかし飲み下され表情には出なかった。
 この程度なら ”まだマシ” なのだから。


 廊下を曲った先にある勾配の緩やかな階段を上った先にあるのは見慣れた襖。
 薄い壁一枚の先には昨日別れた少女が変わらずにいる筈だ。
 取っ手に手を掛けようと出した手が空中で静止し、退く事もそれ以上出す事もできなかった。
 瞼の裏に浮かぶのは少女の顔。


 最後に視た少女は赤く目元が腫れていた。
 最後に聞いた少女の声は擦れて枯れていた。


 昨日の自分はぐずる彼女を前に戸惑うだけだった。
 昨日の自分が彼女を傷つけたのは自分の無知故だった。


 それでは、今日の自分はどうだろうか?
 正直なところを言えば ”分からない” 。むしろ ”分かったつもり” になっているだけの可能性の方がずっと高い。
 それでも、一歩を踏み出さなければ何も改善しない。だがその一歩は、臆病なリグルには果て無く遠い。
 この襖を開ける。そんな単純な動作をリグルの弱い心が拒否していた。
 手を動かそうとする度に襲い来る嘔吐感。


 頭では理解している。気持ちも既に決まっている。
 しかし、心は、体の中に刻まれた最も深い物がその僅かな動きを阻んでいた。
 どれ程の時間襖の前で葛藤していただろうか、その均衡を破ったのは部屋の中から聞こえてきた聞きなれた声。


 「リグル。そこに居るの?」


 びくり、と思わず肩が飛びあがる。
 耳に心地の良いその響きも今のリグルにとっては刺すように痛く感じる。


 「う、うん。居るよ」
 「そう……」


 とすり、と小さな音と共に襖が僅かに軋む。
 襖の向こうから僅かに感じるのは少女の息遣いと、仄かな体温。
 それを感じたリグルは静かにその襖に背を持たれかけた。


 「……今日は良い天気よね」


 何か言わないといけない。そんな気持ちばかりが上滑りして咄嗟に出た言葉は真にくだらない物。
 しまったと後悔した時には既に手遅れ。口はとんちんかんな言葉を発した後だった。
 ああ、自分は何を言っているのだ。これでは嫌味を言っているも同然では無いかと内心猛省し取り繕う言葉を頭の中で探し出すが、答えを出す前にその思考は少女の声により中断された。


 「この曇り空のどこがよ? 風も湿気っているしその内雨が来るわよ」


 相変わらずの皮肉の交じった声。
 何時もと変わらないその声が襖の向こう側から聞こえてくる。
 それと同時に背に重さと温かさが伝わってくる。


 「……うん。そうだよね。……うん?」


 一瞬納得しかかるが、頭に覚えるのは小さな引っ掛かり。
 確かに少女の言う通り。廊下の突き当たりに設けられた小さな小窓から覗く西の空には厚い雲が漂い、刻々と上空の雲の量は増加していた。
 だが、それでもおかしい。昨日までなら疑問には思わなかっただろうが、今日からのリグルに ”その言葉の意味” は決定的に異なる。


 「そんな変な顔をしないでよ、別に ”特別な事” をしている訳じゃない」


 “また”だ、この少女は一体何を言わんとしているのか。
 そんな疑問を浮かべるリグルの思考は再び少女の声で遮られる。


 「……ねぇ。風の出す声を、光の出す臭いを貴女は知っている?」


 言葉と同時、不意に背に感じていた襖の感覚が消失する。
 支えを失った体は、一瞬浮遊感に包まれるが間もなく重力に従い後ろに倒れ畳敷きの床に頭がぶつかる。
 耳の横に感じたのは柔らかくさらりとした髪。
 理沙の頭がすぐ真横にあった。


 「別に何も特別な事は無いの。実際に私には何にも ”視えていない” 。ただ、視えてなくたって ”感じられる” 事は沢山あるって事」
 「感じる……って、どういう事?」
 「呆れた。あなたの頭の上に付いているそれは飾りなの?」
 「へ? ……えっ、ちょっ……!」


 そう言いながら少女はリグルへ手を伸ばし、探る様な手つきで触角へ手を運ぶ。
 思案顔でその不可解な動作を眺めるリグル。
 だが、突如として訪れた鋭い刺激。
 神経を直接刺激するようなそれに、瞬く間に顔は紅く染まり、身を激しく捩ってリグルは悶えた。
 小さな掌でぐっと握られた触角、黒く滑らかなそれの先端を弄ぶ指先の動きに合わせて、下のリグルは身をよじりながら荒い息を吐いた。


 「あふっ……、そこは……、だめ……」
 「一度触ってみたかったのよねー。思ったよりザラザラ……、でも冷たくて気持ち良い……」
 「わかった……から……あんまり、触らないで……」


 一頻り触角を弄び満足した少女は、掴んだその手をゆっくりと離す。
 息も絶え絶えと言った様子でへたり込むリグル。その頬は赤く染まり、激しく体を捩った影響で服がはだけ、大きく露出した肩は、その様子も相まって真に扇情的の一言。
 そんなリグルを尻目に、満足げな表情を浮かべる少女。
 恨めしそうにそんな彼女を上目で睨んでいたリグルだが、ようやくの事で息を整え、ふうと大きく一度息を吐いた。


 「つまり……、視覚以外の感覚で判断をしていると……そう言う事なのね?」
 「その通りよ。生まれつき、視力には頼れない生活をしていたからね。自然とそれ以外の感覚は研ぎ澄まされたのよ。あなたが思っている程不便な生活はしていないと思って貰って構わないわ」


 成程、確かにリグルの触角は極めて鋭敏な感覚器官だ。
 表面に存在する微細な孔は数十メートル先の蚊が揺らす程の空気の流れを捕え、内部の広大な受容器は微粒子レベルの化学物質をも検知する。
 闇夜の住人である妖怪は基本的に夜目が効く。
 それはリグルも例外ではないが、視界の狭まる地形、特に樹海においては触角を頼りに周囲の情報を探る事が少なくなかった。


 「だからさ、――」


 別に苦労してないし、変に気は使わないで欲しい。
 真剣な瞳でリグルを見詰めつつ彼女はそう続けた。
 普段からは考えられぬ程のその真摯な告白にリグルは思わず息を呑み、静かに深く、そしてゆっくりと頷く事で答える。
 そして、 “これまでと変わらず” 友人として接する事を誓う、と続く言葉には、少女のはにかんだ様な笑みが返って来た。


 「さてと、それじゃ掃除もよろしくねー。私も手伝うからさ」


 先ほどとは打って変わって明るい声。
 口と同時に体が動く。リグルの返事も待たず少女は部屋の隅の戸棚を開き中からハタキ二つを取り出す。
 リグルに片方を手渡すと自らもそれを使い棚の上の埃を落とし始めた。
 その手つきには僅かながら探る様な動作が混じる物の意外な程器用に埃を払っていった。


 「気持ちはありがたいんだけどさ、それ他の女中さんに見られると、少し気まずいんだけど」
 「大丈夫よ、 ”どうせ来ない” から。ほら、さっさと終わらせるわよ。気付いているか知らないけど私 ”も” 爪弾き者なのよ」
 「え……」


 自然に口元から零れた言葉。
 しかしそれを聞き返す前に彼女はさっさと掃除に戻ってしまった。それ以上突っ込むなと言う無言のメッセージを感じてしまいリグルはぐっと言葉を飲み込む。


 「あぁ、それと化粧棚の上辺りに埃が溜まっているから念入りによろしくね」


 それは話題を変えるかのような不自然に明るい口調。
 言われて目を向ければ化粧台の上には様々な小物と同時にうっすらと埃が溜まっている。
 化粧瓶や櫛などの小物が所狭しと置かれた台には厚くとまではいかない物の、それなりに埃が溜まりお世辞にもきれいとは言えなかった。


 「あなた、そこの化粧棚は小物をどけるのが面倒で普段掃除して無かったでしょう?」
 「――?!」


 図星を突かれる。どこか態度に出ていたのだろうかと顔や体を手で弄った時に、初めて触角が忙しなく揺れ続けていた事に気づく。
 頭に手をやり、その事実に行き当たったリグルは、バツの悪い表情を浮かべ頭をぽりぽりと搔きながらようやくいつもの調子で質問した。


 「驚いた、天気は日差しの熱で分かるとして、どうしてそんな事まで? 確かに埃溜まっているけど、音や臭いなんかじゃ分からないと思うんだけど」
 「いいえ。 ”音” よ、貴方面倒臭がってあんまり物が多く置いてある所は掃除しないでしょ? 掃除中の物音があんまり化粧台の方向から聞こえないから、どうせゴミが溜まっているんじゃないかって思ったのよ」
 「はぁ……良くやるわね」


 何でも無い事の様にそう言ってのける少女に、リグルは内心舌を巻く。
 以前より感じていた事ではあるが何と聡い娘だろうか、この少女は感覚のみならず思考力も合わせ周囲の状況を読みとっているのだ。


 「無駄口叩く暇があるんだったら手を動かしなさい。このままじゃ終わる頃には昼よ」
 「はいはい。言われなくてもやっていますよ……っと?」


 リグルの手が止まったのは、少女の書き机を整理しようと眼を遣った時だった。
 机の上にあったのは、うずたかく積まれた書籍と、何の変哲もない一冊の白いノート。
 それは何の変哲もない唯のノートだ、画一的な規格で生産された大衆向けの品物。
 下の商店でも扱われ、人里に広く普及している。
 そのノートが ”広げられた状態” で机の上に置かれていた。


 視界に入って来たのは、ノートに書かれた小さな落書き。
 漢詩の勉強をしていたのだろう。お世辞にも綺麗とは言えない字で書かれた物の横にそれは書かれていた。


 「………………」


 真っ白な空に満点に輝く色取り取りの星々。
 青色に輝くベガ。
 桃色に輝くアルイタル。
 虹色に輝く天の川(ミルキーウェイ)
 そして、一際大きく、一際鮮やかな緑色の星空の北極星(コンダクター)。


 これ程色に満ちた夜空をリグルは嘗て一度でも想像した事があっただろうか。
 当然その縮尺は滅茶苦茶、位置関係も現実の物とは似ても似つかない。
 それでも、美しい星の空(彼女の空)はそこに存在していた。


