なんの気まぐれか、私は旧都の外れにあるバーを訪れた。いつ来ても閑古鳥が鳴いていて、その寂れた静けさと、落ち着いたシックな雰囲気が、ここをひいきにしている理由だった。
「や、パルスィ。元気?」
扉を開けると、カランカランと来客を知らせる鐘が鳴り響いた。その音につられて、カウンターに向かってグラスを傾けていたヤマメが顔を上げ、パッと笑顔を見せた。くすんだ風景の中に、明色の花が咲いたようだった。
「……いつもと同じよ」
「鬱々としてるってわけかい? 少しは心の風通しをよくしないと体に悪いよ」
「ほっといて。それより、あんたはいつものごとくデート?」
「やだなぁデートだなんて。ただこうやって二人で寂しく呑んでるだけさ。ねぇキスメ」
ヤマメが視線を下げ、自分の隣のスツールの上で桶に入ってうとうとしているキスメに問いかけた。キスメは小動物のようにピクリと震え、私とヤマメをきょとんとした顔で見上げたあと、にぱっと屈託のない笑顔を見せた。何が楽しくてそんな風に笑えるのか。まったく不可解だ。
「……ふん。二人は仲良しってわけね。妬ましいわ」
「お、妬いてくれるの? 照れるなぁ、どうしようか」
「え。えと」
「……いつものクセよ。本音のわけないでしょ」
口癖にしていると、こんな時にからかわれるはめになる。さっさと座ることにした。スツールの、キスメの隣に腰掛ける。
だいたい、「寂しく呑んでる」なんて言っているけれど、こいつらが二人きりで静かに時を過ごすさまは、「楽しい」以外の何も表現していないように見える。
「呑んでるって、あんたはオレンジジュースじゃない……お酒呑めないの?」
「ああ、アルコールには格別弱いんだ。この子がべべれけに酔っ払った姿はまぁとっても可愛いんだけど、不特定多数の奴らに見せるにゃ忍びないからね、自重させてるんだよ」
キスメに向けた問いかけは、しかしヤマメによって返される。
「……いつも思うんだけど、あんたはこの子の保護者かなにか?」
「さぁ、なんだろうね。キスメはどう思う?」
「……うぅーん……」
ヤマメがにやにやしながらキスメの頭を撫でると、彼女は真剣に考え込んだあと、
「……ともだち」
と、別段面白みもひねりもない答えを返してきた。
ヤマメはその言葉をいたくお気に召したようでもあり、照れたようでもあり、少し顔を紅くしてキスメの頭をわしゃわしゃと撫でまわした。自分から仕掛けておいて恥ずかしがるなんて、抜け目ないようで抜けてる奴だ。
私はその光景に鼻をならしつつ、少し口元が緩むのを感じた。
このバーへ来るのは、一人で鬱々と暗い考えを貯め込むのに飽きて、少しは外に目を向けてみようと思った時だ。心のどこかで、誰か知り合いと逢わないかな、なんていう期待も密かに抱いている。積極的とも消極的とも言えない軽い衝動だけれど、それでも来てみると誰かしらがグラスを傾けているものだ。今みたいにヤマメがいたり、たまには一人で静かに呑もうという気まぐれを起こしたあのやかましい鬼がいたり。たいていは、済し崩し的にそいつらと呑むことになる。そうしてだらだらと話していると、意外にも心はどんどん軽くなっていく。風船から空気がゆっくりと抜けていくような感覚が、私は結構好きだ。
「えー、コホン。パルスィ、なにか頼んだら? 奢ってあげるよ」
「……照れ隠し?」
「そんなんじゃないって! まぁ……今はたまたま気分がいいからさ」
そこでここぞとばかりに高いウィスキーを注文してやった。幸せそうにしてる奴には、これくらいの負債はおわせてもバチはあたらないはずだ。なんていう褒められたものじゃない考えがあったわけだけれど、本人も納得していることだし別にいいだろう。
「最近、どう?」ヤマメが懲りずに声をかけてくる。
「どうって、なにが」
「なんか面白い奴が橋を渡ったりしないの?」
「そんな面白い奴がそこらへんにごろごろいたら退屈しないでしょうね。残念ながら、そんなのは……」
言葉を止める。思い当たる節が一件あった。
「どしたの? きゅうに黙って」
「いや、一人、変な奴がいたなって。面白いかどうかはわからないけどね」
「へぇ、どんな奴さ」
記憶を呼び覚ましながらゆっくりと答えた。
「それがまったく不思議なのよ。普段の私なら橋の10メートルくらい先からでも来る奴の姿は見えてるはずなのに、そいつに限っては全然気配がなかったわ。ううん。気配がないっていうのもちょっと違うな。なんていうか、そこにいることは感じていたのに、なぜかそれを気にしようとしなかったっていうか」
「随分曖昧だねぇ。どんな格好をしてたの」
「それが笑えるのよ。服は、山吹色の上着に苔が生えたみたいなみすぼらしいスカートなんだけど、問題なのはそいつの姿勢」
「姿勢?」
「そいつ、欄干の上で逆立ちしてたのよ。もうね、いろんなものがモロ見えだったわ」
「はぁ? なんだいそれ」ヤマメは噴出した。「逆立ち、ねぇ。まぁ妖怪なら、橋から落ちたくらいじゃ死なないだろうけど……で、パルスィはどうしたの?」
「いやまぁ、こっちとしてはそいつが落ちて死のうがどうでもよかったんだけど。でも一応声掛けなきゃなって思って、笑い噛み殺して注意したのよ。『あんたいったい、なにがしたいわけ? 自殺志願?』みたいな感じで」
「そしたら?」
「『意地悪なお姉ちゃんに言いつけられた罰なんです。どうかこのことをみんなに言いふらして、お姉ちゃんの悪行を世に知らしめてください』だってさ」
「どんな姉だよ!」からからと笑って、ヤマメは琥珀色の酒を飲みほした。
私も気分よくグラスを傾け、唇にあたる氷の冷たさを楽しみながら、アルコール度の高い液体をちびりちびりと、体の奥へと流し込んだ。体中を巡る血液が、ふつふつと沸き立っているようで愉快な心地になる。ここに来てよく顔を合わせる連中も、大概は愉快で面白可笑しい奴ばっかりだけど、まだまだ地底には変な奴がたくさんいるらしい。
「でさぁ、名前は訊かなかったの?」と、ヤマメ。
「……そういえば訊かなかったわね。いつの間にかいなくなってたから」
「古明地こいし」
惜しいことをしたな、と思っていると、それまで黙っていたキスメが突然小さな声で呟いた。
「え? 小石? どこの?」いささか面喰って、私はキスメに訊き返した。
「だから、古明地こいし。こいしはひらがな」
「……それが、そいつの名前だって?」
こくり、とキスメは頷いた。それを見て、ヤマメは得心がいったというようにポンと手を打った。
「ああ、そうか、こいしちゃんかぁ! なるほどなるほど、考えてみれば服装もぴったりだ。パルスィ、そいつがこいしちゃんなら、黒い帽子も被ってたでしょ?」
「ええ? ……ああ、そういえば、欄干の上に置いてあったわねぇ。その時は被ってなかったけど」
「逆立ちしてたってんなら当たり前さね。なーるほどねぇ、確かにこいしちゃんならやりかねないな。まったく何するか見当のつかない子だし」
「なに、あんたら、そいつのこと知ってるわけ? もっと教えなさいよ」
情報が一人だけ共有できてないのに苛立って、二人の方に体を傾ける。
「ああ、うん。こいしちゃんはね、ほら、地霊殿の――」
その時、カランカランと、来客を告げる鐘が再度鳴った。
思わずそちらを見ると、僅かに開いた扉の隙間から、ひらり、としなやかな影が入ってくるのが見えた。
「……猫?」
小さな影は、艶やかな毛並を明かりの下でてらてらと輝かせ、それがさも自慢であるかのように滑らかな肢体をくねらせる、二又の黒い猫だった。
なぜこんなところに、と思う間もなく、扉がさらに大きく開き、外から小柄の少女が入ってきて、言った。
「……これお燐。お店の中では人の姿になるようにと、いつも言っているでしょう」
お燐と呼ばれた猫はひょいと体をひねり、主人と思しき少女を見上げると、ぴくりと両耳を震わせた。次の瞬間には、小さな影はどんどん大きくなって、喪に服すような暗色の衣装を身に纏った赤髪の少女に変わった。
「なんとまぁ、えらいタイミングで来たもんだね」
ヤマメがこちらに顔を寄せて、ひそひそ声で言う。
「あれは?」
「地霊殿御一行のお出ましだよ」
地霊殿。この旧都に暮らしている者で、その名を知らない奴は一人もいないだろう。嫌われ者が集まる寂れた地底の中でも、さらに嫌われ者で偏屈な主人がペットとともに暮らす館。主人の名は、古明地さとり。
「……じゃああいつが」
「そ。こいしちゃんの愛すべきお姉ちゃんさ」
「ふぅん……」
私はグラスを傾け、横目でちらちらとその嫌われ者御一行様とやらを観察した。さとりの後ろから、さらに大きな影がそそっかしく入ってきた。髪はボリュームがありかつボサボサで、一目でガサツと見てわかる大柄の少女。胸の間には大きな紅いガラス玉のような物が嵌り込んでいる。入口につっかえた黒い翼を見る限り、烏かなにかの妖怪だろう。
「なんとまぁ、妙な組み合わせもあったもので」
「パルスィ、それ私らが言えることじゃないって」
ヤマメが微笑しながらつっこむ。どうやら、さすがの人気者も予期せぬ客の登場に若干緊張しているようだ。キスメのほうは、明らかに店の空気を一変させた連中にもなんのその、桶から体を伸ばしてオレンジジュースをストローでちゅうちゅう吸っている。ある意味凄い奴なのかもしれない。
新たな客は全部で三人のようだ。燐は猫らしくさっと動き、私たちからは遠い席を速やかに陣取った。烏の少女がどたばたとその後に続く。さとりはそんな彼女たちを見て軽く溜息をつき、多少申し訳なさそうに店内をざっと見まわした。その視線が何事もなく私を通り過ぎたのにほっとする。あの面白いこいしとかいう奴の姉とはいえ、あまり関わり合いになりたくない。
さとりは微かにバーテンダーに会釈をして、ペットたちが待つ席へと歩き出した。
ところで、私はここで肝心なことを忘れていた。さとりの嫌われ者たる所以はなんなのか、どうしても思い出せなかったのだ。たしか、持っている能力に関係があったはず。こいしの姉というのだからそれに似た力を持っているのだろうけど、ではこいしの力がなんだったのかといえば、それもよくわからない。逆立ち妖怪? そんなまさか。さとり、さとりというからには――
考えにふけって、ぼんやりとしていたのがいけなかったのかもしれない。あるいは高いお酒を呑んだせいで気が緩んでいたか。観察する視線に、観察される側の視線がぶつかった。つまり。
「あ」
さとりと目が合った。
不思議に透き通った、紫色の瞳が私を捉える。微かに落とされた翳りの中に、それまでの生涯で様々な紆余曲折を経験した者特有の憂いが見える。それでいて、色の薄い唇は緩やかに結ばれて、日々の生活にそれなりに満足しているようでもある。
整った顔立ちの少女にじっと見つめられて、私は少し動揺した。噂からでは根暗の薄ら寒いイメージしかなかっただけに、よくよく見てみれば可愛らしいのが意外だった。
「え、な、なによ」
思わず髪に手をやりながら問いかける。しどろもどろになっているのが自分でもわかってみっともない。
「いえ」
さとりはそう応じたあと、ふわりと笑みを浮かべた。眠っていた花がそのつぼみをそっとひらくように。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げ、彼女はペットたちの待つ席へと向かった。
「……は? え」
きょとんとした。あいつ、何でお礼なんか言ったんだろう? 私は何も話していないのに。気でも狂っているのか。
「ふぃー、緊張したなぁ。ねぇパルスィ、何て思ったわけ?」
「へ、思う? 何を?」
「だってさ、あいつってたしか心読めるじゃん。あんなにいきなりお礼言ったのは、パルスィの心を読んだからでしょ。なにパルスィ、可愛いなとか思ったわけ? なかなか隅に置けないなぁ!」
……そうだ、覚り。やっと思い出した。あいつは人の心が読める。ということは。
そう、ヤマメの言った通り、「案外可愛いな」と思ったのも読みとられてしまったのだろう。
「……うわ、なにそれ、すごい恥ずかしい……」
思わずカウンターにつっぷす。顔が赤くなっているのがわかる。なぜ「可愛い」以外の感想が思い浮かばなかったのかと自分を責める。橋姫たるもの、もっと剥き出しの醜い感情を、これでもかというくらいにぶつけたってよかったはずだ。覚り妖怪の持つ第三の目とやらをぶちりと潰すくらいの勢いで。なのに。
「……いきなりお礼なんか言うなよ。びっくりするじゃない。だいたいね、あんなこと言って説明もなしに去っていくのは自己満足じゃない。勝手に自分で完結して他人をほったらかしにするなよちくしょう。ああもう!」
「まあまあいいじゃない。ほら、これを機にあいつとお近づきになったらどうだい? 私もまださとりとは話したことないしなぁ」
「あんたの趣味に私を利用するな」
ヤマメは地底の人気者だ。なぜ人気者かといえば、どんな相手とでも明るく積極的に話をしようとするからである。そんな彼女は、旧都の妖怪連中と一人残らず仲良くなろうという計画を密かに進行中だ。そんなのは勝手にやればいいが、巻き込まれるのは正直御免こうむりたい。
「恥かかせやがってぇ……今度仕返ししてやる」
つっぷしたまま、横目で地霊殿の客たちを観察する。無愛想だけれども礼儀正しいバーテンダーが、三種類の色様々なお酒を席まで運んで行った。さとりはバーテンダーに何かを告げて、ぺこりと会釈をした。私のことなど忘れてしまったかのように澄ました表情をしている。ちったぁこっちも気にしろよ、とわけのわからない怒りが湧きあがってくる。
「パルスィ、酔ってる?」
「……んー……」
「そろそろ出よっか。もう十分呑んだでしょ」
「……もうちょっと」
「私を破産させるつもりかい。それにパルスィ、あんまお酒強くないでしょ。背負ってウチに連れて帰るなんて嫌だよ私は。ほら立った立った。お勘定は済ませとくから、先にキスメと外で待ってな」
そう言われて、私は渋々席を立った。最後に振り返って見たとき、さとりは目を閉じて、氷の浮かんだ琥珀色の液体をゆっくりと呑んでいた。冷たく清々しい酒精が体の隅々にまで沁み渡るのに、心の底から感じ入っているような様子に、なぜか惹きつけられてしまう。ヤマメがまた呼んだので、私は無理やり視線をひっぺがして、扉を開けて雪の降りしきる寂れた裏路地に出た。カランカランと、甲高い鐘の音がいとまごいを告げた。
「…………くしゅんっ」
「……あんた、その格好で寒くないの」
くしゃみをして震えているキスメに呆れてしまう。こんな寒い中に薄い着物一枚じゃ、凍死したっておかしくない。私だっていつもの服の下に何枚も重ね着しているのだ。
「だいじょうぶ」
しかしキスメは鼻水をすすったあと、妙に自信げにそう答えた。それから桶の底のほうをなにやらごそごそやり、そこから厚手のコートとマフラーを取りだした。
「その桶は四次元かどっかに繋がってるの?」
「ひみつです」
それをきいて、桶の中に手を突っ込みたいという欲動がムラムラと湧きあがってくる。今ならヤマメもいないし、やってもいいかな?
