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マリサリズム

2013/04/01 00:36:00
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※長編のため、ページ内ジャンプを設置しました。
※大きな章ごとに飛ぶことが出来るので、区切りごとに休憩されたい方は、ご利用ください。










 ◆目次



 ◇序章 邂逅編
 ◇一章 妖精編
 ◇二章 魔女編
 ◇三章 門番編
 ◇四章 友達編
 ◇五章 溯行編
 ◇六章 運命編
 ◇終章 軌跡編























――序章:1/月下の邂逅――



「くそっ」

 お世辞にも上品とはいえない悪態が、暗い森の中に響き渡る。
 息を切らせ、身体のあちこちに傷を作り、金の髪に木の葉や砂を絡ませ、少女はただ必死に走っていた。
 けれど、蓄積された疲労が少女の注意力を鈍らせ、太い木の根に足をかけ、転んでしまう。足が擦りむけ、真新しい傷が目立つ、赤く腫れた頬を夜風に晒し、目尻に涙を溜めながらも少女は立ち上がった。

「こんな、ところでっ」

 走って、転んで、擦りむいて、また走って。
 どれほどの時間をそうしていたか、少女にはわからない。けれど走り出したときからさほど変わらない月の位置が、焦りを積もらせる。

――……――ッ
「うぁっ?!」

 黒い弾丸が背後から飛来してきて、少女は再び体勢を崩す。一発目が外れたのは、怯えさせる為だろう。なら、二発目の用途はもっとシンプルだ。

――ドンッ
「うわぁぁぁああぁっ?!」

 崩れた体勢、剥き出しの脇腹に突き刺さる、黒の弾丸。少女の幼い身体ではその衝撃に耐えることが出来ず、激痛と共に大きく弾かれる。
 低空を滑るように飛ばされて、木の幹に身体を打ち付けられると、少女は赤色の混じった唾液を地面に落としながら咽せてしまった。

「う、ごほっ、ごほっ」

 最早、叫ぶことすら億劫なのか、投げ出された四肢に力はない。しかし、どんなに意識が薄れても、少女は抗う意思を捨てない。黄色の瞳は未だ強い力を持ち、ただ眼前の妖怪を見据えた。

「こんな、ところで」

 震える手で、赤土を掴み。

「諦めて」

 ぎらつく瞳で前を向き。

「たまるかぁッ!!」

 痛む身体を押し、吼える。
 幼い体躯に収まるとは思えないほどの気迫。けれどその執念には、人間の子供と変わらぬ力しか宿っていない。
 ただの気迫、ただの気合いで生きていけるほど、この世は甘くできていない。興奮から歪む獣型の妖怪の牙だけが、それを証明していた。

「ちく、しょう」

 やがて、爪が振り上げられる。
 諦めることの出来ない少女に降ろされる凶刃は、自然の摂理になぞらえるように、残酷だ。

 そうして、誰も知らぬ森の中で、一つの小さな命が――

「まったく、どうしてこんなところに」

 ――散らされることは、無かった。

 空気を切る音と共に、銀色のナイフが月明かりを反射し煌めき、飛来した。
 妖怪は、強靱な肉体、その所々に白銀のナイフを生やして低く呻る。己の身に起こったことなど何一つ理解できないまま、彼は、砂埃を上げながら倒れ伏した。

「ぁ」

 おかしいほどに赤い月。僅かに欠けたそれの下で佇む、銀の少女。
 意識が途切れるその間際、少女はその銀色を忘れまいと、霞む瞳に力を入れて心に焼き付けようとする。

「ほんとう、どうして」

 欠けた満月、十六夜の月。
 その下で、交わるはずの無かった運命が交差した。

 ――どこかでかちりと、歯車の軋む音を響かせながら。
















マリサリズム
















――序章:2/気紛れな必然――



 暗い森に満ちる、血の臭い。僅かに欠けた月の下で、咲夜は大きく息を吐き出した。魔法の森の妖怪、その無残な亡骸を見て哀れんでいるのではない。
 その直ぐ側に転がる少女を見て、そして自分の行動に呆れていたのだ。

「はぁ……夜中に山菜採りなんて、するものじゃないわね」

 咲夜は、背負った籠の中のキノコを見る。彼女の主が、夕飯――吸血鬼なので“朝ご飯”というべきか――にキノコ料理を所望したのだ。夜の種族たる吸血鬼な主は、あまり我慢強い方ではないというのに、適当な“味のある”キノコが見つからなかった、というのがこんな夜更けに魔法の森に訪れた理由だった。
 大きな木の根もとで意識を失った少女。右頬は赤く晴れて、体中擦り傷だらけ。その上、不規則な呼吸から、おそらく肋骨もおかしくしているだろう。
 そんな状態の少女を放って置くことに、罪悪感を感じたりはしない。咲夜より二つ三つ下くらい、おそらく十歳そこそこの幼い少女だということも関係ない。
 魔法の森とはそういう場所で、如何なる理由があろうと、踏み込んだ時点で自己責任。蔑視こそしないが、憐憫の情も抱かない。

「でもなぁ」

 咲夜は銀色の髪をそっと掻き上げると、少女に歩み寄る。涙で濡れた頬、血だらけの顔、ここまで嬲られたら、普通は生きることを諦める。なのに。

『こんな、ところで、諦めて、たまるかぁッ!』

 少女が森に響かせた声。咲夜に“思わず”手を出させた咆吼。諦めず揺れる瞳に、咲夜自身は何を見たのか。何を見て、助けたいと思ったのか。

 咲夜は、それが知りたかった。

「一度面倒を見たら最後まで。確か、パチュリー様はそうおっしゃっていたわね」

 咲夜の主、レミリアに向かってパチュリーが言った言葉だ。ちなみにこれは、咲夜を紅魔館に留めるか否かの話し合いの時、「面倒で投げ出すに決まっている」というニュアンスの元に告げられた言葉だ。
 半ば嫌味に近い形でその言葉を思い出すと、咲夜は少女の前に屈み込む。ここは主の親友の言うことをきちんと聞いておくべきだろう。
 彼女は、自分自身にそう“言い訳”をして、倒れる少女を抱き上げた。

「軽い」

 目を瞠り、驚きの混じった声を零す。
 人間とは、もっと重いものだったはずなのに、少女はどこまでも軽かった。こんな軽い少女が、本当に妖怪と睨みあっていたのか。
 咲夜は自分の記憶が、ほんのちょっぴり信用できなくなって、苦笑する。

「お嬢様になんて言おうかしら。ああ、怪我が治ったら放り出すんだから、簡単に報告だけで良いわね」

 少しずれた言葉が、森に響き――次の瞬間には、咲夜は暗い森から消えていた。まるで始めからそこには誰にも居なかったかのように、妖怪に刺さっていたナイフすら消えている。

 そこに、咲夜と少女が居た痕跡はない。ただ常と代わらぬ暗澹とした瘴気が、妖怪の亡骸を蝕んでいた。



















――序章:3/目覚めの紅――



「うぅ、ぁ」

 地の底から響くような呻き声。その何とも言えない情けない声が自分のものだと知り、少女は慌てて瞼をこじ開ける。
 途端に視界に飛び込んできた、強烈な赤。白いランプの光はまだ良いとして、それ以外、壁や天井、それに調度品に至るまでのほとんどが強烈な“赤”で染められた空間に、少女は頭痛を覚えて眉を顰めた。
 ただの人間が正気を保ったままこんな所で暮らしていけるはずがない。そう思えてしまうほどに、派手な場所だ。

「どこ、だ、ここ」

 身体を起こして、頭痛を振り払う。ハッキリとした視界で見回すと余計に目が痛くなり、少女は顔を顰めてまた、呻る。

「どうして、こんなとこ、ろ、に……」

 二度三度と頭を振りながら、記憶を遡る。すると唐突に、痛みと記憶が胸の奥からせり上がってきた。

 ――痛む身体。
 ――煌めく爪。
 ――欠けた月。
 ――瞬く銀閃。
 ――鉄の臭いのする赤が満ち、その奥に、二対の真紅が鮮やかに輝く。

「っ!」

 吐き気と、痛みと、恐怖と、自分でも理解できない混ぜ交ぜになった感情。少女の幼い身体では受け止めきれないほどの奔流が、小さな胸を食い破らんと牙を剥く。
 けれど少女は叫び声を上げることなく、恐怖を振り払う為に忘れようとすることもなく、記憶を辿り続ける。
 ぐらつく視界の中でなお悲鳴をあげようとしない、その理由。

 それは、きっと。

「あの女の子、は?」

 瞼の裏に焼き付いたあの真紅の双眸が、少女の心を支えていた。夜の森で垣間見た一迅の光を頼りに、己を保っていた。
 少女は恐る恐る、ベッドから立ち上がる。柔らかい絨毯に素足が触れると、それだけで背筋にむず痒いものが走り、その反動で肋骨が悲鳴を上げてしまう。

「ッ……う、ぃつつつ、ぅう」

 丁寧に治療されてはいるものの、まだ痛みが残るようだ。自分の身体を抱き締めるように脇腹を抑えると、少女はその場に蹲った。腫れた右頬に掌を当てて、そうすると更に痛みが広がり、唇を噛みしめる。
 恐る恐る、傷の状態を確認しようと瞳を下ろすと、そこには予想もしていなかった光景が広がっていた。

「え? は? なにこれ」

 白いシャツ、紺色のワンピース、白のエプロンドレス。洋館で働く使用人然とした服装に、少女は首を傾げる。
 元々は若草色のワンピースを着ていたはずなのだが、それはどこにも見あたらず、ただ枕元にはご丁寧にもヘッドブリムだけが置いてあった。

「こんなんじゃ、帰って親父になんて――」

 言いかけて、止まる。それから少女はぎゅっと眉を寄せると、唇を噛んで顔を伏せた。
 脳裏に浮かんだ何かを振り払うように頭を掻きむしり、少女は大きく深呼吸をする。けれど、気持ちを落ち着ける為のその行為は、肋骨に鈍い傷みを走らせてしまう。

「うっ、つぁ……」

 再び脇腹を抑えて蹲り、涙目になりつつベットに腰掛ける。吐き出した息は、やたらと豪華なシャンデリアに呑み込まれていった。

――コンコン、コン
「ぁ、はーい」

 ノックの音に、少女は反射的に返事をする。まるで“実家”でもてはやされているような感覚に、若干の苛立ちとそれ以上のむず痒さを覚えながら。
 少女の返事を受けて、一拍置き、扉が開かれる。その向こう側から顔を出したのは、少女と同型の使用人服に身を包んだ、メイドだった。

 見上げて、流れる銀色の髪。

「ぇ」

 しかし、少女の呟きに反応するように眇められた瞳は、青く。途切れる間際の記憶と僅かにずれた姿に、首を傾げる。

「目が覚めたみたいね」
「ぁ、うん」

 最後に見た、瞳。色こそ違うが、そこに宿る物は少女が感じた物と、何一つ変わらない。

「私は十六夜咲夜。ここ、紅魔館のメイドよ」
「えと、私は魔理沙。霧雨魔理沙――咲夜、が助けてくれたんだよな」

 少女――魔理沙がそう告げると、咲夜はほんの少し眉を上げた。

「覚えていたのね……そう、まぁいいわ」

 小さな呟きに、魔理沙は首を傾げる。ややあって、咲夜が魔理沙を気絶したものとして終始扱っていたのだろうということに気がついた。確かに助けられたとき、魔理沙は死に体だった。

「貴女、家は何処? せっかく助けたのにまた襲われたら私の苦労が無駄になるから、送ってあげる」

 リップサービスも何もない言葉。冷たく突き放す目に、しかし魔理沙は視線を逸らさない。戸惑いはある、不安も恐怖も怯えも、魔理沙の中で渦巻いている。
 それでも彼女は、咲夜の瞳の奥に宿る“光”を、ただ真っ直ぐと見据えていた。

「家は、ない」
「ふぅん……捨て子?」

 咲夜の声に、同情や憐憫はない。ただ“そういうこともあるだろう”と達観しきった目で魔理沙に返事をする。

「だったら人里ね。孤児院くらいあるでしょう? はぁ、面倒ね」

 咲夜はそう、額に手を当てて肩を竦める。そんな仕草も上品だが、完璧というにはなにか足らない。その完成一歩手前の姿に、魔理沙はどこか“人間らしさ”のようなものを感じた。

「いや、人里はダメだ」
「我が儘ね。じゃあどうするの?」

 あくまで冷徹に告げる咲夜。とにかくこの場所から追い出したい、長居させようとしない意思がありありと見える言動。
 咲夜にだって理由はあるのだろう。使用人である以上、主の許可が取れないのかも知れない。“実家”がそれなりの家だったからわかっている。それでも魔理沙には退けない理由が、あった。

 ――振り下ろされる爪、助けてくれた白銀、真紅の双眸に宿る……――…………。

「咲夜」
「なに?」

 居住まいを正して、背筋をぴんと伸ばす。戻りたいと思わない“実家”での教育が役に立っていることを自覚して、けれど自嘲を呑み込んだ。
 翳りも、苦痛も、後悔も、今は必要ない。

「私を、ここに置いて欲しい」

 精一杯の想いを込めて、魔理沙は告げる。願いが届くかどうかはわからない。けれど、緊張で冷たく濡れた手が、早鐘を打つ心臓が、痺れる舌が、言わずにいることを許さない。
 時間が止まったかのように固まる空間で、魔理沙は肋骨の痛みに耐えながら、じっと咲夜の言葉を待った。







「は?」

 時間停止を解除したのは、そんな、間の抜けた声。それが自分の口から出たのだと悟ると、咲夜は慌てて手で覆う。

「私は、ここで働きたい!」

 聞き返した咲夜に、魔理沙は強く告げる。有無を言わせないといえるほど、視線に力が乗っている訳ではない。けれど、絶対に折れないと、星のように輝く黄色の瞳が雄弁と語っていた。

「出て行きなさい。ここはただの人間のいるべき場所ではないわ」
「行かない。私は、私はここにいたい」

 かたくなに動こうとしない魔理沙の様子に、咲夜は早くも後悔し始めていた。助けるべきではなかったか。冷徹で身内以外はどうでもいい“自分らしく”見捨てるべきだったか、と、数度胸中で自問する。

「どうして? ここに、貴女が居る“理由”はないはずよ」

 咲夜の視線に、怒りにも似た感情が宿る。ここは、この館は、この場所は、咲夜にとって何よりも“特別”な場所なのだから。

「理由ならある」

 これで怯むだろう。そんな咲夜の予想は、あっさりと覆される。覆されて、咲夜は続きを問うように首を傾げた。

「咲夜が居るから」
「は?」
「私は、咲夜みたいになりたいんだ!」

 思わぬ言葉に、咲夜は上品でいることも冷徹でいることも忘れて、あんぐりと口を開ける。ここまで来ると、やはり助けたことが間違えだった気がしてならない。

「私みたいになって、どうするのよ」

 でも。

「どうする、とか、どうしようとかじゃなくて。とにかく咲夜みたいになりたい!」

 それでも。
 縋るように、けれど強く求める姿に。

「良いこと無いわ。止めておきなさい」

 真っ直ぐと自分を見て。
 そして、咲夜を求めるその瞳に。

「私は咲夜に憧れた。だから、こんなところで見つけた目標を、夢を、諦めたくないんだ!」

 そうしてついに、咲夜はなにも言えなくなってしまう。咲夜自身、これまで求めることばかりだった。求めて求めて、最近になって漸く応えられた。
 けれど咲夜は、求められることは初めてだったのだ。主人に仕事を求められるのとは、まったく違う。咲夜の心を揺さぶる、どこか母性的な感情。

「だから、咲夜……お願いします! 私を、咲夜の下に置いてくださいっ!」

 強く告げられた言葉。突然の事態についていけず、けれど咲夜はついに、拒絶以外の言葉を口から零してしまう。

「ぉ、お嬢様に聞いてみないと、判断できないわ」
「聞いてくれるのか!? ありがとう! 咲夜!」
「……どうせ、ダメでしょうけれどね」

 未だに、いまいち読み切れない自分の主。彼女の答えは、咲夜に予想できるものではない。何せ、彼女が見据えているのは絶対的に不確定とされるはずの、“未来”なのだから。

「えへへ」

 だけど、と咲夜は心中で呟く。この嬉しそうに笑う少女を見ていると、咲夜の願いは叶わないような気がしてならなかった。

「これから、どうなることやら」

 魔理沙に聞こえないように、咲夜はそう呟く。呆れと諦念に満ちた声に反して、胸の奥に燻る思いは、どうしてか苛立ちよりも穏やかさの方が僅かに大きい。
 どうしてこんなにも受け入れ始めているのか、咲夜本人にも理解できない。そんな、感情とも感傷とも言い切れない、不可思議な感覚だった。





 回り始めた歯車は、止まることを知らない。
 小さな歯車も大きな歯車も、全部が全部巻き込んで、くるくると回る。



 例え、そう、その軸が大きく悲鳴を上げていたとしても――壊れてしまうまで、止まることなはい。



















――第一章:1/館の主――



 真っ赤な絨毯の伸びる先、虹色に彩られたステンドグラスの前、銀の炎を灯すシャンデリアの下、金と紅で彩られた玉座の上。
 足下から天井へ、それからまた視線を下ろして真っ直ぐと、魔理沙は目の前の少女を呆然と見つめた。
 魔理沙よりも幼い身体。尊大な態度でふんぞり返り、口元に妖しげな笑みを浮かべる少女。

「メイドに憧れて、吸血鬼に従う人間、ねぇ?」

 歪められた口元から覗き見える発達した犬歯が、シャンデリアの明かりを反射して小さく光る。背中に広がる大きな黒い翼が、少女を外見以上に大きく見せている。
 その妖しい笑みと併せて、尊大な態度を自然な物だと捉えてしまう威圧感が少女にはあった。

「ここが吸血鬼の居城、レミリア・スカーレットの膝元と知って来た訳じゃ、ないと」

 声に込められた魔力。森で魔理沙を襲った妖怪が可愛らしく見えるほどの存在感に、魔理沙は唇を噛む。
 不機嫌なのかそうでないのか。魔理沙はレミリアのことを掴めないでいた。けれど言葉の端々から感じる威圧感に前向きな勘違いなどできるはずもなく、魔理沙は戸惑うことしかできなかった。

「ここで生きて行くには覚悟がいる。悪魔と同胞に貶められる覚悟と、命を賭ける“日常”への覚悟。貴女に、あるかしら?」

 けれど、続いて聞こえたレミリアの“問い”は、魔理沙の想定していた物とは違ったものであった。まるで、その覚悟があれば、いや――返答によっては、“受け入れる”と言っているかのような。
 魔理沙は頭を振ると、己の弱気を叱る。そして竦む足を動かして、半歩だけ前に出た。

「ひとになに言われたって、気にするもんか。命を賭けなきゃならないのは、最初から覚悟してる。私は、諦めたく、なくて、その」

 徐々に小さく、尻すぼみなる声。レミリアの威圧を受けてなお、伝えたいことだけは伝えきったのだ。それだけでも、褒められてしかるべきことであろう。
 現にレミリアも、楽しげに頬を歪めて笑っていたのだから。

「そう」

 レミリアはただ一言、そう零す。それから音もなく舞い上がり、魔理沙の前に立った。深紅の瞳で深く見つめられ、魔理沙は身体を小刻みに震わせながらも、しかし目を逸らしはしない。

「ふぅん? ほうほう」
「な、んだ、よ」

 興味深そうに、魔理沙の瞳を覗き込むレミリア。咲夜はそんな、不遜な態度な魔理沙と好奇心に駆られたレミリアの様子に気が気ではないのか、はたまた魔理沙が粗相をしないか心配なのか。振り返るまでもなく伝わってくる咲夜の戸惑いに、魔理沙は焦る。
 一触即発とは言えないほどに軽い様子のレミリア。けれどそんな彼女に見つめられた魔理沙の肌は、レミリアの醸し出す妖しげな雰囲気によって粟立っている。

「咲夜の“お気に入り”だからどんなのかと思ったのだけれど――へぇ? 面白い運命ね」

 “お気に入り”と言われ少しだけ嬉しくなり、けれど続いた言葉に口を噤む。
 レミリアはダンスのステップでも踏むかのように軽やかに玉座へ戻ると、威圧感に満ちた恐ろしげな笑顔を消し、今度は童女のように無邪気で妖しい笑みを浮かべた。

「英雄は悪魔になり果てるのか、悪魔は愚者になり得るのか。零番の示す最初の旅人は、二十一の世界を踏破できるのか」

 両手を口元に当てて、くすくすと笑う。楽しげに、愉しげに、笑う。

「ふふ、いいわ」
「え?」

 告げられた言葉に、魔理沙が疑問の声を上げる。正直に言えば彼女は、レミリアが何を言っているのかまったく理解できていなかったのだ。

「悪魔の元で掴む“栄光の手”は、どれほどの呪縛を得るのか、興味がある」

 レミリアは尊大に、最初の時と同じように、重い空気を纏いながら告げる。その両極端な態度に、魔理沙は早くも付いていけなくなっていた。
 このままでは、この先ずっと余計な苦労を強いられることだろう。そう、“この先”ずっと。

「見せてみなさい、人間よ。蝋で固められた咎人の手も、扱いようによっては繁栄をもたらすことになる。ま、途中で手放さない限りは見ていてあげるわ」

 レミリアの声が、魔理沙の耳にこびりつく。言いようのない感覚が、頭の中でぐるぐる、ぐるぐると回って。



「――ぁ」



 気がつけば、魔理沙は咲夜と共に、部屋の外に立っていた。まるであの時間が、無かったかのように。
 夢心地、とでも言うのだろうか。変なヤツだと一蹴することの出来ないインパクト。魔理沙は未だ、彼女の両極端な笑顔に支配されていた。

「ぁぁ、まさか許可が下りるなんて」

 けれどそれも、咲夜の気の抜けた声で我に返り、解放される。謁見中の妙に緊張した姿は見えず、今はまた完璧一歩手前な様子でため息を吐いていて、魔理沙はその姿に奇妙な安心感を覚えた。

「なによ?」
「いや、なんていうか……これから、よろしくな!」

 魔理沙がそう言うと、咲夜は眉を寄せて肩を竦める。
 それから幾ばくかの逡巡を見せて、大きく息を吐いた。あからさまに面倒くさげだが、そこに否定や拒絶の意図は見えず、それが魔理沙は不思議と心地よかった。

「はいはい、もう」

 あまり前向きな声色ではないが、今はそれで十分だ。魔理沙は天に手を伸ばし掌を向けると、ぐっと握りしめて笑った。







 見るからにはしゃいでいる魔理沙を横目に、咲夜はもう何度目かもわからないため息を吐く。半ば予想出来ていたことだが、咲夜の主は今一理解しきれない。
 意図の解りにくい遠回しな、湾曲した言い回し。たまに適当に言っているのじゃないかと疑うこともあるが、全て終えてみると不思議と意味が繋がったりする。どうにも難解で悪戯好きな主の姿を思い浮かべて、咲夜はまた、そっと息を吐いた。

 これから、どうなるのか。
 これから、どうしようか。
 これから、どうしたいか。

 咲夜は虚空に問いかけると、魔理沙を連れて歩き出す。
 迷って立ち止まるなんて、咲夜のすべきことではない。
 ただ唯一の主人を満足させる為に、その命に従うのであれば、迷う必要なんて欠片もない。
 咲夜は、自分がそう決断することすら想定の範囲であろう主の姿を思い浮かべて、小さく苦笑するのであった。



















――第一章:2-1/初仕事と妖精――



 身に纏うメイド服を整えて、ヘッドブリムの位置を調節。
 使用人服を着られる機会なんかこれまでに無かった魔理沙にとって、この格好は新鮮だった。

「浮かれないの。メイド服を着たからって、メイドになれる訳じゃないわ」
「わかってるよ。まずは仕事、だろ!」

 そう勝ち気に笑う魔理沙だが、実のところ、出来ることはさほど多くはない。未だ肋骨は癒えていないし、擦り傷も残っている。
 紅魔館の薬は居候の魔女謹製のもので治りが早いと、魔理沙は話半分にそう聞いていた。とはいえ、完治にはもう少し時間を掛けねばならないのだろう。

「で? 何をすれば良いんだ?」
「そうね……とりあえず、仕事を貰いに行くわよ」
「レミリアに?」
「レミリア“お嬢様”でしょ――じゃなくて」

 首を振った咲夜に、魔理沙は怪訝そうな表情を浮かべる。魔理沙にとっての上司は、咲夜かレミリア。それ以外の選択肢は、彼女の頭になかった。

「メイド長代理、よ」
「代理?」
「そう。お嬢様が、メイド長の座は空席にしているの。来るべきの日の為にって」
「なにそれ?」

 道すがら説明する咲夜に置いていかれないように、長い廊下を小走りで進む。
 レミリアの気紛れか、それともまた別の理由なのか、咲夜が紅魔館に来たときには既にメイド長の座は空席だったのだと、咲夜は人差し指をぴんっと立てて説明する。メイド達の統括者はあくまで、“メイド長代理”だったのだという。

「さて、ちょっと待ちなさい」

 使用人用の部屋、魔理沙が放り込まれていた“客室”よりも質素な扉の前で、咲夜は数度ノックをした。
 けれど十秒待ち、二十秒待ち、三十秒待っても扉は開かない。怪訝そうに眉を寄せる魔理沙だったが、まるで“当然のこと”といわんばかりの表情で佇む咲夜を見て、文句を言うのも止めてしまう。

「…………はーい、休憩時間にわざわざご苦労様ですこと。だれ?」

 心底面倒くさそうな声が、扉の奥から響く。休む時間は休むという性質なのだろう。その声の主は、たっぷりと時間をかけて戸を開けた。
 鮮やかな緑色の髪は、膝裏まで真っ直ぐと伸ばされている。背中に生えた妖精の羽と相まって神秘的、けれど眠たげに半開きになった緑の瞳が色々と台無しだった。

「アリエッタ。新人メイドの配置について話しておきたいんだけど、良いかしら」

 アリエッタ。そう呼ばれた妖精メイドは、心底嫌そうに顔を顰める。けれど咲夜の背に隠れるような位置に佇む魔理沙を見て、直ぐにそれも辞めた。

「あー、あなたのペットでしょ? それ。だったらあなたが面倒見ればいいじゃない」
「は?」
「配属先は好きにして良いわ。移動になっても、手続きだけはしてあげるから事後報告して」
「ちょ、ちょっと」
「それじゃあ私は休憩時間に戻るから。ふわぁ……もうひとねむり……は、できそうにないか」
「アリエッタ!」
「それじゃ、よろしく」

 扉の前で交わされたやりとりを、魔理沙はただ呆然と見つめていた。今の遣り取りでわかったことがあるとすれば、メイド長代理が面倒くさがり屋だということと、とりあえず魔理沙の仕事についての話は何も進展がなかったということだけだった。







 不安を隠し切れない魔理沙の様子を見ながら、咲夜は心底嫌そうに口を開く。

「はぁ……もう、どうしろってのよ」

 頭を抱えて、大きく息を吐く咲夜。付き合いの長い妖精だけあって、なんとなくだがこんな展開も予想していた咲夜だが、正直、ここまで予想どおりの展開になるとは考えていなかった。
 色々と付いていけない魔理沙を見て、咲夜は悩む。擦り傷なんかは、化膿しないように治療されているのだから問題ない。
 今注意せねばならないのは、彼女の肋骨のみ。流石に、折れた肋骨を酷使して働かせるのは気が引ける。となると、割と力仕事が多い洗濯や掃除は任せられなかった。

「何悩んでんだ?」
「何、じゃないわよ。貴女――そうね、皿洗いくらいなら、できる?」
「ぇ、あー」
「まぁいいわ、覚えて貰うから。貴女の配属先で学びなさい」
「お、おぅ」

 不安と期待に揺れる魔理沙の瞳を覗き込んで、咲夜は肩を竦める。きつくない仕事などなく、それは当たり前のことだ。
 例え体力的な負荷が少なくとも、別の負荷で苦しめられることだってあることだろう。そう、例えば――精神的な負荷、なんてものとか。

 未だに戸惑う魔理沙を連れて、咲夜は歩き出す。メイドの仕事、その第一歩を魔理沙に教える為に。



















――第一章:2-2/厨房の妖精と最初の失敗――



 戦場だった。

「そこ! ちんたらするな! 焦げるぞ!」

 戦場だった。

「皿を落とすなッ! 一回休みたいのか? アァッ?!」

 そこは、紛う事なき、戦場だった。

 行き交う怒号、篭もる熱気、燃え上がる鍋、香ばしい芳。厨房という名の戦場で、魔理沙は顔を引きつらせていた。
 魔理沙がメイドに抱いていたイメージは、どちらかというと華やか……とは言わずとも、やや地味なものだった。
 炊事洗濯料理に主人の身の回りの世話。せかせか働く家政婦さんというイメージが強くあって、だからこそ目の前の光景に驚きを隠せない。

「マリエル料理長」

 咲夜が、怒鳴らず、けれど良く通る声で呼びかける。すると、山吹色の髪をポニーテールにした妖精メイドが振り向いた。先程から、周囲に怒号を繰り返していたメイドだ。おそらく彼女がここの責任者なのだろう。

「咲夜! 手伝うのか? だったらジャガイモを十六分割――」
「新人よ。お願いできるかしら?」
「――んん?」

 マリエルは、咲夜に駆け寄って直ぐに首を捻る。咲夜の一歩後ろで顔を引きつらせる、小柄な少女。魔理沙の姿を視界に納めて、それから一度、頷いた。

「使えるのか?」
「使えるようにして欲しいの」
「ふふん、言うようになったじゃないか! いいぞ!」

 マリエルの決断は早く、力強い。腕を組んで頷くと、黄色い瞳を魔理沙に向けて、上から下までまじまじと見る。

「とりあえず皿洗いだ。流し台で他の妖精に混じれ。咲夜はあたしの隣に立たせてやる」
「お、おう!」
「了解したわ、料理長」

 マリエルは、さっさと咲夜を引っ張って行ってしまう。広い厨房の端にぽつんと残された魔理沙は、ただそれを見送ることしかできなかった。
 けれど、何時までもこうしてぼうっとしている訳には行かない。そう、自分の頬を叩くと流し台を見つけて走る。
 妖精メイド用に作られた流し台は背が低く、背伸びをすればまだ幼い魔理沙でも普通に仕事が出来る高さだった。
 魔理沙よりも頭一つ分背の高い咲夜にちょうど良く、更に頭一つ分背の高いマリエルには少し低いくらいだろうか。

「えーと……これかな」

 石けんを手に取り、周囲のメイドの真似をする。蛇口を捻ると水が出て来るという、井戸まで水を汲みに行く必要のない便利な水道。けれどその温度までは調整できないのか、秋の半ばの水は冷たい。これで冬だったら、そんなことを言っていられなくなるほど更に冷たくなることだろう。
 大きな皿を手にとって、油汚れを落とそうと擦る。けれど力が足りないのか要領が悪いのか、一向に汚れが落ちない。

「よっと、あれ? んと」

 悪戦苦闘の末、漸く汚れが落ちる。白くなった皿を見ると、魔理沙は、今まで、皿洗いなんかやったことがなかったからか、心が弾んだ。

「そこ! ちまちま洗ってんじゃないよッ!!」
「は、はいっ」

 けれど、その気持ちも直ぐに霧散する。怒鳴られて、慌てて次の皿に取りかかる。先程と同じ手順でやっていたら、また怒られてしまうことだろう。よりいっそう頑固な油汚れを前に、気持ちが急かされ、焦る。ぐいぐいと力を入れて洗おうとしても、一向に汚れは落ちなかった。

「ん、この、くそ……あっ」
――ガシャンッ!
「皿を割るな! 洗い物の一つもこなせないのかッ?!」
「す、すいませんっ」

 皿を割り、焦りが加速する。周囲の妖精たちも眉を顰め始め、その度に魔理沙の胸はズキリと痛んだ。もう失敗は出来ない。失敗をする訳には行かないと、怯えてしまう。

「ぐっ、この、大人しく、っ…………ぁ、まずっ」

 焦りから力任せにしようとしたのが悪かったのか、魔理沙の手から皿が滑り落ちる。割ってなるものかと慌てて皿の下に足を滑り込ませようとする魔理沙だったが、それが災いして皿を蹴り上げてしまう。
 焦りで勢いの増した蹴りを叩き込まれた白い大皿は、けれど割れることなく勢いよく飛んでいく。その光景を魔理沙はただ呆然と見送ることしかできない。
 そして、誰の目にも止まることなく飛翔する皿は、調理中だった大鍋に激突してしまう。

――ガンッ
「ぁぅっ」

 音に驚き魔理沙が身を竦めた瞬間、胴の長い鍋がぐらりと揺れる。鍋の担当だったメイドが慌てて抑えようとするも、残念ながら倒れる速度とパワーの方が遙かに強かった。
 倒れた鍋は隣の仕込み用の野菜を叩き落とし、連鎖反応で蒸し器や他の鍋をなぎ倒し、阿鼻叫喚の絵図がありありと広がっていった。

「あ、ぁぁ、あ、ど、どうしよう」
「きゃぁぁっ」
「ひぃ、中華まんがっ」
「どどど、どうなってるのっ?!」
「ひぃっ」

 魔理沙は、真っ青な顔で震えながら、そっと後ずさる。どんっと背中を流し台に打ち付けて、頭を抱えて呻りだした。偶然とするには、運が悪すぎる。

「これを使えるようにとは、難易度の高いこと言うね、咲夜」
「ま、マリエル、流石に今のは故意があっての事ではないと思うわ」

 魔理沙が目を向けると、怒号を交わしていたはずのマリエルがひどく穏やかな声で咲夜にそう言っていた。その先程とはあまり違いすぎる様子に、咲夜は冷や汗を流しながら宥めているようだ。

「新入り」
「は、はいっ」

 ぴしっと背を伸ばした魔理沙に、マリエルは柔らかい笑みを浮かべる。ともすれば見惚れてしまうような笑みは、しかし額に浮かんだ青筋が色々と台無しにしていた。たっぷり間を開けて、こわばり震える魔理沙に、マリエルは大きく行きを吸い込む。

「すぅ……なにやってんだこのバカー――――ッ!!!」

 キィンと、耳鳴りがするほどの声。咲夜まで耳に手を当てて蹲り、他の妖精メイドたちは震えている。その余りに大きな音量に、魔理沙は耳を押さえて蹲った。

「おおざっぱにこなせばいいってもんじゃない! 食材を無駄にするようなヤツが、厨房に立つな!」
「ご……ごめんなさい」

 蹲り、エプロンをぎゅっと掴み、唇を噛みしめる。素直に謝ろうがなんだろうが許せないのか、マリエルは未だ、肩を怒らせていた。
 その様子を遠巻きに見る妖精たちも、魔理沙を睨んでいるような、そんな疑心暗鬼にじわじわと侵される。もしかした、咲夜も、と――。

「マリエル、マリエル料理長。最初は失敗するものよ。違う?」
「規模が違うぞ、咲夜ッ! 第一、おまえはこんな失敗なんざしなかっただろう!?」

 マリエルの頭にある人間の基準。これまで人間と肩を並べて仕事をしたことなんか無かったマリエルにとって、人間の基準は咲夜だ。
 何でも器用にこなし、皿の一枚も割らずに、何時に間にかマリエル自身に“厨房を任せてもいい”と思わせるほどの力量を身につけた咲夜。彼女を基準としている以上、期待も大きかったのだろう。

「それは、そうだけれど」

 戸惑う咲夜に、魔理沙は胸に痛みを覚える。庇ってくれたのは嬉しい。けれど、困らせている。咲夜に追いつきたいと願ったのに、咲夜みたいになりたいと願ったのに、こんなところで立ち止まっている。

 自分の力で、歩き出せずにいる。

「他に何か言いたいことはあるか? 咲夜」
「…………特に、ないわ」

 マリエルの言葉で引き下がる咲夜を、魔理沙はただじっと見つめる。どこか、“これで良かったのかも知れない”と、そんな安心を思わせる瞳。魔理沙はそれを見逃すことが出来ず、ふらりと体勢を崩した。
 見捨てられた――そんな、情けない心。見捨てるも何も、無いのに。

「今までと、何が違う?」

 周囲に音を拾われないように、魔理沙は小声でそう呟いた。出来なければ価値はない。出来て当然。その当然を埋める為に、努力をしなければならない。決して、努力をしていると、感づかれないように。


――『まだ、できないのか』


 失望の目。
 固く結ばれた唇。
 感情のこもらない顔。
 怒気の滲んだ、憎しみにも似た……声。

「待って、待って下さい、料理長」
「あ?」

 伏せていた顔を上げ、魔理沙は真っ直ぐとマリエルを見る。こんなところで諦めたくないと必死に、けれど揺るぎのない瞳でマリエルを見る魔理沙の姿に、彼女の隣で見下ろしていた咲夜が小さく息を呑んだ。けれど今は、そんな咲夜の様子に気を留めている事は出来ない。

「お願いします! チャンスを、チャンスを下さいッ!!」

 幼い身体から発せられたとは思えないほどに、力強い声。それに毒気を抜かれたのか、マリエルは怒気を鎮める。視線は鋭いままだが、もう声を荒げようとはしなかった。

「約束します。絶対、二度とこんなことはしないってッ!」
「だから、チャンスか?」
「はいッ!!」

 噛みしめられた唇が、赤く滲む。強く握りしめた手は血の気が引き青白く、肩は震えていた。けれど、それでも、瞳から力強さが消えることはない。

「――――わかった」

 マリエルは、頭をガシガシと掻くと、そう告げる。そんなマリエルの言葉に、魔理沙の顔が明るくなった。白い歯を見せてはにかみ、それから直ぐに顔を引き締めて、直立不動から頭を下げる。

「ありがとうございます! 料理長!」
「ふん。次はないからね」
「はいっ!!」

 気合いを新たに、皿洗いに戻る。その目はもう揺らいではいなかった。







 元気よく返事をする魔理沙を尻目に、マリエルは片付けの指示を出していた。
 これから作れる昼食のメニューを考えているのであろうマリエルの横で、咲夜は小さく息を吐く。

「……うん? 庇った割りに残念そうじゃないか? 咲夜」
「そんなことないわよ。それより、メニューはどうするの?」
「ん、あぁ……釜は無事だから、流用できる食材で五目チャーハンだな。お嬢様の食事じゃないから、見た目が悪くても良いだろ」
「そうね。さ、頑張りましょう、料理長」
「はっ、誰に言ってんだ」

 軽口を交わしながら、咲夜とマリエルは調理に掛かる。竈に火種を落し、ごうごうと燃え上がり始めた炎に隠れて、咲夜は小さく呟いた。

「便乗して追い出した方が、良かったのかも知れないわね」

 受け入れておいて、揺れる。こんな感情は、咲夜にとって初めて感じるものだった。魔理沙本人に思うところは今のところ何もない。どころか、どうでも良いとさえ思っている……はずなのに。
 理解できない感情に振り回される居心地の悪さ。魔理沙が居なくなればあるいは、心の揺れは消えるかも知れない。その戸惑いが咲夜を悩ませる。

「もう、なんなのよ、本当に……」

 呟く声、揺らぐ音。咲夜の眼下で燃え上がる炎は、問いへの答えを示してはくれなかった。



















――第一章:3/汚名返上――



 大失敗をした日の翌日、魔理沙は気合いを入れ直して厨房に立った。
 あの後にわかったことだが、厨房組は賄い料理を食べながら仕事をするので、休憩組とローテーションを組んで、素早く作業をするのだという。あの皿洗いは、先発の休憩組の分だったと、魔理沙は聞いていた。
 つまり、より手際よく仕事をする為にも、魔理沙のような見習い雑用組にも効率の良さが求められるのだ。

「私は、できない」

 魔理沙はまるで自分に言い聞かせるように、そう呟く。
 昨日は、やれるはず、出来るはずと言い聞かせて皿洗いをして、焦り、結果がアレだ。ならば、まずは“出来ない”という現実を自覚する必要があった。

「なら、どうする?」

 魔理沙はそう、大きく深呼吸をする。それから、一歩離れて周囲を見回した。頑固な油汚れと格闘する見習いメイドは、魔理沙を含めて僅か三人。彼女たちの動きを、良く観察する。
 流し台に栓をし、水を溜めて、石けんを泡立たせ、そこに皿を沈めていく。最初に汚れを落ちやすくするという――わかってしまえば、この上なく単純なこと。

「っし」

 頬を張って気合いを入れた。
 他の妖精メイド達と同じように、魔理沙は流しに水を張る。けれど、油が落ちるまで待っていたら、まるでサボっているかのように見えるだろう。
 だったらその間、彼女たちは何をしているのか。ざっと見回すと、特定の食材を切り分ける妖精メイドの姿が見えた。
 マリエルを始めとする調理担当のメイドの仕事がスムーズに進むように、手の届く範囲に材料を置く。なんの料理を作るか覚えて、こなしていくのだろう。

「手に余ってるの、こっちに回してくれ」
「え、ぁ、うん」

 食材を切り分けていた妖精メイドの隣りに立ち、魔理沙は自然に声をかける。その人懐っこい笑みにメイドは気軽に応え、まだ切っていなかったタマネギを魔理沙に回した。
 用意されている、既に切り分けられた食材を一瞥すると、タマネギがみじん切りにされていることを確認。魔理沙はそれに従って、右手で包丁を握りしめた。

「えいっ――っ!?」

 けれど慣れないことをしたせいか、左手の指をほんの少し切ってしまう。鋭い痛みに涙目になりながらも、魔理沙は引き続きタマネギに包丁を入れた。

「うつっ……ぁあ、もう」

 涙目になって、傷を増やして、鼻を啜って、効率悪くみじん切りに。そっと他の切り分けられた食材に混ぜると、魔理沙は踵を返して流し台に走った。
 そして、石けんの泡が溜まった流し台から皿を取り出そうと、手を突っ込む。

「あぁっ……つぅぅー…………」

 けれどそれが悪かったのか、切ったばかりの指先に、鋭い痛みが走った。じんじんと痛む指。しかし、仕事は待ってくれない。
 魔理沙はぎゅっと眉を寄せると、唇を真一文字に引き絞る。指の傷を見たくないと言わんばかりの表情で目を逸らしながら、もう一度水に手を突っ込んだ。

「つっ……我慢、我慢、がまんっ」

 痛みに怯える心を、ぐっと抑え込む。この程度、森で妖怪にいたぶられたときに比べればどうということはない。魔理沙はそう皿を取り出し、スポンジを取り出し――やがて、目を瞠った。

「汚れが、落ちる」

 ――それはまるで、魔法のようだった。

 あれほど魔理沙を苦しめて、追い詰めた油汚れが、信じられないほど簡単に落ちる。それはきっと、魔法なのだろう。生活の知恵という名の魔法。
 魔理沙は何時しか痛みも忘れて、楽しげに皿洗いをしていた。泡に包まれ、油を落し、水を良く拭き取って並べていく。自分の手で生み出していく美しい皿の数々は、魔理沙が紅魔館で使う初めての“魔法”だった。

 この日から、魔理沙の戦いが始まった。







 仕事を終えて部屋に戻ったら、他のメイドたちの動きを思い出す。どの食材を最初に切って、どの食器をどこに置いて、何から最初に洗って。
 行き交う怒号、むせ返るような熱気、霞がかった記憶なんて一つもないと言い張れる程のインパクト。

「えーと、確か」

 何もない空間で、包丁を構える。イメージするのは、あの厨房。強い印象として脳裏に刻み込まれた光景を反復して、練習していく。

 寝ても覚めてもそれを繰り返し、昼時とは言わず早朝の厨房仕事にも参加。一つ覚える度に怪我が減り、怒られる数が増える代わりに、程度の低いことでは何も言われなくなる。
 出来て当然だから怒られるのだというのなら、魔理沙のレベルは最初の頃よりもかなり上がっていた。
 何故なら、マリエルが魔理沙に対して“出来て当然”だと思うことのレベルが、どんどん上がってきているのだから。







「へぇ、けっこう頑張るじゃないか」

 そんな魔理沙の様子に、マリエルは苦笑しつつもそう呟いた。傷だらけの指先、必死に周囲の技術を盗もうとする気概。
 常に前を向こうとするその姿勢を見て、マリエルは、心なしか楽しそうに微笑んでいるようだった。

「もう認めたの? マリエル」
「まだまだ。あたしに認められるには早いよ」

 そう肩を竦めるマリエルに、先程から直ぐ横で調理をしながらマリエルの様子を見ていた咲夜が訊ねる。姿勢は彼女の好みとするところだろうけれど、まだまだ出来ないことも多い。
 それでも、諦めまいと努力を重ねる姿に、思うところがあったのだろう。

「咲夜は、どうなのさ?」
「どうって、私は――」

 まだまだ危なっかしい手つきで、魔理沙は包丁を握る。勢い余って切りすぎて、指を傷つけながら包丁をまな板に突き刺し。それでも、めげることなく繰り返す。
 そうしてまた包丁を握りしめて、性懲りもなく指を傷つけ、見ている咲夜の方が痛み出しそうな光景だった。

「咲夜は、まだ認めない、か?」
「私は、私、は」

 強い瞳。誰よりも努力を重ねようとする気概。あの夜に見た瞳と、同じ色。

「こっちは、任せとけばいい」
「……手際が悪すぎるから、見ていられないの。それだけよ」
「はいはい」

 マリエルから離れた咲夜は、魔理沙と同じくニンジンを持って、彼女の横に並び立つ。驚く魔理沙をただの一瞥もすることなく、咲夜は包丁を手に取った。

「よく見ていなさい。こうやるのよ」
「咲夜――おう!」

 咲夜の手元、野菜の切り方、指は立てて、包丁は真っ直ぐ。咲夜の手際を見て、魔理沙は少しずつ覚えていく。
 ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、こんにゃくに豆腐、鶏肉まで。捌かれて調理されていく食材を、魔理沙は真剣な表情で見ていた。
 咲夜は彼女のように、大失敗をしたこともなければ傷だらけになったこともない。せいぜい、真冬の水仕事であかぎれになったくらいだが、それも時間を巻き戻してさっさと治してしまった。

 けれど、魔理沙のような時期が無かった訳では、ない。

「ほら、みじん切りにしたいなら横から包丁を入れて。お尻まで切らなくて良いから」
「おう、いや――はい!」

 流れる汗を食材に落とさないようにエプロンで拭いながら、魔理沙は包丁を入れていく。その姿が、最初にここに来たときの咲夜自身の姿と、朧気ながら重なった。

――『切り方は、こうだ。わかるか? 咲夜』
――『はい、料理長』

 マリエルの手ほどきを受ける、何年か前の咲夜の姿。マリエルの味を盗むのには随分と時間を掛けてしまったが、それでも基礎やその応用程度なら難なく身につけた。
 だからこれは、忘れていた記憶。忙しない日々に埋もれてしまった、一生懸命な自分の姿を垣間見て、咲夜は小さく苦笑する。

「頑張りなさいよ、魔理沙」

 魔理沙に聞こえないように呟かれた声。それを紡ぎ出した咲夜自身ですら気がつけなかった激励は、厨房の中へ静かに溶けていくのであった。
















――第一章:4/期待と娯楽と人間と――



 厨房に入って作業をする以外にも、掃除や洗濯など仕事の幅が増えていく。仕事が増える度に小さな怪我が増えて、その度に学んで、より多くの仕事が出来るようになる。

 そんな繰り返しをしている内に、魔理沙は自然とメイドたちに受け入れられていった。

「……と、特に問題もなく、仕事に従事しております」

 月が空の真ん中に昇る頃、紅魔館のテラスにアリエッタの声が響く。慎ましやかに、けれどハッキリと紡がれた言葉からは、普段の面倒くさがり屋な姿は窺えない。
 本人の是非はともかく、空席と指定されていなかったら確実にメイド長の肩書きを背負っていたであろう“優秀な妖精メイド”の姿が、そこにあった。

「そう。ねぇ、アリエッタ」
「はっ」
「貴女個人としては、あの子はどう?」

 レミリアがそう尋ねると、アリエッタは一拍だけ間を置いて答える。

「――よく、頑張っているかと。もう少し仕事を任せても良いように思います」
「ふふ、へぇ? 随分認めているじゃない」

 そんな、どことなく信頼を感じさせるアリエッタの言葉を受けて、レミリアは無邪気に笑う。

「随分楽しそうね、レミィ」

 レミリアの笑い声に耳を傾けていた少女が、ぽつりとそう零す。鮮やかな紫の髪と、眠たげに開かれたアメジストの瞳。紅魔館地下大図書館の主にしてレミリアの親友、パチュリー・ノーレッジは本に目を落としたままレミリアの言葉を待った。