 「リグル、どうしたの?」
 「あ、うっぁあららばっ――?!」


 少女の声に慌てて、ノートを閉じる。
 早まった胸の鼓動は留まる事を知らず、早鐘のように打ち続けていた。


 「い、いやさ、この大量の点字の本って皆理沙のなのかな? って思って」
 「あぁ、この本の事ね。実はこれ、私のじゃなくて慧音先生からの借り物なんだ」
 「理沙、慧音先生と知り合いだったの?」
 「まぁ、人 里じゃ知らない方が珍しいとは思うけど……。リグルこそ良く知っているわね。人里に来るようになってからまだそんなに経って無いのに」
 「実は、慧音先生は里の外にも偶に文字を教えに来てくれるんだ。天狗の新聞や、先祖の残した文書を読むのに字の勉強は必須だからね。私も昔慧音先生に教えて貰ったなぁ……、懐かしい……」
 「ふーん。じゃぁさ、今から本返しに行くついでに会いに行ってみる? 最近慧音先生、体調崩しているらしいしお見舞い代わりにさ」
 「良いね、じゃ、掃除終わったら出発かな?」
 「そうと決まったら、手早く終わらせるわよ。リグルも頑張りなさい」
 「あいあいさ」


 上手く誤魔化せた事にほっと胸を撫で下ろすがしかし、そうして同時に理解してしまった。
 自分が彼女に与えた影響の大きさに。
 決して手には届かぬ夢を彼女に教えてしまった事の ”残酷さ” に。


 平静を装いながら二人で行う掃除はいつにも増して早く終わる。
 少女の手際は思った以上に悪く無く掃除が終わったのはまだ昼前だった。




 ――ずきりと、鈍い痛みが胸に走った。



 短い杖を持った少女と手ぶらの緑髪の少女が連れ添って住宅地を歩く
 それは背筋の伸びたしっかりとした足取り。
 大して不便は無いと言う言葉の通り、理沙の手に持っている杖は角を曲がるとき等にほんの少し使われるだけで殆ど手に持っているだけと言った状況だった。


 「慧音先生の家ってどの辺だっけ?」
 「ここからは少し離れてるかなぁ。確か、居住区画の奥の奥だったから」
 「えらく、偏狭な所に住んでいるのね。フットワークの軽い人だから、もっと中心部に住んでいるのかと思った」
 「満月の夜はあまり姿を人目に晒したくない、だからだそうよ」


 人里の住宅街は、基本的に静かである。
 昼間故に、働きに出ていて人が居ないと言う事もあるし、商店が無いと言う事もある。
 こんな時間にこの場に居るのは、暇な主婦か寺子屋に通い出す前の子供くらいである。
 理沙とリグルの歩く通りも、御多分に漏れず静まり返っており、生活音と呼べるものは家の前を通り過ぎる時に時折聞こえてくる、親子の話声位の物であった。


 「あー。確かに。満月の晩は先生荒れるからねぇ……。里には慧音先生以外の半獣って居ないの?」
 「うーん。私も詳しくないけど、あんまり聞いた事ないなぁ」
 「ふむ。私は、里外に住んでいる人の集落を遠めに見る事が偶にあるんだけど、その中には割と半獣が居るんだよね。だから、人里にも一杯いると思ってたんだけど、そうでもないのかなぁ。見た目は割とそれぞれね。全く人間と見分けのつかないのから、それこそ獣丸出しの奴まで。ただ、一個だけ共通してるのは強い妖気を持ってる奴ほど ”姿は人と変わらない” って事。慧音先生は強いって言うか ”神々しい” って言った方がしっくりくるけどね」


 目の前を小さな子供が家の隙間から飛び出してくる。
 齢十に満たない程の幼い童の男女が、風車を持って道の真ん中をくるくると駆けまわる。
 小さな石で躓いた童女が膝から血を出した。
 膝をすりむいたその童は、地面にうずくまったまま眼に涙を滲ませて鳴き声を上げる。
 近くに居たもう一人の男の子もただおろおろとうろたえるだけだった。


 「あら、大変。大丈夫?」
 「ちょっと怪我した所見せてくれるかな?」


 そう言うとリグルは掌で器を作り、少量の液体を作りだす。
 僅かながら生臭く、非常に独特な香りが理沙の鼻を突いた。


 「ちょっと沁みるけど、我慢してね」


 その液体が土にまみれた傷口に触れると、その端からしゅわりと、小さな泡が弾けては消える。
 血液と交じり合う度気泡を作るその不思議な水は、小さな音と共に土にまみれた傷口を洗い流して行った。
 痛みを感じているだろうその少女はしかし、治療を受けている事を理解しているのか、ぎゅっと目を瞑りだまってその痛みに耐えていた。


 「はい、もう終わったよ。おうちに帰ってお母さんにちゃんと見て貰ってね」
 「……うん。ありがとう。 ”おにいちゃん” 」
 「うん。よかったね、気を付けて帰るんだよ。 ”おねえさん” と約束だからね」
 「うん! ばいばい、おにいちゃんとおねえちゃん!!」


 訂正する間も無く元気よく手を振り去って行く二人の子供。
 この世の終わりの様な顔で、その背を見送るリグルを理沙はただニヤニヤと笑みを浮かべて眺めていた。


 「おにいちゃんだってさ、良かったね。この色男」
 「……私そんなに女の子っぽくないかなぁ」
 「私に聞くのは少なくとも間違いね。声は割と可愛いと思うわよ」
 「……ありがとう。あんまり嬉しくないけど」


 子供達の背が、視界の中から消えて行くのを確かめて、大きな溜息を吐く。
 掌の液体を道の脇にある溝に捨てると、また大きく泡がじゅわりと広がりすぐに消えていった。


 「それは良いとして、リグル。それ、何? あの子を消毒してあげていたみたいだけど、貴女消毒液なんて持ち歩いていたの?」
 「いや、あれは蟲の力の応用だよ。化学物質の合成は蟲の十八番なのよ」
 「へぇ……、以外……」
 「貴女、暗にそれ私の事、馬鹿だと思っていたって事だよね……」
 「正直思ってた。リグル何か考えるより先に体が動くタイプっぽいし」
 「否定は出来ないわね……。まぁ、さっきのは殺菌効果のある物質を合成して消毒薬に使ったのよ。蟲が出来る事なら、私も規模を拡大して再現できる。それが私の能力。皆が作れる物は私も大抵作れるかな」


 少しだけ自慢げに鼻を鳴らし、無い胸を反らせる。
 近くの民家の上に止まっていた鴉がアホウと鳴いた。
 姦しい二人組が、静かな住宅街を移動する。
 二人が暫く行った後に行き着いたのは小さくは無い物の古びた一軒の平屋建ての木造建築だった。
 玄関にはヒビの入った硝子戸と、上白沢の表札が掛けられている。
 呼び鈴代わりに置かれている鈴を鳴らすと、奥の方で人が動く様な気配が感じられた。


 「久しぶりに来た気がする。かれこれ半年以上は借りっぱなしだったからなぁ」
 「良く怒らなかったわね慧音先生……」
 「確かに……、そう言えば、そうね……」


 理沙が顎に手を添え思いをめぐらそうとした丁度その時。
 玄関に近づく足音と共に、その扉が開かれた。


 「はいはい、どちらさま……って。霧雨の所のか、一人で来るとは珍しい! それとそっちに居るのは……また珍しいな。リグルが久しぶりだな!」


 雪駄を履いて扉を開けたのは、青い髪に、柔和な笑みを浮かべた長身の女性。
 ふくよかな胸と、抱擁感のある女性らしい体つきをしたその女性は、二人を見ると更に屈託の無い笑みを浮かべてその来訪を歓迎した。


 「慧音先生! 久しぶりです。今日は本を返そうと思って」
 「私も。お久しぶりです、慧音先生。十年以上前に教えて貰ったきりですね。少し痩せたんじゃないですか?」
 「ふ……。お前に心配される程、軟な体はしていないさ。立ち話も何だ、部屋に入りなさい。茶でも出そう」
 「「ありがとうございます、しつれいしまーす」」




 通された部屋は、驚くほどに雑然としていて、周囲の何処を見渡しても書籍が積み重なっている。
 整理がなされていない訳ではない。だが、それを補って余りある程の圧倒的な量の物が部屋の中に詰め込まれていると言った印象をリグルは感じていた。


 「散らかっていて済まんな。まぁ、ゆっくりしていってくれ」
 「本当にすごい量の本ですね。これ、全て慧音先生の私物なんですか?」
 「両方……かな。幻想郷史の編纂用資料の為に買った物もあれば、趣味で手に入れた物もある。一概には言えんよ」
 「それにしても多くない? 圧迫感が前に来た時の比で無いんだけど……」
 「その……、なんだ、エントロピーはなんとやらだよ」


 ぽりぽりと頬を掻き、誤魔化す慧音に向かう理沙の背には巨大な本の山が築かれている。
 人の背を遥かに超えるほど積み重ねられた書籍の山。それを背にした理沙は呆れの入った瞳で周囲を見渡した。
 壁一面に本棚が並べられ、二重、三重に本が重ねて並べられているがそれでも入りきらず、床に平積みされた本の山々。
 その山は視界にあるだけでも優に二十は超えており、それらが放つ圧倒的な存在感は理沙をしてこの部屋の状況を不安と言わしめた。


 「茶を入れてこよう。少しだけ待っていてくれ」


 話を切り替える様に、明るい口調でそう言った慧音は、机を立ち炊事場へと向かう。
 間もなくして戻って来た慧音の持ってきた盆には、湯のみが三つと幾つかの焼き菓子が載せられていた。


 「相も変わらず、お前の杖は傷一つ無いな。殆ど使っていないのではないか?」
 「あんな物で一々道を確かめて居たら何処に行くのも日が暮れちゃう。足音だけで十分 ”視える” 私には必要の無い物だわ」
 「まぁ、それはお前の自由だ、好きにするが良いさ。だが親御さんには迷惑をかけるんじゃないぞ」
 「……はい。分かっています」