「こいし」
「へ?」
内なる衝動と震える右手とを抑えつけていると、キスメがこれまた唐突に呟いた。
「こいし、あの中に、いなかった」
「……ああ、そういえば」
「どうしたのかな」
「……私に訊かれても。意地悪してるんじゃないの、あのさとりって奴が。この前も橋でなんかやらせてたみたいだし」
「ちがうとおもう」
「じゃあなんだってのよ?」
「お待たせ! うひょー寒いねぇ外は! キスメ、ちゃんとコートとマフラー着てるかい? よしよし」
ヤマメがやかましく店から出てきた。キスメが寒そうにしていないかどうかひとしきり気にしたあと、こちらに目を向ける。
「……で、なんの話してたんだい? 私を差し置いて仲良さそうに」
「そんな心配せんでも。あん中にこいしがいなかったなって話よ」
「ああ、なるほど。うーん、そうだなぁ。パルスィが橋でこいしちゃんを見かけたのっていつだい?」
「三日前だけど」
「じゃあまだ帰ってないんじゃないかな」
「帰ってないって……どこほっつき歩いてるのよ。家にも帰らずに」
「地上だよ。言ったでしょ、何するかわからない子だって。次の行動の予測がまるで立たないんだ。いつ地底に帰ってくるかもわかりゃしない。本当はこいしちゃんも連れていきたかったんだけど、あまりに帰ってこないもんだからペットたちがしびれを切らして、渋々来たってとこじゃないかな」
「そうかなぁ。さとりが意地悪してるんじゃないの」
「ん? どゆこと?」
「だってさ、橋でのこと思い出してもみてよ。あのさとり、外見はああだけど家庭では相当アレな奴なんじゃないの。こいしが帰ってこないのも、そんな姉が嫌で逃げ回ってるとかさ」
「それはないねぇ。本当にこいしちゃんが嫌がってるなら、そもそもそんな橋の上で逆立ちしろなんて言いつけ守るはずないでしょ。むしろ逆じゃないかって私は思うんだ」
「逆?」
「さとりがこいしちゃんに罰を与えたっていうの、あれは嘘で、本当はこいしちゃんが姉の評判を貶めるためにパルスィの前であぁんなことをしたり、そぉんなことを言ったとか」
「……あの姉妹はどんな修羅の道を歩んでるのよ。不可解すぎるわ」
「さぁね。まぁなんにせよ他人の家庭の問題にあまり首をつっこむのはよくないさ」
そんな道徳めいたことを言ったあと、ヤマメは寒そうに袖をこすり合わせた。
「うぅ、寒いねぇ。どうするパルスィ。私らはなんかあったかい物食べてから帰るけど」
「……私はいいわ。帰って寝る」
「ほいほい。じゃあ、また今度」
「ばいばい」
キスメが袖に隠した小さな手を振った。私は適当に別れの仕草を返して、雪の降りしきる裏路地をさらに奥へと進んだ。
すれ違う妖怪たちと視線を合わせないようにしながら、さとりのことを考えた。なぜかあいつのことが頭から離れない。いきなりお礼を言われたこととか、妹とのわけのわからない関係とかもインパクトが強かったけれど、なによりも気にかかるのはあの目だった。この世の辛酸はもう舐めつくしました、だけど今はそれなりに幸福です。そんなことを物語っているような紫色の瞳。なんだろう、凄く、気に食わない。
溜息をつく。あいつのことを幾ら考えたって、嫌ったって、意味がない。早く帰って、暖かい布団に入って寝てしまおう。上着の襟を押さえ、早足で迷路のような路地を抜けて行った。雪はしょうこりもなく降り続いていた。
「ははぁん、それはあれだねパルスィ」
「……なによ」
「恋、だね」
ずるっ、と頬杖をついていた腕をすべらせて、危うくグラスをテーブルから叩き落とすところだった。なんとか落下はまぬがれたけれど、入っていた日本酒が少し外に零れてしまった。
「おおっと、気をつけてくれよ。どんなに安くても酒は酒なんだ。ぞんざいに扱うことは許されないね」
誰のせいよ、とつっこもうとして、だけどこいつに何言っても無駄だなと思い直し、溜息をついて台布巾でテーブルを拭く。勇儀の言う通り、どんなに安くてもこれは立派なお酒なのだ。少しでも無駄にしてしまうのはバチがあたる気がするし、なにより出来はぼろっちい癖に家賃だけは馬鹿高いこの部屋が圧迫する経済事情の中で、食費を削ってまでわざわざ買い込んだとっておきのお楽しみである。少しでも体に収めなければ気が済まない。
それもこれも、勇儀が変なことを言い出したからいけないのだ。世に起こる物事を全て恋愛沙汰に還元したがる輩がいるものだけれど、まさか勇儀がその類だったとは。意外ではあるが、どこまで本気だかわからない。私は雑巾を置いて、発言の真偽を確かめようと、テーブルの向いに座る勇儀をじっと睨んだ。
「怖い怖い。まぁそう睨むなって。それにパルスィ、この私に向かって照れ隠しするこたぁない。こう見えても何百年も生きている筋金入りの鬼さ。恋愛沙汰の一つや二つなんぞどうってことない。義理人情に従って取り持った恋仲の数たるや――」
「だから! なんで私があいつを好きとかそんなこと前提にしてんのよ!」
「だってねぇ、あんたの話っぷりとか、一回会っただけなのにそんな風に引きずってる様子だとか、眉をひそめて思い悩む顔とかを見りゃあ私じゃなくても誰だって」
「くっ……」
唇を噛んで、上目遣いに睨みつけてやる。こうすると、勇儀が私に妙に弱くなるのを知っている。
「わかったわかった。もう睨むなって。いずれにしろ、あんたがさとりに何かしら特別な感情を抱いたってのは確かなんだろ?」
「……まぁ、そうね」
「その感情の正体がわからないからこそ悩んでるわけだ。どれ、一つ検討してみようじゃないか」
勇儀は目を爛々と輝かせ、テーブルの上に右腕をべたりと置いてこちらに身を乗り出した。口元には抑えきれない笑みが浮かんでいる。
まったく、人事だと思って。私は鼻を鳴らして、グラスを乱暴につかみお酒を煽った。
酒場でさとりとの邂逅を果たしてから丸一日立っている。家に帰ってもなかなか寝付けず、ベッドの中で寝がえりを打ちながらずっと悩みの正体を探り当てようとしていた。だけれど答えが見つからないままにいつの間にか寝入ってしまって、気がつけば午後になっていた。幾つかの家事を適当に済ませ、テーブルに向ってぼーっととりとめもなく考えを巡らせていると、勇儀がそこの今にも外れそうなドアを乱暴にノックしたわけだ。
こいつはときたまここへ遊びに来る――もっと包み隠さず言えば、お酒を呑みつつ私をからかうためにここへ来る。私はからかわれるとわかっていながらも、なぜかこいつの話術に乗せられて胸のうちをつらつらと喋ってしまう。そこらへんは癪ではあるけれど、明るくて話も上手いこいつとの晩酌はそれなりに面白くもあるので、多少の不愉快は我慢することにしている。
「まず検討しなければならないことは」勇儀はこの世の行く先を決める重大な選択をするかのように、重々しく語り出した。「さとりはいけすかない奴だが、顔はとてつもなく可愛らしいということだ」
渾身の鉄拳は、腹立たしいことに苦もなくひょいとかわされた。
「なんでそんなことから検討するのよ! やっぱりさっきの前提抜けてないじゃない!」
「じゃあ言い換えよう。さとりは顔はとてつもなく可愛いが、いけすかない奴だ」
「前後入れ替えても言ってることは同じでしょう!」
「ああ、つまり一目ボレってことだな」
「このっ……!」
「はははパルスィ、綺麗な顔が台無しだぞ」
幾ら高速で拳を突き出しても、勇儀には体をひょいと傾けるだけで盃の酒をこぼさずによけられてしまう。ちくしょう。
「まぁ、ともかくだ」
肩で荒い息をする私を見て笑いながら、勇儀は続ける。
「内面は置いといて、あんな美少女に見つめられて突然ありがとうなんて言われたら、そりゃあ誰だって悪い気はしない。顔が赤くなるのも無理はないね」
「……もういいわよなんでも」
「さて、次に俎上に乗せるべきは、なぜさとりはパルスィにありがとうと言ったかだが」
「私が血迷って、『可愛いな』とか思ったからじゃないの」
「微妙だな。あんだけの整った顔立ちを持ってたら、言ってみればそういう風に『思われ慣れて』いる。少なくとも初見の相手にはね。しかもあいつの場合すぐさま心を読みとってしまうだろ? 今更そんなことでわざわざお礼など言ったりするもんかね」
「あんたみたいに自分のことを嫌う奴が多いから、新鮮だったんじゃ」
「おぉっと、勘違いしないでもらいたいね。あいつはいけすかない奴だが、嫌いじゃない」ニヤッと勇儀は笑った。「質問を変えてみよう。理由はひとまず置いておくとして、どうしてさとりはパルスィにわざわざそんなことを言ったのか、だ。可愛いと思われた相手がいたなら、ただ微笑んで見過ごせばいいだけの話だろう? お礼を言う必要なんて全然ない。ならば、ありがとうと言った目的はいったいなんなのか」
「……さっぱり。見当もつかないわ。あんたはどう思うのよ」
「ズバリだ。これはあいつのパルスィを籠絡するための戦略なんじゃないかと思うんだ」
「……はぁ?」
「つまり陰険なさとりは、あいつらしい回りくどいやり方でパルスィを我がものにしようと狙ってるわけさ」
どうやら、何が何でもそっちの方向に持っていきたいらしい。私はもう勇儀の言うことを真に受けるのを諦めた。らちがあかない。
「あんた、なんなの。どうしてもさとりと私をくっつけたいの」
「でも実際、ありがとうと言われてパルスィは困惑してる。理由が見当たらないからこそあれこれ考えて悩んでる。私が言いたいのは、あのお礼には何も込められていやしなかったんじゃないか、だから理由なんて考えても仕方ないんじゃないかってことさ」
「……確かに」
ほんのきまぐれ。あいつが私を籠絡云々は馬鹿馬鹿しいから考えないことにして、あれはただ単に私を困惑の渦に陥れて楽しもうっていうだけの魂胆じゃないか。考えてみれば、そのほうが陰険そうなあいつのイメージに合っている。ならば、無駄に考えを巡らすのは、あいつの手の内に完璧に嵌り込んでしまうというわけか。
「ところで、なによりも私が興味があるのは」勇儀は盃に酒を汲み直しながら言った。「パルスィがなぜそんなに動揺しているか、だ」
「……別に、動揺なんか」
「じゃあ言葉をかえよう。あいつの何がそんなに気にかかってるんだい?」
「…………」
「さとりのことを頭から追い出したい。なのに追い出せない。頭の中にあいつのことが釣り針みたいに喰い込んでいて、全然外すことができない。それはどうしてだい?」
「……わからないわよ、そんなの」
わかったら苦労はしない。目を閉じれば、まず真っ先にあいつの紫色の瞳が思い浮かぶ。それは決して愛おしくなんかないのに、どうしても放っておけない。憎たらしいのにつきはなせない。もどかしい。本当に。どうして。
「こういうときはだな……っと」
盃にお酒を溢れる一歩手前までいれ、慎重に口元まで持っていき、口に含む。それを私はじっと見ている。透明なお酒は、しっくりと勇儀の体に馴染んでいくように思える。さとりが呑んでいた琥珀色の液体も、きっとこっくりと濃くて純粋で、あいつの憂鬱を緩々と深めていったことだろう。
「……一般論から攻めてみるのもいいかもしれないね」全て呑み干して、勇儀は息を深く吐きだし、言った。
「一般論? どんなよ」
「大したものじゃあない。人が人に惹かれるのは、お互いの中に何かしらの共通点があるからだっていう考えだ。お互い何も見いだせないのなら、自然と縁は離れていくだろう。でも惹かれあったからには……縁が結ばれてしまったからには、それなりの理由があるはずだ」
「共通点……」
「まず自分の心を確かめるといい。色にでも形にでも、なんにでもいいから喩えてみるといい。それからあいつのことを考えるんだ。それで何か見つけ出せたなら、疑問はすっきり晴れるだろう。もし見つからなかったら……」
「見つからなかったら?」
「今度は自分から会いに行って、何が何でも見つけ出してやるのさ」
にやりとお得意の笑みを見せて、勇儀は瓶を持ってその口をこちらにくいと傾けた。
「もう一杯、いっときな。酔った頭の発想のほうが、役に立つこともあるからね」
強く、強く吹雪いている。近くの木は雪に翻弄され、白い風が轟音を立てて通り過ぎていく。
「な、なななにもこんな日に来ることなかったんじゃないの……?」
訊く相手もいないのに、私はガチガチと歯を震わせながらそう言った。そうしないと、意識をどっかにやってしまうかもしれなかった。それほどに寒い夜だ。
勇儀との晩酌から丸一日経っている。あれから酔った頭で色々と考えて、やっぱり幾ら考えてもわからなくて、居ても立ってもいられなくなって長屋を飛び出したのがついさっき。旧都の奥へと続く道を、熱に浮かされたように走り抜けて、いつの間にかここまで来てしまっていた。目の前には、どっしりとした宮殿みたいな石造りの館が、眠れる獣のように不吉な沈黙を守っている。