「楽しそう何じゃなくて、楽しいのよ」
「あの人間の子供が?」

 パチュリーが空中に指先を向けると、大きな水泡が出現した。その水泡は緩やかに波紋を浮かべて、そこに自室で身体を丸めてすやすやと眠る魔理沙の姿を浮かべてた。

「咲夜の成長が、よ」

 レミリアは水泡の中に浮かべられた魔理沙を一瞥すると、肩を竦めてそう言い放つ。童女のような表情から一転して、その顔は悪魔のように凄惨に歪む。

「呆れた。妙にさっさと受け入れたかと思ったら、そのため?」
「そう。その――“咲夜の成長”のため」

 一転し、また、無邪気に笑う。魔理沙に垣間見た“運命”に興味を惹かれたというのも嘘ではない。その上で、レミリアは咲夜の成長に魔理沙を“使おう”と決めた。
 まるで他者が自分に従って、利用されて当然と言わんばかりの貌に、パチュリーはただため息を吐く。

「それで、咲夜の成長にならなかったら?」

 パチュリーがどうでも良さそうに零すと、レミリアはくすりと微笑んだ。まるで、母が子を慈しむような表情を浮かべて、それから――赤い弾丸を水泡にぶつけ、弾けさせた。

「その時は、ふふ――――用はないわ」

 悪魔の笑い声と、興味を無くした魔女のため息がテラスに満ちる。その光景を側に控えて見ていたアリエッタは、魔理沙の未来を想像し、ぶるりと背筋を震わせた。



















――第二章:1/見え始めた壁――



 ばさっと広げたシーツが風ではためく。燦々と輝く陽光を浴びながら、魔理沙は朝の洗濯物を干し終わって一息吐いた。
 未だ、手際はあまり良くない。けれど、せいぜい周囲の妖精メイドと比べて二歩遅いかという程度。このくらいなら、“仕方がない”と言われる範囲だ。

 霧雨魔理沙が紆余曲折を経て紅魔館に来て、ちょうど七つの曜日がぐるりと回った。その頃になって言われたことを思いだし、魔理沙はぎゅっと眉を寄せる。

「『仕方がない』……か」

 厨房に入り、朝食の準備に入る。野菜を切るグループに混じって仕込みをしながら、魔理沙は歯がゆさを含んだ深い息と共に、そう小さく零した。
 魔理沙がそう言われた理由。それは、一番効率の良い仕事をしている妖精メイドを見れば、それだけで答えがわかるのだ。
 フライパンを翻せば、“虚空から生まれた”炎が食材を包み込み、床が汚れたら“指先から”水を出して掃除をし、そして何より――“空を飛んで”移動をする。
 魔理沙と同じ“人間”である咲夜だって、それは同じ、どころか他のメイド達よりも遙かに仕事が早い。それは咲夜自身の器用さだけが理由ではなく、“時間を操る”という破格の能力が大きく作用していた。

 能力――そう、“能力”だ。

 紅魔館に暮らす者達は、何かしら能力を持っている。前述の咲夜の“時間を操る程度”の能力を初めとして、メイド長代理のアリエッタは“瞬時に復活する程度”の能力という妖精特有の“一回休み”を強化したもので、また、料理長のマリエルは“触れた者を爆発させる程度”の能力という戦闘向けの能力。
 誰かしらが能力と、それから生まれつき当たり前のように空を飛ぶ力を持っている。それが、人間以外の常識であり、差であった。

「私は、ただの人間だ。だったら、人間に出来ることは?」

 マリエルが作ってくれた賄い料理を食べながら、魔理沙は自分の意思を確認するように呟いた。ピリ辛の麻婆豆腐丼は、彼女の思考をほどよくクリアにしてくれる。
 それだけで食べたら辛い麻婆豆腐も、御飯と混ぜればほどよい味になる。それは、知識を持つ者の知恵だ。工夫、と言っても良いだろう。妖怪たちのように“特別”を持たないただの人間ができることは、麻婆豆腐を御飯に乗せることなのだろう。

「――」

 記憶を掘り出しながら、魔理沙は右手を強く握る。掌の間から零れ出すのは、彼女の瞳によく似た星色の輝き。家を飛び出す要因と成った――人の手には余る力。
 ただの灯火にも成らず揺らぎ、消える光。脆弱なその光りを大きくしたいと、魔理沙はそう望んでいたということを――思い出す。
 忘れるようなものではなかったはずなのに、この忙しい日々が魔理沙に“余裕”をくれなかったのだろう。

「そこ! 食べ終わったら働け!」
「っ……はい! 料理長!」

 マリエルの怒号で、魔理沙は飛び上がる。今は考えなくても良い――だから、これは後回し。とにかく今は目の前の仕事を片付けようと、魔理沙は腕まくりをして流し台へ走っていった。







 魔理沙の仕事は、夕方までには全て終わる。レミリアが起き出してきたら、その時点から、見習いメイドたちの仕事がぐっと減るのだ。
 レミリアの前で仕事をしたり彼女の身の回りの世話をするのは、上級のメイドたちでなくてはならない。そしてそれは、咲夜も同じ事だ。

「咲夜!」

 レミリアが起きるまでの時間。控えていた咲夜に魔理沙は声をかける。
 まだ時間に余裕があって魔理沙が咲夜と話せるタイミングは、黄昏時に食い込もうという短い間だけだった。

「魔理沙? どうしたの? そんなに慌てて」
「ああいや、急ぎってんじゃないんだけど、ええと――」

 言いよどむ魔理沙の言葉を、咲夜はじっと待つ。ここで急かしてしまうと、余計に回りくどいことになりかねないからだ。焦る人間を急かしても、良いことは一つもない。
 それは、ここ最近で咲夜が魔理沙から学んだことであった。

「――その、仕事が終わった後は、図書館へ行きたいんだ」
「図書館? 本が好きなの?」

 そういえば、館内施設の説明をしたときに図書館のことも話した、と思い出しながら、咲夜は魔理沙に訊ねる。

「いや、それもあるんだけど、その、私」

 魔理沙は大きく深呼吸をすると、真っ直ぐと咲夜の瞳を覗き込んだ。なにも疚しいことはないはずなのに、この瞳を向けられるといつも、咲夜はたじろいでしまう。

「私、“魔法”を勉強したいんだ」
「魔法? 確かに大図書館にはそういった本もあるけど……」
「だめか?」
「そうねぇ……仕事に支障がなければいいとは思うけれど、でもまぁ、あそこは私の管轄じゃないから」
「図書館のひとに許可が貰えれば、いいのか?」

 咲夜が頷くと、魔理沙はぐっと拳を握りしめてはにかんだ。よほど嬉しかったのか、頬には朱が差している。そんな魔理沙を見て、咲夜はただ苦笑を零す。
 そして同時に、図書館の気難しいを通り越して天才と天災が紙一重な魔女相手に魔理沙がどこまでできるのか、ふと、その光景が見たくなってしまう。

「アリエッタには私から報告しておくわ。ま、やってみなさい」
「うんっ! ありがとう、咲夜!」

 元気な返事をして、それから魔理沙は勢いよく頭を下げる。そして足を縺れさせながら、走り去っていった。



 それから、僅か数十秒後、魔理沙は図書館の場所がわからず慌てて戻ることになる。その顔を、今度はリンゴのように真っ赤にさせながら。



















――第二章:2/神秘と悪魔と七曜の魔女――



 首が痛むほど見上げても最上段が解らない程に高い本棚が、無数に立ち並んでいる。宙に浮かぶ朱色の炎が、知識の結晶達を暗く鮮やかに照らしていた。
 咲夜に道を教えて貰い図書館に足を踏み入れた魔理沙は、その圧倒的な光景に息を呑み、知らず、強く拳を握りしめる。紅魔館の誇る地下大図書館の一端に触れただけだというのに、魔理沙の胸は興奮で強く弾んでいた。

「すっげー……」

 漸く零した感想は、図書館を褒める美辞麗句の類ではない。ただ、他に言葉を選ぶことすらも煩わしいと、魔理沙は胸の内側を一言で吐露するしか選択肢を持たなかった。
 大きな扉を潜り、ゆっくりと歩く。タイトルを流し読みするだけで、本に込められた魔力が魔理沙の肌を突き刺すその感覚。求めていた――“神秘”の力。

「ぁ」

 その本に、力と知識の結晶に、魔理沙は魅入られる。生唾を呑み込み、痛みに耐えるように震え、両手で己の身体を抱き締めて、引きつったような笑みを浮かべた。
 そして魔理沙は、まるで見えない力に導かれるように、魔導書の一冊に手を――

「人間が迂闊に触ると、消し炭になるかも知れませんよ?」

 ――慌てて、引っ込めて、勢い余って尻餅を付いてしまう。

「うぉわっ?!」

 一瞬、ほんの僅かな時間ではあるが、魔理沙は手を伸ばそうとしたその刹那の意識が無かったことに戦慄する。
 もしもこのまま、何も知らずに手を伸ばしていたらどうなったのか。そう考えるだけで、魔理沙の背筋に冷たいものが流れ落ちた。冷や汗と粟立つ肌を自覚しながら、魔理沙は自分に声をかけた方に目を向ける。

「あ、くま?」
「はい、悪魔です。人間さん」

 血のように赤い色の髪を緩やかに流した黒い翼の悪魔が、恭しく頭を下げる。その頭にも小さな羽が二枚生えていた。
 人を惑わし、人を騙し、人を狂わせ、人の魂を喰らう“悪魔”の姿。恐ろしい存在だと思っていたのに、その顔立ちは可憐といっても良いほど柔らかく整っている。

「わ、私は――私は、霧雨魔理沙。新人メイドだ」
「これはこれはご丁寧に。私はここ大図書館の主、パチュリー・ノーレッジ――」
「えっ!? だって、魔法使いじゃ」
「――の、しがない使い魔で、小悪魔と呼ばれております」
「ぁ、ああ、そうなんだ」

 からかわれたのか、それとも自分が早合点してしまっただけなのか、魔理沙は判断できず朱に染まった頬を隠すように目を逸らした。
 そんな魔理沙の内心を知ってか知らずか、小悪魔はただ、穏やかな笑みを浮かべて佇んでいる。悪魔だけあって、メンタル面の云々では勝ち目が無さそうだと、魔理沙は半ば負け惜しみじみたことを考えながら唇を尖らす。

「と、そうだ。そのパチュリーってどこに居るんだ?」
「口の利き方に気をつけなさい、人間。キシャー――」
「っ、ご、ごめ」
「――とは申しませんが、パチュリー様にもそれでは困りますよ?」
「申さないのかよ! って、そうじゃなくて、はい。わかりました」
「……予想以上に敬語が似合いませんね」
「どうすりゃ良いんだよ!?」

 口元に手を当ててくすくすと笑う小悪魔。あくまでのんびりとからかってくる小さな悪魔相手に、魔理沙は肩で息をしながら項垂れた。
 声を交わしてからまだ何分も経っていないのに、彼女の性格がわかったようなそんな気がして苦い表情を浮かべる。魔理沙では、対処しきれないかも知れない……と思うのと同時に、咲夜も苦労していそうだなんてそんなことを考えた。

「それで、ええっと、パチュリー様にご用があるのでしたね」
「あ、ああ、そうだった……」

 告げられて、魔理沙は思わずそう零す。小悪魔のインパクトによって頭から色んなものが飛んでしまっていたようだ。
 そんな魔理沙に小悪魔は僅かに微笑むと、踵を返して魔理沙に背を向けて見せた。

「では、付いてきて下さい。道すがら、図書館の“ルール”も覚えていただかなくてはなりません」
「えっ、い、いいのか?」
「居ても良いかどうかを決めるのは、生憎と私ではありませんから」

 小悪魔はそう、苦笑を零す。それから魔理沙は、歩き出した彼女を追いかける為に慌てて走りだした。それほど急がなくても良い速度だったが、慌てないと置いていかれそうな気がしたのだ。

「さて、それでは今から図書館の“基本的なルール”をお教え致します」
「う、うん。頼む」
「はい、頼まれました」

 隙あらばからかってきそうで、魔理沙は肩肘を張り緊張する。小悪魔の物腰は柔らかくて、伴う笑顔はむず痒い。これで変なところがなかったらと、魔理沙は考えずには居られなかった。

「まず、ルールその一。図書館ではお静かに」
「ああ、そりゃそうか」
「はい。次に、ルールその二。図書館では跳んだり跳ねたり走ったり這ったりしない」
「ま、まぁ、歩いて移動すれば良いんだよな?」
「そうですね。それから、飲食の禁止。飲食されるのも禁止です。本が汚れますからね」
「飲食されることがあるの?!」

 思わず、大声を上げて反応してしまう。すると、小悪魔は怪訝な表情で眉を寄せ口元に人差し指を当てた。
 図書館では、お静かに。わかっていたつもりだったが、何にしても、魔理沙はそれに“理不尽”を感じずにはいられない。

「それから、これだけは何があっても、絶対に守って下さい」
「え?」

 足を止めて、真剣な表情で告げる小悪魔。髪と同じ色の、血色の瞳。その静かに瞬くどろりとした赤に、魔理沙は息を呑んで足を止めた。

「“パチュリー様の邪魔はしない”」
「ぁ」
「良いですね?」
「う、うん。わかった」

 魔理沙がしっかりと頷くのを確認すると、小悪魔はまた、柔らかい物腰に戻る。その姿に安心して、大きく息を吐くと、そのまま引き続き彼女について歩き出すのであった。







 ――それはまるで、歌だった。

 雨に咲く紫陽花のような、しっとりとした紫色の髪がゆらりと広がる。波紋状に流れるそれに目を奪われ、次いで飛び込む整った顔立ち。淀むことなく紡がれる歌。その旋律を奏でる唇は桜色で、下手に朱色だというよりもかえって造りモノじみていた。
 薄く開いたアメジストの瞳は幾度となく虚空を彷徨い、幾度となく閉じられ、開かれる。広げられた両手と浮き上がった身体と合わせてみて、まるで天使を呼び込む修道女のようにも見えて、まばたきすることも忘れてしまう。

「――【サイレントセレナ】――」

 やがて、彼女の唇から最後の一小節が紡がれた。これで終わってしまうのか。この光景が見られないのか。そう肩を落とす――暇もなく、“それ”は顕現する。
 複雑な紋様を浮かべながら緩やかに回転する、青白い魔法陣。大きく大きく広がっていく神秘の術式が瞬き、そして、爆ぜた。魔法陣から光の柱が幾重にも立ち上がり、天使の梯子を生み出す。人の手では為し得ぬ偉業、夜空を支配する魔法。

 その光景に、魔理沙は、目を奪われていた。

「うん、今日はそこそこ調子が良いわね。で、次は――」
「すごい」
「――ん?」

 すとん、と少女が地面に降り立つ。既にそこに奇跡はない。けれど魔理沙の中には確かにその残滓が刻み込まれていた。目を瞑っても、未だに瞼の裏から離れない光景があった。
 この少女が、魔理沙の求めていた魔女、“パチュリー・ノーレッジ”なのだとわかる。魔理沙の求めていた魔法なのだと、理解した。







「っ」
「あ、ちょっと」

 小悪魔の制止も張り切り、図書館の“ルール”も全て意識の外に追いやって、魔理沙は駆け出す。真っ直ぐとパチュリーを目指し、そして、きらきらと輝く瞳で彼女の前に立った。

「どうやったら、そんなすごい魔法が使えるんだ?!」

 興奮から弾む声。小悪魔は、興味なさげに眉を寄せたパチュリーを見て頭を抱える。

「答える義理はないわ。まったく、咲夜も自分のペットくらい鎖で繋いでおきなさいよ」

 悪態を吐きながら、魔理沙を一瞥するパチュリー。魔理沙の声が大きくなる度に眉を顰めていて、だんだんと機嫌が下降していく。このままだと、魔理沙を消し炭にしかねない。
 自分の主の気が長くないことくらい、小悪魔はとっくの昔に理解していたのだ。

「頼む! 私に魔法を教えてく、ああっと、ください!」

 それなのに再び声を張る魔理沙に顔を引きつらせ、慌てて近づく。初対面の人間にそれほど興味がない小悪魔でも、咲夜の“ペット”となれば気を使いもする。
 けれどそれはパチュリーにも同様だったのか、彼女は視線を鋭くしながらも魔法を使う気配は無い。

「つまみ出しなさい、小悪魔」
「おや? 杞憂でしたか……ということで、人間さん」
「へ?」

 パチュリーの命に従って、小悪魔は魔理沙の後ろ襟を掴むと持ち上げる。その細い腕から出ているとは思えないほどにパワーに、魔理沙は思わず口をポカンと開けた。
 持ち上げられている格好も相まって、運ばれる子猫のような姿だった。当然のように暴れるも、上手く逃れることが出来ない。

「は、話してくれ、小悪魔!」
「図書館のルールは?」
「あ、し、静かに走らず食べられず、邪魔しない」
「わかってるなら、わかりますね?」

 律儀にも口を噤んで暴れる魔理沙に、小悪魔は内心でルールに“暴れない”を付け加えることを決意する。このままルールを増やしていくと、半ば法規じみたものになるのではないかと、小悪魔はこっそり嘆息した。
 魔理沙の後ろ襟を掴んだまま、小悪魔はパチュリーに頭を下げて一礼し、それからゆっくりと歩き去っていく。これ以上パチュリーの機嫌を悪くしたら、小悪魔自身にも被害が及ぶ可能性があるのだから。







 やっと静かになった図書館の中央で、パチュリーは深く椅子に座り込んだ。ため息を吐き、頬杖を付き、じっと虚空を眺める。それだけで、彼女の目の前の空間が歪んだ。

「行ったみたいね」

 虚空に波紋を浮かべ、大きな水泡を生み出す。そこに図書館から叩き出されてすごすごと帰っていく魔理沙の姿を確認すると、パチュリーは漸く一心地つく事が出来た。

「面倒ね」

 零す言葉に、嫌悪の感情はない。だがだからといって、好感がある訳でもない。ただその声には、無関心の音だけが込められていた。



















――第二章:3-1/閉ざされた扉――



「はぁ」

 深いため息。

「はぁ」

 大きなため息。

「はぁ……」

 切なげなため息。

「はぁー……」

 ここ最近、魔理沙はこうしてため息を吐くことが多くなった。
 せっかく目の前まで辿り漬いた、求めていた奇跡。神秘の光景を瞼の裏に焼き付けて、夜に寝るときになれば必ず夢中を彩る。
 あれから、魔理沙は図書館に行くたびに小悪魔によって門前払いを受けていた。あの荘厳な図書館を見ることすら叶わず、すごすごと帰る日々。
 頑張ろうにも、努力しようにも、足掻こうにも、その段階に辿り漬くことが出来ない痛み。歯がゆさだけが残り、それが足枷となる。それはあまりに重く、魔理沙にのしかかっていた。

「はぁ」

 だから、ため息だ。胸の内側に溜まったやるせなさを、息と一緒に吐き出す。そうでもしなければ、どこまでも落ち込んでしまいそうだったから。
 仕事中も、休憩中も、食事の間でも構わずため息。その肩は心なしか煤けて見えて、どんよりとした空気を背負っているようにさえ見える。







 そんな魔理沙に声をかけることも出来ず、咲夜とマリエルは遠目から彼女の様子を窺っていた。

「なぁ咲夜、あれ、どうにかしろよ」

 見かねたマリエルが、引きつった顔で咲夜に呟く。あまりにらしくない様子な魔理沙に近づきたくないのか、非常に珍しいことに、腰が引けていた。

「まぁ、悩みを聞くのも上司の勤めだから……しょうがないわね」
「あ、それ知ってる。外の言葉で、つんでれ……だろ?」
「知らないわよ。意味を聞きたくもないわ」

 マリエルの言葉を頭から追い出す。彼女の知識の仕入れ先なんて、妖精達の間に広がる無駄に広いネットワークから拾ってくる、信憑性の薄すぎるエセ情報ばかり。
 一々気にしていたら身が持たないことだろうと、咲夜はとうに知っていた。紅魔館で働いている以上、そんなよくわからない情報は山ほど耳に入るのだから。

「魔理沙」
「ぁ……咲夜」

 休憩時間に入って一休み、というところの魔理沙にそっと声をかける。仕方がないと、そう自分に言い聞かせながらもその瞳は心配そうに揺れていた。
 今一素直になりきれないのだろう。そんな咲夜を、マリエルは生温かい表情で眺めている。古参の妖精メイド達は、咲夜はだいたいこんな扱いなのだが、咲夜はそれに敢えて気がつかないことにした。一々付き合っていたら、身が持たないのだ。

「どうしたの? らしくないわよ」
「え、あ、ええっと、あはは」

 下手な誤魔化し方に、隠す必要が無いほどあからさまに落ち込んで、悩んでいたのに、何故今更誤魔化すのかと苛立ちを覚える。

「話を聞いて、答えるくらいはしてあげる。だから――」
「咲夜、えと、でも」

 戸惑う魔理沙に、覚悟を決める。あくまでも上司として部下を気に掛けているだけだと、何度も何度も自分に言い聞かせて、それでも目を逸らしながら告げた。

「――あ、憧れたんなら、信用なさい」

 答えは無い。怪訝に思い恐る恐る視線を戻すと、そこには驚きから目を瞠り、けれど嬉しそうに頬を緩ませて頬を朱に染める魔理沙の姿があって、咲夜は後悔し始めていた。
 一言で言うのなら、恥ずかしい、だ。

「うんっ。ありがとう、その、咲夜」
「礼を言うなら問題を解決してからにしなさいよ、もう」
「おう!」

 マリエルに許可を貰い厨房から出て向き合うと、魔理沙はぽつぽつと話し出した。魔法が使えるようになりたいと図書館へ行ったこと。粗相をしてしまい追い出されたこと。それから、何度訊ねに行っても追い返されること。
 頑張ろうと決めた。頑張るのが当たり前だった。頑張りたかった。けれど、門前払いではそれは叶わない。頑張る機会すら、ないのだから。
 そう語り目を伏せ俯く魔理沙に、咲夜同じように――いや、少し違う様子で肩を落とした。どこか、“仕方がないな”と、そんな風に言いたげに。

「いい、魔理沙。“将を射んとせばまず馬を射よ”よ」
「は? えーと……大将を落とすには、まずは馬を攻撃しろってことだよ、な?」
「そうよ。パチュリー様にとっての馬とは即ち、小悪魔。彼女を懐柔するの」

 真剣な顔で、人差し指をぴんと伸ばし告げる咲夜。魔理沙は既にマリエルとアリエッタ、それから咲夜――認めようとしないが――を懐柔した手腕を持つ。
 だからこその、提案であった。

「懐柔、懐柔か……うん、わかった。私、やってみるよ!」
「ええ、その意気よ。まったく――――俯いてるのなんか、らしくないんだから」

 魔理沙に聞こえないように小声で、咲夜は小さく付け加えた。らしくないなんて、普段から見ているみたいじゃないかと、自分から零れた“小声”に赤面しながら。だが。

「ぁ、ううう、うん、その、ありがとう。らしくない、か。えへへ」
「なっ、き、聞いて、じゃなくて、今のはそのあのあわわわわ」
「ありがとな、咲夜。行ってくる!」
「ちょちょちょ、ちょっああっ、もう……」

 どうやら、しっかり聞こえていたようだ。咲夜がそれを認識した頃には、時すでに遅く。頬を朱に染めた魔理沙は、逃げるように駆けだしていた。
 よほど恥ずかしかったのだろうが、それは咲夜も同じだ。魔理沙を見送る、というよりも縋るように両手を伸ばした姿のまま、真っ赤な顔で固まっている。



 その後、マリエルが恐る恐る声をかけるまで、油の差し忘れたブリキ人形のように動きを止めていた咲夜であった。



















――第二章:3-2/お伽噺の小さな少女――



 目的と、意思と、憧れの人からの言葉を胸に、やる気は十分。図書館の大きな扉の前に立つ小悪魔を見て、魔理沙は己の両頬をぱちんと叩いた。
 冷え切った掌が上気した頬を適度に冷まし、目が覚める。馬は目の前、これから自分は一筋の矢と化すのだ。
 ……などと考えても、実のところ魔理沙はどうやって“懐柔”すればいいかなんて、全くわかっていなかった。

「だったら」

 だったら、と一歩踏み出す。そうすると、小悪魔が魔理沙の姿を見つけて肩を落とした。またか、なんて胸中を整った顔にありありと浮かべて。
 だったら、どうすればいいか。簡単だ、とはいえない。けれどもこれ以外に……自分の“意思を直接ぶつける”以外に、出来そうなことなんかなかったのだ。

「またいらしたんですか?」
「ああ、こんなところで諦める私は、その――“らしくない”みたいだからな」

 冷えた頬にもう一度熱を集め、胸を張って見せる魔理沙。そんな魔理沙に、小悪魔は怪訝そうな表情を浮かべた。
 大きく深呼吸をして、自分を落ち着かせる。見上げた世界は何時も、自分よりもずっとずっと大きくて、魔理沙は心の何処かで気後れしていた。
 憧れた世界を目の前にして、飛び出すことに対して尻込みしていたのかも知れないと、そう苦笑し、やがて力強い瞳を小悪魔に向けた。







 そんな魔理沙を前に、小悪魔はため息を吐く。何をどう決意したのか知らないが、こんな短期間で何かが変わるはずもない、と。

「小悪魔」

 けれど、仮初めの呼び名を告げられ、小悪魔は目を瞠る。肩を落としてすごすごと引いていた臆病な少女の面影は、そこにはない。
 古来より意思と勇気を持って“邪悪なもの”を払ってきた、勇者。なんの才も持たず、ただ希望だけで立ち向かってきたものたちの瞳が、魔理沙のそれに重なった。

「聞いて欲しいことが、あるんだ」
「聞いて欲しい? 私に、ですか?」
「そうだ。私がなんで魔法が欲しいのか、小悪魔に聞いて欲しい」
「はぁ、まぁ、聞くだけなら構いませんよ」

 将来は、大した“ひとたらし”になるだろう。小悪魔はそんな感想を、興味を持ち始めたという事実を、呆れたような仮面の下に隠す。
 いったい、どんなことを語ってくれるのか。どんな“綺麗事”で自分を懐柔してみせるのか、小悪魔は内心楽しみにしながら魔理沙の言葉を待った。

「私には、どうしても欲しいものがあるんだ」
「は?」

 けれど、聞こえてきたのは、随分と即物的で俗っぽい、おおよそ“勇者”とは言い難いものだった。見返りを求めるのなら、それは勇者ではない。
 荒々しく道を拓き、先導者足る“英雄”だ。

「私は、光が欲しいんだ」

 そんな小悪魔の様子に気がつかないまま、魔理沙は続ける。

「どんな壁だって、どんな絶望だって、自分の力で切り抜けられるだけの力。未来を照らす“光”が、さ」
「古来より、力を求めるだけの者に碌な結末はありませんよ?」
「それだけじゃないさ」
「ほう?」

 小悪魔は既に、魔理沙に対して失望していた。けれど、勝手に期待したのは小悪魔の方だ。だから彼女は、とりあえず最後までは聞こうと、やる気なさげに続きを促す。

 だからこそ――

「自分の手で、星を掴めるんだ。そういうのってすっごく――綺麗で、素敵だから」

 ――それは、不意打ちだった。

 先程までの、力強くぎらつく瞳ではない。頬を染め、花開いたように可憐に微笑む。そこから紡がれた言葉はなんとも綺麗で、可愛らしい。
 最初の言葉も本気だったのだろう。だがだからこそ、最後の言葉が威力を増す。この少女は、この人間は、勇者なんかではない。

「あはっ」

 小悪魔は、思わず笑ってしまう。笑わずにはいられなかった。
 “すごく綺麗で素敵なこと”がしたいから、それを阻む壁を取り除きたい。勇ましい半面、なんとも可愛らしい理由だ。
 にやける口元を隠しもせずに、小悪魔は笑う。腹に手を当てて肩を震わせて、けれど一応声は押し殺し。

「なんだよ」

 だが、頬を膨らませて拗ねる魔理沙を見て、最後の抵抗すら脆く崩れ去った。なるほど、この少女は勇者ではない。勇者でなければ、英雄でもない。

「あはっ、あははははははっ、結局、そんな可愛らしい理由なんですか? あはははっ」
「な、なんだよ、そんなに笑うこと無いだろ!」
「ふふ、あははははっ、ふふ、ふぅ」

 顔を赤くして怒る魔理沙を見ながら、小悪魔は思う。この子は、この少女は、霧雨魔理沙は勇者や英雄ではなく――おとぎ話の“まほうつかい”だ、と。

「まぁ、いいでしょう」
「え?」

 ならば、ここを通さない手はない。この子が“まほうつかい”ならば、己の主は“わるいまじょ”だ。
 一つのおとぎ話で邂逅することなんか滅多にない、ふたりの魔女。彼女たちが出会ったら、彼女たちが“わかり合ったら”どうなってしまうのか、小悪魔はどうしても見たくなってしまった。

「今回は、私の負けです。ふふ、笑わせてくれたお礼に、図書館へ案内して差し上げましょう」

 怒っていたはずの魔理沙の顔が、ぱっと明るくなる。勇ましかった表情はどこへやら。もうすでに、小悪魔はそんな魔理沙から目が離せなくなっていた。

「図書館のルールは、わかりますね?」
「静かに、走らず、食べられないで、邪魔しない。最後は破るかも」
「大人しく破って下さい。そうしたら、ふふっ、少しは庇ってあげますから」
「小悪魔……わかった。ありがとう」

 そうはにかむ魔理沙の前で、小悪魔は扉を押し開ける。その先で変わらぬ日々を送っているパチュリーの元へ、魔理沙を導く為に。



















――第二章:3-3/わるいまじょとまほうつかい――



 知識と日陰の魔女。そんな通称のとおり、彼女は暗い図書館で知識を求め続けるという魔女だ。パチュリーはそんな自分を、今の生活を気に入っていた。
 静謐で静寂な空間。これこそが魔女のテリトリーであるべきなのだと、パチュリーは自身で理解しそれを許容していたのだ。だからこそ、図書館に侵入する“異物”には、眉を顰めざるを得ない。

「どういうつもりかしら? 小悪魔」
「申し訳ありません、パチュリー様。懐柔されてしまいました」

 悪気なくそう告げる小悪魔。事実、彼女は悪びれるつもりなんかこれっぽっちもないのだろう。楽しそうな顔に、パチュリーはあえて大きなため息を吐く。
 どうせダメージになんかなりはしないのだろうが、嫌みの一つでも態度で示したくなるのも仕方がない。

「頼む。私に魔法を教えて下さい」

 声を荒げないように、パチュリーの邪魔をしないように、静かに告げる。けれどパチュリーはそんな魔理沙を無視して、引き続き読書をしていた。
 構う気がない。一度頼んでどうにかなるのだったら、図書館から締め出されたりはしなかったことだろう。そんなことはわかりきったことだから、魔理沙もあえて自重したりはしないのか、歩み出た。

「魔法を教えて下さい。パチュリーの魔法が、私は、知りたい」

 どんなに無視されても、引く気はない。パチュリーの視界のぎりぎりを、猫のように動き回って頼み込む。足音の一つも立てないように気をつけてはいるが、どうしても気になってしまう動き。
 パチュリーはそんな魔理沙に、徐々に、苛立ちを募らせていった。ハッキリと言ってしまえば、非常に“うざい”のだ。

「指南書でも良いから、頼む、パチュリー」
「…………」
「頼む、ええと、頼みます、パチュリーさま」
「………………」
「うーん、ご主人様? 図書館だし、違うか。お願いします、御館様」
「……………………」
「なぁなぁいいだろー、ええと、ぱちぇ?」
「………………………………そろそろ、鬱陶しいわね」

 懇願する魔理沙に、パチュリーは人差し指を向ける。そこに宿る色は、赤。燦々と輝く烈火が、熱風を宿しながら魔理沙に向かって放たれた。
 指先から離れてしまえば、あとは何も手を出さないで良い。真っ直ぐとつき進む紅蓮の炎は、万物関係なく焼き払うことだろう。

 そして、その圧倒的な暴力は魔理沙を――

――ドンッ!
「うわぁっ?!」

 ――焼き払うことは、無かった。

 真っ直ぐとつき進み、その軌道のまま魔理沙を逸れた魔法。人間ひとりなら簡単に焼き尽くすはずだった火を避けさせたのは誰か。
 そんなことは、考えるまでもなく、わかりきったことであった。パチュリーはそう、魔理沙の後方に控える小悪魔を睨み付ける。

「なんのつもり? 小悪魔。貴女今、私の“意識”をずらしたわね」

 小悪魔という固有の妖怪の能力ではなく、悪魔という種族ならばほとんどのものが宿している能力。人間を、甘言を用いて誘い込むという種族柄、彼女たちは例外なく“他者の意識を誘導する”力を持っていた。
 それによってパチュリーの“命を奪う攻撃魔法”は、“命を奪う可能性を秘めた脅迫魔法”へと成り下がったのだ。ずれた意識で、魔法を当てることは難しい。

「主人に逆らうつもりかしら? 答えなさい、小悪魔」
「ま、待ってくれ、小悪魔は」
「貴女は黙りなさい。今度こそ燃やすわよ」
「うぐ」

 溢れ出る魔力で、パチュリーの周囲の空間がぐにゃりと歪む。自身が召喚した使い魔の実力ぐらいわかっている……だからこそパチュリーは、手を抜かない。
 一触即発の空気の中、小悪魔が口を開く。しかしそこに気負いはなく、むしろ、苦笑いで肩を竦めるに止まっているようだった。

「あの子が死んだら、咲夜ちゃん泣いちゃいますよ?」

 小悪魔が告げたのは、そんな言葉だった。あまりにものんびりとした様子に毒気が抜かれたのか、パチュリーは身に纏う空気を霧散させた。

「それが?」
「そんなことになったら、流石のお嬢様も泣いてしまわれるかも」
「あれが、私を困らせる為以外の理由で泣くタマなはずが――ああ、そうね」

 小悪魔の言うことに、漸く合点がいく。魔理沙を庇ったのには間違いはないが、けれど、それがパチュリーの不利益にならないからこそ庇ったのだ。
 何故なら彼女の親友、レミリア・スカーレットという性悪な吸血鬼は、パチュリーを困らせる為だけに泣いてしまう可能性があるのだから。
 そうされると、演技だとわかっていても慌ててしまうパチュリーが、見たいがために。

「はぁ、新入りメイド」
「お、おう」
「これをあげるから、勝手になさい」

 パチュリーが指を鳴らすと、本棚の一角から本が飛び出してくる。パチュリーはそのタイトルを一瞥すると、それを魔理沙に渡す。
 微かだが、魔力を感じる。古びた革表紙の本を両手で抱きかかえると、魔理沙はぽかんとした表情でパチュリーを見上げた。

「その本の魔法が習得できたら、見てあげる」
「本当かっ?」
「嘘だと思うのなら、私はそれでも構わないわよ」
「そ、そんなことない。えと、ありがとうございますっ」

 弾む声を押し隠しながら、魔理沙は本棚の奥へと消えていく。適当に広い場所でも見つけて、そこで練習をするつもりなのだろう。なんにせよこれで漸く静かになった。
 そう背、もたれに体重を預けて息を吐くパチュリーに、声がかけられる。

「パチュリー様、あれ、基礎が出来てないとどうにもならないタイプの本ですよね」
「これで当分静かになるわ。まったく理解できそうにないのじゃないんだから、いいじゃない」

 その方が、ずっと厄介だ。そう言い出したくなる気持ちを、小悪魔は呑み込む。頑張れば理解できるような気がする、けれど気がするだけで終わってしまう可能性のある本。
 こんなんじゃわからないと投げ出すことが出来ないギリギリの教材を渡す辺り、パチュリーもレミリアのことを言えない程に性悪だった。

「さっさと仕事に戻りなさい、小悪魔」
「はいはい。でもこの量の本の目録作りなんてそうそう終わらないんですから、のんびりでも良いと思いますがねぇ」
「余計な口を叩かないの」
「はいはい、了解しましたよ。パチュリー様」

 小悪魔が立ち去ると、再び静謐な空気がパチュリーの周囲に満ちる。彼女の思惑どおり、なにもかも順調に進んだ。
 パチュリーはそのことに皮肉げな笑みを浮かべながら、のんびりと読書を再開させた。



















――第二章:3-4/かつての残り香――



 誰にも邪魔されることのない時間が戻ってきて、もう一週間になる。
 パチュリーは小悪魔が淹れた紅茶で唇を濡らすと、ふと、久々に眺めていた初級の魔法指南書を見て小さな人間の事を思い出した。
 いつの間にか己の使い魔を懐柔していたあの人間は、そういえばどうしたのか。どこかでのたれ死ぬなり咲夜の成長のコマとして大いに役だったりしたら、レミリアが――いずれにしても――嬉々として教えに来ることだろう。
 それが、なにもないということが、どうにも不気味であった。

「面倒ね」

 一言そう零すと、それきり興味を無くし、パチュリーは読書に戻ろうと視線を落とす。

 ちょうど、その時だった――

――…キィ…――――……ィィィ…――ン……ッ

 ――図書館の奥から、微かな魔力を感じたのは。

 パチュリーはいくらか逡巡を見せた後、初級指南書をぱたんと閉じて浮き上がる。歩いて移動するのが面倒な彼女は、こうして魔法で風を操り、それに乗って移動していた。

「こっちからだったような……あれは」

 図書館の奥へ進み、やがて空中で音もなく静止する。高い本棚の間、そこで、床に座り込む少女の姿があった。
 魔法の本を何度も何度も読み返しながら、羊皮紙に筆で術式を書き込んでいく。傍目から見ただけでもわかる、てんで的外れな理論。理解が追いついていない証拠だ。
 あれで魔法が成功するはずがない。ならば、先程感じた力は何だったのか。そこまで考えて、パチュリーはため息を吐いた。

「勝手に羊皮紙なんかあげて。小悪魔ね」

 小悪魔がなんらかの魔法を使ったのだろう。簡単なものだったら、彼女にも使える。魔理沙の居場所を魔法で探知し、羊皮紙と筆を渡した。そう考えると辻褄が合う。
 とりあえず納得すると、パチュリーは風に乗って身体の向きを変えた。まったくの無駄骨だった以上、小悪魔を叱りつけるくらいの八つ当たりは許されることだろう。許されなくてもやるが。だが。

「うわっ……」
――リィ……ン
「っ、つつ、たぁ」

 また、感じた。
 パチュリーは今度こそその光景を捉えようと、魔理沙を見る。熱中している魔理沙は、パチュリーに気がつかない。ただ、指先から血を流し、顔を顰めて魔法を使おうとしていた。

「えーと、さっきはここで失敗したから……こう、か?」
――リリ、インッ
「あづっ」

 魔理沙の指先から光が零れる。それは絵本に出てくるような、抽象的な星。ただ綺麗なだけのそれは、制御もままならず、魔理沙の指先で破裂した。
 失敗する度に怪我を負っているのか、羊皮紙に血が垂れ、一部乾いて黒ずんでいた。どれほど身体を傷つけたのだろうか。

「私には、関係ない」

 拙い魔法を成功させたから、何だと言うのだ。パチュリーはその光景から半ば無理矢理目を逸らして、今度こそ立ち去る。
 本棚の間を潜り、定位置と化した椅子に腰掛け、冷めきった紅茶で喉を潤す。それだけで、普段なら落ち着けるはずなのに。

「らしくないですよ、パチュリー様」

 気がつけば、パチュリーの直ぐ隣には小悪魔が立っていた。新しい紅茶を淹れてくれたのか、温かな湯気がカップから立ち昇っている。
 パチュリーは紅茶で唇を濡らすと、若干の苛立ちを込めて小悪魔を見た。なにか、聞き捨てならないことを言ったから。

「私の何処がらしくないというのか、答えてみなさい」
「おや、よろしいのですか? それでは、僭越ながら」

 僭越だなんて欠片も思っていないだろう。そう口出ししたくなるのを、パチュリーはぐっと抑え込んだ。そんなことを言い出したらまた、話が進まなくなる。
 そうやって口を噤むパチュリーのことが面白いのか、小悪魔はパチュリーに隠そうともせずに、小さく笑みを零す。

「普段のパチュリー様は、気になった事への探求心は誰にも負けず、気がつけば暴風のように周囲の有象無象にメイドに使い魔に門番にお嬢様に、と関係なくなぎ倒し、喘息貧血何のその、三面六臂、いえ、八面六臂の大騒動を起こされます」

 早口でまくし立てられ目を丸くし、次いで言葉の意味を理解して顔を引きつらせる。あながち間違いではないとはいえ、その言い方は何だと苛立ちが明確な怒りへと変換されていた。
 けれどそれでも、小悪魔の言葉は終わらない。

「だというのに先程のパチュリー様はらしくありません。ええ、まったくらしくありません。欠片でも興味を持ったら骨の髄までしゃぶり尽くして煮て出汁を取ってスープにして雑炊まで食べるのが常だというのに、なにかと理由を付けて興味から外されようとしてしまっている。ああ、他人のことを顧みぬパチュリー様はいったいどこへ行ってしまったのか! この、不肖小悪魔、使い魔として嘆かずには居られません!」

 とにかく、消し炭にしよう。
 パチュリーは額に青筋を浮かべたまま、手元の魔導書を開いた。小悪魔に“意識”を向けさせられた、初級の指南書を持って……そうして、小悪魔の意図に気がついた。

「……いつものように、やりたいようにやれば良いのです。気になったら、そう、どこまでも」
「わかってる。……わかってるわよ、そんなこと」

 深く嘆息して、浮かした身体を戻す。小悪魔にまくし立てられて認めたというのは、なんとも気に入らない。けれど、そのはずなのに、パチュリーは苦々しくも確かに笑っていた。

「ええ、そうね。はぁ……らしくなかったわ」

 腰を上げ、魔法の風に乗って浮かび上がる。小悪魔の言ったとおり、らしくなかった。
 気になったら最後まで見ていけばいい。何故気になったのかわからないなら、それも含めて探求すればいい。たったそれだけ――ひどく、簡単なこと。

「新しい紅茶を淹れておきなさい」
「畏まりました。パチュリー様」

 その場で紅茶を飲み干すと、空いたカップを小悪魔に預ける。一人で行くから紅茶でも用意して待っていろと、そのアメジストの瞳が告げていた。
 小悪魔がそれに恭しく頭を下げるのを確認すると、パチュリーは今度こそ飛翔する。





 本棚の間を潜り抜け。図書館の奥へ奥へと進み、そう遠くない場所で停止した。床に座り込んで魔法を練習する魔理沙を、その背から覗き見るように。

「い、つつ、ほっと」
――リィン、リィ、イン

 相変わらず、安定しない魔法。応用の魔導書からそこまで引き出すのは大したものだが、パチュリーが幼少の頃はもっと上手くこなしていた。
 むしろ魔理沙のように苦労することを覚えたのは、上級魔法に手を出したときのことだ。それまでは、躓いたことなんか無かった。だから、諦めようともしなかった。

「あー、だめか。でも、まだまだ!」
『っ、これでもダメなのね。でも、まだ』

 その幼い背に、パチュリーは薄ぼやけた姿が重なる様子を幻視する。帽子を傍らに置いて、紫色の髪を頭の後ろで適当に纏めて、座り込みながら魔法を練習する少女の姿を。

「お、できた……うわっ」
『ん、良い調子……きゃっ』

 閃光、爆発、やり直し。

「っと、お、おぉ?」
『っ、あ……あ、れ?』

 上手く安定せず、霧散。ふと、パチュリーは笑みを零す。

「っし……あいだ?!」
『よしっ……ひゃっ?!』

 安定してきたと思ったら、また爆発。顔が煤だらけになり、黒い煙をけほっと吐き出した。

「はぁ……いや、諦めないぜ」
『ふん……なによ、諦めないわよ』

 また、齧り付くように本を見る。何度も何度も何度も、試して試して失敗して、成功して。まるで過去の焼き回しを見ているような光景に、パチュリーは知らず頬を緩ませる。
 何故、そんなにも魔理沙のことが気になったのか。それをパチュリーは、この光景に見い出した。それはひどく単純なことだ。パチュリーは魔理沙に、過去の自分を重ねていた――ただ、それだけのこと。

「ああもう、見ていられないわ」

 気がつけば、パチュリーは魔理沙の前に躍り出ていた。突然現れたパチュリーに、魔理沙はぽかんと口を開けて呆然とする。

「私の魔導書を用いるのなら、それに恥じぬことをなさい」
「え?」
「そんなんじゃ、貴女の師事を、書を以て受け入れた私の名が廃るわ」
「あ、それって、え?」
「来なさい。吸血鬼の館、魔女の倉で深淵を覗く覚悟があるのなら、ね」

 戸惑う魔理沙に、矢継ぎ早に告げるパチュリー。胸を張って、堂々と。その姿は自信に満ちあふれていて――唖然と固まる魔理沙の心を、動かした。
 差し出された手を左手で掴み、右手には魔導書を抱え、拙い足取りで立ち上がる。期待と好奇心に満ちあふれた表情は、徐々に、笑顔へと変化していく。

「ぁ……ああ! 覚悟なら、もちろんあるぜ!」
「ふん。その覚悟、早々に折れないようにするのね。精々頑張ってついてきなさい」
「望むところだ!」

 パチュリーに手を引かれ、図書館の中央へ向かう魔理沙。喜びと期待ではにかむ魔理沙は、パチュリーの表情に気がつけない。
 魔理沙と似たような顔で、しかしもっと柔らかく微笑むパチュリーの表情に、ついぞ気がつくことはなかった。



















――第二章:4/誰かの為に、魔法は鳴る――



 ここ最近、魔理沙の生活に新しい要素が加わった。
 朝方から厨房へ、皿洗いに仕込みに後片付け。その後は、洗濯清掃と家事をこなし、ひと休み。夕方までこれを繰り返したら、休憩時間――ではなくて。

「本棚に並んでる本の背に、番号が書いてありますよね」
「ああ、これか?」
「そうです。それと目録を照らし合わせて、並びが正しいか確認して下さい」
「わかった。間違ってたらどうすればいい?」
「危険な本も含まれているので、私に確認して下さい。私が捕まらなくても、触れちゃダメですよ」
「あー、“食べられない”のルール、だよな?」
「ええ、そうです」

 紅魔館地下の大図書館。そこに篭もり、魔法のお勉強――でもなくて。
 魔理沙が図書館に来てまず最初に行うことは、小悪魔と一緒に司書仕事だ。覚えると、図書館の活用にも役立てる事が出来る。
 ……なんて、小悪魔に唆されて。
 いつの間にか、パチュリーに会いに行く前は必ず小悪魔と仕事をするようになっていた。悪魔相手に意識を逸らすなんて、無駄なのだ。

 すっかり日常と成った司書仕事。そして毎回変わらないその終わりもまた、日常だった。

「何をしているのかしら?」

 眉をつり上げて仏頂面で仁王立ちする魔女、パチュリー・ノーレッジ。彼女は魔理沙……ではなく小悪魔を睨み付けていた。まだ見習い魔法使いの魔理沙に、悪魔の意識操作を逃れることなんてできっこないと、わかっているから。
 だから当然、怒りの矛先は小悪魔だ。ちょっと魔力を乗せて睨んでいるのに、肩を竦めて過剰に怖がって魔理沙の後ろに隠れてしまう悪魔に怒らずにはいられない。

「魔理沙さん、ほら、悪い魔女ですよ」
「悪さで言ったら貴女が上よ。種族的な意味で」
「何を言っているのですか。私はしがない“小”悪党ですよ」
「あ、あはは、お、落ちつけって」

 引きつった笑みで魔理沙が仲裁に入るところまで、丸々何時もどおり。小悪魔はそれに素直に従って、パチュリーはそんな小悪魔を見て青筋を浮かべた。
 そんなに怒ってばかりいると身体に悪そうなものだが、どんなに血圧が高くなっても元が貧血なせいで健康にしかならない。

「ッ……ほら、行くわよ! 魔理沙」
「おや、せっかちな女は引かれますよ? パチュリー様」
「ああ?」
「おお、こわいこわい。それでは、行ってらっしゃいませ」
「どうして貴女は最初から素直に出来ないのよ、もう」

 小悪魔に悪態を吐きながら、パチュリーは魔理沙の手を引っ張っていく。握られた手は、力強く、離れまいと縋らなくとも、引っ張ってくれる。
 覗いた耳は赤くて、靡く髪の間から見える頬は朱くて、魔理沙はぎゅっと手を握り返すと嬉しそうにはにかんだ。