 「それと、リグルか。お前が人里に居るとは思わなかったぞ」
 「えぇ、私も人里に入り浸る事になるとは思っていませんでした。でも、理沙のおかげで」
 「だが、気を付けるんだぞ。知っていると思うが今の人里は妖怪に対して敏感になっている。くれぐれも問題は起こさない様にな」
 「やはり、以前の吸血鬼事件ですか」
 「そうだ。あれ以来里と妖怪たちの緊張は高まっている。近く里の要人と妖怪の賢者達の間で話し合いが行われるそうだが、今の人里は妖怪に対しては敏感だと言わざるを得ないな」
 「世知辛いですね……、たった一度の事件だけでここまで避けられてしまうなんて」
 「それが人と言う生き物だ、弱い故に警戒心は強く持たねばならない。お前も理解できるだろう? 蟲達の代弁者たるお前なら」
 「……はい」


 「それはそれと、慧音先生。体調が優れないのですか? 少々疲れたご様子ですが」
 「確かに声にも元気がない様に思えるわね」


 確かにその眼こそ精悍な輝きを湛えているが、その眼元には、おしろいでも隠しきれない程の深い隈が刻まれており、頬も少しこけている。
 それは、常に人々の模範たろうとする慧音には珍しい事だと言わざるを得ない。


 「あぁ、気付かれてしまったか……。この所人里で、心を病む者が多くてな。里の医者だけでは手が足りんと私も手伝っているのだよ。その影響で、少し……な」
 「心を病む……ですか? それは一体どう言った事なのですか?」
 「人によってそれぞれだな、悪夢にうなされたり、昼間突然苦しみだしたり。原因は分からん。だが、その影響で既に数十名が体を壊している。更に悪い事に、日が立つごとに患者は増える一方だ。なんとかせねばならんのだが……」
 「やはりそれも以前の事件と関連して、」
 「いや、因果関係は分からない。だが、無関係とも言い切れないだろうな。今里の有力者たちが原因を探っている。その内に解決するだろうさ」
 「そうだと良いのですが……。ですが、人間も夢で体調を壊したりする事があるんですね。私達妖怪には珍しくも無い事なんですが」
 「お前たちは、精神にその在り方が寄っているからな。受ける影響も大きいのだろう。だが本質的には、人間も変わらない。強すぎる空想は、肉体にも作用を及ぼすのさ」


 「因みに、どうやって治療なさるのですか? 慧音先生は医者ではないですよね?」
 「……どうしてそんなことを聞く?」


 空気が一変した。
 何気なく発したその一言が、どよりとした重苦しい空気を呼び寄せ、狭い部屋の中を支配する。
 それが、よりにもよって慧音から発せられているという事実にリグルと理沙は驚きを隠す事が出来なかった。


 「いえ、ただ気になっただけで、特に深い意味は……」
 「なら良い。何、少しだけ話を聞いてやるだけだ。悩み相談みたいなものだと思って貰えれば良い。ただ ”それだけ” だ」


 最後のそれだけが、事更に強調される。
 慧音は顔こそ笑顔に戻っていたが、その眼は明らかに笑っていない。
 だがその疑問を慧音に直接ぶつけるほどの勇気をリグルは持ち合わせていなかった。


 「さて、小難しい話は終わりにしよう。どうだ、トランプでもやらないか? この間霧雨道具店で買ったのだがなかなか使う機会が無くてな。 ”いぼ” も付いているから、理沙でも問題無く遊べるぞ」
 「慧音先生、……もしかして友達いないんですか?」
 「むむっ、そんな事は無いぞ。だが、相手も多くは忙しい身だ。トランプをする為だけに家に招くのもだな」
 「はいはい。寂しい慧音先生の為に、私達子供が遊び相手になってあげますよ。今だけは、仕事の事忘れてパーっと遊びましょうね」
 「ははは。済まないな。気を使わせたようで。だが、遊びとは言え手は抜かんぞ、それでルールの方だが……」


 その後、異常なまでの記憶力と大人げ無い駆け引きを駆使する慧音と、相手の札が視えているとしか思えない動きを見せる理沙にリグルが翻弄され続けた事は言うまでも無い。
 慧音の家を出た時には既に陽が傾き、斜陽が紅く玄関に差し込んでいた。


 「今日は楽しかったです。突然訪ねて申し訳ありませんでした」
 「いや、お前たちの様な来客ならいつでも大歓迎だ。臆せずまた来てくれると嬉しい」
 「慧音先生、体調の良い時で良いですから、また里の外に字を教えに来て下さい。慧音先生の事を待ち望んでいる子が沢山いますから」
 「あぁ、もちろんだ。なるべく早くできるように善処しよう」


 腕を振り、別れを告げる二人組。
 その理沙の背だけに、掛けられる声があった。
 少し先を行くリグルはその声に気付かない。


 「理沙、リグルをよろしくな……」
 「はい?」
 「この先何があってもだ。誰に、何を言われても、お前だけはリグルの味方で居てやってくれ。頼んだぞ」
 「……当然です」


 それは小さいが、強い感情の籠もる声。
 訝しみ振り返るが、その先にあったのは何時もと変わらぬ柔和な笑みだった。


 「理沙? どうしたの? 日が暮れちゃうよー」
 「ほら、リグルも呼んでいる、早く行ってやれ」
 「あ、はい。今日はありがとうございました」
 「こちらこそ、だ。また、……こうして遊べる日が来ると願っているよ」










 笑い声を上げながら仄かに揺れる陽炎の向こう側に消えていく二人組を慧音は、その場に立ったまま見送る。
 だが、その長閑な様子と相反して、慧音の顔は酷く暗く、今にも涙が溢れんばかりの物であった。


 「神よ……、どうして……? 救われるべきは……、それ……、なのに……」


 二人組の去った住宅街の外れ。
 絞り出す様なその慧音の呻き声を聞く物は誰一人として居はしなかった。


 傾いた陽が、慧音の姿に差し、その影が薄いベニヤの壁に投影される。
 無数の角が伸びる異形の影が、暁の里に揺らめいていた。













 「行きすぎた空想は、肉体にすら作用する……、か。良くも悪くも……、ね……」
 「珍しく難しい言葉を使うじゃないか。あの子供に教えられたのか?」
 「……否定できないのはくやしいけど、そうじゃなくって」


 古木の洞の中、大鋸屑の上で寝転がりながら、リグルは独り語散る。
 リグルの頭にはあの星空の夜の彼女の顔が思い浮かべられていた。
 あの夜に視た ”堪らなく寂しそう” な少女の顔。


 ――今でも鮮明に思い出す事ができる
 ――その度に無性に胸が苦しくなる。


 「ねぇ。どうすれば私は、誠実であれると思う? どうすれば、私は責任が取れると思う?」
 「知らん。そんな事は自分で考えるんだな」


 「そもお前は、なぜあの子に拘る? お前のやろうとしている事は既に、あの子ら人間の問題の領域に入っているのではないか?」
 「そんなの分かんないよ……。確かにおせっかいなのかもしれない……。でも嫌なのよ。良く分からないけど、 ”放っておいたらいけない” 気がするのよ」


 ―― “あんな顔をするのは自分一人で十分” なのだから。


 「なら、私から言えるのは一つだけだ。 ”お前に出来る事” をやれ」
 「何その当たり前なアドバイス」
 「だが事実だ。お前に出来る範囲の外の事はやろうとすべきでない。中途半端が傷を深める事をさっき知ったばかりだろう?」
 「それは……」


 呆れたように大きな溜息を吐く老妖蟲。


 「ならば今度こそ最後だ。お前は既に、それをあの子に見せている」
 「もう見せて……って。そんな事を言われても……………………あ」


 得心したかのようにぽんと手を打ち、顔を輝かせる。
 一転、リグルの瞳に光が灯り始め、力強い笑みが零れ出した。


 「それじゃ、私は先に休むぞ。後はお前次第だ」


 そう言って懐に戻ろうとする老妖蟲を捕まえると、その細指でつつり、と傷に塗れた甲羅を撫でた。
 掌から腕、手の甲から頭の上へと、指先に弄ばれる老妖蟲。


 「こら、やめんか!?」
 「ふふ。ありがとう」


 空は満点の星空、今しばらくは雨の降る気配はなし。
 月光線を揺り籠に、来たるべきこの先へ向けて体を休めようと決めたリグルはいつもよりほんの少し早目の眠りに着く。












▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


 魔法の森奥部。
 霧雨が降り始め過ごし易い程度には気温も下がり始めた昼下がり。
 静寂の広がる樹海の中に、突如として雑音騒音の類としか思えぬけたたましい怪音が響き渡った。
 怪音の発生地は、樹海の中にぽっかりと広がる古木が腐り落ちた後に残った小さな空間。
 そこでは数多の黒い塊が蠢いていた。


 螻蛄(ケラ)、鈴虫(スズムシ)、蟋蟀(コオロギ)、飛蝗(バッタ)、螽斯(キリギリス)、識別する事も困難な程多様な種の蟲達が集まる異様な光景がその場に広がる。
 無数にいる蟲達を見れば身の丈五尺ほどもある巨大な蟲から、一般的な同種よりも一回り大きい程度の蟲まで存在する。それらに共通するのは蟲に有らざる異様な気配を持つ事。
 人型こそ取っていないが完全な妖蟲から、半妖蟲と言える者までがこの場に集まっていた。
 様々な妖蟲が一様にその場に並び、見つめる先に居るのは切り株の上に立ち、頭を抱える一人の少女。


 「あー!もう。駄目だよ! もう一回やりなおし!」


 そんな声が響いたのはもう幾度になるだろうか。
 ある者は歓声を上げながら高らかに羽を掲げ、またある者は上空を飛びまわる。
 そんな興奮しつつも何処か間延びした空気が漂う不思議な状況にリグルは困り果てていた。
 混沌とし始めたこの状況に陥った切欠は、今より遡る事一刻前。
 リグルが王として特定の蟲達に招集の”お願い”を掛けた事に始まる。