「うぅ……さむ……しぬ……」
考えなしで行動するからこうなる。そんなことはわかっていたはずなのに。私は唇を噛んで両肩を抱き、とんとんと足踏みをして、地霊殿の重々しいファサードに目を凝らした。扉は固く閉ざされていて、押しても引いても開かないように見える。でも入口である以上そんなことはないはずで、近寄ればもちろん開けることができるのだろうけど、問題は。
「……どんな理由を付けて入るか、よね」
衝動に突き動かされてここまで来た。だから相手を納得させる理由なんて微塵も持ち合わせていない。さとりに会って、確かめたい。ただそれだけ。それだけのことで、わざわざ地霊殿の連中を玄関まで呼び出して、どうか入れてほしいと頼むのか。これだけ閉鎖的な建物に住んでいる連中だ。偏見かもしれないけれど、やはりそういうことは頼みにくい。
でも、せっかくここまで来たのにすごすごと帰るのも、何か悔しい。いずれにせよ、どっちかに決めなくてはならない。こんなところにあと五分もいたら、風邪を引くどころじゃ済まされないだろう。
震えながら逡巡していると、ふと視界の端に何かが引っかかった。一面の白と灰の世界の中で、ただ一つ異質な黒の小さな塊。細くしなやかで、二本の尻尾を自慢げに宙へとくねらせた、あれは猫だ。
「……燐」
バーでさとりが呼びかけたその名前を思いだす。燐は身軽にひょいと横まで来ると、好奇の赤い瞳を私に向けた。値踏みするかのような視線にたじろいでしまう。
「なによ」
「にゃあん」
そう一声鳴いて、燐は入口まで行き、どうやってかは知らないけれど軽々と扉を開けてみせた。黒い影が中へ滑り込んでも、扉は開いたままになっている。入るなら入れ、ということか。
「……行ってやろうじゃないの」
正直、きっかけが出来たことにほっとしていた。それでも強がりでそう言ってみせる。どうせ誰も聞いていないけれど、半分は自分を奮い立たせるための勇気づけだった。細く開いた扉をさらに押し広げて、地霊殿の中へ入り込んだ。
玄関ホールは、風雨さえしのげるものの、寒さは外と変わりなかった。暖房は入っておらず、床は冷たい石が平らに広がっている。歩くと、コツンコツンと固い音が響いた。ここは暗くて、誰もいない。燐がいたとしても、闇に溶けて見えなかっただろう。
「……予想通りというかなんというか、陰気な館ねぇ」
喋ると白い息が出た。それを見て、私が言えたことじゃないけど、と一人苦笑する。あのボロっちい長屋だって、性格の暗い奴しか住んでいない、とてもとても陰気な場所だ。でも、そういう場所のほうが、落ち着いてゆっくり眠ることができるし、居心地が良いとすら感じる。
「共通点一つ、見っけ」
その一。陰気さ。わかったところで少しも嬉しくない。ゆっくりと、なるべく音を立てないように歩きだした。
奥にあった扉を開ける前に振り返ると、壁の高い位置にステンドグラスが見えた。外からの僅かな光を、紫に染色して床に複雑な模様を描き出している。きっと、薔薇か何かだろう。それにじっと目を止めてから、玄関ホールを後にした。
そこからはまるで別世界だった。照明は楽しげに灯り、床は毛の長い肌色のカーペットが敷き詰められてふかふかしていた。暖房がよく効いているのか、もうちっとも寒くない。見渡すと、そこかしこに雑多な種類の猫が歩き回っていて、生き物の暖かみに満ち溢れていた。
「……嫌われ者の館、というよりは猫屋敷ね」
これだけ生き物に囲まれていれば、少なくとも寂しくはないだろう。あいつ、寂しがりなのか。
そこらに寝そべる猫の体やら尻尾やらを踏みつけないようにしながら、廊下を進んでいく。彼らは私を見ても特に動こうとせず、侵入者のことをご主人に知らせようという素振りを見せるものさえいなかった。ただ燐と同じように好奇の目を向けてくるだけだ。一匹だけ、白い猫がするすると近づいてきた。しゃがんでなでてやると、気持ちよさそうに目を細めた。猫というのはもっとそっけない生き物だと思っていたけれど、地霊殿のペットたちはそうでもないらしい。
「ねぇ、あんたのご主人はどこにいるの?」
冗談のつもりで訊いてみると、猫はにゃあんと朗らかに鳴いて、くいと前足で右へ折れる廊下を指し示した。
どうやら、排他的という評価は改める必要がありそうだ。私はお礼を言って、廊下を右へと曲がった。
すると、向こうに開いたままのドアがあった。廊下とは種類の違う照明の光がそこから漏れている。足音を忍ばせて、その入り口の傍まで行き、部屋の中を覗きこむ。
広いリビングだった。暖炉の火は楽しくはぜて、部屋を赤く照らしていた。少し離れたところから深緑色の絨毯が始まり、暖炉に向かい合うようにして焦げ茶色のソファが置かれていた。そこに、紫色の短髪の、小柄の少女が座っていた。
「……いた」
さとりは本を読んでいた。一冊の文庫本を両手に持って、膝の上に乗せ、背筋をピッと伸ばした良い姿勢を保ったまま。サイドテーブルにはティーカップが湯気を立てていて、時折それを手にとって中身を飲んだ。随分と楽しそうだ。私は苦労してここまで来たっていうのに。妬ましい。
そこで、さとりが不意に目を上げた。
「……おや。貴女は……」
アメジストの瞳が、軽い驚きにじわりと広がる。
「あー、その……」
私は頬をぽりぽりと掻き、どう言ったものかと一瞬迷ったけれど、すぐにそれも全て無駄だということに気付く。すべて、心は読まれてしまうのだ。
「……お邪魔してるわ」
他に言うこともなく、そう呟くしかなかった。
「……ああ、なるほど」
さとりはパタリと本を閉じ、サイドテーブルに置いた。
「戸惑わせてしまったのですね。随分と」
「おかげさまでね。ためておいたお酒が随分と消えた」
「鬼と一緒に呑むと、そうでしょうね。私は、嗜む程度にしか呑まないので、お酒に溺れるという経験はしたことがないのですが。……いかがですか? ブランデーを一杯」
「……いただこうかしら」
欲しがっているものを即座に見抜かれるのはしゃくだけれど、ありがたいには違いなかった。外から暖められているのなら、次は内から温めてくれるものが欲しい。
「てっきりつまみだされるかと思ったわ。入口や見た目がアレだったから」
「いきなり弾幕ごっこを仕掛けてきたり、何かを盗むつもりで入ったのなら、そうします。でも見たところ、貴女はそうではないようだから。つまみだす理由がありません。貴女は」
客人です、と言い残して、さとりは隣の部屋へと入っていった。
ほっと溜息をついて、部屋の中に踏み込む。部屋の隅の一角に、白黒の写真が飾られている場所があった。見れば、ペットたちを写したものが多い中で、何枚か、さとりとこいしを写したものが混じっていた。ふと、薔薇の絵があしらわれたステンドグラスを挟んで笑っている二人が目を引いた。さっき見た玄関ホールのステンドグラスの完成記念、といったところか。さとりは今と同じ服装で、口元を少し緩めて静かな笑みを浮かべている。こいしのほうは、屈託のない朗らかな笑顔が眩しい。その胸についた第三の目は開いていた。
「ああ、そのステンドグラスは妹と二人で作ったのです。まだペットが多くない時分でした。なかなかのものでしょう?」
戻ってきたさとりが、私の横に立って言った。
「ふぅん……いやよくわかんないけどさ」
確かに、外からの光を紫色に染めて床に薔薇を描き出す光景は、妖しくて綺麗だと思った。でも、ただ褒めるのも嫌だった。誰かが誰かと仲良くしているのを目の当たりにすると、感情が抑えきれなくなるから。
「複雑なのですね……用意ができました。こちらへどうぞ」
ソファの傍にあるサイドテーブルの上に、ブランデーの角ばった瓶と、グラスが二つ用意されていた。私はさとりに続いてソファに腰掛ける。
「あまり高いものではないのですが」
「大丈夫よ、慣れてるから。安いものにはね」
そう言うと、さとりはふっと微笑んだ。
「どんなに安くてもお酒はお酒。敬意をはらって接しなければ、お酒の神様に失礼だ……ですか」
「別に、私の意見じゃないわ」
「そうですね。もしお酒の神様への敬意を前提にお酒と接するのならば、高い安いの価値判断を下すこと自体失礼にあたりますからね」
「そんな難しいこと考えてお酒呑んでない。呑めりゃいいのよ、なんでも」
「ふふふ。ではどうぞ」
ちょうど良い具合に注がれたブランデーグラスを取り、横を向いて、目の高さに上げる。冬の夕焼けのような琥珀色のスクリーンに、歪んださとりの顔が映る。
「乾杯」
「……乾杯」
手の中でグラスを転がす。口元に持って行って少し止め、甘い香りを楽しんだあと、ゆっくりと口に含んでいく。
「……何が高くない、よ。うちで呑むのより全然美味しいじゃない」
「それはよかった。ここまで来た甲斐がありましたね?」
「ふん」
しばらく、さとりを視界から締め出して、暗闇の中で味と香りだけを楽しむことにする。瞼の裏に、今の私と同じように琥珀色の液体を呑みほしている、さとりの顔が浮かぶ。白い顔、閉じた両瞼、紫色の短髪。本人を目の前にしているのに、妙な話だ。
目を開けると、さとりが呆けたような顔をして私を見ているのに気がついた。グラスのブランデーは少しも減っていない。
「どうしたの」
「いえ……」
「他人の心の中に自分を見るのは、妙な気分? 見えたんでしょ」
「……そうですね。少し、意外でした」
「なにがよ」
「何気なく言った言葉が、時に予期しないくらい強く人の心に残り続けることが」
……もしかして、そんなことも自覚しないであんなことを言ったのか。だとしたらいい迷惑だ。こっちはあれのせいで二日くらい思い悩んだというのに。自分の言葉の及ぼす効果や影響くらい把握しておけと思う。
「そうですね、迂闊でした。反省します」
「いや、今更反省されても」
だとしたら勇儀の言う通り、やはりあのありがとうの一言は、意図なんてない単なる気まぐれとして片づけたほうがいいのだろうか。
答えを促すようにさとりを見ると、なぜか目をそらされた。今のは不審な素振りだった。明らかに。
「やっぱりあんなことを言ったのには、理由があるのね?」
「……」
さとりは答えない。でもその沈黙と、居心地悪そうな様子が、私の予感があたっていることを何よりも告げていた。そして、それは私には言いにくい類のものであるらしい。
こいつが喋らない理由はなんなのだろう。と、こんな風に考えても即座に読まれてしまうのだから、こいつはますます口を固く閉ざすだけだ。なんてやりにくい。
「……まぁ、そうね。どうせ読まれてるんなら、せっかくだから声に出して考えてみようかしら」
そう言って、私はブランデーを注ぎ足した。勇儀の言い草ではないけれど、酔った頭は時に普段では思いつけない答えを捻りだす。呂律の回らない口調はそれをさらにとりとめなくする。波に身を任せて、いっそ思いがけないところへ行ってしまおう。
「あの時考えてたのは一つじゃなかった。隣りにヤマメとキスメがいて、それまで、あんたの妹のことについて話してた。あの子が突拍子もないことをしでかすってことを初めて知った時だった。あんたはあの時、私の頭の中にこいしを見た……」
ぐいっと、グラスを傾ける。あまり気に入らない答えに辿りついたからで、それがなぜ気に入らないのかもわからなかったけれど、とにかく飲み干した。
こいつの妹は、いつ帰ってくるかわからない。さとりはそんな彼女のことを心配している。
「つまり、あんたは私のことなんかどうだって良かった。こいしの動向が少しでも知れたから、あの子の姿をちらりとでも見ることができたから、それが嬉しかったんだ。違う?」
酒臭い息と共に苦い言葉を吐きだして、さとりを睨んだ。紫色の瞳はこっちを見ていない。暖炉の火を静かに映し出している。
「それで、そんなことを言うと、私が傷つくとかなんとか思ったから、喋れなかったんだ。どうなの」
「…………」
「もしそう思ってんならね、残念だけど私はそんなにやわじゃないわよ。あんたが私に興味がないとか関係ない。私があんたに興味があるの。ついでに言えば、なんでこんなにあんたのことが気になるのか、理由がわかれば、あんたなんて……」
「……見つかりましたか?」
「え?」
「私と貴女の共通点。それを探していたのでしょう」
「あ、ああ、そうね。今のところ、陰気ってことくらいしか、見つかってないか……」
頭が沸いて、だんだん自分でもなに入ってるか掴めない。
「あの、もしかして、酔ってます?」
「……酔ってない、酔ってない。だいじょう、ぶ」
「顔が真っ赤ですけど」