「今日もありがとう、またな! 小悪魔!」
「ええ、また」

 半身だけ振り返り手を振ると、小悪魔は優しげな微笑みと共にそれを返す。それから魔理沙は小走りになり、飛べない自分の為に歩いて移動してくれるパチュリーに並び立った。
 そして、パチュリーの顔を覗き込み、もう一度、笑う。

「今日もよろしくお願いします――――“先生”」

 パチュリーはそれに鼻を鳴らすと、少しだけ歩調を緩めて、それからまた赤くなりながらもしっかりと頷いた。



















――第三章:1/すれ違いと問題点――



 足には歩きやすいブーツ、白い手袋を嵌めて、背には大きな籠が一つ。燦々と輝く太陽光を全身に浴び、魔理沙はぱんっと己の頬を叩いた。
 気合いもやる気も十分備えて真っ直ぐと睨み付けるのは、不思議なキノコと特殊な山菜が群生するという魔法の森だ。最初に襲われた記憶が新しいせいか、この森は魔理沙にとって、越えるべき“壁”だったのだ。

 そんな彼女の気の入り様を見て、苦笑する二つの影。紅魔館の門前で、マリエルと咲夜は佇んでいた。

「今日はよろしくね、マリエル」
「いや、いいよ。山菜採りならまだしも、魔法の森のキノコの採取に限っては、あたし自身が見て採りたいからね。まぁ、この間は任せちゃったけどな」
「あの時は仕方がないわ。お嬢様の機嫌を繋いでいてくれただけで、十分よ」

 魔理沙と似たような格好をしているマリエルに対して、咲夜は普段と変わらない服装だ。
 それも、そのはず。これから森に行くのは、マリエルと魔理沙の二人だけなのだから。

「料理長、準備できた!」
「聞いたよ、魔理沙。はぁ、ちょっと待て」
「うんっ」

 何がそんなに楽しみなのか、そう考えれば答えは直ぐに出てくる。認められて仕事が増えたのなら、それは確かに嬉しいことだろう。

 そう、これは新しい仕事なのだ。と言っても、一度行ったら当分行かなくて良い、などという仕事なのだが。







 切っ掛けは、アリエッタの一言だった。

『大体、仕事覚えてきたんでしょ? だったら、もう少し任せてもいーよ』

 炊事洗濯家事一般に、司書仕事に魔法。その全てがまだまだ半人前、見習いも良い所だ。けれど、慣れてきたというのは確かな事実だ。だからこそ、アリエッタは“息抜き”を提案した。
 メイド長代理とは、ようはメイドたちの統括役だ。面倒くさがり屋な彼女がその位置に付けたのは、怠惰に仕事をこなすのではなく、要領よく気遣いができるからだろう。
 その上で出世欲がないものだから、この“代理”という立場は、アリエッタにとっても都合の良い立ち位置だった。
 と、そんな理由で、魔理沙に新しい仕事が与えられた。それが、マリエルと共に行う“魔法の森のキノコ採り”であった。







 その時の魔理沙の喜びようを思い出して、咲夜はため息を吐く。
 本当なら、咲夜も一緒に行きたかった――何をしでかすか気が気でないと、己に言い聞かせて――のだが、流石にそれは通らなかった。

「ま、なにかあってもあたしが何とかする。だから、心配するな」
「……心配なんかしてないわ。でも、そうね、ありがとう」
「はっはっはっ、素直じゃないねぇ」
「マ、マリエル料理長っ」
「くっくっくっ」

 からかわれて顔を赤くする咲夜を見て、マリエルは腹を抱える。咲夜に仕事を教えたことがある妖精や妖怪は、必ずこうして咲夜をからかうのだ。
 いずれ魔理沙が仕事を完璧にこなすようになったら、同じようにして彼女をからかおう。そう、心に決める咲夜だった。悪循環である。

「それじゃあ、後は頼んだぞ、咲夜」
「はいはい。気をつけて行ってらっしゃいな」
「おぅ」

 ひらひらと手を振り、魔理沙と並んで森へ入っていくマリエル。そんな彼女に咲夜は、何時もよりも強めに手を振り返すのであった。







 咲夜と別れて直ぐ、一度だけ振り返った魔理沙は、怪訝そうに首を傾げる。他の妖精メイドたちとの雑談の間、話に聞いていた光景と、ほんの僅かに違うのだ。

「なぁ、料理長」
「うん? なんだ?」

 森の入り口で、魔理沙はマリエルに声をかける。

「門番が居るって、聞いた事があるんだけど……」
「ああ、美鈴隊長か。紅美鈴、門番長」

 初めて聞く名前と、役職。門番長という言葉に、魔理沙は首を傾げる。そんな魔理沙に苦笑すると、マリエルは唇に人差し指を当てて考える仕草をした。
 そういえば、今日は、門の前に立っていない。普段なら“根を張っている”とまで言われているのに。
 と、そこまで考えて要因に思い至り、マリエルはぽんと手を打った。

「ああ、そうだ。この時間は、花壇の手入れをしているんだよ」
「花壇? あの庭の、すんごい花畑?」
「そう。その“すんごい花畑”だ」

 紅魔館の庭には、立派な花畑がある。季節の花を中心に、七色に彩られた花畑。赤一色の紅魔館の観景を損なわせず、かつ、際だててさえいるのだ。
 そんな花畑を作り上げた妖怪と聞いて、魔理沙はパチュリーたちが使うものとは全く違う、一種の“魔法”のようにさえ思えて、興味を抱き始めた。

「庭師ってやつだよな?」
「そうだ。門番兼庭園の管理人。武術の達人で、鉄壁の守護者なんだぞ」
「おぉー」

 活き活きと語るマリエルの声色に、魔理沙は彼女と似たような様子で何度も頷いた。魔法使いの“先生”と、特殊能力持ちの万能メイド。それに加えて館の主は規格外な妖怪となれば、毛色の違う武術家に興味を抱くのも無理はない。
 まだ見ぬ門番がどのような性格で、どのような顔立ちで、どのような力を揮うのか、魔理沙は胸をときめかせていた。

「まぁ帰る頃には居るだろうから、挨拶しときな」
「わかった!」

 魔理沙の興奮の仕方に、マリエルは少し嬉しくなる。妖怪も妖精も人間にも変わらず柔和に接する“ひとの良い”妖怪。
 彼女の人格に惹かれるのはいつも、マリエルのように戦闘能力に特化したメイドたちだったのだから。

「と、そろそろだ。この周辺にオレンジ色のキノコがある。見つけたら、手は触れずに場所を覚えて、報告だ」
「採らなくても良いのか?」
「未熟なのだったら、次の機会に回した方が良いからな。あたし自身も物色したいし」
「わかった」
「あんまり、あたしから離れるなよ」
「了解! 料理長!」

 足取りは軽やかに、小走りで森の奥へ走っていく魔理沙。あんまり離れるなと言ったのに、と考えつつも、苦笑する。わざわざ妖怪の縄張りから離れた場所を選んだのだ。よほど運が悪くない限り、余計な危険に遭遇することもないだろう。

「それにしても」

 そう、マリエルは呟き、顎に手を当てて首を捻る。

「美鈴隊長が、誰かの見送りの時に門にいないのも……変、かな」

 門前に根を張っているようだ。
 そう思われる所以が、彼女の能力の使い方にある。人妖の気配や力を読み取り、誰かが出入りするときには必ず門の前に立っているのだ。
 だからこそ感じた、小さな違和感。美鈴は門の前に立たず、いったい何をしていたのか。
 マリエルはそんな疑問を、とりあえず保留にしておくことにした。今ここで悩む暇があるのだったら、キノコ採りを再開しよう、と。







 丸木の芯に巻き付けてあった羊皮紙のスクロールを、魔理沙はくるりと回す。浮かしたままの羊皮紙を器用に扱うと、魔理沙はキノコの場所を記録していった。

「うーん、これで、八っと」

 さらさらと筆で書き、羊皮紙を丸める。一端帰還してマリエルに伝えておいた方が良いだろうと、魔理沙は踵を返そうとして……立ち止まった。

――……

 森が、静まる。耳を打つ静寂、肌を震わす気配、膝が震える感覚に、魔理沙は身体を強ばらせた。確実に、周囲に何かがいるというのは理解できる。
 だが、それがどこから来るだとか何時来るだとか、細かいことは何もわからなかった。

「なんだ」

 魔理沙は羊皮紙をしまい込み、籠を地面に置く。それから気の抜けたような笑みを浮かべて、肩をぐるりと回しながら息を吐いた。

「私の、気のせいだったか――」
『ガウッ!!』
「――というとでも思ったか!」

 茂みから、魔理沙の無防備な背をめがけて飛びかかってくる、黒い影。血色に光る瞳は、四対八個。奇妙な狼の様な妖怪の攻撃を、魔理沙は横に転がることでなんとか避けて見せた。
 知能の高い相手では、避けることは出来なかったことだろう。けれど魔理沙は、相手の知能が低くて良かったとは思えない。会話で隙を誘うことすら出来ないのだから。

「なら、先手必勝!」

 エプロンドレスの下から、魔理沙は素早く試験管を取り出す。七曜の魔女、パチュリー・ノーレッジより練習用にと借り受けた魔法。
 魔理沙が魔法として制御できるギリギリの精霊が、彼女の魔力を持って自然現象を人為的に発現させる。

「“サラマンドラの火線”!」

 試験管が空中で爆ぜ、小さな槍を構えた火蜥蜴が虚空へ消える。瞬間、真紅の火矢が出現して、狼の妖怪に飛びかかった。
 誘導はしない代わりに、速度はピカイチ。狼は後ろに飛びながら素早く回避行動を取るも、その前足を掠めて傷つけられてしまった。

「これ、借りるの大変なんだから仕留められておけ! “ドリュアドの足枷”!」

 火の精霊に続いて、植物の精霊の力。大地の上で弾けた試験管から小さな人影が揺らぎ、それが消えると同時に大地が隆起する。
 太い植物の蔦が四方から出現すると、それは狼を捕らえようと殺到した。これで捕まえてしまえば、あとはストックの火蜥蜴を打ち込んで勝利となることだろう。

 その勝利の青写真が、魔理沙に隙を呼び込んだ。

 狼は地面に着地すると同時に、超高速で飛び出した。ただの狼ならあれで終わっていたかも知れないが、相手は妖怪だ。
 爆発的な加速で蔦から逃れると、それだけでは飽きたらず、狼は勢いのまま魔理沙に飛びかかった。

「っ……ぁ」

 焦りの余り、試験管を手から落とす。無残に転がった試験管を拾う暇は無い。狼は動物のそれとは比べものにも成らないほどに大きく口を開くと、呆然と目を見開く魔理沙を一呑みにしようと、その牙を――



「【爆ぜろ】」
――ズガンッ
『ギャンッ?!』



 ――突き立てることは、できなかった。魔理沙と狼の間に割って入った小石が、指向性を持って爆発した。
 魔理沙に衝撃波すら感じさせることなく狼の口を焼いた、爆発。その正体を確かめようとする間もなく、魔理沙の前に山吹色の髪が大きく揺れる。

「人様の身内に手ェ出したこと、後悔しろッ!!」

 マリエルはそう叫ぶと、周囲の小石を拾い上げて投げる。それは怯んだ狼の身体にぶつかる寸前で爆発し、黒い体躯を吹き飛ばした。
 狼が体勢を立て直して次の攻撃に備えようとした、その時。狼の正面にまで躍り出ていたマリエルは、缶蹴りのフォームで狼を蹴り飛ばす。
 触れた“物”を爆発させる能力。生き物はその範疇ではないが、小石を爆発させた時に彼に付着した砂は彼女の能力の支配下に置ける。靴を通して足先に“触れた”それが、狼の顔全体を包み込むように、大爆発を起こした。

――ド、ォォンッ
『ギャゥッ』

 それきり沈黙し、狼は動かなくなった。

「怪我は無いか?」
「あ、ああ、うん。ありがとう料理長」
「いや、いい。にしても、縄張りが広がったのか? いや、この手のヤツが群れで行動してないのも妙だしな……はぐれたのか、偶然、か」

 マリエルはそう、何やら考え出す。ぶつぶつと呟きながら首を捻るマリエルを覗き込むと、魔理沙は首を傾げた。

「料理長?」
「いや、なんでもない。とりあえず、群れはいないみたいだし、さっさと採って戻るぞ」

 マリエルにそう言われ、魔理沙は丸めた羊皮紙を取り出して、キノコの位置を示した。これなら、直ぐ終えられることだろう。そんな意味の込めて魔理沙の頭をぽんぽんと叩くと、魔理沙は嬉しそうな表情で受け入れる。
 咲夜は度々“悪魔の犬”と例えられるが、こうして喜ぶ姿を見ると、魔理沙はさながら“悪魔の子犬”といえそうだった。魔理沙は自分がそんな風に思われているとは、気がつけなかったが。

「よし! 終わらすぞ」
「おう! 料理長!」

 マリエルに、実践付きでキノコの取り方を教えて貰う。そうしながら、魔理沙もまた、先程までの事を考えていた。狼の妖怪と立ち向かい――そして、負けたことを……。



















――第三章:2/門の内の門前払い――



 魔法の授業が終わり、夜。夕飯を食べ終わった魔理沙は、自室で首を捻っていた。使用人用の質素だった部屋も、今はパチュリーから借りた魔導書で彩られている。
 おおよそ年頃の少女の部屋とは思えない、けれどなんとも努力家な彼女らしい調度品の並べられた部屋といえた。

「うーん」

 星柄模様の寝間着に着替え、ベットの上でうんうんと呻る。時折転がってみたり、魔導書に目を通してみたり、試験管の調整をしてみたり。
 色々としてみても、落ち着く様子はなかった。

「どうしたもんなかなぁー」

 悩むのは、昼間のこと。
 一進一退とはいえ、魔理沙は持ち味である思い切りの良さで狼を押していた。もう何手か繰り広げれば、勝敗も変わっていたことだろう。
 けれど、結果は敗北。自然界のルールに則って餌になることだけは、マリエルのおかげで避けることが出来た。けれど、魔理沙が負けたという事実は変わらない。

「あらかじめ、防御結界をメイド服に施しておくか? いや、無理か」

 魔力の絶対量が少ない魔理沙は、その少ない魔力を器用に扱って魔法を使う必要がある。防御結界が即発動するように施したとしても、下手をすれば防御を削られるだけで魔力が尽きてしまうのだ。
 魔力を使うときは、攻撃のみに。避けて攻める以外に、とれる手段はない。何か別の要因で魔力をブースト、ドーピングすれば良いのかも知れないが、よほど体質に合うものを探さないと自滅すると、魔理沙はパチュリーに教わっていた。

「うぅん……こうなったら、私自身がどうにか、こう、対抗できるように――」

 咲夜のようなナイフ捌きは、どうだろうか。そう考えて、魔理沙は首を振る。普段の仕事でさえまだ覚束ないところが多々あるのに、これ以上咲夜の負担を増やしたくない。
 と、ふと、魔理沙は顔を上げる。自分自身で対抗する手段。それを、身近なところで、聞いた気がして……やがて、思い至って目を見開いた。

『そうだ。門番兼庭園の管理人。武術の達人で、鉄壁の守護者なんだぞ』

 武術の達人。武術とは、弱い者が強い者に抗い、そして圧倒する為に生み出された“技術”だ。当然そこに、魔力の有無なんて関係ない。
 未だ出会った事のない、紅魔館の重鎮。鉄壁の守護者にして、吸血鬼の館の門を任された妖怪。話に聞く姿を想像して、魔理沙は強く拳を握りしめた。







 翌日、魔理沙は普段よりも二時間早く起きて、門前に向かった。空は生憎の曇り模様。この分だと、近いうちに豪雨となることだろう。天気が悪い日に何かするのは、縁起が悪い気がする。
 魔理沙はそんな風に考え出した己の弱気に喝を入れると、ぱんっと両頬を叩いて気合いを入れる。思い立ったら吉日――と、この方が遙かに魔理沙“らしい”のだ。

「えーと……ぁ」

 花壇の横を通り抜け、足を止める。門前まではまだ距離があるのだが、魔理沙は自分の視界に納めた姿に、目を奪われた。
 紅魔館の真紅の外壁に囲まれてなお目立つ、紅い髪。小悪魔のような血色の髪とはまた違う。彼女が深紅だとすれば、こちらは真紅。これほどまでに鮮やかな紅が門に在るのなら、なるほど彼女は門番に相応しい。

 門とは、館の顔なのだから。

「あれが……だよな」

 生唾を呑み込み、それからぐっと意気込む。後ろ手を組み背筋をぴんと伸ばす姿に隙は無くて、その姿勢が魔理沙の気分を益々高揚させた。
 弾む心が足取りから浮き立たないように、心を落ち着かせて歩く。すると、まだ気がつかれないと思っていた距離で、門番はゆっくりと振り向いた。

 ――険の込められた、深海のように青い瞳。

「おや? 貴女は確か……咲夜が連れてきた子だよね?」

 ――柔らかく温かな、蒼色の双眸。

「え、ええっと」

 思わず、言葉に詰まる。ほんの僅かに垣間見えた、“ような気がする”険しい目。けれど今向けられている瞳は温かい。
 その瞳、その顔に浮かぶ笑み。優しげな声、肩の力を抜いて接してくれる安心感。どれをとっても先程の目は気のせいだとしか思えず、魔理沙は気を取り直した。

「初めまして! 私は新入りメイドの霧雨魔理沙……です」

 慌てて丁寧語に直す。こればっかりはどうにも苦手で、魔理沙の話言葉はため口と丁寧語が混ざっていて、なんだかぎこちない。

「ええ、初めまして。私は紅魔館外勤メイド“門番隊”隊長、紅美鈴。よろしく」

 柔和な笑みと、新入りで子供である魔理沙にも軽く頭を下げる、丁寧な態度。これで武術の達人として勇ましく活躍しているというのだから、マリエルが興奮気味に話すのも無理はない。

 そう思わせるだけの“人柄”が、彼女にはあった。

「お、おう! よろしく、美鈴っ」

 そんな美鈴の様子に安心した魔理沙は、強ばっていた身体を解してはにかむ。これなら、今までとは違ってすんなりとスタート地点に立てることだろう。魔理沙は強い期待を孕んだ瞳で、力強く美鈴を見上げて見せる。

「それで、えと、私に、接近戦、武術を教えてくれ……じゃなくて、くださいっ!」

 勢いよく、頭を下げる。そんな魔理沙の願いは――

「ごめんね。自分だけの武術だったから、人に教える気はないの」

 ――実に“武術家”らしい言葉で打ち砕かれた。

 一瞬、言葉の意味がわからず首を傾げる。だが期待に突き動かされていた心は簡単に呆けさせてもくれず、魔理沙はあからさまに狼狽しだした。
 それでも、眼前の美鈴は変わらぬ困ったような笑みを浮かべている。このままだと、なら仕方がないと和やかに別れることになるだろう。魔理沙としてもそれは、歓迎できない。

「そ、こを、なんとか! 頼むっ」

 接近されたら、確実に負ける。死ぬ可能性を極限まで減らすことを望んでここまで来たのだ。ここですごすごと帰り、諦めたら、それは前を向くことを諦めるということ。
 できないままで終わらせて、その先で待ち構える当たり前の“――”に、魔理沙は震えた。

「ごめんね、教える気はないから、ね」
「おうぅ、そう、なんだ」
「あと、そろそろお仕事じゃないかな?」
「あ」

 気がついたら、随分と時間が経っていたようだ。まだ慌てる時間ではないというのに“気”が急いて、魔理沙は慌てて館へと走っていく。その前に、ただの一度だけ振り向いて。

「また来る!」

 そう、手を振って走る魔理沙に、美鈴は苦笑する。ひらひらと軽く手を振るその姿からは面倒の見の良さが現れていて、魔理沙はその姿に少しだけ安心した。

 そうして慌てて駆ける魔理沙は、気がつかない。美鈴が、ただの一度も魔理沙の名前を呼んでいない。呼ぼうともしなかったということに――。







 厨房に入り、慌ただしく仕事をする。魔理沙はそんな中で初めて、マリエルの“手際”以外の部分を見た。能力を使い、火種にする。その火の粉が周囲に被らないように調整する。
 魔理沙はそんな細かいことも難なくやっていける技能を見ていた。教われないにしても誰かから何かしらの“技術”を盗めないものかと画策していたのだ。
 いざとなったら、美鈴の訓練風景からなにか盗んでやろうと、やる気に満ちた表情で観察を続ける。背筋はぴんと伸ばし、効率の良い足捌きで、舞うように、でも力強く動きを見せる。その洗練された仕草に、魔理沙は一つの確信を抱いた。

「見ただけじゃ、さっぱりわからん」

 頷いて、皿を洗う。あかぎれだらけだった手もここ最近でだいぶ良くなり、代わりに皮膚が厚くなって少し硬くなった。けれどその分だけ手際が良くなっていくので、魔理沙は硬くなっていく手が誇らしく思えていた。
 目に見える形で築き上げられていく、成果。それが何よりも、魔理沙のやる気を満たしていくのだ。

「よし、魔理沙! 休憩良いぞ!」
「はい、料理長!」

 魔理沙は手早く手を洗い、厨房から出て行く。その視線の先にいるのは、同じく休憩時間を与えられた咲夜であった。

「咲夜!」

 振り向いた彼女に、魔理沙は小走りで近づく。咲夜もまた、ナイフを扱うときに体捌きくらいするだろう。だが、別に、魔理沙は咲夜の手を患わせようと考えている訳ではなかった。

「どうしたのよ? そんなに急いで」
「咲夜、は、ふぅ……咲夜は、誰に体捌きを教わったんだ?」

 あわよくば、他に教えてくれそうな人を探しておこう。この館に古参の妖精メイドとやらがどれほどいるのか知らないが、だからこそ、可能性はあるのだ。
 美鈴に教われないかも知れないのは、残念ではある。けれど目標は、美鈴に教わることではなく、接近戦への抵抗手段なのだから。だが。

「体捌きなら、私は美鈴に教わったわ」
「え?」

 一瞬、目の前が真っ暗になる。自分だけの武術だから教えることが出来ないといった、彼女の、美鈴の笑顔。

 その“変わらぬ笑顔”に偽りがなかったと、いったい誰が言えるのか。

「そ、んな、だって」
「ど、どうしたの? 顔色が悪いわよ、魔理沙」
「ぁ、ううん、大丈夫。大丈夫」

 心配そうに覗き込む咲夜の前で、魔理沙は繰り返し繰り返し自身に言い聞かせる。原動力から折れた訳ではない。だったら、まだ、立ち上がれると、そう、思い込んだ。







 顔を青くした魔理沙を見て、咲夜はつい俯いた彼女の顔を覗き込もうとした。けれどそれは、他ならぬ魔理沙が早々に顔を上げてしまったので叶わなかった。

「大丈夫、なんでもないぜ。ふぅ、走ってきたから、息上がっちゃってさ」
「……もう、この程度で疲れて、どうするの」

 魔理沙が、何かを押し隠した。それに一抹の寂しさを覚えながらも、咲夜はわざとらしく肩を竦める。
 前を向いて頑張っている魔理沙が、いったいどのような答えを得ようとしているのか、咲夜はそれが気になって仕方がなかったのだ。

「貴女も、美鈴に鍛えて貰ったら?」
「ああ、そうだな。そうさせて貰うぜ――――最初から、そのつもりだったし」
「え? 最初からって、それ、どういう」
「ありがとう、咲夜。私、もう一回行ってくる!」
「あ、ちょっと! 魔理沙っ……もう」

 走り去っていく魔理沙を、咲夜はただ呆然と見送る。腕を組んでため息を吐く姿は、苦労人のそれだ。
 けれど細められた瞳で僅かな笑みで見送る姿は、どこか親愛に充ちた姉のようでもあった。







 休憩時間は、それほど長くない。一メイドとして迅速な行動が求められる以上、休憩時間を超過するようなことをしてはならない。その程度の事も守れないようでは、期待もされないし仕事もくれない。

 本末転倒。そんな事態にならないためにも、と、魔理沙は息を切らして門前まで来た。

「美鈴!」
「……どうしたの?」
「いや、咲夜がさ、体捌きを習いたいなら、美鈴に教わればいいって」
「そう、咲夜が」
「武術はダメでも、体捌きならいいだろ?」

 魔理沙はそう、朗らかに笑う。――内心の動揺を、悟られないように。体捌きと武術の違いなんか、魔理沙にはわからない。図書館の本には“武術の基礎”と書いてあったのだから。

「ごめんね、もう本当に、誰かに何かを教える気はないの」

 柔らかな笑顔、温かい声、優しい眼差し。それは本当に、柔和な意思に基づいたものなのか。それは本当に、魔理沙を尊重して浮かべた貌なのか。

「頼むっ!」
「いいえ、頼まれることは、できない」
「そこをどうにか!」

 僅かだが、声が低くなる。

「はぁ……何故、そこまで?」
「自分の身も守れないんじゃ、誰かに寄りかからなくちゃいけなくなるから、だから」
「寄りかかるのは、悪いことだと?」

 なにかに、憤りを感じているのか、細められた目の奥で、感情が黒く淀む。

「そうじゃなくて、守られてばかりじゃだめだから」
「魔法を教わっているんだよね? なら、何故それ以上力に欲張る必要があるの?」
「欲張るとかじゃなくて、ええと」

 魔理沙は、答えに窮しながら、上目遣いで美鈴の顔を見る。そこに浮かぶのは、変わらぬ笑顔。どんなに厳しく問答をしても覆されない笑みに、魔理沙は確信する。

「私が貴女に教えることは、なにもない。だから、ごめんね」

 ――この笑顔は、心の壁という名の明確な“拒絶”なのだ、と。

「さ、休憩時間が終わるよ」
「うぐっ、うぬぬ、また来る!」
「何度来ても同じよ。答えは、変わらない」

 美鈴の言葉を、声を背に受けて走る。明確な拒絶、揺れぬ意思。魔理沙は自身に向けられた感情の意味が理解できずに戸惑う心を、押し隠した。
 曇りゆく心に呼応するかのように、緩く降り出した雨の中、魔理沙はぐるぐると思考を巡らせる。

「まずは」

 震える唇から、小さく、気持ちが零れる。まずは、彼女がどんな妖怪なのかを探らないとなにも解決できないような、そんな気がしてならなかった。







 その日の午後、魔理沙は図書館で魔法の修行をしていた。頬杖を突きながら、経過を見ようと目を眇めるパチュリー。彼女の前で実践して、それから問題点の指摘を行うのだ。

「“ウンディーネの羽衣”!」

 試験管が爆ぜ、中から飛魚のような姿を取った水の精霊が現れ、直ぐにかき消える。同時に、魔理沙の全面を覆うように水のヴェールが出現した。
 ここまでは、ここ最近で魔理沙が習得した魔法。精霊を召喚することは出来ずとも、封じられた精霊を一時的に拝借し扱うという、魔理沙の器用さが良い方向に働いた術だった。

「術式維持、持続……固定ッ」

 ここに、もう一手加えるのが、今日の“課題”なのだ。

「いっけぇッ……“シルフの風波”!」

 水のヴェールを飛び越えて投げられた試験管が、爆ぜる。紅魔館に居るそれよりも更に無邪気そうな妖精は、しかし魔理沙の術式に囚われることなく振り向いた。
 腕を前に突き出し、かき消える。同時に、魔理沙から放たれるはずだった突風は魔理沙へ放たれ、水のヴェールをあっさりと突き破る。

――ドンッ
「うわ、ぁっ」

 しかし、元より魔力が足らなかった為か、それとも制御がなっていなかったのか、若しくはその両方か。ダメージも無く後ろへころんと倒れて、魔理沙は情けない呻き声を零した。

「うぉぉう」
「何が“うぉぉう”よ。怪我は無いでしょ? 立ちなさい」
「いててて、びっくりしたぁ」

 防御魔法を展開しながら、攻撃魔法を同時展開。いずれはパチュリーのような“合成魔法”の境地に辿りつくであろうそれは、相応に難しいのだ。
 理解していたとはいえ、これで、完全に魔法で接近戦まで手を伸ばすのが難しくなってしまった。

「いや、近接魔法なら、あるいは」
「身体強化無しで近接魔法に拘るのは、無理があるわ。だったら身体を鍛えなさい」
「あ、そっか。うぬぬぬ」

 身体強化とて、同じ事。同時に二つの魔法を扱うことができない以上、身体強化と併用できない近接魔法なんて、分不相応と言えた。

「では、使い魔を作るというのはどうでしょう?」
「小悪魔……いやでも私、召喚なんてできないぞ?」
「動物の精霊、フォーン辺りでもゲットして動物の死体にでも放り込んでしまえばよろしいのでは?」
「小悪魔。魔理沙に死霊使役もどきは早いわ」

 なにやら物騒な会話をし始める先生とその使い魔に、魔理沙は顔を引きつらせる。第一、聞く限りで既に魔法の併用より難しそうだ。
 未だあーだこーだと言い続ける二人を見て、魔理沙はむずがゆさも感じていた。彼女たちは、魔理沙が望んだ修練から、接近戦に対応したいという意図を汲み取って話し合ってくれているのだから。
 鼻の頭を掻いてほんのりと頬に朱を差す。嬉しくもある、けれどいつまでもこうしている訳にも、いかない。

「なぁ、先生」
「だから、一時的なブースト魔法の余剰効果で併用もどきを――うん?」
「それだと一々筋繊維が超再生を起こしムキムキマッチョに――はい?」

 物騒にも、程がある。少し意識を逸らしていた間に、すごいことを話していたような気がして、しかし魔理沙は意識から振り払った。
 一々気にしていたら、胃壁が削られそうだと眉を寄せて呻る。

「美鈴って、どんなひとなんだ?」

 魔理沙がそう訊ねた、瞬間。

「美鈴? なるほど。魔法の極地にも至っていない未熟者が師の掛け持ちをするとは」

 パチュリーはそう、真剣な表情で眉を寄せた。近接魔法に頼るくらいだったら、身体を鍛えろ。先程までそんな風に言っていたのに、途端にこれである。
 自分で美鈴を薦めたのなら満足するが、既に見つけてきたとなると話は違う。そんなおかしななところで“子供っぽさ”を見せるパチュリーの姿に、小悪魔は肩を竦める。

「えーとですね、美鈴さんは――」
「ちょっと小悪魔、なんのつもりよ」
「え? 魔理沙ちゃんも、質問に答えてくれるひとの方が“良い”でしょうから」
「さ、なんでも聞きなさい。魔理沙」
「あ、あははは、う、うん」

 パチリ、と上手にウィンクしてみせる小悪魔に、魔理沙は目で礼を言う。この凸凹コンビは、こうして互いを上手く調整している。魔理沙は、彼女たちをそんな風に見ていた。

「まず、美鈴っていつ頃から居るんだ?」
「私よりは古いわよ。紅魔館最古参の住人ね」
「明確にいつ頃かとかは、聞いた事がないのでわかりかねますが、聞けば教えてくれると思います」

 門番、という役職。古くからあの場に根付いている妖怪。魔理沙は、得た情報を頭の中で組み上げていく。何か、ヒントになれば、と。
 顎に手を当てて頷く魔理沙は、餌を頬張るリスのようだ。そんな魔理沙を見てパチュリーもまた満足げに頷きながら、続きを話す。

「で、どんな性格かというと――忠誠心が高い、わね」
「ですねぇ。何があっても外敵からお嬢様と紅魔館を守るっという、熱血妖怪さんですね」
「ほわほわしてる割りに、意外とやるのよね。意外と」
「まぁ妖怪らしくないといえば、そうですからね。物腰柔らかな方ですし」

 内容としては賞賛しているのに皮肉げな台詞が混じってしまうのは、もうパチュリーの癖なのだろう。そんなパチュリーに、小悪魔も苦笑を零していた。
 けれどそれでも、幾つかわかった事がある。高い忠誠心と強い意志、それから他者を寄せ付けない鉄壁の門番。けれどその実体に対して、物腰は柔らかという評価。
 パチュリーや小悪魔も、マリエルも、妖精メイドたちも、そして咲夜も認める妖怪。それが、魔理沙がここまでの話で出脳裏に描いた、“紅美鈴”の肖像だ。

「そう、なんだ。ありがとう! 先生、小悪魔!」

 魔理沙はそう言うと、立ち上がって駆け出す。その姿を、パチュリーと小悪魔は肩を竦めて見送るのであった。







 夕食の準備が終わり、片付けも落ち着いた頃。魔理沙は、もう一度咲夜の元を訪れた。レミリアがパチュリーとのんびりお茶をしている時間で、それはアリエッタの担当となるため咲夜はしばらくは休憩となる。
 魔理沙は、一心地ついている咲夜の邪魔をするようで気が引けたが、おそらく彼女はそんなことは気にしないだろう。

「よし……咲夜っ」

 自室に移動でもしようとしていたのか、廊下で佇む咲夜に魔理沙は小走りで駆け寄った。

「魔理沙? どうしたの?」
「いや、ちょっと……弟子入りを――」

 言いかけて、逡巡する。拒まれたと聞いたら咲夜がどんな顔をするのか、魔理沙には想像も付かない。けれど、きっと。

「――頼む“前に”、美鈴がどんなひとなのか、知りたくて」

 そう、咄嗟に言い換えて笑う。不自然と取るか、照れと取るか。咲夜が選んだのは後者だった。躊躇う魔理沙の仕草は幼くて、頬を掻く姿は初々しい。焦りから赤らんだ頬も、上手いように相互作用を起こしているようだ。
 魔理沙もまた、上手く行ったことに安堵していた。誤魔化せなかったらどうしよう、誤魔化せて良かった、そんな心持ちで胸を撫で下ろす姿が、“少女らしさ”を演出しているとは気がつかないようだが。

「まだ頼んでいなかったの? ふふ、まぁいいわ」

 おかしそうに笑うと、咲夜は魔理沙と並んで歩き出す。仮眠室へ向かう道すがら、彼女は顎に手を当てて考えつつ、美鈴の事を思い出し語り始めた。

「美鈴は、まぁ見たままのお人好し、妖怪好し? まぁいいわ。とにかく優しいわね」
「あー、そういや先生もそんなことを言ってた」
「そう? それなら、優しい云々はたっぷり聞いているでしょうから、そうね」

 咲夜でも、第一印象に“優しい”と言われる妖怪。魔理沙はそれに、真剣に耳を傾ける。

「アレで中々、警戒心が強いわ。本人曰く“力を持たない妖怪だから、気を抜くと致命傷になりかねない”らしんだけどね。気を使いながら気を抜くとか言う器用な力で、休みながらも警戒できるとか」

 力を持たないって、生身でナイフをがいんがいん弾きながら言うからたまらない――と、咲夜はそう可笑しそうに続けた。

「警戒心が強くて、優しくて、それから――鉄壁の、守護者」

 キーワードを並べて、険しい表情を浮かべる。もう少しで、答えが導き出せそうな気がして。でも、何かもう一つ足らない気がして、足踏みをすることしかできない。

「守護者って……それもパチュリー様から聞いたの? そう、“紅の門番”といえば、界隈では有名だったのよ?」
「そうなのか?」

 きょとんと首を傾げる魔理沙に、咲夜はそっと苦笑を浮かべる。
 それから咲夜は、妖怪を知るもので紅魔館と関わりを持たず、紅魔館の名を知るものたち。敵対者たちの間の噂話を魔理沙に教えてくれた。

「紅髪の悪魔、赤と虹の龍。悪魔に挑む前に、踏破せねばならない魔人ってね」
「なんか、イメージ違うぜ……」
「ええ、でも現に――彼女は、“敵対者”の前だけは、その柔らかな雰囲気を崩す」

 味方から好かれて、敵から恐れられる。本当の意味で“内側”と“外側”を守ろうとする、その姿勢。
 彼女は今、どんな気持ちなのか。魔理沙に対してどう思っているのか、美鈴の中で魔理沙とは――どのような存在なのか。

「ぁ」

 それは、唐突に。魔理沙の中で、今までの感情や言葉、情報のピースがカチリと繋がった。

「なんとなく、わかった」
「そう?」
「うんっ、ありがとう、咲夜。私、行ってくるぜ!」
「え?」

 そんなに焦らなくても。そう伸ばし掛けた手を、咲夜は引っ込める。外は雨、生憎の天気だ。けれど、魔理沙にとってそんなものは、足を止める材料とはなり得ないのだろう。
 いつの間にかマリエルやアリエッタに認められ、偏屈な図書館の主と癖の強い使い魔に気に入られ、ふと振り返れば咲夜ですら目が離せなくなっていた。
 そんな彼女の頑張りを、全てとは言わずとも、知らない訳ではない。だったら、咲夜に出来ることは、たった一つ。

「頑張りなさいよ、魔理沙」

 普段では見られないような、穏やかな笑みを浮かべて、魔理沙の背中へ声をかけることだった。


















――第三章:3/彼女の本心――



 雨水を吸い込んだメイド服がずっしりと重くなると、魔理沙はようやく傘も持たずに飛びだしたことに気がついた。
 視線の先に佇むのは、傘は差さず、けれど柔かな透明の“膜”で身体を覆い雨水を弾く美鈴の姿。これも、彼女の“気を扱う程度”の能力の一端なのだろう。

「はぁ……懲りないね」

 魔理沙が声をかける前、気によって感じ取った美鈴が一足先に告げる。その、最初の時よりも、二度目の時よりも重々しい声に、魔理沙はびくりと肩を震わせた。
 ここで逃げ出してしまいたい。美鈴に無理強いして教えて貰わなくても良いのではないか。心に重い鎖が巻き付いていくような感覚の中、それでも魔理沙は一歩を踏み出す。

「なぁ、美鈴は、さ」

 雨水が頬を伝い口に入ると、自然と、からからに渇いた喉が潤わされる。言ってしまったら、きっと――

「私のことを……信用して、ないんだよな」

 ――後戻りは、できない。

 雨が視界を濁らせ、けれど美鈴の背だけは力強く門前に浮き上がる。館で働くメイドとしてここに暮らす魔理沙。彼女にとって門番とは、円滑に働く為にも少なからず信頼関係にあるべきだ。
 けれどもし、どうしようもなく嫌われていたら。どうしようもなく、信用されていなかったら。隠し通そうとしていたそれを暴くだけで、塗り固められた信頼関係は破綻する。それこそ、本当の意味で和解でもしなければ、互いにとって良いことにはならないだろう。

「内側と外側を、本当の意味で守る。その為には、内側だって警戒する必要がある……だろ?」

 おどけたような笑みは、浮かべない。相変わらず厳しい表情で、魔理沙はエプロンドレスの端を強く掴んだ。唇を噛みしめ、目を強く閉じ、恐れる。拒絶を、否定を恐れて、けれど言葉は止まらなかった。

「だから、急に来て、目的のわからない私を疑ってる。咲夜達を傷つけるんじゃないかって、そう思っているんじゃないのか?」

 雨が肌を叩き、身体を冷やし、心に重しを付けて、やがて、弾ける。

「いいえ、そうは、思っていない」

 ずっと無言だった美鈴から言葉が返ってきて、魔理沙は思わず顔を上げた。その先で音もなく振り向いた美鈴の顔に、これまでのような“柔らかさ”は感じられない。それどころか、敵対者に見せるという“恐ろしい表情”すら、そこにはなかった。
 ただただ、無色。青い瞳はひたすらに冷たく、重い。横一文字に結ばれた唇。なんの感情も込められていない顔。ただ怒られるよりもずっと――恐ろしい。

「きっと貴女は、咲夜を裏切らない。咲夜も貴女を信用しているし、そこを疑う必要なんて無い」
「だ、ったら、どうし、て」

 途切れ途切れの声が、雨の中に消える。声を張り上げることも出来ず、魔理沙はただ、聞き返した。

「けれど貴女は、お嬢様を裏切る」
「お嬢様……レミ、リア、を?」

 告げられたのは、まったく意図していない言葉だった。当然だが、魔理沙はレミリアを恐れたことはあっても、討ち滅ぼそうと考えたことなど一度もない。胡散臭いと思いはするが、妖精メイドから図書館に至るまで理路整然とされているこの紅魔館を見て、尊敬さえしている。
 それなのに、裏切ると、何故そう思われたのか、魔理沙の脳裏には拒絶への忌避感よりもまず、疑問がわき上がっていた。

「そん、な、訳無いだろ! 私が、どうしてレミリアを裏切らなきゃならないんだ!」

 疑問を疑問のままに、魔理沙は訊ねる。

「お嬢様を裏切れば、咲夜の命が助かる。そんな状況になったら?」

 一瞬、何を言われたのかわからず、けれど、直ぐに目を大きく見開き、声を張り上げる。咄嗟に喉を振るわせたせいでずきりと痛んだが、そんなことは気にしていられない。

「なっ……裏切らない。それでも、裏切ったりなんか――」
「何故、言い切れるの? 貴女はお嬢様に、どれほどの関わりがあるの?」
「――それ、は」

 言葉に、詰まる。事実魔理沙は、何故自分が“裏切らない”と断定できたのか、よく理解できていなかった。震える唇は、幾重にも言葉を連ねようとして、しかし何も形にならず消えていく。
 魔理沙の意思が明確に定まらず、かける時間の分だけ美鈴の瞳が冷えていくのが、魔理沙は怖かった。けれど、それよりも、確かに存在する思いが形にならないのが、悔しい。

「私、は」
「答えられない、と。なら、それでいい。貴女は私の……“敵”」
「違うッ! なんで私が美鈴の、咲夜が言ってた、“強いひと”の敵に――」
「なら、何故」

 美鈴の身体が霞み、瞬きの間に魔理沙に近づいていた。そして、水を吸って重くなったエプロンドレスの胸元を掴むと、噛みつかんばかりの勢いで声を張る。
 その表情は、もう無表情なんかではない。確かな“怒り”と僅かな“焦り”に、瞳が揺れていた。

「何故、答えられない。言いなさい、霧雨魔理沙ッ!!」
「ぁ」

 小さく声が零れ、魔理沙の身体が弛緩する。投げ出された四肢、浮き上がる身体。美鈴は魔理沙が諦めたのかと手を離そうとして、しかし焦燥の消えた瞳から諦念が浮かんでいないことに、ただ首を傾げる。


「やっと、名前で呼んでくれたな」


 恐怖も、怯えも、焦燥すらも端に置き、小さく笑う。魔理沙は僅かに緩んだ美鈴の手に、己の小さな掌を重ね、目を伏せて言葉を紡ぎ出す。

「裏切らない。確かに私は、レミリアのことはよく知らない、でもさ。それでも、知っていることがあるんだ」
「知っている、こと?」

 頷き、そして力強く美鈴の瞳を覗き込む。自分の胸中を隠すことなく、全てさらけ出す為に。
 ただ強く、見上げてみせた。

「レミリアは、先生の親友で、咲夜の尊敬する人――一番、大切なひとだってことは知っている」

 単純明快な思考回路。誰よりも真っ直ぐで、誰よりも前を見つめた瞳。美鈴は自分の手が魔理沙から離れていることにも気がつかず、ただ呆然とその瞳を覗き込む。
 言いたいことはわかるのに、どうしてか、美鈴は魔理沙の口から続きを聞きたかった。この子が何を言ってくれるのか、耳にしておきたかった。

「だから私は裏切らない。大好きなひとたちの大好きなひとを、裏切らない!」

 ――――なるほど、それなら、裏切れない。

 美鈴は、そう苦笑する。それから、呆れではなく笑みがこぼれた自分に驚いた。そして“なるほど”だなんて思いを抱いてしまった自分に、更に驚く。
 こんな真っ直ぐな子が、裏切れる筈なんか無い。彼女なら、迷うことなく誰も傷つかない“第三の道”を得ようと足掻くだろう。
 長い生の中で得た経験の数々が、先程まで抱いていた苛立ちを易々と越え、答えを出してしまう。そう気がついてしまった時点で、美鈴はもう魔理沙を疑う気にはなれなかった。

 だが、だからといって揺らいだ感情を消せる訳ではない――

「それに、さ」

 ――けれど、一転して悪戯っぽい笑みを浮かべる魔理沙に、揺らいだ心も忘れて首を傾げる。

「裏切りそうだってんなら見張ってればいいだろう? 近くでな」

 上気した頬、泳ぐ瞳。その言葉が照れ隠しだなんて事はばればれで、美鈴は、そっと魔理沙の頭に手を乗せた。
 ここまで“気”が乱れていたら、きっと風邪を引いてしまう。美鈴の大好きなひとたちが、大切にする小さな女の子が倒れたなんて事になったら、一大事だ。

「私は、厳しいわよ」
「っ――望むところだぜ!」

 満面の笑みを浮かべ、両手を振り上げて喜ぶ魔理沙に、美鈴はまた苦笑をする。そこにはもう、疑わしきものに見せる警戒の表情など無く、出来たばかりの“弟子”に対する困ったような笑みだけがあった。
 いつの間にか、冷たい雨は止んでいて、雨上がりの青空が顔を出す。
 吸血鬼の館というには些か綺麗すぎる空だが、今この場にはちょうど良い。幼い人間の少女に大切なことを気がつかされた。
 そう、心の雲を晴らした美鈴に、なんとも似合った空だった。



















――第三章:4/掴みはじめたもの――



 まだ太陽が山間から顔を出したばかりという時間。紅魔館の門前からは、元気の良い声が響いていた。

「一っ、二っ、一っ、二っ」
「頭上で棒を水平に。そこから下げない!」
「はい、師匠!」

 魔理沙が振り下ろすのは、竹の棒。掃除に使うような藁箒だ。けれど、掃除に用いるような使い方ではなく、魔理沙はそれを木刀のように素振りをしている。
 美鈴が魔理沙を弟子にとり、教えるようになった“護身術”――それが、メイドが日常で持つ事が出来るもの、箒を用いた杖術であった。杖道やステッキ術などを美鈴が取り入れて、それを魔理沙に教え込む。まだ魔理沙は幼く、身体を作るのに筋力トレーニングなどしてしまうと、成長を妨げるかも知れない。
 そう考えた美鈴は、魔理沙の身の丈にあった術を、基礎から丁寧に教え込んでいるのだ。

「――そこまで」
「はいっ」

 美鈴の言葉と同時、魔理沙は箒を下ろす。まだまだ“技”と呼べるものは教えて貰えないが、日に日に箒が振りやすくなっていることに魔理沙は小さな手応えを感じていた。
 パチュリーに教わって出来るようになるような、派手な技術ではない。だが、だからこそ面白い面もある。

「ゆっくり柔軟体操をして身体を解したら、上がって良いよ」
「ふぅ、はぁ……はい、師匠っ」

 師匠――魔理沙は美鈴を、そう呼んでいた。パチュリーが先生だから、美鈴は師匠。そんな単純な呼び名で、けれども万感の念が込められた言葉。

「ん、よしっ。ありがとうございました!」
「うん。シャワーを浴びてから、仕事に戻りなさい」
「はいっ」

 元気溢れる魔理沙に対して、美鈴はどこか素っ気ない。警戒されたいたのだから仕方がないし、だったら今後の努力でそれを覆せばいい――そう考える魔理沙は、美鈴の声色に若干の“照れ”が混ざり込んでいることに、気がつかなかった。
 勢いよく頭を下げ、それから弾かれたように駆け去っていく。その後ろ姿に美鈴は、ただ、小さな苦笑を浮かべてひらひらと手を振るのであった。







 早朝は美鈴との鍛錬。朝になると厨房で仕事。昼間はメイドの仕事と平行して厨房に入り、夕方からはパチュリーと魔法の訓練。全部が終わったら、夜の時間に咲夜と雑談混じりに仕事の質問。
 慌ただしく忙しない、ゆっくり腰を落ち着かせて休むこともない。けれどその顔に疲弊の色を滲ませたことはなく、魔理沙は今日も紅魔館を駆け回っていた。

「咲夜、マリエル、アリエッタ、パチェに続いて美鈴も懐柔したか」

 図書館に走る魔理沙の後ろ姿を、使い魔の視線を共有して見て、普段よりも早く起き出したレミリアはテラスでワイングラスを傾けながらそう呟いた。
 最初は、運命を“見ようとして”興味を惹かれて魔理沙を受け入れた。咲夜の成長になればそれで良くて、それ以上は必要ない。そう思っていた――はずなのに。

「まさか、咲夜以外にも影響を与えるなんて、ね」

 そう苦笑するレミリアの表情は、大妖怪の威圧を纏ったものでも、子供のような無邪気さを孕んだものでも、魔性の美を艶然と携えたものでもない。
 言うなれば、庇護者。ひな鳥を見守る親鳥のように、仲間達の成長をじっと見つめる、どこか暖かみのある表情だった。