 「突然の招集なのに皆集まって来てくれてありがとう。集まって貰ったのは他でもない、一つの大事な”お願い”があるんだ」


 リグルの前にズラリと並んだ妖蟲達。
 突然に掛けられた幼き王よりの招集の言によりこの場に集められたが、その理由については何も聞かされていない。
 普段あまりこうした無差別に近い招集を掛ける事の少ないだけに、これは彼らにとっても”特異な事”であった。
 戸惑いの広がる妖蟲達の胸中とは対照的に、切り株でしたり顔のリグルは重々しい口調で蟲達に語りかけていた。


 「それは、私が今使用人として働いている家に住んでいる一人の ”人間の女の子” についてなんだ」


 蟲達の間にぬらりとした、どよめきが走る。
  “現在” の妖蟲は人間達に対して中立的なスタンスを取っている。それは、不要な敵を増やさない為にはそれが最も効果的と判断したからである。
 元より生活圏の重ならない妖蟲族が人間と出会う事は極端に少ないため、人間社会に混じろうとしているリグルは例外中の例外と言える。


 「その女の子は私にとって大切な友人であり、人間との友好の懸け橋となる存在だ。だが、その子はある ”困難” に立ち向かっている。そして、それは一人でどうにか出きるものじゃない」


 人との関わり。
 それは弱小勢力である妖蟲に人里とのパイプができる可能性を意味する。
 それが彼らにとってどのような意味を持つ事であるかをリグルは理解している。


 「 ”誰か” が助けてあげないといけない。だから ”私達” が助けようと思う。これは、人と友好を深めるきっかけにもなる筈だ。だから私は一つ提案をしたいと思う――」


 リグルは ”私達” を事更に強調した。
 当然である。これはリグル ”一人では決して成し得ない” 事であるのだから。
 そこで一旦言葉を切ったリグルは呼吸を整える。
 一呼吸、二呼吸。十分すぎる程に間を開け大きく息を吸い込んだリグルは、大きく反らした胸で高らかに宣言した。






 「――私達、妖蟲だけで”交響楽団(オーケストラ)”を結成するんだ」






 瞬間。大きなざわめき。そして、徐々に上がり始める歓声。
 広がって行く興奮は留まる事を知らず、中には飛び回りだす者も出る始末。
 たちまちの内にその場は異様なまでの熱気と歓喜に包まれた。


 だがそんな場とは裏腹に、当のリグルはと言えば触角を忙しなく左右に振りながら困惑顔。
 忙しなく辺りを見回し落ち着きの無い様子であった。


 「え……、ちょっと。あれ? 皆……、やけに乗り気だね……」


 リグルにとってこの反応は完全に ”予想の外” であった。
 実の所、蟲達から反発の声が上がる事さえ覚悟していたのだ。
 人間に対して良い感情を持っている筈の無い妖蟲達。具体的に此方から働きかけるのは嫌がると思っていたからだ。
 だからこれまでも、 ”リグルだけ” が率先して人里に脚を運んでいたし、他の妖蟲が付いてくる事を強制しなかった。嫌な思いするのが自分だけで済むように。


 ところが、この状況はどうだ?
 理由すら説明しないうちに提案は承諾され、あまつさえ全員が意欲的に参加してくれる姿勢を見せてくれている。


 「私達の音楽で、あの子にねって……ねぇ、皆聞いてよー」


 困惑のまま説明を続けようとするも、口が回らない。
 そも誰も聞いていない。熱気は熱気を呼び、歓喜は何時しか狂気へと。
 数匹の妖蟲達が己の音色をぶつけ合うあまりに、その羽を擦り切れさせんとしながら音を奏であう。


 「ねーってばー……、ねー………………――――――」


 まるで収まる気配を見せぬ状況と、訳の分からないタイミングで発生した狂乱にリグルの頭は容易に処理能力をオーバーする。
 嬉しさ、悔しさ、情けなさ。
 自らにも理解できぬ複雑な感情の混ざり合いにその珠の様な瞳は見る見るうちに涙に潤んで行く。
 そして、混沌とした様相を呈し始めたこの状況を収めたのは、騒々しい筈の広間に不思議と響く酷くぐずついた声であった。


 「えぐっ……、ね゛え゛…… み゛んな、ぎいてよ……、ね゛え゛ってば……」


 その眼真っ赤に充血させ、鼻水をすすりながら必死に訴えるリグル。
 先ほどまで毛ほども届かなかったその言葉は不思議に蟲達の耳に届き、その様子に気づいた妖蟲達は一人また一人と落ち着きを取り戻して行く。
 ようやく場に静寂が戻って尚ぐずついているリグル。肩の上に居た老妖蟲が優しく声を掛けた。


 「――ぐずっ……。そうだよね、皆歌うの大好きだもんね。ごめんね、みっともないところを見せて……」


 この場に集った妖蟲たちには一つの共通点がある。
 彼らの共通点。それは全員が鳴く事によって己を主張する事が出きる者達であると言う事。
 元々音を奏でる事が好きな物ばかり。異常なまでも興奮も、あっさりと提案が受け入れられたのも自然な事。
 その様な事を老妖蟲から聞かされたリグルはやっとの事で落ち着きを見せ、涙を呑み込む。


 「それじゃ……早速練習してみようか……。念のためにもう一度聞くけど、皆協力してくれるんだよね?」


 まだ赤みの残る眼と、鼻水の跡の残った満面の笑顔で問いかける。
 冷静に見れば間抜け以外の何物でも無いが、今この場においてそれは、この上なく妖蟲達の心を打った。
 先ほどとは似ている様で、少し意味合いの異なる歓声が上がり返答を成す。
 そして状況は冒頭へと帰る。






 「さぁ、もう一回だよ! 皆少しずつ良くなっているから後もう少しだけ頑張ろう!」


 嘘である。何処からか取り出した指揮棒を手に笑顔で告げるも、その顔にはどこか疲労が見える。
 練習を開始するまでは、極めて順調であった。問題はその後の段階である。


 「行くよ! 三……、二……、一」


 ――響き渡る不協和音に、耳をつんざく衝突音。
 ――互いに互いを打ち消し合い雑然と響く声に無秩序に重ねられる旋律。


 蟲達の奏でる振動波は、空気中で正面から衝突しあい、次々とその波を相殺していく。
 あさっての方向へと飛び出した波は、元とは似ても似つかぬ歪んだ響きを周囲にまき散らした。
 更に歪んだ音同士が、無秩序に重ねられ互いを覆い隠し合う様は正に悲惨の一言。
 唯々、雑音騒音と以外に形容の出来ない音が量産されるばかりであった。


 しかしそれも当然の事、蟲達にとって鳴くとは本来自分を主張する為の物。
 協調して、声を”重ねる”と言うのは彼らにとってまるで未知の領域であった。
 何度繰り返そうとも、各者の間にある壁は取り除かれる気配すら見せない。


 練習を開始して既に二刻程が経過する。
 刻々と経過する時間と天気とは裏腹に、進歩が視えない演奏技術。
 いつしか雲間に透ける天高い陽は山の合間へと沈みゆき、雲は厚みを増して行く。


 霧雨の舞う中、リグルは思案顔を必死で繕いながらタクトを振り続ける。
 だが、何れの妖蟲も自らの演奏に夢中故にまるで前を向いていない。
 正直に言って困り果てていた。顔には出さないが、見通しが甘かった事を後悔する。


 はて、この状況を打開にするにはどの様な策を打てば良いのか。
 無い知恵を振り絞って考えるも、いかんせん情報が手元に少なすぎる。
 肩の老妖蟲にもこっそりと耳打ちするも、やはり専門外の様であまり良い意見は貰えなかった。
 有効な策の一つも思い浮かばず、今日は解散以外の道が無いかと思われたその時。





 「あら、貴方達一体何してるの?」







▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


 「つまりは、その子の為に蟲達で楽団を結成したと、そう言う事ね」


 夕陽をそのまま紡ぎあげた様な金髪に、雲一つない青空の如く澄み渡る碧眼。
 その容姿を一言で表すなら正に人形。カチューシャでそのショートヘアーを纏め、傷一つない瑞々しくも健康的な肌をした少女は、切り株に腰かけリグルの話を聞いていた。


 「うん。その通りなんだけど、結果は見ての通り……。アリスは何か良い方法を知っている?」


 アリス・マーガトロイド。
 魔法の森の一角に住居を構え、七色の魔法を操ると呼ばれる魔女。それがこの少女の正体である。
 彼女は比較的最近に幻想郷に”戻って来た”と言う事もあり、リグルと知り合ったのもつい最近の事である。
 だが妖蟲に対して冷たい態度を取る物が多い中、不思議と友好的だった彼女とは友人とは行かないまでもそれなりに交流がある。


 「勿論知っているに決まっているわ。 楽団の練習の仕方……だっけ? そんなのは簡単な事よ」


 眼を爛々と輝かせ、己に陶酔した表情を浮かべつつ胸を張る少女。
 だが、正直に言ってリグルはアリスが少しだけ苦手だった。
 アリスは決して悪い人では無い。悪意を持って当たってくる事は殆ど無いし、良識ある人柄である。
 加えて博識であり、手先も器用である故、何事もそつなくこなし頼れる事は間違いない。
 だがしかし、


 「私がコーチをしてあげるわ」
 「……は?」


 「要は、彼らに練習の仕方を教える者が居れば良いのでしょう? 私がやってあげるって言ってるのよ」
 「えーっと……、失礼かもしれないですが、アリスさん、音楽のご経験は……」
 「ある訳無いじゃない。子供の頃に遊び半分で触った事ある位よ」
 「え……でも、それじゃ……、どうやって?」
 「演奏って言う位だから、”奏を演じる”のでしょう? 演劇なら私の得意分野の筈よ」


 だがしかし、彼女は少々一般とは離れた、有体に云えばトんだ思考の持ち主である。
 妖怪の基準に照らして尚、突拍子もないと感じざるを得ない彼女との会話は少々リグルにとっては怖ろしい物だった。


 「いやいや、そんな無茶な! そもそも今は演奏が云々以前の問題だし……」
 「だったら一回やって見せなさいよ。隣で見ていてあげるから」


 全くもって破天荒。理屈も何も無い提案にも拘らず、自信の程だけは溢れるほどに伝わってくる。
 不安感しか感じないと言うのがリグルの本音ではある。
 更に言えば、最終的にはどうにかしてしまう事が殆どであるからタチが悪い。
 若干の頭の痛さを感じつつも、リグルは提案を受け入れ再度蟲達と演奏をする準備を始める。


