Coolier - SS得点診断テスト

ドゥカー・衣玖

2013/04/01 00:54:00
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 すべての始まりは、洩矢の鉄の輪を『アインラッド』と称して乗り回していた幼少時代にまで遡ることができる。後における「ドゥカー・イk……永江衣玖さんはやっぱり、バイクとかお好きなんですか?」「そうでもないです」というやりとりの発端は、まさにこの時代であった。

 他人に語るに値するような、そこまで劇的なキッカケというやつがあったわけではない。

 強いて言うなら――幼いころから、普通の人間には見えない霊やら神さまやらの姿が見えるせいで同年代の子供たちからちょっと遠ざけられ、なかなか友達ができなかったという、実録系ホラー漫画雑誌とかによく載ってる霊能力者の半生みたいな感じのアレである。ともかくも、幼き日の少女の世界は両親と、そして何より、厳しくも優しく彼女を見守る二柱の神々によって支えられた、ひどく閉じられたものだったのだ。そういう環境では、当然、与えられる情報は狭まっていくことになる。

 あるとき、軍神は言った。

「早苗や、よくお聞き。孔子という人はね、“義を見てせざるは勇なきなり”という言葉を残している。為すべきことをせぬ者は、勇気がない者だという意味だ。悪や不正に対しては、真っ向から立ち向かう勇気を持ちなさい。まあ言うなれば、氏子の者たちからもらったお饅頭を戸棚に隠して独り占めしようとする、どこぞのカエル女のようにはなるなということだよ」

 またあるとき、軍神と双璧を成す崇り神はこう言った。

「早苗、ちょっと聞きな。わが郷土、諏訪にもゆかりある戦国大名の武田信玄はね、ライバルの上杉謙信が塩不足で苦しんでいるとき、正々堂々と戦いで決着をつけるため、あえて謙信に塩を送ったといわれているんだ。敵であっても情けを忘れぬその心意気、優しさ、後世に生きる早苗たちにも大いに見習うところがあるだろう。まあ言うなれば、戸棚のなかのお饅頭を一個も残さず全部食べてしまうような、どこぞの強欲なクサレマ【良い子のみんなへの悪影響を考慮して伏せさせていただきます】ヘビ女に影響を受けてはいけないということさ」

 背中越しに今にも勃発せんとする神々の戦いに備え、自分が何を行うべきか。それは、未だ小学校に上がったばかりの幼い少女にもよく解る。いったいどちらの言い分が正しいのか、まずはよく話を聞いての思案のしどころだ。そう思いひとりうなずくと、彼女はひとまず居間のテレビのリモコンを手に取ってチャンネルを合わせ、ポチポチと音量調節の『+』ボタンを連打したのだ。地方のテレビ局特有の、静止画に音楽とナレーションだけを合わせたローカルCMがいくつも眼前を通り抜けていく。一分、また一分と時間が過ぎゆくたびごとに、少女は色鮮やかな光を発するブラウン管に、体育座りの姿勢のままどこか神妙ににじり寄る。相も変わらず、背中越しには戦闘態勢の二柱。

「やんのかコラ。食物連鎖という世界の法則をその身に叩き込んでやるわコラ」
「上等だオラ。一寸の虫にも五分の魂、体長数センチのヤドクガエルにも致死量二十μgのバトラコトキシンだよオラ」

 そして、ついに戦いの火蓋は切って落とされ、蛇と蛙の闘気はびりびりと部屋の空気を揺らし始める。

 一方、テレビのブラウン管には黄金色の『V』の文字が大写しになり、ここ一年ばかり少女が楽しみにしているテレビアニメの放送が始まった。霊魂や神との親和性が高い生まれつきの体質が奇妙がられ、お世辞にも友達に恵まれているとは言いがたい彼女にとっての、それは数少ない喜びの時間。