「ふふ、まぁでも、悪くはないわね」

 真紅のワインを口元に運び、唇を濡らす。身体に広がる豊かな温かさは、このワインだけが要因ではないだろう。
 レミリアは僅かな苦みを含んだ柔らかい笑みを零すと、しかし直ぐに口を真一文字に引き締めて、やがて小さく口を開いた。

「あの子なら、ひょっとしたら――」

 呟きは、夜に溶ける。それは、なんら特別な才能を持たない人間に対してレミリアが初めて抱いた、確かな期待を孕んだ声だった。



















――第四章:1/不運な一日――



 朝の鍛錬を終えた後、美鈴に庭仕事を教わっている最中に蜂に襲われ、慌てて逃げようとして如雨露を踏んで靴の中がぐっしょりと濡れた。
 調理中、棚の下を通りかかったとき、ぐらついて落ちてきたフライパンが足の小指に直撃。思わず涙ぐむほどの衝撃に、身悶えることになった。
 メイドの仕事の最中、滑って転んだ先に汚れて真っ黒になった水が沢山溜まったバケツがあって、それにぶつかり頭から被った。
 そして、仕事を終えた後の、図書館。魔法の修行を終えて、一息吐きながら読書をしていたとき。

「アグニシャイン――燃え尽きなさい」

 何故か紛れ込んでいた本型の魔物に飛びかかられた所を、パチュリーに助けられたことで、魔理沙は漸く自覚した。

 最近どうにも、運が悪い……と。

「運も実力のうち。悪運に見舞われるということは、それだけ人よりも多くの試練を得られるという事よ。私はごめんだけど」
「そうですよ、魔理沙さん。状況だけ見るなら恵まれているともとれます。私は嫌ですが」
「先生と小悪魔ってホント、似た者主従だよな……」

 自分に正直すぎるのか、本音をしっかり付け加える二人に魔理沙は苦笑する。
 確かに、恵まれているという考え方も出来るだろう。だがそう毎回毎回災難に見舞われるのも、魔理沙は嫌だった。魔理沙でなくても嫌なのだから、仕方がない。

「でも、そうね。念のため――」
「でも安心してください魔理沙さん。パチュリー様が調べなくても、私が調べておきますよ」
「――ちょっと小悪魔。アンタ、今わざと被せたでしょう」
「あだっ!? ハ、ハードカバーで叩くことないじゃないですかっ」
「うるさいわね」

 苦笑を浮かべっぱなしの魔理沙を余所に、二人は軽快なコントを繰り広げる。
 あっちを立てればこっちが拗ね、こっちを立てればあっちが拗ねる。そんな事になるのはわかりきっていたからこそ、魔理沙は少しだけ遣り取りを楽しみながら、終わるのをじっと待っていた。

「――まったく。うん? 何をにやけているのよ」
「な、なんでもないです。先生っ」
「? ……まぁ、いいわ」

 たんこぶを作るハメになって肩を竦める小悪魔を余所に、勝者たるパチュリーは、こほんと小さく咳き込んで見せた。
 こと口喧嘩となるとパチュリーの勝率は低いのだが、今日は本による“打撃”有りとはいえ、パチュリーに軍配が上がったようだ。

「念のため私たちの方でも調べておくわ。結果が出るまで、せめて頭上にくらいは注意を払っていなさい」
「はい! ありがとうございます! 先生っ」

 嬉しそうに笑う魔理沙に、パチュリーはどこか満足げに頷く。その様子を背後でニヤニヤと見つめる小悪魔には気がつかず……なんてこともなく、こっそり振り向いて睨み付けて。
 そんな二人に可笑しそうに笑うと、魔理沙は時間を見てもう一度頭を下げた。

「えと、今日もありがとうございましたっ。また明日! 先生、小悪魔!」
「ええ。気をつけなさいよ」
「はい、また明日。気をつけて下さいね、魔理沙さん」
「おうっ!」

 頭上に注意。その言葉を胸に刻みつけ、魔理沙は駆けだした。







 元気よく手を振り走り去る。そんな魔理沙の後ろ姿が完全に消えるまで、パチュリーと小悪魔は口を開かずにいた。
 やがて図書館の扉が閉まる音が響くと、そっと、パチュリーが喉を震わせる。

「どう見る? 小悪魔」
「そうですね……少なくとも、“私たち”の領分ではありません」
「そう。精霊も関与していない、なら――」
「はい。魔理沙さんが寝入った頃にでも、美鈴さんに聞いておきます」
「ええ、お願い。私は、ここで調べておくわ」
「畏まりました、パチュリー様」

 ほんの少し前までと比べて、一転して緊張感のある空気が流れる。そこに在るのは、優しくて強かな“先生”と小粋で口の達者な“その助手”の姿ではない。
 知識と日陰の魔女、七曜の魔法使いと、その使い魔である名を隠せし悪魔。彼女たちは本来の己の姿を以て、けれど大切な“生徒”の為に意見を交わす。
 この姿を、魔理沙が見たらなんというか。きっと――“格好いい”と、そういうのだろう。小悪魔は脳裏に浮かんだ言葉に苦笑すると、そっと、パチュリーの元を離れて調査の為に動き出すのであった。



















――第四章:2/虹の堕ちた場所――



 そろりと歩いて、ぴたりと止まる。くるっと周りを見て頭上注意。普段の元気溌剌な様子からは考えられないような慎重な歩みで、魔理沙は図書館を出た。
 パチュリーから忠告されておいて、いきなり、落ちてきた魔法の本に頭から丸かじりにでもされたら、合わせる顔がない。肉体的に。

「はぁ……なんだってんだよ」

 そうして一息付けたのは、図書館の扉の前だった。これであとは正面の階段を登れば、注意しなければならないのはシャンデリアくらい。魔法の付加がない落下物なら、魔理沙の拙い魔法でも充分回避可能なことだろう。
 頭上注意、頭上注意。そう呟きながら天井を睨み付ける姿は滑稽だが、魔理沙も必死なのだ。言いつけを破ったばかりに――なんて、悲しませたくはない。

 だから――では、きっとない。

「っ――おわっ」

 それでも――が、きっと正しい。

 カチリ、と何かが押し込まれる音。
 魔理沙は音を確認する前に、唐突に、浮遊感を感じた。内臓が身体の中で浮くような不快感、急激に下がる視線。それが落下による物だと理解したとき、魔理沙は自分の状況を捉えた。
 どこか不味いところでも踏んだのか、それとも手でも触れたのか、理解は出来ない。けれど足下にぽっかりと穴が空いて落ちているということだけはハッキリとわかる。

「ちょ、冗談――あだっ」

 言い切る前に、衝撃を覚える。細い縦穴に肩をぶつけ、思ったよりも近かった着地を失敗して転げ落ちる。そう、“転げ”落ちるのだ。どことも知れない階段を、身体を丸めて落ちていった。

「いだだだだっ、ちょっ、あうっ」

 拙い、魔法とも言えない魔力の膜で身体を保護する。それでも“打ち所の悪い怪我”を防ぐ程度で、落ちる度に擦り傷は増えていく。
 けれど、永遠とも思われた痛苦の時間にも、終わりが来た。ずしゃあっと音をたてながら、階段下の廊下をスライディング。痛みに耐えながら身体を起こすと、直ぐ目の前に壁があった。半開きの、重厚な壁が。

「あ、つぅ……んだこれ? 壁、いや、扉か?」

 やけに厳重な封印がされた“跡”がある、巨大な扉。その封印は内側から破られた訳でも外側から力を加えられて開かれた訳でもない。言うなれば、経年劣化で封印が弛みそのまま意図せず開いてしまったような、そんなように魔理沙は思った。

「――ん?」

 緻密な術式、大胆な構成、幾重にも連なる魔法陣の融合。自らの“先生”の癖を朧気ながら読み取った魔理沙は、しきりに感心していた。
 だからか、半開きの扉の奥へつい目を遣ってしまう。ひしめき合う封印の、重ね連なる魔法陣の、奥の奥の奥。黒で塗りつぶされた空間、ぼんやりと光る赤い魔法陣、その奥で煌めく黄金と、真紅と、炎と――虹。
 導かれるままに扉を開ききり、誘蛾灯に惹かれる小虫のようにふらふらと進む。喉が渇き、身体が震え、背筋が冷え込み、歯がカチカチと音を鳴らし、そして。

「――……だれ?」

 耳朶を震わせて鼓膜を打つ、愛くるしい声が大きな地下室に反響した。

「新しいメイド? 私はひとりで居たいって、聞いてなかったの?」

 魔理沙はそれに、返事をすることも出来ない。呆れた様な声色に、もっと続きを聞きたいと、どうしようもなく魅了されて――

「なによ?」

 ――我に、帰った。
 一歩踏み込み、魔法陣による赤い光で、あどけなさの残る、しかし美しい顔立ちが見える。けれど魔理沙が目を覚ましたのは、その顔を見たためではない。
 その少女の、真紅の瞳に瞬く……“よく知る”感情を見て、魔理沙は己を取り戻した。

「あ、ああそうだ。新しいメイドだ。ええっとそれで、アンタは――」
「言葉遣いが、なってないわね」
「――え?」

 少女の掌に生まれた、真紅の光。凝縮された力は赤く光り、その力が発する気配で光の周りが白く見えて、実際よりも大きく見える。魔理沙の身体ほどのサイズもある、大型の弾丸だった。
 弾丸を作る少女の掌からは七色の光が零れていて、魔理沙はほんの僅かな時間見惚れるものの、次いで見た少女の姿に身を震わせた。
 それを何の感慨もなく振りかざす少女に、魔理沙は言いしれぬ恐怖を覚える。レミリアの様に警戒心から恐怖を覚えるのではなく、もっと純粋なもの。

 ……子供が、蟻を潰す様を見るような、そんな。

「そこの新人“妖精”メイド。一回休んで、出直してきなさい」
「っ?!」

 放たれた弾丸を、魔理沙は体捌きで避けよう動く。同時に貼った防御壁はいとも簡単に破られ、避けた魔理沙を掠めて弾丸が飛んでいった。
 じわりと腕に感じる熱に、後方の扉を、魔法陣に描かれた術式ごと吹き飛ばしたその威力を見て、魔理沙の顔から血の気が引いていく。

 ――圧倒的な、暴力。

「ぁ……うわぁぁぁぁぁっ」

 錯乱した悲鳴を上げ、少女の下から走り去る。絶対に勝てないとそう思わせるだけの力、絶対に敵対してはならないとそう確信させるほどの暴力の発現。
 裾が赤く滲む左手を押さえて、悲鳴を上げながら、魔理沙は自分が落ちてきた階段を駆け上って逃げていった。







 ぽつん、と、一人残された少女は首を傾げる。思い切り手加減したとはいえ、あんな反応をされるとは思っていなかったのだ。
 残されたのは、メイド服の切れ端のみ。残念ながら、滲んだ血は部屋の外へ流れ落ちていったようで、芳しい匂いだけ目の前にどうすることもできなかった。例え封印が壊れていても――少女は動かず、ただ肩を落とす。

「もう、なんだったのよ。あれ。はぁ――でも」

 一言、呟き、ふらふらと後退する。そのままぺたんと地面に座り込むと、少女はゆっくりと目を閉じて膝を抱えた。例え、扉が開いていても、前に進もうとはしなかった。

「あんなに悲鳴を上げていたんだもん。もう――来ないでくれる、よね」

 深い闇に、虚ろな声が溶ける。



















――第四章:3-1/少女の決意――



「は?」

 未だ家具の揃っていない魔理沙の部屋で、咲夜はあんぐりと口を開けて、そう零した。
 何故か怪我を負って帰ってきた魔理沙。最初は魔法を失敗でもしたのかと呆れながら包帯を巻いていた咲夜も、事情を聞くに従い顔色を変えていったのだ。
 咲夜自身も打ち解けたとは言い難い、主の妹。
 封印され隠蔽されている彼女の下に辿り漬くのは容易ではなく、それが偶然だというのなら尚更だ。命を持って帰れたという時点で奇跡的。そんな風に思わざるを得ない。

「よく無事だったわね」
「無事じゃないぜ」
「この程度なら無事の内よ。はい、終わり」
「おお、ありがとう、咲夜」

 魔理沙はぐるぐると腕を回して包帯の具合を確かめ、次いで痛みを覚えて蹲った。眉を顰めて涙目になる魔理沙の背を、咲夜は苦笑と共に摩る。どうにも、静かには出来ないようだ。

「あんな所に地下室があるなんて、知らなかったぜ」
「本来なら、お嬢様に許可を取らないと、入り口を知ることすら許されない場所なのよ」
「なるほど。それなら――」

 魔理沙はレミリアを妖怪として畏怖しているし、きっともう近づかないことだろう。そう安心する咲夜だが、それも、あっさり覆される。
 他ならぬ、魔理沙自身の言葉によって。

「――レミリアに許可を取れば、良いんだな?」
「まぁそうなる……………………は? え、え?」

 気合いを入れて、おそらく起きているであろうレミリアの下へ行こうとする魔理沙。今そのレミリアが何処に居るかもわからないのに、魔理沙は迷うことなく踏み出した。
 その、力強く歩き出す背を、咲夜は慌てて引き止める。

「ちょ、ちょっと待ちなさい! 危ない目に遭ったんでしょ?」
「そうだけど、でも……綺麗だったから」
「綺麗って……妹様の力、が?」
「妹様……レミリアの妹なのか。なるほど、それならレミリアの許可が必要だな。うん」

 勝手に納得して、勝手に咲夜を振り切る。いざという時の行動力は目を瞠る物があるとここ数日のことで知っていた咲夜だが、実際に怪我を負って逃げ帰ってきたときにまで適用するとは考えていなかった。
 決して、浅い傷ではなかった。治療の最中だって涙を堪えていたし、時折小さく悲鳴を上げていた。なのに、今はもう、行こうとしている。

「怖くない、の?」
「わからない。でも、考えてもわからないから、行ってくる」
「はぁ……私も行くわ。お嬢様がどこに居るのか、わからないでしょ?」
「ありがとう、咲夜っ」

 笑顔で咲夜に飛びつく魔理沙に、少しだけ体勢を崩す。もう少し自分に身長があれば、この幼い肢体をきちんと受け止めることが出来たのかも知れないと、そう考えて頭を振る。今はもう少し、このままでいよう、と。







「いいよ」

 紅魔館地下、大図書館。何気なく放たれた言葉に、普段に増して静まりかえるその場所で、パチュリーはあんぐりと口を開けた。奇しくも、魔理沙の言葉を聞いた時の咲夜と、そっくな表情だった。

「レミィ? 妹様よ? わかってるの?」
「ええ、もちろん。会いたいんでしょう? 魔理沙」
「あ、ああ」

 あっさり許可を貰えるとは、思っていなかった。咲夜や、レミリアとお茶会の最中、その場で話を聞いていたパチュリーも困惑する。
 突然お茶会に乗り込んできたと思えば、レミリアの妹に会いたい――既に会っているというだけで、パチュリーは頭痛を覚えていたのに――と請う。それだけならまだしも、頼みの綱はあっさりと許可を出してしまったのだ。
 パチュリーがそっと目を遣れば、魔理沙まで一緒に戸惑っていた。

「なに、不服なの?」
「い、や、そんなことはないけど」
「なら良いじゃない」
「えと……うん。ありがとうっ、レミリア! ……あー、さま」

 もたつきながらも頭を下げて、咲夜と相談する為に踵を返す。弾んだ足取りと、嬉しそうな声。咲夜はそんな魔理沙を心配そうに受け止めると、アイコンタクトでレミリアの許可を受けて離れて行った。
 そんな二人の後ろ姿を見送って、パチュリーは大きく息を吐く。それから眼を細めて己の親友を見る。

「少し前まで、“ひとに会わせるのは時期尚早”だなんて言ってたわよね? レミィ」
「ええ、言って“いた”わね。パチェ」

 しん、と沈黙が流れる。
 それを見て、お茶を運んできた小悪魔は踵を返し、同じく隠れ潜んで成り行きを見守っていたアリエッタと顔を合わせることになり、互いに気まずい表情で会釈を交わした。

「少し前までは、“魔法の髄を教え込むような気はないから弟子は不要”って言ってたよね、パチェ」
「そうね。言って“いた”わ。レミィ」

 また、沈黙。
 心なしか重くなっていく空気は――しかし、簡単に霧散する。
 パチュリーは再び大きく息を吐くと、親友の意図を汲んで皺の寄った額を指で解し始めた。わかってしまえば、どうということはない。パチュリーと、同じということなのだ。

「そう言う事ね」
「ええ、そう言うこと」
「私が?」
「ううん。咲夜とパチェと、美鈴。それで、私も」
「とんだ人間ね」
「ははっ、そうそう。とんだ人間」

 悪魔退治に名乗りを上げるには、頼りない。でも、悪魔と友達になれと言ったら、どうだろうか。既に友達だと、きょとんと首を傾げて何でもないことのように言ってしまいそうな――そんな、小さな女の子。
 幼い少女の、“まほうつかい”を思い浮かべて、パチュリーは自然と頬を緩ませる。なるほどあの子なら、なんだか何とかなるようなそんな気がしてならなかった。

「この件が片付いたら、あの子も一員かしら? レミィ」
「ええ、そう。この件が片付いたら一員よ。パチェ」

 くすくすと笑い合い、それから冷め切った紅茶を呷る。わるい悪魔とわるい魔女は、何故だか、外見相応に子供のような笑みを浮かべていた。



















――第四章:3-2/少女の宣言――



 一人っきりの地下室。時折光が入り込む事があるとすれば、それはケーキのカタチをした血の味のするモノが届けられるときだけ。それは生涯、変わらないこと。変える気のないこと。
 少女は、地下室で蹲る自分をそんな風にしか考えていなかった。そんな風にしか、信じていなかった。

 なのに。

「あの時は挨拶もできなかったからな。私は魔理沙。霧雨魔理沙だ!」

 威勢の良い声と、強かに笑う顔。けれど引っ張ってきたのだろうか、呆れ顔の美鈴と心配そうな表情の咲夜の後ろに身体を隠して、震えていた。肩に手に足。全部震えているのに声だけ震えていないのは、根性だろうか。

「あのさ……何しに来たの?」
「その前に、名前が知りたい」

 少女は、目を眇めて美鈴を見る。だが彼女は、眉尻を下げて、ただ困ったように笑っていた。咲夜もそれは同様で、心配の滲んだ表情を携え、首を横に振る。
 誰も魔理沙を止められなくて、最初の時同様攻撃しようにも、ボディガードが二人もついている。これではどうにもならない。

「お姉さまから、聞いてない?」
「聞いてないぜ。私が直接、聞きたかったからな」
「そう。それじゃあ、お姉さまに聞いて来なさいよ」
「やだ」
「ふぅん」

 今度は、視線に力を込めて魔理沙を見る。すると魔理沙は、足を生まれたての子鹿のようにがたがたと震えさせながらも、顔色だけは変えずに真っ向から少女を見る。
 力を込めたまま美鈴を見ても、咲夜を見ても、状況は何も変わらない。少女は大きく大きく息を吐き出すと、ついに、折れた。

「フランドールよ」
「フランドール……フランだな! よろしく!」
「勝手に略さないで。馴れ馴れしいのは嫌いよ」
「嫌われるのは困るぜ、フラン」

 少女――フランドールの強ばった声もなんのその。魔理沙はニカッと笑ってフランドールの言葉を受け取る。どうにも、呼び方を変える気はないようだ。
 厄介な人間だ。フランドールは脳裏に浮かんだ言葉を隠す気も無く、非常に嫌そうに眉を顰めて魔理沙を見る。

「で? 何の用なの?」
「おおっと、そうだった。フラン! 私はおまえに――」

 守って貰えるひとを連れてきて。
 攻撃できない状況を作って。
 そこから導き出される答えを弾き出して、フランドールは視線を冷たくする。

 罵倒、誹り、非難。
 なんにしても、気持ちの良い言葉は聞けないことだろう。それなのに、何故、美鈴は魔理沙のことを連れてきたのか? そんなことは、考えないでもわかる。
 美鈴だって、咲夜だって、パチュリーだって、フランドールのただ一人の肉親の……レミリアだって、きっと情緒不安定だからと閉じこもる自分よりも、前向きな少女の方が良いに決まっているのだから、と、フランドールは暗く沈む心を、心の底に押し隠す。
 普段なら、それで終わり。きっとこれからも、何も変わらない。一人で暗く淀んだ世界に閉じこもって、光など差さない世界で終焉を迎える――そう、信じて疑わなかったのに。

「――ライバル宣言をするっ!!」

 なのに、何の力も感じられない筈のメイドは、妖精とはだいぶ違う、その弱々しい“人間”の少女は、フランドールの殻に豪快な衝撃を入れた。
 誰にも破ることのできなかった硬い殻を、少しだけ揺らして見せたのだ。

「ちょ、ちょっと魔理沙! 妹様のライバルって、正気?!」
「予想の斜め上を行くわね、魔理沙。私の武術とパチュリー様の魔法。両方ともその程度の練度でどうにかできる相手じゃないわよ?」
「咲夜、師匠、とりあえずフランの答えが聞きたいんだけど……」

 答えを求められても、困る。フランドールはそう、“どうしよう”と言ってしまいそうな自分をぐっと抑え込んで肩を竦める。
 真面目に相手をしてやる必要なんてない。さっさと断って追い出してしまえばいい。それでまたあの日々が、ひとりきりの静かな世界が戻ってくるのだからそれで良い。それが最良だと――自身に言い聞かせて。

「ワンコインで死ぬ人間が、どうやってこの私と優劣を決める気?」
「え、えーと、だからそれは魔法で……」
「魔法? 私が指を弾けば消える脆弱な結界のことを指すんじゃないでしょうね」
「うぬぬぬ、そうじゃなくて、えと、そう、そうだ」

 魔理沙はフランドールを前に答えを探して、探して、探して……そして漸く見つけたのか、手を叩いた。
 ぴんと伸ばされた指は真っ直ぐと。不敵な笑みで震えを隠し、びしっとフランドールを指し示す。大胆小心の少女は、それからニカッと笑ってみせた。

「魔法が、より綺麗だった方の勝ち! これなら素の力は関係ないぜ!」
「……――そう、ね。でも、どうしてそれを私が受けなきゃいけないの?」
「不戦敗で、良いって事か?」
「――む」

 魔理沙の言葉に、笑みに、声色に、フランドールは片眉を上げる。
 果たしてこの少女に、脆弱な人間に、あっさりと勝利を受け渡して良いものか。そんな感情が、揺らされた殻から僅かにこぼれ落ちた。

「負けたら、さっさと帰ってよ、ねッ」

 掌に力を溜め、頭上に向かって放出。歪に揺れながら進んだ真紅の弾丸は、硝子が割れるような音と共に爆発した。それは、人間の身では成すことの難しい、圧倒的な暴力による魔法。
 力に依存した閃光は、暗闇で覆われていた部屋を、血色で染め上げた。

「おおー」

 美鈴の足下に隠れたまま、魔理沙が感心したように呟く。それから、負けを認めるのではなく、むしろ自信に満ちた表情で笑ってみせる。

「これなら、私の勝ちだな」
「……これ以上のことが、できるの?」
「ああ、もちろん」

 魔理沙は、震えていた足を動かして、美鈴の影から一歩踏み出す。そんな魔理沙に心配そうな表情で近づこうとする咲夜を、美鈴はそっと手で制した。
 大丈夫、たぶん……なんて、言い出しそうな笑み。それを見て心なしか嬉しそうに肩を竦める咲夜。どうして彼女たちがそんな顔をしているのか、フランドールには理解が及ばずただ首を傾げる。

「オリジナル魔法、名称未設定一号!」

――パ、ァンッ

 甲高い音と共に、魔理沙の手から星屑が零れる。落ちて消えるだけの儚い星。流星というには脆すぎる、弱い光。けれど五色に彩られたそれは、フランドールの歪な弾丸なんかよりも、ずっと綺麗で。
 悔しいとかそんな感情よりも、フランドールにはただ純粋な気持ちがゆっくりと零れていた。

「一回戦は、私の勝ちだな」
「ええ、そうね。だったらこれで終わり。さっさとどこへでも……一回戦?」
「一回戦だ。二勝、勝ち越すまでは勝負は決まらないんだぜ」
「は? な、なにそれ、ちょっと」
「じゃ、また明日! 行こう、咲夜! 師匠!」

 戸惑うフランドールを置いて、三人はさっさとその場から立ち去ってしまう。一人残されたフランドールは、また、膝を抱えようとして……やめた。
 今になって沸き上がる悔しいという感情。もしこのまま明日を迎えてしまったら、きっとまたあの人間に“してやられて”しまうことだろう。

「むむむむむ」

 そう考えると、何故だか、我慢できなかった。吸血鬼と人間の力量差は、こんなものでいいのか。ぎゃふんと言わせて跪かせるのが、本当の有り様なのではないか。

「ライバルとか、なによそれ……負けられないじゃない」

 掌に小さく魔法を生み出して、フランドールは練習を始める。その横顔に緩やかな笑みが浮かんでいたことに、フランドールは気がつくことが出来なかった。







 ――翌日から、魔理沙は、本当にフランドールの下へ訪れるようになった。あんなに震えていたんだ。日を跨いだだけで即来たりはしないだろうというフランドールの予想を、あっさりと裏切って。

「よう! 調子はどうだ?」
「なんで偉そうなのよ。それに、あなたが動くなんて珍しいわね、パチュリー?」
「弟子の様子を見に来たのよ。さぁ、私のことは気にせず魔法を繰り出しなさい」

 魔理沙の傍に付き添う、パチュリーと小悪魔。マイペースにも寛ぐ気なのか、座布団をお茶を用意して本を読んでいる。
 そういえば、自分に最初に魔法を教えたのはパチュリーだった。フランドールはもう何十年も昔の、姉のほんの気紛れを思い出して苦笑する。新しい弟子を持ったパチュリーは、もう、フランドールを弟子に持ったことなど覚えていないだろう。
 ほんの僅かな時間。不安定な力。知識は制御に役立たず、フランドールの力は結局周囲の物を壊して、また、重い扉が閉じられた。繰り返されてきた、歴史。

「さぁ、このまま勝利は私の物だぜ!」
「ふんっ、言ってなさいっ」

 魔理沙が両手を叩くと、拍手に合わせて、星が散る。たんたんたん、たたたたんたん、と、リズム良く。まるで、妖精達が踊っているようだなんて、そんな。
 フランドールはその短い舞台を見終わると、魔理沙にばれないように小さく息を吐く。負けては居られないと、両手に力を込めて。

「――スターボウ」

 星が、チカチカと煌めき、割れる。紅、赤、朱、淡く変わる光が大きな星を作り、弾けるときには黄金を越え純白の輝きとなる。
 その、魔理沙よりも更に短い時間の幻想に、誰よりも驚いたのは――フランドール自身だった。

「ううぬ、悔しいけど……先生」
「ええ、妹様の勝ちよ」

 てっきり、弟子を優先するかと思っていた。綺麗のベクトルが正反対の魔法だったから、勝敗は引き分けが限度だろう。あやふやなら、きっと自分なんかよりも魔理沙を優先して勝たせる。
 そう、思っていて、それを疑わなかったのに。

「あーっ、やっぱり二連勝は厳しいかっ。次は負けないぜ、フラン!」
「う、うん」

 また、魔理沙は踵を返して走り去っていく。パチュリーはそんな魔理沙に嘆息すると、ふわりと浮き上がって付いていった。
 最初に小悪魔を外に出し、それから、パチュリーはゆっくりと振り向く。気怠げで、面倒臭そうで、でも瞳の奥は決して冷たくなくて。

「精進しているみたいね。今回は貴女の勝ちよ、弟子一号」
「ぇ」

 ばたん、と、扉が閉じられる。呆然と手を伸ばしたまま動けずにいたフランドールは、その音と共に、一歩二歩と後退して座り込んだ。
 いったい、パチュリーと最後に言葉を交わしたのは何時だったか。十年? 二十年? たった、そんなものだったか? フランドールは自問自答しながら、暗闇で膝を抱える。

「望んで、良い筈なんか無いのに」

 零れた言葉は、心の内か。フランドールは自分自身でも整理を付けられず、唇を噛みしめる。許されるのか、許しなんか、存在するのか、と。

「でも――」

 それでも、沸き上がる言葉だけは止められない。膝に埋められた唇から、閉ざされていたはずの喉から、ぽとりと落ちていく感情だけは止められそうにない。

「――覚えていて、くれたんだぁ」

 落ちて、落ちて、落ちて。ぽつり、と、暗い地下室に温かい雫が染み込んだ。







 パチュリーと別れ、魔理沙は一人テラスに立っていた。一生懸命首を傾けて、空の星を覗き込む。一つでも手に取れないかと両手を伸ばす姿は滑稽で、けれど、寂しげで力強くて。
 そうしてただ、何かを求めるように佇む魔理沙に、声が掛かる。

「物怖じするって言葉、知ってる?」
「知ってるぜ。ま、負ける気はないけど」

 来るような気がしていた。だから魔理沙は驚くこともなく振り向く。
 月光に照らされてその姿を露わにする、黒い羽の悪魔。蒼紫色の髪を夜風に靡かせて、レミリアは魔理沙をじっと見つめていた。

「貴女は、あの子が怖くないのかしら?」
「怖い、けど、怖くない」
「どっちよ? 曖昧なのは好きじゃないわ。私が曖昧なのは良いけど」
「我が儘だな」
「悪魔だもの」

 怖いかと問われれば、怖いとしか答えられない。でも怖くないのかと問われれば、何度だって、魔理沙は怖くないと答える気でいた。
 あの、暗闇で佇む紅と七色の少女が怖いだなんて、そんなことをいえるはずがなかった。だって、その姿は――。

「貴女があの子に近づくのは、憐憫? 善意? 同情? 好意?」
「どれでもない」

 憐憫だと言われれば、そうかもしれない。同情かと問われれば、頷きそうになる。善意や好意だなんて言葉は、どこかむず痒い。だったら魔理沙を動かすものは何なのか。
 ずっと一人で過ごしてきた女の子に、何を見たのか、わかっている。だから、いくらでも想像が出来る。

「寂しいだろうなって、思ったんだ」
「それって、同情じゃないのかしら?」
「でもさ、あいつ、きっと耐えてきたんだ」
「なに? 尊敬なの? 悪魔相手に、謎々?」
「たったひとりで、耐えてこられたんだ。ほら、なんか――悔しいじゃん」

 魔理沙の言葉に、レミリアは珍しくもぽかんと口を開けた。問答の内に、自然と浮かび上がった言葉。きっと、これが魔理沙にとっての正解だ。
 魔理沙とフランドールは、きっと最初は、同じ場所に立っていた。けれど魔理沙の方が多く機会を与えられたから、頑張れて。それが、同じラインに立つものに与えられていないのが悔しかった。
 組み上がっていく答え、噛み合っていく感情。魔理沙は徐々に、自身の感情を構成していく。

「今、やっと同じ場所に立ったんだ。だからほら“ライバル”なんだ」

 どちらが先に、抱えていた全部から乗り越えて、笑って立てるか。魔理沙はフランドールを、気を抜けばあっさりと己を殺すであろう吸血鬼を、ただ対等に見る。
 理由なんて、今更語るまでもない。フランドール・スカーレットは、霧雨魔理沙のライバルだ。それだけで、充分なのだから。

「変な人間ね、貴女」
「なんだよ、それ」
「嫌いじゃないってことよ」
「な、なんだよ。急に」

 くすくすと笑うレミリアを、魔理沙は戦々恐々とした顔で見つめる。悪魔相手には、きっとそんな顔が正しいのだろう。
 けれど魔理沙は直ぐにそんな顔を塗り替えて、ため息を吐いてみせる。切り替え早く、それがまたレミリアの笑みを深めさせていることになんか気が付きもしない。

「いいわ。見せてみなさい。貴女の結果、楽しみにしているわよ? 霧雨魔理沙」
「ああ! 絶対に、私が勝つぜ!」
「残念ね。勝つのはフランよ」
「えー」

 夜風が強く吹きさすび、ぎゅっと目を瞑ると、レミリアの姿は消えていた。一人残された魔理沙は、跡形もなく消えたその場所を見て、それから強く目を閉じる。

 ――寂しくて。
 ――寂しくて。
 ――寂しくて。
 ――寂しくて、だから。

 渦巻く感情も、目を開くと同時に霧散した。この想いは、何時かフランドール自身に伝えればいい。そう考えたとき、魔理沙の顔にはどこか嬉しそうな笑みが浮かんでいた。



















――第四章:3-3/暗闇に封印せしもの――



 あの日から、フランドールの蹲るだけの日々に変化が訪れ始めた。
 最初は誰か二人は一緒に来ていたのに、だんだんと付き添いが一人になり、連れてくるひとも気紛れとしか思えない人選。
 暇を持て余したのか、なんてことのない顔でレミリアが来て楽しそうに見物して帰っていくこともあった。
 そんな、ずっと誰かと触れ合おうとしなかったこれまでを考えて、あからさまに奇妙な日々。

 いつの間にか、誰かと過ごす気まずさなんて、忘れていて。

「よう! 今日こそ、勝ち越させて貰うぜ!」
「はっ! 言ってなさい。コンティニューは、出来ないよ!」

 いつの間にか、一人で来るようになった魔理沙と、子供のように言葉を交わしていた。

「ええっと、四勝五敗、だよな?」
「私の四勝四敗一分、だよ」

 開け放たれた扉からは光が差し込み、暗かった地下室はその全容を露わにしていた。石畳、大きなベット、衣装ケース、箪笥、机と椅子、ぬいぐるみ。そのボロボロのぬいぐるみは、先日、レミリアが持ってきた物だ。
 変わった、と、フランドールはそう思う。見回せば、なにもかもが光に満ちているようなそんな気がして。

「フラン?」
「なんでもないよ。さ、今日は私が、貰うわよ?」
「いいや、私だね」

 星を作って散らし、月を象って割る。綺麗な魔法を生み出すには、これまでとは違う、繊細な制御が必要だ。理性を持って、楽しく、己の力を制御する。それは、フランドールがもうずっと為し得なかったこと。

「やっぱり、フランの魔法は綺麗だなぁ」

 勝負が終わって、今回はフランドールの負けという結果に落ち着いた。フランドールが、今日は負けたと認めた。
 勝負の検討をして、一段落。何が良かったのか、何が悪かったのか。そう考えている最中、魔理沙が一言そう零す。

「勝ったのは魔理沙なのに褒めるの?」

 敗者の魔法に、如何ほどの価値があるのか。負けた先に残る物なんか、あるのか。戦闘に重きを置く妖怪だからこそ、フランドールは勝者の魔法に目を向ける。最初の勝負で、魔理沙の魔法に感心したときのように。
 ベッドに腰掛けているフランドールに、椅子の背もたれに体重を預けていた魔理沙が楽しそうに笑う。宝物を自慢する、子供のように笑う。

「フランの魔法は、七色なんだ。何かを作るとき、いつも、右手から虹が溢れるだろ?」
「……ぇ?」

 魔法を生み出すとき、右手を握りしめるとき。余分な術式を瞬時に“破壊”して素早く構成を入れ替える“横着”。フランドール自身が嫌悪するその力。

「本当に、綺麗だと思う?」
「ああ!」
「それが、ほんの小さな仕草で、魔理沙を、ひとを、壊しちゃうものだとしても?」

 冷静に、冷静に、冷静に。
 フランドールは自分自身にそう言い聞かせて、魔理沙を見る。フランドールは、日常からこぼれ落ちるような、そんな“本音”が聞きたかった。
 冗談だと思われればいい。怯えられたら悲しい。嫌悪されたら――そう、考えて、フランドールは右手を強く握りしめる。そこに“目”が入り込まないように、隙間無く強く。

「何言ってんだよ?」
「じょう、だん、だから」
「私は、小悪魔が思い切り叩いただけでも、死ぬぜ?」
「だから――へ?」

 けれど、予想もしなかった答えに、フランドールは肩すかしを食らう。ぽかんと間抜けな顔をして、恥ずかしくなって慌てて引き締めると、魔理沙は無駄に胸を張っていた。

「でも、小悪魔はそんなことしない。フランもだろ?」
「なん、で、言い切れるのよ? バカなの?」
「バカって……酷いこと言うなよ。何でって言われても、うーん、やらないだろ?」
「それは、そう、だけどさ」

 ほら、と、魔理沙が笑う。その笑みの意味は、信用と信頼。誰もが恐れ、倦厭したこの力を何故受け入れられるのか。何故、笑ってくれるのか。フランドールは、どうしてもわからずそう訊ねる。

「なんで、そんなに自信満々なのよ」
「なんでって……勝負を始めてから一回も、攻撃しようだなんてことしなかったじゃないか」
「え? それだけ?」

 フランドールがぽかんと首を傾げると、魔理沙はそれだけではまずいとでも思ったのか、それとも新しく答えが見つかった――十中八九、後者だろう――のか慌ててそれに付け足した。

「あ、あと……魔法を使うときのフランが、楽しそうだったから、かな」
「それは別に、魔法を使うのが楽しかったんじゃなくて――」

 楽しかったんじゃない。力を使うときは、いつも楽しくなんかない。でも何故だか、負けたくないと思っていて。何故だか、もっと居たいと思っていて。
 その答えが、わからなかった答えが、熱を帯びてフランドールの胸に宿る。簡単で、けれどもなによりも難しくて、むず痒くて温かい、そんな想い。

「うん?」
「――なんでも、ない。そろそろ、帰って寝たら?」
「ん、ぁ……確かに明日に響くかも。じゃ、また明日な! フラン!」
「ええ、また明日。魔理沙」

 慌てて走り去っていく魔理沙に手を振って見送る。ぱたぱたと階段を駆け上る音が聞こえて、それから小さな悲鳴が響いてくる。おおかた、入り口で頭でもぶつけたのだろう。
 強いのか、弱いのか。きっと、強くて弱くて、やっぱり強いのだろう。フランドールは今頃涙目になっているであろう少女の姿を思い浮かべて、そう微笑んだ。

 何故楽しかったのか。答えはもう、見つかっていた。

「私は、魔理沙と一緒に居るのが、楽しいんだ」

 溢れる想いは温かく、フランドールは楽しそうに笑う。この気持ちを、この照れくさい気持ちを大事にしたいと心の底からそう願って、また声を上げて笑った。







 楽しい日々、充実した毎日。“楽しい”を自覚したフランドールは、より一層魔法に打ち込むようになった。
 食事を持ってきてくれる咲夜にメモを残し、魔導書を見繕って貰ったり。魔理沙が居ないときに、こっそり一人で練習したり。光に満ちた生活の中で、フランドールは楽しそうに笑う。いつの間にか、翳りなどなくなっていて、フランドールはそれがなにより嬉しかった。

「よう! フラン!」
「いらっしゃい、魔理沙」

 誰かをここに招く光景なんて、想像できただろうか。誰かをここに呼ぶ光景なんて、夢に見たことすらもなかった、はずだ。
 そう、まるで夢のようなのだ。夢のように、幻想的で、夢に見るように、理想的で、叶わなかったはずの光がそこにあって。

 だからこそその光は、夢のように、儚いそれは。

「七勝六敗一分。今日も負けないぜ!」
「言ってなさい」


 ――呆気ナク、壊レテシマイソウ。


 浮かんで消えた言葉。それにフランドールは、ただ、首を振る。目を逸らしていたのに、見ないようにしていたのに、それなのに、逃げ続けていた孤独が、フランドールの心にずぶずぶと踏み込んできた。
 震えを抑えるようにスカートの端を掴み。がちがちと歯を打ち鳴らし、青い顔で、振り払おうとする。

 そんなに簡単に、逃げきれる筈なんか、なかったのに。



「どうした?」
 ――脆イ身体。
「なんでもないわ」
 ――細イ四肢。
「顔色、悪いぜ」
 ――血色ノ良イ肌。
「吸血鬼をなんだと思ってるの? 生まれつき。余計なお世話よ」
 ――柔ラカイ首筋ニ牙ヲ突キ立テテ、真ッ赤ナ血デ喉ヲ潤ワシ乾キヲ癒ヤシテ……――
「じゃ、始めるか!」
 ――そんなこと、望んでない。
「ええ。勝ち越させはしないよっ」



 どくどく、どくどく、と、血流がフランドールの内側を犯し尽くして牙を剥く。溢れんばかりの魔力の奔流は、力となって、暴力となって、凶器となって、それでも、フランドールはそんなもの“なんか”に、負けたくはなかった。
 変わったんだ。全部、変わって、これからも変わっていく。もう二度と、暗闇で膝を抱えて蹲る日々は訪れない。魔理沙が、この重い扉を開けてくれるから、だから。

 ――今日、魔理沙が勝てば、どの道全部が終わるのに?
「ぁ」

 魔理沙が、両手を掲げる。これまでで一番綺麗な、擬似的な流星群。これ以上“綺麗”な魔法をフランドールの力で起こすには、無理をしなくてはいけない。
 溢れんばかりの力を完全に制御して、それから繊細で緻密な術式を組まねばならない。もしも今、負けてしまったら。

 目的を失った魔理沙は、もう、きっと。

「レー、ヴァ――――テイ、ン」

 掲げた光が剣となり、紅蓮の炎で包まれる。再生の徴にして破壊の象徴たる炎は、幾度も揺らぎ、やがて、完璧な状態で安定した。
 綺麗、だなんて言葉では言い表せない。七つの世界を結ぶ大樹を燃やす、終焉の剣。神話の再現に、魔理沙は勝負も忘れて手を叩く。

「おおぉっ、すごいぜ、フランっ」
「あ、あはは、私だってやれば、これくらい――――は?」

 ――けれど、それが、気の弛みになったのだろう。
 呆気なく暴走を始めた力は、最早、フランドールの力では抑えられない。幾度となく撓み、揺らぎ、ひび割れそして、爆発した。

――ド、ゴォォォンッ
「きゃぁっ」

 粉塵が舞い上がり、大きく弾かれ、けれど辛うじて両足を付いて着地する。
 そのままフランドールは、転びそうな程力強く地面を蹴って、悲鳴も上げずに土煙に隠れた魔理沙の下へ駆け寄った。

「魔理沙、どこに――ぁ」

 晴れた煙、横たわる金、流れ出る赤。メイド服をじわりと染めるその真紅に、フランドールは吸血鬼としての衝動を――

「ぐっ」

 ――唇を噛み切る痛みで、抑え込んだ。
 口内に満ちる自身の血液で衝動を誤魔化して、返事のない魔理沙を抱き上げる。意識のない身体は重くて、それが命の重みのようで。

「魔理沙ッ、どうしよう、どうすれば、いや、そうだ」

 抱き上げた魔理沙に振動が伝わらないように、フランドールは宙を浮く。あれほど拒んでいた“部屋の外”へ簡単に飛び出し、風を切ってつき進み、地下室への秘密の扉を開けるときは、慎重に。

「魔理沙、魔理沙、魔理沙……おねがい、だから」

 フランドールの瞳から、熱い雫がこぼれ落ちる。その雫が魔理沙の頬へ落ち、流れると、まるで彼女が泣いているように見えた。
 急激に熱を宿し始めた目尻に気を払うこともなく、フランドールは図書館の扉を開ける。魔理沙を揺らさないように、揺らさないようにと気をつけているのに、力なく揺れる手は、小さくて。

「パチュリーッ! お願い、おねがいだから、魔理沙をっ」
「妹様? っ待っていなさい!」

 何事かと飛んで来たパチュリーが、本を投げ捨てて近づいてくる。フランドールの手から魔理沙を受け取り、瞳を開らかせて瞳孔確認。脈を取りながら魔法で、血が出ている頭と腹部の怪我を癒し始めた。
 その頃には、パチュリーから思念魔法で連絡でも受けていたのか、小悪魔が飛んで来てそれに加わる。

 ――誰かを癒やし、満たす、魔法。壊すだけの魔法なんかじゃ、なくて。

「わたし、は……私は、どうして、こんなに……っ」

 握りしめた拳から、赤い血がこぼれ落ちる。魔理沙が流した血がこの程度の事で戻るのなら、フランドールは自分の手首を切り落としてしまいたいと、そう思って歯がみした。
 結局、そんな行動はなんの意味も為さないと知っている。傷つけたら罰があって、罰から逃れたいのならそうすればいい。けれどそれでは、例え冥界に足を運んでも、贖う事は出来なくなる。

「こんなに、無力なんだろう」

 声が、溶ける。慌ただしい空間に、呑み込まれるように。







「ショックで昏倒しただけね。少しすれば目を覚ますでしょうし、問題はとくに……妹様?」

 魔理沙の治療を終えて、パチュリーが顔を上げたとき。そこに、フランドールの姿は無かった。彼女が立っていたはずの場所に残るのは、床に染みた水の跡のみ。
 ぐったりと横たわる魔理沙を腕に抱くパチュリーはどうすることも出来ず、水差しを持ってきた小悪魔と、ただ、顔を見合わせて首を傾げた。







 ぼんやりとした光を瞼の裏に受けて、魔理沙はゆっくり目を開ける。見慣れた、高い天井。圧迫感のある、立ち並ぶ本棚。魔法の灯りが温かくて、魔理沙は大きく欠伸をした。

「ふわ、ぁ……ぁれ?」

 なんで、こんなところにいるのか。身体を起こして首を捻る。順々に思い出していこうとした所で、魔理沙は頭と腹に巻かれた包帯に気がついた。
 と、途端に、脳裏に浮かぶ光景。真紅、虹、爆発、粉塵、衝撃、悲鳴、鈍痛、寒気、暗転。最後に見たのは、なんら色気のある物ではない。赤く染まる、己の視界だ。

「死にかけた、のか?」
「そんな訳無いでしょう。ショックで昏倒しただけよ」
「おわっ……せ、先生」

 本を片手に、ふわりと浮かぶパチュリー。彼女の隣では、小悪魔が苦笑を携えて佇んでいた。彼女たちと、それから“彼女”が助けてくれたのだろう。そう思って見回してみても、期待した姿は無い。

「ねぇ、魔理沙。あの子が怖くなっ――」
「先生っ、フランは?!」
「――……はぁ、そうね。貴女はそういう子だったわね」

 ため息を吐くパチュリーに飛びつき、彼女のその反応に首を傾げる。それから直ぐに忙しなく顔を動かして、フランドールの姿を探し始めた。
 ここに運んできたのは間違いなく彼女だろう。けれどその面影も、温もりも、なにも残っていない。

「妹様なら……あの子なら、何時もの所よ」
「ぁ――ありがとう、先生!」

 淡々と告げるパチュリーに魔理沙は勢いよく頭を下げて、それからほんの僅かに頭痛を覚えて踵を返す。上手く動かない身体に鞭を打ち、崩れそうな足を忙しなく動かし、すれ違う小悪魔に笑顔で送り出されて。

「フラン……」

 歯を食いしばって、ライバルの名前を呟いた。
 種族としての力を見るなら、フランドールの方が遙かに上だ。吸血鬼と人間なんて、一分の例外――咲夜のような――を除いて、並び立てるはずがない。
 それが、覆しようのない現実。けれど、幻想なら、現実をどうにかできるのではないか。魔理沙はそう、暗い地下道を星の魔法で緩やかに照らしながら、考えていた。

「フラン……私は」

 意識を失う間際に聞いた悲鳴は、痛々しく、思い返す度に、魔理沙の胸を強く抉る。今、フランドールはどうしているのか。何を思っているのか。それだけを考えて、魔理沙は重厚な扉の前に立った。







 ――何時からひとりだったのか、フランドールは、覚えていない。

 暗闇の中、右手を握れば熱を持った赤が己に降り注ぎ、断末魔の声が響く。何度も、何度も、何度も。それを幾度繰り返したかフランドールは覚えていないが、ある日突然それがなくなった。
 日中の、意識を落としている間に扉の前に食事が置かれて、それをのそりと手を出して食べる。良い食材と腕の良いコックを使っているのだろう。舌触りが良く、味のバリエーションも満足のいくものだ。

 けれど、どんなに食べても――満たされることは、ない。



 心躍る本。
 ――読み終わったら捨ててしまう。楽しかったと渡す相手がいないから。
 美味しい物。
 ――明日になれば忘れてしまう。誰にも美味しかったと告げられないから。
 豪華な美術品。
 ――見てもなんとも思わない。いずれ暗闇に溶けてどこにあるかもわからなくなるから。



 たまに訪ねてくる姉に、その友達を紹介されて、フランドールは彼女と“遊んだ”のだけれど、直ぐに離れて行ってしまった。
 受け入れてくれるかも知れない。でも、力を見せたらどうなる? 本当に見せても、どうにもならなかったかもしれない。けれどフランドールは自分自身で拒絶してしまった。

「どうして、私は」

 膝を抱えて、胸を押さえて、蹲って唇を噛み切る。幾度となくした自問自答。ひとりぼっちの世界はなによりも寒くて、狭い。けれどそれも、享受せねばならないのだ。
 傷つけて“壊した”相手は、帰ってこない。二度と逢える日は来ないのだ。嫌われてしまうから。

「でも、いいや。あはは、なんだ、元どおりじゃん」

 力なく笑い、右手を握る。そこに眼はなくとも、何かが壊れたような気がした。いや、きっと既に壊れているのだろう。フランドールはそう自嘲すると、さらに深く膝を抱える。


「また明日から、“いつも”が戻るだけ」
 ――あの時は、挨拶もできなかったからな。私は魔理沙。霧雨魔理沙だ!
「目が覚めたら、真っ暗で」
 ――フランドール……フランだな! よろしく!
「ただ、与えられた食事を享受して」
 ――フラン! 私はおまえにライバル宣言をするっ!!
「眠くなるまで、ぼんやりして、適当な時間になったら寝て」
 ――よう! 調子はどうだ?
「そうやって、ひとりでいい。ひとりで、過ごして、きた……のに」
 ――次は負けないぜ、フラン!
「ひとりは……」
 ――やっぱり、フランの魔法は綺麗だなぁ。
「ひとりは、もう」
 ――フランの魔法は、七色なんだ。
「ひとりはもう、いやだよ…………魔理沙っ」
 ――また明日な! フラン!