 「分かったよ。何か気付いた事があったら教えてね」


 再び指揮棒を取りだしたリグルに、居並ぶ蟲達。
 再度集まった蟲達に目で合図を送り、意気込みを確認する。大きく振り上げた指揮棒に合わせ全員が演奏の態勢に入った。


 「さぁっ! 皆行くよっ――」
 「――ちょぉーっと、待ったー!」
 「ふぇっ……?!」


 突如掛けられた声に思わず素っ頓狂な声が出る。
 同時に掛けられた首元の指に、つんのめる様にバランスを崩したリグルはそのまま後方へと倒れ込む。


 ――ぼすん。


 温かく柔らかな感触に包まれる。
 仄かに樟脳の香りが鼻をくすぐり、真上にはアリスの顔が迫る。
 気付けば、すぐ後方に居たアリスの胸の中に抱え込まれるように受け止められていたのだ
 リグルの顔には戸惑いの表情が浮かぶ。


 「何よ、まだ始まっても無いんだけど」
 「それ以前の問題よ。一番の大元でこれが無きゃ始まらない部分、」


 「あなた、交響楽団(オーケストラ)って何か知っているの?」
 「何か……ってどういう事?」


 アリスにもたれ掛かったまま、きょとりとした眼を向ける。
 思わず飛び出そうになるのは、途方も無い程の庇護欲。
 それを強引に呑み下し表層を取り繕ったアリスは聡い顔で高説を述べる。
 だがそれとは対照的に深緑の髪とその先の触角へと伸びる手先が、蟲達に当惑気味の表情を浮かべさせていた。


 「”響き” を ”交じり合わせ” 、 ”楽” を奏でる ”団” なのでしょう? だったら、役割は、配置はどうなっているのかしら?」
 「役割? 配置? それはいったい何?」


 「団と言うからには、組織だって動く為のルールが必要な筈よ。楽団だったら ”パート” かしら。そう言うのは決めてないの?」
 「パート……分け? 考えた事無かったかも……」
 「後は蟲達の配置ね。種族で声質が違うのだから、最大限響きが交じり合う場に居なければならないわ」


 言われて蟲達を眺める。 ”それ” は確かに混沌と表現するに相応しい物だった。
 あらゆる種族がごったに混ざりタイルの如く犇めき合う。
 この状況は真に規律とは最も離れた位置に存在するだろう。
 互いに互いの顔を見合わせた蟲達は成程と相槌を打ち一様に七色を見つめ始めた。


 「そっか……、私達のはまだ交響楽団(オーケストラ)ですら無いんだね……」
 「それが分かっただけでも一歩前進。過ちを知って魔法使いは成長するのよ」


 「私は妖蟲だけどね。でも、ありがとう。それで、その ”パート分け” って言うのはどうすれば良いの?」




 「知る訳無いじゃない。私音楽やった事ないもの」




 「……はい?」




 ――湖の冷たい空気を運ぶ風が辺りに吹き込む。


 「いや、まぁ、確かに最初にそう言っていたけどさ、その割には随分詳しかったじゃない」
 「あんなの全部、推測よ。劇団に関する知識は人並み以上にあるから、そこから予測しただけよ」


 「じゃ、じゃあ私達はいったいどうしたら良いの?」
 「プリズムリバーにでも聞いたら良いんじゃない?」
 「プリズムリバーに?!」


 「だって、あいつら音楽の専門家でしょ? 餅は餅家って言うじゃない」
 「そりゃ、確かにその通りかもしれないけど。私が頼んで協力してくれるかなぁ……」


 湖の畔。紅い館とは別の小さな洋館。
 そこに音楽好きの騒霊が住み着いている事は聞き及んでいる。
 彼女らに指示を仰ぐ事も考えなかった訳ではない。だが、まともに取り合ってもらえる保証は無い。
 リグルの側には何も彼女らに与えられるものが無いからである。
 霊と言う者は大凡物質に執着が無い。その精神を満足させる物だけを糧に生きる存在である。
 彼らとまともにコミュニケーションを取った事の無いリグルにそれが分かる道理は無い。


 「まぁ、大丈夫じゃない? 白いのは話が通じないし腹黒いのは注文が多いけど、ルナサは割と話せる方よ」
 「そうは言っても私は会った事ないんだけど」


 「あら、”知りもしない”人を想像だけで畏れるのかしら? 大した王様だ事ね」
 「む……。分かったよ、駄目元で頼みに言ってみるわよ」
 「まぁ、待ちなさい。そうは言ってもルナサはルナサで ”曲者” よ。だから、ちょっと耳を貸しなさい――」


 僅かに身を屈め、その小さな耳に何事かを呟く。
 最初に疑問。後に困惑。最後に不安。くるくると変わり続ける表情にアリスはやつきを隠せない。


 「……本当に大丈夫なの?」
 「大丈夫に決まっているわよ。私が付いているんだもの」
 「あはは……、それは心強いですね……」


 リグルは大嘘による心中の溜息を引き攣った笑顔に覆った。
 集まった蟲達に一旦の解散を命じ、二人は洋館へと歩を進める。








 「それで、私の所に来たと」
 「その通りよ。良かったらこの子に協力してあげて」
 「どうか、よろしくお願い致します」


 煤けた白い漆喰の壁に、数え切れぬ年月を経て磨きこまれた黒光りする木の梁。
 歪な硝子を積み重ねたシャンデリアの温かな光が部屋を琥珀色に染め上げる。
 中央に鎮座するソファに向かい合う様に腰かけるのは三名。
 糸目の黒いゴシックドレスを着た少女に二人は向かい合う様に腰かけていた。


 「話は分かった。協力も吝かではない、人間に向けたコンサートは私達も計画していた事だ。だがな、」


 理知的な瞳がリグルを捕える。
 実際その物腰は霊とは思えぬ程物腰が柔らかで、我を通す事が少ない。
 此方の話を良く聞き無碍に否定をする事は無い。これまでの事は全て杞憂であったのかとも感じる。
 一点の事実を除くのであれば。


 「――リグルよ。お前と協力するメリットは何だ? 私達はお前達と協力する事で何を得る?」


 (……来た)


 概ね予想していた質問。
 彼女は穏健派であると同時に現実主義者(リアリスト)にも分類されるのだろう。
 こちらの意見を聴く一方、自らの利益を度外視する事は無い。
 そして、見返りが無いと判断されれば協力は望めないだろう。
 故にこの質問は勝負である。この返答如何で全てが決まる。


 「新しい音楽の可能性を提示する。必ず最高のライブを披露してみせる。これで足りない?」




 アリスからアドバイスされた事。
  ”彼女達は音楽こそが本質、その知を満たす事が何よりの糧”
 だから、私達の ”試み” その物をベットすれば彼女達は乗ってくる筈。
 蟲のオーケストラ、その概念その物に彼女らは興味を示してくれる筈”だった”。


 「足りない足りない。全然足りないね」


 シャンデリアの灯がゆらりと揺れる。
 部屋にできた光の陰陽がルナサの顔に影を落とす。


 「蟲のオーケストラ、確かに面白い試みじゃないか。蟲の声は天然の音楽として古来親しまれてきた。だがな、それが楽団として成立するかは余りに未知数が過ぎる事はないか?」


 「だから、私達はこうして貴方達に協力を求めた。成功へ向けて全力を尽くす事を約束するから……」
 「言うは易し……、だ」


 見開かれた糸目の奥の黒眼、その漆黒に吸い込まれる錯覚。
 呑まれている。交渉人としては失格のその状態にアリスが助け船を出す。


 「あのね、ルナサ。私も練習には付く。決して、荒唐無稽な話では……」
 「これは私とリグルの交渉の筈よ。アリスは口を出すべきじゃない」


 「リグル。もう一度聞く。お前は”私達に何を与えてくれる”のだ?」


 回す。回る。頭を回す。彼女が真に求めている物を探し出す。
 ヒントになるのはアリスの言葉。プリズムリバーの要求とは何なのか?
 彼女達にとって音楽とは何だったのか。何を求めているのか。
 だが、そんな基本的な事すらも今では正確に思い出せない。


 ――“音楽に対する知の充足”それを最大限に満たす事を考えなさい。


 捻じれた輪の如く纏まらない思考に、突如飛来するアリスの念話。
 目線だけを横に配れば、此方からしか視えない位置で親指を立て、ガッツポーズを送っている。
 一瞬イラっとしたが、頑張れと言う意思表示なのだろう。恐らくは。
 だが最大限とは何だ。音楽の知とは何だ。そして、前回の私の提案に足りない物は何だ。


 (……!!)