「ああ、それはたぶん、そう」
「なんですか?」
恥ずかしさのせいかもしれない……。
心地よい眠気に包まれて、私はソファの上に倒れ込んだ。
なんか盛られたかな……。
目が覚めて、一番に思ったことはそれだった。ソファの上で気を失うように眠りこんだところまでは覚えている。でも、いまどうしてこうふわふわの何かに包まれて、白く円い照明を見上げることになっているのかは、とんと見当がつかなかった。
「う……うぅん……っ」
少し頭が痛む。バーでヤマメが言った通り、私はあまりお酒が強いほうではない。ワインや日本酒ならグラス一杯程度が限度。それでも呑んで酔うのは好きだから、あまりお金のかからない趣味だということにしてプラスに考えていたけれど。ここに来てボロが出るとは思わなかった。しかも、他人の家で前後不覚になるなんて。
「はぁ……くそ、どう思われたかなぁ」
「酔った貴女は可愛いなぁと」
「うわ!」
びっくりして跳び起きる。横たわっていたのは広いベッドだった。さすがに天蓋はついていないけれど、弾力のあって居心地がいい。うちのスプリングがぎしぎし軋む安物とは違う。その横で、さとりが椅子に座って本を読んでいた。一緒にブランデーを呑んだはずなのに、少しも赤くなっていず、澄ました顔をしている。いや、もしかしたら……眠りこんでから結構時間が経っているのかもしれない。
「……いたのなら声かけなさいよ。どれくらい寝てた?」
「2時間ほど。ソファだとさすがに風邪をひくでしょうから、ここへ運んできました」
「ここは?」
「こいしの部屋です」
「え……なんで、わざわざ妹の部屋に」
「居間から一番近いのはここでしたから。一人ではどうにも重たくて」
「おっ、重くなんてないわよ!」
「失礼しました。私の体力がもたなかったので。それに……どうせこいしは、戻ってきませんから」
最後は、消え入りそうな声だった。相変わらず本に向けられた瞳にちらりと寂しさの影が落ちる。
「……ペットに手伝ってもらえばよかったじゃない。いるんでしょ、燐とか。あとあの烏のやつとか」
「手伝ってもらおうと思ったんですが……みんなにやにや笑って、取り合ってくれなくて」
「はぁ? どうしてよ。ペットの信頼ないわけ?」
「そうかもしれませんね」
と、さとりははぐらかした。これも不審な感じだ。少し考えてみると、すぐに答えに辿りついた。
「にやにやってことは……私とあんたが、その」
「ただならぬ関係だと」
「なによそれ……」
眠る前のことを思い出した。さとりが私にお礼を言った理由がわかって、さとりが真に私に対して特別な想いを抱いていたのではないことがわかって。それに少なからず心を乱されて、それでも強がりで、そんなことは関係ない、私があんたに興味があるのと言った。今考えれば、なんてこっ恥ずかしいことを考えたのだろう。興味を持たれなくてもいいから好きでいたい、そんなことを言ったに等しい。
「そうですね。貴女は、そんな殊勝な性格でもないでしょう」
「あんたに何がわかるのよ……もうこうなったら、とっとと共通点とやらを見つけ出して、こんなとこ抜け出してやる」
地霊殿だけではなく、同じところをぐるぐるしてる気分からも抜け出したい。
といっても、何かあてがあるわけでもない。何かいい案はないかとさとりを見る。さとりは僅かに眉を動かしたあと、言った。
「見つけ出すといっても、既に貴女の心の中に答えがあるでしょう。それに私と貴女は初対面だった。とすれば、まず目につくのは外見のはずです。貴女は、私の体のどの部分に惹かれたのですか?」
「なんかその言い方変な意味にとられそうだからやだ」
「ならば、私のどこにまず引っかかったのですか?」
「そうね……ちょっとこっち来て」
「はい」
さとりが本を椅子に置いて、ベッド際の私に近づく。
私は彼女を見上げる。どことなく青白い、いかにも不健康な顔色だ。もしかしたら、少し疲れているのかもしれない。
「顔……」
「まず、顔?」
「いや、違う……そうだ、目だ」
辛いことはすべてもう過去のこと、今はそれなりの幸せを掴んでいて、憂いを抱えながらも満ち足りた生活を送っている。
まず、それが、
「妬ましかった……ですか?」
「先に言うんじゃない」
そう、こいつは生意気なんだ。いっぱしの幸せを掴んだような気になって。私は、幸せがどんなものかわからないのに。
「共通点、というよりは、差異ですね。貴女は私が幸せだと思っている。そして貴女は、自分が幸せではないと思っている。それが妬ましい。そして同時に、その幸せに惹かれた」
私が言葉に出さないのに、こいつはぺらぺらと勝手に喋ってくれる。それはなかなか楽なんじゃないかと、血迷ったことを考える。
「でも、それは思い違いです。私には、貴女も充分に幸せを掴んでいるように見えました。バーでのあの二匹の妖怪とのやりとり。随分と楽しそうにお酒を呑んでいた。それに、鬼。腹を割って下世話なことを話せる友人というのは、私にはいません」
ほら、そんな風に、人の心をすべてわかっているような口をきくのが、そして実際そんな能力を持っているのが、生意気なんだ。
さとりはふっと笑みを見せた。一杯になったコップから水がふわりと溢れ出るような、自然な笑いだった。
「他には、どこかありますか?」
「髪」
紫色の短い髪。ところどころ跳ねているのがなんだか可愛らしい。両手を伸ばして、彼女の後ろ髪に触れる。柔らかい。跳ねた部分を指でいじる。
「朝の寝癖がひどくて、燐やこいしによくからかわれます」
「へぇ」
少し見たいかもしれない。ついでに寝癖をぴろぴろしたい。
「他には?」
「…………唇」
ゆっくりと、琥珀色の液体で湿りを帯びて行く、色素の薄い唇。寂しげな笑窪がその横に浮かぶ。
それに、触れたいと思った。
きっと冷たいのだろう。
「確かめてみますか?」
「え?」
柔らかいものが唇に触れる。目の前に、紫色の綺麗な宝石が二つ、底知れない深みを持つ輝きを放っている。慌てて目を閉じる。
冷たくなんてなかった。温かかった。湿っていて、少しお酒の匂いがする。
「……ん…………」
自然と体が傾いて、ベッドに倒れこむ。髪に手を回したままだったから、さとりも一緒に。
ただ重ねているだけじゃ飽き足らなくて、舌を伸ばす。細くこじ開けた唇の間で、舌が触れあう。
さとりの髪を触れていた手が引き剥がされて、小さな手が私の手を握り、ベッドに上から押し付けた。細い指はいかにも儚く頼りない。確実な物を求めるように強く握ってくる。私も握り返す。息苦しくなって、唇を放す。荒い息が出る。さとりの白い顔は赤く上気していて、紫色の瞳はもう宝石じゃなくて湖のようだった。今にもそこから何か溢れそうだけれど、ぎりぎりのところで踏みとどまっているような感じ。さとりがそれに気付いて、服の袖で眼を拭う。手を伸ばしてその袖に触れると、そこは確かに濡れていた。
「……どうしたの。そっちから仕掛けてきたくせに」
「わかりま、せん」
さとりが唇を噛み、これ以上涙を流すまいと堪える。その源泉は、気恥かしさか、寂しさか。
「これであいこ」
またさとりの顔を抱き寄せて、今度はこっちから唇を奪う。
目を瞑ってじっと恥ずかしさに耐えるさとりが、とても可愛らしく見える。ああ、くそ、勇儀の言う通り、こいつは物凄く生意気でいけすかない奴で……だけど、とっても可愛いのだ。そういう生意気なところ、そして今見せているような、心の弱い部分まで含めて。
体を動かして、今度は私がさとりの上に来る。さとりは熱に浮かされたような目で私を見つめている。そんなにふやけてちゃ、第三の目も意味はないだろう。はだけた服の合間から、痛々しいくらいに白く小さな鎖骨が覗く。そこに口付けると、狼狽したように小さく喘いだ。
私に第三の目があったなら、さとりの心の奥底まで、すべて覗けたかもしれない。でも今では、それほど必要とも思えなかった。眼と唇を見れば大体のことは感じられるし、わからないほうが面白いということもある。隠していること、感情を一つ一つ、表面に引きだしていくという楽しみだ。もし全て、第三の目で知ってしまっていたら、こいつの唇が温かいということも知れなかっただろう。
私はもう一度、さとりの唇を塞いだ。
「……ねぇ、どうしてさっき、泣いてたわけ?」
「……わかりません。でも、他の人が私に興味を持ってくれたのが、嬉しくて……それだけじゃ、ないと思いますけど」
「覚り妖怪も、自分の心の動きは掴みきれないってわけね」
「他人の心の動きもです。たとえ読めたとしても、未来がどうなるかは、確実にわかるということはありません。実際貴女のことも、そうでしたし」
「ふぅん……なるほど、それがあんたの弱点ってわけね。常に予測できない行動をすればいいと。こんな風に」
で。
翌朝、私とさとりがしたことは、ペットたちにきっちり知れ渡っていた。ついでに最悪のタイミングでこいしも帰宅していたらしく、散々好奇の視線を向けられるハメになった。
「お姉ちゃん、なかなか隅におけないなぁ……私の部屋でそんなことするなんて。ちょっと見なおしちゃった」
「ねぇ、お燐、どうして泣いてるの?」
「いや、あの朴念仁のさとり様がそういうことにやっと興味を持ってくれたことが、あたい嬉しくて」
「そういうこと? それってなに? ツルツルしてる?」
「うーん、どっちかっていうと、もっと湿っぽい感じかな。お空、あんたにゃまだ早いかもねぇ」
「もうあんたら! 勝手なことばっかごちゃごちゃ言うな!」
「いやー、おねいさんを入らせてよかったよ。あのときはどうしようかって迷ったけど、なんか面白いことになりそうだと思ってほっといたら案の定さね。これからもさとり様をよろしくね!」
「あー、もうなんでもいいや……」
もしかしたら、と思うことがないでもない。ひょっとしたら、こうなることもすべて計算に入れた上で、さとりはバーで私に関わってきたのではないか、と。結果的には、勇儀が予測したように事が運んだのだから。
だけど本人も言っているように、未来を予知することはたとえ人の心が読めたとしても難しい。それに、あの時流した涙は決して嘘のものじゃないと思う。ならば、もし勇儀の言ったことが本当だったとして、それらの行為はすべてうちに抱えた寂しさが原因となっているはずだ。
何か読み違えていることがあるかもしれないけれど、ともかくもこうして、私は地霊殿の客人として(時にはヤマメや勇儀などのおまけも一緒に)迎えられることとなった。
「や、パルスィ。元気?」
扉を開けると、カランカランと来客を知らせる鐘が鳴り響いた。その音につられて、カウンターに向かってグラスを傾けていたヤマメが顔を上げ、パッと笑顔を見せた。くすんだ風景の中に、明色の花が咲いたようだった。
「……いつもと同じよ」
「鬱々としてるってわけかい? 少しは心の風通しをよくしないと体に悪いよ」
「ほっといて。それより、あんたはいつものごとくデート?」
「やだなぁデートだなんて。ただこうやって二人で寂しく呑んでるだけさ。ねぇキスメ」
ヤマメが視線を下げ、自分の隣のスツールの上で桶に入ってうとうとしているキスメに問いかけた。キスメは小動物のようにピクリと震え、私とヤマメをきょとんとした顔で見上げたあと、にぱっと屈託のない笑顔を見せた。何が楽しくてそんな風に笑えるのか。まったく不可解だ。
「……ふん。二人は仲良しってわけね。妬ましいわ」
「お、妬いてくれるの? 照れるなぁ、どうしようか」
「え。えと」
「……いつものクセよ。本音のわけないでしょ」
口癖にしていると、こんな時にからかわれるはめになる。さっさと座ることにした。スツールの、キスメの隣に腰掛ける。
だいたい、「寂しく呑んでる」なんて言っているけれど、こいつらが二人きりで静かに時を過ごすさまは、「楽しい」以外の何も表現していないように見える。
「呑んでるって、あんたはオレンジジュースじゃない……お酒呑めないの?」
「ああ、アルコールには格別弱いんだ。この子がべべれけに酔っ払った姿はまぁとっても可愛いんだけど、不特定多数の奴らに見せるにゃ忍びないからね、自重させてるんだよ」
キスメに向けた問いかけは、しかしヤマメによって返される。
「……いつも思うんだけど、あんたはこの子の保護者かなにか?」
「さぁ、なんだろうね。キスメはどう思う?」
「……うぅーん……」
ヤマメがにやにやしながらキスメの頭を撫でると、彼女は真剣に考え込んだあと、
「……ともだち」
と、別段面白みもひねりもない答えを返してきた。
ヤマメはその言葉をいたくお気に召したようでもあり、照れたようでもあり、少し顔を紅くしてキスメの頭をわしゃわしゃと撫でまわした。自分から仕掛けておいて恥ずかしがるなんて、抜け目ないようで抜けてる奴だ。