 ぽたぽたと、冷たい石畳に熱を持った雫が落ちる。両手で何度も何度も拭って、それでも、雫は止まってくれない。
 スカートを濡らして、顔が痛くなるくらいに顔を顰めて、喉から小さく声を零して、それでも止まってくれない。

「うぁ、やだ、なんで、止まってよ、とまっ、ぁっ、とまって、やだ、うぁあ、ああぁ」

 寂しかった。
 耳を澄ませば聞こえてくる、楽しげな音。今日はパーティだろうか。心なしか、料理が豪華だ。新しい妖怪が仲間入りしたらしい。メイド長代理なんてポストが出来た。今日は少し冷える。雪って、なんだろう。外には、何があるのか。


 ――教えてくれるひとは居ない。
 ――話を聞いてくれるひとは居ない。
 ――一緒に過ごして、喜びを分かち合うひとなんか、居るはずもなくて。


 居なくて、居なくて、居なくて、いつしか、フランドールは“要らない”と思うようになった。なにも持つ気がないのなら、それで幸せになれると、そう信じていた。

 ――幸福の意味も、知らないのに。

「あ、うぁぁぁっ、ひとりは、っ、ぃやだ! お姉さま、パチュリー、小悪魔、美鈴、咲夜――」

 また、元どおり。孤独へのリセット。

「――はなれ、たくないっ、ぅぁっ、っない。もっ、と、一緒に居たいよっ。魔理沙ぁっ」

 答えはいつも変わらない。嘆きは響かず、悲しみは届かず、祈りは叶わず。変わらない。きっと、なにも変わらない。神様は、願いを叶えてなんかくれない。天使は、願いを運んでなんかくれない。

 悪魔たる彼女に、願いを叶えてくれるものがいるとしたら、それは――

「また来たぜ、フラン」

 ――きっと、“魔”法使いだけだ。

「なん、で?」

 重い扉の向こうから、一筋の光が差し込む。星色の輝きはフランドールに向かって長い影を伸ばし、逆光の中に幼い少女の姿を浮かび上げた。
 フランドールと同じくらいの背、フランドールよりも淡い色の金髪、フランドールの翼のように、七色に変わる表情。そこにフランドールが想像していた怯えや恐怖や、悪意はなくて。

「なんでって……ライバルで、友達だろ?」
「とも、だち?」
「ああ、そうだ。友達が泣いていたら、どこへだって飛んでいく」
「こわく、ないの?」
「何言ってんだ? 友達を怖がる筈なんか無いだろ? フラン」

 雨上がりの虹は、何よりも美しい。物語にしか見たことのなかった輝きを、フランドールは魔理沙の笑顔の中に見た。
 ずっと忌諱していた光の世界。ずっと拒絶していた、当たり前の幸福。きっと、この小さな少女は、それをもたらすカボチャの魔女。王子様ではなく、ただ外を求めた灰被りを救う、“友達”。
 フランドールは、自身に重く纏わり付く闇を振り払って、立ち上がった。ただ、赤子のように手を伸ばし、けれど、幸福を求める手は力強くて。

「魔理沙ぁっ!」

 フランドールは虹色の羽をはためかせて、魔理沙の肩に顔を埋めて、一緒に倒れ込んだ。

「うわっ」
「魔理沙、魔理沙っ、魔理沙ッ!」
「おおお、重い、重いって、フランっ」
「ごめん、ごめんね、ごめんなさい、ごめんね、魔理沙」
「わわわわ、わかった! わかったから、刺さってる、牙が首に刺さってるっ」

 土煙を立てて、フランドールの下敷きになった魔理沙がバタバタと暴れる。最初の内は暴れていた魔理沙も、徐々に小さくなっていくフランドールの嗚咽に合わせて、大人しくなっていた。
 小さな手をフランドールの頭に載せ、変わらない高さのそれを慎重に撫でる。けれど撫で慣れていないせいか、帽子を取ったり角度を変えたりして、苦戦気味だ。

「お、おお? これはけっこう難しいな……」
「――怒って、ないの?」
「ん?」

 フランドールの消え入りそうな声に、魔理沙はぴたりと動きを止める。それから、何もわかっていないようなきょとんとした表情で撫でる手の動きを止めて、苦笑した。

「怒ってない」
「なんで? 怪我、したのに」
「謝る“友達”に怒り続けるのは気持ち悪いっていうか、なんか、嫌だ」

 頬を掻いて目を逸らす魔理沙に、フランドールは震える声で尋ねる。幼い子供が、悪いことをして家族に怒られるのを怯えるように、慎重に。

「とも、だち? 私、友達で、いいの? 魔理沙の友達でいて、いいの?」
「もうずっと友達だと思ってたんだが、それは私だけか? だったら、けっこうショックなんだけど」
「そんなことないっ! そんなこと、ない、けど――」
「だったら」

 フランドールの弱々しい声を断ち切って、魔理沙の快活な声が地下室に響く。

「だったら、仲直りだ。な? フラン」
「――ぁ」

 起き上がって、座り込んだまま向き合って、魔理沙が小さな手を伸ばす。フランドールはその手と、自分の“右手”をじっと見つめて、やがてゆっくりと手を伸ばした。
 掴もうか躊躇うフランドールの手に、待ちきれずに重ねられる幼い手。人よりもぽかぽかと温かいその手を、緩やかに握り返す。

「うん、仲直り、だね。魔理沙」
「おう!」

 もう、彼女の瞳に涙は浮かんでいない。真っ赤に腫れた眼を、暗闇の中で拭い続ける必要なんかない。
 何故なら、彼女の隣には、闇を照らし涙を拭う温かな“魔法使い”が、明るい笑顔を携えて寄り添っているのだから。



















――第四章:4/ともだちと――



「ありがとうございましたっ」
「気をつけて行きなさい。そそっかしいんだから」
「はいっ、先生!」

 魔理沙はそう、パチュリーに勢いよく頭を下げて走り去る。手には図書館で小悪魔に選んで貰った大きな本を抱えて、顔には満面の笑みを浮かべて、その足取りは軽やかだった。
 夕方から夜にかけてパチュリーに魔法を教えて貰ったら、あとは翌日に向けて休むだけ。自己練習程度ならするけれど、もう仕事はない。

 これまではそうだった。

 図書館を出て直ぐに、地面に手を当てる。すると石畳が開いて、中から階段が現れた。魔法によって常時明るくしてあるので、もう、転がり落ちることもないだろう。

「油断は禁物っと」

 それでも魔理沙は慎重に、逸る心を抑えて降りる。時折滑り落ちそうになって足を止め、その度にほっと胸を撫で下ろす。

 それを少し繰り返すと、そこには、重厚な扉が――無かった。

 重々しい扉はもう、必要ない。何時でも気軽に開ける木製の扉。魔理沙はそれをノックすることもなく、ぱたんと開いて声を上げる。
 館の主の家族に対してこれでは、メイドとしては失格も良い所だろう。けれど、魔理沙の場合は、それに相当しない。何故なら、そこに居るのは目上のひとなんかではなくて――

「よう、フラン! 面白そうな魔導書持ってきたぜ!」
「いらっしゃい、魔理沙。抜け駆けはしないって事ね? 殊勝だわ」

 ――対等な、友達なのだから。

 照明魔法によって明るく照らされた室内。石畳の上には柔らかな絨毯。沢山のぬいぐるみは、レミリアが置いていったものだ。
 本棚に並ぶ魔法の本は、パチュリーが。物語や伝記は小悪魔が。壁に掛かっている時計は咲夜が贈り、花瓶と花は美鈴が。アリエッタやマリエルも小物を送っていて、前よりもずっと賑やかな内装だ。

「だからさ、ここを弄ればもっと綺麗になるんじゃないか?」
「それだと“どかーん”よ? だからね、ここを、こう」
「おお、流石私のライバルだぜ!」
「これくらい出来て当たり前よ。魔理沙のライバルなんだから」

 胸を張るフランドールと、魔理沙。よく似た仕草でそうするのが面白くて、二人揃って笑い出した。いつしかその笑いは止まらなくなって、地下室に響いていく。
 もう、ここに、重々しい暗闇なんか存在しない。あるのは、ただ小気味良く響いていく楽しげな声達だけだった。







 夜も深くなると、常に元気な魔理沙でも流石に眠くなる。

「ふわ、ぁ」
「……ん、そろそろ良い時間ね」
「はふ、ああ、そうだな」

 瞼をごしごしと擦って立ち上がる魔理沙に苦笑すると、フランドールは自分の部屋に戻ろうとする彼女を立たせた。

「ん、サンキュ」
「いーよ。また明日ね、魔理沙」
「おう……また明日、フラン!」

 互いに、柔らかな笑みを交わして別れる。軽快な足取りで階段を駆け上り、時折振り返っては、階段の下で手を振るフランドールにそれを返した。
 こんなに笑って、笑い合って手を触れるなんて事、いったい誰が想像したか。そう問われれば、魔理沙は胸を張って答える事だろう。彼女は最初から、何も疑っていなかったのだから。
 最早秘密とは言えない出入り口を抜け、階段を駆け上り、真っ直ぐと部屋に戻る。溜まってきた疲れに、覚束ない足取り。魔理沙の身体は、休息を求めて揺れていた。

「ふわぁ……もう寝ないと、明日に差し支え――る?」

 部屋に近かった。それは当然の油断。足を滑らせて転ぶなんていうことは、仕方がないことだろう。けれど、魔理沙の眼前には、誰かが運ぶ途中で落としたのだろう、割れた花瓶の破片が突き立っていて。

「っ」

 ぎゅっと目を瞑り、避けようのない痛みを待ち構える。けれど、何時まで経っても顔に激痛が走ったりはせず、何故だか魔理沙は奇妙な浮遊感に包まれていた。
 ゆっくりと目を開けて、二度三度と瞬き。それからきょろきょろと見回すと、視線の先には赤い紐がリボン結びにされた白い靴があった。

「パチェの言っていたとおり、そそっかしいわね」
「ぁ……レミリア、さま」
「言いにくいなら、もう好きに呼びなさい。魔理沙」

 魔理沙の服の背中を掴み、そのままぶら下げる小柄な身体。レミリアは呆れたような表情と仕草で、魔理沙にそう言い放つ。
 すとん、と優しく地面に降ろされた魔理沙はしばらくそのまなきょとんとしていたものの、直ぐに、快活な笑みを浮かべて頷いた。

「ああ、ありがとう! レミリアっ」
「なんでパチェには丁寧語なのかしらね?」
「レミリアはなんか、“友達”のお姉ちゃんって印象が強くて」

 友達……その言葉に、レミリアは眉を下げて笑う。彼女にして珍しい、困ったような笑み。魔理沙はそれに首を傾げつつも、しゃがみ込んで花瓶の破片を拾い上げた。もし他に誰か怪我でもしたら、大変だ。
 うんうんと自分で頷いて、それからもう一度、レミリアに頭を下げた。

「おやすみ、レミリア!」
「吸血鬼にとってはおはよう、よ。まったく」

 レミリアの返事も聞き届けないまま、魔理沙は部屋に戻る。失礼だと思ってはいるが、けれど――震えているのを、見られたくなかった。
 着替えもそこそこにベットに身体を投げて、かたかたと震える肩を抱き締め、それも直ぐに収まる。けれど、胸中に染みる不安を前に、背筋が粟立つのを止められそうになかった。

「なんだってんだよ……本当に」

 渦巻く不安から、逃れることは出来ない。魔理沙はそう、思考を止められず、拭いきれないまま眠気から意識を落とした。







 吸血鬼の、人間に比べて格段に良い聴覚が、扉の向こう側の寝息を捉える。レミリアは安定してきたそれに胸を撫で下ろすと、魔理沙の部屋の扉にそっと体重を預けた。
 ここにいるのは、レミリアと、それから扉向こうの魔理沙だけ。だからこそ、レミリアは、一メイドでしかない魔理沙を“急いで”助けることができたのだ。

「私に出来ることは、あと、幾つある?」

 自問自答したところで、答えはいつも一つだけ。ただ、知っている正答が脳裏を過ぎるだけ。なにも変わらないし、変えることは叶わない。

「はっ、何が、“運命を操る吸血鬼”よ」

 自嘲を浮かべる頬は弱々しく、けれど正面を見据える眼は鋭い。レミリアは、完成された紅魔館の当主としての自覚と、妹と家族を守るただの妖怪という面の理解を、同時に顔に映して笑っていた。

「“家族”を守ることも、できないなんて」

 声は、消える。雨を予感させる空は暗く、月さえも彼女の零した感情を拾うことはできなかった。



















――第五章:1/悪夢――



 ――できた!
 ――えと、どうだ?
 ――……うん。そっ、か。
 ――出来て、当たり前なんだ。
 ――もしも、できなかったら、私は…………――……



 耳鳴り、怒号、冷淡、鋭い目が身体を射抜き、冷たい声が背筋を粟立たせ、踵を返す音が胸を打ち、遠ざかっていく背中が、痛くて、重い。
 一生懸命手を伸ばしても、目標には届かない。何度も歯を噛みしめて、足掻いても、振り返ってはくれない。わかりきっていた結末なのに、それが悲しくて、辛くて、苦しくて、憎くて、だから。



 ――すごい。
 ――こう、して。
 ――できた! わぁ。

 ――こんなにすごいことが、できるなら。
 ――“――”も、“―――”くれるかなぁ……。



 間違えなんか、わからなかった。正しいことなんか、わからなかった。遠い背に見る姿は何時も、やり遂げること以外はなにも求めていなかった、なのに。

『こんな! おまえは、もう、“―”なんかではない! どこへなりとも、“――”!』

 怒号、痛み。
 熱を持つ頬、激情に燃える心。沸騰した頭はもう、決別以外に道なんか用意していなくて。踵を返し、僅かな食料と服の入った麻袋と地図を持って、逃げ出して。
 分かれ道に悩み、風が吹く方を――止めた。なんということのない気紛れ。後ろ髪引かれるような妙な感覚。それでももう後戻りする暇は無い。その後直ぐ、何かに嗅ぎつけられて走った。走って、麻袋を捨て、地図を捨てて。

 けれどどんなに逃げても、それを嘲笑うように“現実”が迫る。結局何も変わらない。変えられはしない。そう、諦めたくない心と戦いながら、痛みを待って――



「ッ」



 ――唐突に、目が覚めた
 。ばくばくと鳴る胸。額から流れ伝う汗が枕にじわりと後を残した頃、魔理沙は漸く、“あれ”が夢だと気がついた。ここでの生活に慣れてからというもの、一度も見ることがなかった、夢なのだと。

「くそっ」

 思い出したくないことほど、何度も、魔理沙の心を抉っていくということ理解して、魔理沙は力なく枕に拳を落とす。
 目を閉じれば、何時だって思い浮かべることが出来る、既に通り過ぎた光景。二度と掘り返すまいと誓った記憶。

「あー、着替えて、鍛錬に行かなきゃ」

 のろのろとメイド服に着替え、その途中、指先に痛みを感じて魔理沙はエプロンを落とす。

「っ、って、まち針?」

 エプロンに、まち針が残っていた。洗濯に出してその後、ほつれていたのを誰かが修復したのだろう。単純なことだ。直ぐにわかる、自明の理。けれど魔理沙はそれを、鋭い瞳で見下ろしていた。
 誰かが、悪意を持って魔理沙に罠を仕掛けた。そんな事を疑っているのではない。
 努力を重ねて、不器用に、けれどしっかり仕事を重ねていく魔理沙。そんな魔理沙を、妖精メイド達も気に入り始めているのだろう。よく声をかけて手助けしてくれる彼女達を疑う事なんて、できない。
 それでも敢えて考えるのなら、そんなねちっこい罠を仕掛けるのは妖精らしくないともいえる。彼女たちなら、もっと派手でくだらなくて時々ちょっと危険なこと、と、わかりやすく仕掛けてくるはずなのだから。

「最近、多いな」

 花瓶が落ちてきたり、本棚から本が落ちてきたり、調理中に、誰かの包丁が振ってきたり。運の悪さも、ここまで来れば箔が付く。魔理沙はそう自分自身に言い聞かせて、今度こそエプロンを身につけた。

 なんにしても、うじうじしていられない。出来ない仕事はまだまだ残っているのだから――やらねば、後はないのだから。



















――第五章:2/期待の少女――



 皿洗い、野菜の皮むき、包丁の研ぎ方、厨房の掃除。
 掃き掃除に、拭き掃除、洗濯に、浴場のモップがけ。

 最初はそれこそ皿の一つも洗えなかったのに、今ではどうだろう。一人前と呼べるほど手際が良くなくても、何でもこなそうと頑張って、確かに成長していく。
 予想なんか簡単に飛び越えて、新しい結果を出して、また、友達を増やしてどこかで笑っている。咲夜は、そんな魔理沙を見て思わず微笑んだ。

「本当、全然予想できない子ね」

 もう、ひな鳥のように咲夜の後をついて回ったりはしない。けれど、咲夜はそれに寂しいだなんて思わないし、思う必要もないのだ。

 だって――

「咲夜、咲夜っ、マフラー、これでどうだ?」
「うん……あら、良い出来じゃない。これなら、妹様も喜ばれると思うわ」
「フラン? いや、フランにもあげるけど、これは、その、咲夜の分だから」
「ふふ、そう、知ってる」
「そうか、知って――知ってたのかよ?!」

 ――なんだかんだで、咲夜に一番懐いているのだから。

 早朝、朝一番。起き出して来て仕事に向かおうとしていた咲夜に、魔理沙は笑顔で駆け寄ってきたのだ。自身の“鍛錬”が終わった後にでも持って来ようと持ち歩いていたのだろう、大きな袋を提げて。
 何か仕事が出来るようになる度に、魔理沙はこうして咲夜に報告に来た。魔理沙が初めて一人で焼いたクッキーを食べたのは咲夜だし、初めて作った歪な手袋を貰ったのも咲夜。
 魔理沙は何かあると、まず咲夜を頼ってきた。頼って、咲夜からアドバイスを貰って、次の時にはちゃんとこなせるようにしてきて咲夜を驚かせた。

「咲夜のいじわる」
「むくれないの。美味しい紅茶の淹れ方、教えてあげるから」
「ホントか?! それなら、許す!」
「あら、嬉しいわ」

 視線の先、少し下。煌びやかな黄金が楽しげに揺れるさまを、咲夜は微笑みを浮かべたまま見ている。やがてその揺れはぴたりと止み、魔理沙は思い出したように目を瞠った。
 喜怒哀楽、驚きから呆然まで、ころころと移り変わる多彩な表情。きっと自分では、こんなに可愛らしい仕草は出来ないと、咲夜は“可愛らしい”笑みを浮かべる。

「っと、そろそろ師匠のところ、行ってくる!」
「そう。気をつけなさいよ。そそっかしいんだから」
「それ、先生とレミリアにも言われたよ」

 軽快な足取りで駆け去りながら、魔理沙は咲夜にそう言い残す。背から響く声は、幼い見た目に対してずっと大きくて、なんだかそれが可笑しくて仕方がない。

「もう、あの子ったら、また呼び捨てにして」

 最初は、どうだったか。走り去った魔理沙を見送り、咲夜はそう思い出す。咲夜は、魔理沙のことをあまり良く思っていなかった。マリエルは邪魔者だとすら思っていただろうし、アリエッタは興味を示さない。
 パチュリーや小悪魔も魔理沙を路傍の石を見るような目で見ていたし、レミリアだって、フランドールだってそうだ。美鈴に至っては、強く警戒心を抱いてすらいた。

 けれど、今はどうだ。

 マリエルは手ずから調理の指導をしているし、仕事の配置など、アリエッタも何かと気を配っている。
 パチュリーは先生と呼ばれて親しまれ、小悪魔はパチュリーが詳しくない冒険活劇を魔理沙に勧めて、読み聞かせたりしている。
 警戒していた美鈴も、師匠と呼ばれ、自ら鍛えて、心構えまで教え込んでいると咲夜は魔理沙から聞いていた。
 その上、咲夜とて打ち解けることが出来なかったフランドールとは、いつの間にか友達で。その上、レミリアとも打ち解けていたのだ。

「気がついたら、みんなの心を解きほぐしていた、か。ふふ」

 そしてそれは、咲夜も同じ事。
 最初は追い出してやろうとすら思っていたのに、いつの間にか一度も会わない日があるとどうしてだか心配にすらなってくる。
 彼女が、あの小さな少女が咲夜にとってここまで大きな存在になるなど、いったい誰が想像したことだろうか。

「昔の私に言ったら、きっと私の頭を疑ってくるわね。間違いなく」

 そう言い捨てながらも、その声は楽しげだ。事実、楽しくて仕方がないのだろう。声に出して笑みを零し、魔理沙の笑顔を脳裏に浮かべて、また、笑う。

「あの子にもっとちゃんと教えられるように、練習しておかなきゃ、ね」

 ひとまずの目標は、美味しい紅茶の淹れ方だ。アリエッタに聞いて、それから人に教えられるくらい上手になっておこう。魔理沙に教えるまでの間に、しっかり練習しておこう。
 咲夜もそう、魔理沙に影響されて、いつの間にか彼女のように努力を重ねるようになっていた。これまでよりもずっと、一生懸命に。







 座り込んで、足をぴんと伸ばす。深く息を吐きながら身体を倒していくと、鼻先が膝にぴたりと付いた。そのままぐっぐっと身体を上げ、沈め。幾度か繰り返すと、魔理沙はゆっくりと身体を起こす。

「ふぅ……ん、っよし」
「そうそう。柔軟体操はしっかり。人も妖怪も、突然止まれば負荷がかかるから」
「はい、師匠っ」

 美鈴の言うことに、魔理沙は素直に頷く。足を広げて、身体を沈め、腰を捻って仰け反らして。鍛錬を終えた魔理沙は、こうして〆の柔軟体操をするのが日課であった。
 そんな魔理沙の事を、美鈴は目を眇めて見ている。もし、何かおかしな所があったら直ぐに指摘する。それが美鈴の主な役割と言っても良いだろう。教え導くのが“先生”で、“師匠”とは背中を見せて歩かせるものなのだから。口出しは基礎の基礎。最低限で構わない。

「魔理沙」

 それは、魔理沙も承知していることだ。だからこうして、鍛錬の終了を告げられる前に声をかけられたことに首を傾げる。身体をこわすような妙な柔軟体操をした覚えなど無い。

「休息も鍛錬の内。酷使しすぎては筋肉がうまく再生せず、成長にも影響が出るよ」
「へ?」
「動きが鈍い。休息を怠るようでは、技に緩急の強さを求めることは出来ないの」

 矢継ぎ早に告げられる言葉を、魔理沙は必死に噛み砕く。休息も鍛錬の内、それ即ち――

「え、えと、休めってこと?」

 ――休むこともまた、修行の一環ということだ。
 魔理沙は頷く美鈴に、頬を掻きながら笑う。休息をしろと言われても、はい、わかりましたと頷く事は出来ない。指示を聞けないということではなく、わからないのだ。

「ええっと、休んでるぜ? 師匠」
「気脈が乱れている。そういうのは、疲れを取ってから言いなさい」
「はーい。疲れてなんかいないんだけどなぁ」
「魔・理・沙?」
「はいっ」

 美鈴が鋭く細めた瞳でそう言うと、魔理沙は背筋を伸ばして真っ直ぐ立った。こんな時だけ模範的。美鈴はそんな魔理沙に苦笑すると、よくわかっていなさそうな魔理沙に終了を告げる。どの道、これ以上引き止めてもおけない。
 休息を取るように指示をしておいてそれでは、本末転倒だ。次の仕事を用意する時間が短くなって、余計に休めなくなってしまうことだろう。

「ありがとうございましたっ」
「ええ。ちゃんと休むのよ?」
「はいっ、もちろんだぜ!」

 魔理沙はそう言うと、踵を返す。休んでいる、というのはもちろん、嘘ではない。第一、気を読み取ることが出来る美鈴に嘘を吐こうとするだけ無駄というものだ。
 けれど、美鈴の言わんとすることにまったく心当たりがないのかと言われれば、そうともいう事が出来ないと魔理沙は自答する。

「休んではいるけど、さ」

 遠い壁。出来ると喜んでくれるひと。出来なかった先に何があるのかなんて、想像もしたくない。冷たい目、怒号、痛み……思い出そうとして、頭を振って払う。
 思い出しても良いことなんか何もない。ただ見たくもない現実に牙を剥かれ、助けを呼ぶ暇もなく、足掻く暇すらもなく、呆気なく瓦解することだろう。

「――休んでばかり居たら、何も出来ないじゃないか」

 魔理沙の声が、紅魔館の廊下に響く。けれど、慌ただしい朝の時間に、それを聞き届ける事が出来るものはいなかった。







 厨房に入り、また、出来ることが増えてマリエルに乱暴に頭を撫でられる。アリエッタに仕事の配置を、もっと色々と経験できる場所に移して貰い、それについて咲夜に聞きに行く。
 慌ただしい午後は瞬きの内に過ぎていき、背伸びをして背骨がぱきぱきと小気味良い音を立てる頃には、夕方になっていた。

「よしっ……先生っ」
「今日も妙にやる気ね。まぁ、良いわ」

 パチュリーはそう一言告げると、魔導書を持ってふわりと浮き上がった。静謐な図書館に荘厳な魔力が充ち満ちて、月輪と日輪が幾重にも交差する。小悪魔が過剰演出と呟くのもなんのその。
 パチュリーは今日も、圧倒的な“力”を提示して、魔理沙に学ぶべき道を照らし拓いて見せていた。

「さて、今日はそろそろエレメンタルから足を踏み出し、さらなる――んん?」

 ごくりと、魔理沙が生唾を呑み込んだちょうどその時。何かに気がついたパチュリーは、魔力を霧散させ、すとんと地面に降り立った。

「せ、先生?」
「じっとしていなさい。はい、口開ける」
「へ? あ、う、うん」

 パチュリーに言われるがまま口を開き、舌を引っ張られ、瞳をこじ開けられて魔法で光を浴びせられる。それから耳を引っ張ったり頭を撫でたり脈を測ったりと色々と弄くり回すと、戸惑う魔理沙を前に、パチュリーは顎に手を当てて頷いた。

「ふむ」
「どうかされましたか? パチュリー様」
「今日の予定は変更。小悪魔、“は”の三十番、右から三冊持ってきなさい」
「あー、あー、はいはいはい、なるほどなるほどお優しい。賛成です」
「無駄口叩かないの」

 小悪魔は、パチュリーの言葉から何を汲み取ったのか、パチュリーの顔を見て、それから魔理沙の様子を見て、小気味良く笑って図書館の奥へ消えていった。
 だんだんと読み取れるようになってきた主従の遣り取りではあるが、魔理沙ではまだまだ読み取れない部分なんていくらでもある。魔理沙はそれが、ほんの少しだけ悔しくて小さく唇を尖らせた。

「さて、魔理沙」

 気がつけば、小悪魔が持ってきた本を片手に、パチュリーが黒板の前で気怠げに説明の体勢に入っていた。
 今日は座学にするのか。それはそれで面白そうだと魔理沙の瞳が輝き、パチュリーはそれを見てあからさまなため息を吐く。
 意味はわからないが、微妙にバカにされているような気がする。そう、ますます頬を膨らませる魔理沙に、パチュリーの斜め後ろに立つ小悪魔が柔らかく微笑んでくれた。
 彼女がこうしておちゃらけているときは、パチュリーもまた怒っている訳でないということなのだから。

「良い、魔理沙」

 魔法の講義が始まる。遠回しで詩的、静かな声から紡がれる言葉は、本の中でしか見たことのない、海の向こうから歌われる人魚姫の声のように、人を惑わす力に満ちていた。
 普段はあえて派手な魔法を多用しているのかと、そう感じさせるほどにパチュリーの声は深く澄んでいる。
 歌声に惑わされた船乗りのようにうとうとと聞いていた魔理沙は、最後のワンフレーズで目が覚める。まるで、遠回りのあげくにこれを言いたかったのだと言われそうなほどに力の込めた言葉を、魔理沙は耳に留めた。

「魔法とは自然の力。それはなにも学んで制御をするだけではない。たまには冥想なさい」

 冥想。地味な修行方法という意味ではトップに躍り出ることだろう。唇を尖らせる魔理沙を、パチュリーは“たのしい冥想入門編”と表紙に金字で綴られた本で軽く叩く。

「この機会だから、妹様と一緒に勉強なさい」
「え?」
「二人でならそんなにつまらなくもないだろうって、パチュリー様は言いたいんですよ、魔理沙ちゃん」

 堪え切れない笑み、その奥に潜む優しげな瞳。意味を理解した魔理沙の頬に、ぼんやりとした熱が篭もる。

「小悪魔。悪魔は灰からも再生できるのか、ちょっと実験してみたいのだけど」
「おっと、急用を思い出しました。それでは失礼しますね、パチュリー様」

 普段と何一つ変わらない二人の様子に魔理沙は嬉しそうに頷くと、本を力強く抱き締めた。

「ありがとう、先生、小悪魔っ」
「ふん、さっさと行きなさい」
「はいっ」

 弾む心と軽くなる足取り。今日の悪夢のことなど忘れて、魔理沙は走っていく。これから友達に会って、パチュリーの様子を伝えて二人で笑い合うのだ。
 そうしたら、また咲夜の所へ寄って紅茶の美味しい淹れ方を教えて貰う。なにも辛いことなんか無い。明日を楽しみに出来る生活。過去のことなど気に掛ける必要は無いし、これまでの運の悪さも、きっと偶然。

 魔理沙は自分にそう、言い聞かせて――重くのしかかる“なにか”にも気がつけぬまま、走る。
 図書館の扉を抜け、地下室へ続く床の扉を開けて、そして。

 ――……ッ
「うん?」

 何かが、ひび割れる音。思わず足を止めた魔理沙は、反射的に上を見る。老朽化か、それともまた別の要因か。剥がれ落ちた天井の一部が、ひび割れて落ちて。
 最初から気がついていれば防げたかも知れないそれを、魔理沙は、避けることも出来ず。

「――ぁっ」

 衝撃が、走る。







「遅い」

 何時まで経ってもやってこない魔理沙に、フランドールは唇を尖らせた。最初はパチュリーか小悪魔が引き止めているか、咲夜かレミリアに出くわして話し込んでしまったかのどちらかだと思っていた。
 だから素直に待っていたのだが、それにだって限度がある。このまま来なかったらどうしようなどと、フランドールの胸の内側は先程からずっとそんな感情で満たされているのだから。

「あー、もう! 待てない!」

 閉じこもっていた時代もなんのその、フランドールは自ら扉を開け放ってのしのしと歩く。肩を怒らせて頬を膨らませれるその姿には、外見相応な子供っぽさが見え隠れしていた。
 そして、階段を登ろうと、して、ふと足を止める。綺麗になった階段。その上から流れ落ちる赤は、嗅ぎ間違えることなんかあるはずがない、“あの日”の匂い。

「ッ」

 浮き上がり、真っ直ぐ飛んで、階段を登り、その先。階段に座り込んで、そのまま横に崩れ落ちたかのような体勢と、緩やかに流れる真紅。
 淡い金の髪を赤く染め上げた魔理沙が、青い白い顔で倒れていた。

「魔理沙――ッ!!!」

 フランドールの叫び声が、紅魔館に響く。



















――第五章:3-1/努力の果て――



 時間を止めることも忘れ、空を飛ぶことも忘れ、咲夜は図書館への道を駆ける。アリエッタに教えられてそのことを知ったのは、ほんの少し前。訊ねて来るであろう魔理沙を待っていた咲夜に告げられた言葉は、耳を疑うものだった。

『魔理沙が、怪我をして手当てされてるみたいなの。今日の仕事はもう良いから、行ってあげなさい』

 つい先日怪我をしたばかりだというのに、また傷を負った。咲夜は、そのことを聞いた後の記憶が曖昧になっている。

「魔理沙!」

 ノックもせずに図書館の扉を開き、ようやく思い出して、空を飛ぶ。図書館の奥、真っ直ぐと進んだ場所。館のどこからか持ち運ばれたのであろう、簡易的なベッド。
 白いシーツに包まれて眠る――魔理沙の姿。彼女の右手にはフランドールがしがみついていて、その傍では小悪魔が看病の為にタオルを持っていた。
 呼ばれて来たのだろう。美鈴は魔理沙の左手を持ち脈を測り、パチュリーは険しい視線で本の文字を睨み付け、誰もが強ばった空気の中で魔理沙を囲んでいる。

「いったい何が、どうして――ぁ」

 思わず、何もかも投げ出して魔理沙に近づこうと足を踏み出した咲夜は、パチュリーの薄路で静かに佇むレミリアを見て、その足を止めた。最後の理性まで振り切ってしまう前に忠誠を誓う主を目にして、我に返ったのだろう。みっともない自分の姿に唇を噛み、そっと頭を下げた。その姿は、丁寧なものと称するには少々無様なものであったが。

「落ち着いたみたいね。状況を説明するわ」

 本を睨み付けたまま、パチュリーがそう告げる。誰もが魔理沙を見ていて、他の何者をも見る事が出来ない状況下の中、咲夜の相手をしながら状況に対応できるのはパチュリーだけだった。

「落ちてきた天井のタイルに頭をぶつけて昏倒。怪我自体は見た目の割りにたいしたことなかったし、前みたいにさっさと目が覚める、はずだった」
「はず……ですか?」
「そう。原因はおそらく――――“過労”よ」

 告げられた言葉に、咲夜は思わず首を傾げる。魔理沙には休憩時間もあったし、無理になるほどに仕事は与えていない。そのはずなのに、何故、と咲夜の脳裏ではそんな言葉が渦巻いていた。
 確かに、毎日ちゃんと部屋に帰って、休んで、そして元気に笑っていたはずなのに……と。

「もっとも、それだけではない可能性があるわ」
「え?」

 パチュリーがそう告げると、フランドールは緩やかに顔を上げた。力なく下がる翼が痛々しくて、落ちる背が弱々しくて、咲夜は目を逸らしたくなる気持ちをぐっと我慢する。

「もう、起きてる筈なんだって」
「倒れてから半日。こんなに長い時間寝ているのは、おかしいの」
「怪我は無いんだよ? もう。それなのに……」

 フランドールはそう、力なく笑う。諦めては居ないのだろうが、その横顔が何よりも痛々しい。
 怪我は無く、過労で体調を崩すにしても一度意識が戻っていておかしくはない。そもそも、過労で熱を出したりして体調を崩したというのならまだしも、魔理沙は意識そのものが戻らないのだ。

「なんにしても、一度しっかり検査してみましょう」
「フラン、いったん離れなさい。いいね」
「うん……お姉さま」

 横たわる魔理沙の傍から、パチュリーとレミリアを残して立ち去っていく。咲夜はそれに、ただ従うことしかできなかった。他に何をすればいいか、何をしてあげればいいか、思い浮かばなかった。

 できることなんか、何もない――そう、わかってしまったから。

 図書館から一歩出て、咲夜は壁に寄り掛かる。
 アリエッタに言われたとおり、今日の分の仕事は休みになっている。そうわかっているのに、何もせずに居ることは咲夜にとって苦痛だった。何も出来ずに居ることは、耐え難いことだった。
 握りしめた左手から、じわりと血が滲む。痛みで落ち着かせようとしても、不甲斐なさだけが心に満ちて、気が狂いそうな程に苦しい。

「落ち着いて、咲夜」
「ぁ」

 ――そんな咲夜の手を、温かい手が包み込む。痛みに満ちていた掌に柔らかな光が宿ったと思うと、瞬きの間に傷は消えていた。

「美鈴……私、間違っていたのかな」
「ううん。咲夜は知らなかったんだよ。私もパチュリー様も誰も、教えなかったから」
「知らな、かった?」

 美鈴に頭を抱きかかえられて、咲夜はそれに体重を預ける。まだまだ、体捌きを教えてくれた彼女のその頼もしい背中には、近づけそうにない。そんな風に思いながら、彼女の言葉の続きをただじっと待つ。

「誰もが、同じだけの努力で同じだけのものが得られる訳じゃない」
「でも、使っている時間は、同じ……よね?」
「ええ、そう。でもね、咲夜。花々の咲く時間がそれぞれ違うように、人も妖精も妖怪も、ばらばらに成長するの」

 紡がれた言葉を、咲夜はゆっくりと咀嚼していく。咲夜が“一つ”できるまでに必要な時間が“半分”だったとしても、魔理沙は同じ事に“二つ”も“三つ”も使わなくてはならない。
 片や、天才。片や、凡才。才を持ち努力をするものと、才を持たず足掻くものの決定的な違いを、咲夜は告げられた言葉から噛み砕いて理解した。

 ――理解して、しまった。

「私、は、魔理沙に――無理を強いていた?」
「いいえ。それは違うよ、咲夜」
「で、でも!」

 即座に否定されて、咲夜は狼狽する。今まで当然のようにこなしてきた全てが、血反吐を固めて築いた道だとしたら、それをさせたのは咲夜だ。
 期待という鎖で縛ったのは咲夜だと、魔理沙と同じように“期待”を喜びとする咲夜はそう悔やみ始めていた。

「確かに、咲夜はもっと見るべきだった。でもね、それは気がついていながら注意程度に止めた、判断を間違えた私も同罪」

 慰めていた美鈴の顔に、ほんの僅かに苦みが走る。けれどまた直ぐに柔らかな笑顔に戻った。幼子を慰めるような、温かな顔に。

「美鈴、でも、私」
「でもね、咲夜」

 美鈴は、咲夜の目尻を指で掬うと小さく首を振る。

「咲夜の期待に応えたいって努力を重ねたのは、魔理沙。魔理沙自身の、純粋な“想い”だから」

 魔理沙が、弱音を吐いたことなんかあったか。もう嫌だと、投げ出したことなんか、あったか。

「だから、魔理沙の想いを無駄にしちゃ駄目だよ、咲夜」
「魔理沙の、想い」
「そう。魔理沙の想いと、心」

 いつも笑顔だった。辛いだとか悲しいだとか一言も零さずに、いつも笑って最後にはやり遂げて、必ず前を向いていた。
 魔理沙に憧れられていた咲夜がそれを無下にして、それを顧みずに後ろを向くことが……本当に、正しいことなのか。
 咲夜の心を揺るがしたのが魔理沙の力ない姿ならば、また、咲夜の心を立たせたのも魔理沙の笑顔だった。

「はぁ、私も負けてられないなぁ」
「そうですよ! 妹様! 咲夜ちゃんばかりに前を向かれては、悪魔の名折れです!」
「妹様、小悪魔……」

 目を赤く腫らしていたフランドールも、何時しか笑顔に戻っていた。ぎこちなくも、笑って咲夜の前に立つ。魔理沙が、どんなに辛いときでもそうしていたように、胸を張って。

「さて、まずはパチュリーの成果を待とう!」
「その意気です! 妹様! 咲夜ちゃんも、気合いです!」
「小悪魔、貴女、そんなキャラだっけ? あと、何時まで“ちゃん”付けで呼ぶ気よ」
「えー。可愛いじゃないですか。ねぇ、美鈴ちゃん?」
「調子に乗らないの。まったく」

 何時しか、みんなに笑顔が戻っていた。うじうじと待っていることなんか出来ない。魔理沙はきっと、自分が原因でそんな空気になったと知ったたら悲しむだろうから。
 悲しんで、悲しんで、結局咲夜達が慰めることになるのかも知れない。それではあまりにも魔理沙が可哀相だから、目が覚めたら笑顔で迎えよう。咲夜は涙の後を拭うと、そう、心に決めた。

 まだ、扉は、開かない。







 咲夜達を外に出したパチュリーは、魔理沙の姿をじっと見つめていた。魔法を用いた精密検査――そんなもの、怪我を治癒したときからずっとやっている。
 怪我は治り、失った血も魔法で増やし、体調を正常まで整えた。なのに魔理沙は目覚めない。身じろぎ一つすることなく、まるで人形のように眠っていた。

「それで、どう? パチェ」
「心配? 最初の頃とは大違いね、レミィ」
「茶化さないでよ、もう。第一、パチェも一緒でしょ? それは」
「ええ。手の掛かる弟子だけれどね。レミィにとって、魔理沙は?」

 パチュリーに切り返されて、レミリアは翼を竦める。口が達者な友人は、どうにもレミリアの態度に疑問を抱いているようだと考えて――レミリアは、首を振る。
 きっと、そうではない。そうではなくて、聞きたいのは、レミリアがパチュリーと一緒にここに残った理由なのだろう。癒しの力なんか使えないレミリアが、“わざわざ”残った理由。“そうまでする”、訳。

「――身内、よ」
「貴女の内側、ね」
「ええ、そう。この子はもう、私の内側。広げた手に、囲うもの」

 紅魔館の主として、上に立つものとして、囲いの中で暮らすものを不自由になど出来ない。共に歩いて行く存在を、転ばせることなんて出来ない。

「主とは、拓く者よ。道を築くのは咲夜達でも、山を砕くのは私のすべきこと。違う? パチェ」
「はいはい、格好いい格好いい。まったく、もう……レミィらしいわ」

 眉を下げて笑うパチュリーに、レミリアは胸を張って笑う。上に立つ者が弱気を見せてはならない。
 身体の平穏だけでなく、心の安寧すら手中に収め、運命を操るが如く幸不幸を両断する。それこそが、レミリアに課せられた誰にも“譲らせない”役目であり、役得なのだから。

「それで、貴女は何かわかった?」
「ええ。道を拓く準備は出来たよ」
「そう。頼りになるわ」
「そう思うなら、もっと表情筋を動かしなよ」

 軽口を交わしながら、レミリアは動かない魔理沙にそっと近づいていた。柔らかな髪をどかし、そっと額に手を当てて優しく笑ってみせる。
 レミリアをここまでさせたのは、魔理沙自身の努力の結果だ。だからレミリアは、魔理沙に己の“能力”を使用する。

「答えは自分で見つけなさい。なに、標くらいなら用意してあげるから」

 赤い光が、魔理沙の額に溶けていく。それを見届けると、レミリアはパチュリーに背を向けた。

「咲夜を看病に付けるわ」
「その間、私たちは?」
「決まってるじゃない――――準備、よ。パチェ」
「……なるほど。はいはい、わかったわよ、レミィ」

 悪魔と魔女が笑い合う。おとぎ話の強敵達は、ただ一人の少女の為に、手を取り合った。自分の為にと嘯いて、笑う顔は柔らかく、眇められた瞳は温かい。
 悪企みに翻弄される少女は、未だ目覚めない。けれど――その瞳は、僅かに震えていた。



















――第五章:3-2/夢幻世界の霧――


「一緒に倒れられちゃ敵わないからね。咲夜も休暇。同僚と暇でも潰してなさい」

 レミリアにそう告げられた咲夜は、意図を汲んで深々と頭を下げる。
 原因解明のため、出来ることをするため。そうみんなが動きだし、咲夜もそれに倣おうとした。けれど、レミリアにそう言われて動く訳にもいかない。
 同僚と一緒に休暇……魔理沙の傍で、休めと言われたのだから。

「まったく、お嬢様に気を遣わせてしまったじゃない。早く目を覚ましなさいよ」

 咲夜はそう、魔理沙の右手を優しく握って、空いた左手で頬をつつく。幼い少女特有の、ぷにぷにとした頬。起きているときにもつついて精々からかってやろう。咲夜はそう切なげに笑って魔理沙の額を撫でた。
 開かれない瞳、規則正しい寝息、身じろぎしない身体、血の気が引いて青白い肌。こうしてみると、普段の元気な姿は想像できない。ふわふわとした、普通の女の子に見える。

「そういえば、私はどうして貴女を助けたのか、まだちゃんと考えたこと無かったわ」

 善意ではなかった。それは、胸を張って言えることだろう。それでは何故、咲夜は魔理沙を助けたのか。何故、魔理沙を放って置けないと思ったのか。

 あの、月の夜に、魔理沙の瞳に何を見て何を思ったのか。

 そこまで考えてふと、咲夜はスカートのポケットから懐中時計を取り出した。時間を止めるときに補助として遣っている銀色の懐中時計。レミリアに拾われて、彼女に貰った銀時計。

「ふわ……いけない。なんだか、眠くなってきた」

 目を擦り、口元に手を当てて欠伸をする。普段の彼女であったら、例え意識のない相手だったとしても他人の前ではしない顔。
 咲夜は落ちてきた瞼を無理にこじ開けることなく、魔理沙の手を握りしめたまま顔を伏せる。寝過ぎてしまったら、その時はその時だ。原因となった魔理沙と一緒に怒られよう。
 年相応の少女のような顔をして、咲夜はそう、ゆっくりと意識を落としていった。







 ――暗い霧の中で、咲夜は目を覚ます。

 ふわふわと身体が浮く、不可思議な感覚と、半透明な身体。咲夜はその説明の付かない空間に漂うことを、夢だと認識した。
 咲夜は普段、あまり夢を見ない。だからこんな体験は稀であり、それ故に色々動いてみようとする。けれどそれも、直ぐに中断させられることとなる。

「おねえちゃん、だれ?」

 真下から聞こえてきた、声によって。

『え?』

 ざぁっ、と、霧が晴れる。余りの奔流に目を閉じ、ゆっくりと視界が晴れたとき。咲夜はどこか、大きな屋敷の一部屋に居た。
 夢とは、自分の頭の中の情報を整理するもの。それだけのことだと、咲夜はパチュリーから聞いた事がある。だというのに、これはどうか。見たことのない光景に咲夜は戸惑ってしまう。

「どこからきたの?」
『え、ぁ、ぁあ、ちょっと待っ――――え?』

 行儀良く畳の上に正座し、身なりのいい着物に身を包んだ金髪の少女。咲夜の知る姿と比べて随分と幼いが、それは確かに――魔理沙の姿だった。

 今よりももっと幼い霧雨魔理沙が、きょとんと首を傾げていた。

『魔理沙……魔理沙?!』
「? わたしのなまえ、しってるの?」

 状況についていけず、冷静な彼女にしては珍しく狼狽する。それから改めて、咲夜はレミリアの言葉を思い出した。レミリアの言葉の意図に、気がついた。
 レミリアの言葉を聞いて、頭を下げ、それから見上げた先。パチュリーと並んで悪企みをするような、そんな表情を浮かべるレミリアの姿。どこまで咲夜の予想どおりかなんて、わからないことだけれど。

「あ、おねえちゃん。わたし、そろそろいかないといけないんだ」
『行く?』
「うんっ! きょうは“しけん”があるのっ」

 見れば、魔理沙の傍には沢山の本が転がっていた。何度も読み返されれてボロボロな本。書き込まれすぎてよれた羊皮紙、寝る間も惜しんだのか、目元はほんの僅かに腫れていた。
 努力家。咲夜の脳裏に、そんな言葉が過ぎる。同時に咲夜は、少しだけ心配になった。“無理”を、していないだろうかと。

『無理は駄目よ。しっかり休まないと』
「うんっ! おとうさまにほめてもらえたら、えへへ、ちょっとおやすみするね!」
『ええ、約束よ。魔理沙』
「やくそく、だねっ、おねえちゃんっ」