 三つの鍵が紐に絡みつき一本の線へと繋がってゆく。そして、辿りついたのは一つの結論。




 「感動を。 ”私達と共に” ライブを成功させた感動を貴方達に提供してみせる」




 真っ直ぐに前を向く視線とそれを射抜く力強き視線。四の瞳が机の上で交錯する。
 揺れる灯りが二人の影を揺ら揺らと弄ぶ。




 「……ふふっ。良い答えね。観客でいる等勿体なさ過ぎるからな。是非とも参加させて貰おう。そして、成功に向けた練習には惜しみない協力を約束しよう」


 「――っ?! 有難う御座いますっ!!」
 「ルナサ……」


 「意地悪な問いをしてすまなかったな。だがしかし、私が納得しても後の二人が問題になってしまうからな。不安の種は少ない方が良い」


 「私からもお礼を言うわ。ありがとう、ルナサ」
 「だが私は基本的に指導するのは苦手なんだ。私はアドバイスを出す形で基本はアリスに指導をお願いしたいがそれで良いか?」
 「私も最初からそのつもりよ。困った事があったらすぐに聞きに来るからよろしくね」
 「あぁ、よろしく頼む」


 氷の如き怜悧な表情が崩れ、柔らかな笑みが頬に浮かぶ。
 極限にまで張り詰めた緊張の糸が解れ胸を撫で下ろすリグルは、その差し出された手に一瞬気がつかない。


 「……ル ……リグル。どうしたんだ、もしかして私は嫌われてしまったのか?」
 「ふわっ?! ごめんなさい!! 私の方こそよろしくお願い致します」


 頬を上気させながら興奮気味にぶんぶんと腕を振る様子に複雑な表情を浮かべる黒の少女。
 実の所ルナサはこの申し出に乗り気ではなかった。可能なら注文を付けて追い返そうとも考えていた。


 何故か?
 彼女が ”妖蟲” であるからだ。


 妖蟲と関係を持つだけで、森の妖獣から軽んじられる事は想像に難くない。
 それはルナサに気遅れを起こさせるのに十分過ぎる理由。
 だから、そうしなかったのは純粋な知識欲、蟲の楽団と言うフレーズに惹かれたからである。
 奇しくもリグルの狙いは完全な形で成功していた。


 余りに無邪気。余りに純粋。
 先入観なしで見ればなんと美しく、活発な娘か。
 その姿と自らの打算的な感情を見比べる度、遠の昔に失った筈の心がずきりと痛む。
 僅かに開いた糸目の先が彼女のびいだまの様な瞳に吸い込まれる度、にかりと実に良い笑顔が返される。


 「あの……、私はルナサさんの事をそれ程詳しくは知らないんですけど、普段どんな音楽を演奏されるんですか?」
 「げっ……、ば……ばかリグル!」


 「ほぅ。よくぞ聞いてくれた」


 瞼は殆ど開いていない。
 先ほどまでと何も変わらぬ糸目の奥に覗くのはまさに狂信者だけが持つそれであった。
 明らかに引き攣った表情を浮かべるアリスに対して、能天気な顔を崩さないリグル。


 「あ、私ちょっと急用を思い出したから……。悪いけど先に帰るわね」
 「まぁ、待ちなさい。実は最近流れ着いた新しい楽譜が手に入ってだな、これが実に興味深いんだ。譜面だけでも眺めて行きたまえよ」


 優しい言葉とは裏腹に、言霊に籠もるのは尋常でない程の威圧感(プレッシャー)。
 それは本人の意思すら度外視した規格外の強制力。




 二人が外の空気に触れた時には、夜が明け、陽が燦々と大地を照らしていた。




 「……えらい目に有った」
 「二度目の日の出を見ずに済んだだけでも僥倖ね……。気をつけなさい。大人しそうな顔をしていても彼女だって霊の一種なんだから……。途方も無い執念でこの世に留まり続けるクイックシルバーなのよ……」
 「うへぇ……」












▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


 それから数週間後の人里。


 「ほら、リグルこっちこっち!」
 「ちょ、ちょっと待って! ここ本当に通れるの?」


 家屋と家屋の隙間。
 犇めき合う様に立ち並ぶ一般の民家の間の隙間は本当に狭い。
 理沙がその小柄な体を滑り込ませるように入れてすいいすいと通り抜けるのを後ろから追いかけるのはリグル。
 壁と壁の間で擦れて破れそうになる羽を必死で守りつつ、ずりずりと壁の間を進む。


 「うわっ?! 理沙?! こっここ無理!! 廂と物置きが飛び出てて通れない!!」
 「それ位潜りなよ。野生の妖怪の癖にそんな事も出来ないの? もしかして運動音痴?」


 民家の子窓に着いた雨避けの廂が、張り出しその下には小さな物置きが置かれている。
 理沙はその間に出来た更に小さな隙間に体を滑り込ませ何なく進むが、それは極めて小柄な理沙だからこそできる事。
 理沙よりは大きなリグルには通れそうにも無い。


 「野生って……。森と此処じゃ勝手が違い過ぎてどうにもならないよ……」


 仕方なくリグルはその両側の壁に手と足を突っ張り、壁を廂の上を通り抜ける。
 猿のように壁を登るリグルの格好は滑稽で、偶然にも窓の傍に通りかかった民家の住人は訝しげな瞳でリグルを眺めていた。


 「――~~~ッッッ」


 己の格好の間抜けさとその姿を見られた事の羞恥心でリグルの頬は真っ赤に染まる。
 その向こう側に降り立った時既に理沙は狭い隙間を通り抜け、開けた路地で此方に向かい手を振っている。
 がむしゃらに廂を乗り越えると、つんのめりそうになりながらもその手に向かって細い路地を駆け抜けた。


 「ほら、リグル」
 「あ、ありがとう」


 家との隙間よりは明るい、薄暗い路地から伸ばされた手を取りようやくその隙間から抜け出す。
 辺りに広がるのは民家の勝手口と、道に作られた用水路に蓋をする木製の踏み板だった。


 二人は、理沙の案内で人里の居住区へ遊びに出ていた。
 これまで眼の事を隠すため、部屋の外にはあまり出たがらなかった理沙だが、その必要も無くなったのでリグルが誘ってみたのだ。
 最初は渋っていた理沙だが、いざ外に出て見ると以外にも乗り気で道案内を買って出てくれた。


 「此処に来るのも久しぶりだなぁ……。雑貨屋のおばあちゃん元気にしているかな」
 「ふぅ……、なんだか静かな所だね。表通りとは大違い」
 「まぁ、この通りを使うのは近所のご婦人と子供たち位だからね。平日の昼間なら尚更よ」


 ほんの少し生臭い生活の臭いと、淀んだ空気の漂う薄暗い通り。
 その左右を見渡しても、塀の上を歩いている猫以外何も眼には入ってこなかった。


 「ほら、こっちだよ」


 手を引かれてその通りを東へと進む。
 探る様な手つきで空いた右手を前方に出してはいる物の、その足取りは驚くほどしっかりとした物であった。
 暫く歩いた先、一軒の店の先で少女の脚は止まる。


 「おばあちゃん! 久しぶりだね。元気にしてた?」
 「おや、その声は霧雨のお嬢さんかい? 久しぶりだねぇ」


 深い皺の刻まれた顔に、深く曲がった腰。
 民家の一角を改築して作られた小さな雑貨店の店頭に小さな老婆が座布団に座り商いを行っていた。


 「最近体の調子が良くなくてね。でも、もう大丈夫。これからはちょくちょく来れると思うよ」
 「あぁ、それは良い事だね。体は大事にしなさいよ。女の子なんだから」
 「おばあちゃんこそ、元気にしていてよね。私の遊びに来る所が減っちゃうのは嫌よ?」
 「何、私はまだ五十年生きるから心配するんじゃないよ」


 親しげに話す様子から、二人は旧知の仲らしい。
 だが、老婆は既にかなりの高齢に見える。
 今から五十年となれば百歳は優に超えると言う事だろうが、人間の寿命とはそれ程に長い物だっただろうか。
 自分の知らぬ内に人里の医療は飛んでも無く発展しているのかもしれない。
 そんな事を考えながら理沙の後ろに立っているとふいに、理沙から声が掛けられる。


 「それで、こっちがリグル。私の新しい友人よ」
 「おやおや。こりゃまた可愛らしい坊ちゃんだこと。何だかんだで理沙も年頃の娘になったんだねぇ……」
 「いやいや、そんなんじゃないから。ありえないから」


 なにか盛大な勘違いをされたような気がするが、細かな事を気にしても仕方がない。
 愛想笑いをして誤魔化すと、理沙に手を引かれて店頭に並べられた駄菓子選びが開始された。


 「ねぇ、リグルは甘いのと辛いのどっちが好き?」
 「うーん。どちらかと言えば甘いのが好きかな」
 「んじゃ、おかきね」
 「そう言うと思ったよ!!」


 「私は干し柿でも貰おうかなー」
 「わたしもー。わたしもそれが良いなー」
 「おばあちゃーん、これとこれ下さーい」
 「はいはい。理沙ちゃんがお友達連れてくるなんて珍しいし、今日は鼈甲飴をおまけで付けといてあげるよ」
 「やった! ありがとう!」



 幾らかの小銭を渡し商品を受け取る。
 小さな紙袋に入れられたそれらのお菓子は粗末ながらも、不思議と気分を高揚させる気がした。


 「ねぇ、リグル。折角だし外の景色の良い所でこれ食べない?」
 「え? 外? 大丈夫かな。昼間とは言え野良妖怪が出る可能性もあると思うけど……」
 「その為にあなたが居るんでしょ? 頼りにしているのよ。護衛さん?」
 「そう言えばそうだっけ……。ま、里近くに来るような脳無し位なら万一であっても逃げればどうにでもなるか」


 決まりだね。そう言いながら路地を駆けだした理沙を追ってリグルも走る。
 だが、その時。
 突然塀の上から飛び降りてきた猫が目の前の地面に降り立ちその小さな体を(巨大な体躯を)しならせると、民家の軒に飛び乗った(窓を打ち破り、内部の人間へと襲いかかった)。


 「リグル? 置いてくよ?」
 「あ、あぁ……ごめん。今行くよ」


 見間違いかと思いもう一度猫に眼をやれば軒先で丸くなり毛繕いを始めている。
 何一つおかしな事は無い日常の光景。
 見間違いだと自分に言い聞かせ、理沙のいる方へと視線を動かす。


 視界の端で巨大な蜘蛛が人だった何かを貪っている。
 口元に見える鮮やかなピンク色と、対照的に青ざめた肌色。


 「?!」


 咄嗟に猫の方に振り替えるもやはり、光景は先ほどと何一つ変わりはしない。
 小さな虎猫が自分の脚を舐め毛繕いに耽っているだけ――


 ――ジ……ジジジッ…


 視界に、霞が掛る。
 嗅覚が鈍く、燻って行く。


 薄暗い通りに広がる紅い染み。
 道の脇には人 ”だった” モノの残骸と粉々になった甲殻が無数に散乱している。
 木粉と血液の匂いだけが立ち込める裏路地は、死骸の安地場と化していた。