私はその光景に鼻をならしつつ、少し口元が緩むのを感じた。
このバーへ来るのは、一人で鬱々と暗い考えを貯め込むのに飽きて、少しは外に目を向けてみようと思った時だ。心のどこかで、誰か知り合いと逢わないかな、なんていう期待も密かに抱いている。積極的とも消極的とも言えない軽い衝動だけれど、それでも来てみると誰かしらがグラスを傾けているものだ。今みたいにヤマメがいたり、たまには一人で静かに呑もうという気まぐれを起こしたあのやかましい鬼がいたり。たいていは、済し崩し的にそいつらと呑むことになる。そうしてだらだらと話していると、意外にも心はどんどん軽くなっていく。風船から空気がゆっくりと抜けていくような感覚が、私は結構好きだ。
「えー、コホン。パルスィ、なにか頼んだら? 奢ってあげるよ」
「……照れ隠し?」
「そんなんじゃないって! まぁ……今はたまたま気分がいいからさ」
そこでここぞとばかりに高いウィスキーを注文してやった。幸せそうにしてる奴には、これくらいの負債はおわせてもバチはあたらないはずだ。なんていう褒められたものじゃない考えがあったわけだけれど、本人も納得していることだし別にいいだろう。
「最近、どう?」ヤマメが懲りずに声をかけてくる。
「どうって、なにが」
「なんか面白い奴が橋を渡ったりしないの?」
「そんな面白い奴がそこらへんにごろごろいたら退屈しないでしょうね。残念ながら、そんなのは……」
言葉を止める。思い当たる節が一件あった。
「どしたの? きゅうに黙って」
「いや、一人、変な奴がいたなって。面白いかどうかはわからないけどね」
「へぇ、どんな奴さ」
記憶を呼び覚ましながらゆっくりと答えた。
「それがまったく不思議なのよ。普段の私なら橋の10メートルくらい先からでも来る奴の姿は見えてるはずなのに、そいつに限っては全然気配がなかったわ。ううん。気配がないっていうのもちょっと違うな。なんていうか、そこにいることは感じていたのに、なぜかそれを気にしようとしなかったっていうか」
「随分曖昧だねぇ。どんな格好をしてたの」
「それが笑えるのよ。服は、山吹色の上着に苔が生えたみたいなみすぼらしいスカートなんだけど、問題なのはそいつの姿勢」
「姿勢?」
「そいつ、欄干の上で逆立ちしてたのよ。もうね、いろんなものがモロ見えだったわ」
「はぁ? なんだいそれ」ヤマメは噴出した。「逆立ち、ねぇ。まぁ妖怪なら、橋から落ちたくらいじゃ死なないだろうけど……で、パルスィはどうしたの?」
「いやまぁ、こっちとしてはそいつが落ちて死のうがどうでもよかったんだけど。でも一応声掛けなきゃなって思って、笑い噛み殺して注意したのよ。『あんたいったい、なにがしたいわけ? 自殺志願?』みたいな感じで」
「そしたら?」
「『意地悪なお姉ちゃんに言いつけられた罰なんです。どうかこのことをみんなに言いふらして、お姉ちゃんの悪行を世に知らしめてください』だってさ」
「どんな姉だよ!」からからと笑って、ヤマメは琥珀色の酒を飲みほした。
私も気分よくグラスを傾け、唇にあたる氷の冷たさを楽しみながら、アルコール度の高い液体をちびりちびりと、体の奥へと流し込んだ。体中を巡る血液が、ふつふつと沸き立っているようで愉快な心地になる。ここに来てよく顔を合わせる連中も、大概は愉快で面白可笑しい奴ばっかりだけど、まだまだ地底には変な奴がたくさんいるらしい。
「でさぁ、名前は訊かなかったの?」と、ヤマメ。
「……そういえば訊かなかったわね。いつの間にかいなくなってたから」
「古明地こいし」
惜しいことをしたな、と思っていると、それまで黙っていたキスメが突然小さな声で呟いた。
「え? 小石? どこの?」いささか面喰って、私はキスメに訊き返した。
「だから、古明地こいし。こいしはひらがな」
「……それが、そいつの名前だって?」
こくり、とキスメは頷いた。それを見て、ヤマメは得心がいったというようにポンと手を打った。
「ああ、そうか、こいしちゃんかぁ! なるほどなるほど、考えてみれば服装もぴったりだ。パルスィ、そいつがこいしちゃんなら、黒い帽子も被ってたでしょ?」
「ええ? ……ああ、そういえば、欄干の上に置いてあったわねぇ。その時は被ってなかったけど」
「逆立ちしてたってんなら当たり前さね。なーるほどねぇ、確かにこいしちゃんならやりかねないな。まったく何するか見当のつかない子だし」
「なに、あんたら、そいつのこと知ってるわけ? もっと教えなさいよ」
情報が一人だけ共有できてないのに苛立って、二人の方に体を傾ける。
「ああ、うん。こいしちゃんはね、ほら、地霊殿の――」
その時、カランカランと、来客を告げる鐘が再度鳴った。
思わずそちらを見ると、僅かに開いた扉の隙間から、ひらり、としなやかな影が入ってくるのが見えた。
「……猫?」
小さな影は、艶やかな毛並を明かりの下でてらてらと輝かせ、それがさも自慢であるかのように滑らかな肢体をくねらせる、二又の黒い猫だった。
なぜこんなところに、と思う間もなく、扉がさらに大きく開き、外から小柄の少女が入ってきて、言った。
「……これお燐。お店の中では人の姿になるようにと、いつも言っているでしょう」
お燐と呼ばれた猫はひょいと体をひねり、主人と思しき少女を見上げると、ぴくりと両耳を震わせた。次の瞬間には、小さな影はどんどん大きくなって、喪に服すような暗色の衣装を身に纏った赤髪の少女に変わった。
「なんとまぁ、えらいタイミングで来たもんだね」
ヤマメがこちらに顔を寄せて、ひそひそ声で言う。
「あれは?」
「地霊殿御一行のお出ましだよ」
地霊殿。この旧都に暮らしている者で、その名を知らない奴は一人もいないだろう。嫌われ者が集まる寂れた地底の中でも、さらに嫌われ者で偏屈な主人がペットとともに暮らす館。主人の名は、古明地さとり。
「……じゃああいつが」
「そ。こいしちゃんの愛すべきお姉ちゃんさ」
「ふぅん……」
私はグラスを傾け、横目でちらちらとその嫌われ者御一行様とやらを観察した。さとりの後ろから、さらに大きな影がそそっかしく入ってきた。髪はボリュームがありかつボサボサで、一目でガサツと見てわかる大柄の少女。胸の間には大きな紅いガラス玉のような物が嵌り込んでいる。入口につっかえた黒い翼を見る限り、烏かなにかの妖怪だろう。
「なんとまぁ、妙な組み合わせもあったもので」
「パルスィ、それ私らが言えることじゃないって」
ヤマメが微笑しながらつっこむ。どうやら、さすがの人気者も予期せぬ客の登場に若干緊張しているようだ。キスメのほうは、明らかに店の空気を一変させた連中にもなんのその、桶から体を伸ばしてオレンジジュースをストローでちゅうちゅう吸っている。ある意味凄い奴なのかもしれない。
新たな客は全部で三人のようだ。燐は猫らしくさっと動き、私たちからは遠い席を速やかに陣取った。烏の少女がどたばたとその後に続く。さとりはそんな彼女たちを見て軽く溜息をつき、多少申し訳なさそうに店内をざっと見まわした。その視線が何事もなく私を通り過ぎたのにほっとする。あの面白いこいしとかいう奴の姉とはいえ、あまり関わり合いになりたくない。
さとりは微かにバーテンダーに会釈をして、ペットたちが待つ席へと歩き出した。
ところで、私はここで肝心なことを忘れていた。さとりの嫌われ者たる所以はなんなのか、どうしても思い出せなかったのだ。たしか、持っている能力に関係があったはず。こいしの姉というのだからそれに似た力を持っているのだろうけど、ではこいしの力がなんだったのかといえば、それもよくわからない。逆立ち妖怪? そんなまさか。さとり、さとりというからには――
考えにふけって、ぼんやりとしていたのがいけなかったのかもしれない。あるいは高いお酒を呑んだせいで気が緩んでいたか。観察する視線に、観察される側の視線がぶつかった。つまり。
「あ」
さとりと目が合った。
不思議に透き通った、紫色の瞳が私を捉える。微かに落とされた翳りの中に、それまでの生涯で様々な紆余曲折を経験した者特有の憂いが見える。それでいて、色の薄い唇は緩やかに結ばれて、日々の生活にそれなりに満足しているようでもある。
整った顔立ちの少女にじっと見つめられて、私は少し動揺した。噂からでは根暗の薄ら寒いイメージしかなかっただけに、よくよく見てみれば可愛らしいのが意外だった。
「え、な、なによ」
思わず髪に手をやりながら問いかける。しどろもどろになっているのが自分でもわかってみっともない。
「いえ」
さとりはそう応じたあと、ふわりと笑みを浮かべた。眠っていた花がそのつぼみをそっとひらくように。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げ、彼女はペットたちの待つ席へと向かった。
「……は? え」
きょとんとした。あいつ、何でお礼なんか言ったんだろう? 私は何も話していないのに。気でも狂っているのか。
「ふぃー、緊張したなぁ。ねぇパルスィ、何て思ったわけ?」
「へ、思う? 何を?」
「だってさ、あいつってたしか心読めるじゃん。あんなにいきなりお礼言ったのは、パルスィの心を読んだからでしょ。なにパルスィ、可愛いなとか思ったわけ? なかなか隅に置けないなぁ!」
……そうだ、覚り。やっと思い出した。あいつは人の心が読める。ということは。
そう、ヤマメの言った通り、「案外可愛いな」と思ったのも読みとられてしまったのだろう。
「……うわ、なにそれ、すごい恥ずかしい……」
思わずカウンターにつっぷす。顔が赤くなっているのがわかる。なぜ「可愛い」以外の感想が思い浮かばなかったのかと自分を責める。橋姫たるもの、もっと剥き出しの醜い感情を、これでもかというくらいにぶつけたってよかったはずだ。覚り妖怪の持つ第三の目とやらをぶちりと潰すくらいの勢いで。なのに。
「……いきなりお礼なんか言うなよ。びっくりするじゃない。だいたいね、あんなこと言って説明もなしに去っていくのは自己満足じゃない。勝手に自分で完結して他人をほったらかしにするなよちくしょう。ああもう!」
「まあまあいいじゃない。ほら、これを機にあいつとお近づきになったらどうだい? 私もまださとりとは話したことないしなぁ」
「あんたの趣味に私を利用するな」
ヤマメは地底の人気者だ。なぜ人気者かといえば、どんな相手とでも明るく積極的に話をしようとするからである。そんな彼女は、旧都の妖怪連中と一人残らず仲良くなろうという計画を密かに進行中だ。そんなのは勝手にやればいいが、巻き込まれるのは正直御免こうむりたい。
「恥かかせやがってぇ……今度仕返ししてやる」
つっぷしたまま、横目で地霊殿の客たちを観察する。無愛想だけれども礼儀正しいバーテンダーが、三種類の色様々なお酒を席まで運んで行った。さとりはバーテンダーに何かを告げて、ぺこりと会釈をした。私のことなど忘れてしまったかのように澄ました表情をしている。ちったぁこっちも気にしろよ、とわけのわからない怒りが湧きあがってくる。
「パルスィ、酔ってる?」
「……んー……」
「そろそろ出よっか。もう十分呑んだでしょ」
「……もうちょっと」
「私を破産させるつもりかい。それにパルスィ、あんまお酒強くないでしょ。背負ってウチに連れて帰るなんて嫌だよ私は。ほら立った立った。お勘定は済ませとくから、先にキスメと外で待ってな」
そう言われて、私は渋々席を立った。最後に振り返って見たとき、さとりは目を閉じて、氷の浮かんだ琥珀色の液体をゆっくりと呑んでいた。冷たく清々しい酒精が体の隅々にまで沁み渡るのに、心の底から感じ入っているような様子に、なぜか惹きつけられてしまう。ヤマメがまた呼んだので、私は無理やり視線をひっぺがして、扉を開けて雪の降りしきる寂れた裏路地に出た。カランカランと、甲高い鐘の音がいとまごいを告げた。
「…………くしゅんっ」
「……あんた、その格好で寒くないの」
くしゃみをして震えているキスメに呆れてしまう。こんな寒い中に薄い着物一枚じゃ、凍死したっておかしくない。私だっていつもの服の下に何枚も重ね着しているのだ。
「だいじょうぶ」
しかしキスメは鼻水をすすったあと、妙に自信げにそう答えた。それから桶の底のほうをなにやらごそごそやり、そこから厚手のコートとマフラーを取りだした。
「その桶は四次元かどっかに繋がってるの?」
「ひみつです」
それをきいて、桶の中に手を突っ込みたいという欲動がムラムラと湧きあがってくる。今ならヤマメもいないし、やってもいいかな?