 今の魔理沙とは似ても似つかない。その上ちょっと、違和感がある。咲夜は魔理沙に失礼だと思いながらも、そんな風に考えていた。

 だって、なんだか、素直すぎる、と。




 走り去る魔理沙の姿を見送り、手を振り、再び霧が満ちて咲夜は目を瞠る。霧は流動し、重なり、歪み――突風と共に晴れた。




『っ……いったい、何が……』

 ぽかん、と、咲夜は口を開ける。今どこに居るのかと周囲をぐるりと見回して、そこがどこかの庭先だと気がついた。まさかと思って探してみれば、木陰で蹲る魔理沙の姿を見つけて息を吐く。
 どうやら、魔理沙から離れることはないようだ。

「うっく、ひ、ひっく」
『泣いているの? 魔理沙』
「おねえ、ちゃん?」

 目を真っ赤に腫らして、上質な紙を涙で濡らす。試験の結果が悪くて泣いているのだろう。そう苦笑して魔理沙の答案用紙を覗き込んだ咲夜は、小さく首を傾げた。
 正答に満ちた解答。たった一つのスペルミス。試験を担当した教師も筆が踊ったことだろう……丁寧に、九十九と書かれている。

『良い結果じゃない』
「だめ。だめだよ、ひゃくてんじゃないと、だめなの」
『え?』

 全て正答なんて、そうそう取れるものではない。その上魔理沙の答案は、答えを間違えたものではなく、単純な字の間違い。次に注意できないレベルではないのだ。

「もっと、がんばらなきゃ」
『ま、魔理沙、待って、それは』
「おとうさまに、ほめて、もらうんだ」

 魔理沙の純粋な瞳が、濁る。誰よりも強い向上心の方向が、緩やかに歪んでいく。それを咲夜はただ、見ていることしかできなかった。

『待ちなさい、魔理沙――ッこんな、時に!』




 霧が満ち、周囲を覆う。魔理沙に真っ直ぐと手を伸ばしても、もう、届くことはなかった。




『なんなのよ』

 目の前では、また魔理沙が泣いている。握られた答案用紙は、前よりも誤答が多い。努力だって、すればいいというものではないのだ。それで寝不足にでもなれば、判断は鈍り間違えも多くなる。
 それを知らない訳でもないだろうに、魔理沙はそれでも努力を重ねる。その努力が歪もうとも、構わず、身体を酷使していく。
 それに、咲夜は唇を噛みしめ――それから、努めて普段どおりの表情に戻した。

『また、怒られたの?』
「おねえちゃん……ううん、おこられては、ないよ」
『そう、なの?』

 ひどく怒られたのではないか。魔理沙の様子からそう考えていた咲夜は、思わずきょとんと首を傾げる。

「でも、わたしができないと、おとうさまは――つめたい、めをするんだ」

 だからもっと、できるように。もっと、強くなろう。そう呟く魔理沙の瞳が、熱を失って虚ろに泳ぐ。握りしめられた掌、冷たく前を見据える目。なにもかもが、咲夜と出会ったときとは違う。
 なにが、そんなにも彼女を変えたのかはわからない。けれど、今の魔理沙が“良くない”ということだけならわかる。何故ならその瞳が宿すのは、かつて咲夜自身も宿していた――。

「もう、いっちゃうの?」
『え?』

 僅かとはいえ純粋な光を瞳に戻した魔理沙が、咲夜を見上げてそう告げる。それで初めて咲夜は、己が濃霧に包まれて居ることに気がついた。深く、濃い霧。いつもよりゆっくりと収束していくそれは“物語”の展開を暗示させるかの如く、濃い紅をしていて。




『お嬢様、私は――』




 霧が晴れるとそこは、土蔵の中だった。宙に浮く咲夜に気がつかずごそごそと動き回る、咲夜と知り合った時ほどにまで成長した魔理沙。
 彼女は、一心不乱に様々な書物を読みふけっていた。読んでは捨て、読んでは捨て、読んでは捨てて歯がみする。これ以上、もっともっとと知識を求める。
 しかし、どんなに手を尽くしても、完璧を維持する事なんて出来ない。一度満点を取れば気が弛み、警戒心を高めて励めば先に疲労感に襲われてしまう。

『貴女は“これまで”も、頑張ってきたのね』

 熱中する魔理沙は、咲夜の姿に気がつかない。今までの会話だって、“夢”だからあり得たことであり、過去に介入できている訳ではないのだろう。
 なら、何故こうまでして咲夜と夢を繋げたのか。何故こうまでして、咲夜をここまで潜らせたのか。答えはきっと一つしかない。

『ここに答えがあるのですね――魔理沙が必要以上に頑張る理由が』

 ふと、眼前の魔理沙が手を止める。厳重に封印された箱。それを、近くにあった木の板で、梃子の要領で持ち上げる。一番上にあった“持ち出し厳禁”の紙を容易く剥がし、古ぼけた本を取り出して、魔理沙はぱらぱらとめくりだす。
 興味無いようにに見ていたのは、最初だけ。けれど読み進めるうちに気に入ってしまったのか、半ばまで目を通す頃には熱中していた。

「すごい……いや、でも、もしかしたら――これなら」

 本を握りしめた魔理沙が小さく笑う。それは、暗い色を宿していた彼女の瞳に、一筋の輝きを取り戻させた。
 瞬間、咲夜は唐突に理解する。きっとこれが魔理沙の転機。魔理沙が今に至る、一歩なのだろう。ならばその姿を瞳に納めようと、咲夜は目を鋭くさせる。




『教えて、魔理沙。貴女は何を見て生きてきたの?』




 紅い霧が満ち、晴れ、場面が転換する。土蔵の中、沢山の書物を広げる魔理沙。彼女は頭をガシガシと掻きながら、本の内容を何度も諳んじる。何度も、何度も、何度も。
 やがて魔理沙は、羊皮紙に何かを書き込み始めた。幾何学模様と、円陣のようなもの。それに何度も線を付けたし、満足した頃には、変わった紋様が出来ていた。

『あれは……確か、美鈴が持ってた……そう、風水の――“八卦”?』

 純和風な紋様に満足すると、魔理沙は指をかみ切った。滴る血を八卦に落す。すると、ぼんやりとした灯りが満ち始める。
 満ちた光は、何時しか閃光となり、魔理沙の眼前で弾けて消えた。

『魔……法?』
「うん? 誰かいるのか?」

 その光景をぽかんと見ていた咲夜は、振り向いた魔理沙と目が合って思わず焦る。別段焦ることではないはずなのに、別人のようだった頃に比べて、今顔を合わせるのは気まずさがあった。

『あ、あああ、あのね、魔理沙、覗いていたとかじゃなくて、その――』
「気のせい、か? ううむ、寝不足かな」
『――あ、れ?』
「少しは寝た方が良いか。前に無理は駄目って言われたし……誰に言われたのか覚えてないけど」

 踵を返して土蔵から出て行く魔理沙を、咲夜はぽかんと見送る。それから、焦りを胸の奥に押し殺して、ゆっくりと自身の手足を見た。
 最初の時に比べてかなり薄くなった自身の身体。見下ろす咲夜ですら、どこに指先があるのかわからない。

 もうすぐ、この夢も終わるのだろう。




 戸惑うことなく、咲夜は霧に身を委ねる。力は幾重にも回転し、巡り、まるで鎖のように伸びていった。その霧の中心で、その台風の目で、咲夜は覚悟を固める。
 終わりはもう、直ぐそこにあるのだから。




 屋敷の一角。魔理沙の正面には、ひとりの男性が佇んでいた。差し込む月光は魔理沙だけを照らし、男性の目元は影になっていてよく見えない。けれど真一文字に結ばれた唇が、厳格な空気を醸し出している。
 直感的に、咲夜は気がつく。彼が魔理沙の言う――父親なのだろう、と。

『あの、服は……』

 若草色のワンピース。それは最初の日、魔理沙が着ていたものだ。
 魔理沙は父親に、嬉しそうに手を差し出す。自信を持った答案用紙を持って、親に見せに行く子供のように。
 例え何度冷たく見下ろされても、諦めようとしなかった。その時と同じように、嬉しそうな笑顔で――閃光を、生み出した。
 パチュリーの図書館で、四苦八苦しながらも短期間で魔法を発動できた理由。術式はまったく違えども、覚えていた“魔力行使”の方法。
 正真正銘、彼女が自分だけの力で生み出した、鈍く美しく純粋な力に、咲夜は思わず瞳を奪われた。

 けれど。

「どういう、つもりだ!」
「どういう、って、私は」
「おまえも、あの人のように」
「ま、待ってくれよ、親父、私は」
「どうして、人外の術に縋ろうなど、何故、その程度のことも、わからないんだ!」
「……だよ」

 怒号に満ちた空間。肩を振るわせて俯く魔理沙。彼女が零した言葉の続きに、彼は怒りに満ちた表情で耳を傾ける。

「じゃあ、どうすれば良かったんだよ!」
「な、に」
「何をしても駄目! ちょっとでも違えば、私のしてきたことなんか、全部無かったことになる!」
「何を、言って」
「それなら、私はどうすれば良いんだよ。お花も、お茶も、書道も、友達だって親父の言うとおりにしてきた!」

 魔理沙の言葉が、咲夜を揺らす。痛みに満ちた声、悲しみに充ちた音。魔理沙を蝕んでいたモノの正体が、咲夜にはわかるような気がしていた。
 ほんの数度だが、咲夜は魔理沙の過去に出会った。そこに居た魔理沙は、どうしていたか、それを僅かに振り返る。

 ――子供らしい玩具の一つもない部屋。
 ――常に一人ぼっちで、泣くときですら、独り。
 ――遅くまで閉じこもっていても、誰も見に来ない。

 どんなに身体を傷つけられても、どんなに言葉の暴力を浴びせられても決して折れない人間ですら砕き壊す病。咲夜はもう完全に見えなくなった腕を胸に当て、強く拳を握る。

「どうすれば良かったんだよ! どうすれば、認めて――独りにしないで――くれたんだよッ!!!」

 心を侵すそれの名を――“孤独”と呼ぶ。

「こんな! おまえは、もう娘なんかではない! どこへなりとも、消えろ!」
――パァンッ

 右頬を張られ、魔理沙の小さな身体が揺れる。横座りに崩れた魔理沙は、壊された瞳で鋭く父親を見返した。もうそこに、純粋な気持ちで、翳り無い心で前を見ていた光はない。
 認められないことに恐れ、出来ないことに怯え、歪んでしまった向上心。それは反骨心となって、爆発する。

「ああ、いいさ! 私はもう、アンタの娘なんかじゃない!」

 硝子が、割れるような音がした――咲夜はそんな錯覚に強く目を瞑る。
 魔理沙の瞳から落ちた大粒の涙は、たったの一筋。畳に落ちて消えた雫が染み込む頃には、魔理沙は踵を返して走り出していた。
 咲夜は呆然と佇む魔理沙の父に少しだけ目線を流し、それから直ぐに魔理沙を追いかける。今気にしなければならないのは、彼女の方だ。例え、自身の姿が彼女に見えないとしても。
 魔理沙の小さい背中を追いかける咲夜は、自分に彼女の心境が流れ込んでいることに気がつく。魔理沙の心が、何を思って、生きてきたのか。その全てが、伝わってくる。



 物心ついた頃から使っていた部屋で、麻袋に服を詰める。
 ――魔理沙の趣味に関係なく買い集められた服。好みを聞かれたことも、無かった。
 忍び込んでも誰も叱らなかった台所で、保存の利く食べ物を盗んで。
 ――子供心にした“わるいこと”に始末を付けるのは、いつも自分だった。家の物を盗んでも、魔理沙を咎められるのは魔理沙だけ。
 一人きりで篭もっていた土蔵から、魔法の本を手にとって。
 ――禁忌だとは、知っていた。けれど人を外れたものでありながら父に弟子入りしていたひとを、知っていたから。なのに。
 決められた“友達”しか上げなかった玄関で、運動用にと“決められた”靴を履く。
 ――一人で家の外に出たことがなかった。だから、外に出ても何時も独りだった。
 最後に一度だけ振り返った家。里一番の大店。誰もが夢見る恵まれた家。
 ――本当に欲しいものなんか、与えられたことがなかった。そこに、“家族”なんかなかった。



 魔理沙はもう、振り返らない。早足で里を後にして、一直線に魔法の森へ向かう。

「確か、魔法の森には、霖之助さんの店があるはず……!」

 一縷の希望に縋って、出来ないかも知れない道を諦めず、ひたすら進む。それは間違いなく魔理沙の魅力だ。魔理沙自身が心に秘める、力だ。
 けれどそれは今、曲がってしまっている。幹を守る枝が幹を苦しめている。そのことに、魔理沙は気がつけないままに――始まりの分かれ道に、立った。

「右か、左か」

 森の入り口。大きな木を境界にした、分かれ道。魔理沙は何度も左右を見比べて、やがて、左側に足を進めようとする。

「いや」

 けれど魔理沙は、ふと、足を止めた。幾度か逡巡すると、つま先の向きを変えて右側へ歩き出した。それから、後方から聞こえてきた呻り声に慌てて走り出す。その先はもう、わざわざ見る必要もないだろう。咲夜に出会った、あの光景に繋がるのだから。

『私は、どうして――』

 咲夜はどうして、魔理沙の瞳に惹かれたのか。どうして、助けようと思ったのか。その答えを、咲夜は既につかみかけていた。
 妖怪に襲われ、それでも生き延びようと足掻くその瞳。あの日の咲夜を見る、孤独な色。




『――そう、か。彼女は、魔理沙は……私に似ているのね』




 紅い霧が渦巻き、充ち、満ち、溢れて周囲の全てを覆う。光景は色を変え、風景は貌を変え、大気に黒色が満ちたとき、そこは――紅の月を抱く常闇と化していた。
 空の中、物語に読む“宇宙”に浮かび、咲夜はそっと手を伸ばす。月夜の中にただ一つ浮かぶ星を掴み取るように。

『魔理沙』

 夜が、歪む。

『聞こえてる? 魔理沙』

 名を呼ぶ度、月が溶け。

『貴女に聞いて貰いたいことが、たくさんあるの』

 星が、輝きを増し。夜を、覆い。

『だから、お願い、魔理沙――』

 煌めき、やがて真紅の月は星明かりに隠れ、夜は明星に呑まれ、星の輝きが満ち。

『――貴女の声を、聞かせて』

 夜が、明けた。

「――――」

 ただひたすら、白だけが続く空間。その中心で膝を抱えて泣く、夢で最初に見たときと変わらない幼い魔理沙に、咲夜はゆっくりと近づいていく。不思議と影はなく、羊水の中で灯りを待つかのような優しい場所。
 誰にも傷つけられないその純白の中、咲夜は迷うことなく動き出す。未だに、心の底から立ち上がれずにいる、いとおしいひとのもとへ。

『あのね、魔理沙。私ね、両親が居ないの』
「――」
『生まれたときから能力の一端を発現させていたんだと思う』
「――」
『だからきっと、捨てられて……それで、孤児院に預けられた』
「――」

 膝を抱える魔理沙の横に腰を下ろし、一言一言に心を込めて、顔を上げようとしない魔理沙に語り聞かせる。どうあっても反応しないと意地を張るのなら、それでも良い。何度だって語りかけて、歩き出せば、それで良い。
 一言紡ぐ度に、魔理沙は一回り大きく成っていく。まるで、彼女の歴史を辿っているかのように。

『でも孤児院でも馴染めなくて、結局私は独りだった。心が、孤独だった』
「――」
『ある日、能力が周囲に知れて、追われるようになった。悪いことも、そうね……たくさんした』
「――」
『でもね、なにをどう頑張っても、私は独りにしか成れなかった。だからね、どうせならどこまでも独りになろうとしたの』
「――ひ、とり」

 反応。僅かに動く耳、震える指、押し殺した声。それでも咲夜は、焦って何かを言い出すこともなく淡々と話を続けていった。
 もうすぐ、魔理沙は咲夜の知る姿になることだろう。咲夜と出会ったあの時の、強い力を秘めた姿に。

『世界の時間を止めて、その中に閉じこもろうとした』
「――ひとり、で」
『そうしたら力が強すぎたみたいで、世界の常識を飛び越えてしまったの』
「――こえ、て」
『で、途方に暮れていたところをお嬢様に連れて行かれて、喧嘩を売って返り討ち』
「――けがは」
『そりゃあもう、ぼろぼろよ。だけど、名前を与えられて、満ちていた』
「――みち、て、いた」

 魔理沙は出会った頃の姿に戻っていた。魔理沙の声は、もう震えていなかった。

『お嬢様に、何故襲いかかった私を助けてくれたのか聞いてみたの。そうしたらね、“ボロ雑巾みたいになってもナイフを手放さなかったから”ですって』
「――諦めなかった、のか」
『ええ、そうよ、魔理沙。貴女と同じ。ほら、なんだか私たち、似ているでしょう?』
「――似ているから、似ていたから、同情して助けてくれたって、ことか?」
『そう、同情』
「――」

 魔理沙の息が、詰まる。口を幾度か動かして悔しそうに唇を噛み、更に深く、膝に顔を埋めてしまった。楽しそうに、嬉しそうに微笑む咲夜に気がつくこともなく。
 彼女が魔理沙の肩に手を伸ばし、そっと抱き寄せてみせると、魔理沙は更に肩を振るわせる。それでも、振り払おうとはせずに。

『同じ感情を、与えたかった。私と同じ空っぽの孤独に苛まれていた貴女に、私がお嬢様に、紅魔館に与えられた感情を分けてあげたかった』
「――え?」
『同じ感情で、満たされたかった――こんな“同情”では満足できないかしら? 魔理沙』

 ついに、魔理沙が顔を上げる。赤く腫れ上がった瞳、涙の筋の残る頬、震える唇が何かを紡ぎ出そうとして、けれど結局形にはならなかった。

「さくや、私、私はっ」
『やっと顔を上げてくれたわね、魔理沙』
「咲夜、うぁ、咲夜、咲夜は……っ、卑怯、だ」

 歯を噛みしめ、咲夜に抱きつき、熱い雫を散らし続けて。
 嗚咽を交えながら、何度も何度も咲夜の名を呼ぶ。

「寂、しくてっ」
『うん』
「でき、できない、っぁ、できないと、だめ、でっ、うぁ、あ、ああ」
『うん』
「誰も、だ、だれ、だれも私を、はっ、ぁ、うぁ、み、見て、ふぁ、あぁぁああ」
『見てくれなかったのよね。本当の、魔理沙を』
「してほしいって、い、ひっ、く、言えなくてっ!!」

 胎児のように丸くなる魔理沙を、咲夜はぎゅっと抱き締める。彼女が決して、寒いだなんて思わないように。彼女が決して、痛いだなんて言わないように。
 優しく、優しく――それから、強く。

「一緒に居て欲しいって、は、ぁああ、ああぁ、言えなくてっ、うぁああぁぁあああっ」
『うん、うん、うん……もう、大丈夫だから。一緒に居るから……っ』
「うん、うんっ、はぅ、ぅぁ、うん、うんっ、咲夜、咲夜っ、咲夜っ!!!」
『離さないからっ、絶対、絶対、絶対――寂しいだなんて言わせないから、言わないで』

 咲夜の瞳からこぼれ落ちた雫が、魔理沙の頬に落ちて涙の跡を作る。咲夜と魔理沙の涙が絡み合い、溶け合い、いつしか、二人の悲しみも喜びもなにもかも――たった一つの結晶になって染み込んでいった。

「う、ぁ――ぁあああぁ、うぁあああああぁぁぁぁああああぁっ!!!!!」
『う、くっ、あ、ぁぁああああっ!!!』

 堰を切ったように涙を溢れさせ、声を上げて揃って泣く。泣いて、泣いて、泣いて――いつしかそこから、悲哀の色は消えていた。







 落ち着いたのは、だいぶ時間――そもそもここに、時間という概念があるのかはわからないが――が経ってからだった。
 肩を寄せ合い、隣り合って白い空間に横たわる。そうすると、魔理沙の真っ赤な耳が横目に見えて咲夜はくすりと微笑んだ。どうやら、散々泣いて抱きついたことを、今頃になって恥ずかしがっているようだ。

「あの、さ。なんか、ええっと」
『謝ったら、怒るわよ』
「うぐ――そ、それじゃあさ、なんでここに居るんだ?」
『お嬢様とパチュリー様、それからたぶん、小悪魔も関わってる』

 レミリアの力――“運命を操る”能力の詳細は、咲夜も知らない。ただ能力を暴走させて朽ちていこうとした咲夜の運命を書き換えたということだけしか、わからない。けれど、変えられたときの“感覚”とは少し違うと、他ならぬ“変えられた”咲夜は理解していた。
 となると、この現象は何なのか。おそらく吸血鬼の持つ精神に作用する能力とパチュリーの魔法、それから小悪魔の“意識誘導”の力が関わっているのだろうと、咲夜は当たりを付ける。そう魔理沙に説明すると、彼女はよくわからず首を捻っていたが。

「それで、ええっと、その、なんで“――か”、なんだ」
『うん? なに?』

 魔理沙が余りにわざとらしく目を逸らすので、咲夜は身体を起こして彼女を覗き込む。そうすると俯いて縮こまってしまい、ますます訳がわからない。

『ちょっと、言いかけたんなら最後まで言いなさい』
「なな、なんでもないのぜ?」
『口調が変よ。散々抱きついておいて、今更何を照れてるの』
「そそそ、そういう言い方やめろよな」

 膝と肘を立てて亀のように丸くなった魔理沙に若干の苛立ちを覚えた咲夜は、横から彼女をとんっと突き飛ばした。ほとんど力は入れていなかったのだが、元々体重の軽い魔理沙は、それだけでころんと転がってしまう。
 そこへすかさず馬乗りになると、魔理沙は潤んだ目を咄嗟に隠して、あうあうと言葉にならない声を零しながら、じたばたと暴れていた。

『ほーら、潔く吐きなさい』
「ううう、わわわ、わかった、わかったから、どいてくれっ」
『だーめ。言うまで退かないわ』
「うぅぅぅぅう」

 やがて諦めたのか、魔理沙はぴたりと止まる。そして幾度か深呼吸をして、ぎゅぅっと目を瞑ったまま、か細い声で呟いた。

「それ、で、咲夜は、その、なんで――」
『その?』
「――は、“はだか”、なんだ」
『ふぇ?』

 魔理沙に言われて、咲夜は己の身体を見下ろす。薄ぼやけた半透明。無いに等しい慎ましやかな膨らみ、その下まですとんと落ちてとっかかりはない。そう、服さえも無い。
 そして、魔理沙は潤んだ目と赤い顔を隠し、口元は半開きになっていて、瑞々しい唇の奥に赤い舌が見える。なんとも扇情的――そう、咲夜は、扇情的と見られかねない様子の魔理沙に馬乗りになっていたのだ。

『ちちち、違うのよ、ここここれは』
「へんたい」
『うぐっ――だ、だだだ、だからね、魔理沙、その、あの』
「へんたいメイド」
『不名誉な渾名を付けないでっ』
「ふんだ。へんたいめ」

 魔理沙の言葉に慌てて、それから、落ち込んで、それでやっぱり慌てて。咲夜が逆に頬を膨らませていじけ始めた頃に、漸く魔理沙が謝って終わりとなった。
 気がついたら二人揃って息を切らしていて、なんだかなにもかもがばからしい。けれどだからこそ――また一緒に居られているんだと自覚できて、咲夜は小さく微笑む。

『これから、どうしようか?』
「まずはこの空間を抜け出さないとだめだよな? そもそも、どうやって私の所まで来れたんだ?」
『うーん、魔理沙が居そうな方を目指したの』

 つまり勘である。
 だが先程はわかりやすい夜空だったのに対して、今は何もない空間だ。ここから切っ掛けを探り出すのは、まさしく至難の技と言えよう。咲夜はそう、後ろ向きめいたことを考え、しかしそれを顔に出そうとはしなかった。
 今も諦めず、白い空間に手を伸ばしたりと行動している魔理沙に、情けないところは見せたくない。今も頑張っている彼女に、頑張らない自分なんて見せたくはないのだから。

『さて、どうしたものか――って、魔理沙。何を持っているの?』

 考えながら周囲を見回していた咲夜が。ふと、視線を止めた。一緒になって顎に手を当て首を捻っていた魔理沙の、手の中。そこに何かが握られている。

「え? なにって……なんだこれ?」

 開かれた掌の上に置かれた、アンティークな鍵。ちょうど、咲夜の主人が好みそうな深い紅色のそれは、時折ぼんやりと赤い光を放っている。
 魔理沙はそれを持ち上げてみたり、矯めつ眇めつ眺めたり、ちょっと舐めてみたりと実に忙しない。考え込む咲夜をそっちのけで、やりたい放題だ。

『覚えのあるものだったり、しない?』
「いや、それはない。こんなちょっと格好いい鍵、見たことあったら覚えてる」
『そうよね。そんなちょっと格好いい鍵見たら、忘れたりはしないわ』

 似た様な感性を持っているのか、二人は深紅の鍵を微妙に褒めながら一生懸命に考える。回して見たり、曲げようとしてみたり、ちょっと投げてみたり。
 繰り返せば繰り返すほど、鍵穴もないこの空間でどうやって使ったら良いのかわからなくなり、混乱するばかりだった。

「あー、もう! 適当に鍵を回して見ればいいんじゃないか?」

 魔理沙は目を回しながら、鍵を前に突き出す。とにかく出来ることは全部確かめようとするその姿勢こそは評価するが、余りに無謀だ。けれど咲夜はそんな魔理沙を止めることなく、ただ、嬉しそうに見ていた。

「ほら! こうやって――」
 ――カチ
「――カチって、って、は?」

 魔理沙が何もない空間で鍵を回した瞬間、何かが外れたような音が響いた。ぽかんと口を開ける魔理沙と咲夜の前で、空間に亀裂が入っていく。まるで図形でも描いているかのような亀裂は規則正しく、崩壊という言葉は相応しくない。
 言うなれば、分解か。正しい手段に則って、あるべきものをあるべき姿に変えていく。その神秘的な光景に、二人は思わず見惚れてしまう。そして同時に、咲夜はこの光景の意味するところを理解する。やけに凝ったこの力の行使は――間違いなく、己の主、レミリア・スカーレットの仕業であると。

「お、おい、どうする? 咲夜」
『……これは、大丈夫な“もの”よ。魔理沙』
「ま、まぁ、咲夜がそう言うなら信じるけどさ」

 パズルが剥がされていくかのように空間が分解され、深紅の輝きが垣間見える。やがて白い箇所が足下だけになった頃。辺りは一面、紅色に染まりきっていた。
 しかしそれでも、当然のように出口は見えない。光景が変わっただけで何も変わらない。そう、魔理沙にばれないように落胆しようとして――咲夜は、急な浮遊感を覚える。

『へ?』
「は?」

 足下の白い部分。大きな正方形のパネルが、深紅の世界に佇む二人を吸い込む。その吸引力は到底抗えるものではなく、二人は悲鳴を上げる間もなくどこかへ落ちていった。




 ――答えは自分で見つけなさい。なに、標くらいなら用意してあげるから。




 目を覚ました咲夜は、自分の居る空間が何故かごちゃごちゃと無尽蔵にものが置いている不可思議な場所だということに首を傾げた。よく見れば魔理沙も、ちょうど状況を把握したようだ。
 瞳は赤くどこか眠たげな様子だった。急な落下に失神が加わったので、まだ頭がぼんやりとしているのだろう。ぐるりと周囲を見まして、それから――目を瞠って動きを止める。

『魔理沙? そっちに何か――ぁ』

 ガラクタばかりが陳列されている店。そのカウンター先に座る銀髪の男性。その対面に座る姿は、咲夜にも見覚えがある。咲夜が忘れてはならないと、そう誓った顔。
 相変わらず目元さえ見えないが、その姿は間違いなく。

「親、父……」

 魔理沙が最後に見たときと比べて、ずっと小さく弱々しい姿。ずっと恐ろしいと思っていた高い背と大きな背中が、魔理沙が幼い頃に世話になっていた青年――森近霖之助よりも小さいことを知り、愕然となる。そんな感情が、霖之助に関する記憶の断片と共に咲夜に流れ出していた。
 そんな魔理沙を、咲夜は心配そうに見ていた。今の魔理沙が無茶をするようになった元凶で、魔理沙と出会うことが出来た起因に関わる人物。そうなれば、咲夜の戸惑いもそれ相応のものになるのだろうから。

『魔理沙? 大丈夫?』
「……うん。ただ、ちょっと、聞きたい」
『無理だと思ったら、直ぐに言う。出来るわね』
「ああ、頼んだ。咲夜」

 霖之助たちは、当然のように咲夜たちには気がつかない。ただ、魔理沙の父の話を真剣に聞いている。

「魔理沙は、見つかっていません。それでも、探されるのですか?」
「――遺体は、見つかっていない」

 今にも折れてしまいそうな、弱々しい声。俯いているせいで目元さえ見えないが、その肩は、声は、小さく震えていることがわかった。あの強気な、頑固な男がどうしてこうなってしまったのか、咲夜は――もう、気がつき始めていた。

「何故、魔理沙は――」
「私の母はね、霖之助君」
「――はい」

 淡々と、けれど震える声で語り出し始めると、魔理沙の喉が大きく動いた。生唾を呑み込み、唇を噛み、手を強く握る魔理沙。咲夜はそんな魔理沙の手に、そっと、己のそれを重ねる。
 それだけで、不思議と震えが治まった。

「私の母は、魔法使いだった。並の妖怪では、手も足も出ないほどに強力な」

 魔理沙がまた唾を呑む。けれど、今度は震えたりせずに、咲夜に肩を寄せる。

「研究、研究、研究。そればかりの母だった。家庭のことなど顧みず、私になにも与えようとしなかった」

 霖之助はそれを、ただ黙って聞いている。元々寡黙なのか何も言い出せないだけなのか、彼を間接的かつ断片的にしか知らない咲夜には判断しきれない。けれど、支えることなく言葉を紡いでいく彼を見れば、それが正解なのだとなんとなく理解する。

「私は母と魔法を憎んでいた。だから、彼女のようになりたくなかった。与えることが、幸福だと信じていた」
「親父さん……」
「なぁ、霖之助君」

 顔を上げることなく、一言一言紡いでいく。その言葉は悲しいほどに重くて、その声は狂おしいほどに辛そうで、その思いはなによりも、痛々しい。

「私は――間違えてしまったのだろう、な」




 ――気がつけば、そこに二人はいなかった。




 がらんとした店内、夜色に染まる空間、先程までの光景は幻だったのだろうか。そう魔理沙を見れば、彼女はたった一度だけ目元を拭い落としていて、そうして散った雫が現実であったと証明していた。

『知って、いたの?』
「私が蔵から持っていったのは、死んだって聞かされていた祖母ちゃんの私物だったんだ。だから、血の繋がったひとが魔法使いだったってことは、知ってた」
『そう……それで、どうする? 魔理沙』
「証明する。私は、例えすごい魔法使いになっても、家族を蔑ろにしたりしないって」

 揺るぎない声が、魔理沙を遠くに追いやってしまうような錯覚に囚われて、咲夜は恐る恐る訪ねる。

『――紅魔館を、去るの?』
「なに言ってんだよ」

 魔理沙は大きく息を吸い込むと、それから咲夜の目を正面から見つめた。いつも、咲夜が見ていた色。沢山の希望を詰め込んだ瞳。そこには、力強い光が宿っている。
 ずっと見たかった光が帰ってきた。ずっと抱きたかった光が、戻って来た。そのことに咲夜は、ほんの少しだけ頬を緩ませた。

「いずれ、一回くらいは戻るよ。でもさ、私の家族は――“紅魔館のみんな”だろ?」

 弾けたように、笑う。

『ふふ、ええ、そう、そうね。私たちは――“家族”だったわね』

 花開いたように、笑う。

 夜空に花開いて弾ける花火。決して消えはしないと網膜に灼きつく、星色のプリズム。今、ようやく咲夜は魔理沙と本当の意味で“家族”になることができたのだと実感する。
 差し出された手は小さく、握りしめれば折れてしまいそうなのに、その瞳があまりにも強いから頼りたくなる。強くて弱くて、やっぱり強い――年下のおんなのこ。

『ねぇ、魔理沙』

 世界に、光が溢れ始める。

「なんだ? 咲夜」

 その光は、だんだんと強くなり。

『あとで、貴女の夢を聞かせて』

 やがて、何もかも白で塗りつぶし。

「おう! でも、咲夜のも、聞かせてくれよ?」

 交わし合う笑顔すらも、全て。

『ええ、約束するわ。魔理沙』

 力強い白の光で――満ちる。



















――第五章:4/歓迎の宴――



 ぼんやりとした光。夢か現か、まだはっきりとしない。けれど魔理沙は己の右手から伝わる熱に、理解も超えて納得する。

「手、あったかいな」
「第一声がそれ?」

 首を傾けて、望んだ姿を瞳に映す。色濃く残る涙の跡と、可憐な微笑み。楽しげに細められた瞳の奥に宿る、隠しきれない喜び。
 曖昧な境界を抜け、確かな意識が魔理沙の頭を満たしていく。何か、沢山のことを言って、色んな想いを伝えたい。そんな意思を右手に込めて、咲夜の手を握り返す。

「貴女の手の方が、あったかいわ」
「なんだよ、それ。咲夜の方があったかい」
「それなら、二人ともあったかいってことにしましょう」
「ああ、いいな、それ。それじゃあ、そうしよう」

 柔らかく通る声、優しさに満ちた音。紡ぎあった言葉が静止すると、魔理沙はただ微笑んだ。

「ただいま、咲夜」
「おかえり、魔理沙」

 必要な言葉はそれだけ。少ない声に充ち満ちた感情は、どんな音よりも鮮烈に奏でられる。何故なら、“家族”に必要なのはそれだけで、それ以上なんか要らないのだから。

「私、さ。過去を誇れるひとになりたい。過去を誇って、未来を掴み取りたい。咲夜は?」
「私は、関わったひとの誇りになれるようなひとになりたい。出逢いの全てを、誇りにしたい」

 交わされた夢は、どこまでも綺麗で優しい。交わされた音は、どこまでも純粋で柔らかい。言うほど簡単なことではないということくらい、魔理沙も咲夜も理解できている。
 けれど、それがどうしたというのだろうか。夢は、目標は、魔理沙にとっても咲夜にとっても何時も強大なものであったのだから。

 だったら今更、“少し”壁が高いくらい、どうということはない。

「――辛気くさいのは、そこで終わり!」

 大きな声と共に、レミリアが姿を見せる。魔理沙と咲夜が揃って目を瞠って驚いていると、雪崩れ込むようにフランドールが飛び出して、魔理沙に抱きついた。

「心配掛けるな、ばか魔理沙!」
「お、おわっ」

 続いて、ため息を吐きながらパチュリーが入って来て、小悪魔がそれに続く――ようにみせて追い抜かした。パチュリーが珍しく狼狽するのもなんのその。小悪魔はさっさと近寄って、魔理沙の頭に手を置く。

「心配掛けないようするのは良いですが、心配させすぎても駄目ですよ?」
「ちょっと、小悪魔。その役目は先生である私のものよ」
「おおっと、うっかりしていました」
「ぷっ、はははっ」

 いつもの光景。見慣れた遣り取り。思わず吹き出した魔理沙にパチュリーはわざとらしく頬を膨らませた。彼女が幼い表情をしてみせるのも珍しい。

「魔理沙、気脈が乱れているよ。ほら、深呼吸」
「何をやっているのよ、もう」
「咲夜、貴女も」
「えっ」

 その間に近づいて来た美鈴が、嬉しそうに微笑みながら魔理沙と咲夜の頭を撫でる。子供扱いに慣れていないせいか、二人はそれだけでほんの僅かに頬を赤くした。

「ほらほら、いつまでも遊ばない! 予定どおりパーティよ! アリエッタ、マリエル!」

 レミリアのかけ声で、アリエッタとマリエルを始めとしたメイドたちが、魔理沙を中心に彩りを整えていく。普段なら図書館では騒がせないパチュリーも、この時ばかりは何も言わない。
 どうやら、パチュリーもとっくに、ここで行われるパーティに対して諦めていて――同時に、少しだけ楽しみにもしていたようであった。

「ほら、魔理沙。ワインはまだ少し早いから、葡萄ジュースだ。咲夜も」
「料理長……はいっ」
「あ、ありがとう、マリエル」

 二人がマリエルからワイングラスを受け取ったときには既に、全員がグラスを手にとってレミリアを見ていた。
 視線を集めていたレミリアは、どこか満足そうに頷くと、一度だけ魔理沙に視線を合わせて優しく笑う。慈愛を宿した笑みで、魔理沙を迎える。

「堅苦しいことはこの際だから抜きよ。ただ――紅魔館の“住人”の回復を祝って」

 余計な言葉は必要ない。レミリアはそう、たった一言で魔理沙を迎え入れる。これ以上ない、最高の一言で、魔理沙を“家族”と認める言葉で歓迎して見せた。

『乾杯っ!!』

 笑顔と共に掲げられたグラス。深紅に落ちるのは、悲しみや憎しみなんかじゃない。魔理沙が築き上げた絆の一杯は、ほんの少しだけ酸味があって――それからなにより、甘かった。







 宴もたけなわという頃、レミリアは独り図書館から抜け出す。
 重厚な扉に体重を預けて見上げても、そこには重くのしかかる暗雲があるだけ。明るく騒がしい中と違って、ここはどこまでも暗く静かだ。
 戻れば、そこには待ち望んでいた光景がある。けれどレミリアは、直ぐに戻ることが出来ない。気持ちを落ち着かせなければ、動くことさえも出来ない。

「私は」

 零れ出た声は、鋭い。けれどどこか痛々しくて、それを証明するように、噛みしめた唇から一筋の赤がこぼれ落ちた。

「私はあと、何が出来る?」

 何人もの敵対者を屠ってきた両腕を見下ろす。けれどそこに、レミリアが自身に抱いていたような圧倒的な力は感じられない。
 むしろどこか幼子のような、弱々しくて儚い、そんな手。

「あと、どれほど、時間がある? 私は――」

 小さく紡がれた言葉が、闇の中へ落ちる。けれど吐き出したはずの音は、夜に溶けてはくれなかった。
















――第六章:1/ちょっと違った朝――



 窓辺から差し込む陽光を一身に浴びて、魔理沙は大きく背を伸ばす。清潔なメイド服を身に纏い、頭には白のヘッドブリムを留める。それから姿見の前に立つと、メイド姿の魔理沙が健やかに笑っていた。

「よしっ」

 頬をパチンと叩いて気合いを充填。やる気は十分。体調も良好。即ち今日も絶好調だと頬を綻ばせると、魔理沙は姿見の前でくるんと回った。
 ご丁寧にスカートの裾を掴んで決めポーズ。小首を傾げてウィンクまでして見せて、ようやく我に返る。女の子女の子としている様は可愛らしいのだが、どうにも気恥ずかしくってならなかった。そう、魔理沙はわざとらしく咳き込んで、仕事に向かう為に外へ――出ようとした。

「あ」
「あ」

 控え目に開かれたドア。真っ赤な頬。気まずげに逸らされた青い瞳。何かを紡ごうとして、けれど、もごもごと動かしただけで閉じてしまう口元。朝の挨拶でもしようと思ったのか、扉を開けた咲夜が見たのは、彼女らしからぬ“可愛らしい”仕草であった。
 逸らされていた瞳が魔理沙に戻り、それから、二秒三秒、四秒五秒と沈黙。耐えきれずに魔理沙が何かを言おうとする前に、咲夜が動いた。

「――ごゆっくり」
「ままま、待て、待って咲夜! 違うからっ、それ、違うからっ!」

 出て行こうとする咲夜に駆け寄り、そのままダイブ。腰に抱きつきふらつきながら、魔理沙は必死で言い訳を繰り返していた。
 一方咲夜の顔はどこか優しげで、視線は生温かい。普段少年のように振る舞っているけれど、偶にはそうして少女らしくしてみたいのね、と視線で語る咲夜に魔理沙は耳まで赤くした。

「だ、だから、聞いてくれってばっ」
「ええ、ええ、そうね。美鈴に頼んでお花でも貰ってくる?」
「聞けよっ」

 肩を揺らして何度も抗議。変わらず妙に優しい咲夜。
 早朝の紅魔館に響き渡るどたばた劇は、何事かと心底面倒くさそうにするアリエッタが見に来るまで、延々と続けられるのであった。



















――第六章:2/日常風景――


 ひゅん、と小気味の良い音と共に箒が振り下ろされる。その度に、額に浮かんだ汗が陽光を呑み込み、弾けて消えた。短く吐き出された息は規則正しく、音と重なって囀りのようで。それが、魔理沙の気持ちをだんだんと高揚させていく。
 見守る美鈴の前で、自分の世界に入り込んでいく。一度、二度、三度四度と繰り返し、魔理沙は集中力を高めていく。そうして、周りの音が遮断され、何もかもが現実から浮かび上がるような感覚になったとき、箒を持つ魔理沙の手が引き絞られた。

 ――スパァンッ

 空気を切る、心地よい音。背後に全てを置き去りにして、振り下ろした箒が地面を叩く。今までに感じた事のない手応えに、即、喜んだりはしない。師匠の教えを守るように緩やかに息を吐き、残心。
 息を整え終えると、途端に世界が広がった。柔らかい笑みを浮かべる美鈴と、タオルを持って佇む咲夜の姿。咲夜が来たことにも気がつかず、鍛錬をしていたようだ。

「うん、よし。それじゃあ、今日の鍛錬はここまで」
「はい、師匠!」
「お疲れ、魔理沙」

 咲夜に手渡されたタオルで、魔理沙は汗を拭く。メイド服の端を掴んですんっと鼻を鳴らし、汗臭くはなっていないことを確認すると、少しだけ恥ずかしそうにした。
 少年のような振る舞いが多くても、女の子。そんな意識が朝の遣り取りから浮上してきて、どうにも具合が悪い。魔理沙はそう、頬を掻いて咲夜を見て、顔を逸らす。

「さて、次は庭園の管理について教えるわよ。せっかくだから咲夜、貴女も」
「はいっ」
「……美鈴ほど、上手くは出来ないわよ」

 ストレッチを終えると、魔理沙と咲夜は移動を始める。ここ最近、鍛錬の時間がこれまでに比べて半分ほどになった代わりに増えたことがあった。
 それが、庭園の管理方法という名のガーデニング講座だ。放って置くと無意識下でも無茶しかねない魔理沙の為に用意した、鍛錬後の“休憩時間”であり、なるべくのんびりとしたものになるように努めている時間だった。

「薔薇には、たっぷりと水を与えて。そう」
「お、おお? おお」
「魔理沙、あんまり傾けすぎても駄目じゃない?」
「あはは、そうね。気をつけて」
「お、おおお、お」

 まだまだ、花の世話なんて慣れない。けれどニコニコと笑顔で教えてくれる美鈴と、ぴったり付き添ってくれる咲夜の前で、魔理沙は格好悪いところを見せまいと、拙いながら一生懸命やっていた。
 花に水、土に肥料、害虫駆除に庭木の剪定。やることは沢山あるし、覚えることも盛りだくさんだ。それでも、美鈴は焦ることなくゆっくりと教えていく。

「花がひらけば、風雨によって散らされるのが常」
「師匠?」

 奮闘を終え一息吐いた二人に、美鈴が柔らかく告げる。

「同じように、ひとの生涯には別れが必ずあるの」

 二人の頭に手を当て身を屈める美鈴の表情は、優しい。そこに巡り会ってきた別れへの痛苦は見られず、寂寥さえも温かさの中に収まっている。ただ、全てを享受してきた妖怪の、生涯の欠片がそこにあった。

「だから今、こうして隣り合っている時を、大切にして。一瞬一瞬を、満ち足りたものにする為に」

 終えたあとに、後悔なんかしない為に。そう、言外に告げられたような気がして、魔理沙は真剣な表情で頷く。横目で見ればそれは咲夜も同じで、自然と傾け合った視線が混じった。

「はいっ!」
「――うん」

 声量こそ違うが、込められた想いは等しい。美鈴は胸の奥へ響くような答えを受け取ると、心の底から嬉しそうに笑った。







 朝食の準備を負え、休憩時間を挟んで掃除仕事へ。午前中はしっかりと働き、昼食を作り終える。それから、これまでとは違うスケジュールが組まれるようになった。
 淡い黄色のコーンクリームスープ。まだ湯気の立つそれに、魔理沙はスプーンを付ける。一口含むと甘味が鼻孔を抜け、誤魔化しきれない熱が魔理沙の舌を襲った。

「っ?!」

 慌てて水を手に取り一気飲み。次いで、息を吹きかけてスープを冷まそうとしたところで、ぺちんと頭を叩かれた。痛くはないが、突然だとびっくりする。そんな顔でむくれる魔理沙に、マリエルは、はぁ、と息を吐いた。

「熱かったんなら、慌てずに水を含む」
「それと、覚ますときはスープの表面にスプーンの背を置いて、ゆっくりと混ぜなさい」
「はぁ、もう。ついでに、掬うときは手前から奥へ」

 マリエル、咲夜、アリエッタの順番で告げられる。昼ご飯ついでに、テーブルマナー。長い時間を掛けて行われるこの時間で、マリエルが腕によりを掛けて作った料理を食べるのだ。
 マリエルの本領は中華料理にあるのだが、料理長を務めている彼女からしてみれば、この程度の事は雑作もない。そんな風に胸を張ってはいるが、レミリアに作るときのように手をかけて作っていると言うことを、魔理沙はこっそり咲夜とアリエッタから聞かされていた。

「えーと、こう。パンも確かこの時に……」
「別にスープに拘ることはないぞ」
「パンは出された時点で食べてもいーの。かぶりついても良いわ」
「気になるんだったら、一口二口くらいに千切りなさい」

 今度は、マリエル、アリエッタ、咲夜の順番で口々に告げられ、魔理沙は気合いを入れ直す。少し気を抜けば、料理の美味しさに口元を綻ばせてしまうことだろう。
 そう、結局気の抜けた顔で食べるところを生温かい目で見守られているとも知らずに、魔理沙はスープを口に運んでいった。

「食べ終わったら、食器は六時の方向に揃える」
「こう、かな?」
「そう」

 満足げな魔理沙の表情に、マリエルもまた頬を綻ばせていた。魔理沙の食事風景が、あまりにも幸福そうなためだろう。







「さて、それじゃあ咲夜は私とお仕事よ」
「ええ、わかったわ。アリエッタ。それじゃあ魔理沙、またあとで」
「おう! 咲夜も、頑張れよ!」

 咲夜は、嬉しそうな魔理沙に手を振り返し、アリエッタについていく。
 咲夜の夢。関わったひとが誇りに思えるような人間になるということ。この意味するところは、才能も、能力も、性格もまったく違うひとたちと積極的に関わり、導き、並び立つということだ。
 その在り方の意味するところを理解したレミリアは、アリエッタと話をして、咲夜に新しい仕事を教えることになった。他の妖精メイドたちでは為し得ない――統括者としての、仕事を。

「いける? 咲夜」
「ええ。私も、頑張らなくっちゃ、ね」

 咲夜と魔理沙。立つ場所は違えど、二人とも前を向いている。影響し合った末に得た絆は、ここに来て、美しく咲いていた。







 午後の仕事は簡単に、皿洗いと洗濯を終えて、以前よりも早い時間に図書館に入った魔理沙は、パチュリーの目の前で様々な試験管を並べていた。
 フラスコ、ビーカー。魔法陣の上で明滅する七色の液体。その煌びやかな光に、魔理沙は口元を引きつらせる。七色を通り越して。その色は既にどどめ色。これでは、警戒するのも無理はない。

「えーと、これを、こうして」
「魔理沙。工程を一つ飛ばしているわよ」
「魔理沙ちゃん。そこでそれを入れると挽回できますよ」
「あ、うう、おっ、これか」

 おっかなびっくり、本を見ながら調合していく。時折自身の魔力で光を生み出し、それを混ぜて色合いを調整。じっと見守るパチュリーと小悪魔の前で、魔理沙は“錬金術”の修行をしていた。
 他ならぬ彼女たちに見守られているのだ。仮に失敗しても、きっとなんとかしてくれる。喜んで欲しいから失敗して欲しくない――それだけではなく、信用して頼ることが出来ているという、魔理沙の成長であった。

「えーと、三番、五番、七番、あとこれ」
「うん? それ、どこから……」
「魔理沙ちゃん、それ、本に書いてない材料ですよっ」
「へ?」

 用意したものの中に、予想外のものが入っていた。材料から自分で探してきたが故のミスである。
 試験管の中に入っていたのは、青白い蛍光液。魔理沙が魔法の森でとってきたキノコを煎じて、魔力を叩き込んだ末のケミカルジュース。
 パチュリーと小悪魔が慌てて止めるも間に合わず、魔理沙は完成間近のフラスコに青白い液体を注ぎ込んでしまった。