「♪苦しみしか見えなくて、虚ろにただ過ぎた日々……」。

 奇しくも、物語も後半に入って変更されたオープニングテーマは、少女の後ろで始まったあまりにも無意味な戦いを象徴するかのよう。戦いという日常、それは少女にとってごくありふれたものだ。この間なんか、『イルカに耳はあるか否か』という議論を発端に、二柱の神はだいたい七日くらい冷戦状態だった。周りに海を持たない内陸県たる長野の地政学的要件が、そのような悲劇に繋がったものと推察される。が、今の少女にとってはまず、テレビが気になる。宇宙空間を舞台にした未来世界の戦争はいよいよ終局を迎え、敵味方を問わず多くの人々が命を落としていく。

 若人たちに未来を託して散っていった、リーンホースjr.の勇気ある老人たち。
 偉大な姉の存在からついに逃れられなかった、優しくも愚かなクロノクル。
 戦争の虚しさを嘆き、一心に平和を祈り続けるシャクティ。
 そして仲間たちの想いを乗せた光の翼で、悲惨きわまる戦場を駆け抜けたウッソ。

 画面上で展開される三十分間の物語に、少女は毎週、魅入られる。
 直ぐ後ろで展開される神さま同士の戦いなど、もはや眼中にはない。
なぜなら、物語のなかには剥き出しの悪があった。純粋な正義があった。愛と哀しみがあり、涙と絶望がある。そして、未来と希望がある。少なくともお饅頭を食った食われたで戦争が始まるような世界ではない。ないのだ――!

金持ちケンカせずと人は言う。

 それは、精神的充足という富貴を知る者にもまた当てはまる言葉かもしれない。
 むろん、当時の少女には知る由もなかったが、高貴なるものには高貴なる務め――すなわちノブレス・オブリージュなるものが付き物なのだ。そうこうしているうちに、たぶん再々々放送くらいだった機動戦士Vガンダムは最終回の放映を終えた。全五十二話の物語が少女の幼い心にいったいどんな軌跡を残していったのか、今となっては確かめるすべもあるまい。

 しかし、確かなことがきっとある。

 次週からは機動武闘伝Gガンダムとかいうのの再々放送が始まることと、お饅頭を巡って勃発した実にみみっちい諏訪大戦が発する騒音のため、ラストのシャクティとカテジナの会話シーンの台詞が上手く聴き取れなかったということだ。そのために少女が、洩矢諏訪子が出現させた鉄の輪を奪取、八坂神奈子までも巻き込んで、二柱の神に対してクリーン作戦を慣行するのは当然の帰結と言えた。いかなる理由であれ、戦争は愚かな行為だ。空想の世界から学んだそんな教訓を胸に刻み、少女は喧嘩両成敗で二柱に挑みかかった。

 そののち数ヶ月間、洩矢の鉄の輪は持ち運びやすいコンパクトな家庭用アインラッドとして乗り回され、二柱の神がお菓子がどうのお饅頭がどうので諍いを起こすたびに、少女の手によって仲裁に用いられることになる。

 何より少女――東風谷早苗は、お菓子といったら何よりもまず、長野名物おやきの方をこよなく愛していたからである。


――――――


「おおい、早苗。ちょっとこっち来て、荷物の整理を手伝ってくれ」
「待っててー! いま行くから!」

 使い捨ての雑巾で部屋の窓枠を拭きながら、早苗は父の呼びかけに答えた。
 秋口に立った諏訪のとある日曜は、ちょっとばかり空気に肌寒いものを含みながらも、未だ夏の面影も少しだけ忘れられずにいる様子だ。くるり身を翻すと、掃除のためにがらりと開け放った窓の枠に軽く腰掛け、早苗は「ふう……」と、小さく溜め息をついた。

 背後を振り返ると、よく晴れた青空の下には、幼い頃から見慣れた守矢神社の境内がある。歴史の重み、というものを感じずにはいられない威容を持つ大きな神社だったけれど、どこを見回しても参拝客はおろか、老人が憩ったり子供たちが駆け回って遊んでいる様子もない。古くさい、錆びれた神社。そんな悲しい言葉が、早苗の脳裏をよぎった。