「こいし」
「へ?」
内なる衝動と震える右手とを抑えつけていると、キスメがこれまた唐突に呟いた。
「こいし、あの中に、いなかった」
「……ああ、そういえば」
「どうしたのかな」
「……私に訊かれても。意地悪してるんじゃないの、あのさとりって奴が。この前も橋でなんかやらせてたみたいだし」
「ちがうとおもう」
「じゃあなんだってのよ?」
「お待たせ! うひょー寒いねぇ外は! キスメ、ちゃんとコートとマフラー着てるかい? よしよし」
ヤマメがやかましく店から出てきた。キスメが寒そうにしていないかどうかひとしきり気にしたあと、こちらに目を向ける。
「……で、なんの話してたんだい? 私を差し置いて仲良さそうに」
「そんな心配せんでも。あん中にこいしがいなかったなって話よ」
「ああ、なるほど。うーん、そうだなぁ。パルスィが橋でこいしちゃんを見かけたのっていつだい?」
「三日前だけど」
「じゃあまだ帰ってないんじゃないかな」
「帰ってないって……どこほっつき歩いてるのよ。家にも帰らずに」
「地上だよ。言ったでしょ、何するかわからない子だって。次の行動の予測がまるで立たないんだ。いつ地底に帰ってくるかもわかりゃしない。本当はこいしちゃんも連れていきたかったんだけど、あまりに帰ってこないもんだからペットたちがしびれを切らして、渋々来たってとこじゃないかな」
「そうかなぁ。さとりが意地悪してるんじゃないの」
「ん? どゆこと?」
「だってさ、橋でのこと思い出してもみてよ。あのさとり、外見はああだけど家庭では相当アレな奴なんじゃないの。こいしが帰ってこないのも、そんな姉が嫌で逃げ回ってるとかさ」
「それはないねぇ。本当にこいしちゃんが嫌がってるなら、そもそもそんな橋の上で逆立ちしろなんて言いつけ守るはずないでしょ。むしろ逆じゃないかって私は思うんだ」
「逆?」
「さとりがこいしちゃんに罰を与えたっていうの、あれは嘘で、本当はこいしちゃんが姉の評判を貶めるためにパルスィの前であぁんなことをしたり、そぉんなことを言ったとか」
「……あの姉妹はどんな修羅の道を歩んでるのよ。不可解すぎるわ」
「さぁね。まぁなんにせよ他人の家庭の問題にあまり首をつっこむのはよくないさ」
そんな道徳めいたことを言ったあと、ヤマメは寒そうに袖をこすり合わせた。
「うぅ、寒いねぇ。どうするパルスィ。私らはなんかあったかい物食べてから帰るけど」
「……私はいいわ。帰って寝る」
「ほいほい。じゃあ、また今度」
「ばいばい」
キスメが袖に隠した小さな手を振った。私は適当に別れの仕草を返して、雪の降りしきる裏路地をさらに奥へと進んだ。
すれ違う妖怪たちと視線を合わせないようにしながら、さとりのことを考えた。なぜかあいつのことが頭から離れない。いきなりお礼を言われたこととか、妹とのわけのわからない関係とかもインパクトが強かったけれど、なによりも気にかかるのはあの目だった。この世の辛酸はもう舐めつくしました、だけど今はそれなりに幸福です。そんなことを物語っているような紫色の瞳。なんだろう、凄く、気に食わない。
溜息をつく。あいつのことを幾ら考えたって、嫌ったって、意味がない。早く帰って、暖かい布団に入って寝てしまおう。上着の襟を押さえ、早足で迷路のような路地を抜けて行った。雪はしょうこりもなく降り続いていた。
「ははぁん、それはあれだねパルスィ」
「……なによ」
「恋、だね」
ずるっ、と頬杖をついていた腕をすべらせて、危うくグラスをテーブルから叩き落とすところだった。なんとか落下はまぬがれたけれど、入っていた日本酒が少し外に零れてしまった。
「おおっと、気をつけてくれよ。どんなに安くても酒は酒なんだ。ぞんざいに扱うことは許されないね」
誰のせいよ、とつっこもうとして、だけどこいつに何言っても無駄だなと思い直し、溜息をついて台布巾でテーブルを拭く。勇儀の言う通り、どんなに安くてもこれは立派なお酒なのだ。少しでも無駄にしてしまうのはバチがあたる気がするし、なにより出来はぼろっちい癖に家賃だけは馬鹿高いこの部屋が圧迫する経済事情の中で、食費を削ってまでわざわざ買い込んだとっておきのお楽しみである。少しでも体に収めなければ気が済まない。
それもこれも、勇儀が変なことを言い出したからいけないのだ。世に起こる物事を全て恋愛沙汰に還元したがる輩がいるものだけれど、まさか勇儀がその類だったとは。意外ではあるが、どこまで本気だかわからない。私は雑巾を置いて、発言の真偽を確かめようと、テーブルの向いに座る勇儀をじっと睨んだ。
「怖い怖い。まぁそう睨むなって。それにパルスィ、この私に向かって照れ隠しするこたぁない。こう見えても何百年も生きている筋金入りの鬼さ。恋愛沙汰の一つや二つなんぞどうってことない。義理人情に従って取り持った恋仲の数たるや――」
「だから! なんで私があいつを好きとかそんなこと前提にしてんのよ!」
「だってねぇ、あんたの話っぷりとか、一回会っただけなのにそんな風に引きずってる様子だとか、眉をひそめて思い悩む顔とかを見りゃあ私じゃなくても誰だって」
「くっ……」
唇を噛んで、上目遣いに睨みつけてやる。こうすると、勇儀が私に妙に弱くなるのを知っている。
「わかったわかった。もう睨むなって。いずれにしろ、あんたがさとりに何かしら特別な感情を抱いたってのは確かなんだろ?」
「……まぁ、そうね」
「その感情の正体がわからないからこそ悩んでるわけだ。どれ、一つ検討してみようじゃないか」
勇儀は目を爛々と輝かせ、テーブルの上に右腕をべたりと置いてこちらに身を乗り出した。口元には抑えきれない笑みが浮かんでいる。
まったく、人事だと思って。私は鼻を鳴らして、グラスを乱暴につかみお酒を煽った。
酒場でさとりとの邂逅を果たしてから丸一日立っている。家に帰ってもなかなか寝付けず、ベッドの中で寝がえりを打ちながらずっと悩みの正体を探り当てようとしていた。だけれど答えが見つからないままにいつの間にか寝入ってしまって、気がつけば午後になっていた。幾つかの家事を適当に済ませ、テーブルに向ってぼーっととりとめもなく考えを巡らせていると、勇儀がそこの今にも外れそうなドアを乱暴にノックしたわけだ。
こいつはときたまここへ遊びに来る――もっと包み隠さず言えば、お酒を呑みつつ私をからかうためにここへ来る。私はからかわれるとわかっていながらも、なぜかこいつの話術に乗せられて胸のうちをつらつらと喋ってしまう。そこらへんは癪ではあるけれど、明るくて話も上手いこいつとの晩酌はそれなりに面白くもあるので、多少の不愉快は我慢することにしている。
「まず検討しなければならないことは」勇儀はこの世の行く先を決める重大な選択をするかのように、重々しく語り出した。「さとりはいけすかない奴だが、顔はとてつもなく可愛らしいということだ」
渾身の鉄拳は、腹立たしいことに苦もなくひょいとかわされた。
「なんでそんなことから検討するのよ! やっぱりさっきの前提抜けてないじゃない!」
「じゃあ言い換えよう。さとりは顔はとてつもなく可愛いが、いけすかない奴だ」
「前後入れ替えても言ってることは同じでしょう!」
「ああ、つまり一目ボレってことだな」
「このっ……!」
「はははパルスィ、綺麗な顔が台無しだぞ」
幾ら高速で拳を突き出しても、勇儀には体をひょいと傾けるだけで盃の酒をこぼさずによけられてしまう。ちくしょう。
「まぁ、ともかくだ」
肩で荒い息をする私を見て笑いながら、勇儀は続ける。
「内面は置いといて、あんな美少女に見つめられて突然ありがとうなんて言われたら、そりゃあ誰だって悪い気はしない。顔が赤くなるのも無理はないね」
「……もういいわよなんでも」
「さて、次に俎上に乗せるべきは、なぜさとりはパルスィにありがとうと言ったかだが」
「私が血迷って、『可愛いな』とか思ったからじゃないの」
「微妙だな。あんだけの整った顔立ちを持ってたら、言ってみればそういう風に『思われ慣れて』いる。少なくとも初見の相手にはね。しかもあいつの場合すぐさま心を読みとってしまうだろ? 今更そんなことでわざわざお礼など言ったりするもんかね」
「あんたみたいに自分のことを嫌う奴が多いから、新鮮だったんじゃ」
「おぉっと、勘違いしないでもらいたいね。あいつはいけすかない奴だが、嫌いじゃない」ニヤッと勇儀は笑った。「質問を変えてみよう。理由はひとまず置いておくとして、どうしてさとりはパルスィにわざわざそんなことを言ったのか、だ。可愛いと思われた相手がいたなら、ただ微笑んで見過ごせばいいだけの話だろう? お礼を言う必要なんて全然ない。ならば、ありがとうと言った目的はいったいなんなのか」
「……さっぱり。見当もつかないわ。あんたはどう思うのよ」
「ズバリだ。これはあいつのパルスィを籠絡するための戦略なんじゃないかと思うんだ」
「……はぁ?」
「つまり陰険なさとりは、あいつらしい回りくどいやり方でパルスィを我がものにしようと狙ってるわけさ」
どうやら、何が何でもそっちの方向に持っていきたいらしい。私はもう勇儀の言うことを真に受けるのを諦めた。らちがあかない。
「あんた、なんなの。どうしてもさとりと私をくっつけたいの」
「でも実際、ありがとうと言われてパルスィは困惑してる。理由が見当たらないからこそあれこれ考えて悩んでる。私が言いたいのは、あのお礼には何も込められていやしなかったんじゃないか、だから理由なんて考えても仕方ないんじゃないかってことさ」
「……確かに」
ほんのきまぐれ。あいつが私を籠絡云々は馬鹿馬鹿しいから考えないことにして、あれはただ単に私を困惑の渦に陥れて楽しもうっていうだけの魂胆じゃないか。考えてみれば、そのほうが陰険そうなあいつのイメージに合っている。ならば、無駄に考えを巡らすのは、あいつの手の内に完璧に嵌り込んでしまうというわけか。
「ところで、なによりも私が興味があるのは」勇儀は盃に酒を汲み直しながら言った。「パルスィがなぜそんなに動揺しているか、だ」
「……別に、動揺なんか」
「じゃあ言葉をかえよう。あいつの何がそんなに気にかかってるんだい?」
「…………」
「さとりのことを頭から追い出したい。なのに追い出せない。頭の中にあいつのことが釣り針みたいに喰い込んでいて、全然外すことができない。それはどうしてだい?」
「……わからないわよ、そんなの」
わかったら苦労はしない。目を閉じれば、まず真っ先にあいつの紫色の瞳が思い浮かぶ。それは決して愛おしくなんかないのに、どうしても放っておけない。憎たらしいのにつきはなせない。もどかしい。本当に。どうして。
「こういうときはだな……っと」
盃にお酒を溢れる一歩手前までいれ、慎重に口元まで持っていき、口に含む。それを私はじっと見ている。透明なお酒は、しっくりと勇儀の体に馴染んでいくように思える。さとりが呑んでいた琥珀色の液体も、きっとこっくりと濃くて純粋で、あいつの憂鬱を緩々と深めていったことだろう。
「……一般論から攻めてみるのもいいかもしれないね」全て呑み干して、勇儀は息を深く吐きだし、言った。
「一般論? どんなよ」
「大したものじゃあない。人が人に惹かれるのは、お互いの中に何かしらの共通点があるからだっていう考えだ。お互い何も見いだせないのなら、自然と縁は離れていくだろう。でも惹かれあったからには……縁が結ばれてしまったからには、それなりの理由があるはずだ」
「共通点……」
「まず自分の心を確かめるといい。色にでも形にでも、なんにでもいいから喩えてみるといい。それからあいつのことを考えるんだ。それで何か見つけ出せたなら、疑問はすっきり晴れるだろう。もし見つからなかったら……」
「見つからなかったら?」
「今度は自分から会いに行って、何が何でも見つけ出してやるのさ」
にやりとお得意の笑みを見せて、勇儀は瓶を持ってその口をこちらにくいと傾けた。
「もう一杯、いっときな。酔った頭の発想のほうが、役に立つこともあるからね」