「うわっ!」
 ――ドオォンッ
「【ジェリーフィッシュプリンセス】」

 パチュリーの魔法が間に合い、魔理沙の身体が水泡によって包まれる。それは爆風の煽りを受けて弾けると、その衝撃によって爆炎を綺麗に吹き飛ばし、二次災害すらも防いで見せた。
 二段構えの完璧な魔法。思わず、楽しそうに手を叩いて喜ぶ魔理沙に、パチュリーはそっとため息を吐く。緊張感がない――のではなく、信頼から来る態度だとわかっているので、あまり強くは言えないのだ。

「パ、パチュリー様」
「はぁ……なによ、小悪魔」
「あ、あああ、あれ」
「うん?」

 爆発が消え去ったあとに輝くインゴット。緋色のそれを目にしたパチュリーは、ぽかんと口を開けた。もう、魔理沙に対しては、こんな表情も珍しくはない。
 ここ最近、驚いてばかりだ。そんな表情を浮かべるパチュリーに、魔理沙は首を傾げていたが。

「魔理沙、それ、なんだかわかる?」
「えーと、作ろうとしてたのはダマスカス銅だから……なんだろう?」
「ヒヒイロカネよ」
「ふぅん。そのヒヒロカネって、失敗作のこと? 先生――――うんんん?」

 何かがおかしい事に、ようやく気がつく魔理沙。口をポカンと開けてインゴットを手に取り、恐る恐る眺めてみる。それから、どうしたら良いかわからないという表情で、そっとパチュリーを見た。

「それは魔理沙が錬成したのだから、魔理沙のものよ」
「そうですよ、魔理沙ちゃん。気にせず貰っちゃって下さい」
「私の、もの」

 ヒヒイロカネを掲げて、それからそっと抱き締めてみる。初めて成功した、自分自身の錬成物。錬金術が成功したのだという確固たる証拠を前に、魔理沙は自然な笑みを浮かべる。
 これまで得てきた魔法とは、だいぶ毛色が違う。その成果は、魔理沙にとって大きなものだろう。パチュリーは喜びを隠そうとしない魔理沙に、胸を弾ませる。

「うん……ありがとう、先生っ! 小悪魔っ!」

 礼を言うような事じゃない。そう言おうとしたのに喉が動いていないことを不可思議に重い、パチュリーは頬に手を当てた。
 それで漸く、自分の頬がだらしなく緩んでいることに気がつく。慌てて引き締めて小悪魔を見れば、彼女は隠そうともしていなくて、途端に隠すことがバカらしくなった。

「どういたしまして、魔理沙」
「どういたしましてっ、魔理沙ちゃん」

 三人で笑い合って、気がつけば、図書館が明るい声に包まれていた。少し前までは想像も出来なかったことだろう。この静謐な図書館が、賑やかになることなど。
 けれど、忌諱するべき状況の筈なのに、この場にいる誰にも、そんな感情は窺えない。ただ、誰もが楽しそうに、ゆったりとした時間が過ぎていく。







 図書館での休憩時間に沢山の本を選んだ魔理沙は、それを抱えて更に地下深くへ降りていった。
 照明によって明るく照らされた階段。その奥に伸びる廊下にも、調度品や花瓶が置かれていて、よく手入れも行き届いていた。歩いているだけで、ほんの少しだけ楽しくなる廊下。そこに、以前のような恐ろしさと物悲しさは、存在しない。

「おーい、フラン! 開けてくれー」

 両手に抱えているから、ノックも出来ない。そう魔理沙が声を上げると、ゆっくりと扉が開かれた。本の山の向こうに居るのは、魔理沙とそう変わらない身長の少女。
 ――なのだけれど、今日は少し、雰囲気が違う。ついでに見れば羽の形も違っていて、魔理沙は思わず首を傾げる。

「そんなに抱えて、落ちたらどうする気? そそっかしいんだから注意しなさいな」
「レミリア?」

 魔理沙の本を片手で持ち上げ、ため息を吐くレミリア。その奥では、フランドールがきゃらきゃらと笑っていた。どうやら、二人でお茶をしていたようだ。

「ほら、魔理沙! マリエルが作ってくれたクッキーがあるよ」
「どうしたのさ? ほら、さっさと入りなよ」

 一瞬、二人きりにした方が良いのかと考えて、足を止める。けれど全く気にした様子無く迎え入れる二人を見て、魔理沙は直ぐにその案を却下する。
 迎え入れてくれるのなら、思う存分楽しもう。こんな偶然、そうそう無いのだから。そう楽しげに笑うと、魔理沙はフランドールとレミリアの間に座って、クッキーに手を伸ばした。

「お、ココア味」
「魔理沙って、甘ったるいの好きだよね」
「なんだよ、良いじゃないか」
「良いけど、魔理沙って血まで甘そう」
「いやいやいやレミリア、なんだよそれ」

 一枚、二枚とクッキーを摘み、言葉を交わす。一番上品に食べるのがレミリアで、次にフランドール。魔理沙は、食べ方なんて適当だった。
 けれどマリエルたちとの訓練が功を奏したのか、食べかすを零したりはしなかった。育ちが良いというのも、もちろんあるのだろうが。

「ね、ね、魔理沙」
「うん? なんだよ、フラン」

 そんな中、何かを思いついたフランドールが身を乗り出す。楽しげに笑みを浮かべて、魔理沙に近寄って笑いかけた。

「魔理沙の血、飲んでみたい!」
「あー、そっか。吸血鬼なんだ。今まで何人の血を吸ってきた! とかやった方が良い?」

 どこか的外れた魔理沙の言葉に、フランドールとレミリアは互いに顔を見合わせる。

「呆れた。忘れてたの?」
「魔理沙は、今まで食べてきたパンの数、覚えてるの?」
「いや、つい……。でも、なるほど。覚えてないぜ!」
「普通はそうよ。でも次からは十三枚とでも答えなさい。縁起の良い数だから」
「良くないだろ、それ。……ま、いいや」

 魔理沙はそう言うと、人差し指の先を魔法で軽く切って、差し出す。とりあえず血を渡そうとだけ考えて、なんの警戒もなく差し出した魔理沙に、フランドールとレミリアは揃って苦笑した。

「それじゃ」
「いただくわ」

 人差し指に見目麗しい少女が二人集まって、小さくて赤い舌を伸ばす。背徳的でどことなく艶美な光景に、魔理沙は少しだけ気まずくなって、照れ隠しにそっと目を逸らした。
 けれどそれで、赤くなる耳と頬は隠せない。横目で見れば、フランドールとレミリアは、魔理沙の様子に気がついたような仕草はなくて、それだけが安心できる材料であった。
 やがて二人が舐め終わると、漸く魔理沙は一息吐くことが出来た。このまま続けられていたら、きっと心音が二人に届いてしまっていたことだろう。そう考えると、気が気でない。

「で、どうだったんだ?」
「うーん――」

 考え込むフランドール。その答えを、魔理沙はじっと待つ。

「――うん。変な味!」

 けれどその答えは予想と少し違っていて、魔理沙は思わず椅子からズレ落ちそうになった。

「な、なんだよそれ、文句いうなよ」
「文句じゃないよ」
「そうねぇ、なんだかぽかぽかするわ。媚薬的な効果でもあるのかしら? 顔赤かったし」

 フランドールとレミリアが立て続けにそう言うと、魔理沙はまた顔を赤くして立ち上がる。気がつかれていなかった――なんてことは、なかったようだ、と。

「ねぇよ。というか、気がついてたのかよっ!?」
「あはは、細かいこと気にしないの」

 うぅぅ、と呻り声を上げて魔理沙が蹲る。ぱくぱくと口を動かして、しかし何も言えず、結局むくれた顔でそっぽを向いた。それに、フランドールは笑い出すのを堪えようとせず、レミリアもどこか楽しげに微笑む。
 そんな二人を見ていたら、どうでも良くなってしまった。魔理沙はそう、未だ赤い顔で苦笑する。彼女たちが笑っていて、自分だけ笑っていないのは、もったいない気がした。

「さて、今日も勝負よ! 魔理沙!」
「今日は私が監督してあげるわ。存分に披露なさい」
「おう! 任せとけ!」

 星々が瞬き、幾重にも連なり、やがて弾けて地下室に天の川を浮かべる。少し前までは考えられなかった、明るく澄んだ魔法。二人の為す光景に心底嬉しそうなレミリアを見て、魔理沙もまた、楽しげな笑みを浮かべていた。







 紅魔館には、大きな浴場がある。フランドールとの魔法合戦で汗を掻いた魔理沙は、桶を片手に鼻歌を歌いながら脱衣所へ消えていった。ヘッドブリムを外し、エプロンを取り、メイド服を脱いで畳んで、籠の中に下着を放り込む。
 身体を洗う為のタオルを手に持ち、浴場に入ろうとしたとき、ふと、隣に気配を感じて首を傾けた。

「ん?」
「あら?」

 隣にいたのは、同じく浴場に入ろうとしていた咲夜だった。手に持ったタオルは胸元へ、お風呂に入るだけでどことなく上品な咲夜は、魔理沙を見て首を傾げる。

「魔理沙もこれから?」
「おう! 珍しく被ったな」
「そうね。せっかくだから、流し合いっこでもする?」
「お、いいなっ」

 和気藹々と話ながら、タイルの上を歩いて行く。パチュリーが魔法を用いて作ったという蛇口から出るのは、紅魔館がどこからか引いてきている温泉だ。
 おかげで魔理沙たちは、こうして毎日、手間暇掛からず温かいお湯を堪能することが出来ていた。

「それにしても、温泉なんてどうやって――」
「私が、見つけてきたのよ」
「――師匠?」

 咲夜の背中を流していた魔理沙は、隣から聞こえてきた声に首を傾ける。魔理沙の隣、少し見上げた先。タオルを肩に掛けて堂々と立つ美鈴の姿。あんまりにも堂々としているものだから、魔理沙は思わず手を止めて魅入ってしまった。

「気脈を探る応用。龍脈――水脈を探すことだって、出来るの」
「おお、なるほど。そうなのか」

 それだけ告げて、美鈴は身体を洗い始める。赤いの髪は水を吸い込むと楽しげに踊り、跳ねた。

「うぬぬぬぬ」

 魔理沙はそんな美鈴を見て、自分に視線を戻し、それからもう一度自分を見た。何一つとして引っかかることなく、太腿の間を抜けてすとんとタイルまで落ちる視線。手の止まった魔理沙を不思議に思い振り向いた咲夜も、魔理沙の視線の先を見て、その意味に気がついた。

「気にしても、しょうがないわよ」
「……そう、だよな」

 大きく深呼吸をして、こっそり牛乳を飲もうと誓う。
 気を取り直して、再開。お湯で流して交代すると、魔理沙の背中をタオルが滑る。一度二度、三度四度。どうにもくすぐったくて、魔理沙は笑いだしてしまいそうになるのをぐっと我慢した。
 けれど、何故だか咲夜の手が止まり、今度は魔理沙が不思議そうに振り返る。どことなく悔しげな表情で自分の胸を見下ろし、それから浴場の入り口に目を向けていた。
 何事かと自分の同じ方向に目をやり、気がつく。タオルを胸に巻くアリエッタと、肩に乗せるマリエル。二人とも、着やせでもしていたのか。そうに違いない。魔理沙は楽しげに手を振ってきたマリエルにそれを返して、頬を引きつらせた。

「咲夜……見ちゃ駄目だ」
「わかってるわよ。なくてもいいもん」
「あ、あははは」

 なんとも可愛らしく拗ねる咲夜に、苦笑する。先にこうして子供っぽいところを見せられてしまったら、魔理沙まで拗ねることは出来ない。そうしてしまうと、ストッパーが居なくなってしまう。
 どうしたものかと悩みながら、ぐるりと周囲を見回す。すると、その一角。端の方でのんびりと浸かる二人を見て、閃いた。

「咲夜、私たちが目指すのは、アレや」

 指された美鈴が、首を傾げる。

「アレじゃなくて」

 マリエルとアリエッタは、まだ身体を洗っている最中で気がつかない。

「アレなんだ!」

 最後に見たのは、浴場の端。魔理沙が指した方向には、パチュリーを気遣う小悪魔の姿があった。
 あまり大きいとは言えないが、形良く、小ぶりで美しい。大きいものを望むことは自信なくても、あれならばもしかしたらいけるかも知れない。咲夜は魔理沙の言葉の意味に気がつくと、ぎゅっと手を握り合う。

「――バカなことをやってないで、入りなさい」

 湯に浸かろうと立ち上がった美鈴は、二人に一言だけ告げて、ため息を吐く。結局二人の友情は、美鈴が忠告してからきっかり三十秒後、咲夜のくしゃみで幕を閉じるのであった。







 入浴を終えた魔理沙は、そのまま咲夜の部屋を訪れた。ここ最近、咲夜と一緒に勉強していること。それが、紅茶の淹れ方だ。
 美味しい紅茶を淹れるにはどうしたらいいか。お茶菓子にはどんなものが最適か。紅茶を飲むときのマナーはどんなもので、紅茶の種類はどのくらいあるのか。
 ゆっくりと、談笑を重ねながら、魔理沙は咲夜の講義を受けていた。美味しい紅茶の淹れ方が解って、美味しい紅茶を飲むことが出来る。一日の〆に相応しい、充実した時間に、魔理沙は頬を綻ばせる。

「そう、ポットはじっくり温めて」
「こう、だよな。うん」

 咲夜の部屋は、質素だ。ほとんど物が置いていないのではなく、必要最低限。合理的に作業が出来て、合理的に休養が取れる。それだけを追求した部屋。
 けれど、最初に見たときに比べて、魔理沙はその部屋に物が増えているような気がしていた。紅茶の入れ方を教わり、実際に飲んでみて。渋い顔を作ってから、砂糖を入れる。
 口の中に広がる仄かな苦みは、あっという間に魔理沙の心を落ち着かせてくれた。咲夜と一緒に飲む紅茶は、ある意味、魔法のようなものなのだろう。

「はぁ、美味しい」
「まだ、魔理沙には負けないわよ」
「お、言ったな?」

 紅茶のカップを傾けて、今度は咲夜が淹れた紅茶を飲む。魔理沙の気分に合わせて淹れてくれたアップルティーは、唇を濡らす度に、魔理沙の心を満たしていく。

「でも、こんなに美味しい紅茶が飲めるなら、負けたままでも良いかも」
「あら、らしく無いじゃない」
「あはは、だってさ。私が淹れるよりも咲夜が淹れてくれた方が、ずぅっと美味しく感じるんだ。上手い下手とかじゃなくて……なんだろ?」
「……そんなに言うんだったら、しょうがないわね。練習とは別に、私の紅茶が飲みたくなったらノックなさい」

 咲夜は、空中で扉を叩く真似をする。褒められて照れているのか、頬には朱が差していて、釣られて魔理沙も恥ずかしくなった。あわあわと口を動かし、けれどやっぱり何も言えない。
 今日は一日、こんなことばかりだ。そう思いながらも、澄ました表情で頬を赤くする咲夜に、やっぱり何も言えなかった。

「――ただし」
「うん?」

 照れ隠しか、それとも悪戯心か。きっと、後者だろう。
 楽しげに頬を緩めて、ぱちりとウィンク。上品ながらに茶目っ気のある、垢抜けた仕草は、堅物だった彼女の成長を見せている。

「紅茶が飲みたいときは、ノックは五回」
「とんとん、とととん?」
「ふふ、そう。わかりやすいでしょう?」
「あー、うん。秘密の合い言葉、みたいだな」
「ええ、そう。二人だけの、合い言葉」

 そう言うと、なんだか楽しくなって、耐えきれずに吹き出した。最初にここに来たときからは想像も出来ない、ひととき。

『ぷっ……あははははははっ』

 腹を抱えて声を上げて、笑い合って見つめ合う。楽しくて楽しくて、この時間の永遠を望みながらも、明日もまた楽しみで仕方がない。
 だから魔理沙は、望む。今日が明日になれば良いと。明日が、明後日になれば良いと。明後日が、未来になれば良いと。そうすれば、きっと、笑い合っていられるから――と。







 咲夜と別れて、魔理沙は一人自室に戻る。少し前まで、気絶するように眠る為に使っていた、努力の為の中間地点も、今はきちんとした休息を取る為の場所になっていた。
 寝る前に、図書館で借りた“先生オススメ”の本でも読もう。そう、ただ部屋に戻るだけなのに、心を躍らせる。しっかり読んで、感想を告げれば、それだけで喜んでくれるのだと魔理沙は知っていた。

「はぁーっ……明日は、なにを覚えようかな」

 アリエッタに、メイド長補佐の仕事について聞いてみるのも良いかもしれない。もしかしたら、咲夜に手伝えることだって出てくるかも知れない。そうでなくても、未知の仕事には興味がある。
 鼻歌を歌いながら、足取りは軽く、自室の前に立ってドアノブに手を伸ばす。ちょうど、肩の高さよりも少し低い程度のドアノブ。銀色のそれに、魔理沙の顔が映り込んで――歪む。

「え?」

 歪んだのは、ドアノブではない。魔理沙自身の顔だと気がついた頃には、魔理沙は扉を開け放つことなく体重を預けていた。


 ――ズキン
「ッ、あ」


 頭痛。瞼の奥から、頭蓋の裏を引っ掻くような。

 ――ズキン
「ぁう」
 ――ズキン
「は、ぁ、ああ」
 ――ズキン、ズキンッ
「は、な、んで、あ、くっ」
 ――ズキン、ズキンッ、ズキンッ!
「う、ぐ、ぁぁぁぁああぁっ」

 痛みに耐えきれず、蹲りそうになる。それでも魔理沙はドアノブを回し、一歩踏み出す度に割れんばかりに痛む頭を抑えて、ふらふらと歩き進んでいった。
 衣装ダンスに手を付き、断続的に響く痛みに吐き気を覚え、歪んでいく視界に耐えながら、魔理沙はベッドに身を投げ出した。

 ――ズキン、ズキン、ズキン、ズキン
「はぁ、あ、ぁああぁ、う、が、あぐ、はぁ、はぁはぁ、うぁっ」

 両手で頭を抑えて、転がることも出来ないほどに消耗させられ、ただ耐えることしかできない。
 激しい頭痛。万力で頭を締め付けられているかのような苦痛。声を出すことも辛いと呻り声を上げ、我慢して我慢して我慢して。

 ――……――――……ズキンッ!!!
「あぐぁッ!?!?!! …………ぁ」

 永遠とも思えた時間。それは、一際大きな痛みと共に終わりを告げる。耐えきれなくなった魔理沙の、失神という形で。
 倒れ伏した魔理沙を見る者は、いない。ただ、カチリカチリと時計の音が鳴り響く小さな部屋。横たわる魔理沙からは、微かな吐息が零れるばかり。



 終わりの時が――迫っていた。



















――第六章:3/現れ始めた歪み――



 まだ日も昇っていない時間に、魔理沙は目が覚めた。眠った、という実感はない。着たままだったメイド服も、嫌な汗に濡れている。頭痛こそもう無いが、またあの痛みに襲われるのかと思うと――魔理沙はそう、頭を振る。
 覚束ない足取りで外を眺めてみれば、まだ深夜。時計を見れば、まだ咲夜と別れて三時間しか経っていない。

「なんだったんだよ、本当に」

 これまでの魔理沙だったら、休むことを恐れてこのまま自主訓練でもして過ごして、仕事に向かっていたことだろう。
 でも、今は違う。不調を黙って、苦しいのを堪えて、痛みを抑え込むということは――信じてくれたみんなを、裏切るということなのだから。

「よしっ」

 パンっと頬を叩いて、部屋を出る。
 咲夜はこの時間はまだ寝ているだろうし、美鈴も夜は寝ることだろう。こういった事の解決に相応しいかわからないので、フランドールとレミリアも選択肢から外す。二人に付き従って居るであろうアリエッタも、同様に。マリエルは短い仮眠の真っ最中で、そうなると望めるのは一箇所だけといえることだろう。

「ふぅ、はぁ、くそっ」

 まるで、衰弱しているみたいだ。
 足を動かす度に休息を求める身体に、鞭を打つ。もし寝ている間にあの頭痛に襲われて、その時に生き残れるかはわからないのだから。
 思考はネガティブな方向ばかりに動く。それでも、魔理沙は足を止めることはなかった。進んで、進んで、進んで。見えるのは、小悪魔を説得したあの大きな扉。魔理沙が来る時間帯にはいつもひらいていた扉も、今は固く閉ざされている。

「やっと、つい――」
 ――ズキン
「――あぐ」

 気を抜いた途端、また、あの痛みに襲われる。先程までよりも緩いが、それでも、弱った身体に掛かる負荷は途轍もないものだ。

「あ、ぅ」
 ――ズキン、ズキン
「たす、け」
 ――ズキン、ズキン

 蹲り、手を伸ばし、唇を噛んで懇願する。けれど、潤んだ瞳は、何も映してくれなくて。ただ、孤独に戦わねばならない。

「たすけて、先生、こ、あく、ま」
 ――ズキン、ズキン、ズキ……

 そうして、伸ばされた手が、誰かに掴まれる。小さくて、ちょっとだけ冷たくて、それから、優しい手。その手が誰のものだか思い出す直前。魔理沙はふわりと抱き上げられた。

「今、助けてあげますからね――」
「――ちょっと我慢してなさい、魔理沙」

 深い赤と、紫陽花色の髪。二つの影に身を委ねて、魔理沙はまた、気を失った。







 規則正しい息。沈痛の魔法で落ち着いた魔理沙は、健やかな表情で眠っていた。時折むにゃむにゃと寝言をいう所まで、平和そのもので。

「大丈夫?! ――ん?」
「魔理沙っ! ――へ?」

 その様子が、慌ててやってきたフランドールと咲夜を安心させた。
 心配して損した、なんて表情で、フランドールは魔理沙の頬をぷにぷにとつつく。その度に魔理沙の口元から呻り声が零れて、どことなく楽しげだ。
 そんなフランドールを余所に、咲夜は目を鋭くさせていた。魔理沙が眠る図書館の簡易ベッド。その下には今も、淡い紫色の魔法陣が敷かれているのだから。
 常時展開型の、結界。その複雑な術式に込められた意図は、咲夜では判断しかねる。それほどのものであった。

「あの、パチュリー様」

 魔理沙はひとまずフランドールに任せて、咲夜はパチュリーに向き直る。その視線には真剣で、彼女の本気が窺えた。
 その意思に、答える為か。それとも、元からそのつもりだったのか。傍に控えていたパチュリーがこくりと頷く。

「原因は不明。けれど、あの魔法陣の中に居る間は、問題はないわ」
「原因、不明……ありがとう、ございます」

 咲夜はそう、パチュリーに深く頭を下げる。
 魔法陣の効果は、沈痛――と、おそらくそれだけではないだろう。紫の光の中に混じる仄かな紅。それは、レミリアの色だ。
 おそらく咲夜たちが駆けつけてくる前に一度、ここを訪れて、何らかの施術をしたのだろう。咲夜は当たりを付け、同時にひどい焦燥に襲われる。いったい、何が起っているのか、と。

「んぁ……あれ? フラン?」
「ぁ……魔理沙」

 ぐすぐしと目元を擦りながら、魔理沙が起き上がる。まだ寝ぼけているのか、しゃべり方は拙く、なんとも暢気な様子だった。なにもかも、いつもどおり。変わらず、寝起きでも笑顔を見せてくれる元気の良い女の子。
 魔理沙は周囲をぐるりと見回すと、フランを見て、咲夜を見て、パチュリーと小悪魔を見て、その斜め後ろに目を遣った。何があるのかと気になって咲夜が視線を流すと、そこにはいつの間にかレミリアが居て、咲夜は慌てて頭を下げる。

「レミリア?」
「調子はどう? 魔理沙」
「調子……って、あ」

 言われて漸く思い出したのか、魔理沙の顔が蒼白になる。頭を抑えてみたり、首を傾げてみたり。眉を寄せて額を解し、それから魔理沙はニカッと笑った。

「頭が痛かった……んだけど、なんともないぜ」
「そう。しばらくは、そこから出ても維持できると思うわ。ま、気を楽になさい」
「出るって……ああ、起きて歩いても良いってことか。わかった、ありがとう!」

 話が繋がっていない。いや、繋がってはいるのだが、レミリアは何かを隠している。咲夜はそんな疑問を抱くと、そっとパチュリーに視線を投げる。
 受け止めたパチュリーは、ただ一度こくりと頷いて、咲夜を落ち着かせた。レミリアを疑うつもりはない――だから咲夜は、レミリアの“しばらくは”という言葉が気に掛かる。何故、“もう”大丈夫だとは言わないのか。言ってくれれば、信頼できるのに、と。

「フラン。魔理沙と遊んであげなさい」
「お姉さま?」
「大丈夫だから。ね?」

 レミリアの声色。普段と何も変わらないはずの一言。けれどその瞳に翳りが見えたような気がして、フランドールは首を傾げる。けれど、彼女が大丈夫というのなら――もう、何も言えない。

「……うん。ほら、この間借りた本でも読みに行こう? 魔理沙」
「お、おう。それじゃ、またな!」
「ええ、また」

 レミリアが手を振ると、魔理沙はそれに嬉しそうに笑う。それから、フランドールに導かれるままに、図書館から出て行った。
 後に残された咲夜たちは、ただ、図書館に流れる緊張に硬直することしかできない。背中を見せたままレミリアは動かず、その表情を窺うことが出来ないのが、何よりも不安であった。

「零番の愚者たる旅人は、運命の輪に導かれ審判の時を迎えた」
「お嬢様?」
「しかし、もたらされた運命を二つ足しても、あと一歩で世界には至らない。何故なら、足せるのは一つだけだと、運命が定めたから」

 レミリアは、振り向かない。ただ前を、上を見て、蒼紫色の髪を夜影に溶かす。

「定められたものは覆せない。運命の輪を十一番にすることはできない。でも」

 そうして、レミリアは振り向く。傲岸不遜な笑み。悪魔の微笑み。子供のような、大人のような、女のような、少女のような。彼女らしい、不敵で自信に満ちた笑みに、咲夜は魅せられる。
 まるで、森で途方に暮れていた自分に、月影の下で手を差し伸べられたときのように、強く惹かれて止まない。

「所詮愚者は零番に過ぎない。悪魔の寵愛を受けし愚者ならば、世界を目指すことなど容易いこと」

 レミリアは翼を大きく羽ばたかせると、腕を組んで浮き上がる。

「咲夜。どんな形になろうとも、私の配下に不幸など感じさせはしないわ。どんな結末になろうとも、“最後”には笑顔をあげる」
「――はい、お嬢様」

 そう、どんな形で、終わろうとも。レミリアの最後の呟きは、咲夜の耳には届かない。いや、誰の耳にも届くことはなく、ただ、もう一言だけ、声を零した。

「“運命”よ――お前の望む形には、決してさせないわ。最初から、何も知らなかったと愚鈍に世界を回ってなさい」

 挑戦状は、叩きつけられた。一介の悪魔が、今ここに、“世界”に喧嘩を売ってみせる。不敵な笑みと傲慢な態度――そしてなにより、“家族”を想う優しげな光を、瞳に宿して。







 咲夜が去り、小悪魔をフランドールと魔理沙の監督に付け、図書館にはレミリアとパチュリーの二人だけが残る。二人だけになってからというものの、レミリアは俯いたまま一言も喋ろうとしない。
 そんな彼女にため息を吐くと、パチュリーは空中でくるりと指を回して、ポットっとカップ、それから角砂糖とミルクを召喚した。

「アリエッタや小悪魔、それから咲夜の淹れる紅茶ほど美味しくはないけど、飲めないこともないわ」

 簡易読書用の小さな机と椅子を二つ、ついでに召喚。腰掛けると、レミリアもその体面に座って、冷めた紅茶に唇を付ける。それから苦みに眉を顰め、角砂糖を二つ放り込み、ミルクを注いでやっと一息。
 パチュリーは、すっかり落ち着いた彼女を見て、こっそり微笑んだ。もう、何十年も親友をやっているのだ。この程度の事は、なんてことはない。

「レミィ」

 パチュリーが小さく名を呼ぶと、レミリアはその肩を僅かに振るわせた。

「ここには、貴女が胸を張っていないとならない相手は居ないわ。違う?」
「……パチェ」

 レミリアの瞳が僅かに揺れ、そして静かに伏せられる。パチュリーは砂糖を入れすぎて甘ったるい紅茶を一口嚥下すると、ただ真っ直ぐ、レミリアを見る。
 たったそれだけ。これ以上、パチュリーは何も言わない。けれどそれだけで充分なのか、レミリアは、躊躇いながらも口を開いた。

「最悪は選ばせない。最低な結末は、迎えさせてなんかやらない」

 重く紡がれていく言葉、寂々と響く声。後悔か、憤怒か、悲哀か。内面を悟られるのを嫌がるパチュリーの小さな親友は、全てを押し殺してなお寂しげだった。

「でもさ、パチェ。それは最優ではないんだ。みんなが望む結末では、きっとない」

 カップを握る手は、力ない。まるで外見相応の精神に退行してしまったかのように弱り、か細い華奢な身体は、背負わせたら折れてしまいそうな程に衰えている。
 誰よりも強くて、誰よりも勇ましくて、誰よりも優しい――パチュリーの、たった一人の親友。

「それで? 諦めるの?」
「諦めて欲しくない、じゃないの?」
「諦めたいんなら止めないわ。でもそれだと、私の予測が外れてしまう」
「予測?」
「そう、予測」

 初めて、レミリアが顔を上げる。伏せていた瞳を開き。パチュリーを見る。

「私の大好きな親友は――どんな結末だろうと、最後まで笑ってみせるっていう、予測」
「パチェ……」

 パチュリーはそう言い切ると、涼しい顔に朱を差した。それにきょとんと目を瞠っていたレミリアは、だんだんと、頬を緩ませていく。肩を振るわせ、口元を抑え、黒い羽をぱたぱたと動かして、それからついに吹き出した。

「ぷっ……あはははっ」
「なによ」
「いやいや。パチェも随分、影響されたみたいね。くくっ」
「あんなクサイこと言う生徒がいるんじゃ、仕方ないじゃない」
「あははははっ、いや、まったくもってそのとおりだ」

 散々笑って、顔を上げて、もうそこに翳りはない。
 紅魔館の主、誰よりも上に立たねばならない存在。唯一弱音を吐ける存在が居るとしたら、それは、対等な“ともだち”だけなのだということをパチュリーは理解していた。

「パチェ、最後まで着いて来る気はある?」
「レミィこそ。途中でやっぱり止めた、なんて言わないでよ」
「くくっ」
「ふふっ」

 もう二人に、余分な言葉なんか必要は無い。ただ、一言。

『わかってる癖に』

 そう言葉を重ねて、不敵に笑いあった。







 フランドールと別れて、魔理沙はがらんとした廊下を歩く。結局、昨晩の頭痛がなんだったのか、理解できていない。けれどあれだけで終わりだとは、到底思えなかった。

 今も記憶に残留し、脳にこびりついて剥がすことのできない、強烈な違和感。
 体幹から締め付けられ、脳髄をかき回されるような痛みと、凶暴な不快感。

 魔理沙は昨晩の事を思い出して、思わず口元を抑えた。

「うぇ……ああ、もう。やめだやめだ」

 自室に戻ろうとしていた足を止め、方向を変える。何もしないうちに、気がつけば夜になっていたのだ。少し、外の風でも吸いたくなる。
 階段を降りて、裏口から外に出て、花畑の前に立つ。雲間からさしかかる朧月の微かな光が、白い薔薇を照らすと、清流に落ちる砂金のように瞬いた。
 ぼんやりと月が輝く以外は、星明かりも見えない夜。厚い雲の存在は、夜まで重くするような気がして、歯がみする。

「あーあ、今日は先生に新しい魔法を教えて貰う筈だったのに、ついてないぜ」

 明日やれば良いじゃない。今日でなくてもいいはずだ。そんなことは、わかっている。わかっているのに、心の奥深くで、何かがそれを否定する。何かがそれを、拒絶する。
 夜風に当てられたせいか、少しだけ寒気が走った。背筋からせり上がってくるような。足下から、食らい付いてくるような、そんな寒気。

「風邪、引いたかな? そろそろ、戻らな――――ぁ、れ?」

 僅かな寒気。予兆は、たったそれだけ。気をつけようなどと考え始める猶予も無く、魔理沙の視界は歪む。赤土に投げ出された腕は冷たい、はずなのに、何も感じない。
 ただ、どうして、なんて単純で明快な思考を抱く間もなく、魔理沙の意識が白濁していく。
 こんなところで寝てしまったら、もしかしたら凍死してしまうかも知れない。思い浮かぶのは、そんなとりとめのない思考ばかりで。

「魔理沙! くっ、マリエル! パチュリー様に連絡を!」
「魔理沙?! はい! 門番長! アリエッタ、アンタはお嬢様方への連絡を!」
「ッしょうがないわね。あなたも急ぎなさいよ、マリエル!」

 耳に深く届く声にも、縋り付く暇は無く、ただ視界は黒く染まり、意識は白で塗りつぶされ、混ざり合って安寧とはほど遠い虚脱感に襲われて。
 もう何もかも、駄目なのだと、諦めなければならないような気がして――どうしてもそれが嫌で、魔理沙は小さく手を伸ばす。

「魔理沙っ、“気”を整えるから、意識を保ちなさいっ!!」
「――し、しょ……ぅ」

 しっかりと掴んだ手。最初に見たときは強ばっていた顔が、今はひどく歪んでいる。最近は柔らかい笑みを浮かべることが多かったのに、何故こんなにも悲しそうなのか。
 心配を掛けてしまったことだろうか。笑って欲しいと思っているのに、そんな顔して欲しくないのに。だから――

「わたし、は、だいじょうぶ、だから、さ」

 ――意識を失う寸前に、魔理沙はそう、笑う。天真爛漫とはほど遠い、でも、優しい笑みを浮かべた。その頬に誰かの雫がぽたりと落ちたことに、気がつかぬまま。



















――第六章:4-1/運命に抗うもの――



 複雑に絡み合った魔法陣。前よりも数段輝きを増したそれは、規則性を持って七色に光る。
 魔法陣の上に置かれたベッド。白いシーツと毛布。横たわるのは、赤い顔に大粒の汗を浮かべて苦しそうに呻り声を上げる魔理沙であった。
 庭園で倒れ、美鈴によって運ばれてきて数時間。未だ、魔理沙は夢の中で、ただ足掻く。

「魔理沙、苦しそうにしてるのに――」

 フランドールはそう、己の右手を見つめる。ありとあらゆるものを破壊する、最強と言っても過言ではない破格の力。でも。

「――私の力じゃ、なにも、できないっ!!」

 振り下ろされた右手が、虚しく空を切る。フランドールの瞳からこぼれ落ちた涙が、図書館のタイルに音もなく染みた。
 けれど今この場で無力感を覚えているのは、フランドールだけではない。それはやはり常人では到底持ち得ぬ力を持つ咲夜もまた、同様であった。握りしめた拳の間から赤い血が落ち、それでも力を緩めない。痛みを感じていなければ――みっともなく、縋り付いてしまいそうで。

「レミィ」

 パチュリーは一度だけ強く唇を噛むと、深呼吸をして、それからレミリアに語りかける。すると、この場に集まっていたフランドール、咲夜、美鈴、小悪魔の視線が、レミリアに集められた。
 強い顔、決意の表情。強ばった口角の意味するところ。導かれる“運命”は、いったい如何なるものなのか。咲夜は、ただ己の主が口を開くのを待つ。

「“運命”って、何だと思う?」

 けれど突然そんなことを訊ねられて、咲夜は首を傾げた。そしてそれは他のみんなも同様だったようで、視線を泳がせ、おずおずと首を振っている。
 それにレミリアは怒るでもなく呆れるでもなく、ただ淡々と、頷いてみせた。

「世界に在る全てのものは、決められた道程を歩んでいる。そのあらかじめ敷かれた道が、“運命”よ」

 告げられた言葉を、咲夜は頭を切り換えて理解しようと噛みしめる。今、このタイミングで話し始めると言うことは、きっとこれが――魔理沙を救う為に必要な情報なのだろう、と。

「私の能力は、運命の目を一時的に誤魔化して、隣接する世界の道だと誤認させ、運命の方向性を転換させること」

 レミリアの語りの中、追いつけなかったフランドールがおずおずと手を上げる。

「お、お姉さま、隣接する世界って?」
「もしもの世界よ。世界の隣には、少しだけ違った世界があって、道筋も異なっているの」
「パラレルワールドというものよ。IFの世界。あり得た未来。そこには、咲夜や私が居ない世界だってあるかもしれないの」

 レミリアとパチュリーが立て続けに説明すると、フランドールはなんとか頷いて、視線で続きを促す。咲夜も、聞いていてしっかり理解出て来ているかは怪しい。けれど、どうしてだか、頭より先に心が理解する。
 幻想郷に流れ着き、途方に暮れ、レミリアに出逢い、救われた――その時の記憶が、咲夜を不思議と“納得”させるのだ。

「やっていることは単純よ。運命を誤魔化している間に、運命が勘違いする“種”を仕込む。例えば――」
「私の……“十六夜咲夜”という名前、ですね」
「――ええ、そう。私は咲夜に名を与え、孤独の運命を誤魔化し、共に歩めるようにした」

 やっぱり、そうだった。咲夜の胸中にぼんやりと浮かんでいた答えが、くっきりとその形を見せる。これまでの世界から解き放たれ、一変したような気がした――そしてそれは、気のせいなんかではなかった。

「お姉さま、それじゃあ魔理沙も、そうすれば治せるの?」

 フランドール声に、活気はない。
 それも仕方がないと、咲夜は考える。そうして治せるのだったら、わざわざ自分の能力の詳細を明かしたりはせず、さっさとそうしているのだろうから。

「お嬢様。一番最初、あの謁見でお嬢様は――魔理沙の運命に、何を見たのですか?」

 レミリアは当初、魔理沙の運命を垣間見て働くことを許可した。それを、咲夜は思い出す。そこに、答えが潜んでいるのではないか、と。

「――何も見えなかった」

 けれどレミリアの言葉は、咲夜が予想したものとは違った。

「複雑に絡み合った運命は、私の瞳に何も映さなかった――だから、興味を持ったの。運命を誤魔化してきた私の目を誤魔化す、運命に」

 再び、沈黙が降りる。誰も、何も言うことが出来ない中、レミリアはまた続きを語り出す。

「話を戻すわ。フラン――感づいているのでしょうけれど」
「それじゃあ、ダメなんだね」
「そう。誤魔化されなかった運命は、元の道に戻そうとする。その修正力から見た本来の運命は、他者の運命に深く絡みつくものだった。強すぎる運命は、誤魔化すことが出来ない。だから運命は今――この不自然な姿を、歪んだ道を排除しようとしている。魔理沙の運が悪い理由は、簡単。彼女は今、運命に嫌われているからよ」

 一息に告げられ、咲夜はなんとか噛み砕いた。魔理沙の現状は、つまり、“運命”に殺されようとしているということなのだから。

 けれど、だからこそ。

「どうすれば、いいのですか? 私は、何をすればいいのですか?」

 この問いは、戸惑いではない。

「私に役割を与えて下さい、お嬢様」

 ただ道を築き上げるために――主の命を請うためのもの。

「――運命を、戻す。私たちの家族を、“たかが”運命に奪わせはしない。殺させはしない」

 レミリアの声は強く、静謐な図書館を震わせる。なにものにも怯える必要は無い。なにものにも戸惑う必要は無い。紅魔館の住人たちの運命は、常にレミリアと共に在るのだから。

「手順は簡単。運命を誤魔化して、魔理沙と私たちの記憶を封印。歩むはずだった分かれ道に、魔理沙を置いて、元の道を歩めるよう、運命を修正する」
「お姉さま――記憶は、戻るの?」

 記憶を封印する。簡単なことでも、軽いことでもない。これまで築き上げてきたものを、大切だった思い出を、全て閉じ込めてしまうと言うことなのだから。
 それでも、フランドールの、美鈴の、パチュリーの、小悪魔の、咲夜の瞳に迷いはない。大切な思い出と共に過ごした彼女を、助けるためなのだから。

「強固な封印は、解けることがないまま終わりを迎えるかも知れない。でも、魔理沙が私たちに築き上げてきたものは、残る。だから」
「私たちに魔理沙の意思が残る限り、最早運命に侵されない魔理沙と交わって思い出すことだってある、ですか?」

 美鈴がそう笑うと、レミリアも口角をつり上げる。たかが運命。スカーレット・デビルの掌で踊るべきものに負けはしないと――彼女の瞳が雄弁に語っていた。

「最後に、あと半日だけ運命を誤魔化す。だからその間に、魔理沙と話をなさい。私は最後まで、“家族”が望まぬ選択肢を選ぶ気は、ないよ」

 魔理沙が拒めば、もう一つの選択肢――“最期”を共に過ごすということだって、選ぶことだろう。だから最後に、魔理沙と言葉を交わす。彼女が何を選んでも、後悔しないよう。

 望んだ答えを、得られるように、と。






 身に纏うのは、“いつもの”メイド服。最早着慣れた仕事着は、肌触りすら心地よい。魔理沙は袖を通した冷たさに息を呑むと、ぱちんと、頬を叩いた。

「よしっ」

 目を覚ました魔理沙は、レミリアに選択肢を与えられた。全てを忘れて生きるか、最後まで抗うか。生と死の両極端。その答えを、魔理沙はこの半日で得なければならない。
 そんなに早く選べない。生きて、記憶も欲しい。喉元までせり上がった言葉を、魔理沙は結局呑み込んだ。どちらかしか選ぶことは出来ない――それくらい、わかっているから。
 しっかりとした足取りで、魔理沙は紅魔館の廊下を歩く。一歩踏み出す度に胸が痛み、その度に意思を整えて、力強く歩く。与えられた選択肢の中で、後悔だけはしないように、と。

「やっぱり、ここか」

 魔理沙が最初に向かったのは、厨房だった。一番最初に与えられた仕事。一番最初に失敗した仕事。一番最初に成功した、仕事。
 少し目を瞑ってみれば、直ぐに思い出すことが出来る。倒れる鍋、飛び交う怒号、最初に叱られたときは心が折れそうだった、なんて。

「料理長、アリエッタ」

 魔理沙が声をかけると、橙色のポニーテールと緑色のロングヘアが靡いて、振り向いた。アリエッタとの出逢いも、なんとも残念なものだった。なにせ彼女も、咲夜にさっさと任せて放って置かれてしまったのだから。

「おう、魔理沙!」
「魔理沙じゃない。熱心ねぇ。真似できないわ」

 少しだけ赤らんだ瞳。隠しきれない、涙の跡。それでも“いつもどおり”に接してくれる二人に、魔理沙は頬を緩ませて、瞳を歪め、泣き出しそうな心を封じ込めてニカッと笑った。
 何を選んでも、どれを選んでも――これが、最後なのだ。思い出すかも知れない。けれどそれは、確定された未来ではない。そもそも、出逢えるかもわからないのだから。

「何か、教えてくれっ」

 魔理沙がそう元気よく言うと、二人はきょとんと首を傾げ、それから顔を合わせて小さく笑う。

「よし! 魔理沙はキノコが好きだったな?」
「うんっ。最初に、自分の力で手に入れた食材だしっ」

 マリエルは椎茸を取り出すと、それをスライスし、バターで炒める。レミリア達に出す料理に比べても、賄いで出す食事に比べても、粗食。けれど、醤油を掛けて出されたそれは、とても魅力的に見えた。

「良い、魔理沙。テーブルマナーに必要な事は、一緒に食べるひとと作ってくれたひとを不快にさせないこと。これができれば、なんだってマナーよ」

 加えて、アリエッタが静かに告げる。今まで教えてくれたテーブルマナーに無い、単純で一番大切なこと。それを告げて、アリエッタは小さく笑う。

「だからさ、魔理沙。どんなに上品に食べられないほど急いでいても、必ず“いただきます”だけは言うこと。格式張った、肩に力を入れないとできないようなものじゃなくて、ただ、“ありがとう”は言いなさい」

 面倒くさがり屋な彼女は、最後まで“肩に力を入れろ”とは言わなかった。それがなんだか嬉しくて。どの道、教えられたことを覚えていられるとは限らないのに、教えてくれたことが嬉しくて。

「いただきます」

 瞳からこぼれ落ちた雫が、椎茸のバター炒めを、少しだけしょっぱくした。







 図書館に行けば、そのままフランドールの所まで行ける。だから魔理沙は、先に門前に足を向けることにした。色とりどりの花々が咲き誇る庭園の、その先。深紅の門の前に立つ、真紅の髪。
 最初は会ってもくれなかった。名前も呼んでくれなかった彼女。警戒心に強ばったときのことを思い出して、少しだけ、胸が熱くなる。

「師匠」

 名を呼び、立てかけてあった箒を手に取る。自然体から真っ直ぐ突き出し、振り向いた美鈴の額に柄の先が向くように、斜めに構えた。

「一手、お願いします!」

 美鈴は、答えない。ただ拳を掌で包み込み、それから構えた。基礎を教え込まれていた魔理沙は、まだここまで教えられていない。まだ、組み手をやったことがなかった。それでも。

「はぁっ!」

 一息、気合いを入れて箒を引いて走る。狙うは、美鈴の水月。鳩尾だ。けれどそれを悟られないように、ただ、真っ直ぐと。

「せいっ!」

 構える美鈴に突き出された箒は、しかしあっさりと上方向に弾かれる。けれど魔理沙は諦めず、持ち上げられた箒を自身の頭上に運び、そのまま勢いよく振り下ろした。
 遠心力、引き絞り、タイミング。必然と偶然の混ざり合った、完璧なフェイント。これまでの鍛錬によって導き出された最高の一撃は、美鈴の真紅の髪を一本だけ巻き込んで、地面を叩いた。

「よく、できました」

 優しい声。嬉しそうな、言葉。ふわりと投げられて地面に転がった魔理沙の指に、宙を舞った髪が結ばれる。美鈴が、魔理沙の指に、自身の髪でリボンを巻き付けたのだ。

「ありがとうございました、師匠」

 声に、力はない。けれど、零れ出た笑顔は嬉しそうで。美鈴の頬が、魔理沙に同調するように緩む。

「例え忘れてしまっても、何度でも挑みに来なさい。何度だって、相手をしてあげるから。だから、紅魔館に来たら、必ず門を通ること。いいね?」
「――はい、師匠!」
「うん、良い返事」

 美鈴に手を貸して貰って、魔理沙はふわりと立ち上がる。彼女の指導は、厳しくも、温かかった。
 勢いよく頭を下げると、目尻に溜まった涙が地面に染み込む。それでも、顔を上げる頃には涙を堪えて、今できる最高の笑顔を浮かべてみせる。

「また、よろしくお願いします! 師匠!」
「ええ、待ってるわ」
「はいっ」

 万感の想いと共に、もう一度だけ頭を下げる。それから、庭園の光景を脳裏に刻みつけて、館の中へ走り去った。







 紅魔館の地下に根ざす、巨大な図書館。その重厚な扉の前には、何時かのあの日のように、小悪魔が立っていた。
 小悪魔を説得して、扉を潜った時。大笑いされたことを思い出して、魔理沙は少しだけ頬に熱を持つ。あんなに笑うことはなかったじゃないか、なんてそんな風に。

「魔理沙ちゃん。星は、手に入りましたか?」

 柔らかく告げられて、魔理沙は、首を振る。それが予想していた答えと違ったのか、小悪魔はきょとんと首を傾げた。
 どうせ、彼女とわかり合った時、散々恥ずかしい事を言ったのだ。今更何を言っても良いだろうと、そんなことを考えながら、魔理沙はゆっくりと口を開く。

「手に入ってなんかいない。だって、星も月も夜も空も虹も、ぜんぶ隣にあるんだから」

 努めて、照れないように。そうはっきりと告げた魔理沙に、小悪魔は俯いて肩を震わせる。流石の彼女も、予想外だったのだろう。一筋だけ涙をこぼして、それでも、楽しげに笑っていた。

「ぷっ、あははははっ! 最後の最後までそれなんですか? 完敗ですよ、もう」

 一通り笑い終えると、小悪魔はそっと身体をずらす。あの時のように、魔理沙に道を譲って、目尻に残った涙を指ですくい取る。
 魔理沙はそれにただの一度だけ頷くと、小悪魔の横を通って、重い扉を押し開いた。変わらぬ空間。荘厳な図書館。ただ己の先生の元へ往こうと向けられた足が――