 守矢神社が諏訪鎮護の大社として絶大な信仰を受けていたのも今は昔。
科学文明の力で世界を動かす力を得た人々は、次第に神や霊魂の存在を重んじなくなってしまった。たとえ信じていたとしても、スピリチュアルとかパワースポットとか、そんな独善的な消費物としての価値しか現代人は持っていない。しかし、信仰なき神が自らを存続させるための手段がひとつだけある。忘れられた者たちの楽園――すなわち『幻想郷』と呼ばれる土地へと移住することだという。

 宮司をしている父も、巫女である母も、洩矢神社の祭神である八坂神奈子と洩矢諏訪子の声や姿を感じることはできない。風祝として神の声を届けるのは、今や東風谷早苗の仕事だった。そして、早苗は神々とともに幻想郷への移住を選んだのだった。それはつまり……自らの存在を幻想とし、現実世界から消し去ること。誰からも忘れられてしまうことに他ならない。言うまでもなく、血を分けた自らの両親からさえも。

 埃で黒く汚れた雑巾を握り締め、早苗は生ぬるい秋風に髪を揺らした。
 家の二階にある自分の部屋の掃除だって、考えてみれば『緩やかな自殺』だ。誰からも忘れられてしまうなら、この世界に何の名残も痕跡も残さないよう部屋をきれいに掃除してしまおう、いらない物も処分しようと決めた。けれど、今ではそれがやけに怖い。近所の百円ショップで適当に見繕ってきたこの雑巾や、買い物の際に指を触れた百円玉さえ、自分の痕跡が残るものがいっさい消え去ってしまうことが。唇を噛み、何度も早苗は瞬きをした。

「気にしてても、しょうがないよね」

 そう独りごちると、早苗は雑巾を窓枠に伏せた。階下からは、「早苗、早くしてくれ。けっこう荷物が重いんだよ」という父の急かす声。「ちょっと待っててってば、お父さん!」と返すと、とたとたと階段を駆け下りていく。期待半分、不安半分の足取りだった。


――――――


 父から受け取った荷物は、実家の押し入れにしまい込まれていた、早苗の私物が主だった。ダンボール箱が二、三。確かに思いのほか、ずっしりと重い。最近、ギックリ腰をやってしまった父にしてみれば、これを早苗の待つ階上にまで運び込むのはキツい仕事であろうことは、言うまでもなかった。

 ガムテープやセロテープで乱雑に封をされた箱を開けてみると、ちょっとばかりのカビ臭さが鼻を突き、しかしそれ以上に強い懐かしさが早苗の心を通り抜けていく。

「うわあ。お父さんもお母さんも、けっこう私のもの、残しておいてくれたんだ……」

 とっくに捨てたと、思ってたのに。
 呟いて、何だか溢れそうになる涙をこらえてみる。
 ひとつひとつの『宝物』を手に取って、わずかに残る思い出を噛み締めることをした。

 テープが擦り切れて再生できなくなるまで何度も観た、戦隊ヒーローのVHS。
 左腕の関節がぽっきりと折れてしまった、ガンダムのプラモデル。
 電飾の部分が壊れて光らなくなった、ウルトラマンの変身アイテム。
 誕生日やクリスマスに買ってもらったスーパーロボットの超合金おもちゃは、パッケージが色あせて商品名すらひどく読みづらくなっている。じぇいでっかー? ごるどらん? いったいどんな話だったっけ。

 両親が、幼いわが子にとって『宝物』だったものたちを残しておいてくれた嬉しさと、昔と今の自分とを比べる歯がゆさで、早苗は思わず苦笑いだ。そういえば、昔の私はこんな男の子みたいな趣味だったんだな。最初に好きになったのは……Vガンダムとかいう番組だった。それが発端だったんだと、早苗は思い出す。他人との距離の測り方が解らなくて、自分の好きなものを優先する生き方をしていたこと。その結果、女の子よりもむしろ男の子に混じって、ロボットアニメや変身ヒーローのごっこ遊びに興じていたこと。