強く、強く吹雪いている。近くの木は雪に翻弄され、白い風が轟音を立てて通り過ぎていく。
「な、なななにもこんな日に来ることなかったんじゃないの……?」
訊く相手もいないのに、私はガチガチと歯を震わせながらそう言った。そうしないと、意識をどっかにやってしまうかもしれなかった。それほどに寒い夜だ。
勇儀との晩酌から丸一日経っている。あれから酔った頭で色々と考えて、やっぱり幾ら考えてもわからなくて、居ても立ってもいられなくなって長屋を飛び出したのがついさっき。旧都の奥へと続く道を、熱に浮かされたように走り抜けて、いつの間にかここまで来てしまっていた。目の前には、どっしりとした宮殿みたいな石造りの館が、眠れる獣のように不吉な沈黙を守っている。
「うぅ……さむ……しぬ……」
考えなしで行動するからこうなる。そんなことはわかっていたはずなのに。私は唇を噛んで両肩を抱き、とんとんと足踏みをして、地霊殿の重々しいファサードに目を凝らした。扉は固く閉ざされていて、押しても引いても開かないように見える。でも入口である以上そんなことはないはずで、近寄ればもちろん開けることができるのだろうけど、問題は。
「……どんな理由を付けて入るか、よね」
衝動に突き動かされてここまで来た。だから相手を納得させる理由なんて微塵も持ち合わせていない。さとりに会って、確かめたい。ただそれだけ。それだけのことで、わざわざ地霊殿の連中を玄関まで呼び出して、どうか入れてほしいと頼むのか。これだけ閉鎖的な建物に住んでいる連中だ。偏見かもしれないけれど、やはりそういうことは頼みにくい。
でも、せっかくここまで来たのにすごすごと帰るのも、何か悔しい。いずれにせよ、どっちかに決めなくてはならない。こんなところにあと五分もいたら、風邪を引くどころじゃ済まされないだろう。
震えながら逡巡していると、ふと視界の端に何かが引っかかった。一面の白と灰の世界の中で、ただ一つ異質な黒の小さな塊。細くしなやかで、二本の尻尾を自慢げに宙へとくねらせた、あれは猫だ。
「……燐」
バーでさとりが呼びかけたその名前を思いだす。燐は身軽にひょいと横まで来ると、好奇の赤い瞳を私に向けた。値踏みするかのような視線にたじろいでしまう。
「なによ」
「にゃあん」
そう一声鳴いて、燐は入口まで行き、どうやってかは知らないけれど軽々と扉を開けてみせた。黒い影が中へ滑り込んでも、扉は開いたままになっている。入るなら入れ、ということか。
「……行ってやろうじゃないの」
正直、きっかけが出来たことにほっとしていた。それでも強がりでそう言ってみせる。どうせ誰も聞いていないけれど、半分は自分を奮い立たせるための勇気づけだった。細く開いた扉をさらに押し広げて、地霊殿の中へ入り込んだ。
玄関ホールは、風雨さえしのげるものの、寒さは外と変わりなかった。暖房は入っておらず、床は冷たい石が平らに広がっている。歩くと、コツンコツンと固い音が響いた。ここは暗くて、誰もいない。燐がいたとしても、闇に溶けて見えなかっただろう。
「……予想通りというかなんというか、陰気な館ねぇ」
喋ると白い息が出た。それを見て、私が言えたことじゃないけど、と一人苦笑する。あのボロっちい長屋だって、性格の暗い奴しか住んでいない、とてもとても陰気な場所だ。でも、そういう場所のほうが、落ち着いてゆっくり眠ることができるし、居心地が良いとすら感じる。
「共通点一つ、見っけ」
その一。陰気さ。わかったところで少しも嬉しくない。ゆっくりと、なるべく音を立てないように歩きだした。
奥にあった扉を開ける前に振り返ると、壁の高い位置にステンドグラスが見えた。外からの僅かな光を、紫に染色して床に複雑な模様を描き出している。きっと、薔薇か何かだろう。それにじっと目を止めてから、玄関ホールを後にした。
そこからはまるで別世界だった。照明は楽しげに灯り、床は毛の長い肌色のカーペットが敷き詰められてふかふかしていた。暖房がよく効いているのか、もうちっとも寒くない。見渡すと、そこかしこに雑多な種類の猫が歩き回っていて、生き物の暖かみに満ち溢れていた。
「……嫌われ者の館、というよりは猫屋敷ね」
これだけ生き物に囲まれていれば、少なくとも寂しくはないだろう。あいつ、寂しがりなのか。
そこらに寝そべる猫の体やら尻尾やらを踏みつけないようにしながら、廊下を進んでいく。彼らは私を見ても特に動こうとせず、侵入者のことをご主人に知らせようという素振りを見せるものさえいなかった。ただ燐と同じように好奇の目を向けてくるだけだ。一匹だけ、白い猫がするすると近づいてきた。しゃがんでなでてやると、気持ちよさそうに目を細めた。猫というのはもっとそっけない生き物だと思っていたけれど、地霊殿のペットたちはそうでもないらしい。
「ねぇ、あんたのご主人はどこにいるの?」
冗談のつもりで訊いてみると、猫はにゃあんと朗らかに鳴いて、くいと前足で右へ折れる廊下を指し示した。
どうやら、排他的という評価は改める必要がありそうだ。私はお礼を言って、廊下を右へと曲がった。
すると、向こうに開いたままのドアがあった。廊下とは種類の違う照明の光がそこから漏れている。足音を忍ばせて、その入り口の傍まで行き、部屋の中を覗きこむ。
広いリビングだった。暖炉の火は楽しくはぜて、部屋を赤く照らしていた。少し離れたところから深緑色の絨毯が始まり、暖炉に向かい合うようにして焦げ茶色のソファが置かれていた。そこに、紫色の短髪の、小柄の少女が座っていた。
「……いた」
さとりは本を読んでいた。一冊の文庫本を両手に持って、膝の上に乗せ、背筋をピッと伸ばした良い姿勢を保ったまま。サイドテーブルにはティーカップが湯気を立てていて、時折それを手にとって中身を飲んだ。随分と楽しそうだ。私は苦労してここまで来たっていうのに。妬ましい。
そこで、さとりが不意に目を上げた。
「……おや。貴女は……」
アメジストの瞳が、軽い驚きにじわりと広がる。
「あー、その……」
私は頬をぽりぽりと掻き、どう言ったものかと一瞬迷ったけれど、すぐにそれも全て無駄だということに気付く。すべて、心は読まれてしまうのだ。
「……お邪魔してるわ」
他に言うこともなく、そう呟くしかなかった。
「……ああ、なるほど」
さとりはパタリと本を閉じ、サイドテーブルに置いた。
「戸惑わせてしまったのですね。随分と」
「おかげさまでね。ためておいたお酒が随分と消えた」
「鬼と一緒に呑むと、そうでしょうね。私は、嗜む程度にしか呑まないので、お酒に溺れるという経験はしたことがないのですが。……いかがですか? ブランデーを一杯」
「……いただこうかしら」
欲しがっているものを即座に見抜かれるのはしゃくだけれど、ありがたいには違いなかった。外から暖められているのなら、次は内から温めてくれるものが欲しい。
「てっきりつまみだされるかと思ったわ。入口や見た目がアレだったから」
「いきなり弾幕ごっこを仕掛けてきたり、何かを盗むつもりで入ったのなら、そうします。でも見たところ、貴女はそうではないようだから。つまみだす理由がありません。貴女は」
客人です、と言い残して、さとりは隣の部屋へと入っていった。
ほっと溜息をついて、部屋の中に踏み込む。部屋の隅の一角に、白黒の写真が飾られている場所があった。見れば、ペットたちを写したものが多い中で、何枚か、さとりとこいしを写したものが混じっていた。ふと、薔薇の絵があしらわれたステンドグラスを挟んで笑っている二人が目を引いた。さっき見た玄関ホールのステンドグラスの完成記念、といったところか。さとりは今と同じ服装で、口元を少し緩めて静かな笑みを浮かべている。こいしのほうは、屈託のない朗らかな笑顔が眩しい。その胸についた第三の目は開いていた。
「ああ、そのステンドグラスは妹と二人で作ったのです。まだペットが多くない時分でした。なかなかのものでしょう?」
戻ってきたさとりが、私の横に立って言った。
「ふぅん……いやよくわかんないけどさ」
確かに、外からの光を紫色に染めて床に薔薇を描き出す光景は、妖しくて綺麗だと思った。でも、ただ褒めるのも嫌だった。誰かが誰かと仲良くしているのを目の当たりにすると、感情が抑えきれなくなるから。
「複雑なのですね……用意ができました。こちらへどうぞ」
ソファの傍にあるサイドテーブルの上に、ブランデーの角ばった瓶と、グラスが二つ用意されていた。私はさとりに続いてソファに腰掛ける。
「あまり高いものではないのですが」
「大丈夫よ、慣れてるから。安いものにはね」
そう言うと、さとりはふっと微笑んだ。
「どんなに安くてもお酒はお酒。敬意をはらって接しなければ、お酒の神様に失礼だ……ですか」
「別に、私の意見じゃないわ」
「そうですね。もしお酒の神様への敬意を前提にお酒と接するのならば、高い安いの価値判断を下すこと自体失礼にあたりますからね」
「そんな難しいこと考えてお酒呑んでない。呑めりゃいいのよ、なんでも」
「ふふふ。ではどうぞ」
ちょうど良い具合に注がれたブランデーグラスを取り、横を向いて、目の高さに上げる。冬の夕焼けのような琥珀色のスクリーンに、歪んださとりの顔が映る。
「乾杯」
「……乾杯」
手の中でグラスを転がす。口元に持って行って少し止め、甘い香りを楽しんだあと、ゆっくりと口に含んでいく。
「……何が高くない、よ。うちで呑むのより全然美味しいじゃない」
「それはよかった。ここまで来た甲斐がありましたね?」
「ふん」
しばらく、さとりを視界から締め出して、暗闇の中で味と香りだけを楽しむことにする。瞼の裏に、今の私と同じように琥珀色の液体を呑みほしている、さとりの顔が浮かぶ。白い顔、閉じた両瞼、紫色の短髪。本人を目の前にしているのに、妙な話だ。
目を開けると、さとりが呆けたような顔をして私を見ているのに気がついた。グラスのブランデーは少しも減っていない。
「どうしたの」
「いえ……」
「他人の心の中に自分を見るのは、妙な気分? 見えたんでしょ」
「……そうですね。少し、意外でした」
「なにがよ」
「何気なく言った言葉が、時に予期しないくらい強く人の心に残り続けることが」
……もしかして、そんなことも自覚しないであんなことを言ったのか。だとしたらいい迷惑だ。こっちはあれのせいで二日くらい思い悩んだというのに。自分の言葉の及ぼす効果や影響くらい把握しておけと思う。
「そうですね、迂闊でした。反省します」
「いや、今更反省されても」
だとしたら勇儀の言う通り、やはりあのありがとうの一言は、意図なんてない単なる気まぐれとして片づけたほうがいいのだろうか。
答えを促すようにさとりを見ると、なぜか目をそらされた。今のは不審な素振りだった。明らかに。
「やっぱりあんなことを言ったのには、理由があるのね?」
「……」
さとりは答えない。でもその沈黙と、居心地悪そうな様子が、私の予感があたっていることを何よりも告げていた。そして、それは私には言いにくい類のものであるらしい。
こいつが喋らない理由はなんなのだろう。と、こんな風に考えても即座に読まれてしまうのだから、こいつはますます口を固く閉ざすだけだ。なんてやりにくい。
「……まぁ、そうね。どうせ読まれてるんなら、せっかくだから声に出して考えてみようかしら」
そう言って、私はブランデーを注ぎ足した。勇儀の言い草ではないけれど、酔った頭は時に普段では思いつけない答えを捻りだす。呂律の回らない口調はそれをさらにとりとめなくする。波に身を任せて、いっそ思いがけないところへ行ってしまおう。
「あの時考えてたのは一つじゃなかった。隣りにヤマメとキスメがいて、それまで、あんたの妹のことについて話してた。あの子が突拍子もないことをしでかすってことを初めて知った時だった。あんたはあの時、私の頭の中にこいしを見た……」