「魔理沙ちゃん」

 ――小悪魔の声で、ぴたりと止まる。振り返ったとき、彼女の表情は見えなかった。彼女もまた背を向けていて、血色の髪しか見えなかった。

「図書館でのルール、覚えていますか?」
「……ああ。静かに、走らず、食べられず、邪魔をしない」
「はい、良くできました。でも貴女はかの大魔法使いパチュリー・ノーレッジの生徒なのですから、もう一つ、忘れないようにして下さい」
「もう、一つ?」

 首を傾げる魔理沙に、小悪魔は背を向けたまま言葉を紡いでいく。一言一言しっかりと、魔理沙の耳に、心に、響かせるように。

「いつでも、どんなときでも、“好奇心”を忘れないで。約束……できますか?」

 求めることを、求めたいと思った気持ちを、忘れないで欲しい。小悪魔の背中から、声から、魔理沙はそんな気持ちを受け取る。そしてそれを決してなくさないように、心の奥に縫い止めて、いつもの快活な笑みを浮かべた。

「ああ、もちろんだぜ!」
「ふふっ、それは良かったです。では行ってらっしゃい、魔理沙ちゃん」
「うん――行ってきます、小悪魔!」

 ちょっと、近所に出かけるように、魔理沙は手を振って走る。迷路のような図書館に入っていくと、それだけでもう、小悪魔の姿は見えなくなった。







 図書館の中央、大きな机の前。知識と日陰の魔女は、変わらずそこに腰掛けていた。
 走り寄ってきた魔理沙の姿を見ても動じることはなく、ただ、ぱたんと持っていた本を閉じる。それから、ゆっくりと浮き上がって、魔理沙と視線を合わせた。
 眠たげな瞳、動くのが好きではなく、少し移動するだけでも魔法を使って浮遊してしまう。思えば、彼女との出逢いは散々だったと魔理沙は思い出していた。
 追い出されて、なんとか戻ってきて、殺されかけて、いつの間にか手を取って教えてくれ始めた彼女。差し伸べてくれた手を、魔理沙は忘れたことがない。

「先生――」
「授業を始めるわ。今日は、見取り稽古。自分の目で見て、私の魔法をリーディングしてみなさい」
「――はいっ」


 ――まるで、歌っているようだった。


 パチュリーの口から紡ぎ出される詠唱は、何よりも流麗で、集まっていく力は何よりも美しい。纏う光に翳りはなく、集う煌めきに淀みはなく、弾ける輝きに濁りはない。魔理沙が、一目見て心惹かれたその魔法。
 魔理沙の大好きな魔法が、荘厳な図書館をぐるぐると回る。それは、たった一人の為のショータイム。魔理沙のためだけに用意された、大魔法使いのパレード。得難い、知識の宝であった。

「魔理沙。よく見ていなさい。これが、私の秘術の一端――【賢者の石】」

 五色の煌めきが、静謐な図書館を呑み込む。見ただけで真似することなど叶わない。生涯を賭けても、辿りつけるかはわからない。けれど、それでも、その光にはどうしようもなく惹かれてしまう。
 小悪魔と約束した好奇心が膨れあがり、感動と混ざり合い、魔理沙の中に不動の夢を植え付けた。

 ――こんな風に、ひとを惹きつけて止まない魔法が使いたいという、夢を。

「魔理沙、貴女はどんな魔法使いになりたいのかしら?」
「えーと、先生みたいに、心を掴む魔法使いになりたい」
「私の魔法が、心を掴む。そんな風に言うのは貴女だけよ? 魔理沙」
「そんなこと言われても、掴まれた以上、仕方ないじゃないか」

 魔理沙がそう唇を尖らせて拗ねると、パチュリーはほんの僅かに口元を緩ませた。気がつかれないように笑った訳ではない。気がつかれるように笑った訳でも、ない。
 ただ、自然に。ただ、無意識に。心の向くままに、微かな笑みを浮かべて――魅せた。

「それなら魔理沙、貴女は“普通”で良いわ」
「え?」
「そうやって自然体で、誰かの心の隙間に貴女の自慢の魔法を、埋めてあげなさい。それが普通で、それでいいのよ」

 魔理沙はパチュリーに言われ、己の手をかざしてみる。図書館のシャンデリアから照らされた光は、不思議と、魔理沙の心を安らがせた。魔理沙はそれに小さく頬を緩ませると、ただの一回だけ、頷く。

「うん――私は、普通の魔法使いになる。先生みたいに、“普通”のままで、星を掴む魔法使いに、なります!」
「期待して待ってるわ――だから、“また”来なさい」
「はいっ! 先生っ!」

 未だに、敬語とそうでない言葉が混じり合っていて、今一尊敬しているのかどうかわかりづらい。けれどパチュリーはそんな魔理沙を不快に思うことなく、ただもう一度だけ微笑んだ。

「ありがとうございました! それじゃあ先生、またっ!」
「ふふ、ええ、またね。魔理沙」

 さよならは、きっと必要ない。たった一冊の本が動かした彼女たちの絆は、きっとまた、本によって繋がることだろう。魔理沙は漠然とした願いを、確信だと思い込んで、走る。

 もう、振り向かなかった。







 地下室に続く隠し階段を、魔理沙は降りていく。
 運命の介入によって運が悪くなって、何度も怪我をしたし危ない目にもあった。今だって、それで、こんなにも苦しめられている。
 けれど魔理沙はそれが、何もかも悪いことばかりだなんて、思うことは出来ない。何故なら、もしもそこまで運が悪くなっていなければ、きっとこの階段を降りることなんか出来なかったことだろうから。

 きっと――

「よう、フラン! 今日は負けないぜ!」
「言ってなさい。今日は、私の勝ちよ!」

 ――フランドールに出会うことなんか、できなかったことだろうから。

 彩り鮮やかな地下室。重ねられた本。積み上げられた笑顔のあとは、今も魔理沙の心に刻み込まれている。
 ワンコインで終わってしまう命で、いったい何を手に入れるというのか。何を、為したいというのか。そう、意地の張り合いのような形で、魔理沙は自分とよく似た、年上の少女を助け出した。ただ、彼女と競い合って、一緒に勉強をしていきたいと、それだけを考えて。

「今日の為に開発した、私のとっておきだよ!」
「はっ! 私だって、用意もなく来た訳じゃないって思い知らせてやるぜ!」

 単純な力では敵わない。例え鍛え上げても、追いつくことが出来ない妖力。頭だって、魔理沙よりもフランドールの方が良いことだろう。何かもが、離れすぎている二人。
 けれど二人は、魔理沙とフランドールは、友達だった。悪友で、ライバルだった。

「往け! 【スターボウブレイク】!」
「行け! 【スターダストレヴァリエ】!」

 二つの星が、地下室の天井に浮かび上がる。どちらの魔法も、直接的な威力は込められていない。ただ、綺麗さだけを追求した魔法。フランドールの羽のように、魔理沙が綺麗だと言った翼のように、プリズムに輝く魔法。

『おおぉー……ん?』

 気がついたら二人は、同時に感嘆の声を上げていた。一緒に、互いの魔法に魅入っていた。

「あー、勝敗、どうする? 魔理沙」
「どうするもなにも、わかってるんだろ?」
「わかってるけどさ……魔理沙が言いなよ」
「いいや、ここはフランが言うべきだ」
「もう、しょうがないわね」
「なんだ。やけに折れるのが早いじゃないか」
「ばか。そうじゃなくて、せーの、で言えば良いじゃない」
「おお、なるほど! 流石私のライバルだぜ!」
「はぁ、もう――ばか」

 流れるような軽口。もう何度も紡いできた、彼女と笑い合う為の言葉。ばか、と呆れた様に言うフランドールの顔には、美しい笑顔が浮かんでいた。
 今にも泣き出しそうな、それでも、笑顔を浮かべようと頑張る少女の、美しい顔が在った。

「いくよ」
「せーのっ」

 泣き出さないように、最後まで、言葉を紡いで居られるように。フランドールは、目元を拭って、魔理沙も一緒に目元を拭う。

『引き分けっ!!』

 最後まで、安易に勝ちを譲ったりなんか、してやらない。気に入らなかったらそれでいい。また、何度でも勝負をすればいい。魔理沙のコインは何時だってたった一枚だけれど、フランドールはそのコインを、必ず魔理沙に投げ返してくれるのだから。

「あーあ、引き分けかぁ。それじゃあ、またやらないとね」
「ああ、そうだな。引き分けのままじゃ、具合が悪いからな」

 魔理沙はそう言いながら、フランドールに背を向ける。せり上がってくる涙を直前で押しとどめて、下唇を噛んで、泣き出したくなる自分を抑えた。ここで泣いてしまったら、きっと、もう、動けなくなるから。
 だから魔理沙は、大きく深呼吸をする。無理にでも笑って、それでいいじゃないか。そう振り向こうとした魔理沙の背に、とん、と柔らかな衝撃が、伝わった。

 背中に、フランドールがしがみついていた。

「っ、ぁっ、りさ」
「……うん」
「ま、たね。また、ぅあ、ぜったい、逢おう」
「ああ、絶対、逢おうぜ――フラン」

 拳を握りしめて、魔理沙は声を押し殺す。もう我慢できなくて、一滴二滴と腹に回されたフランドールの手に熱を伝えて、それでも声にだけは出さない。

 ただ、約束を交わす。

「うん――うん、またね、魔理沙っ」
「ああ――また、また勝負しような、フランっ」

 言葉を最後に、走り出す。フランドールの拘束は緩く、魔理沙はするりと抜け出した。もう、手を振ることすらしない。今度手を上げるときは、“また”が叶ったと気にしようと、心に決めて。







 紅魔館の廊下。壁に体重を預けた魔理沙は、顔を覆い隠して涙を止める。笑顔で、行きたかったから。笑顔で、扉を叩きたかったから、涙の跡すら消そうと目元を拭っていた。

「擦ったら赤くなるわ。ほら」
「ぁっ……レミ、リア?」

 そこに、淡いピンクのハンカチが差し出される。魔理沙とそう変わらない身長、伸ばされた手は幼く、けれど瞳には、長い年月の中で培われた慈しみに似た熱が宿っている。
 こんな目を向けられ始めたのは、何時からだったか。思えば最初の頃は、魔理沙はレミリアにちょっと気になる路傍の変な石程度に思われていたんだろうな、と、当たらずとも遠からずなことを考えた。

「ん、ありがとう」
「このくらい、気にしなくて良いわ」

 胸を張ってそう言い切るレミリアに、魔理沙は苦笑する。彼女はこんな偉そうな仕草が、この上なく似合っているのだ。

「ねぇ、魔理沙。貴女は私を、どう思っているのかしら?」

 だからこそ、魔理沙は小さな違和感を覚える。レミリアは、魔理沙のよく知る彼女は、こんなに切なそうな声を出したことがあっただろうか、と。
 けれど、その違和感の正体を問い詰めることは出来ない。何故なら、レミリアの瞳には、フランドールによく似た感情が揺らめいていたから。

「フランは、なんだろう? 妹というか姉というか、とにかく姉妹っぽい」
「魔理沙? 聞いてた?」
「咲夜はなんていうか、友達だし。先生は先生だし、小悪魔は小悪魔だし、師匠は師匠だし」
「……あのねぇ。もう一度聞くけど、魔理沙、貴女は――」
「だからきっと、レミリアは“お姉ちゃん”なんだ」
「――は?」

 自信満々に、魔理沙は胸を張って答えてみせる。何時でも、誰よりも胸を張って、ひとを心配させないようにしてきたレミリアのように、魔理沙は力強く頷いてみせる。

「きっと、レミリアは私のお姉ちゃんなんだ。フランと揃って、私はレミリアの妹――なんだと思う」

 自分でも、少しだけ強引だと思ったのか、魔理沙の言葉は尻すぼみに消えていく。最後まで胸を張れない姿が、どうにも魔理沙らしくて、レミリアは声を殺して笑った。
 本当に、最後の最後まで締まらない。最後の最後まで、悲しい気持ちでいさせてくれない。そんなレミリアの気持ちを、魔理沙はなんとなく感じ取っていた。感じ取って、赤らんだ頬を隠すように、目を逸らしていた。

「私に、あんたみたいなおばかな妹はいないわ」
「うぐっ」
「いい、魔理沙。変なポジションなんて気にしなくて良いの」
「うぇ?」
「例えどうなろうと、あんたは私の“家族”よ。だから胸を張りなさい、魔理沙」

 レミリアの言葉に、魔理沙は大きく目を瞠る。それから徐々に頬を緩ませ、破顔した。
 抱えていたモノを、全部が全部吹き飛ばしてしまうような笑みで、ただ、嬉しそうに微笑む。

「おう!」

 余分な言葉は必要ない。ただそれだけ返事をして、魔理沙は元気よく笑う。

「今生の別れじゃないわ。とりあえず数時間後にもう一度会うのは、覚えてる?」
「うぐっ……そ、そういえば、そうだった」
「忘れていたのね? なら、ちょうど良いわ」
「え?」
「“二度と逢えない”と思って、挨拶してきたんでしょう?」
「あ、ああ」

 いつもの調子に戻ったレミリアが、強気な笑顔を浮かべる。傲慢なのだけれど、憎めない。そんな、彼女の“いつも”の表情。

「一度叶ったんなら、何度だって叶うわ。誇りなさい魔理沙。貴女は、自身で運命を掴み取ったのよ」

 まだ、選択肢を選んだ訳ではないのに、レミリアは都合の良い方で考えて、無責任に胸を張る。いや、無責任ではないのだろう。主として全てを背負う彼女のことだ。きっと全ての責任は自分が自ら背負い込むと、そう思っているのだろう。
 そんな風に考えたら、魔理沙はもう、何も言うことが出来なかった。出来なく、なっていた。

「そう、だよな。ああ、そうだ――それじゃあ、またな、レミリア!」
「ええ、また。奇跡の再会を願って」

 出来レースみたいな遣り取りが楽しくなって、魔理沙は緩む頬を隠そうともせずに、背を向けて走り出す。悲痛な心も、楽しげな心も、全部呑み込んできた。だから足取りは軽く、涙の跡はない。

 ただ、彼女に逢いたいと、それだけを胸に――レミリアの元から、走り去った。







 質素な扉の前に立ち、強ばる身体に喝を入れる。直前になって緊張してくるなんて、想像もしていなかった。
 この扉に近づいてからずっと、心音は早鐘を打ち、中々鳴り止んでくれない。それでも止まっている時間はないのだと、魔理沙は止まぬ音を気にしないように努めて、手を上げる。

「ぁ」

 ノックをしようとして、ぴたりと止まる。このままノックだけで入っても、きっと、気まずい空気のまま時間が流れてしまうことだろう。だから魔理沙は、少しだけ手を加えることにした。

 ――コンコン、コココン

 規則正しい音。リズムに乗った五つのノック。魔理沙は返事を待たずに、扉を開けた。

「邪魔するぜ、咲夜」
「返事くらい待ちなさい、魔理沙」

 部屋の中央に置かれたテーブル。その上で湯気を立たせる紅茶。添えられた角砂糖とミルクは乱れることなく置かれていて、時間を止めて用意したことが、直ぐにわかる。
 二人だけの間に通じる、二人だけの合図。覚えていてくれたということが、何よりも、嬉しい。

 だから、自然に笑えばいいのに。

「あー、やっぱり、咲夜の紅茶は美味しいなぁ」

 わざとらしく感想を言って、口早にこみ上げてくるものを誤魔化して、それでも、声はうわずって。
 魔理沙はただ、暴れ出しそうになる感情を締め付ける。決して、零れ出したりしないように。

「当たり前じゃない。ちゃんと美味しく淹れられないと、魔理沙に格好付かないわ」

 なのに、咲夜は照れたように、そう言う。
 最初は、追い返されそうだった。さっさと出て行けと、その瞳が訴えかけていた。それでも、追い出したりはせず、認めてくれて。今、誰よりも、近いひとになっている。

「なんだよ、それ。それじゃあ、私だけの紅茶みたいじゃないか」
 ――我慢したいのに。
「魔理沙のためだけの紅茶だもの」
 ――我慢しないとならないのに。
「おいおい、レミリアが悲しむぜ?」
 ――咲夜の声は、優しく、でも。
「お嬢様は、お砂糖1つ。ミルクは入れず、ストレート」
 ――気楽なはずな会話なのに、そのはずなのに。
「へぇ、そう、なんだ」
 ――でも……でも。
「魔理沙は、お砂糖二つにミルクはたくさん。ちょっとだけ、冷まして」
 ――咲夜の声も、震えていて。
「ほら、魔理沙のための……魔理沙のためだけの、紅茶」

 軽々と口付けていたはずのカップが、何故だか、もう持ち上げることもできなくなっていた。かたかたと震える指先は、カップを揺らすだけで持ち上げてはくれない。
 中に鉛でも落ちたんじゃないかとミルクティーを覗き込むと、波紋もないのに揺れていた。

「魔理沙。貴女の……っ、ぁ」

 何を言おうとしたのか、咲夜は何も紡ぐことが出来ずに嗚咽を漏らす。その音に共鳴するように、一度二度と、ミルクティーに王冠が生まれて、弾ける。

「っ、あなたの、本当の気持ち――聞かせて?」
「は、はは、なんだよそれ。私は、私は、わたしは、だってっ」

 張り上げたはずの声は、上手く喉から出すことが出来ずに胸の中へ落ちていった。なんとか続きを話そうと、声に出して紡ごうとするのに、苦しくて。

「また、逢えるかも知れないし」

 ぎしり、と身体の内側が疼く。誰かに、何かを強要されている訳でもないのに。

「また、こうしていられるかも知れないし」

 自分も騙せない嘘は、決して、他人を騙すことも出来ない。自分さえ騙せない嘘に、力なんか込められる筈もない。咲夜が勢いよく立ち上がって、机からティーカップが落ちる。かちゃん、と音がして、割れることなく染み込んだ。

「忘れても、忘れ、てもっ」
「魔理沙っ! ごめんなさい、わた、わたし、わたし」
「違うっ! 咲夜がっ! ぅぁっ、咲夜が悪いんじゃなくてっ」

 抱き締められて、上手く、言葉に出来ない。たった一言、“言えば”良いのに。この温もりの中で、“忘れても大丈夫”だと笑顔で言えば、それで伝わるのに。なのに、彼女の腕の中は温かくて。

「私、は、忘れ――――くない」
「まり、さ?」

 端正で上品な咲夜の顔立ちが、赤く腫れていて。ひとに見せようとしない本当の顔が、赤らんだ瞳の向こう側に、あの日の夢のように、見えているような気がして。

「私は、忘れたくない」

 きっと。

「アリエッタを、マリエルを、レミリアを、フランを、先生を、小悪魔を、師匠を――」

 それは。

「咲夜を、忘れたくない! わすれたく、ないよぉ……っ」

 間違いなんかじゃなくて。

「私も、わたしも魔理沙を忘れたくない! ずっと、一緒に居たいっ」
「ぅ、ああっ、あ、うぁ、わかってるんだ! それじゃあダメだって、でも、ぁ、うぁっ」
「私も、死んで欲しくないっ、は、ぅあああっ、だから、こほっ、だから、言わなきゃいけないのに」

 流した涙が溶け合って、熱く、滾る。溢れたそれは流れ落ちることなく、二人の瞳に溜まり続けた。

「わ、忘れるって」
「忘れないでって」

 回された手が、互いを強く締め付ける。こんなにも近いのに。絶対離さないと、約束できるのに。それほどまでに、心が、近いのに。心の何処かでわかっている。
 痛くないと言わなければ、痛いと伝えないとだめで、痛みが欲しくないと突き放すことはもうできないのだと、わかっている。

「うぁ、っ、咲夜、咲夜ぁっ」
「は、あぁっ、魔理沙、っ、ぁ」

 届くのは、痛みばかり。それでも魔理沙は唇を噛みしめる。選ばないとならない。そんな、大嫌いな強要ではなくて、最後の最後まで自分の意思で。

 大好きな、“親友”をもうこれ以上、悲しませない為に。

「忘れた、くない、でも、でもさ」

 強く噛んだ唇から、鉄の味が広がる。とどめなく溢れた涙が血と混ざり合い、溶ける。

「でも、私は――――生きて、咲夜に、みんなに、もう一度逢いたいんだ」
「っ」

 涙に濡れてもなお、強い心で魔理沙は上を向く。咲夜の瞳を、一秒でも長く見ていようと、顎を上げて見つめる。
 それに咲夜は幾分か戸惑って、それでも、ゆっくりと回していた手を解いた。離れた手は、魔理沙の両手に。我慢しきれない涙は、魔理沙の頬に。泣きながら、手を合わせて、額を合わせて、互いの熱を交換した。

「約束よ、魔理沙。もう一度、逢いに来るって」
「ああ、約束だ、咲夜。もう一度、逢いに行くって」

 離れても、未だ熱は残る。けれど、痛みに震える瞳は、もうそこにはない。ただ、無理をして浮かべた笑みを交わして、手を握り合った。大切なものを、心に宿る思いを、交換しようと。

「また、友達から始めよう」
「ええ、何度でも、友達から始めましょう」

 強く握られた手に、今度こそ、心からの笑顔を見せる。せめてこの一瞬に、最後の一時に、後悔を残したりなんかしないために。
 ただ二人で、笑い合った。



















――第六章:4-2/歪みの先、光の果て――



 身に纏うのは、最初に来たときに着ていた若草色のワンピース。手には、落としてきた袋によく似た麻袋。中には食料と、それから、これから行う術式が安定するようにと、魔理沙が“自分の手で”作ったヒヒイロカネが入っている。
 他に“外れた運命”と色濃く関わる品があると、運命がどう干渉してくるのかわからなくなってしまうから、自分の手で、それも“偶然”できたヒヒイロカネしか持っていくことが出来なかった。

「さて、手順を説明するわ。良い、魔理沙、貴女はそこから出なければそれで良い」
「……ああ、わかった」

 人差し指をぴんと立てて、レミリアがそう告げる。魔理沙が立つのは、図書館の一角。複雑で、それでいて見たことのない魔法陣が描かれていて、魔理沙はその中央に立っている。
 その周囲を、向かって右からフランドール、小悪魔、パチュリー、レミリア、咲夜、美鈴の順番で取り囲んでいた。

「まず、私が咲夜の能力に干渉して、本来の運命を並行世界から引っ張り出させる」
「はい、お任せ下さい」

 魔理沙が道を違えなかった運命を、咲夜の時間を操る力――“時空間を操る”力で、並行世界から引っ張り出す。能力の拡大解釈と、思い込みによる制御。可能性の髄を集めた秘術。だがそれだけでは、あまりにリスクが高い。

「美鈴は、咲夜のフォロー。いいわね」
「畏まりました、お嬢様」

 だから、もう一手。美鈴が咲夜の“気”を整え続け、更に与えることによって、疲労感を感じさせずに一点に集中させるだけの力を調整し続ける。
 本来なら、これはフランドールに付けられるはずだった。けれど、フランドールが気を乱さないと宣言しそれを魔理沙が信じて、“交代”になったのだ。

「フランは、修正力の破壊。これも私が一時的に見えるようにするから、途切れることなく“破壊し続け”なさい」
「うんっ、任せて!」

 流れる川の中流を壊しても、上流から流れる川は止められない。山という全ての土台を破壊する訳にはいかないから、絶えず、破壊し続けなければならないのだ。
 だがもちろん、それは多大な精神力と集中力が必要となる。精神力は、流石はレミリアの妹と言うべきか、それとも魔理沙の存在があったおかげか、あるいは両方か、万全といえるものを備えている。

 だからこそ問題は、集中力なのだが――

「貴女もよ、小悪魔」
「はい、レミリア様。この名も無き悪魔に、お任せあれ」

 ――それを、小悪魔が補う。

 悪魔特有の思考誘導能力。意識を好きに逸らすことができる彼女なら、フランドールの意識を一点に集中させ続ける事だって可能だ。
 これで、役割を持つのはあと一人。レミリアがそっと目配せをすると、パチュリーはそれに答えるように頷いた。

「パチェは、咲夜が運命を引っ張り込むのと同時に分岐点への転移。それから――この館の全員分の、記憶の封印」
「レミィは、私が記憶を封印する僅かな時間の、運命の誤魔化し、よね」
「ええ、そう。任せるわ。任せなさい」
「ええ、わかったわ。任されたから、任せなさい」

 誰の目にも、翳りはない。不安はあれど不満はなく、意志の強さも誰にも負けていない。

「さて、なにか質問は?」
「あ、お姉さま。転移した先で魔理沙が妖怪に襲われる可能性は?」
「運命にこれ以上の誤差はないはずよ。ただでさえ“少し変”なんだもの。全力で直すわ」

 これ以上質問はないかとレミリアが見回すと、咲夜たちはただ力強く頷く。それから視線が自身の方に戻って来て、魔理沙は肩に力を入れた。

「何か、ある?」
「“次”に逢ったときに言うから、良い」
「ふふっ、そう。それなら私も、そうするわ」

 強ばった声。けれどもう、涙を流したりはしない。魔理沙はそう力強く笑って見せた。
 これで全ての準備は完了。目配せを受けた咲夜が、そっと、瞼を閉じる。同時に、レミリアが指を弾くと、複雑に敷かれた魔法陣が七色に輝き始めた。
 目を鋭く、レミリアは虚空を見る。蜘蛛の糸をたぐり寄せるように右手を何度も泳がせ、それに合わせるように、美鈴の身体から七色の“気”が溢れ出して、咲夜を包み込む。目配せされたフランドールが右手を伸ばして、レミリア同様虚空に泳がし、しかし何度も掌を握り開きを繰り返している。その背に手を当てて瞬きすらもすまいと唇を噛んでいるのが、小悪魔だ。

「……咲夜」

 聞こえないように。届かないように。か細い声が、魔理沙の唇から零れる。それがどれほど大変なことなのか、魔理沙には想像することしかできない。けれど、大粒の汗を流しながら唇を噛み、決して瞳を開かない彼女の様子は、辛そうだ。
 何も出来ない、魔法陣の中心。パチュリーの歌うような詠唱だけをBGMに、ただ祈る。死にたくない。また逢いたい。けれどやっぱり――無茶は、して欲しくない。

「こんな気持ち、だったんだな」

 魔理沙を見るみんなも、こんな気持ちだったのだろう。いつ怪我するのかもわからない。休んでくれと言わなければならない。けれど伝わらない、伝えられないもどかしさ。
 そっと胸に手を当てると、ずきりと痛む。でも、もう、後悔しては居られない。そんな記憶が蓋のすぐ下にあったら、思い出すのを止めてしまいそうだ。だから、直ぐにでも宝箱を開けるように、大切な思い出を一番上に。


 ――離さないからっ、絶対、絶対、絶対――寂しいだなんて言わせないから、言わないで。


 夢の中、抱き締めてくれた温もりは今でも思い出せる。本当に心を通わせることが出来たあの瞬間を、本当の自分になれたあの言葉を、本当に大切な宝物を守るように、魔理沙は笑みを浮かべて思い出した。

「咲夜――頑張れ」

 集中していて、聞こえてないはずなのに、咲夜は小さく微笑む。それからただ一度、力強く頷いた。

「パチェ!」
「魔理沙、衝撃に耐えなさい!」
「はい、先生!」

 先生と呼ぶことも、これで最後――そう思いたくないから、魔理沙はここで、特別な言葉を紡がない。最後はただ、いつもどおりに。
 光が満ち、魔法陣の煌めきが強くなり、光が充ち、魔理沙の周囲が輝く。もう僅かな時間もないだろうその中で、魔理沙はただ、“いつものように”手を上げた。

「それじゃあ、“また”な!」

 六人の、泣き笑いの様な顔。仕方がないなぁと笑う咲夜は、浮遊感に包まれる魔理沙に、たった一言を返す。

「ええ――――またね、魔理沙」

 視界が白で塗りつぶされ、宝物に蓋がされていく。けれど不思議と消失感も虚無感も抱くことなく――魔理沙の身体は、空に溶けるように、消えていった。





















――†――



「あれ?」

 フランドールは、自室でそう首を傾げる。なんだかひどく悲しいことが、楽しいことが、大切な約束があった気がするのに思い出せない。
 ベッドから身体を起こして、ぐるりと周囲を見回す。そうしたら地下室が妙に明るくなっていて、姉の気紛れかとフランドールは眉を顰めた。

「なんなのよ、もう。ぬいぐるみまで」

 どうせ、この部屋から出るつもりはない。生涯をここで暮らす。それでいいのだから。“昨日”までそう考えていたはずなのに、何故だか、今はそう信じ込むことが出来ない。
 ちょっと手を上げて魔法を使ってみたら、その魔法が思っていたよりもずっと綺麗で、なんだかなにもかもバカらしくなった。

「パチュリーに、魔法を教えて貰おうかなぁ」

 一歩だって、地下室から出ていたくなかったはずなのに、フランドールは外に向けて、閉じ込めていた一歩を進み出した。







「なるほど、わかっているわね」
「何がです? パチュリー様」

 手元のメモ書きを見つめ、パチュリーは感心の声を上げる。元々マイペースな彼女たちは、慌てず騒がず平常運行。なんということはなく、本を手に取り読み、整理していた。

「このメモよ」
「ふむ、それでは少々失礼して」

 小悪魔が、パチュリーの背からメモを覗き込む。そこには簡潔に、パチュリーの筆跡でただ一言走り書きがしてあった。

 ――記憶があやふやなのは実験の過程。望むべく成果のために気にしないように。

「ああ、なるほど。わかってますねぇ」

 これでもし、“なんでもない”と書かれていたら、若しくは何も書いていなかったら、パチュリーは好奇心のままに原因を解き明かしていたことだろう。どんなにプロテクトが掛かっていても、自分の掛けたものならどうにかなる。
 しかしこう言われてしまうと、何も出来ない。なにせ、如何にも楽しげな筆跡で、パチュリー自身がこう残しているのだ。きっと、とりあえず気にしない方が“あと”に得るものが大きい。

「そうだ、パチュリー様。絵本って読みます?」
「はぁ? 何を言っているのよ」
「ああいえ、なんだか無意識のうちに絵本を集めてしまって」
「無意識でしょ? だったらあなたが、無意識下で絵本を欲しがった――違う?」
「無意識なので正否を訊ねられても困りますが――まぁ、そうなんですかねぇ」

 小悪魔はそう、本の整理もそこそこに読書を始めた。パチュリーはそれをとくに注意することなく、読書に戻る。
 パチュリー自身もまた、どうして自分が“教導”の本なんか手に取ったかわからなかったから、とりあえず小悪魔と同じ理由で読み始めることにした。







 玉座に座るレミリアは、どことなく物足りなさを感じていた。アリエッタの紅茶を飲み、マリエルのクッキーを摘み、何故だか“もうひとつ”と思ってしまう。
 我が儘を言ってみようにも、我が儘の方向性が見あたらない。そんな、違和感。

「まぁ、いいか」
「お嬢様?」
「なんでもないよ。それよりもアリエッタ、咲夜はどう?」

 レミリアは、それ以上考えようとしなかった。思考の放棄とは少し違う。これ以上考えない方が良いような、そんな“気がした”だけ。
 だからさっさと、より興味が動く対象へ頭を切り換える。

「はい。部下を与えてみたところ、なんの問題もなく指揮し、仕事をこなしております」
「部下? 金髪の?」
「はい? いえ、特定の、ではなく複数の、です」
「ん、あー、変なこと聞いたわ。忘れてちょうだい」
「は、はぁ……畏まりました」

 部下が金髪である必要は無い。だいいち、この館で最も鮮烈な金髪はフランドールだ。何故彼女と間違えてしまったのか、レミリアは珍しく苦笑する。そういえばその妹にも、最近会っていない――ような、気がする。

「久々に……うん、久々にフランの様子を見に行くわ。休んでいて良いわよ」
「畏まりました、お嬢様」

 どう接しようか迷って重くなるはずの足は、何故だかとても軽かった。なんということはない。片手を上げて様子を見に行けばそれでいい、やっぱり、そんな“気が”して。







「筋、良くなったね。マリエル」
「はい、ありがとうございました! 門番長!」

 何故だか久々に館の者と手合わせがしたくなって、美鈴は食材調達から帰ってきたマリエルを呼び止めていた。彼女に料理を教えたことはあっても、体捌きを教えたことなんかなかったはずなのに。

「やっぱり、門番長はお強い」
「まだまだ、弟子たちには負けないわ」
「弟子“たち”ですか? 咲夜だけじゃ……あれ?」
「え? あー、そうね。ほら、マリエル。貴女は私の料理の弟子」
「あ、なるほど! ありがりがとうございます!」

 自分で言っておいて、美鈴は僅かな戸惑いを覚えていた。確かに今、美鈴は、“格闘技の弟子”というニュアンスで言ったはずなのだから。
 つい最近、心躍る成長を見て、嬉しかったはずなのに。なのにその成長がどのようなものだったのか、思い出せない。

「そういえばお聞きしましたか? 咲夜のこと」
「え?」
「あ、いえ、実は――」

 マリエルの言葉を聞いて、美鈴は納得する。咲夜は美鈴の“格闘技の弟子”で、かつこれは心躍る報告だ。まだ可能性の段階だから美鈴には伝えられておらず、噂としてマリエルの耳に届いたのだろう。そう考えれば、辻褄が合う。

「そっか、咲夜が」

 そう美鈴は――燻る“何か”を胸の奥に閉じ込めて、笑った。







 カチリ、と鳴る懐中時計を手に、咲夜は身なりを整える。それから、部屋を出てホールに足を向けた。
 アリエッタから与えられた沢山の妖精メイド達に指示を出し、仕事をこなす。一人一人の個性を慮って仕事を与えれば、引っかかりを覚えることなくノルマをこなしていけるのだから。

「あたっ」

 そのうちの一人、モップを手に持つ金髪の妖精メイドが転ぶ。それも、何もないところで。咲夜はそんな彼女に不満を持つことなく近づくと、そっと手を差し伸べた。

「大丈夫?」
「ひゃいっ」

 思わず舌を噛んで蹲る彼女に、咲夜は苦笑する。けれど、伸ばした手は、引っ込めずに。

「得意な事はある?」
「うぅ、ありがとうござ――はい? え、ええっと、とくに」
「そう、それなら好きなことは?」

 咲夜にそう微笑まれて、妖精メイドは首を傾げた。お仕事なのに、好きなこと。その繋がりがよくわからず、それから、少し考えはじめて答える。

「下手っぴなんですけど、裁縫が好きです」
「そう、それなら、服飾班に回してあげる」
「えっ?! で、でも、本当に下手で」
「でも、好きなんでしょう? 最初は誰でも下手っぴよ。だから、ゆっくり頑張りなさい」

 仕事が出来なければ叱って、そのまま覚えさせれば自然と身についていく。けれど強要されるのが苦手な相手だったら、強要されることに反発を覚える相手だったら、むしろ効率が悪くなるのだ。
 ひとには、それぞれの趣味、嗜好、性格があって、マニュアルも決して一つではない。頑張れと言われたら、際限なく頑張ってしまうひとが居るように。

「ありがとうございました!」
「別に良いわ。ほら、気をつけて」
「はいっ、メイド長代理補佐っ」

 元気よく走り去っていく姿に、咲夜は誰かの影を重ねる。それが誰かは思い出すことが出来ないのだけれど、でも。

「関わったひとが、誇れるひとになろう、か」

 どうしてそんな誓いを立てたのか、思い出すことが出来ない。けれどそれでも大丈夫だと、彼女の心が訴えていた。

「あ、いたいた。咲夜、やっと私を楽させてくれるときが来たわよ」
「アリエッタ?」

 声をかけて振り向くと、そこにはアリエッタが、良い笑顔で立っていた。

「大抜擢……って言うほどでもないか。薄々感づいていたことだろーし」

 アリエッタが、何を言おうとしているのか、わかる。確かに咲夜は、薄々感づいていたのだから。

「咲夜、おめでとう。貴女は――」

 見上げた空は、瑠璃色で。宝箱の中身を、満遍なく散らしたみたいに見えた。月に寄り添い負けずに輝く星に手を伸ばすと、咲夜は告げられた言葉をしっかりと嚥下する。



 これからまた、“誰か”と出逢っていこう。その出逢いの全てが、“誇り”であったと、思えるようにするために。



















――終章――



「――なんか、変な夢見たなぁ」

 硬いベッドの上で目を開けて、魔理沙はそう呟いた。
 瘴気に覆われた魔法の森。その一角の住み慣れた家。カーテンを開けても満足に陽光が差すことはなく、魔理沙は密かに日当たりを嘆く。
 木の一本でも切り倒せば、変わるのかも知れないが――原因が瘴気にあると思い出して、魔理沙は大きく肩を落とした。どうにかするなら、森に生えるキノコ群だ。

「あー、今日は……そろそろ、本を借りに行かないと」

 水桶で顔を洗い、いつものエプロンドレスに着替える。トレードマークの黒い帽子に箒を手に持つと、魔理沙は家を出て浮かび上がった。
 道中、頭を捻らせてみるが、どんな夢だったのかいっこうに思い出せない。楽しくて、悲しくて、嬉しくて、やっぱり楽しい。そんな夢だったということだけはわかる。

「ま、いいか」

 箒を傾けて、速度を上げる。霧の湖を突き抜け真っ直ぐ飛んでいくと、目に痛い真っ赤な館が見えた。魔理沙は空から入りはせず、いつものように軌道を下げる。まずは門番に挨拶だ。

「よう、美鈴!」
「おや、魔理沙。今日も精が出ますねぇ」
「まぁな!」
「自重して下さい、と嫌みを言ったんですよ。もう」

 紅魔館に来ては、何かしら騒ぎを起こしていく魔理沙に、美鈴はため息を吐く。けれどはっきりと拒絶されたことはなくて、魔理沙はその意味をきちんとわかっていた。
 地面に降り立って、箒を構える。今日は何故だか、いつもよりも身体が軽いような気がして、魔理沙は不敵に笑う。普段なら接近戦を挑もうなど考えもしない……はずなのに。

「ほう、杖術ですか。いったいどこで?」
「知らん」
「あはは、そうですか。まぁ良いでしょう」

 構えた美鈴に、魔理沙は真っ直ぐ走る。普段ならここで魔法を使うのに、今日はそんな気分ではなかった。すると美鈴もまた、魔理沙に合わせて、気を抑える。

(きっと美鈴は――上に、弾く)

 どこから来るのかわからない、確信。鳩尾に向かって放たれた一撃は、美鈴が軽やかな手さばきで上へ弾いた。魔理沙の読みどおりに。
 技と力を抜き、自然に振り上げる。そして意図に気がついた美鈴に迎撃される前に、箒を振り下ろした。けれどその会心の一撃も、あっさり避けられて地面を叩き――魔理沙はその勢いで前転する。

「あれ?」
「ほっ、と」

 箒に巻き込まれて飛んだ美鈴の髪の毛を一本手に、魔理沙は門の中で立ち上がる。追撃をすれば流石にカウンターを貰ってしまうことだろうが、その心配はないだろう。
 なにせ、門の内側に入ってしまえば、それで決着なのだから。

「私の勝ちだな、美鈴」
「いつの間にそんなに? まったく、これでは通るなとは言えません」

 肩を竦める美鈴の前で、魔理沙は楽しげに笑う。それから、手に取った赤い髪を、自分の指にくるりと巻き付けた。そうすることが、自然なことのようだった。

「それじゃあ、またな! 美鈴」
「ええ、また。何度でも、挑んで下さいね」
「おう!」

 美鈴に返事をして、庭園を走り抜ける。そろそろ剪定をしないと。魔理沙は、そんな風に思った。







 紅魔館の地下図書館。何食わぬ顔で侵入した魔理沙は、やはり何食わぬ顔で読書を始める。その様子にパチュリーはため息を吐くと、やがて諦めて彼女の正面に座った。

「なぁなぁパチュリー、ここなんだけどさぁ」
「手順が逆」
「おお、流石パチュリーだぜ」

 時折こんな風に質問をしながら、魔理沙は気に入った本を帽子の中へ放り込んでいく。それを、小悪魔が魔理沙に気がつかれないよう彼女の意識を“逸らし”て、こっそり冒険活劇やロマン小説と代えていた。
 魔理沙は、何故か今日に限ってそのことに気が付いていたが、止めさせようとはしなかった。

「ふむふむ、なるほど。明日も来よう」
「家主に許可を取りなさい」
「許可を申請するだけならしても良いぜ?」
「却下よ。まったく、そんなに読みたいなら私に弟子入りなさい。礼儀から教えてあげる」
「弟子入りかぁ」

 パチュリーに告げられて、パチュリーを師と呼び慕う自分を想像してみる。けれどどうにも、しっくり来ない。もう少ししっくり来る形だってありそうなものだと、それから何度か魔理沙は首を捻った。
 そして、ふと、脳裏に言葉が浮かぶ。これならきっと、しっくり来る。そんな、ことば。

「なんか、違うんだよなぁ。パチュリーはほら、どっちかっていうと――“先生”だ」

 それなら、どうしてだかしっくり来る。そう笑顔で頷く魔理沙に、パチュリーは首を傾げ、やがて珍しく声を上げて笑った。

「ふふっ、なによ、それ」
「先生って呼ぼうか? パチュリー」
「やめてちょうだい。なんだかむず痒いわ」
「はははっ、奇遇だな、私もだ」

 それきり笑いが止まらなくなって、二人で声を上げて笑う。その光景がどうしてだか懐かしくて、小悪魔もまた笑う。

「はぁ、もう、なんだか久々よ。こんなに笑ったのは」
「そうか? 私は毎日笑ってるぜ?」
「寂しがり屋の魔理沙さんのことだから、ひとり部屋で泣いているのでは?」
「おいこらどーいう意味だ? 小悪魔」
「おっと失礼」

 そんなことはないはずなのに、毎日こんな遣り取りをしていたような気がする。魔理沙はそう、ため息を吐いて、それから苦笑した。どうにも今日は朝から変な気分だ。
 その“変な気分”が不快ではないということも含めて、やはり、おかしなな気分だと感じる。

 でも、それでも良いかと思い直す。だってこんなにも、心が穏やかになるのだから。

「よし、そろそろ行く」
「おや? もう帰るんですか?」
「いや。フランのヤツとも遊んでからだ」
「そう、あんまり刺激しないでね。貴女たちが全力で遊ぶと、修理が大変なの」
「あはは、気をつけるぜ」

 箒を片手に、ふわりと浮き上がる。それから、振り向いて手を上げた。

「じゃ、またな! パチュリー、小悪魔!」
「はいはい、また、ね」
「はい、また、ですね」

 音は耳に、声は背中に、言葉は胸に。満たされていく感覚を否定せず、魔理沙は箒に跨った。







 図書館を抜けて直ぐ。更に地下へ降りる為に、階段を降りる。明るく照らされた階段。間違って落ちでもしたら相当痛いことだろうと、魔理沙は身震いする。
 掃除の行き届いた廊下を歩き、のんびりと進んでいく。やがて見えてきた木製の扉は、既に開かれていた。

「おーい、フラン!」
「あら? 魔理沙じゃない」
「おはよう、魔理沙っ」

 ひょっこりと中を覗いてみると、そこには影がふたつ。フランドールの正面に座るレミリアが、優雅に紅茶を飲んでいた。

「ちょうど良かった! 紅茶だけで飽きてきたんだよね」
「おいおいおいフラン。どういう意味だ? それ」
「お姉さま、魔理沙の血を紅茶に混ぜて見ようよ」
「待て待て待てフラン。抵抗するぞ。全力でマスタースパーク撃つぞ? 館に」

 じりじりとにじり寄るフランドールと、じりじりと後退する魔理沙。割といつものじゃれ合いに、レミリアはそっと苦笑した。

「お姉さまも、飲みたいでしょ?」
「遠慮しておくわ。その子の血、なんだか身体がぽかぽかするんだもの」

 レミリアの言葉に、魔理沙の身体が硬直する。何故だかレミリアと一緒に「なるほど」などと納得してしまったフランドールは、そんな魔理沙に気がつかない。

「いやいやいや、いつの間に飲んだんだよ?!」
「いつの間に……あれ? 飲んだことないわね」
「は?」

 怪訝な表情で首を傾げるレミリアとフランドールに、魔理沙もまた首を傾げる。それから、訳がわからない、と頭を掻いてため息を吐いた。

「まったく、ここに居たら血を吸われそうだ。今日はもう行くぜ」
「あ、うん。またね、魔理沙っ」
「吸わないわよ、もう……またね、魔理沙」
「ああ、またな! フラン、レミリア!」

 片手を上げて、笑顔と共に駆けていく。すれ違った緑色の髪の妖精メイドと山吹色の髪のコックに頭を下げそうになって、魔理沙は首を傾げた。でも、何故だか、ここで逢えたことが嬉しい。

「アリエッタとマリエル、だったよな?」

 異変で紅魔館に訪れてから、何度もここに訪れた。その最中、沢山の妖精メイドに知り合ったが、中々名前を覚えられない。なのに、彼女たちの名前だけは、直ぐにわかる。
 それに違和感も不快感も覚えない自分が居て、魔理沙はますます首を傾げた。







 もうすることはない。用事もないはずなのに、何故だか足は一箇所に向かっていた。

「ここ、だな」

 何かと忙しい彼女のことだ。きっと、部屋には居ないことだろう。それでもドアノブに手をかけようとして、魔理沙はぴたりと動きを止める。
 突然入っていても良いのだが、偶にはノックをするのも良いだろう。そう、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 ――コンコン、コココン

 軽やかにノックを鳴らし、ドアノブに手をかけるとすんなり開いた。どうやら今日は珍しく部屋にいたようだ。なんだか運命的だと、らしくもない事を考えて、頬を掻く。

「おかえり――じゃなくて、いらっしゃい、ね」
「ただいま――って、何を言わせるんだよ」

 出鼻を挫かれて、魔理沙は少しだけ頬を染める。けれど“からかわれた”と見た咲夜の顔は、何故だかほんのり朱が差していた。
 こうして変なミスをすることがあるから、彼女は周囲から“天然”と呼ばれてしまうのだ。

「はい、ミルクティー」
「あ、砂糖は」
「二つ。ミルクも多め」
「流石咲夜だぜ! にしても良く、私が喉が渇いてるの知ってたな」
「瀟洒ですもの」
「自分で言うなよ」

 少しだけ冷ましてあるミルクティーを口に運んで、甘味を舌に溶かして嚥下する。そうすると、身体が内側から仄かに温かくなって、魔理沙は頬を綻ばせた。

「なぁ、咲夜。今度私に、紅茶の淹れ方を教えてくれ」
「どうしたの? 急に」
「いやだって、咲夜ばっかり私の紅茶の嗜好を知ってて、ずるい」
「……しょうがないわね、いいわ。いつでも習いに来なさい」

 紅茶の淹れ方なんて、咲夜が直々に教えなくても良い。咲夜に仕事を任せて余裕のある時間を多く取っているアリエッタにでも頼めば、良いじゃないか。
 そう言われるのを覚悟していたはずなのに、咲夜は何も言わない。ただ嬉しそうに、楽しそうに、微笑む。

「そうだ、咲夜だ」
「なにが?」

 それに魔理沙は、今朝のことを思い出す。

「夢に、咲夜が出て来たんだ」
「なによ? それ。どんな夢だったの?」
「うーん……思い出せない」
「はぁ? まぁ、良いけれど」

 しきりに首を傾げる魔理沙に、咲夜はそっと手を差し出す。それを自然に受け取って、それから首を傾げた。

「紅茶、勉強するんでしょう?」
「――ああ、うん、その、頼む」
「頼まれましたわ。ふふっ」
「ぷっ、はははっ」

 これからダンスでも始めるみたいに、魔理沙の手を取り笑う咲夜。そんな彼女に笑い返すと、不思議と心が躍っていく。
 ふと、咲夜の部屋から外を眺めると、燦々と光る太陽が彼女の部屋に降り注いでいた。空は変わらず透きとおっていて、絶好の洗濯日和だ。今日も、なんだか良い一日になるような、そんな気がする。

「よし、始めるわよ」
「おう! ――よろしくな、咲夜!」

 目を瞑れば、こんな光景が、いつでも脳裏に映し出される。いったいいつ、こんなことをしたのかわからない。もしかしたら、まだ夢を見ているのかも知れない。



 それでも、宝箱のようなこの光景を、抱き締めよう。いつか蓋が開く、その日まで。













――了――
今年度中には、全編書き直しして投稿したい。

ホントだよ!()
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