 だからなのか、武者頑駄無が表紙を飾っていたコミックボンボンに手を伸ばしたのは半ば必然だったのかもしれないし、お小遣いに余裕のあるときはコロコロコミックにまで手を伸ばし、ゾイドの打ち切りに愕然としたのも数奇な運命のひとつ。ボンボン休刊後の早苗に手を差し伸べたのは、少年ジャンプというフロンティアだった。王道のONEPIECEやNARUTOはもちろん、最初は絵柄で何となく敬遠していたジョジョなんかも、その魅力を知ってからは、ときにはお年玉を切り崩しつつ第五部の途中くらいまで単行本を集めたりしていた。

 そして、傘を手にした日には例外なく飛天御剣流の継承者として見えない敵と戦っていた早苗にとって、中学生になってからのとある新伝綺小説との出会いはひとつの衝撃だった。魔眼もナイフも持ってないし、死の線も見えないので、とりあえずホームセンターで買ってきたカッターナイフを持ち歩いていたくらい衝撃だった。文化祭の催しのひとつである学級新聞づくりの際、方眼紙の線に沿ってカッターの刃を走らせた瞬間の秘めやかな達成感といったらなかったし、「魔神剣!」「夏候惇の無双乱舞!」「山田アアァァァ!」などと叫び、大型定規を振り回す男子生徒に比べて遥かにスマートでクール、かつスタイリッシュだと確信していた。当時、夏休みの宿題の読書感想文でやたらと物の見方がシニカルになってもいたものだったが、文章に多用した『――――』の総延長が何メートルくらいだったかが、今では冷静に推量できるようになったのは、きっと歳を重ねたおかげだろう。

 ……流れゆく幾多の記憶のさなか。
 ふと気になって、早苗は、壁際に置かれた自分の本棚に眼を遣った。

 高校数学や物理の参考書が数冊ほど並んでいるほかは、あんなにたくさん集めた漫画や小説はすでにない。今日の掃除を始めたとき、いちばん最初に雑巾がけをしたために鈍く日光を反射する、木材の柔らかな感触ばかりが残っている。

「そう、だよね。ワンピもナルトもジョジョも、空の境界だって、もう手元にはないんだから」

 高校に入ってからは勉強や部活が忙しくなったり、神社を継ぐために風祝としての修行を本格的に初めたりして、そんな趣味の世界からはすっかり遠ざかってしまっていたのが、東風谷早苗という少女だった。子供のころ、あんなに好きだった色んなアニメからも次第に興味がなくなって、内容もほとんど憶えていない。市内の古本屋に持ち込んだ漫画や小説の行方も、今は百円コーナーか、それとも別の誰かに愛読されているのか、まるで定かではない。着物に赤いブルゾンを羽織るファッションは再現できなかったので、とりあえず巫女装束の上から学校指定の赤いジャージを羽織り、カッターナイフをポケットに忍ばせてむやみやたらと夜の街を歩き回ったこともあったが、お巡りさんの職務質問から全力で逃げ切った日を境にさすがにそれは止めた。

「私、この街から消えちゃうんだなあ、もうすぐ……」

 何度目かの感傷的な気分がやってきた。
 今度のは、ひどく色が濃い。息をするたび、嗚咽に似たものが混じっていく気がする。声を殺せば、階下で別の作業に精を出す両親には気取られないだろう。けれど、早苗は救われない。いっそのこと、大声で泣いてしまえば気が楽になるかもしれないのに。涙がこぼれないよう、必死で目蓋を閉じていた。そのときだった。

「なぁに、辛気くさい顔をしているんだよ、早苗」
「そうさ。風祝ひとり笑顔にできないんじゃあ、わたしたちの立つ瀬がないってね」

 はッ! として、早苗は声のした方を振り向いた。
 まるで薄い霧か靄が少しずつ形を持つように、彼女の眼の前には、人に似たふたつの姿が現れた。腕組みをして不敵に笑う軍神、八坂神奈子。自分の頭より大きな帽子を被った崇り神、洩矢諏訪子。今や、早苗にしかその姿を見ることができない、洩矢神社の祭神たち。