ぐいっと、グラスを傾ける。あまり気に入らない答えに辿りついたからで、それがなぜ気に入らないのかもわからなかったけれど、とにかく飲み干した。
こいつの妹は、いつ帰ってくるかわからない。さとりはそんな彼女のことを心配している。
「つまり、あんたは私のことなんかどうだって良かった。こいしの動向が少しでも知れたから、あの子の姿をちらりとでも見ることができたから、それが嬉しかったんだ。違う?」
酒臭い息と共に苦い言葉を吐きだして、さとりを睨んだ。紫色の瞳はこっちを見ていない。暖炉の火を静かに映し出している。
「それで、そんなことを言うと、私が傷つくとかなんとか思ったから、喋れなかったんだ。どうなの」
「…………」
「もしそう思ってんならね、残念だけど私はそんなにやわじゃないわよ。あんたが私に興味がないとか関係ない。私があんたに興味があるの。ついでに言えば、なんでこんなにあんたのことが気になるのか、理由がわかれば、あんたなんて……」
「……見つかりましたか?」
「え?」
「私と貴女の共通点。それを探していたのでしょう」
「あ、ああ、そうね。今のところ、陰気ってことくらいしか、見つかってないか……」
頭が沸いて、だんだん自分でもなに入ってるか掴めない。
「あの、もしかして、酔ってます?」
「……酔ってない、酔ってない。だいじょう、ぶ」
「顔が真っ赤ですけど」
「ああ、それはたぶん、そう」
「なんですか?」
恥ずかしさのせいかもしれない……。
心地よい眠気に包まれて、私はソファの上に倒れ込んだ。
なんか盛られたかな……。
目が覚めて、一番に思ったことはそれだった。ソファの上で気を失うように眠りこんだところまでは覚えている。でも、いまどうしてこうふわふわの何かに包まれて、白く円い照明を見上げることになっているのかは、とんと見当がつかなかった。
「う……うぅん……っ」
少し頭が痛む。バーでヤマメが言った通り、私はあまりお酒が強いほうではない。ワインや日本酒ならグラス一杯程度が限度。それでも呑んで酔うのは好きだから、あまりお金のかからない趣味だということにしてプラスに考えていたけれど。ここに来てボロが出るとは思わなかった。しかも、他人の家で前後不覚になるなんて。
「はぁ……くそ、どう思われたかなぁ」
「酔った貴女は可愛いなぁと」
「うわ!」
びっくりして跳び起きる。横たわっていたのは広いベッドだった。さすがに天蓋はついていないけれど、弾力のあって居心地がいい。うちのスプリングがぎしぎし軋む安物とは違う。その横で、さとりが椅子に座って本を読んでいた。一緒にブランデーを呑んだはずなのに、少しも赤くなっていず、澄ました顔をしている。いや、もしかしたら……眠りこんでから結構時間が経っているのかもしれない。
「……いたのなら声かけなさいよ。どれくらい寝てた?」
「2時間ほど。ソファだとさすがに風邪をひくでしょうから、ここへ運んできました」
「ここは?」
「こいしの部屋です」
「え……なんで、わざわざ妹の部屋に」
「居間から一番近いのはここでしたから。一人ではどうにも重たくて」
「おっ、重くなんてないわよ!」
「失礼しました。私の体力がもたなかったので。それに……どうせこいしは、戻ってきませんから」
最後は、消え入りそうな声だった。相変わらず本に向けられた瞳にちらりと寂しさの影が落ちる。
「……ペットに手伝ってもらえばよかったじゃない。いるんでしょ、燐とか。あとあの烏のやつとか」
「手伝ってもらおうと思ったんですが……みんなにやにや笑って、取り合ってくれなくて」
「はぁ? どうしてよ。ペットの信頼ないわけ?」
「そうかもしれませんね」
と、さとりははぐらかした。これも不審な感じだ。少し考えてみると、すぐに答えに辿りついた。
「にやにやってことは……私とあんたが、その」
「ただならぬ関係だと」
「なによそれ……」
眠る前のことを思い出した。さとりが私にお礼を言った理由がわかって、さとりが真に私に対して特別な想いを抱いていたのではないことがわかって。それに少なからず心を乱されて、それでも強がりで、そんなことは関係ない、私があんたに興味があるのと言った。今考えれば、なんてこっ恥ずかしいことを考えたのだろう。興味を持たれなくてもいいから好きでいたい、そんなことを言ったに等しい。
「そうですね。貴女は、そんな殊勝な性格でもないでしょう」
「あんたに何がわかるのよ……もうこうなったら、とっとと共通点とやらを見つけ出して、こんなとこ抜け出してやる」
地霊殿だけではなく、同じところをぐるぐるしてる気分からも抜け出したい。
といっても、何かあてがあるわけでもない。何かいい案はないかとさとりを見る。さとりは僅かに眉を動かしたあと、言った。
「見つけ出すといっても、既に貴女の心の中に答えがあるでしょう。それに私と貴女は初対面だった。とすれば、まず目につくのは外見のはずです。貴女は、私の体のどの部分に惹かれたのですか?」
「なんかその言い方変な意味にとられそうだからやだ」
「ならば、私のどこにまず引っかかったのですか?」
「そうね……ちょっとこっち来て」
「はい」
さとりが本を椅子に置いて、ベッド際の私に近づく。
私は彼女を見上げる。どことなく青白い、いかにも不健康な顔色だ。もしかしたら、少し疲れているのかもしれない。
「顔……」
「まず、顔?」
「いや、違う……そうだ、目だ」
辛いことはすべてもう過去のこと、今はそれなりの幸せを掴んでいて、憂いを抱えながらも満ち足りた生活を送っている。
まず、それが、
「妬ましかった……ですか?」
「先に言うんじゃない」
そう、こいつは生意気なんだ。いっぱしの幸せを掴んだような気になって。私は、幸せがどんなものかわからないのに。
「共通点、というよりは、差異ですね。貴女は私が幸せだと思っている。そして貴女は、自分が幸せではないと思っている。それが妬ましい。そして同時に、その幸せに惹かれた」
私が言葉に出さないのに、こいつはぺらぺらと勝手に喋ってくれる。それはなかなか楽なんじゃないかと、血迷ったことを考える。
「でも、それは思い違いです。私には、貴女も充分に幸せを掴んでいるように見えました。バーでのあの二匹の妖怪とのやりとり。随分と楽しそうにお酒を呑んでいた。それに、鬼。腹を割って下世話なことを話せる友人というのは、私にはいません」
ほら、そんな風に、人の心をすべてわかっているような口をきくのが、そして実際そんな能力を持っているのが、生意気なんだ。
さとりはふっと笑みを見せた。一杯になったコップから水がふわりと溢れ出るような、自然な笑いだった。
「他には、どこかありますか?」
「髪」
紫色の短い髪。ところどころ跳ねているのがなんだか可愛らしい。両手を伸ばして、彼女の後ろ髪に触れる。柔らかい。跳ねた部分を指でいじる。
「朝の寝癖がひどくて、燐やこいしによくからかわれます」
「へぇ」
少し見たいかもしれない。ついでに寝癖をぴろぴろしたい。
「他には?」
「…………唇」
ゆっくりと、琥珀色の液体で湿りを帯びて行く、色素の薄い唇。寂しげな笑窪がその横に浮かぶ。
それに、触れたいと思った。
きっと冷たいのだろう。
「確かめてみますか?」
「え?」
柔らかいものが唇に触れる。目の前に、紫色の綺麗な宝石が二つ、底知れない深みを持つ輝きを放っている。慌てて目を閉じる。
冷たくなんてなかった。温かかった。湿っていて、少しお酒の匂いがする。
「……ん…………」
自然と体が傾いて、ベッドに倒れこむ。髪に手を回したままだったから、さとりも一緒に。
ただ重ねているだけじゃ飽き足らなくて、舌を伸ばす。細くこじ開けた唇の間で、舌が触れあう。
さとりの髪を触れていた手が引き剥がされて、小さな手が私の手を握り、ベッドに上から押し付けた。細い指はいかにも儚く頼りない。確実な物を求めるように強く握ってくる。私も握り返す。息苦しくなって、唇を放す。荒い息が出る。さとりの白い顔は赤く上気していて、紫色の瞳はもう宝石じゃなくて湖のようだった。今にもそこから何か溢れそうだけれど、ぎりぎりのところで踏みとどまっているような感じ。さとりがそれに気付いて、服の袖で眼を拭う。手を伸ばしてその袖に触れると、そこは確かに濡れていた。
「……どうしたの。そっちから仕掛けてきたくせに」
「わかりま、せん」
さとりが唇を噛み、これ以上涙を流すまいと堪える。その源泉は、気恥かしさか、寂しさか。
「これであいこ」
またさとりの顔を抱き寄せて、今度はこっちから唇を奪う。
目を瞑ってじっと恥ずかしさに耐えるさとりが、とても可愛らしく見える。ああ、くそ、勇儀の言う通り、こいつは物凄く生意気でいけすかない奴で……だけど、とっても可愛いのだ。そういう生意気なところ、そして今見せているような、心の弱い部分まで含めて。
体を動かして、今度は私がさとりの上に来る。さとりは熱に浮かされたような目で私を見つめている。そんなにふやけてちゃ、第三の目も意味はないだろう。はだけた服の合間から、痛々しいくらいに白く小さな鎖骨が覗く。そこに口付けると、狼狽したように小さく喘いだ。
私に第三の目があったなら、さとりの心の奥底まで、すべて覗けたかもしれない。でも今では、それほど必要とも思えなかった。眼と唇を見れば大体のことは感じられるし、わからないほうが面白いということもある。隠していること、感情を一つ一つ、表面に引きだしていくという楽しみだ。もし全て、第三の目で知ってしまっていたら、こいつの唇が温かいということも知れなかっただろう。
私はもう一度、さとりの唇を塞いだ。
「……ねぇ、どうしてさっき、泣いてたわけ?」
「……わかりません。でも、他の人が私に興味を持ってくれたのが、嬉しくて……それだけじゃ、ないと思いますけど」
「覚り妖怪も、自分の心の動きは掴みきれないってわけね」
「他人の心の動きもです。たとえ読めたとしても、未来がどうなるかは、確実にわかるということはありません。実際貴女のことも、そうでしたし」
「ふぅん……なるほど、それがあんたの弱点ってわけね。常に予測できない行動をすればいいと。こんな風に」
で。
翌朝、私とさとりがしたことは、ペットたちにきっちり知れ渡っていた。ついでに最悪のタイミングでこいしも帰宅していたらしく、散々好奇の視線を向けられるハメになった。
「お姉ちゃん、なかなか隅におけないなぁ……私の部屋でそんなことするなんて。ちょっと見なおしちゃった」
「ねぇ、お燐、どうして泣いてるの?」
「いや、あの朴念仁のさとり様がそういうことにやっと興味を持ってくれたことが、あたい嬉しくて」
「そういうこと? それってなに? ツルツルしてる?」
「うーん、どっちかっていうと、もっと湿っぽい感じかな。お空、あんたにゃまだ早いかもねぇ」
「もうあんたら! 勝手なことばっかごちゃごちゃ言うな!」
「いやー、おねいさんを入らせてよかったよ。あのときはどうしようかって迷ったけど、なんか面白いことになりそうだと思ってほっといたら案の定さね。これからもさとり様をよろしくね!」
「あー、もうなんでもいいや……」
もしかしたら、と思うことがないでもない。ひょっとしたら、こうなることもすべて計算に入れた上で、さとりはバーで私に関わってきたのではないか、と。結果的には、勇儀が予測したように事が運んだのだから。
だけど本人も言っているように、未来を予知することはたとえ人の心が読めたとしても難しい。それに、あの時流した涙は決して嘘のものじゃないと思う。ならば、もし勇儀の言ったことが本当だったとして、それらの行為はすべてうちに抱えた寂しさが原因となっているはずだ。
何か読み違えていることがあるかもしれないけれど、ともかくもこうして、私は地霊殿の客人として(時にはヤマメや勇儀などのおまけも一緒に)迎えられることとなった。
ひと目でビビッと来る恋もいいですね
み、緑のすと!?、すとらいぷ!!?
パルスィいとおしいよパルスィ。
こいしちゃんは何やってるんだ、教育が必要みたいだからこっち来なさい