 昼間だと言うのに、陽の刺さない通り。
 動く物等何一つ居ないその通りに降り立ったのは巨大な蜘蛛。


 緩慢とも違う、俊敏とも違う。
 音を経てず背筋の凍るような精密さで移動するその動作は紛れも無く、獲物を狩るハンターのそれ。


 一軒。また一軒とその軒先を通り過ぎて行く。
 だが、ある一軒の民家。そこで蜘蛛の脚は止まる。


 ゼンマイの切れたカラクリ人形のように停止する蜘蛛。
 そのまま、時は流れ銅像のように制止し続ける蜘蛛に痺れを切らしたのか動き出す影があった。


 それが動いたのは民家の中。
 窓の下に隠れて居たのだろう、中年の男性が僅かに窓から顔を覗かせたかと思うと一目散に部屋の奥へと逃げ行った。


 だがしかし、その脚は途中で止まる。
 白い糸に絡め取られた脚は行き場を失くしその場で崩れ落ちる。


 壁を突き破り民家へと侵入した蜘蛛はその男にのしかかりその体に糸を巻き付けて行った。
 恐怖と締め付けられる糸の苦痛に歪む顔に、絶叫が辺り一帯に響き渡る。
 数分も経たず糸の塊と化した男は蜘蛛の脚に抱えられると、そのまま――


 「――グル!! リグル!! 本当にどうしたの急に立ち止まって?」
 「――?! ………………ぅ、うん……――?!」


 血に塗れた路地に理沙が立っている。
 足元に転がる躯に眼もくれず此方に向かって歩いて来る。


 また一つ頭蓋を踏み割り脳漿をその白く細い足にこびり付かせ、此方へ向かって歩いて来る。
 脚に絡みついた腸の端から未消化の内容物が飛び散り、その綺麗な衣に飛び散る。


 その音に反応したのか、巨大な蜘蛛が少女に気付く。
 静かな身のこなしで、家屋の上に飛び乗った蜘蛛が身を屈め、その首筋に狙いを定めた。


 だが、理沙は気付かない。
 まるで何も存在していないかのように、此方に向かって歩いて来る。


 「り……、理沙……だめ、こっちに来ちゃ駄目……!」
 「?? ……何言っているのリグル?」


 あくまでも普段と変わらず、呆けた顔をする理沙に無情にも蜘蛛が襲いかかる。
 全く同時、リグルの体は無意識に理沙に向けて駆けだしていた。


 自分でも信じる事が出来ない程の速度、リミッターが外れたとしか言いようの無い速度でリグルは少女の元に辿りつき、覆いかぶさるようにして地面に押し倒した。


 しかし、その背に蜘蛛の牙は迫る。ぐっと来るべき衝撃に備え身を固くし眼を瞑るが、何時まで経ってもその瞬間は訪れない。


 「……ね……ねぇ、リグル……その、どいてくれないかな……?」
 「う、…………へ、…………?」


 少女の声に我に返ったリグルが周囲を見回すとそこは、いつもの人里。
 血の臭いなどしない。ほんの少し生臭い生活臭のする平和な裏路地。


 頭部のみになった躯も、醜悪な蜘蛛など何処にも無く、目の前にあるのは幼い少女の顔のみ。
 息が掛る程近く、初めて視た少女の顔はあどけなさが残る物の驚くほどに整っていて、同性ながらに胸が高鳴って――


 「あ、うわっ?! あ、…………その…………ごめん……」


 理沙から飛んできた訝しげな視線に気付き、慌てて飛び退く。
 服の裾に付いた泥を叩くと、


 「幾ら人通りが少ない路地だからって、外でそう言う事しちゃうのは良くないと思うなー」
 「ち……、違うって?! そう言うつもりじゃなくってさっきのは…………」


 言いかけて言葉に詰まる。
 先ほどまで自分の見ていた物は何だ? あんな週末の光景は今のこの周囲の何処にも存在していない。


 「ふふ。冗談よ。 ”猫が飛びかかって来た” くらいで大げさなのよ。リグルは。私だってそこまで虚弱じゃないよ。守ってくれようとしたのは嬉しいけどさ」
 「……あはは。そうだよね、ごめんごめん。ちょっと張り切りすぎちゃったよ」


 あはは、と抱く疑問は胸の中にしまい曖昧な笑みでそれを覆い隠す。
 少なくとも先ほどの光景は理沙には見えていないようだ。
 ならば気のせいなのだろう。リグルはそう思い込む事にした。


 「さ、早く行こうよ。お昼を過ぎると熱くなるし」
 「そうだね。それじゃあ行こうか」




 表通りに出た所で一人の女性が視界に入る。
 紅い袴に白い衣、簪(かんざし)を頭に付けた巫女らしき女性。
 目じりや頬に刻まれた細かい皺や、良く手入れはされているが、艶を失った髪から中年に差しかかっている事が見て取れる。


 茶屋の軒先で団子を食んでいた彼女は理沙を見つけると、大きく手を振り話しかけてきた。


 「霧雨の娘さんじゃないか。 外を出歩いているなんて珍しいじゃないか。もう眼は大丈夫なのか?」
 「その声は、巫女様? お久しぶりです。別に里内なら苦労して無いですし、大丈夫ですよ。巫女様こそ珍しいですね、人里に居られるなんて。最近は次代の修業ばかりで殆どこちらには降りてこられなかったのに」
 「ちょっと慧音の様子を見に来たんだよ、 ”一応” 神職だからね」


 そう言って茶に手を伸ばす。
 袖から見えるその腕は、その外見からは想像もできない程に引き締まり、そして無数の古傷と老婆とも思えるほどの深い皺が刻まれていた。
 ずずりと、茶をすする巫女に理沙は不安げな表情でたずねる。


 「はぁ、噂には聞いておりますがやはり良くないのですか?」
 「体の方は回復に向かっているのだけれどね……。まぁ、まだ何ともだよ」
 「そうですか……。里の者が不安に思っていると父様が以前言っていました。早く良くなられると良いのですが……」
 「いっちょまえに気を使って、子供は難しい事を気にせずに遊んでりゃ良いのよ。それはそれと、隣に居るその子は誰だい」


 「あぁ、この子は私の新しい友達。名前は――」
 「グーバ。フライ・グーバです。よろしくお願いします」
 「そう、グーバ ”君” か。……へぇーえ。ふぅーん?」
 「あの、勘違いしてると思います。絶対に大きな勘違いしています」
 「???」


 二人をしげしげと眺める博麗の巫女。
 慌てたような様子で否定する理沙と彼女にリグルは小首を傾げていた。


 「さて、私はそろそろ行こうかね。ご主人! 勘定お願い!」
 「あいよー」


 威勢の良い声が店の奥から聞こえてくる。
 店内へと入って行った彼女は懐から取り出した巾着袋で手早く勘定を済ませた。
 店の外に立つ二人は出てきた彼女に挨拶をする。


 「それでは巫女様、失礼いたします。」
 「あぁ、あなたも体には気を付けるんだよ。そっちの子もね」


 「あぁ、それと」


 背後に声を掛けられたのはその場から立ち去ろうとした時。
 雑踏の中、人の行きかう街道でリグルと理沙の背に聞こえぬ筈の声が響いた。


 「人間のふりは程々にしときなさい。妖怪は妖怪らしくしているのが一番よ、あとね――」
 「「――?!」」




 「――理沙はひねくれた変な奴かもしれないけど、仲良くしてやってね。 ”リグル” 」




 二人は振り返るが巫女の姿は何処にも無い。
 茫然とした二人はただただその顔を見合わせた。


 「私、羽も触角も隠してたよね?」
 「……うん」


 そう言いながらリグルの頭と背中を触る理沙。
 そこには、当然触角の固い感触も、薄い羽のツルツルとした手触りも無い。


 「……行こっか?」
 「……うん」


 幻想郷の守護者、結界の守人。
  “埒外の存在” の片鱗を味わった所で二人は再び外を目指す。








 「でもさ、外に出してなんて言って簡単に出して貰える物なの? 私は霧雨屋の通行証があるから丁稚かなにかだと思われているみたいだけど、理沙はそういうの持って無いでしょ?」
 「まぁ、確かに正面の門から子供二人組はちょっと怪しまれるでしょうね、だから、裏門の方を使いましょう」
 「裏門?」
 「門って程じゃないんだけどね。何だか知らないけど壁に空いている穴を皆が通用門として使っているのよ。こっそり里の外に行くのには重宝されているみたいよ」
 「へぇ……知らなかったなぁ」
 「私も知らなかったんだけどね。最近里の子供たちの間で噂になっているらしくてね。以前、さっきのおばあちゃんが教えてくれたのよ。」
 「友達から聞いた訳じゃないんだね」
 「………」
 「あ゛いだっ!!」


 つかつかと無言でにじり寄って来た理沙におもむろに頬を抓られる。
 ぎりぎりと締め上げられる独特の痛みに思わず涙が滲んだ。


 「ふんっ……」


 ぱちりと抓られた指が外されるも、頬は相変わらずひりひりと痛む。
 不機嫌そうに先を行く理沙に付いて行った先には、トタンの屋根で隠された小さな穴がぽっかりと空いていた。
 子供ならぎりぎり入る事ができる小さなその穴を潜ると、壁と堀の間に存在する小さな足場が存在していた。
 誰が用意したのか腐りかかった梯子が堀に渡され、里の外へと繋がっている。


 リグルに背負われ、堀を飛び越えた二人は近くの森へと入って行った。






 人里近くの雑木林。
 木漏れ日が腐葉土を照らす朝の静寂に姦しい声が響く。
 その一角にある開けた空間で倒木に腰掛けた二人は、袋から取り出した駄菓子を食べながら談笑に興じていた。


 「あー。おかき美味しいなー」
 「ごめんってー。ほら私の干し柿ちょっとあげるから」


 はむり、と差し出された干し柿のかけらを頭だけ動かして理沙の手から直接口に運ぶ。
 口に干柿のかけらが入って来た瞬間、程良い酸味と、深い甘みが口いっぱいに広がり鼻へと独特の香りが抜けて行く。
 咀嚼する度に増す甘みを名残惜しみつつごくりと飲み込むと、泥臭いながらも不思議と不快で無い後味が口の中に残った。