「掃除とか、その箱の中身の整理もやっちゃうんだろ。私たちも手伝うからさ」
「他の誰にも見えないし触れないぶんだけ、早苗の力になりたいんだよ、わたしも神奈子もね」

 そう言うと、二柱はめいめい、ダンボール箱を開け放っていく。その姿には、いつかのように下らないことで諍いを起こす気配はかけらもなかった。近ごろは、人々からの信仰もますます薄れ、人と同じ食べ物を口にすることも難しくなっている。しかし早苗と一緒に居るときだけは、その霊力の影響を受けてか、早苗以外の誰にも声や姿が認識できないながらも、物体に触れたりすることができる二柱であった。

 きっと、自分が感傷的になっているのを見て、気遣ってくれているのだろう。
 何て不甲斐ない有り様だと早苗は思う。本当なら、風祝である自分の方が神々を支えていかなければならないというのに。理屈では解っていても、それでも早苗には神奈子と諏訪子の優しさが嬉しかった。今は未だ、二柱に甘えていたいと願ったのだった。

(お二方とも……ありがとうございます)

 彼女は、心から感謝するのだった。

 三人で古い荷物をひもといていくと、中から出てきたのは十数冊の古びたノートだ。最初の箱に入っていたおもちゃの箱と同様、表紙に印刷されたメーカー名や、アフリカの動物たちの写真はすっかり色あせてしまっている。神奈子は、そのうちの一冊を手に取ると、興味深げにぱらぱらとページをめくる。

「おっ。これはお絵描き帳みたいだねぇ」
「あはは、“かなこさまとすわこさま かみさまがったい!”だってさ。そういえば、昔の早苗はロボットアニメとか好きだったよね」
「も、もうやめてくださいよう……恥ずかしいなあ」

『じゆうちょう』と使途を表紙に印刷されたノートを、三人でいっせいに覗き込む。
神奈子の言う通り、それは小学生のころの早苗が使っていたお絵描きノートのようである。諏訪子を肩車して、両手に御柱を構える神奈子のイラストが、年月を経て薄れつつある鉛筆の線で力強く描いてあった。“かみさまががったい”した二柱の周りには、爆炎のつもりらしいぎざぎざとしたものも描き込まれている。子供らしい稚拙さと、そして自分にはないものへの純粋な尊敬と憧れが、そのイラストには溢れていた。

 ふと、早苗の脳裏にはよぎるものがある。
 昔、友達がいなかったころ――私の心の支えになってくれていたものは、テレビのロボットアニメと、そして何より、神奈子さまと諏訪子さまだったんだと。そんな二柱と、今こうして笑いあえることができている。それは、なんてしあわせなことなのだろう……。

「しっかし、ずいぶんとたくさんノートが取ってあるんだね」
「早苗の母は、きっちりとした性分の者だからな。たかが帳面といえど、ひとり娘の使ったもの。捨てるには惜しいと考えたのだろう」
「かーなこー。今どき、“帳面”って単語は古いでしょうよ」
「な、何を言う。れっきとした日本語じゃないか……!」

 こぼれ落ちそうになる嬉し涙を神奈子と諏訪子に悟られまいと、軽口を叩き合う二柱からはしばし顔を背け、早苗は無言で古いノートを次々と手に取り、そしてめくっていった。いつも同じところを間違えてしまった算数のドリルに、先生から字の上手さを褒められた漢字練習ノート。姿かたちこそ違えどそんなものたちも紛れもなく、今の早苗には『宝物』だ。

 部屋の掃除を中断し、しばらく早苗たちはノートをめくっては思い出を蘇らせていた。
 そして時計の針が、三十分ほども経過したころだ。ノートをしまい込んでいた箱のいちばん底に手を突っ込んだ諏訪子が、怪訝な顔で一同を見回したのは。

「おっ。……何だこれ」
「どうかしましたか、諏訪子さま?」
「いや、ノートが最後の一冊なんだけどね? ちょっとこれ見てみてよ」

 カビ臭さを払い落とすかのように「ふうっ」と息を吹きかけ、諏訪子が一冊のノートをこちらへ示してきた。神奈子はぐっと身を乗り出して、表紙をあらためる。

「ふうん。こっちのノートもお絵描きノートか何かかな」
「……に、しては。なーんか表紙にヘンな模様みたいなものがいっぱい書いてあるけど」
「筆跡からすれば、この模様も早苗の書いたもののようだね。これは、まさか神代文字?」
「まさか。ミレニアム単位で生きてるリアルゴッドの私や神奈子も知らないものを、どうして現代っ子の早苗が知ってるもんか。ねえ」

 こくこくと、早苗は無言でうなずいた。
 いや、うなずくしかできなかったのだ。
 いま神奈子と諏訪子があれこれと吟味している一冊のノート。
それは確かに、かつて早苗が手にし、書きこんだ紛れもない東風谷早苗のノートである。しかし、その中身を明かすことを、彼女の心がかたくなに拒絶している。

 それはまさしく忌まわしき書物であり、ひとりの人間を破滅に導くことのできる烈しい呪詛の塊なのだ。表紙に記された記号は、未だ人間という種族がこの地上に存在するより以前、古の邪悪な神々によって産み落とされた呪いに他ならなかった。現在、この地球上に存在するあらゆる言語と文字でその内容の記述を試みれば、ソレは意思ある呪いとして目にした者の意識に侵入し、自らを地球上における支配的地位にある人間の姿へと変成させ、いちどは滅びた邪悪な神々の復活を目論むのだ。そのためにその呪いは、決して解読手段の存在しない“架空の言語”によってのみ現代にまで伝えられ、写本のうちの一冊がこの日本に残っている。

 全部、そういう設定である。

 ノートの表紙に書かれた、死にかけのミミズが自らの生死を賭して柔軟体操をしているように見えなくもない“架空の言語”は、件(くだん)の呪いの書物がもし実際に書籍化されるとしたら、こんな装丁だったらイイなあという願望のなせる技だった。かもしれない。

 ……と、一瞬のうちにそんなことを思い出し、早苗はブルブルと両肩を振るわせ始める。
 もちろん、とっくに涙は吹っ飛んだ。いま彼女のなかにあるのはただ焦りだった。そして、十数年という決して長くはない東風谷早苗の人生における、もっとも熱く、そして忌まわしい時代の解放に対する恐怖!

「あ、あのう。お二柱とも、そのノートを、私に引き渡して欲しいのですが。今すぐ。大至急。可及的速やかに」
「どした早苗。なんか目が段々と死んできてるんだけど」
「それは呪いの書物なのですそれはもうこの世界一いや銀河系をも高速で凌駕するほどの災いの炎なのです少しでも人の心を理解するつもりがあるなら一刻も早くその呪いの書もとい私のノートを返してください返してください返してくださいお願いしますお願いします後生ですから!」
「マジで? ミシャグジの祟りよりヤバい系?」

 再び早苗はうなずいた。
 そりゃそうである。
 少なくとも早苗の中にある大事な何かは死ぬ。確実に死ぬ。死ぬったら死ぬ。

「ヤバすぎますです。少なくとも東風谷早苗には空前絶後のエターナルフォース大ダメージ。私は死ぬ」

 なおも言葉を尽くして懸命に諏訪子の説得を試みる早苗。
 しかし、そのとき――。

「そんな風に危ないものなら、早苗に危険が及ばないよう、まずは私が確認しよう」

あまり一瞬のことゆえ、早苗は何が起こったのか最初は理解できなかった。

「へえ、どれどれ……」

 ついさっきまで諏訪子の手にあったはずのノートが、今はなぜか神奈子の元にあるのである。腐っても軍神、風神。人をはるかに超越するその身によって如何なく発揮された異様なまでの身体能力が、早苗にも諏訪子にも気づかれることなく例のノートを奪い取ったに違いなかった。超スピードだとか催眠術だとか、そんなチャチなもんでは断じてねえ。単行本に手垢のつくほどさんざんっぱら再読した第三部の、例のセリフが脳裏をよぎる。

 そして、神奈子の指がおもむろにノートの表紙をめくったとき。
 すべてはもう手遅れなのだと、早苗は悟らざるを得なかった。


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