 「…………おいしい」
 「リグルって甘党だったの?」
 「辛いのよりは甘いのが好きかな。蟲なんだから当然でしょ?」
 「いや、知らないし」


 笑って理沙は残りの干柿を口に放り込む。
 竹で出来た水筒を取りだし、喉を潤すとそれをリグルに放ってよこした。


 「じゃ、それも気に入るんじゃない?」
 「ん?」


 言われるままに中身を口に含む。
 同時、俄かにリグルのその深緑の瞳が見開かれた
 蕩ける様に甘い訳ではない、ほんの僅かに甘味を感じる程度。
 緋衣草の蜜の様に仄かな香りと風味がその水には付けられていた。


 「私のお気に入り。出かける時にはよく作って貰うのよ」
 「これ、良い……これ凄く良いよ! お願い。今度これの作り方教えて!」


 蛍は成虫となって以降は水以外に、何を口にする事も無い。
 妖蟲であるリグルには必ずしも当てはまる事では無いのだが、それでも飲料、特に水に対する拘りには並々ならぬものがある。
 そして手元のそれはリグルの趣向を刺激するのには十分過ぎるほどの逸材であった。


 「あはは。良いよ、今度女中さんに伝えとく。けどその代わり……」


 きらり、と理沙の瞳が光を帯びる。
 口元が大きく釣り上がり、悪戯っぽい笑みがリグルを捕えた。


 「今 ”隠している事” 、吐きなさいよ」


 「え……、何のことか、……なぁ。か、隠してる事なんて、無い、です、よ?」
 「……隠す気あるの? そんな態度するんだったら、手元の早く返してよ」
 「あぐ……」


 手元にある水筒と、胸中に在る事物との間で心が激しく揺れ動く。
 ぐるぐると目を回しながら水筒と理沙の顔を交互に見つめ悩むリグルだが、それも長くは続かなかった。
 無意識の内に、その手が水筒のふたに伸び、中身を口に含んでいたからだ。


 「リーグル?」
 「あぅぅ……」


 俯くリグルの眼の前に迫っていたのは満面の笑み。
 暫く悔しむように唸っていたリグルだが、観念したかのように溜息を吐くと小さな笑みを浮かべた。


 「分かったよ。本当はもう少し黙っておくつもりだったんだけどなぁ……」


 ぼやきながら髪の毛を掻きわける。
 髪の間に隠れた触角が艶のある前髪と一緒に搔き上げられ、ひこりと大きく頭の上で大きくで撥ねた。


 「でも、実の所そんなに大した事じゃないんだ。あんまり期待しないで聞いてくれると嬉しいな」


 握られたリグルの掌から這い出てきたのは二匹の蟋蟀(コオロギ)と三匹の鈴虫(スズムシ)。
 通常の蟲よりも二回りほど大きな彼らは、近くの切り株に降り立つと、ハの字を描く様に整列した。


 「理沙。ちょっとこっちに来てくれる」
 「ん? 良いよ」


 蟲達の正面、自らと蟲達の居る切り株の間に理沙を座らせる。
 改めて理沙の前に立ち少しだけそのシャツの襟を正すと、小さく息を整え蟲達へ向き直った。


 「いきなりでごめんね。でも皆ならきっと大丈夫。予行演習だと思って思いっきりやっちゃおうね!」


 りぃーんと、美しいながらも力強い鳴き声が一度だけ、高らかに響き渡る。
 どのような表情をしているのかは理沙からはうかがい知れない。
 だが、少しだけ緊張しているような、それでいて得意げになっているような、そんな期待と不安の入り混じった声色を理沙は感じていた。


 「さぁ……、それじゃ始めようか」


 すっ、とその手を上へと上げる。
 気持ち静かに、周囲から聞こえて居た梢の擦れ合う音が遠くなったかのような、不思議な感覚が訪れる。
 そして、リグルはゆっくりとした動作で腕を振り始める。


 先陣を切ったのは、彼らの中では一回り小柄な鈴虫。
 背に畳まれていた羽を高らかに広げたかと思うと、全身を使い大きくそれを震わせた。




 ――思わず、言葉を失った。




 極めて細かく、そして繊細な音の波が林間に満ちる。
 人の身では決して辿りつく事の無いソプラノの独奏が始まった。


 大海のように青く、果て無く澄みわたった空へ一筋の橋を掛けて行く音の粒。
 それは泡沫の夢の如き儚さ、けれどもしかし、確かな存在感を放って青い平原を駆け抜けて行く。


 駆け抜けた音が道となって後続の音達がそれに続く。


 重ねられる少しだけ体の大きな鈴虫(スズムシ)のメゾソプラノに蟋蟀(コオロギ)のテノール。
 最初横に付き従うだけだった彼らは、やがて同調し、互いの響きを融合させていく。


 静かに、そして空を埋める様に広がって行った音は再び二つに分かれる。


 一転、蟋蟀(コオロギ)のテノールが力強く鈴虫(スズムシ)を押し上げると、その羽を千切らんばかりに強く、高らかにソプラノが最高潮へと一気に駆け上る。


 歩くような早さ(Andante)であったテンポは、陽気で明るい早さ(Allegro)へ。
 二匹の体の大きな鈴虫が競い合う様に、その羽を掻き鳴らし合い、それを一回り小さなスズムシが補助する。


 その裏拍をややたどたどしいながらも、ほぼ完璧に相補し音に深みを与えて行く蟋蟀(コオロギ)達。
 空を渡る橋から、旋風へと化したその音の波は観客席(理沙)へ向けて直進し爽やかな微風を残して再び空へと舞い戻った。


 徐々に勢いを緩め、優しい春風となった彼らは最後に花の香りだけを残して終結する。


 再び、周囲に雑木林の喧騒が戻ってきた。
 蟲達と向き合い、その掌を握って終結の合図を出していたリグルはその構えを時、おそるおそると言った様子で理沙へ振り向く。


 だが、その理沙の様子にリグルは静止した。


 「……、ど……どうしたの?」
 「え……、あれ?」


 振り向いた先、惚けた様な顔の頬に流れるのは一筋の滴。
 それには、本人ですら気付いていない様子で、驚くリグルの顔を見て初めて理沙は自らの頬に手をあてその存在を知った。


 「ご、ごめん。私何かまた気に障る様な事しちゃったかな……?」
 「う、ううん違う! 全然違うの。ただ、」




 ――理由など、私自身にも分からない。




 「聞いた事も無い筈なのに、凄く懐かしい気がして……」


 胸の奥がじわりと熱くなったのに、それを焦がす焔は急激に和らいでいく。
 ぼりぼりと頭を掻くリグルは、一転して柔和な笑みを浮かべて理沙に近寄る。


 「気に入ってくれたのなら何よりかな。私も頑張ったかいがありそうだよ」


 「あのさ……、リグル。どうして……、私にそこまでしてくれるの? 今のだってちょっと練習した位で出来る事じゃないでしょう?」
 「さぁ? もしかしたら人間と仲良くするための脚掛かりに丁度良いと思ったからかもしれないよ」
 「嘘、声が上ずっている」


 「……怒らない?」
 「怒らない」
 「……何だか貴女を見ていると他人とは思えなくて。少しでも助けになれたらなと思っちゃうの。迷惑……かな?」


 理沙の眼が見開かれる。
 曇った水晶体にほんの僅かな鈍い輝きが灯る。


 「…………ううん、迷惑じゃない。むしろ嬉しい……かな」


 かぶりを振って答える理沙。
 それを視たリグルの表情がぱぁと明るい物に変わった。


 「皆も、ありがとう。最高の演奏だったと思うよ。今日成功したのは皆のおかげ。これは間違いない。でも、これでもまだ、完成までは程遠いんだ。我儘な主で申し訳ないけど、もしよかったら……後少しだけ付き合ってくれるかな?」


 こちらに背を向けて蟲達に話しかけるリグル。
 優しい言葉なのに、何か大きなものを背負っているように感じる。
 いつものへらへらとした様子からは想像もできないそれ。




 ――目前の少女のあまりに真っ直ぐな思いが心に突き刺さる。
 ――同時、自分のやろうとする事の愚かさに気付いてしまった。




 りぃーんと、硝子の鈴の音がその声に答える。
 にまりと笑ったリグルは、そっと手を差し出し、彼らを袖の中へと招き入れた。


 「ありがとう。またよろしくね」


 慈しみの籠った言葉、抱擁するかのような言葉が理沙の胸へと突き刺さる。
 なぜか、その姿は何時も見ているよりも大きく見える。




 ――今なら引き返せる。




 丁度最後の一匹が袖へと入った頃、その背に理沙の声が掛る。


 「あのさ……リグル。その……ありがとね」
 「どうしたのさ、あらたまって」
 「実はさ……、初めてだったんだ……。こんな風に同じくらいの子と遊び回ったりお喋りするの」


 うすうすは、感づいていた。
 普段は気丈に振る舞っているが、去り際に見せる悲しげな顔や時折見せる踏み込み方を探っている様な所作。
 友人の多い方では無いリグルにも心当たりは大いにある事だった。


 「だからさ、嬉しかった。単純に嬉しかった、私をこんなに気に掛けてくれた人なんて今まで居なかったから」
 「理沙……」
 「あのさ、……、私、何時までも待ってるから、絶対楽しみにしてるから、完成したら絶対一番に聞かせてよね」
 「……うん、当然だよ。その為に練習しているんだから。約束する」


 「約束……。ね、リグル」


 リグルが白い腕を差し出す。所謂 ”指きり” の手の形を作り、理沙へと伸ばした。
 僅かに優しい笑みを浮かべた理沙はゆっくりとその手に自らの手を伸ばし、小さく手を握ると小指を伸ばす。
 指先が僅かに触れては、驚いたかのように引っ込め、何度か躊躇した後に小指をその小さく白い指に絡めた。




 ――そうだ。私はもう一人では無い。
 ――だから、帰ろう。このまま何事も無くお家へ帰ろう。今日は ”何も無かった” のだから。




 「え……」




 理沙の視線の先、リグルの腕が中空を舞っていた。
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コメント



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2.274636削除
ああ……ああああああああ……なぜ、なぜ没にしてしまったのか……
いや、何となく理由は察せられる気もしますけど、あまりにも勿体無い……
まだしも、区切りの良いところまで読めたのが幸いだったと思うべきなのかも知れません。うーむ、感動と混乱がごちゃごちゃと入り混じって複雑な気分です。